中山修一著作集

著作集18 三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子  妣たちの天草灘〈沖宮〉異聞

第七章 新生――戦後の逸枝の女性史学と憲三姉妹からの援助

第一節 戦時中の学究生活と「招婿婚研究」の完成

一九三八(昭和一三)年四月、女性史研究の第一巻に相当する『大日本女性史 母系制の研究』を脱稿するや、高群逸枝は手を休めることなく、引き続き「森の家」に蟄居し、面会を断って一日一〇時間、次の第二巻となる「招婿婚研究」の完成に向けて、筆を執りました。しかし日本の前途は、自由な研究を許すほどに、明るいものではありませんでした。前年(一九三七年)七月の盧溝橋事件に端を発し日支事変(日中戦争)が起こると、その拡大とともに、言論や思想が一段と制約される一方で、物資や食料もさらに統制され、戦時国家に向けた体制再編がいよいよ急速に進み、ついに日本は、一九四一(昭和一六)年一二月に、アジア・太平洋戦争へと突入してゆくのでした。この時期を振り返って逸枝は、「『招婿婚の研究』着手後の約三年半、つまりは、昭和一三年四月から一六年末までの時期は、私の長い研究生活の上でも一種特別の意味をもつものだった」と、書き記しています。戦争へと向かう、そうした時世に身を置きながら、他方で逸枝は、研究上の「自信と不安」を抱えて執筆に明け暮れていました。

私はたえず研究の上に自信と不安とを交互にくりかえさねばならなかった。それは朝は希望をもって起き上がるが、夜は絶望におちいって眠りにつくというようなきびしい試練の毎日だった

それでは、その「自信と不安」を構成する内実とは、どのようなものだったのでしょうか。そのひとつに、著名な民俗学者の柳田国男が主張していた「聟入」という婚姻形態との対峙がありました。その学説によれば、男ははじめ女の家に婿入りするも、その後、数年のうちに、必ずや妻子を連れて男の家に帰るとされており、逸枝の研究は、それに真っ向から異を唱えようとするものでした。逸枝が想定している「招婿婚」が史料に基づき揺るぎないものとして実証されることになれば、女性が自由で自立していた女系時代(母系共同体)がかつて日本に存在していたことが白日のもとに晒されることになります。そうなれば、男性を主役に置き、男性の研究者たちによって叙述されてきた、これまでの日本の婚姻の歴史、あるいは恋愛の歴史は、大きく塗り替えられることが予想されるのです。しかし、その実証作業には幾多の困難が伴ったようで、本人の言葉を借りるならば、「自信と不安とを交互にくりかえさねばならなかった」のでした。

その一方で、幸運がもたらされました。逸枝は、こう書きます。

 この悲惨な時期に、ただ一つの幸運といえることは、服部報公会ならびに啓明会の二つの学術研究助成財団からの研究助成金が与えられたことだった。このことは学界の孤児である私にとって二つの意義をもつものだった。一はこれによって資料獲得に成功したことであり、二はこれによっていわばはじめて学者としての地位が保証されたことだった

服部報公会への紹介者は東京大学教授の穂積重遠で、助成金は、昭和一四年度と昭和一五年度、加えて昭和二三年度の三度にわたって交付されました。啓明会を紹介したのは、のちに東洋大学の学長に就任する高島米峰でした。助成金が採択されたのは、昭和一六年度でした。当時こうした研究助成金は、大学や研究機関に所属する学者で占められ、民間の独立研究者への配分は極めて稀で、さらに女性がこの恩恵にあずかることは、ほとんどなかったようです。逸枝は、こう回顧します。

たとえば服部報公会では十四年度決定百三十七件中、女性は私一人といったぐあいだった。また啓明会でも十六年度決定七件中の女性は私一人だったのである。いかにその頃女性のこの方面における機会不均等がはなはだしいものであったかがわかろう

こうして研究上の財政基盤が整いました。「両助成金および著作後援会寄金(このなかには相馬黒光さんの三千円を含む)等を合しての一万数千円の金額は当時としては大金であり、私はこれによって『招婿婚の研究』に要する大部分の資料を蒐集することができたのだった」。しかし、四千冊にも及ぶ資料がそろい、文献の読破が進むと、「ある理解に到達したために、これまでししとしてメモしてきた約一万のカード類がそのままでは役に立たなくなり、再びとり直さねばならないという重大な事態に直面したのだった」。「ある理解」とは、一九四〇(昭和一五)年三月二六日の逸枝の日記によると、こうなります。「今夜茫然自失。……コノ二年ノ勉強ニヨッテ、招婿婚ノ性質、種類、経過等ガ、タドタドシク理解サレタガ、トクニソレガ、今夜ニナッテ完全ニ全面的、体系的ニ把握サレタノデアル」。逸枝は、このときの様子を、さらに次のように描写します。

 招婿婚にたいして本質的な理解と体系的な見通しとを得たことは、私にはひじょうなよろこびだったが、同時にこれまで読んだ文献をここでまた読みなおさねばならないということが、それがあまり多量なのでなんとしても心気が沈んだ。だが私に与えられた道は不退転の道だ

その「不退転の道」に光明が差す日が来ました。

 その後、ある日私は、採集した婚姻語のカードをみて、ツマドヒ、ムコトリ、という婚姻語が日本古代の婚姻語の代表語であることを知り、この婚姻語の推移が、すなわち大まかには婚姻形態の推移をものがたっている――つまり、この二語がそのまま古代婚姻史の時代区分を反映している、ということを知った。そこで必然的にヨメトリ、という婚姻語の追求がこれにつづくことになる。
 このことは、かつて『母系制の研究』で、「多祖」現象を発見したときとおなじ一つの天啓的なひらめきというべきものだった。このとき私は、
「わがこと成れり!」
 と招婿婚研究への勝利感を覚えたのだった

しかし、机に向かい服の片袖だけが日に焼けて変色するほどの日々の長時間労働は、極度の疲労をもたらし、そのうえに栄養失調が重なり、目に異常をきたすと、天眼鏡で文字を拾うようになりました。また、本人が書くところによれば、「鼻から経血が逆出したり」10する生理的異変に見舞われることもありました。他方で、戦時体制へ向けての組織づくりが進み、「隣組」もこのとき発足します。生活物資の配給も「隣組」単位で行なわれ、運営は、各世帯の交代による輪番制でした。こうした常会へは、本人の記憶によれば、「この頃私は脚気ぎみで、歩行が自由を欠き、Kに杖をつくってもらって出勤した」11のでした。

こうしたなか、一九四一(昭和一六)年一二月、日本は開戦を迎えます。翌年(一九四二年)の二月には、既存の愛国婦人会と大日本連合婦人会と大日本国防婦人会の三団体が統合され、大日本婦人会が発足します。これにより、国家総力戦へ向けてすべての女性を動員する体制がつくられ、機関誌『日本婦人』も発刊されるに至ります。逸枝も、これに寄稿し、この団体の活動に協力します12。『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」(逸枝自叙伝)は、戦中戦後の記述から夫の橋本憲三に引き継がれますが、それには、逸枝が行なったこの機関誌への寄稿について、こう記されています。

この『日本婦人』の寄稿(一五枚)は二十年終戦直前の廃刊までつづき、私たちの家計はその間この毎月の稿料百五〇円でほぼまかなわれ、他の雑文も書かないですみ、研究に停滞をもたらさなかったことは思いがけない幸運だったとしなければならないだろう13

一九四五(昭和二〇)年八月、日本は終戦を迎えました。以下は、八月一六日の日記に書かれている一文です。

昨日正午戦争終結の天皇放送!
 ふかい痛苦をひしひしと胸に感じて 泣き哭くのみ
 ただ泣き哭くのみ
 夜はねむりてさめて 泣き哭くのみ 朝も泣くのみ
 しばらくも涙やまず
 苦しき涙なり
 涙なき涙なり
 色なき涙なり
 これは何を意味する痛苦か われらいまだこれを知らず
 ただ苦しむ 四六時苦しむ14

この時期の日記は、逸枝と夫の憲三とによる夫婦の「共用日記」です。八月二一日の日記には、「逸枝立ち直り新仕事場にはいって勉強をはじめた」15、続く二七日の日記には、「階上の書齊を整理、模様がえした」16の文字が並びます。こうして、戦後の研究生活がはじまったのでした。

終戦から二年が過ぎた一九四七(昭和二二)年一〇月、眞日本社から『日本女性社會史』が世に出ました。この「序」のなかに、逸枝のこれまでの研究の総括と、戦後の再出発に当たっての決意のようなものを読み取ることができます。少し長くなりますが、以下に引用します。

 著者は、昭和五年一月一日に志をたて、女性史研究に半生をささげる決心をした。爾來十七年、下界と斷つてくる日もくる日もただ机を友としているが、十三年に女性史第一巻として「母系制の研究」を世に送つたのみで、業は遅々として進まない。第二巻「招婿婚の研究」は、昨今ようやく準備がおわつて整理の段階に入つたが、まだいつ筆が起こせるか豫想ができない。このときこの小著が求められた。この種の執筆を求められたことは、これまでいくたびかあつたが、著者は自己の研究が中途にあるため、辭するを常とした。しかるに終戦後、女性の上にも畫期的變革がもたらされることとなり、新しき日のために、ふるき生活の反省が絶對の要請になつた。われわれは、現在の自己の歴史的位置をたしかめることによつて、賢明な明日をもたなければならない。ここに同時代人としての義務心から、あえて求めに應じてこれを書いたのであるが、當然不完全はまぬがれないであろう。ねがわくば、読者の高敎と助言によつて、今後補正するところありたい17

終戦後、「女性の上にも畫期的變革がもたらされること」になった大きな要因のひとつは、新憲法の第二十四条が謳う婚姻に関する規定だったにちがいありません。といいますのも、その一項には、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と述べられており、旧来の封建的で家父長的な制度のもとでの婚姻とは、大きく異なる「畫期的變革」の思想が示されていたのでした。しかしながら、いまだアカデミズムの歴史学は、「女性史」自体を問題意識の外に置いていました。逸枝がどうしても終戦直後のこの時期に、目下着手中の「招婿婚の研究」を横に置いてまで、『日本女性社會史』を上梓しなければならなかったのは、まさしく本人が書くように、「同時代人としての義務心」によるものだったに相違ありません。

逸枝は、『日本女性社會史』と題されたこの本において、女性の婚姻や家族生活のあり様を主題に、「群時代(女性の自由時代)」「氏族時代(自由時代)」「氏族崩壊時代(半自由時代)」「家族時代(被厭迫時代)」「家族崩壊時代(半解放時代)」の五つの時代に区分して、通史的に記述しました。そして、「ねがわくば、読者の高敎と助言」とを要請しました。これに応じたのが、当時の東京高等師範学校(二年後の一九四九年に東京教育大学として改組され、現在はすでに筑波大学へと再編)の日本史の教授の家永三郎でした。逸枝は、続けて同年翌月(一九四七年一一月)に鹿水館より『女性史学に立つ』を上梓しており、したがいまして、「わざわいするモルガン的色眼鏡」と題された家永の書評は、この二著を念頭に書かれたものでした。「モルガン」とは、一九世紀アメリカの古代史研究者であるルイス・ヘンリー・モーガンのことです。家永は、こう前置きします。「高群女史が『大日本女性史第一巻』『大日本女性人名辞書』等の著者として有名な女性史の専門研究家であることは私が紹介するまでもない」。そして、自分が女性史を専門とする研究者でないことを断わったうえで、一歴史家としての見解を開陳します。その最も重要な指摘は、次にみられる箇所でした。

……大化改新以前を「氏族制」の時代と考えることは到底不可能であり、況んやその時代を母系制とするに至つては、モルガンの古代社会論の色眼鏡を通して見た附会の説としか受け取れないのである18

さらに続けて家永は、「モルガン的色眼鏡から出た誤解の最も典型的一例」として、逸枝がその本のなかで示していた「大化元年の男女の法」についての所見を取り上げて、批判したのでした。

これに対して、さっそく逸枝は、「家永三郎氏の書評に答う」と題して反論します。逸枝は、「小著について家永教授の書評を頂いたことは感謝に絶えない。……十分反省の資としたいが、読者の誤解をまねく点が考えられるので、その点を明らかにさせて頂きたい」19と、前置きしたうえで、次のように、本論に入ってゆくのでした。

氏は「日本女性社会史」の時代区分に関し、大化以前を氏族時代としたことの無理、またそれを母系とすることの一層無理なことを指摘、大化元年の男女の法に著者が重大な意味をもたせているのを例にとられて、総じてこれらをモルガン的色眼鏡とされている。私はモルガン的方法を女性史の立場から肯定するものであるが、史実をわい曲するものではない。

男女の法は、私はこれを当時の氏姓の大紛乱に帰結を與えたものと考えており、このことは別著「母系制の研究」に詳述している20

そして、この反論は、さらにこう続きます。

わが國には招婿婚という婿入形式の婚姻が太古から室町初期ごろまでも存続しているが、この事実は國文学や公卿日記等で人の知つていることであるにかかわらず、これに深い驚きを示した人がなく、史家のメスからほとんど除外されている。この存続の根底に何があるかに私は長く関心し、そこに家族制と相容れない族制やその遺存があることの確信に到達した。

前記「母系制の研究」は系譜面からのその考察であり、目下着手中の「招婿婚の研究」は婚姻面からのものである。氏の指摘は私のこれらの研究の根本に関係あるものであるから、私としては私の研究を全的に理解して頂きたいことが希われてならない21

「私の研究を全的に理解して頂きたい」と、ここに書いた以上は、「昨今ようやく準備がおわつて整理の段階に入つたが、まだいつ筆が起こせるか豫想ができない」状況にあった「招婿婚の研究」でしたが、その脱稿が、一刻も早く急がれる事態となったのでした。

脱稿をまぢかに控えた一九五二(昭和二七)年一月、『母系制の研究』のときと同じように、友人たちが集まり、出版へ向けて、どのような便宜を講じることができるのか、相談の会がもたれました。憲三は、このように記します。

……平塚らいてう、竹内茂代、市川房枝、山高しげり、志垣寛、鑓田研一さんらが婦選会館に集まって、出版社の選定および刊行後援会の組織が決定されて、実行に移された。その結果、本は講談社から出版されることになり、刊行後援会(高群逸枝著作刊行後援会)は発起人二百名の賛同のもとに発足した22

その一年後の一九五三(昭和二八)年の一月に、無事予定どおりに、大日本雄辯會講談社から『招婿婚の研究』が公にされました。家永から批判を受けた『日本女性社會史』の出版から五年三箇月の歳月が流れていました。逸枝は、巻頭の「例言」において、こう書きます。「この研究は、昭和一三年四月に着手、同二六年一二月に完了した。一三年九ヵ月、平均して一日一〇時間をくだらない勞働であつた」23。そして、その研究内容の意義に触れて、次のように書きます。少し長くなりますが、逸枝が寄って立つ学的地平が明確に現われていますので、引用します。

主題の招婿婚(婿取式)は、最古の典籍「記紀」「風土記」等から見えているものであるが、特に「萬葉」「伊勢」「大和」「落窪」「宇津保」「枕」「源氏」「榮花」「大鏡」「今昔」「源平盛衰記」「增鏡」等一聯の文學の上にあざやかにそのすがたをとどめていることは周知のとおりであり、さらにこれを確實に立證するものとして平安「小右記」から室町「言繼卿記」におよぶ六〇〇年間一貫した數十部にのぼる尨大な諸家日乘の存するがあり、また現に全國各地になお遺制を見ることもできるのである。すなわち招婿婚は、太古から室町期にあつて娶嫁婚(嫁取式)にその席をゆずるまでの時間においての支配的婚姻形態である。このように、この婚制は極めて長期間に亘る経過をもつ大きな歴史的事實として、單り女性史の問題にとどまらないことはいうまでもなく、その研究は、ひろく學界――歴史學・國文學・民俗學・社會學・人類學等――でも要望されているが、まだ、その本質、形態、變遷(發生・推移・終焉)等本格的探究において缺けている憾みがある。私の研究は、これらの點を明らかにしようとしたものである24

『招婿婚の研究』が公刊されると、さっそく家永三郎が筆を執りました。戦後の新しい大学制度に従い、東京高等師範学校は東京教育大学へ移管されたため、このときの家永の肩書は、東京教育大学文学部教授となっていました。他方で家永は、さかのぼる三年前の一九五〇(昭和二五)年に、学位論文「主として文献に拠る上代倭絵の文化史的研究」で、東京大学より文学博士を取得し、のちには、自身が執筆した高校用の日本史の教科書が検定により不合格になったことを受けて、逸枝死去の一年後の一九六五(昭和四〇)年に、国を相手に提訴します。いわゆる「家永教科書裁判」と呼ばれるものです。

さて、今回の書評は、『日本女性社會史』のときとは違い、大いなる称讃の言葉で彩られました。しかも、長文となっています。以下は、その書評の冒頭の一節です。高群学説の衝撃に触れた箇所でもありますので、これも引用文としてはやや長くなりますが、そのまま紹介することにします。

 五十二字詰十八行組千二百頁の書下し論文が公刊されるといふことは、学界に於いても、ざらに見られることではない。高群女史の大著の公刊は、さういふ点からも稀有な大事業として刮目に値する。しかも著者はこの大著「招婿婚の研究」のほか、その所論の基礎づけとして「平安鎌倉室町家族の研究」「日本古代婚姻例集」二千八百枚の稿本をすでに完成されてゐるのであつて、これだけの大きな仕事を完成されるに至るまでの著者のたゆみなき精進を思ふとき、片々たる短文を書くより能のない評者など、たゞたゞ頭の下る思ひあるのみである。さきに昭和二十二年、著者が「日本女性社会史」を発表されたとき、著者の所謂「群時代」「氏族時代」といふ様なモルガン直訳の史的範疇によつて叙述せられてゐる部分については多大の危惧を感ぜざるを得なかつた評者であつたが、「夫婦別居から同居制へ」「招婿婚」等の各部に示された招婿婚に関する著者の見解には深く心を惹きつけられ、それらの見解が具体的に立証されるのをひそかに期待してゐたのである。五年後の今日その期待を裏切られず、この尨大な力作となつて我々の前に出現したことは、学界の慶事たるは云はずもがな、何よりもまづ評者個人の大きなよろこびであつた。必ずしも本書を批評する資格ありとも考へられぬ評者が敢てこの書評を買つて出たのは、近年家族道徳史の諸問題に興味を覚えてゐる処にも由るが、「日本女性社会史」を閲読して以来鶴首してゐた本書の出現に対する限り無い歓喜が進んで書評の筆をとらせる動機となつた次第である25

これが、高群学説の家永三郎に与えた学問的衝撃の実際でした。この書き出しのあと家永は、詳細な研究内容の紹介と分析を開始してゆきます。

この家永の評論を目にした逸枝は、前回の『日本女性社會史』のときと同様に、素早く応答しました。それは「家永博士の批評を読んで」と題された一文で、その内容は、家永が指摘していた、婚姻制度と生産関係の問題や農民の婚姻生活の実態に関する記述の不備に応えての、弁明であり補足となるものでした。しかし、その指摘は、逸枝にとってありがたいものであったにちがいなく、次の文言がそれを表わします。「家永博士が、私の『招婿婚の研究』について、貴重な御批評をなさつてくださつたことを、私は著者として心から感謝する。御批評は、教えられることの多いもので、今後の糧とさせていただきたいと思う」26。これは単なる社交辞令ではなく、着実に次の研究に反映されてゆくのでした。

一方この間、戦前に刊行した前著の『大日本女性史 母系制の研究』の改訂が進行していました。その推移を、戦後すぐの一九四八(昭和二三)年一一月に恒星社厚生閣から刊行された改訂三版『母系制の研究 大日本女性史第一巻』の「例言」に求めることができます。そこにはこう記されていました。

一、本書は昭和一三年六月四日初版第一刷、一六年七月二〇日再刷、今回は第三刷である。第三刷は、初版第三篇の第三章を除きたるほか全體にわたつて若干の改訂を施したが、それは主として、たとへば「母系」といふ文字すらややもすれば伏字しなけらばならなかつた初版發行當時の社會状勢を顧慮するあまりなされた學術書にはふさわしからぬ贅語的表現を整理したのであつて、内容的變化はない27

逸枝は、ここにおいて、「初版第三篇の第三章を除きたる」事実については言及していますが、その理由については直接の明言を避け、「初版發行當時の社會状勢」をほのめかすに止めました。こうして、戦前の初版および再版に所収されていた「第三篇 結論」のなかの「第三章 吾等の収穫」は、「初版發行當時の社會状勢」に起因する文であり、したがって抹消されようとも大きな「内容的變化はない」ことを示唆しながら、完全に闇に葬られてゆきました。

続いて一九五四(昭和二九)年に大日本雄辯會講談社から新版が登場します。順番からいえば、第四版に相当します。この版においては、もはや「第三篇 結論」の「第三章 吾等の収穫」の削除についてはいっさい触れられることはありませんでした。しかも、第三版にはかすかに小さい文字で残っていた「大日本女性史第一巻」の副題も完全に消え去り、書題は、単純で明快な『母系制の研究』という表現に一新されました。内容と書題にかかわるこの一連の改変をとおして逸枝の戦前思想は清算され、一九五三(昭和二八)年の『招婿婚の研究』(初版、大日本雄辯會講談社)と、遅れて一年後の一九五四(昭和二九)年の『母系制の研究』(新版/改訂四版、大日本雄辯會講談社)の、このふたつの大作によって、この時期、高群女性史学の土台となる基礎部分が、鮮明に造形されていったのでした。

第二節 『女性の歴史』(全四巻)の完結とアカデミズム歴史学への批判

逸枝は、一九三八(昭和一三)年六月に厚生閣より刊行した『大日本女性史 母系制の研究』の巻頭の「例言」のなかで、以下のように、自分の女性史研究を全五巻で構成したいとの抱負を述べていました。

一、私が書かんとする女性史は、若しすべての事情が之を許すならば、次の五巻としたい考へである。
  1 母系制の研究
  2 招婿婚の研究
  3 通史古代 国初より大化迄
  4 同 近代 改新より幕末迄
  5 同 現代 維新より現在迄28

ついにここに、前半の特殊研究である「母系制の研究」と「招婿婚の研究」が完成し、いよいよ後半の通史研究へと逸枝は入ってゆくことになります。その成果は、次のような年月を費やし、世に出てゆきました。


高群逸枝『女性の歴史』上巻、大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年4月。
高群逸枝『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955(昭和30)年5月。
高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年6月。
高群逸枝『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年7月。
 

最後の『女性の歴史』の続巻が刊行されるのが、逸枝六四歳と六箇月の一九五八(昭和三三)年七月ですので、一九三一(昭和六)年七月の「森の家」での執筆開始から悠々二七年の歳月をかけての全巻完成でした。構想力の明晰さと実行力の厳格さに、人はみな、一様に驚くのではないでしょうか。

それでは少し、全巻をとおしての『女性の歴史』の特徴を見てみたいと思います。この『女性の歴史』シリーズは、巻ごとではなく通巻において章と節が設定されていることが、大きな特徴となっています。そこで以下に、各巻から章と節を抜き出し、その全体像をここに示します。


第一章 女性が中心となっていた時代(上巻)
  一.日本列島のもつ原始性
  二.家庭を知らなかった社会
  三.無痛分娩の母たち
  四.族母卑彌呼
  五.女性中心の文化

第二章 女性の地歩はどんなぐあいに後退したか(上巻)
  一.文明の開幕
  二.私有財産がうまれた
  三.氏族がこわれた
  四.国家ができた
  五.女性文化がくずれた

第三章 女性の屈辱時代(中巻)
  一.世界史の基本法則からみた日本女性史
  二.市民社会が出現した
  三.「家」が形づくられた
  四.封建権力が天下をとった
  五.いわゆる庶民文化

第四章 女性はいま立ち上がりつつある(一)(下巻)
  一.開国とゲイシャガール
  二.明治政権と女性
  三.家父長制の再編
  四.近代恋愛の発生と挫折

第五章 女性はいま立ち上がりつつある(二)(下巻)
  一.婦人問題の展開
  二.女性の自覚と運動

第六章 女性はいま立ち上がりつつある(三)(続巻)
  一.労働婦人のあゆみ
  二.婦人労働の諸問題

第七章 女性はいま立ち上がりつつある(四)(続巻)
  一.第二次大戦の前後
  二.危機の文化と女性

第八章 平和と愛の世紀へ(続巻)
  一.平和運動
  二.愛の世紀


このように連続させて章と節をつなげますと、高群女性史学の全体像が鮮明に現像されます。それでは、これまでに私が取り上げて記述してきた幾つかの話題に関連して、以下に検討を加えます。

まず、家永三郎の指摘との関連においてです。家永は、『日本女性社會史』の書評において、逸枝が用いていた「群時代」「氏族時代」「氏族崩壊時代」「家族時代」「家族崩壊時代」といった時代区分について難色を示していました。その指摘を、おそらく取り入れたものと思われますが、時代区分の名称、つまり各章題名を柔らかい表現に置き換えています。もっとも、書き手が女性であること、そして読者の多くが女性であることを踏まえると、必然的にこうした表現へとたどり着いたのかもしれません。表現の男性化から女性化がここに認められるのです。

また、家永は、『招婿婚の研究』の書評において、婚姻制度と生産関係の問題や農民の婚姻生活の実態に関する記述の不備を指摘していました。おそらくその指摘への対応でしょうが、第一章第二節の「家庭を知らなかった社会」において、「いわゆる上部にあらわれる一部の文化物と、内部や下部にわだかまる生産関係や構造」29について言及し、第三章第五節の「いわゆる庶民文化」において、「女のなかでも、もっとも下積みの女であるとされた江戸封建期の子守娘たち」30を取り上げ、逸枝の原郷である肥後国に伝わる「五木の子守歌」へ言及します。

一方、平塚らいてう、山川菊栄、市川房枝については、どのように言及しているのでしょうか。それを、第五章第二節の「女性の自覚と運動」に読み取ることができます。この節は、「黎明期の女性たち」「先駆者平塚らいてう」「共産主義と山川菊栄」「婦選運動と市川房枝」の四項で構成されています。以下にそのなかから、三者それぞれを要約した人物評を拾い出してみます。「『青鞜』の出現は、わが国女性の自覚史上、はじめておおきな時代を画したものであった。……創刊号にのせられたらいてうによる『元始女性は太陽であった』という宣言こそは、まさに日本における『女権の宣言』の第一声であった」31。「山川菊栄がもつ女性史的意義は、らいてうに代表されたいわゆる中産階級的婦人解放運動を克服崩壊させ、その廃墟のうえに無産階級的婦人運動のヘゲモニーを打ち立てた一点にあった」32。「平塚らいてうを信念の人、山川菊栄を言論の人とするならば、市川房枝においては実践が先行し、そのうえに言論がめばえ、信念が固められるといってよい行動過程がみられる」33。「房枝は、自己の能力と、運動の究極的必然性(社会主義)と、現段階での可能面とをふまえて『実践』する実践者であった。そして、その実践には、つねにつよく『貫徹』が期された」34

実は、第五章第二節の「女性の自覚と運動」において「先駆者平塚らいてう」を取り上げたことには、逸枝にとって大きな意味が込められていました。一九二六(大正一五)年の四月、逸枝は、らいてうからもらった伝言に応えて、返信を書きました。これがらいてうに宛てて出された最初の逸枝の手紙です。以下は、その一節です。

あなたの伝記を書くことのできる、たった一人の存在が、私であることさえも、私はかたく信じています。私はもしかしたなら、あなたご自身よりも、もっとあなたをいい現わすことができるかも知れません。なぜなら、私はあなたの娘ですもの。あなたの血の純粋な塊が私ですもの35

それから三一年の歳月が流れます。一九五七(昭和三二)年一二月、逸枝は、らいてうに宛てた手紙で、こう書くのでした。『女性の歴史』(下巻)のなかの「先駆者平塚らいてう」の項(四百字詰め原稿用紙で八八枚)を書き終えたときのことです。

 らいてう伝を書くことは、私の年来の願いでしたが、いまこれを著書のなかで果たすことができました。思い切ってページを割き、心に祈って公平と的確を帰し、全力をあげて歴史的意義づけを試み、あなたに献ずる私の彰徳表を書きました。私はいまひどく愉しい気持ちです36

さっそく、らいてうから応答文が届きました。らいてうもまた、逸枝と同じく、このとき「ひどく愉しい気持ち」に浸っていたにちがいありません。

「先駆者平塚らいてう」が所収された下巻に続けて、さらに逸枝は、『女性の歴史』の最終巻となる続巻を書きます。そして、その「はしがき」をこうした言葉で締めくくりました。

 「女性の歴史」はこれでおわる。
 「女性の歴史」四巻は、探求の書であって、もとより政治的イデオロギーの宣伝の書でも、希望的観測の書でもない。
 これは、「母系制の研究」と「招婿婚の研究」に、根拠と出発点をもつ、私のあたらしい学説をつらぬいた日本女性全史であるが、独自の学説ゆえに、日本史批判とも、世界史・人類史への提言ともなっている。
 これは、三〇年ちかく「われらはいかに生くべきか」をひとすじに探求してきた一女性学究の、同時代の友人やのちにくる人々にささげる、ただ一つの貧しい花束である。
 私の齢はすでに傾ており、したがって私はこの書をはじめから遺書のつもりで、いうべきこと、いいたいことを書いた。そして、いまいくらか満足して筆をおくことをできたことをよろこぶ。

脱稿の日世田谷の草屋で
著者37

こうして、『女性の歴史』の上巻、中巻、下巻、続巻の計四巻が、一九五八(昭和三三)年の七月に完結しました。他方で、家永三郎の「歴史家のみた日本文化」の連載が、一九六一(昭和三六)年新年号を第一回として、『群像』誌上ではじまりました。その第四回が「古代人の結婚生活と性道徳」の題名をもつ論文でした。そのなかでまず家永は、「私たちの常識となつている結婚形態が正統の結婚形式となつたのは、長い日本の歴史の上ではひじょうに新しいことなのであり……決して古代以來の傳統的な観念ではなく、ごく新しい時代に固定された歴史的産物にすぎない」38ことを強調し、「私たちが現行の結婚形態や性道徳とはまつたく違つた結婚形態や性道徳の存在したことを忘れ去つてしまつた原因」39を、太古以来のものであるという「思いこんだ錯覺が、明治以來の天皇制國家主義敎育の徹底によつてもたらされた結果」40に求めます。しかし原因はそれだけではありませんでした。家永は、こうも指摘します。先に引用しました逸枝の「はしがき」のなかに「日本史批判」という文字を見ることができますが、その「批判」の内実にかかわる、男性歴史学者の家永三郎自身の反省を込めた認識箇所です。少し長くなりますが、そのまま引用します。

しかし、國民の錯覺を助長したのは、敎育政策ばかりの罪とはいえなかつた。日本人の生活の變遷を客観的に復原するのを任務とするはずの歴史學者もまた、その點で眞實を明らかにする義務を果たそうとしなかつた。アカデミズムの歴史學者は、天皇や貴族や武将などの權力者としての活動にばかり興味をもち、人民大衆の日常の生活を明らかにしようなどという興味をほとんどもつていなかつた。たとえ人民大衆の日常生活に興味をもたずとも、天皇や貴族や武将の生活をくまなく追求していけば、當然現行結婚形態とまつたく違つた結婚形態につき當らなければならなかつたはずであるにもかかわらず、かれらの狭隘な史眼にはそれさえ映じなかつたのである。しかし、その點では、いわゆる「進歩的な」歴史家も、五十歩百歩であつた。國家主義に無批判的であつたアカデミズムの歴史家が、「家族制度」に對し肯定的であつたのに對し、「進歩的な」歴史家が否定的であつたという違いはあつたけれども、「家族制度」以前の、「家族制度」とまるで違つた別の家族制度を具體的に紹介する點では、かれらもそれほど大きな功績があつたといえないのではあるまいか41

「天皇や貴族や武将などの權力者としての活動にばかり興味をもち、人民大衆の日常の生活を明らかにしようなどという興味をほとんどもつていなかつた」アカデミズムの歴史学者の対極に位置したのが、民間の独立研究者で女性の高群逸枝であり、「人民大衆の日常の生活」、とりわけ日本女性の恋愛と結婚と暮らしの全体像を史的に明らかにしたものが、『女性の歴史』全四巻でした。一方、「『家族制度』以前の、『家族制度』とまるで違つた別の家族制度を具體的に紹介」したものが、『母系制の研究』と『招婿婚の研究』でした。そうした事実を踏まえて、家永は、こう逸枝の業績に言及します。

 モルガンの「古代社會」やエンゲルスの「家族、私有財産及び國家の起源」を必読書としているはずの進歩的歴史家さえが、現行結婚形態の普遍化が豫想外に新しい近年の現象であることを看破できなかつたのは、「進歩的な」歴史家もやはり男性であるかぎり、男性中心の先入見から脱却できなかつた、という理由によるものだつたのかもしれない。日本の婚姻生活について、常識を打破する劃期的な研究が、女性である高群逸枝女史の手により大成されたのは、その意味で特筆に値しよう42

この家永三郎の「古代人の結婚生活と性道徳――歴史家のみた日本文化(四)」が掲載された一九六一(昭和三六)年四月号の『群像』が、講談社の『群像』編集者の中島和夫から逸枝のもとに送られてきました。中島は、かつて同社の学芸部にいて『招婿婚の研究』の編集を担当した人物でした。便りには、「先生のことに触れられてあり、私としても大変うれしくなつかしく思いました」43と、書かれてありました。うれしく思ったのは、逸枝も同じでした。『女性の歴史』全四巻の追加巻に相当する『日本婚姻史』が、一九六三(昭和三八)年五月に至文堂から上梓されたおり、「序説 日本婚姻史の体系」のなかで逸枝は、上で私が『群像』掲載の家永論文から引いた一連の箇所とほぼ同じ箇所を引用し、そのうえで、次のように述べるのでした。

私は全く同感であるとともに、私のささいな仕事に言及されたことをふかく感謝し、自己の学者としての責任をさらに一段と痛感するものである44

その一方で、この一節に続けて、再び柳田国男の学説である「聟入」という考えを取り上げ、こう切り捨てるのでした。

……今日までこのようなみごとな方法論をもった業績はみあたらないが、ただそれらの民俗の側面に原始婚からの遺習をみるとする解釈を拒否し、家父長制下の嫁取婚の原理での解釈で一貫しているのみか、鎌倉、平安、奈良、おそらくそれ以前にも遡及し、日本の全婚姻史にその意味での体系を与え得たとしたらしいその自負には、大きな誤謬があったのである45

以上のように、『日本婚姻史』の「序説」の第一節「婚姻史研究と著者」において、改めて柳田国男の学説のもつ誤謬を指摘する一方で、「自己の学者としての責任をさらに一段と痛感する」と書いた逸枝でした。しかし、逸枝の女性史学者としての研究成果は、『日本婚姻史』をもって最後となりました。『日本婚姻史』が刊行されるころには、さらに体力が弱っており、最期が迫っているのを自覚したのかもしれません。これ以降、結局は途中絶筆の無念に帰されることになりますが、逸枝の筆は、自叙伝「火の国の女の日記」へ向かうのでした。

しかし、その一方で、高群史学に対する批判も、早くもこの間顕在化しました。一九五七(昭和三二)年三月、つまり、『女性の歴史』中巻が大日本雄辯會講談社から出版されるのが一九五五(昭和三〇)年五月でしたので、この本の上梓からおよそ二年後のことになりますが、早稲田大学文学部講師の洞富雄による『日本母権制の成立』が淡路書房から世に出たのです。この本は、第一章「母系および母権の概念と母権の経済的基礎」、第二章「母権一般、とくに母家長制」、第三章「母処婚の展開」、第四章「母系制・母系的族外婚」、第五章「女性原始農耕と母権」の全五章から成り立っています。高群史学に対する批判は、とりわけ第三章「母処婚の展開」の第五節「戸主の夫婦同居婚」に現われます。その箇所を以下に引用します。

 高群氏の克明な研究によれば、平安貴族の社会に婿取り・婿住みの習慣が生まれたのは、同時代中期以後のことであるという。氏はこの婚制に着目して、夫婦別居婚から婿取婚に移り、さらに嫁取婚に転ずる過程を、はじめ『日本女性社会史』で次のように説明された46

ここで洞は、逸枝の『日本女性社会史』において描かれている婚制の変遷についての記述内容を短くまとめたうえで、次の文章へとつなぐのでした。

 右の見解を実証しようとして著されたのが、前記の『招婿婚の研究』である。本書は平安貴族の婚姻生活の研究として画期的な業績であり、一、二〇〇頁におよぶ大冊の大半はこれが解明に費されている。新著における婿取婚の発展過程のあとづけは、前著とはやや異って、つぎのような図式でえがかれている。

(一)前婿取婚[大化前後(593)―平安中期(898)]半ば通い、半ば妻方住み
(二)純婿取婚[平安中期(898)―白川院政(1087)]妻方に住み
(三)経営所婿取婚[白川院政(1087)―承久乱(1221)]妻方の沙汰で婚所特設
(四)犠制婿取婚[承久乱(1221)―南北朝(1336)]迎え

 この図式のうち、二・三・四は、平安貴族社会における婚姻生活をあとづけたもので、貴族の婚制にかんするかぎりは、盤石の基礎にたつ氏の研究に対して、なんら言うべきものをもたない。だが、それをもってただちに一般を推し、さらに上代の夫婦別居婚と平安貴族の母処婚(氏の婿取婚)との中間に、前婿取婚という過渡的婚姻形態を認めようとする、高群氏の方法的錯誤はこれをみのがすことができない47

ここで洞は、平安時代の貴族社会における婚姻形態の推移に限定的に強く焦点をあて、そこから得られたものを、あたかも、その前後の時代を含む一般的な婚姻制度の全体史であるかのように適用する、逸枝の歴史理解の手法を問いただしたのでした。このことは、その以前に家永が指摘していた、高群史学の民衆史への関心の欠落とも、一部通底するところかもしれません。

第三節 「森の家」暮らしと憲三姉妹による生活支援

憲三と逸枝が、「森の家」に引っ越したのは、一九三一(昭和六)年七月一日でした。

 私たちのこうした新しい家―研究所兼住居―は、私が出京当初しばらく思索と読書におくった思い出ふかい森の中に、私が『婦人戦線』の断末魔の苦しみをしているあいだにKの強行ででき上っていた48

この家の建築の経緯は、こうでした。憲三は、逸枝が研究に専念できるようにと、こころを砕いていました。

 そこで軽部仙太郎さんは自分の所有林を利用して新築しないかといい、それに幸い虎の門のN宮家の解体資材の一部を自家用に買い入れているものがあるから、それも提供しようといってくれた49

土地は、小田急線の経堂駅から歩いて二〇分のところにある、間口が一〇間、奥行きが二〇間のおよそ二百坪。東、南、西の三面は、杉、松、檜などの木々が生い茂り、一、二階あわせて六室、延べ約三〇坪のクリーム色の方形の家が、北寄りの地所に建てられたのでした。こうして逸枝は、「『婦人戦線』の廃刊と同時に、身にそぐわない過去の売文生活をも清算して新生活に入る」50ことになりました。

このときの新生活を逸枝は、こう振り返ります。

日常生活は単純で質素だった。……
消費組合に払ったある月のメモにはつぎのようにある。

  石油一缶    二・四五
  米一斗     二・九〇
  鶏卵五〇〇匁    八〇
  砂糖、煮ぼし    九五
  味噌三〇〇匁    二四
  醤油        五八
  わかめ       一〇
  ちり紙ほか     九〇
  木炭      二・三五
  組合出資金   一・〇〇
  計    十二円二十七銭
 
 毎月の出費は、このほかに地代(十二円)、電灯(三円)などを加えても五十円程度ですんだ。研究のための資料費および臨時の雑費はべつである。
 収入はKの若干の貯蓄と私の原稿料だった51

当時の米の価格をもとに現在の物価の上昇率を算出してみます。一斗は容積の単位で一〇升です。米一升を重さの単位で表わすと一・五キロで、したがって、米一斗は一五キロの重さになります。現在の米価を五キロで三千三百円とします。そうしますと、一五キロ(一斗)の価格は、九千九百円になります。逸枝が挙げている上のリストによれば、当時の米一斗は二円九〇銭ですから、それをもとに算出しますと、米価の上昇率は、三、四一三倍となり、この上昇率を適用しますと、地代の一二円は約四万一千円、電灯代の三円は約一万円、月の出費の五〇円は、だいたい一七万円相当の金額になります。月一七万円で生活を営む現在の夫婦生活から判断しますと、憲三と逸枝の夫婦の暮らしぶりは、決して楽ではなかったことが想像できます。

逸枝はまた、着衣については、こう語ります。

 研究生活にはいると、私は不便な和服を廃して洋服式にかえた。またこのほうが経済的でもあった。夏はブラウス。冬はセーターにKの古上衣を着用することで足りた。セーターの色があせると染剤で黒に染めかえる。スカートは裾がすりきれると切りちぢめてゆく。後にはKのサージの古ズボンをスカートに縫いかえたりした52

この夫婦は、床屋にゆくこともありませんでした。「私は断髪が長くなると、Kがときどき裁縫ばさみで切ってくれた。Kの髪は結婚以来ずっと私がおなじはさみで切ってやっていた。Kは床屋ぎらいだった」53

「森の家」に入り研究生活をはじめて数箇月が立ったときのことでした。清貧にあったこの夫婦に、光が差し込みました。

 昭和六年の暮れにKは平凡社に復帰した。下中さんが『大百科事典』編集部に招いてくれたのである。……小田急線経堂駅で電車に乗り、新宿駅で中央線に乗りかえ、東京駅八重洲口前の平凡社までゆくには約一時間かかる。私は毎朝八時にKを送り出すと、帰り夕方五時までは扉にはすべて鍵をかママて仕事一すじに専念した54

逸枝の一日はおおむね、このように過ぎてゆきました。

 起床は六時。八時に朝食。それから書斎に入り勉強。昼食抜きで午後四時にそれをやめ、六時に夕食をすます。夕食後は勉強のつづきやら原稿執筆やらにおくる。十時就寝55

こうした切り詰めた食生活、そして一日一〇時間近い労働は、当然ながら、逸枝の体を弱らせてゆきました。逸枝は、こう書いています。

 昭和八年の秋には、椅子にかけていると下半身が麻痺し、腹部から胸部にかけて強直を感ずるようになった。数日両眼が充血し、眼球にはおそろしい血の網がはられた。それでも私は、かつて熊本の生活できょくどの飢えや衰弱に耐えた経験をもっているので、こんども自己の抵抗力を過信して、平気でやり過ごそうとしていた56

ある日のことです。ついに身体が悲鳴を上げました。「意外に早目に帰ってきたKを迎えにいこうとして足が自由にならず寝台から落ち、階段口まで這って行って気を失ってしまった。玄関にはいつものとおり鍵をかけていたので、Kはお風呂場の硝子窓をこわして入ってきて、そうした私をみつけて、はじめて一切の事情を理解した。彼は自分の無頓着を悔い、半ば仕事を休むようにして、数ヵ月介抱してくれた」57

体が衰弱したり、執筆の目途が立たず、不安に襲われたりするときなどでしょうか、逸枝は、ふと娘時代の自分を振り返り、しみじみといまの自分を見つめ直していたようです。といいますのも、熊本市立図書館に『少女集』が所蔵されていますが、そのなかの至る所に書き込みがみられるからです。この『少女集』は、逸枝の手稿冊子で、ノンブルはありません。また、製作年も特定できていませんが、筆跡や自筆と思われるイラストレイションから判断して、『十三才集』とほぼ同じころではないかと思われます。それでは、『少女集』のなかの書き込みから幾つかその断片を拾って、以下に紹介します。

「静かに御父母上様に仕へまいらんとぞ思ふ」の文字が並ぶ頁の左の余白には、「いまや妾、夫にかしづく。……夫に心の限り盡さん……」と、逸枝は書いています。次に、「少女はさびしく床しき里の詩人を慕ふ。厳かに優しき詩人をなつかしむ」の文字が並ぶ頁の左の余白には、「さすがにこんなことを書いてた時分は、夢でいつぱい胸がふくらんでゐたし、比較的うつくしい生活をしていた」との書き込みがみられます。また、「いかに父母の里のなつかしからん」ではじまる頁の空白部分には、「父母が死んで十年になつちまひ、妹は尼さんになつた。……けれども私はいつまでもやつぱり詩人……大人になつた気持がしない。三十九になつたが……」と、書き込んでいます。さらに加えれば、「操なき女は獣類ぞ。處女たる我身は厳格なる處女として」で終わる頁の左隅の余白には、逸枝は、「昭和八年六月、いま私は本気になつて、婦人論の著述にとりかゝつてゐる。しかし、まだ……まとまつてゐない」と書いています。このように大量の書き込みをしていることから想像しますと、ひとり寂しく書斎にいるときの逸枝の話し相手は、幼い日につくった私家版の手製文集のなかの自分だったのかもしれません。

平凡社で憲三が取り組んでいた『大百科事典』は、全二八巻(第二七巻が補遺、第二八巻が索引)、四六倍判、一巻平均六五〇頁、価格は三円八〇銭と四円八〇銭の二種類という壮大な企画で、一九三三(昭和八)年一一月に配本が開始され、二年後の一九三五(昭和一〇)年一一月に完結しました。しかしこのとき、平凡社の社運が傾きます。

 昭和十年(一九三五)の夏頃から経営状態はかんばしくなかったが、十月二十五日になって不渡りが出た。金額は五十万円前後だったが、二度目の破綻だけに事柄の処理は容易ではなかった58

『平凡社六十年史』の記述は、こう続きます。

 債務者会議の決定で、社員の大幅整理が行なわれたが、社長以下一心同体となって働いてきた社だけに、この整理は社側としてもいちばん辛い処置だった59

これにより、憲三も解雇されました。逸枝は、「これはまったく予期しなかった大きな打撃だった」60と書きます。収入が途切れます。憲三にとっても、仕事が奪われた衝撃は、いかほどだったでしょうか。

それぞれおよそ四年間の二度にわたる平凡社勤務にあって、憲三が主に編集したのは「現代大衆文学全集」(第一次案全三六巻)と「大百科事典」(全二八巻)でした。離職以降の憲三は、会社勤めをすることはなく、ひたすら逸枝のそばにいて、逸枝の専属の編集者として黒子に徹します。その最初の作品が、一九三六(昭和一一)年の一〇月に厚生閣によって上梓された『大日本女性人名辭書』という書題の、本文六二三頁に古今の女性およそ一千八百名が収録された大冊の辞書でした。憲三の失職に伴う収入減を補うための、やむを得ぬ現実的な仕事という側面は確かにあったとしても、こうして、詩人高群逸枝からアナーキスト高群逸枝を経て、学者高群逸枝への大きな転換の第一歩が、ここに刻まれたのでした。

一九二〇(大正九)年に離郷して以来、長く東京で生活する逸枝は、それでも自叙伝のタイトルを「火の国の女の日記」としたように、故郷「火の国」をこころから愛する女でした。一方その間、夫の憲三の姉妹である藤野と静子が、一途な「火の国の女」にふさわしく、生国を出て東京の「森の家」で清貧にして学問に生きる逸枝と憲三のふたりを物心両面からしっかりと支えました。

堀場清子の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』(二〇〇九年、ドメス出版)によりますと、橋本辰次・ミキ夫妻の長女藤野(本名フジノ)は、一八九四(明治二七)年一月一七日に肥後国八代郡日置村に生まれています。高群勝太郎・登代子の長女として逸枝(本名イツエ)が生まれるのは、次の日の一月一八日です。したがって、藤野と逸枝は全くの同世代人になります。このふたりの誕生からちょうど三年後の一八九七(明治三〇)年一月一〇日、肥後国球磨郡大村において藤野の弟憲三(本名は憲蔵)が生を受けます。憲三の妹静子(本名シズコ)は、肥後国球磨郡一勝地村を生地にもつ一九一一(明治四四)年七月二五日の生まれで、兄の憲三とは一四歳、年が離れていました。

いつどのような事情から那良口から水俣に移住したのかの詳細は不明ですが、藤野と静子が「橋本商店」を開いたのは、一九三三(昭和八)年の秋のことでした。そのことについて堀場清子は、『高群逸枝の生涯 年譜と著作』のなかで、次のように書いています。堀場は、逸枝亡きあと水俣に帰還した憲三のもとを、夫である日本近代史を専攻する早稲田大学教授の鹿野正直とともにしばしば訪ね、精力的に聞き取り調査をした詩人にして女性史を専門とする研究者です。

九月二七日、藤野協議離婚して復籍。自立をめざし、橋本一家の一丸となった応援によって、早くも一〇月一日には水俣町古賀町に「橋本商店」の看板を揚げた。店主橋本藤野、事務員は静子だった。米・炭・雑貨・ミカンや梨などの果実類・酒・食品などしだいに商品をふやし、買い手や取引相手の信用を得て繁昌した(その後橋本商店は、栄町、浜町と転々しながら発展し、現在は水俣市幸町にある)61

また、堀場は、こうも書いています。その翌年(一九三四年)のことです。

五月一四日、橋本藤野は分家して、妹静子を養女とする。六月一九日、西村英雄を婿養子とし、静子との婚姻を届け出た。静子は結婚後も、軍人だった夫の任地熊本と、水俣の間を往来して、店の事務と経理を仕切った。大八車を引いて働き、店を大きくしたと、聞いたこともある62

この年(一九三四年)の一月に藤野は四〇歳に、静子は七月に二三歳になりました。

一方、このころの逸枝は、一九三一(昭和六)年七月に「森の家」に隠棲して以来、客の来訪をいっさい固辞し、一日に一〇時間近く仕事部屋にこもり、研究に専念する日々にありました。夫の憲三は、一九三五(昭和一〇)年の秋に、平凡社を解雇され、それ以降、寄り添って逸枝の学問を支えます。研究が完成し、『大日本女性史 母系制の研究』が世に出たのが、一九三八(昭和一三)年六月のことでした。

次第に開戦が近づいてきました。次は、一九四〇(昭和一五)年の四月二九日に、逸枝が静子宛てに書いた手紙の一節です。

 おたよりありがたく拝見、お写真なつかしくなつかしく。先日は英雄さまこまごまお手紙まことにうれしく存じました。……
 私が年とって動けなくなったらあなたが養ってくださるってありがとう。感謝します。
 あと十五年――私たちもそうすればよぼよぼになることでしょう。喜んで静子さんのところへ帰りたいと思っています63

この手紙からおよそ三箇月が立ち、憲三と逸枝は、「火の国」への帰省の途につきました。「昭和一五年八月二日の朝、Kが玄関の扉に鍵をかけているのを見ながら、『しばらく留守にします。帰ってくるまでどうか無事で』と念じた」64。ふたりが乗った列車は、東海道、山陽道を経て、九州に入り、八代で肥薩線に乗り換えると、山に囲まれた球磨川沿いを走りました。人吉のふたつ手前の那良口で下車し、憲三の兄の秀吉が住む家に向かいました。そこに、憲三の父の辰次と母のミキが一緒に暮らしていました。「玄関に立ってあいさつし、そして隠居所に行った。隠居所は一間きりで、大きな炉が切ってあった。……お父さんは部屋の中央にやすんでいられた。苦痛はなく、食欲もあるが、言語が自由にならないとのことであった。お母さんは元気でお父さんの介抱をしていられた。父は七十七歳で、母は七十三歳だった。私たち、とりわけこんどは私の帰省をよろこんでくださった。私たちは、父母の希望で、しばらくここに寝とまりして、老父母をみとることにした」65

裏山に橋本家の空華塔(納骨塔)がありました。辰次が、「自ら石を探し、家人や村人たちの手をかりて運びあつめ、それを兄の協力でコンクリートでかためてでき上ったひなびたもので、碑面の文字も自分で書き、自分で彫ったという。塔の中にはすでに子一人、孫一人の骨壺が納まっていた。私たちの憲平ちゃんも骨はないが祭ってある。……いずれ私の骨もこの墓にはいることであろう」66

ふたりは那良口を発つと、憲三の姉の藤野と妹の静子が暮らす水俣に向かいました。水俣は、一度八代にもどり、そこで鹿児島本線に乗り換えて南下した、鹿児島県との県境近くに位置しています。途中車窓からは、かつて約一年間ふたりが生活した弥次海岸が見えました。「姉の家は栄町にあった。米炭その他雑貨を売る店で、妹夫婦を養子にしていた。妹夫婦は夫英雄さんが軍人で熊本に住んでいるので、姉妹のどちらかの一人が父の看護をするのに、遣り繰りに骨が折れるという。妹は読書好きで、淇水文庫に案内しようといった。文庫は蘇峰さんが厳父淇水を祈念して建てたものだった」67

藤野と静子が店を構える栄町通りには、数年前まで、わずか少し離れて、石牟礼道子(旧姓は吉田)の家族が住んでいました。このとき幼少の道子は、「橋本商店」に買い物に行っていますので、藤野や静子と顔をあわせていたものと思われます。さらに、縁というものは実に不思議なもので、のちに道子が、逸枝の『女性の歴史』(上巻)を手にし、体が震撼するのを覚えたのが、この淇水文庫でのことでした。

水俣での滞在を終えると、ふたりは、鹿児島本線を北上し、八代を過ぎた小川駅で降り立ち、そこからバスに乗り換えて、「小野部田に三宝寺を訪ねた。三宝寺は小学校の国語読本巻十一に出ている『鉄眼の一切経』の宝蔵国師(鉄眼)の生誕の地である。……本堂に案内を乞うと妙有尼が出てきた。四十に近いこの妹は、処女のまま尼になったせいか、若さと美しさは娘の頃と変わらない。……翌旧盆十三日、妹を伴いKとの三人で、さらに奥の山中の私の両親の墓に詣でた」68。バスを降りると、「徒歩で約二里の旧峠道をあえぎ登る。顔蒼ざめ、汗ながれ、たえがたい悪寒を伴う。わが身もすでに衰えたり、との感ふかし。しかし父母へのつとめもこれが最後になるかもしれないと、自らはげまして、とにかく頂上にたどりついた。……そこから下り道となり、やがて払川部落に入る。両親の墓は下鶴の小高い丘の中腹にあるのだった。父が建てた母の墓のうしろにそれを抱くようにして弟清人が建てた父の墓があった。私はまのあたりはじめて父の墓碑を見るのだった」69

それからふたりは、再び那良口の憲三の両親の家に向かいました。しばらく滞在したのち、「八月二十四日朝、お父さんに別辞をのべ、お母さんに駅まで送っていただいて帰途についた。すすめられていたので熊本に途中下車して、妹夫婦の仮ずまいを訪ねた。子飼橋ゆきの市電にのると、その終点のところだった。……ここではからずも『日本談義』の荒木精之さんにお目にかかった」70

こうして、およそ三週間にわたる一連の帰省の日程が終了しました。

 二十三日の午後八時まえ東京駅につき、帰家したのは十時に近かったろう。バスを下りて森が見えるところまでくると二階の書斎に灯がついているように疑われた。よく見れば、樹間に団々たる月がかかっているのだった。
 この美しい月と森の家とがたしかめ得られたとき、私の旅の愁いは消えて、私は完全な自分にかえった。この瞬間、ふたりの団結のよろこびが胸にあふれて歩行の自由が奪われた。Kも感動をかくさず、私たちは体と心とを寄せあい、しばらく立ち止まって、それを眺めた。
  われらが研究所!
  われらが純愛の家!71

憲三の父親の辰次が亡くなるのは、翌年(一九四一年)の三月一〇日でした。そして、いよいよアジア・太平洋戦争へと突入しました。一九四一(昭和一六)年一二月八日、マレー半島への上陸とともに、ハワイの真珠湾攻撃にはじまり、その後日本軍の戦線は拡大し続けました。しかし、一九四二(昭和一七)年六月のミッドウェー海戦で大敗を喫すると、戦局は大きく傾き、南太平洋の日本軍は次々と壊滅の道をたどっていくのでした。

そうしたなか、水俣の藤野と静子の援助が、途切れることなく続きます。一九四二(昭和一七)年一月二二日の日記には、こう記されています。「鉄道便で小荷物到着。二七キロ」72。小荷物のなかには、みかん大粒(三〇)、ネーブル(八)、レモン(四)、自然薯(二)、里芋、馬鈴薯、小豆、大豆、椎茸、砂糖ザラメ、同黒、小麦粉、干しえび・いわし、ちりめんじゃこ、石けん(二)、味の素(二)、歯ブラシ(二)、スモカ、へアネット(二)、丸餅(四〇)、梅干し(一缶)が入っていました。また、その年の一〇月一五日の日記には、「水俣から小包。――栗、ざこ、その他」73の文字が並びます。

年が明けると、一九四三(昭和一八)年二月一七日から二四日まで、憲三は、父親の三回忌のため帰省しました。この間逸枝は、「留守日記」を書きました。憲三の無事の帰宅を待つ逸枝の心情を至る所に見ることができます74。翌一九四四(昭和一九)年の一月一八日に逸枝は五〇歳の誕生日を迎えます。「妾薄命」を自覚していた逸枝にとって、「人生五〇年」の域に達したことは、夢のような喜びでした。しかし、その翌日、「この研究所の前後に焼夷弾が落下して、静かな森の一軒家はたちまち防空訓練の標的となり……井戸からリレー式で運ばれるバケツの水が壁や窓や木立に力なくそそがれた。これが一つの象徴であるかのように、その後の戦局の重大化はもはや誰の目にも明らかとなり、それに応じて彼女の上にも、いろいろな影響がもたらされることになった」75。それは、講演や執筆の辞退要請を意味します。一方で、配給物資の欠乏にも悩まされ、憲三はとうとう決意して、「前庭を開墾して、本格的に『家庭菜園』と取り組むことになった。二人の生命、ひいては彼女の仕事をまもるためには、闇買いをしないとすれば、こうでもしてしのいでゆくほかはなかった」76のでした。

B29型長距離爆撃機による本土空襲は、一九四四(昭和一九)年六月の北九州爆撃からはじまり、一一月には、東京がはじめての爆撃に見舞われます。身の危険が迫ってきました。そこで、ふたりは、水俣の静子に宛てて、「遺書」を送りました。その内容は、次のとおりです。

 遺書
私たちが不慮のことがあった場合つぎのように処置されたし。
〇書籍類 ××図書館に寄付交渉のこと。ただし在京逸枝先輩友人たちに意見あれば、従うこと。一応左記に書面相談せよ。
  高島先生
  穂積先生
  平塚氏
  竹内氏
  竹中氏
〇五千円 母上、姉養老金として静子へ
  千円 空華塔供養費として兄へ
  千円 高群両親墓供養費として清人へ
  千円 高群妙有へ
二千円 あと始末費 静子へ
その他 静子へ
 昭和十九年十一月三日  橋本憲三
               逸枝
橋本静子様77

年が変わり、一九四五(昭和二〇)年に入ると、戦局はさらに悪化の一途をたどり、三月一〇日、焼夷弾一九万個の投下により約十万人が焼死しました。東京大空襲です。三月一八日にふたりは静子に宛てて手紙を書き、自分たちの疎開計画を知らせました。それは、「一、疎開の目的」「二、新居」「三、その他」から構成されており、そのなかには、こうしたことも記されていました。「もし疎開できたら、新居があるまで水俣の店におちつく。だから無理して条件のわるいところを探すことはない。そちらに行ってから憲三が探すもよい。逸枝の健康が弱っているから、周囲の環境や日当たりのわるいところはどんなに家がよくても不可。水俣図書館が近いところだと大へん好都合(ただしすこしは遠くてもかまわない)。そちらの意見もきかせてください。それから母上に大きな声で、このことをはっきりわかるようにいって生きのびてもらってください。母さんやみなさんと暮らせることが、うれしくてうれしくてなりません」78

しかし、この計画は実行されませんでした。理由のひとつは、「書物輸送の算段がつかなかった」79ためであり、いまひとつの理由は、五月の下旬のころ、「水俣の姉妹の家が敵襲によって失われた」80ためでした。

一九四五(昭和二〇)年四月、米軍、沖縄本土に上陸。八月、広島と長崎に原爆投下。そしてポツダム宣言を受諾し、日本は敗戦しました。八月一五日、終戦のこの日を憲三と逸枝は、「森の家」で迎えました。すべてが終わりました。憲三四八歳、逸枝五一歳の暑い夏でした。

終戦の翌年(一九四六年)の三月、逸枝は、「かの山の花―父上忌に―」と題して、このような詩をつくりました。

癒えない病の床で/父上が眺めたもうたという/那良口の花
谷間の峽間をあかるくし/そば道を照らして年ごとに咲くという/那良山の花
ああ父上の一瞥が/かの山花に/何と尊い永久的な意義を与えていることか
毎年めぐりくる/三月十日父上忌は
また同時に/われら一族の花まつりの日ともなろう81

また、同じこの時期、逸枝は、以下のような、「しぐれの雨―たのみ―」という詩もつくっています。

遠いところから降ってきて/いま私の勉強部屋のそとで/「こんにちは」といってる
しぐれの雨よ/その足で行ってくれ
母さんと姉さんの山へ/水俣の町へ
三宝寺へ/益城の山と野へ
しぐれの雨よ/その足で行ってくれ
そして伝えてくれ/東京の森の家からよろしくと82

上の二編の詩から、故郷の家族を思う気持ちがしみじみと伝わってきます。そして、このときの家族の所在は、こうであったと、逸枝は書きます。

 このとき、義母と義姉は疎開のまま那良口に、義妹静子は帰還した夫英雄と水俣に、そして妹妙有は三宝寺に、ボルネオから引き上げてきた清人一家は払川に、おなじく朝鮮から引き上げてきた元男は松橋の曲野にいたのだった83

両家の家族にあっては、一九四九(昭和二四)年一〇月二六日に憲三の母親のミキが死去します。逸枝の弟の元男も、ミキと同年の三月三〇日に他界し、一方、妹の妙有は三宝寺を離れ、その後、山口県下関郊外の観音を祀る山寺の庵主となるのでした。

それからおよそ五年の歳月が流れ、一九五一(昭和二六)年一一月三日に、逸枝は、熊本県教育委員会から近代文化功労者に推挙されます。一一月七日の日記に憲三は、「静子から手紙―文化の日の顕彰式に出てくれたと」84と、書いています。

この年(一九五一年)の一二月に、ついに逸枝は「招婿婚の研究」を脱稿しました。そこで、「この機会に、化け物屋敷と呼ばれている森の家は、水俣の義姉が出てきて修理してくれることになった」85のでした。修理工事は、翌年(一九五二年)の夏に行なわれました。逸枝の七月三日の日記には、次のように記されています。

 天気、午後五時まえ晴れあがる。憲三東京駅へ。逸枝はご飯をたきはじめる。いま七時五十分。そろそろお着きか。風呂もわきはじめた。お茶もわかしてある。電灯も今夜は書斎と茶の間の二ところにつけた。玄関にもつけておこう。五拾五分。門に出てみよう。
 門に出てみた。月がうつくしい。夢のような晩だ。なかなかみえない。引き返して、風呂をみると、まだすこしぬるい。
 いま、八時二十分。ちょうどおいで86

このときの「森の家」の修繕について、堀場は、こう記述しています。

七月三日藤野が上京し、二三日まで滞在して応援した。家の修理費として姉妹から一〇万円、姉から夫妻の歯の治療代として一万五千円、逸枝のオーバー代として一万円を贈られる87

水俣の橋本家の近くで内科医院を営む医師に、佐藤千里がいました。のちに、憲三と藤野の主治医となる人物です。偶然にも、佐藤の実家の母親の坂崎かおる(本名カオル)が逸枝の幼少期の友だちでした。のちに逸枝は、かおるについてこう書いています。「久具時代の一級下の友坂崎かおるが師範に入学したので、これと友だちになったのである。のちに彼女はよい夫と子供にめぐまれ、いまもたっしゃで故郷の天草に幸福な日を送っている。私はずっと仲よくしており、いまもたよりをかわしあっている」88

「森の家」の改修工事のさなか、その家に滞在していた藤野は、そのとき目にした様子を佐藤千里にこう語っています。

ほんに、あん人達ときたら、一勝地の母が昔使ったこまか(小さい)鍋釜で、ままごとのごたる暮しばしとらした。鶏達も、逸枝さんには甘えてなあ。研究の邪魔になると憲さんが逸枝さんの書斎から追い出すと、鶏達はふてくされて外で砂浴びなどしよった。あたしや静子が訪ねて行くと、憲さんの身内をせい一ぱい歓待しようと思わすどじゃろう、自分で台所に立ちよらした。それでも、何とのう要領が悪うて、一寸ばかりいぢらしかった。見かねて憲さんが台所仕事を代ろうとすると、こっそり袖を引っ張ったり、脇を小突いたりして、ほんに小娘のごつ逆いよらした89

どうやら逸枝は、台所仕事が苦手で、日頃から憲三が担当していたようです。しかしながら、飼っていた鶏とは逸枝は相性がよく、そのなかのトン子について、このように描写した箇所がありますので、抜き書きします。

 トン子は扉がしまっていると、大いそぎで玄関に出かけていく。そこもしまっていると、また大いそぎで勝手口にまわって侵入し書斎へくる。
 私の書斎は、終戦の放送日をさかいにして、階下に移っていた。トン子は、雛の時からおもしろい子で、いちはやく家のぐるりを探検して、私のところをかぎあてた90

一九五四(昭和二九)年の一月一八日に、逸枝は還暦(六〇歳)を迎えました。そのとき、小さな宴が、友だち二人が加わって自宅で行なわれました。その祝い膳には、「森の家」でかわいがられていた三羽の鶏も参加しました。「もちろんトンコ、タロコ、ジロコもお相伴し、ご馳走をたべ、あまざけをすすり、逸枝が与える葡萄酒まで飲んで、上きげんだった」91

そのころの家の経済事情を憲三は、こう振り返ります。

 私たちのくらし――生活費――は、彼女の資料費には事欠くことが少なくなかったとはいえ、明日の米塩にこまるということはほとんどなかった。一、二度窮境に落ちたこともないではなかったが、非常手段をとれば打開できる程度のもので、質屋利用を知らず、使用済みとなった資料の売却なども考えになく、最低の生活はつねに保障されていた92

憲三がいう「非常手段」とは、「森の家」の修理費用を姉の藤野に出してもらったように、水俣の姉妹からの援助のことが念頭にあったのかもしれません。石牟礼道子は、憲三の姉の藤野について、こう書いています。

 森の家の夫婦は学者と編集者であるから、実収入はたいそう低額でぎりぎりの生活であった。それを知ってお姉さまの方は、
 「憲三夫婦はお国のために勉強しているのだから、わたしたちが養うてやらんばならん」とおっしゃって、水俣の店の収入を存分に森の家に送金しておられた由である93

実際、「森の家」の土地二〇〇坪を購入するときも、水俣からの金銭的援助を受けています。それは、一九五五(昭和三〇)年の七月ころのことでした。憲三はこう記しています。

 私たちが軽部仙太郎さんの死去によって窮地に立ったなみ夫人からのぞまれて、森の家の土地二〇〇坪を買ったのもこの時分だった。この代金は逸枝の印税と水俣の援助で支払われた。彼女は水俣の援助を心苦しく考えためらったが、それも軽部夫人ののぞみにはかえられなかった。私たちはこの機会に故郷から世田谷区に戸籍を移し、七月三〇日からあらたに東京の住民となった94

もっとも憲三は、こうもいいます。「ただ、世間にはジャーナリズムにあやまられて、彼女ないし私たちの貧乏という点については伝説的にさえ信じられているものがあるのではないかと思われたが、彼女もKもあえてこれを訂正しようという努力はしなかった。無駄な骨折りに終わると考えられたからだった」95

憲三も逸枝も、自分たちの収入や資産については、「徹底的に共有」のものと認識していました。そのことは、次の逸枝の言葉が例証します。

 私は、夫の扶養ということを、可能不可能とは全く別にして、生来的に問題にしたことがない。それと同時に、結婚後の同居生活では、近代個人主義とは別に-それは非難しないが-徹底的に共同だった。夫はなんの介意なしに私のえた印税を処理した。夫の収入に対する私の態度も同じだった96

その一方で、逸枝の憲三に向ける思いは、次のようなものでした。

 たまに夫が外出すると、その留守のさびしさはたまらない。もう帰るか、帰るかと、門に出て待ちくたびれる。こういう私という女はなんといったらいいだろう。とても学者の型ではない97

逸枝は、夫の存在を忘れて勉強に没入することのできる女ではありません。常に思いは憲三のもとにありました。まさしく意識も「徹底的に共有」されることを望んでいたのです。それと同時に、逸枝の気持ちは、ふるさと「火の国」にも寄り添っていたのでした。

第四節 熊本大水害から「望郷子守唄」の歌碑建立へ

当時、逸枝の思いは、ひとときも離れていることのできない夫に対してはいうまでもなく、そしてまた、家で飼うみぢかな愛鶏のみならず、遠く離れた、生まれ故郷にも向けられていました。「森の家」の修理からおよそ一年が立った一九五三(昭和二八)年の六月二六日、降り続く大雨で阿蘇から有明海に流れる白川が氾濫し、熊本市内は洪水に見舞われました。そのときの思いを逸枝は、熊本で『日本談義』を主宰する荒木精之に宛てた手紙で、以下のように、綴っています。

 荒木精之様 「熊本大水害」特輯号をいただいたとき、すぐ次号へ何かお見舞いのことばでもさしあげたいとおもいましたが、それもとうとう果し得ないでしまい、失礼しました。
 最初にラジオで、熊本の全市民に花岡山に避難命令がでたときいたときには、自分の耳をうたがったほどびっくりしました。朝日の東京版で、在京熊本県人連合会で、こちらにいる県民をはじめ一般都民に義捐をよびかけているとの異例の記事をみていよいよ驚きをふかくしました。私もさっそく郵便にたくして貧者の一燈をささげました98

そしてこの手紙は、次の最後の節へと続きます。

 「熊本大水害」を拝見して、災害のむごたらしさに、胸つまるばかりです。お見舞いのことばなど、もう出ません。
 来る一月十八日は、私の還暦にあたります。そんな話をしながら寝に就いた一夜、夢の中でしきりに望郷のおもいを五木の子守唄に擬して作っていました。すなわち、愛郷のあかしとしておめにかけます99

その一夜とは、熊本の大水害からほぼ四箇月が過ぎた、一九五三(昭和二八)年一一月四日の夜のことで、夢のなかで、次の一首が浮かんできました。参考までに、それに対応する「五木の子守唄」の原詩を角括弧のなかに入れておきます。

おどま帰ろ帰ろ 熊本に帰ろ
恥も外聞もち忘れて100
[おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと 盆が早よ来りゃ 早よ戻る]

そして、目が覚めた翌朝、続けて一〇首をつくりました。そのうちの最初の二連を紹介します。

おどんが帰ったちゅうて 誰が来て呉りゅに
益城木原山 風ばかり
[おどんが打っ死んだちゅうて 誰が泣いてくりょか 裏の松山 蝉が鳴く]

風じゃござらぬ 汽笛でござる
汽笛鳴るなよ 思い出す
[蝉じゃごじゃんせん 妹でござる 妹泣くなよ 気にかかる]

「五木の子守唄」のゆっくりとした三拍子の旋律に乗せた替え歌になります。こうして、一一首からなる「望郷子守唄」が、一気に完成したのでした。のちに逸枝は、幼年時代を思い出して、こう書いています。

 私は熊本の生まれなので、母親のうたう五木の子守歌をきいてそだった。自分も子守の群にまじって、肥後の大平野をあかあかと染めている夕焼けのなかで、よくこの歌をうたったものであった。
 この歌の曲には、一定の型はあるが、時や所や歌い手の気分によって、調子は自在にかえられる。歌詞も自由に改作されたり、新作されたりする101

一方、「望郷子守唄」が生まれたころ、逸枝は、『女性の歴史』の構想と執筆に明け暮れていました。その中巻が刊行されるのが一九五五(昭和三〇)年五月ですが、そのなかの第三章「女性の屈辱時代」の第五節「いわゆる庶民文化」に、肥後国の民間説話についての記述がみられます。

 民間説話の種類は多い。これも私の故郷のことになるが、私の故郷は南国であたたかく、家ごとにザボンがなる。北東の山岳地帯に阿蘇のけむり、南西の有明-八代の海に不知火がもえ、古来ひとよんで火の国といった。……
「あとはどうなときゃあなろたい。」
 という南国型の女性も私の故郷の百姓女である。
 このように、この火の国は、民間説話の宝庫ともいえる国であるが、それは荒木精之氏の名著「肥後民話集」をみてもうかがわれよう102

このように、熊本が大洪水に見舞われたこの時期、逸枝の望郷の念は、一段と高まりをみせたのでした。

しかしその一方で、この時期、逸枝の心も同じように、あたかも大水に襲われるがごとくに、苦しんでいました。以下は、一九五三(昭和二八)年一二月八日の「共用日記」に逸枝が書き記した落書き風の短文の冒頭の部分です。

 私は破綻している。心に矛盾が多い。これが私の情熱やエネルギーの隠れた源泉となっている。私には自己反省の材料がかぎりなくある。私は人格の完成をもとめてさまよっている103

次は、翌年(一九五四年)一月一四日に書かれた短文の一部です。

 けさは夫をこまらせた。彼がいうには、私には、意識しないでひとをばかにしているところがあると。これに私は承服しなかった。なぜなら、それどころか私にはもっといけない奴隷根性があることをひそかに考えたからだ。けれども、奴隷根性の半面こそ夫のいうとおりのものではなかろうか、ともいまはおもう104

そうした内面の葛藤を抱えながらも、楽しい出来事もありました。一九五五(昭和三〇)年四月一一日の日記には、こう記されています。「球磨、水俣、福岡から憲三兄弟一行到着。トンコ、タロコ、ジロコ、人みしりして妙におとなしくしている。午後、兄弟会、水俣の姉に感謝状」105。このとき作成された感謝状を、姉の藤野は亡くなるまでとても大事に飾っていました。主治医の佐藤千里が、このように書いています。

 ふじのの病室の壁には、逸枝の筆になる一枚の感謝状が額に入れてかけられていた。

    感謝状
  橋本ふじの様
あなたは、終始父母のために計
りその老後を楽しませること
につとめられました。
また私ども兄弟にも絶えず
愛情を頒たれました
ここに兄弟会東京開催
にあたり記念品を贈り感謝します。
  昭和三十年四月十一日 兄弟会
    球磨村 橋本秀吉
    東京都 橋本憲三
    福岡市 橋本武雄
    人吉市 橋本袈義
    水俣市 橋本静子

 この、毛筆で丁寧に書かれた感謝状を見る度に、私は優しさとこっけいさの交じり合った奇妙な思いに浸されるのであるが、真面目であればある程童女めいてくる逸枝を好ましく思う106

東京での兄弟会の熱気がまだ冷めやらぬ翌一九五六(昭和三一)年の八月一一日、水俣では静子が筆を執り、憲三宛てに手紙を書きました。内容を部分的に引用します。

店の近くに広い土地つきの頑丈で古風な大きな二階作り……の家があるのを求めました。……兄さん達が年をとられて寄り添って暮らしたいと思われるとき、いつでも来ていただいてよいために。いつでも行って暮らしてもよい処があると思われるだけで今安心してお仕事なさっていいわけです。
 兄さん達も含めて、老後の暮らしがたつように設計をたてています。(静かな、樹木のあるよい処です)……
 いつでもお出になってください。それまでは、ただおしごとだけを、と思っています。
 借金をしましたが、それはちゃんとした目あてがあるのですから心配はいりません。しばらくは苦労しますが、兄さん達のためと、私達のために頑張ります107

しかしながら、まだまだ、逸枝の仕事に終わりは見えませんでした。その手紙から三年後の一九五九(昭和三四)年一月四日から四月一三日まで、一〇〇回にわたって地元紙である『熊本日日新聞(熊日)』に随筆を連載します。そして七月に、講談社より単行本となって発売されます。この『今昔の歌』は、前年(一八五八年)に刊行された『孤独と愛と 学びの細道』(理論社)に続く、逸枝にとってこの時期の二冊目の自伝的エッセイ集となるものでした。

『熊日』紙上の「今昔の歌」の連載が終わった翌日(四月一四日)は、逸枝と憲三にとっての結婚四〇周年の記念の日でした。「私たちは、高群・橋本両家の人びとへのささやかなおくりものを三越(百貨店)に注文し、当日はくつろいで自祝のテーブルにつき、タロコにも不二家の菓子をふるまったが、そこへ奥村博史さんがみえて貧しいわれわれの催しに加わってもらったのは思いがけない仕合わせだった。奥村さんは自作の青い美しい指輪を夫妻の名でおくってくださった」108。奥村博史は、平塚らいてうの夫で、一九五六(昭和三一)年に、ふたりの出会いを描いた小説『めぐりあい 運命序曲』を上梓していましたし、美術家でもあり、つくる指輪は、富本一枝の夫で陶芸家の富本憲吉の導きで、国画会に出品した経験もありました。

『孤独と愛と 学びの細道』と『今昔の歌』に先立ち、一九五八(昭和三三)年七月に発刊された『女性の歴史』の続巻をもって、四巻からなる逸枝の「女性の歴史」は完結しました。前代未聞の偉業として世に讃えられました。そうした燦然と輝く評価を受けて、「望郷子守唄」の詩作から八年と二箇月が立った、逸枝の六八歳の誕生日でもある、一九六二(昭和三七)年一月一八日に、逸枝ゆかりの地において歌碑の除幕式が執り行なわれました。以下は、翌日の『熊日』朝刊(七面)の記事からの抜粋です。

熊本が生んだ日本女性史研究家高群逸枝女史=東京在住=が故郷をしのんでうたった「望郷子守唄」の歌碑除幕式は、女史の六十八回目の誕生日にあたる十八日午前十時すぎから、女史が幼年時代を過ごしたゆかりの地、下益城郡松橋町久具の寄田神社境内(寄田校跡)の碑前で盛大に行なわれた。式場には沢田副知事、小崎熊日社長、福田令寿県社会福祉協議会長、黒田ハマ県婦連会長ら来賓と地元側から中山寧人松橋町長ら関係者、それに東京から女史の代理として奥村博史氏(平塚らいてう女史夫君、洋画家)浜田糸衛氏(童話作家)高良真木氏(洋画家)アメリカから帰国中の駒井哲氏(元映画俳優)らなど約三百人が参列した。
式は荒木精之氏(日本談義主宰)の司会で進められ、松橋町西部中ブラスバンドの奏楽のうちに同町曲野、坂本洋子ちゃん(七つ)=当尾小一年・女史の弟高群元男氏(故人)の孫=の手で除幕、同時に数十羽のハトが放たれ、小崎熊日社長が碑に刻まれた「望郷子守唄」を朗読した。

松橋町久具寄田の地で、逸枝は四歳から九歳までの幼少期を過ごしています。式典では、数百の参列者が見守るなか、松橋町長の中山寧人が式辞を述べました。参列者のなかには、高群逸枝の弟の清人、静子の夫の橋本英雄の姿もありました。逸枝はこの日、参加することはかないませんでしたが、その代わりに、挨拶文を送りました。以下はそれからの抜粋です。

 今日こゝに、望郷子守唄の碑の式典をお挙げいたゞきまして、無上の光栄でございます。……
 私は明治二十七年一月十八日、当松橋町に生まれ、大正九年心ならずも故郷火の国を遠く離れて、たゞいま東京に住んでいます。
 他郷に出ている者にとつて、故郷は母のふところであります。思い出のゆりかごの地であります。……
 私の望郷子守唄は、直接的には昭和二十八年の熊本大水害に触発されてなつたものでありますが、同時に私自身が内外の苦難に当面していたところから生れたものであります。……
 故郷のみなさまが、おろかな私をとがめずかつ私の望郷子守唄を愛してくださつて、この美しい碑をゆかりの地寄田にお建てくださつたことを深く感謝し、この碑の精神が作者を超えて永遠ならんことを願つてやみません109

この式典には、平塚らいてうも、体調かなわず、参列できませんでした。そこで、教育長の白木満義が、らいてうからの長文の挨拶文を代読しました。それは、このような言葉ではじまります。

 高群逸枝さんを生んだ、この松橋町――ことに、四歳から九歳までのもつとも大切な性格形成期を過ごしたと思われる、この寄田神社の境内に、地元青年方の純真な願いから出た御企画で、地元有力者の方々のご協力により高群さんの歌碑が建ちましたことは、ふるさとの自然と人とを限りなく愛していられる高群さん御自身はもとより、高群さんを敬愛しております友人達も、よろこびと感謝にたえない次第でございます110

らいてうは、逸枝の『母系制の研究』と『招婿婚の研究』の業績に触れます。

女性史学と云うのは、高群さんの言に従えば、「女性の立場による歴史研究の学問」でありますが、日本に於ける母系制の存在と、それの父系制への推移の過程を資料によつて観察し研究したこの二大著述は、婦人を圧迫しその人格を無視してきた家父長制度が、決して太古から日本に存在した絶対的なものでないことを、実証したものであります111

それから、かつて自身が発刊した『青鞜』へと話題をつなげます。

 これによつて、わたくしが五十年前婦人雑誌「青鞜」の創刊に際し、「元始女性は太陽であつた、今女性は月である」と訴えたあの詩的表現に、はじめて科学的な裏付けが与えられたわけでございます112

さらに続けて、高群史学の金字塔となる『女性の歴史』全四巻がすでに完成し、いま、その追加の仕事として「続招婿婚の研究」に従事していることを紹介します。そしてらいてうは、次の言葉で、この挨拶文を締めくくるのでした。

 ある評論家は、この建碑の話をきいて「火の女、火の国へ帰る」といゝました。永遠の生命――火の女である高群さんが、残されたお仕事を完成され、愛するふるさとに――火の国の土をしつかりと踏みしめて、この碑の前に立たれます日を、わたくしは今心に描いています113

この日らいてうが祝辞のなかで言及した、「火の女である高群さんが、残されたお仕事」は無事完成し、『日本婚姻史』という書題となって、その翌年(一九六三年)の五月に至文堂から公刊されました。しかしながら、逸枝が母と仰ぐらいてうがこのとき祈念した、「火の国の土をしつかりと踏みしめて、この碑の前に立たれます日」は、とうとう来ることはありませんでした。もっとも、奥村博史がカメラに収めて持ち帰った幾多のカラー写真が、妻のらいてうを喜ばせ、他方で、写真を見た、当事者である高群逸枝と夫の橋本憲三の胸に、生国への熱い思いが燃え盛って蘇ったものと想像されます。「おどま帰ろ帰ろ 熊本に帰ろ[おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと]」の詩句を口ずさみながら。

この歌碑建立は、多くの関係者の寄付金によって実現しました。熊本市立図書館と熊本県立図書館の両館には、高群女史歌碑建立期成会による『高群逸枝先生望郷子守唄歌碑建立御芳志芳名綠』(一九六二年)が残されています。そこには、平塚らいてう一万円、奥村博史三千円、橋本英雄四千円、橋本静子三千円、橋本ふじの三千円の文字が並びます。

その一方で、水俣に住む憲三の姉の藤野の思いは、また別のところにありました。『熊日』の「望郷子守唄」除幕式の記事には三葉の写真が掲載されたのですが、そのなかの逸枝と憲三が熊本の方角に向かって正座して謝意を表わす写真の、あまりにもみすぼらしい普段着の姿に驚いたのでした。藤野は、間を置かず妹の静子に筆を執らせます。次は、一月二三日に静子が書いた文面です。

 除幕式には英雄さんが出席させていただきました。盛会でたいへんきれいな会であったと申しています。……
 熊日に出された写真が老いられていて、近い期限で私たちといっしょに暮される方がよいと思います。きびしい生活を続けられたのですから、もうホッとされてよい日が必要です。いつでもお迎えに参ります。
 田舎は静かで不安ありません。研究のお金がいればうちの姉さんが送るからと申しています。いってやって下さい。少しでも早く片づくとよいと申しています114

写真に写っていた老いの様相は、紛れもなくこのときの逸枝の実際の姿でした。疲労が蓄積し、運動不足もあり、目がかすむようになるとともに、まさしく心身が衰弱していたのです。

この年(一九六二年)の旧暦の七夕前夜は、逸枝と憲三がはじめて出会って四五周年に当たる記念の日でした。そこでふたりはこの日、そのことに感謝して、仕事を休んで休養を取り、新たな気持ちで誓い合いました、以下に引用するのは、逸枝が書いた「誓い」の言葉です。

  誓い
われらは貧しかったが
二人手をたずさえて
世の風波にたえ
運命の試れんにも克ち
ここまで歩いてきた
これから命が終わる日まで
またたぶん同様だろうことを誓う
そしてその日がきたら
最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない
すべてを土に帰そう
  相見てから四十五周年
  一九六二年七夕前夜115

もう残された時間がそう多くはありません。このとき逸枝も憲三も、必死に生きていました。その様子は、次章の「最期――逸枝の別れと憲三の『高群逸枝全集』の編集」において、詳しく叙述したいと思います。

(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、286頁。

(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻、286-287頁。

(3)同『高群逸枝全集』第一〇巻、287頁。

(4)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(5)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(6)同『高群逸枝全集』第一〇巻、288頁。

(7)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(8)同『高群逸枝全集』第一〇巻、289頁。

(9)同『高群逸枝全集』第一〇巻、290頁。

(10)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(11)同『高群逸枝全集』第一〇巻、292頁。

(12)大日本婦人会の機関誌『日本婦人』に寄稿する以前にあって、高群逸枝は、『婦女新聞』『都新聞』『家庭新聞』『輝ク』『女性展望』『ホーム・ライン』『日本談義』等に文を寄せています。そのなかには、次の一文も含まれます。一九四〇(昭和一五)年は、神武天皇が即位してから二六〇〇年に相当する年でした。この皇紀二千六百年の記念すべき年頭に際し、逸枝は、『婦人朝日』(新年号)に「女性二千六百年史」を寄稿します。それがきっかけとなって出版の依頼を受けた逸枝は、それに手を加え、わずかおよそ二週間で『女性二千六百年史』という題の一巻本に仕上げ、厚生閣より公刊します。この本は、「女性二千六百年史」「女訓」「日本女性の本質」「女性史のために」「女性史話」「道遠し」から構成されています。「女性二千六百年史」は、「第一 古代」「第二 中代」「第三 近代」「第四 現代」で成り立ち、「女性二千六百年史」以外は、それまでにさまざまな紙誌に書いていた小文を集成したものです。この書に、戦時体制下における逸枝の歴史観と女性観の一端を見ることができます。「女性二千六百年史」は、天照大神の御代から書き起こされていますし、日本女性の美質を、逸枝は、健全な保守性と中庸な性格に求めています。おそらくこれが、刊行二年後の、大日本婦人会が主宰する『日本婦人』における連載執筆へとつながっていったものと思われます。

(13)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、306頁。
 『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」は、第三部の戦前までが、高群逸枝本人の自筆による「自叙伝」ですが、一九六四(昭和三九)年の死去に伴い、これをもって絶筆となり、戦中戦後を扱った第四部以降は夫の橋本憲三が、自叙伝メモや書簡類、それらに加えてふたりの「共用日記」を参考にして、継続執筆したものです。したがいまして、これよりのち、『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」から引用する文は、憲三によって書き記されたものとなります。

(14)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年(第1刷)、259頁。
 この巻の巻末に付けられた、編者で夫の橋本憲三による「解題/編者」には、「昭和二〇年以降は完全に夫との共同日記になっている」と、記されています。したがいまして、この注(14)をはじめとして、これより以降に引用する日記は、逸枝の単独の日記ではもはやなく、逸枝と憲三との共同日記となるものです。

(15)同『高群逸枝全集』第九巻、同頁。

(16)同『高群逸枝全集』第九巻、同頁。

(17)高群逸枝『日本女性社會史』眞日本社、1947年、1頁。

(18)家永三郎「わざわいするモルガン的色眼鏡」『日本読書新聞』第425号、1948年1月21日(縮刷版の361頁)。

(19)高群逸枝「家永三郎氏の書評に答う」『日本読書新聞』第427号、1948年2月4日(縮刷版の365頁)。

(20)同「家永三郎氏の書評に答う」。

(21)同「家永三郎氏の書評に答う」。

(22)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、369頁。

(23)高群逸枝『招婿婚の研究』大日本雄弁會講談社、1953年1月、4頁。

(24)同『招婿婚の研究』、1-2頁。

(25)家永三郎「高群逸枝著『招婿婚の研究』」、史学会編『史学雜誌』第62編第7号、1953年7月、76-77頁。

(26)高群逸枝「家永博士の批評を読んで」、史学会編『史学雜誌』第62編第10号、1953年10月、75頁。

(27)高群逸枝『母系制の研究 大日本女性史第一巻』恒星社厚生閣、1948年11月、3-4頁。

(28)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938年、1-2頁。

(29)高群逸枝『女性の歴史』上巻、大日本雄辯會講談社、1954年、32頁。

(30)高群逸枝『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955年、319頁。

(31)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958年、257頁

(32)同『女性の歴史』下巻、294頁。

(33)同『女性の歴史』下巻、314頁。

(34)同『女性の歴史』下巻、316頁。

(35)前掲『高群逸枝全集』第九巻、234頁。

(36)同『高群逸枝全集』第九巻、442頁。

(37)高群逸枝『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958年、ノンブルなし。

(38)家永三郎「古代人の結婚生活と性道徳――歴史家のみた日本文化(四)」『群像』第16巻第4号、1961年、226頁。

(39)同「古代人の結婚生活と性道徳――歴史家のみた日本文化(四)――」『群像』、同頁。

(40)同「古代人の結婚生活と性道徳――歴史家のみた日本文化(四)――」『群像』、同頁。

(41)同「古代人の結婚生活と性道徳――歴史家のみた日本文化(四)――」『群像』、227頁。

(42)同「古代人の結婚生活と性道徳――歴史家のみた日本文化(四)――」『群像』、228頁。

(43)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、431頁。

(44)高群逸枝『日本婚姻史』至文堂、1963年、4頁。

(45)同『日本婚姻史』、同頁。

(46)洞富雄『日本母権制社会の成立』淡路書房、1957年、195頁。

(47)同『日本母権制社会の成立』、195-196頁。

(48)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、244頁。

(49)同『高群逸枝全集』第一〇巻、243頁。

(50)同『高群逸枝全集』第一〇巻、244頁。

(51)同『高群逸枝全集』第一〇巻、247-248頁。

(52)同『高群逸枝全集』第一〇巻、248頁。

(53)同『高群逸枝全集』第一〇巻、248-249頁。

(54)同『高群逸枝全集』第一〇巻、250頁。

(55)同『高群逸枝全集』第一〇巻、248頁。

(56)同『高群逸枝全集』第一〇巻、253-254頁。

(57)同『高群逸枝全集』第一〇巻、254頁。

(58)『平凡社六十年史』平凡社、1974年、170頁。

(59)同『平凡社六十年史』、171頁。

(60)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、256頁。

(61)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、68頁。

(62)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、69頁。

(63)前掲『高群逸枝全集』第九巻、251頁。

(64)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、292頁。

(65)同『高群逸枝全集』第一〇巻、293頁。

(66)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(67)同『高群逸枝全集』第一〇巻、297頁。

(68)同『高群逸枝全集』第一〇巻、298頁。

(69)同『高群逸枝全集』第一〇巻、298-299頁。

(70)同『高群逸枝全集』第一〇巻、300頁。

(71)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(72)同『高群逸枝全集』第一〇巻、307頁。

(73)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(74)たとえば、そのとき逸枝は、陰膳をして憲三の無事を祈ったと、以下のように、「留守日記」に記しています。「ご飯をたべてきた。はじめて新しく炊いた。のりとざぜん豆のおかず。夫にもよそい、お茶も二人ぶん。上にあがると、きのうとおなじ夕焼けである。窓からみていると、あの欅の下から夫がやってくるような錯覚がおこる。こたつに火をいれる。むこう側の夫の影にあいさつして机にむかう。影はふかく頭をたれてねむっている。ああまた日没時だ。風がさびしい。かきおとしたが、のこりのぼた餅をたべた。ちょうどお母さんが夫からもらってたべてくださったであろう時刻に。つめたくはあるが、うまかった。いまごろ水俣ではどんなだろう。」(出典:同『高群逸枝全集』第一〇巻、310-311頁。)

(75)同『高群逸枝全集』第一〇巻、322頁。

(76)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(77)同『高群逸枝全集』第一〇巻、325頁。

(78)同『高群逸枝全集』第一〇巻、328頁。

(79)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(80)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(81)同『高群逸枝全集』第一〇巻、337頁。

(82)同『高群逸枝全集』第一〇巻、338-339頁。

(83)同『高群逸枝全集』第一〇巻、339頁。

(84)前掲『高群逸枝全集』第九巻、401頁。

(85)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、370頁。

(86)前掲『高群逸枝全集』第九巻、407頁。

(87)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、111頁。

(88)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、127-128頁。

(89)佐藤千里「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と真實』通巻第350号 8月号、1978年7月、47頁。

(90)高群逸枝『愛と孤独と 学びの細道』理論社、1958年、175頁。

(91)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、386頁。

(92)同『高群逸枝全集』第一〇巻、418頁。

(93)『石牟礼道子全集』別巻、藤原書店、2014年、275頁。

(94)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、391頁。

(95)同『高群逸枝全集』第一〇巻、418頁。

(96)前掲『高群逸枝全集』第九巻、515頁。

(97)同『高群逸枝全集』第九巻、429頁。

(98)高群逸枝「望郷子守唄」『日本談義』通巻125号 1月号、1954年、36頁。

(99)同「望郷子守唄」『日本談義』、36-37頁。

(100)同「望郷子守唄」『日本談義』、37頁。

(101)前掲『愛と孤独と 学びの細道』、211頁。

(102)前掲『女性の歴史』(中巻)、315頁。

(103)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、384頁。

(104)同『高群逸枝全集』第一〇巻、385頁。

(105)前掲『高群逸枝全集』第九巻、372頁。

(106)前掲「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と眞實』、同頁。

(107)前掲『高群逸枝全集』第九巻、434頁。

(108)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、418頁。

(109)『高群逸枝』「高群逸枝を顕彰する会」発行、2014年、10頁、熊本県立図書館所蔵。なお、高群逸枝と平塚らいてうからのそれぞれの「挨拶文」および「望郷子守唄」の全詩句は、熊本市立図書館と熊本県立図書館の双方の図書館が所蔵する、高群女史歌碑建立期成会によって作成された『高群逸枝先生望郷子守唄歌碑建立御芳志芳名綠』(一九六二年)にも記載があります。

(110)同『高群逸枝』、11頁。

(111)同『高群逸枝』、同頁。

(112)同『高群逸枝』、同頁。

(113)同『高群逸枝』、同頁。

(114)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、442頁。

(115)同『高群逸枝全集』第一〇巻、449頁。