本稿執筆の目的は、「緒言――問題の所在と執筆の目的および方法」のなかで書きましたように、「虐げられた弱き人びと」である、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子、橋本藤野、そして橋本静子の真実の生涯を、残された入手可能な一次資料に基づき描き、その傷つけられた魂を救い出すことでした。いわば、彼らに捧げる鎮魂歌としてこの文は書かれました。
高群研究にかかわる、こうした、先行する小説や伝記の記述内容を向こうに回したような語りと実証には前例がなく、戸惑や反発を感じられた読者も多くいらっしゃるのではないかと思います。そこでまず、異例ともいえる行為にあえて挑戦した私の、動機といまの気持ちとを書き残しておきます。
これまで「歴史」といえば、男性が書く男性についての歴史でした。つまり、この「歴史」には、ほとんど女性は登場しません。書き手の男性のなかに、女性は書くに値しない存在であるという偏った見方が備わっていたのでしょう。そうした「歴史」に代わって、高群逸枝は、「歴史」に隠されていた女性を発掘することに挑戦しました。それが、逸枝が書く「女性の歴史」なのです。それは、誰もいままでに見ることのなかった光景でした。それゆえにまた、批判もありました。逸枝は、こう書きます。
巷にゆけばわがこころ 千の矢もて刺さる その矢、心に痛ければ われはいつもあこがれけり 去りゆかむ去りゆかむと いずこへか?1
それでは、千の矢がこころに刺さる痛みをこらえてまで、なぜ逸枝は、書かなければならなかったのでしょうか。逸枝は、こう書きます。
私は学問が偏見を破る大きな武器であることを知った。……固定観念や既成観念への、火の国女性的なたたかいも、このへんからはじまった2。
ここに、火の国の女がもつ正義感と義侠心が情動し、詩人としての熱い感性を携えて、学者固有の、冷徹なる知の産出へと向かう、逸枝の、その瞬間的契機を見るような思いがします。
私が神戸大学を定年退職したのは、二〇一三(平成二五)年の三月でした。それ以来、故郷肥後国の東端大阿蘇の山野に隠棲し、細々と文筆にいそしんできました。そこで巡り会ったのが、同郷の偉人、高群逸枝と石牟礼道子でした。しかし、ちかづいてよく見ると、このふたりが棒でたたかれているかのような、そして、両者を取り持つ橋本憲三にも多くの人から石が投げつけられているかのような光景がすぐにも目に飛び込んできました。この場に出くわした私は、たとえ、ただの通りすがりの一介の旅人にすぎないとはいえ、見て見ぬふりをすることはできませんでした。
いうまでもなく、逸枝の筆の大きさには、はるか遠く届くことはありませんが、それでも、小は小なりの小さきものをもち、たといそれが狭隘なものであろうとも、そのなかには、逸枝の心意気を引き継ぐ、火の国男子の正義感と義侠心とが含まれていることを私は自認します。齢もいよいよ傾き、逸枝に倣って「去りゆかむ去りゆかむと」と思いながらも、煩悩に負け諦観に至らず、見苦しくもいま、「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」を脱稿したのです。この間私は、「千の矢もて刺さる」ことは先刻承知のうえで、たとえ敵が「千万人といえども吾往かん」の孟子の言葉に、そしてまた「義を見てせざるは勇無きなり」の名言にも、しきりと背を押されていたような気がします。
兄の憲三を貶める文を書いたもろさわようこに反論の手紙をしたためた橋本静子は、そのときの思いを、こう書きました。静子は逸枝の義理の妹にあたります。レリーフとは、逸枝と憲三の遺骨が眠る石づくりの墓の左手正面に埋め込まれた、朝倉響子の製作になる浮き彫りの逸枝像のことです。
あたたかい陽ざしの此の頃を、兄夫婦の墓家と下段の私どもの墓家を毎日訪ねています。レリーフによりかかりますと、途端に私は八歳の少女になり「イツエねえちゃん。どうしよう?」とたずねます。「静子さん、もういいのよ。あなたもここにいらっしゃい」と声が返って来たように思いました。人は皆、死ぬことに決まっているのに。「お手紙」を書いたことにこころがいたみます3。
いま私は、この静子の言葉をしみじみとかみしめています。静子同様に、書いたことに後悔がないわけではありません。しかし、書かざるを得なかった気持ちが存在していたこともまた事実です。人はなぜ、決して望んでそうするのではない、このような理不尽な状況に立たされなければならないのでしょうか……。これが、弱い者にとっての避けて通れぬ宿命なのかもしれません。
私の専門は、逸枝が専攻した女性史でも恋愛論でもありません。本来私が研究の対象としているのは、一九世紀英国において、詩人、デザイナー、加えて政治活動家として活躍したウィリアム・モリスの思想と実践についてです。彼の「最期の言葉は、世界から『迷妄』(mumbo-jumbo)をなくしたい」4というものでした。研究者としての私が、実証主義を重んじるのも、まさしく、モリスの「最期の言葉」である「世界から『迷妄』をなくしたい」に由来します。他方で私は、モリスのこの「最期の言葉」こそが、ユートピア的な詩作とアナーキズム的な政治信条における、モリスと逸枝をつなぐ、共通の近代の精神だったのではないかと感じているのです5。私には、できれば自分もこの近代精神の末席に連なりたいという強い思いがあり、いま振り返ると、そうした憧憬が、険しい山や谷を越えながらも、本稿「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」を何とか擱筆へと導いたのではないかと思われます。
以上の論述内容が、私の執筆の動機といまの心境にかかわる側面です。この動機は、本当に正当なものであったでしょうか。加えてさらに踏み込めば、この「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」にかかわるリサーチ・デザイン、つまり、「虐げられた弱き人びと」の特定、「三つの巴」の構図、執筆の目的、記述の方法、そして物語の展開は、果たして適正でエレガントだったでしょうか。その結果、首尾よく、「虐げられた弱き人びと」は確かにここに救済されたでしょうか。思いは尽きません。しかし、これらの問いは、第三者の公正な判断を待つしかないのです。私は、その判断のすべてを、お読みいただいたみなさまの、お一人おひとりの手にゆだねたいと思います。
当初私は、この「結言――結論と考察」を、次の七節で構成することを計画していました。
第一節 高群逸枝の臨終に際しての市川房枝の言動についての私論 第二節 橋本憲三の『高群逸枝全集』の編集手法についての私論 第三節 「日月ふたり」にかかわる瀬戸内晴美の言説についての私論 第四節 栗原弘の「高群逸枝論」と栗原葉子の「橋本憲三論」についての私論 第五節 石牟礼道子の「沖宮」における四郎とあやのモデルについての私論 第六節 岡田孝子と山下悦子の「石牟礼道子論」についての私論 第七節 伝記執筆の要諦についての私論
ところが、本文を書いてみると、実に冗漫なものとなってしまい、これ以上の長大な駄弁を続ければ、読者のみなさまに負担をおかけするばかりとの躊躇の思いに至り、そこで、最初予定していた内容の「結言――結論と考察」をとりあえずここでは諦めることとしました。その結果、その断念は、今後場所を変えて、著作集22『残思余考――わがデザイン史論(上)』の第四部に「『三つの巴』私論集」を新設し、そのなかにあって展開する意向へと姿を変えました。
しかしながら、「結言――結論と考察」として事前に計画していました上の七つのテーマは、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子の伝記を書くうえで、誰にとっても決して見過ごすことのできない、立ち止まってしっかりと考察すべき、極めて重要な主題であるとの考えに変わりはありません。そこで、今後執筆を急ぎ、私自身、自らこのテーマに正面から向かい合い、自分の立ち位置と考えを明らかにしたいと考えています。
したがいまして、それに代わり、本稿の「結言――結論と考察」としてここに取り上げるのが、次の三つの主題です。
第一節 平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子の妣の系譜 第二節 フェミニスト橋本憲三の誕生 第三節 社会史の一分科学としての伝記
これらもまた、本稿「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」の「結論と考察」として取り扱うにふさわしい、より直接的な意味をもつテーマであると考えます。読み手のみなさまの負担にならないように、できるだけ簡潔にまとめたいと思います。
他方、当初また私は、本稿の末尾に「図版」を掲載することも計画していました。しかしこれも、同じ理由から、著作集23『残思余考――わがデザイン史論(下)』第三部「高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子論」の第一話「『三つの巴』画像集」に譲りたいと思います。ご興味をおもちの方は、完成には少し時間を要すことになるかもしれませんが、今後こちらを訪問され、閲覧していただければ、ありがたく思います。
それでは、前置きはそれくらいにして、さっそく、第一節「平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子の妣の系譜」の記述へと入ります。
「平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子」を主題に論じたものに、先行するふたつの研究があります。それは、以下のとおりです。
西川祐子「一つの系譜――平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子」、脇田晴子編『母性を問う(下)――歴性的変遷』人文書店、1985年。 河野信子「『火の国』から『近代』を問い直す――高群逸枝と石牟礼道子」、加納実紀代編『リブという〈革命〉――近代の闇をひらく 文学史を読みかえる⑦』インパクト出版会、2003年。
しかし、これらの研究が発表されたのちの二〇一二(平成二四)年に、石牟礼道子の『最後の人 詩人高群逸枝』が上梓されます。ここではっきりと、インタヴィューに答えるかたちで道子は、「最後の人」が橋本憲三であることを、世に告白するのでした。それには、多くの人が驚愕したものと思われます。といいますのも、石牟礼研究者たちは、『高群逸枝雑誌』に掲載されていた道子の「最後の人」を通じて、これまでに「最後の人」を、こう解釈していたからです。たとえば、西川祐子は、次のように書いています。
石牟礼道子は『高群逸枝雑誌』に「最後の人」の序章、第一章「残像」、第二章「潮」、第三章「風」を連載した。連載は編集責任者であった橋本憲三の死、雑誌の終刊によって中断されたままである。「最後の人」という題名は、文明の最後をみとどける人ととれる。高群逸枝は、人類はしだいに子どもを生まなくなり、やがて寂滅すると、終末を予言したのであった。「最後の人」とはまた、チッソの工場がはきだす産業社会の毒に汚染される水俣の海とさまざまな生命の死を見届ける石牟礼道子その人でもある6。
また河野信子は、「最後の人」を、このように推断していました。
高群逸枝の史料処理をめぐっては、いくつかの錯誤が指摘され、『母系制の研究』からは、十五年戦争中のヒメの力への期待が導き出され、女たちの原記憶の潜在性を浮上させた。これらの事実をめぐって、石牟礼道子は「鬼の首をとったように」(一九九五年十月福岡市アミカスで開かれた「高群逸枝をめぐるシンポジュウム」のレジメ)はしゃぐものではなく、その最も内質である場にこそ、視線を集中させることを提言している。やはり、石牟礼道子にとって「最後の人」は高群逸枝であった7。
上の事例からもわかるように、道子にとっての「最後の人」が橋本憲三であることを指摘した研究者はこれまでに存在せず、それだけに、道子の公言は、石牟礼研究の全面的刷新をも招来しかねない、激震を伴って受け入れられたものと思われます。
そこで、すでに、道子の「最後の人」が憲三であることを知る立場にある私は、そのことを踏まえて、改めてこの主題を考察の対象にしたいと思います。用いる文脈は「妣の系譜」です。
日本における女性史学の創始者である高群逸枝の、その最初の書が、一九三八(昭和一三)年に厚生閣から上梓された『大日本女性史 母系制の研究』でした。逸枝にとっての女性史学開祖の眼目は、かつては日本の原始・古代時代においても女性を中心にした社会が成立していたことを例証することでした。その後「母系制」は、逸枝の説くところによれば、家父長的な男性中心の家制度に取って代わられ、女性にとっての屈辱の時代が進行し、やっと明治期に入り、『青鞜』の発刊をひとつの道標として、新たに女性の時代の幕が切って落とされたのでした。
逸枝が概観する日本女性史を念頭に、本稿「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」を擱筆したいま、改めて読み返してみますと、明らかにそこには、現世の生みの親たる「母」の系列とは異なる、他者に見出した母親たる「妣」の系列が横たわっていました。それが、平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子にみられる「妣の系譜」です。そこで、本稿にあって見出された女三代のこの「妣の系譜」に改めて光をあて、ここに要約しておきたいと思います。
かつて一九一一(明治四四)年九月に『青鞜』を創刊していた平塚らいてうは、高群逸枝の詩集との出会いについて、このように記述しています。らいてうは、逸枝より八歳年長でした。
わたくしが高群さんの存在を知ったのは遅く、大正十五年ごろかとおもいます。ふとした機会に、高群さんの詩集「東京は熱病にかかってゐる」ほか、二、三の彼女の文章を読んだときから、わたくしの魂は、すっかりこのひとにつかまえられてしまいました。 初めて高群さんの著作にふれたとき、四、五日というものは、まるで恋人の姿や声やその言葉一つ一つが、たえず頭のなかを胸のなかを駆けまわるように、高群さんの詩句の断片で、わたくしの心は占められたかのようでした8。
逸枝の『東京は熱病にかゝつてゐる』は、一九二五(大正一四)年一一月に萬生閣から出版された全二五節から構成される長編詩です。らいてうは、『東京は熱病にかゝつてゐる』を読むと、おそらく誰かに、逸枝に宛てた伝言を託したものと思われます。一九二六(大正一五)年の四月、それを受け取って感動した逸枝は、近刊の『戀愛創生』と一緒に、らいてうに一通の書簡を送りました。以下は、その一部です。
長い間今日を期待しておりました。あなたからのご伝言を承ることは私にとりまして当然なことでございます。私はあなたを母胎として生まれてきたものでございますし、私ほどあなたのために、激昂したり、泣いたりしたものがございましょうか9。
『青鞜』が発刊されたとき、逸枝はまだ一七歳の子どもでした。しかし、「新しい女」や「新しがる女」といった蔑称でもって世間から愚弄され、厳しく批判されることに触れた逸枝の魂は、怒りの炎に包まれていたのでした。逸枝の書簡は、次のように続きます。
「人はみな悪人です。私が子供であって、かたきをうつことの出来ないのをお許し下さい」と、私は早い頃、あなたに対していのっていました。それはもう早い昔、あなたが世間から憎まれていらっしゃる頃でした。 それから、事ごとに、あなたのために泣きました。それはもちろん私のためにでございます。私には、ひとの無知が、くるしかったのです10。
この短い一文から、らいてうの苦しみを自分の苦しみとして引き受け、「かたきをうつ」ために、そしてまた「ひとの無知」を瓦解させるために、その後の逸枝の、女性史研究という険しい学問への道は用意されたのではないか、そのようなことが想像できます。つまり、この文が暗示しているのは、らいてうが『青鞜』の創刊の辞として発した「元始、女性は實に太陽であつた」という仮説を、学問としてはっきりと実証してみたいという、逸枝の胸に深く刻まれた思いではないでしょうか。そうであれば、このときすでに逸枝には、詩人から学者へと向かう己の必然的な道筋が明確に見えていたにちがいありません。といいますのも、逸枝は、こう書いているからです。
私は学問が偏見を破る大きな武器であることを知った。……固定観念や既成観念への、火の国女性的なたたかいも、このへんからはじまった11。
それはそれとして、上で紹介した一九二六(大正一五)年四月の逸枝かららいてうへの返信には、このような一節も書かれてありました。
あなたの伝記を書くことのできる、たった一人の存在が、私であることさえも、私はかたく信じています。私はもしかしたなら、あなたご自身よりも、もっとあなたをいい現わすことができるかも知れません。なぜなら、私はあなたの娘ですもの。あなたの血の純粋な塊が私ですもの12。
それから三一年の歳月が流れます。一九五七(昭和三二)年一二月、逸枝は、らいてうに宛てた手紙で、こう書くのでした。『女性の歴史』(下巻)のなかの第五章第二節の「先駆者平塚らいてう」の項(四百字詰め原稿用紙で八八枚)を書き終えたときのことです。
らいてう伝を書くことは、私の年来の願いでしたが、いまこれを著書のなかで果たすことができました。思い切ってページを割き、心に祈って公平と的確を帰し、全力をあげて歴史的意義づけを試み、あなたに献ずる私の彰徳表を書きました。私はいまひどく愉しい気持ちです13。
さっそく、らいてうから応答文が届きました。らいてうもまた、逸枝と同じく、このとき「ひどく愉しい気持ち」に浸っていたものと思われます。「先駆者平塚らいてう」は、明らかに娘が書く母親像だったのです。
翌一九五八(昭和三三)年七月に発刊された『女性の歴史』の続巻をもって、四巻からなる逸枝の「女性の歴史」は完結しました。前代未聞の偉業として世に讃えられました。そうした燦然と輝く評価を受けて、「望郷子守唄」の詩作から八年と二箇月が立った、逸枝の六八歳の誕生日でもある、一九六二(昭和三七)年一月一八日に、逸枝の出生の地である熊本県の松橋町において「望郷子守唄」の碑の除幕式が執り行なわれました。この式典には、逸枝もそうでしたが、平塚らいてうも、体調かなわず、参列できませんでした。そこで、教育長の白木満義が、らいてうからの長文の挨拶文を代読しました。それは、このような言葉ではじまります。
高群逸枝さんを生んだ、この松橋町――ことに、四歳から九歳までのもつとも大切な性格形成期を過ごしたと思われる、この寄田神社の境内に、地元青年方の純真な願いから出た御企画で、地元有力者の方々のご協力により高群さんの歌碑が建ちましたことは、ふるさとの自然と人とを限りなく愛していられる高群さん御自身はもとより、高群さんを敬愛しております友人達も、よろこびと感謝にたえない次第でございます14。
らいてうは、逸枝の『母系制の研究』と『招婿婚の研究』の業績に触れます。
女性史学と云うのは、高群さんの言に従えば、「女性の立場による歴史研究の学問」でありますが、日本に於ける母系制の存在と、それの父系制への推移の過程を資料によつて観察し研究したこの二大著述は、婦人を圧迫しその人格を無視してきた家父長制度が、決して太古から日本に存在した絶対的なものでないことを、実証したものであります15。
それから、かつて自身が発刊した『青鞜』へと話題をつなげるのでした。
これによつて、わたくしが五十年前婦人雑誌「青鞜」の創刊に際し、「元始女性は太陽であつた、今女性は月である」と訴えたあの詩的表現に、はじめて科学的な裏付けが与えられたわけでございます16。
これは、明らかに母親が娘に贈る賛辞でした。つまり、母から子への、「全力をあげて歴史的意義づけを試み、あなたに献ずる私の彰徳表」だったのです。
それから六年後の一九六四(昭和三九)年の六月七日、逸枝は帰らぬ人になります。そのとき石牟礼道子が、「高群逸枝さんを追慕する」と題された追悼文を『熊本日日新聞』に寄稿します。これは、道子が『苦海浄土 わが水俣病』の作者として名を成す少し前の文です。それでは以下に、「高群逸枝さんを追慕する」のなかの一節を引用します。
高群逸枝氏が、その女性史の中で、まれな密度とリリシズムをこめて、ほかに使いようもないことばで「日本の村」と書き、「火の国」と書き、「百姓女」と書き、「女が動くときは山が動く」と書いたとき、彼女みずからが、古代母系社会からよみがえりつづけている妣(ひ)であるにちがいない。(注=妣は母)17
末尾の括弧書き「注=妣は母」の文字は、道子のもともとの原稿にあったのか、編集作業中に付け加えられたものなのかはわかりませんが、これをきっかけに、道子の内面にあって、逸枝をもって自分の妣/母とみなす慕情の念が徐々に醸成されてゆきます。こうしてこの時期、道子は、逸枝の夫の橋本憲三に寄り添いながら逸枝の志を継ぎたいとする願望を固く胸に秘めるのでした。逸枝亡きあとの、新たな物語が、ここに開幕します。
石牟礼道子の地元の水俣には、徳富蘇峰が寄贈した淇水(きすい)文庫と呼ばれる図書館がありました。ここで偶然にも道子は、逸枝の『女性の歴史』(上)に出会うのです。これは、当時苦悩のなかにあった道子にとって天地振動に匹敵するものでした。道子はこう書きます。
それまでの家庭生活にくらべてあまりに世界がちがうのに圧倒され、特殊資料室の大書架に誘われてたたずむうちに、ふと夕日の射している一隅の、古びた、さして厚味(ママ)のない本の背表紙を見たのである。「女性の歴史・上巻・高群逸枝」とある。われながら説明のつかぬ不可思議な経験というよりほかないが、夏の黄昏のこの大書架の一隅の、背表紙の文字をひと目見ただけで、書物の内容については何の予備知識もないのに、その書物がそのとき光輪を帯びたように感じられた。つよい電流のようなものが身内をつらぬいたのを覚えている。そのため、しばらくその書物を手にとることがためらわれた。ややあって、なにかに操られるような気持ちでそれを手にとるとかすかな埃が立った18。
時は「夏の黄昏」。高群逸枝が亡くなるのが一九六四(昭和三九)年の六月ですので、このときの『女性の歴史』(上巻)との出会いは、逸枝が亡くなる前年の、つまりは一九六三(昭和三八)年の夏の出来事ということになります。「ハットして読みふけりましたが、興奮しましてね。かねてから私が思っていることに全部答えてある。それですぐ高群逸枝さんに手紙を書きました。そしたら逸枝さんは一カ月くらいして亡くなられました」19。
資料的には、その後の道子の行動を一部始終正確に跡づけることは困難ですが、結果として、道子は憲三と巡り合い、そして、逸枝と憲三が暮らしていた東京都世田谷区にある「森の家」へと出立するのでした。一九六六(昭和四一)年の憲三の日記には、こう記されています。このとき憲三は、逸枝の三回忌(二周年)にあわせて、姉(橋本藤野)と妹(橋本静子)の住む水俣に帰省していました。
五月一六日 静子と石牟礼さん訪問。 六月七日 二周年。……石牟礼さんお花。/ささやかな法事。読経。 六月八日 午後石牟礼さん。世田谷にいきたいといわれる。ごいっしょしていいとはなす。 六月二九日 15じ11分きりしまで出発、一週二週で帰水の予定。石牟礼さん同道。帰りはべつべつか20。
上の日記にあるように、六月八日の午後、道子は憲三に、「森の家」がある「世田谷にいきたい」と懇願します。しかし、その理由や目的については何も書かれてありません。この間の状況から判断すれば、おおよそ道子は、次のようなことを憲三と静子に伝えたのではないでしょうか。「尊敬する逸枝先生を慕いながら、再び自分は逸枝先生を妣として『森の家』で生まれ変わり、これからの後半生を憲三先生の後添いとなって、逸枝先生とともに過ごしてゆきたい、静子さんを立会人として――」。そのように推測する理由のひとつには、道子が「森の家」で書いた日記の冒頭に、次のような文字が並んでいるからです。「彼女」は、当然逸枝を意味します。
わたしは 彼女を なんと たたえてよいか ことばを選りすぐっているが 気に入った言葉が見つからないのに 罪悪感さえ感じる …… わたしは彼女をみごもり 彼女はわたしをみごもり つまりわたしは 母系の森の中の 産室にいるようなものだ21。
別の箇所で道子は、こうも書いています。
私には帰ってゆくべきところがありませんでした。帰らねばならない。どこへ、発祥へ。はるか私のなかへ。もういちどそこで産まねばならない。私自身を。それが私の出発でした22。
こうした文面を読むにつけ、産室としての「森の家」で、敬愛する妣なる逸枝の子宮に一度帰着し、そこから再び自分が生まれ落ちる――そのことへの道子の避けがたい衝動を、そこから感じ取ることができます。自分の出自、育った家庭環境、そしていまの結婚生活、そのすべてを産湯に洗い流し、別のもうひとりの「石牟礼道子」としてこの世に再誕生、つまりは再生を成し遂げる――何にもましてそのことを、道子は無心に願望していたのでした。
道子は、憲三について、こう吐露します。
ほとんど宿命的にかかえこんでしまった故郷水俣の出来事についても、同郷のよしみで直感的に把握していられた。その上突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動をも、たぶん理解されていたのだっただろう。静と動との極点を、わたしはゆきつもどりつせねばならなかった23。
このなかの、「ほとんど宿命的にかかえこんでしまった故郷水俣の出来事」とは、水俣病のことを指します。水俣病との対峙、そして逸枝と憲三への恭順、このふたつが、道子の内面を駆け巡っていました。まさしくこの時期に形成された両要素が動力となって、こののちの道子の生涯を先導することになるのです。道子は、それについて、以下のように分析しています。
水俣のことも、高群ご夫妻のことも、一本の大綱を寄り合わせるかのごとき質の仕事であった。二本の荒縄をよじり合わせて一本の綱を作る。人間いかに生きるべきかというテーマを、二つのできごとは呼びかけていた24。
ここに引用した文は、そののちの道子の生涯を規定する極めて重要な言説であるように思われます。といいますのも、人間のいのちと暮らしについての無自覚な生後体験から、民衆へ寄せる私的かつ詩的な独自のまなざしへの昇華、――そしてその、まさしく着床された土着的魂に導かれて描かれる普遍的な人類族母の史的再生。これが、その後の石牟礼文学を通底する「人間いかに生きるべきかというテーマ」の原像ではないかと考えるからです。
「産室」となる「森の家」でのふたりの生活がはじまりました。七月三日の日記に、「昨夜、というより今晩(一時)憲三氏(以下K氏と書く)より、ノートの御許し出る」25とあります。これは、尊敬してやまない憲三と逸枝を主人公とする伝記執筆のためのノートを意味します。この伝記は、水俣へ帰郷後、まず「最後の人」と題されて『高群逸枝雑誌』に連載され、そして最終的に、道子が八五歳のときに、『最後の人 詩人高群逸枝』として書籍化されます。それを思うと、まさしく道子の生涯は、これよりのち、「最後の人」とともに歩んでゆくことになるのでした。
同じく七月三日のノート(東京日記あるいは森の家日記)には、こう書かれています。
今夜更に高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った。それは橋本静子氏に対する手紙の形で(つまり、静子氏を立会人として)あらわした。午前三時これを書き上げる26。
その手紙は、次のようなことも書き記されていました。
うつし世に私を産み落とした母はおりましても、天来の孤児を自覚しております私には実体であり認識である母、母たち、妣たちに遭うことが絶対に必要でした。…… つまり私は自分の精神の系譜の族母、その天性至高さの故に永遠の無垢へと完成されて進化の原理をみごもって復活する女性を逸枝先生の中に見きわめ……そのなつかしさ、親しさ、慕わしさに明け暮れているのです。そして私は静子様のおもかげに本能的に継承され、雄々しいあらわれ方をしている逸枝先生のおもかげを見ます27。
この文からわかることは、現世の生みの親たる「母」と、他者に見出した母親たる「妣」との、ふたつの母系を、道子が認識していることです。そうしますと、道子にとっての「妣」が逸枝で、逸枝にとっての「妣」がらいてうということになります。
奇遇にも、「森の家」滞在中に道子は、憲三に連れられ、らいてう宅を訪問します。以下が、らいてうの印象を描写した道子の一節です。
らいてう氏はやはり飛びぬけた女性。うしろ姿に優雅さの衰えぬ人である。「ベトナムが、ああいうことになりまして」という御挨拶。水の流れの中に水があるように、すいと自分の使命感を前に押し出す、するとみんなも流れていくという風である28。
憲三はらいてうに、道子をどう紹介したのでしょうか。興味がもたれるところですが、残念ながら調べる限り、資料には残されていないようです。しかし、この出会いは、らいてうにとっても、印象深いものだったようです。「森の家」の整理がすみ、道子も憲三も、水俣に帰り、逸枝を顕彰するための『高群逸枝雑誌』の刊行にとりかかります。一九六八(昭和四三)年の一二月三〇日に書かれた、らいてうから憲三に宛てて出された手紙は、「お妹さまにも、今ちょっとお名前が浮びませんが御地の高群さん研究家のあのご婦人にもよろしくお伝え下さいませ」29という言葉でもって結ばれていました。「お妹さま」が静子で、「あのご婦人」が石牟礼道子であることは、明らかです。
その手紙は、翌一九六九(昭和四四)年四月一日発刊の『高群逸枝雑誌』第三号の「たより」の欄に、掲載されます。内容は、「森の家」の跡地に建設予定の「高群逸枝記念碑」に関するものでした。らいてうの体調がすぐれないなかにあっても、「高群逸枝記念碑」の建立の準備は進められてゆき、逸枝の没後五周年に当たる一九六九(昭和四四)年六月七日に、「高群逸枝記念碑」の除幕式が挙行されました。式典では、建碑世話人として一五名の名前が読み上げられました。そのなかには、平塚らいてうや渋谷定輔の名前がありました。健康がすぐれず上京できなかった憲三に代わって、友人の渋谷が遺族の挨拶文を読み上げます。碑の表には、逸枝自筆の詩章が刻印され、裏には、渋谷が原案を起草した、由来記がはめ込まれました。
その後も、らいてうと憲三の手紙のやり取りは続きます。次も、憲三のもとに届いたらいてうからの手紙です。「……まだ自伝もなかなか書き上がりませんが、老齢のため手術は出来ないものらしく、気長に治療をする覚悟をしております。〈渋谷区千駄ヶ谷 代々木病院より〉」30。それに対して憲三は、一二月一二日の日記に、「平塚さんにおみまい状(代々木病院三階病棟)」31と書いています。そして、年が明けた一九七一(昭和四六)年五月二四日、らいてうはその人生に幕を閉じたのでした。
このように見てきますと、「母系制」や「女性の歴史」には、ふたつの異なる女系ないしは族母が存在することがわかります。ひとつは、現世の生みの親たる「母」の系列です。もうひとつは、他者に見出した母親たる「妣」の系列です。逸枝が書いた『母系制の研究』は、前者に属する「女系」に焦点をあてた研究書です。しかし、『母系制の研究』執筆の前後の時代にあって、後者に属する「女系」が形成されていました。これが、平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子による「妣の系譜」です。
逸枝は、何ゆえにらいてうの娘を自認して生きたのでしょうか、道子は、何ゆえに逸枝を妣として生き直しをしたのでしょうか、そのとき男である憲三の役割は何だったのでしょうか――こうした事例は、古代から現代まで、途切れることなく存在する可能性があります。果たして、女性は太古からこのかた、どう生きてきたのでしょうか。「母」を内部にもち、ひとつの「宿命」を自覚して生きる族母たちがいる一方で、「妣」を外部にもち、いのちの「再生」を待って生きる族母たちがいるのも確かでしょう。ここに、もうひとつの「母系制の研究」の学問的地平を見るような思いがします。
以上が、私が「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」を書いたことによって得られたひとつ目の収穫でした。ふたつ目の収穫は、フェミニストとしての橋本憲三に気づいたことです。これにつきましては、節を改め、次の「フェミニスト橋本憲三の誕生」において詳しく論じたいと思います。
橋本憲三を「フェミニスト」として断定した資料は見出すことはできませんが、「新しい男」という言葉でもって、憲三の生き方を表現した資料は残されています。
一九七四(昭和四九)年九月、早稲田大学教授の鹿野政直と妻で女性史家の堀場清子とのふたりが、橋本憲三が住む水俣を訪問しました。その二年後の一九七六(昭和五一)年五月に憲三が亡くなると、鹿野は追悼文「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」を『朝日新聞』に寄稿し、そのなかに「新しい男」の文字が現われるのです。以下にその文の一部を引用します。
わたくしは橋本氏に会って、氏がじつに編集者的な感覚に富んでいるのを発見したが、有能であったにちがいないその仕事をすてて、妻の仕事のささえ手にまわった。家事を一切ひきうけたばかりでなく、資料さがしにでかけ、生活設計をし、研究の方向に助言をあたえ、妻のかいたものの最初の読者となり批判者となった。さらに、おしよせる世間のまえに、一人でたちはだかった。彼女の作品には、今日ふつうに思われているよりはるかにふかく、その夫がかかわりあっている。橋本氏の編集者的な才能はその妻に向かって集中し、彼女のプロデューサーになった、というのがわたくしの観測である32。
そして末尾を、以下の文で締めくくります。
こういう生涯があったということに、やはりわたくしは、大正期のデモクラシーの機運の一端をみとめずにはいられない。そうして氏は、日本女性史に少なからず貢献をなしとげたのだった。と同時に、もし日本男性史(・・・)というものが書かれるとしたら、橋本氏は、既成の男性像を身をもって否定した人間として(否定のかたちは、必ずしもそれが唯一ではないにせよ)、いわば「新しい女」にたいする「新しい男」として、位置づけられるのが至当ではなかろうかと、わたくしは、氏をいたむ念とともに夢想する33。
これから一年が過ぎ、鹿野政直と堀場清子の共著で『高群逸枝』(一九七七年、朝日新聞社)が世に出ます。そのなかにあって堀場は、三年前に水俣を訪れた際に受けた憲三の印象を、こう書いていますので、その箇所を紹介します。
逸枝没後、すでに十年がたっている。その日の暮らしにも困るほど、貧しいのでもない。それでいて、亡妻をたたえ、その業績を顕彰するほかに、なに一つ眼中にない男というものを、私は珍しく眺めた。四十余年の日本の暮らしと、短い外国生活のどちらでも、一度も見たことのない種類の男だった。新しい女はいても、新しい男はいないと、それまで私は思っていた。その考えが、この時変った。やっぱり、それもありうるのだな、と34。
堀場にとっては、憲三との初対面は、「珍獣」を眺めるような思いだったようです。しかしながら、堀場はこのとき、憲三に「新しい男」を発見したのでした。
もっともそれは極めて少数の事例であって、高群逸枝を対象として書かれた小説や伝記の多くが、その夫憲三に、まるで名誉を毀損し、人権を無視するかのような、罵詈雑言を浴びせかけてきたことは、「緒言」の第一節「本稿に登場する虐げられた弱き人びとについて」のなかで、すでに言及したとおりです。その文脈に照らしてみますと、憲三を「新しい男」とみなす鹿野政直と堀場清子の文は、確かに、ある特定の立場に立つ人には、同意しがたい異質なものに映るようです。といいますのも、調べる限り、その後に筆を執ることになる伝記作家で、このふたりが書いたこの箇所に触れた人はいないからです。なぜ誰しもが、「新しい男」の存在に目を閉じたがるのでしょうか。しかし、私自身の目には、鹿野のこの指摘と、堀場のこの発見は、極めて妥当なものに映り、ここに私はそれを受け入れたいと思います。とはいえ、憲三が「新しい男」であることを例証する事象を、もはやここで一つひとつ取り上げることはいたしません。理由は単純明快で、私は、いま書き上げた拙稿「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」に、そのすべてを担わせているからです。
そうはいっても、次の逸枝、静子、道子の三人の実に明瞭な言辞だけは、どうしてもここに書き残しておきたく思います。
まず紹介する以下の作品は、『妾薄命』のなかに所収されている逸枝が詠んだ歌です。
憲三が妻の逸枝は芹摘みに 憲三は窓に 窓には梅の花35
本文においても書いていますが、この歌は、極めて示唆に富みます。といいますのも、「逸枝が芹を摘み、憲三が窓辺にいてそれを待つ」情景を、「逸枝が原稿を書き、台所にいながら憲三がそれを待って編集する」情景へと置き換えるならば、どうでしょうか。逸枝と憲三とのあいだの、前代にはほとんど見ることのなかった革新的な夫婦の役割分担の形式がほのかに見えてくるからです。それは、のちに静子が「もろさわよう子様へ」で書くことになる以下の証言と完全に合致します。
憲三は他の多くの男性と同じく……男性上位の体質でした。……或る日、女性の位置まで降りて来たのです。そして、男女が同等のところで住んで見れば、居心地よくてたのしくて、有頂天になって暮らしたのです。二人には、男の仕事、女の仕事という区別はありませんでした36。
次の引用は、逸枝が静子に宛てて書いた手紙の下書きの一部です。
主人のすゝめで、いまの仕事をはじめた時から、私は一身上の娯楽も名利心もすてゝしまい、戸外一歩も出ないで暮しています。主人は私にあらゆることを教え、指導し、また日本にない「女性史」を二人で一生かゝって書き上げようとしているのです。だからこの仕事は、名前は私ですが、主人と私の合作です37。
そして最後に、道子の文を引いておきます。イザイホーの祭儀からインスピレイションを得て書き記されたものです。
逸枝がいう憲三のエゴイズムは、男性本来の理知のもとの姿をそのように云ってみたまでのことであったろう。その理知とは究極なんであろうか。久高島の祭儀に見るように、上古の男たちは、懐胎し、産むものにむきあったとき、自己とはことなる性の神秘さ奥深さに畏怖をもち、神だと把握した。そのような把握力のつよさに対して女たちもまた、男を神にして崇めずにはおれなかった。そのような互いの直感と認識力が現代でいう理知あるいは叡智ではあるまいか。 憲三はその妻を、神と呼んではばからなかった38。
以上に紹介した逸枝、静子、道子の言葉から、もはや憲三が「新しい男」であったことを疑う余地はないものと確信します。
それでは、「フェミニスト」の現在の用例は、どうなっているのでしょうか。男性に対して「フェミニスト」の用語をあてた事例を、私の研究範囲のなかで見出そうとしますと、フィオナ・マッカーシーの『ウィリアム・モリス――われわれの時代のための生涯』に求めることができます。日本語訳があるかどうかは確認していませんが、その原著は、以下のとおりです。
Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Fabe and Faber, London,1994.
この本のなかで、フィオナ・マッカーシーは、モリスは「フェミニストであったにちがいない」39と書いています。ここで使われている世界的用語法としての「フェミニスト」とは、男性、女性、性的少数者を問わずいずれもの性が、いっさいの偏見も差別も受けることなく、その多様な生き方と諸権利において平等かつ対等でなければならないことを主張する人すべてを指します。
「緒言」でも述べていますが、私自身も、この立場に立っています。改めて私の信じるところを短くまとめると、こうなります。男性/女性、健常者/障害者、そして性的多数者/性的少数者の二項の関係において、一方が他の一方の尊厳や名誉を傷つることに強い抵抗感をもっています。まして、正当な理由も確かな証拠もなく、身勝手にも容赦なく分断と排除を行なおうとする、「反フェミニスト」の人たちの行為には、許しがたいものを感じます。私自身の用語法に従えば、「フェミニスト」は、すべての偏見と差別に対して異議を申し立て、そこからの解放を求めて闘う人たちの一群を意味し、その一方で、「反フェミニスト」は、それへの逆行を企てる反動的な人びとを指し示します。
当然のことながら、誰であろうと人は、不当な偏見も差別も受けず、尊厳を保って安寧な生活を営む権利を有しますし、それを法は保障します。したがいまして、「フェミニスト」という語が、男女の垣根を越えて、不当な社会的文化的抑圧からの解放と自由とを求める人間のすべてに適用されることを至当とするならば、いまや「フェミニスト」は、女性だけに限定されて使用される用語ではなくなるのです。まして「フェミニズム=男性批判」という偏った図式も、ここではもはや成り立ちません。つまり、男性であろうと女性であろうと、その性に関係なく、真の「フェミニスト」たちは、偏見と差別を助長する「反フェミニスト」の言動に敵対し、批判の声を上げるのです。
いうまでもなく、私がこの拙文を用意したのも、「反フェミニスト」に対しての抗議の一環によるものでした。私の目には、「緒言」の第一節「本稿に登場する虐げられた弱き人びとについて」のなかで取り上げた小説家や伝記作家が、「反フェミニスト」として映りました。そこで私は、かかる「反フェミニスト」の言説が今後もさらに続くことを憂慮し、それに歯止めをかけることに思いを集中したのでした。もっとも、本人たちは、自分自身を「フェミニスト」とも「反フェミニスト」とも、規定しているわけではありせん。また彼らには、論じた人を傷つけてしまったという加害の意識もないでしょうし、したがって、責任の自覚もおそらくないにちがいありません。強者とは常にそういうものであると思います。しかしながら私は、偏見と差別によって「虐げられた弱き人びと」を生むに至った彼らの書き残した歴史的資料を見て、そう判断し、こうした論理と用語法を独自に用いるのです。因みにこのことは、私の視点に立てば、次のような類推的思考の一場面を引き寄せます。
石牟礼道子は、自身の伝記の最後を、次の言葉で結びました。
近代合理主義という言葉があるが、そういう言葉で人間を大量にゆるゆると殺されてはたまらない。そういうことがゆるされていけば、次の世代へ行くほどに、人柱は「合理化」という言葉で美化されていくだろう40。
これは、水俣病に苦しめられた人びとを念頭に書かれたものであると思われます。しかしながら、この構文は、他者の言説に苦しめられた道子自身を含む、みぢかな周囲の人びとの立場を言い表わす表現として使うことも可能です。「近代合理主義」を「フェミニズム」に置き換えれば、こうなります。「フェミニズムという言葉があるが、そういう言葉で人間を大量にゆるゆると殺されてはたまらない」。おそらくその言葉でもって「ゆるゆると殺されて」しまったのが憲三その人であり、同時に、その人を愛する周りの逸枝、道子、藤野、静子の女性たちだったのではないでしょうか。しかし、このとき展開された「フェミニズム」は、私の思料するところによれば、逆説的に聞こえるかもしれませんが、明らかにその本質は、「フェミニズム」の本義を逸脱したうえに「フェミニズム」の名を利用した「反フェミニズム」だったのでした。道子の言葉を借りるならば、「そういうことがゆるされていけば、次の世代へ行くほどに、人柱は『フェミニズム』という言葉で美化されていくだろう」。「フェミニズム」という良識的範疇にうまく身を隠し、先験的で無条件的な男性批判あるいは弱者批判にみられる「反フェミニズム」の悪意が一部に根強く介在している限り、逸枝、憲三、道子、藤野、静子の五人の死者の剥奪された名誉も人権も、もはや永久に回復されることはないでしょう。意識的であったのか無意識的であったのか、それはわかりませんが、本来差別を否定するはずの立場がいつのまにか反転して、差別を生産する立場へと変貌するそのおぞましさ――正直にいって、私の感じ取る虚無と、なさざるを得ない抵抗とが、そこにあったのでした。
岡田孝子は、憲三の評価を巡って、こう書きます。
石牟礼道子に師と慕われた橋本憲三だが、彼への評価は意外なほどに否定的なものが多い41。
憲三が死去して今年(二〇二五年)の五月で四九年が過ぎます。この間、鹿野政直と堀場清子の夫婦が、憲三に「新しい男」を見出した以外には、上のごとく述べる岡田孝子を含め、誰も憲三の生き方を正当に評価する者はいませんでした。それどころか、侮辱とも侮蔑ともとれる言葉でもって、あたかも「醜い男」であるかのように憲三を描写してきました。私がここに、「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」を書いたのも、「反フェミニズム」の本質部分をそこに同定し、その欺瞞性を明らかにするためだったのです。
モリスは「フェミニストであったにちがいない」というフィオナ・マッカーシーの言葉に接して以来、私は、富本一枝の夫の富本憲吉も、高群逸枝の夫の橋本憲三も、「フェミニストであったにちがいない」と直観するようになりました。しかし、富本一枝の伝記作家も、高群逸枝の伝記作家も、そのほとんどは女性ですが、それを認めることなく、ある場合は事実を曲げてでも、またある場合は証拠をいっさい示すことなく、「フェミニズム=男性批判」という極めて矮小化された視点から、実に短絡的にそれぞれの夫を嫌悪していたのでした42。私の義憤はそこにありました。かつて「フェミニズム=男性批判」という強迫観念がこの狭い日本にあって一時期支配したことがあったかもしれませんが、しかし今日に至るや、フェミニズムを巡る新たな世界の潮流からすれば、それはとっくに、過去の残滓となっているのです。あえていえば私も、ウィリアム・モリス、富本憲吉、橋本憲三の列に加わりたいと思います。
その観点に立って私は、本稿「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」を書きました。成功しているかどうかの判断は、読んでいただいた人びとの手にゆだねなければなりませんが、書き終わったいま、鹿野政直が指摘した、「日本男性史(・・・)というものが書かれるとしたら、橋本氏は、既成の男性像を身をもって否定した人間として……いわば『新しい女』にたいする『新しい男』として、位置づけられるのが至当ではなかろうか」という文言が、ある種鮮明な輝きをもって蘇ってきました。といいますのも、私は「緒言」の第三節「本稿執筆の目的と記述の方法について」において、統合された「男女史」にかかわる今後の伝記執筆の方向性を展望していたからです。その際、私の研究者としての姿勢は、いままさに始動しようとしている、新しいフェミニスト・アプローチによる「男女史」を迎え入れていました。それといいますのも私は、その手法にあっては、いかなる性も対等かつ平等であるという立場から、潜在的に沈殿する一方的な思い込みや決めつけによって恣意的に書き手によって歪められることなく、すべて一次資料に依拠し、ある一定の時代と空間にあって、ある男女がどのようなかたちでかかわったかを再現することによって、愛や平和、その対極にある偏向や分断の諸力が明白に構造化されることになるであろうとの期待に、そのとき到達していたからです。これが、私をして「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」の執筆に向かわせた学術上の魅力のひとつとなっていました。換言すれば、この執筆は、いわば地に埋もれている「フェミニスト橋本憲三」を、刷り込まれた差別からいっさい解放して発掘し、その彼と「詩人、アナーキスト、学者高群逸枝」とを、そしてまた、その彼と「詩人、作家、環境保護活動家石牟礼道子」とを、対等な同列に置いたうえで、両者間に働いていたであろう社会的文化的力学の実際を再検証する旅でもあったのです。鹿野は、「彼女の作品には、今日ふつうに思われているよりはるかにふかく、その夫がかかわりあっている」といいます。それを転用すれば、同じように、「石牟礼の作品には、今日ふつうに思われているよりはるかにふかく、逸枝の夫であった憲三がかかわりあっている」ということができます。つまり私は、この稚拙な文にあって、このふたりの女性にとっての「フェミニスト橋本憲三」の真の歴史的役割とその内実とを見定めたかったのです。その成否は別にして、他方でこの旅は、伝記とは何かという切実な問題を私の執筆姿勢のなかに招来したことも事実でした。そこで、伝記執筆の本義に関して、さらに次の第三節の「社会史の一分科学としての伝記」において、引き続き、検討したいと思います。
私の専門の主要なパートがウィリアム・モリスの思想と実践についての研究であるため、伝記とは何かという問いに対して、私がその答えを用意できるのは、どうしてもその研究分野からということになります。
モリスという人の活動領域は、詩人、デザイナー、政治活動家、経営者、環境保護活動家と多岐にわたり、したがってそれゆえに、その研究は、必然的に、文学、デザイン史、政治学、経営学、環境論といった多様な分野から、個別的に、そして精緻さを伴って進められてゆくのが現状となっています。ところが、学問上の、ないしは実社会上のある契機を得ると、この間の個別研究を統合するかたちをとって、フル・スケールの伝記が世に出ることになります。そして、それを転機として新たな知的枠組みが創出されると、今度はそれを信頼できる前提として、再び個別研究の深化が進んでゆくのです。つまり、英国におけるモリス伝記の出現にあっては、蓄積された個別研究の重要な結節点として、だいたい一〇年あるいは二〇年の単位でもって出現する、そうした傾向が認められるのです43。
モリスが亡くなったのは、一八九六年です。これを起点として今日まで、モリス研究は途切れることなく進んできました。マイナーな小伝や評伝の類は数限りなくありますが、本格的なフル・スケールの伝記は、おおよそ以下のものではないかと思います。
(1) Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897, 462 pp.
(2) J. W. Mackail, The Life of William Morris, volume I and Ⅱ, Longmans, Green and Co., London, 1899, 375 pp and 364 pp.
(3) E. P. Thompson, William Morris: Romantic to Revolutionary, Lawrence and Wishart, London, 1955, 908 pp.
(4) Philip Henderson, William Morris: His Life, Work, and Friends, Thames and Hudson, London, 1967, 388 pp.
(5) Jack Lindsay, William Morris: His Life and Work, Constable, London, 1975, 432 pp.
(6) Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986, 328 pp.
(7) Gillian Naylor ed., William Morris by himself: Designs and writings, Macdonald & Co (Publishers), 1988, 328 pp.
(8) Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, 780 pp.
以上が、モリス没後のこの百年間にあって公刊された主要なフル・スケールの伝記です。いずれも、その浩瀚さには瞠目すべきものがあり、ことに戦後出版された三番以降のもののレファランスの完璧さには、学術書の神髄を見るような気がします。ここでは、六番から八番までの直近の三つの作品に注目したいと思います。といいますのも、ここに、伝記とは何かを考えるうえでの幾つかの新しいヒントがあるように思われるからです。いずれも、英国の女性伝記作家による仕事です。ジャン・マーシュは、ヴィクトリア時代の芸術と女性の生き方に関心を寄せる現役の独立研究者です。独立研究者でデザイン史家でもあったフィオナ・マッカーシーは、先年亡くなりました。この間ふたりとも、ウィリアム・モリス協会の会長を務めました。ジリアン・ネイラーもすでに没していますが、長く客員教授として王立美術大学とヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で教鞭をとったデザイン史家です。
それでは最初に、リストの第六番に挙げていますジャン・マーシュの Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938 を取り上げて論じることにします。ウィリアム・モリスの伝記において、はじめてフェミニスト・アプローチが持ち込まれたのが、この書物でした。ジェインはモリスの妻で、メイはその夫婦の娘です。以下は、その本の「序文」の書き出しです。少し長くなりますが、フェミニスト・アプローチの本質部分を描いた箇所でもありますので、ここに引用しておきたいと思います。
この本は不公平に対する義憤の念から執筆されたものである。本屋や図書館の書棚に行けば、この物語に登場する三人の主要な男性であるウィリアム・モリス、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョージ・バーナード・ショーの著作や彼らについての研究書を多数見ることができる。彼らは極端に注目されすぎていると考える人もいるかもしれないが、彼らが注目されるのはそれなりにわかる。彼らが生きた時代の文化史を考えれば、これらの男性は重要で著名な人物であるし、彼らはそれぞれ研究に値する莫大な芸術上の仕事をしているのである。彼らの絵画、デザイン、演劇はいまでも展示され、複製され、上演されているし、学術的な批評や論文、著作やテレビ番組の主題ともなっている。また彼らの伝記はいまなお執筆され、出版されている44。
続けてマーシュは、モリス、ロセッティ、ショーの周辺に存在する女性たちは、単なる彼ら男性たちの「端役」であり、決して重きが置かれてこなかった経緯を、こう指摘します。
こうしたなか、彼らの人生にかかわってきた女性たちは完全に忘れ去られてしまっているというわけではないにしても、感情面でのあるいは家庭のうえでの「端役」として、副次的で隷属的な役割を与えられるに止まっている。しかしそれももっともなことであると論じることもできるだろう。というのも、後世の人間がこの男性たちの人生を興味深く思うのも、また、当然にも私たちが絶え間ない注目を注ぐのも、それは彼らの芸術上の業績に対してであり、決して彼らの個人的な人間関係に対してではないからである。それに比べると、女性たちの役割は副次的なものであった(・・・)。つまり、ときには男性たちを照らす光明ではあったとしても、基本的にはあまり重要な存在ではなかったのである。モリス、ロセッティ、ショーがいなかったならば、誰もジェイン・モリスやメイ・モリスの名前など耳にもしなかったであろう45。
こうした経緯に対して、マーシュは、フェミニストたちの考えを代弁して、次のように、言葉をつなぐことになります。
そうはいってもしかし……。フェミニストたちは歴史書のすべてが男性についての歴史であることを飽きることなく指摘している。人間族の残りの半分がほとんど無視されてきた。そしてまさに、いま挙げた論拠こそ、無視の本質的な部分をなしているのである46。
一方私が、Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938 を、友人とともに翻訳出版しようとしていたとき、来日したジャン・マーシュが数日拙宅に滞在したことがありました。そのときマーシュは、原著執筆時の意向について、私の書斎のパソコンに向かい、次のような文を書きました。
第一のねらいは、「公的」生活に対置されるところの「私的」生活の問題を真剣に取り上げ、公的あるいは専門的業績について論評するのと同じくらいに、個人の私的な振る舞いについても論議することである。換言するならば、過去の人びとが家庭にあって、どのように家人や使用人などに対して振る舞ったかということである。私の考えでは、こうしたことは公的生活と同様に調査し探求する価値があるように思われる。学問の世界では、この種の知識は社会史のなかの逸話として登場するが、しかしそれでも、そのほとんどが個人を基調としたものではない。伝記の場合、個人こそが注目の焦点をなすものであり、私にとっては、そうした個人の生活が大きな関心となっている。…… 第二のねらいは、ストーリーテリングつまり伝記の「読みやすさ」に関するものである。……伝記というものは絶対的に厳密に確認可能な事実に肉薄しなければならないものである以上、自分で勝手に物語をつくり変えることはできない。したがって、おもしろく読める本にするためには、筆力に頼らなければならない。つまり物語るための構成や登場人物の性格づけや語りの調子である。私の考えでは、あまりにも多くの伝記が、読者を退屈させるだけの、生気のない単なる年代記となっているのである。…… したがって私が興味をもっているのは、第一にさまざまな女性の生活を発掘することであり、第二に政治的社会的文脈であり、第三にそして重要な点であるが、筆力の質なのである47。
ここに、偉大な男性の影となって隠れていた女性の存在を発掘し、歴史のなかに再配置しようとする、フェミニスト・アプローチの本義があるといえます。これは、「女性史」の学問的確立へ向けた一展開ともいえますが、その一方で、闇からの女性救済の結果のその先にある、「男女史」や「家族史」への発展へ向けた、ひとつの契機となる側面を有するものでもありました。もし日本のフェミニスト・アプローチが、本来求められるべき「フェミニズム=女性発掘」という学問的関心にさえも至らず、その手前の単なる「フェミニズム=男性批判」という感情的な陥穽に落ちたままいまだ抜け出すことができないでいるとするならば、ここに英国と日本の伝記作家の今日的な大きな姿勢の開きを認めざるを得ません。英国にあっては、「フェミニズム=男性批判」の偏狭の季節はとっくに過ぎ去り、もはや女性に限定されることなく、男性を含めて広く、忘れ去られてきた人びと、貶められてきた人びと、弱い立場や少数の状況に立たされている人びとに積極的に照明をあて、その構造の可視化を図りながら、それらの人びとを歴史のなかに取り戻す作業が進行しているのです。もちろんこうした志向に対して批判的な人がいることも確かです。しかし、ある意味でこれが、一部の権力者や支配者の歴史から離れて、結果的には「人類愛」と「人類史」の先駆けとなって、いつかは遠くない未来に花を開かせてゆくことになるのではないでしょうか。私はそう確信します。いずれにいたしましても、大事なことは、実際に記述に向かう前に、まずは己の立場や思想の全貌を鮮明にすることであり、とりわけ歴史家である伝記作家には、そのことが強く問われているといえます。といいますのも、伝記自体、ある時代のある地域に生きた人間の生涯が、社会的、文化的、政治的、経済的文脈から描き産み落とされる学問的作物であるからです。私が「緒言」の第一節において「虐げられた弱き人びと」の存在を特定したのも、そして、かかる人びとの歴史的救済を本稿の目的にすえたのも、すべて、そのことと関わっていました。それではそれは、どのような方法を用いれば可能になるのでしょうか。
それにつきましては、「フェミニスト・アプローチ」に加えて、伝記執筆におけるさらにもうひとつの本義に相当する、実証主義という立場がありますので、以下に、それとの関連で、リストの七番に挙げていますジリアン・ネイラーの作品を論じてみます。ジリアン・ネイラーの William Morris by Himself: Designs and Writings を訳せば、『本人が語るウィリアム・モリス――デザインと著作』とでもなるでしょうか。実際、その内容は、モリスのデザインと著作(書簡類を含む)とが多数援用されながら、その生涯がどのようなものであったのかが概観できるように工夫されています。伝記書法上の新鮮なひとつのモデルが、ここに提示されているのです。着目すべきことは、好き勝手に「書き手が語る」のではなく、「本人が語る」、つまりは「歴史的証言に語らせる」伝記となっていることです。
過去に実在した人物の生涯を描くということは、どういうことでしょうか。それは、あくまでも事実に肉薄した、そして追検証が可能な学問的作物でなければなりません。逆のいい方をすれば、決して虚偽を構成したり、検証不能であったりしてはならないのです。そのために、関連する人物および事象にかかわって、限りなくエヴィデンス(証拠となる一次資料)を渉猟し、十全にそれを援用して描写することが、伝記作家に厳しく求められることになります。つまり換言するならば、いかなる立場の伝記作家であろうとも、等しくそのみなに、かくして、実証主義のもつ絶対的信頼性に対する承認が、はっきりと求められることになるのです。
ジリアン・ネイラーの作品には、その先例となるものがありました。それは、リストの第一番に挙げていますエイマ・ヴァランスの William Morris: His Art, his Writings and his Public Life です。遺族に配慮して、いっさいの個人生活の記述は省かれ、ほぼ全文、モリスの書き残した言葉をつなぐかたちで構成されています。私は、これらふたつの伝記の記述手法に関心をもってきました。といいますのも、伝記文学の形式が確立しているといわれている英国とは異なり、これまで日本で出版された伝記にあっては、一般的にいって、歴史記述とも現代批評ともいいがたい、しかも虚実がない交ぜとなった言説が著者自身によって進んで開陳される傾向がしばしば見受けられてきたからです。しかし、上記の二著は、著者自身が多くを語るのではなく、モリス本人に自身の生涯を語らせようとしています。換言すれば、明らかに、客観性と真実性を可能な限り担保するために、著者による多弁と能弁が抑制され、本人が語る事実と現実とが優先されているのです。私が、ジリアン・ネイラーのこの書物から学んだのは、この点にありました。
最後に、リストの第八番に挙げていますフィオナ・マッカーシーの William Morris: A Life for Our Time を取り上げて論じてみます。ここから何を学び取ることができるのでしょうか。
「序文」のなかで、このように語る著者の一節がありますので、引用しておきます。
モリスに関する最近の書物は、専門家としての立場からモリスについて見解を述べる傾向にありました。私たちはすでに、マルクス主義からのモリス像、ユング心理学からのモリス像、フロイト派精神分析からのモリス像をもっています。そしていまや、モリスはグリーン主義者から賞讃されています。理論が積み重ねられてゆくことによって、モリスの「全体的な」パーソナリティーは見えにくくなっています。私は、このプロセスを逆転させて、彼を解き放し、そのうえで彼を記述したいと思いますし、もし可能であれば、モリスの最初の伝記作家であるJ・W・マッケイルが一八九九年に見事な二巻本として出版した『ウィリアム・モリスの生涯』以来、誰も試みていない方法でもってモリス神秘の一端を見定めてみたいと希望しています48。
このことが意味することは何でしょうか。伝記は、その主人公が芸術家であれば、芸術史の一部と考えることもできますし、主人公が女性であれば、女性史の一部と考えることも可能です。しかし、最も大きなくくりでいえば、社会史の一端を担う、重要な歴史研究としてみなすことができるでしょう。周知のとおり、とりわけ一九七〇年代以降の英国では、諸学の刷新が求められてきました。「新しい美術史」や「新しい博物館学」が唱えられ、新たな「デザイン史学」や「文化学(カルチュラル・スタディーズ)」も誕生しました。この刷新のうねりは、社会史にも押し寄せます。次の引用は、一九九三年に刊行された『社会史を再考する』のなかからの一節です。
イギリスの社会史研究は、およそこの四半世紀のあいだに歴史学のひとつの大きな分野として確立してきたものである。……イギリスの歴史学で用いられる場合「社会史」という用語は、異なるも関係しあう次の三つのアプローチを包含している。第一は、人びとの歴史。第二は、社会科学から導き出された概念を歴史的に適用することのなかに見出される、私が「社会=歴史のパラダイム」と呼ぶところのもの。そして第三が、「全体の歴史」ないしは「社会の歴史」と呼ばれている、全体化もしくは統合化の歴史への志向49。
ここからもわかりますように、このとき「社会史」に求められようとしたのは、「著名人の歴史」ではなく「普通の人びとの歴史」であり、他方、「分断化あるいは細分化された歴史」ではなく「全体化あるいは統合化された歴史」であったといえます。フィオナ・マッカーシーが「序文」に書いている、「理論が積み重ねられてゆくことによって、モリスの『全体的な』パーソナリティーは見えにくくなっています。私は、このプロセスを逆転させて、彼を解き放し、そのうえで彼を記述したいと思います」という文言は、明らかに、当時「社会史」に求められていた刷新内容と軌を一にします。本文を読むと、そこには、出生、家庭環境、教育、勉学、恋愛、結婚、性生活、家事、家計管理、妊娠、出産、育児、イデオロギー、政治参加、仕事、労働、友人、趣味、介護、死、葬送などの、普通の人びとにとっての生涯にわたる項目が、そのときの社会、文化、政治、経済といった諸々の文脈に沿って、全体的に統合されて書かれてあり、その点に私の知的関心は大きな刺激を受けたのでした。そこで私は、伝記というものは、個人礼賛に資するためにその人の仕事と人生にかかわって狭く描かれるよりも、その人を含む家族全体の諸関係を基礎に、統合された生涯が描かれることの方が、産出される情報の学問的価値は高いのではないかと考えるようになりました。つまり、フィオナ・マッカーシーの著作から私が得たものは、今後伝記は、社会史(あるいは社会文化史)の主要な一部として、ひとつの複合組織である男女ないしは家族に焦点をあてて描かれる、純正の歴史書となるにちがいないという新しい視座だったのです。
以上、直近のモリス伝記を例にとりながら、伝記のあるべき姿を論じてきました。そこから浮かび上がってきた重要な視点は、次の三つに要約できます。つまり、フェミニスト・アプローチ(弱者の発掘)、実証主義(思弁の排除)、そして、統合された人びとの歴史(全体史の希求)の三点です。私はこれを、「社会史の一分科学としての伝記」と呼びたいと思います。
考察の結果上に得られた結論を前提に考えますと、事実とは大きく異なる虚構空間に実在の人物を投入し、そのなかでマリオネットよろしく書き手が自在に操る小説のごとき手法は、決して適切な描画法とはいえません。他方、実在人物の言動を都合よく利用し、書き手個人の強い思いを一方的に割り込ませようとする過度な評伝的手法もまた、同じく適切とはいえません。描写する歴史は真実であってこそ、人はそこから安心して多くの知識と教訓を得ることができ、そのことが大前提となって、英国の伝記文学という形式は成り立っているといえます。英国にあって、過去の実在人物の歴史を知るうえで小説の形式よりも伝記の手法の方が好まれる理由が、ここにあるのです。さらに付け加えるならば、人物批評ないしは作品分析は、伝記とは別の相に属しているという理解も、一般的に定着しています。決して安易な混同は許されないのです。
改めて原則論になりますが、伝記作家が、実証や論証から離れて、作文や創作の形式によって虚像を作成すれば、主人公の尊厳と人格を傷つけることになるだけではなく、真実を求める読み手さえも裏切ることになります。歴史家は、常に事実に対して謙虚に頭を垂れる責務があります。事実を、自分の好みや都合で身勝手に変質させてはならないのです。それは、歴史自身を冒涜する行為であると、私はかたく信じます。これがすべてです。
それでは最後に、もう一言、申し添えます。
実証主義を重んじる歴史家である私は、一部にみられる、日本のこうした風潮がどうしても看過できず、事実上自身の最後の台詞を新作能「沖宮」に言い表わした石牟礼道子、その舞台となった天草灘海底の〈沖宮〉にともに眠る、道子の「最後の人」たる橋本憲三、大妣君の高群逸枝、加えていのちの妣たちである橋本藤野と橋本静子の亡き五人の、傷つけられ苦しめられた御霊を慰める立場から、「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」を書きました。副題は「妣たちの天草灘〈沖宮〉異聞」です。そして最後に、そこから得られた思いを三つの観点に要約し、「結言――結論と考察」として、何とかここに書き表わすこともできました。ここまで書けたことを、私はいま、うれしく思っています。こうしてできたこの作品は、その意味で、名もない一介の火の国男子が捧げる、彼らへのささやかなる鎮魂歌となります。どうか安らかにお眠りください。それにしても、実に長い歳月をかけた〈沖宮〉への巡礼の旅でした。しかしそれも終わり、これをもちまして、その旅装を解かせていただきます。
旅路にあって沿道のいろいろの方から、ありがたくもときおり、お声をかけていただきました。決して忘れることはありません。しかしながら未熟な私ゆえ、横道に逸れたり、迷子になったり、足がもつれて倒れかかったり、決して平坦な道のりではありませんでした。その結果、要領を得ない、長々しく読みにくい駄文となってしまいました。それにもかかわらず、最後までお付き合いいただきました読者の方々に、こころよりお礼申し上げます。ありがとうございました。また、資料の提供をいただきました、熊本県立図書館、熊本市立図書館、鹿児島県立図書館、日本近代文学館、および国立国会図書館の各館に対しましても、ここに、深甚なるお礼の言葉を申し添えます。ご協力をいただけなかったならば、この拙文が世に出ることはありませんでした。こころから感謝いたします。ありがとうございました。
(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、2頁。
(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻、62頁。
(3)橋本静子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、100頁。
(4)Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986, p. 232. [ジャン・マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年、313頁を参照]
(5)このことにつきましては、中山修一著作集22『残思余考――わがデザイン史論(上)』の第三部「高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子論」に所収の第一話「高群逸枝にとってのウィリアム・モリス」においてすでに言及していますので、必要に応じて、参照してください。
(6)西川祐子「一つの系譜――平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子」、脇田晴子編『母性を問う(下)――歴性的変遷』人文書店、1985年、188頁。
(7)河野信子「『火の国』から『近代』を問い直す――高群逸枝と石牟礼道子」、加納実紀代編『リブという〈革命〉――近代の闇をひらく 文学史を読みかえる⑦』インパクト出版会、2003年、246頁。
(8)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、305頁。
(9)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年(第1刷)、233頁。
(10)同『高群逸枝全集』第九巻、同頁。
(11)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、62頁。
(12)前掲『高群逸枝全集』第九巻、234頁。
(13)同『高群逸枝全集』第九巻、442頁。
(14)『高群逸枝』「高群逸枝を顕彰する会」発行、2014年、11頁。熊本県立図書館所蔵。
(15)同『高群逸枝』、同頁。
(16)同『高群逸枝』、同頁。
(17)石牟礼道子「高群逸枝さんを追慕する」『熊本日日新聞』、1964年7日3日、6面。
(18)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、12頁。
(19)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、439頁。
(20)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、153頁。
(21)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、244-245頁。
(22)石牟礼道子「高群逸枝との対話のために(1)まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 3、1967年9月、1頁。
(23)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、12頁。
(24)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、287頁。
(25)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、247頁。
(26)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。
(27)同『最後の人 詩人高群逸枝』、248-249頁。
(28)同『最後の人 詩人高群逸枝』、261頁。
(29)「たより」『高群逸枝雑誌』第3号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年4月1日、28頁。
(30)「たより」『高群逸枝雑誌』第11号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1971年4月1日、30頁。
(31)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、167頁。
(32)鹿野政直「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」『朝日新聞』、1976年6月7日、夕刊5面。
(33)同「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」『朝日新聞』、1976年6月7日、夕刊5面。
(34)鹿野政直・堀場清子『高群逸枝』朝日新聞社、1977年、63-64頁。
(35)高群逸枝『妾薄命』金尾文淵堂、1922年、136頁。
(36)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、13頁。
(37)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、311頁。
(38)石牟礼道子「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、99頁。
(39)Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, p. vii.
(40)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、303頁。
(41)岡田孝子「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、203頁。
(42)このことにつきましては、中山修一著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』の第三編「伝記書法私論――批判と偏見を越えて」に所収の前編「私の著述に向けられたある批判に関連して(その一)」と後編「私の著述に向けられたある批判に関連して(その二)」においてすでに言及していますので、必要に応じて、参照してください。
(43)このことにつきましては、中山修一著作集9『デザイン史学再構築の現場』の第六部「伝記書法を問う――ウィリアム・モリス、富本一枝、高群逸枝を事例にして」に所収の第一編「伝記書法論(1)――モリスの伝記作家はその妻をどう描いたか」においてすでに言及していますので、必要に応じて、参照してください。
(44)Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986, p. xi. [ジャン・マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年、16頁を参照]
(45)Ibid., p. xi.[同書、16-17頁を参照]
(46)Ibid., p. xi.[同書、17頁を参照]
(47)ジャン・マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年、436-437頁。
(48)Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, p. viii.
(49)Adrian Wilson ed., Rethinking Social History: English Society 1570-1920 and Its Interpretation, Manchester University Press, Manchester and New York, 1993, p. 1 and p. 7.