中山修一著作集

著作集18 三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子  妣たちの天草灘〈沖宮〉異聞

第三章 幻視――「日月の上に座す」天才詩人高群逸枝の出現

第一節 憲三の「神経衰弱」と逸枝の「感情革命」

青年と少女の語らいを戯曲風に構成した憲三の短文に「山の挿話」があります。ちょうど逸枝が四国巡礼の旅から帰熊しようとしていた時期に書かれたもので、一九一八(大正七)年一〇月五日の『人吉時報』(五面)に掲載されました。以下は、そのなかの一節です。

青年 さようなら 小鳩。

少女 ほんとに貴朗あなたはいらつしやるの。

青年 私は私の生活を始めなければならない。

少女 貴朗は妾の胸から、美とローマンスを奪つてお仕舞ひなさるんですわね。

青年 私にはしなければならぬ、もつともつと重要な仕事がたくさんあるんです。

少女 それでは、そのために哀れな女の全生活を否定しても構はないつて仰有るんですの。

青年 どうぞ許してお呉れ。私は私のエゴイズム(利己主義〇〇〇〇)を憎む。しかし、私の生活を犠牲にすることはできない。

これは、明らかに青年と少女の別れの場面ですが、あたかも城内校での憲三と逸枝の三箇月に及ぶ新婚生活の終焉を先取りしているかのような暗示的な文になっています。それでは実際には、城内校での生活が破綻したのち、憲三と逸枝のそれぞれは、どのようなことに時間を費やしたのでしょうか、それを見てみたいと思います。

一九二〇(大正九)年八月二九日の『九州新聞』四面に掲載された憲三の「末人像(一)」は、「私は一年振りに彼女に會ひに出掛けた。」ではじまり、「かうして一年たつた。」で終わります。つまり、この「末人像(一)」には、一九一九(大正八)年一一月に逸枝が城内校を去って払川の実家にもどってから、憲三が翌年の夏に払川に逸枝を訪ね、単身逸枝が出京するまでのおよそ「一年」が記述されているのです。創作文ですので、細部に関しては事実と異なる箇所があるかもしれませんが、大筋としては、ほぼこのとおりだったのではないかと思われます。それでは、「末人像(一)」の記述内容を幾つかの断片に分けて、以下に引用することにより、この間の憲三の動きを要約することにします。

 私は一年振りに彼女に會ひに出掛けた。
 私はその間、自分の病氣にすつかり氣を腐らして苛苛してゐた。私は勿論彼女のことを敢て忘れ得る程の勇氣と、餘裕はなかつたが、さてそれでは、一體どうしたらいゝか、になるとまるで分らなかつた。それは、其の頃の私にはどうせ歯が立たぬ問題なのであつた。私には第一力が不足してゐた。第二に名案がなかつた。第三に誠意に缺けてゐた。

それでは、ふたりが約束していた東京行きはどうなるのでしょうか。

 私達は其の前に、いつしよに出京することに話を決めてゐたが、それは私の思ひ掛けなかつた病氣によつて、見事に頓挫して仕舞つた。

それでは、日々の暮らしは、どのようなものだったのでしょうか。

 私は先づ何よりも自分の健康を恢復することを、私及び私達の幸福の爲めに痛切に感じたが、それさへなまけ者には誠意がなかつた。私は最初の間こそ殊勝にも出來るだけ冷水摩擦と、運動と、散策とを實行したが、此の大して面白くもない世の中に、一體何の望みがあるのか、と考へると自分のお目出たと、未練と、卑怯とが氣恥しくなつて、それから一も二もなく止して仕舞つた。そしてついでに醫師の熱心な勧告と、周到な注意までも斥けて、自分の暗い陰氣な部屋に閉じ籠つたまゝ、只管に黄色い雑念と、青白い妄想の中に、徒に摂生夢死の快を貪りとつた。

それでは、その病気とは、何だったのでしょうか。

 これはいゝ體格だ、とかつて或る體育家は私の身體に折紙をつけて呉たことがあつた。そして私のかゝりつけの醫師は、あなたの身體は割合にいゝのですよ、と保證して呉れたが、私の病氣-神経衰弱はますます嵩じて行くだけがおちであつた。

それでは、彼女への思いは、どうだったのでしょうか。

 私は自分の運命に對して、何れも不服を云ふ譯はなかつたが、それでも或るときひそかに不覚の涙を流した。私は彼女を唯、切に愛してゐる事實は、流石に私を悲しませずにはおかなかつた。……
 私は、滅多に手紙を書かなかつた。私の思ひは鬱した。愛することは誠に苦しいことだ、と私は思つた。かうして一年たつた。

こうした闘病生活のなかにあっても、憲三は、教師としての勤務は続けていましたし、「自分の暗い陰氣な部屋に閉じ籠つたまゝ」小説の執筆にも向かっていました。この間憲三は、『九州新聞』に、「寂」「餘寒」「山彦」の三つの小説を連載しています。実に多産です。

「寂」は、家族のそれぞれがこれまでに経験した病気や事故の様子が断片的に描写されています。母は病に倒れたことがありました。姉は入院を経験します。必ずしも家庭には、常に明るい陽ざしが差し込んでいるわけではありませんでした。

 かうして家には、彼がたまたま・・・・歸つて來ても、彼を悦ばせることは何れにもなく、やつと飯だけが、母の手で焚かれるだけで、汚れた着物を始末してくれるものさえなかつた。
 それで、彼は戀人に會ひに行く時などは、よく留守中の兄の着物を借つたりした

さらに話は、次弟と末弟のことへと進みます。

 彼はそれから、一番末の弟が樹から落ちて、怪我をしたとき、たつた一度歸つたことがあつた。
『我既に一眼を失ひぬ。次弟既に一耳を失ひぬ。末弟今また一脚を失わんとするか。……急遽彼を病床に訪はむとす。我が心暗然。』
 しかし、彼は、弟の顔を見ると、すぐ歸つてしまつた。そして、それきり、彼は家との直接の交渉を絶つてしまつた

そしていまの心境について、こう語ります。「殊に戀人が彼をひとり、冬まで残して去つたことは、彼を殆んど寂寥のどん底に投げ込んだ」

「我既に一眼を失ひぬ」と語る憲三は、加えて、幼い日、仲のよかった妹を事故で失っています。自身はかつて、肺結核の診断を受けて就職に支障をきたしたこともありました。加えていまや、憲三のもとを逸枝は立ち去り、引き換えに「神経衰弱」の病が襲いかかっているのです。さらには山里の冬の寒さが、いやがうえにも憲三の寂寥に忍び寄ります。

同じ時期に逸枝は、『九州新聞』に短歌を寄稿します。そのなかから、以下に二首、紹介します。憲三へ向けた思いが込められているとの解釈も可能でしょう。

此の獨想ひ波打ち野べをゆき
こころ久しこころ彼方に

しらたまの乙女心は晴れがまし
小鳥と共に誰を思はむ

そうしたなか、『人吉時報』が「橋本憲三君及び同夫人逸枝女史」を報じ、ふたりのこれからに大いなる期待を表明するのでした。以下はその全文です。

現代に於ては鐡幹、晶子、古くば星厳、紅蘭、その他曰く、何々、云ふだけが野暮なるべし、天下後世をしてわが球磨を知らしむるには我が橋本氏夫妻の力を借らずんばある可からず、吾等は橋本氏夫妻ある事を以て我郡より大西郷を有するよりも、白頭首相を有するよりも、ロイド、ジョージを有するよりも、ウイルソンを有するよりも光榮に感ずるものなり、近く手を携へて御上京の由、君が一管も筆により洛陽の紙價九天の高きに至るべし

こうして憲三と逸枝の記念すべき約婚の年は往き、一九二〇(大正九)年の正月が来ました。憲三は一〇日に二三歳の、逸枝は一八日に二六歳の誕生日を迎えます。続く一月二七日から『九州新聞』において憲三の「餘寒」の連載がはじまりました。「餘寒(四)」には、こうした一節があります。当時の憲三の心境の一端を表わしている部分ではないかと思われますので、次に引用します。

 彼はもう暫く机に向はない。それを思ふとたまらなく淋しかつた。彼には彼が今しようとしてゐることより他に、まだしなければならない仕事が澤山あつた。彼は書くと云ふことよりも、讀むことや、考へることや、観ることを多くしなければならなかつた。そして、何よりも先づ自分の生活を豊かにしなければならなかつた

「餘寒」が完結すると、逸枝の連作詩が『九州新聞』に掲載されます。「古い扉」と題された五連からなる自由律の詩です。以下に奇数の連を紹介します。

古い扉よ
誰も知らない王宮の
春風の日のお前に凭れよう。

そして妾は
有名な女詩人となり
蜜と三日月とを空想しよう。

そこで私は
古い扉よお前に言はう
誰もゐないしお前は尊いと

「古い扉」は何を象徴するのでしょうか。憲三その人かもしれません。もしそうであれば、憲三を尊敬し、その胸にもたれかかって、いまや女詩人となって自分は世に出たいという気持ちが表出された作品として、この詩を読むことができます。その一方で、詩型にも変化がみられます。この時期、逸枝の身に、のちに詳しく述べるように、詩作への態度の変化を含む、「感情革命」が起こっていたのです。

他方、「餘寒」に続く憲三の『九州新聞』における連載小説は、「山彦」と題された作品でした。あたかも、逸枝の「古い扉」に呼応するかのような表現箇所がありますので、その部分を、次に書き止めます。一歩家から踏み出そうとしたときに襲ってきた想念が描かれています。

 彼は遊んでゐる方の手で、あわてて、一寸眼鏡を直しながら、ばちぱちと眼をしばたたいた。
『おれは忘れちやいないのだ。』
 彼は頭を振つた。
『おれは決して、勝手に、おれひとりの夢を見てゐる譯ではないのだ。』
 彼は歩き出しながら、片頬を掌で押へた。
『おれは、お前に済まないといふことはよく知つてゐる。しかしおれはおれをもてあましてゐるのだ。一體、此の自分自身をさへ信用し切れないでゐるやうなおれに何が出來るといふのかね。』
 日が素直に落ちて行つた。彼は何か拍子抜がしたやうな氣がしてひよいと首を縮めて、さて頬に當てゐた手を離した

「自分自身をさへ信用し切れないでゐるやうなおれに何が出來るといふのか」――私には、これこそが、憲三がこれまでに逸枝に対して示してきた態度の根底を形成する部分であるように感じられます。つまり、生きるということにかかわって、そして、対人関係において、さらには家族の一員として、常に憲三は、自信を喪失した状態で、そして何とかそれに耐えながら、自らの生を紡いできていたのではないでしょうか。自身の左眼の失明、神経衰弱の病、家族の数々の不幸の耐えがたい重みを必死に支えるための行為が、彼にとっての執筆活動だったにちがいありません。城内校で新婚生活を送っているとき、逸枝は、自分が憲三に送った手紙を、焼き捨てることなく、小説の素材にするために憲三が残していたことに、「はずかしさと腹だち」を感じながらも、決してそれを責めることはありませんでした。ここから判断しますと、逸枝は、憲三の苦しみの内実と小説執筆へと向かう衝動との両者に存する関係性をはっきりと理解していたものと思われます。しかし、そうはいっても、逸枝の心情は決して穏やかではなかったようです。実際憲三に、こうした内容の手紙を送っていた可能性があります。以下は、「山彦」からの引用です。

 私どもの戀は、もう腐りかかつてゐるのでは御座いませんかと存じます。切つて棄つべき時が到頭やつて來たのだと思はれます。
 それだけです。外には何にも御座いません。今、此のまゝで簡単にお別れいたします。御返事はどうぞ下さいますな、すると御承諾下さつたものだとお認めいたすのですから。ね、さうして下さい。兩親達には、だけど黙つてゐませうね。でないと大變うるさいのですから。くれぐれもそれをお願ひいたします10

本心から別れを願っているようにも読めますし、自分のつらい気持ちを理解して、優しい言葉の手紙がほしいと訴えているようにも読めます。果たして、逸枝と憲三の関係は、修復できるのでしょうか。

憲三に「神経衰弱」の症状が出ていたこの時期、一方の逸枝にも、城内校から実家にもどり出京するまでのあいだに、大きな変化が派生していました。逸枝はそれを「感情革命」と呼びます。それではこれより、「感情革命」とはどのようなものだったのか、それを再現してみたいと思います。逸枝は、このように書いています。

 球磨から帰ってから東京に出るまでの約十ヵ月間に、私は奇蹟的ともいってよいかも知れない感情革命をとげ、それが一時に大量の作品となってあらわれた11

この「感情革命」が起こる前段として、詩作にかかわるふたつの階梯がありました。第一段階は、「雲、山、水のなかに溶け込んで、その一景物のような姿で充ち足り、その稟性は愛と平和に貫かれていた」12作品で構成されていました。次が、その代表的な作例です。

人なつかし わが世なつかし いまはわれは
泪こぼして 山の上にあり

椿の花 拾いて仰ぐ ひとひらの
白雲飛ぶや 飛ぶやいずこまで13

しかし、憲三との恋愛がはじまり、それが深く進行するにつれて、自ずと作風に変化が訪れます。これ以降、第二段階に入ります。「結納」から四日が立った、一九一九(大正八)年四月一八日の『九州新聞』(六面)に「酔に乗じて」と題して逸枝の短歌八首が掲載されます。以下は、そのなかの二首です。

燃ゆる燃ゆる 燃ゆる焔に 身をよせて
とけて流れて 仆れるゝも好し

殺されむ 殺してやらむ 血の情け
血の情けかも 血の情けかも

さらに一箇月後の五月一八日の『九州新聞』(六面)には、「甘いいのち・・・」の詩題のもとに五首が掲載されます。以下は、そのなかの三首です。

かなしみの やむにやまれぬ 胸のうち
甘いいのちを 何とせうぞの

たつぷりと 甘いいのちに 身を窶つし
花を一と枝 酒を一と壺

酔ひしれて 泣けば暮春の 花が散る
甘いいのちを 何とせうぞの

この「甘いいのち・・・」には、前文が付されています。「わが唄は常に辞世の唄にしてわが命は常に旦夕に迫るわが異常なる天才は斯して空しく亡びむ」。注目すべきは、ここに「天才」の文字を使っていることです。かつて熊本女学校時代に教師に、「お前は天才ではない」と、たしなめられ、逸枝は崩れ落ちる思いを経験していました。そしていま、ようやく自分を「天才」の高みにおいて認識するようになったのでした。

それから三週間後、『大阪朝日新聞』に掲載された柳澤健による「婦人を待てる文壇」が、逸枝の目に止まりました。それには、このような文字が並んでいました。

女性解放といふことは、単に夫から家庭から妻を解放するといふこと許りではない、また、工場の勞働時間や賃銀に關すること許りではない。それよりも、世界と文化の上から見てもつと大切なことは、男性の息の籠りすぎた精神生活の雰圍圏のなかゝら、女性を解放することである。換言するならば、優れたる閨秀作家が燦びやかな姿をもつて混雜してゐる男性の群の上に匂やかに現はれきたることである14

これを読んだ逸枝は、さっそく柳澤に手紙を書き、手製の詩集『白白白』を送りました。そのなかには、こうした歌が収められていました。

吹く風の 白白白の 大揺れに
消えて消るる 夕映さの徑

底に泌む 溶けし桃いろ 樹の光り
大揺れに揺れ 陽は揺れに揺れ15

これらの逸枝の詩に対する讃美の辞が世に出るのは、翌年(一九二〇年)に刊行される柳澤健の『現代の詩及詩人』のなかの一節「高群逸枝子」まで待たなければなりませんでした。

それにしても、逸枝の「白白白」のイメージは、どこから来ているのでしょうか。逸枝は、憲三への手紙のなかで、「今、妾の心は白紙ですの。娘の妾は騎士のあなたによるのですの」と書き、四国巡礼を漂泊の旅と称し、「愛の黎明」の初回の文の題名に「告白」の文字を使い、そして、そののち逸枝は、死と重ね合わせながら白骨を主題に詠います。連想できるのは、「白紙」「漂泊」「告白」「白骨」です。そこで、これよりのち天才詩人として世に出る逸枝に、私なりの手向けとして、次の愚作を献じることをお許しいただきたいと思います。

漂泊に いざ白色の われを詠む
白骨と化す 明日待たずして

そして、さらに二首を加えさせてください。

野にいでて 風とたわむれ 花を摘む
いざ月昇る 秋の夕暮れ

野の乙女 愛の誠は あの太古
思いに遺る 体に宿る

城内校での新婚生活とその破綻は、逸枝の成長と詩作に大きな衝撃を与えました。いよいよここに至って、第三段階に相当する「感情革命」が生まれ出るのでした。

これは不思議なことだった。私はたびたびいったように、文学を知らず、興味もなく、この種の本はまだ数えるほどしか読んでいなかった。それでKのところで文学についての概論や解説や内外の小説、戯曲、詩などを読んだのであるが、とくにKが押しつけた『沈鐘』を読んだことは、私には大きなショックだった。
 これが感情革命の導火線となったのだった。
 作中の森の姫ラウテンデラインは、私のうちに眠っていた「火の国の女」をよび覚まして、これを表面化させた。ここに私はKを忘却し、私自身となった。それは結果としては「女体の成熟」をめざす方向をもつものだった16

さらに逸枝は、こう続けます。

 球磨から帰ってくると感情革命とともに、山の乙女の女体は成熟し、その精神は悲鳴をあげて生き悶え、人生のむざんな露骨な表現への苦悩、それのひきおこす思想的相尅、もう一ついえば家の貧乏等に、山の乙女の私は、あるときはか弱く抵抗し、あるときは進んで対応し、跳ね飛び、あるときは打ち仆されて死骸となった。常識も、自己防衛も断絶した17

そしてついに、逸枝にとっての新しい詩型が誕生します。次も逸枝の文です。

 まさに一飛躍だった。陶酔の山の乙女はここにきて冷厳な観照派となり、さらに異様な四次元的な抽象的世界へ入り込もうとする気はいさえみせはじめた。こうして、山の乙女の生活情緒は、ついに短歌の定型(三十一文字)からはみ出し、破調(自由律)の短歌となった18

続けて逸枝は、その作例として、この時期につくった、次のような不定型の短歌を紹介します。

人の声野の声人の声
道遠く秋響す

きょうの日は暮れぬ
まずよろこばむきょうの日を

沈まば沈め赤い日よ
ではランプをつけよう

このとき逸枝が獲得したのは、約束事で成り立つ定型ではなく、束縛のない自由型でした。これをさらに発展させれば、もはや短歌から離れ、長編の物語詩の世界へと分け入ることになります。そうした世界の一端を、のちに公刊する『日月の上に』(一九二一年、叢文閣)に見ることができます。

かくして逸枝は、「女体は成熟し」「Kを忘却し」、ひとりの女として「私自身となった」のでした。このことはまた、逸枝の「女性論」への開眼を意味します。「感情革命」は、ひとり詩作にかかわる自己変革だけではなかったのです。この時期逸枝は、まさしく「女性変革」を求めて声を上げたのでした。その主張は、「婦人時言」と題して『九州日日新聞』に登場します。これは四回の連載物で、一九一九(大正八)年一二月九日六面の「一、分裂」にはじまり、休載なく、翌一〇日六面の「二、自覺」、一一日六面の「三、智識」、そして一二日六面の「四、自由」をもって完結します。それでは「婦人時言」から、各回の柱となる部分を以下に短く引用して、逸枝の主張するところを構成してみたいと思います。

昔婦人は槪して社會的にも家庭的にも一般道徳から考へて見て奇麗に解決が着いて居た[。]夫れが色々の原因から少しづゝ破壊されて光と闇とが同時に押し寄せて來た。……今や直覺の夫れ自身と他より投影されたる夫自身の複雜微妙な關係や其の關係を諦視せむとする夫れ自身の努力は吾々をして底知れぬ深淵へ投込つゝ有るのです。[「一、分裂」より]

第一生きてゐる事を吾々は知つてゐますか、なぜ母性保護の必要が有るのです、なぜ選擧權獲得の必要があるのです、なぜ騒いでゐるのです、一番恐ろしい事は未だに混亂し分裂し苦悶しつゝある内部的不安が外界の露骨な潮流に餘儀なくされて器械化し人形化し奴隷化して行く事です[。]
[「二、自覺」より]

現在の吾々にとつては先づ何よりも智識です、と恁う申すのです。智識は一面から見て、もとより形式で有り手段で有りませう[。]然るに其の形式手段が所謂内容目的に及ぼす力、所謂内容目的を誘道啓發する力、所謂内容目的を新範疇にまで厖大せしめる力、もう一歩進んで所謂内容目的を構成し輪廓する力をお考へ下さい[。]
[「三、智識」より]

斯の如く觀じ來れば自由とは卽ち一個の「自己保安」に基調する人間的主觀の概念で有つて常に正しき自己を中心とする篠理ある雰圍氣に外なりません[。]かゝる見地よりして吾々は飜へつて吾々婦人の現在生活に於ける自由を考へたいと存じます[。]……而も獨り個人的社會人的國民的立場に止まるのみならず藝術的天才哲學的偉人其他あらゆる異材の輩出を吾々婦人の間にも見出したいこと切望に耐へない次第で有ります[。]
[「四、自由」より]

この「婦人時言」を読むと、この時点においてすでに、いかなる定型からも、いかなる常識からも、そしてまた、いかなる制度からも解放された「自由」を元手に、詩人からアナーキストへ、アナーキストから女性史学者へと向かうこれからの道程が、逸枝の内部にはっきりと刻み込まれていることがわかります。

この年(一九二〇年)の夏のことです、フランス大使館に赴任しようとしていた柳澤健から逸枝のもとに手紙が届きました。それには、「外務省に私のポストをみつけて置いたから、さっそく出京してはたらきながら勉強するように」19と、書かれてありました。しかし逸枝は、「官衙づとめに自信がなく、かえって恩を裏ぎるようなことになっては申しわけがないと思い、それを受ける勇気が出なかった。……端的にいえば、自由の窒息をおそれたのであった」20。この申し出に対して逸枝は、「深い謝辞とともに率直に柳沢さんにそれを告げるとともに、愛顧にこたえるためにかならず出京して勉強したいということも伝えた」21のでした。おそらく柳澤からのこの手紙には、近日中に拙著『現代の詩及詩人』が刊行され、そのなかに「高群逸枝子」の一節が加えられていることが明かされていたものと思います。

かくしていよいよ、「神経衰弱」を病む憲三とは別れ、独り火の国を出て、東京に上る、しらたま乙女の覚悟が整いました。

第二節 いざ出京、天才詩人の誕生

一九二〇(大正九)年八月三日と四日の両日二回に分けて、『九州新聞』(ともに六面)に全一一連からなる逸枝の「辭郷の歌」が掲載されました。以下は、その最初の二連と最後の二連です。

ばら色の
青春の日の正面に向つて
もの静かに妾は彳んでゐる。
   X
だが星よ
泣いて今夜は照らしてお呉れ
センチメンタルな妾の古里を
   X
そして妾の
驚くべき此天才の
微妙な壁畫となつてお呉れ。
   X
ては古里よ
ほんにさよならさよなら
ほんに妾の愛しい古里よ。

このとき、詩作もひとつの完成の域へと向かっていました。

 私は定型短歌では表現されないものを内部に感じたときに破調短歌にすすんだが、さらに短詩形では盛り切れないないものを感じて長詩に移った。
 それは『放浪者の詩』と題する一巻になった。―これを書き終えたのは八月下旬のことだった22

一方この間、憲三と逸枝の手紙のやり取りは、頻度を減じていました。自分が送った手紙を小説の素材にする憲三の執筆姿勢に向けた逸枝なりの反発だったのかもしれません。しかし、出京がちかづくと、「母にすすめられて球磨のKにも知らせてやった」23。逸枝との再会後、憲三は球磨に帰るとただちに筆をとり、「末人像」という題のもと、城内校での別れからこのときの再会までを創作文にして、『九州新聞』に寄稿しました。そこには、憲三が払川の逸枝を訪ねたときの様子が、このように書かれてあります。

 私は汽車と、馬車と、徒歩とで午後四時頃彼女の家に着いた。……
 私は彼女の家で母親と會つても、弟さん妹さんと會つても、別にわづらひも、へだたりも感じなかつた。
『大變御無沙汰いたしました。』と私は父なる人に挨拶した。
 私は一と時も早く彼女に會ひたかつた。が、どうしたのか彼女はなかなか顔を見せなかつた24

憲三は、「一時間近くぢつと我慢してゐた。……彼女が無事に生存してゐるらしい氣勢も、その可能を信じさせるに足るやうな、たつた一つの小さな物音さへも、遂に受取ることが出來なかかつた」25。そこで憲三は口を切りました――。

『お母さん』
 私は耐まらなくなつて云つた。
『逸ちやんは!』……
『逸子は居ります。』
 お母さんは笑つた。
『何處かに居りますよ。』
『どうぞ此處へ呼んで下さい。』
 と、私は叫んだ。
『逸ちやんは僕に、決して手紙をやつてはならぬとか、僕が來ても、決して會はないからいいなどと云つて寄越してるんです。』
『あれはもう變な娘で御座いますから。』
お母さんは再び笑つた26

すぐに姿を現わさなかったということは、顔を見たくないほどまでに、逸枝は憲三を拒絶しようとしていたのでしょうか、それとも、隠れん坊よろしく、自分を見つけ出してくれるのをこころときめかせて待っていたのでしょうか。憲三は、逸枝の部屋に入りました。逸枝は、ここにいて、憲三と母親の会話を聞いていたのです。見ると逸枝は、「わざと部屋の隅に小さく坐つてゐた。そして黙つてゐた」27。すると「彼女はぢつと私を見た。その眼はたしかに次のやうなことを語つてゐた」28

『この人はまあ何て憎いけれど可愛い人だらう、この人は別れてからもう一年まるでわたしを振向いて見ようともしなかつたのだけれど。この人の手紙は冷たくて、意地悪で、ただ面白くもない皮肉だけのものだつたわ。だけどかうしてまた會つて見ると、何て素直な子供らしい、いゝ人なんだろう。そして、逸ちやんは、なんて優しく母さんに尋ねていらつしたわ。妾はどうせこの人を愛しないではゐられないんだわ』29

逸枝は、三つ年上の姉さん女房です。憲三のことが、「可愛い人」や「子供らしい、いゝ人」に思えても、何ら不思議はありません。このとき、「二人は静かにそして涙ぐましい接吻をした」30のでした。接吻のあともふたりの会話は続きます。「妾ね、もう一週間ばかりしたらあなたに黙つて上京して仕舞ふつもりで居たのよ。……でも、妾のことはよく解つて下さるでせう!」31。それに対して、憲三は、こう応じます。

『ああ、解つてないでどうするものか。だが、或る人は僕がお前に對してあるセンスを缺いてやしないか、と云うんだよ。卽ちお前の天才、詩、夢想、唯美主義、貞操などについて僕一流の獨斷的な偏見をもつてゐると云ふのだ。』
『そんなことないわ。あなたは何も彼も正しくそのままを御存しだわ。いいところばかりでなくわるいところまでも。そしてそれを無條件で許して下さるのだわ。妾はそのことをいつもあなたに感謝しているのよ。』
『それは僕のニヒリズムだ。』
『いいえ、あなたの誠實です。』32

ここに、屈曲のうちにも姉を慕う誠実な弟の姿があり、これに対して涙ぐみながら感謝をする姉の姿が、重なり見えてきます。この相互理解が、逸枝と憲三の崇高なきずなを奏でる主旋律となって、ふたりの生涯に響き渡ったと、あえてここで先走って言い切ったとしても、そう大きな間違いにはならないものと思量します。

逸枝は、こう書きます。このとき憲三は、「私の出京については生活費は保障するから、むりなことはしないようにといってくれて、だまって旅費百円を本の下において帰った」33。次の年(一九二一年)の六月に出版された逸枝の処女作である『日月の上に』(叢文閣)の定価が、二五二頁で壹圓五十銭です。現在の同一体裁の本の価格に置き換えるならば、およそ三千円でしょうか。これを目安に換算しますと、憲三が旅費として逸枝に渡した百円は、現在の二〇万円前後に相当するものと思われます。想像するに、だいたい憲三の給料の一箇月分、ないしは一箇月半分だったにちがいありません。逸枝は、またこのようにも書いています。

憲三は生活費を送ってくれるといったが、私は旅費だけをもらって、あとはなにか労働して自活するつもりだった。東京に出ることは、若い貧しい私たちには必至的な運命であって、いちどは二人いっしょに出ようとしたが、収入のあるものがのこって、そうでないものを助けるという常識的な考えにおちついた34

そして、ついにその日が来ました。

 大正九年八月二十九日午前六時、私は払川の父母の家を辞した。あたらしい天地をもとめて。「逸枝は東京に出発したり」と父はこの日の日記に書いている。暁霧がはれたばかりで、すがすがしい初秋の気が山や川や道をこめ、払川は静かな朝だった。
 父は窓のふちに片手をかけ、すこしからだをかがめて、土橋から向うの道にまわってきて、川をへだてて父と向いあって別れの最敬礼をした私に、かるく頭をさげてこたえてくれた。母は大銀杏樹の店の手前の山角まで送ってきた。もう路傍には女郎花が丈高く咲いていたが、母は花の中に立って、別れの言葉をあたえた。そして、「出世しなはりえ」といった。私は、「出世します」とつつしんで答えた。……やがて母はその道をまがって歩き去ったが、これが父母への永久の別れとなった35

弟も妹も、姉の逸枝を見送りました。

 末弟元男は朝鮮にあり、家にいる清人と栞の弟妹が、昔なつかしい瀬戸山の記念碑のところまで送ってきた。ここで道は急坂となり、下りきると、松橋に通ずる街道に出る。弟妹は私が消え去るまで手を振って、この哀れな姉の門出をさかんにしてくれた36

私も、清人と栞の後ろに立って、逸枝の旅路と東京生活の安らかならんことを願い、凡愚は百も承知のうえで、ここに惜別の詩片を捧げ、晴れの門出を祝したいと思います。

父母弟妹と古里に
貧しさゆえに別れを告げ
あすのわが身は白骨なるも
おのれの天才ただひたすらに
信じて往かんああこのときぞ
   X
夫を残してわが身のみ
いま許されて旅に出る
遠くに見える木原山
白白白のその風受けて
いざ向かわんわが新天地
   X
風が吹いたら吹き飛ばされ
雨が降ったらずぶ濡れに
曲従片手に酔いしれながら
ああ揺れて揺られて
わが道を往く

急坂を下りる逸枝の姿がそこにありました。そして、その出で立ちは、こういうものでした。

 私はそのとき、遍路行で切ったままの髪を束ねて下げ、元禄袖の着物と袴と靴、そしてつばびろの麦わら帽をかぶり、肩からズックのカバンをさげていた。そのカバンには、夏の着がえ一枚、下着類すこし、洗面道具、本一冊、紙とインク、万年筆、それに一綴りの原稿をいれていた37

清人と栞が手を振るなか、とうとう逸枝の旅姿は、坂の下に消えてゆきました。

逸枝が払川を立った八月二九日、あたかも逸枝の旅立ちを見送るかのように、憲三の「末人像まつじんざう」の第一回が『九州新聞』の四面を飾りました。「未人像」とは、人間の末尾に位置する者の姿、といった意味でしょう。全一〇回の連載で、逸枝に対する過去の行動への自省が基底に流れています。とりわけ、「末人像(五)」「末人像(六)」「末人像(七)」は、主に過去に逸枝から送られてきていた手紙で構成されています。憲三は、こうした手紙からの引用文を草しながら、これまでのふたりの交際の道のりを反芻していたにちがいありません。そのなかに、このような一節がありますので、紹介します。いつ出されたものかは、不明ですが、逸枝のこころからの思いが綴られていると思量されます。

あゝ、何てやかましく書きましたことでせう。妾はあどけなく申します。妾はあなたに申します、あなたがもし妾を愛して下さいますならばあなたと妾との二人きりの世界に住みたい、無限の幸福無限の抱擁、若々しい戀愛、燃ゆる霊妾はあなたを欲しあなたは妾を欲する、そのためには二人の間の子どもさへも厭はしひ。二人でゐたい。二人つきりで。妾は年齢さへも無視してゐるのです。妾は不斷に若いのです。若い祝福、若い神秘、若い善美人間若かれ、と妾は申します。妾は世話女房を忌みます。妾は永久にあなたの蜜の如き戀のさゝやきを享け得るうら若き愛人でありたひ。妾は快活に飛び歩くでせう。御いつしよに手をとりとられて楽しさを微笑み合うでせう38

逸枝は、払川を出ると、「この上もない弱虫だったので、松橋から一直線に東京へというわけには踏みきれず、故郷への最後の愛着にしみったれて、熊本の日比野さんのところに四泊し、なんということなしに名残りを惜しんだ。……九月二日、私は上熊本駅から東京行きの列車に乗った」39。「日比野さん」という人物は、すでに書いていますように、師範学校時代の友人で歌人の続友子です。日比野宅に滞在中、逸枝は憲三の「末人像」を読んでいたものと思われます。しかし、「あなたと妾との二人きりの世界に住みたい」という上記の引用文を含む「末人像(六)」が『九州新聞』掲載されたのは九月五日のことで、すでにこのとき、逸枝の姿は東京にありました。

東京に着くと逸枝は、「赤坂乃木坂の近くの基督教婦人矯風会経営の婦人ホームを訪ねて行った。主任の相沢さんは、翌日すぐ大久保百人町の矯風会本部に私をつれて行って、守屋東さんに会わせてくれた」40。そこで、紙函製造所での職が提案されるも、それとは別に思いがけないことが起こります。守屋の希望で、持参していた「放浪者の詩」を見せると、「守屋さんは誰かその道の人の紹介で出版できるようにしたいといってくれた。その結果、私の詩集は新潮社から出ることになった」41。さらに、幸運が続きます。「球磨の夫からは生活費を送るから静かに勉強せよといってきた。そこで紙函製造所行きは自然解消となり、私はこれも守屋さんや相沢さんの世話で、その頃ホームに出入りしていた世田ヶ谷の大百姓軽部仙太郎さんのところで勉強することになった」42

 大正九年九月十五日、この日は雲一つない秋晴れだった。赤坂のホームから車にのって、渋谷、三軒茶屋を通り、草ぶかい世田ヶ谷満中在家についた。村は八幡さまの祭りで、若い主婦が、猫を抱いて迎えてくれた。主人夫婦に女中が二人、男が一人、それに馬が一匹いた。大きな欅の木立にかこまれた静かな旧い家であった43

逸枝が軽部家に入って二日後の九月一七日の『九州新聞』(六面)には、逸枝を思う憲三の短歌が掲載されます。「わが秋の歌」と題された五首のなかから二首を選んで、以下に紹介します。

よき妻よ 思い出なれば いと口惜し
去年の秋かや 汝と抱きし。

我れ汝と 遠く離れて なげかへば
秋立ちけらし 恨み長しも。

時は秋、妻と離れて暮らす憲三に、寂寥が忍び寄ります。逸枝もまた、故郷に残してきた自分の抜け殻に思いを馳せ、同じく『九州新聞』に短歌五首を寄稿します。以下は、一〇月六日の六面に掲載された「山林の乙女に寄す」のなかの二首です。

山林の 君が楽しき 日月には
小鳥の影も 流れたり。

かの國の 林のなかは 静かにて
乙女が一人 歩いて通る。

こうして逸枝は、軽部仙太郎となみ夫妻の庇護のもと、東京での新生活に入ってゆきました。

 私はこの家で厚遇されることになった。私のためには奥の八畳の部屋が与えられ、朝は孟宗竹林のなかに仙太郎さんがこしらえてくれた洗面台に、女中が湯をはこんでくれ、風呂も毎日、食事もいちいち自室に運ばれた。私は自分にあたえられた部屋と、すぐ畑につづく武蔵野の自然のなかだけでくらし、他にわずらわされるものは何一つなく、秩序正しい自由な生活をおくることができた。寄宿費は二十円。Kからは毎月三十円送ってきた44

新しい暮らしがはじまってそろそろ一箇月になろうとする一〇月上旬のことです、いよいよ柳澤健の『現代の詩及詩人』が尚文堂から世に出ました。そのなかの一編「高群逸枝子」は、逸枝の詩を絶賛するものでした。以下は、その結びの言葉です。

 自分の見るところでは、この婦人の異常なる藝術的叡智と熱情とは、奇蹟を以て目すべきものである。かうして藝術的早熟が、一時的に開花して間もなく萎縮するものでない限りは、彼女が早晩この國に於ける最も尊敬に値する詩人の一人になり得るであらうといふ自分の豫想は、恐らく間違ふことはあるまいと思はれる。自分は、そうした日のくることを、深い祈りと欣びの感情を持つて待たずにはゐられない45

しかし、喜びもつかのま、大きな不幸が逸枝を襲うのでした。死亡広告によると、一二月一一日午後一一時、病に伏していた逸枝の母親の登代子が亡くなりました。「母が死んだとき父は九州日日と九州の両新聞に家族連名の死亡広告を出して有縁の人たちに知らせることを忘れなかったが、またこれは母への最後の父の敬意でもあったろう。葬送は翌十二日の夜にかけて行われたが、丘の墓地に向って進む野辺おくりの提灯の火が三町あまりつづいたという」46。死亡広告は、『九州日日新聞』には一二月一六日の五面に、『九州新聞』には翌一二月一七日の五面に、それぞれ掲載されました。逸枝は、こう書きます。「母が病むときいても私は東京に出たばかりで帰れなかった」47、そして、ついにその「故郷の母が死んだ。私はなぜ死んだろう、なぜ死んだろうと、毎日つぶやきとおした」48

そのつぶやきには、このような思い出も含まれていたかもしれません。すでに紹介していますように、生まれると「観音の子」として大事に育てられるとともに、「かぐや姫」という神話的な名で呼ばれ、続いて小学校に入るころには、十八史略や源氏物語などの古典を教えてもらい、また一三歳ころには、「母様にしかられて泣く夕には/虫もかなしや/ころころと鳴く」や「やみませる母上様にさゝげんと/秋の山道を花折りに行く」と、母への思いを歌にしました。さらに長じて、自分の両親について憲三に語るときは、逸枝は、「妾のうちは、父の現實主義と、母の理想主義とで出來てゐます」49と紹介し、他方、憲三との約婚を前にして母は、「お前たちの生活はさぞ見ものだらう」50といい、実際婿入りのときには、憲三を胸に抱いて「この妙な娘の一生をたのむ」51といった母親でした。その母親が亡くなったのです。遠く離れて住む逸枝は、故郷に向かって手をあわせたにちがいありません。五六年の比較的短い生涯でした。

臨終に際して登代子は、東京の逸枝を思い浮かべながら、「帰郷しなくてもよい」という言葉とともに、こう息子の清人に言い遺しました。「世の中に貢献する仕事をするように草葉のかげからいつも祈っているということをよく伝えてくれ」52。逸枝はいいます。「母は徹頭徹尾、愛の人、平和の人だった」53

一方、逸枝の父の勝太郎は、「母の死をもってわが事も終わったとして、翌十年三月、払川小学校長の職を辞した」54のでした。『九州日日新聞』は、一九二一(大正一〇)年四月二四日の四面において、「高群校長送別」の題をつけて、こう報じました。「熊本縣下益城郡年禰南部校長高群勝太郎氏は赴任以來満六ケ年一般父兄有志の信用厚かりしが今回離職に付数日前氏が多年の功績に報ふるため同校に於て送別會を兼ね記念品贈呈式を擧行し多數の参會者ありたりし」。

父親の送別会のちょうどその少し前のことではないかと思われます。逸枝のもとに、来客がありました。そのことについて、逸枝は、次のように記述しています。

母のとつぜんの死は異郷にある私を打ちのめした。―
 それから寝こみがちな日がつづいた。そのなかで、「民衆哲学」という論文を書いて、生田長江さんに送った。生田先生は、わざわざこの遠い家まで、春陽堂の『新小説』の編集者といっしょにこられ、押し入れに投げ込んでいた『日月の上に』も、おもいがけなく日の目を見ることになった。大正十年の早春のことだった55

逸枝にとって生田長江は、このときが初対面でしたが、すでに名前は知っていました。といいますのも、二年前の一九一九(大正八)年七月一二日の『大阪朝日新聞』(夕刊一面)に掲載された「文藝月評 八」の「脚本」に、柳澤健は、生田を取り上げ、こう書いていたからです。その当時逸枝は、『大阪朝日新聞』を愛読していました。

先ず生田長江氏の『鎔鑛爐』(雄辯)である。此作はその科白の受渡しこそ巧妙を極めてゐるものゝ、それ以外の點に於ては頗る不手際である。……大きいことに不手際で小さいことに手際な日本人特有の性情をわが鋭敏長江氏に見ることは頗る遺憾である。

生田の来訪のおり、「押し入れに投げ込んでいた」と逸枝がいう「日月の上に」は、上京してから軽部家の居室で執筆していた長編詩で、「内容はひとりの野性的な娘(感情革命によって確立された私の像)を中心人物とした、多くのフィクションを含む、自伝的物語」56でした。この作品のもともとの題は「詩」というものでしたが、生田は、題詩にある「吾日月の上に座す」に着目して、「日月の上に」という作品名に変えます。かくして、その物語詩が、一九二一(大正一〇)年四月一日発行の四月号『新小説』に掲載されるのです。巻頭を飾った生田長江の筆になる「『日月の上に』の著者に就て」は、逸枝を「天才者」として高く評価するものでした。

高群逸枝さんは、まだ二十歳にも満たない婦人です。最初にその『民衆哲學』と伝ふ論文原稿を拝見した私は、単にそれを拝見しただけでも少からず驚かされました。現代の日本に於て、これだけしつかりした推理と、これだけ鋭い直觀とをもつた婦人が、果して幾人あらうかと思ひました。けれどもその後、彼女の長篇詩『日月の上に』を拝見するに及んで、私は彼女が単に婦人として稀有の人であるのみならず、あまねく文壇思想界に於ける殆んど如何なる人々に比べても些の遜色を見ないほどの天才者であることを知りました57

さらに生田は、こうも付け加えます。「しかも、常に噴出の機會をねらつてゐる地の底の火熱に近いものを感じさせないではゐません」58。まさしくここに、「火の国の女詩人」高群逸枝が、誕生したのでした。

逸枝のことを生田は、「まだ二十歳にも満たない婦人」と言い表わしています。その前年(一九二〇年)に発行された『現代の詩及詩人』の著者の柳澤健は、「未だ二十歳に充たぬ村の少女」59と表現していました。一方逸枝は、軽部家では、「私はみんなから『おじょうさん』とよばれた」60と書いています。しかし実際には、このとき逸枝は二七歳で、事実上の既婚者でした。すでに引用により紹介していますように、かつて逸枝は、憲三への手紙のなかで、「妾は年齢さへも無視してゐるのです。妾は不斷に若いのです」と書いているようですので、逸枝の自覚する年齢は、早ければ高等小学校を卒業してしばらくした時点で、ひょっとしたら停止していたのかもしれません。

生田の「『日月の上に』の著者に就て」に引導されて、長編詩「日月の上に」は、次のような題詩ではじまります。

汝洪水の上に座す
神エホバ
吾日月の上に座す
詩人逸枝

逸枝は、これについて、こう書きます。「この題詩は作品とともに主として詩壇人たちの悪評を買って問題となったもので、山村暮鳥さんなどは、『吾日月を尻に敷く』などと、下卑たことを書いたりしたものだったが……しかし、一般と青年、学生等の間にはひろく読まれたことは、作者自身が受け取った多数の手紙によって知られた」61

確かにこのとき、柳澤健に続いて生田長江もまた、逸枝の詩才を発掘するという実に大きな役割を果たしたのでした。それをきっかけに、「先生はこの家と、武蔵野の自然がお気にめしたようで、それからもたびたび散策の足をのばしてくださった」62。当時四〇前の生田は、文芸評論家としてのみならず、ニーチェの翻訳家としてもすでに社会に認められる存在でした。そうした散策のときでしょうか、「私が詩劇の制作にすすみたいと希望をのべると、すぐに賛成され、『日月の上に』をみてもその素質を感じるといわれ、まず演劇を知ること、音楽に通ずること、外国語をマスターすること等を話してくださって、そのためにはよろこんで便宜をあたえてやろうといってくださった」63

生田と逸枝の会話のなかには、平塚らいてうや『青鞜』のことも話題として登場していたにちがいありません。といいますのも、さかのぼってその一〇年前の一九一一(明治四四)年の九月に『青鞜』が世に出るときにも、生田は背後にあって貴重な役を演じていたからです。以下は、『青鞜』の創刊者である平塚らいてうの回想です。らいてうは、新しい雑誌の誌名にかかわって生田に相談します。

 生田先生も熱心にあれこれと考えて下さって、思いつく名を挙げているうちに、はたと膝を打って、「いっそブルー・ストッキングはどうでしょう。こちらから先にそう名乗って出るのもいいかもしれませんね」ということになったのでした64

「ブルー・ストッキング」とは、一八世紀半ばの英国のモンタギュー夫人のサロンに集まっては男と一緒になって芸術や科学について論談していた婦人がはいていた青色の靴下のことで、黒色でないがために、普通と違ったことをする女をからかう場合に使われる言葉でした。こうして、この「ブルー・ストッキング」を訳して「青鞜」の造語が生まれます。このように、らいてうの雑誌『青鞜』と逸枝の詩集『日月の上に』が、人の目に止まるようになるにあたっては、共通する陰の立役者として生田長江がいたのでした。他方で、生田を驚かせた「民衆哲学」は、次の年(一九二二年)に京文社から公刊される『私の生活と藝術』に所収されることになります。逸枝によると、この論文を書くことによって、「恋愛以降の混迷した状態から離脱して、安心立命の一つの根拠を確立した」65のでした。

第三節 憲三の上京とふたりの都落ち

「恋愛以降の混迷した状態」をもたらした張本人は、いうまでもなく橋本憲三その人ということになります。そこへ「大正一〇年五月初旬、故郷のKが学校の茶摘み休みを利用して軽部家へたずねてきた」66のです。おそらく憲三は、『新小説』四月号に掲載された逸枝の「日月の上に」を読んでいたにちがいありません。生田長江の推薦により『新小説』に発表することになった経緯を、逸枝は知らせていたのかもしれません。さらに憲三が軽部家に滞在するなかにあって、六月一五日を発行日にもつ『日月の上に』が叢文閣から、二日後の六月一七日を発行日とする『放浪者の詩』が新潮社から、世に出ます。逸枝にとって、まさしく「月漸く昇れり」の瞬間でした。このとき、逸枝と一緒に憲三も、この二著を手にしたことでしょう。

『日月の上に』は、長編詩の「日月の上に」のほかに、短編の「五月の雨」「虐待される歌」「妻歌う日没時に」「夕べの哀歌」、そして「月漸く昇れり」の計六編から構成されていました。最後の「月漸く昇れり」のなかから主たる詩語を断片的に拾い上げ、順に並べてみますと、次のようになります。「妾」の読みは、おそらく「わらわ/わたし」でしょう。あるいは「しょう」と読ませる意図があったかもしれません。

妾が女詩人として/九州から出て來た時に/お前が妾に呉れたものは/不自由と不幸とであつた
云つて呉れるな/貴女の御本領は詩作ですなどと/なぜ我々は/詩作の爲めに苦しまねばならないのか……
乙女をして歌はしめよ/太古の山に住ましめよ/女郎花をして咲かしめよ/しら雲をして飛ばしめよ
俗悪な世の/俗悪な群衆が/斯くも妾を不快にし/斯くも妾を飛び去らしめる……
ああ解放されたる展望よ!/よろこばしくも寂みしく妾は思ふ!/(月漸く昇れり!)/野邊なる月が/妾の心を照る時に67

逸枝は、「九州から出て來た時に/お前が妾に呉れたものは/不自由と不幸とであつた」と詠います。城内校での出来事が念頭にあったのかもしれません。この詩片から、逸枝の憲三に対する不信感なり嫌悪感なりの一端を読み取ることができます。

すでに前に述べているとおり、一方の『放浪者の詩』は、出京するときにはすでに完成していた作品で、矯風会本部の守屋東の口利きにより上梓が可能となった経緯がありました。この詩集は、「長詩」「短歌連作」「短歌」から構成され、目次に先立ち「序」があり、それは、二三のアフォリズムで成り立っていました。ここに、この時期の逸枝の思考のすべての断片が、箱詰めされているように感じられます。以下は、その最初の言辞です。

一、放浪者は何の貞操ももたない68

ここにある「貞操」を、女性にとっての性的関係の純潔さの保持という意味に解するならば、姦通罪を規定する当時の刑法に照らしてこのアフォリズムは、極めて挑発的で反逆的な様相を帯びます。すでに触れていますように、逸枝は手製の『少女集』(熊本市立図書館所蔵)のなかで、「操、厳かなる操の下に、いつ枝は清く住まんとぞ思ふ」と書いていましたし、憲三と会ってすぐにしたためた「永遠の誓い」には、「私はあなたへの永遠の愛を誓います。私に不正な行為があったら、あなたの処分にまかせます」との文字が並んでいます。ところがその後、城内校で新婚生活を送っていたとき、これもまた、既述にありますように、憲三は逸枝に、このような言葉を浴びせかけました。「おれは肉感的な女がすきだ。この本に出ている『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫に扮したドイツ女優のようなものがすきだ。第一に森の姫そのものがすきだ。それにくらべるといわゆる貞淑な鐘匠の妻は恋愛の対象としては型がふるい」。この言葉は、逸枝に少なからぬ衝撃を与えました。「Kが押しつけた『沈鐘』を読んだことは、私には大きなショックだった。これが感情革命の導火線となったのだった。作中の森の姫ラウテンデラインは、私のうちに眠っていた『火の国の女』をよび覚まして、これを表面化させた。ここに私はKを忘却し、私自身となった」。

おそらく逸枝は、城内校での生活の破綻から実家にもどり、出京するまでのおよそ一〇箇月のあいだにあって、自身の視野から憲三の姿が消え、それに代わって、何ものからも束縛を受けない、自由な女の魂を獲得することになったものと思われます。そのとき到達した新たな地平の一端が、「放浪者は何の貞操ももたない」という境地だったのでしょう。しかし、いずれにしても、「放浪者は何の貞操ももたない」の金言は、憲三の女性に求める思いの焼き直しにすぎず、その意味で、憲三からの借用であるがために、実質を伴わない、生半可な観念的境地である可能性が残ります。明らかにもとをただせば、いっさいのわずらわしさを嫌悪する憲三が示した、無神経にも遠慮会釈なく自分に寄りかかってくる逸枝に対する拒絶反応に由来するものだったのです。しかしながら、もし実際に、この表現に、「何の貞操ももたない」自由で奔放な逸枝の行動が内蔵されているとするならば、いやがうえにも憲三をいらだたせる要因となったにちがいありません。憲三が逸枝に会いに上京してきたとき、逸枝と憲三の双方とも、相手を全面的に受け入れることもできなければ、完全に拒否することもできない、そうしたふたつの極に縛られた、不安定で中途半端な状況に立たされていたのではないかと思料します。

四月号の『新小説』に「日月の上に」が掲載され、続く六月に『日月の上に』と『放浪者の詩』の二冊の単行本が公刊されると、逸枝の身辺が一気にあわただしくなりました。

 私の昼の時間はジャーナリストや各種類の男女の訪問客のために奪われるようになった。訪問者のない日はほとんどなかった。……私はまだ訪問者をさける分別をもたなかったので、いちいち対応して悩んでいるのを、後にはなみ夫人がみかねて上手にことわってくれるようになったが、それでも心の自由さはだんだんむしばまれてくるようだった。もはや林の中の思索も、散歩すらも可能でなくなった69

こうした状況を、憲三も直接目の当たりにし、「心の自由さはだんだんむしばまれてくる」逸枝を心配したにちがいありません。それとは別に、根拠のない憶測になるかもしれませんが、逸枝に生田長江の影を感じ取った可能性も考えられないわけではありません。「彼は休みの期間が過ぎるとすぐ帰るはずだったが、私を見るなり、たちまちひょう変して、私を略奪する気になったらしく、故郷の南の海岸にいって一年くらい二人だけでのんびりくらしてみないかといい出した」70。結果的に、この憲三の申し出を、逸枝は受け入れます。それについて逸枝は、こう書いています。

 私は……大正九年の秋出京し、世田ヶ谷満中在家の軽部家に寄宿し、親切な宿の人たちや美しい自然にかこまれて勉強し……[翌年の]四月には処女作が発表され、六月には二つの本が出版されるといったような幸運にめぐまれていた。そこへ夫が球磨から出てきて、そのまま弥次へつれて行ってしまったのである。このとき出版元の新潮社の人が、「いまがいちばん人気の立っている大事な時だから都落ちなどはしないほうがよいが」とひきとめてくれたが、私はそれを夫にいえないほど、こういう場合には優柔不断で、ひとがよろこぶことなら、すぐに曹大家の「女誡」にいうように「曲従」する性格があった71

逸枝には、言葉に特別の化粧を施す性癖があるように感じられます。たとえば逸枝は、通常使用される「婚約」を「約婚」や「婿入り」に置き換えたり、「上京」には「出京」や「都のぼり」、「帰郷」には「都落ち」の文字を当てたりします。ここで使われている「曲従」も、本人自身がいうとおり、日常用語の「優柔不断」とほとんどその意味に変わりはなく、「曲従」という言葉のもつ、その印象からすれば、自分の意に反して、他者の威圧に完全に屈服することを示しているように受け止められそうですが、この場合も、新潮社の人などの助言に従ってこのまま東京にいるのがいいか、憲三の誘いに乗って帰郷するのがいいか、自分では判断がつかない迷いの状況にあって、それを見抜いて憲三が下す判断に従って、東京を離れることになった、という程度の意味ではないかと思われます。

もし憲三の提案を断わり、そのまま東京生活を続けることになれば、「心の自由さはだんだんむしばまれ……もはや林の中の思索も、散歩すらも可能でなくなった」結末を招いたことは明白です。逸枝にしてみれば、訪問客のあしらい方も知らないこうした状況で、本当に次の詩作ができるのでしょうか。かといって、熊本に帰り、憲三が示す八代の弥次海岸での生活は、城内校での経験から考えて、必ずしもこころ躍らせるようなものではなかったでしょう。物事にかかわって自分で適切な判断ができず、勢い、すべてを受け入れてしまい、その結果混乱に陥るという自らの性格からして、逸枝はこのとき、即決も即答もできなかったものと思われます。しかしながら最終的には、憲三の、ある意味での支配力と、逸枝の、ある意味での依存性とがうまく合体して、熊本への帰省という結論へふたりは到達したのでした。あたかもこの状況を先取りするかのような詩が、『放浪者の詩』にありますので、以下に紹介します。

二人は今も遺る瀬なく
愛し合つてゐるのだけれど
こんなに暗い顔をして
睨み合つて暮らしてゐる

だがその戀しい妾の戀人は
優しい聲で妾に恁う言つた
僕は貴女をお友達にして
あの地平線まで歩いて行きたいと

もう貴女を可愛いとは思ふまい
そして尊い人だと思ひたい
そして二人で仲よく手を取り合つて
静かにお話をしませうと72

逸枝が描く詩の世界と同様に、実際にここに至って憲三は、逸枝のことを、「可愛い」人を越えて「尊い人」とみなしていたにちがいありません。次は、逸枝の文です。「出京したKはそうした独占欲を発揮して、一本の手紙で学校の方はやめ、六月末には私をつれて都落ちした。軽部家では親類の人たちをも呼んで、心のこもった別離の宴を催してくれた」73

第四節 熊本八代の弥次海岸での生活と再出京

東京を離れるに際して、「僕は貴女をお友達にしてあの地平線まで歩いて行きたい」「そして二人で仲よく手を取り合つて静かにお話をしませう」という思いが、おそらく憲三にあったでしょうし、逸枝はそれを信じたものと思われます。「『日月の上に』は叢文閣の出版で二千部(印税一割二分)、『放浪者の詩』は新潮社の出版で二千五百部(印税七分)」74でした。前者の定価が壹圓五十銭で、後者の定価が壹圓七十銭でしたので、前者からは三六〇円の、後者からは二九七円五〇銭の印税があったことになります。憲三は学校を辞め、もはや収入がありません。主としてこの合計六五七円五〇銭の金子が、旅費とこれからの生活費に充てられることになったものと考えられます。

 渋谷駅から汽車に乗り、品川で乗りかえ、翌日熊本駅を通過してなつかしい木原山を左窓に見ながら松橋駅につくと、私はしきりにいまは墓となった母、隠棲している父、かしづいている弟妹たちを思って、涙が頬をつたって流れおちるのをどうすることもできなかった。私は母の墓前にぬかづいて、母の遺言にしたがって、臨終にも葬式にも帰らずに努力してなった二つの詩集を献じて、その霊を、心からなぐさめたかった75

しかし、それはかないませんでした。もし払川に行けば、おそらく自分たちの結婚式のことや、母親の初盆のことや、父親の離職の祝いのことなどが話題として持ち上がってくることは十分に想像されるところで、憲三には、そうした堅苦しく、また無味乾燥な俗務にはとても耐えられないという思いがあったにちがいありません。もっとも、一方の逸枝にしても、一度は覚悟を決めて家を出た以上、いまだ一年も立たずに舞い戻ることにはためらいがあったでしょうし、村固有の俗世のしきたりや慣習も、できれば避けてとおり、ふたりだけの静かで自由な二度目の新婚生活を楽しみたかったものと思われます。逸枝はいいます。「彼としても実家に顔を出した後に払川にも行きたいとは思っていたらしかったが、いずれにしても私は覚悟をきめて、だまってKの心にまかせる態度をとった」76

果たしてこれもまた、憲三の「エゴイズム」と逸枝の「曲従」との、無言のうちの併存の一例とみなすべきでしょうか。それとも、状況をすばやく察知した憲三の、逸枝を守るための「温情」に、黙して逸枝は従ったと解すべきでしょうか。おそらく、この二面が、微妙に交錯していたものと思料します。

まずふたりは、憲三の実家に数日滞在します。この間に憲三は、勤務校での退職の手続きや残務整理に当たったものと思われます。次にふたりは、親や姉から準備してもらった生活用具をもって、引き返し八代に向かいました。ここは、両人がはじめて会った思い出の場所でもあります。憲三と逸枝はこの地の金剛村弥次海岸で新しい生活に入る予定にしていましたが、着いてみると、受け入れの準備ができていないことがわかり、急きょ、小舟で対岸にある日奈久温泉に渡り、新築されたばかりの大きな旅館に宿泊することになりました。「二人はそこにいわばハネムーンともいうべき数日をおもいがけなく送ったのだった」77。その後に落ち着いた弥次の家は、「もと船乗りだった人が陸に上がって建てた隠居屋で……私たちが専用したのは、まわりえんをもった奥の八畳の間だった」78。古びていて屋鳴りのする、少し気味の悪い家でした。しかし、「あくまでおだやかな青い海のかなたに天草の島々がみえ、夕陽の輝くなかを大漁旗をかかげた魚舟が沖から帰ってきて」79、自分たちの家の前を通り過ぎてゆく光景は、感動を誘いました。

七月三〇日、『九州日日新聞』一面の「新刊紹介」は、逸枝の『放浪者の詩』を取り上げ、こう報じます。

「日月の上に」を發表して一躍詩壇に出でたる著者の最初の詩集である[。]大膽に奔放なる著者の才は全面に流るゝの趣きがある[。]

この記事を読んだ、払川で余生を送る逸枝の父の勝太郎は、おそらく歓喜したことでしょう。その少し前のこと、「日月の上に」が『新小説』掲載されたおりには、「稿料がはいったとき、さっそくその中から若干のものを故郷の父にささげた」80ほどに、逸枝は、父親への孝行を忘れないでいたのでした。他方、昨年の八月、逸枝が出京するとき、母の登代子は、「出世しなはりえ」といって娘を励ましました。その娘の詩集が「新刊紹介」に掲載されたのです。生きていれば、これを見て母親は、どれほどまでに晴れがましい気持ちに浸ったことでしょうか。

いよいよ城内校に続く、二度目の新婚生活が、ここ弥次の海岸ではじまりました。逸枝は、ここでの仕事について、次のように書いています。「弥次生活八ヵ月の間に、私は『美想曲』のほかに、『朽ちたる城の姫』という二百枚の長篇詩を書いた。これは新潮社に送って出版承諾の返事をもらったが実現しないうちに震災などがあって惜しくも行くえ不明になった。東京の雑誌にも毎月何か書いていたが、そのいくつかは、『私の生活と芸術』『胸を痛めて』、『黒い女』等に収められている」81。おそらくひとりとして邪魔をする者もなく、東京にいることを考えれば、ここでの仕事の方が、より順調に筆が進んだものと考えられます。

八月一六日、『九州新聞』(四面)は、「野のトリトンの唄」を表題とする五連からなる詩を掲載します。その前言に逸枝は、「此の近作をなづかしきわが肥後の人々に捧ぐ」と書きました。前述のとおり、ちょうど一年前の八月三日と四日に、『九州新聞』は、逸枝の一一連からなる「辭郷の歌」を連載しました。その最後の連は、「ては古里よ/ほんにさよならさよなら/ほんに妾の愛しい古里よ」で終わっていました。逸枝のこのときの「都落ち」は、ある意味で、まさしく凱旋帰郷だったのです。

続く八月二二日に、八代町正教寺において、八代非歌人社の夏季短歌会が催されました。出席者は三八名でした。八月二六日の『九州日日新聞』(六面)を見ると、「八代非歌人社 夏季短歌大會」の見出しのもとに、次の憲三と逸枝の短歌も掲載されています。

病む妻を静かにおきて心虚し夕べの小家月未だ出でず  橋本憲三
火の國の火の山に來てみわたせばわが古里は花模樣かな 高群逸枝

ここで注目されてよいのは、憲三は「病む妻」を詠い、逸枝は、四国巡礼のおり阿蘇を通過するときに詠んだ旧作を発表していることです。このことは、この日逸枝は参加しておらず、つわりに苦しんでいた可能性を示唆します。といいますのも、次のような逸枝の記述が残存するからです。「この家にきてほどなく妊娠の身となり……悪魔主義の夫が出産をよろこばないことは、既定の事実のように思われたし……妊娠のことは口にも出せず、ひとりで苦しむほかはなかった。そのうえ私たちは、はやくも無一文となり、すでに餓死をまつばかりの状態とさえなっていた」82

逸枝だけではなく、憲三の体調も悪くなります。「秋のはじめごろから彼はまたもや神経衰弱におちいり、正坐することもできないほどになり、寝転んだり、いらいらと歩きまわったりすることが多くなっていき、なんだか生きる力や意思さえ失った」83あり様でした。しかしその一方で、「私が熱心に勉強しているのを親しくみたり、また私が無心に思索しながら庭先などをうろついているのをみたりしているうちに、そうした私に〈不思議な魅力を感じた〉そうで、しだいに私の押しつけ原稿もよろこんで見るようになったのだった。……こうして彼はついに毒舌と賞讃とで私の成長をたすけてくれるようになっていったのだった」84

憲三の体調悪化も、経済的余裕を失い、その結果栄養不足に陥ったことが原因だったかもしれません。しかし、別の観点に立てば、憲三の体調不良の要因は、逸枝のつわりを自分の身に引き寄せた、ひょっとすると疑似のつわり、つまり「クーヴァード症候群」だった可能性も否定できません。これは、妊婦への強度の同情や共感といった感情移入によって発症するといわれており、もしそうであれば、このことと、逸枝の執筆行為について「不思議な魅力を感じた」このときの憲三の心的状況とをあわせて考えるならば、逸枝を「可愛い」人を越えて「尊い人」とみなすようになる最初のきっかけが、ここにあったのではないかと思われます。言い換えれば、ふたりの男女の新たな関係が、ここ弥次での共同生活の環境のなかから偶然にも派生したことになるのです。

城内校での最初の新婚生活が結果として逸枝にもたらしたものは、「感情革命」でした。それは、詩の形式においては、定型から破調への開眼であり、他方、女性の生き方においては、依存から自立へ向かおうとする解放感覚の芽生えでした。すでに詳述していますように、その導火線となったのは、「Kが押しつけた『沈鐘』を読んだこと」にありました。つまり、詩作と生活感情の側面において逸枝が獲得したものは、まさしく両者に共通する「自由」だったのです。そしてこの事例の場合、その「自由」は、いまだ制度や常識に汚されていない、太古の野に遊ぶ純真な乙女が身につけていたであろうと考えられる「自由」の類でした。逸枝が、失われて久しい、自由な旋律に乗せて歌を詠じようとするのも、女性の生き方それ自体に自由を求めようとするのも、疑いもなくそれは、自身の遺伝子にいまだ残存する、原始女性がかつて備えていた「自由」の再生行為だったのではないかというのが、私の思考するところです。

一方、弥次での二度目の同居生活において憲三が新たに感得したものは、述べてきたとおり、逸枝の妊娠におそらく感情移入しては、自身の肉体に変異を覚え、逸枝の詩作行為を見ては、その点に自己の関心を集中するようになったことでした。子を宿すことと言葉を紡ぐこと――この両者に共通する産出行為のもつ神々しさと不思議さに、ここへ来て憲三は、目を見開かされたのでした。のちに憲三は、逸枝について、「強烈な野生の女、内部に過剰なまでに原始の血を受けた女、という一面は多少あるかもしれない」85とも、「バケツ一杯の水を一、二メートルの外井戸から運ぶことすら困難したようであった」86とも書きます。そしてまた、弥次海岸での生活については、逸枝は自分の書く原稿を「『しゃりむりKに押しつけて』などと書いているけれども、これは彼女の心理状態を語っているのみで、私にはしゃりむり押しつけられたという実感などまるでない」87と述懐します。明らかにこのとき、憲三の身に「個体変異」が起こっているのです。そうであれば、これまで憲三の性格の一側面として言い慣わされてきていたサーニズムも悪魔主義も、弥次生活のこの時点をもって、もはや溶解の方向へと向かうことになったと推断してもいいのではないでしょうか。城内校での最初の新婚生活は妻たる逸枝の内において、それに続く弥次での新婚生活は夫たる憲三のなかにあって、まさしく相手の固有の存在が思わぬ引き金となり、その結果「感情革命」が成し遂げられたのでした。こうして、夫婦それぞれが「感情革命」を体験することにより、徐々に夫婦の枠組みが整ってゆきます。

それでは、「愛の結晶」とも呼べる自分の妊娠を、逸枝自身、実際のところ、どう思っていたのでしょうか。待ちに待った懐妊を心底喜んでいたとは思えません。喜びよりもむしろ、戸惑いや違和感の方が大きかったのではないかと思われます。といいますのも、すでに引用により言及していますように、かつて逸枝は、憲三へ宛てた手紙のなかで、「子供を考えることは恐ろしい。妾は母としての資格はない。第一子供といふものを初めにどうすればいいのか心配です」とも、また、別の手紙のなかでは、「あなたがもし妾を愛して下さいますならばあなたと妾との二人きりの世界に住みたい……そのためには二人の間の子どもさへも厭はしひ。二人でゐたい。二人つきりで」とも、書いているからです。

「そんな頃のこと、ある日嘘のように、夫が私の妊娠に気がついた。すると意外にもかれに生きる力がよみがえったらしく、起き上がって東京に帰るといいだし、旅費をつくりに一勝地の父母のもとに出かけた」88。逸枝の出京に際しては、旅費として憲三は逸枝に一〇〇円を渡し、その後逸枝が東京で暮らすあいだは、生活費として月々三〇円を送りました。おそらく夫としての責任感がそうさせたのでしょう。今度は両親のもとに金策に走ります。このとき憲三に、父親としての自覚が芽生えていたものと思われます。こうした憲三の行動から判断しますと、妊娠を喜んだのは、どちらかといえば、妻の逸枝よりも、むしろ夫の憲三の方だったにちがいありません。さらに加えるならば、逸枝は、憲三のことを、自身に「曲従」を迫り、本人の意思に反して都落ちを強いた「略奪者K」89とも、上の引用のように「悪魔主義の夫」とも、辛辣に形容しますが、しかしそれは、幾分過剰な虚飾であって、実際には、すでに紹介している逸枝の詩にあるように、「二人で仲よく手を取り合つて静かにお話をしませう」と逸枝を促す、憲三の誠意がそこにあった可能性もまた、排除することはできないものと思われます。別の見方に立てば、そうした虚飾的で批判がましい言い回し、それ自体が、逆に、逸枝一流の憲三へ向けた幾分屈折した愛情表現であり、さらに裏を返せば、優柔不断者に備わる別形の他者同定であるようにも受け止めることができるのです。

年が明け、一九二二(大正一一)年を迎えました。この前後にふたりは、婚姻届を出すことに合意したものと思われます。「払川の父にはとうとう帰省ができなかったお詫びと、結婚のゆるしを乞うてやった。父は寛大に受け取ってくれて、すぐに書類を送ってくれ、私たちはその手続きをすました」90。ここに憲三と逸枝は、晴れて法的に認められた夫婦になったのでした。

それからほどなくして、「奥付」にある二月五日を発行日として金星堂から逸枝の『美想曲』が世に出ます。「東京から私の第三詩集『美想曲』の印税が届くのをまって」91、ふたりは弥次の家を引き払い、那良口の憲三の実家に行きました。ここでの様子を、逸枝はこのように書いています。「Kの父母の家で私は激烈な急性大腸カタルにかかった。……義父から与えられた塩漬けの野猿の肉汁をのむと不思議に下痢はとまった。そこで帰京のしたくをすると、こんどは義母や義姉が私の腹部に布を巻いてやりながら、もう臨月に近いのではないかと心配してくれる」92。腹帯を着けてやる一方で、義母のミキと義姉の藤野は、生まれてくる赤子の肌着やおむつなどの準備にかかわって、女としての気遣いを見せたにちがいありません。そしてまた、安全のために、できれば女手のあるこの地で産むことを勧めたかもしれません。しかし逸枝に、東京での出産に逡巡はありませんでした。「決断は私にかかっていたので、私は、『大丈夫です』といって、Kをうながして、汽車に乗り込んだ」93

「この都のぼりは、いまから思うとユーモラスでもあった。Kはバスケットのなかに義姉たちが弥次の自炊生活のためにくれた世帯道具をいれて何くわぬ顔で提げていたし、私は袷と羽織だけはどうやら新調したけれど、コートもショールもないさむざむしたかっこうだった」94。憲三は、妊婦の逸枝に代わって、おそらく弥次に引き続き、東京でも自分が炊事することを自覚していたのかもしれません。それにしても、逸枝の出で立ちでは、春が近いといえども、懐具合と相まって、寒さがこたえたにちがいありません。しかし、それ以外にも大きな難事が待っていました。「関門海峡を連絡船で渡ると、下関発東京ゆきは発車寸前のところで、長いホームを駆けていく」95事態になったのです。呼吸が止まりそうになりながら、何とか乗り込んだものの、「車中はたいへんな込みようで……胎児の頭に人がぶつからないように必死になって防衛した。幸い、隅っこに荷物に独占された座席があったので、Kが交渉して私を割り込ませてくれたのだった」96。こうした難局に遭遇しながらも、憲三と逸枝の夫婦は、「三月のはじめには世田ヶ谷の軽部家に舞いもどった」97のでした。

(1)橋本憲三「寂(五)」『九州新聞』、1919(大正8)年11月7日、6面。

(2)同「寂(五)」。

(3)同「寂(五)」。

(4)高群逸枝「こゝろ久し」『九州新聞』、1919(大正8)年11月7日、6面。

(5)高群逸枝「空気の斑點」『九州新聞』、1919(大正8)年11月29日、6面。

(6)「橋本憲三君及び同夫人逸枝女史」『人吉時報』、1919(大正8)年12月5日、1面。

(7)橋本憲三「餘寒(四)」『九州新聞』、1920(大正9)年1月30日、6面。

(8)高群逸枝「連作『古い扉』」『九州新聞』、1920(大正9)年4月2日、6面。

(9)橋本憲三「山彦(一)」『九州新聞』、1920(大正9)年7月23日、6面。

(10)橋本憲三「山彦(二)」『九州新聞』、1920(大正9)年7月24日、6面。

(11)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、173頁。

(12)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(13)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(14)柳澤健「婦人を待てる文壇」『大阪朝日新聞』、1919(大正8)年6月9日(夕刊)、4面。

(15)柳沢健『現代の詩及詩人』尚文堂、1920年、156頁。

(16)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、171頁。

(17)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(18)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(19)同『高群逸枝全集』第一〇巻、178頁。

(20)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、202頁。

(21)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、179頁。

(22)同『高群逸枝全集』第一〇巻、178頁。

(23)同『高群逸枝全集』第一〇巻、179頁。

(24)橋本憲三「末人像(二)」『九州新聞』、1920(大正9)年8月31日、4面。

(25)同「末人像(二)」『九州新聞』。

(26)同「末人像(二)」『九州新聞』。

(27)橋本憲三「末人像(三)」『九州新聞』、1920(大正9)年9月2日、4面。

(28)同「末人像(三)」『九州新聞』。

(29)同「末人像(三)」『九州新聞』。

(30)同「末人像(三)」『九州新聞』。

(31)同「末人像(三)」『九州新聞』。

(32)同「末人像(三)」『九州新聞』。

(33)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、179頁。

(34)前掲『今昔の歌』、202頁。

(35)同『今昔の歌』、209-210頁。

(36)同『今昔の歌』、210頁。

(37)同『今昔の歌』、211頁。

(38)橋本憲三「末人像(六)」『九州新聞』、1920(大正9)年9月5日、4面。

(39)前掲『今昔の歌』、213頁。

(40)同『今昔の歌』、214頁。

(41)同『今昔の歌』、214-215頁。

(42)同『今昔の歌』、215頁。

(43)同『今昔の歌』、同頁。

(44)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、184頁。

(45)前掲『現代の詩及詩人』、162頁。

(46)前掲『今昔の歌』、236-237頁。

(47)同『今昔の歌』、237頁。

(48)同『今昔の歌』、215頁。

(49)橋本憲三『恋するものゝ道』耕文堂、1923年、180頁。

(50)同『恋するものゝ道』、178頁。

(51)前掲『今昔の歌』、201頁。

(52)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、185頁。

(53)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(54)同『高群逸枝全集』第一〇巻、186頁。

(55)同『高群逸枝全集』第一〇巻、187頁。

(56)同『高群逸枝全集』第一〇巻、189頁。

(57)生田長江「『日月の上に』の著者に就て」『新小説』1921年4月号、別1⃣ 1頁。

(58)同「『日月の上に』の著者に就て」『新小説』、同頁。

(59)前掲『現代の詩及詩人』、160頁。

(60)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、184頁。

(61)同『高群逸枝全集』第一〇巻、187-188頁。

(62)同『高群逸枝全集』第一〇巻、189頁。

(63)同『高群逸枝全集』第一〇巻、190頁。

(64)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった①』大月書店、1992年、326頁。

(65)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、187頁。

(66)同『高群逸枝全集』第一〇巻、190頁。

(67)高群逸枝『日月の上に』叢文閣、1921年、248-252頁。
 最後の詩編のタイトルは、目次においては「日漸く昇れり」となっており、これは「月」とするべきところの誤植ではないかと思われます。

(68)高群逸枝『放浪者の詩』新潮社、1921年、1頁。

(69)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、190頁。

(70)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(71)前掲『今昔の歌』、217頁。

(72)前掲『放浪者の詩』、33-34頁。

(73)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、191-192頁。

(74)前掲『今昔の歌』、216頁。

(75)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、192頁。

(76)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(77)同『高群逸枝全集』第一〇巻、193頁。

(78)前掲『今昔の歌』、218頁。

(79)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、192頁。

(80)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(81)同『高群逸枝全集』第一〇巻、195頁。

(82)前掲『今昔の歌』、219頁。

(83)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、193頁。

(84)同『高群逸枝全集』第一〇巻、194頁。

(85)橋本憲三「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1971年4月1日、32頁。

(86)同「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、34頁。

(87)同「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、36頁。

(88)前掲『今昔の歌』、220頁。

(89)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、191頁。

(90)同『高群逸枝全集』第一〇巻、195頁。

(91)前掲『今昔の歌』、220頁。

(92)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、195頁。

(93)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(94)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(95)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(96)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(97)前掲『今昔の歌』、220頁。