中山修一著作集

著作集18 三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子  妣たちの天草灘〈沖宮〉異聞

第一章 誕生――西に不知火、東に大阿蘇、「火の国」に出生

第一節 高群逸枝の誕生

高群逸枝がこの世に誕生する前に、逸枝の両親は三人の子を設けていました。しかし、健全な生育を見ることはありませんでした。逸枝は、こう書きます。

 父母には私の前に三人の男子がめぐまれたが、最初は死産、次の牛雄は一月半後に死んだ。若い父母の焦燥はいうばかりなく、牛雄の日明きのお祝い日などには、神酒を氏神にささげて両人が三拝九拝して生育をいのったという。つぎに三番目の息子が生まれたときには、捨男と名づけて道路の三つ辻にすて、村の最年長の老女にひろわせ、それを貰いうけて、改めて義人と名づけた。……ところがその子も、一年あまりでなくなった

三番目の息子である義人が亡くなったのは、一八九二(明治二五)年の六月でした。とりわけ母は落胆し、実に大きい打撃となって、母に襲いかかりました。

若い母は愛児のつぎつぎの不幸に直面して不吉感をつのらせ、自分も元気を失い、夜になると悪夢に襲われたりするようになり、しまいには夫にたいして矢部郷の脱出を強要してきかないようにまでなった

このときまでに父親は目を患っており、矢部郷の眼科医に診療の知遇を得ていたことが、当地小学校への新任のきっかけとなるものでした。義人を亡くした当時、父親は二九歳で、熊本県上益城郡の矢部郷にある御所尋常小学校において校長として勤務についていました。三人の子を失ったあと、幸いなことにこの夫妻は、翌一八九三(明治二六)年の一〇月、下益城郡の松橋町にある磯田尋常小学校への夫の転出に伴い、新天地への住み替えをすることになりました。赴く先のこの学校は、山間地帯の矢部郷とは違い、不知火海(八代海)の沿岸に近い、暖かい平野部にありました。そこでふたりは、「人の教えによって、一姫二太郎式へのふりかえをねがい、清水観音に女子出生の願をたてる」ことにしたのです。矢部から松橋への転勤の旅の途中の出来事でした。

 明治二十六年に、父は矢部郷の御所小学校からいまの松橋町豊川にあった磯田小学校へ転任のこととなったので、ちょうど私を妊娠中だった母をしたがえて、阿蘇南郷谷の清水観音に大矢越えをして四日がかりで参拝した。このとき大矢のひとびとは、父のために山上で別離の宴をひらき、わざわざ競馬や角力などをもよおしてくれたと日記にある

阿蘇南郷谷の南外輪山の奥懐にある清水寺は、奈良時代の創建で、ご本尊は木彫りの千手観音像です。阿蘇西国三十三ヶ所観音札所の二一番札所になります。いま本稿を書いている筆者の草庵からこの寺まで比較的近く、車で二〇分ほどの距離にあります。先日参拝に行き、執筆祈願をしました。

さて、『高群逸枝全集』(第一〇巻/火の国の女の日記)において逸枝が記述するところによれば、父の高群勝太郎は一八六三(文久三)年に生まれ、母の登代子(旧姓は大津山)は一八六四(元治元)年に生まれています。ふたりはともに、肥後国(現在の熊本県)においてそのいのちが授けられ、結婚したのは、勝太郎が一八八七(明治二〇)年に御所尋常小学校に赴任したのちの、同じその年のことでした。逸枝によれば、「私の父勝太郎は、明治二十年の一月一日から、死の前々日の昭和二年八月九日までの日記四十一巻をのこした」ようです。勝太郎は号を「嵓泉がんせんと称し、その日記は、「嵓泉日記」の通り名で知られています。しかし、いまやその所在は不明です。他方、妻の登代子は、のちに夫から「静江」の雅号が与えられることになります。

勝太郎は、高群家の一人娘のついと、高群家に婿養子に入った太郎左衛門とのあいだに生まれた男子で、姉にただ、妹に杉がいました。杉は、千代野という娘を遺して早逝します。すでに太郎左衛門は亡くなり、高群家の家業は傾き、一家離散の状態にありました。そこで、一八九三(明治二六)年一〇月に勝太郎が磯田尋常小学校に着任すると、二箇月後の一二月に、長男の勝太郎は、母の終と姪の千代野を迎え入れました。そうしたなか、年が明けた一八九四(明治二七)年の一月一八日の午前一時か二時ころ、高群家の最初の女児がこの世に産声を上げたのでした。一月一七日の「嵓泉日記」には、このように記述されています。

 当夜ハ林田為八方へ膝廻リノ開点ニ付赴キ十時三十分頃帰家シタレバ静江少々産気付キシニ付、直ニ米村和三郎方ヘ至リ人ヲ雇ウコトヲ依頼シテ帰家ス。……
 然ㇽニ、産婆来リテ一時間許ヲ過ギレバ、安々ト分娩、女子出生セリ。依テ仮ニ名ヲ重尾ト命ジ、産婆ハ……帰散ス。余等ハ林妻、和三郎妻等ト枕ニ就ク。時ニ午前三時頃ナリキ

「重尾と名づけたのは前の子の終わりという意味であり、一恵とはいうまでもなくはじめて恵まれたという意味である(戸籍名がイツエとなっているのは出生届けのとき豊川村役場で誤記されたためである)」。これについて逸枝は、こういいます。「いまの文字は、私が物心ついたころ、一恵ではカズエとあやまられるのをきらい、ふかくもかんがえないで、戸籍名を漢字に音訳したもので、後そのままペンネームにしてしまった」10。そうした戸籍上のトラブルはあったものの、夫妻にとっては、願いどおりの女の子の誕生でした。ふたりは、初観音の縁日(正月一八日)に生まれたことをことのほか喜びました。

 私は父母から「観音の子」とよばれ、その待遇を受けて育った。毎月の誕生日には、幼い私を正座にすえて、母の心づくしのご供物でお祭がなされた。私は物心づいてから小学校入学の頃までは自分を観音の子と信じていた。このことは、私の人間形成の上にプラスとなった面が多いと思う11

御所尋常小学校から磯田尋常小学校に転じた勝太郎は、その後、磯田校と合併した豊川尋常小学校、続いて白石野尋常小学校へと移ってゆきました。この白石野時代、逸枝にある出来事が起きました。逸枝は、こう回想します。

 ある夕方、どうしたのか、お化けのでる裏山をよじのぼっていた。たぶん、夕月の光にさそわれたのだろう。雲が膨らんで、ほうと飛んだ。私は帰ることを忘れた。村では「神隠し」にあったというので、たいへんな騒ぎだったという。……
 この幼い私の冒険の意味は、私自身にもちょっと不可解なものであるが、それが私の生涯を支配した未知への好奇心・探求心の一つの芽ばえであったことは、うたがいなかろう12

勝太郎の任地が白石野から寄田に変わったのは、一八九八(明治三一)年の七月のことでした。逸枝はこのとき、四歳になっていました。

阿蘇南郷谷の清水観音に参拝する以前に、夫妻は、評判のよい、福岡県にある清水観音に参詣して、願掛けを行なっていた経緯がありました。そこで、「就学前の五歳の春、両親はこんどは私を築後山門郡の清水観音に願解きにつれていった」13のでした。こうして、「観音の子」として両親に祝福されて生まれた逸枝は、いよいよ学齢期を迎えることになります。「久具尋常小学校は、私の生まれた豊川村の隣った当尾村久具の寄田にあった。だから寄田学校とも通称せられた。私の一家はここに五年住むことになり、私はここで学齢にたっし、尋常四年の始めまで、この学校と村とに親しんだ」14と、逸枝は回顧しています。

六歳になった一九〇〇(明治三三)年四月、逸枝は、父親の勝太郎が校長を務める久具尋常小学校に入学しました。久具校は寄田神社の境内にありました。のちに、「望郷子守唄」の歌碑がここに建造されることになります。住居は、その校舎に隣接していて、六畳の居間と土間付の台所、それに、のちに建て増しされていた八畳の座敷の三間から構成されていました。

 妾は南國の緑の野の中に育ちました。家の前には桃の木の林がありました。その日だまりには、きれいな花が澤山咲いてゐました。窓には父がいました15

これは、家から見た景色で、学校の窓辺にたたずむ父親を描写した文かもしれません。

この学校では、集落の青年たちを集めての、勝太郎による夜学も盛んに行なわれました。「彼は夜学がすむと妻のもとに帰って、妻を机の前にすわらせ、字さしをもって『外史』、『十八史略』、『四書』、『通鑑』の類を教え、自分とおなじ学問の水準に彼女を引き上げる努力をした」16といいます。そうした半面、勝太郎には酒乱の癖がありました。

 酒のみがはじまると、子供部屋のない家なので……家を追い出されて、しょんぼりと立っていただろう小さかった私のおもかげが、いまも目に浮かぶようにみえてくるのである。こうして子どもの私は、酒の座のいとわしさや、喧騒や、そこに露出される人間どもの悪鬼めいた姿などにしょっちゅうおびえていたが、いっぽうではまたそうした人間どもに同情もするといった複雑な人生観の芽ばえをも引きだしていたのだった17

父親の酒癖の悪さについて、このようにも、逸枝は表現しています。一三か一四歳になったころの話です。逸枝に思いを寄せる少年がいました。

 酒亂の父が母をぶんなぐろうとして追つかけたりする。近所の子供達は、面白がつて見物する。そんな時、彼は近所の人達とともに子供達を追つぱらつたり、母を逃がしたり、父を寝かしたりしてくれた。さわぎが静まつて、弟達も寝てしまふ頃まで、彼はわたしの家の石段のそばに立つて、わたしのことを心配してくれてゐた18

また勝太郎は、酩酊すると自制を失い、横溢する性欲を妻にぶつけ、暴力を振るうことも日常的でした。

 わたしの次に弟達が生れた。……この頃から、わたしの家には、呑んだくれどもが、毎日のやうにやつてきた。その上、子として浅ましくも、悲しく感じられたことは、父の母に對する限りなき欲望の追求である。おお、そのため美しかつた母は瘠せ衰へた。また彼女は、子供に対する氣兼ねからも、われらの「呑んだくれおやじ」の暴力に烈しく抵抗し、そして大ていそれが原因となつて、踏まれたたかれた19

また、学校においても、父の態度へ強い不満を募らせる出来事がありました。「私は成績がよくて、たちまち父母のじまんの子となった。私のほかには上久具の森田とめという子もよくできた。……あるとき、私はこの子と二人で教室からつまみ出され、校庭の柳の木の下に立たされたことがある。この子が夏豆のいったのを巾着きんちゃくにいれてきて、授業中に私にもくれたので、それを食っていたのを父がみつけ罰したのだった」20。おりから雨が降ってきました。そのとき、森田とめは許されたものの、逸枝は許してもらえませんでした。母がさしかける傘を逸枝は拒みました。回想は、こう続きます。

ただ同罪の二人のうち、一人だけ残されたことには不満を感じたが、そこはまた私の曲従のさがで、父の不公平を不問に付したのだった。しかし、これがもしあべこべで、私が許されおとめさんが残されたのだったら、私はたぶん父を許さなかったろう。私の「曲従」については、おいおい明らかになるだろう21

学校生活がはじまると、父親とは、教師と生徒の関係にありました。また、同じ級友同士にあって新たな関係も生まれました。家庭生活では経験できない、複雑な人間関係がそこにはありました。逸枝は回想します。「ここらから対人関係での私の自己抑制が内部的に宿命づけられ、いわゆる優柔不断、曲従の性格が形づくられていく」22

逸枝の母の登代子は、村の娘たちに裁縫を教えていました。また、自分の娘には、物語を聞かせて、楽しませました。

母は地蔵さん、観音さん、お月さんの話が得意で、私のあだ名を「かぐや姫」などともつけてくれた。私が成長して娘になったころのことであるが、窓から母と二人で、冴えわたる満月をみていたとき、母が「この世はきたないので、いつかは忍びきれなくなり、みんなを捨てて、月の世界へ行ってしまうのではないか」などと私に冗談ともつかずいったこともあった23

こうした幼いときの体験が、その後に行なう詩作のイメージの源泉となった可能性もあります。十数年後の一九二一(大正一〇)年に公刊される逸枝の最初の詩集が『放浪者の詩』であり、『日月の上に』なのです。

さらにその母親は、学問も娘に伝授したようです。

その母は、凡そ妾が見ました世の多くの母親の中で、すぐれていちばん讀書が好きかと思はれました。母の父は漢學者だつたさうで、それが自然母にも傳はつてゐるので御座いませう。
 そこで妾はやつと七歳になつた春から、母に就いて外史、十八史略、源氏物語などを學びました。かうした習慣が、次第に世の中を遠ざけて、いつしらず窓の子になつたので御座います24

そののち逸枝は、世間から身を引き「森の家」に閉じこもると、詩人から女性史学者への道を邁進してゆきます。窓からは富士山が見え、日に一〇時間書斎の机に向かい、片袖だけが日焼けするほどの勉学でした。まさしく「窓の子」の完成形ということができます。

逸枝が四歳から九歳までを過ごした寄田時代を特徴づけるのは、家族構成の変動でした。すでに弟の清人(明治三〇年二月生)は白石野時代に生まれていましたが、この寄田での生活のなかにあって、次の弟の元男(明治三三年一月生)と妹の栞(明治三五年一一月生)が誕生しています。しかし、逸枝にとって大きな衝撃となったのは、祖母の終の死に遭遇したことでした。それは、元男が生まれた年の暮れのことでした。

 この祖母の死で、私は生後はじめて身近に人間の死を知り、のちに一生を支配した生死問題に入り込んだと思う。はやくも人生の虚無感にとらえられ、「この世とあわない」一面も芽ばえはじめたが、それと同時にあらゆる生命同士の団結や愛にも目ざめていった。処女詩集『放浪者の詩』の巻頭に、「死の愛」の一篇をのせているが、その思想もいわばこの祖母の死に起源したろう25

勝太郎に、次の転勤の話が舞い込みました。

 一九〇三(明治三六)年六月十四日、私たち一家は久具を去って、松橋駅から汽車に乗った。久具校の窓から北に親しく見えていた木原山の西麓を右手にみて、宇土半島のつけ根を横断し、つぎの宇土駅に下り、駅前からすぐママ田んぼに入りこむと、もうそこは、高群勝太郎の新任地守富村のうちだった26

いま本稿を書いている筆者の祖父は、一八八三(明治一六)年に宇土に生まれ、父は幼少のころしばしば祖父に連れられて木原山(雁回山)の不動尊に参詣していたといいます。そののち私も父のあとについて参拝するのが常となっていました。この山の不動尊は、日本三大不動のひとつで、この地域の住民にとって深い信仰の対象となっていました。逸枝も、こう回想しています。

この山には、後には自分ひとりでもよく登った。身を山中にひそめて、雑木のなかに悲しく風をきいた記憶がなつかしまれる。……私は木原山を「風吹く山」と呼んで親しんでいたが、いまもその風はむかしのままに吹いていることだろう27

高群勝太郎が着任したのは、守富尋常小学校でした。「移り住んだとき私の一家は、父四十歳、母三十九歳、私九歳、清人六歳、元男三歳、栞一歳と、縦姉千代野(十七歳ぐらい、やがて熊本の太田伯父に引き取られてママに出嫁)の七人家族だった」28。この家族は、一九一二(明治四五)年四月までの九年間、この地に留まります。逸枝は、「在任九年、勝太郎は御所以来の使命感と信念に徹し、まさに油ののりきった充実した生活をおくった」29と書いています。他方で、逸枝もまた、多感な娘時代をここ守富村(のちに富合村)ではじめることになるのでした。

着任から一年目、日露戦争が勃発します。それは、地方の田舎に暮らすこの家族をも巻き込むもので、「明治三十七年二月十日の対ロシア宣戦布告から、戦後にかけて、学校は国と村の怒涛のうずまきのなかにあり、父も母も、私も弟妹たちも、それぞれの分で、影響を受けた」30のでした。その様子の一端を、逸枝はこう表わしています。

 このころ、子どもらのあいだからおかしな踊りが生まれ、それが大人たちをも抱き込んで、村じゅうを風靡した。みんなは、体を曲げ、手足をぴょんぴょん振り上げながら、

  ニッポン勝った
  ニッポン勝った
  ロシャ負けた
  ロシャかぜひいて
  鼻垂れた

 と歌って乱舞するのだった。……講堂修身では、日本のアジアにおける重要な責務ということがいわれ、とくに朝鮮保護の重要性がとかれた。……こうして、国家意識と世界意識とが、同時にわれわれの心に刻印されて行った31

当時の小学校の修業年限は、尋常小学校四年、高等小学校四年でした。この年(明治三七年)の三月に逸枝は尋常小学校四年を卒業すると、四月から同じ守富村にある下益城北部高等小学校に入学します。逸枝は、一〇歳になっていました。

このころについての逸枝の記憶に、このようなものがあります。「守富村は夕陽のうつくしいところだった。西の方があいて海につづいており、雲仙岳がじゃまにならない高さで紫紺色にそまり、その上空がひろびろと思いきり赤く焼けていた」32。こうした夕焼けのなか、村の子守りたちは赤子を背負い、「五木の子守歌」を大声で合唱したようです。その一群に、栞を背中におんぶして歌う逸枝の姿もありました。

 この歌は五木のみでなく、肥後一円で歌われた。私は熊本南部の水田地帯に育ったが、一〇人、二〇人とうち群れて、肥後の大平野をあかあかと染めている夕焼けのなかで、この歌を声高く合唱する子守たちのなかに私もよくまじっていた33

こうした原体験により、そののち「五木の子守歌」を基歌とした「望郷子守唄」の新作詩が生み出され、この歌碑が、先の居住地である寄田の神社境内に建立されることになるのでした。

他方で、偏見や不公正さに対して怒りの気持ちを表に出すことも、このころ形成されてゆきました。この地域では、ホウセンカ(鳳仙花)のことを、ツマグレ(爪紅)と呼び、女の子たちはこの花で爪を染めて遊びました。しかし、久具や守富では、この花は別名「ツボバン」と言い慣わされていました。逸枝が下益城北部高等小学校に入ったころ、川尻や高江の地区から通ってくる子たちは、その名を田舎言葉であるとして、軽蔑しました。しかし逸枝は、久具時代に母親から、それは「坪花」のことであり、「坪」は昔都では庭を意味していたことを聞かされていたので、猛然と反発しました。逸枝はいいます。

 私はこのへんから学問が偏見を破る大きな武器であることを知った。また田舎言葉とか都言葉とかいっても、起源は平等であり、この原理は言葉のみではなく、その他のいっさいに推及してあてはめられるという理解をも少しずつ育てていった。あらゆる固定観念や既成観念への不信もこのへんから大きくなっていった34

このような幼少期の体験を踏まえて成人に達したのちに、逸枝が、これまで歴史家といえばもっぱら男性であり、その人が書く歴史のほとんどすべては男性の歴史であるという揺るぎない現状に反発し、女性の歴史家が女性の歴史を書くことに自身自らが乗り出してゆくことになったとしても、それになんらの疑問を差し挟む余地もないのではないでしょうか。

これに関連してさらに付け加えるならば、逸枝は、次のような逸話を語っています。「私には小さいころから一つの傾向はあった。それは『世のために』自分を役立たせたいという情熱である。父が『熊本貧児寮』をたてた塘林虎五郎というひとの伝記を読むのをきいて涙をながしたことがある。小学校のとき、希望を問われて『新聞記者』と書いて出したのも、新聞記者の公共性に意味を感じたからであり、小学校を出てからのある日、まじめに母に相談したのに、貧民街に嫁入りたいという一事がある。……これらの傾向をもつ私に対して、周囲はかえって『奇妙な子』あつかいにしたようである。新聞記者では先生に茶化され、嫁入話では母にへんにまちがってとられたし、私のまじめな意見は正解されないことが多かった」35。実際に逸枝は、小学校を卒業して熊本で暮らし始め、親から送られてくる学費を月々受け取るようになると、「すぐ第一に、金二十銭也を為替にくんで、塘林先生の貧児寮に送った」36と書いていますし、他方で、小学校を卒業して九年ほど立ったのち、結果は失敗に終わったものの、実際に新聞記者を志して面接を受けたこともありました。しかし、「世のために」という逸枝の思いは、これで燃え尽きたわけではなく、まさしくその熱情は、「清貧に生きる学者」という生業に、その後向けられていったといっても過言ではないでしょう。その後「世のために」は、さらに昇華して「人類のために」、という最終的理念へとつながった可能性さえ否定できないかもしれません。もっとも、「奇妙な子」という他者の視線には、変わりがなかったかもしれませんが。

さてところで、いま、熊本市立図書館には、逸枝の手製による『十三才集』(一九〇七年作)、『愚文集』(一九〇八年作)、『落寞日記』(一九一二年作)、加えて『四角集』(製作年不明)と『少女集』(製作年不明)が所蔵されており、当時の逸枝の心象風景をかいま見ることができます。最初の三冊には、所蔵日の印が「一九八二年三月三一日」とあり、最後の二冊は「一九八五年一月八日」となっています。どの手稿本にもノンブルはありません。

それでは、『十三才集』から幾つかの語句を断片的に拾い上げてみます。「しょう」は、婦人の自称で「わらわ(私)」を意味します。

妾は何事も云はじ 黙して父母君に仕えまつらむ

母様にしかられて泣く夕には 虫もかなしや ころころと鳴く

やみませる母上様にさゝげんと 秋の山道を花折りに行く

また、『十三才集』のなかには、「秋思」と題する短文もあります。

黄ばめる 林に立ちて 物思ひけり
日は落ちぬ 鳥はねぐらへ帰り去りぬ
我のみたゞ一人 いつまでもいつまでも
淡き愁ひを欲りしてとゞまれり
悪しや秋の暮

同じくそのなかの「兄上を思ふ」には、こう綴られています。

妾に一人の兄上様 おはしましき なづかしき そのおん名は義人とのたまひぬ……
妾には只の一人の御兄様だになし 妾は切に亡き兄上様を思ひまつりて さびしき 涙のみ 流れ出づるなり

さらに『十三才集』には、「義姉上様」と題された語句も並びます。これは、千代野の婚姻にかかわる一文かと思われます。

あれ山越えて森こえて。川のあなたの村里に。
嫁ぎ行くぞと十八の。わがみよ様は云ひましぬ。
おさなき此身ふりすてゝ。泣く泣く君は行きますか。

筆跡や内容などから判断しますと、『少女集』も、『十三才集』とほぼ同じ時期か、やや少し遅れてつくられたのではないかと思われます。今度は、そこから断片的に幾つかの文節を選び出してみることにします。

静かなる田舎は さびしき我にふさはし。
我は はなやかなるを欲せじ。

少女は 詩人をなづかしむ。……
少女は さびしく床しき里の詩人を慕ふ。厳かに優しき詩人をなづかしむ。

我は父母の里程の恋ひしさを他に得たる事なかりき 父母の里は聖く永遠に厳かなり

操高くて 野に住まむ事は いつ枝が只の一つの望なり。
我は清からん事を思ふ。みだらなるをいむ。汚らはしきを悪めり。
操なき女は獣類ぞ。處女たる我身は厳格なる處女として
静かに父母君様に仕えまつらんとぞ思う。……
操、厳かなる操の下に いつ枝は清く住まんとぞ思ふ。
すべて清きを希ふ乙女なれば。

野に住める此身は名もなくて亡び行くをなげくでなし。只父母に仕へまつりて清くありなむ。春は花 秋は月によき田園のなづかしさよ。いざ歌ひてむ
われは名を欲せじ。おのれの信ずる道をのみ行かんと思ふ。

どの文節においても、逸枝の希望や信条が語られています。そしてまた、その後の逸枝の歩む道を示唆しているようにも感じられます。この『少女集』は、ずっと逸枝の手もとに置かれていたようで、「森の家」で女性史研究に入ったころに加えられたと思われる書き込みが、余白部分に散見されます。その多くは、四〇歳になろうとする女の立場から少女時代の自分を振り返る内容となっています。

それでは、逸枝が一三歳のころの家庭は、どうだったのでしょうか。以下は、本人の後年の回想です。

 私の家はみんなが仲よく暮らした。その中心は、父母の仲のよさにあっただろう。父の日記をみると、〈家庭風波〉、〈夫婦喧嘩〉のことが若干出てくるが、それは父の飲酒をめぐっておこったもので、彼はいちいち〈予ノメイテイノ致ストコロ〉と書き添えているのである。それ以外のことで、家庭に風波がおこったことは、絶無といっても過言ではない。
 私も父母にさからったことも、兄弟喧嘩したこともない37

また、この時代になると逸枝は、兄弟のなかの最年長者としての立場を立派に演じていました。

 守富にくると、もう私は長女このかみを自覚し、その役割を親からも委託され、自分も忠実に行使するようになっていた。久具までは遊びにつれだすぐらいだったが、ここでは弟妹を、鉄道の踏み切りを越えて志々水の高浜医院につれていったり、田尻の理髪店につれていったり、川尻の大慈禅寺のねはん会や宇土の地蔵祭につれていったりした38

しかしながら、必ずしもこの間の日々がすべて平穏であったというわけではありませんでした。さまざまな悲惨な出来事が逸枝の身の回りに派生していたのです。

 祖母の死や従姉千代野の病気への深刻な同情と痛み(彼女は胎内にいるとき堕胎の水銀薬のために不具となった)、私の一族や私のぐるりの部落の人びとの上にみられる貧困、憎しみ、怨み、犯罪、酒乱等々の悲惨時をみたりきいたりするとき、感受性のつよい幼い私の心は、釈迦や日蓮や親鸞に比せられる清い尼となって、大乗的に人を救い、または小乗的にひとり行いすます道に進み入りたいとねがわずにはいられなかった、このねがいは熊本の観音坂の尼寺入り志願となり半ば実行して挫折した39

この守富時代の「尼寺入り志願」は、かつての白石野時代の「神隠し」の再来のようにも感じられます。といいますのも、逸枝の「家出願望」は、これで終わるのではなく、その後も繰り返されるからです。

こうしたなか、一九〇八(明治四一)年三月、逸枝は下益城北部高等小学校を卒業すると、いよいよ実家を離れ、熊本に住む母方の大叔父である隈部家に寄寓し、九月より、壺東女学校に通い始めるのでした。一四歳の夏の終わりの出来事でした。

第二節 逸枝の熊本生活

逸枝が入学した久具尋常小学校の最寄りの駅は松橋で、卒業した北部高等小学校は宇土駅の近くにありました。国鉄鹿児島本線の各駅は、松橋、宇土、川尻、熊本(春日停車場)、上熊本(池田停車場)へと南から北につながっています。壺東女学校は、上熊本駅から坂を登り、京町台に出るとそこから今度は下り坂になり、下り切った一帯の坪井の地にありました。この間の事情を、逸枝はこのように説明します。

 私は高小を出ると師範学校に入ることになっていた。……
 私は入学年齢に達しなかったので、一年間待たねばならなかったが、その間に、予備校の壺東女学校というのに、明治四十一年九月から数ヵ月在学し、近くの竹部七曲りの大叔父隈部清蔵(官兵衛)の家から通うことになった40

逸枝は、「師範学校を好まず、別のコースをとって大学に学びたいと考えていた……それを父に訴えたことはなかった。このように自分にとって重大なことでも、私は例のとおりなるべく他のおもわくに順応したい本能をどうすることもできなかった。こういうやりかたは……いまにつづく私の優柔不断の欠点の一つだろう。それに家の貧困は私にはわかりすぎるほどわかっていたので、父への愛がこうさせたのでもあった。……師範学校は小学教師の養成機関で、貧乏人でも秀才であったら入学できる半官費の学校だった」41

逸枝の回想は、さらにこう続きます。「一九〇九(明治四二)年、私は十五歳を迎えた。一月の十七日に隈部家から守富の家に帰り、翌十八日に松橋の郡役所で師範入学の予備試験を受けた。……本試験は翌月の十七日から熊本の本校でおこなわれた。女子部三十六名の合格者の名が九州日日新聞に発表されたとき、私の名は植字のミスでひっくりかえっていた。……私はちょっといやな予感がした。……これは当たった。私はのちに退学を命ぜられることになる」42

師範学校は京町台にありました。この高台からの眺めは壮観でした。眼下には熊本の街並みが広がり、遠く東には、大阿蘇の山並みを手に取るように見ることができました。

逸枝が入学した一九〇九(明治四二)年は、加藤清正の三百年祭に当たり、四月に盛大な催しが行なわれました。逸枝は、次のように記憶しています。「その二十五日の晴れた日曜日に、父は家族一同をつれて、宇土駅から上り一番の列車で池田停車場(上熊本駅)についた。私は外出の許可をとって駅に出迎えていた。この出迎えの場面は、私の生涯で最良の場面だったろう。親たちは師範生になって大人ぶっていた娘を満足感をもって見たし、私はまたそのことがうれしかったから。……加藤清正は菅原道真とともに父の信仰の対象だった。……私たち一家は、この三百年祭の本妙寺で、ゆっくりと楽しい春の一日を過ごした。……私はまた池田駅へ父母たちを送って行った。汽車は菜の花畑のなかを通って南に消えていった」43

こうした晴れがましい日が過ぎると、過酷な日々が待っていました。まず、脚気の病が逸枝を襲ったことでした。「私はとうとう一学期の試験も受けず、二、三学期も全休し……明治四十三年四月になると、もとの学年にとどまった私は……二十日にはじめて登校した。学校では例外的なはからいで、家からの通学を許すことになった。……九月の二学期から寄宿舎に帰ったが、十月十日から再び欠席をつづけ、十一月六日に登校、これからしだいに快方へむかった。ところが私の一番困った学科は、体操と作法と裁縫で、体操と作法は全休、裁縫も欠席か傍観かのどちらかになりがちだった」44

もうひとつ逸枝を悩ませたのは、教師たちとの軋轢でした。「私は病気休学中、文芸部指導の先生から、その頃女子部で発行していた学而会雑誌というのに投稿するようにとの通知をうけて、「告白」と題する原稿をよせたところ、あとで登校したとき、……呼び出されて、病欠中不謹慎だといわれておどろいたことがある。ただし内容が師範生を逸脱したものと認識されたものらしい。……つぎに私が『日月の上に』で偽悪的に書いている裁縫事件があった。この事件は、新しい材料でなくて着古した絹物を時間がないので洗い張りもせずに縫い直して出したことで、先生から叱られたのであった。……私は壺東女学校時代から熊本図書館通いや上通町の書店立読みを覚え学校では図書室にいりびたりだった。私が日曜日に外出しないで、図書室で哲学の本をよんでいると……哲学の本など師範生にあるまじいといい、生意気だと叱られた」45。それに加えて、このようなこともありました。韓国併合がなされた直後の講堂修身のときでした。それを正当化する講話を聴いたとき、「私はなぜ?という疑問をここでつよくもち、憂鬱になって寄宿舎に帰った」46のでした。「こうした状態で十二月の学期末のやすみに帰っていると、その二十八日に、退学通知書が届いた」47のです。このときの逸枝の心境は、次のようなものでした。「ああ病弱の敗残児何の用にか立たん。これも運命か。いな不甲斐なければなり。咄咄!不運児いな貧弱児」48

年が明けた一九一一(明治四四)年一月、「不運児いな貧弱児」たる逸枝は一七歳の誕生日を迎えました。おそらくお祝いどころではなかったでしょう。「私は……師範退学後の絶望的状況にあって心の根拠をも見失おうとしていた。何よりも苦しかったことは、愛の心が弱まり、孤独という冷酷な事実に直面したことにあったと思う」49。逸枝にとってこの年は、何にも属さない、悲哀に満ちた浪人生としての一年でした。しかし、別の観点に立てば、この年は、逸枝にとって極めて重大な意味をもつ一年でもありました。

この年、都会では大きな出来事が起こりました。捏造された「天皇暗殺計画」を理由に、社会主義者や無政府主義者の二六人が前年に逮捕されると、翌年の一九一一(明治四四)年一月、大審院は、逮捕者全員に有罪の判決を言い渡し、『平民新聞』を創刊した幸徳秋水を含む一二人に対して、大逆罪での死刑が執行されたのでした。いわゆる「大逆事件」です。死刑の犠牲者のなかに、同郷の新美卯一郎と松尾卯一太がいました。ふたりとも、熊本県尋常中学校(一九〇一年に熊本県立中学済々黌に改称)の卒業生でした。のちに逸枝が述べているように、この事件が、自身がアナーキズム(無政府主義)へと向かう遠因となるものでした。

もうひとつの出来事は、この年の九月、平塚らいてうの手によって『青鞜』が創刊されたことでした。『青鞜』第一巻第一号所収の「元始女性は太陽であつた。――青鞜發刊に際して――」は、次の言葉ではじまっていました。らいてうによる文です。

 元始、女性は實に太陽であつた。真正の人であつた。
 今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。
 偖てこゝに「青鞜」は初聲を上げた50

『青鞜』の創刊、そして「元始女性は太陽であつた」ではじまる発刊の辞は、のちの逸枝が告白しているように、らいてうをもってして自分の妣(母)とみなすきっかけとなる事件でした。そしてまた、逸枝が「母系制の研究」へと向かう大きな原動力となるものでもあったのです。

『青鞜』創刊のちょうどそのころでした、逸枝は、熊本女学校の福田令寿校長に、四年への編入試験を受けさせてほしい旨の手紙を書きました。「明治四十四年九月のことだった。福田先生からは、折りかえし翌年の四月に受験するよう返事がきた。その四月の十一日、弟の清人は済済黌に入り、私は十二、十三の両日、女学校で試験を受けて入学した。……京町一丁目中坂の専念寺という隠居寺に下宿し、弟と二人で自炊をして通学することになった」51

逸枝が熊本女子校の四年次に編入した一九一二(明治四五)年の四月、一方の父親の勝太郎が、理由は詳しくはわかりませんが、左遷により佐俣尋常小学校に転任します。「勝太郎の六度目の任地佐俣は、松橋から堅志田をへて砥用に行く中間の街道すじの部落で松橋から十五キロぐらいのところだった。……私の一家は、大正元年[一九一二]四月から同四年三月までの約三ヵ年をここで送ることとなった。……私は五月四日に、弟清人と二人で、はじめてこの新居に帰省したが、谷水の清らかさ、樹々のみずみずしさに眼をみはった」52と、逸枝は回想します。

逸枝は、この熊本女学校に四年生の一年間だけ在籍することになります。一年が過ぎようとする、一九一三(大正二)年の春がまぢかに迫ったある日のことでした。師範学校に続いて、ここでも「事件」が起きました。逸枝は、こう語ります。

徳永先生……から、人のいない室に呼び入れられ、職員会議の結果を代表して伝えるとの前提で、「お前は天才ではない、思いちがいをしてはならない」と戒告された。これがまた当時の私には理解されない。私はそれまで自分を天才とも思わず、口にしたこともなかったからで、むしろこのことがあって後、天才とはなんであるかということを熱心にかんがえ、天才とは能力の純粋性で、たれの内部にも存在しているものだという結論にたっした記憶がある。……当時の私はくずれおちそうな気がしたことを覚えている。しかし……徳永先生の戒告は結果的に私を救ったともいえる。
 なぜなら、ここから、この心重い惑いのなかから、私の処女作「日月の上に」の根本精神となった「出発哲学」がはぐくまれることとなったからである53

この「事件」後の一九一三(大正二)年の三月、逸枝はこの学校を自主退学します。「専念寺には私にかわって末弟の元男が入り、兄弟二人で済々黌に通った。兄は二年生、弟は一年」54。これをもって逸枝は、熊本を離れ、家族が住む佐俣の実家に帰郷しました。

この年も、逸枝にとって失意の年になりました。勝太郎は、逸枝が教職につけるように上司に働きかけたり、逸枝本人も教員検定の試験を受けてみたりもしましたが、思いはかないませんでした。しかし、職につかないまま、惰眠をむさぼるわけにもいかず、また、ふたりの弟の学費を援助することも考えなければならず、逸枝は働きに出ます。

 こえて十一月十七日の清人の「大正二年日記」によると、「朝、姉さまを送りて春日停車場まで行く。いそぎ昇黌。校門を入りしとき鐘鳴る」とあるが、これは、私が京町の専念寺から、熊本駅近くにあった鐘紡紡績に通勤していることを示している。工場は朝が六時なので、暗いうちに出かけねばならないから、清人と元男が熊本城内を通って送ってくれていたのである55

しかし、弟たちの姉を思う温かいこころが心苦しく、逸枝はその後、工場の寄宿舎に入ります。しかし、ここでも問題が起こります。逸枝は、こう書いています。

そのころ私は、むろん労働運動も女工哀史的事実も知らなかった。入ってみると、時間に不正があり、十二時間労働のたてまえが、十五、六時間にもなっていた。……とくに毎日の訓話に、女工が働くことを会社の必要とはいわないで、国家のためだ、天皇陛下のためだ、といっているのに不当なこじつけを感じた。会社から出している雑誌めいたものがあったが……それらの不当をなじり、賃金のやすいことまで質問のかたちで書いた。事務室の前にさげてあった投書函にもおなじ問題を書いて入れた56

それに対しての会社側の対応は、こうでした。「会社の女工募集係りが、『校長先生の娘がくるところでない』といったような話をして、暗に退社を勧告した。そして、[寄宿舎の]世話婦からは、さんざんないやみをいわれはじめた。私は人からいやみなどをいわれたことはほとんどなかったので驚いた」57

逸枝が鐘紡紡績工場(鐘ヵ淵紡績株式会社熊本支店)を退社したのは、年を越した一九一四(大正三)年の三月中頃でした。逸枝は振り返ります。「とにかく、四ヵ月余の女工生活だった。そして、日給十三銭では、もちろん弟たちへの学資援助の目的も達せられずじまいだった」58

のちに『九州新聞』は、「肥後が生んだ唯一の女流詩人」と題して、逸枝への聞き取りを踏まえ、少女時代から出京後詩人として名声を博するまでの流れを三回に分けて連載することになります。そのなかにあって、退社の経緯については、このように書かれています。

女工になつたことが、故郷の父親に知れると、父親は火のやうに怒つて彼女を呼び戻した、そこで彼女は詮方なく故郷に歸つて代用教員となり濟ました、然し不安と、不満と、反抗とは常に彼女の胸に鬱積して、毎日退屈な日を送つた59

この小伝には、こうした記述も見られます。「まだ七八才の頃彼女は漂然として家を出て幾日も歸らなかつたことがある、其の時お母さんは涙をたゝへ乍ら『あの子は観音さまの申し子ですからね』と泣ひたそうであるが、然し彼女に言わせると只森が戀しさに野面吹く微風が戀しさに家を出たまでで決して事情なんか伏在してはゐなかつたのだそうな……彼女の気持ちは早藝であり、行為は常に奇行的であつた」60。また、「彼女が尼僧となる決心をしたのは十二歳の頃であつたが、家庭の都合で許されなかつた」61。今回の女工就職も、「神隠し」と「尼僧志願」に続く逸枝の「奇行」の一種だったのでしょうか。いずれにしても、親の激怒に会い、頓挫するに至るのでした。「観音の子」といえども、なかなか自分の願いを成就することは難しいようです。

第三節 女工から山の学校の女教師へ

鐘紡紡績を辞めた逸枝は、両親の住む佐俣へ帰ると、佐俣から四キロくらい離れた西砥用小学校の代用教員として働き始めました。この学校は尋常(六年)と高等(三年)から構成されていました。逸枝が担当したのは、五年の女子でした。

 大正三年四月の新学期から、月給八円の代用教員になった。二十歳だった。ここで私ははじめて一社会人となったわけだが、これから約三年半の教員時代は、実際にはまだ大人の世界や世間のことを知らず、もっぱら子供と山の自然に親しんだ時代だった62

「佐俣から砥用へ通う道は、畑や谷をへだてて、山々がうつくしかった。それらの山々には、山ざくらや、おくれて梨の花が、山腹に夢のように咲いていた。……最初のうち、母は私を今村橋のところまで送った。母もきっとうれしかったのだろう。その橋のたもとで私は母から弁当箱をうけとるがはやいか、すぐにかけだしていた」63

西砥用小学校の勤務は二箇月ほどでした。六月の中旬、逸枝は、父が校長を務める佐俣尋常小学校へ移ります。次は、当時の逸枝の教育観の一端です。「私は近代社会の開幕にともなって登場してきたルソーの自然主義、ペスタロッチの自由主義、ファーブルの実物主義から、アメリカの新教育思想等に辿り入って深い感銘を禁じえなかった」64。もっとも、逸枝の仕事は、授業だけではありませんでした。逸枝が受け持ったのは一年生でしたので、そそうする子もいました。「私はしくじって泣き出した子をつれて、川に行って洗ってやったりした。寒い時にはぬれた着物をかわかすのが一苦労だった」65。保母役だけではありません。「私は子供たちをつれて、よく山登りや野あそびをした。佐俣部落の上にある城山にも子供たちと行った」66。一方身なりは、「私は他の女先生たちのようにはまだおしゃれを知らず、絣の筒っぽと黒の木綿袴でとおしていた」67

この年、大きな出来事がありました。

 この大正三年という年は、第一次世界大戦がおこった年で、日本も八月参加、十一月に青島を占領した。その十日、この村でも祝賀の旗行列がおこなわれ、音楽隊を先登に、五高の吉岡郷甫つくるところの青島陥落の歌をうたいながら、佐保校を出発し、役場所在地の小莚部落に行き、戸主、青年、母たちも勢ぞろいして、各部落を一巡したのだった68

翌一九一五(大正四)年の四月、逸枝の父の勝太郎は、払川尋常小学校へ転任し、一家もその地に移動します。払川は佐俣よりさらに山に入ったところにありました。「学校は新旧の清潔な校舎からなり、新校舎は二階建の新式建築であって、校庭の前を釈迦院川上流の透明なうつくしい水が流れ、そこには土橋がかかっていた。学校は部落からは遠く孤立し、うしろも前も山で、谷に沿って段々畑や、すこしばかりの水田があり、山の斜面には茶園や桑圃もあった」69。この学校が備える図書には、「平塚らいてうさんの発禁になった『円窓より』とか、福沢諭吉の『女大学評論』などいう本もあった」70。このとき勝太郎は五二歳になっており、払川校が、彼にとっての最後の任地となりました。

一年間あまり、逸枝は、ここ払川から佐俣校まで、釈迦院川に沿った道を歩いて通いました。またときには、峠越えをする道も利用しました。逸枝が「父の払川校に引き取られたのが大正五年九月の二学期から」71で、それ以降、再び父娘そろって同じ学校の教壇に立つことになるのです。ところが、そうした安定した教師生活に、新たに「恋愛」という大事件が加わったのです。逸枝、二三歳。「一九一七(大正六)年のはじめごろ、私は、一通の思いがけないはがきを受け取った」72。山の学校の女教師に宛てて出されたこのはがきの内容は、「そのころ私が父のすすめで自信なく書いた短い感想文が教育雑誌に出たのをみて、球磨の一青年Kが回覧雑誌を出すとかでそれへ参加をすすめたもの」73でした。「球磨の一青年K」――この人物こそが、これよりのち逸枝の「恋愛」の相手となる橋本憲三その人です。それでは、憲三の生い立ちからここへと至る道筋を、以下に概略述べてみたいと思います。

第四節 橋本憲三の生い立ちと人間形成

橋本憲三は、一八六四(元治元)年生まれの橋本辰次を父とし、一八六八(明治元)年生まれの橋本ミキ(旧姓は田村)を母として、一八九七(明治三〇)年一月一〇日に熊本県球磨郡大村(現在の人吉市)の地に生まれました。父親の辰次は、熊本県八代郡日置村の出で、同じ八代郡の太田郷村の出身である母親のミキと結婚し、入籍したのは一八九一(明治二四)年のことでした。最終的にこの夫婦に授かったのは、秀吉、フジノ(藤野)、憲三(戸籍名は憲蔵)、シゲノ、武雄、袈義、シズコ(静子)の四男三女でした。したがいまして憲三は、この夫婦にとって三番目の子で次男ということになります。逸枝より三年遅れての誕生でした。

橋本静子は、両親の馴れ初めをこう語っています。

 父は八代在の農家の長男、義母に女の子が生れ偏愛する様子を見て、家産をゆずって家を出たといいます。母は富農の娘で、小柄の色白で、赤い手柄をかけた桃割れが似合うかわいい娘振りだったそうです。村の盆踊りで父を見染め、あまたの有志を振り切って父のもとに嫁いだのでした74

一八九一(明治二四)年に長男の秀吉が、一八九四(明治二七)年に長女の藤野が生まれると、次男の憲三をおなかに宿しているとき、辰次とミキの夫婦は、八代から球磨川を上り、新天地に向かいます。石牟礼道子は、そのときの様子を、憲三の姉の藤野から聞いた話として、次のように書き表わしています。

 父の橋本辰次は太田郷の、ここは古くから広大な荘園がひらかれていたところで、そのあたりの在の自作農の息子、母みき子は地主の娘でした。……この夫婦はかなりの田畑を整理して妹に家督をゆずり、上流の相良盆地にむかって、いわば新天地をもとめて舟に乗ったのでした。八代から人吉まで、今ならば急行で一時間のところですのに、船頭の棹と人の体に巻きつけた綱の力で急流の岸辺をえいえいと遡行させ、途中の一勝地までくると日が暮れますから、船の上で食事ごしらえをして、船の上で一晩泊ります。それからまた一日かけ、まるまる二日かからねば人吉まではゆきつけぬ船の旅でした。……どのような天地がひらけているのか、上流からの川風にゆられながら、父母に手をひかれて、そのような屋形船に乗せられた姉藤野の幼い記憶によると、みき子はそのとき妊っていて、おなかにいた子が憲三だったということです75

それから時が流れ、一九〇三(明治三六)年のことではないかと思われますが、憲三が六歳のとき、ふたつ下の四歳の妹のシゲノが不慮の事故により死亡しました。憲三は、逸枝と共著で一九二二(大正一一)年に『山の郁子と公作』を公刊します。その本は、憲三が書いた前半部分の「山の郁子と公作」と、逸枝による後半部分の「公作へ郁子より」から構成されていました。シゲノの死について憲三は、「山の郁子と公作」のなかで、このように触れています。

彼の妹が不慮の死を遂げたときのことであつた。妹はあまり高くもない崖から夢のやうに落ちて、彼の眼の前で、大地に頭を打ちつけて、そのままころりと轉つて、何の苦もなく死んで了つた。彼は嘘のやうな死骸の前にぼんやりと突立つてゐた76

この「山の郁子と公作」は、憲三が逸枝と知り合う前後にかかわる自叙伝的な、あくまでも「小説」ですので、内容は必ずしも真実ではないかもしれません。他方、静子が堀場清子に語ったところによれば、その事故は、次のようなものでした。

小渡の家は球磨川の川岸にありまして(県道沿い)、其の朝、球磨川の洗い場に顔を洗いに行くのを渋ったのだそうです。母はやさしい人でしたけれど、子供の躾はおこたらず、「猫でも顔を洗うのに(猫は前足につばをつけて、顔をこするのを――)まして人間の子が顔を洗わないで御飯をたべることは出来ない」と言われて、シゲノは球磨川の洗い場にいき、寒い日のことで、川に転倒しておぼれていたのだそうです。かなしい母77

静子は一九一一(明治四四)年の生まれですので、この事故には、直接立ち会っていません。したがいまして、これは、のちに両親か兄姉のような人から聞いた話にちがいなく、そのため憲三の挿話よりこの言説の方が真実に近いかどうか、それもまた定かではありません。

しかしながら、どちらの原因で死亡したのかは別にして、家族にとって痛ましい事故であったことには変わりありません。六歳になる憲三はちょうど尋常小学校に上がったところでした。それから一三年が立ったのちに憲三は、シゲノの思い出と、彼女に寄せる哀惜の念とを、こう綴っています。

 ――山里に嵐が吹いて、雜木林が疎らに空いて見えるやうになつた。
 その下の落葉を漁ると、中から鬼灯大の山芋の實がいくつとなく轉げ出た。山里の子供達は争つて夫れを拾つて白い細絲に通した。……子供達は山芋の實のことをみんなひめ・・と云つて居た。
 少年は冷え切つた自分の體には構ひもせず危ふげな手つきで火箸をとりながら『ひめの輪』を熱い灰の中に埋めた。
 その間、彼の妹は正しく坐つた膝の上に両手を重ねて、ぢつと、少年に火箸の先さを見守つて居た。喜びはその二つの黒見勝な清しい瞳にあつた。
 まもなくひめ・・こげ・・て快よい匂ひが、プンと、小さい二人の嗅覺をそゝつた。二人は相顧みてニツコリ笑つた。……しかし、こんなときも、少年は妹に對して決して獲物の分前を等しくすることは許さなかつた。おとなしい妹は彼のなすがまゝにして、夢にも、自分が彼よりたくさん拾つたことを主張するやうなことはなかつた。
 いつたい妹は年に似合はずませ・・て居てよくすべてに氣がきいてゐた。『怜悧な兒はやつぱり早く死ぬる。』と、母は泣いて後に人に語った程であつた。……
 その妹が急に死んだ。――
 じつと、墓の前に額づいた私の眼の前に浮ふまぼろし、夫れは五つの彼ではなくて、十八のそれはそれは美しい振袖姿の少女であつた78

引用文中の山芋の実の「ひめ」は、「むかご」を意味します。また、末尾にある妹の年齢の「五つ」は、数え年による表記であると思われます。

すでに上で示しています静子の言葉によりますと、このころ一家は、大村を出て小渡に住んでいたようです。シゲノが死去する事故があった翌年の一九〇四(明治三七)年二月のことになりますが、主戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく反戦論など、なすすべもなく、御前会議でロシアとの交渉が打ち切られ、対露軍事行動の開始が決定されました。憲三の父の辰次は、日清戦争に続いてこの日露戦争でも軍務につきました。戦争が終わるのは翌年の九月です。憲三の小説「山の郁子と公作」に、父親の出征の様子が次のように記されています。出征が一九〇四(明治三七)年であれば、そのとき父親は四〇歳、息子の憲三は七歳になっていました。

写真に残つてゐる軍服姿の父は容貌魁偉天晴れな大丈夫であるが、日露の役に召集せられて、貧乏な家族を後に残していよいよ船に乗り込んだとき、見送りの人人から栄ある名誉の名によつて一斉に浴びせかけられた、万歳と水煙りとの中に唯黙然と突立つた思ひ出の中の父の姿は、あまりに寂しかった。
「ああ、また人をおだて上げて殺さそうとする声がはじまつた。」
これはある正直な一将校が、万歳に対する皮肉な嘲笑であつた79

また、「山の郁子と公作」には、こうした母についての描写も見ることができます。

 彼の母は至つて口數が少なかつた。そして所謂菓子を與へるにしても、何等嬉しがらせの前振れもなければ、恩恵による教訓もなく、ましてそれが爲に報酬を求めることも、義務を負はせることもしなかつた。そしてその素晴らしい愛は黙黙の間に現はれ、また黙黙の間に隠れるのが常であつた80

そののち、憲三の一家は、小渡から一勝地に移ったようです。しかし、小渡でどのような生活をしていたのか、また、いつここに移ったのか、そのようなことを示す正確な資料は残されておらず、また、それについての憲三の記憶も途切れがちです。唯一、憲三が道子に語ったところによると、だいたいこのようになります。

――ぼくの一家はそういう次第で人吉に一度は移り住んだのです。ぼくは、その翌年、青井神社のそばの家で生まれたということですが、もう、鹿児島本線がかかるという話は具体化していたとみえて、人吉で営みはじめた雑貨屋が思わしくゆかなかったらしいこともあって、一勝地に、鉄橋がかかるという噂を、つまり当てこんでですね、移って来たらしいのです。それでぼくは、松谷尋常小学校というのに入っていたのですが、全校生徒が八十人くらい、三学級ありました81

鹿児島本線が八代から人吉へ延伸され、一勝地で鉄橋の架橋作業が行なわれることになれば、球磨川の水運の要所であった一勝地は、物資や人の往来で、いままで以上に今後にぎわうことが予想されます。一家の一勝地への移転の背景には、そうしたことがあったものと思われます。さらに憲三は、道子にこう語っています。

 一勝地でのぼくの家はその、川船のもやいどころでもあったのです。球磨地方は木材、木炭、楮などの産地ですから、木材は筏で流すのですけれども、まあそのような人吉からの物資を川船で流して八代で荷さばきをして、戻りの、上りの船が一勝地で一泊するわけですので、「橋本屋」という宿をひらきましてね、初代ではなく、前にやっていた人のを買いとるかなにかして、はじめたらしいのですけれどね。……
 ぼくのその頃の仕事といえば、ランプみがきなんです。家の商売柄、ランプがたくさんありました。……毎日、そのランプのホヤを磨かされるのです。ランプのホヤは、大人の掌でははいりきれませんから、宿屋の子でなくとも、ランプのある家では、子どもが、ランプの磨き役をしていたと思いますよ。……
 それでね、ぼくの家は二階屋で、下が三部屋、上が四部屋、これはみんなお客部屋なんです。広い中庭があって池をとり、そこにお客に朝夕出すための、鯉とか鮎とかをたくさん泳がせてありました82

一九〇八(明治四一)年、八代から人吉までの鹿児島本線が開業しました。逸枝の『今昔の歌』に、鹿児島本線の開通の時の様子が、次のように綴られています。

 肥薩線が人吉まで開通したとき、ちょうど守富校にいた父は、修学旅行として学童たちをつれ、母をもともなって、秘境人吉の見学に出かけた。父母は球磨川渓谷のうつくしさと、トンネルの多いのと、人吉町のあかるさとにおどろき、鎌倉以来の城下町のしずかな文化的たたずまいに感嘆して帰り、その話をしてきかせ、私の夢をさそった83

そののち一九二七(昭和二)年に、八代から鹿児島までの海岸に沿った新線が開業すると、こちらを鹿児島本線と呼ぶようになり、八代から人吉を経由して鹿児島の隼人に通じる山間の線は、肥薩線の名で知られることになります。この文のなかで逸枝は、「鹿児島本線」ではなく、執筆時の線名である「肥薩線」を用いています。

一九〇八(明治四一)年の開業の当時、逸枝は一四歳で、下益城北部高等小学校を卒業したときで、三歳年下の憲三は一一歳で、おそらく尋常小学校の五年生に在籍していたものと思われます。ふたりが実際に会うのは、まだもう少し先のことです。しかし、憲三の将来については、熊本師範に進学することが、このころすでに家族のあいだで合意されていたようです。憲三は語ります「小学校で首席を通していたので、父がその気になってくれ、確定的には尋常六年の頃だったと思います」84

八代と人吉を結ぶ路線が開業しますと、物や人びとの流れは、球磨川ではなく、当然ながら鉄道へと移ってゆきました。「山の郁子と公作」のなかに、こうした描写箇所があります。

 汽車が開通してからこの船場は次第に寂れて行つた。夕方になると打連れて何十艘となく這入つれ來た河船も全くその姿を見せなくなり、往来は恰度火の消えたやう、すうと威勢よく幾臺の俥が燕のやうに入り亂れて飛び交つた昔の面影は、再び見られなくなつて了つた85

また、堀場の問いに答えて、憲三は、このように説明しています。「船宿は明治四十一年に鹿児島本線が八代から人吉まで延びたときから衰微し、人力車立て場もなくなり、やがて一家は那良口駅の奥地に官営製材所ができたのに父が惹かれたのか那良口に移りました」86。静子も、この時代について、こう書いています。「終の栖の那良口では、村人の需要に合わせて、米、麦、味噌、醤油などの小商いをしておりました。球磨地方は当時全国的な木炭生産地であり、『球磨木炭同業組合』が設立されていて、そこの木炭検査員となり一応くらしが立ちました」87

おそらくそのころのことではないかと思われますが、今度は憲三に不運が襲いました。それは、失明に至る大きな事故でした。憲三は、次のように話しています。引用文中の「森の家」とは、逸枝と結婚し、彼女が執筆に専念できるように、一九三一(昭和六)年に東京の武蔵野の森のなかに建設したふたりの住居を指します。

実際は鳥わなをかけようとして、枝を取り去った小さい木を弓のように曲げようとして手をすべらし、その木の切口の先端が左眼の瞳をかすめたに過ぎません。痛みは瞬間だけでした。しかし瞳孔に達したとみえて失明しました。弟(武雄)と二人で泣きながら帰りました(絶望して)。森の家の中頃までは電柱や近づいてくる人影などはまだぼんやりみえていました。その後急速に陥没しました(眼窩がくぼみました)88

一方、このときのことについて憲三は、「山の郁子と公作」に、次のように書いています。「父は叱つた。母は泣いた。兄は黙つて彼を遠い町の病院へ連れて行つた。彼は其處で人生の無常と憂鬱と呪詛と祈祷を知つた。彼は十四の春を迎へた」89。この記述内容が正確であるならば、おそらく事故に遭遇したのは、一九一〇(明治四三)年一月一〇日の満一三歳の誕生日を迎える前後のころではないかと推量します。それから、歳月が流れるものの、憲三の心の痛みは決して消えることはなく、一九一六(大正五)年一一月一五日の『人吉時報』(四面)に詩情となって現われます。この「思ひ出の熊本」は、八節から構成されており、ここに、最初のふたつと最後のひとつの詩節を紹介します。

  一
灰色の古き建物
なづかしき夜の灯の色
熊本は吾れ病みを得て
はじめても知りし名なり
  二
病院の九十の月日
悪戯の報ひと知れど
友もなきその明け暮れの
如何ばかり寂しかりけむ。
  八
五歳の星は移りて
吾は今不遇に泣くなり。
兄様の『目はなぜ白い』
四つになる妹は尋ぬる――。

最後に出てくる「妹」は、シゲノでしょうか。それであれば、シゲノの不遇と自分のそれとを重ね合わせていることになります。しかし、もし「妹」が静子であれば、兄を愛おしむ静子の思いの発露として読むことができます。のちに静子は、事故当時のことを、そう書いています。「憲さんの目のけがの時は、お金がなく材木屋の伊藤松さんに前借に走り、お金をクシャクシャの紙に包んだ父が、仕事着のまま町の医者に連れて行った」90

一五歳になった憲三は、おそらく一九一二(明治四五)年三月に一勝地尋常高等小学校を卒業したものと思われます。しかしこのとき、目の疾患が、過酷なことに、憲三の師範学校受験の機会を奪いました。これに関して柴田道子は、こう説明します。

逸枝が小学校を常に首席で卒業したころに、K[憲三]も首席をとおし、兄弟のうちでもすこぶる頭がよかった。彼は熊本師範に進学することに決っていた。そこに左眼失明という不運に遭遇する。利発で活発なK少年は、突如進学を絶たれ、人生をどんなにはかなみ、ニヒルになったか想像にあまりある91

憲三が熊本師範への進学を諦めなければならなかったことは、本人はいうまでもなく、多くの悲しみを両親と家族にもたらしたにちがいありません。他方で憲三は、ニヒリズムという自己の性格について、このように分析します。「自分では生得的なものと思っています。しかし一方ではごく正直者で、正直と、ニヒルと、正義感が同居していたと思っています」92

高等小学校を卒業し、「代用教員になるため講習所に入ったとき健康診断があり、ツベルクリン反応が陽性(軽度-桃色)で治療を受けるよういわれました」93。そこで憲三は、「就職前は胸部疾患の治療やら家の手伝いなど」94をして過ごしました。静子の文の一節には、「憲三は村の高等小学校で、開校以来の秀才だといわれていましたが、進学が出来ず、異例の準訓導の辞令で村の分教場に赴任」95とあります。憲三が、教職についたのは、一九一四(大正三)年四月のことで、神瀬村在所の高沢尋常小学校でした。因みに、奇しくもこのとき、逸枝もまた、西砥用尋常高等小学校の代用教員としてはじめて教壇に立ちます。もちろん、いまだふたりは、相手の存在を知ることはありません。逸枝二〇歳、憲三一七歳のそれぞれの春の出来事でした。

憲三は、最初の赴任校について、次のように振り返ります。

 いまは球磨村、当時神瀬村の高沢尋常小学校につとめました。二ヵ月たらずで、この学校附属の大槻分教場というところの教師がやめるか転出かでそこへやらされました。
 私は大よろこびです。教師は私ひとり。頭をおさえるものがなくて勉強ができるものですから(いまも分校としてあるでしょう)。児童数は私のとき二十人内外で、ある一学年が欠けていました。ランプ時代でしたが、私が石油をたくさんつかうといって、本校に使いにいったものに注意を受けましたが、私はかまわず請求しました。それから私が『読売新聞』をとったので郵便屋さんがひじょうにこまり、けっきょくある部落まで届けて置き、それを大槻部落の人が神瀬の主邑に物売り物買いにいった帰りに受け取ってくるということになりました。炊事は上級の女生徒が順番で準備してくれました。村に当番があって学務委員を通じて用が果たせました。ここに二年たらずいました96

その後憲三は、一九一六(大正五)年四月から一年間、湯前村の湯前尋常高等小学校に、続いて一九一七(大正六)年四月から一年間、山江村の尾崎尋常小学校に勤務することになります。『人吉時報』の第一号が出るのは、憲三が湯前校に勤務していた、一九一六(大正五)年七月五日のことでした。この新聞は毎月、五日、一五日、二五日の三回発行される地方紙でした。これよりのち憲三は、この新聞を舞台に、評論や詩、小説などを投稿し、文学青年として頭角を現わしてゆきます。

最初の憲三の評論文は、「橋本紅雨」の筆名で第三号に掲載された「巻頭言を讀みて」と題された手紙文でした。その一文は、これまでの月二回の刊行を三回に改めただけで、編集者も変わりないなかで、本来五九号とすべきところを初号として発刊した経緯を綴った初号掲載の「巻頭言」について、その理由を問いただすものでした。続く四号に、憲三は、「てるかくにて――」と題して詩文を寄稿します。そのなかで憲三が書いているように、「てるかく」は、一八七七(明治一〇)年に起こった士族による反乱である西南役の古戦場です。少し話は飛びますが、石牟礼道子が、『暗河』の創刊号に「西南役伝説」(第一回)を寄稿するのが一九七三(昭和四八)年で、憲三が亡くなる三年前のことでした。のちのちの憲三と道子の巡り会いの地点から眺めれば、このとき憲三が書いた「てるかくにて――」は、極めて暗示的な作品であるということができます。第六号に掲載された「テルモビレ山上の碑石」も戦いを題材にした短文で、ここでは、テルモビレ王との戦いに散ったスパルタ武士の死が語られています。第一〇号(一〇月二五日刊)と続く第一一号(一一月五日刊)には、二回に分けて小説「ある男」が連載されます。ここでは、北海道に旅立つ友人との一場面が描かれていました。一九一七(大正六)年に入ると、第一五号(一月一日刊)掲載の小説「皮肉」と第一五号(四月二七日刊)掲載の小説「そのまゝに」が続きます。この二作の筆名は「甫水」となっていますが、内容から判断して、おそらく憲三の作品に間違いないでしょう。こうした経緯に着目するならば、すでにこの時点で憲三は、この地域にあって、文学青年の名を思うがままに享受していたものと想像されます。

そうしたなか、一通のはがきが、「球磨の一青年K」から逸枝の手もとに届きました。逸枝は、そのときのことを、このように回想します。

 一九一七(大正六)年のはじめごろ、私は、一通の思いがけないはがきを受け取った。私は前年の九月から父の払川校に移って、あいかわらず山の女教師の愉しい生活に没頭していたが、そのころ私が父のすすめで自信なく書いた短い感想文が教育雑誌に出たのをみて、球磨の一青年Kが回覧雑誌を出すとかでそれへ参加をすすめたものが前記のはがきだった。回覧雑誌は『少数派』と題するもので、文芸や社会思想めいた論文をのせてあるものだった。当時の私はまったく無縁のものといってよかった97

このとき逸枝は二三歳、熊本県の下益城郡の山間部にある払川尋常小学校の代用教員。逸枝が住む最寄りの駅は、鹿児島本線の八代駅から北上した松橋駅。一方、憲三は二〇歳、同じく熊本県の球磨郡の山間部にある尾崎尋常小学校の準訓導。憲三が住む最寄りの駅は、鹿児島本線の八代駅から南下した那良口駅。かくして、いよいよここに、一通のはがきをきっかけとして、一九一七(大正六)年の春まだ浅いある日のこと、一組の男女の運命的な愛の物語の、その幕が開いたのでした。

(1)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、16-17頁。

(2)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、19頁。

(3)前掲『今昔の歌』、17頁。

(4)同『今昔の歌』、同頁。

(5)『高群逸枝全集』(第一〇巻/火の国の女の日記)によれば、高群勝太郎の生まれた年は、「文久三年[一八六三]」と表記されています(14頁を参照)。しかし、堀場清子が戸籍謄本を調べたところによれば、そこには「安政六年三月十二日」と記載されているとのことです(堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、9頁を参照)。もっとも、この戸籍謄本の製作年については言及されていません。安政六年は西暦に換算しますと一八六〇年になります。しかしながら、日本の戸籍法の制定は、それより遅れて一八七一(明治四)年のことで、その後も改正が繰り返されており、その間、誤認や誤記があった可能性も否定できません。そこで本稿では、逸枝の表記するところに従い、父勝太郎の生年は、一八六三(文久三)年として記述します。

(6)前掲『今昔の歌』、13頁。

(7)逸枝は、『高群逸枝全集』(第一〇巻/火の国の女の日記)においては、父勝太郎の雅号である「がんせん」の「がん」の漢字表記を、「山へんに品」の文字をあてています(たとえば13頁参照)。しかしながら、それに先立つ、逸枝の『愛と孤独と』(理論社、1958年)においては、「山に品」、つまり「嵓」の文字を使っています(たとえば16頁参照)。さらにさかのぼって、勝太郎の墓碑には、「高群嵓泉墓」と刻まれています(女性史研究会編『女性史研究』第7集、1978年、32頁を参照)。そこで、「山へんに品」のフォントが私の使用するパソコンに格納されていないこともあり、本稿では、一方の「嵓泉」の表記を採用することにしました。

(8)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、22頁。

(9)同『高群逸枝全集』第一〇巻、23頁。

(10)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、17頁。

(11)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、23頁。

(12)同『高群逸枝全集』第一〇巻、27-28頁。

(13)前掲『今昔の歌』、17頁。

(14)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、31頁。

(15)橋本憲三・高群逸枝『山の郁子と公作』金尾文淵堂、1922年、225頁。

(16)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、17頁。

(17)同『高群逸枝全集』第一〇巻、28頁。

(18)高群逸枝「高群逸枝――わが戀の記――」『婦人戦線』(特輯自傳)第1巻第10号、1930年12月、21頁。

(19)同「高群逸枝――わが戀の記――」『婦人戦線』、19頁。

(20)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、39頁。

(21)同『高群逸枝全集』第一〇巻、40頁。

(22)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(23)同『高群逸枝全集』第一〇巻、30頁。

(24)前掲『山の郁子と公作』、225頁。

(25)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、42頁。

(26)同『高群逸枝全集』第一〇巻、49頁。

(27)同『高群逸枝全集』第一〇巻、66頁。

(28)同『高群逸枝全集』第一〇巻、50頁。

(29)同『高群逸枝全集』第一〇巻、51頁。

(30)同『高群逸枝全集』第一〇巻、53頁。

(31)同『高群逸枝全集』第一〇巻、55-56頁。

(32)同『高群逸枝全集』第一〇巻、56頁。

(33)高群逸枝『女性の歴史』(中巻)、大日本雄弁会講談社、1955年、319-320頁。

(34)前掲『今昔の歌』、96頁。

(35)前掲『愛と孤独と』、27-28頁。

(36)同『愛と孤独と』、33頁。

(37)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、63頁。

(38)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(39)同『高群逸枝全集』第一〇巻、74頁。

(40)同『高群逸枝全集』第一〇巻、78頁。

(41)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(42)同『高群逸枝全集』第一〇巻、82頁。

(43)前掲『今昔の歌』、106-108頁。

(44)同『今昔の歌』、122-124頁。

(45)同『今昔の歌』、126頁。

(46)同『今昔の歌』、127頁。

(47)同『今昔の歌』、124頁。

(48)同『今昔の歌』、125頁。

(49)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、97頁。

(50)らいてう「元始女性は太陽であつた。――青鞜發刊に際して――」『青鞜』第1巻第1号、1911年9月、37頁。

(51)前掲『今昔の歌』、130頁。

(52)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、99-100頁。

(53)前掲『愛と孤独と』、29-30頁。

(54)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、113頁。

(55)同『高群逸枝全集』第一〇巻、114頁。

(56)同『高群逸枝全集』第一〇巻、114-115頁。

(57)同『高群逸枝全集』第一〇巻、115頁。

(58)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(59)「肥後が生んだ唯一の女流詩人【中】」『九州新聞』、1921年4月16日、5面。

(60)「肥後が生んだ唯一の女流詩人【上】」『九州新聞』、1921年4月15日、5面。

(61)前掲「肥後が生んだ唯一の女流詩人【中】」『九州新聞』、5面。

(62)前掲『今昔の歌』、173頁。

(63)同『今昔の歌』、175頁。

(64)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、116頁。

(65)前掲『今昔の歌』、178頁。

(66)同『今昔の歌』、同頁。

(67)同『今昔の歌』、179頁。

(68)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、120頁。

(69)前掲『今昔の歌』、181頁。

(70)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、121頁。

(71)同『高群逸枝全集』第一〇巻、123頁。

(72)同『高群逸枝全集』第一〇巻、127頁。

(73)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(74)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、17頁。

(75)石牟礼道子「最後の人 第十八回 第四章 川霧1」『高群逸枝雑誌』第31号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1976年4月1日、24頁。

(76)前掲『山の郁子と公作』、57-58頁。

(77)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、261頁。

(78)橋本甫水「妹のこと」『文章倶樂部』第8号、新潮社、1916年12月、66頁。
 なお、これとほぼ同じ内容の文を、その前の『人吉時報』(1916年8月25日、1面)と、その後の『山の郁子と公作』(金尾文淵堂、1922年、59-61頁)に見ることができます。

(79)前掲『山の郁子と公作』、82頁。

(80)同『山の郁子と公作』、62頁。

(81)前掲「最後の人 第十八回 第四章 川霧1」『高群逸枝雑誌』第31号、24頁。

(81)同「最後の人 第十八回 第四章 川霧1」『高群逸枝雑誌』第31号、25頁。

(83)前掲『今昔の歌』、206頁。

(84)前掲『わが高群逸枝 上』、267頁。

(85)前掲『山の郁子と公作』、9-10頁。

(86)前掲『わが高群逸枝 上』、265頁。

(87)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、18頁。

(88)前掲『わが高群逸枝 上』、265頁。

(89)前掲『山の郁子と公作』、6頁。

(90)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、18頁。

(91)柴田道子「逸枝さんへ2――編集室より――」『高群逸枝雑誌』第21号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1973年10月1日、24頁。
 執筆者の柴田道子(児童文学作家・社会運動家)は、以下のとおり、水俣の橋本憲三訪問記を「逸枝さんへ」と題して『高群逸枝雑誌』に四回に分けて連載しています。「逸枝さんへ1――水俣へ――」(第20号)、「逸枝さんへ2――編集室より――」(第21号)、「逸枝さんへ3――松橋から払川へ――」(第23号)、「逸枝さんへ4――松橋から払川へ――」(第24号)。最後の寄稿文からおよそ一年後に、四一歳で没。

(92)前掲『わが高群逸枝 上』、267-268頁。

(93)同『わが高群逸枝 上』、270頁。

(94)同『わが高群逸枝 上』、同頁。

(95)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、18頁。

(96)前掲『わが高群逸枝 上』、270-271頁。

(97)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、127頁。
 この引用文においては、「一通の思いがけないはがきを受け取った」のは、「一九一七(大正六)年のはじめごろ」と逸枝は書いていますが、のちの憲三は、「これは大正五年末としたほうが正しいと思います」と語っています(橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、8頁を参照)。