謹んで新春の御祝詞を申し上げます
ウェブサイトで公開しています「中山修一著作集」のなかの七つの完成巻につきまして、昨年、神戸大学附属図書館の「学術成果リポジトリ(Kernel)」において、PDFファイルの形式で登録・保存され、一般に公開されました。
一方、国立国会図書館の「インターネット資料収集保存事業(WARP)」におきましては、開設以来そのつど更新してきました過去の「中山修一著作集」が収集・保存の対象となり、HTMLの形式により一般公開されています。もっとも、現時点では、国立国会図書館の東京本館、関西館、および国際子ども図書館の館内限定の公開となっています。
今年は、神戸大学を定年退職してから、ちょうど一〇年の節目となります。いつの日か訪れる全一五巻の完結を目指して、今年もここ阿蘇の山中に隠棲し執筆に一意専心したいと思っています。
穏やかなお正月をお迎えのことと思います。
本年のご多幸とご健康を心よりお祈り申し上げます。
二〇二三(令和五)年 元旦
シンガポールに駐在する息子が、妻とふたりの幼子を連れて、年末年始の期間一時帰国し、この山荘にも泊ってゆきました。
元日の朝、私は息子と上の孫と一緒に初日の出を見に出かけました。この二年、天候に恵まれず、「ぜひとも今年は」という思いで、新しく見つけていた見通しのいいスポットに車を走らせました。七時一五分を過ぎたころ、東側の外輪山の一角がオレンジ色に輝き始めました。息を飲んで待ちました。しかし残念なことに、運悪く雲が遮り、わずかに光はあれど、太陽自身は姿を現わしません。やむなくあきらめ、帰路につきました。すると、住宅地が途切れた瞬間、強いご来光が、フロントガラスに差し込みました。見ると、東の山から初日がまさしく昇ろうとするところでした。急いで車から降り、携帯を取り出し、見事にその場面を撮影することに成功しました。今年も空振りかと、あきらめかけていた心に届いた、大きなプレゼントでした。
次は、そのとき詠んだ歌です。自身の息子と娘の名前を織り込んでつくりました。
美しき阿蘇より出づる日の光り 託麻の原にいま降り注ぐ
ここに登場します「託麻の原」は、わが母校である熊本県立熊本高等学校の校歌の冒頭一節の歌詞「西に金峰/東阿蘇/託麻の原の中しめて/築き成したるわが校舎」にも使われていますように、古き熊本市の地域全体を指し示す名称です。(一月)
自宅を出て、牧野道の下り坂にさしかかりました。前方の路上に何か大きな塊があるのが目に入りました。ゆっくりと近づいてゆき、車から出て、確かめました。大きな樹木の根っ子の部分でした。一〇メートル前後の高さのある左右ののり面を見上げましたが、どちら側から落ちてきたのか判然としませんし、なぜ落ちてきたのかも、よくわかりません。もちろん手で押しても、びくともしません。しかし、やっと軽の車幅くらい空いており、何とかぎりぎりで通過することができました。
用事をすませての帰路、ふたたびその箇所を通りました。この幅では、普通車や特殊な緊急車両は通行できません。帰宅すると、ただちに町役場に電話をし、撤去の依頼をしました。私たちの別荘地には自治会があり、こうした崩落や土砂崩れの場合は、町が責任もって対処することで協定が結ばれており、今回も、それに則った依頼でした。数日後、切り株は取り除かれ、もとの道の姿にもどりました。昨年も、この道で二度ほど土砂崩れがあり、そのときも町に対応してもらった経緯がありました。ある意味で、日常化しているのです。
この牧野道は、もともとは隣接する村落の牧野組合が管理していましたが、後継者が減少し、牛の放牧も途絶えてしまいました。それに伴い、村落民と私たちの自治会との連名で、この道を町道に編入する陳情を行なったことがありましたが、回答は、それを受けてもらえるものではありませんでした。当時役場では、町道の見直しと削減を計画しているところで、そのことが理由となっていました。しかし、この道が生活道路であるという私たちの認識は共有してもらい、それ以降、回答書に書かれている内容に即して、実質上、この道路の管理に当たっていただいているところです。
しかし、こうした現象は、物損事故や人身事故につながりかねません。数年前から、それへの対応の一環として、地権者へリスク管理にかかわって注意喚起を徹底してほしいとの要望を、町にしているところです。もし、樹木や土石の崩落によって人命が失われることになれば、おそらく地権者の責任は免れることはないでしょう。また、町にも、一定の責任が生じる可能性もあります。
過疎化、人口減少、高齢化により、空き家が目立ち、道路の管理が行き届かず、小さな町や村の住環境が、近年急速に劣化しています。対策が急がれるところです。(一月)
昨年の一二月、強い寒気が南下し、ここ阿蘇地方にも雪が積もりました。いつもそうなのですが、積雪の予報が出ると、車は、牧野道の入口のガード下に置き、自宅とこの間の坂道を、およそ一五分かけて歩いて往復します。今回の積雪は一〇センチには満たなかったのですが、すべての用を先延ばしにして、まる二日間、一歩も外に出ず、家のなかで過ごしました。
私がこの地に移住して、そろそろ一〇年になります。この間、雪が少し交じったみぞれのような現象はありましたが、一二月に雪が積もることはありませんでした。雪が積もるのは、いつも年が明けた一月と二月であり、その経験からすると、昨年一二月の積雪は、異例の気象でした。
さて、年が変わりました。厳しい冬の寒さを、習慣的に予想していました。予想的中。数日間三月並みの温かい陽気に包まれたあと、昨年末に続いての寒波の襲来です。朝方の気温がマイナス一〇度を記録し、昼間も気温が上がらず、終日氷点下の日もありました。雪も積もり、路面が凍結しましたので、車はガード下に四日間置き、どうしても町に出る必要があるときは、やむなく牧野道のこの坂道を歩いて下りることになりました。体がポカポカしてきます。いい運動と思って、がんばっています。
今日から二月。この月は、どうなるのでしょうか。戦いはまだまだ続きそうです。(二月)
玄関入口に上がる階段の左手の庭に、落ち葉のあいだから小さな福寿草が顔を出しているのが目に止まりました。わが家にとっては、春一番に咲く花です。これまで庭に積もっていた雪の白とは対照的に、花は黄色、葉は緑の暖かい色味です。ありがたいことに、毎年律儀に咲いてくれます。しかし、咲く時期が年々早くなっているように感じられます。数年前までは、二月の終わりか三月のはじめに咲いていましたが、何と今年に至っては、二月の上旬に開花したのです。
この間この地域は、昨年末と年が明けた一月に、二度の積雪に見舞われました。例年ですと、大雪は一月と二月に到来しますので、降雪の時期も前倒しの感があります。二月の残りの予報を見てみますと、雪のマークはありません。このまま今年は、春に突入するのかもしれません。うれしくもありますが、季節の変動に、何か言葉にならない戸惑いも残ります。(二月)
私が田舎暮らしをしていることを知ると、たいていの人から、「自然のなかだと、空気がおいしいでしょう」という言葉が返ってきます。しかし、実際はそうではないのです。
大規模の噴火ではなくても、阿蘇の中岳は現役の活火山ですので、日常的に噴煙を上げ、微小の火山灰を降らせているのです。この火山灰は目には見えません。しかし、窓を閉め、雨戸も閉めていても、わずかな隙間から家のなかに進入してきます。その痕跡は、窓のレールに付着していることで、確認できます。ときどき、ペットボトルに入れた水を少しずつ流しながら、不用になった歯ブラシでこすり落とします。ひどいときは室内にまで侵入し漂います。目に入り、不快な痛みを感じます。
こちらで生活してわかったことは、車が汚れることです。最初は、自然のなかのでの生活ですので、空気も澄み渡り、大気中には何ひとつ異物はないものと信じていました。しかし、車の汚れ方を見ると、実はそうではなく、火山灰をはじめとして、いろいろの微細な不純物質が空気中に混入し浮遊していることに気づかされます。
先日、褐色の空が出現しました。少し火山活動が活発化したこともありましたが、西から黄砂が飛来し、加えて、飛び散る花粉の量が増加したことが、そうした現象を招いた要因となっていたようです。他方で、そのときの大気汚染の現象には、炭素成分や硝酸塩などを含む微小粒子状物質である「PM2・5」の大量浮遊が重なっていた可能性も否定できません。
そのようなわけで、人が思うほどに、この地の空気は新鮮というわけでもないし、おいしいというわけでもないのです。コロナ感染症も少し落ち着きを取り戻し、マスクの着用は個々人の判断にゆだねられるようになりました。しかし、私にとりましては、別の意味で、マスクは手放せない常備品になっているのです。(三月)
物価の高騰が続き、生活を圧迫しています。
週に一、二回、ウォーキングコースの道沿いにあるコンビニに立ち寄って、大好きな「チョコモナカジャンボ」を食べることが最近の習慣になっていましたが、先日行ったら、それまでの一六二円が一七三円に値上がりしていました。
スーパーには、週に二、三回足を運び、食料品の買い出しをします。ほぼ毎日食べるバナナの値段は、これまではひと房九九円でしたが、しかしいまは、二〇〇円に達しかねない勢いで高騰しています。
毎日行く温泉も、来月四月から、四〇〇円から五〇〇円に入浴料金が上がります。車のガソリン料金は、高止まりのままです。
長年農業を営む地元の高齢の方と話す機会がありました。「今年はもう田植えはしない」。その人の表情には険しさが漂っていました。その人は、こうもいっていました。「稲作に必要なすべての経費が上がってしまい、経営が成り立たなくなったうえに、せめて自分が食べる分だけでもと思ってはみたが、それも、買う方が安くつくことがわかった」。
この一、二年で私の消費行動が少しずつ変化してゆきました。余分なものはいっさい買わず、あるもので暮らす――この精神が徐々に徐々に強化されていったのです。
一方でこんなこともありました。毎年初市のこの時期、私の慣例となっている行動なのですが、いつも買い物をする数店舗(電器店、薬局、クリーニング店など)に共通するポイントを、今年も一年ぶりにチェックし、金券に替えました。買い物の総量が減っているので、額は例年に比べると多くはないのですが、それでも、四千五百円分のクーポンが発行されました。年金以外に実入りのない人間にとって、ありがたい臨時収入となりました。
九州電力からメールが届きました。事前に取り決めた節電目標に到達したので、来月の請求料金から千円を割り引くという知らせでした。これで二箇月連続の節電達成になります。こまめに電気を切っていることが、功を奏したようです。
このような、わずかこれだけの消費行動にも、一喜一憂する自分がいます。人間の生活とは、何なんだろうと思いつつ、啄木の言葉に倣い、「じっと手を見る」自分がここにいます。(三月)
二〇二三(令和五)年三月三一日は、私にとって記念すべき日でした。このちょうど一〇年前に私は、神戸大学を定年退職しました。そのようなわけで、この日は退職一〇周年記念日だったのです。
いまそのときのことを思い出しています。送別会やお別れの会などが、幾つもありました。私はどの会にも上機嫌で出席しました。友だちからは、「よくしゃべるね、こんな中山、見たことなかった」とも、いわれました。確かに私は饒舌でした。退職できることが、私は本当にうれしかったのです。就職が決まったときよりもうれしかったように思います。その理由はいたって簡単で、この日を境として、組織から離れ、何の束縛も受けずに、ひとりで思うがままに生きていける――ただそれだけのことでした。誘いがあった私立大学への再就職もお断わりし、退職の翌日から、神戸のマンションと、阿蘇山中につくっていた別荘とを行き来する新しい生活がはじまりました。何にも属さない解放感が、とても心地よいものとして実感できたのもこのときのことでした。
英国では、よく independent researcher(独立研究者)とか、independent curator(独立学芸員)とか呼ばれる人たちに接する機会がありました。大学や博物館などの組織に属さずにひとりで研究したり、執筆したり、企画したりしている人たちのことです。私は、彼らのことを真の意味での創作者(creator)であると思っています。しかし日本では、組織があってのその人ですので、こうした生き方をする人をみかけることはほとんどありません。イギリスにかぶれているといえば、それまでなのですが、定年退職により、独立研究者になれたことが、私にとっては、すごくうれしかったのです。
それからこの地に定住し、一〇年の歳月が流れました。大自然のなかにあって、執筆し、温泉に入り、家と庭の手入れをする日々が続いています。自分が望んだ生活ができていることをありがたく思う一方で、それを成り立たせてくれている周囲の「万物万人」に心から感謝したいと思います。(三月)
私が卒業した熊本県立熊本高等学校の同窓会は「江原会」といいます。私の住むこの南郷谷にも、二十数名の卒業生が暮らしています。ほとんどが、現役を退いた高齢者で、私などは若い部類に入ります。団体名を「阿蘇南部江原会」と称し、これまで、春と暮れに集まり、交流を深めてきました。
しかし、コロナ感染症の影響によりしばらく会合がもてず、今回の「春の宴」は三年ぶりの開催となりました。会場は、会員のひとりが所有する別荘で、庭からは阿蘇五岳の全体が見渡せます。誰しもが、この最高の眺望に舌鼓をまず打ちます。家の中に入ります。すると、お弁当とお酒の用意が整えられており、その後、ふたつの大皿に盛りつけられた刺身と、別のお店で購入された豚カツの盛り合わせが届きました。二度目の舌鼓です。
会長のあいさつと乾杯のあと、思い思いの席に座ると、会食のはじまりです。やはり三年ぶりということもあって、話が弾みます。この会の特徴は、いつも奥さん方が多く参加されることです。孫の成長のことや高騰する物価のことなど、女性共通の話題でも盛り上がります。久しぶりに人と人とが直接触れ合うなか、相互に情報を交換したり、互いの生活をねぎらったりと、尽きることなく、時間が流れてゆきます。
最後に、会長からライン登録の案内がありました。今回から開始される会員相互の連絡網です。この日の翌日に、さっそく会計報告が届きました。それに続いて、誰からとなく、昨日の「春の宴」の感想のやり取りがはじまりました。まさにこの日のラインは、宴の二次会といった趣でした。(四月)
こちらは山間部ですので、多くのサクラは、ヤマザクラです。熊本市内の平野部よりも気温が四度くらい低いため、満開を迎えるのは遅れて、毎年四月を過ぎてからのことになります。
しかし今年は、その時期が早まり、三月の下旬には花が咲きそろいました。そして、四月の声を聞くなり、サクラの花は風に舞い散り、それに代わるかのように、庭のシャクナゲのつぼみから、一斉に大輪の花弁が姿を現わしました。いつもは、四月の末の連休がはじまるころにみられる現象です。
この数箇月を振り返ってみますと、例年ですと、一月と二月に四、五日積もる雪が、今年は一二月と一月に見られました。玄関横の福寿草も年々その開花時期が早まり、今年は、二月の上旬に観察されました。
そうしたことを考え合わせますと、今年は、例年に比べて数週間、季節が前倒しして進んでいるようです。これは、今年に限ったことなのでしょうか。それとも、今後もずっと続くのでしょうか。生活に対する感覚と季節感とがずれてしまわないことを願います。(四月)
今年は、いつもより数週間早めの庭の大掃除です。例年ですとこの時期、まだ肌寒いのですが、今年は暖かくなるのが早く、そのため、庭いじりも早まったというわけです。
毎年、紅葉の見ごろを過ぎ、一二月に入ると一段と寒さが増し、庭に出ることがほとんどなくなります。庭は、晩秋の落葉を残したまま年を越します。その間、家の周りの杉の木の小枝が風に折れ、庭に散乱します。そのようなわけで、冬が終わった早春は、わが家の庭にとって大掃除の時期になるのです。
まず、庭の何箇所かに分けて、落ち葉や小枝を集めます。雨の日はできませんし、雨のあともしばらくはできません。水分を含んで重くなるからです。作業が終わると、次は一輪車の出番です。山状に集めた葉と枝をスコップで切り崩しながら、一輪車に入れ、わが家の西の沢側ののり面まで運び、そこに廃棄します。ひとつの山で、だいたい五、六回の往復が必要です。この作業は、一日に一時間半行なうとして、だいたい一〇日くらいを要します。週二日くらいを使っての、約一箇月の作業です。そのあと、雨水や野外の水道水のはけ口となっている排水溝を清掃します。泥や落ち葉が堆積しています。それが終わると、やっと庭らしい庭が出現し、いろんなこの季節の花の苗を買ってきては、鉢植えをして、庭の要所に並べます。こうして、庭の大掃除が完了します。
完了するのは、だいたい五月の連休が明けたころです。この間、体力仕事が続きます。しかしそのあとの小さな花園は、特別の喜びをもたらします。その喜びのために、いま格闘しているところですが、この数年前から体力が衰えてきていることは、いかんとも隠すことができません。残念なことです。(四月)
母親は、昨年四月から施設に入居しています。そこで、この四月で、施設生活二年目に入りました。昨年は、胸痛やめまいで二回、かかりつけの病院に入院しました。最後の退院が九月でしたので、半年ほど安定した生活が続きました。しかし、最近食が細り、本人の希望もあり、主治医との相談の結果、再び入院することになりました。
前回の入院のときは、コロナ感染症が拡大していたこともあり、入院期間中の約四週間、一度も面会することができませんでした。今回は、その制限が緩和され、事前の予約により一五分だけ面会が許されるようになりました。昨日の面会のときは、モナカアイスと、一口大の大きさに切ったスイカをもってゆきました。病院の食事も、まだほとんど食べないらしく、すぐさま喜んで半分ほどモナカアイスを口にしました。スイカは、初物だといって喜びましたが、その場では食べませんでした。一五分は、あっという間です。看護師さんが合図に来られ、残りのモナカアイスとスイカの管理をお願いして、病室をあとにしました。(四月)
早朝玄関を開けて外に出たら、階段下の道に、一匹の犬が、所在なく立っていました。階段を降り始めると、後ずさりします。目は私の方を向けています。私も道路に出ました。目が合います。逃げてゆくわけでも、こちらに近づいてくるわけでもありません。一瞬私は、「一郎」と、数回呼びました。しかし、それに応じる素振りは見せず、自分の行動をどう取ればいいのか、思案しているようにも見えます。
全体が白で、首とお尻の部分が薄茶色をしています。中型犬です。犬種は柴犬の感じです。首輪はなく、しかし、毛並みのよさから判断しますと、野良犬ではなく、つい最近まで家庭で飼われていた犬のようです。
私が少し前進すると、少し後ろ向きになって歩み始め、私が止まると、犬も止まり、こちらを向きます。手をたたいて手招きします。しかし、動じることはありません。それを繰り返しているうちに、わが家を取り巻くように、逃げるでもなく、近寄るわけでもなく、姿を消してゆきました。
もし飼い犬であれば、なぜこんな山奥にいるのだろうか。首輪がないということは、首輪を外して、買い主がこの近くに捨てたのであろうか。しかし、ここで生きることは、現実的に難しく、今後この犬はどうなるのだろうか。私の玄関前にいたというのは、人の気配に引き寄せられた結果にちがいなく、喉が渇いているかもしれないし、おなかをすかせているかもしれない。そうであれば、もう一度、ここに近づいてくるにちがいない。
そう思った私は、平皿に水を入れて、階段の上り口の所に置き、家のなかに入りました。しばらくして、外の様子が気になり、そっと玄関のドアを開けると、水を飲み終わって、ちょうどそこから離れようとするところでした。私に気づいたのか、犬はすぐさま立ち去り、姿を消しました。
私は、再び平皿に水を入れると、また別の皿を用意して、朝に食べようとしていたパンを小さく刻んでそのなかに置きました。それから家のなかに入りました。しばらく時間が流れ、ドアを開けて階段を降りて、ふたつの皿を見てみると、水は半分くらい飲んだ形跡がありましたが、パンはそのまま残っていました。
一日が立ち、二日目の朝が来ました。しかしこの間、ここに来た様子はありません。どこへ行ってしまったのか。飼い主のところに帰れたのか、まだこの山のどこかにいるのかわかりません。犬のことが気になります。迷い犬に対する私の対応がこれでよかったのか、これも気になっています。(五月)
ある知り合いからメールが届きました。そのなかに、「世の中ゴールデン・ウィークというのに、私には、昔から縁のない休みです。休みだからといって血が騒ぐわけでもなく、平凡に過ごせる日々が幸せと思うこのごろです」という一節がありました。
ふと自分の生活を振り返ってみました。夜中の一時半ころに起きて朝ご飯を食べ、三時から八時ころまでの五時間、パソコンに向かい文章を書き、昼食(普通の人にとっては朝ご飯)が終わると街に出て、その日の用事(そのなかには、たとえば、銀行や郵便局、買い物やクリーニング、そして、コインランドリーでの洗濯物の乾燥、さらには、給油、役場、ごみ集積基地への立ち寄りなどが含まれます。)をすませると、瑠璃温泉の駐車場に車を止め、一〇時二〇分ころの開門まで、約三〇分間の体操とウォーキング。温泉を楽しんで帰宅するのが、正午を少し過ぎたころで、一時を回ると夕食づくりに頭と体を使い、二時、ウィスキーを少し飲みながらの晩飯。そして四時の就寝。
このような平凡な暮らしが、退職してこの地に移り住んでこの一〇年間、変わらず続いています。三六五日この日課で過ごす私にとって、したがって、土日も、盆も正月も、ゴールデン・ウィークも無縁です。私の生活のリズムは、既存のカレンダーから完全にはみ出したところで機能しているのです。
しかしながら、自分なりのカレンダーはあります。一月と二月にそれぞれ数日間雪が積もり、それが終わると、庭の福寿草が咲き、三月から四月にかけて花見をし、四月の終わりに一斉にシャクナゲが開花すると、それに続くようにヤマアジサイの紫色が目を楽しませてくれます。小鳥のさえずりが日々耳に届くのも、この時期です。八月のお盆が過ぎたころから気温が下がりはじめ、落ち葉も目立つようになり、一段と冷え込む一一月になると、庭は絢爛豪華な色彩に彩られます。そして、静かにその年が暮れてゆくのです。
人には、私の生活は、世捨て人か流れ者の暮らしのように見えるようです。よく、「寂しくないかい」とか「不便ではないかい」とか、「何かおもしろいことあるの」とか聞かれます。私は、返す言葉が見つからず、たいてい黙ってうなずくだけです。しかし、心のなかでは、いつもこう叫んでいます。「平凡に過ごせる日々が幸せと思うこのごろです」。偶然にも、いただいたメールのなかの文言と、全く同じ。同じ感覚をもつ人もいるものだと、不思議な親近感を覚えました。今日でゴールデン・ウィークが終わります。(五月)
いつものように瑠璃温泉の駐車場に車を止めて、出ようとすると、親しい温泉仲間のひとりが、その日の新聞をもって近寄り、手渡してくれました。彼は、私が新聞を読まないことを知っていて、このニュースをいち早く知らせたかったようです。そのニュースとは――。
新聞記事の見出しは「南阿蘇村二温泉売却へ」となっていました。内容は、南阿蘇村にある「ウイナス」と「瑠璃」のふたつの温泉の、その売却へ向けての入札手続きがはじまったことを告げるものでした。そのうちの「瑠璃」については、このように書かれてありました。
瑠璃は旧白水村が整備して九五年に開業。一万七一三八平方メートルの敷地に、木造二階建ての温泉施設(延べ床面積一九九二平方メートル)や、木造平屋の宿泊施設(同八六六平方メートル)など建物四棟が建つ。最低売却価格は一億円。
この日のサウナ談義は、この話題で沸騰しました。すでに、宿泊棟もレストランも閉鎖に追い込まれており、いよいよ温泉本体も閉鎖される日が来たのか、というのが、おおかたの感想でした。かつての高森温泉館の売却のときは、応札する業者が現われず、何度も何度も価格を下げていった経緯をみな知っていますので、赤字経営に陥っているこの温泉施設を一億円ものお金を使って購入する業者などいないだろうという見立てが、支配します。そうなればどうなるのでしょうか。赤字の累積を恐れて村は、早晩温泉を閉鎖するでしょう。その結果、宿泊棟やレストランと同じように、温泉棟も無人の空き家、行く末は廃屋の道をたどることが予想されるのです。
阿蘇五岳と南外輪山に囲まれたここ南郷谷は、高森町と南阿蘇村で構成されます。近年の人口減少は著しく、あちこちで空き家が目立ち、売れない田畑が荒れ始めています。これに加えて、村が管理する温泉がいま姿を消そうとしているのです。
サウナ談義を楽しむのは、一番風呂を目指して開館時間に合わせて集まってくる少数者です。みな温泉大好き人間です。温泉がなくなれば、私もそうですが、行き場を失います。しかし、「赤字だから」といわれてしまえば、存続を無理にお願いするのも限りがあります。町から人がいなくなり、家や建物から人影が消え、田畑から実りの作物がもはやみられなくなる、こうした光景が現実的に差し迫ってきています。南郷谷の光景は、将来の日本の姿を、悲しくも先取りしているのかもしれません。(五月)
いま「火の国の女たち」というテーマでひとつの文を書いています。ここで取り上げる「火の国の女たち」は、高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子の三人です。副題は、「高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」としました。この物語には「青鞜の女」であった平塚らいてうと富本一枝が登場します。どのような友愛が織りなされたのでしょうか。百年余の流れの一端を跡づけたいと思っています。
私は、「火の国の女たち」を書くために熊本県立図書館に行き、『高群逸枝全集』と『石牟礼道子全集』を手にしました。私にとってこれが二度目の機会でした。改めてその重みに心がつぶされそうになりました。そのとき、いつかはこのふたりについて、自分も書いてみたいという思いが内から湧いてきました。といいますのも、これまでの経験から、必要な部分を拾い読みするだけでは、なかなかその人の生きた内面には到達できず、自分が文字にしてはじめてその人物の思いの一端が手に入ることを知っていたからです。つまり、「読んで知る」だけでなく「書いて覚える」ことに、何らかの意味を見出しているのです。ふたりとも、「自伝」を書いています。そのため、私の文は「写経」ならぬ「写伝」になるかもしれません。それでも、文筆家の末尾に葉隠れする私にとって、ふたりを「書き学ぶ」ためには、書き写しの「写伝」であろうとも、それが必要なのです。しかし、執筆に向かう日がいつくるのか、全く見当がつきません。夢に終わるかもしれません。いまはただ、そのような夢を見ながら、目の前の「火の国の女たち」を書いているところです。(六月)
今日も県立図書館に行き、高群逸枝さんの当時刊行された図書を借り出し、閲覧しました。コピーできる本は、必要な箇所をコピーします。コピーができない本は、カメラで撮影します。そうした仕事が一段落しときのことです。あることが頭をよぎりました。
もう随分前NHKのラジオ深夜便を聞いていましたら、英国のブライトンに住むひとりの女性が出版した本が日本で評判になっているらしく、その著者へのインタヴィューがはじまりました。私も若いころしばしば仕事の関係でブライトン大学に足を運んだことがあり、懐かしさも手伝い、少し仕事の手を休めて、耳を澄ませました。最近の新しい英国の動きのなかに、アナーキズムに対する再評価があるとの話でした。私の専門とするウィリアム・モリスもアナーキストに近い政治活動家でしたので、親しみをもって聞きました。
それから月日が流れ、私は、「火の国の女たち」を書くにあたり、逸枝さんの仕事について調査をはじめました。調べを進めるなかでわかったことは、逸枝さんの政治的立場が、アナーキズムにあることでした。そこで思い出されたのが、かつてラジオで聞いた話の内容です。しかし、残念なことに、その人のお名前も、著書のタイトルも、メモをとっていなかったので記憶に残っていません。どうしたらその方の本に出会えるのか、途方に暮れるなか、思い切って、この間逸枝さんの資料の貸し出しで対応していただいている司書の方に、事情を説明してみました。すると、数分も立たずに、そのブライトンにお住いの女性は、「ブレイディみかこ」というお名前ではありませんか、それであれば、その方の新刊書は、『他者の靴を履く――アナーキック・エンパシーのすすめ』で、当館にも所蔵がございます、という言葉が返ってきました。びっくりしました。著者名も書名をわからないのに、どうやって検索ができたのだろう……。驚きの言葉を発する間もなく、カウンターの上に、その本が運ばれてきました。魔法にでもかけられたかのような一瞬の出来事でした。
家に帰って頁をめくると、このなかに「ウィリアム・モリス」の名前がすぐにも飛び込んできました。逸枝さんが随筆のなかでモリスに触れていたこともあり、モリス、みかこさん、逸枝さん、すべてが私の頭のなかでリンクし、興奮の渦が私を巻き込み、回転してゆきます。出会いは「奇跡」なのだということを、改めて実感した瞬間でした。(六月)
母親が入院して、そろそろ三箇月になります。昨日、主治医の先生と入院後の二度目の面談をしました。体調も回復し、入院時と比べて一段と元気になったことを受けて、一週間後に退院することに決まりました。
入院したときは、それまでの施設での生活と同じく、移動は車いすを使用し、酸素吸入は欠かせず、加えて、ほとんど食を受け付けない状態でした。ところが、この三箇月で劇的に変化しました。移動は、近いトイレまでならば、看護師さん付き添ってもらい、歩行器を使い自分の足で歩くようになりました。想像さえしていなかった回復ぶりです。また、一年半ぶりに酸素吸入も必要としなくなりました。おかげで酸素チューブから解放され、精神的にも楽になったようです。さらに、細っていた食も、少量ですが、進んでおいしくいただくようになりました。
ここまでの回復は、一日午前と午後の二回行なわれるリハビリの効果によるもののようです。主治医の先生は、苦笑いしながら、こんなことをおっしゃいました。「今回、私がお母さんにしてあげることは何もありませんでした。すべてはリハビリを担当する方々のチーム力によるものです」。そして、付け加えて、「リハビリは立派な医療行為です」とも。ただただ、納得するばかりでした。(六月)
この季節、地元の人と話していると、「坊ちゃんかぼちゃ」と「地きゅうり」という言葉を耳にします。最初は、どんなものかわかりませんでしたが、いつも通う温泉の野菜売り場で最近見かけるようになり、その正体がわかるようになりました。
先日、温泉で顔をあわせる仲間のひとりから、「坊ちゃんかぼちゃ」と「地きゅうり」をいただきました。自分の畑で採れたもので、その名前の由来や料理の仕方などもあわせておそわりました。
「坊ちゃんかぼちゃ」とは、「坊ちゃん」のように小さいかぼちゃを指していう名称とのことでした。ミニトマトならぬミニかぼちゃといったところでしょうか。片方の手のひらに乗る小ぶりのサイズです。一方、大きいかぼちゃもありますが、これは両手でないと抱えきれない代物で、「どてかぼちゃ」の名称で親しまれているようです。「坊ちゃんかぼちゃ」がどうして生まれたのかには諸説があるようですが、核家族化が進むにつれて、小型のかぼちゃの需要が増し、「坊ちゃんかぼちゃ」への品種改良が進んだようです。それにしても、「ミニ」ではなく、「坊ちゃん」とは、粋な表現のように感じられます。
次に「地きゅうり」ですが、これは、普通見かけるきゅうりの何倍もある大きさで、ちょうどへちまのような形をしています。「地きゅうり」の「地」には、「地元産の」とか「この土地固有の」という意味が込められているようです。つまり、この土地の人のあいだだけで育て分け合うきゅうりらしく、スーパーなどで、見かけることはありません。この地域の秘蔵の品なのです。
さっそく、持ち帰って「坊ちゃんかぼちゃ」と「地きゅうり」をいただきました。味は、普通のかぼちゃやきゅうりと変わりがありませんが、何だか、この南郷谷の大地に根差した神秘性のようなものを食した感じが残りました。(七月)
いままで、国立国会図書館のデジタルコレクションといえば、国立国会図書館内か、送信館内(私の場合は熊本県立図書館内)でなければ閲覧できないものと思っていました。しかし、最近になって、個人送信も可能になっていることがわかりました。さっそくウェブ上で本登録をしました。案内には、登録完了には五日程度を要するとのことが書かれてありましたが、何とその日のうちに返事が返ってきて、対応の速さに驚かされました。
これにより、私のID番号とパスワードが確定し、すぐに、いま執筆している「高群逸枝」を検索語として入力してみました。かなりの数の資料がデジタル化されていることがわかりました。閲覧するには、国立国会図書館内限定、送信館内限定、そして個人送信に分かれますが、個人送信が可能な資料を選んでログインしてみました。いままで送信館(熊本県立図書館)で見ていた画面と同じ書式の画面が現われたときには、ただただ感動してしまいました。
これで、自宅にいながら、まだ一部ではありますが、国立国会図書館所蔵の書籍にアクセスすることができるようになったのです。地方の片田舎で執筆活動をする者にとっては、この恩恵はありがたく、一日もはやく、すべてのデジタルコレクションが自宅で閲覧できるようになることを願わずにはいられません。そして、さらに願うことは、すべての書籍をデジタル化してほしいということです。そうなれば、国立国会図書館そのものが個人所有の自宅の本箱として機能するようになるのです。夢のような話ですが、技術的には、もう大きな問題はなさそうに思います。
現役で神戸大学に勤めていたころを思い出しますと、最初のころは、まだパソコンはなく、原稿用紙に手書きしていました。他大学から本や複写物を取り寄せるにも、長時間を要していました。その間、執筆が中断することもしばしばありました。それを思うと、この四半世紀で研究環境が大きく変わりました。いまそうしたなかで、私の日々の執筆も進行しています。研究者や執筆者によって書かれたすべてのデジタル原稿が国立国会図書館に集められ、国民すべてが自宅や職場からアクセスし閲覧できる、まさしく「すべての知の共有化」がもうそこまで来ていることが、このたびデジタルコレクションの個人送信を利用して、さらに実感した次第です。(七月)
高群逸枝の著書に、『戀愛創生』(萬生閣、一九二六年)という本があります。書名も少し変わっていますが、構成も一風変わっており、章も節もなく、全文が書き流しでできています。内容はというと、古今東西の恋愛の事例や、恋愛についての言説が拾い上げられ、かつて男女には自由な恋愛が存在していたものの、家制度や資本主義の発達により、かかる自由が脅かされ、男性中心の支配体制が成立するや、真の恋愛は、姿を消してしまったことを例証するものでした。そこには、「女性の解放」と「恋愛の創生」とは表裏をなすものであり、それを今後の女性の生き方に求めようとする強い意識が働いていたといえます。出版が大正一五年四月であることに着目しますと、その論調は際立って進歩的なものでした。
その本のなかで高群は、ウィリアム・モリスのユートピアン・ロマンスである News from Nowhere に触れて、こう書いています。「ウイリアム・モリスの『無何有郷だより』をみると、多くの子供達が、そこでは、自由な生活をして、森から丘へと遊び戯れてゐる。そこには學校といふものはない」。このなかの「子供達」を「女性たち」に、そして「學校」を「家庭」に置き換えて読み直してみますと、こうなります。「多くの女性たちが、そこでは、自由な生活をして、森から丘へと遊び戯れてゐる。そこには家庭といふものはない」。このとき高群が発見した、モリスの描くユートピアは、自らの心に宿す理想世界と完全に一致したものと思われます。
私は、高群がどの訳書を読んでいたのか気になりました。このモリスの空想小説は、すでに過去においては堺利彦によって「理想郷」の訳題のもとに抄訳され、『平民新聞』に連載されていましたし、その後も、「芸術的社会主義」という名辞のもとにモリスの思想と実践に関する研究書や紹介書が絶えることなく続くなかにあって、高群が『戀愛創生』を発表する五箇月前の一九二五(大正一四)年の一一月には、布施延雄が「無何有郷だより」という訳書題でもって、至上社から上梓していたのでした。
私は、布施延雄が訳した『無何有郷だより』を読みたく思いました。いつも利用する熊本県立図書館には蔵書がなく、近隣の図書館では、鹿児島県立図書館に所蔵されていることがわかりました。しかし、戦前の出版物ですので、利用は館内限定で、禁帯出になっているものと思われました。しかし、念のために、係の人を通じて鹿児島県立図書館に問い合わせてもらいました。そうしたら、驚くことに、「他館貸し出し可」しかも「コピー可」という返事が返ってきました。
熊本県立図書館の場合は、戦前に出版された本は、原則すべて禁帯出で、さらに加えて、高群逸枝のような熊本ゆかりの作家の著作は、戦後の比較的新しいものであっても、館内限定利用の制限がつけられています。少し前には奈良県立図書情報館から、そして今回は鹿児島県立図書館から、およそ一〇〇年前に世に出た本を貸し出してもらいました。そして、必要箇所のコピーもできました。僻地に住む独立研究者として、本当にありがたい対応に、お礼の言葉もなく、ただただ感謝した次第です。(七月)
少し前に私は、この著作集13『南阿蘇白雲夢想』第四部「日々好々万物流転」のなかの第九話「この地の水と食べ物事情」で、「一文字のぐるぐる」という郷土料理に触れる機会がありました。それはおよそ、次のような内容でした。
地元の南郷谷に住む知り合いから、「一文字のぐるぐる」をいただきました。この料理は、熊本地方独自の郷土料理です。小さいころに母親がつくってくれた記憶が残っていました。しかし、高校を卒業すると同時に県外に出たので、それ以降これまで、一度も食すことはありませんでした。そのようなわけで、何と六〇年以上ぶりに、この日「一文字のぐるぐる」と対面したのでした。
一文字(ひともじ)とは、ねぎの一種であるわけぎの別称です。「一文字のぐるぐる」は、一文字をゆがいて、上の緑色の葉を、そのまま根本の白い部分にぐるぐると巻き付けるだけの、いたって簡単な一品です。お酒にも合い、酢味噌でいただきます。白と緑の色合いがよく、ゆで加減にもよりますが、比較的やわらかく、やさしい食感があり、とろりとした汁のほどよい甘みが、酢味噌と絡み合いながら口のなかで広がります。一文字は、冬を越したいまが旬で、春の到来を感じさせるこの季節の食材なのです。
この日は、いただいた一口大の七、八個の「一文字のぐるぐる」と、別につけられていた、同じくお手製の酢味噌が、主役として私のテーブルに並びました。かつての母親の料理を思い出し、あわせて、幼いころの自分に再会したひとときでした。
さて、それから数箇月が過ぎ、熊本県立図書館で地元紙の『熊本日日新聞』のデジタル版を使って高群逸枝関連の記事を見ていましたら、興味深い話に出くわしました。それは、一九六一(昭和三六)年元旦の新年号三部四面に掲載されていた、熊本を離れて久しい、中村汀女、江上トミ、高群逸枝の肥後の著名女性による新春鼎談でした。中村汀女は俳人で、句誌『風花』の主宰者です。江上トミは、当時NHKテレビの「きょうの料理」で人気を博していた料理研究家です。高群逸枝は、対面出席はせず、紙上参加をしています。話題は、家のこと、学校のこと、郷土料理のこと、風土のこと、方言のことなど、多岐にわたりました。そのなかで高群は、思い出に残る郷土料理を聞かれると、「私はお客があると酒のさかなに『ヒトモジのぐるぐる』をよく作りました」と応じています。ここに、再び「一文字のぐるぐる」に出会った私は、この地に生きる人間に共通する自然な吐息のようなものを感じました。(七月)
八〇歳を過ぎた地元のお年寄りと話していましたら、最近の異常気象に話題が移りました。その人が子どものころは、冬にはよく雪が降り、隣り町からのバス便はしばしば途絶え、それでも人は気にかけず、夏は涼しく、いまのようなエアコンなどはなく、朝夕の冷気が、何よりのクーラーになっていた、ところがいまは――。そこで私が、「最近の気候はおかしいですよね」と口を挟むと、間を入れず、静かな、そしてそっけない口調で、「気候がおかしいのではなく、人間がおかしいのですよ」という言葉が返ってきました。実は日頃から私も、うすうす感じていたことだったので、このときばかりは、心臓を射抜かれた思いに駆られました。
私がこの地方で生活をはじめてまだ一〇年ほどですが、この間、確かに、雪の量は減り、夏の暑さは増す一方です。確かに何かがおかしいのです。そのお年寄りにとっては、この間の気象の変動は、私が感じる何倍もの激変だったにちがいありません。しかし、その方にとっての心配事は、気候の変化だけではないようです。都会に出て行った子は、行ったきりでもどって来ず、田畑は荒れ、毎日草刈りに精を出すも追いつかず、いつかは墓守もいなくなり、すべてが無縁仏になる――これもまた、人間がおかしくなった結果だと、その人は思っているのです。その老人はいいます。「それを止めることはできまっせん。最初っから人間は、そういう宿命に生きとっとですから」。
人間の脳の司令塔は、「前進」の掛け声しかもたず、「滅亡」への道を歩いていることを知りながらも、それでも「前進」「前進」と声を発しているようです。これが、避けがたい私たちの人類史なのでしょうか。そうであれば、もはや諦めるしかないのでしょうか。どうやら私も、次第に人類消滅の運命論者になってきたようです。(七月)
私の運転免許証は、来年一月二日で有効期限が切れますので、それまでに更新手続きをしなければならず、そのために、それに先立って高齢者講習を受ける必要がありました。前回一度、この講習を受けていますが、今回は、有効期限が満了するまでに七五歳になるため、講義と実車に加えて、新たに認知機能検査が課せられることになりました。
当日、申し込みをしていた地元の自動車学校へ行きました。一連の講義が終わり、いよいよはじめて経験する認知機能検査です。答案用紙の冊子が配布されると、氏名等を記入したあと、講師の先生が、「体の一部の[耳]です」「服のひとつの[スカート]です」「楽器のひとつの[オルガン]です」といった具合に、一六枚の絵を順番に見せてゆきます。そしてそれが終わると、答案用紙の所定の白紙に、順番にこだわることなく一六枚の絵の名前をすべて書いてくださいとの指示があります。一斉に受講生は鉛筆を走らせます。私は、半分の八つくらいまでは、すらすらと書けたのですが、そのあとが続きません。記憶をたどるように、絵を思い出しながら、やっと四つを書き加えたところで、時間切れとなってしまいました。一六のうち一二しか書けない結果になり、自分の記憶能力の貧弱さに驚くも、その余裕もなく、引き続き次の問題の指示が出ます。指示に従い、解答用紙の次の頁をめくると、「体の一部です」「服のひとつです」「楽器のひとつです」といった一六項目の文字が並んでいますので、それに対応する[耳][スカート][オルガン]といった用語を回答欄に記入してゆくことになります。これならできると思って書き進めていったのですが、何としたことか、途中でどうしても二個が思い出せません。思いもよらぬ結果に、自分自身唖然とした結末でした。
この数年、日常生活で忘れ物があったり、勘違いをしたりすることが増えてきました。そうした自覚はあったものの、これがどの程度進行しているものなのか、数値的に知ることはありませんでした。しかし、自動車学校で受けたこの認知機能検査が、そのすべてを物語ります。釈明の余地もなく、受け入れるしかありません。結果は。「認知症のおそれがある基準には該当しませんでした」という評価で、運転免許証の更新に支障はありませんでしたが、悲しいやら情けないやら、複雑な思いで自動車学校をあとにすることになりました。(八月)
秋になると、家の周りでよくシカ(鹿)を見かけるようになります。一匹よりも数匹でいることが多く、家族単位で行動しているようです。私の車の音に驚いて、一瞬じっとこちらを見たかと思うと、危険を察知したのか、一気に駆け出してゆきます。
昨年に続き二度目になりますが、先日私の別荘地に、ハンターの人影がありましたので、近寄って話をしてみました。近くに仕掛けをしたとのことでした。目的とする獲物は、シカとイノシシだそうですが、今日はサルがかかっていたという話でした。こうした野生動物は年々増え、山里に下りては農作物を荒らすらしく、どの自治体も、捕獲された動物を、一匹いくらで買い取っているようです。
ジビエ料理の代表格であるイノシシの肉は「ぼたん」、シカの肉は「もみじ」と呼ばれます。季節感を表わす言葉です。数年前、庭を歩いていたら、シカの角が落ちていたこともありました。この時期は、シカの活動期なのです。夜になると、シカの鳴き声がよく聞こえてきます。「ヒユー、ヒユー」と鳴きます。昔の文人たちは、このシカの鳴き声を聞くために集まり、酒を酌み交わしたそうです。先日は中秋の名月でした。この日も、その美しい天空に届かんばかりに、森のなかではシカの遠音が響き渡っていました。古風を愛する人であれば、優美な酒宴の一夜になったかもしれません。(九月)
年齢のせいでしょうか、病院通いが日常生活の一部になってきました。この一年でも、一回きりのものもありますが、次のような診療科で診察を受け、治療や手術をしました。
内科(七年前の心筋梗塞によるステント留置以来の、月に一度の継続診療)
泌尿器科(一一年前の前立腺がんによる全摘出以来の、不定期ながらの観察診療)
眼科(数年前から症状が現れた白内障の進行を遅らせる点眼薬の受け取り)
歯科(虫歯による歯痛緩和)
皮ふ科(転倒の原因となった丹毒の診断)
整形外科(転倒による右膝骨折の接合手術)
リハビリテーション科(接合手術後のリハビリ)
わずか一年のあいだで、小児科、美容外科、産婦人科は別にして、精神科、呼吸器科、消化器科、耳鼻咽喉科以外はすべての診療科を受診したような気がしています。まさしく、満身創痍の状態なのです。このことは、診察券が増えることを意味します。
しかし、その一方で、これまで自然とため込んでしまっていた店舗ごとのお買い物券やポイントカードが減り始めました。買い物の機会が実際少なくなったことが大きな要因となり、それに伴い、金銭の管理を楽にするために、意識して、買い物をするお店を整理し、支払いの方法も、できるだけ単純化したためです。
年を重ねるごとに、診察券が増え、それに反比例してお買物券が減少する――私にとってこの現象は、近年のひとつの法則のようになってきました。しかし、診察券が限りなく増加し、お買物券が限りなくゼロとなったとき、そのとき私の身体と生活はどのような事態になっているのでしょうか。考えたくはありませんが、いつかは人間誰しもが遭遇しなければならない事態が、もうすぐそこまで来ているような気がしています。(九月)
町役場の駐車場で転倒し、救急車で運ばれました。レントゲンの結果、右膝にヒビが入っているとのことで、金属製の二本のピンとワイヤーで膝のお皿を固定する手術を受けました。手術から二週間後の翌日、無事退院ができました。自宅へ帰ってからは、通院が楽なように、地元の病院でリハビリを続けたいと思い、退院の際に、近所の南郷谷リハビリテーションクリニック宛ての紹介状を書いてもらいました。この病院には、整形外科、リハビリテーション科、内科の三つの診療科があります。整形外科担当の先生は、他の病院から週に何回か来られる方のようで、事前に電話でアポをとっての初診でした。さっそくレントゲンの撮影をしました。手術は、うまく行なわれているとのことでした。次に、担当される理学療法士の先生からリハビリの進め方の説明があり、さっそく次の週からリハビリに入ることになりました。
この病院に行くのは二度目でした。最初は、「ばね指」の治療で行ったのですが、病院の名称は「南郷谷整形外科」といっていました。院長は、最近NHKを退職されてフリーとなられた武田真一アナウンサーの御父上でした。神戸から来たばかりで、見慣れない印象を与えたのでしょう、診察が終わると、「あんたはどこから来たとかい」と、懐かしい熊本弁で声を掛けてくださいました。どんどんと話が弾んでゆくと、「それじゃ、あんたの高校はどこや」と聞かれ、「熊本高校です」と答えると、うれしそうな顔をされて、「よし、それじゃ入ってくれ」といって、阿蘇南部江原会の名簿を渡されました。見ると、この南郷谷に住む二十数名の熊本高校の卒業生の名前が並んでいました。若い会員可能者は都会に出てゆき、地元に住む会員は高齢化し、そのため会員の数が減少していたところに、たまたま私が、神戸からこの地に移住してきて、会員獲得の絶好の対象になったというわけです。これ以降、春の花見、冬の忘年会に出席するようになりました。しかし、残念ながら、院長の武田先輩は、その後しばらくしてお亡くなりになりました。そして、病院の名称も、「南郷谷整形外科」から「南郷谷リハビリテーションクリニック」に変わり、その病院でいま私はリハビリを受けているのです。診察室から武田院長が現われ、「どぎゃんしたとかい」という声が聞こえて来そうな気がします。私にとっては、忘れられない病院なのです。
因みに、院長の御子息の武田真一さんは、高校も大学も私と同窓になります。しかし、これまでにお会いしたことはなく、いつもテレビの画面越しに声援を送っています。いっそうのご活躍を祈ります。(一〇月)
私が日々通う瑠璃温泉の近くに一軒のコンビニがあります。瑠璃温泉が開館した時期と同じころに開店したように記憶していますので、すでに二〇年を超える営業が続いているのではないかと思われます。ところが、そのコンビニが閉店することになったのです。
その後、この国道沿いに次々とコンビニが現われ、過当競争の状態になっていました。数箇月前には瑠璃温泉が売却されるとの新聞報道が流れていただけに、この老舗コンビニの閉店は、それに続く地域衰退の象徴となる出来事でした。
瑠璃温泉に近くて便利なために、コンビニといえば、いつも私はこの店を利用していました。お中元やお歳暮の季節になると、郵送されてくるカタログを見ては、いつもここで発送依頼をしていました。国立国会図書館へ支払う資料複写料金もここから振り込んでいました。あるとき、こんなこともありました。瑠璃温泉に入館する前にいつもその周囲をウォーキングするのですが、突然雨が降ってきて、この店に駆け込みました。単なる雨宿りのつもりだったのですが、親切にも、濡れた髪や服をふくためにタオルを貸してくれ、帰りには、傘までもたせてもらいました。またこんなこともありました。たまたまヴァレンタインの日でした。ウォーキングのあとカウンター席に座って、好物のジャンボモナカアイスを食べていたら、「ヴァレンタインですので、どうぞ」といって、チョコレートをいただいたことも、記憶に残っています。
私が立ち寄る時間は、瑠璃の開館前ですので、ほぼいつも同じ時間です。その時間帯は、既婚のふたりの女性が入っています。暑い日は暑いなりに、寒い日は寒いなりに、会計の際に短いながらも会話を楽しみます。彼女たちとも、閉店に伴いお別れです。最後の勤務の日が近づいたある日、私は行きつけの花屋さんで花束をふたつつくってもらい、長年の務めをねぎらい、あわせて、これまで私に与えてくださった数々の親切に感謝をして、お渡しすることができました。(一〇月)
退院後、週二回のリハビリを近くの病院で行なっています。しかしまだ、外出中は杖が離せません。
先日、このようなことがありました。ディスカウント・ショップで会計をすませると、店員さんが近づいてこられ、言葉に甘えて、カウンターでレジ袋に入れる作業をしてもらいました。これだけでも私にとってはありがたかったのですが、袋詰めが終わると、何と今度は、品物を詰めたふたつのレジ袋を、駐車場の車まで持って行くことを申し出てくださったのです。いままでに経験したことがないことでしたし、そこまでの期待も想像さえすることのなかったことでしたので、正直、びっくりしました。左手で杖をついて、右手でレジ袋をもち、駐車場まで二往復する姿を想像されたのでしょう、本当にありがたい申し出でした。すべてをおまかせし、楽をさせてもらいました。しかし、このようなとき、どのようなお礼の言葉があるのか、一瞬、戸惑ってしまいました。
また先日は、こうしたことがありました。コインランドリーで乾燥が終わると、近くでフィルターの清掃をされている方に、「ありがとう」の言葉をかけて、自動ドアの方へ歩き出しました。すると、後ろからかけてこられて、私の横からちょうどいいタイミングで、ドアの開放ボタンを押してくださいました。乾燥した洗濯物の入った大きな手提げ袋を片方の手にもち、一方の手で杖をついて歩く者にとっては、ボタンを押すという、ちょっとした行為も、歩行の重荷になります。おそらくその方は、経験的に、あるいは本能的にそのことをご存知だったのかもしれません。ありがたくも手助けしていただき、スムーズにコインランドリーの外へ出ることができました。いままでにない感覚が湧き出てきました。果たして、ふさわしいお礼の気持ちを十分に伝えきれたのだろうかと。
この間、こうした、人の親切を、外出のたびに経験しています。けがをして、はじめて知るありがたみです。(一〇月)
夜間のトイレの回数が多くなったので、泌尿器科で調べてもらうと、前立腺がんの指標とされるPSAの値が一〇を越えていました。正常値の上限が四ですので、明らかに危険信号を発していました。精密検査が必要であるとの医師の判断に従い、私が勤務する神戸大学の付属病院を紹介してもらいました。いろいろな検査がなされました。その結果、前立腺がんであることが判明し、教授の主治医から全摘出が望ましいとの勧めを受けました。手術は、ルネサンスの芸術家で「神の手」をもつといわれるレオナルド・ダ・ヴィンチに因み「ダヴィンチ」の名称で当時脚光を浴びていた新式のロボットを使って行なわれました。そして、無事終了しました。定年を半年後に控えた、二〇一二(平成二四)年八月の夏休暇のことでした。
それ以降、定期的に病院を訪れ、PSAを測定することが日常化しました。全摘出しているとはいえ、わずかながらがん細胞が残っていて、それが数値を押し上げることもあり、その経緯を観察するためです。最初は、限りなくゼロの値からはじまりました。こうして半年が過ぎ定年を迎えると、私は、神戸から阿蘇に転居し、そこで新しい生活をはじめることになり、紹介状をもって熊本市内の病院へ行きました。この時期あたりから、少しではありますが、上昇しはじめていました。といっても、いまだ一には達しない数値です。この後、通院に便利なように、私の住まいに近い病院を紹介してもらい、だいたい数箇月間隔で通院することになりました。今年で、手術から一一年になります。そして、七五歳の後期高齢者になります。この間数値は、一・五前後で推移していました。先日、半年ぶりに、予約していた日に病院に行きました。この日、主治医の先生から、「数値に大きな変化はみられず、術後一〇年が立っていることもあり、ここで一応、経過観察は終了し、あとは、何か大きな違和感が生じた場合に来院してください」と、告げられました。これを聞いた私は、その瞬間、「やっとこれで、前立腺がんから卒業ですね」という言葉が口から出ていました。実に長い前立腺がんとのおつきあいでした。(一〇月)
母親が体調を崩し、いつものかかりつけの病院に入院したのは、八月の末のことでした。少し脱水状態にあり、歩行能力も落ちていました。その母が、退院しました。母は、部屋への人の出入りが少なく、人と会話をする機会があまりない、静かな施設よりも、リハビリの先生や看護師さん、それに同室の患者さんたちと毎日話ができる、にぎやかな病院の方が好きなのですが、規則により入院は、原則最長で二箇月と決まっているらしく、意に沿わない退院でした。主治医の先生は、そのことに理解があり、「具合が悪くなったら、いつでも入院してもいいですよ」、といってくれています。これが、九六歳の母に安心感を与えているようです。
実は、母が入院しているあいだの一箇月間、別の病院ですが、私も膝骨折の手術で入院していました。これは、私にとってとてもいいタイミングでした。といいますのも、施設での生活とは違って、病院生活は、すべての面での支援が行き届いているからです。
退院に伴い、施設での生活がはじまりました。毎週月曜日には、いつものように施設に行きます。そこで、部屋の片づけをしたり、買ってきた好物を冷蔵庫に入れたり、洗濯物を持ち帰ったり、施設の方々や介護担当者のみなさんと意見の交換をしたりするのです。
私も、九月に思わぬケガで入院しました。そして、もうすぐ一二月には後期高齢者になります。施設での生活や病院生活も、もはや母親ひとりの問題ではなく、自分自身の問題として、実感するようになってきました。(一〇月)
コロナウイルスのワクチンを接種しました。今回が七回目です。手もとの記録によりますと、二〇二一(令和三)年六月二一日に初回の接種をしています。この間、およそ二年と五箇月の歳月が流れたことになります。この新型ウイルスの感染拡大に関心が集まり始めたのは、その前年の二月ころだったと記憶しますので、ここから起算しますと、実に、三年九箇月ほどの長期にわたって、私たちは、新型コロナウイルスの脅威にさらされているのです。
話は変わりますが、この数箇月で、近所のスーパーマーケット、コンビニ、行政書士事務所が閉鎖され、それに加えて先日、かかりつけの眼科から年内閉院の通知が届きました。自分が日常的に利用していた店舗や病院だっただけに、言葉に表わせない、寂しさや虚しさのような感情が襲ってきました。廃業に至る理由は、おそらくさまざまで、売り上げが落ち込んだことや適材の後継者が見つからなかったこともあるのかもしれません。この地区の人口減少は加速しています。そのことは、働き手が都会へと消え、地元の購買者や利用者の数が、勢い失われてゆくことを意味します。明らかに、既存の店舗や施設の数量に比べて、絶対的人口数が不足しているのです。人口増加の兆しは見えません。そうなると、結果として、自然と、店舗や施設が淘汰されることになります。
私にとって今回のコロナウイルスのワクチン接種は七回目でしたが、この間、人は家で過ごす時間が多くなり、店舗や施設への出足が確かに鈍りました。こうした、一種の自然災害も、廃業や廃院に拍車をかけていたのかもしれません。ワクチン接種の回数が増えることと、地元民の苦境とは、相関関係があるのではないかという思いが、接種を受けながら頭をよぎりました。コロナウイルスから完全に解放される日は、いつ来るのでしょうか。(一一月)
町役場から「後期高齢者医療被保険者証」が届きました。七五歳の誕生日にあわせて発行されたものです。
「前期高齢者」は、六五歳の誕生日から七五歳の誕生日の前日までの一〇年間です。そうすれば、「後期高齢者」は、七五歳の誕生日から八五歳の誕生日の前日までの一〇年間を指すのでしょうか。そのような定義はないようですが、男女の平均寿命の中間をとれば、確かに八五歳ころになりますので、そう考えてもいいのかもしれません。そうであれば、一二月の誕生日から「後期高齢者」なる私の余命は、わずか一〇年となります。そう思うと、この状況からもはや逃げ出すことはできず、何か急に死の宣告を受けたような感じにさせられてしまいます。
この年になると、おそらく誰しも、自分はあと何年生きるのだろうかとか、どんな老後を過ごすのだろうかとか、そういった思いが頭をよぎるのではないでしょうか。考えても答えの出る問題ではないのですが、そんなことに頭を使うのが人間なのかもしれません。
同じ年齢の人とこうした問題を話題にすると、いつも「ピンピンコロリ」がいいよね、という結論になります。寝たきりになったり、周りの人の介護に頼ったりする老後生活に入る前の元気なうちに最期を迎えることを、みな望んでいるのです。私もそのひとりですが、思いどおりにならないのが人の人生だと思うと、気持ちが沈みます。この庭に寄って来る虫も鳥も、そんなことに思いを巡らしたりはしていないのにね。(一一月)
母親が、一〇月三〇日にかかりつけの病院を退院し、施設にもどりました。ところが、予約していた一一月六日の退院一週間後の診断に連れて行ったところ、この間あまり体調が優れず、母親の希望と主治医の判断により、そのまま入院することになりました。
一一月二〇日に面会に行ったときは、とても元気で、話も普段どおりにできていたのですが、翌二一日の早朝、主治医から電話があり、脳梗塞を発症し、これから急性期の病気を扱う基幹病院に搬送することが告げられました。この病院は、私がかつて心筋梗塞で運ばれた病院でもあり、少し事情がわかっていました。病院に到着すると、検査結果を踏まえて主治医から病状の説明があり、間違いなく脳梗塞を発症しており、いま手術室で詰まった血栓を除去するカテーテル治療を施しているとのことでした。その後、カテーテル治療を担当した医師から説明があり、うまくいき血流が再開したとのことでした。しかし、脳の一部の細胞が壊死する脳梗塞を発症しており、そのため、言語障害と右手足にまひが残る可能性があるとのことでした。しばらくして、母親は、手術室から集中治療室に運ばれ、面会ができました。目は開けてこちらを見つめていましたので、意識障害はないものと思われましたが、言葉は出ませんでした。
翌日、入院に必要な用品や提出書類をもって面会に行きましたが、やはり言葉はなく、手足もしびれているようでした。ここは、一週間に一度の面会に制限されていました。五日間の入院予定でしたが、時間がかかり、集中治療室から一般病棟に移るとの連絡が入ったのは、二八日のことでした。そしてすぐ、再び携帯の呼び出し音が鳴り、一二月一日の午前中にかかりつけの病院から迎えの車が来て、そのまま転院することになったとの説明がありました。
当日、退院に立ち会いました。実際に母親に会って話しかけると、言葉は失われていますが、うなずきはしますので、状況は少し理解できているようです。リハビリ担当の先生の説明によると、脳梗塞としては重度のもので、転院先でのリハビリによって、言葉や身体機能の回復に全く見込みがないわけではないとのことでした。
もとの病院に帰ってきました。看護師さんもリハビリの先生たちも、母親のことをよく知る人ばかりで、廊下ですれ違うと、みな声をかけてくださいます。母親にとっては、自分の家にもどったような気持ちになっていたかもしれません。さっそくCTの検査がはじまり、その後主治医の話がありました。結論としては、鼻から胃に通してあるチューブから栄養分や水分、それに薬剤等を入れて生命の維持を図り、他方で、回復期のリハビリを集中して行ない、しばらく様子をみながら、再び相談の場を設けてその後の対応を考えるということになりました。
この病院の主治医の先生は、とても頭の低い、親切でやさしい方です。今後も親身になって対応してもらえるものと思います。その点、私は安心しています。(一二月)
一二月五日の夜の一〇時過ぎ、母親が入院しています病院から、容体が急変したとの連絡がありました。取り急ぎ、病院へ急行しました。病室では救急救命医の先生と看護師さんが、懸命の対応に当たっていらっしゃいました。母親に話しかけました。目を開けて、こちらを向いています。しかし、口元がかすかに動くだけで、言葉は出ません。それから一時間が立って、脈と呼吸が止まりました。死亡時刻は、日付が変わった六日の〇時五九分でした。
母親の遺体は霊安室に移されたのち、迎えの車で葬儀社へ運ばれ、そこに安置されました。私は一度自宅に帰り、用意をして葬儀社に向かいました。葬儀の段取りについて、事前に相談していた内容を最終確認させていただき、その後、湯灌の儀に臨み、納棺が終わって、いよいよ菩提寺の蓮政寺に向けて出発。ひつぎは本堂に運ばれ、そこで通夜を営みました。
翌日、葬儀を執り行ない、火葬ののち、再び蓮政寺にもどり、母親の初七日と、一週間後に予定していました父親の三回忌の法要をあわせて行ない、そのあと納骨の儀が続き、滞りなく、わが家の納骨堂に遺骨を納めました。
通夜と葬儀には、妹夫婦、佐賀に住む彼らの娘の家族、そして神戸に住む私の娘が参加しました。私の息子家族は、現在シンガポールに駐在しており、今年の年末年始に一時帰国を予定していましたので、そのとき親族そろって再び集まり、四十九日の法要を、少し早めて一二月三〇日に行なうことにしました。
二年前に父を亡くし、そしていま、母を見送りました。(一二月)