謹んで新春の御祝詞を申し上げます
私の住む阿蘇郡高森町には、公立の図書館がありません。国立国会図書館を起点にした距離でいえば、高森町は、日本でも遠く離れた地域に属します。同じように、熊本県立図書館を起点にすれば、県のなかでも高森町はそこから遠い距離にあります。このように高森町は、シカやサルなどの野生動物にしばしば遭遇する機会はあっても、書籍や雑誌と出会う機会はほぼ閉ざされた文化的に辺境の地なのです。地震のときには、県立図書館も約一年間の閉館に追い込まれ、再開館したのは二〇一七(平成二九)年の春のことでした。そのころから私の執筆活動も県立図書館通いも、順調に日常化してゆきました。所蔵のない本は、相互貸借制度を利用して近隣県の公立図書館から借りることができますし、文献複写はほぼすべて国立国会図書館へ依頼して入手します。ここから熊本市内にある県立図書館まで車で一時間と少々です。日本のなかでも、国立国会図書館に比較的遠くて近い地域に住んでいるのかもしれません。
穏やかなお正月をお迎えのことと思います。
本年のご多幸とご健康を心よりお祈り申し上げます。
二〇一九年 元旦
昨年末に名都美術館から、ありがたくも、「とっておき!日本画コレクション」の展覧会カタログをご恵贈いただきました。いつもながら、細部にまで配慮の行き届いた、美しい図録でした。テクストは当館の学芸員の方の執筆になる「大阪新美術館・日本画コレクションの特色」で、図版は、「艶めく女性美」「主役は子供」「風趣に富んだ情景」「四季の美」「歴史ロマンを感じて」「祈りを捧ぐ」の六章から構成されていました。テクストを読み進めました。とりわけ「女性の活躍」と「おわりに」は、私にとりまして、とても示唆に富む、刺激的な内容でした。
私は、日本画そのものについては全くの素人ですが、ひとりの歴史家としては、女性がどのような存在として歴史のなかに隠されているのかといったことに、強い関心をもっています。いうまでもなく、隠されている場所は、本や雑誌のなかの記述された文章だけとは限りません。絵や写真やポスターなどの表現された画像(イメージ)にも、当然隠されています。日本画という表現領域においては、とくに明治以降このかた、女性はどう描かれ、それがどう変化してきたのでしょうか。この問題設定は、女性という対象を見る視線(まなざし)の歴史的変容を記述することにつながります。
他方、女性(画家)は何を描いてきたのでしょうか。これは、女性(画家)が何に視線(まなざし)を向けているのか、つまり女性自身の関心の変化を見ようとする問題の設定につながり、いただいた図録から、日本画は、そのことを歴史的に例証する際の、絶好の視覚的な一次資料となるのではないかということに気づかされました。その意味で、図版の第一章の「艶めく女性美」は、私の関心事にうまく対応していました。
同じく、第二章の「主役は子供」も、大変参考になりました。少し大げさにいえば、いつごろから、「子ども」は発見されたのかということなのですが、単なる「大人」のコピー(髪型や服や遊びや食べ物などに関して)としてではなく、独自の発達的文化的存在としての「子ども」という概念や認識は、いつごろ生まれ、それがどのように変化したのでしょうか、そしてその変化の理由は、何だったのでしょうか。こうした疑問についても、日本画のような表現されたイメージは最もよく教えてくれるように思います。その意味で、第二章の主題を構成する図版もまた、とてもおもしろく拝見させていただきました。
そのようなことを考えながら、ふと富本憲吉のことが思い出されました。といいますのも、一九三六年(昭和一一)の一月に、上野の松坂屋で「富本憲吉日本畫展覧会」が開かれているからです。富本が「女性」や「子ども」を描いたとは思われませんが、彼にとっての日本画と陶器の関係を知るうえでの貴重な作品が陳列されたのではないかと想像しています。富本の陶器をこよなく愛し、しばしば画題にも使ったのが日本画家の小倉遊亀でした。富本のつくる陶器は、深いところで日本画と結び付いているのかもしれません。
イギリスにいたころ、よく independent という言葉を耳にしました。Independent という名の新聞もあるのですが、independent researcher とか independent curator とかの肩書きをもった人もたくさんいました。組織に属さない独立した研究者や学芸員のことです。英国では、小さいときから一人ひとりの自立心や独立心が、家庭や学校のなかで育まれているようで、そうした風土のなかで、こうした生き方や職業が可能となっているのでしょう。
大学を退職し、独り山のなかで執筆活動をしているいまの私も、independent の状態にあります。independent の人は、一義的には、組織や制度に守られていません。したがって、そうしたものに頼ったり、甘えたりすることはできないのです。そこで重要なのが、そうした生き方をしている人たち同士の助け合いや支え合いの精神の存在です。コミュニケーションやネットワークが、人と人を結び、勇気と希望を与えます。今朝パソコンと開いてみると、英国から二通、王立芸術協会とウィリアム・モリス協会からメールが届いていました。
かつてモリスは、社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』に一八八六年から掲載が開始された「ジョン・ボールの夢」のなかで、「フェローシップは天国であり、その欠如は地獄である。つまり、フェローシップは生で、その欠如は死なのである」ことを述べていました。
いま現実の身の回りで起こっていることに率直に向き合い、大事にやさしく手を当てること、これがとても大切なような気がしています。
早いもので、今年もあっという間に一箇月が過ぎ、今日から二月です。
今年は例年と違って、こちらは暖かい冬となっています。雪が降ったのは、去年の暮れの二八日(このときは、ちらつく程度で積もることはありませんでした)と先日の二六日(少し積もりましたが、次の日には消えてなくなりました)の二回くらいで、今朝は、外へ出て見てみましたら、車の屋根に少しだけ雪が付着していました(路上は全くその形跡はありません)。そして、昼になると温度も上がり、ウッドデッキの手すりの上に置いた皿に小鳥たちが飛来し、水を飲んでいました。例年より一、二箇月早い光景です。
去年を思い出しますと、一月と二月に、ともに数日間雪に覆われ、外出せず、家の中で過ごしました。寒気の南下に伴い、朝の最低気温が氷点下五度から氷点下一〇度くらいまで下がり、一日中氷点下の日もよくありました。それに比べますと、何か不思議な気持ちになります。これからの二月はどうなるかわかりませんが、気象の異常が進行しているのでしょうか、暖かいのはいいことなのですが、少し心配にもなります。
北住文弘先生 前略 今年の冬は比較的暖かく、先日は、ウッドデッキの手すりの上に置いた皿に小鳥たちが飛来し、水を飲んでいました。例年より一、二箇月早い光景です。
神戸大学を退職し、こちらの山荘で執筆活動を開始して、この三月でちょうど六年になります。いつも資料の入手は県立図書館を利用するのですが、昨年の秋のこと、必要とする資料が県立図書館には所蔵されておらず、熊大の附属図書館へ足を運ぶことになりました。レンガづくりのために通称「赤門」と呼ばれる熊大の正門には、懐かしい思い出があります。託麻原小学校の一年生か二年生のとき、何か絵画の全国大会があるとのことで、選ばれた数人が熊大近辺へ行き、思い思いに写生をすることになりました。私はこの赤門を描きました。描いているとき、担任をしていただいていた北住先生が、スクーターの後の席に母親を乗せて、激励に来てくださいました。この大会の賞には、天、地、人の三つ賞がありました。記憶が少しあいまいになっていますが、幸運にも私の作品は、そのとき「地賞」か「人賞」を受けることになりました。
私は信愛の附属幼稚園を卒業して託麻原小学校に入学し、先生に担任をしていただきました。幼稚園のときはかなり素行が悪く、読み書きの能力も低く、卒園のときには、この子には行く大学はなく、将来を期待しないようにといわれたことを、しばしば母は口にしていました。しかし、小学校に入り、先生にかわいがっていただいたことで、私も母も、どれだけ救われたかわかりません。いまもこうして研究活動ができているのも、その原点は、託麻原小学校の一年生と二年生のときに先生に教えを受けたことにあります。こころから感謝しています。私が息子に「託麻」と名前をつけたのも、そこに理由がありました。
父(大正一二年生まれ)と母(昭和二年生まれ)は、いまも御幸笛田の地で、それなりに元気に暮らしています。会えば先生のことが話題になります。先生との出会いは、両親にとっても深く記憶に息づいているようです。
その後、ご体調はいかがでしょうか。どうか、暖かくして、お体をおいといいただきますよう、こころから念じております。お返事は全く不要です。ご放念ください。春近い高森から、季節のごあいさつを一言書かせていただきました。草々 中山修一
高森温泉館が四月から休館になります。町が運営する温泉ですが、人口の減少で利用客も減り、赤字が続いていたようです。売却に出しても買い手がつかず、とうとう休館(実質は閉館)へと追い込まれてしまいました。毎日九時半ころに温泉の下の高森町民体育館の駐車場に車を止め、そこから休暇村南阿蘇の野草園のなかを約三〇分ウォーキングし、それから一〇時の開館にあわせて入館、まずロビーで新聞を読み、そのあとゆっくりと一時間くらいかけて温泉に入るのが日課となっていました。電気風呂やサウナも充実しており、根子岳の雄姿が眼前に迫る、屋外の露天風呂からの眺めも、実にすばらしいものがありました。
四月からはお隣りの南阿蘇村にあります瑠璃温泉に行くことになります。ここは一〇時半が開館時間ですので、その三〇分くらい前に近くの運動公園に行き、そこでウォーキングをすることになりそうです。自宅から少し遠くなりますし、高森温泉館の場合は、七〇歳以上は半額の一五〇円で入館できましたが、瑠璃の場合は、村民ではない、私のような高森町民は、残念ながら、そうした高齢者特典を受けることはできません。
これも、人口減が招く生活上の変化でしょうか。こうした変化は町の至る所で見受けられます。町のお年寄りに聞くと、三〇年くらい前までは地元の県立高森高等学校は一学年四クラスあったようですが、数年前あたりから一クラスに減り、やっと今年度は吹奏楽部の活躍によって人気が上がり、二クラスに増えたものの、この四月からの新学期はどうなるかわからないということでした。少子化と高齢化は、明らかにこの町の活力を奪っています。いま有効な手を打たないと、いずれは、高校も消えてなくなるかもしれません。これが、日本の小さな町や村で起こっている現状なのでしょうが、そのなかで実際に暮らしていると、何か肌寒い感じがしきりとしてきます。
荒木美智子先生 前略 今年の冬は昨年に比べるとずいぶん穏やかで、雪が積もることもありませんでした。先日は、ウッドデッキの手すりの上に置いた皿に小鳥たちが飛来し、水を飲んでいました。春の到来ももうすぐかもしれません。
先日、拙稿「石牟礼道子の死去から一年 ハナシノブ考あるいは『沖宮』考」が所収された『KUMAMOTO(くまもと)』第26号(172-189頁)が刊行されましたので、1部、謹んでお送りさせていただきます。ご笑納いただければ幸いです。
帯山中学校のとき、先生には親身になって、苦手の国語を教えていただきました。何とか国語の力をつけたいと思い、無遠慮にもご相談させていただくと、国語の問題集(ドリル)を渡され、ある程度できたらもっていらっしゃいと、やさしく接していただきました。苦手意識を克服したいという思いと、先生に認めてもらいたいという思いがない交ぜになって、与えられた問題集に一週間くらいチャレンジし、職員室にいらっしゃる先生に恐る恐るお渡ししました。すると数日後、丁寧に赤で添削されてもどってきました。自分のできの悪さを痛感するとともに、先生にずっとついてゆき、教えを請いたいという気持ちが大きく膨らんだ瞬間でした。それから高校受験の少し前まで、定期的に添削をしていただきました。先生には、本当にご迷惑だったかもしれません。しかしこの間、国語の学力が格段に上昇し、無事に志望校に合格することができました。
大学を卒業して就職したのは神戸大学でした。そこで、デザインの実技と歴史を教え、ご存知のように、定年後、六年前からこの南阿蘇に蟄居し、執筆活動に専念しています。「石牟礼道子の死去から一年 ハナシノブ考あるいは『沖宮』考」は、あのときのできの悪い帯中生徒で、いまや七〇歳になる教え子が書いた一文です。先生にお見せするのは、恥ずかしくもあり、また、ここまで書けるようになったことを褒めていただきたいという気持ちもあります。五五年前、ドキドキしながら問題集をもって職員室に入るときの感覚と全く変わりありません。
先生、帯中時代、いつも傍で気にかけていただき、本当にありがとうございました。こころから感謝しています。いまこうして何とか文章が書けるのも、すべて先生のおかげです。私の文筆の原点は、帯中職員室での先生による添削でした。 この二年、先生からの年賀状が途絶え、体調を崩されているのではないかと案じております。これから好季節を迎えるなか、どうかお体、おいといいただきますよう、こころから念じます。お返事は全く不要です。ご放念ください。春近い高森から、季節のごあいさつを一言書かせていただきました。草々 中山修一
この地方の野焼きは、毎年、三月に入ると中旬ころまで、あちこちで行なわれます。そのため、野に火が入れられ、炎や煙が目に留まると、一瞬立ち止まってその方向を眺め渡し、春の訪れを実感します。野焼きは、草原の枯草を焼き尽くすことで、害虫を駆除し、新芽の発育を助け、新たな草原へと再生させる、この地方になくてはならない春の到来に先立つ勇壮な儀式です。
先日、野草園をウォーキングしていたら、東側の外輪山に向けた牧草地の一帯に、ちょうど火が入れられたところでした。数人の人が自然と集まり、カメラを向け、野の春の話題に花が咲きました。ある人がこんなことをいっていました。野を焼きはじめて、突然風向きが変わると、一瞬にして野焼きの人が風下に立たされることになります。命を落としかねない危険な状況です。そのときその人がとるべき行動は、勇気を出して意を決し、炎のなかを一瞬にして走り抜け、風上に移動することしかなく、唯一これが助かる道とのことでした。
野焼きも、近年その規模が縮小されてきています。担い手の減少がその大きな理由で、いまはボランティアに頼らざるを得ないのが実情のようです。そのため、草原の再生と循環が滞り気味になっているのです。これは野の維持にとって大きな問題をはらんでいます。その一方で、わが家にとっても、実は一大問題なのです。わが家の北側は、一面牛を飼うための牧草地でした。そのためこの時期には牧野組合の人たちの手によって野焼きが行なわれてきました。しかし、後継者不足や過重労働などが原因となって、この地区の畜産農家が減少し、牧野組合も活動を停止し、そのため、数年前から野焼きも行なわれなくなりました。かつて野焼きが行なわれていたころは、この時期になると、焼けた茶褐色の土からつくしの芽が顔を出し、それを採ってはごまあえにしたり、てんぷらにしたりして、春の山菜を楽しんだものでした。しかし悲しいことに、いまやそうした季節を味わう喜びが一つひとつ失われていっています。野の衰退は、明らかに食文化の劣化を招き、人間から季節感を奪い取っているのです。
この地方の風景は、春の訪れとともに、黄色の色調に変わります。といいますのも、田畑の畦道や牧野道、土手やのり面の至る所で、ナノハナ(菜の花)、スイセン(水仙)、タンポポ(たんぽぽ)が一斉に花を咲かせるからです。厳冬の雪景色と初夏の新緑とのあいだに挟まれたこの一瞬に、草原から田園まで、すべての生命体が再生され、その息吹を謳歌します。白、黄色、緑、そしてそのあとに続く、赤(紅葉)、茶褐色(枯葉)――四季の変化は、色相の循環でもあります。
先日の花見のときに、差し入れられた「摘み菜」の和え物をいただきました。最初「菜の花」かと思っていましたら、そうではなく「摘み菜」という種で、摘んでも摘んでも成長するので、この名が付けられたとの説明でした。花は黄色く、少し苦みのある素朴な風味で、春の野を食す感じでした。
わが家の裏庭に去年はじめて一株のフキノトウ(蕗の薹)を見つけました。すると今年は、そこから少し離れた所に、一〇株超えるくらい群生して芽をつけました。驚くとともに、うれしくなり、図鑑を持ち出して、少し調べたりしてみました。てんぷらにするとおいしいと書いてありましたが、群れて育ったことが何よりの感動で、食すことは、とうとう機会を失ってしまいました。
そういえば、わが家の庭で最初に春を告げる花といえば、フクジュソウ(福寿草)です。今年は暖冬だったせいもあるのでしょうか、二月の上旬には花を咲かせていました。この花の色も黄色です。どうやら、春と黄色は切り離せないようです。黄色は生命の色かもしれません。
こちらに移り住むまで神戸では、長く『朝日新聞』を購読していました。引っ越してきたとき、新聞のことが気になり、販売店を探してみましたら、その店では『朝日新聞』は取り扱っておらず、地元紙の『熊本日日新聞』のみということでした。もともと、世間の動きから距離を置いて執筆活動に専念するために田舎暮らしをはじめようと決意したのですから、新聞購読などは論外という意識も一方にあって、それ以来、日々家で新聞を読む習慣は絶たれました。
そうはいっても、やはり世の動きは気になるものです。温泉や病院などで備え付けてあれば、ついつい新聞(どの施設も地元紙のみ)に手が向かいます。しかし震災後、経費削減でしょうか、白水温泉瑠璃は新聞を置かなくなりました。もうひとつの高森温泉館は、利用者減により赤字が続き、とうとうこの三月末をもって、休館へと追い込まれてしまいました。こうして私にとっての新聞を読む場が、一つひとつと姿を消してゆきました。
町民税は確かに納めているのですが、外部からの移住者であるためでしょうか、私の所へは、町の広報誌や回覧文書等はいっさい届きません。そこで致し方なく、配布日にあわせて、だいたい二週間ごとに、自分で町役場に取りにいくことになります。そこのロビーには新聞が置かれていますので、その機会を利用して、新聞を読むことがあります。全国紙、地方紙、経済紙をあわせて五紙が備えられています。しかし、読み慣れた『朝日新聞』だけが、どういう理由かはわかりませんが、ありません。どうやら私は、町民向けの行政発信文書の入手のみならず、新聞という社会的情報の取得の面でも、町からつまはじきされているようです。
わが家の庭は、春に大きな変化があります。寒さが和らぎはじめると、庭に出て、少しずつ作業を開始します。まず、冬を越した大量の落ち葉を数箇所に分けて寄せ集めます。今度はそれを一輪車で何度も往復しながら、沢側の杉林ののり面へ転がり落とします。この作業は数日を要します。次に、春の花をホームセンターで買ってきて、鉢に植え替えます。そして同時に、庭に置いてあるイスやテーブルにもせっせと水をかけ、越冬の汚れを洗い流します。こうして庭に明るさがもどってきます。春の庭への衣替えといったところでしょうか。
そのあとになりますが、四月の上旬を過ぎるころから、わが家の数本の山桜が満開を迎えます。どれも大きな木ですので、屋根を越える高さくらいまで樹高があり、見上げての、天空の桜観賞となります。隣接する敷地にも桜の木は何本もあり、この時期の一瞬、山のなかのこの地は、夕闇が迫ると、大群のホタルのようなほのかな灯を発光します。
ここは山間部ですので、平地の桜に比べれば、満開の時期は一週間くらい遅れますが、散るのは平地部とほぼ同じで、咲いている日数が少ないように思います。山桜そのものの性質がそうなのかもしれませんが、この時期の山間部に固有の雨の日や風の日が多いせいかもしれません。風が吹くと、本当に花吹雪となって、流れるように花びらが舞い散ります。風がないときは、一枚一枚、静かにゆっくりと、天から降るように地上に落ちてきます。外に出て実際の桜を眺める楽しみは当然としましても、室内にいながら、空から散りゆく桜の花びらを数日かけて楽しむのも、また格別の風情があります。この間、庭もウッドデッキも、玄関前の道も、白に近いピンクの花びらで薄く覆われます。
その一方で、庭をよく観察すると、去年まではなかったような草花を見つけることがあります。今年はレンゲの花が目につきました。どこから、どのようにして、ここに来たのかはわかりません。この大地の土壌には、多くの可能性を秘めた生命体が宿っているようです。春は、そうした生命体を蘇らせる季節なのでしょう。
三年前の四月一四日に前震が、二日後の一六日に本震が、私たちの住む熊本地方を襲いました。多くの人命が失われ、家屋や大橋が倒壊し、道路や鉄道が寸断されました。誰もが想像していなかった惨事でした。
亡くなられた方の御霊に手をあわせたい。その方々のご親族のお気持ちと向き合いたい。家を失い、いまだ安住の場所を見出せない人たちの思いを受け止めたい。 橋や道は、時間とお金をかければいつかは元どおりになります。しかし、元どおりにならないものがあります。復興とは、元どおりになるものを元どおりにすることだけではありません。重要なのは、元どおりにならないものを、どう支え、どう記憶し、どう未来へ引き継ぐのかということではないかと思います。その意味で、復興に終わりはありません。これが、熊本地震から三年が立ったいまの実感です。
その当時を少し思い起こしてみます。地震からしばらくして、町役場に電話をしてボランティアができないか申し出てみました。小さな子どもたちに絵本などの読み聞かせならできるのではないかと思ったからです。しかし役場ではボランティアの受付は行なっていないということで、残念ながら実現しませんでした。それから数日後の夜中、心筋梗塞に襲われました。多くの人の手によっていのちが救われました。地震に続いて、いのちのはかなさと大切さを実感した瞬間でした。
丸岡秀子は、一九〇三(明治三六)年に長野県の南佐久郡に生まれ、その生涯を、農村女性の地位の向上や平和運動に捧げた活動家であり、文筆家である。日本母親大会の生みの親のひとりとしてもよく知られている。丸岡のそうした生き方の原点に、富本憲吉と一枝がいた。奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)の学生のとき、丸岡は、この夫婦を安堵村に訪ねた。のちに丸岡は、その出会いの衝撃を、「近代」とのめぐり合いという言葉でもって表現している。
先日、丸岡秀子に関するウェブサイトを見ていたら、偶然にも「丸岡秀子の声」に出会った。これは、一九八〇(昭和五五)年一〇月に東京の五反田にある希望ホールで開催されたときの講演「時代の連続と不連続」の肉声の一部(五分程度)であった。そのなかで、七七歳になる丸岡は、「老い」について、こう語っている。自分は「老い」がどのようなものであるかを、具体的に誰からも教えてもらったことはなく、しかし、このことは重要なことであろうと考え、子や孫への遺産と思って、いま日記に書きつけている。七〇の「老い」は、二〇、三〇、四〇代に何を考え、どう生きたかを総括したものでないかと思う。そして、七〇には八〇の「老い」の重みはわからないし、八〇には九〇の「老い」のつらさがわからないとも話していた。
丸岡が生きていたら、おそらく驚嘆するであろうが、いま書店へ行けば、「老い」をどう生きるかというテーマの指南書が、ずらりと並んでいる。団塊の世代が定年を迎え、高齢化社会が加速するなか、「老い」は、家族をはじめ、周りの人たちをも巻き込んだ、まさしく国民的関心事となっているのである。しかし「老い」が、丸岡がいうように、二〇、三〇、四〇代に何を考え、どう生きたかの集約であるとするならば、「老い」がはじまってから「老い」を考えるのでは、手遅れということになろう。つまり、人生後半のよりよい老い方には、人生前半のよりよい生き方が「連続」のうちに実質的に関与しているからである。しかし丸岡は、たとえ六〇であっても、七〇の「老い」の重みはわからないともいう。ここに丸岡は、一方の「不連続」を見ているのであろう。結論的にまとめれば、誰しも、いまから一〇年後の様相は実感として想像することはできないものの、間違いなくいまの様相が一〇年後につながっているということになろうか。
以上のように,五分程度の断片的な短い肉声から、私なりに、演題にあります「時代の連続と不連続」を読み解いてみました。正確な読み取りになっているかどうかは別にして、そうした「老い」への思いに、次第に私も近づいてきているようです。
こちらは数日前から、強い雨ではありませんが、降ったり、止んだりしています。雨は木々に恵みを与え、庭の新緑が輝いて見えます。この時期、鳥のさえずりも盛んです。いろんな声が飛び込んできます。しかし植物と違い、鳥たちはゆっくり観察できず、いまだに鳴き声と名前が結び付きません。またこの間、玄関横のシャクナゲが開花し、見ごろを迎えました。そうした毎年この季節に咲く定番の花とは違って、庭では、去年までは見受けなかったような野草が幾つか芽を出しています。おそらく野の鳥が野の花をついばみ、別の野に種を蒔くのでしょう。野鳥と野草の不思議な生命維持の関係です。ところで先日、遊びに来た地元の友だちの案内で、隣接する空き地でタラの木を数本見つけました。残念ながら、もうすでに芽は伸びきっていましたが、来年のこの時期の新芽が楽しみです。タラの芽のてんぷら、絶品だと思います!
春は、草木や小鳥たちにとって生命再生の季節です。虫たちにとっても、同じことだと思います。しかし、彼らについては、季節の題材になじまず、これまでほとんど触れることはありませんでした。それでは虫たちに悪いと思い、今日は、ここに書き記しておきます。
こちらに移り住んで、最初のころのこの季節に驚いたのは、アリの大量発生でした。アリは、台所のゴミ箱に出現しました。そこで、キッチン・カウンターの上に小さなビニール袋(スーパーでもらうレジ袋)を置いて一日分のゴミ入れとして、台所仕事の最後に開口部をしっかり閉じて町指定のゴミ袋(の入ったゴミ箱)に入れるようにしました。一日単位のゴミ処理です。こうしてアリの好物と思われるものを遮断したことにより、それ以降、アリはゴミ箱に近寄らなくなりました。しかし今年のこの季節は少し様子が変わって、ゴミ箱でなく、押し入れの片隅に大量発生しました。そこで講じた対策が、粘着剤が塗布されたシートを使ってみることでした。このシートは、かつてネズミが部屋に出現したときに使用した残り物で、思惑が見事に的中し、一箇月もそれを置いていたら、アリも身の危険を感じたのか、もはや上がってこないようになりました。もっとも、床下から上がってくるアリの道は不明のまま、塞ぐことはできず、また来年も、同じ対策をしなければならないかもしれません。それにしても、なぜ押し入れに出現したのか、それも不明です。
この時期に室内で発生する虫はアリだけではありません。クモもそうです。とくにクモは、洗面所や台所で見かけます。水分の補給のために現われるのでしょうか。対策は何もありません。見かけたら、履いているスリッパを脱いで、それでたたくことです。クモはとても弱い生き物で、たたくと足と体を丸めるようにして死に絶えます。いのちを奪う罪悪感がありますが、「ごめんなさい」というほかありません。
ときどき、スズムシが台所のシンクにいることがあります。かつて床の下で飼っていたことがあり、その繁殖の名残ではないかと思っていますが、こちらは、手を添えると、飛び込んできますので、そっとそのまま握って外に逃がしてやります。しかし、どういう方法を使ってシンクまでやって来るのか、いまだに謎となっています。
先日、排水溝を掃除していたら、生まれたばかりのような小さなネズミが二匹死んでいるのを発見しました。家のなかの配管を通して排水溝に来たのか、野外から水を求めて排水溝に近づき溺れたのか、それはわかりません。数年前に、部屋のなかにネズミが現われたり、天井から走り廻る足音が聞こえたりしたことが一、二度ありました。どうやら、家ネズミや野ネズミが、この周りにいるのは間違いないようです。
こうした虫やネズミたちは、私も含めて人間たちから嫌われ、草花と違って、この時期、その生命の輝きに目を向けられることはほとんどありません。しかし、彼らも生きているのです。
ここは山のなかですので、野生動物がたくさん住んでいます。日常的に目にするのが、シカとサルです。シカは山野だけではなく、庭にも現われることがあります。偶然にも、一度庭でシカの角を見つけたことがありました。サルは高い所が好きらしく、ときどき屋根の上でジャンプする音がすることがありますし、あるときにはウッドデッキから室内をのぞき込んでいたサルと目があったこともありました。イノシシは昼間に出くわすことはありませんが、家の周りにもところどころに穴を掘ったあとがあり、これはイノシシの夜の活動の形跡です。
山間部や農村地の町や村では、こうしたシカやサルやイノシシの被害に頭を抱え、猟師さんたちに駆除を依頼し、一頭につき幾らかのお金を出して買い取っているところもあります。
先日のことです。朝起きて窓を開けてみたら、異様な光景が目に飛び込んできました。私の家の西側には、約二メートル幅の狭い林道が走っており、その林道と宅地とは高い所で一メートルほどの高低差があるのですが、そののり面の一部が崩壊し、低い林道に泥が散乱していたのです。すぐにイノシシの仕業とわかりました。しかも、その状況の大きさからいって、一頭ではなく、数頭によるものではないかと直感しました。地元の人から、イノシシは土のなかの木の根や、そこに眠る小動物を好むと、聞いたことがありました。どうやら昨夜は、食を求めての活動だったようです。
単なる穴であれば、周りの土をスコップで埋めてゆけばいいのですが、のり面の崩落となりますと、それとは勝手が違い、修復に少々手間取ってしまいました。そのとき、作付けした野菜や果物が被害に遭う農家の人びとの怒りの声も、少し実感できたような気になりました。そうはいっても、こうした野生動物たちがこの地の先住民であることに変わりはありません。野生や自然と人間との共存の最初の一歩が、この日の出来事に隠されているのかもしれません。
こちらで生活していて驚くことは、野鳥の生息を身近に感じられることです。これまでに、車を運転していてキジやヤマドリのよちよち歩きに出会うことがありましたし、目の前の庭の木に、大きなフクロウが止まっていることもありました。数年前には、カッコウが朝夕、よく鳴く年もありました。またあるときは、郵便箱を開けてみると、たくさんの苔のような草が出てきました。巣をつくるために野鳥が運んできたものと思われます。
ウッドデッキの手すりの一角に水を入れた大判の皿を置いています。鳥が寄ってきて水を飲みはじめると、皿の底をつつく音が聞こえてきますので、部屋にいてもすぐに鳥の存在に気づきます。ときには羽を広げて水浴びをします。隣りの木の梢には、次の鳥が待機している姿を見ることもあります。鳥の種類は正確にはなかなか特定しがたいのですが、ムクドリやヒヨドリ、セキレイやキツツキなどの仲間ではないかと思います。
冬が終わり、いよいよ三月ころから野鳥が鳴きはじめ、野草園をウォーキングしていると、野鳥を撮影するカメラマンの姿が目につくようになります。鳴き声は五月ころにピークを迎えます。わが家でも、ひねもすいろんな鳴き声が響き合い、まさに野鳥は森の合唱団です。
先日、それとなくNHKの朝の番組を見ていたら、野鳥の話題となり、興味深く視線を移しました。専門家の解説によって、ウグイスやメジロなど、数種類の野鳥の姿と鳴き声の紹介がはじまりました。すると、庭先で実際の野鳥が鳴いているものですから、テレビの鳴き声と複雑に絡み合い、異様な音の空間ができてしまいました。これには驚きました。一方、この番組で教えられたのは、ウグイスの色のことでした。キャスターのひとりもそう思っていたとのことでしたが、私自身も、ウグイス色やウグイス餅などから連想して、ウグイスの色は、草色(緑色)をしているものと信じていました。ところがこれはメジロの色で、専門家によると実際のウグイスは茶褐色で、映像で見ても、確かにそうでした。庭では早朝から夕暮れまでウグイスが鳴いていますが、いまだその姿を見たことはないと思い込んでいました。しかし、実際には、ウグイスもお皿の水を飲みにきていたのかもしれません。よく観察してみたいと思います。
前にも書きましたように、この三月末日をもって町が運営する高森温泉館が閉館に追い込まれました。赤字が続き、売却に出しても買い手がつかず、やむを得ない選択だったようです。この間、昨年の一二月に七〇歳になった私は、高齢者福祉の恩恵にあずかり、入浴料金は半額の一五〇円になっていましたし、入館のたびにロビーに備え付けの新聞を楽しんでいました。
そのようなわけで、私もそうですが、多くの高森温泉館の常連客は、行き場を失い、四月から隣りの南阿蘇村にあります阿蘇白水温泉瑠璃に通うようになりました。しかし、私たち高森町住民は村外者になりますので、七〇歳を超えていても福祉の特典はなく、正規料金の三〇〇円を払わなければなりません。そのうえに私の場合は、新聞を読む場も失われました。温泉棟には以前は新聞が常備されていたのですが、経費の削減でしょうか、震災後ころからそれもなくなっていました。しかし、かつてこの宿泊施設に家族で泊り、そのとき宿泊棟の受付で新聞を読んだことを思い出しました。温泉棟に隣接する宿泊棟に行ってみると、いまも新聞が備え付けられていました。何か救われたような感じがしました。
こうして四月から新しい生活のリズムへと移行しました。九時半に瑠璃温泉の駐車場に車を止めると、すぐ近くの南阿蘇村白水運動公園の展望台で南外輪山を望みながら独自の体操をし、続けて、運動公園と瑠璃温泉を囲む公道をウォーキングとして二周します。そのあと宿泊棟の受付で新聞を読み、一〇時半の開館にあわせて温泉棟に移動して、入浴をするというパターンです。
このパターンに慣れてきたころ、六月一日から料金が四〇〇円に改定されるとのアナウンスが流れました。私を含めて、病中病後の湯治場として毎日のように利用している常連客にとっては、この値上げは痛手で、日々の話題になりました。そうしたなか、高森町が一〇枚綴り一セット四、〇〇〇円の回数券を瑠璃温泉から買い取り、それを七〇歳以上の町民高齢者に半額で売り出すという話が舞い込んできました。しかし、半額での回数券の販売は、六月一日と二日が週末なので、三日の月曜日から町役場で、ということらしく、入浴仲間の目には、そうした町の対応は、なぜ五月三一日までに販売ができないのか、町民の意向を無視した身勝手なお役所仕事に映りました。そしてまた、本来であれば、高森温泉館の閉鎖にあわせて高森町は、隣村の温泉施設の半額回数券を用意し、従来からの高齢者福祉の政策を中断させることなく、正しく継承すべきだったのではなかったのかといった批判の声も聞かれました。加えて、高森温泉館へ行くにはバス便もあったのですが、高森町方面から隣村の瑠璃温泉へのバス便はないらしく、高森温泉館の閉館に伴い足を奪われ、温泉の楽しみをあきらめざるを得なくなった町民たちがいることも耳にしました。このような一連の動きのなかに、高齢化と過疎化にある村落の厳しい現状を見たような気がしました。
心筋梗塞で入院しステントを入れてから三年が経過しました。この間、四週間おきに通院し、経過を観察しながら数種類のお薬を出してもらっています。先日病院に行くと、先生から、イミダプリルという血圧を下げる薬をこれまでの五ミリグラムから半分の二.五ミリグラムに変えたいとのお話がありました。診察に先立って毎回測定する血圧の値が、この数箇月、一三〇代から一〇〇代へと降下していたからです。
この三年間、試行錯誤を繰り返しながら、温泉(湯治)、体操とウォーキング、そして食事に最大限の注意を払って日々の生活を送ってきました。そのなかにあって、コレステロールは別ですが、血圧と血糖につきましては、どうすれば正常値の範囲を保つことができるのかが、自分なりに少し感覚的にわかってきていました。しかし、心筋梗塞のような重篤な病気を過去に一度経験した人は、通常の正常値よりもさらに厳しい値が求められるのが通例です。それにしても、この数箇月の降下現象については、薬物治療の成果なのか、それとも体質改善の結果なのか、それをうまく判断することはできません。おそらくは両者の複合された作用によるものであろうと思われます。
通院開始以来、薬の量を減らすことが、私の最大の目標になっており、はじめてその一歩を達成できたことをうれしく思います。これまでどおり、温泉(湯治)、体操とウォーキング、そして食事という三つの生活習慣の観点から自己の身体管理を徹底し、最終的には、薬を必要としない健康で健全な体に復帰したいと強く願っています。夢のような話ですが!
今年も「野の花コンサート~はなしのぶ~」が南阿蘇ビジターセンターの阿蘇野草園で開催されました。このコンサートには、野の花に感謝して音楽を捧げるという思いが込められており、音楽と自然保護運動とが組み合わされた融合の企画となっています。そのため、午前の野外コンサートは、午後の野草観察会へとつながってゆきました。昨年はコンサートだけで、野草観察会には参加しませんでしたが、今年は、最近野草に関心をもちはじめたこともあり、心待ちにしていました。私のような一般参加者だけではなく、遠来からの団体参加者もあり、熱気に包まれていました。一五人程度で構成するグループが五班でき、さっそく班ごとに南阿蘇ビジターセンターから阿蘇野草園へと入って行きました。私たちの班の解説担当者は、熊大理学部の若い教員の方でした。参加者のほとんどが高齢者で、なかには、日ごろからこうした観察会に参加し、とても野草に詳しい人が多く含まれていました。私は、隣接する高森温泉館が閉鎖される三月末までは、この野草園をウォーキングコースにしていましたので、野草園自体には馴染みがあったのですが、そこに生息する野草については、ほとんどその名前も知らず、とてもいい勉強の機会となりました。とくに、クララをはじめて見て、感動しました。オオルリシジミというチョウは、このクララの周りだけで生活し、いまや唯一阿蘇・九重地域でしか見ることができない絶滅危惧種になっていることは知っていたのですが、残念ながら、クララの開花期はすでに終わり、オオルリシジミを見ることはできませんでした。いま毎日通っている阿蘇白水温泉瑠璃の名称は、このチョウの名前からとったもので、そしてまた、温泉に付設されているレストランの名前は「クララ」といいます。そのような日々の親しさもあって、実際のクララに出会えたことは、今回の野草観察会での思いがけない収穫となりました。
昨日は、食堂の二箇所だけ外の様子を見るために雨戸を開けていましたが、それ以外は締め切って、一歩も外に出ることなく、家のなかで過ごしました。いまは小康状態で、小雨に変わっています。しかし、土砂災害警戒情報も大雨警報も避難勧告も発表されたままで、まだ解除されていません。予報では、今週はずっと傘マークが並んでいますので、降ったり止んだりの日が続くものと思われます。本当に避難を要するような、身の危険を感じる大雨にならないといいのですが。
こちらは阿蘇の山間部ですので、いつもの冬ですと、雪で閉ざされる日が数日続くことが、一、二度あるのですが、今年はそれが全くなく、異常な暖かさでした。入梅宣言は平年より二一日も遅れ、夏のような天気がつい先日まで続きました。梅雨に入ったかと思うと、この大雨です。やはり自然界が少しずつ狂いつつあるようです。これも人間の悪行の結果なのでしょうか。ついついそのようなことを考えてしまいます。
今日から七月です。あっという間に、今年も半年が過ぎました。猛暑や台風などの脅威から離れた、穏やかな後半を過ごしたいと願います。
梅雨が明け、一気に暑くなりました。とはいっても、こちらは高くても三〇度までで、それを大きく超えることはありません。都会に比べれば、やはり別天地なのかもしれません。
前々回に「血圧対策――薬物依存か体質改善か」を書きましたが、これは、その続編です。六月の診察の際に、これまで二種類飲んでいた血圧の薬の内の一種類(ビソプロロールフマル酸塩錠)を服用中止にしようと医師から告げられ、日々の努力が実ったと、とても感動しました。その思いを胸に、それから四週間後の昨日が定期診察の日でした。前回の採血の結果が知らされ、すべての項目が基準値内にあり、心配していたコレステロール値も七三と、とてもいい成績でした。しかし、医師の判断によれば、一般の人であれば、この数値で問題ないのだが、私の場合は一度心筋梗塞を経験しているので、やはりコレステロールを下げる薬は必要とのことでした。それではどこまで下がると薬が必要でなくなるのかをしつこく尋ねてみると、四〇という答えが返ってきました。この値は新生児の値だそうで、実際にはここまで下げるのは難しいだろうということでした。新生児にもどることはもはやできないかもしれませんが、今の薬(ロスバスタチン錠)は七.五ミリグラムですので、その量を五ミリグラム、さらには二.五ミリグラムまでは下げられるように努力したいと考えています。これまでの対応策は、一日の時間の適切な管理と食事への万全の配慮、それに加えて毎日のウォーキングと温泉療法でしたが、今後も途切れることなく続けてゆけば、いつかは達成できるのではないか、あるいは、ひょっとしたら新生児に生まれ変わることさえできるのではないかとも感じています。
今回の台風は、私の生活にも被害をもたらしました。強い雨は風を伴い、木々の小枝や葉を庭や道路の一面に落としてしまいました。町の公道につながる数百メートルの牧野道はスギ林を切り開いた小さく狭い坂道で、台風が去った次の日、車で下りてみると、地に落ちた小枝や葉っぱで車も徐行しなければ通れないくらいになっていました。もともとこの林道は、数年前までは、下の部落から牧野まで牛をトラックに乗せて運んでいた牧野道として活気があったのですが、日増しに牛を飼う農家がなくなり、それに伴って、道を管理していた牧野組合も解散し、いまではほとんど私しか日常的には使用しない、さびれた状態になっているのです。
さっそく枝と葉の除去作業です。正式な名称はわかりませんが、熊手の形をしたほうきのようなもの、加えて、運動場の地面を均すときに使うトンボのような形をしたもの、それらを使って枝と葉を数メートルごとにかき集めてゆきます。それが終わると、手で一輪車に移し替え、道路脇にある何箇所かの狭い平地のところまで運び、そこに廃棄するのです。作業は、この単純な繰り返しです。一日一時間半くらいの労働で、三日かかりました。自宅の庭の作業には、二日がかかりました。
しかし幸いなことに、土砂崩れはありませんでした。この道は大変危険な道で、これまでに、地震や台風や梅雨のときなど、両脇ののり面が崩れ、土砂で塞がれたことが何度かありました。小規模な場合には、自分の力で除去しますが、そうでない規模のときは、町役場に連絡をし、業者が出て、重機による撤去作業が行なわれます。今回の台風の被害は軽微なものに止まり、こうした土砂崩れの災害に見舞われることはありませんでした。ある意味で、少し安堵した次第です。
一、二週間前から目に違和感があり、物がぼやけたり、二重に映ったりするようになりました。隣り村の眼科に行ってみました。眼科に行くのは、小さいころに一度眼帯をつけたことが微かに記憶に残っており、おそらくそれ以来のことではないでしょうか。はじめに眼圧や視力などの検査をし、続いて医師の診察を受けます。結果は、少し白内障の症状が出ており、加えて、軽い結膜炎にも罹っているとのことでした。医師との会話のなかで、毎日四、五時間はパソコンと向き合っていることを告げると、目を酷使しないことも大事とのこと。お薬は、水晶体の濁りを抑え、白内障の進行を遅らせるものと、目のピントを調整する筋肉の働きを改善するビタミン製剤の二種類の点眼薬が処方されました。そして帰りに、白内障に関する症状と治療について書かれた冊子をもらいました。それによれば、薬はあくまでも進行を遅らせるためのもので、症状を改善したり、視力を回復させたりする効果はないようです。症状が進み、日常生活に支障が出るようになれば、手術を考えなければなりません。そのようにならないように、祈るだけです。
お盆を過ぎるころから、夜明けが遅くなってきたと感じるようになります。それまでですと、だいたい五時ころには外が明るくなっていたのですが、この時期になりますと、それより三〇分ほど遅れて、白みはじめます。
こちらは標高が約六六〇メートルあり、気温は平地に比べ四度ほど常に低く、夏場でも三〇度を超えることはほとんどありません。その意味では、最高の避暑地です。しかし、何といっても山間部ですので、よく雨も降り、そのため湿度も高く、風のないときなどには蒸し暑く感じられます。
テレビの天気予報を見ていたら、秋雨前線が話題になっていました。先日までは梅雨前線と台風の接近が話題の中心になっていたことを考えれば、急速に季節は変化しているようです。こちらの生活は、だいたい一〇月から翌年の四月までが、暖房器具を使う冬の季節となります。どうやら今年も、夏が終わり、冬の到来がそこまで近づいているようです。
確かお盆の連休のころ台風が来て、大雨をもたらしました。一九日に所用で神戸に行ったときは、何とか昼間は良好だったのですが、帰りの飛行機を降りてすぐに、雨が降り出し、俵山を越えるときには、ワイパーが役に立たないほどの激しい雨に見舞われました。その後も雨は続き、先日の大雨では、佐賀県や長崎県に被害が及んでいます。テレビの映像を見ますと、周りが水没し、民家や病院が孤立しています。こちらはそれほど大きな被害は出ていませんが、いまもまだ断続的に降り続いています。いつもですと九月の後半ころから稲刈りがはじまります。しかし今年は、日照不足で発育が進まず、また連日の強い雨で、なぎ倒された稲も見受けられるようです。今日から九月です。この雨はいつまで続くのでしょうか。例年にない長雨を経験しています。
昨日、熊本公証人合同役場において、資産の分与にかかわる公正証書と年金の分割にかかわる公正証書の二種類を作成し、その足で熊本市南区役所の出張所に離婚届を提出し、受理されました。
この間、機会があるごとにおふたりには、私の申しわけない気持ちをお伝えし、謝ってきましたが、こうして離婚手続きがすべて完了したことを踏まえて、改めて父親としての私がおふたりに与えてしまった苦しみや悲しみに対しまして、心から陳謝させていただきたいと思います。
ふたりに心ならずも味あわせてしまった心痛の重みを考えますと、決して許してもらえるようなものではないことは重々承知しています。その思いの内にあって、いまの私の心境を以下に少しだけ述べさせてください。
振り返ると、私が離婚を決意し、離婚届を書いて相手方に渡したのは、もう一〇年くらい前のことでした。しかし同意してもらえず、その後、おふたりが大学を卒業し、職を得て社会人になるのを見届け、それなりの父親の役割と責任を果たしたうえで、二〇一三年三月三一日の退職と同時に山に帰り、隠遁生活を開始しました。その後「離婚協議書」を作成し、家族みんなの同意を得たものの、実行には移されないままになっていましたが、やっと念願がかない、その日が昨日訪れました。いま私は、地獄のような暗闇から何とか這い出して、新鮮な日の光を浴びるのに似た、安堵の気持ちでいっぱいです。
私たち夫婦には、生き方や考え方にかかわって相容れない決定的な違いがあり、何事につけ、対立や争い事が日々絶えることなく結婚期間中に続いていました。しかし、そうしたことがすぐに表面化することはありませんでした。ふたりの子どもが生まれると、夢中になり、また必死になって、日々を過ごしていましたし、感受性が豊かになるころになると、夫婦の不和を見せたくないとの思いから、子どもの前では意識的に言い争いを避けるようにしていました。しかし、大学に入るころから、私自身の緊張感も緩み、それに耐える限界に達したのかもしれませんが、夫婦関係が最終的に破綻し、そしてその結果、ふたりの子どもたちへ苦しみや寂しさを与えてしまうことになりました。私は、神戸の地で死んだような生き方を最期まで続けるよりも、人間らしく生きたままの姿で死んでゆきたいという強い思いから、定年退職後は山での蟄居生活を選択しました。現状の理不尽な寒風に晒されたまま最期まで忍耐する力がなく、生に対する執着心のようなものが捨て切れずに残存していたということでしょうか。結果的に、こうした私のわがままが、おふたりを悲しませ、苦痛を強いることになってしまいました。決して許されるものではないと承知しながらも、「どうかお許しください。ごめんなさい」という言葉しかいまの私には残されていません。先のない父親の、やっと巡ってきた晴れがましいいのちの輝きのために、どうか辛抱してください。しかしこれは、父親としては決してふさわしくない、子どもに対する一方的で独善的な甘えなのかもしれません。
あなた方はともに自宅のある神戸で生まれました。実家での出産ではなく、自宅で出産したいとの申し出を聞いたときには、果たしで自分がどこまでできるのか不安がよぎりましたが、実際にやってみると、いのちを慈しむ気持ちが自然と体内から湧いてきて、せっせとおむつを替え、抱っこしてあやし、沐浴をさせては夢中になる自分がそこにありました。いまも、抱いているときの肌触りや心地よい重みが、この両腕に残っています。少し大きくなってからは、イギリスでの生活も家族で楽しみました。あなた方はそれぞれに、日本人学校と現地の幼稚園に通学しました。帰国後しばらくすると、塾通いは避けて、「お父さん学校」をはじめました。生徒にとっては苦痛なだけの、単なる教師役である父親の自己満足だったのかもしれません。ふたりとも大学へ進学すると、それぞれのイギリスへの留学も視野に入ってきました。それ以前からちょうどこの時期、私は、本務校においてのみならず、数校で非常勤講師をし、東洋ゴム工業のデザイン・コンサルタントをし、名古屋の国際デザインセンターのデザイン・ミュージアムのディレクターをして、楽しくも必死に働いていました。すべてが過去のいい思い出になっています。
しかし、育児第一や家族第一は、その分、どうしても研究にあてる時間が少なくなります。私の性格は、まずは育児や家族を先行させ、そのうえで、子どもが成長し、自分も定年になったら、すべての時間を自分のための研究にあて、失われたものを取り戻そうと考える、他者優先のそれでした。周りでは、定年を迎えると、その時点で研究も終わる人がほとんどですが、私の場合は、定年が、研究者としての折り返し点でした。いま私は、大自然に囲まれて、思索にふけっては、机に向かって格闘し、ひたすら文字を書き連ねています。昨年は、著作集4「富本憲吉と一枝の近代の家族(下)」をウェブサイトにアップロードし、今年はもうすぐ、年内には、著作集5「富本憲吉・富本一枝研究」を公開する予定です。三年前に心筋梗塞に襲われたときは、死を覚悟しましたが、幸運なことに、奇跡的に何とか生き延び、その後の健康づくりもうまくゆき、現在のところ、快調に執筆が進んでいます。
来年の三月になれば、すべての分与や分割の実行が終わり、私自身の個人資産も確定しますし、その前には、今後の分割後の年金額もおそらく判明することでしょう。こうした経済状態にあわせるように、残りの生活設計をしなければなりません。そして、その後の過程のなかで、いつかは笛田の両親のお見送りをすることになるでしょうし、あなたたちにとって負の遺産となるにちがいないこの山荘とも、どこかの時点で別れなければなりません。
しばしばメディアのなかで取り上げられていますように、現代の社会が要請していることは、「親孝行」ではなく「子ども孝行」です。私も、そのとおりだと思います。私はこの間、たくさんの「親孝行」をいただきました。ふたりが歩きはじめたときは、本当にその成長に感動しましたし、大学に入ったときは、言葉では表現できないような充足感を味わいました。本当に「親孝行」、ありがとう。これからは私が、「子ども孝行」をする番です。それは、どこの親も同じだと思いますが、子どもに負担をかけない、迷惑をかけないという一語に尽きると思います。私の最期もそうありたいと思い、これから自分に一番あったかたちを見つけてゆきたいと思っています。
父親としてこれまで何ひとつ十分なことがしてあげられず、それどころか、苦しみだけを与えてしまった私に、何もいう資格はないのですが、それでも、おふたりの今後の安寧を衷心より祈ります。どうかお幸せな人生を歩んでください。
今日から一〇月です。今年も残すところ三箇月。一年の進み具合が、本当に早いような気がします。もう少し、時間がゆっくり流れてほしいものです。そうすれば、季節の移り変わりも、もう少したくさん目で楽しむことができそうですし、もう少ししみじみと体で感じることができるような気がします。
この夏から中岳の火山活動が活発になり、火山灰が降るようになりました。ウッドデッキや庭のテーブルには、うっすらと黒く積もり、車も汚れが目立ち、水洗いが欠かせません。この時期は、南や東から風が吹くため、高森町や南阿蘇村への降灰は少ないのですが、冬になれば北風に流されて、多くはこちらに降り落ちることになります。五年前にも中岳の活動が活発化したことがあり、そのときは、ゴーグルをして、傘をさして、子どもたちは登校していました。今回は、これほどひどくならないといいのですが。すべては自然まかせです。
少し前からコントラクト・ブリッジというトランプのゲームをはじめました。この同好会は私の高校の先輩が主宰するもので、月に二回、長陽の健康センターの一室を借りて開催され、毎回十数名程度が参加しています。子どものころ家族や友だち同士でブリッジをしていましたので、はじめて参加したときは、てっきりそのときのルールと同じゲームとばかり思っていましたが、コントラクト・ブリッジは、それとは少し違っていて、大きな流れはほぼ同じですが、細部のルールが全く異なっていました。いま、ルールを覚え、適切な判断力を身につけるために四苦八苦しているところです。
途中でおやつタイムがあります。先輩の奥さまがコーヒーとお菓子を持参され、参加者全員でテーブルを囲んで、よもやま話をします。みんな高齢者です。そして多くは、この地への移住組です。ここにひとつの連帯感が生まれます。ゲームのあとの頭を休める時間であると同時に、いま生きていることへの相互の共有の時間となっているようです。少し続けてみたいと思います。
九六歳の父が肺炎で入院しました。当初は大変危険な状態でしたが、病院スタッフの懸命のご尽力により、驚くことに日増しに回復してゆきました。三週間を経過したところです。肺炎自体はほぼ完治し、いまは、以前の日常生活へ支障なくもどれるように、運動機能のリハビリに集中しています。
本人のいのちをつないだのは、絵の制作だったような気がします。父の絵は阿蘇を題材にしたものがほとんどで、第一回展から毎年この時期になると、高森町主催の大阿蘇絵画展に出品してきました。父が入院したのは、ちょうどこの展覧会の審査のために作品を搬入する日が迫り、作品の完成を急いでいたときのことでした。入院中、ときどき思いがよぎるのでしょうか、家と病院を行ったり来たりしながら絵を描きたいとか、この展覧会への出品について口にしました。実際にはそれは無理なことで、家族は、未完成でも、作品を搬入することも考えました。しかし、それもあきらめました。といいますのも、退院ができて家に帰ったとき、作品がなくて戸惑うようなことがあってはならず、作者の最後の一筆を待って完成へ至ることを願って、入院時のままの状態を保っておくことの方がいいのではないかと考えたからです。
主治医の先生からは、二階への上り下りは危険を伴うので、絵の制作は一階で行なうようにとの助言がありました。退院後は画室を一階に移し、そこで、この絵画作品が完成し、来年の大阿蘇絵画展に出品できるようになることを密かに祈っているところです。
報道によりますと、昨日(一一月二日)、今シーズン全国初の雪が北海道の稚内で降ったそうです。こちらも少しずつ朝夕寒さを感じるようになってきました。先月の中旬あたりから、最低気温が一〇度を下回り、最高気温が二〇度に達しない日が多くなり、少しずつ暖房器具を使う機会が増えてきました。庭やウッドデッキには色づいた落ち葉が目立つようになり、自然界は着実に冬への備えをしています。
夜になると、「ヒュー、ヒュー」という独特の鳴き声が聞こえてきます。いまがシカの発情期なのです。一年を通じてよく見かける動物がサルとシカですが、サルは大家族で群れをなし、ときどき屋根に登ってはジャンプをして遊びます。一方シカは、親子連れか、一匹のときをよく見かけます。以前に、シカの角を庭で見つけたことがありましたが、朝早く起きて庭の方に目をやると、よくその姿を見かけることがあります。シカも、イノシシと同じく、夜行性の動物なのでしょうか。これから一段と寒くなる冬のあいだ、彼ら野生動物たちは、どこで、どのようにして過ごすのか見当がつきませんが、ひっそりとこの周辺で生息していることは間違いありません。そう思うと、一方的ではありますが、何か変な、一種の連帯感のようなものを感じてしまいます。
毎日通う白水温泉瑠璃が開館するのは、午前一〇時半です。この時間の少し前から、いつも数名の朝風呂愛好家が集まり、入り口が開くのを待ちます。男湯の朝一番の客は、ほぼ決まった数人の客です。サウナに入ると、温泉談義よろしく、自然と会話が進みます。話題はそのときどきでさまざまですが、貴重な日々の情報や意見の交換の場と化します。この常連客に共通しているのは、どの人も、多かれ少なかれ、体に故障や不安を抱えていることでしょうか。朝夕の二回この温泉に通い、電気風呂で肩の痛みを和らげている人もいますし、週三日人工透析を受けながら、その合い間にこの温泉で体調を整えている人もいます。また別の人は、膝と足首に痛みをもち、朝の仕事が終わったあと、この温泉に足を運びます。その意味で、みな湯治客なのです。
私が、温泉のあるこの地に移り住んだのは、前立腺がんの摘出手術後に悩まされた尿トラブルから何とかして逃れたいという一心の思いからでした。最初の一年は、私も朝夕の二回通ってサウナで汗を流し、電気風呂で下半身に刺激を与える療法を試みました。全くの自我流の発想でしたが、徐々にその効果が上がり、昼間の尿漏れも夜間のトイレ通いも、日常生活に大きな支障をきたさない程度にまで、改善されてゆきました。
それから数年後、今度は心筋梗塞を患いました。退院後決意したのは、抜本的な体質の改善でした。そのとき私は、食事、体操(ウォーキングを含む)、温泉の三つの要素を組み合わせることによって、これまでの生活習慣は変更できないか、直感的にそう考えました。そこで、本を読んだり、人の意見に耳を傾けたり、試行錯誤を繰り返したりしながら、自分なりに研究を重ね、科学的な根拠のあるものだけを選び出し、ひとつの定型化した生活システムのようなものをつくり出しました。食事療法、運動療法、それに加えての温泉療法。この組み合わせによる新たな生活習慣の構築も、自己流にすぎないことには変わりありませんが、それでも、このたどり着いたシステムを信じて、それ以降毎日、規則正しい生活を実行しています。幸い、何とか健康づくりに成功しているのではないかというのが、現在の実感です。
温泉は、いまや私の生活に欠かせないものとなっています。そして昔の人びとの湯治の習慣に思いを馳せながら、日々、温泉通いを楽しんでいるところです。
わが家の庭は、いつもこの時期になりますと、一面の木々の葉が色づき、さながら錦の織物の世界が出現します。しかし、今年は少し事情が異なります。
夏のころから中岳の火山活動が活発化し、普段の穏やかな白煙に代わって、黒や灰色の激怒色の噴煙が大量に火口から舞い上がるようになりました。噴煙は、南風のときは阿蘇谷の方へ、北風のときは南郷谷へと流れてゆき、岩石が小さな粉状に砕かれ火山灰を降らせます。噴火の激しい日は、田や畑、道路や家の屋根、まさしく地上の一面に火山灰がうっすらと積もり、空気もまた汚れます。わが家の庭も例外ではありません。そのようなときは、木々や草花、石垣に火山灰が落ち、砂をかぶったような、薄暗い視覚世界が現われ、落ち葉の地面も、歩くと、ザラザラとした、不快な感触が伝わってきます。
残念ながら、見ごろの紅葉も、この火山灰で生育が悪いのでしょうか、葉の量も少なく、発色も悪く、さらに、その葉を降灰が覆い、例年とは違った様相です。今年は、無残にも灰色の紅葉となってしまいました。
二〇一三(平成二五)年三月に神戸大学を定年退職し、業者に頼んで荒れていた山荘の庭に手を入れ、続けて、同じく自分で図面を書いて少し増築も行ない、いよいよ神戸からの引っ越しの荷物を入れ、新しい執筆活動の準備が整ったと思ったところで、今度は阿蘇の中岳の火山活動が活発化して、長期にわたって火山灰に悩まされ、ついには二〇一六(平成二八)年四月に熊本地震が発生。そして心筋梗塞を発症したのは、ちょうどその一箇月後のことでした。退院後の気力と体力の減退は、今後の執筆活動を奪い去ってしまうのではないかという強い不安を引き起こすほどのものでした。しかし、何とか立ち上がらなければならない。そう思って、いま一度食事を見直し、運動を取り入れ、湯治の効用を信じて、とりあえず最初の一歩を踏み出しました。その結果、これまでの生活習慣は徐々に改善の方向へと向かい、気力と体力も、少しずつ蘇ってゆき、やっと短時間であれば書斎の机に向かうことができるようになりました。それはちょうどいまから三年前の二〇一六(平成二八)年の秋が深まった紅葉の時期でした。年が明けた二〇一七(平成二九)年の春には、震災で閉館していた熊本県立図書館が再開しました。心から待ち望んでいた執筆のための環境が、こうして同じように回復してゆきました。ここへ至って、私の執筆活動は本格的に開始されることになります。
定年から四年の歳月が流れていました。この空白期間が、私の執筆能力をやせ細らせてしまっていないか、当初は本当に不安でした。しかし、思っていたよりも早く不安は解消され、昔の経験が再生されてゆきました。一年後の二〇一八(平成三〇)年の春には、現役時代の続編に相当する、著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』を無事に脱稿し、それを含めてウェブサイト「中山修一著作集」を全面改訂し、その年の初秋にアップロードすることができました。そしてそれからさらに一年間と数箇月、一心不乱に執筆に専念し、ちょうど昨日、著作集5『富本憲吉・富本一枝研究』をほぼ予定どおりに擱筆することができました。現役時代から私のウェブサイトの管理をお願いしている方にすべての原稿を渡し(といっても、ウェブ上の共有フォルダに置くだけですが)、編集作業が終わり次第、来年の一月末ころには神戸大学のサーバーにアップロードし、更新された「中山修一著作集」をご覧いただけるものと思います。これから、新しい巻の執筆に向かいます。
私は、ウェブサイト上の自分の著作集を更新してゆくに際して、新しく数巻を書き終えた時点で、既存の巻を含めて、全体的な巻の構成を改めて考え直し、微調整を行なうことにしています。その際に気をつけているのは、各巻の内容の流れと、そのタイトルのつながりについてです。また分量についても、できるだけ各巻等量(四〇〇字詰め原稿用紙に換算して、一千枚)になるように配慮します。著作集5『富本憲吉・富本一枝研究』を擱筆し、これから、新しい巻の執筆に向かおうとしているいま、ウェブサイト「中山修一著作集」の今後の全体像(全一〇巻)を以下のように再構築してみました。■が執筆完了の巻を表わし、❐が一部執筆完了の印で、今後の執筆が残されている巻を意味します。
■著作集1 『デザインの近代史論』
■著作集2 『ウィリアム・モリス研究』
■著作集3 『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』
■著作集4 『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』
■著作集5 『富本憲吉・富本一枝研究』
❐著作集6 『日本デザインの底流』
❐著作集7 『英国デザインの諸相』
■著作集8 『デザイン史研究余録』
❐著作集9 『阿蘇白雲夢想』(随筆集ほか)
❐著作集10『阿蘇風花余情』(回顧録ほか)
全体的なつながりはうまくいっているでしょうか。未完部分の巻を書き進めながら、今後も全体の構成に常に意を用い、再調整を施し、そして、必要に応じて増巻してゆきたいと考えています。
私が学生だったころ、研究者の仕事は処女作に向かって完成するという言葉に接し、そういうものなのかなという思いをしたことがありました。著作集5『富本憲吉・富本一枝研究』を書き終え、いま、ウェブサイト「中山修一著作集」の今後の全体像(全一〇巻)を並べてみて、改めてその言葉が蘇ってきました。私の場合の処女作は、明らかに、著作集1『デザインの近代史論』です。確かにこのなかに、私の学問的関心事の多くが含まれています。そしてそれ以降の巻は、その一つひとつの関心事を敷衍化したもののようにも感じられます。どうやら、無意識のうちに、繰り返し繰り返し、掘り下げよう、掘り下げようとしているようです。この指向性の力は、一体何なのでしょうか。とても不思議に思えてきます。「三つ子の魂百まで」という言葉がありますが、研究上の関心事も百歳になるまで、変わることなく続くのでしょうか。
私は、一九八七(昭和六二)年にブリティッシュ・カウンシルのフェローとして、また一九九五(平成七)年に文部省の長期在外研究員として英国に赴き、そこで新しい学問であるデザイン史という学問に出会いました。そのときまでに私の心を占めた関心事は、ひとつには、一九世紀英国のデザイナーであり詩人であり、社会主義者でもあったウィリアム・モリスという人物の実践と思想であり、ひとつには、日本ではじめて工芸家としてのモリスに興味を抱いて英国に留学し、のちに陶芸家となった富本憲吉についての事跡であり、そしてそれらに加えて、日英両国の近代におけるデザインの歴史と思想に関するものでした。いまから三〇年くらい前の話です。思うに、それ以降私の関心事は凍結されたままで、何ひとつ変わっていません。それを思うと、「処女作へ向かって完成する」というよりも、「処女作へ向かって盲目となる」というのが実感に近く、そしてまた、「処女作へ向かって歩む」ということは確かにあるとしても、私の場合、「完成する」には程遠いように思います。言い訳になるかもしれませんが、まさしく「人生短し、学成り難し」といったところでしょうか。おそらく現実には、いのちとともに未完のままで息絶えることになるのでしょう――これらの研究主題が、可能であれば次の若い研究者へ引き継がれてゆくことを密かに念じながらも。