中山修一著作集

著作集13 南阿蘇白雲夢想

第二部 南阿蘇の庵にて(日誌集)

第二編 二〇一七(平成二九)年――生活の再生を願う

一.道を失った鳥(年賀状)

新年 あけまして おめでとうございます

小雨に煙る春の日の午後のことでした。ロッキングチェアに座り、窓を通してぼんやりと、新しい芽をつけはじめたばかりの庭の木々を眺めていました。するとそのときです。ドーンと衝撃音がするなり、一瞬の間をおいて白いものが何枚もひらひらと舞い落ちてきました。どうやら、二階の外壁に一羽の鳥がぶつかったようです。ウッドデッキに出てみました。しかし、鳥の姿はなく、大小の産毛のような羽根だけが一面に広がっていました。この時期になると、鳥をはじめ小動物の活動が活発になります。元気に巣を飛び立ったものの、春雨に遮られ、一瞬視界を失ったのでしょう。無事に巣まで帰ることができていたらいいのですが。

それからしばらくして、私の住む熊本を大きな地震が襲いました。さらにそれから一箇月と立たないうちに、今度は激しい痛みが私の胸部を……心筋梗塞でした。いま、双方の痛手から心身ともに立ち直り、やっと本来の執筆者生活を取り戻そうとしているところです。

穏やかなお正月をお迎えのことと思います。

本年のご多幸とご健康を心よりお祈り申し上げます。

二〇一七年 元旦

二.結露が凍り、寒波が来る

先月、二〇一六年一二月。外気の温度が氷点下になると、部屋のガラス窓に結露が生じます。ある朝のこと、はじめて氷点下四度まで下がりました。お昼前に二階に上がってみると、結露が窓ガラスの下のところに溜まり、それが氷となっていました。ということは、二階の室温も、氷点下まで下がったのかもしれません。年を重ねると、階段の上り下りが大変になると聞いていましたので、生活はすべて一階でできるように、この夏、模様替えと荷物の整理をしていますので、普段はほとんど二階へ行くことはないのですが、結露が凍る現象には、いささかびっくりしました。

今月、二〇一七年一月。西日本、北陸、東日本、北海道の、とくに日本海側は寒波に見舞われ、大雪が降りました。こちら阿蘇のそのときの様子を描写します。二〇日の朝から雪が降りはじめました。降りながら溶けていく雪もあり、大きく積もる様子はありませんでしたが、念のために、夕方、下の農業道路のガード下まで車を移動しました。朝起きて下界を見ると、わずかながら雪化粧をしていました。しかし、スタッドレスタイヤで対応できる範囲の積雪でしたので、家までもってきていても大丈夫だったかもしれません。二一日も二二日も同じ感じで、夕方、車をガード下に移動しました。二三日と二四日は、雪は大したことはなかったのですが、牧野道が凍結したため、これも安全確保を優先して、終日ガード下に置くことにしました。車を下に置くと、牧野道の上り下りは徒歩になります。片道一五分程度です。たどり着くころには、体が温まり、湯気が出てくる感じです。医者から、一日三〇分程度のウォーキングを勧められていたので、ちょうどいい運動になりました。しかし、この間気温は、最低気温が氷点下一〇度まで下がりました。また、一日中氷点下の日もありました。このような日は、外に出ると、寒いという感じを通り越して、体が凍ってゆく感じです。部屋のなかは、いつも二〇度程度に設定していますので、寒さからは無縁の快適空間です。こうした寒波は、これまでの経験ですと、二月にも、もう一度来そうです。九州といえども、北国の冬に近いものがあります。この季節は、スマホに設定している天気概況をいつも確認する毎日です。

三.越冬から早春へ

一月一七日、お隣りの南阿蘇村にあります病院で、胃と大腸の内視鏡検査を受けました。結果は、胃については少し炎症を起こしている箇所がある程度で問題はなく、大腸は、良性のポリープを三箇所切除したものの、こちらもがんとは無関係でした。もしこれからがんが発生するとしても、それが確認できるほどの大きさになるには五年くらいかかるらしく、そのため、また五年後くらいに内視鏡を入れて、検査をしようと思っています。これで、胃と大腸のがんの心配もなく、また、昨年一二月のカテーテル検査で心筋梗塞の再発の可能性も見当たらず、いま全くの健康体を維持している状態です。論文執筆を中心とした規則正しい生活と食事に対する万全の配慮の結果ではないかと考えています。

二月九日はフェフェの誕生日でした。ちょうど満一四歳です。人間でいえば、私より少し年上です。二一日に、大津にある病院兼美容院へ連れていきました。カットとシャンプーをしてもらい、かさぶたができそうになったときに飲む抗生剤と、足腰の健康を維持するサプリメントを出してもらいました。元気にしています。

二月も一度寒波がきました。九日から一一日までの三日間、車は下のガード下に置き、牧野道を徒歩で登り降りしました。去年もそうでしたが、一月と二月に一度ずつ寒波が来るようです。もうその生活にすっかり慣れたといった感じです。この数日、少し暖かくなり、最低気温が氷点下になる日が少なくなりました。春の近づく音が、聞こえてくるようです。

三月に入り、玄関の階段を上る左手に福寿草が数日前から咲きはじめました。春に向かって一歩一歩進んでいる感じがします。

四.グーちゃんとの別れと遅い桜

三月三一日、妹一家のグーちゃんが亡くなりました。だんだん体調が好ましくなくなり、近くの病院に入院中の出来事で、一七歳でした。フェフェちゃんはいま一四歳です。やはり足腰が少し弱ってきたように感じます。しかし、食欲もあり、便も規則正しく、健康です。体の衰えは、ワンちゃんであろうと避けて通ることはできませんが、フェフェちゃんの残りの人生にしっかり寄り添い、一日一日を大切に過ごしたいと思っています。

三月に入ってからも、少し雪やあられが降ったりして、気温が上がらなかったせいか、桜の開花が遅れています。一心行の大桜もわが家の桜も、まだつぼみで、開花までには少々時間がかかりそうです。そうしたなか、すでに予定が組まれていた阿蘇南部江原会(高校の同窓会)の花見がありました。場所は、いつものように、南阿蘇村の藤本医院の庭でした。桜も咲いておらず、少し肌寒く、途中で雨が降ってくるなど、あまり恵まれた花見にはなりませんでした。しかし、被災地支援の一環としてインド舞踊のグループが、藤本先生のご厚意で招待されており、はじめて見ることができました。桜の花の下であれば、もっとよかったのでしょうが、それでも十分感動的でした。

五.庭づくり

本格的な春が来ました。今年は冬の寒さが少し長く続いたせいか、春が来るのが一、二週間くらい遅く、桜も遅れて咲き、散るのもあっという間でした。先日から毎日少しずつ庭の手入れをはじめています。まず、昨年末の最後の落ち葉を集め、一輪車で運んで、沢側ののり面の杉林に捨てる作業です。数日かかりました。次に、植木鉢(大小二十鉢くらいあります。)に新しい土を入れ、植物を植える作業です。マリーゴールドやニワ(庭)ダリア、アジサイなど、さまざまな花をナフコで買いました。最後が、庭のイスやテーブルの水洗いと、側溝の清掃です。いまほぼ計画の八分どおりできました。連休中には完了予定です。ここまでできると、あとは日々の手入れになります。

四月末には、庭のシャクナゲが咲き、そのあと五月に入ると、ミヤコワスレが玄関周りに一斉に咲き出しました。去年は、数株程度だったのですが、今年は群生の様子を呈しています。なぜこのようにたくさん生育したのか、その理由はわかりませんが、とても清楚な小さな花を咲かせ、毎日楽しんでいます。もうしばらくするとヤマ(山)アジサイが咲きはじめます。これも楽しみです。

毎年この時期に、南阿蘇村と高森町に在住の五、六人が企画して、自分のお庭を一般公開する「オープン・ガーデン」が開催されます。先日の日曜日に、三軒のお庭を見学に行ってきました。私にとって、今後自分の庭をどうつくるかが大きなテーマで、「オープン・ガーデン」へ行くのは、そのヒントを探すためです。この山荘の庭は、あまり日当たりがよくないので、それに適した庭づくりが必要なのですが、今後時間をかけながら、つくっていきたいと思っています。周囲の森では、最近は朝夕、カッコウがよく鳴きます。とても大きな声です。これも自然の恵みだと思い、うれしくて、しばし聞き入っています。

六.健康状態

心筋梗塞を発症したのは、昨年の五月でしたので、ちょうど一年が過ぎ、六月三〇日に、手術をした済生会熊本病院で、心臓エコー、心電図、レントゲン、血液検査をしました。結果はすべて順調に回復しているとのことでした。去年のいまころは、心臓に負担がかかるため、二階に上がることも、水の入ったバケツや重いレジ袋ももてず、不安な生活を強いられていましたが、この一年ですっかり体力がもどり、健康に対する自信もついてきました。これで、済生会病院での定期検査は終わり、今後は、いままでどおり、高森町内の馬原内科医院で四週間ごとに診察を受け、お薬(四種類)を処方してもらうことになります。

フェフェも、歯周病でこの一年、お薬を飲んでいましたが、先月の診察で、少し心臓も弱ってきているようで、こちらのお薬も飲みはじめました。この二月で、平均寿命の一四歳の誕生日をすでに迎えており、人間でいえば、八〇歳に近い高齢になってきました。食欲は変わりません。よく食べてくれます。しかし、いつかは最後の日が来ると思います。その日が来たら、ペット霊園にもっていくのではなく、この庭に土葬して、日々花で飾ってあげたいと思っています。

七.防災

九月一日は「防災の日」です。この日は、一九二三(大正一二)年九月一日に発生した関東大震災に因んでいます。熊本地震を経験して、防災意識が高まっていた、ちょうど一年前の夏でした。テレビや電話を置いているカウンターの下の空間を防災用の備品や備蓄品を置く棚に改装しました。そのとき、避難所(あるいは病院)へもっていく用品や、ラジオ、懐中電灯、テーブルランプ(電池対応)、ヘルメットなどの備品類、飲料水や食料品やコンロなどの備蓄品、それに加えて、発電機などをそろえました。それ以降、これらの品々を、毎月一日にチェックします。乾電池は切れていないか、食料はすべてそろっているか、あるいは賞味期限が切れていないか、発電機は作動するか。今日が一日ですので、午後からそのチェックをしようと思っています。今年も至る所で、雨による自然災害がすでに発生しています。そしてまた、これから台風の季節を迎えます。それが終わると、積雪の厳冬です。備えを怠らないようにしながら、日々自然と向き合わなければなりません。

八.もう秋です

一年前のこの時期を思い出しますと、やっと退院ができたところで、まだほとんど研究活動ができない状態にあり、一番苦しい生活をしていました。しかしそれでも少しずつ、段ボールを開き、資料をウッドデッキに並べて虫干しをし、仕事ができるように書斎を整えてゆきました。体が回復し出して、実際に机に向かうことができるようになり、本格的にパソコンのキーボードをたたけるようになったのは、年が明けた、今年のお正月ころからでした。三月末には、地震の影響で閉館していた熊本県立図書館も業務を再開しました。こうして執筆活動が軌道に乗りはじめました。いまは、だいたい二週間ごとに県立図書館に行きます。この図書館に収蔵されていない資料は、東京の国立国会図書館へ依頼して、複写物を送ってもらいます。大自然のなか、思考と執筆に明け暮れる、学者として何とぜいたくな日々か、改めて充足感を味わっています。現在、著作集4「富本憲吉と一枝の近代の家族(下)」を執筆中です。

南阿蘇村のホームページ「新着更新情報」(八月二一日更新)で、「キリン午後の紅茶」復興支援TVCM「おちつけ、恋心」の動画を見ることができます。前回は、南阿蘇鉄道の見晴台駅が舞台でしたが、この第二弾の夏バージョンは、同じ南阿蘇村の白川水源です。主役は同じ、高校生の上白石萌歌さんです。現在オンエア中。その動画を見て、ロケ地の白川水源に行ってきました。早朝だったので、誰も人はおらず、朝もやがかかっており、とても幻想的でした。

こちらの夏は、気温が三〇度を超えることはほとんどなく、エアコンも、雨が多く蒸し暑く感じるときに「除湿」として使うくらいです。八月のお盆を過ぎたころから、今年の夏も終わったようで、朝夕、少し肌寒く感じるようになりました。ウッドデッキや庭には、色づいた落ち葉をもう見ることができます。こうした山のなかにいますと、一年を通して、気温の変化だけではなく、風や雨や雪の移り変わりも楽しむことができますし、鳥や虫の声の変化、木々や花の色の移り変わりも、肌で感じることができます。これは、自然のなかに、暑さ寒さのみならず、色や音が隠されているということでしょうか。詩や美術が生まれるゆえんもここにあるのかもしれません。

九.フェフェちゃんの旅立ち

今日は、悲しいお知らせです。フェフェちゃんが旅立ちました。

九月二七日(水)。いつも朝の五時ころに、フェフェの顔を拭いて、三種類のお薬を飲ませて、点眼して、パンとバナナを手に乗せて食べさせるのが日課になっていたのですが、この日はお薬も飲もうとせず、好きなバナナも食べようとしませんでした。

九月二八日(木)。この日も、同じでした。病院に連絡し先生と話したのですが、点滴をすることはできるが、数日の延命にしかならないとのことでしたので、自分で看取る覚悟を決めました。だっこしたり、ベッドに寝かせたりしながら、ずっと一緒にいました。涙が止まりませんでした。ベッドではよく寝ていました。目を覚ますと、庭の方をじっと眺めている様子でした。何か見納めにしようとしている感じでした。とても穏やかで、息苦しそうにするわけでも、何か痛みがあるようでもなく、落ち着いた静かな時間が過ぎていきました。夕方、「わんわん、わんわん」という鳴き声を二度繰り返しました。いままでに聞いたことのない、何か楽園にでもいそうな小鳥のような鳴き声で、とても澄んだ美しい声でした。いまにして思えば、これが別れのあいさつだったのかもしれません。夜中、目が覚めました。フェフェを見にいきました。静かに横たわり、もう息はありませんでした。一四歳と七箇月の命でした。

九月二九日(金)。ずっとフェフェのそばにいました。病院にも電話をし、先生に報告をし、お礼をいいました。荼毘の用意をしました。庭に穴を掘り、底にブロックを置きました。木棺として、ふたつあったひとつの救急箱をあてることにしました。

九月三〇日(土)。フェフェちゃんのおもちゃや服など、いつも気にかけてくれていた妹に電話で知らせました。木棺にフェフェを入れ、首輪やうりぼうなどの遊び道具も一緒に入れました。野の花を摘み、中に入れる準備も整ったとき、妹からメールが入り、お別れに来たいということでした。もうすぐ夫婦でこちらに着くものと思います。着きましたら、フェフェにお別れをいってもらい、そのあと、みんなで、荼毘にふしたいと思います。

かけがえのない家族の一員でした。とても悲しく、寂しく思います。苦しむこともなく、安らかな美しい顔をしての、見事な旅立ちでした。感謝しています。本当に、フェフェ、ありがとう!

一〇.紅葉の季節に向けて

九月二八日に亡くなって、一箇月が立ちました。土のなかで、いまどうしているのかなあ、と思いながら、野の花を飾って、話しかけます。土葬ですので、亡き骸はいつかはこの大自然に帰っていくと思います。元気なあいだは、このように花を絶やすことなく話しかけながら、フェフェちゃんと過ごしていきたいと思っています。

山の紅葉は、一一月中旬から下旬にかけてが見ごろとなります。去年の紅葉は、例年にましてきれいだったので、写真にとって、ホームページ「中山修一著作集」に掲載しました。今年は、二週間続けて台風が来たために、色づこうとしていた葉っぱを散らしてしまいました。そのため、今年の紅葉がどうなるのか、心配しています。少しまばらな紅葉になるかもしれません。台風は、葉や小枝を、庭やウッドデッキの一面にたくさん散らします。その片づけが大変です。雨に濡れていると、くっついてうまく集められませんので、乾いたあとの作業になります。二、三日かかりますが、体が温まり、気分転換にもなり、健康にもいいようです。

今年も、高森町主催の大阿蘇絵画展で父の絵が入選しました。九四歳の作品です。一一月一二日(日)の最終日に、妹夫婦と一緒に、両親が来ました。町役場の職員の人たちも、とても感動していました。絵を見たあと、山荘で昼ご飯を食べました。庭の紅葉がきれいで、みんな楽しんでくれました。また、フェフェちゃんのお墓も参ってくれました。

一一.ウォーキング開始

心筋梗塞から一年半が立ちました。血液検査の数値(コレステロール、血糖、腎機能など)も血圧も、順調に回復しています。食生活の見直しと、温泉による湯治の効果だと思っています。そこで、次の健康増進のステップとしてウォーキングをはじめました。場所は、瑠璃温泉の西側にある南阿蘇村白水運動公園です。野球場が四面あり、その外周がウォーキング用のコースになっています。一周を五、六分で歩きます。雨が降っていなければ毎朝七時過ぎに家を出て、まず運動公園に行って三〇分くらいウォーキングをします。それから、八時に開館する瑠璃温泉に行きます。そのあと、アスカで買い物。必要に応じて、コインランドリー、郵便局、銀行、町役場、ごみ焼却施設などに立ち寄って、だいたい一〇時過ぎの帰宅です。これが最近の日課となっています。

いよいよ二〇一七年の最後の日になりました。毎年おせちは、ホテルや料亭から取り寄せます。今年は、銀座花蝶の和洋三段重です。雑煮は自分でつくります。だんだん上手になってきたように思います。明日の朝が楽しみです。明日の予定は、おせちと雑煮を食べたら、いつものように運動公園で三〇分くらいウォーキングをし、そのあと瑠璃温泉で新年の朝風呂を楽しみ、さらに、高森阿蘇神社、上色見の熊野座神社、地元色見の熊野座神社の三社に初詣に行こうと思っています。帰るころには、年賀状も届いているかもしれません。明日の天気はよさそうですので、ウォーキング前に初日の出を拝むことができるかもしれません。二〇一八年がいい年になりますように!