中山修一著作集

著作集13 南阿蘇白雲夢想

第二部 南阿蘇の庵にて(日誌集)

第七編 二〇二二(令和四)年――平穏な一年を念願する

一.昨年を振り返って

昨年を振り返ってみますと、二月の末に、水を汲み上げているこの別荘地のポンプが経年劣化により故障し、新しいポンプに交換するまでのおよそ三箇月間給水が止まり、湧水館トンネルの水汲み場へ通う日々が続きました。七月末には母親が入院し、その後のおよそ一箇月間、実家に泊まり込み、父親と一緒の生活を送りました。九月一三日、父親と母親がともに入院しました。最初はコロナ感染症の影響で面会が制限され、会うこともできない状態が続きました。母親は二箇月で退院したものの、父親はちょうど三箇月が立った一二月一三日にこの病院で亡くなりました。

こうしたなか私は、気を紛らわすかのように、許す時間はパソコンに向かいました。当初考えていました予定よりは、大幅に遅れましたが、あと一週間程度で脱稿します。この「ウィリアム・モリスの家族史」は、モリス研究者の私にとっての、ひとつのまとまりをもった記念すべき作品となります。一箇月くらいをかけて「索引」をつくり、その後、二月にはウェブサイト「中山修一著作集」の第六巻としてアップロードしたいと考えています。(一月)

二.社会の動きから離れる

父の死から一箇月が過ぎようとしています。振り返ってみると、その間、新聞とテレビも、そしてラジオからも完全に遠ざかった生活をしていました。

それまで新聞は、瑠璃温泉の宿泊事業の終わりとともに、すでにほとんど見る機会を失っており、テレビも朝のニュース番組程度に止めていたのですが、それも完全に途絶え、毎日午前二時ころの起床とともにスイッチを入れていた、NHKのラジオ深夜便さえからも、完全に離れてしまっていたのです。

もともと、社会の動きから離れるために、こうした自然のなかで暮らしているのですから、望んでいた本来の姿に一段と近づいたということもいえます。しかし、私にとりまして、どうしてもほしい情報があります。それは、天気にかかわる情報です。とくに冬の季節は、気温と、それに加えて雪の情報が気になります。いくら社会の動きから離れても、天気予報から離れることはできません。

昔、人びとはいまのような天気予報というものがないとき、毎年の四季の変化から、太陽や月の運行から、そして動植物の行動から、次に起こる天気を経験的に読み解いていたものと思います。自然のなかで暮らしていると、このことを、少しばかり追認することができます。カラスが大声で騒いでいるあとには、大雨や大風になることがよくありますし、クリの花が落ち始めると、確かに梅雨に入ります。非科学的な現象の組み合わせですが、よく調べてみると、そこには、気圧や湿度や気温などが関係した必然的な因果関係があるのかもしれません。

父親の死は、さらにいっそう社会の動きから離れることを私に要請しました。これも、外目には情緒的な現象かもしれませんが、実際には脳や神経の動きと連動した結果なのかもしれないと思うようになりました。(一月)

三.寒中お見舞い

寒中お見舞い申し上げます

冬の寒さが厳しいおり、お変わりなくご健勝にてお過ごしのことと拝察いたします。

私事になりますが、昨年一二月一三日、父中山理が、九八歳の生涯の幕を閉じ、他界いたしました。そのため、年頭に際しましてのごあいさつを控えさていただきました。

穏やかなお正月をお迎えだったことと思います。本年のさらなるご多幸とご健康を心よりお祈り申し上げます。

二〇二二年 立春を前にして

四.小林信のその後の足跡を知る

著作集12『研究追記――記憶・回想・補遺』の第一部「わがデザイン史忘備録」に所収の「第一七話 小林信のその後」において詳しく書いていますように、ある方からの一通のメールから、小林信の足跡の一端が判明しました。

著作集14『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』においても、著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』に所収しています第一編「富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」においても、私は、小林信について言及していました。小林信という人物は、一九二四(大正一三)年四月に、富本家のふたりの娘を生徒とする私設学校に赴任してきた女性の教師です。その年の八月の『婦人之友』を見ますと、「私たちの小さな學校に就て」という表題のもと、富本一枝が「1. 母親の欲ふ敎育」、小林信が「2. 稚い人達のお友達となつて」、そして、富本憲吉が「3. 生徒ふたりの敎室」を寄稿しています。しかし、奈良女子大学の学術情報センターから得られた情報によりますと、少なくとも翌年(一九二五年)の一一月には、「桑野信子」として東京に住んでいるのです。いつ、どのような理由があって安堵村を離れたのか、また「小林」から「桑野」への改姓、「信」から「信子」への改名の背景は何であったのか、いずれもはっきりとはわかりません。さらには、そのとき後任の教師が決まった形跡も、あるいは、ふたりの生徒の転校先が決まった形跡もありません。なぜ小林信は、あわただしく教師の任務を放棄して東京へと去っていったのか、そのことが、執筆以降の私にとって大きな謎として残っていましたし、同時に、その後の「小林信」あるいは「桑野信子」の足取りが、とても気になっていました。そこへ、「桑野信子について」という表題のメールが届いたのですから、私にとっては、言葉を超えた大きな衝撃でありました。

メールの内容によると、「桑野信子」は、与謝野鉄幹・晶子門下の歌人で、一九三三年創設の潤光女学校の初代国語教員(一九三六年まで勤務)をしていました。その後、メールに添付して『婦女界』(第45巻第3号、1932年、50頁)の画像が送られてきました。そこには、桑野信子の和歌五首が記載されていました。またこの方から、『現代短歌分類辞典』にも、信子の作品三五首が掲載されているというご教示をいただきました。

私は、小林が安堵村を去った理由を、推測を交えて、かつてこう書いていました。

なぜかくも短期間のうちに、確たる教育成果もなく、しかも後任や転校先が未定のまま、この学校は閉じられなければならなかったのか。極めて重大な何かが、このときこの学校に起こったことが想定される。それは何か。一枝と小林のあいだに愛を巡る何か深刻な問題が生じた――そのように考えるのが、やはり自然で順当なのではないだろうか。小林に向けられた一枝の一方的な愛だったのか、双方が許し求め合う愛だったのか、正確にはわからない。前者であれば、一枝の行動に驚いた小林は、逃げるようにして安堵村を去った可能性があるし、後者であれば、引き裂かれるような、意に反した強圧的な解雇だった可能性もある。そうでなければ、そののちの、深尾須磨子と荻野綾子、あるいは湯浅芳子と中條百合子にみられる事例に近いものがあったのではないかとも考えられる。つまり、小林が結婚をすることによって、ふたりの関係が強制的に終了した可能性である。

 いかなる結末であったとしても、前任の女学校に自分の居場所を見出すことができず、一年で職を辞し、希望に満ちて安堵村の富本家に赴き、「此の小さな學校は何にも換へ難い私の寶です」と書いていた純真で若い小林は、このとき、教師としても女性としても、何らかの挫折と苦しみを経験したにちがいなかった。

忽然と姿を消した「小林信」は、「桑野信子」という名の歌人となっていたのです。そして、彼女が詠んだ和歌も残されているようです。読んでみたいと思います。安堵村での体験が、ひとりの女性教師にどのような陰影を投げかけているのか、私は、それを知りたいと思います。(二月)

五.果たして「事件」なのか

父が亡くなり、遺言に従って相続登記をすることになりました。ところが、遺言書がある場合は、相続登記に際して、家庭裁判所で検認を受ける必要があることがわかりました。ここで、遺言書の検認を依頼する手続きに入ったのですが、そこで驚いたのは、私の手続きの事案が、「令和4年(家)第○○号 遺言書検認申立事件」という名称で呼ばれることになったことです。○○の箇所には、事件番号としての具体的な算用数字が入っています。

相続登記という今後の行政手続きに際して必要とされる遺言書の検認を依頼する行為が、果たして「事件」という名辞で呼ばれることが妥当なのでしょうか。あまりにも市井の感覚からかけ離れた用語法であり、不可解な違和感に襲われました。

裁判所と関係をもったのは、今回がはじめてのことでした。したがいまして、裁判所のすべてがわかっているわけでは当然ないのですが、しかしながら、この小さな経験から私は、いかに裁判所が市民の高みに立って存在する権力の強圧的な虚構装置となって運営されているのかに気づかされました。(二月)

六.自力申請の副産物

親が死亡したあとに子が行なわなければならない行政上の手続きが、幾つかあります。そのひとつが、相続登記です。私の場合は、自筆の遺言書が残されていましたので、まずは、家庭裁判所で遺言書の検認を受け、それによって公的に相続人を確定したのちに、実際の相続登記の手続きに入ることになりました。

家庭裁判所での検認の手続きも、地方法務局での登記の手続きも、実に煩雑であるために、司法書士の専門家に依頼した方がいいといった内容の助言を人から聞いていましたので、はじめはそのように考えていたのですが、難題挑戦と経費節約の思いから、自力で申請することに意を決しました。

まずは地元の、家庭裁判所の出張所と地方法務局の支局に足を運び、申請に必要な書類について話を聞きました。どの役所もそうかと思いますが、親切に相談にのってくれる人もいれば、ぶっきらぼうな態度をとる人もいます。いずれもはじめて聞くことばかりで、要領をえないまま、必死にメモをとる作業でした。

次に、必要書類を集める作業に入りました。そのなかに、「父親の生まれてから死亡するまでの籍が連続してわかる書類」がありました。私は、籍はひとつで、それを示す戸籍謄本というものもひとつで、それを取得すれば、これに関する書類は整うものと思い込んでいました。ところが、そうでないことがすぐにも判明しました。つまり、父親の場合は、父親が生まれたときに祖父が自分の籍に入れた戸籍謄本と、結婚後、父が新たに籍をつくり、亡くなるまで本籍としていた戸籍謄本との二種類が存在することがわかったのです。

そのため、父親の生まれ故郷の市役所に足を運ぶことになりました。父が生まれたのは、いまから九八年前です。その間に戦争もありました。そんな古い戸籍謄本がいまだに保存されているのかどうか、半信半疑でした。しかし、それがちゃんと残っていたのです。それを見たとき、父の誕生に際して祖父が役場に出生届を出す姿が、頭をよぎりました。村の風景、役場の様子、着ているものや話し言葉――もちろん見たわけではありませんが、それでも、映画やテレビで見る百年前の情景が、脳裏をかすめて行ったのでした。

こうして、家庭裁判所での自筆遺言書の検認と地方法務局での相続登記に必要な書類が、少しずつそろってきました。それは、予期せぬことではありましたが、ある意味で、戸籍を通じて、父親の生涯を知る機会となりました。自力申請から得られた、思わぬ副産物でした。(二月)

七.浅香さん追憶

浅香嵩さんの一周忌がそろそろ巡ってきます。それにあわせて「偲ぶ会」が企画されているらしく、偲ぶ会実行委員会から、当日会場に展示するパネルに使用予定の思い出の文や写真を送ってほしいとの依頼がありました。

浅香さんは大学の少し先輩で、著名なインダストリアル・デザイナーであり、日本インダストリアルデザイン協会(JIDA)の会長も務めました。そこで、私は、次のような短文を寄稿しました。

 コンパのおりに、空の一升瓶を片手に、「よかちん」を踊る浅香さんの姿が、いまも脳裏に焼き付いています。人間味に溢れ、友情に厚く、加えて母校愛に捧げた浅香さんの一面です。それからもう半世紀が過ぎ去ってしまいました。しかし、追憶は変わらず、永遠です。これが、私にとって浅香さんのいまに生きる姿となっています。

偲ぶ会では、AXISギャラリーと隣りのJIDAギャラリーを使って、展覧会と思い出話の会が催される計画とのことです。浅香さんの人となりと、デザイナーとしての魂が、再び蘇ることになるにちがいありません。盛会を祈りたいと思います。(二月)

八.ふたりの女性に巡り会う

突如として富本家の「小さな学校」の教師を辞め、私の目から姿を消していた小林信さん、つまり、その後改姓し、歌人として生きていた桑野信子さんを求めて、先日、熊本県立図書館へ行きました。そこで私は、以下の書籍と雑誌をとおして、信子さんの短歌と対面することができました。

(1)『冬柏』国立国会図書館デジタルコレクション(図書館送信限定)。

(2)『婦女界』第四五巻第三号、一九三二年。国立国会図書館へ複写依頼。

(3)山本三生編纂『新萬葉集』巻三(きの部~この部)改造社、一九三八年。

(4)『明星(復刊)』国立国会図書館デジタルコレクション(図書館送信限定)。

それらのなかに所収されていた信子さんの短歌のうち、とりわけ以下の三首が、私の目を引きました。

わが男の子母と竝びて物を讀み星座の名など言ふ年となる

一筋に君を思ふと告げにこし風ならなくに身に沁む夕

大和なる赤埴(あかはに)をもつてつくねたる小さきこの壺親しかりけり

最初の歌から、小林信さんは、安堵村を出たあと、おそらく結婚して桑野に改姓し、男の子を設けていたことがわかりました。

次の歌のおおよその意味は、「一筋にあなたを思っております、と私に告げに来てくれた風ではないのですから、私にとってその風は冷たく、身に沁み入るような夕べです」となります。もしこの歌が、安堵村を去るときの心象を詠ったものであるとするならば、明らかにその風は、富本一枝ということになります。さらに裏読みすれば、愛を告げに来てくれる風(=富本一枝)であってほしかったという意味にもなります。

最後の歌は、安堵への思いを詠った作品ではないかと思われます。ここに登場する「壺」は、その昔富本憲吉が小林信に贈呈した自作の陶器だったのではないでしょうか。それが正しければ、小林信(桑野信子)は、富本憲吉の生き方と芸術に強い共感を覚え、富本がプレゼントした「壺」を、思い出とともに秘蔵していたことになります。

こうして私は、長年探し求めていた小林信さん(その後の桑野信子さん)に巡り会うことができたのでした。それだけでも十分に私は感動していたのですが、そのとき、偶然にも、もうひとりの探し求めていた人に巡り会ったのです。

最後に図書館のカウンターで必要書類への記入を書き終え、視線を上げたとき、目に映ったひとりの司書の方が、まさしく長年私の心に残っていたその人だったのです。

かつて私は、富本憲吉の研究から派生するかたちで、妻の一枝さんに興味をもつようになりました。少しずつ調べていくうちに、どうも様子がおかしく、一枝さんは、性的少数者ではないかと思うようになりました。とはいっても、当時の私は、性的少数者について何も知識がなく、この司書の方に相談し、基本となる書物を紹介していただいただけではなく、その内容や読み方についてまで、ご教示いただいたことがありました。こうして私の富本一枝研究がはじまったのですが、執筆の途中で遭遇したのが、「小林信」という女性でした。この人が、一枝さんが愛した女性で、富本家の「小さな学校」の教師だったのではないのか――。こうした仮説をもってこの司書の方に相談すると、親切にも、さっそく奈良女子大学の学術情報センターに連絡をとり、「小林信」の奈良女子高等師範学校の卒業前後の消息についての確認作業にあたられました。こうして、「小林信」が当時、富本家に在住し、その後上京し、「桑野信子」となっていたことが判明したのでした。これは、研究者としての私に、大きないのちを吹き込むものでした。

ところがちょうど三年前、その方は別の図書館に移られたらしく、「小林信」同様に、私の視線から突然にも姿を消してしまわれたのでした。十分なお礼の気持ちをお伝えすることもなく、いたずらに時だけが過ぎてゆきました。その女性が、いま私の目の前に立っていらっしゃるのです。このとき、驚きや感動をはるかに超えた、無の時空が一瞬私に与えられたのでした。

桑野信子さん、そして図書館司書のこの女性――この日、偶然にも同時に、この間会いたいと思っていた人に巡り会えたのでした。(二月)

九.新聞贈与

毎日通う瑠璃温泉の宿泊施設が廃業になって以来、受付に備えられていた新聞を読む機会を、私は失いました。さらに加えて、それまでもその傾向はあったのですが、昨年末の父親の死以来、テレビにも興味を失い、全く見なくなりました。唯一見るのは、瑠璃温泉のサウナに備え付けられているテレビです。

毎日、開館と同時に、私を含む常連客三人がサウナに入り、テレビのワイドショーを見ながら、日々の出来事を話題に、会話に花を咲かせます。そのなかで、情報音痴であり、情報難民である私が、もっぱら聞き役になります。そうした私の境遇を不憫に思ったひとりが、昨日、自宅で読んだ一週間分の熊日(地元の熊本日日新聞)をもってきてくれました。帰って読んでみると、確かに世の中は動いていました。世の動きが、身近な出来事なのか、それとも遠い他人事なのか、いまの私は、その距離感を計りかねているところです。(三月)

一〇.母親の入退院から施設入居へ

昨年末に父親が亡くなり、四十九日が終わってしばらくすると、母親(九四歳)がめまいで転倒し、今後の再発を防止する観点から、その日(三月八日)のうちに急きょ入院。とくに外傷はなく、投薬とリハビリによる加療開始。めまいそれ自体は治まったものの、足の衰えを回復させるのには限界があり、したがって、自由な自力歩行が困難な状態にあることに変わりはなく、主治医からは、自宅での独り暮らしは危険なため、施設(サービス付き高齢者向け賃貸住居)への入居の助言を受ける。こうして、自宅生活から施設生活への移行を決断するに至りました。

およそ一箇月間の入院期間中は、コロナ感染症の拡大期にあたり、母親との面会はできませんでした。しかしその間、施設入居に向けた準備に奔走する日々が続きました。入居するサービス付き高齢者向け賃貸住居は、この病院と同じ医療法人が経営する施設です。まず見学をし、説明を受け、契約の運びとなりました。その後ただちに、引っ越しの準備に取りかかり、必要な新たな生活用品の購入もすませ、何とか四月五日の退院にあわせて、無事入居が完了しました。

入居すると、今度はケアマネージャーとの打ち合わせが待っており、さっそく室内に、ベッドから立ち上がるための手すり、そしてそこからトイレまで伝い歩きするための手すりを設置。同時に、車いすと歩行器も新たに搬入。そのあと、訪問リハビリ、訪問介護、訪問看護に関しての打ち合わせと続きました。

現在、訪問リハビリは、週に二回(一回四〇分)主として歩行訓練に、訪問介護は、週に二回(一回一時間半)主として入浴介助に、そして訪問看護は、週一回三〇分の健康管理にあてられています。

私は週に二回、阿蘇の山奥の住まいからこの熊本市内の施設に車で通い、車いすに乗せての散歩、食料品の買い出し、ポータブル・トイレの洗浄、床の掃除機掛け、そして、関係者との打ち合わせと情報共有を行ないます。食事は、自宅生活のときからほとんど受け付けず、この施設では昼食のみの提供を依頼。そこで、母親が好む食料品の買い物は欠かせない日課になっています。また、母親は以前に心筋梗塞を患ったことがあり、そのこともあっていまは、室内設置の酸素濃縮装置に頼る生活をしていますし、散歩や浴室へ移動する際は、携帯用酸素ボンベを装着した車いすを使っています。月に一度の外来受診も、私が車いすを押して病院へ連れていきます。

こうした生活がはじまって三週間が過ぎました。(四月)

一一.息子家族の一時帰国

息子の家族が仕事の関係でシンガポールに赴任したのは、二〇一九年の秋のことでした。この間コロナ感染症の国際的な広がりにより出入国に際して厳しい制限が課せられ、年に一度の一時帰国ができないまま、およそ二年半が経過し、やっとこのたび実現することになりました。

同じ理由から、息子たちは、昨年末の祖父の死去に際してお葬式に参加することができませんでした。そこで、この滞在中に、納骨堂がある蓮政寺にて納骨の儀式を行なうことにし、祖父との別れの場を設けました。また、入居した祖母の施設へも連れていきました。久しぶりの対面でした。

息子の上の子どもは、この日本滞在中に四歳の誕生日を迎え、下の子は、シンガポール生まれですので、はじめて日本の地を踏むことになります。神戸から私の娘も駆けつけてくれました。この山荘は、息子と娘がまだ小さいころ、毎年学校の休みごとにその季節を過ごした、思い出の住み家です。こうして、久しぶりの一家そろっての夕食を、この山荘で囲むことができました。(四月)

一二.久しぶりの会食

南郷谷に住む高校の同窓生数名が集まって、久しぶりの会食を楽しみました。コロナ感染症の影響を受けて、この数年、こうした会合は、すべて先延ばしになっていました。ところが、少し下火になり、やっと実現した次第です。言い出しっぺの自宅の庭の東屋を使わせてもらい、お弁当をとっての昼食会でした。

私は、心筋梗塞を発症して以来、ほぼ毎日、三食すべてを自分でつくっています。そのようなわけで、お弁当を買って食べたり、コンビニの食品ですませたりすることはありませんでした。そうした食生活の人間にとって、この日の食事会は、驚きの連続でした。

驚きは、まず、出されたお弁当から始まりました。隣村の人気の専門店からテイクアウトされたものでした。中身は、エビフライとヒレカツで、大量のキャベツが添えられていました。食べてみると、本当においしく、明らかに日々の自作を超える、腕の立つ専門職人の作品でした。完全に脱帽、自信喪失です。

コンビニの味噌汁も用意されていました。驚いたのは、専用の容器ごとに、味噌と具が詰め合わされていたことです。私は、インスタントの味噌汁というのは、味噌と具だけであって、容器(味噌汁のお茶碗)は自分で用意するものとばかり思っていました。そうでは、ありませんでした。完全なオールインワンの味噌汁でした。しかも、味も満点。

最後に、ノンアルコールの飲み物にびっくりしました。私は、ノンアルコールといえばビールとばかり思い込んでいました。ところがこの日用意されていたのは、それに加えて、ノンアルコールのワインでした。飲んでみると、決してワインジュースではありません。本物と変わらない、何ともいいワイン風味です。うなってしまいました。

私にとってのこの日の昼下がりは、久しぶりの会話の盛り上がりだけでなく、最近の食事事情の新発見が伴う、まさに感動のひとときでした。(五月)

一三.索引づくり

著作集6『ウィリアム・モリスの家族史』の本文脱稿を直前に控えた、昨年の一二月一三日に、父親が他界しました。その後、四九日までの一連の儀式を終えたところで、母親が自宅にて転倒し、近くのかかりつけの病院に入院。主治医の勧めもあり、退院後は施設への入居を検討。幸運にも施設は見つかり、退院と同時に入居し、四月のはじめから母親の新しい生活がはじまりました。

いま振り返ってメモを見てみますと、一月九日に本文を擱筆しています。しかし、その以降、索引の作成が遅々として進まず、難航している様子がわかります。

これまでに完成した各巻にあっても、索引づくりは、本文の完成度を高めるうえでの必須の重要な作業として、私は位置づけてきました。今回の『ウィリアム・モリスの家族史』は、本文の分量としては、四〇〇字詰め原稿用紙に換算して、約一、四〇〇枚あります。その分量の多さに加えて、索引にとるべき人名や事項は、ほとんどが英語表記で、それを日本語に訳し換えたものです。そのなかには、書名や作品名も多く含まれます。当然ながら、索引は、日本語と英語の両言語併記となります。本文を読み返してみますと、執筆時には慎重を期したつもりですが、それでも、不統一が散見されます。どちらに統一すべきか、もともとの出典や資料にあたり、辞書や辞典を参照することもあります。ひとつの固有名詞の日本語訳の確定に数時間、場合によっては、一日を費やすことさえありました。こうしてやっと、六月四日に完成しました。取り組めた日を数えてみると、断続的ではありますが、総計でおよそ六〇日を要していました。

私は、日本語で書かれたものであろうと、英語で書かれたものであろうと、研究書や学術書を手に取った場合、最初に索引を見ることが多くあります。索引全体を眺めてゆきますと、そこには山々の連なりが見えてきます。そして、その頂から裾野までが視野に入ってきます。その絵が、稠密であればあるほど、本文内容も緻密であることが、経験からわかっており、それが私の読書上の習性となっているのです。

一方で私は、とても散漫な作業をする、注意力を欠いた人間であることを自覚しています。スペルミスを犯すのはしばしばですが、その事項は「285」頁であるのにもかかわらず、平気でそれを「385」と書いたりします。そうした自分の情けない性格を知っているだけに、冷静に一つひとつを着実に作業する人をとてもうらやましく思います。

果たして今回の索引は、どれくらいの出来上がりになっているのでしょうか。最善を尽くしたという達成感はあるのですが、しかしながら、おそらくいまだ目に見えない単純なミスが隠されていることは、十分に想像されるところです。あのウィリアム・モリスも、スペルミスの名手でした。そう思いながら自らを慰めつつ、これをもって著作集6『ウィリアム・モリスの家族史』の完成としたいと思います。

一応この内容でウェブサイト「中山修一著作集」へアップロードします。もしミスが見つかれば、今後の更新のとき、そのつど修正させていただくつもりです。それにしても、落ち着かない日々の環境のなか、やっと索引づくりがゴールしました。いま独り喜びに浸っています。(六月)

一四.母親の再入院

退院後、施設へ入所してしばらくすると、胸痛にしばしば見舞われるようになりました。もともと母親は大動脈弁膜症を患っており、こうした症状は、今回はじめて発生したわけではありません。数週間前にも緊急受診をしていました。

昨日、四週間ごとの定期診察のために外来受診をしました。すると、待合室で胸痛が起こり、点滴による緊急対応をしていただき、その間に幾つかの検査を受けました。その結果を踏まえて、主治医からこう告げられました。「入院が適当と思われます。無事に回復し退院できることを期待しているところですが、このままここで看取りという可能性もあります」。

一〇日後に、母親の九五回目の誕生日が来ます。(六月)

一五.自然の劣化

いつも四月の終わりに大きく咲き乱れる庭のシャクナゲが、あまり咲きませんでした。また、ヤマアジサイも同じで、今年は、ほとんど咲こうとする気配が見受けられません。一方、鳥の声も、例年に比べて弱々しく貧相です。そういえば、数年前から、外灯に呼び寄せられて集まってくる夏の虫も、激減しています。

人に感動や安らぎを与える「自然」が大きく変わろうとしているように感じられます。先日も、自宅から下に降りる牧野道で土砂崩れがあり、町役場に頼んで撤去してもらいました。すでに季節は梅雨進行中です。人に災いや恐怖を与える「自然」へと、変わり果てぬことをいま祈っています。(六月)

一六.気象病

気象病を自覚するようになったのは、定年後、山での生活をするようになってからのことでした。低気圧が近づいてきたり、雨雲に覆われたりすると、軽い頭痛が起こります。「そろそろ雨になるんだな」と思うことで、やり過ごせることがほとんどで、頭痛薬を飲むほどの痛みに襲われるようなことはあまりありませんでした。

ところが、数日前に体験した気象病は、それまでとは全く異なっていました。最初の症状は、倦怠感でした。全身に疲労感が重くのしかかり、頭痛がしてきました。南の高気圧が、例年になく梅雨前線を北に押し上げたようです。雨も激しさを増してきました。そして、次の日には、熱が三八度八分まで上がり、歩くことも困難になりました。こうした状態が、何と二日も続きました。解熱剤を飲めば、一時的に下がりますが、半日ともたず、また次の一錠。頭は冷やすも、全身から汗が吹き出し、頻繁に肌着の取り換え。実に苦しい二日間に及ぶ激闘でした。

天気も回復し、それから三日後、梅雨明けの宣言がありました。六月中の梅雨明けは珍しく、しかも、三週間にも満たない、極めて短いものでした。この間、関東地方では、四〇度を超える異例の猛暑だったようです。

今年の梅雨期の極端な気象の変動は、私の体に大きな影響を与えました。こうした影響は、山に住む鳥や虫にも及んでいるにちがいありません。前の文で「自然の劣化」について書きましたが、それは、具体的にいえば、近年の「気象の劣化」に由来するものなのかもしれません。自分の気象病から、いまそう考えるようになりました。(六月)

一七.こむら返り

気象病について書きましたので、もうひとつの持病であるこむら返りについても書いておきます。

はじめて症状が出たのは、もう十数年前のことだったと記憶していますが、そのときは、何といってもはじめての経験で、その痛みにどう耐えるのか、必死にもがき苦しんだことを覚えています。それからしばらくのあいだは、その症状に見舞われることはなく、ほとんど忘れかけていたのですが、数年前から、日常的に発症するようになりました。「日常的」といっても、数日間隔で定期的に起こるのではなく、一、二箇月くらい空くこともあれば、二日続けて起こることもあります。

私の場合、こむら返りが起きるのは、いつも就寝中で、寝返りを打ったときです。しかも、「こむら(ふくらはぎ)」だけとは限らず、足先の甲の部分がけいれんする場合もあります。痛みを感じても、睡眠の深さが勝り、結果的にそのままやり過ごしてしまうこともありますが、多くの場合、その激痛に耐えかねて、すぐさま薬に飛びつくことになります。私が常用しているのは「芍薬甘草湯」という漢方です。三〇分もしないうちに和らぎます。なぜ、短時間であの激痛が退散するのか、不思議に思うくらいです。

しかし、先日の痛みは、いままでのそれとは全く異なり、左のふくらはぎが、大きな音を立てて爆発したかのようなあり様でした。いつもの薬を飲むと、ひとまず痛みは治まりました。しかし、翌朝目を覚ますと、例のふくらはぎの部分に違和感が残っており、歩行の際に鈍い痛みを感じました。自然とそこに手がゆき、マッサージをしていました。次に、つま先立ちをしたり、前傾の状態でテーブルの端を握り、片方ごとに足のストレッチをしたりしていました。数日をかけて、幾分改善しましたが、まだ違和感は少し残っており、その部分を自然とかばおうとする自分に気づきます。

こむら返りとは別に、この数年前から、もの忘れや勘違いが多くなりました。初期の認知症だと思います。この前は、スーパーで一円と百円を取り違えました。冷蔵庫に入れたと思っていたものが、電子レンジのなかから出てきました。先ほどまでスムーズに口から出ていた人や場所の名前が、急に出てこないこともありました。

体や脳が下り坂に向かっていることは確かです。残念な思いがします。しかし、食い止めることはできません。ただ、ウォーキングをし、温泉に入り、食事に気をつけ、良質な睡眠をとるように心がけるしか方法がありません。ついつい、寡黙になる日々です。(七月)

一八.感染の再拡大と面会禁止

七月に入って、コロナ感染症の再拡大がニュースで伝えられるようになりました。そして、熊本県の一日の感染者数も、ついにこれまでの最高の一、五八八人に達してしまいました。「第七波」の到来かもしれません。これに合わせるように、私の住む町の役場では、広報紙によりますと、四回目のワクチン接種が計画されているようです。

そうしたなか、母親が入院する熊本市内の病院から電話がありました。面会が全面禁止になったという知らせでした。これまで、事前の予約により、平日の午後二時から五時までのあいだ、家族一人につき一五分の面会が許されていたのですが、それができなくなったのです。したがいまして、すでに入れていた次回の予約も、自動的にキャンセルになってしまいました。ただ、必要なものは、病院の入口受付で病棟の看護師さんを呼んでもらい手渡すことによって、本人に届きます。これまでの経験を振り返りますと、昨年以来、この病院では、感染拡大の山と谷に合わせて面会禁止と予約面会とが繰り返されてきています。次に母親に会えるのはいつになるのか、残念ながら、いまのところ見通せない状況です。(七月)

一九.息子の感染

私の息子の家族は、仕事の関係でいまシンガポールに駐在していますが、息子が新型コロナウイルスに感染したとの連絡が入りました。家庭では、いろいろと対応を考え、実行しているようですが、それでも老婆心ながら、完全な隔離と徹底したアルコール消毒の重要性の観点に立って、次のような対処策を列挙して返信しました。

(一)まだでしたら、部屋中の家具、おもちゃ、ドアノブなど、息子が触ったところや飛沫が飛んでいる可能性のあるところを完全にアルコール消毒してみてください。ウイルスは、数日生存するようですので。

(二)息子の生活する部屋をひとつに決めて、完全に隔離してください。食事と飲み物は、ドア越しに渡し、決して直接話をしたり、息子から受け取るものに直接触れたりしないようにしてください。話は、メールか携帯で行なうようにしてください。

(三)息子がトイレに行くときは、家族は離れ、トイレ使用後は、便座、ドアノブ等、消毒してください。お風呂は、家族の最後に入り、使用後は、完全消毒を心がけてください。

(四)息子が、隔離の部屋から移動して、トイレやお風呂を使うときは、マスク着用。できれば二重。その際、家族の者を近づけないようにしてください。通ったあとは、周囲の家具など、徹底して消毒をしてください。

(五)家族は、一日に数回、手の消毒と検温をしてください。

これからの一週間か一〇日間、息子の家族にとっては大変な日々が続くかと思いますが、家庭内感染を防ぐとともに、いまの軽微な症状から悪化することなく自力回復に向かうことを強く願っているところです。

 さて、それから八日後――家族から連絡があり、シンガポールのルールにより、隔離終了の扱いになったとのことでした。(七月)

二〇.コロナウイルスへの感染の可能性

いまから六年前の二〇一六(平成二八)年五月に、私は心筋梗塞に見舞われ、ステントを一個、冠動脈に留置しました。それ以降、四週間ごとに、近所のかかりつけの病院で診察を受け、薬を処方してもらっています。

先回病院にいったとき、その少し前に私を襲った「気象病」のことを先生にお話しました。すると先生は、コロナウイルスに感染していた可能性を示唆されました。私は、発熱と倦怠感はあったものの、せきやのどの痛みはなく、食欲にも味覚にも変わりがなかったことを告げると、この感染症は同じウイルスが引き起こすにもかかわらず、症状は人によって千差万別とのことでした。続けて私は、もしあのときの「気象病」がコロナウイルスによる症状だったとすれば、すでに感染によって抗体が体内にできており、もはや感染することはありませんよね、と尋ねてみました。それに対する先生の反応は、「いや、そうようなことはありません。一度感染しても、二度、三度、感染する人もいます」というものでした。病院から自宅へ帰る途中、車を運転しながら、ひょっとしたら、あれがコロナウイルスの症状だったのかな、と神妙な気持ちになっていました。

それから数日後、町役場で四回目のワクチン接種を受けました。その日対応されていた医師と看護師さんが、いつものかかりつけの病院から派遣された方々で、和気あいあいのなかで、無事接種が完了しました。しかし、二度、三度、感染するのであれば安心できず、先日の病院の帰り同様に、再び神妙な気持ちになってしまいました。(八月)

二一.修復された熊本城天守閣

二〇一六(平成二八)年四月に発生した熊本地震で、熊本城は、建物が倒壊し石垣が崩落するなど大きな被害を受けました。復旧作業が続くなか、二〇一九(令和一)年から特別公開がスタートしました。

先日、神戸に住む娘が仕事の関係で熊本に来ました。仕事の前日、ふたりで復興の様子を見るため熊本城へ足を運びました。至る所で生々しい傷跡がいまだに残されていましたが、天守閣はほぼ修復を終え、内部の展示品も閲覧することができました。

熊本市民の多くにとってなじみの場所であり、誇りとする名所が、この熊本城なのです。私自身は、地震から六年が立ったこの日はじめて、復旧した天守閣の前に立ったわけですが、その姿の美しさは、過去のその時々の思い出を蘇らせました。子どものころ親に連れられてしばしば花見に行きました。あるときは、写生大会でこのお城の雄姿を描きました。またあるときは、当時城内に設けられていたプールで夏を楽しみました。復興にあたりどれだけ多く方が尽力されたか、それを思うと自然と頭が下がります。完全にすべてがもとの状態になるまでにはまだ時間がかかるようです。計画どおりに進むことを祈りたいと思います。

その日の宿泊に選んだのは、客室から熊本城が望めるホテルでした。デパートの地下でお惣菜を買い込み、お城を見ながら食べていると、外は次第に暗くなり、ライトアップがはじまりました。紫紺の天空のなかにくっきりとその誇らしげな姿が浮き出てきました。昼間の見学と相まって、娘とともに熊本のシンボルと向き合った思い出に残る午後のひとときでした。(八月)

二二.著作集6『ウィリアム・モリスの家族史』の公開

ウェブサイト「中山修一著作集」の第六巻として『ウィリアム・モリスの家族史』をアップロードしました。

振り返りますと、私がデザインの研究に関心をもちはじめた学生時代には、体系化された「デザイン史」と呼ばれるような授業科目はありませんでした。それでも、それに関連する何点かの単行研究は存在していました。当時私は、ハーバート・リード『インダストリアル・デザイン』(勝見勝・前田泰次訳、みすず書房、一九五七年)、ニコラウス・ペヴスナー『モダン・デザインの展開』(白石博三訳、みすず書房、一九五七年)、『現代デザイン理論のエッセンス』(勝見勝監修、ぺりかん社、一九六六年)、利光功『バウハウス』(美術出版社、一九七〇年)、小野二郎『ウィリアム・モリス』(中公新書、一九七三年)、そして阿部公正『デザイン思考』(美術出版社、一九七八年)などをむさぼるようにして読みました。そして、どの書物においても共通して取り上げられていたのが、ウィリアム・モリスの思想と実践についてだったのです。そこで私の関心も、躊躇なく、一九世紀の英国が生んだデザイナーにして社会主義者、そして詩人でもあったその人物へと注がれてゆきました。

しかし、どの本においてもそれは断片的な内容になっていました。なかなかモリスの全体像を手に入れることは困難でした。詩作とデザインと政治活動が彼のなかでどうつながっていたのであろうか。そしてまた、ラファエル前派の著名な画家であるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの絵画作品にしばしば登場する、妻のジェインは、モリスとのあいだでどのような家庭生活を送ったのだろうか。こうした一種の謎が、自身のなかで解決できなかったのです。

私の研究生活のなかで、モリスの全生涯を知りたいという欲求が常につきまとっていました。それがやっと、『ウィリアム・モリスの家族史』として完結したのです。優に半世紀の時間が流れていました。時間は要したものの、その間挫折することもなく、何とかここに到達できたことを、研究者としてとてもうれしく思います。幸せ者であることを実感する日々です。支えてくださった多くの方々に感謝します。(九月)

二三.強風被害と保険金請求

七月半ば過ぎの出来事です。大雨と強風の発生予報に伴い、倒木によるガラス窓の破損を防ぐために、いつものように雨戸を閉めました。二日後風雨も収まり、雨戸を開けてみると、ウッドデッキ近くの木の幹が折れ、ウッドデッキの内部に倒れ込んでいる様子が見て取れました。一瞬の晴れ間を利用して外に出てみると、折れた幹と枝が、設置されていたエアコンの室外機と家屋の壁面の一部に覆いかぶさっていました。

被害状況を確認するために、また、引き続く悪天候による二次被害を回避するために、まず倒木を安全な場所に移動しました。覆いかぶさっていた木の幹や枝とともに室外機は定位置からずれた状態で移動し、配管が外れた状態になっていました。強い風雨に打たれてそうなったものと思われます。おそらく、冷媒ガスはすべて漏れ出て、室外機自体の機能にも損傷が及んでいるものと判断されました。

さっそく保険会社に連絡をとると、保険金請求のための書類一式が郵送されてきました。必要とされる書類は、現場状況を示す写真、被害機種の購入時の明細書、修理明細書(あるいは全損証明書)、同等機種の購入見積書などでした。写真は自分で撮り、被害機種の購入時の明細書は、幸いにも手もとに残っていました。一番厄介だったのは、修理明細書(あるいは全損証明書)の作成でした。メーカーの担当者に来ていただいて、破損状況を確認してもらいました。在庫部品がないこともあり、全損と判断され、被害内容を大阪の本部に連絡して、証明書を作成してもらうことになりました。こうして、しばらくしてやっと必要書類がすべて整い、保険会社に郵送することができました。

それから数日後、保険会社から連絡がありました。内容は、同等機種の購入見積書から、規定により一万円を差し引いた金額を、およそ一週間後に振り込むというものでした。それを受けて、さっそくその機種の購入のために、見積書を作成してもらった店舗に行きました。ほぼ一週間後に店舗に届き、それから取り付けをするとのことでした。

こちらは、九月半ばころから涼しくなり、冬へ向けての支度がはじまります。ちょうどそれに間に合ったことに安堵しています。(九月)

二四.母親の再々度の入退院

めまいの症状により入院し、退院と同時に施設に入居したのは、四月初旬のことでした。それからおよそ二箇月後、過去に患った大動脈弁膜症(あるいは心筋梗塞)におそらく起因していると思われる胸痛が母親をしばしば襲うようになりました。こうして六月に再入院し、主治医からは、この入院が最期の可能性になることを告げられながらも、何とか無事に退院できたのは八月のはじめのことでした。

こうして再び施設での生活がはじまりました。ところが、それから一〇日後、今度は転倒により左側の肩と腰を打って痛みが生じ、かかりつけの同じ病院に入院しました。幸い骨折はなく、強い打撲による痛みでした。入院中はコロナ感染症拡大の影響を受けて面会ができず、約四週間、一度も顔を合せることなく、今日退院の日を迎えました。

前回もそうでしたが、介護タクシーではなく、車いすに乗せて施設まで帰りました。車いすにしたのは、病院から施設までの距離が短いこともありますが、下界の様子を少しでも母親に味わってもらうためでした。暑い暑いといいながらも、施設の建物が見えてくると、「また同じ施設の同じ部屋に入れるのかい」と聞きます。どうやら母親は、入院中も部屋の代金を払っていることを知らず(あるいは忘れており)、再入居はできないものと勘違いしているようです。部屋に入ると、入院前と同じ家具が並んでいることに驚き、少し安心したのか、そのままベッドに入り、寝てしまいました。

一方私は、ケアマネージャーと今後の訪問介護や訪問リハビリなどの打ち合わせをし、施設の責任者の方とは、食事のことやお薬の管理になどについて確認をし、それを済ませると、残してきた入院中の生活用品を受け取りに、再び病院へ行きました。

こうして、四月の施設入居後の二回目の入院が終わりました。今後も、施設生活と入院とを繰り返すのかもしれません。(九月)

二五.白い彼岸花

私の山荘は少し標高が高く、家の周囲では一箇月ほど早く咲くのですが、下界の南郷谷の平地部では、至る所でお彼岸のこの時期に、彼岸花が一斉に開花します。色は、すべて赤です。どころが、毎日通う瑠璃温泉の花壇に、白い彼岸花が咲いているのが目に止まりました。ちょうどそのとき、顔見知りの係の人が通りすがり、少し会話を楽しみました。

彼の話によると、すでに閉館している宿泊棟の庭に咲いていたものを、球根として移植したとのことでした。そして続けて、彼岸花は毒をもっていて、もぐら除けになり、かつては土葬だったので、墓地によく植えられていたと、教えてくれました。その名残でしょうか、確かにこの地域のお墓の周りやそれに続くあぜ道には、例年この時期、彼岸花が群れるように咲きます。しかし、それは、どれも赤い彼岸花なのです。なぜ、白の彼岸花がここに開花しているのでしょう。その問いには、不明という回答でした。

かつて母親が、住職の話の聞き伝えとして、彼岸花は仏壇の花としては飾らない方がいいということをいっていたことを思い出しました。彼岸花には毒があるという言い伝えによるものかもしれません。しかし、白い(どちらかといえばプラチナ色の)彼岸花を眺めていると、そうとも思えない、何か気品に満ちた優美さのようなものが伝わってきました。はじめて見る、不思議な数株の花との偶然の出会いでした。(九月)

二六.台風一四号の接近

台風一四号が九州に接近しています。ニュースによると、数十年に一度経験するような、甚大な被害をもたらしかねない大型で強力な台風のようです。こうした予報を受けて、私が毎日通う瑠璃温泉も、昨日から二日間の臨時閉館になっています。

昨日の午後、次第に雨が強まり、風も出てきました。すべての部屋の雨戸を閉め、食堂の雨戸だけ少し開けて、いつでも外の様子が見渡せるようにしました。数日間閉じ込められても対応できるように、二食分のチャーハンをつくり、先日つくって冷凍していたお好み焼きも、冷凍庫から取り出して自然解凍をはじめました。

台風で一番怖いのは停電です。これまでも強い雨が降ると、しばしば自宅へ上がる牧野道沿いの木が倒れ、停電の原因となっていました。その場合は、九州電力に電話をして、修復作業の依頼をします。停電は、地下水を汲み上げるポンプの作動を止め、それによって給水が遮断されます。そのことを見越して、いつもお風呂には水を貯めています。主としてトイレ用に使います。飲み水は、五リットル入りのペットボトル六本に、湧水館トンネルの自然水を入れて、日常的に準備をしています。

六年前の熊本地震を教訓に、それ以来、停電が長引いた場合に備えて、プロパンガスを燃料とする発電機を用意しています。いざとなれば、この発電機を使って室内に電気を取り込むことができます。まだ一度も使っていませんが、テレビ、炊飯器、パソコン、携帯の充電くらいであれば、一度に使用しても大丈夫です。プロパンガスは、いつも定期的に、四本のボンベに切らすことなく十分に供給してもらっていますので、発電機だけではなく、通常どおり、調理用のコンロの燃料としても活躍することになります。

昨日の深夜から今朝にかけて、台風は熊本地方を通過していきました。寝たり、目が覚めたりの繰り返しでした。この間、線状降水帯も発生したようですが、停電もなく、無事夜明けを迎えようとしています。聞こえる雨音も、次第に落ち着いてきました。いまこの一文を書いたら、雨戸を開け、外の様子を確認したいと思います。おそらく庭一面に葉っぱや小枝が散乱しているにちがいありません。最も心配なのは、倒木や土砂崩れが牧野道で発生していないかということです。まだ吹き返しが続きそうなので、この確認は明日になります。自分の手に負えない場合は、役場に連絡して、撤去の依頼をしなければなりません。それにしましても、私が経験した一晩に限っていえば、今回の台風は、予想されていた脅威ほどの大きなものではなく、いま胸をなでおろしているところです。(九月)

二七.歯が欠ける

冷たい水などを飲むと、上の前から右へ二番目の歯がしみて、痛みを感じるようになりました。もともと歯医者に行くのが嫌いで、今回もなかなかその気になりませんでしたが、だんだん生活に支障が出てきて、とうとう歯科医院を訪ねました。しかし、予約なしの飛び込みだったために、四〇分くらい待ってもらうことになることが告げられました。そのとき、「しめた」と内心思い、直近で空いていた数日後を予約し、取り急ぎ帰宅しました。危機から逃げ出したといった感じでした。

その日の夕方のことです。食事のあと、いつものように歯を磨いていました。すると、何かちょっとした違和感を覚えました。口のなかのものをすべて吐き出すと、そのなかに歯のかけらが含まれています。明らかにその歯は、例の歯の一部です。小さなビニールの袋に入れて、予約日に持って行くことにしました。これ以降、痛みから解放されて、ある意味で、もとの快適な生活が復活しました。「してやったり」といった感じでした。

その日が来ました。神妙な面持ちで案内に従い、診療用のイスに座りました。私からこの間の事情を説明し、欠けた歯を差し出しました。すると先生は、口のなかを診ながら、「それでは、レントゲンを撮ってみましょう」といって、別の部屋に移されました。そのあと、再び診療用のイスにもどり、レントゲンの結果の説明がはじまりました。

説明の概要は、「欠けた歯は、これまでしみていた歯の一部に間違いなく、虫歯が原因だったと思われます。残った歯を見ると、もはや神経がなくなっており、そのために、痛みが消えたのでしょう。今後残された歯に雑菌が繁殖する可能性がありますので、治療をお勧めします」というものでした。こうして、アニメによる今後の治療方法の説明がはじまりました。その映像を見ていると、次第に、痛みや恐ろしさが連想されてゆき、意識が遠のくような感じに襲われました。前に「親知らず」を抜いたときの感覚が蘇ったものと思われます。結局、この怖さに自分は耐えることはできないと思い、勧められる「差し歯」の提案も、それを理由にお断わりしました。それを聞いて、苦笑いをしながら先生は、「このままでは、どうも見栄えが……」と、おっしゃるので、「もうそれほど若くはありませんので……」と、必死に答えてしまいました。やっとのこと、「今後また痛みを感じるようになったときは、来院しますので、そのときは、どうかよろしくお願いします」と伝えて、この日は帰宅しました。恐怖と安堵の一日でした。(九月)

二八.ヘビ出現

郵便受けを開けたら、何かが動きました。よく見ると、ヘビがいました。竹の杖が近くにありましたので、それを使って、外に出るよう誘導しました。体長五〇センチくらいのヘビで、柱をつたいながら、下の地面へと逃げてゆきました。

ヘビを見るのは、今年になって三回目です。一回目は春先で、外壁沿いの狭い通路の草むらのなかを移動していました。二回目に見たのは、外の水道のところでした。赤い色をした小さなヘビで、水を飲みにきていたのかもしれません。

これまで、たまに数年に一度くらい、ウッドデッキや庭でヘビの姿を見たり、ウッドデッキや外壁で抜け殻に遭遇したりすることがありました。しかし、今年のように立て続けに出くわすことは珍しく、ヘビにとっての環境に何か変化が起きているのかもしれません。

ずいぶん前の話になりますが、庭の木に鳥の巣箱を掛けたことがありました。ところが、そのなかにヘビが侵入し、鳥や卵を襲いました。それ以来、巣箱を取り払いました。それから数年が立って、今度は、郵便受けにせっせと土や苔を運び、鳥が巣づくりをはじめました。しかし、ヘビが侵入することを恐れて、せっかく運び入れた土や苔でしたが、すべて取り除いたことがありました。

今回目にしたのは、その郵便受けです。ヘビは鳥の巣と勘違いして侵入したのかもしれません。しかし、季節は秋で、鳥の産卵時期ではありません。冬ごもりを前に、餌探しをしていたのかもしれません。それにしても、人工の郵便受けにまでその範囲を広げていることを見ると、自然界に探せる餌が減少している可能性もあります。

ヘビを見るのは、やはり怖く、見た瞬間は一歩身を引いてしまいます。それでも、ヘビにとって生きづらい環境があるのであれば、それは人間の行動の結果なのかもしれず、複雑な気持ちになります。この近くでよく目にするのは、シカ、イノシシ、サル、タヌキといった動物たちです。加えて、日常的に人間の目に止まらない動物もたくさんこの森のなかに生息していると思われます。彼らは、自分たちの生活環境の変化をどう思っているのでしょうか。そして、もし人間の存在がわかるのであれば、彼らの目には人間はどう映っているのでしょうか。仮にその手段があるとして、そのことを知った人間は、どう変わるのでしょうか。今回のヘビの出現から、こんなことを考えてみました。(一〇月)

二九.ヘビを巡るサウナ談義

私が通う瑠璃温泉は、一〇時三〇分が開館時間ですが、実際にはその一〇分くらい前に開けてくれます。それは、時間前に常連客が集まってくるからです。とくに冬は寒いので、開門に気を遣ってくれます。ほぼ毎日来る男性の常連客は、私を入れて三名です。三人とも、まずサウナに入ります。ここで、最近の世の中の話題や個人的な出来事を誰とはなしに口にし、そこから会話が盛り上がります。先日私は、その前の日のヘビ出現の一件を持ち出しました。

私「昨日、郵便受けを開けたらヘビが入っていました。怖くて一歩身を引いたのですが、何とか近くにあった竹の棒で誘導して、外に出しました。ヘビを見るのは、今年に入って三回目で、今年は多いような気がします」。

常連Bさん「おいどんなんか、ヘビ見たら、すぐに殺そうとするんだけどな。ばってん、ヘビは金運ば運びます。昔、若かったころ、ヘビを見たとき、思わぬ金が入ってきたことがありました」。

常連Aさん「夢に出てきただけでも、お金が寄ってくといいます。ヘビより竜です。竜の夢を見れば、間違いなく、大金が懐に入ってきます」。

常連Bさん「うちのおふくろなんか、夢にヘビが出てきた日なんか、誰にもいわずに、パチンコに行きますよ。黙って行くのがミソで、口に出したら、運が尽きますけんね」。

私「それで、そのときのお母さんのパチンコは、どうでした」。

常連Bさん「儲けて帰ってきました。あっはっは」。

常連Aさん「先日、役場から敬老の日のお祝い金が振り込まれていたでしょう」。

私「そう、そう。いつもは二千円ですが、今年は、町の経済活性化のために八千円が上乗せされて、一万円が入金されていました」。

常連Aさん「そうでしょう。これもヘビのおかげですよ。これからしばらくは、じゃんじゃんお金が入ってきますよ」。

私「本当ですか。それだといいんですが」。

常連Bさん「ヘビは、人に嫌われますが、本当は人の味方ですたい。この阿蘇地区の幾つかの神社でヘビを飼っていて、参拝客に見せとります」。

それを聞いて、境内にヘビを飼っている神社のことを思い出しました。また、脱皮したヘビの抜け殻を財布に入れておくとお金が貯まるという言い伝えも、確かに私の記憶に残っていました。

そういえば、敬老の日のお祝い金に加えて、強風で破損したエアコンの保険金が、最近入金されたばかりでした。これからも、お金が近づいてきてくれるのでしょうか。そのような、取り留めもない思いを楽しみながら、今日も、サウナ談義に興じたのでした。(一〇月)

三〇.南阿蘇村の谷人たちの美術館

外輪山に囲まれた世界に誇るべき広大なカルデラ地帯。その中央部分に東西に連なる阿蘇五岳。これによって分断された北側のカルデラが阿蘇谷、一方、南側のカルデラが南郷谷。南郷谷は、その大部分を南阿蘇村が占め、その東の一部が、私の住む高森町となっています。南阿蘇村は、それまで存在していた長陽、白水、久木野の三つの村が合併して、二〇〇五(平成一七)年に誕生した新しい村です。阿蘇の五岳を一望できる風光明媚なこの村には、芸術を愛する移住者も多く、村は、このときの三村合併を機に「谷人たちの美術館」を発足させました。これにより、秋の一定期間、南阿蘇村に点在する美術家や工芸家の工房やギャラリーが開放され、誰もが自由に訪問でき、こうして、つくり手と村内外の人たちとの交流の場が生み出されたのでした。

手もとに残るパンフレットを見ますと、二〇一九(令和一)年の一〇月一日から二週間の会期のもとに開催された「谷人たちの美術館」には、二九もの工房が参加していました。内容は、絵画、陶器、ガラス工芸、人形工芸、写真、鉄道模型、古布小物、草木染や皮工芸と、実に多彩です。しかし、その後の二年間、コロナウイルス感染症の影響で、中止を余儀なくされ、今年(二〇二二年)は、三年ぶりの開催となりました。今年のパンフレットに目を向けますと、残念ながら、参加工房は二〇と、かなり減少し、寂しさを禁じ得ないものとなっていました。

私も、期間中、何人かのアーティストを訪ね、旧交を温めました。一方、今回はじめて訪問し、知り合いになったアーティストもいました。その方は、もともと熊本のご出身で、長くパリに滞在して絵画製作に取り組まれたあと、阿蘇の魅力に引き寄せられ、近年、この地に引っ越してこられたご高齢の女流画家です。阿蘇五岳の頂が眼前に広がる南外輪山のふもとに、その方のご自宅と、それに隣接する「モン・プティ・パレ絵画彫刻館」がありました。「モン・プティ・パレ絵画彫刻館」には、ご自身の絵画作品が並べられ、別室にアトリエがあるとのことでした。展示されていた作品群は、心に映し出された印象概念を柔らかい色彩で明るく構成された抽象絵画で占められていました。他方、その展示棟とご自宅を挟む中庭に、一体の彫像が設置され、敷地全体の周囲は、植樹された緑で心地よく演出され、さながら「私の小さなお城」といった空間のつくりとなっていました。ドリンクをいただきながら、双方の仕事のことを語り合う、秋の午後のひとときでした。(一〇月)

三一.ご褒美か息抜きか

私が通う瑠璃温泉は開館が一〇時三〇分ですので、いつも三〇分ほど前に到着し、開館まで体操とウォーキングをします。駐車場に車を止めてまず向かうのが、すぐ近くの展望台です。南外輪山を一望でき、眼下には運動公園が広がります。そこで一〇分ほど体操をし、体を整えます。小学校のころは、校庭に集まる機会があれば、みんなでラジオ体操をしていました。いまも体がそれを覚えていて、自然と手足が動いてくれます。また、学生時代はヨット部に属し、そこでも、海に出る前に、受け継がれた独自の体操をしていました。これもいま生かされています。

体操が終わると、運動公園と瑠璃温泉をあわせた、その周りの公道を歩きます。だいたい一周歩くのに一〇分かかりますので、二周歩くのが通例となっています。この三〇分の体操とウォーキングは、これまで休みを入れることなく連続して行なっていたのですが、数箇月前から、少し異変が生じました。途中でコンビニに寄るようになったのです。そこでのお目当ては「チョコモナカジャンボ」です。片隅に用意されているカウンターに座って、外を眺めながら食べることになります。

この時間は、深夜に起きて五時間くらいの執筆活動を終え、そのあと街中に出て、必要に応じて食料品の買い出しをし、銀行や給油や役場などでの立ち寄りの用件も済ませ、温泉入浴前の一日で一番ほっとする時間です。自分へのご褒美と言い聞かせながら、こうして、週に一、二回のコンビニ立ち寄りを楽しむようになりました。

しかし、よく考えてみると、どうもご褒美は口実のようで、実際には、三〇分連続の運動が続かず、生き抜きすることを体が要求しているようにも感じられます。しかも、同じ内容の行動が、もはや三〇分では収まらず、四〇分くらいを要することもあります。こうしたことは、加齢によるものかもしれませんが、やはり手足が弱ってきているらしく、動きに切れがなく、スピード感も減少している感じがします。どうやら体にとって、途中休憩が必要なようです。

カウンター席に座って「チョコモナカジャンボ」を食べながら、パッケージに目を向けると、「販売開始五〇年記念」という文字が飛び込んできました。自分の弱りかけている体を思いやる一方で、「チョコモナカジャンボ」の生命力に感じ入った瞬間でした。(一一月)

三二.中山修一著作集の「終活」

いま、神戸大学附属図書館の学術成果リポジトリに、ウェブサイトで公開しています中山修一著作集のうち、第一巻から第六巻までと第一〇巻の計七巻が登録され、公開の手続きが完了しました。この著作集は、全一五巻の完結を目指して、現在書き進められており、今回公開される運びとなった完成巻以外は、現在、執筆進行中の未完の状態にあります。

私は、この未完の巻の将来が気にかかり、附属図書館の担当者の方に、以下の三点につきまして、問い合わせをしました。


(一)今後は、ひとつの巻が完成し次第、ご連絡し、今回と同じ手順で公開をお願いしたいのですが、そのように考えておいて問題ないでしょうか。
(二)一五巻全巻が完結するには、順調にいっても、もう六年ほどを要します。その間、すでに公開している巻に、変換ミスや用語の不統一などにかかわってミスが見つかり、若干の修正が入る可能性があります。そこでお尋ねいたしますが、最後の巻が完成した段階で、修正を必要とする巻につきまして、新しいPDFに取り換えていただくか、改訂版として新規に公開していただくか、どちらかの対応が可能でしょうか。
(三)未完成の巻につきましても、現時点における原稿をすべてPDF化するように、ウェブサイト「中山修一著作集」の更新の準備を現在進めています。一二月末までには、アップロードが可能かと思います。そこでお尋ねいたしますが、全巻が完結するまでに私が死亡した場合、そちらに誰かが連絡すれば、残りのすべての未完成巻につきましても、ウェブサイト「中山修一著作集」からダウンロードしていただき、保存と公開をしていただけますでしょうか。


 ただちに、上記の三点につきまして、以下のような回答が返ってきました。


(一)はい、その都度ご連絡いただけましたら、今回のように対応させていただきます。
(二)ご連絡いただけましたら、本文を差し替えさせていただきます。(差し替えの旨注記で記載いたします。)
(三)はい、可能です。その際、ご連絡をくださる方が、たとえばさきほどいただいた中山先生のメールを添付してくださるなど、中山先生のご意思のもとでご連絡をくださっていることをこちらが把握できる形となっていると、進められると存じます。ただし、もしも館内でのリポジトリの運用方針等に今後変更があれば、その際の運用方針に則った対応となるかと存じます。恐れ入りますが、ご了承いただけますと幸いです。


 以上のような回答が得られたことにより、いつどの時点で私のいのちが終わろうとも、その時点での執筆原稿のすべてが、神戸大学附属図書館の学術成果リポジトリに登録され、恒久的に公開される見通しが生まれました。研究者として限りなくうれしいことです。これで、著作集の行く末を心配することなく、安心して執筆活動に専念することができます。こうして幸いにも、私の著作集の「終活」が完了したのでした。(一一月)

三三.和風店舗の洋菓子店

瑠璃温泉の駐車場の道を隔てた反対側に平屋建ての建物があります。見た感じ、半分が住まいで、半分が店舗のようです。店舗らしい部分の入口は二枚戸で、のれんが下がっています。壁に遮られ、なかの様子はうかがい知ることはできませんが、「苺凛香(ばいりんか)」という店名からして、てっきり私は和菓子のお店とばかり思っていました。

ある日、少し予定より早く瑠璃温泉に着いたので、そのお店を訪ねてみました。私は、好物のもなかかおはぎでも、と思って入ったのですが、驚いたことに、ショーケースに並んでいたのは、何と洋菓子だったのでした。びっくりしました。外見だけではなく、内部のしつらえも和風なのですが、ただ、ショーケースとそのなかの商品だけが洋風なのです。店員さんに話しかけてみました。すると、「お客さん、みなさん、そうおっしゃいます」との返事が返ってきました。意図的なデザインなのか、結果的にそうなっているのか、わからないまま、つまり、落ち着かない、かき乱されるような気持ちにあって、私はショーケースのなかをのぞき込みました。洋菓子では、私はシュークリームとモンブランが好物で、すぐにもそちらに目が行きました。しかし、シュークリームは完売の表示がなされており、そこでモンブランを買うことにしました。

家に帰って食しました。とてもおいしく、久しぶりに口のなかに洋菓子特有の食感が広がってゆきました。食べたあとコーヒーを飲んでいると、今日のことが、否応なく頭をトントンとたたきます。この地域は山と田畑で構成される、典型的な田舎の情景に彩られた土地柄です。その意味で、今日見た和風の建物は、よく環境になじんでいました。しかし、地域の人や観光客が、すべて和のお菓子を好むとは限りません。洋を限りなく愛する人もいるはずです。和風店舗の洋菓子店――以外にも何かここに、食に限らず、すばらしい問題解決の解答例があるように思えてきました。異なるもの同士の一体存在とでもいいますか、不統一の同一感といった、日ごろあまり感じることのない不思議な感覚が呼び覚まされた一日でした。(一一月)

三四.紅葉を踏みしめて

いつもこの時期、庭の紅葉が私の心を揺り動かします。モミジやカエデやイチョウの葉が、それぞれ固有の色を競い合うのです。毎年、一一月の最初の週が終わったころ、朝夕の冷え込みが感じられるようになると、赤や褐色や黄色の色味が、鮮やかになります。雨は禁物です。雨に打たれると、せっかく色づいた葉が、落ちてしまうからです。今年は天候に恵まれ、雨の日も少なく、長期間、紅葉を堪能することができました。

庭に出てもよし、ウッドデッキに出てもよし。はたまた、室内にいて窓から眺めるのもよし。しかし、よく観察しますと、必ずしも一斉に色づくわけではありません。樹木の種類によって、あるいは、太陽が届く場所の違いによって、時間差が出てきます。つまり、一一月の最後の週までのおよそ一箇月のあいだ、家を取り巻く四方の木々の全体的な色の景観が、その息遣いに似て、一日一日少しずつ微妙に変化してゆくのです。この変化に驚き、それを満喫できるのも、山に住んでいればこそ味わえる、貴重な体験となります。

葉の散り方にも、条件に応じて順番があるようで、地に落ちる葉の種類が、日ごとに変わってゆき、異なった形と色の層をつくり上げてゆきます。ここで生活してわかったことは、紅葉は、木についている葉が豪華に醸し出す錦絵だけを楽しむものではないということでした。足で踏みしめるときに感じる、形や色の重なり具合による感触や、サクサクという乾燥した空気に響く軽快な音色もまた、人に楽しみを与えてくれるのです。これが、じゅうたんとしての紅葉のもつ、もうひとつのありがたさです。そういう思いに満たされながら、今年もまた、紅葉の季節が終わり、いよいよ寒い冬へ向かおうとしています。(一一月)

三五.三回目の忘年会の中止

私の高校の同窓会は江原会という名称で親しまれています。聞くところによりますと、その名称は「大江原頭」に由来しているようです。大江は地名で、原頭は原野を表わします。いま母校は、熊本市中央区新大江一丁目の住宅街にありますが、その昔は、この地域は原野だったのかもしれません。

私が住む南郷谷(南阿蘇村と高森町をあわせた地区)にも、阿蘇南部江原会という小さな同窓会組織があります。もともとこの地区在住の人もいます。私のように定年後にこの地区に移住してきた人もいます。みんなそれぞれに異なる人生の経緯があって、いまこの地で生活をしているのですが、若いときの三年間をともにひとつの学び舎で過ごしたことが、共通点となっています。この会にとりまして、春の花見と暮れの忘年会が毎年恒例の行事となっていました。

ところが、コロナウイルス感染症の全国的な広がりにより、恒例行事も中止へと追い込まれました。二年前、最初に中止の知らせを受けたときは、今回限りで、また来年は楽しめるものと思っていました。しかし、次の年も中止の知らせが来て、今年の忘年会も中止に決まったとの手紙が、先日幹事より届きました。これで、三年続けて忘年会が開催されないことになります。

会員のほとんどは高齢者で、私たちの世代は、一番若い会員層に属します。忘年会には、二〇名前後の同窓生が年末に集い、それぞれの一年を語り合い、次の年の健康と安寧を誓い合う、ひとつの暗黙裡の儀式的要素があり、それがなくなることは、互いが互いに支え合っている目に見えない力を失うことを意味します。寂しいことです。来年こそは開催できることを祈りたいと思います。(一二月)

三六.旧友との再会ならず

東京教育大学(現在の筑波大学)の大学院時代、同期の台湾からのひとりの留学生と親しくしていました。その彼が、クリスマス休暇を利用して、四泊五日で、柳川、大宰府、湯布院、日田を楽しむため、娘夫婦の家族も連れ立って福岡にやって来ることになりました。ちょうど一〇年前に私が台湾に彼を訪ねていましたので、久しぶりの再会です。福岡空港に到着し、チェックインする午後二時にあわせて、宿泊予定の福岡のホテルロビーで待ち合わせることにしていました。ところが、予定日前日の夕方から、高森町の北に位置する私の住む山野は大雪に見舞われ、車を出すことも不可能になってしまいました。さっそくメールを書きました。

彼とは、大学院に在籍中、明石一男先生の指導のもと、ともにインダストリアル・デザインを学んだ間柄です。奥さんは声楽家で、当時、東京芸術大学に籍を置いていました。日本滞在中、夫婦で熊本市内にある私の実家に遊びに来ていただいたこともありました。台湾への帰国後は、ふたりそろって大学の教員となり、定年後は、もうひとつ居住の場をバンクーバーに設け、台湾と行ったり来たりの生活を楽しんでいます。

積雪のために福岡のホテルに行けないことは、すぐにも理解していただき、台湾から持参されていたお土産が宅配便で送られてきました。さまざまな当地のお菓子やティーパック、それにからすみも入っていました。お礼状を書き、次の機会にぜひとも、台湾かこちらで、必ず会おうと、伝えました。彼は私より数歳年上で、最初に知り合ってからもう半世紀が過ぎ、いつのまにかともに高齢の年代に入っています。

彼がバンクーバーに生活の拠点を移したのは、中国本土の脅威によるものでした。バンクーバーには同じ思いをもつ台湾人のコミュニティーがあるそうです。数年前、奥さんが主宰するバンクーバーの台湾人合唱団が九州の数会場で公演するとき、熊本城見物が予定されていたため、都合よくそこでお会いしたこともありました。

雪で福岡まで行けないことを知らせるメールの返信には、「いつ何が起こるか誰にもわからない」ということわざが台湾にあることが書かれてありました。中国の台湾への侵攻、これも誰にもわからないことのひとつですが、これだけは避けなければならないことを、数日後に控えた年頭に当たり祈願したいと思います。(一二月)