謹んで新春の御祝詞を申し上げます
一八七〇年に、英国の詩人でデザイナーで社会主義者のウィリアム・モリスは、二五編の自作詩で構成される『詩の本』と題された彩飾手稿本をつくりました。その第一編の詩題が「川の両岸」でした。この詩は、男女のあいだに流れる清い川を連想させるものでありますが、その一方で、中世のゴシック精神と新しい英国精神、さらには資本と労働のあいだに流れる濁流が念頭に置かれていたとも解釈できます。いま私たちの社会や文化に目を向けますと、問題はさらに先鋭化し、分断と抑圧が一国のみならず、地球規模で発生し、「富者と貧者」「多数者と少数者」そして「強者と弱者」とのあいだに激しく流れる「川」となって現われていることに気づかされます。そうしたことを思い浮かべながら、モリスの理想と実践を共有し、自己の問題意識を整理するために、昨年の夏以来、著作集第6巻に所収予定の「ウィリアム・モリスの家族史――近代の夫婦の原像を探る」の執筆に取りかかっています。
穏やかなお正月をお迎えのことと思います。
本年のご多幸とご健康を心よりお祈り申し上げます。
二〇二一年 元旦
昨年末の寒波に続き、再び寒波に見舞われました。七日から九日にかけての大雪に備えて、事前に買い出しをし、車は、牧野道へ入るすぐ手前の、交差してその上を走る農業道路のガードの下に置きました。雪が積もり、凍結した場合には、スタッドレス・タイヤを履いていても、自宅に続く牧野道の坂道を車で上ることは困難だからです。
雪が降って、庭もウッドデッキも、一面銀世界に変わりました。いつもそうなのですが、今回もまた、雪の上に、はんこで押したような、足跡を見ることができました。それも違った形のものが、幾つかありました。小動物たちの足形です。夜のあいだ彼らが、家の周りを行き来していることが、これでよくわかります。しかし、私の知識では、足跡から小動物の名前を特定することはできません。
一一日、はじめて家から出ました。まだ雪は残っていましたが、長靴を履き、竹の杖を頼りに、雪を踏みしめるようにして牧野道を下りてゆきました。一五分くらいで車のところに到着しました。車に掛けていたカバーを外し、タイヤのストッパーに使っていた煉瓦を取り除き、いつものように温泉へ向かいました。久しぶりの常連客の友だちとの顔合わせでした。会話は、雪とコロナ。
今日は、その次の日です。いま玄関を空けて、外をのぞいてみると、深夜に雪が降ったらしく、残った雪の上に新雪が覆っていました。また、数日は家に引きこもることになりそうです。
この間に、首都圏の一都三県に緊急事態宣言が出されました。そしてその後のニュースによると、熊本の県知事も緊急事態宣言の発出を政府に要請する検討に入ったとのこと。雪とコロナが身の回りをふさぎます。そして、精神的に強い圧迫感を感じます。いまこうして、波乱の二〇二一年の幕が開きました。(一月)
富本憲吉と富本一枝の研究が一段落し、昨年の夏から、「ウィリアム・モリスの家族史」を書いています。それまでと違って、使う資料がほとんど英語の文献となりました。そうしますと、どうしても一日の執筆量が少なくなります。それを補うために、少し勉強時間を多くとる必要に迫られました。そこで最近は、就寝時間をいままでよりも一時間繰り上げて、五時にしています。そして、夜中の一時ころに起床です。こうすることによって、朝の八時までのあいだ、少なくとも五時間は執筆にあてられるようになりました。ちなみにそのあとは、昼ご飯(普通の人の朝ご飯)を食べて、九時過ぎに家を出て、ウォーキング、新聞、温泉(そのあと必要に応じて買い物)を楽しんで、お昼を過ぎたころの時間に帰宅し、一休みのあと、夕食の準備となります。
雑誌『KUMAMOTO』から、「二〇二一年、今年こそは」というテーマで原稿を書いてほしいとの依頼がありましたので、先日その原稿「ウィリアム・モリスの伝記の執筆に邁進する」を書き上げ、送ったところです。今年は、ウィリアム・モリスとの格闘の一年になりそうです。(一月)
ここは山沿いですので、冬のあいだ、寒気が南下すると雪になります。ひと冬に、だいたい三回くらいは、一〇センチほどの積雪に見舞われ、その間の数日は、外へは出ずに、家にこもります。
先日、この季節三回目の降雪の予報が出ました。それを聞くと、大雪になるかどうかは別にして、車を下の牧野道の入り口のところまで移動します。わが家から牧野道の入り口までは、一キロ弱の細い坂道で、雪が降り、その後凍結すれば、家からこの牧野道を降りるのが危険になるためです。雪の積もった牧野道を一五分くらい歩いて車のところにたどり着くと、そこからは、あまり雪が積もることのない町の中心部へ出ることができます。山道を歩くため、防寒対策が必要です。帽子、マスク、手袋、杖、長靴、厚手の服などなどです。
しかし、最近の生活を振り返りますと、「対策」と呼ばれるものは、寒さ対策だけに止まらないような気がします。加えて、コロナ対策、自然災害対策、健康対策、さらには認知症対策、まさに「対策」の洪水です。これほどまでに、私たちの生活は、危険にさらされているということでしょう。ゆっくり、のんびりと生活することを願って、この山暮らしをはじめたのですが、なかなかその夢へ届かないのが、現状のようです。(二月)
朝起きて水道の蛇口をひねると、水が出ませんでした。昨夜の寝るまでは使えていたので、凍結したのかな、と一瞬不安がよぎりました。いつもは、氷点下三度以下の予報が出ると、凍結防止のために、少しだけ出しっぱなしにした状態で寝るのですが、昨夜はそれほど冷え込む予報はなく、そうした対策はしていませんでした。たまたまお向かいの方が昨夜から週末を楽しむために来ていらしたので、お尋ねすると、わが家と全く同じ状況で、今朝から水が出ないとのことでした。断水の原因は、どうやら凍結ではなさそうです。
この別荘地では、敷地の一角にポンプ小屋があり、このなかに設置されているポンプで地下水を汲み上げてタンクに溜め、そこから各世帯へ排水する仕組みになっています。住民は、私ひとりが定住者で、残り四世帯は、週末や休暇を利用した不定期の滞在者です。私が常駐している関係で、数年来、この「四季美の郷自治会」の会長を仰せつかっています。そこで、さっそく、いつもの設備会社に連絡をし、地下水を汲み上げるポンプの作動状況を見てもらいました。結果は、電気系統にもポンプ自体にも異常はなく、おそらく水位が下がったためにポンプによる吸い上げが実際上できなくなったのだろう、という所見でした。そして、その対処の方法としては、ポンプをクレーンで釣り上げ、水位の状態を確認したうえで、必要な長さのパイプを継ぎ足す必要があるとのことでした。ただ、このポンプは、最初の設置以降、もうすでに三〇年以上が経過しており、今後経年劣化でまた別の不具合を起こす可能性もあり、クレーンを入れて釣り上げるこの機会に一新してはどうかという提案も、いただきました。
そこで、ほかの住民のみなさんに連絡し、状況を説明しました。この古くなっていたポンプについては、この数年、総会で話題になり、見積もりも事前にとっていたこともあり、すぐにも新品と取り換えることに賛同していただきました。そして、工事費用に関しては、一時金を徴収して、およそ半額をまかない、残りは、自治会の現有資金を切り崩すことになりました。
こうしていま、私の水のない生活がはじまりました。お風呂は、毎日温泉に行くので問題はありません。トイレの水も、浴槽に溜め置きの水があるので大丈夫です。飲み水はペットボトルが三本あります。ほかに水は、五リットル入りのボトル三本に、水道水(地下水)を入れて、備蓄していました。さあ、これでどこまでもつのでしょうか。工事が完了し、水が出るようになるのは、果たしていつでしょうか。途中で給水に行く必要に迫られる可能性もありそうです。
それにしても、なぜ地下水の水位が下がったのでしょうか。業者の方の話では、ときどき見かける現象とのことでした。これも、気候の変動や地下の火山活動の影響によるものなのでしょうか。いずれにいたしましても、水が使えない、厳しい生活をこれからしばらく経験することになりました。結果的に、いい体験になるといいのですが。(二月)
二回にわたって、設備会社の方が、現状の確認に来られました。少しずつ水は出るようになりました。しかし、濁った水で、砂も混じっています。水位も計ろうとしましたが、途中で電極のついた細いケーブルが止まってしまい、下まで降りませんでした。これらのことから判断して、先日の断水の原因は、水位の低下ではなく、どこかで崩落のようなものが起こったか、あるいは、ポンプ自体の経年劣化によるものではないかと考えられるとのことでした。そこで、設備会社にはポンプ交換の見積もりをお願いし、住民のみなさんには、見積書の内容や工事内容を聞くための、臨時総会の開催通知を出しました。
すぐにも見積書は出てきました。しかし、臨時総会を予定している二日前に、設備業者から、この工事から手を引きたいとの申し出がありました。あまりにも突然であり、全く予期していないことでしたので、とても当惑しました。業者の言い分は、井戸のなかがどうなっているかわからず、このまま進めてもポンプを引き上げられなかったり、引き上げられたとしても、今度は新しいポンプを定位置まで入れられなかったりする可能性が高く、住民のみなさんには、ポンプの交換ではなく、新規に井戸を掘ることを提案し、必要であれば、その業者を紹介したいということでした。
臨時総会には、この設備会社の担当者に来ていただき、そうした意向と提案について説明してもらいました。説明を聞いたあと、住民だけでこの問題について検討しました。新規に井戸を掘るには莫大なお金を必要とすることは、いうまでもありません。そもそも、本当に新たに井戸を掘るしか、解決の道はないのでしようか。出席者のどの人の顔も曇っていました。そこで、この別荘地を分譲した会社に問い合わせ、この井戸のこれまでの履歴を詳しく尋ねることにし、その仕事が、定住者である私に任されました。その会社は、隣り村にあり、社長とは私も面識があり、さっそく翌日にうかがうことにしました。(三月)
翌日私は、この別荘地を分譲した会社に行きました。そこでわかったことは、だいたい以下のようなことでした。
(1)分譲を開始したのは三十数年前で、その後一〇数年間、自分たちの会社で井戸の管理をし、自治会の結成時に、井戸の管理業務も、関係書類と一緒に自治会に引き渡した。
(2)モーターの寿命は大体一〇年前後で、自分たちの会社で管理していたときに、一度取り換え工事をした。それから、いま一〇数年が経過していることを考えれば、経年劣化によってモーター自体が停止寸前の状態にある可能性がある。
(3)しかし、汚れた水が出ているということは、井戸のなかの地質に、何らかの異常が発生している可能性がある。熊本地震以来、至る所で、水位が下がったり、水路が変化したり、側壁が崩落したりしている。
(4)経費のことを考えると、まずは、モーターの交換工事を考え、業者の判断で、どうしてもそれが無理のようであれば、次に、新規の井戸掘りについて考えてはどうか。
さっそく私は、聞いた内容をまとめて、住民のみなさんにメールで報告し、あわせて、関係書類の存在の有無を尋ねました。というのも、関係書類が残っていれば、取り換え工事を行なった、かつての業者名や工事の内容(モーターの製造型番や揚水管の長さや地質の様子など)がわかり、これから行なう業者選定や工事の依頼内容にかかわって、役に立つ情報が入手できるのではないかと考えたからです。しかし、残念ながら、そのような書類や資料は、どなたの手にも残されていませんでした。
その間、何とかまだモーターは稼働し、少量の水を汲み上げています。しかし、水質検査の結果、飲料水には適さないことが判明しました。この別荘地に定住して生活しているのは、私だけです。この水の使用はトイレ専用とし、飲み水や調理の水を確保しなければなりません。友人に相談した結果、湧水トンネルで無料の湧き水が提供されていることを知りました。新たに一個の大きなポリタンク(二三リットル)と三個の小さ目のボトル(五リットル)を購入して、さっそく水汲みに行きました。情報どおり、自然の湧き水でおいしいらしく、他県からも車で来て、給水する様子が、見て取れました。こんな身近なところで水を入手できることを本当にありがたく思いました。
こうして日々の給水による生活がはじまりました。本当に止まってしまう前に、何とかモーターの取り換えをしなければなりません。それができなければ、井戸を新しく掘ることも考えなければなりません。大きな問題に直面しました。(三月)
こうして一週間が立ちました。ところが、一番恐れていたことが起こったのです。つまり、モーターが完全にストップしたらしく、水が全く出なくなってしまいました。大きな断水は、神戸の地震のときと熊本の地震のときの二度経験していました。そこで、これまでの体験や知識を総動員して、この事態への対応策を考えました。以下は、それをまとめたものです。
(1)お風呂は、これまでどおりに、瑠璃温泉へ行く。洗濯は、瑠璃温泉のコイン式洗濯機を利用し、乾燥は、いつものコインランドリーへ持って行って乾かす。トイレは、大だけ水洗で流し、小は尿瓶にとって、庭の草木の肥料とする。飲料水は、数日間隔で湧水トンネルに水を汲みに行き、徹底的な節水に努める。
(2)羽釜を洗う回数を減らすために、一度に二日分の二合を炊く。野菜や食材も、二日分まとめて切り、まな板と包丁を洗う回数を減らす。(まとめて準備)
(3)料理は、総菜ごとに小分けにして盛らず、大きめのひとつの皿にまとめて盛り付ける。(まとめて盛り付け)
(4)冷たい料理であれば、皿の上にサランラップを敷いて、その上に盛り付け、食べ終わっても、皿を洗わないですむようにする。また、少々の汚れは、水洗いせずに、紙でふき取る。(汚れ対策)
(5)汁物は、鍋を使って料理をしたあとに、茶わんや丼に移す方法では、洗い物がふたつになるので、できる限り、ひとつの土鍋ですますようにする。(プロセスに簡略化)
(6)ゆで汁などは、すぐ捨てないで、洗い物用に再利用する。(再利用)
(7)必要に応じて、紙のコップや皿、割りばしやプラスチックのスプーンを利用する。(使い捨て)
さあ、いよいよ「水のない生活」がはじまります。どんな生活になるのでしょうか。ただ幸いなことは、これから暖かくなることです。焦っても仕方がありません。できるだけ早く業者を選定して、工事を依頼し、水の出る日を待ちたいと思います。(三月)
二回目の臨時総会が、開かれました。主たる議題は、すでに業者から提供されていた、「ポンプ引揚工事」と「ポンプ据付工事」のふたつの見積書の検討でした。見積書に加えて、事前に行なわれた調査を踏まえて、次のような質問回答書も届けられていました。それによれば、前者の工事については、成功率一四パーセント(七回引き揚げて一回成功)で、五月の連休明けに施工、後者の工事については、成功率はさらに低くなる可能性があり、施工は、「ポンプ引揚工事」終了後の一〇日前後ということでした。
いろんな観点から、論議が進められました。そして、全員一致して得られた結論は、引き揚げ不能の可能性があるものの、それにかけるしかなく、引き揚げが失敗した場合、見積書に挙げられている金額の損失もやむなし、というものでした。もっとも、引き揚げがうまくいったとしても、次の据え付けがうまくゆくという保証は何もありません。しかし、「ポンプ引揚工事」をしないまま、給水が停止した状況をこのまま放置するわけにもいかず、苦渋の決断でした。
少なくとも「ポンプ引揚工事」までは、私の「水のない生活」が続きます。もし、五月にふたつの工事がともに成功しなければ、完全に水が断たれます。不安といえば不安ですが、いまはあまり深刻に考えずに、湧水トンネルへ行きさえすれば、何とか給水ができるわけですので、それを頼りに、「あわてず、あせらず、あきらめず」の自分のモットーを信じて、これからしばらく「水のない生活」と向き合いたいと思います。(三月)
今年は、いつもの年と比べて、暖かくなるのがとても速く感じられます。庭で最初に咲く花はフクジュソウ(福寿草)なのですが、例年ですと二月の終わりに、昨年は二月のなかころに咲き、今年は何と、二月になる前に黄色い花を咲かせました。そのあと、雪が降り、残念ながら、見ごろの期間は短いものになってしまいました。
サクラも今年は早く、三月の中旬を過ぎたころに満開になり、いまはもう葉桜に変わりました。ウッドデッキや庭に落ちている花びらを見ると、今年はその量が少なく、絢爛豪華なサクラを楽しむことも、ほとんどなかったような気がしています。
玄関に上がる階段の右手に、数本のシャクナゲがありますが、もうすでに赤く膨らんだつぼみを幾つも見ることができます。もう数日で開花しそうです。いつもは、四月の末なのですが、シャクナゲの花が開くのも、今年は早まりそうです。
何が原因かはわかりませんが、地球の温暖化や気象の異常と関係があるのかもしれません。いずれにしましても、花の開花日が動きますと、人間の季節感に狂いが生じます。いま私たちの生活は、そうした変動の現象のはじまりに位置しているのかもしれません。(四月)
一四日に笛田の両親を病院に連れてゆき、帰りの道は、いつもの俵山越えではなく、大津町を経由して、一箇月前に開通した新阿蘇大橋をはじめて渡りました。崩落した阿蘇大橋に代わるものです。五年前のこの日が、熊本地震の前震の日で、私は夜が明けると、前日につくっていたてんぷらとポテトサラダをもって、笛田に向けて車を走らせました。それから二日後の一六日に、本震が襲いました。
思い起こすと、幼稚園のときの熊本大水害、そして神戸大学時代の大震災、さらにそれに続く、退職後の熊本での地震と、何度か大きな自然災害と向き合ってきました。身近な人を亡くし、住む家を失った人の思いを考えると、言葉にはならず、手をあわせるしかありません。いま生かされていることを、大事にしたいと思います。(四月)
今日から五月。先日、お隣りの南阿蘇村で感染者が確認されたとの報道がなされました。昨年暮れの高森町の役場職員の感染以来、南郷谷は平穏な状況が続いていたのですが、先日、東京、大阪、京都、兵庫に、緊急事態宣言が出されたこともあり、少しずつ身近に迫ってきている感じがしています。
今年は春の訪れが例年よりも数週間早く、サクラは三月の末に終わり、いつもならばいまころ咲くシャクナゲも、もうとっくに散ってしまいました。いま庭は新緑の季節を迎え、目にも鮮やかな緑を楽しませてくれています。少しでも、変わりゆく季節に耳を澄ませたいと思います。コロナの重苦しい雰囲気とは別に、何かすがすがしい音色が響き伝わってくるかもしれません。
先ほどから雨が降り始めました。雨音を聞きながら、きょうもパソコンに向かっています。執筆も順調に進み、数日前に半分の通過点を過ぎました。人の書いたものを読むことではわからなかったことが、自分の判断と自分らしい表現力でもって実際に言葉として書くことによって、実に幾つものことがはっきりと認識できるようになってきました。こうした「発見」こそが、研究者にとっての最大の喜びであり、いまそれを、改めて実感しています。(五月)
ついに念願かなって、水が出ました。五月一〇日、九時前から水中ポンプの引揚作業がはじまりました。仕事を依頼したボーリング設備会社からは、ここを施工した前の業者の事例からすると、ケーシングが入っておらず、裸孔の状態である可能性が高く、うまく引き揚がる可能性は一割前後ではないだろうかという事前の判断をいただいていましたので、本当に手をあわせて祈るような気持ちで見守りました。ポンプと揚水管をあわせて約六〇〇キロの重さがあると想定して、クレーンで引き揚げてゆきます。しかし、一トンを超えてもびくともしません。徐々に荷重を増してゆきますが、揚水管は動きません。そうした状態が三時間続き、ボーリング設備会社の社長も私も、ほぼ諦め、引揚作業を断念する気持ちへと傾いていました。そこで話し合いの場をもち、最後の手段として、揚水管の破損を覚悟して、さらなる荷重をかけて引っ張ることにしました。破損して破片が飛び散る可能性も考えられるので作業員を遠ざけ、それからクレーンのオペレーターへ二トンまで上げる指示が出されました。動きません。二トン一〇〇、そのときです、わずかに一センチほど動いたようです。そして五センチ揚がりました。状況から判断して数時間前に手配していたさらに大型のクレーンが現場に到着し、クレーンを入れ替えて、さらに徐々に荷重を増してゆきます。揚がりはじめました。一〇メートルほどの揚水管の一本目が揚がり、二本目、三本目と、引揚作業は進みます。しかし、途中動かなくなります。少し荷重をかけては荷重を落とす、その繰り返しをします。また、必要に応じて少しずつ回転させることもやってみます。忍耐を要する、地道な作業です。現場とオペレーターとのあいだで無線を使った微妙なやり取りが続きます。すると、びくともしていなかった揚水管が持ち揚がります。それを何度も繰り返しながら、ついに最後の揚水管と、その先についていた水中ポンプが引き揚がりました。
翌日の一一日、内部の調査のために、孔のなかにカメラが入りました。しかし、途中で止まってしまい、それ以上、下へは入れることができませんでした。おそらくその箇所で孔が横へずれているようです。地震などの地殻の変動が原因なのでしょうが、いつ、どのような力によってそのずれが生じたのかまでは、よくわかりません。しかしこれは、次の揚水管据付作業の困難さを予告する暗雲として、工事関係者と私の胸に、のしかかってきました。加えて、途中までしか確認できないままカメラによる調査を諦めざるを得なかったため、この箇所より下の孔の様子がどうなっているのかも、わかりません。さらに何箇所かにずれが生じている可能性もあります。
五月一五日、総会が開かれました。ボーリング設備会社の社長から、資料に基づき、引揚工事とカメラによる調査についての報告がなされました。話し合いの結果、ここでこのまま引き下がることはできず、据付作業の困難性を十分理解したうえで、望みを託してこの作業にかけてみることになりました。
五月一七日、据付工事がはじまりました。今度は、引揚作業とは逆の手順になります。新しいポンプを先端につけた新しい一本目の揚水管から孔に入れてゆきます。一本、二本と、順調に入りました。しかし、先日カメラが止まったところで、揚水管も止まってしまいました。事前に予想されていた、ずれている箇所に到達したのです。荷重を上げたり下げたり、回したり、微妙な調整が続きます。すると、揚水管が下がり、何とその難所を無事にくぐり抜けたではないですか。みんなの顔が安堵の表情に変わりました。しかし、それより下の孔がどうなっているのかは、カメラで確認できていませんので、不明です。引き揚げたときの感触を頼りに、作業は続きます。そしてついに、一五〇メートルの定位置まで最後の揚水管が入りました。こうして、何とか無事に据付工事か終わりました。しかし、途中でポンプが損傷を受けている可能性もあります。電源を入れるまでは、わかりません。地上での配管と配電の工事がはじまりました。そして、電源のスイッチが入りました。モーターが動き、揚水管を通って、地下の水が上がってきました。関係するすべての人に、耐えて苦しんだ心に光が差し込み、達成したことへの喜びが全身に満ち溢れてきました。
私にとって生命の水が蘇りました。ありがとう!(五月)
今年は、例年より三週間ほど早く梅雨入りしました。これまでの季節感ですと、五月といえば、鯉のぼりが泳ぐ、晴れ渡った青空が目に浮かびますが、今年は、連休が終わるや、もうすでに曇天か雨の日が連日続いています。
私の家は、牧野道の坂道を八〇〇メートルほど上がったところにあります。この牧野道は、もともとは、放牧するための牛をトラックに載せて放牧場まで運ぶためにつくられたものです。しかし、畜産業の衰退とともに、この牧野道も本来の目的を失い、牧野に隣接する別荘の所有者によってのみ利用されるまでに、やせ細ってしまいました。畜産業がそれなりに機能していたころは、この道も、牧野組合の管理下にあり、日々、手入れと管理がなされていました。しかし、牧野組合が消滅してしまうと、道も徐々に管理が行き届かなくなり、至る所で陥没したり、両側面の切り立つ杉林の木が倒れたり、左右ののり面が崩落したりと、何かにつけて、問題を生じさせてきました。この梅雨の季節と、秋の台風の季節が、とても危険な時期で、毎日通るたびに、不安な気持ちにさせられます。
先日、倒木が電線の上にかぶさっているのを見つけました。いつものように電力会社に電話をし、その様子を伝えます。対応は早く、翌日通ったときには、すでに撤去されていました。しかし、こうした倒木を引き起こす激しい雨も、決して悪いことだけではありません。梅雨に入ると、長雨で落ちた葉や小枝が道路を塞ぐことがよくあるのですが、一晩の激しい大雨は、それらを、一斉に坂のたもとまで押し流し、実にうまく清掃をしてくれるのです。これは、とてもありがたいことなのですが、しかしその結果は、少し問題です。といいますのも、これによって坂の下では、大量の土に混ざった葉と枝の山積みが出現し、車の通行を妨害する悪玉と化してしまうからです。一日一時間、二日くらいかけて、スコップを使って両脇ののり面の空きスペースに移動します。水分を含んでいるのでかなり重たく、重労働です。しかし、それが終わってみると、道は美しく蘇り、心もすっきりと晴れ渡ります。この季節、こうしたことが、もうあと一、二回、繰り返されるかもしれません。道も心も、そしてお天気も、すべてが晴れ晴れとなるのは、もう少し時間がかかりそうです。(五月)
以下が、現在の著作集(ウェブサイト「中山修一著作集」)の構成です。頭につけている記号は、■が執筆完了を、❒が一部執筆完了ないしは執筆(撮影)継続中を、そして、□が未着手を表わします。
■著作集1 『デザインの近代史論』 ■著作集2 『ウィリアム・モリス研究』 ■著作集3 『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』 ■著作集4 『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』 ■著作集5 『富本憲吉研究』 □著作集6 『ウィリアム・モリス研究(続編)』 ❐著作集7 『デザイン史再構築の現場』 ■著作集8 『研究断章――日中のデザイン史』 ❐著作集9 『研究余録――富本一枝の人間像』 ❐著作集10『研究追記――記憶・回想・補遺』 ❐著作集11『南阿蘇白雲夢想』 ❐著作集12『南郷谷千里百景』
昨秋から執筆に入ったのは、ウィリアム・モリスの家族についての伝記で、書き終わったら、著作集6『ウィリアム・モリス研究(続編)』に入れることを考えていました。しかし、書き進めてゆくにしたがって、予定していた分量(四百字詰め原稿用に換算して約一、〇〇〇枚)を大きく上回ることが段々とわかってきました。そのことは、著作集6『ウィリアム・モリス研究(続編)』の一巻には収まりきれず、何らかの増巻を考えざるを得ない事態になったことを意味しました。そこで思いついたのが、著作集6『ウィリアム・モリス研究(続編)』は、名称を著作集6『ウィリアム・モリスの家族史』へと改めたうえで本文だけを所収し、他方、結論部分におけるひとつの論考として想定していた「ウィリアム・モリスと富本憲吉の家族の比較」と、巻末に掲載を予定していた「図版集」は、ともにそれぞれ独立させて、新しい巻のなかの一部に収めることでした。その新しい巻が、著作集7『日本のウィリアム・モリス』です。いま、この巻の第二部を「富本憲吉とウィリアム・モリス」とし、第三部を「画像のなかのウィリアム・モリス」とする構想にたどり着いています。そうした構想に端を発して、さらに一種の玉突き現象が引き起りました。つまり、この際に、新たに著作集8『英国デザインの英国性』と著作集14『外輪山春雷秋月』を一気に設けることを思い立ったのです。そうすることで巻数も、以下のように、これまでの全一二巻から全一五巻へと増巻されることになりました。
■著作集1 『デザインの近代史論』 ■著作集2 『ウィリアム・モリス研究』 ■著作集3 『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』 ■著作集4 『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』 ■著作集5 『富本憲吉研究』 ■著作集6 『ウィリアム・モリスの家族史』 ❐著作集7 『日本のウィリアム・モリス』 □著作集8 『英国デザインの英国性』 ❐著作集9 『デザイン史再構築の現場』 ■著作集10『研究断章――日中のデザイン史』 ❐著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』 ❐著作集12『研究追記――記憶・回想・補遺』 ❐著作集13『南阿蘇白雲夢想』 ❒著作集14『外輪山春雷秋月』 ❐著作集15『南郷谷千里百景』
再編の主たる目的は、内容上のバランスです。著作集1、8、9の三巻がデザイン史・デザイン論を扱っています。そして、著作集2、6、7の三巻がウィリアム・モリスに、著作集3、4、5の三巻が富本憲吉に焦点をあてて論じた部分です。一方、その主要研究の周辺に目を向けた雑録三部作が著作集10、11、12で、退職以降に取り組んだ創作部分である阿蘇三部作が著作集13,14、15となります。
自分が書きたいと思っている総量と、元気に書けるであろうと期待している残りの年数とを勘案しながらの、中長期計画となります。すべての巻を脱稿するまでは、何とか健康寿命を保ちたい――これが、いまの私の願いです。(五月)
昨年からのコロナ感染拡大の影響で、県立図書館が閉館していましたが、やっと開館の運びとなりました。入館時に手の消毒をし、体調に関する質問シートに回答して、係員に渡します。二階の一般図書のカウンターへ行きます。職員とのあいだはビニールのシートで遮断され、これまであった椅子も撤去されていたので、立ち話となりました。以前に比べて、落ち着いて話をしたり、相談をしたりする雰囲気は薄れましたが、必要な本を借り出し、文献複写を国立国会図書館へ依頼する手続きをしました。感染が拡大すると、いつまた閉館になるかわからず、いまがかきいれどきなのです。
県立図書館での用事が終わると、次に熊本市立図書館へ向かいました。県立図書館が所蔵していない図書を借りるためです。熊本市立図書館は熊本市民が利用の対象者なのですが、図書館をもたない県内の幾つかの町村と提携して、その町村民も利用が可能となっているのです。私のような図書館のない町に住む者にとりましては、とてもありがたいサーヴィスです。
しかし、さらに欲をいえば、熊本県の至るところに図書の貸し出し中継基地のようなものをつくり、熊本県立、県内の各市立、各町立のすべての図書が垣根を取り外して相互に利用できるようになると、わざわざ熊本市内まで出かけなくてすみ、図書の利用がもっと身近なものになるように思います。そして、さらに将来的には、日本中の、あるいは世界中の本や雑誌がデジタル化され、いつ、どこにいても利用できるのが一番いいと思います。そんな日が来るのでしょうか。そのときは、もはや感染症の発生による図書館閉鎖などは、遠い過去の話になっていることでしょう。(七月)
コロナ感染症のワクチン接種がはじまりました。私も二回目の接種が終わりました。二回とも、筋肉痛のようなものは残りましたが、発熱も倦怠感もなく、心配していた副反応は杞憂となりました。
田舎の町に住む私の場合は、予約もスムーズにいったのですが、熊本市内に住む両親の場合は、電話もつながらず、しばらくすると、予約自体の受付も中断され、なかなか思うように進まず、インターネットでの予約も、私の操作能力では歯が立ちませんでした。そうするうちに、インターネットによる予約に困難を抱えている高齢者のために、幾つかの市の施設において、職員による代行の予約が実施されるという知らせが入りました。さっそく、指定日の指定時間の一時間前に行きました。ところが驚くことに、すでに長い列ができていたのです。聞くとみな、予約の電話がつながらず、パソコンも使い慣れておらず、すがる思いで早起きをして、ここへ来たとのことでした。
やっと順番が来て、両親の予約作業がはじまりました。しかし、近くのかかりつけの病院での接種を希望したのですが、すでに予約が埋まっているとのことで、遠く離れた大型接種会場しか予約が取れませんでした。
帰宅してそのことを知らせると、ともに九〇代の超高齢者である両親は、馴染みのない、大勢が集まる会場に、不安を感じました。ところが、しばらくして、空きができたとの連絡が、かかりつけの病院からあり、いつもの定期健診と同じように私の付き添いのもと、比較的安心して接種を受けることができるところまできました。しかし当日、問題が起きました。接種券に関する一部の書類を母親が失くしていたのです。それでも、何とか接種はしてもらい、必要書類の再発行を市に依頼する手続きを取って、やっと帰宅の途につきました。あとは、副反応が出ないことを願うばかりです。(七月)
コロナ感染症が拡大し、緊急事態宣言が発出されているなか、無観客の状態で、東京オリンピックの開会式が行われました。この間、緊急事態宣言が出されているにもかかわらず、オリンピックの開催を強行する姿勢が疑問視されましたし、一方で、観客を入れないで開催する意味も問われました。
今回のオリンピックは、誰のために、どのような目的をもって開催されるのかが、最後まで語られることなく、うやむやのうちに突入してしまったという感があります。その曖昧さは、開会式の一連のセレモニーにも現われていました。主題や表現や進行に、明確な意味づけがなされておらず、そこから、大会の意義が全世界に向けて発信されたという印象は、ほとんどありませんでした。そう感じたのは、私だけだったのでしょうか。(七月)
いま、著作集6『ウィリアム・モリスの家族史』の執筆が進行中です。第一六章において、モリス没後の日本へのモリスの影響に言及しました。具体的内容は、第一節が「夏目漱石の英国留学とモリス」、第二節が「富本憲吉の英国留学とモリス」です。
書き終わって、少し思いを巡らせてみました。第五高等学校の英語教師としての漱石の前任にラフカディオ・ハーンがいます。そして、後任に厨川白村がいるのです。五高離任後、ハーンは東京帝国大学でモリスの詩歌について講義をしています。漱石は、五高在任中の英国留学において、モリスに深い縁のあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館をしばしば訪れます。また、白村は五高の次の三高時代に、富本憲吉の帰朝報告ともいえる評伝「ウイリアム・モリスの話」に強い感銘を受け、すぐさま『東亜の光』に「詩人としてのヰリアム・モリス」を寄稿するのでした。一方富本は、東京美術学校在籍中に漱石の講演を聞いた可能性があるだけではなく、両者は、英国留学以降、実際に会う機会をもちました。
このように歴史の糸を紡いでゆきますと、ハーン、漱石、白村が第五高等学校に在籍したころ、熊本がモリス研究の中心になっていたのではないかとのひとつの図柄が浮かんできました。こうして、富本憲吉のモリス関心の過程を文脈に使いながら、「ウィリアム・モリスと第五高等学校の英語教師たち」のタイトルのもと、新しい図柄の小論を書き、地元の文化雑誌『KUMAMOTO』の編集をしている友人に送ってみました。するとさっそく電話があり、これを四回に分けて、九月刊行の次号から連載したいとの提案でした。私にとっては、ありがたい申し出であり、すぐに快諾し、四回分の物語へと再構成してみました。連載ですので、それぞれの回の内容にまとまりがあるのはいうまでもなく、それだけではなく、次の回にうまくつながってゆく流れのようなものも大切にしながら、四回分の「ウィリアム・モリスと第五高等学校の英語教師たち――ハーン、漱石、白村のモリスへの関心」がここに完成しました。この雑誌は季刊誌ですので、一年間の連載になります。はじめての経験に胸が高鳴っています。(七月)
父は、来月九月の誕生日で九八歳になり、母は六月に九四歳になったところです。七月末に母が入院しました。父親との介護生活の疲れが出たようです。食事が進まず、体力が落ちたことによるもので、とくに大きな病気というわけではありません。過去にも、こうした経緯での入退院が何度かありましたので、とくに心配はなさそうです。しかし、コロナの感染拡大を受けて、病院は面会禁止の対応を取っています。顔をあわせることはなく、電話での連絡のみです。入院開始の数日は、身の回りの品で、届けなければならないものも多く、その場合は、玄関受付で担当の看護師さんをお呼びし、病室に持って行ってもらうことになります。
かかりつけの病院でもあり、こちらの家庭の事情もよくご存じで、何かと便宜を図ってもらえることが、ありがたいです。母が入院すると、さっそく病院から連絡があり、父親も一緒に入院する対応を取りましょうか、という親切な提案がありました。過去にも何度かそうしたことがありました。ふたりが同じ病院に入院すると、家族はとても安心で、助かります。しかし、父親は極度の病院嫌いで、食べ物も好みがはっきりしていて、もし父親が入院すれば、体力が弱るだけではなく、認知症もさらに悪化するのではと危惧しました。それに、面会もできません。そこで、病院からの提案は、とりあえずお断わりし、しばらくのあいだ様子を見ながら、父親と一緒に生活することにしました。(八月)
父親との生活がはじまりました。健康を維持してゆくうえで基本となるのは、食事とお風呂と睡眠です。
これまで買い物は、私も代行していましたし、おおよそのことは母親から聞いていましたので、父親がどのような食事を摂っているのか、想像がついていました。しかし、実際やってみると、試行錯誤することが多くありました。一例ですが、最初は、見栄えがいいようにと、ひとつの大きめのお皿に数品目を並べて出していましたが、見ていると、料理から口元までの距離が長く、運ぶのが大変そうでした。そこで、小さなお皿に一品ずつ入れて、テーブルに並べ、お皿を手にもたせるようにしてみました。そうすると、お皿を口元まで近づけて食べるようになり、しだいに、自分から、好きな食べ物の入ったお皿を手に取るようになりました。この方が、本人にとって食べやすく、楽しかったようです。
父親の食事は、おおかた次のようなものの組み合わせによって成り立っています。バナナ、自家製水ようかん、刺身(まぐろかサーモン)、それに卵焼きは、どれも小さく切り刻んで、それぞれ小さいお皿に盛ります。これらは本人が好む必須のアイテムです。ご飯は、やわらかいおかゆで、大さじに二杯くらい。かば焼きのタレや梅干しの漬け汁などで味をつけます。あとは、豆腐やプリンやヨーグルトなどの、飲み込みに負担がかからないもの。飲み物としては、メイバランス、ヤクルト、リンゴジュース、カルピス、牛乳、甘酒、それにお茶が、日常の飲料水となります。ほとんどの場合、とろみをつけます。
野菜は、昔からほとんど口にすることはありませんでした。それでは栄養が不足するのではないかと思いがちですが、この年齢まで長生きしていることを考えると、人間にとって必須というわけではないのかもしれません。一方、甘いものには、若いときから目がありませんでした。いまも、水ようかんを毎日食します。それでも、血糖値に問題はありません。不思議な現象です。
食事の提供者である私は、栄養のことをあまりに考えすぎたり、決められた分量のようなものに囚われて無理強いしたりするようなことはせず、本人が好むものを、好きなだけ食べて満足感を得る、そのことに、一番力点を置いています。(八月)
現在、母が入院しています病院から、週三回、父のリハビリのために自宅に来てもらっています。作業療法や言語療法などを組み合わせた、父の状態にあわせたメニューが組み立てられているようです。
いつもの最初の問いかけは、今日は何月何日ですか、という質問です。しかし、父は、正確に答えられません。すると、担当の方は、カレンダーを指さして教えます。場合によっては、そこにボールペンで丸をつけるように指示されることもあります。
用意した食べ物や果物などの絵を見せて、名前を答えさせたり、また、紙に書かれた文字や単語や短い文章を読ませたりすることもありますし、その日の新聞の大きめの見出しを読むように指示を出されることもあります。ここから、少し時事問題や世の中の動きにかかわって、いまであれば、コロナのことやオリンピックのことなどにかかわって、会話へと持ち込もうとします。
また、父親に関連する古い写真を使って「これがどの場面か」という問いからからはじまり、父親の小さいころの生活体験を過去の記憶から蘇らせる手法も、しばしば使われます。現在の事象の話題よりも、過去の記憶の蘇りの方が、父親にとっては楽しいようです。そうした一連の流れのあと、手足の動きを円滑にするリハビリのための簡単な運動がはじまります。父親は、食べ物を飲み込む力が衰えているらしく、そのために、喉の筋肉に刺激を与えたり、舌の動きを加速させたりする運動もします。こうして、四〇分のリハビリの時間が過ぎてゆきます。
お風呂は、訪問介護によって、週三回行なわれます。父は、お風呂自体はとても好きなのですが、時として気が乗らないことがあり、風呂場まで行こうとしません。そんなときは、困った顔をすることもなく、うまくヘルパーさんが、時間をかけて父と会話をしながら、その気に導いていかれます。そばで見ていて、これこそ本当にプロの技だと、感心します。
リハビリにしても、入浴にしても、自宅で行なうことが最近急速に充実しているように感じます。これに加えて、食事の宅配や訪問診療も進んでいます。そうしたことを考えるならば、家の空間構成と動線というものは、老後の二〇年や三〇年を視野に入れてデザインされなければならないように感じるようになりました。その際、介護される本人の快適さのほうにどうしても目が行きがちですが、むしろ、終日介護をする人の快適さはいうまでもなく、加えて、定期的に訪問していただく療法士、ヘルパー、看護師、医師、そうした人たちの快適さのほうにもまた、将来的には、優先して目を向けなければならないことになるのではないかと、自分がその立場に立ったいま、そういう思いを実感しています。(八月)
日常的に生活していると、父の認知症が進行していることが、よくわかります。しかし、今回の生活で新たに驚いたのは、起きているあいだ中、奇声音を発することでした。たとえば、「チャッチャッチャッ、チャッチャッチャッ、チャッチャッチャッ、チャ~」とか、「ポッポッポ~、ポッポッポ~、ポ~」とかの幾通りもの奇声音のフレーズをリズミカルに絶え間なく口にするのです。テレビを見ながらも、食事をしながらも、トイレまで歩きながらも、絶えることはありません。話しかけて、関心をそらそうとしますが、止むことはありません。本人は全く自覚なく、発声しているようです。
寝る前には、処方された睡眠導入剤を飲むのですが、効き目がない夜は、ベッドのなかでこの奇声音が休むことなく永遠に続いてゆき、夜中の一二時、さらには夜明け方にまで及ぶことがあります。隣りの部屋で寝ている私の耳にも十分伝わり、睡眠がとれません。そこで、主治医の先生に相談してみました。この症状は、内科的疾患というよりも、精神科的なもののようで、「コントミン糖衣錠」という薬を処方してもらいました。この薬は、神経を調節し、心の不調を整え、不安や緊張を和らげる効能があるようです。
さっそく一日三食後の服用を開始しました。すると、確かに効果が現われました。昼間の奇声音が連続的なものから断続的なものへと変わり、音量も低く弱くなりました。夜も、睡眠状態が長く続き、私の睡眠の妨げになることがほとんどなくなりました。
服用から一週間後に、その効果や父親の様子を報告するために、私だけの次の外来受診が予定されています。おそらく、この薬の効果が適切であると判断されれば、母親の介護もかなり楽なものになり、退院後も、これまでどおり、ふたりでの生活が可能になるのではないかと、思っているところです。(八月)
精神安定剤の服用から一週間が立ち、予約されていた時間に病院へ行き、この間の父の様子を主治医の先生に報告しました。先生も、大変喜んでおられました。そして、これまでの四週間おきの外来診療から、訪問診療への切り替えの提案も受けました。
こうして、家庭における受け入れ態勢が整いました。同時に、母親の体調も回復し、退院への運びとなりました。ちょうど三週間の入院でした。これで、私と父との生活も、ひとまず終了です。
父親は、自宅での晩期を強く希望する人で、母親は、夫に寄り添い世話をすることを自らの使命と考える人です。精神安定剤の服用のおかげで父親の夜の睡眠が安定化し、加えて訪問診療の開始により、母親の負担もこれまでに比べればずいぶんと軽減するものと考えられます。しかし、母親も高齢ですので、また再び体調を崩して入院の事態になるかもしれません。おそらく今後は、入退院の繰り返しになることが十分に予想されます。その場合は、父との生活が復活します。それまで私も、山での生活を再開し、これまでどおり、ウォーキングと温泉を日課とし、健康の維持に努めたいと考えています。(八月)
一九八七年から翌年にかけて、ブリティッシュ・カウンシルのフェローとして私は英国に滞在し、英国デザインの歴史について調査をする機会をもちました。そのとき、十数名の著名なデザイン史家にインタヴィューを試みました。この時期は、モダニズムが終焉し、それに伴い、デザイン史の記述方法も大きく変わろうとしていたときでした。そうしたこの学問にとっての転換期に際してのインタヴィューですので、資料的価値は高く、今後書く予定の著作集9『デザイン史再構築の現場』の第二部「英国のデザイン史学誕生前夜」の参考資料に掲載しておきたいと考え、とりあえず、ジリアン・ネイラー、ジョン・ヘスケット、そしてペニー・スパークへのインタヴィューのテープ起こしを依頼し、その成果物の一部が先日届きました。見ると、当時のことがふつふつと蘇り、三十数年前の自分に出会ったような気になりました。また、内容的にも、記憶から遠ざかっていた事象が再現されており、再びいま新鮮な知識と出会う機会となりました。今回の成果物は、ペニーのものでしたが、今後ジリアンとジョンのテープ起こしがもどってくるのを、いまから楽しみにいているところです。(八月)
ウェブサイト「中山修一著作集」を、現在の全一二巻から全一五巻に衣替えする作業を進めています。新しい全一五巻の構成は、以下のとおりです。
著作集1 『デザインの近代史論』 著作集2 『ウィリアム・モリス研究』 著作集3 『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』 著作集4 『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』 著作集5 『富本憲吉研究』 著作集6 『ウィリアム・モリスの家族史』 著作集7 『日本のウィリアム・モリス』 著作集8 『英国デザインの英国性』 著作集9 『デザイン史再構築の現場』 著作集10『研究断章――日中のデザイン史』 著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』 著作集12『研究追記――記憶・回想・補遺』 著作集13『南阿蘇白雲夢想』 著作集14『外輪山春雷秋月』 著作集15『南郷谷千里百景』
必ずしも最初から意図したわけではなかったのですが、結果的に、この一五巻を見渡してみますと、五つの主題による分類が可能であることが判明しました。それは、「デザイン史・デザイン論」(著作集1、8、9)、「ウィリアム・モリス研究」(著作集2、6、7)、「富本憲吉研究」(著作集3、4、5)、「周縁領域探索」(著作集10,11,12)、「阿蘇創作三部作」(著作集13,14,15)の五領域です。そこで思いついたのが、「主題別著述総覧」を設けることでした。ウェブサイト「中山修一著作集」を訪問する人で、もし私のモリス研究に関心をもっている人であれば、その部分だけを閲覧したいと思うのではないでしょうか。それであれば、全著作を研究テーマごとに分類した一覧を設定しておけば、そうした便益にかなうのではないかと判断いたしました。そこで、今回の再編に伴いまして、別巻『主題別著述総覧』を加えることにしました。更新アップロードは、九月末か一〇月のはじめを予定しています。この全一五巻+別巻をもって、私の著作集の最終的な巻の構成となる見込みです。あとは、「未完」になっている部分の執筆に専念し、全巻を脱稿することです。八〇歳になるまでには完結すべく、精進したいと考えています。(八月)
締め切り日が来ましたので、拙稿「ウィリアム・モリスと第五高等学校――ハーン、漱石、白村のモリスへの関心(1)」を文化雑誌『KUMAMOTO』の編集者へメールに添付して送信しました。そして、その際の添付には、熊本大学五高記念館から提供を受けた、第五高等学校の新築校舎の図版に加えて、ラフカディオ・ハーン、夏目漱石、厨川白村に関する図版の計四点が付けられていました。その校正紙が、先日届きました。しかし驚いたことに、図版の位置は変えられ、しかも白村の図版は削除されていました。理由は何も書かれてありませんでした。原稿の取り下げも覚悟で、その異常さにつきまして返信を書きますと、すぐにも、謝罪の言葉とともに、図版のレイアウトを修正した次の校正紙が送られてきました。これにも、私は驚きました。ハーンを含む群像の写真が、あまりにも小さく縮小され、本人を特定することができない図版となっていたのです。なぜ、説明もなく一方的に、本文で指示している図版の位置を別の位置へと移動したり、一部の図版を削除したり、あるいは、図版としての意味をなさなくなる程までに縮小したりするのか、私にはかいもく見当がつかず、こうした乱暴な対応に私自身耐えきれず、結果として、今回の寄稿を諦めることにしました。
編集者には、テクストの著作権は私に、また、画像の著作権については熊本大学五高記念館に属するので、ただちにこの時点で、流用や転用を避けるために、そのすべてを破棄するように求め、そのようにした旨の返事を受け取りました。その後私は、写真の提供を受けていた熊本大学五高記念館の担当者にこの間の経緯を説明し、謝罪するメールを書きました。
なぜ、このような理不尽とも思える事態が発生したのでしょうか。今回の担当者は、私にとってはじめての編集者でした。執筆者にも説明できないような深刻な事情が編集者にあったものと推測するしかありませんが、無言のまま自分だけの都合で強行する行為には、何もいい結果は伴いません。残念な結末となってしまいました。この原稿は、今後、私のウェブサイトの著作集に掲載したいと思います。(八月)
ウェブサイト「中山修一著作集」を、これまでの全一二巻から全一五巻+別巻に再編して、アップロードしました。このウェブサイトを開設したのは、神戸大学を定年で退職した翌年(二〇一四年)の暮れのことで、著作集1『デザインの近代史論』、著作集2『富本憲吉とウィリアム・モリス』、別巻1『博士論文』、別巻2『詩歌集』の本巻二巻別巻二巻の全四巻で構成されていました。別巻2『詩歌集』以外は、神戸大学に在職していた期間に執筆した研究論文によって構成されていました。
思い起こせば、ちょうどこのころから神戸を離れ、山での生活の準備がはじまりました。山荘を少し増築し、庭を手入れし、車も購入しました。これでやっと定年後の執筆活動が始動できると希望に満ちた時期でした。しかし、二〇一六年の四月に、熊本を大きな地震が襲いました。翌五月には、心筋梗塞が私を襲いました。その後の半年間は、体力も気力も失われ、もう二度と文を書くことはできないのではないかと思う日々でした。どうにか机に向かい、パソコンのキーボードをたたくことができるようになったのは、その年が押し迫った紅葉が過ぎたころからでした。定年の前年の二〇一二年の夏にがんに侵された前立腺をすべて摘出する手術をしており、文章をつくるのはおよそ五年ぶりのことでした。満足に書けるのか、とても不安でした。
それから五年の歳月が流れ、執筆量も順調に伸びてゆきました。そして、主題も、より明確になってきました。今回アップロードした全一五巻は、三巻ずつ五つの主題に分けることができます。それは、「デザイン史・デザイン論」「ウィリアム・モリス研究」「富本憲吉研究」「周縁領域探索」「阿蘇創作三部作」の五領域です。一五巻すべてが完結するには、まだ時間がかかります。健康を保ち、全巻完結まで精進したいと、決意を新たにしているところです。(一〇月)
先日、阿蘇中岳が噴火しました。活火山ですので、日常的に噴火しているのですが、今回のような大きな噴火は、一年数箇月ぶりでした。庭やウッドデッキ、車や家の前の道、すべてが火山灰で覆われました。灰といっても、木や紙を燃やしたあとに残るような灰ではなく、溶岩の小さな粒子です。とても厄介なのは、簡単に水で洗い流すことができず、そうすれば、どろどろの粘り気のある液状の物質に変わってしまうことです。それでもウッドデッキなどは、洗うしか方法はなく、これまでに何度かそうしているのですが、洗っても洗っても、灰色の粒子は残り、いまだに完全に除去できずにいます。
前回の噴火は、一年以上続いたように記憶しています。しかし今回は、まだ連続した噴火にはなっていません。予報は、同規模の噴火が近日中に起こる可能性を示唆しています。毎日不安のなかで、視線は、阿蘇中岳に向かいます。白い噴煙は確認できますが、大規模な噴火までには至っていません。一過性のものであってほしいと願うばかりです。
朝起きて、雨戸を開けると、いまだ雨で流されず、風で吹き飛ばされず、火山灰がそのままこびりついた庭の木や葉が目に飛び込んできます。同様に落ち葉も、灰色のまだら模様の世界です。気が沈みます。活力を奪われます。いつになったら、生き生きとした自然の姿にもどるのでしょうか。今年の紅葉は、楽しめそうにありません。悲しくなります。しかし、これも、もうひとつの自然なのかもしれません。(一〇月)
入院中の父親が終末期のケアに入って、一箇月になろうとしています。酸素吸入と点滴による水分の補給が、主なケアの内容です。母親も心身の疲労で、父親と一緒に同じ病院に入院しましたが、いまはずいぶん回復しています。しかし、病院の計らいで、退院はせず、父親と廊下を挟んだ反対側の病室にいて、できる限り父親と時間をともにしています。
ふたりが入院した当初からしばらくは、コロナ感染症拡大の影響を受けて、入院見舞いは完全に禁止されていました。それが先日やっと解除となり、平日の二時から五時までのあいだの一五分間、一家族一名の事前予約制で、面会ができるようになりました。
九八歳の父親の最期が近づいてきています。これまでに、四人の孫からの手紙や写真が届き、繰り返し母親や看護師さんが読み聞かせをしています。昨日私が面会に行くと、目を少し開け、何かを話そうとしますが、はっきりとは聞き取れない状態になっていました。手を握り、安心できるように、話しかけます。一五分が過ぎるころ、看護師さんがやって来て、合図をされます。別れ際に手を振ると、手を振って応えてくれました。(一一月)
父親と母親がそろって近くのかかりつけの病院に入院したのは、九月の中旬でした。父親は認知症が進むとともに軽い肺炎を併発し、母親は介護に伴う心身の疲労が重なっていました。この後父親の肺炎は回復したものの、退院後の自宅での生活は望めず、そのまま入院を続け、主治医の先生の考えもあり、しばらくして、いよいよ終末期のケアに入りました。一方、母親の容体は医療のおかげである程度回復したものの、病院の計らいで、すぐには退院せず、父親と過ごす時間を日々少しでも長く確保するために、それ以降も入院生活が続いていました。しかし、母親の場合は、入院の最長期間が二箇月という制限があるらしく、加えて、コロナウイルス感染症の拡大が下火となり、面会禁止が緩和されたこともあって、退院することになりました。こうして父親は入院生活を続行する一方で、母親の自宅での自立した生活がはじまったのでした。
この間、父親の病室には四人の孫から手紙と写真が届きました。また、本人の生まれ故郷の風景を撮った写真も枕元に置かれ、看護師さんや見舞客の誰かれとなく、それらを読んで聞かせたり、見せたりしながら、父親を楽しませてくれています。先日行きましたら、病室が変わっていました。この病室のベッドからは、窓を通して金峰山が目に入ってきます。この山へは、私が小さいころよく家族で登ったことがあり、熊本市内の西のシンボルとなっている山です。父の目には、この山はどのように映っているのでしょうか。言葉で自分の気持ちを語ることはもはやほとんどなくなりましたが、走馬灯にように、過ぎ去った日々が蘇っているにちがいありません。(一二月)
毎日通っている瑠璃温泉には、宿泊施設とレストランが併設されています。かつてまだ子どもたちが小さいころ、彼らの祖父母もさそって、何度か宿泊したことがありました。一方レストランは、その後も温泉での入浴のあと、ときどき立ち寄っていました。しかし、それらの施設が、休業に追い込まれました。それを聞いて、最終日の一日前、レストランへ行って、いつものお気に入りの「ちゃんぽん」を食べました。
休業に至った理由は、外部の私たちは知る由もないのですが、おそらくは、コロナ感染症の拡大による顧客の減少が、その最大の理由になっているものと思われます。また、聞くところによると、五年前の熊本地震からの復興に伴う公的助成金が打ち切られたことも、引き金になったようです。地震といい、感染症といい、自分たちの力ではいかんともしがたい苦しみの災難が、さらに二次的に人間の生活に襲いかかって経営を圧迫し、その継続を奪うことになったとすれば、単に休業がさびしいという情緒的な思いを超えて、何か計り知れない空虚さのようなものを感じます。「空」や「虚」といった感覚が、避けて通ることのできないものとして、いつも人間の生活を支配している――逆らうことなく、それを受け入れなければならない――これが現実なのでしょうか。そのために、涙と詩は生まれたのでしょうか。(一二月)
いつも私は、開館の一時間くらい前に瑠璃温泉に行きます。駐車場に車を止め、約三〇分間、温泉敷地の周りを歩きます。それから宿泊棟へ行き、そこの受付に備えてある新聞を、温泉が開く時間まで見るのが日課となっていました。昨日も行ってみました。しかし新聞は、前日のものがそのまま置いてありました。宿泊施設とレストランが休業になったことに伴う措置にちがいないという思いがよぎりました。
もうこれから新聞を読む機会がなくなるかと思うと、情報の入手先が途切れた、無重力の空間に放り出されたような思いがしました。しかし、よくよく考えてみると、もともと山暮らしをはじめた理由のひとつには、世俗という身につけてしまった営みから離れることにあったわけですので、その考えに立ち戻れば、世の動きを日々いちいち確認する必要はなく、それが失われたからといって、とりたてて驚くことはないのです。
しかし、落ち着いていま振り返ってみると、新聞の閲覧には、別の意味が隠されていたのでした。新聞が置いてある宿泊棟の受付に毎朝行くと、当然ながら、受付の人とあいさつを交わし、何か大きな出来事があった翌日などは、それをさかなに会話を楽しんでいました。また、ベンチに腰掛けて新聞を読んでいるあいだも、受付の隣りが事務室であることもあり、従業員の人たちの出入りも頻繁で、その都度お互いに声を掛け合っていました。こうした人と人の交流は、いま思い返すと、新聞の閲覧の同じくらいに、あるいはそれ以上に、私にとって重要な意味をもっており、いまそのことに気づかされたのです。新聞からの情報は、スマホからでも入手できます。しかし、人と人が交わす言葉や表情は、対面以外に取って代わる手段はありません。私は、それを失ったのでした。(一二月)
一二月一三日へと日付が変わってしばらく時間が立った深夜、電話が鳴り、病院からの知らせを受けました。ここから入院している病院まで車で一時間一五分くらいかかります。取り急ぎ身支度をして、車を飛ばしました。着くと、当夜の宿直の医師の看護師のおふたりが待っていらっしゃいました。その時点で死亡が確認され、そのことを私に告げられました。そのあとふたりは席を外されました。手を握りしめ、涙が込み上げてきました。これで、父親の九八年にわたる生涯が幕を閉じました。妹に連絡をし、近くに住む母親を迎えに行きました。みんなで父親を病院から自宅へ連れて帰るころには、少し夜が明けようとしていました。(一二月)