中山修一著作集

著作集13 南阿蘇白雲夢想

第二部 南阿蘇の庵にて(日誌集)

第五編 二〇二〇(令和二)年――六回目の年男

一.研究上の祖先との対面(年賀状)

謹んで新春の御祝詞を申し上げます

昨年末に、著作集5『富本憲吉・富本一枝研究』を脱稿しました。準備が整い次第、ウェブサイト「中山修一著作集」にアップロードしたいと考えています。この巻は、第一部「富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」と第二部「富本憲吉という生き方――モダニストとしての思想を宿す」から構成されていますが、とりわけ第二部には、私の特別な思いが込められています。のちに陶芸家として大成する富本憲吉は、明治末年にウィリアム・モリスの思想と実践に関心を抱き英国に留学した最初の日本人で、帰朝後「ウイリアム・モリスの話」を『美術新報』に寄稿します。私のこれまでのささやかなモリス研究にとりまして、まさしく富本憲吉は大先達であり、この巻を書き終えたことによって、やっといま、自分の研究上の系譜の祖先に対面したような気持ちになっています。これが、この巻へ寄せる「私の特別な思い」です。今年、私にとって六回目の年男が巡ってきました。次の年男まで、何とか気力と体力を維持し、執筆が続くことを願っています。

穏やかなお正月をお迎えのことと思います。

本年のご多幸とご健康を心よりお祈り申し上げます。

二〇二〇年 元旦

二.納骨堂の購入

昨年末に、 蓮政寺 れんしょうじ の納骨堂を購入しました。このお寺は、一六世紀末創建の母方神吉家の先祖代々の菩提寺です。私は小さいころ、上通を出たところの上林町にある信愛幼稚園という幼稚園に通っていて、しばしば、迎えにきた母親に連れられてこのお寺に行き、木戸を通って水を汲み、お墓の前で手をあわせたことを記憶しています。私が四歳のころに、区画整理に伴い、鶴屋百貨店ができました。それまでは、このあたりの土地も蓮政寺の敷地だったようです。区画整理後、神吉家のお墓を含め蓮政寺のお墓は、熊大の裏手にある立田山の小峰墓地に移され、その後は、こちらにお参りに行くようになりました。しかし、お寺はいまの地に残り、その後建物内に納骨堂が設置されてゆきました。このお寺の宗派は日蓮宗ですが、他の宗派の信者にも門戸を広げ、仏教だけではなくキリスト教の信者の霊骨も、納められているとのことでした。購入に先立って、神吉家の供養のお経をあげていただきました。私もそれまでに何回か入ったことがありましたが、お経を唱える本堂は実に立派です。このときご住職とお話ができ、私の高校の大先輩であることもわかりました。

中山家の先祖から続くお墓は、宇土市にある浄土真宗の善行寺というお寺の境内にあります。しかし、父親は末っ子でもあり、残された子どもや孫たちにとっては、遠く離れたこの地ではお参りするのに何かと不便だろうということもあって、宗派は違いますが、これまでに関係の深かった蓮政寺に自分たちの遺骨を預けることを決意しました。そのようなわけで、購入した納骨堂には、まず笛田の両親が入り、次に私が入ることになります。私がこの納骨堂を買おう思ったのは、両親や私自身のためだけではなく、子どもたちのことも考えてのことでした。もっとも、時代とともにお墓に関する考えも生死観も変わるでしょう。したがって、将来的にここに納骨するかどうかは、それぞれのそのときの状況によるものと思います。最終的にそのときがきたとき、離れて遠くに住む子どもたちがどのように考えるかは私にはわかりませんが、しかし父親として、選択肢だけはしっかりと残しておきたいと思いました。(一月)

三.親子二代のデザイン思想の受け渡し

かつて私は、国立高岡短期大学(現在の富山大学芸術文化学部)で、毎年「デザイン史」の集中講義を受け持っていた時期がありました。そのとき多くの先生方と親しくなり、それ以来いまも何人かの先生と音信が続いているのですが、そのなかに金沢美術工芸大学での柳宗理先生の教え子であった方がいらっしゃいます。先日その先生からメールをいただきました。そこには、島根県立美術館で「柳宗理デザイン――美と対話」展が開催されるにあたり、そのカタログに「とても四六歳には見えない黒い髪の一流デザイナー柳宗理、日本からカッセルへ」と題した一文を、最近寄稿したことが書かれてありました。そしてまた、内容的には、一九六〇年から六一年にかけてドイツのカッセルの大学で教鞭をとられた柳宗理先生の足跡をたどるもので、そのときの招聘の経緯や授業内容、さらには本人主催による「JAPAN FORM」展などについて多く触れているとのことでした。

数年前に私は、直接ご本人から、一年間カッセルに滞在し、当時の同僚の先生方や教え子たちを訪ねては面会し、半世紀以上前の恩師の滞在の様子について丹念に調査をしたというお話を聞いていました。おそらく図録へのこの寄稿文も、そのときの調査に基づいた、優れて実証的な「恩師柳宗理研究」なっているものと思われます。ちょうだいしたメールには、「これを機に資料を再読しましたが、まだまだ足りないことが多く、なんとかもう一度と思っていますが、何しろ知力、気力、体力、そして資力も足りません。でも、今年はもう一度精度を上げるべくがんばろうと思っています」との、さらなる研究への瑞々しい決意が添えられていました。

承知のように、柳宗理さんは、民芸を唱導した柳宗悦さんを父にもつ戦後の日本を代表するインダストリアル・デザイナーのひとりです。戦前戦後の日本のデザイン運動を見てみますと、親子二代にわたって引き継がれて展開された事象が散見されます。たとえば、柳宗悦・柳宗理の例だけではなく、田中後次・前田泰次や豊口克平・豊口協などがそうした事例となります。親子というふたつの世代のあいだで、どのようなデザイン思想上の共感や葛藤、反駁があったのでしょうか。伝統的か刷新的か、土着性か国際性か、手か機械か――論点に興味は尽きません。しかしながら、かなり前からそうしたテーマで書いてみたいと思いながらも、なかなかそこまでたどり着けないのが、いまの私です。いつかそのときが本当に来たら、このたびお知らせを受けた図録掲載の論文「とても四六歳には見えない黒い髪の一流デザイナー柳宗理、日本からカッセルへ」は、間違いなく一級の資料になることと思います。楽しみです。(一月)

四.新型コロナウイルスへの対応

新型のコロナウイルスの感染拡大に多くの関心が集まっています。過剰なまでに心配したり、心ないデマに惑わされたりすることはあってはなりませんが、合理的で適切な自己管理は必要なように思います。インフルエンザやかぜが流行する例年のこの時期の健康管理と基本的に変わりはないのですが、今年は、それを少し強く自覚して、励行しています。具体的内容は、以下のようなことです。

・外出するときは、マスクと手袋を着用する。せきやくしゃみをしている人との濃厚接触はしない。不要不急の遠出や旅行は避ける。

・帰宅したら、うがいと手洗いを十分に行なう。

・免疫力や体力を低下させないために、良質な食事と睡眠に心がけ、清潔な服や下着を着用し、体温の保持に気を配る。

何といっても、健康が第一です。自分でできることは、意識的に毎日実行しています。

ところでこれまでは、雪も降らず、不気味なほどの暖冬でしたが、今日からの一週間の予報によりますと、氷点下の最低気温が続くようです。冬がもどってくるのでしょうか。昨日、庭の水道の養生をしました。一方で、中岳の噴火もいまだ続いており、火山灰に苦しめられています。昨日洗車した車が、今朝見ると、黒い火山灰で覆われていました。

冬の寒さの再来、止むことのない降灰、加えて新型コロナウイルスの発生――生活環境がどうもよくありません。(二月)

五.火山灰に悩まされる

日々、火山灰に悩まされています。阿蘇中岳で大きな噴火があったのは、昨年の四月だったでしょうか。それ以来、噴火活動が持続しています。秋ころまでは、おおかた南からの風に乗って、北側のカルデラである阿蘇谷(阿蘇市など)へと火山灰が流れていました。しかし昨年の一一月あたりから、風向きが変わり、西風や北風になりました。その結果、火山灰は、私たちの住む南郷谷(南阿蘇村や高森町など)へ降るようになりました。火山灰は、灰といっても紙や木片を燃やしたときにできる灰とは異なり、岩石を砕いた微細な粉状のものです。中岳火口から噴き出した真っ黒い煙(火山灰)は、家の屋根、庭、ウッドデッキ、車だけではなく、田畑や森林にも等しく降り注ぎます。こうして、空や大気、大地や山の色を変えてゆきます。

地元の人は、この灰のことを「よな」と呼びます。年が明けたころから、「よな」が一段と激しくなってきました。窓を閉め切っていても、「よな」が部屋のなかへ入ってきます。道路に積もった「よな」は、中央分離帯の白線さえも見えなくし、車は「よな」を巻き上げながら走ります。雨が降ると、積み重なった「よな」は、コールタールのような、黒い泥上の粘着質に化してゆきます。そのようなわけで、マスクは欠かせませんし、気象庁の降灰予報も、欠かさず毎日チェックします。

いま私の家の庭も、そして車も、風向きにもよりますが、また日によって量も異なりますが、ほぼ毎日のように降灰に苦しめられています。庭の水道水(地下水を汲み上げた井戸水)を使って洗い流しても、結局はいたちごっこです。疲れも出ますし、ストレスも溜まります。そんななか、数株の福寿草が花を咲かせました。玄関へ上がる階段横のいつもと同じ場所です。しかし今年は、暖冬のせいでしょうか、二週間ほど早い開花です。名前のとおり、すさんだ心に「福寿」をもたらしてくれました。ありがたい限りです。そうするうちに、また灰が降り、黄色の花が、灰色に変わってしまいました。これには、もう言葉がありませんでした。(二月)

六.著作集のプロデュース

定年退職時に考えたことは、研究(論文の執筆)の続行でした。神戸大学に在職したのは、ちょうど三九年間で、この間の大学教員としての職務は、研究、教育、組織運営がその大きな三本柱となっていました。ということは、単純に計算すれば、三九年間の在職期間中に研究にあてた時間は、実質一三年ということになります。そこで、定年退職後の一三年間の生活を研究主体の生活へと組み替えることができるならば、明らかに定年という区切りは、研究者としての人生の折り返し地点ということになるはずです。つまり、これからの一三年間で、現役時代の研究の総量と同量の研究ができることがわかってきたのです。定年のときが六四歳でしたので、ゴールは一三年後の七七歳です。こうした目算のもと定年後の執筆活動がはじまりました。

問題は、次の二点でした。ひとつは、何について書くのか。もうひとつは、研究成果の発表の場をどう確保するのか。前者については、専門分野である「デザイン史」にかかわる内容であることはいうまでもありませんが、具体的には焦点が定まらず、とりあえず、現役時代に書きかけていた「富本憲吉と一枝の近代の家族」の後編から着手することにし、その擱筆後に、それ以降の内容は検討しようと考えました。後者については、せっかく自由気ままな田舎暮らしをはじめた以上は、現役時代に慣例となっていた、原稿の分量や執筆の締め切りなどの制約のなかでの学会や大学内の研究紀要への投稿、そのようなことからは距離を置き、神戸大学のサーバーにウェブサイト「中山修一著作集」を設け、そこにできあがった原稿を適宜アップロードしてゆき、研究成果を一般公開しようと考えました。このふたつの問題は、結局のところ、中山修一というひとりの研究者の研究上の地政学的全体像(つまり自画像)をあらかじめつくっておき、その空白部分を一つひとつ埋めてゆき、それを公開しながら、最終的に完結させるという手法にかかわる問題にほかなりません。イメージ的には、この手法は、ジグソーパズルの絵柄をはじめに描き、すでに手もとにある既存のピースを置いてゆき、その後、残りの空白部分に当てはまるピースをつくっては埋め込んでゆく、インスタレイション的でパフォーミング的な作業に近いといえるかもしれません。しかし、残りの空白部分を埋めるにふさわしいピースが、ちょうど見合った色とサイズの部品として、うまく立ち現われてくれるかといえば、必ずしもそうとは限りません。大きくなったり、小さくなったり、横にはみ出したり、どうしても期待どおりにはならず、つくってみなければわからないところがあるのです。その場合には、最初に描いた絵柄をご破算にして、事態を踏まえて、新たに次の絵柄を描かなければなりません。そうした行為を繰り返すことによって、奥に隠れていて自分さえも気づかなかった、研究者としての地政学的全体像が、つまりは、研究者としての本来的自己のすべてが、結果として、その姿を現わすのかもしれません。つまり、何度も何度も自画像を描き改めることで、眠れる自己を掘り起こすのです。

現役のときは、日々の執筆に追われ、自分がどこに向かい、どのような研究者像を形成しようとしているのかといったことには特段関心をもつことはありませんでしたが、現役を退き、折り返し点に立ち、残りの道のりを見渡そうとしたときに、こうした思いが、自然と体内から湧き上がってきたのでした。このことは、自分が、「中山修一著作集」という一幕の劇を演じる役者であると同時に、その劇を生み出すプロデューサーであることを意識させるに十分な出来事でした。

以下は、私の自画像の変遷です。定年退職すると、現役時代に執筆したそれまでの論文を集めて、二〇一四(平成二六)年一二月に本巻二巻別巻二巻の全四巻から構成される「中山修一著作集」をウェブサイトにオープンしました。構成は次のようなものでした。以下の記号は、アップロードした際の各巻の完成度合を示しており、■が執筆完了を、❐が一部執筆完了を、そして□が未着手を表わします。

■著作集1 デザインの近代史論

■著作集2 富本憲吉とウィリアム・モリス

■別巻1  博士論文

■別巻2  詩歌集

次に全面改訂したのが、二〇一八(平成三〇)年九月でした。本巻八巻別巻二巻の全一〇巻へと生まれ変わりました。構成は次のようなものでした。ここで大きく自画像の絵柄が書き換えられました。

■著作集1 デザインの近代史論

■著作集2 ウィリアム・モリスと富本憲吉

■著作集3 富本憲吉と一枝の近代の家族(上)

■著作集4 富本憲吉と一枝の近代の家族(下)

□著作集5 デザイン史・デザイン論

□著作集6 ウィリアム・モリス研究

□著作集7 英国デザイナー列伝

❐著作集8 阿蘇白雲夢想

■別巻1  博士論文

■別巻2  共著論文

そしていま、二〇二〇(令和二)年二月に上の構成を以下のように改訂し、ウェブサイトにアップロードしました。

■著作集1 デザインの近代史論

■著作集2 ウィリアム・モリス研究

■著作集3 富本憲吉と一枝の近代の家族(上)

■著作集4 富本憲吉と一枝の近代の家族(下)

■著作集5 富本憲吉・富本一枝研究

❐著作集6 日本デザインの底流

❐著作集7 英国デザインの諸相

■著作集8 デザイン史研究余録

❐著作集9 阿蘇白雲夢想(随筆集ほか)

❐著作集10阿蘇風花余情(回顧録ほか)

いまアップロードしたばかりなのですが、これまでの経験から推量すれば、今後さらに書き進めると、どうしても全体のストーリー性や各巻の分量などに不具合が生じ、新たな自画像へと絵柄を描き直さなければならない事態が発生する可能性があります。こうして、著作集の姿が進化してゆきます。そしてその一方で、研究者としての自分の可能性を、自らの手でさらに発掘してゆくことになります。そのためにも、いい書き手でありたいと思うだけではなく、いいプロデューサーでもありたいと願い続けているところです。次の全面改訂はいつ来るのでしょうか。そのとき構成はどのように変わるのでしょうか。(二月)

七.火山灰の効用

なかなか中岳の火山活動が収束せず、日々降灰に悩まされています。そんななか、「徳ちゃん通信」(二〇二〇 春 三五号)が送られてきました。これは、地元の「つけものや徳丸」が発行する手書きのお便りで、その季節にあったさまざまな話題がA四サイズ一枚に掲載されています。今号の「徳ちゃん通信」で私の目を引いたのは、阿蘇山の噴火に伴う火山灰についての短文でした。そのなかで、環境省の職員の方から聞いた話として、火山灰がもたらす効用が三つ挙げられていました。

一.火山灰で水はけもよくなり、とても肥沃な土壌ができる。

二.火山灰は天然の浄化装置で、阿蘇で降った雨をろ過してくれ、おいしい飲料水にしてくれる。

三.火山の噴火で、現在の温泉のパワーがさらに強まる。

降灰に苦しむ心を少し和ませてくれる話題でした。長期的な視点に立てば、確かにそのとおりです。火山の噴火も火山灰も、大きな自然の営みのなかにあって、私たちに多くの恩恵をもたらしているようです。

裏庭に目を向けると、積もった火山灰のなかからフキノトウ(蕗の薹)が今年も芽を出していました。人間と違って、フキノトウ(蕗の薹)は火山灰を悪者扱いにはしていないようでした。(三月)

八.コロナウイルスに関する王立芸術協会からのメール

現在世界を席巻している新型コロナウイルスにかかわって、英国の王立芸術協会(正式名称は、Royal Society for the encouragement of Arts, Manufactures and Commerce、略称は、Royal Society of Arts = RSA)から、会員(Fellow)である私たちにも、一通のメール届きました。メールの表題は、「コロナウイルスに対するRSAの対応と予防策」というもので、グローバルに展開しているRASの行事を一時中断することや、公衆衛生当局の指示に従って現在業務を行なっていることなどが詳しく、ていねいに述べられていました。会員に安心を与える情報の提供となっていましたが、一方で、行間からは、コロナウイルスの感染拡大への危機感が少なからず感じ取れました。

私をこの協会に推挙してくださったのは、デザイン・カウンシルの第三代会長を務められたライリー卿(ポール・ライリー)でした。それは一九八八年のことで、そのときの会員数は七千人程度で、しかもその多くは英国人であったと記憶しています。その後、グローバル化の勢いに乗って、会員は世界中に拡大してゆき、いまや数万人近くまで膨れ上がっています。人類の世界的将来像(芸術、文化、社会、産業、通商、教育等々)について論議し、発信することを活動の柱とするこの協会は、日頃から実にうまくネットワークが構築されており、こうした感染拡大の危機に対しても、すばやく対応しているとの感をもちました。このことは、この協会の存在への会員のさらなる信頼感を今後増幅させてゆくにちがいありません。

山のなかで暮らす私は、普段から外出の機会は少なく、ほとんど感染のリスクはないのですが、感染拡大による影響は少し出ています。それは、私の研究にどうしても必要な存在である県立図書館が臨時閉館していることです。しかし、ホームページを見ると、閉館中の業務として、電話やメールによる文献の検索や複写の依頼はできるとのことで、今後はそうした方法を取りながら、利用させていただこうと思っています。(三月)

九.赤木俊夫さんの奥様へ

森友学園への国有地払い下げにかかわって公文書が改ざんされ、その行為を強いられた善良な公務員の赤木俊夫さんが苦悩のなかで自死されました。それから二年の月日が流れ、先日奥様が、国と関係者を相手取り民事訴訟を起こされ、加えて、ご主人の遺書を公開され、真相究明のための再調査を求める署名活動を開始されました。この遺書を読めば、赤木さんの無念さはひしひしと胸を打ち、公権力の恐ろしさが伝わってきます。これが、いまの政治の実態なのです。決して看過することはできません。

さっそく私も署名し、カンパに加わりました。赤木さんの誕生日にあわせて、署名に参加された方々への奥様からのお礼と感謝のメッセージが専用のウェブサイト上に公開されました。そこで私は、次のようなコメントを書きました。

赤木さんの奥様

 どのようなつらい、苦しい思いできょうのお誕生日までお過ごしになったか、それを思うと、胸が張り裂けるようです。このたびの署名活動は、本当に勇気を必要とする行為だったと思います。心から敬服いたします。私は奥様の考えを支持し、ともに歩むことは、この国の国民としての義務であり責任であると信じています。赤木さんは国民のためにお仕事をなさいました。そのご恩に報いることが、ひいては、この国に健全な政治を再生させることにつながってゆきます。どうかこれからの道のりがいばらの道であろうとも、心を強くもって、前を向いて歩いてください。それが赤木さんの無念を少しでも和らげ、笑顔を取り戻していただく残された道ではないでしょうか。くじけないでください。応援しています!

そして、半日が過ぎて、もう一度コメントを投稿しました。今度は、賛同者のみなさまを念頭に置いて書きました。この時点で賛同者は一五万人をすでに超えていました。

賛同者のみなさま

 いまこの国は、民主主義も三権分立も、崩壊の危機に瀕しています。私たち賛同者は、決して奥様を孤立させることなく、しっかりと一団となってスクラムを組み、再調査と民事訴訟を何としてでも勝ち取るために、まっすぐ信念をもって闘おうではありませんか!これは、国民の義務であり責任であると思います。

私の目からすると、思うに、いま日本は、法治国家として瀕死の状態にあります。一人ひとりそれぞれが、できる方法を使って、声を上げる時期であると痛感します。それをしなければ、この国は、戦前のような暗い時代へと再び突入してゆくことでしょう。何としてでも、国民が声を上げて、ここで食い止めなければならない――私は、そう強く思います。(三月)

一〇.コロナウイルス感染拡大の影響

私の住む阿蘇地方のような田舎にも、コロナウイルス感染拡大の影響がいまや出はじめています。

私も加わっている「ブリッジの会」が、四月からしばらくのあいだ中止になりました。この愛好会は、この地区に住む十数人の高齢者が参加して、月に二回ブリッジ(四人一組でテーブル囲んで行なうトランプのゲーム)を楽しんできました。ゲームだけではなく、途中のお茶の時間も楽しく、格好の情報交換の場となっていました。

それとほぼ時期を同じくして、私が毎日通う瑠璃温泉でも、人が集まるサウナと休憩用の和室について使用中止の措置が取られました。人と人との接触をできるだけ避けることが目的のようです。致し方ない措置とはいえ、とくにサウナの閉鎖は、一番風呂を楽しむ常連客が顔をあわせ、日々の団らんを楽しむ場を奪ってしまう結果となりました。

その後、阿蘇地方にも、三人の感染者が確認され、七つの都府県に対して緊急事態宣言が発令されると、それにあわせるかたちで、瑠璃温泉を含む南阿蘇村の三つの公営温泉すべてが営業中止となりました。前立腺がんと心筋梗塞を患っている私にとっての温泉の利用は、まさしく病後の湯治であり、健康増進のための温泉療法を意味していましたので、利用できなくなったことを、とても残念に思っています。

これまで、一〇時三〇分の温泉の開館時間にあわせて、その前にウォーキングをしていました。一番風呂に入って、その日の執筆の疲れをとり、ウォーキングの汗を流すのが、一日の楽しみであり、ストレス解消の時間でもありました。しかし、それができなくなり、そのために生活の時間割を少し変更しなければならないことになりました。

これまでの日常生活は、こうでした。三時起床、ただちに朝食。四時から八時三〇分まで書斎で執筆。昼食(その日の二回目の食事)ののち、九時過ぎに家を出て、瑠璃温泉のパーキングに駐車。ウォーキング、新聞閲覧、そして入浴。帰りに、日によって違いますが、必要に応じて、買い物、病院、給油、銀行、郵便局、役場、コインランドリー、ゴミ収集場への立ち寄り。一時ころに帰宅。その後、家のことや庭の手入れ、あるいは休息。三時から夕食づくり。六時就寝。

これを、このように変えようかと思っています。つまり、温泉での一番風呂ではなく、一日の終わりの自宅入浴(あるいはシャワー)へ切り替えるのです。三時起床、ただちに朝食。四時から八時三〇分まで書斎で執筆。昼食ののち、家のことや庭の手入れなどの雑事。 一二時ころに家を出て、買い物その他を町ですませて、新緑の野草園でウォーキング。帰宅して、入浴かシャワー。三時から夕食づくり。六時就寝。

山のなかの隠遁生活者であろうとも、コロナウイルス感染拡大の影響から逃れることはできません。どこまで拡大するのか、いつ収束するのかが見通せないこと、そして、感染の症状が出た場合の、検査を含む対応がどのような手順で迅速になされるのかが明確化されていないこと、不安は増します。(四月)

一一.民生委員との出会い

私の住む町で、災害時に支援を必要とする一人暮らしの高齢者を事前に登録する制度が動き出した。私もその該当者であるため、登録のための書類をもって、この地区を担当される民生委員の方が、拙宅を訪ねて来られた。民生委員という言葉は知っていたが、どのような方法で選ばれ、どのようなお仕事をなさる人かまでは、全く知識がなかった。そこで、用意されていた用紙の記入方法の説明を聞きながら、民生委員について幾つかの質問を挟んでみた。すると、一人暮らしの高齢者を定期的に訪ね、安否の確認をするのも、自分たちの仕事であるとの説明だった。そのようなサービスがあるとは知らなかったので、はじめてそれを聞いて少し驚いた。

私は根っからの地元町民ではなく、外から参入してきた町民なのである。外来町民というのは、何かと冷遇される。差別といってもいいかもしれない。たとえば、町が発行する広報や回覧文書は、地区の担当者は届けてくれないので、こちらから役場まで取り行かなければならない。ゴミは近くにステーションがないので、ゴミ収集基地まで持参しなければならない。つまり、外来者や移住者は、行政サービスの最も遠いところに位置づいているのである。今回の災害時支援の登録も、その制度を知って、私から役場に頼んで、それを受けて民生委員の方が来宅されたわけで、私から申し出なければ、この制度からも見放されていたかもしれなかった。

もっとも、直接役場に出向いて回覧文書を受け取るのも、直接ゴミを基地まで運ぶのも、確かに不便ではあるが、意味のないことではない。というのも、対応していただく方と直接顔をあわせて会話をし、何がしかの心の交流ができるからである。

今回はじめて民生委員の方にお会いし、会話のなかで、一人暮らしの安否確認の制度を知ったことはありがたかった。それから一箇月くらいが立って、さっそく安否確認の電話がかかってきた。この地区にコロナウイルスの感染者が確認されたらしく、とくに話題は、感染の怖さと注意の喚起に集中した。少し心の交流ができたような気がした。(四月)

一二.ウォーキングコースの変更

コロナウイルス拡大の影響を受けて、私が毎日通う瑠璃温泉が一時閉鎖に追い込まれた。これまで私は、開館の一時間前に温泉の駐車場に到着し、三〇分のウォーキングと三〇分の新聞閲覧を楽しんでいた。ウォーキングは、南外輪山を望む展望台で準備体操をしたあと、そこから白水運動公園と瑠璃温泉を囲む公道を二周歩くことが定番となっていた。しかし、温泉の休館に伴いウォーキングコースも見直さなければならなくなった。近場の馴染みのコースを選んだ。ここは、高森温泉館が廃業するまで使っていたコースで、ピクニック広場を出発し、阿蘇野草園を巡って、国民休暇村に出る、自然豊かなコースである。

さっそくこのコースを歩いた。いつもだとこの時期、この一帯は、ピクニック広場を取り巻く桜が開花を迎え、一年で一番華やかな景色となる。そう期待して行ったものの、残念ながら裏切られ、ほぼ半分くらいがすでに散ってしまっていた。これも暖冬の影響で、開花の時期が早まったせいであろうか。しかし、もう少しすると、阿蘇野草園のシャクナゲが一斉に開花する。こちらはウォーキングコース沿いではなく、少し奥まったところにある。見逃さないように気をつけて、桜の分まで楽しみたいものである。(四月)

一三.「目白押し」に出会う

私はウッドデッキの手すりの一角に、直径三〇センチ弱の平皿に水を入れて置いている。ここに小鳥たちが飛んできて、頭を下げて水を飲んだり、羽をばたつかせて水浴びをしたりする。春になり暖かくなると、鳥の活動が活発になり、この皿もにぎわいをみせる。しかし鳥は一般に憶病で、すでに先客があれば近づかないし、そうでなくても、この皿にたどり着くまで何度もキョロキョロとあたりを見渡し、少しでも音や影を察知すると、目的を果たさずにすぐ飛んでゆく。

しかし、先日は様子が違っていた。たくさんの小さな鳥がどこからともなく一度に飛んできて、水を飲んだり、ジャンプをするように体を動かしたりして、はしゃいでいた。皿のなかには五、六羽はいただろう。すると、その動きのなかで押し出される鳥もいるし、そのときばかりと、皿の外で待機していた鳥がなかに入る。全部で一〇羽以上の小鳥による「おしあいへしあい」あるいは「おしくらまんじゅう」の演舞である。一日に数回、二日間続いた。

私にとってはじめての観察体験である。この鳥は何者なのだろう。目の回りの白い輪は確認できなかったが、上面は黄緑で下面は白。間違いなくメジロであろう。メジロといえば「目白押し」を連想する。いま私が見ている「おしあいへしあい」を演じているメジロの行動が「目白押し」という言葉を生んだのか。調べてみた。竹下信雄『日本の野鳥』(小学館、一九九二年、四七頁)には、こう書いてあった。「“目白押し”という言葉があるが、野外ではメジロがたくさん並んでいる状態を見た研究者はいない」。ということは、私が、本当のメジロによる野外での「目白押し」に日本で最初に遭遇した観察者ということになるのであろうか。そうであれば、歴史的な瞬間に幸運にも出会ったことになる。(四月)

一四.オーバーマスク

昨年の秋以降、火山灰が多く降るようになり、この降灰を吸い込みたくないという思いから、それ以来、私にとってマスクの着用は日常化している。降灰は窓を閉め切っていても部屋のなかに入ってくる。私は、外出時だけではなく、部屋のなかでも使用している。

今度は、それに加えて、この数箇月前から発生したコロナウイルスの感染拡大である。マスクは、二重の意味で欠かせないものになった。

この山奥の町でも数人のコロナウイルスの感染者が確認された。そうしたなか、私自身の外出自粛の生活がはじまった。治療薬やワクチンが開発されるまで、この自粛生活は長期にわたり続きそうな気配である。

少しでも気分を転換したり、ストレスをうまく発散したりする方法はないだろうか。そしてまた、手もとにある白いマスクは、いつかは底をつく。何とかそれを少しでも食い止めることはできないだろうか。いま多くの人が、そのことを考え、工夫をしているにちがいない。

私は、マスクの色に着目した。白はどうしても、清潔感を表わすのにはいいが、長期間使うには、あまりにも冷たく、心を和ませる色ではない。そのうえ、汚れやすく、頻繁に使い捨てなければならない。そこで、白のマスクの上につけるオーバーマスクというものを着想した。このようなものがあれば、ファッショナブルなエプロンのように、日々楽しく取り換えもできるだろうし、汚れや痛みを防ぐため、少しでも長く白色のマスクを使うことができるようになるのではないかと考えたからである。

色物や柄物の端切れを使ったオーバーマスクの作成を妹に依頼した。先日、その数点が出来上がり、着用してみた。誰に見せるものでもなく、家にいてひとりで使うものではあるが、何となく心が華やぐ。いま使っている柄は、私の研究対象としている一九世紀イギリスのデザイナーのウィリアム・モリスのデザインによるものである。

もう一箇月以上前からマスクも手に入らなくなった。そして、私の手持ちのマスクも少なくなってきた。妹は、マスクが入手できなくなったら、白のマスクに代わってキッチンペーパーを使い、その上にオーバーマスクをしたらどうだろうかといっていた。この提案で、マスク不足の心配も少し解消された。外出制限や自粛生活のなかにあっても、おしゃれを楽しみたいという気持ちがあることに、自分で気づいて、自分で驚いている。こうした気持ちは誰にでもあるのだろうか。もしそうであれば、人類のファッションの誕生のひとつの要因として挙げられるのかもしれない。少し大げさにそう思ってみた。(四月)

一五.もしコロナウイルスに感染したら

もしコロナウイルスに感染したらどうなるのであろうか。国民誰もが、いま一番心配している関心事であろう。連日テレビは、コロナウイルスのことを伝えている。その報道の断片をつなぎ合わせてみた。最悪の場合、だいたいこのようなストーリーになるのではなかろうか。

熱や咳の症状が出たのでかかりつけ医に電話をすると、保健所に電話するようにといわれる。保健所に電話をしても、お話し中でなかなかつながらない。何十回目かにやっとつながるも、コロナウイルスによる感染症状とは思われないので、自宅で静養するようにとのこと。PCR検査を懇願しても、受け付けてもらえない。疲労と失望のなかでの自宅待機。しかし症状は回復するどころか、日に日に味覚が失われ、高熱も続き、倦怠感と息苦しさが増す。もはや限界だと思い、救急車を呼ぶ。乗車するも、コロナウイルスの感染が疑われるため、次々と病院の拒否にあい、受け入れ先が見つからない。やっと受け入れてもらった病院でPCR検査をすると、陽性と判明。ただちに人工呼吸器を装着。しかし、症状の悪化は止まらず、ついに息を引き取る。家族との最後の別れの言葉さえ交わすこともできず、遺骨だけが家族のもとへ届けられる。

これが多くの人が頭のなかで描いているストーリーなのではないだろうか。しかし、この場合は病院へ何とかたどり着いているが、急変の場合はそれさえもかなわず、自宅死や路上死のケースも、テレビで報道されている。

恐怖としかいいようがない。なぜ、PCR検査がすみやかに実施されないのか。なぜ医療機関での迅速なる手当てが受けられないのか。いまの検査と隔離の仕組みでは、人のいのちが軽く扱われているように思う。(四月)

一六.コロナウイルス感染拡大の影響(続)

いつものように高森町民体育館前の駐車場に車を止めて、橋を渡ってピクニック広場に向かう。人影なし。一連の体操のあと、北側の外周を歩き出す。広場を出て休暇村南阿蘇の駐車場を左手に見ながら、阿蘇野草園に入ろうとすると、そこに立て看板が設置されていた。前日のウォーキングのときにはなかった。読んでみると、コロナウイルス感染拡大の防止の観点から入園を禁止すると書かれてあった。近くで作業をされていた施設の関係者の方に話しを聞くと、環境省から昨日通達があり、やむを得ず閉園したとのこと。さらに今後の予定に話が及ぶと、毎年六月にこの野草園で開かれる野外コンサートの「ハナシノブ」も中止――。

緊急事態宣言の発令と同時に、瑠璃温泉を含む南阿蘇村の温泉施設がすべて休館となった。それまで瑠璃温泉近くの白水運動公園をウォーキングコースとしていたのであるが、温泉が利用できなくなったことに伴い、このコースをあきらめて、四週目に入る。そして、ついに野草園も閉館。新たに利用しはじめたこのコースからも撤退を余儀なくされる始末となった。

前立腺がんと心筋梗塞を患っている私にとっての温泉の利用とウォーキングは、まさしく病後の健康増進のために欠かせない日常生活の一部であった。基礎疾患をもつ高齢者が感染した場合、重篤化しやすいという。今後の健康生活のありようを再構築しなければならない。

一方、執筆生活にも影響が出ている。執筆に欠かせないのが、資料であり、文献である。これまでそれらの入手には、主として熊本県立図書館を利用していた。ここも同じくコロナの影響で閉館して久しい。資料や文献が手に入らなくなった現状を踏まえて、執筆する順番を見直し、その入れ替えを検討している。つまり、新たに資料や文献を必要としないテーマの文を優先して先に書く方向で、執筆戦略の再構築を進めているのである。

集団で抗体ができるか、有効なワクチンか治療薬が開発されるか、それまでは、このコロナウイルスとの人類の戦いは続きそうである。一年なのか、二年なのか、それはわからない。自粛により収束の兆しが見えても、それを緩めると、さらに大きな次の第二波が襲いかかってくるかもしれない。その間に生じる、社会、生活、労働、経済、生産、教育、医療、文化への打撃は想像を絶するものがあろう。この過酷な体験の前に立ち、現在の文明のあり方が、大きく世界的規模で哲学的に問われはじめようとしている。世俗から一見隔離されたような隠遁生活者にも、その実感がひしひしと強く押し寄せてくる。果たして、コロナ以降の地球人類の生存形式はどのようになるのであろうか――。(四月)

一七.緊急事態宣言の解除

やっと緊急事態宣言が全国的に解除された。いつも利用する阿蘇白水温泉瑠璃のホームページにアクセスすると、少し前から日帰り温泉は再開していた。さっそく行ってみた。開館といえども、幾つかの制限や要請が加えられていた。休憩用の大広間やサウナの利用禁止。それ以外にも、脱衣かごが撤去され、洗面化粧台からはドライヤー以外の備品が姿を消し、さらには、浴室以外ではマスクの着用要請が張り紙に書き出されていた。

温泉棟の隣りの宿泊棟に入って、馴染みの係りの人と言葉を交わす。まだ宿泊は停止したままとのこと。人影だけではなく、いつも読む、受付常備の新聞もなくなり、ひっそりと静まり返っていた。

同じく、熊本県立図書館のホームページを開いてみる。ヘルスチェックシートの記入や検温、マスクの着用が義務づけられ、開館時間も短縮されていたものの、こちらも開館していることがわかった。しかし、私が資料収集の一環として利用する、古い雑誌等のレファレンスサービスについては、その再開がはっきりと明示されていなかった。そこで、続けて国立国会図書館のサイトへと飛ぶ。すると、来館サービスの休止は延長するが、遠隔複写サービスの受付は再開することが告知されていた。もしそうであれば、これまでの私の利用形態であった、県立図書館を経由した国会図書館の文献複写サービスが受けられるのではないか。そしてまた、県立図書館を通しての他館からの図書の借用も可能となるのかもしれない。一度問い合わせてみようと思う。

こうして、緊急事態宣言の全国的な解除に伴い、温泉も図書館も再開し、現象的には以前の生活パターンが徐々に回復しつつある。

しかしながら、精神的には、いまだ積極的な行動や移動にはつながっていない。熊本市内の感染確認者数の多いことが心理的に影を落としているのかもしれない。あるいは、身近な生活空間であるこの狭い地域においてもこれまでに数名の感染が確認されており、そのことが、躊躇する気持ちをなにがしか形成しているのであろうか。さらには、第二波の襲来に対しての無意識の身構えがそうさせている可能性も否定できない。そうした行動の萎縮状態のなかで、心置きなく自由に社会的活動ができる平穏な日が一日も早く訪れることを強く願う。緊急事態宣言は解除されたものの、完全に解放されえない複雑な心的状態にいま置かれている。(五月)

一八.日常風景へ視線を移して

この間、コロナの感染拡大にずっと関心が向いていました。いまやっと、緊急事態宣言が解かれ、日常風景にも目を向けるようになりました。いつのまにか、野鳥の声のさえずりがあまり耳に届かなくなったような気がします。一方、中岳の噴火は続いているようです。春になり風向きが変わったせいか、車の屋根やウッドデッキに積もるほどの大きな降灰の影響はありませんが、それでも、油断して窓を開けていると、部屋のなかに侵入してきて、目に入ります。数日前に梅雨入りが宣言されました。昨年に比べると半月ほど早いでしょうか。雨が続いています。風も強いです。このように、コロナのなかにあっても、自然の日々の営みは続きます。これからは、少し日常風景へ視線を移して、コロナで委縮した心身を和らげたいと思っています。

そうしたなか、ロンドンのウィリアム・モリス協会から年次総会の案内が、メールで届きました。今年は、こうした非常事態を受けて、ズーム・プラットフォームを使って行なう、ヴァーチャルの総会形式を選んだことが書かれてありました。先日はインターネットを利用した緊急の募金が行なわれました。ロンドンも一日も早く、日常生活を取り戻してほしいと、願うばかりです。(六月)

一九.今年も前半終了

六月が終わり、今年も前半が終わりました。歳のせいでしょうか、時の流れが、本当に速いように感じます。

今年の春は、あまり心躍る春ではありませんでした。火山灰で庭やウッドデッキが汚れ、コロナ騒動で日常時間が大きく変わり……といった具合でした。久しぶりに今日と明日は晴れのようですが、その後また傘マークです。早くいい季節にもどってほしいものです。

しかしこの七月は、少し新しい変化がありそうです。ひとつはウッドデッキの改修工事です。梅雨が明けたら、その工事がはじまります。楽しみです。もうひとつは、著作集をいまの全一〇巻から全一二巻へと更新する作業が進んでいることです。八月のはじめころには、アップデートできるのではないかと思います。これもまた、楽しみです。

また全国的に感染が広がっているようです。決して油断してはいけません。マスクを着用し、人との距離をとり、手洗いとうがいをこまめにし、しっかりと自分で自分の身を守りたいと思います。(七月)

二〇.豪雨災害

球磨川が氾濫しました。球磨村や人吉市などの流域の現場の様子が、映像としてテレビに流れます。家や車が濁流に呑み込まれ、鉄道の線路や橋梁が折れ曲っています。何と痛ましい光景か、言葉もありません。住民は、どんなに怖かったことか――どれほど想像しても、その思いに至ることはないでしょう――ただただ、身が震えるしかありませんでした。

私が四歳のときに経験したのは、一九五三(昭和二八)年六月二六日の白川の氾濫による大洪水でした。いまもよく覚えています。道路から玄関へと水が入ってきます。そして、いつも生活する畳の上へと侵入してくるのです。私はその時期、信愛幼稚園に通っていて、『キンダーガーデン』という雑誌を定期購読していました。当時これが私の宝物と呼べるものでした。引き出しから出して、二階まで数回往復して運び込みました。運び終わったころには、食事をする座卓が、茶色く濁った水の上に浮かび、ゆらゆらと揺れていました。その後数日間、水が引くまで、親戚の三世帯で、二階でうずくまるようにして過ごしました。

熊本は四年前に大きな地震を経験しました。昔から、災害は忘れたころにやって来るといいますが、いまはそうではありません。痛ましい記憶がいまだ消えないうちに、次の災害が襲ってきます。そしてまた、多くの人のいのちが失われてゆきます。手をあわせるしか、なすすべはないのでしょうか。(七月)

二一.小説執筆

コロナウイルスの感染拡大の影響で、熊本県立図書館のサービスが停止しました。いつも私は、この図書館を利用して本を借りたり、文献の複写をしたりしていました。この図書館に所蔵がない図書については、近隣県の図書館から相互貸借が受けられますし、過去の古い雑誌記事等については、国立国会図書館の文献複写サービスの提供を受ける手配をしてもらうこともできます。したがいまして、この図書館は、私の研究上なくてはならない施設でした。その図書館が閉館したいま、それに伴って、私の研究も停止してしまいました。そこで、計画していた執筆の順番を入れ替えて、学術論文の執筆を後回しにして、文献を必要としない小説を、この期間を利用して書くことにしました。

学術論文の執筆の場合は、実証主義が重視されるため、何を書くにしても、すべて証拠となる歴史的資料に根拠を置かなければなりません。一方、小説の場合は、そのような制約はなく、すべて書き手の想像力や創作力にゆだねられることになります。その意味で、全く対極にある執筆の手法であるといえます。

恐る恐る書きはじめてみました。事実に基づかない、虚構空間での人物と出来事を描写するのですから、いままでとは勝手が違い、戸惑いもありましたが、何とか、中断せずに書き終えました。「沈みゆく村落」という題をもつこの小説が、私にとっての第一作となります。文化雑誌『KUMAMOTO』を編集している友人にメールを書き、次号に掲載できないか、検討を依頼しました。それからしばらくして、「編集会議の結果、掲載することになった」という返事が返ってきました。それに気をよくして、一気に執筆を続行し、二作目に相当する「雪消を待つ女」を、いまちょうど脱稿したところです。コロナ感染拡大期にあっての、学術論文から離れての、つかの間の小説執筆でした。(七月)

二二.著作集の全面改訂

ウェブサイト「中山修一著作集」を全面的に改訂し、更新(アップロード)しました。各巻の構成は、以下のようになりました。

著作集1 『デザインの近代史論』
  デザイン史家としての私の研究の原点と土台となる初期近代史論の集成。

著作集2 『ウィリアム・モリス研究』
  英国デザイナーのウィリアム・モリスについての明治末日本の研究様相。

著作集3 『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』
  憲吉(陶工)と一枝(『青鞜』同人)の家族史――出会いから結婚まで。

著作集4 『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』
  憲吉(陶工)と一枝(『青鞜』同人)の家族史――家庭生活と晩年の離別。

著作集5 『富本憲吉研究』
  モダニストとしてのデザイン思想の文脈から描く富本憲吉という生き方。

著作集6 『日英デザイン思想の形成』
  日本と英国における近代のデザイン思想の形成過程。【本文未着手】

著作集7 『デザイン史再構築の現場』
  近代運動崩壊前後のデザイン史再構築の日英の現場。【一部執筆完了】

著作集8 『研究断章――日中のデザイン史』
  近代の日本と中国のデザイン史断章――博士論文と共著論文。

著作集9 『研究余録――女性と家族の歴史』
  性的少数者としての富本一枝の生涯とモリスの家族史。【一部執筆完了】

著作集10『研究追記――記憶・回想・補遺』
  学者としての私の研究忘備録、郷土人礼讃、学究回顧録。【執筆継続中】

著作集11『南阿蘇白雲夢想』
  南阿蘇に隠遁しての随筆集、詩歌集、小説集、雑記帳。【執筆継続中】

著作集12『南郷谷千里百景』
  愛する南郷谷の自然と事象と小庵を画像化した写真集。【撮影継続中】

二〇一四(平成二六)年一二月にはじめてこの著作集を開設したときの巻の構成は、本巻二巻別巻二巻の全四巻から成り立っていました。その後、二回の全面改訂を経て、やっと今回、全一二巻の構成による「中山修一著作集」へとたどり着くことができました。形式のうえでは、これが完成形に近いものです。しかし、内容的にはまだ、【本文未着手】【一部執筆完了】【執筆継続中】【撮影継続中】の巻が残されています。気力と体力とを何とか維持し、数年後には全巻が完結するよう、力を振り絞りたいと考えています。(七月)

二三.県南部豪雨災害への支援

県南部の球磨・人吉地域を襲った集中豪雨は、球磨川の氾濫を招き、多くのいのちを奪い、建物や橋梁を呑み込んでしまいました。

直ちに、いろんな団体や組織が義援金の募集を開始しました。私は、熊本県の社会福祉協議会が行なうボランティア支援に関する募金活動に賛同し、インターネットを通じて指定口座に送金しました。その後、今度は個人でボランティア活動をしている方から直接連絡があり、さっそく同じ方法で振り込みをさせていただきました。

この方は、お隣りの南阿蘇村に在住する女性の歯科医師さんで、高校の後輩です。いただいた支援金募集のお便りによりますと、災害発生後の当初は、口腔ケア用品やマスク、それに消毒薬などを被災地の避難所や介護施設に送る支援をしていたそうですが、それから一箇月が過ぎ、被災者の方々の「食べることと歯を磨くこと」の重要性に鑑みて、いまは、野菜配布の支援へと発展しているとのことでした。そして、現地へ届けられるお野菜は、何と、驚いたことに、南阿蘇村で生産される地元野菜でした。

歯と野菜に着目した、歯科医師さんらしい、使命感に満ちた発想です。加えて、野菜を買うことで地元を助け、野菜を送ることで被災地を助ける――双方の支援につながるボランティア活動ともいえます。こうした柔軟な着想力、そして積極的な行動力、本当に頭が下がります。心強く感じました。(八月)

二四.両親の入院

先月の二二日に母親が体調を崩して、近所の病院に入院しました。母親なくしては生活が難しい父親も、大事をとって一緒に入院です。三日目から、病院の配慮で、ふたり部屋に移り、一緒に暮らしています。何か病名がついた深刻な病気というわけではなく、年齢的なものと、過労が重なったようです。

入院当初は二〇分に制限されていたものの、面会はできていたのですが、その後、コロナ感染のさらなる拡大を受けて、面会は全面禁止となりました。玄関受付で検温をし、必要事項を用紙に記入したあと、病棟の看護師さんを呼んでもらい、頼まれたものや洗濯物の受け渡しをします。そのようなわけで、それ以来ふたりとは顔をあわせることなく、携帯で声を聞くだけとなりました。コロナや熱中症からも離れ、ホテル暮らしをしている感じで、九七歳(この九月で)と九三歳(この六月に)の高齢者のふたりにとっては、この時期一番安全な生活方法ではないかと思っています。

一週間を過ぎたころから私の病院通いも安定化し、水曜と土曜の二日間となりました。六時に家を出て、四季の森温泉の駐車場に車を止め、そこから「あそ望の郷くぎの」まで往復三〇分歩き、それから温泉で汗を流して、熊本へ向かいます。はじめに病院に寄って洗濯物を受け取り、笛田の実家で洗濯しているあいだに、郵便物などを確認したり、部屋の空気を入れ替えたり、庭に水をまいたりします。そのあと、病院の隣りのコインランドリーで乾燥し、乾いたものを玄関受付で看護師さんに渡します。これが一連の作業の流れです。

一昨日病院から連絡があり、今日(一四日)、退院です。これから病院へ迎えに行きます。(八月)

二五.草刈り

山荘暮らしをはじめて以来、庭とのつきあいが生まれました。庭は一年単位の繰り返しで姿を変えますので、試行錯誤の学習が数年続きました。やっと、今年でこの山の生活も八年目に入り、庭の手入れも少しずつ定型化してきました。

大きな庭の手入れは、春、夏、秋の年に三回行ないます。春は、冬のあいだ雪の下で眠っていた昨年の暮れの落ち葉をかき集めます。すると、みずみずしい大地が現われます。そこへ華やかな春の花を選んで購入しては、移植してゆきます。夏の主な仕事は、梅雨のあいだに伸び切った雑草の草刈りです。イスやテーブルも水洗いし、避暑が楽しめるような、清涼感ある庭へと整えます。秋の庭は、落葉で覆われ、秋雨や台風に見舞われれば、その上に折れた小枝類が散乱しますので、それを集めては処分し、本格的な紅葉のじゅうたんの出現を待つことになります。

いつもと違って今年の梅雨は長く、明けたのは、七月の終わる二日前でした。そのようなわけで、庭の手入れをはじめたのも、例年よりは遅く、八月になってからのことでした。夜明けとともに、一回につき一時間から一時間半くらい、必ずしも毎日ではありませんが、少しずつ手作業で進めてゆきます。すると、異変に気づきました。昨年の秋から阿蘇中岳の噴火活動が激しくなり、この地域一面に日々火山灰を降らせていたことが原因でした。草を刈ってゆくと、姿を現わしたのは、水分を含んだ、生命に満ちた、しっとりとした土ではなく、灰色の微細な岩石の粒子でした。さらさらとしていて、何か無機質的で、あたかも砂漠にでもいるかのような砂の感触でした。

思えば春は、降灰の真っ只中にあり、手入れもそこそこに済ませ、花を植えることもありませんでした。今回も、手入れをしても、また降灰に覆われるのではないかという重苦しい気持ちのなかでの作業でした。延べにして一〇日間くらいは要したでしょうか。やっとこの夏の庭づくりが終わりました。ちょうどそのときのことです。阿蘇の火山活動が少し沈静化したので、噴火警戒レベルを二の「火山周辺規制」から一の「活火山であることに留意」へと引き下げるとの発表が、地方管区の気象台からありました。これで火山灰から解放されます。庭も、手入れされたいまの状態で秋の紅葉期を迎えることができます。作業をしたかいがありました。疲れが和らぎ、秋を待つ、少し華やいだ気分になりました。(八月)

二六.晩酌の終わり

ちょうど二箇月くらい前だったと思います。夕食に先立って、いつものように晩酌をしたのですが、口に含むと、苦く、ざらざらした感じが襲ってきました。いままでに味わったことのない、はじめて経験する不快な感触でした。

神戸での現役時代は、夕食後に仕事をすることが多かったために、ほとんど晩酌はしませんでした。七年前に山での生活をはじめると、三時の起床とともに朝に仕事をするようになり、夕食時の晩酌は、一日の終わりを告げるけじめのひとときとなっていました。最初は日本酒を飲んでいたのですが、糖分が多いとのことでしたので、焼酎に代えてみましたが、口にあわず、それ以降、ウィスキーをストレートで飲むようになっていました。一日の量は九〇ミリリットルと決めていました。しかしこの日は、最初の一口で、異変に見舞われました。異変の理由はわかりませんが、それ以降、飲みたいという積極的な気持ちが失せてしまいました。

たばこは、心筋梗塞を発症して以降、健康を気遣う自分の意思で完全に止めていました。しかし、晩酌を止めたのは自分の意思ではありません。お酒さえも飲めないような、ひ弱な老体になってしまったのだろうか。少し情けないような気持ちになりました。

それから二箇月が立ちました。定量の晩酌は止めたのですが、食前酒としての、わずかに舐める程度のものであれば、体にいいはずであると思い直し、数日に一度は、忘れないようにと口に含んでいます。一瞬にして、五臓六腑を刺激し、全身が香り立ちます。いまに気づくと、これが本当のお酒の効用なのかもしれません。そう思うものの、長年つきあったお酒との別れには、何かさびしいものがあります。やはり加齢がそうさせるのでしょうか。これからは、「数日に一口」の友となりそうです。(八月)

二七.九月の片々雑事

先月(九月)は雑多なことが幾つも起こりました。

(一)BSアンテナの回りの枝や葉が伸びて、BSが視聴できなくなりましたので、八月三一日に、ベスト電器にお願いして、屋根に登って、切ってもらいました。

(二)九月一〇日、一一日、一四日の三日間、ウッドデッキの部分的な改修工事がありました。腐っている箇所を取り換え、全体的に腐食・防水塗料を塗ってもらいました。

(三)九月一五日、小説「沈みゆく村落」が掲載された、雑誌『KUMAMOTO』(三二号)が発刊されました。

(四)小学校以来高校まで一緒で、山口大学医学部の教授を定年で辞め、いま山口の済生会病院に勤めている友だちと、ひさしぶりに再会。何とその彼が、高校二年の春、クラスメート数人で南阿蘇に遊びにきたときの写真をもっていて、その進呈を受けました。私がいまここで暮らす原点となる写真です。

(五)九月一九日、自宅で尻もちをついて数日後のこと、父が腰の痛みを訴え、自力で歩けなくなりましたので、東(あずま)病院に緊急搬送。二九日、東病院から、実家のすぐ近くの御幸病院へ転院。圧迫骨折の形跡が認められ、歩行訓練のリハビリを兼ねて、しばらく入院の予定。

(六)九月二三日は、フェフェちゃんの命日。庭に咲く野草を摘んで墓石を飾り、手をあわせました。

(七)前日に車のパンク発見。翌二八日に飯塚モータースで修理。

(八)九月三〇日、ついにプリンタが動かなくなりました。最近何かと不具合が目立ってきたパソコンとあわせて、近日中に購入予定。

(九)先月末より、著作集9『研究余録――女性と家族の歴史』の第二編「ウィリアム・モリスの家族史――近代の夫婦の原像を探る」を執筆中。

 以上が、先月の片々雑事です。少しコロナも落ち着いてきたようです。今月は、対応をしっかりとったうえで、秋の好季節を楽しみたいと思います。(一〇月)

二八.任命拒否

具体的な根拠となる事例は長くなりますので省きますが、いまの政治状況を見るにつけ、三権分立も民主主義も、危機に瀕しているように感じられます。この国の戦後の再出発に際しての基本事項は、国家の領域と国民の領域との明快な区別だったと思います。しかし、いまの現象の特徴は、国家が権力を乱用し、国民の領域に力づくで侵入してきていることです。数年前、教育基本法が改訂されましたが、その前文にある「真理と平和の希求」が「真理と正義の希求」に置き換えられました。「平和」は一義的ですが、「正義」は多義的です。つまり、「正義のための戦争」も可能ならしめる意味を含みます。また昨日は、菅首相は、日本学術会議が推薦した同会議の会員候補者一〇五名のうちの六名の任命を拒絶しました。おそらく拒否された六名は、国家の視点にとって都合の悪い主張をこれまでになされてきた人たちではないかと推量されます。これでは、官僚のみならず、学者までもが国家の顔色を見るようになり、憲法が保障する学問の自由や表現の自由が瓦解する結果を招きかねません。このことは、国家が国民の上に立ち、国民の自由や権利を完全に支配のもとに置いた戦前の政治状況へと立ち戻ることを意味します。いま、まっとうな戦後教育を受けてきたと思っている私は、その確信する部分が破壊されてゆくような、そんな悲痛な思いをもっています。(一〇月)

二九.自伝を書く意味

「よくいわれますが、HISTORY は HIS STORY であり、これまで歴史家は男性の歴史しか書いてこなかった。人間類の半数は女性なのに、なぜ歴史家は彼女たちの歴史を書いてこなかったのだろうか。女は男に比べ、本当にあらゆる点で劣っており、歴史に残す必要のない種族なのだろうか。そうでないことは明らかであり、歴史家は女性の歴史に着目すべきである。こうすることによって、男女間の抑圧や差別の社会的文化的構造が明らかになるであろう。」

以上が、フェミニストの歴史家が唱える主張の原理となる部分でした。私が専門とする芸術史の一部であるデザイン史においても、そのことは強調されてきました。私が「富本憲吉と一枝の近代の家族」(ウェブサイトの著作集3と4に所収)を書いたのも、いま「ウィリアム・モリスの家族史」(著作集9の第二編に所収予定)を書いているのも、そうした男性中心主義への反省に基づいています。

ところで、英国にいたころ、英国人の研究者がこんなことを言い出しました。「人は死ぬ前に、どんなに短くてもいいので、自分の人生の歩みについて感想を書き、それを地元の図書館に寄贈し、五〇年後に一般公開するようにしたらどうだろうか。そうすれば歴史家は、男女に関係なく、有名無名に関係なく、階級や学歴などに関係なく、すべての生きた人の足跡が残り、いま歴史学に求められている「普通の人びと(ordinary people)」の歴史が記述可能となるのではないか。」

そのときは一瞬驚きましたが、よく考えてみると、いまに生きる人は、過去に生きた人に学ぶしかなく、そうすれば、多くの人びとの生きた事例を図書館に行っては学び取り、自分の生きるよすがとなすことができそうですし、「自伝」を書き残すことは、生を終えようとする人間の責務のようにも思えてきました。私も、最後には「わが学究人生を顧みて」(著作集10の第三部に現在書きかけ中)を書こうと思っています。(一〇月)

三〇.パソコンとプリンタの買い替え

数箇月前からパソコンとプリンタの調子が悪く、不具合が目立つようになってきました。そろそろ買い替えの時期かと思い、店頭で現物を見たり、カタログで比較したりして、少しずつ検討をはじめました。その一方で、新しく購入した機種の初期設定や、古いパソコンから新しいパソコンへのデータの移動については、ネットで調べたり、人に聞いたりして、少しは情報を集めたのですが、元来こうしたことは不得手で関心も低く、これらの作業は業者に任せることを考えていました。

ところが先日、突然にもプリンタが完全に作動しなくなりました。そこで、あわててプリンタとパソコンを注文し、購入しました。ワイン色のほぼ同色によるコーディネイトです。問題は、パソコンの初期設定とデータの移動です。ここで思いついたのは、業者に頼まず、自分でやることでした。山のなかの生活は、無人島での生活と同じであると思えば、人に頼ることを前提に問題の処理にあたることはできないはずです。そう思い、意を決して、初期設定とデータの移動を独力でやってみました。悪戦苦闘、約八時間を要しました。幾つかの課題は残りましたが、それでも、何とかできました。パソコン音痴の私が、人に頼らず、ここまで自分で成し遂げたことは、ほめてあげてもいいのではないかと思っています。

新しいパソコンは反応が速く、なかなか快適です。それにしても、あまりにも薄く軽量になっており、驚きました。これが、この一〇年間の技術の進歩なのでしょうか。(一〇月)

三一.「ウィリアム・モリスの家族史」を書きはじめる

著作集9『研究余録――女性と家族の歴史』の第二編「ウィリアム・モリスの家族史――近代の夫婦の原像を探る」を八月の末から書きはじめました。これまでは、こうしたものを書く場合、「はじめに」を書いて、次に「本文」を書いて、最後のまとめとして「おわりに」を書いてきました。しかし今回は、その順番を入れ替えて、「はじめに」を書いたあと、「本文」を後回しにして、いま「おわりに」を書いています。これまでの断片的な勉強で、おおかたの内容は理解できていましたので、最初に「はじめに」と「おわりに」を明確化することにより、逆に「本文」の内容を規定しておきたいと考えたからです。つまり、「はじめに」が出発の港で、「おわりに」が到着の港です。これらが明瞭になることによって、その間の航海は比較的安定した航路をたどるのではないかと、一方的に信じているのです。

富本が終わってモリスになりました。ほとんど資料は英語です。七転八倒の日々です。しかし、楽しくもあります。

富本の妻の一枝さんは、『青鞜』の同人で、「新しい女」とも「新しがる女」とも揶揄されながら、時代にもてはやされました。日本の一九一〇年代のはじめのころの話です。一方、調べてみますと、それに先立って一八六〇年代の英国にあって「時の女(Girl of the Period)」が、そして一八九〇年代に「新しい女(New Woman)」と呼ばれる女性たちが登場していました。モリスの妻のジェインの青春時代が六〇年代で、娘のメイの青春時代が九〇年代です。そして、それからおよそ一〇〇年後に、英国のフェミニスト運動が本格的に活発化します。実におもしろい日英の歴史的現象ではないでしょうか。

そうした文脈も踏まえながら、いま、「ウィリアム・モリスの家族史――近代の夫婦の原像を探る」を、楽しみながら書き進めているところです。(一一月)

三二.「ウィリアム・モリスの家族史」を書きはじめる(続)

著作集9『研究余録――女性と家族の歴史』の第二編「ウィリアム・モリスの家族史――近代の夫婦の原像を探る」を八月の末から書きはじめました。いま、「はじめに」に続いて「おわりに」の最後のところまできました。しかし、分量が大幅に予定を越えてしまいました。

私の著作集は、だいたい各巻、四百字詰め原稿用紙に換算して、一、〇〇〇枚前後で設計されています。当初、著作集9『研究余録――女性と家族の歴史』は、すでに脱稿している第一編の「富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」と、いま執筆中の第二編「ウィリアム・モリスの家族史――近代の夫婦の原像を探る」のふたつの論考で構成されるように予定されていました。ところが、第二編を書き出してみると、想定していた約五〇〇枚程度の分量を大きく越えそうな見通しとなったのです。そこで方針を変えて、「ウィリアム・モリスの家族史――近代の夫婦の原像を探る」をひとつの巻として独立させ、それまで予定していた、未着手の著作集6『日英デザイン思想の形成』に変えて、著作集6『ウィリアム・モリス研究(続編)』とすることにしました。

そうすると、著作集全体の構成が、玉突き式に少し変更を余儀なくされました。まず、著作集9『研究余録――女性と家族の歴史』のタイトルを著作集9『研究余録――富本一枝の人間像』に変え、第二編のタイトルを新たに「富本一枝の生涯――本人と仲間たちの語りで綴る人生模様」とし、今後執筆することにしました。これは、一枝さん本人と、平塚らいてうさんや丸岡秀子さんなどの友人たちの言説だけを使って、一枝さんの生涯を描こうとするものです。つまり、いっさいの執筆者の思惑が介入しない伝記という新しい形式へ向けてのひとつの実験です。極めて客観的なドキュメンタリーとなることが想定されます。ただそれだけでは機械的で無味乾燥なものになりそうです。それをどう読み物に仕立て上げるか、ここが執筆者の力量が問われる課題になるものと覚悟しています。

次に、第六巻として予定していました『日英デザイン思想の形成』も、変更しなければなりません。それについては、第何巻にするかは、これから考えるとして、いまは、『日本デザインの底流』と『英国デザインの諸相』の独立したふたつの巻にすることを頭に浮かべて、構想しています。

これまでもそうでしたが、実際に何か書きはじめてみると、当初の思惑を大きく塗り替えなければならないような事態が生じます。今回の手直しの結果、現行の全一二巻が、全一四巻になることが見えてきました。さらに今後、内容、形式ともに、どう変化していくのでしょうか。自分でもよくわかりませんが、何か著作集が生き物のように、呼吸をしていることが感じられます。(一一月)

三三.色づいた葉が落ちる

わが家の庭は、春の桜と秋の紅葉が、自慢です。一一月になり、少しずつ冷え込んできますと、それにつれて、庭のカエデ、モミジ、イチョウなどの葉が、黄色や赤に染まります。なかには、ローズ色に変色する葉もあります。手に取るように庭に出て体感するもよし、ウッドデッキから、そして室内から遠く全景を見るもよし、まさしく一幅の絵巻物です。

しかし、そうした盛りの紅葉も、時間の流れにともなって、ゆらめきながら少しずつ地に舞い落ちてゆきます。すると今度は、絢爛豪華な敷物がそこに誕生します。自然とカメラを向けてしまいます。この一瞬の輝きを永遠に自分のものにしようとする心が働くのでしょうか。それとも、この象徴的瞬間と向き合うことによって、一年の終わりを心に刻もうとしているのでしょうか。

葉は、そのいのちを終えると、土に帰り、次のいのちを生み出す養分となります。しかも、それを永久に繰り返すのです。しかし、それだけではありません。春の風に舞い散る山桜、夏の日の光を四方に反射する新緑の木々、そして、その年の終幕を告げる、鮮やかに燃え上がった秋の葉――花びらも、木も葉も、間違いなく、山で暮らす私のいのちに、大きな養分をもたらしているのです。(一一月)

三四.父親の入退院

先日、父親が退院しました。九月末の入院でしたので、ほぼ三箇月入院していたことになります。原因は、家で尻もちをついたことによる圧迫骨折でした。入院当初は、当然ながら痛みもあり、自力で歩くこともできず、移動は人の手を借りての車いすでした。しばらくして容体が安定したころからリハビリがはじまりました。かつて、病後の身体機能の増進のためにこの病院に転院したときには、しばしばリハビリにも立ち会い、どのようなメニューに従って回復のための訓練をするのかを身近に見ることができましたが、今回はそれができませんでした。といいますのも、コロナウイルス感染症の拡大を受けて、最初のころは、面会は予約制で面会時間も一五分に制限されており、さらに途中からは、感染レベルが上がったことに応じて、面会が完全禁止となってしまったからです。

しかし、情報は適宜電話により病院から提供されていました。あるときは、誤嚥性の肺炎を併発したので、治療に入るという内容の連絡がありました。実際に本人とは会えず、心配しましたが、極めて軽度のものだったらしく、初期の手当てで無事に回復へと向かいました。また、退院が近づいてきたころには、こんな連絡が入りました。食べ物の呑み込みの機能が衰えており、それへの家庭での対応について説明したいので、来院してほしいという要請でした。行ってみると、管理栄養士やコーディネーターの方が待っておられ、退院後の食事の作り方や、介護食品やサプリメントの利用の方法について、指導を受けました。そうした過程を経て、杖はつきますが、自力による歩行ができるまでに回復し、帰宅することになりました。

九七歳という年齢からして、ここまでの回復は難しいかもしれないとも考えていましたので、入院以前の家庭生活が再び送れるようになったことを喜ぶとともに、適切な医療を提供していただいた病院に、とても感謝しています。本人の積極的な努力もあったようですが、理学療法士や作業療法士の方々の献身的で専門的な支援の大きさを改めて実感しました。

体調不良で母親も同じ病院に入院していたのですが、病院側の配慮もあり、家庭生活に慣れるために、父親よりひと足先に退院していました。こうして、夫婦そろって、新しい年を迎えることができるようになりました。(一二月)

三五.コロナウイルス感染症の「第三波」

いつものように、回覧文書を受け取るために町役場へ行った。車を駐車場に止めて玄関へ向かうと、いつもと違った雰囲気が漂っていた。掲示用の衝立が入口に立てられ、それを読もうとすると、ひとりの職員が近づいてきて、「何か急ぎの用ですか」と尋ねる。回覧文書の受け取りにきたことを告げると、しばらくここで待っていてほしいと言い残して、庁舎に入っていった。立て看板を見ると、今日から二日間、特殊清掃をするとのことが書かれてあった。詳しい事情がわからないまま、あたりを見回したりしながら、落ち着かなく突っ立っていると、いつもの総務課の担当者が封筒に入れた回覧文書をもって、玄関口に現われた。話を聞くと、建設課のひとりの男性職員がコロナウイルスに感染していることが判明し、これから庁舎内の消毒と、職員全員のPCR検査をするという。家に帰って、防災無線に録音されていた町からの連絡を再生してみると、ほぼ同じ内容が伝わってきた。

国の政策である「GoToトラベル」の影響もあって、この間感染が一気に拡大し、「第三波」と呼ばれる波が、東京や大阪や札幌といった大都会を襲っていた。そうした余波が、こうした山間部の小さな村落にも、いま押し寄せてきていることを実感する。職員のPCRの検査結果はまだ公表されていないが、クラスターが発生していなければいいのだが……。

連日テレビは、東京都の感染者数が、曜日最多を更新し続けていることを伝えている。そして関係者は、医療現場のひっ迫を必死に訴える。営業時間の制限強化や特措法の改正や、あるいは緊急事態宣言の発出を巡る考えにも、曖昧な隙間が見え隠れする。さらには、夜の会食に繰り出す無分別な国のリーダーたちの能天気な行動が、世間の批判を浴びる。「医療崩壊」は何としてでも避けなければならないが、その前に、感染阻止へ向けての適切な判断にかかわって、もうすでに「行政崩壊」が進行しているのではないかと、独り山にこもって心配する。杞憂なのか、それとも、これが実際なのか。(一二月)

三六.学術論文と著作集との執筆上の違い

大学教員としての現役時代には、いわゆる学術論文と呼ばれるものを書き、学会の雑誌や大学の紀要に投稿することが、研究成果の発表の方法として日常化していました。しかし私は、大学を定年退職すると、学会誌や研究紀要への投稿を卒業し、自由な執筆活動の道へと分け入りました。それ以降研究成果は、ウェブサイト「中山修一著作集」を新設し、そこに順次、執筆したものをアップロードすることによって、公開してきました。

学術論文と著作集とでは、執筆上、幾つかの大きな違いがあります。学術論文の場合は、文字の分量や写真の枚数などについて、その最大量が決められています。一般的にいって、分量は、四〇〇字詰めの原稿用紙に換算して五〇枚程度が限度となっているのではないでしょうか。また、提出の期日も決められています。一方、いま私が書いている著作集のための原稿には、分量の制限も締め切りの期限もありません。すべて、自分の意のままで、これほど、何物にも制約されない自由な執筆はありません。

いま書いている「ウィリアム・モリスの家族史――近代の夫婦の原像を探る」は、当初は四〇〇字詰めの原稿用紙に換算して五〇〇枚くらい(だいたいこれが一冊の本の分量に相当します)を考えていたのですが、それが書き進めてゆくと、予定を大幅に超えて、どうやらその倍近い見通しとなってきました。また図版も、最初の思いにあっては五〇点程度を考えていたのですが、それもどんどん増えてゆき、版権が切れている関連書籍のなかの画像をスキャンした枚数だけでも、もうすでに一〇〇点を大きく上っています。これから執筆は、いよいよ佳境に入りますが、いま私は、書きたいだけのものをすべて書き、必要と思うだけの図版をすべて使ってみたいという思いになっています。このような心境は、現役時代に体験することはありませんでした。

いま少し振り返ってみますと、私たちの現役のときには、分量や締め切りだけではなく、論文の数もまた、気になる点として、日々つきまとっていました。それというのも、助手から講師、講師から助教授、助教授から教授へと昇任する際には、業績の審査があるのですが、時としてその審査において、論文の内容というよりも、むしろ見た目でカウントできる、論文の本数がものをいう事態が起こりうるからです。いまは、聞くところによると、研究者を取り巻く環境はさらに悪化し、昇進の際だけではなく、短い年単位で日常的に業績を審査する大学もあるようです。これには少し首を傾げたくなります。といいますのも、こうなると教員は、深化させたい自己の研究に落ち着いて没頭できず、ついつい目先の結果を追い求めるようになるのではないかと、思われるからです。研究には、どうしても発酵や熟成に、ある程度の時間が必要です。そのためには、一年といわず、さらにもっと長い期間が必要とされる場合もあります。そのことに思いを馳せるとき、日銭を稼ぐような研究を強いる現行の研究制度からは、真に創造的で深みのある、大河のような研究成果は生み出されにくいのではないかとの心配が胸をよぎります。短い時間のなかで高速回転させて数量を増殖させようとする研究の仕組みを垣間見るにつけ、その先には、細く伸び切って断片化された、この国の貧相な研究の世界が横たわっているような気がしています。(一二月)