著作集3 富本憲吉と一枝の近代の家族(上)

第一部 出会いから結婚まで

第四章 憲吉と一枝の結婚へ向かう道

一.憲吉の決意「模樣より模樣を造る可からず」

英国留学から帰国してそろそろ三年が立とうとしていた、一九一三(大正二)年という年の前半は、富本憲吉にとってとりわけ多忙で多産な時期であった。二月一八日付の南薫造に宛てた手紙のなかで富本は、高揚した気分で、そのときの様子をこう伝えている。

新橋で諸兄に送られてツクヅク歸る東海道の汽車の中で色々と考へた。「モウぐずぐずして居る時でない。今春から大いにビジネスの方向にも自分と云ふものを進めて行け」と考へついた。その第一歩としてリーチと同じサイズの楽ガマを築く事にした……イヨイヨ十一日からカマを築き繪の具を大乳鉢ですり、ロクロを試して用意につとめた。今日ママ一週間ばかり、亀ちゃんと云ふリーチの書生を相手に夢中だつた……今自分の心は陶器を造ると云ふ事にのみワクワク、して居る。何物も見えない。コンナにコウフンした事は先づ一生中に未だない。そしてコンナに長く連く事も

こうして、五月一日から六日まで大阪の三越呉服店で開催される予定の「富本憲吉・津田青楓工芸作品展」へ向けて、楽焼きの窯が築かれた。そして、三月九日の初窯で、三〇点ほどの皿や丼が焼けた。同じく南に宛てた次の三月一一日付の手紙のなかで、そのときの感想を富本は、次のように書き記している。「先づ先づ此れ一つをたよりに寂みしい浮世に住むで行く。丁度『ニチエーが太陽を見てはカンシャク玉をつぶした』様に。今度の三越では是非賣りたいものだ。その金をもって旅行したい……聖僧の生活もあきあきした」。「大いにビジネスの方向にも自分と云ふものを進めて行け」という号令のもとに、「聖僧の生活」から離れ、いよいよ「浮世に住む」覚悟ができたのであろうか――。

富本にとってはじめての個展となるこの作品展は、売れ行きがよく、大成功であった。晩年富本は、この作品展を回顧して、「最初のころの製品で、私と知人の津田青楓君と二人が大阪の三越で展覧会を開いたが、これもよく売れた。ふつうの磁器や陶器の何倍という、当時としては相当高価なものだったのだが、やはり、どこかに見どころがあったとみえる」と、述べている。確かに顧客にとっては「どこかに見どころがあった」のであろう。そして人気を博したのであろう。しかし、富本本人にとっては、決して納得のいく出来栄えではなかった。夜も昼もなく製作に励んだこの年の前半ではあったが、その間意識の下に眠っていた、ある種の自責の思いが、このとき急に富本を襲ってきた。

 今年の一月二月は多く刺繍更紗等に日を過ごし三四五の三ヶ月は大部分陶器等の試作に暮らした……五月初旬それ等約百五拾点を大阪で公開して先ず一つの段落を付けた。その頃から一種の模様に對するふ案……に襲はれた……出来上がった作品を見て充分會得し得ぬ自分の心を考へ出すとモウ一個の製作も出来なくなった

「今迠やって来た自分の模様を考へて見ると何むにもない。実に情け無い程自分から出たものが無いのに驚いた」。このとき富本は、これまでにつくった自分の模様は、その多くが、過去のものや外国のものの模倣であったことに気づかされたのである。自分は、本や雑誌から他人の模様を安易に引き写してはいないか、自分は、古い模様を平気で別の材料に転用してはいないか、自分は、実際の自然から受けた感動だけを頼りに正直に模様をつくっているのではないのではないか――富本がこのとき感じた不安の根っ子には、こうした製作にかかわる根源的な自問が横たわっていた。しかし、すぐにも答えを見出せるような設問ではなかった。こうした深刻な不安を抱え込み、「モウ一個の製作も出来なくなった」富本は、苦悩の末、一九一三(大正二)年八月二〇日、ついに「一切の製作を止めて暗い台處から後庭に光る夏の日を見ながら……旅に出た」のであった。

その旅の出発は、柳敬介の奈良からの帰京に同伴するものであった。その二日前の一八日、富本は「奈良で森亀[森田亀之輔]、柳[敬介]のやっている図画講習會のコンシン會がある、それに……客員としてヨバレた……席上で柳君が二十日に東京へ兵隊のテンコで是非歸ると云ふ事。即思即決、一處に沼津迠行く事を約束して二十日夕刻大阪を両人で見物、車中雑談にふけって東上、沼津で柳君にわかれ」下車した。車中の雑談のなかで、胸中を柳に打ち明けることはあったのであろうか――。沼津から汽船に乗り、すでに南薫造からの誘いの手紙のなかで告げられていた滞在先の共通の友人宅を訪ねた。あいにく南とは会えず、同宿できなかったものの、友人家族のおかげで「沖へ小鯛を釣りに行ったり何かして大変面白かったが餘りのユウタイで一寸困った」。この松嵜での滞在後、次に富本は箱根へと向かった。そこには家族で避暑を楽しんでいたバーナード・リーチが待っていた。リーチはこう記憶していた。「妻と私は、一九一一年から一九一三年までの三度の夏を箱根湖で過ごした。古びた村の水辺に建つ草ぶき屋根の田舎家を借り、そして、エンドウ豆の色に近い緑色で塗装され、一枚の縦長の帆をもつ小さなヨットも借り受けた……ひとりのときは、絵を描くか、あるいは、あちらこちらへとひたすらヨットを操って楽しんだ」。【図一】は、リーチのエッチングによる作品《箱根》(一九一三年)である。富本は事前に自分の悩みをリーチに告げており、箱根訪問は、リーチの誘いによるものであった。

[自分の悩みを]リーチにも書いてやりました。リーチも「同感である。今自分は箱根に避暑しているから、やってこないか、二人で考えよう」というのです。そこで箱根に出かけて、十日ほどリーチと話したり、山に登ったり、湖で泳いだりしているうちに、とうとう決心がついたのです。決心というのは「模様から模様を作らない」ということです10

「模様と云ふ六ツ敷しい[難しい]ものを一切放棄し様かと云ふ念」11、つまりは、もはや装飾芸術家をやめてしまおうかという思い――それほどまでに精神的に追い詰められていた富本であったが、ここ箱根でのリーチとの交流から、その絶望感も少しは和らぎ、ひとつの大きな製作理念へと到達した。それが、その後の自らの歩みを厳しく戒め律する指針となっていくのである。のちに富本は、このようにも回想している。

 「模樣より模樣を造る可からず。」
 此の句のためにわれは暑き日、寒き夕暮れ、大和川のほとりを、東に西に歩みつかれたるを記憶す12

「模樣より模樣を造る可からず」――この黄金句は、過去の模様や外国の模様を手本にしたり摸写したり改変したりして自分の模様にしないことを意味していた。裏を返せば、真に求められなければならない模様とは、自分の目だけを信じ、感動する心をもって直接植物や風景を観察し、ひたすら自分ひとりの手によって製作される模様にほかならなかった。

八月も終わりに近づいたころ、模様製作についての一応の決心がつくと、箱根での滞在を切り上げ、富本は上京した。リーチの家族の帰京に合わせて、そうしたのかもしれない。その後の動向については、『讀賣新聞』によると、「富本憲吉氏 箱根に前記山下[新太郎]氏、バーナード[・]リーチ氏を訪い廿九日頃上京し當分滞在すと」13、そして「先月末に上京せしが一昨日歸西」14となっている。富本はすぐにも大和へ帰らず、なぜ上京し、そこでの約一週間をどう過ごしたのであろうか。具体的にそれを構成する資料は残されていない。したがって、これから述べることはすべて、いまだ十分に実証されていない仮説にすぎないのではあるが、この東京滞在と、《梅鶯模様菓子鉢》と『風雅なる英国の古陶器』(チャールズ・J・ロウマックス著、M・L・ソウロンの序文、1909年刊行)15のその後の行方、つまりは、前者がヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に、後者が日本民藝館に現在所蔵されていることとは、何か重大な関係があったのではないだろうか。

前年リーチ宅の窯で焼いた富本にとって事実上の最初の楽焼きの作品となる《梅鶯模様菓子鉢》は、この年(一九一三年)の二月二〇日から東京の三越呉服店で開催された「現代大家小藝術品展覧會」に陳列された。しかしこの菓子器は、「あまりに氣に入つたので賣るのを止めた位のもの」16で、おそらく、展覧会終了後もそのままリーチ宅に保管されていたものと思われる。しかし、この作品の「梅に鶯、ほけきょ!ほけきょ!」の模様はどうやって生まれたのであろうか――。リーチの述べるところによると、「初代乾山が二〇〇年前に同じこの春の歌を自分の壺のひとつに引用していた」17。富本が初代乾山のこの作品の模様を意識的に自分の《梅鶯模様菓子鉢》に再利用したのかどうかを明確に断定することはできないものの、少なくとも英国留学中にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館において富本が、「角形を二つ組み合わせた平向こう付けで、上から垂れ下がる梅一枝と詩句とを黒色で描いた」18初代乾山の作品を見ていたことは確かであり、そこに思いを巡らすならば、結果としてこの《梅鶯模様菓子鉢》は、「人の模様」から生まれていたということになるのではないか。もしこの判断が正しいとすれば、「模樣より模樣を造る可からず」という信念を胸中に宿した富本は、ただちに箱根から東京に上り、この作品を処分しようとしたにちがいなかった。後年富本は、このようなことを告白している。

 私はこれまで古いものをかなり見てきたが、その見たものを出來得る限り眞似ないことに全力をあげてきた。それでもその古いものがどこまでも私をワシヅカミにしてはなさない。私は自分の無力を歎きかなしみ、どうかしてそれから自由な身になつて仕事をつづけたいために、或時は美しい幾十かの古い陶器を打ち破り棄て、極くわづかな私の仕事の上での一歩をふみ出したことさへある19

その魅力から逃れるために「美しい幾十かの古い陶器を打ち破り棄て」ることができる富本である以上、《梅鶯模様菓子鉢》が「人の模様」から生まれていたことを振り返って自省し、その行為を許すことができずに、この作品をこの時点で破棄しようとしたとしても、何ら不思議なことではない。東京のリーチ宅に着くと、富本はそのようにし、リーチはそれに修復を加え、長いあいだ大事に保管したうえで、亡くなる二年前の一九七七年にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に寄贈したものと推量される。リーチは、「[初代乾山の梅に鶯の]この壺はのちに私に与えられた。同じく富本のこの最初の作品も。双方の作品とも、いま、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館にある」と述懐する20。ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館にあるこのふたつの作品を併置して陳列することができるならば、疑いもなく人はそのなかに、「模樣より模樣を造る可からず」を例証する全き見本として、富本の高潔なる製作意志を見出すことになるのではあるまいか。

一方、このときの東京滞在と『風雅なる英国の古陶器』との関係は、どうだったのであろうか――。この本との出会いは、約三箇月前にさかのぼる。大阪三越呉服店での「富本憲吉・津田青楓工芸作品展」が終わると、その売り上げ金を懐中に入れて、富本は五月一二日に上京した。そして大和へ帰郷する前日に丸善で偶然にも目にしたのが、この英国からの輸入洋書『風雅なる英国の古陶器』だったのである。二三円と、高額であったため、「かなしいかな持つて居る金子全部でも未だ足りない。不足の分は明日迄貸して貰ふ事にして電車賃だけ引いた持金全部を拂つて兎に角自分のものとなつた……走る電車のなかで包紙をほぐして……何事をも忘れて上野櫻木町のリーチの家へと急いだ……リーチは金子は貸してやるが自分が充分見て仕舞ふ迄は自分の處に置くと云ふ条件でなければいやだと云ふ」21。こうしてこの書物は、見返しに「K. Tomymoto May 1913 Tokyo」の署名が残されたまま、この間リーチ宅に留め置かれたものと思われる。ところが、「模樣より模樣を造る可からず」を決意した富本にとっては、もはやこの本はその価値を失い、そのとき、これもまた、処分の対象とみなされたのではないだろうか。以下は、後年の富本の古陶器に関する言説のひとつである。

 骨董の貝殻が工藝家の全身を包みこむ程恐る可き事はない。造るに容易であり、衆愚の眼に適切であり、喰ふにはたやすく、名聲を得る事も非常に早い。古いもの、特に古陶器を見る必要は大いにあるが、見てこれにつかまれぬ人は實に僅少である22

「これ[古陶器]につかまれぬ人」になるためには、実際の作品だけではなく、そのような作品が掲載されている書物さえも、身近に置くことは危険だったにちがいない。同じく一九三〇年代のはじめのころ富本は、自らを「現在一冊の書物を持たないと云ふ事を自慢して居る私」と形容している23。こうした後年の幾つかの言説を想起するならば、箱根から東京に移動した富本は、立て替えてもらっていた金子をリーチに支払ったうえで、不要となった理由を説明し、この本をリーチにプレゼントしたとは考えられないであろうか。そしてその後、何かの機会にリーチから柳宗悦の手へと渡り、そうした経緯を経て、現在この書物は日本民藝館に残されているのではあるまいか。いずれにしても今後の新資料の発掘を待って十全に実証されなければならない事柄ではあるが、結果的にこの推論が適切であることが判明するならば、《梅鶯模様菓子鉢》同様に、この『風雅なる英国の古陶器』の行方にもまた、「模樣より模樣を造る可からず」という富本の決然たる精神が見事に投影されていたことになるのである。

九月のはじめ、富本は東京から安堵村へ帰った。しかし、今回のこの二週間あまりの放浪の旅によって苦悩が完全に払拭されたわけではなく、依然として富本の体内にくすぶり続けていた。

旅は自分が生れて初めての種類のものだった。目的もなくプランもない実に漫然たるもので伊豆箱根東京と金の無くなる迠ホツき歩いた。親しい友達に遭ったり珍らしい景色に接しても春以来の苦るしみは一向変って呉れなかった24

富本の「苦るしみ」は、製作の問題だけではなく、留学から帰国後、常に結婚の問題がつきまとっていた。東京から帰ると、富本は南に手紙を書いた。東京滞在中、南にも会って、結婚について相談していたのであろうか――。以下は、一九一三(大正二)年九月一七日付の南宛て富本書簡の一節である。

……諸兄から色々御注意にあづかったハウス、ホールドを探がさにゃならぬ。いよいよ本気になって、誰れかなかろふか。
東京で育った若い女がコンナ沈むだ様な村の人になるか何うだか。然し大和の先生は御免してもらひたい。或は君の言ふた様に今年中にラチがあくかも知れぬ。夏以来仕事が一向手につかぬのも勿論この件に関係がある。
四五日のうちに素焼カマをたてる。
美術界の事を思ふ毎にナサケなくなる。

  ロクロすれば小さき
  画室なりをママ
  女知らぬ馬鹿と云ふ声す
  かなしきかなや25

そうしたなか、次の展覧会に向けて製作は再開されていった。一〇月二四日の「よみうり抄」には、「富本憲吉氏 本年の製作品の内特に陶器及び陶器図案百餘點を以つて本日より廿八日迄五日間神田三崎町ヴ井ナス倶楽部に展覧会を催す 因に本日は午前を接待とし午後公開す」26と告知された。そしてその二日後、この「工藝試作品展覧會」の展覧会評が『讀賣新聞』を飾った。富本のみずみずしい感性を讃える、実に好意に満ちた紹介であった。以下の引用はその一部である。

陶器が七十點、何れも富本君が自ら描き自ら窯いたもので、形にも模樣にも色にもよく富本君の趣味が現はれてゐる。否な趣味と云ふより感興と云つた方が適當であろう、時々刻々の感興が一ツ一ツに陶器となつて現はれてゐるのである27

他方、このとき南薫造は、「富本憲吉君試作品展覧會の陶器を見て」28と題した一文を『美術新報』へ寄稿した。そのなかには作品の図版とともに、具体的な作品評が含まれており、南の批評眼の一端を知ることができる。形や模様に比べて、色への着目が目立つ。以下はその抜粋である。「徳利(富貴長壽)」【図二】については、「作家の音樂的氣分を遺憾無く現はしたもので、靑、緑の二色は稍々緑味を帯びた地の上に美しき調和をして居る」。「菓子皿(春夏秋冬の内)」【図三】と【図四】については、「陶器の持つ不思議な人を曳き附ける材の性と之れに施された色彩とがピツタリと合つたものである」。「菓子器(魚二匹)」【図五】については、「稍々赤味を帯びたる地の上に可成り濃き緑色を以て魚を畫き尚ほ濃き赤を以て模樣を附す、色に就ての欲望の爲めに造つたと云ふ風に見える」。そして「皿(葡萄)」【図六】については、「白地の皿へ緑と靑を主として使用して畫いたもので、緑色の結果が甚だ佳い輪郭の茶褐色のボタボタした心持は巧みに乾いた白地の心持を和らめる」と評す。その一方で南は、富本芸術の本質を鋭くこうも指摘するのである。

茲に最も吾々の注意す可き點は、[富本]君の趣味は、世間に最も普通に見られる藝術品が多く、床の間の藝術、お座敷の美術、如何にも美術品であると看板を掲げた樣な狭まい範圍の藝術品なるに反して、甚だ廣い塲面を持つて居る事である、即ち富本君は臺所の片隅に於いても其の世界を見出し得る人である……此の民間的藝術の氣分と云ふものは今日の日本に於ては甚だしく忘れられて居るものであるので、此の作品を見て殊に自分等の血管の底に流れる偽らざる血の共鳴を感ずるのである29

西洋に倣った絵画や彫刻の形式であれば「芸術」の仲間入りができ、それ以外の形式であれば仲間から外される、あるいはまた、床の間や応接間に飾られれば「芸術」としてあがめられ、台所で使われれば無価値なものとしておとしめられる――こうしたその当時の一般的な芸術観からすれば、たとえ色や模様に高雅な趣向が認められたとしても、富本の徳利や菓子器や皿といった作品は、その形式において、最初から取るに足らないものになりかねない運命をもっていた。

たとえば、この年(一九一三年)の秋の、工芸家である富本と画家である南の作品発表のあり方を比べてみるとどうだろう――。富本は、いま上で示したように、一〇月二四日から一〇〇点あまりの陶器および陶器図案を神田三崎町のヴィナス倶楽部に展示した。この会場は、一〇月四日に落成披露会が催されたばかりの洋画家木村梁一によって新築された小展覧会用の個人会場であった。ところで、このときの富本の「工藝試作品展覧會」の売り上げ金や来客者数は記録や資料に残されていないようである。一方、南の場合はどうであろうか――。『美術新報』(第一三巻第一号、一九一三年)のなかの文展に関する一連の記事が伝えるところによると、一〇月一六日から上野の竹の台陳列館で一般公開された第七回文部省美術展覧会において、南の場合、《揺籃》《安藝の海岸》《春さき》の三作品が陳列された。この文展は、第一部の日本画、第二部の西洋画、そして第三部の彫刻の三部門で構成され、工芸の部門はない。入場者は初日だけでも五、八五八人を数え、すぐにも《揺籃》が一〇〇円、《安藝の海岸》が一六〇円、そして《春さき》が六〇〇円の価格で売約された。そして二四日の審査発表で、第二部西洋画の部門の二等賞に《春さき》が輝いた。一等賞は設定されていないので、事実上これが、石井柏亭の《滞船》と石川寅治の《港の午後》と並んで、この年の最優秀作品となった。同じ人間が描き、製作し、表現するものであっても、その扱いにおいて、工芸と絵画では、これだけの違いが歴然と存在していた。それは、富本と南の個人に由来する差ではなく、明らかに、美術を巡る思想と制度に由来する差異であった。

身近な日常に存在するがゆえに理不尽にも「芸術」の王国から門前払いされる工芸の宿命、あるいは、人知れぬ日陰に生息するがゆえに物言わず姿を消しゆく装飾の悲嘆とでもいおうか――。南はこの部分を「富本憲吉君試作品展覧會の陶器を見て」のなかで「最も吾々の注意す可き點」としたうえで、「今日の日本に於ては甚だしく忘れられて居るものである」ことを指摘し、誰の脳裏にも残存する歴史や伝統への追憶を、陶器というひとつの「民間的藝術」のなかに視覚的にも身体的にも読み取ろうとしていたのである。

英国からの帰国以降、東京の美術家や美術界のなかにあって、富本が常に傷つき苦しんできたひとつの側面がここにあったといえる。英国にはヴィクトリア・アンド・アルバート博物館がそびえ立ち、ウィリアム・モリスの瞠目すべき活躍があった。当時富本の製作上の立場を適切に理解していたのは、英国を知る南と英国人のリーチをおいてほかにいなかったのではないだろうか。ちょうど二年前の一九一一年、『美術新報』に寄稿し掲載された「保存すべき古代日本藝術の特色」のなかで、富本の憤懣に言及しながら、リーチもまた、装飾の正当なる価値について述べていた。

自分の友人富本君の曰ふには、粧飾などは多くの靑年美術家から藝術の劣等種類であるかの樣に見られてゐるさうだ。全く驚いてしまう。
都ての偉大なる藝術は装飾的である、そして都ての眞の粧飾は偉大なるものである30

南は、この一〇月二四日から二八日まで神田三崎町のヴィナス倶楽部で開催された展覧会に並べられた作品を、「富本君が陶器に就いての第一回とも云ふ可き試作である」31と、位置づけた。この夏、伊豆、箱根、東京と大きな苦悩を抱えながら放浪する富本の姿を南は身近で見ていた。疑いもなく、それを踏まえて、この展覧会評「富本憲吉君試作品展覧會の陶器を見て」は書かれている。まさしくこの一文は、南から富本への友情に満ちた一種の応援歌だったのである。

それでは、身を裂くような苦悩のなかにあって箱根でたどり着いた「模樣より模樣を造る可からず」という、富本にとってもはや決して曲げることのできない製作にあたってのこの原理は、この時期の作品にどう貫かれていたのであろうか。当時の心境を富本は南に、次のように打ち明けている。

而して実際に野に出て模様を造る事をする時には古いそれ等を一切忘れたい。若し忘れたいと考へた人が居るなら、忘れ様としても後ろから後ろから影の様に好い古い模様が付いて来て自分の新工夫をさまたげる筈である。自分はママもそれに困る……風景人物等を自由自在にこなしつけた古い模様を考える毎に自分の小さい力ない事を思う32

この展覧会の初日の午前中にオープニング・パーティーが開かれた。そして、その招待客のなかに交じって尾竹一枝の姿があったにちがいなかった33。『青鞜』の表紙絵「アダムとイヴ」の下絵を依頼するために単身一枝が二度目の安堵村を訪れたのは昨年末だったので、もしそれ以降ふたりが会う機会をもっていなかったとすれば、それからほぼ一年が立とうとしていた。ふたりはそのとき、どのような思いで三度目の出会いを果たしたのだろうか。

二.ヴィナス倶楽部でのふたりの出会い

さかのぼること、青鞜社を退社した一枝が、安堵村に憲吉を訪ねたのは、ほぼその一年前の一九一二(大正元)年の暮れのことであった。この年の二月にも訪問しており、したがって、このときこれが二回目の顔合わせであった。ここで一枝はおもむろに、『青鞜』新年号(第三巻第一号)に使う表紙絵の下図を依頼したものと思われる。平塚らいてうは、このことについてこう記憶していた。

すでにおもて向きは退社となっていながら、紅吉は編集室へもわたくしの円窓の部屋へも、相変わらず顔を見せていますし、三巻新年号からの表紙絵――それはアダムとイブを描いたすぐれたものでしたが――を、自分で木版を彫るなど、たいした骨のおり方でした34

一九一三年一月号の『青鞜』から、憲吉の下絵に紅吉が版木を彫った「アダムとイヴ」に表紙絵が切り替わった。他方、内容においても、「新らしい女、其他婦人問題に就て」を「附録」として巻末に組むことにより、創刊以来の文芸雑誌としての性格を保ちながらも、女性解放運動へ向けての機関誌的存在へと、この号からその性格を変えていった。

らいてうの回想は、続く。「大正二年一月から二月にかけて、忙しい日がつづきました。『青鞜』の編集を、一月号の婦人問題特集にひきつづき、二月号も同じく婦人問題特集で、諸家の新しい女観を追求することにしたほか、前々から生田[長江]先生に勧められていた講演会を、いよいよ二月十五日にひらくことにしたからでした」35。紅吉は、いまだ青鞜社と決別しがたかったのであろうか――。「講演会の準備を進める社員のなかに、ビラや入場券の作成を受けもって、たのしそうに動きまわっている紅吉」36の姿が見受けられた。しかし、そうした中途半端なかかわり方を快く思わない社員も、なかにはいたようである。『青鞜』八月号の「編輯室より」の記述に、それを見ることができる。以下は、その記述の一部である。

尾竹紅吉氏がまだ本社の社員であるかのやうに思つてゐる方もあるやうですが、同氏が自分から退社を公言されたのは昨年の秋の末だつたかと思ひます。……同氏の特殊な性格を知つて居ますから社は大抵は黙許して参りました。けれども今日はもう社とも、社員とも全然何の關係もありません。従って同氏の言動に就ては……社にとつてもらいてうにとつても誠に迷惑なものであります37

表紙絵「太陽と壷」と巽画会への出品作品《陶器》にはじまり、「同性の恋」「五色の酒」「吉原登楼」そして「恋の破綻」を経て、表紙絵「アダムとイヴ」の製作と巽画会への《枇杷の實》の出品をもって、ここに紅吉の青鞜社時代はすべて終わり、幕を閉じることになった。かくして七月の下旬、傷心のうちに紅吉いや一枝は、信州から北越、そして秋田への旅に出ることにした。

最初の訪問地は長野だった。しかし、青鞜社を離れた一枝とはいえ、周りの見る目は、やはり「青鞜の紅吉」であり「新しい女」であり、また同時に、昨年世間の大きな話題となった「同性の恋」や「五色の酒」、そして「吉原登楼」と、いまだ固く結び付けて考えられていた。以下の一文は、七月二五日付の『東京朝日新聞』に「新しき女 古き女に翻弄さる 紅吉と婦人記者」という見出しのもとに掲載された、そのときの記事である。

例の新しい女元青鞜社員尾竹紅吉は信州から新潟に出で秋田に入るの旅行を思ひ立ち廿一日午前六時四十分上野發で長野へ降りた、すると長野市の婦人記者と名乗る女が廿三日夜紅吉の旅宿を訪問し文學談から新藝術論を戦はし兩人意氣大に投合して一所に飯を食はうと料理店竹葉へ上り藝妓柳屋小稲を聘んでビールウイスキーを鯨のやうに飲む[、]酔が廻つて來ると何方から云ひ出したものか車を連ねて長野市の鶴賀新地の遊廓大黒楼へ繰込み相方を極めての大浮かれ夜の十二時頃二人は同楼を引上げた[、]所が此婦人記者と名乗つた女は其實同市の文學藝妓蔦屋の新駒で何の新しい女が生意氣な一つ此方の腕を見せてやらうと女記者に化けて首尾よく仕組んだ悪戯の一幕であつた38

一年前の七月一三日付の『國民新聞』に掲載された「所謂新らしき女(二)」の焼き直しではないかと思われるほどのよく似た記述内容である。またまたジャーナリズムをにぎわす紅吉が、ここにはあった。身分を偽ったうえに、わずかな出来事にさえも大きな尾ひれをつけ、おもしろおかしく描いた、悪意に満ちた記事とも考えられるし、その一方で、自分の行為に対して相手がどう反応するのかを見て密かにおもしろがる紅吉特有の好奇心が、こうした記事を結果的に引き出してしまったと考えることもできるかもしれない。いずれにしても、実際にどのような力が作用してこのような記事になったのか、その真実はわからない。

ところが、信州に続く次の訪問地の新潟を題材に、『東京日日新聞』に書き送られた紀行文(一九一三年八月一八日の「新潟から」から一九一三年八月三一日の「左樣なら新潟」まで九回にわたり連載)を読むと、もうひとつの別の紅吉の側面が浮かび上がってくる。思えば、新潟は父越堂(本名は熊太郎)の出身地でもあった。まず、八月一四日に書かれた「第一便」――。

 新潟に着いてから私はまだ何處にも餘り出かけません。
 ぶらりぶらりと雨のそぼ降る柳の下を小一時間も歩いて來たのと、白山公園に夕方ちよつと散歩したのと、信濃川から川蒸気で白根に下つて見たばかりです。
 淋しいのとわけのない悲しさで見物したり騒ぎ廻るところぢやありません。ただ一日も早く東京に東京にと戻ることばかり考へてゐます39

「淋しいのとわけのない悲しさ」は、この新潟で癒されることはなく、逆に東京の都会生活への少しでも早い復帰を願う。

次は、「おゝ佐渡ケ島」という見出しがつけられた「新潟より七信」からの引用である。書き出しはこうである。「ぽかりと、氣まぐれに晴れた朝、新潟の濱をみる。裏濱から砂原にかけて松の木がうねり砂丘の上は海に入るまで靑く光つて蔭をなげてゐた。日本海の浪がどたりどたりとうちつけられてまだ夏の繪心を忘れられない旅の者の私を騒がした」40。日本海に面した砂浜と松の木立を見ていると、ちょうど昨年のこの時期、茅ケ崎の南湖院で転地療養をしていた自分の姿が紅吉の脳裏に蘇ってきたのかもしれない。そこも松林に囲まれ海岸に面していた。しかしそこは、らいてうと奥村が劇的に出会い、その結果らいてうの愛を失うことになる、決して忘れることのできない悲惨な思い出に色塗られた場所でもあった。それに加えて、このときの入院が絵の製作を妨げ、結局昨年の文展には出品できなかった、苦い思い出もまた、紅吉の胸中をかすめていったかもしれなかった。この時期になると、画家であれば誰しもが、秋の文展へ向けて血が騒ぐのであろうか――「まだ夏の繪心を忘れられない旅の者の私を騒がした」。紅吉も例外ではなかった。

一方、ちょうどそのころ、製作にかかわる深い悩みに落ち込んだ憲吉は、避暑を楽しむリーチを箱根の別荘に訪ねていた。佐渡ケ島を望む浜辺と箱根の湖――満たされぬ苦悶を引きずる若いふたりが、そこには、距離を隔てて別々にあった。憲吉はここで、これまでの製作方法を毅然として断ち切り、「模樣より模樣を造る可からず」という信念を得た。一方、紅吉はかの地で、いかなるものにも動じず、自然を自然のままに受け入れている他者の姿を見て羨ましく思い、それとは逆に、何かいつも物影や人影に怯え、気に病んで萎縮している自己に気づいては哀れんだ。以下も同じく、「おゝ佐渡ケ島」のなかの一節である。

 私はいつの間にか自分の生活や仕事に對してなんの迫害も圧迫も感じてゐない、濱の人や田舎の人が羨ましく思はれた。そして自分がいつまでも子供にやうにひとりぼつちを怖がつたりどろぼうやおひはぎ、ひとさらひを恐ろしがつてゐたり、有るのか無いのか居るのだか居らぬのだか分らないのを恐ろしがってゐるようなことを憐まずにはおれなかつた41

「秋らしい風が吹いてゐる。秋らしい色が見江てゐる。私の『藝術』はいつも私からはなれずにぴつたりついてゐる」42――こうした思いを胸に、紅吉は、新潟から秋田へと旅の足を延ばした。秋田では、母の還暦祝いで郷里のこの地に帰省していた名古屋の『扶桑新聞』主筆の青柳有美と、八月二七日に会った。「この日、尾竹紅吉は、『東京日々』の嘱託通信旅行任務を帯びて、岩代の福島から同じく羽後の秋田に這入つた……有美ぼくは、紅吉と一緒に郊外に散歩もした、紅吉の旅宿も尋ねた、紅吉と共に飲食もした」43。そのとき青柳が受けた紅吉の印象は、次のようなものであった。

『いや、疑は人間に有り、天に偽り無きものを』
 謡曲『羽衣』の語である。尾竹紅吉を問題の女にするのは、全く以て人間の曲事。あら恥しや、紅吉には偽りが無い。紅吉ほど、素直に淳良に育つた娘は、世に又と多くあるまい。紅吉は、まだ乳の臭ひの取れぬ頗る子供臭い女の兒である。之を問題の女にした世間の人の氣が知れぬ。否な、是れも全く人間は疑があるからの事だ44

「紅吉には偽りが無い」――これこそが、否応なく人を惹き付け、そしてある場合には、人から問題にされる、紅吉独自の人となりなのであろう。そして青柳は、紅吉の前途をこう気遣った。

 紅吉は、繪で世に立つ積だといふ。縞絽セルの袴を着け、クスンだ色合いとヂミな縞との羽織や單衣を一着に及んだところは、如何にも女畫師らしい。女の畫師になるなら、それも結構だ。たゞ、『威嚇』の聲たけを耳にさせたく無い伝爾45

東京へ帰ると、一枝は、文展へ向けての作品づくりに邁進したものと思われる。【図七】は、そのころ画室で製作に取り組む一枝の姿である。出品作は、《弾琴》であった。一〇月九日より三日間、鑑査が行なわれた。本年度の第一部日本画第一科の出品数は五六八点で、合格数は三三点、日本画第二科の出品数は七二七点で、合格数は七五点であった。しかし一枝の《弾琴》は、合格作品のなかには入らず、一六日からの展覧会に陳列されることはなかった。これもひとつの、青柳がいった「威嚇の聲」だったのであろうか。青柳はこうもいっていた。「紅吉は、何時までも今の紅吉にして置き、之に『威嚇』の聲を聴かせたく無いものである。若し將來に於て我が紅吉の前途を威嚇するものあらば、その者は、必ずや、子々孫々末代までも、大自然の呪咀を受くる。喝」46。この作品の面影は、高井陽と折井美耶子の『薊の花――富本一枝小伝』(ドメス出版、一九八五年)のカバー絵に見ることができるが、その後、竪琴を奏でる人物を見つめる女性の一部【図八】のみが切り取られて残され、それ以外は損傷が激しいために破棄されている47

さてこのとき、父越堂の《麒麟》と《鳳凰》、叔父竹坡の《愁いの巷》と《八仙人》、そして同じく叔父国観の作品《こうもり》もまた、同様に鑑査から漏れ落ちた。国観の孫にあたる尾竹俊亮は、『闇に立つ日本画家――尾竹国観伝』のなかで、次のように、その事情を説明している。「国観ら兄弟画家を画界から排する、そのための決定打が文展での落選といえる。落選の音頭をとったのがほかならぬ[横山]大観なので、彼の絵画評が人格評まで延びていった」48。そして紅吉についても、こう述べる。

 紅吉は選外展に「弾琴」という題の、琴をかなでる人物画を出品した。この作は文展ではねられたが、同年の巽画会展への「枇杷」「陶器」などは、佳作と評され褒状をえている。
「弾琴」の仕上がりぶりにもまして三兄弟の子女までが文展を目ざしはじめたという一事が、画壇の独占をはかる人には煙たく、神経質な審査員にとって脅威となっていった。紅吉につづき三女の三井も文展への意欲をみせていたから、大観らがいだく尾竹一族への警戒が杞憂とは考えにくい49

このときの文展選外美術展覧会について、『美術新報』一一月号は、以下のように報じていた。「二六新報主催の下に十月二十一日より十一月五日迄東兩國回向院にて開き文展選外の佳作を陳列せるが、主な作品は……麒麟と鳳凰(尾竹越堂)……等」50。そして同号において、主筆の坂井犀水は「審査發表に就て」と題した一文を起こし、そのなかで、尾竹一門を排除した審査結果が念頭に置かれていたかどうかはわからないが、「文展審査の亂脈なることは、年々の常例とは云ひながら、斯く迄世間を愚にしたる結果の發表せらるゝに至つては、吾人は審査の百害あつて一利なく、寧ろ之れを廢するの必要なるを怒號せざるを得ず」51と書いた。

一〇月二四日からヴィナス倶楽部で開催される「工藝試作品展覧會」への案内状が、憲吉から一枝のもとへ届いたのは、第七回文展での《弾琴》の落選が判明したちょうどこのころのことであったと思われる。一枝は、初日の午前中に開催されたオープニング・パーティーに出席したであろう。五尺五寸三分という大柄で、また昨年以来、新聞や雑誌において好奇の目で見られていた、「新しい女」であり「問題の婦人」であった一枝(紅吉)は際立った存在だったにちがいなかった。憲吉と語らう一枝の姿を見た招待客は、ふたりの関係についてどのように思ったであろうか。それについての証言は残されていないが、いずれにしても、ふたりにとって、これがおそらく三度目の顔合わせであった。実際に会ってみると、何か大きな衝撃が憲吉を襲ったようである。オープニング・パーティーが開かれた翌日(二五日)の日付で、二葉のはがきが、東京の千駄谷町に住む南薫造に宛てて出された。しかし、かぎ括弧のついた短い会話文のただ羅列によって綴られており、要領を得ない、ほとんど意味不明な内容となっている52。次に、会期が終わった三日後の一〇月三〇日に、少し冷静を取り戻した憲吉は再び南に手紙を書き送った。そこには、「百姓と云ひ云ひして居るだけ自分の心及び身体が百姓となり得ぬ事は勿論よく知って居る」としたうえで、結婚についてこう書かれていた。

何には兎もあれ此度の展覧會でチト困った事は、二三ヶ月前から妻持する様になって居た気持が全然コワレて又々元の様な寂みしい寂みしいと云ひながら自分を馬鹿に良く考へてママ暮す様になった事だ53

すでに引用で示したように、つい二箇月ほど前には「ハウス、ホールドを探がさにゃならぬ。いよいよ本気になって、誰れかなかろふか。東京で育った若い女がコンナ沈むだ様な村の人になるか何うだか」と、南に打ち明けていた憲吉ではあったが、この展覧会で一体何が起こったというのであろうか。一枝というひとりの実在の女性を目の前にしたとき、これまでの一般論的な希望的結婚観が一瞬のうちに崩れ去り、家柄や家族といった自己を取り巻く現実的な環境のもつ重さへと引き戻され、結婚へ向かう困難性を改めて気づかされたのであろうか。あるいは、ちょうど一年前に上野公園で開かれた拓殖博覧会の会場で「女房にするならコノ形と心をした女」54と、一目惚れをしたギリヤーク人の絵はがきを売る娘と、あまりにも大きな隔たりがあることに気づき、失望したのであろうか。それとも、一枝に向けられた周囲の異質な眼差しを読み解きながら、この女性が自分の結婚相手にふさわしいかどうかにかかわって、何か強い動揺が走ったのであろうか。たとえば、友人の津田青楓がこの場に招待されていたとするならば、どうであろうか――。この年の春、一枝が六曲一双の屏風《枇杷の實》でもって第一三回巽画会展覧会で褒状一等を受賞した際に、津田は『多都美』において、「近頃、新聞や雜誌で馬鹿に持て囃やす所謂新らしき女の一人に尾竹紅吉と云ふがある……如何な名作かと見れば昔の繪巻物からとつて來た構圖に何等の新奇も、創意もない古い古いものである。新らしい女ならばコンベンシヨンを破壊したものを描きさうなものだ。あんな下らない模倣的なものを出して新らしい女が呆れて了ふ」55と、酷評していたからである。

どのような理由から「二三ヶ月前から妻持する様になって居た気持が全然コワレて」しまったのか、いまのところ、それを正確に知るうえでの資料を見出すことはできないが、憲吉の手紙は、このように続いていく。

僕には「三百年の血統をたやし得ぬ、むしろ保護し長生させたい気持ち」と……「一種のはかない人生をたどる」的の相反對するママつの気持が有る様だ。――一切のものに。――と考へる。多くは模様の考への方からかも知れぬが「はかない人生」から生れる気持を味ひながら、暮らしたい様な気になって来て居る56

これは、模様についてであろうと、結婚についてであろうと、三百年の伝統のなかにあって、これまで引き継がれてきたすべての規範や価値をかなぐり捨て、それゆえに「はかない人生」になることが十分に予想されるも、自らの眼前に広がる美しい世界に一条の希望を抱いて、これから歩み出そうとしている自分のいまの心情を伝えているのであろうか――。さらに続けて、憲吉はこうも書いている。

何れ、僕の具体的ママ考へを家族に発表すれば富本一家は上へ下へのサウドウだろふと思ふ。如何にサウドウが有っても今見て居る美つくしい世界が一層廣げられるなら僕の眼中に家族も名も妻もおかない57

一年ぶりに会った一枝と仮に今後結婚しようとした場合、どのような問題がそこに派生するのであろうか。美しい自然はあるとはいえ、大和の単調で肉体労働的な百姓生活に、都会育ちの一枝は本当に馴染むことができるであろうか、さらには、家督を継いだ旧家の長男の嫁としての役割を周りの期待どおりに一枝は果たしてくれるであろうか。それ以上の問題が、憲吉の側にあった――自らの個人の意思により百姓の生活を断ち切り、美術家の道を歩むというようなことは、富本家の跡取りとして本当に許されることなのであろうか。いずれも、富本家の安定的な存続という観点に立てば、克服するのに極めて困難な問題であったにちがいなかった。家制度から逃れたい。そのためであれば、富本の名も棄ててもいいし、妻帯も諦める。ただただ、いま見えている新しい模様の世界にあって工芸を追求してみたい。このとき一瞬、そうっと不安と寂寥が忍び寄った。憲吉はここまで書くと、「秋ママみ小さきうすき我が蔭を振見かへりつ去りて行くかな」58と、胸中を歌に詠み、床に入った。

三.一枝による『番紅花』の創刊

それから二箇月に満たない月日が流れ、一九一三(大正二)年も終わりに近づこうとしていた。「連日の地主會も昨夜決着。本日は朝来一度に持って来る小作米を母を助手にして一日に約五十石取った。一日の勞を入浴に洗ひおとし、今御端書拝見」59。一二月二三日付で南に宛てた富本の書簡は、こうした書き出しではじまっている。決して不満を漏らすこともなく、本来の富本家の家長としての役割を務めている憲吉の姿がそこにはあった。また、書簡のなかで紹介している近作にも、決して迷いはない。「桐のひともと寒風に葉を振り落とし/なほ天をさす勇ましいかな」。そして製作も、さらに勢いづく。「いよいよ轆轤師が京都から来る。秋以来百五十枚の図案を画室中の壁へ張りつけ兄の謂ゆる中世紀のラッパをふく事となる」60。このときすでに、年が明けた三月五日から一四日までの期間、東京の尾張町の三笠で個人展覧会を開くことが決まっていたのであろう。もう二箇月あまりしか残されていない。

壱二の二ヶ月間に約三百の陶器を造る、つもり。モウこの位出来れば
  「ヴイレージ、ポタリー、バイ、ミスター、トミモト」
と云ふ廣告を雑誌アート、エンド、クラフトと云ふ様な處へ出したい程だ。
非常に健康良好な自分は歌に、模様に、凡てのものに突貫する61

この書簡を受け取った南は、この夏の絶望的な苦悩から、完全に立ち直った富本の姿を読み取り、胸を撫で下ろしたにちがいなかった。そして、自分が『美術新報』の一二月号に書いた「富本憲吉君試作品展覧會の陶器を見て」が、少しでもそのことに役立っていたとするならば、南の喜びは弥増したことであろう。

そのころ、一枝もまた、新しい企てに着手しようとしていた。

一〇月二一日より一一月五日まで東両国の回向院において文展選外美術展覧会が開かれた。父越堂の《麒麟》と《鳳凰》に交じって、一枝も落選作品である《弾琴》を陳列した。しかし、この時期を最後に、二度と一枝は公に発表する作品製作のために絵筆を握ることはなかった。それは、何を意味するのであろうか。のちに一枝は、父親のことをこう回想している。「私の父は日本畫を描いて居た。私達はその頃大阪に住んでゐた。何が動機で父が私に繪がかかせたかつたのか知らないが、大方畫かきの子は畫かきにといふ極くあたり前の考へからであつたやうに私には思はれる。とにかく私は女學校の下級生であつた頃から父の考へのやうな繪をかくために仕込まれてゐたやうだ」62。どうやら絵の製作へと一枝を向かわせていたエネルギーは、「畫かきの子は畫かきに」という因習的な親子の力学を背景に他律的に成り立っていたらしく、その才能の有無は別にして、一枝自身、絵を描くことには本来的に魅力を感じていなかったようである。また一枝は、父親との確執を次のようにも回想する。「時には、信貴山縁起だの福富草紙だのという繪巻の模寫まであてがはれたが、私は父の希望するやうに、繪をかく人になる氣などまるでなかつた。それどころか繪をかく勉強などさせる父を心のなかでどんなに憎んできたか知れない」63。そうであるとするならば、親子の文展落選のこの時期に筆を折ったことは、明らかに、父親が求めてきた一方的な期待に対する娘からの最終的な拒絶の姿勢を意味することになるのではないだろうか。しかし、ただそれだけが要因ではなかったと思われる。ここで想起したいのは、「あなたは、いい繪をかくことに精進なさいと平塚さんに言はれた。繪など、そんなにかきたくないのですとどうしても言へなかつた。……羞恥のため消え入るばかりの思ひでゐたから、文學の勉強がもしも出來たら本黨は好きでやりたいのですと言へなくなつた……」64という、すでに一年半以上も前になる一九一二(明治四五)年二月のらいてうとのはじめての出会いについての一枝の回想である。らいてうを慕う気持ちがあればこそ、一枝は、らいてうを裏切らないために絵を描いてきたともいえる。しかし、らいてうと決別した以上、もはやその必要はなくなり、そのことが絵から離れるもうひとつの要因だったのではないだろうか。そして、それは同時に、もともと関心をもっていた「文學の勉強」への回帰を意味するものでもあったはずである。その兆候はすでにあった。

ちょうど半年前のことになろうか、らいてうが一枝から距離を置くようになり、一方、第一三回巽画会絵画展覧会において一枝の六曲屏風一双《枇杷の實》が褒状一等に選ばれたとき、四月五日付の『多都美』は、「尾竹一枝氏はママ父尾ママ竹坡氏の後援に依て文藝雜誌を發行するさうである」65と、「消息欄」において報じ、一枝の次の計画について短く言及していた。第七回文展の鑑査に漏れたことにより、このときの予告にある、文芸雑誌創刊へ向けての計画が、一枝の脳裏に再浮上してきたのではないかと推測される。そして、その計画の実現にあたっては、「竹坡氏の後援」だけでなく、《枇杷の實》の売却代金もまた、投入されたものと思われる。というのも、四月八日付の『讀賣新聞』が、こう伝えているからである。「今回一枝といふ畫名で巽畫會に出品したのは『枇杷の實』と題する六曲屏風で、大枚三百圓と札がつけてある……その畫は開會間も無く物好きな福島於莵吉氏が買取つたので、紅吉はホクホクもの、サテ其の三百圓は何うなるのかと云へば、今度紅吉が出す雜誌の保證金に充てるのだそうだ」66。そしてまた、どうやら、雑誌の創刊という思いつきには、らいてうが主宰する『青鞜』への対抗意識も働いていたようである。のちに一枝は、「『靑鞜』であんまり叱られたので、それならこつちも、といつた氣がまえだつたようです」67と回顧している。

こうして、一枝の新たな企ては、実行に移されていった。この文芸誌はその名前を『番紅花さふらん』といい、編集所は一枝の自宅の「下谷区下根岸町八十三番地」に置かれ、月刊誌として一冊三〇銭で東雲堂書店から一九一四(大正三)年三月一日に第一巻第一号が発行された。同人は、尾竹一枝、松井須磨子、原信子、小笠原貞、神近市子、そして小林哥津の六名であった。それに、八木麗子と澤子の姉妹が、編集に協力していた。まさしく女性による女性のための雑誌であった。

この文芸誌の刊行に至る経緯については、創刊号の巻末にある「編輯室にて 同人」68に詳しい。そのほとんどが、「をだけ・かづゑ」の筆名によって書かれているが、それによると、おおよそ以下のごとくであった。

一九一三(大正二)年の暮れ、一枝たちは「何處からも見ても凡の事に經験のない、智識のない」者としての自覚のなかにあって、「自分達の成長の爲に雜誌を作らう」という希望を抱き、松井須磨子がサロメを演じていた帝劇の「化粧部屋に集つてこれから仕樣としてゐる仕事についての可成の雜談をした」。年が明けると、田舎に帰っていた小笠原貞と神近市子が上京してきた。「そこでいよいよ創刊號を三月一日に出すと云ふ事を眞當に決めてしまつた」。「番紅花サフランと云ふ名前のついた日は一月の一八日で」、松井の部屋に集まったときのことであった。どういう理由から雑誌名に「番紅花」が選ばれたのかは、一枝は言及していないが、「紅吉」の「紅」が漢字三文字の中央に配された「番紅花」に、自分の号である「紅吉」を永遠なものとしてここで封印させておきたいという思いがあったのかもしれない。というのも、『番紅花』以降から、一枝は青鞜社時代の「紅吉」を使うことなく、ほとんど実名で通すことになるからである。

三月一日の創刊に向けて、具体的な編集作業が進んでいった。一枝は「森[鴎外]先生に原稿を頂くように御願ひに出た」。勤務先の陸軍省に鴎外を訪ね、そこで一枝は、「私達は勿論出來るだけ力の及ぶ限り勉強いたしますから先生もちいつと私達の生立を見守つてゐて下さいますよう」にと、お願いした。一方、鴎外の日記には、二月四日「尾竹一枝の書を得て復す」、二月五日「尾竹一枝始て來話す」、二月一三日「サフランを書きて尾竹一枝に遺る」、二月一四日「サフランの海外通信を尾竹一枝に遺る」、そして創刊後の三月五日「尾竹一枝來て、烟草を贈る」69と、書かれている。創刊号は森林太郎の「サフラン」が巻頭を飾り、そのなかで、サフランは「ひどく早く咲く花だとも云はれる。水仙よりも、ヒヤシンスよりも早く咲く花だとも云はれる」70と描写されていた。これは、いまだ二一歳に満たない早咲きの一枝の手になる『番紅花』を意味していたのであろうか――。それとは別に鴎外は、毎号「O・P・Q」の署名で「海外通信」を寄稿し、この「早く咲く花」への支援を惜しまなかった。

他方、原稿集めだけではなく、表紙のデザインの依頼においても、一枝は奔走した。同じく「編輯室にて 同人」のなかで、協力してくれた憲吉に対して一枝は、このように感謝の気持ちと次なる期待を書き記している。

 表紙は富本憲吉氏にお願ひした。
氏は陶器の小展覧会の作品を作ることで御多忙なときだつたけれど折返し私達みんなが等しくよろこんだものを送つて下すつたことを私達は大變に嬉しく思ってゐる。
 裏繪も、別にいいのがあつたけれど、あとから送つて下すつたのを遂々眞當に使ふことに決めた。
 時が少しおくれたなら木版もやつて頂けたのに、と慾の深いことを私は希つた。
 この次にはもつともつとよい表紙を作つて頂く約束がもう出來てゐる。

一枝が鴎外に原稿を依頼したのが二月のはじめだったことを考えれば、それとほぼ同じころに、表紙絵を憲吉に依頼したものと思われる。そのときの両者の思いが述べられているような資料類は見当たらないが、ちょうどそのとき憲吉は、二月一八日付の「よみうり抄」が伝えるように、三月五日から尾張町の三笠で開く展覧会のために「目下郷里で製陶に熱中してゐる」71ところであった。寸時を惜しんでの製作中だったにもかかわらず、憲吉は好意的であった。大和から送られてきた表紙絵が【図九】で、裏絵に使われた《女の顔》が【図一〇】であった。

こうして『番紅花』の創刊号は世に出た。一枝にとつて、ひとつの夢がかなった、晴れがましい瞬間であったにちがいなかった。というのも、一年半前の第六回文展に、転地療養中だったこともあって出品できなかったとき、絵の製作がうまく進まず苦悶する長沼智恵子を見て、その精神的充実ぶりをうらやましくも思い、こう告白していたからである。

そんな樣に凡てが充實しきつて、そして出來上つた作品はどんなに尊いものでしよう。
私達にしたつて、そうして出來上つた作品の前に面とむかつたら、どんなに氣持が好いでしよう。私は一人でも多く充實した、自分を信じた、そして露骨な「作品」を作り出す人が增して行くことを待つてゐます72

これが、自分の製作にこだわりをみせるのではなく、それよりもむしろ他人の充実した製作を待ち望む、当時の一枝の心情を構成する基底となる部分であった。そうした土壌から、時を経て、ついに『番紅花』が芽を吹いたのである。『番紅花』は、絵画作品の発表の場ではないが、一枝は、本来的に関心を抱いていた文学の創作をとおして、人と自分がともに成長していくうえでの、あたかも、四季折々に咲き乱れる花畑のようなものになることを願っていたのではないだろうか。

創刊号は、それにふさわしく、同人の六名と八木姉妹、それに森林太郎以外にも、武者小路實篤、一枝の妹の尾竹ふくみ(福美)、菅原初といった豪華な執筆陣が顔をそろえていた。一枝の投稿作品は、「私の命」他一編(詩)、「夜の葡萄樹の蔭に」他二編(詩)、それに「自分の生活」(手紙)の三点であった。以下は、「私の命」の最後の一連である。青鞜社からも、絵画製作からも離れ、新たな仕事と労働のなかに自己の成長と生活を積極的に見出していこうとする一枝にとっての、陽光に照らし出されたまばゆいばかりの人間宣言でもあったにちがいなかった。

私は太陽ひかりのなかで働いてゆく
私は太陽ひかりをみてゐる
私は生きてゆかねばならない
私は命をもつて私の仕事もしなけりやならない
私の仕事、私の勞働、私の成長、そして私の生活、
私はこれらの上に絶對の命を求めてゐる73

確かに「私の命」は、これからの成長を見据えた生命感あふれるものであったが、一方、「夜の葡萄樹の蔭に」を筆頭詩とする、「あはれかなし」と「悲しきうたひ手」を含む三編の詩では、それとは対極にあるような感傷的で悲嘆にくれる心情が表出されていた。そのとき一枝は、大阪から父越堂に連れられ上京して以降の新たな生活に起生した出来事を追憶していたにちがいなかった。自分が産んだ卵をついばむ無慈悲な親カナリヤについての大阪からの知らせ、愛する人に抱き寄せられて口に含んでもらった葡萄酒の香、池のなかで仲よく遊ぶ二羽の水鳥を驚かせた「若い燕」の出現、《弾琴》の落選と父親との葛藤の内なる清算などなど、この約二年間に堆積した心の模様を、夜の葡萄樹の蔭に隠れて、悲しい竪琴の旋律に乗せながら、人知れず「うたひ手」は唄っていたのかもしれない。「私の命」で「未来」に、「夜の葡萄樹の蔭に」他二編で「過去」に、心を寄せた一枝であったが、それでは「現在」の一枝の内面はどのようなもので埋め尽くされていたのであろうか。その世界が、「自分の生活」と題された手紙形式の長文のなかに描き出されていた。

これは、二月一五日の夜に、夏樹からとしちゃんに宛てて書かれた手紙である。この日の夕刻、俊ちゃんは、怒りをぶつけようと夏樹を訪ねるも、夏樹は来客や雑務に追われていたため、ふたりはほとんど会話を交わすことなく、別れた。この手紙は、俊ちゃんの怒りについての夏樹からの戒めであり、さらには、夏樹が求める愛のかたちを俊ちゃんに伝える内容になっている。俊ちゃんは、自分への愛を棄てて別の人へと走ろうとしている夏樹の遊戯的な愛し方をとがめているのであるが、それに対して夏樹は、かつて同じ心的状況に立たされていたことを告白する。俊ちゃんを知る前のこの一年間、「一人の人にひどく愛されてゐたことがありました……その時分でしたよ、私があなたの心持のようでゐたときは」74。そして、そのときその人はどうであったのかを分析してみせる。

 その一人の人は随分弱つてゐましたよ、今、こうしてその時分の問題があべこべになつて私が愛すと云ふ立場をもつてその問題にぶつかつてみると、その時分私を愛してくれた人の心持があんまりはつきり思ひやられすぎて氣の毒やら恥しいやらで随分心苦しく思つていゐます75

「その時分私を愛してくれた人」とは、おそらく平塚らいてうのことであるにちがいない。らいてうが自分への愛を捨て去って奥村博に愛を見出したとき、その理不尽さを激しく責め立てた自分をいま思い返すにつけて、「随分心苦しく思つていゐ」と懺悔しているのであろう。そして夏樹は、その人がそのとき与えてくれた愛の実態を回想して、こう述べる。「その人はよく葡萄酒を口うつしにしてくれました。あの人の唇から私の幼い唇にそれをそそがうとして私をしつかり抱いてくれたときなんか私は眞赤になりました、そして嬉しくてたまらなかつたものでしたよ」76。夏樹はこれを、「眞當の愛」と当時思っていた。しかし、いまになって思えば、「馬鹿馬鹿しいふざけ方」に映る。そして俊ちゃんが、「私の過去の或る時の行為と同じ色彩をもつた人」77に思えてくる。どうやらここでは、過去における「らいてうと紅吉」の関係が、いまや「夏樹と俊ちゃん」という関係に置き換わって再現されているらしい。違うのは、夏樹は俊ちゃんの疑いの眼差しを、「私は現在に於て特別な愛の交渉をもつてゐるのはあなたより他にたつた一人もありません」78と、きっぱりと否定している点である。一方、H氏については、「あの人をほんとうに好きなんでんママです、けれどその人を好きだと云ふ事がすぐ一直線にその人を愛すと云ふことになるでしようか。[あなたは否定するかもしれませんが]私は決してそんな事を考えたこともありません」79と、夏樹はいう。そして夏樹は、こう俊ちゃんに呼びかけるのである。

 俊ちゃん、
私はくりかへして云ふ。
 あなたは、美しい人なんだ、珍しく綺麗な人なんだ、だから普通の女よりも、ずうつとずうつと優しく優しくそしておとなしく平和であつてほしい。私はあなたが優しくそしておとなしくあるとき、どんなにかあなたを可愛いものに思ふだらう、私は眞當に可愛ゆく思つてゐます80

このように、『番紅花』の創刊号で、一枝は「自分の生活」という手紙文をとおして、夏樹と俊ちゃんのあいだの愛の交渉について書いていた。一枝は、これを誰に読ませようとしたのであろうか。この手紙の宛名になっている「俊ちゃん」であろうか、それとも、「その時分私を愛してくれた人」なのであろうか――。少なくとも憲吉ではないだろう。そう考えるならば、この時期の一枝の心は憲吉にはまだ向かっていない。

一枝は続けていう。「美しい人や綺麗な人がより以上優しくおとなしくあつたとき、その周圍の人はどんなにか幾倍もその人を愛しその人を見守るだらうと云ふ事をよく考へてみて下さい」81。夏樹から俊ちゃんへのメッセージのかたちをとっているものの、実はこれは、女性が女性を愛すること、つまりは女性が女性を支援することの美しさを本能的に嗅ぎ分けている一枝から、すべての周りの女性たち――編集する女性たち、寄稿する女性たち、そして購読する女性たち――に向けられた優しいメッセージだったのではないだろうか。その意味で、巻頭の鴎外の「サフラン」が、表に立った外部男性からの「お祝いの言葉」とするならば、この一枝の巻末の手紙文は、『番紅花』の創刊号を飾るに最もふさわしい、陰に隠れた内部女性からの「創刊の辞」だったのである。そしてもし、ジェンダー/セクシュアリティーの視点から『番紅花』の創刊を概観しようとするならば、この事例の場合、女性が女性を愛する行為は、必ずしも完全なる男性排除を意味せず、それよりもむしろ、「表」「外部」にあって男性を必要とし、一方、女性が「陰」「内部」の役割に配属されていたことが、読み取れるにちがいないだろう。その表を飾るにふさわしい外部者のひとりとして、いまだ憲吉も配置されていたのである。しばしば、『番紅花』は内容と形式の双方において「豪華」であったといわれる。もしそうであるとするならば、それは、「内部」と「外部」の緊密な構造の安定性に由来していたといえるのではないだろうか。結局この雑誌は、第一巻第六号(一九一四年八月号)をもって自然休刊した。半年間の短命に終わったのは、疑いもなく、この安定性の崩壊に起因していた。

四.鹿沢温泉での求婚

『番紅花』の創刊にあたかも合わせるかのように、三月五日に、一〇日間の会期で、憲吉の展覧会が幕を開けた。さっそく、七日の『讀賣新聞』でこの展覧会が取り上げられた。好評であった。以下はその記事「二種の個人展覧會 荒井氏と富本氏と」の一部である。

富本憲吉氏の製作品展覧會が五日から京橋區尾張町の三笠で開かれた。壺、瓶、鉢、皿等陶器九十點に圖案三十點何れも氏一流の豊饒優雅な趣味上の産物で、古都の情趣が夢の如く、豊かに漂よつて居る所に一種温雅な藝術的な味の通じてゐる事を思ふ82

さらに一三日には、黒田鵬心が『讀賣新聞』の「美術時評」でこの展覧会を取り上げ、「大躰の趣味はママ去年の『ヴ井ナス[倶楽部]』のと同じであるが、あれよりはきちん・・・とした圖案のものが増加して來た」83と評した。一方、『美術新報』の四月号では、「早春の諸展覧會」で雪堂(主筆の坂井犀水)が紹介し、「特殊の趣味を有し、非凡なる個性を現はして居る」ことを賞讃したうえで、「中には工人を使役したらしいものがあつて、冷やかな機械的な整巧に流れたのも見受けられたのは遺憾であつた」84との苦言も書き加えた。「工人」とは、憲吉が京都から呼んだ轆轤師のことを指しているのであろう。評者の雪堂の目には、陶器の作品にあっては、とりわけ「壺(リンドウ)」【図一一】、「徳利(涅槃之民)」【図一二】、「筆筒(柳)」【図一三】が秀逸と映った。

展覧会が終わり、大和に帰郷すると、さっそく富本は南薫造に宛てて三月一九日付で便りを出した。「秋の展覧會の様なのを開いて今東京から歸へった處。賣れる事は安い陶器が大分賣れた。自分は今、安住の地を撰定するにまよって居る。『人生の孤獨』と云ふ事がヒシヒシと真劍にせめよせて来て困る」85。そして、五日後の二四日に再び筆を取り、「東京では九十点のうち三十四五点うれた……家人は五月になれば僕が妻持すると云ふオミクジを嬉しがる程、困っている……東京にて土地を撰定したくなる程自分の心は安定を失って居る」86。東京で憲吉は一枝に会っている。しかし、このふたつの手紙に、一枝の名前はない。

一枝がこの展覧会に足を運んだとき、ふたりはどのような内容の会話をしたのであろうか。どうやら話題は主として、今後の『番紅花』に使用する表紙についてであったようである。『番紅花』四月号の「編輯室にて」が、こう伝えている。

 表紙は富本憲吉氏が是非違つたのにしたいと、先達三笠で話してゐられた。表紙は氏の木版畫になる。色彩は三色の版になる。併しそれより版かずが加はるかも知れない。とにかく非常にいいのをして下さることになつてゐる。扉繪もカットもみんな等しく出來てくる87

その一方で、一枝は、「五月の上旬、帝國ホテル土曜日の晩七時半から九時半まで」音楽会を開催することを計画しており、同じく『番紅花』四月号の「編輯室にて」のなかで、「音樂會のビラは富本憲吉氏にお願ひする。番紅花の音樂會は番紅花の記念祭のためにするものである。愛する五月に」88と予告している。そしてまた、この四月号で、扉絵が小林徳三郎のものから憲吉の作品《温暖》【図一四】に替わった。

こうしていよいよ、五月号(第一巻第三号)からさらに一新され、表紙絵が【図一五】に、また扉絵も【図一六】に差し替えられた。以下は、新しい表紙絵の誕生の過程について、一枝が『番紅花』五月号の「編輯室にて」において述べている内容の概略である。ここで一枝は、「アダムとイヴ」に続いて再び、憲吉の一部原画を彫ることになる。

憲吉から提供された作品は、一枚の版木に、黒、赤、緑の三色が使われて、手刷りされていた。しかしこれでは、機械仕事に堪えられそうにもないので、黒色の人魚の身体の版と赤色の番紅花という文字の版は、憲吉が彫ったもともとの版を利用するとして、それ以外のふたつの版は、職人に渡すと「小刀で只きれいに、氣持も面白味もなくなめたように彫られることを一寸心配した結果」89一枝自身が彫ることにした。赤色(人魚の髪毛と番紅花の小さな壺と下の長い模様)の版は何とかうまくいったものの、緑色(タンポポンの葉)の版を彫っているときに、思わぬアクシデントに見舞われた。

どうしたはづみ・・・でしたかサラフ・・・道具で左のたかたか・・・・指をひどい勢ひで突き切りましたので、それが爲に版木は血で汚れました、そして他の下繪を彫つてしまつたので、いづれにしても役に立たなくなりました90

それでやむを得ず、期日が迫っていたこともあり、結局この版の製作は、職人の手にゆだねられることになり、一枝は「かへすがへすも富本氏の御仕事を重ねて傷つけた事を心苦しく存じてゐます」91と謝罪する。さらに続けて、表紙の用紙には鳥の子を使ってほしいという憲吉の要望も、高価になるがために、受け入れられなかったことを釈明し、最後に、扉絵について触れ、憲吉の自畫自彫であることを紹介する。

創刊号の「編輯室にて」のなかで一枝が予告していた、「もつともつとよい表紙を作つて頂く約束」は、このような経緯をたどりながら、一部職人の手が入ったとはいえ、結果として、憲吉と一枝のふたりの合作として実現したのであった。このときの新しい表紙絵には、《人魚のよろこびと花をまつ蒲英の葉》という題が、扉絵には、《歌ひかつ昇りゆく雲雀と咲かぬタンポポ》という題がつけられた。この表紙絵と扉絵が、最後の八月号(第一巻第六号)まで続くことになる。

五月に入ると、憲吉の陶器製作は一段と加速していった。五月五日、近況を南にこう告げている。

宮島からの御端書ありがとう。僕はなかなかそれ處でなく先月いっぱい働きづめて又二百ばかりの新陶器を造った。楽のしみのない自分は只製作ばかり。だから陶器はイクラでも出来る。今度は大分面白く行った、様だ。六月或る田中屋と云ふ少し気のきいた店でよりぬいた陶器二三十列べ様と思ふ92

すでに富本は、美術店田中屋から四月二〇日に刊行された機関誌『卓上』第一号の表紙【図一七】の装丁に携わっていた。そうした両者の関係もあって、六月の展覧会は、予定されていたのであろう。

二百点もの新たに製作された陶器は、展覧会会場へと持ち込まれた。まずは、五月一〇日に駿河町三越で開幕した第三回小藝術品展覧会へ。「出品作家二十餘人、連なる人々には、富本憲吉氏、リーチ氏、鍋井克之氏等にて、陶器盆、莨入函等新らしき氣分に充たされたる小作品數十點を陳列せり」93。次に、大阪三越十五日會第三回作品展覧會へ――。会期は五月一五日から二一日まで。ここへは、「壺」「煎茶々碗」「湯呑」「花器」「香盒皿」が運び込まれた94。この間の上京のおり、富本は、柳敬介を伴って安堵村へ帰った。そして五月二一日に、南に宛てて富本は、次のように書いた。

又々展覧會の用事で東上。歸りに五月の大和見せに柳敬介君と申す珍らしき人を引っぱって歸り候。久左

そのあとに、柳がこう続けた。

遇ゝ大和へ壺屋さんの御手傳い旁ゝひるねニ来り候。二[、]三日したら横着して追い出される覚悟をいたし居も、首尾よく相つとめましたら拍手之程願乞。敬介95

滞在は、長期にわたったようである。というのも、六月七日付の『美術週報』の「個人消息」に、「富本憲吉氏 柳敬介氏と相携へて大和國内旅行中」96と記載されているからである。柳のこのときの滞在目的は何であったのであろうか。柳はこの年の一〇月、二科会の創立委員となり、第一回展覧会に富本をモデルにした《白シャツの男》【図一八】と《初夏(大和にて)》などを出品している97。そうであれば、この滞在は、こうした一連の作品の製作が目的だったのであろう。それにしてもなぜ、このとき富本をモデルにした肖像画を描く必要があったのであろうか。昨年(一九一三年)の秋、富本の「工藝試作品展覧會」(一〇月二四日から二八日まで)がヴィナス倶楽部で開かれているが、そのひとつ前のヴィナス倶楽部の展覧会(一〇月一六日から二二日まで)において岸田劉生の《B・Lの肖像》【図一九】が展示されており、この作品はバーナード・リーチをモデルにした肖像画で、すぐにも『美術新報』の一一月号において、作品図版とともに、木下杢太郎によって紹介された98。明らかに、このふたつの作品は、モデルの向きが左右に異なっている以外は、双方のモデルが帽子を着用しているだけでなく、全体的な構図も酷似している。そうした点を考慮に入れるならば、「岸田劉生/バーナード・リーチ/《B・Lの肖像》」と「柳敬介/富本憲吉/《白シャツの男》」には、何か秘められた関係があったのではないかと、ひとつには、対称性をもった一対の作品にしようとする一種の遊び心が介在していたのではないかと、推量することもできよう99。柳は、「首尾よく相つとめましたら拍手之程願乞」と南に書いたが、この作品について、とりわけ白瀧幾之助はどう評価したであろうか。というのも、ロンドン時代、白瀧は下宿を訪ねては、富本をモデルに「長椅子の一方に背をもたせてギタラを手にした姿を油でかいて居つた」100からである。

富本の展覧会活動は、さらに六月も精力的に進行していった。六月一〇日から一六日まで、大阪の高麗橋三越呉服店で「富本憲吉氏工藝試作品展覧會」が開催され、そこで「近作陶器百數點を陳列展覧」101したようであり、それに続き、今度は東京の京橋区竹川町にある美術店田中屋【図二〇】において、六月二三日から七月二日まで、すでに五月五日付の手紙で南に予告していた「富本憲吉氏陶器及陶器圖案展覧會」【図二一】が開かれ、「陶器新作百點の中精選したるもの六十點及新圖案四五十枚」102が展示されたものと思われる。富本はこの「自作陶器展覧會の爲め[六月]廿日上京」103した。

このようにこの時期、頻繁に富本は上京している。おそらくそれぞれの機会に、一枝と会っていたであろう。しかし、大柄の一枝との接触は人目につきやすく、それを避けるために、リーチ宅がデートの場として提供されていたようである。リーチの回想するところによると、こうである。

彼ら[憲吉と一枝]は互いに惹かれていったが、そのころスキャンダルを巻き起こすことなく安心して会える場所がどこにもなかったので、私は妻と相談して、自分たちの家をその使用に提供した。こうして彼らは、相互によく知るようになり、婚約した104

ふたりの逢瀬は、リーチの家だけではなかった。それは、奈良、そして大阪へと伸びた。六月号の『番紅花』(第一巻第四巻)の「編輯室より」のなかで、一枝は、「この間の旅に大和に富本さんを訪ねた。焼きあげられた陶器が静かに書院にならべられて富本さんは静かにそこで憩んでゐられた」105と、書いている。そして、同号に掲載の「五月の雨」という詩には、「大阪にゐる美しいTに捧ぐ」という副題がつけられ、ふたりの別れのつらさが詠われている。次は、その第一連である。

別れの悲しき日に
あめはしとしと銀色ぎんいろにふる
なみだは優しうさしぐまれ
二人のこころが啜泣すゝりな106

七月号の「編輯室より」には、もう一枝の文章は見当たらず、八木麗子が、神近市子と一枝の不在のなかでの編集作業に不満を滲ませながら、こう書いていた。

 今後の號の編輯には随分まごつかされた。神近[市子]さんは月初めの九日に歸郷してしまつた。その前から犬吠岬に行つてゐた尾竹[一枝]さんは、歸京すると間もなく、今度は又た大阪に行つてしまつた。それで否應なく編輯の雜務が小林[哥津]さんと私との上に落ちて來てしまつたのだつた107

一枝はこの号に「いたづらな雨」と題された詩を寄稿した。その末尾には「六月廿四日大阪にて」108と記されている。そして、八月号『番紅花』の「編輯室より」――。編集室から人が消え、とうとう八木ひとりの執筆になってしまった。

 氣の利いた人は山に行つたり海に行つたりして、熱い東京には氣の利かない人ばかり残つてせつせと働いてゐるのかも知れない……九州に歸へつてゐる神近さんは、此頃頭腦をわるくして大へん困つてゐるといふお便りであつた……それから尾竹さんは又大阪に行つてしまつた。今日明日には歸へられるだらうとアテにはしてゐるのだけれど、随分アテにはならぬ話らしい……此號に載る筈だつた尾竹さんの『人形買ふまでの戀』も次號まで待つていたゞきたい109

こうして、一枝の『人形買ふまでの戀』が次号に掲載されることなく、『番紅花』は全六号をもって、あっけなくしおれてしまった。この自然休刊は周りの人たちを当惑させたにちがいなかった。後年の座談会「『靑鞜社』のころ」の席上、コロレエンコの「カマールの夢」(第二号)やカアペンターの「中性論」(第三号)などを『番紅花』に訳していた山川菊栄は、「私は内情も何も知らず神近さんのお話で飜譯を出したことがあるだけですが、大層美しいりつぱな雜誌だつたのが一寸出て忽ち消えて、一體どうしたのか、一度富本[尾竹]さんに伺つてみたいと思つていました」110といっている。しかし一枝は、このときのこの問いかけに正面から答えることはなかった。憲吉との恋愛が主な要因であったことはほぼ間違いないと思われるが、神近市子は、「『ママ紅花』はお金がつづかなかったかどうかで、三号か五号で……」111と述べている。ということは、刊行の継続にあたって資金が底をついてしまった可能性も残されている。

美術店田中屋での「富本憲吉氏陶器及陶器圖案展覧會」が終わると、憲吉は安堵村へ帰り、ここから七月一二日に、一枝に宛てて手紙を書き送った。何度会っても、まだまだ伝え足りないものが、憲吉の胸に残っていたようである。

人々がする様な手紙の上での空論を止めて何うか直接に遇って話して見たい(オープンリーに)と、最初五月にお遇ひした時から考へて居ましたが、御説の通り幾度お目にかゝっても云ひ残した様な感じがします。

ふたりにとって安心の地はどこだったのだろうか、大和、それとも東京――。両者の考えに溝があった。それにしても、『番紅花』を創刊したばかりの一枝に、どうして「東京を去る必要がある」のであろうか。『番紅花』第一号に寄稿していた複数の作品から読み取れるように、本当に一枝は、「悲しきうたひ手」が唄う喧騒の東京における過去の世界から逃れ、未来の「私の命」を大和の牧歌的な田園に求めようとしていたのであろうか。

兎に角、今の処では大和をにげ出すことです。にげ出す様な処に来られても、仕様がないでしょう。
あなたの方では東京を去る必要がある、その事も私にはよく解りますが、私も、大和を出たい。

そして、富本は、東京でのこれからの新しい計画を打ち明ける。これは、九月一日から美術店田中屋内に開設を予定している「富本憲吉氏圖案事務所」のことで、ここでの仕事の協力を一枝に求めるのである。

事務所は真に独立した完全な意味のルームですから、其処で仕事されたらば、東京であって東京で無い様なものです。私は其処に行けばロンドンに行ったつもりで、食事から何から一切その様にするつもりです……只心を落ちつけて私の新計画に幾分の御助力あらむ事を祈ります。

最後に追伸として、「鹿沢温泉に四、五日中に行き、九月一日頃より東京の生活を初める」112と、その手紙には書き記してあった。

この手紙を受け取ったと思われる「七・一五・夕暮れ」に、一枝は、「薄暮たそがれの時」という詩をつくった。そのときの心情がこの詩にどう投影されているのであろうか。末尾に「しみじみとして二人して泣けば/いつしか暮れて/にほやかに鈴虫のなく。」113とある。

追伸に書かれてあるとおり、富本は鹿沢温泉へ向かった。到着するとすぐにも、七月一六日の日付で再び東京の一枝に宛てて、原稿用紙二枚にペン書きで一筆したため、それを逗留先の増屋旅館の封筒に入れて投函した。

トウトウ気狂ひの様に安堵村を飛び出し、中央線のトンネルに困りながら、此の鹿沢温泉に参りました……話しにこちらへ来ませむか……来られるなら半分の道程二里を出迎える……来られてはどうです。さう云ふよりも来られることを切に祈ります……兎に角、手紙だけでもいただければ結構です……若しいよいよ来られるならば、四里全体、御出迎えしても良いと思ひます114

この手紙が一枝のもとに届いた。それを一枝はどう読んだであろうか。「七・一九・午後三時」――一篇の詩「あかあかし」115が、このときでき上がった。二度繰り返される「剃刀研人かみそりとぎの過ぎてゆく」のフレーズ。「剃刀研人」とは、誰。「あかし」と「剃刀」の関係は。この詩は、『番紅花』八月号に掲載された。このとき、この詩でもって『番紅花』を閉じることを、一枝はすでに自覚していたのであろうか。

七月二四日付の『萬朝報』は、「富本憲吉氏は數日前群馬縣鹿澤温泉へ出かけ、植物冩生をやつて居る」116と、報じていた。野に出て植物の写生を楽しむ一方で、「気狂ひの様に安堵村を飛び出し」た憲吉は、ひたすら一枝の来訪を待ち続けた。居ても立ってもいられない憲吉。さらに七月二三日と七月二八日に執拗に誘いの手紙を出す。

この沈黙の期間、一枝は何を考えていたのか――それを適切に構成する資料は残されていないが、おそらく、大きな男女間の政治的力学が作用して、思考の混乱のうちに身動きがとれなかったのではなかろうか。『番紅花』の主宰者である一枝を中心に考えるならば、憲吉はその外部者で、表紙の図案を提供する優秀な協力者である。一方、「富本憲吉氏圖案事務所」の開設を予定している憲吉を中心に考えるならば、とりあえずこの時点で一枝は、絵の才能や編集の能力をもった、強力な協力者としての期待がかけられている存在なのである。いま一枝には、ひとつの世界から別のもうひとつの世界へ移動し、役割を変えることが、憲吉から要請されている。役割を変えた場合、何が壊れ、何がもたらされるであろうか。逆に、そうしなかったとすれば、どうなるのであろうか。憲吉の世界と自分の世界との両立は本当に不可能なのであろうか。強く決断が迫られていた。

はっきりと決意したのか、あるいは、揺れ動く心境をそのまま持ち越したのか、それは明らかではないが、いずれにしても、ついにその一枝が憲吉の前に現われた。そしてこの地に一枝は、「八月一日から一一日まで滞在した」117。その間ふたりは、「信州ママ[上州]の海抜五千尺の上で脚の下に白雲が飛ぶのを見ながらガラになく結婚と云ふ話をして居た」118

五.「富本憲吉氏圖案事務所」の開設

一枝を見送ると、おそらくすぐにも富本は、「信州ママ[上州]鹿澤から大和へは歸へらずに上京した[。]ずつと東京に居住する事になり、竹川町田中屋美術店に圖案製作事務所を置いた」119。そして八月二五日、美術店田中屋が発行する『卓上』第三号に「富本憲吉氏圖案事務所」の広告【図二二】がはじめて掲載された。これには、「來る九月一日から富本氏の圖案事務所を當店内に設置し、各種圖案の御依頼に應じます」と案内されていた。加えて、製作品目として、印刷物(書籍装釘、廣告圖案等)、室内装飾(壁紙、家具圖案等)、陶器、染織、刺繍、金工、木工、漆器、舞臺設計、其他各種圖案が挙げられていた。小さくて、あまり目立たないものであったかもしれないが、この広告は、図案家(デザイナー)としての富本を知るうえで、幾つもの示唆に富んだ内容を含んでいた。

まず、「図案」という用語法について――。

富本は、図案という用語について、晩年次にように語っている。「図案という語は、英語の Design という語から来たものと思う。同じ字を建築で通用しているような計画とか設計とかの意味なら字義がもっと判然とするように思える」120。英国留学を経験した富本であれば、すでにそのとき、図案という用語を、英語の「デザイン」の原義に照らして使用していたとしても、何ら不思議はない。そうであればこの事務所は、明らかに、原義にいうところの「デザイン」の事務所であり、生活に必要な品物すべてがデザインの対象となり、したがって、多様な製作品目がこの広告に列挙されていたとしても、それは当然のことだったといえるだろう。また当然のことながら、今日に至るまで富本は、陶工とも、陶芸家とも呼ばれる。結果的に生涯にわたる製作の中心が陶器だったことが、そう呼ばせているのであろう。しかし、事の起こりと、その精神は、最初から陶器つくり一点に集中していたわけではかった。そうではなくて、「富本憲吉氏圖案事務所」の広告にみられるように、それぞれの素材のもつ特性を別にすれば、陶器も染織も木工も、ひとつの同じデザインの原理により、その造形が可能であると考えられていたのである。それは、後年の次の言説からも明らかなように、表面に現われるか否かは別にしても、富本の全生涯を貫く、内に秘めた確たる精神であった。

私は[初めて陶器に親しみ出した]その頃から、染物や織物や木工の事或は家具建築の事について忘れた事なく、陶器の一段落がすめば又、別の工藝品に手を染めて見たい考へで居た。命が短く恐らく望みだけ多く持つて私は下手な陶器家として死んで行かねばならぬ運命にあるだらう。それでもその位決定的になしとげ得ぬ望みであつても、私はその望みを捨てずに此の儘で進むで行く121

この言説から十分推量できるように、たとえ具体的な活動をなしえぬまま、すぐにも自然消滅したとはいえ、この「富本憲吉氏圖案事務所」こそが、富本の芸術家としての原点となるものであり、事務所開設にあたって見受けられたあらゆる工芸領域へ向けての製作願望が、結果的に「なしとげ得ぬ望み」となる運命にあったとしても、その後晩年に至るまで、生き生きたるものとして富本の内面に残存していったといえるであろう。

一方、昨年(一九一三年)の夏、「模樣より模樣を造る可からず」という信念に到達した富本は、それ以降の展覧会において、陶器だけではなく、しばしば新しい模様も展示してきた。これは何を意味していたのであろうか。富本は、陶器のことだけではなく、「染物や織物や木工の事或は家具建築の事」も心に留めて、それらのすべてに適応できる模様を、この間常に用意していた、と考えても差し支えないのではなかろうか。富本の精神は、製陶のみを支える狭い精神ではなく、工芸の全領域、すなわち人間生活のすべてを支える、さらに強固で広がりをもった精神として、このときすでに存在していたのであった。展覧会の名称に、しばしば「工藝試作品」という用語が使用されていたことからみても、この時期は、「富本憲吉氏圖案事務所」の設立へ向けての準備期間だったと考えることもできよう。

次に、「分業」について――。

手工芸において本来有機的また連続的に関連し合う、着想することと製作することが分離するところに、近代のデザインの発生基盤があった。つまり、着想することにかかわって美術家を、一方、製作することにかかわって技術者を、近代社会は要求してきた。その点について富本は、晩年、次のように回顧している。

 私は工芸の図案については音楽の場合に楽譜をつくる作曲家と、実際に楽器で演奏するプレーヤーとがあるのと同じような関係を考えているんです。……私なんか模様をこ[し]らえる側のコンポジ[シ]ョンのほうに固執しているんじやないか122

そしてまた富本は、別の箇所でこうもいっている。

私の知って居る約五十年前の英国では、既に図案者と製作者との名が別々に記されている事が普通であった123

一九一二(明治四五)年に「ウイリアム・モリスの話」を『美術新報』に発表するにあたって、富本は、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を読んでいた。それを根拠に考えるならば、上記に引用した富本のふたつの言説には、疑いもなく、「(ウイリアム)モリス案」「モリス事務所製作」「モリス下圖」という、デザインと実製作とにかかわるヴァランスの書物のなかの図版キャプションにおける使い分けが投影されていたものと思われる。ここで注意を払わなければならないことは、こうした早い段階で、デザイン(富本のいう、計画や設計)と実製作との分離、つまりは分業に対する理解が、富本のなかに生まれていたという点である。

たとえば、一九一二(明治四五)年一月二二日に、南薫造に宛てて書かれた手紙のなかで、富本は、「製作及び案 By Mr. & Mrs. Minermi と云ふ刺繍が出来ママるそうだが面白いだろう」124と、述べている。この場合、「案」つまり「デザイン」するのが南薫造その人で、「製作」するのが南夫人であることを示している。こう考えるならば、約二箇月前の七月一二日に一枝に宛てた手紙で憲吉は、「事務所は真に独立した完全な意味のルームですから、其処で仕事されたらば、東京であって東京で無い様なものです。私は其処に行けばロンドンに行ったつもりで、食事から何から一切その様にするつもりです……只心を落ちつけて私の新計画に幾分の御助力あらむ事を祈ります」と書いていたが、その意味するところは、デザインと製作を分かち合いながら、協同してこの「富本憲吉氏圖案事務所」を運営していかないかという、一枝に対する仲間を求める呼びかけだったようにも読めるであろう。

さらにこのことで付言すれば、分業という観念が早い段階にあって富本の内に起生していたがゆえに、その後、量産という展望へと適切につながっていったわけであり、そうしたなかにあって、柳宗悦が擁護する「民芸」と富本が主張する工芸とのあいだには、個性や独創性の問題だけではなく、製作方法としての分業もまた、問われるべき問題として、こうしてすでにこの時期に、その種子が胚胎していたのであった。

そして最後に、「モリス商会」との比較において――。

今日では、‘Morris and Co.’(正式には ‘Messrs. Morris and Co.’)に対しては「モリス商会」という訳語が使われるのが一般的であるが、富本はこの用語を、「ウイリアム・モリスの話」の、キャプションにあっては「モリス事務所」と訳し、一方、本文にあっては「モリス圖案事務所」という訳語もあてている。おそらく、この用語法が、「富本憲吉氏圖案事務所」という名称につながったものと思われる。それでは、製作品目については、「富本憲吉氏圖案事務所」と「モリス商会」(もともと一八六一年に「モリス・マーシャル・フォークナー商会」として八人の芸術家の共同経営として設立され、一九七五年からモリス単独の経営による「モリス商会」となる)との異同は、どうであったのであろうか。エドワード・バーン=ジョウンズの娘婿で、モリスの伝記を執筆したJ・W・マッケイルは、その本のなかで、「モリス・マーシャル・フォークナー商会」の設立に際して作成された趣意書に言及している。以下はその一部分の引用である。

多年にわたってあらゆる時代と地域の装飾美術の研究に深く関与してきた、これらの芸術家たちは、本当の美しさを備えた作品が入手できるか、製作してもらえるような、何かひとつの場所の必要性を、それを待ち望む多くの人びと以上に、痛感している。そこで彼らは、自らの力と監督のもとに、以下のものを製作するために、今般一商会を設立したのである。
一.絵画かパタン作品による壁面装飾。あるいは、住宅や教会や公共建築に用いられるような、もっぱら配色による壁面装飾。
二.建築に用いられる彫刻一般。
三.ステインド・グラス。とりわけ壁面装飾との調和を考慮したもの。
四.宝石細工も含む、すべての種類の金属細工。
五.家具――デザインそのものが美しいもの、これまで見過ごされてきた素材が適用されたもの、あるいは、人物画なりパタン画なりが結び付けられているもの。この項目には、家庭生活に必要とされるすべての品々に加えて、あらゆる種類の刺繍、押し型皮細工、これに類する他の素材を用いた装飾品が含まれる125

このようにみていくと、「富本憲吉氏圖案事務所」と「モリス・マーシャル・フォークナー商会」における営業品目に、大差はない。差があるとしたら何であろうか。それは、ひとえに協同者の有無であった。美術店田中屋のような、よき理解者には巡り会うことができたものの、富本の周りには、製作を協同して行なう芸術家の仲間がいない。一枝が同意したとしても、それだけでは十分といえない。このことが、「富本憲吉氏圖案事務所」の存続を短めた直接の要因であったかどうかは別としても、富本はそのことを自覚していたものと思われる。それから六年が立った一九二〇(大正九)年に執筆したある文章のなかで、前後の文脈から逸脱し、次のようなことを唐突にも述べているのである。

 ウィリアム・モママリスにつき私の最も関心する處は、彼れのあの結合の力、指揮の力である126

この言葉は、モリスに倣った実践形態が富本にとってひとつの理想の姿であったにもかかわらず、しかしそれがいかに困難であるものかを、このとき経験した挫折を踏まえて告白しているようにも読める。富本のいう「結合の力、指揮の力」は、ここでは、モリスのいう「フェローシップ」に置き換えて考えることができるであろう。モリスの哲学と実践によれば、人と人とが人間的に結び付いて成立する共同体にあっては、「フェローシップ」は、芸術的にも政治的にも、極めて重要な原理となるものであった。社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』に一八八六年から掲載が開始された『ジョン・ボールの夢』のなかでモリスは、「フェローシップは天国であり、その欠如は地獄である。つまり、フェローシップは生で、その欠如は死なのである」127ことを表明していたのである。

七月の半ば大和を出たきり、そのまま鹿沢温泉から東京へと向かい、九月一日に美術店田中屋内に「富本憲吉氏圖案事務所」が開設されるのに先立って、富本の東京での新しい生活がはじまった。『藝美』一〇月号の「消息集」には、こう記載されていた。「富本憲吉氏 下谷區茅町二丁目十四番地へ卜居。田中屋美術店内へ設けた圖案依頼事務所へは、毎週火、木、土午後に出向してゐる」128。そしてこの地で、富本は「東京に來りて」を執筆した。そのとき、「富本憲吉氏圖案事務所」の発足にかかわって、やはり、イギリスやモリスのことが思い出されたのであろうか。一方ヨーロッパでは、第一次世界大戦が勃発していた。留学中に知り合った友だちの顔が一人ひとりまぶたに浮かんできたのかもしれない。

 世界は大戰の波に渦まき、フツトボールの競技に號外を以て熱狂せしロンドンは今如何にして野蠻にして禮を知らぬ新興の國を打たむとはする。われに禮をおしへ義を開發せしわが友は如何に又何處にあらむ。血と劍は争ひの最後の手段にして第二位に屬すべきものなる可し。最後にして第一位にあるものは藝術なる可し。友よ健闘せよ、第二位も第一位も皆藝術家にして戰士なる汝の手にあり129

富本は、続けてこう書いた。

 工藝家にして繪畫を談じたるを、卑下したる口調を以て批評したる人あり。詩人にして哲學を談じたりとて笑える類か、われはむしろ詩人にして政治を知り財政を論じ得る人を待つものなり130

ここで富本がその出現を待ち望んでいる、「詩人にして政治を知り財政を論じ得る人」とは、どのような人であろうか。まさしくそれは、詩人にして政治活動家であり、モリス商会のれっきとした経営者でもあった、デザイナーのウィリアム・モリスのような人だったのではあるまいか。もしこうしたモリスのような人が、あと数人でもいて、富本の協同者になっていたならば、「富本憲吉氏圖案事務所」は、また別の運命をたどっていただろう。しかし残念なことに、富本の目からすれば、世の美術家と批評家の大多数は、「工藝家にして繪畫を談じたるを、卑下したる口調を以て批評したる人」たちであった。

「モリス・マーシャル・フォークナー商会」が八人(形式上アーサー・ヒューズを含む)の芸術家の共同経営として設立されたのが一八六一年、モリスが亡くなるのが一八九六年、富本が英国で工芸を学んだのが主として一九〇九年、そして「富本憲吉氏圖案事務所」が設立されるのがこの年、一九一四年。さらにその翌年の一九一五年、英国ではデザイン・産業協会が創設され、徐々にモリスから離陸しようとしていく。このようにこの時期、英国と日本のあいだにあっては、半世紀にも及ばんとする工芸の思想的、実践的成果の隔たりが存在していた。それはひとりの人間では埋めようにも埋められない、大海のごときものであった。富本の製作活動は、こうした日本の文化的、社会的状況のなかにあって、当時、無理解と孤立のうちにおおかた成り立っていたのである。

六.結婚、そして東京から安堵村へ

東京での生活が少し落ち着いたのであろうか、富本は、「九月一四日夜 池之端の新居にて」南に宛ててペンを執った。「信州ママ[上州]の中から出水に閉口して東京に出で見たが面白い事もない。只皆むなが繪をかくより[秋の展覧会の事で]騒ぐばかりママ困る……田中屋へ事務所をおいて火木土の土曜ママに出張するのと来月号の新報に信州でやった花草の模様がある位が変った事だろふ」131

その『美術新報』一〇月号に、富本の「模樣雜感」が掲載された。これは談話記事で、とくに鹿沢温泉での滞在には触れられていないが、使われている図版(【図二三】から【図二六】はその一部)が、南への手紙で言及されている「信州ママ[上州]でやった花草の模様」なのであろう。さて、この「模樣雜感」のなかで、富本は、津田靑楓に触れた箇所では、「今津田君は職人の樣な圖案家が日本國中に充滿して居ると慨嘆して居られますが、私も同感で、その慨嘆も無理もないことであります」132といい、小宮豊隆に触れた箇所では、「小宮君が行住坐臥、日常生活に於ける模樣をも新しくしなければならぬと云はれた事も、解らない世間に向つてアゝ云ふことを云つて頂いた事に付て、私共から感謝の意を致すべきだと思ひます」133と述べている。そして、自分については、「[去年の]春から夏にかけて一枚の模樣も出來ず、モウ一切美術家となることはよそうかと思つた位苦み抜きました。全く古い模樣を忘れて、野草の美しさを無心で見つめて、古い模樣につかまれずに、自分の模樣を拵へ樣とアセリました。が一時的に忘れる事は出來ても、ウツカリすると直古いものと新しいもののねじくれたものになつて仕舞つて實に困りました」134と告白していた。

当時、津田はどう「慨嘆」していたのだろうか。その言説を「職人主義の圖案家を排す(小宮豊隆君に讀んで貰ふ爲に)」(『藝美』九月号)に求めると、その一部は、次のようになる。

 自分は今日我々の日常生活に觸目する、一切の工藝品や、或はいろいろの工藝品に付いてゐる模樣に不快を感じない事がない。何を見ても氣に喰はないものが多い。殆んど氣に喰はないもの許りと云つていゝ位のものである……自分は斯云ふ點からも職人主義を絶對に隠滅させ度い。何日か小宮君も斯云ふ意見を話された事があるが。職人主義を排した結果を一口に云へば、圖案界を今日の文藝界の樣にしたいと思う……漱石氏の小説は漱石氏の自己を語るもので、漱石氏の愛讀者があり……富本憲吉の圖案の好きなものは、富本憲吉の圖案に依つて出來たもので日常生活の一切のもの――茶碗、皿、或は椅子机、それから女や子供の着物の模樣に至るまで一切を富本模樣によつてそろへる事が出來……る樣に成ればいゝと思う……「職人主義の圖案家を排す」と云ふ事を逆に考へて見ると「藝術的圖案家の排出を望む」と云う事に成りそうである135

書かれた時期からして、この小論は、「茶碗、皿、或は椅子机、それから女や子供の着物の模樣に至るまで一切」の図案の製作を行なおうとする「富本憲吉氏圖案事務所」の開設にあたっての、津田からのまさしく「富本模樣」への「祝辞」を意味していたのではないだろうか。もしそうであるとすれば、富本の「模樣雜感」は、明らかに、それに対する「お礼の言葉」ということになる。そして一方、『文章世界』一〇月号に小宮の「圖案の藝術化」が掲載された。「小宮豊隆君に讀んで貰ふ爲に」という副題をもつ津田の小論に、すかさず小宮本人が反応したのである。

 私は在來の「型」にはまつた圖案ママ見ることに堪へられない。然し堪へられないとは云ひながらも、それを今直にうすることも出來ない處から、こんな世に生れ合せた是非もないと諦めて我慢してゐる。然し今日の日本人の凡てを圍繞ゐぎやうする圖案は、悉く職人の手になつた、藝術の域を去ることの遠い、醜穢な不愉快なものゝみであると思へば、私は一日も早く特殊な藝術家の手にとつて、此醜穢と不愉快とが取除かれむことを希望して止まない……今の圖案界に新生面を拓くと云ふことは、單に今の圖案を藝術にすると云ふのみに止まらず、大にしては日本の文明史に大きな貢献を寄興きよすることにもなるのである。例へば今我等が日常に使用する茶碗の模樣や皿の模樣が、全然藝術的なものに改革されて日本國中に行き亘ると云ふことを空想するとき、夫は一にんの藝術家によつて、一部局の賞翫者の讃嘆に限られた繪畫に腐心してゐるよりも、幾層倍かの痛快事でもあれば、有意義なことであると思ふ……私は其藝術家に、光琳や埃及いぢぷとの藝術家や若しくは露西亜ろしあの農民藝術家の樣に、純粋な意味に於て「自然主義」の藝術家になることを要求したい。「自然」を閉却しては遂に新しい命を表現することは出來ないからである136

ここに述べられていることが、この間富本が追い求めていた事柄のほぼすべてであったし、周りに理解が得られないまま、ひとり苦悶していた中身そのものであった。その意味で、この一文は富本の心情を適切に代弁するものであり、同時に、貴重な救いの手であったにちがいなかった。そしてそれはまた、これまでの暗闇のなかにあって、「特殊な藝術家」として期待されている富本の前途を指し示めす一条の灯にもなったことであろう。

それにしても、『藝美』九月号の津田の「職人主義の圖案家を排す(小宮豊隆君に讀んで貰ふ爲に)」、『美術新報』一〇月号の富本の「模樣雜感」、そして『文章世界』一〇月号の小宮の「圖案の藝術化」――この三つの図案に関する文章の公表は、たまたま偶然にこの時期に重なったとは考えにくいのではないだろうか。というのも、あまりにも論旨が共通しているからである。津田、小宮、富本をつなぐ糸は何か――以下は、いまだ推論の域を出ない、このことに関するひとつの仮説であるが、おそらくこの時期までに、漱石の小説の装丁を行なっていた津田が、富本を連れ立って「漱石山房」での「木曜会」へ行き、そこで津田は旧知の漱石門弟のひとりである小宮に富本を紹介すると、かねてから漱石も関心を抱いていた装丁談義に端を発して、広く図案についての論議が三人のあいだで交わされ、日本における図案の貧弱さの原因とその解決の方途にかかわって共通の認識が得られるなかで、その論議の内容の一部が、「富本憲吉氏圖案事務所」の開設のこの時期に、うまく三人の連携のもとに公表されたのではないかと思われるのであるが、どうであろうか137

この仮説の当否は横に置くとしても、すでにこのときまでに、展覧会の開催にかかわって上京したおりに、ほぼ間違いなく憲吉は漱石に会っていたであろう。『番紅花』への協力依頼のために一枝が陸軍省に鴎外を訪ね、一方の憲吉が自宅の「漱石山房」に津田とともに漱石を訪ねたことは、それぞれにとってひとつの目玉となる最近のエピソードであり、おそらくこの間、若いふたりの会話のなかに、この文豪との出会いが登場していたであろう。しかし、両人の会話は、鹿沢温泉での出来事以降は、当然のことながら、自分たちが直面する結婚に関する内容に集中していたにちがいなかった。封筒のない巻紙が残されている。内容からして、憲吉から一枝に宛てたもので、置き手紙だった可能性も、また、直接手渡された手紙だった可能性もある。いずれにしても、すでにこのころから、ふたりは、「下谷區茅町二丁目十四番地」で、実質的な共同生活に入っていたのではないだろうか。その巻紙の一部には、こう綴られていた。

アナタが家族をはなれて私の処に来ると思はれるが、私の方でも私は独り私の家族をはなれてアナタの処へ行くので、決して、アナタだけが私の処へ来られるのではない、例へ法律とか概観で、そうでないにしても尾竹にも富本にも未だ属しない、ひとつの新しい家が出来るわけである。そう考へて居て貰ひたい138

ここには、「家」に拘束されない、対等の個人たる両性の結び付きとしての結婚観が示されている。一八九八(明治三一)年に公布された「明治民法」の第七五〇条では「家族カ婚姻又は養子縁組ヲ為スニハ戸主の同意ヲ得ルコトヲ要ス」と、また第七八八条では「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」と、規定されており、そのことを想起するならば、ここで示されている憲吉の婚姻についての見識は、両者が双方の家の跡取りであることに対する配慮の結果という側面が幾分あったとしても、それだけでは説明がつかない、家制度を乗り越えた、まさしく革命的なものとなっている。過去の先人の模様を模倣しないという決意が、ここでは、旧弊な婚姻の制度をそのまま踏襲しないという決断へと置き換わっているのである。つまり、「図案の近代化」と「結婚の近代化」が、憲吉の場合にあっては、同時並行的にこの時期進行していたといえるであろう。すでに上で紹介した、「九月一四日夜 池之端の新居にて」南に宛ててしたためられた書簡のなかで、さらに続けて憲吉は、間近に迫った自らの結婚について、こう伝えている。

僕の婚礼の事もいよいよ此の秋を以てやる事になるらしい。親類に一言の相談なしに「新潟縣画家尾竹越堂氏長女一枝と婚約相結び候に付御報知申し上げ候」と云ふ手紙に大分大和では面喰って居るらしい139

そして、結婚後に住む場所についても、ふたりは合意に達したのであろうか、「拾壱月末に大和に住宅と本ガマを新築してそれにがまママる事となる。そうすれば実用になる陶器を随分澤山こさえてみせる」140。大和に住むことは、やはり一枝の希望だったのであろうか。憲吉にとっては、「富本憲吉氏圖案事務所」を開設したばかりでもあり、いまだ揺れ動いていたにちがいなかったが、東京よりは大和の方が、親族を説得するうえでは、当然都合がよかったであろう。いずれにせよ、結果的に、半農半美術家を選んだことになる。そして、これまでの楽焼きから、本窯での製作に希望を託す。

それにしても、「親類に一言の相談なしに」結婚の話しを進めることは、現実が許さなかったものと思われる。その手紙が書かれてから三日後の九月一七日に、憲吉は東京を発って大阪へ向かった。東海道を下る夜行列車のなかで、一枝に葉書を書き送った。宛て先は、先に挙げた「下谷區茅町二丁目十四番地」の住所になっている。

明日来る わが一生の
最強の言論 思ひ見つ
君もつよかれ
われも つよかれと
祈りて 眼をとづ141

翌日憲吉は、大阪に着くと「わが一生の最強の言論」をもって親類を説得した。夕陽丘高等女学校の卒業生で、大阪に多少の縁があったとはいえ、何といっても結婚相手は、少し大袈裟にいえば、世にその名が知れ渡った、まさしく泣く子も黙る「新しい女」尾竹紅吉なのである。しかし、案じていたよりは、ほぼ憲吉の思いのままに話しは進んだのだろう。首尾よく終わると大阪を出て、降り立った法隆寺駅において打電した。「コトハコブ サチワレラニアリ」。それから、安堵村の自宅の門をくぐり、今度は祖母と母親の同意を得ることに努めた。それもうまくいった。翌九月一九日、法隆寺駅から再び一枝に宛てて――「アキバレ ウツクシ ヤマトヨシ ヨテイスミ オオサカニタツ」142。これらの短い電文からも、事を成し遂げた憲吉の喜びの雄叫びが十分伝わってくる。

尾竹家では、いよいよ結婚へ向けての準備がはじまった。当日の一枝の衣装は、「父の圖案で染めた振袖姿」143に決まり、裾模様に笹の葉をあしらった意匠が越堂によって用意された。一枝は、娘時代を「割合自由にふるまえたのも父が自分の跡取りとして扱っていたから」144であることを改めてこのとき思い返したかもしれない。一方、娘らしく厳格に育てようとしてきた母親のうたは、このとき、自分が嫁ぐときにもってきた先祖伝来の九寸五分の短刀を一枝に渡し、「帰りたくなれば、これで死ね」といい、「ごはんは三膳たべてはいけない。おつゆは一杯だけにしなさい」145と教えた。一枝が思い出すところによれば、「『新しい女』で世間が批判しはじめたときなど、母は、世の中に申しわけないという氣持が先に立つて心をいためていたようでございます。ことに、親戚などに對してはそれこそ首を縮めておりました」146。画家として跡取りを考えていた父親の一枝に寄せる思いも、この結婚により裏切られることになったし、大和の旧家の長男に嫁がせる母親の気持ちにも、おそらく言葉で表わせないような実に複雑なものがあったであろう。

仲人は白瀧幾之助夫妻に依頼された。憲吉は、ロンドン滞在以降、白瀧を「入道」と呼んで慕っていた。一〇月に入ると、披露宴の案内状が招待客に発送された。そこには、白瀧幾之助と同夫人しほの連名で、次のように印刷されてあった。

謹啓益御淸穆奉恭賀候陳者此度富本憲吉氏と尾竹越堂氏長女一枝子と結婚仕り候に付御披露の爲め粗餐差上申度候間來る廿七日(火曜日)午後五時築地精養軒へ御賁臨の榮を賜り度右御案内申上候 敬具

しかし、一方の憲吉は、結婚を間近に控え「落ちつかぬ、さみしさ」に襲われる。以下は、「一四年十月」に「新居秋興」と題して憲吉が詠んだ詩である。

忍ばずの池にのぞむ、/小さき家に、/道具なき小さき家に、
拾五になる書生相手に、/ひとり寝むと/蚊帳に入れば、
なさけなや/落ちつかぬ/さみしさ、甚だし。

小さく道具なき家に、/寝むものと電氣ひねれば
秋の夜の暗さ、/つめたく心を打つかな147

そして、いよいよふたりにとって記念すべき一九一四(大正三)年一〇月二七日の火曜日が訪れた。憲吉二八歳、一枝二一歳であった。その日のことを一枝は、このように記憶していた。

いつもはかまをはいて歩いておりましたから、いざ結婚するときに近所では大へんな騒ぎです。結婚式の當日私がくるまに乗つて出るとき町内の人は文字どおり大へんな騒ぎで車をとりかこんでのぞきこみます。私のことだから、モーニングでも着て行くのだろうと思つたのでしよう。それどころか、こつちはおばとか親類の者が來て結婚シーズンのモデル人形あつかいで、純日本風のよそおいです。幾日も前から髪結さんがやつてきて島田に結わされて、寝るときなど髪ぐせを惡くしないために四角い箱枕を使わせられたり、というさわぎで148

一枝を「乗せた車がかなり遠くへ行くまで、人垣はくずれなかつた」149。そして日比谷大神宮での挙式に臨んだ。【図二七】は、日比谷大神宮で結婚式を挙げたところの憲吉と一枝で、憲吉は英国紳士風のタキシードとシルクハットによる正装に身を包み、一方、あでやかな振袖に高島田の一枝は伝統に則った見事な婚礼姿であった。【図二八】は、式に出席した両家親族の集合写真である。この写真によれば、尾竹家側は、一枝の妹の三井と貞子の姿はないが、父越堂の弟の竹坡と国観、一枝の妹の福美、その全員が配偶者とともに出席しているのに比べ、東京での挙式ということもあってか、富本家からの出席は、長女壽、次女艶、三女絢、四女禄子といった憲吉の妹たちの姿はみられず、母親のふさ(キャプションでは母堂となっているが、老け具合からすると、祖母ののとのようにも見える)と弟の祥二(キャプションがないので判然としないが、憲吉の左後ろにいる人物がそうなのではないか)だけだったようである。

その日の午後五時から、築地の精養軒でふたりの結婚披露宴がはじまった。出席したバーナード・リーチは、そのときの様子を以下のように記憶していた。

長いテーブルの片側に日本食が、もう片方に洋食が供され、テーブルの端の部分に本人たちが並んでいた。非常に厳粛であった……政府の役人である主賓は、最初抑揚のない低い声で祝辞を述べはじめたが、徐々に早口の大声になっていき、際限なく話し続けた。私にはほんの少ししか理解できなかった……私の向かい側には、私もよく知っているパリで勉強してきた画家がふたり座っていた。ひとりが忍び笑いするのが聞こえた。するともうひとりもくすくすと笑った。これはあまりにもひどすぎた150

忍び笑いをしたふたりの画家とは誰だったのであろうか。推測するに、その当時憲吉が親しくしていた津田靑楓と柳敬介だったかもしれない。ふたりはともに、パリ留学の経験者であった。一方リーチはこのとき、北京への出発を控えて、三笠と田中屋の両店で、「繪畫、エツチング、陶器三百點にも及ぶ」151作品を陳列した個人展覧会の開催中(一〇月二〇日から二九日まで)であった。

それでは一枝の側は、どのような知人が招待されていたのであろうか。資料に残されていないので、正確にはわからないが、一番親しかった友人のひとりであった神近市子さえも、この結婚に気づいていなかったくらいなので、ほとんど誰も招待されていなかったのではないだろうか――。神近は、そのときの様子を以下にみられるように記憶していた。

富本[憲吉]氏は『ママ紅花』の表紙絵や挿画を画いてくださったのだが、まさかこの二人が結婚するとは思わなかった。
 いくら東京不在のときとはいえ、あれほど親しくしていた私にわからなかったのは、結婚が世評にのぼることを恐れて、ごくひそかに行なわれたとみるよりほかに考えられない。「五色の酒」いらい、さすがの紅吉も、新聞や雑誌のゴシップの種になることが、よほど身にこたえていたのだろう152

披露宴のあと、憲吉と一枝はただちに北陸へ向けて旅立っていった。新婚旅行先から憲吉は、『卓上』の「消息」欄へ次の短文を書き送った。「無秘事。有秘事。北陸之雨滲々。(十月二十九日夜富山 憲)」153。憲吉の結婚を知る、限られた読者のみが理解できる、夫婦の交わりにかかわる内容であった。ところで、この消息文が書かれた富山の地は一枝の生まれ故郷で、幼児期をここの越前町で過ごしている。一枝はこの土地を懐かしみ、憲吉に紹介したかったのかもしれない。

ちょうどこのころ、『美術新報』は、日本を去ろうとしているリーチの送別の特集を組むにあたって、富本に原稿の依頼をしようとしたらしい。しかし、それはかなわなかった。「富本君の旅行中寄稿を得なかつたのは、大に遺憾とするところである。(犀水)」154。最終的にこの特集には、「バアナアド・リーチ氏への送別=諸家の感想」の表題のもとに、高村光太郎、長原止水、そして柳宗悦が執筆した。しかしよく見ると、この特集の冒頭のスペースに、富本の徳利のイラストレイション【図二九】が、さりげなく挿入されていた。

新婚旅行をすませた憲吉は、一度安堵村へ帰っている。一枝を同伴していたかどうかは定かでないが、この地で御礼参りをしたのかもしれないし、何か御披露目のようなものがあったのかもしれない。ちょうどその滞在中に、南からお祝いの品が届いた。家族の誰かが病気になり、南は東京での披露宴に欠席していたものと思われる。下記の引用は、一一月二五日に安堵村で書かれた、それに対するお礼の手紙の一部である。

随分手紙もかゝず又随分長がく遭はない。先づ第一に昨日は小包便で御祝ひを有り難う……御病人その後は如何。御平癒をいのる。……
――――
四五日のうちに上京。本ガマを一度試しに焼き、来年初此處へかへる。その上で今の画室の地連きへ三室の小さい家をたて本宅の中央にいよいよ本ガマを築く。(僕もいよいよ陶器師になりにけりさ)本焼きをやれと云ふ事は東京の連中、特に大阪三越の特別な注文による事だが、これが出來るようになれば使えるものが多く出來て一寸よかろふと思ふ。
――――
只、米が安いのと東京の生活がはなやかなために金がいって困る。(そろそろダラクの初まりか)155

後年富本は、本窯について、「まだはっきり焼物に生涯を打ち込む決心はできてませんでしたが、一九一五年に村はずれに本窯を築いて、丈夫な陶器を焼きはじめました。というのは楽焼は弱くて実用にならないからです」156と述懐している。富本の関心は、丈夫な実用の陶器を数多くつくることを目指して、この時期、楽焼きから本焼きへと移ろうとしていた。それは、結婚をした以上、今後妻子を扶養することを念頭に、安定した収入の道を確保することと、ある程度結び付くものであったのかもしれない。それでは、その当時、富本の収入はどれほどあったのだろうか。富本は、昨年(一九一三年)一年間の収入の記録を残していた。

私が始めた大正二年[一九一三年]の、楽焼ばかりの作品を売って取った入高が偶然にも発見されたので書いてみる。
  一月  八十円五十銭     大阪吾八
  三月  十六円九十二銭      吾八
  三月  二十二円五十銭    東京三越
  五月  百六十円       大阪三越
  十月  七十五円       東京三越
  十二月 十八円        東京三越
      十円         雑収入
      計   三百八十二円九十二銭
 大正二年といえば私が未だ独りで楽焼を始めた時で、毎月五十円の小遣いを家からもらって家も食料もみな払わないで、陶器の入用は陶器を売って勉強できた時代である157

大正はじめの貨幣価値は、米価換算で、現在のおおよそ五千分の一といわれている。それを当てはめて計算すると、「三百八十二円九十二銭」は、現在の一九〇万円強相当になり、月々の小遣い「五〇円」が、約二五万円になる。材料費や交通費などを考えれば、独身の生活とは違い、家族が生活していくうえでは、必ずしも余裕のある収入とはいえなかったのではないだろうか。

一一月二五日に南に手紙を書いて、予定どおりその四、五日後に、富本は安堵村から東京の自宅に帰ったものと思われる。するとそこには、過激な雑誌記事が待ち受けていた。それは、一二月一日発行の『淑女畫報』一二月号に掲載された「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」という題がつけられた暴露記事であった。「深草の人」と名乗る執筆者は、冒頭でまず、「Tさま」に宛てて紅吉の書いたものであろうと思われる手紙の原文を紹介したうえで、「私はこの不思議な手紙、謎の手紙の註解者として、またこの手紙を鍵として彼女の『不思議な過去』不思議な性格、不思議な行為の秘密を語る魔法使いになりませう」と宣言し、それから本論が開始される。書かれてあることを要約的に引用すれば、こうである。「月岡花子嬢こそ、不思議な謎の手紙の主のTさまで、Tは月岡の頭文字なのです……花子嬢が女子美術の生徒であり、紅吉女史も一時女子美術に席を置いたことがあると云ふ関係から、おそらく知己ちかづきとなり友達になつたと云ふことはだけは確かです……紅吉女史は當時『若き燕』と呼ばれた青年畫家奥村博氏の問題から、らいてう・・・・事平塚明子女史と悲しくも別れなければならない事となり……例の不思議な謎の手紙を花子嬢宛に書いたのでした……それからと云ふもの、二人の仲は親しい友と云ふよりも、その友垣の垣根を越えて、わりなき仲となつたのでした。同性の戀!まア何といふあやしい響きを傳へる言葉でせう」。そして執筆者は、紅吉の結婚と新婚旅行に触れ、こう述べる。「新郎新婦手を携へての新婚旅行!それが新しい女だけに一種の矛盾と滑稽な感じをさへ抱かせます。男性に對する長い間の女性の屈辱的地位、そこから跳ね起きて、あくまでも女性のママ放を主張し、男性と等しい權利を獲得し、そして男ならで自立して行くと云ふ所に新しい女の立場があるのです。然しながら我が新しい女の典型タイプとも見られてゐた尾竹紅吉女史は若き意匠畫家富本憲吉氏と共に、目下手に手を携へて北陸地方に睦まじい新婚の旅をつゞけて居ます」。さらに執筆者は、この結婚の陰に隠れて涙を流している、もうひとりの別の若い女性がいるというのである。「やがてその次にあらはれたのが大川茂子といふやはり女子美術の洋畫部の生徒でした。茂子嬢と紅吉女史との戀……は花子嬢のそれと比べてはなかなかにまさるとも劣ることない程の強く深く切ないものでありました……悲しい戀の犠牲者、茂子嬢は今はどうして居るでせう?……紅吉女史と富本氏との今日此頃の關係を茂子嬢はどんな氣持できいて居るでせう?私は紅吉女史の新生活を祝福すると共に、あえかにして美しい茂子嬢の生涯に幸多きことを祈つて居ります」158。この記事には、【図二八】の両家の集合写真だけではなく、紅吉のものであると思われる手紙の一節、月岡花子その人【図三〇】、ふたりの弟妹と一緒の七歳のときの紅吉、書斎のなかの紅吉などの写真までもが掲載され、また、同誌同号の別の箇所には、「問題の婦人尾竹紅吉女史の花嫁姿」(目次表題)と題した【図二七】の写真も見ることができる。こうしたことからして、この記事は、必ずしも「深草の人」単独のものではなく、その執筆の過程において、何か、紅吉かその家族による情報の提供、あるいは別の第三者によるある種の関与があったのではないかとの疑いも残る。しかしいずれにしても、この記事に描かれている内容の真偽は、当事者のみが知りえることであり、闇のなかにある。とはいえ、大変皮肉にも、真実としていえることは、「若き意匠畫家富本憲吉氏」と「問題の婦人尾竹紅吉女史」の結婚は、こうした暴露記事をとおして世間に告知されたことであった。

おそらくこのとき、この雑誌に掲載された紅吉の花嫁姿の写真をらいてう【図三一】は見たのではないかと思われる。らいてうは、そのときのことを次のように回顧している。

やがて紅吉は富本憲吉氏と大正三年一一月電光石火的な早さで結婚してしまいました。習俗に殉じたようなその振袖、高島田姿の写真に、私はあきれるだけでなく、紅吉にかけた期待が大きかっただけ、失望をさらに新たにしました159

「振袖、高島田姿」については、のちに一枝は、こう弁明している。「困つたり、いやだと思いながら、一方では、こんなことで母がよろこぶなら母の苦勞につぐないをつけようといつた氣持も手傳つて……。やつぱり自分の考え方に非常に古いところがあつたのですね」160。もっとも、らいてうの失望は、「振袖、高島田姿」といった外見だけではなく、むしろ結婚の形態にあったのではないだろうか。というのも、らいてう自身、この年(一九一四年)の『青鞜』二月号掲載の「獨立するに就いて兩親に」のなかで、「私は現行の結婚制度に不満足な以上、そんな制度に從ひ、そんな法律によつて是認して貰ふやうな結婚はしたくないのです。私は夫だの妻だのといふ名だけにでもたまらない程の反感を有つて居ります……戀愛のある男女が一つ家に住むといふことほど當前のことはなく、ふたりの間にさえ極められてあれば形式的な結婚などはどうでもかまふまいと思ひます」161と書き、奥村博との共同生活を宣言していたからである。さらにそこには、「それで巣鴨の社から一[、]二丁の處に極、閑静な植木屋の離れ二階を昨日ふたりで見付けて借りることに極めて参りました。それで實は明日にもその家に引移りたいと思つて居ります」162とも、告げられていた。このときらいてうが選択した結婚の実践は、両親の庇護から離れ、夫の扶養にも頼らず、『青鞜』という雑誌の刊行を仕事として、因習や法律に縛られることなく、まさしく「獨立」のなかにあって「戀愛のある男女が一つ家に住む」ことであった。この先行例からすれば、一枝の実践は、明らかに「習俗に殉じた」ものであったにちがいなかった。らいてうの失望は、「振袖、高島田姿」のみならず、この点にもあったのではなかろうか。

それでは、かつて「同性の恋」の関係にあったらいてうと紅吉のふたりは、この時期、どのようなセクシュアル・アイデンティティーのなかに自らの居場所を確保しようとしていたのであろうか――。

らいてうの「獨立するに就いて兩親に」から一箇月後、すでに上述したように、一枝は、夏樹から俊ちゃんへ宛てた手紙形式の「自分の生活」という題をもつ一文を、『番紅花』三月号に寄稿した。以下は、そのなかの一節である。

ある一人の人にひどく愛されたゐたことがありました……「一年間」と云ふものは眞當に交渉がありました……その人はよく葡萄酒を口うつしにしてくれました。あの人の唇から私の幼い唇にそれをそそがうとして私をしつかり抱いてくれたときなんか私は眞赤になりました、そして嬉しくてたまらなかつたものでしたよ163

「ある一人の人」とは、間違いなくらいてうのことと、考えてよいだろう。この段階で一枝は、包み隠すことなく、一見無防備にも、過去の自分の同性間の恋愛経験を語るのである。

それに対して、らいてうはどう応じたのであろうか。偶然だったのかもしれないが、この一箇月後、『青鞜』四月号にエリスの「女性間の同性戀愛」が野母氏の翻訳によって掲載されるにあたって、らいてうは短い序文をつけ、そのなかで、同性間の恋愛についてはそれまで全く興味をもっていなかった、としたうえで、次のように語る。

ところが私の近い過去に於て出逢つた一婦人――殆ど先天的の性的轉倒者とも思はれるやうな一婦人によつて私はこの問題に非常に関心をもつやうになりました。私はその婦人の愛の對象として大凡一年を過しました。そして色々のことを考へさせられました結果いよいよこの問題に就いて、知りたくなりました164

紅吉(一枝)を「先天的の性的轉倒者」として扱い、おおよそ一年間「その婦人の愛の對象」になったと、らいてうが述べている事柄と、先に紹介した一枝の言説とでは、大きな乖離がみられる。どちらが真実であったのかは横に置くとしても、明らかにここでらいてうは、「性的正常者」という立場をまず確保したうえで、それによって過去の同性間の恋愛経験を自らの身体から切り離して脱色し、次にそれを科学的研究の対象として再び位置づけようとしているのである。

それに対して一枝は――。次の五月号の『番紅花』に掲載された「Cの競争者」において、どれほど脚色されているかは別にしても、「私」が女学生だったときにある人に向けた恋愛感情があからさまに告白されているのである。以下の引用は、そのなかの一節である。これが、少女時代以降変わることのない同性に向けられた一枝自身の眼差しだったのかもしれない。

私にはちいさな時分から美しい女の人をみることが非常に心持のよいことで、また、大變に好きだつたのです。それで私の今迄の愛の對ママになつてゐた人のすべては悉く美しい女ばかりでした。私の愛する人、私の戀しいと思ふ人、そしてまた、私を愛してくれる人、戀してくれる人の皆もやつぱり女の人ばかりでした。
 ですから美しい綺麗な女の人と言へば私に有つてゐそうのないほど非常な注意と異常な見守り方をもつて來てゐました165

このように、この一九一四(大正三)年の二月号から五月号の『青鞜』と『番紅花』を舞台に展開された言説のなかに、ふたりの「同性の恋」以降のセクシュアル・アイデンティティーの変位の一端を見ることができる。一枝が、疑問を差し挟むことなく、いかにも開放的に、経験の保存とそれとの美的対話に身を置いていたとするならば、一方のらいてうは、過去を清算するとともに反転して対象化し、知を駆使しての経験の合理化に邁進していたといえるであろう。そうした異なるセクシュアル・アイデンティティーにあって、両者にみられる男女の生活は、それぞれにこの時期、成立しようとしていたのであった。

結婚から二箇月があっというまに過ぎ去り、一九一四(大正三)年も終わり、憲吉と一枝はふたりにとってはじめてとなる新年を迎えようとしていた。ちょうどこのとき、年末から正月にかけて、一時的にリーチが日本に帰ってきた。富本とリーチは、主に中国の話題で会話が弾んだ。しかしリーチは、再び中国へ向けて出発する。リーチを見送る富本は、一月一〇日の夜、書簡形式で一文を起こし、そのときの会話の断片の幾つかを『美術新報』へ書き送った。しかし、十分な時間が取れなかったことを悔やむ。「支那から歸つたリーチとも、二[、]三度話しました。遭つて別れる迄話しつゞけで、常も未だ未だ話が残こつて居る樣な氣持で別れました……私も御承知の通り、夏以來私に取つては未だ出くわした事のない大きい事件にあつて心が充分落ちついて居りませむので、十分リーチの話をきいて落ち付いて、それを考へ合せると云ふ樣な事さへ出來ませむ……私は最後に約五年間最も親しくした李奇聞(支那でのリーチの名)のために、幸ある前途と健康を祈ります」166

この時期富本は、『富本憲吉模樣集 第一』の刊行を前にしてあわただしい毎日を送っていた。『美術新報』一月号は、「富本憲吉氏・・・・・は自作の模樣集・・・を近日發行する。部数を少數に限り、豫約を以て希望者に頒つ。其大部分は自刻自摺の木版だそうであるから愉快なものが出來るであらう。(犀水)」167と告げていた。【図三二】は、『卓上』第六号の巻末に掲載された、その『模樣集』の広告である。この広告に記載されているところによれば、この本は、一七葉の自刻自摺の木版画と三葉の写真版で成り立ち、七〇部(うち一〇部が特製)限定で販売され、定価は二円(特製は三円)であった。「模樣より模樣を造る可からず」の精神が貫かれた、この一年半の「富本模様」を、まさしく集大成するものであったにちがいない。この広告頁には、くしくもリーチの『A Review(管見)』(柳宗悦訳)が併載されていた。こちらの本は、昨年の秋、ちょうど富本が結婚した時期に出版されていたもので、一九〇九年から一九一四年までの日本での滞在が回顧されていた。

さらに二月二〇日から三月一日まで、美術店田中屋において富本は、「富本憲吉氏陶器及素描展覧會」を開催した168。これが、数箇月間の東京での新婚生活中に開かれた唯一の展覧会であった。昨年末から試作していたと思われる本焼きが、このとき並べられた可能性もある。『模樣集』の刊行とあわせて、本窯を築くための準備も、このようにして整えられていった。そして『美術新報』三月号は、その「消息」欄において富本の動向をこう報じた。

富本憲吉氏・・・・・ 三月五日郷里に歸り本窯を築く、同氏著「模樣集」第一は京橋竹川町田中屋美術店より發賣せられたり169

かくして一九一五(大正四)年の早春、いよいよ大和の安堵村に場を移して、憲吉と一枝の新しい生活がスタートすることになった。東海道を西へ下る車中、ふたりは一枝のお腹に手を添えたであろう。希望の新生活にふさわしく、一枝の体内にはもうひとつの生命が胎動しはじめていた。

(二〇一〇年)

第一部 第四章 図版

(1)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、61頁。

(2)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、65-66頁。

(3)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、209頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]

(4)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、74頁。

(5)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(6)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、76頁。

(7)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、67頁。

(8)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、68頁。

(9)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 68.[リーチ『東と西を超えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、60頁を参照]

(10)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、74-75頁。口述されたのは、1956年。

(11)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、76頁。

(12)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、104頁。

(13)「よみうり抄」『讀賣新聞』、1913年8月27日、水曜日。

(14)「よみうり抄」『讀賣新聞』、1913年9月6日、土曜日。

(15)この本の出版データは次のとおり。Charles J. Lomax, Quaint Old English Pottery, with a Preface by M. L. Solon, Sherratt and Hughes, London, Manchester, 1909.

(16)「小藝術の興味」『讀賣新聞』、1913年2月23日、日曜日。

(17)Bernard Leach, op. cit., p. 57.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、42頁を参照]

(18)前掲『私の履歴書』、200頁。

(19)前掲『製陶餘録』、129頁。

(20)Bernard Leach, op. cit., p. 57.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、同頁を参照]

(21)前掲『製陶餘録』、167-168頁。

(22)同『製陶餘録』、37頁。

(23)同『製陶餘録』、165頁。

(24)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(25)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、69頁。

(26)「よみうり抄」『讀賣新聞』、1913年10月24日、金曜日。

(27)「陶器展覧會 神田ヴイナス倶楽部にて 富本憲吉君の工藝試作品」『讀賣新聞』、1913年10月26日、日曜日。

(28)南薫造「富本憲吉君試作品展覧會の陶器を見て」『美術新報』第13巻第2号、1913年、12-14頁。

(29)同「富本憲吉君試作品展覧會の陶器を見て」、13頁。

(30)バァナアド、リイチ「保存すべき古代日本藝術の特色」『美術新報』第10巻第12号、1911年、15頁。

(31)前掲「富本憲吉君試作品展覧會の陶器を見て」、14頁。

(32)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、77頁。

(33)このときの案内状とそれが入れられた封筒については、以下に掲載の図版を参照のこと。山本茂雄「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、74頁。

(34)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、99頁。

(35)同『元始、女性は太陽であった』、98頁。

(36)同『元始、女性は太陽であった』、99頁。

(37)「編輯室より」『青鞜』第3巻第8号、1913年8月、195頁。

(38)「新しき女 古き女に翻弄さる 紅吉と婦人記者」『東京朝日新聞』、1913年7月25日。

(39)尾竹紅吉「新潟から」『東京日日新聞』、1913年8月18日、月曜日。

(40)尾竹紅吉「おゝ佐渡ケ島」『東京日日新聞』、1913年8月26日、火曜日。

(41)同「おゝ佐渡ケ島」。

(42)同「おゝ佐渡ケ島」。

(43)青柳有美「問題の紅吉」『新小説』第18年10月号、1913年、1頁。

(44)同「問題の紅吉」、同頁。

(45)同「問題の紅吉」、9頁。

(46)同「問題の紅吉」、同頁。

(47)この間の事情を、富本憲吉・一枝の孫にあたる富本岱助は、次のように語っている。「もう一つの謎は『陶器』と題された祖母一九歳の時の作品である。六曲半双のこの屏風は、後年保存状態が悪くなり処分されることになったのだが、中心人物の一部を切り取って私が叔父[富本憲吉・一枝の長男の壮吉]から貰い受けたものである」(富本岱助「祖母の画と二つの謎」『彷書月間』弘隆社、2月号、2001年、27頁)。同じく同号の『彷書月間』のなかで、池川玲子は「『富本夫妻合作絵巻』と『富本憲吉夫妻陶器展覧会』」という小論にあって、「『弾琴』(第七回文展に出品したものの落選。所在不明)……『薊の花 富本一枝小伝』(高井陽・折井美耶子、ドメス出版、一九八五年)のカバーに用いられた屏風絵である可能性が高い。ちなみにこの屏風は富本家では『陶器』として伝わっていたものだが、残念ながら近年廃棄されてしまったと聞く」(21頁)と述べている。この指摘は極めて重要で、ほぼ間違いないものと思われ、参考にさせていただいた。
なお富本岱助は、切り取っていま手もとに残されている女性像【図八】の顔立ちは、一枝の妹の福美や自分の母親の陽を髣髴させるという。これが、破棄の前に切り取った理由でもあったわけであるが、図版掲載の許可を得るにあたって与えられたこの教示は、《弾琴》を製作するに際して、一枝が、福美をモデルに使っていたことを示唆するものであった。

(48)尾竹俊亮『闇に立つ日本画家 尾竹国観伝』まろうど社、1995年、198頁。

(49)同『闇に立つ日本画家 尾竹国観伝』、231頁。

(50)『美術新報』第13巻第1号、1913年、61頁。

(51)犀水生「審査發表に就て」『美術新報』第13巻第1号、1913年、55頁。

(52)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、70-71頁を参照。

(53)『南薫造宛富本憲吉書簡集』、72頁。

(54)安堵久左(富本憲吉)「拓殖博覧會の一日」『美術新報』第12巻第2号、1912年、20頁。

(55)津田靑楓「巽會展覧會を見て」『多都美』第7巻第8号、1913年4月20日。

(56)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(57)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(58)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、72-73頁。

(59)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、78頁。

(60)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(61)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、79頁。

(62)富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月号、82頁。

(63)同「痛恨の民」、83頁。

(64)同「痛恨の民」、88頁。

(65)「消息欄」『多都美』第7巻第7号、1913年4月5日。

(66)「紅吉の畫が賣れる――三百圓で花魁身受の噂」『讀賣新聞』、1913年4月8日。

(67)「『靑鞜社』のころ(二)」『世界』第123号、岩波書店、1956年3月、138頁。

(68)「編輯室にて 同人」『番紅花』第1巻第1号、1914年、222-228頁。

(69)『鴎外全集』第35巻、岩波書店、1975年、619、620、622頁。

(70)森林太郎「サフラン」『番紅花』第1巻第1号、1914年、3頁。

(71)「よみうり抄」『讀賣新聞』、1914年2月18日、水曜日。

(72)紅吉「歸つてから」『青鞜』第2巻第10号、1912年、130頁。

(73)尾竹一枝「私の命」『番紅花』第1巻第1号、1914年、17-20頁。

(74)尾竹一枝「自分の生活」『番紅花』第1巻第1号、1914年、193-194頁。

(75)同「自分の生活」、194頁。

(76)同「自分の生活」、195頁。

(77)同「自分の生活」、197頁。

(78)同「自分の生活」、200頁。

(79)同「自分の生活」、202頁。

(80)同「自分の生活」、207頁。

(81)同「自分の生活」、208頁。

(82)「二種の個人展覧會 荒井氏と富本氏と」『讀賣新聞』、1914年3月7日、土曜日。

(83)黒田鵬心「美術時評」『讀賣新聞』、1914年3月13日、金曜日。

(84)雪堂「早春の諸展覧會」『美術新報』第13巻第6号、1914年、40頁。

(85)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、80頁。

(86)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、81頁。

(87)「編輯室にて 同人」『番紅花』第1巻第2号、1914年、184頁。

(88)同「編輯室にて 同人」、185頁。

(89)「編輯室にて 同人」『番紅花』第1巻第3号、1914年、156頁。

(90)同「編輯室にて 同人」、同頁。

(91)同「編輯室にて 同人」、同頁。

(92)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、83頁。

(93)「週報 展覧會」『美術週報』第1巻32号、1914年5月24日。

(94)同「週報 展覧會」『美術週報』、同日。

(95)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、84頁。

(96)「個人消息」『美術週報』第1巻34号、1914年6月7日。

(97)碌山美術館・柳文次郎共編「柳敬介年譜」、65頁を参照。

(98)木下杢太郎「最近洋畫界」『美術新報』第13巻第1号、1913年、56-58頁。

(99)このことについて、たとえば都築千恵子は、「このようなリーチと富本の二人の陶芸家の密接な関係を思い浮かべると、柳[敬介]はこの関係をわざわざ生かすために肖像画の構図を思い至ったにちがいない。すなわち、まるで岸田劉生の《B・Lの肖像》と対をなすかのように、酷似した構図上に富本を配置し、同様に帽子をかぶらせたのであって、そうすることでこの両陶芸家を対置させ、親友の富本に敬意を表したのであろう」と、すでに推測している。適切なる指摘であると思われ、参考にさせていただいた。都築千恵子「柳敬介作〈白シャツの男〉をめぐって」『現代の眼』473号、1994年4月、6頁。

(100)佐藤碧坐「富本君のポートレー」『中央美術』第8巻第2号、1922年、97頁。

(101)「週報 展覧會」『美術週報』第1巻34号、1914年6月7日を参照。および、『三越美術部一〇〇年史』三越編集・発行、2009年、26頁。

(102)「週報 展覧會」『美術週報』第1巻32号、1914年5月24日。および、『卓上』第2号、1914年6月15日の巻末広告を参照。

(103)「個人消息」『美術週報』第1巻37号、1914年6月28日。

(104)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 114.[リーチ『東と西を超えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、123-124頁を参照]

(105)「編輯室より」『番紅花』第1巻第4号、1914年、181頁。

(106)尾竹一枝「夢をゆくわが船の」『番紅花』第1巻第4号、1914年、167頁。

(107)「編輯室より」『番紅花』第1巻第5号、1914年、143頁。

(108)「いたづらな雨」『番紅花』第1巻第5号、1914年、142頁。

(109)「編輯室より」『番紅花』第1巻第6号、1914年、218-219頁。

(110)前掲「『靑鞜社』のころ(二)」、同頁。

(111)神近市子「雑誌『青鞜』のころ」『文学』第33巻第11号、岩波書店、1965年、65頁。

(112)山本茂雄「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、74頁。

(113)尾竹一枝「薄暮たそがれの時」『番紅花』第1巻第6号、1914年、48頁。

(114)前掲「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」、同頁。

(115)尾竹一枝「あかあかし」『番紅花』第1巻第6号、1914年、48-49頁。

(116)「文藝消息」『萬朝報』、1914年7月24日、金曜日。

(117)前掲「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」、75頁。

(118)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、85頁。

(119)『藝美』第1年第4号、1914年9月、33頁。

(120)富本憲吉「わが陶器造り」(未定稿)、辻本勇編『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、30頁。

(121)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、36頁。

(122)座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、10頁。

(123)中村精「富本憲吉と量産の試み」『民芸手帖』178号、1973年3月、36頁。

(124)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、18頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(125)J. W. Mackail, The Life of William Morris, Volume I, Longmans, Green and Co., London, 1899, pp. 151-152.

(126)富本憲吉「美を念とする陶器――手記より」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、48頁。

(127)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge/Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XVI, p. 230.

(128)「消息集」『藝美』第1年第5号、1914年10月、47頁。

(129)富本憲吉「東京に來りて」『卓上』第4号、1914年9月、21頁。

(130)同「東京に來りて」、22頁。

(131)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、24頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(132)富本憲吉「模樣雜感」『美術新報』第13巻第12号、1914年、8頁。

(133)同「模樣雜感」、同頁。

(134)同「模樣雜感」、9頁。

(135)津田靑楓「職人主義の圖案家を排す(小宮豊隆君に讀んで貰ふ爲に)」『藝美』第4号、1914年9月、1-7頁。

(136)小宮豊隆「圖案の藝術化」『文章世界』第9巻10号、1914年、260-262頁。

(137)まず、夏目漱石の書物の装丁に関する関心について――。漱石にとっての二冊目の著書となる、短編集『漾虚集』の装丁にかかわって、江藤淳が次のようなことを述べている。「扉と目次、カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは橋口五葉、挿絵を描いたのは中村不折で、漱石はその出来栄えに大層満足であった。いうまでもなく、『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたのは漱石自身の意図で、彼はこの本をその頃英国でウィリアム・モリスらによってさかんに試みられていたような、文学と視覚芸術との交流の場にしたいと思っていたのである」(江藤淳「解説」、夏目漱石『倫敦搭 幻影の盾 他五篇』岩波文庫、岩波書店、1995年、237-238頁)。『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は、実際には、モリスが亡くなってすでに一〇年が立った時期であり、したがって、「その頃英国でウィリアム・モリスらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試みられていた」とする江藤の指摘は、内容は別にしても、時期については明らかに誤認なのではあるが、しかし、江藤が述べているように、このころからモリスの例に倣って漱石の装丁への関心は高まっていたのであろう。
次に、津田靑楓と漱石の関係について――。津田は、漱石の著作の装丁を手掛けるようになった経緯を、後年次のように語っている。「明治四四年に私は上京して、職をもとめてあるいたが、画をかきながら生活のできる適当な職がなく困っていた。そのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』の装釘をやってくれということになり、それを手はじめに[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるようになった。そのうち漱石も、私にやらしてくれるようになった。……漱石は『こんなのも又新鮮でいい』とでも思ったのか、それとも私が困っていたから、稼がせてやろうという気があったのかも知れない。何れにしても三重吉が装釘をやらせてくれたことが自分のもっている才能を世間に発表するいい動機になった」(津田青楓『漱石と十弟子』朋文堂新社、1967年、298頁)。しかし、この本のなかには、津田が富本を漱石に紹介したことを裏づけるような記述は存在しない。
 最後に、富本憲吉と漱石の関係について――。柳原睦夫は、自分が京都市立美術大学の学生だったころ、富本本人から聞かされた漱石との出会いの場面について、次のように回想している。「富本先生は夏目漱石の知遇を得ています。イギリス留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません。漱石の思い出話は、リアリティーがあり秀逸のものです。先生は煎茶好きで、仕事の手を休めては、『おい茶にしよう』と声がかかります。この日のお茶うけは、当時貴重な羊羹でした。漱石の話はここから始まるわけです。『夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や。僕に一切れ羊羹をくれて、残りは全部自分で食べよった。あんなことをしたら胃病になるわなあ』。まるで昨日の出来ごとのようです」(柳原睦夫「わが作品を墓と思われたし」『週刊 人間国宝』1号、工芸技術 陶芸1、朝日新聞東京本社、2006年、18頁)。

(138)前掲「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」、同頁。

(139)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(140)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、25頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(141)前掲「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」、76頁。

(142)同「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」、同頁。

(143)前掲「『靑鞜社』のころ(二)」、137頁。

(144)「『靑鞜社』のころ」『世界』第122号、岩波書店、1956年2月、127頁。

(145)富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』(講座女性5)、三一書房、1958年、177頁。

(146)前掲「『靑鞜社』のころ」、128頁。

(147)富本憲吉「新居秋興」『卓上』第5号、1914年12月、12頁。

(148)前掲「『靑鞜社』のころ(二)」、同頁。

(149)同「『靑鞜社』のころ(二)」、同頁。

(150)Bernard Leach, op. cit., p. 114.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、124頁を参照]

(151)「餘録」『卓上』第4号、1914年9月、23頁。および、「消息集」『藝美』第1年第5号、1914年10月、44頁を参照。

(152)『神近市子自伝 わが愛わが闘い』講談社、1972年、120-121頁。

(153)「消息」『卓上』第5号、1914年12月、12頁。

(154)『美術新報』第14巻第2号、1914年、21頁。

(155)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、85頁。

(156)前掲、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』、74頁。

(157)前掲「わが陶器造り」(未定稿)、辻本勇編『富本憲吉著作集』、136-137頁。

(158)「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」『淑女畫報』第3巻第13号、1914年12月、32-39頁。

(159)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、125頁。

(160)前掲「『靑鞜社』のころ(二)」、同頁。

(161)らいてう「獨立するに就いて兩親に」『青鞜』第4巻第2号、1914年、115頁。

(162)同「獨立するに就いて兩親に」、113頁。

(163)前掲「自分の生活」、193-195頁。

(164)らいてうによる序文、エリス「女性間の同性戀愛」『青鞜』第4巻第4号、1914年、1頁。

(165)尾竹一枝「Cの競争者」『番紅花』第1巻第3号、1914年、107頁。

(166)富本憲吉「支那へ去らんとするリーチ氏に就て(書簡)」『美術新報』第14巻第4号、1915年、22頁。

(167)『美術新報』第14巻第3号、1915年、47頁。

(168)『美術新報』第14巻第5号、1915年、32頁を参照。

(169)同『美術新報』、同頁。