富本憲吉は、南薫造に宛てた一九一二(大正元)年一一月一日付の書簡のなかで、はじめて自らを「陶器師」と名乗っている。もっとも、ここで富本が使用している「陶器師」という表現は、専門の職業人としての「陶器師」というよりも、この間に実践してきた木版画、革細工、木彫、木工、更紗、刺繍、エッチング、本の装丁にかてて加えて、当時、楽焼きという新しい分野に向かおうとしている自分の新鮮なる内面を少しばかり裏打ちしたものとして受け止めることができよう。それでも、その後の富本の職業選択の過程を考えた場合、この自己規定の表現が極めて重要な意味をもつことはいうまでもない。以下はその手紙の末尾の一節である。
雨が降って陶土が乾かなくて困る。 十一月一日夜 陶器師 久左 薫造様1【図一】
この手紙の宛て先は「東京市外千駄ヶ谷町三五二」となっており、第六回文展にあわせて、ちょうどこのとき南はこの地に滞在していたものと思われる。富本がこの手紙を書いたのは、バーナード・リーチの陶器製作にかかわる求めに応じて東京に上るも、それとは別に、またしてもその地の美術家や批評家に傷つけられ、不快な心情を引きずるようにして大和へ帰郷した、その直後のことであった。
今度程厭やな東京は今迠になかった。又今度程政 事 ( ママ ) 家の様なポリシーをつかふ美術家或は批評家が居る事をテキセツに感じた事はなかった。それで直に歸へって見た2。
そしてまた富本は、どうやらこのときの上京中に、リーチのみならず、英国留学のおり以来「入道」という呼び習わしでもって慕っていた白滝幾之助にも会って、二度目の「英国留学」というよりは、「英国逃亡」と呼ぶにふさわしい、自らの今後の進路について相談をしたらしい。
かなりのコウフンもあったしリーチ夫婦白瀧夫妻の親切な忠告によって英国へ行く事をよした以上、画室の取りひろげを決行し様と考へて兎に角少しイライラ(いつもの事ながら)する気持で歸へって来た3。
もっとも、富本の「英国逃亡」の願望は、これが最初で最後というわけではなく、生涯を通して見受けられることになるのではあるが――。一方、帰郷した大和での生活はどうかというと、一向に進展しない自分の縁談の推移に、みじめささえ覚える。以下もまた、同書簡に述べられている一文である。
中央評論に出してある志賀直哉君の大津順吉と云う小説を讀むだなら今僕はその小説にかいてある気分と少しも異はない気持で暮らして居る。今日あたりは非常に歯がいたい。志賀君の順吉と云う主人公は七十二になる祖母と自分の妻とする女の事でケンクワをやって居る。僕は七十四になる祖母と弟や妹の嫁入話でケンクワをして居る。自分の事でないだけツマラないツマラない。 家庭の連中と自分の恋の事でケンクワをして居る志賀君の主人公を見ると、それすら出来 き ( ママ ) ないあはれな自分がいやになる4。
英国から帰国したのちの大和での生活を、後年富本は「精神的な放浪生活」5と形容しているが、上記書簡の内容からも明らかなように、東京の美術家たちの術策を弄する言動に失望し、他方、安堵村での自らの結婚話には全く展望が見出せず、東京と安堵村の双方の場が塞がり、居場所を失った「精神的な放浪生活」の状況のなかにあって、リーチの積極的な行動に引き込まれるかたちをとりながら、ある意味で付随的に富本の「陶器師」は誕生していくのである。
それでは、「陶器師」へと至る道程をここに記述するにあたって、その発端となる、東京美術学校の古宇田実の設計によって京橋区八官町に新築された吾楽殿へ、森田亀之輔を案内役にリーチと富本が訪れたその日の出来事へと話をもどさなければならない。それは一九一一(明治四四)年二月一八日のことであった。リーチは、こう日記に記していた。
若い美術家たちの展覧会会場になることを想定してつくられた、東京の中心にある 画報社 ( ママ ) [吾楽殿]へ森田[亀之輔]と一緒に行った。そこは小規模ながらも、まさに最初の自主運営による画廊で、トミー[富本]と私の作品も参加させてくれるかどうかを見にいったのであるが、快く承諾してくれた。そのあとパーティーにも加えてもらい、そこで、森田、トミー、そして私は、余興に陶器の絵付けをしていた約三〇名くらいの若い美術家や文筆家、それに俳優といった人たちに会った6。
これが、リーチと富本にとってのはじめての陶器との出会いであった。そのときの様子を、さらに詳しくリーチは書き残している。
この大きくて一番美しい茶室に、絵筆と顔料と素焼きの陶器が持ち込まれ、畳を保護する何枚かの小さなフェルトの敷物の上に並べられていた。英語の話せる人が、そのひとつに絵付けをしてみないかと聞いてきた。そしてそのとき、生まれてはじめて、陶器に描くには何が適当かということに思いを巡らした。…… つい最近博物館で、オウムが片足でバランスよく立っている絵柄をもつ明の時代の磁器製の皿を見ていたことを思い起こした。…… 絵付けが終わったものは、完全に乾燥させるために、画室で使うストーヴほどの大きさをもつ可動式の窯の上の所にぐるりと並べられた……私たちが絵付けした陶器は、すでに取り出されたものと置き換えに、一つひとつ内窯のなかに入れられていった。蓋がもとにもどされ、それから石炭がさらにくべられ、穴の開いた外蓋が再びかぶせられた。 およそ四五分後、蓋を開ける手順が繰り返され、赤く焼け、熱を帯びた陶器がひとつずつ取り出されると、地面の上のタイルに乗せられて、そこで冷やされた。色が徐々に変化していき、絵柄が現われてきた……それからさらに一五分かそこいらののち、もてない熱さでもなくなると、布切れに包まれて私の皿がもどってきた。魅了された私は、このときすぐさま、この工芸を自分もはじめてみたいという欲望に駆り立てられた7。
こうしてリーチは、楽焼きのもつ魅力に惹き付けられていった。富本はこう記憶していた。「そんなころ、リーチの住んでいた下谷桜木町の筋向いに堀川光山という、ちゃわん屋があって、その家は即席の楽焼きを売るのが商売だった。あるとき拓殖博覧会に光山が楽焼きの席焼きを出店しているというので、私とリーチの二人で行って、いくつも絵や模様を描いて焼いてもらった」8。一方リーチの記憶によれば、こうである。「その楽焼きのお茶会のすぐあと、日本拓殖博覧会が上野公園で開催された。公園の片側は、蓮がいっぱい生えた大きな池であったが、南側に、私はある店を発見した。観覧客はこの店で、釉薬がかけられていない素焼きの器を買い、自分の手で絵付けをし、楽焼きにしてもらうことができた。この臨時店舗の持ち主は、私の隣人で、陶工でもあった。腕はよくなかった!それでも、私は足しげくその店に通い、適切な考えが頭に浮かんでくると、それをもとに絵付けを施していった……私のやったものがうまいとは思わなかったが、とにかくおもしろくてしようがなかったし、目で見て覚えることも多くあった」9。
この年の四月一五日から三〇日までを会期として、二月に見学に行った吾楽殿で、『美術新報』主催による新進作家小品展覧会が催された。リーチは、四月二七日の日記に、このように書き付けていた。
トミー[富本]は落ち着いて仕事に打ち込むために、五月三日ころに田舎へ帰る。高圧的な官僚主義的芸術の影響から逃れるためもあるのではないかと思う。彼を失うことは残念でならない。私は展覧会で、楽焼きを一〇点、エッチングを七点、紙に描いた油絵を二点売った。トミーは版画の小品を四〇点くらいと皿を一、二点、それに水彩画を一点売った。ふたりであわせて百点ほど売ったことになる10。
この展覧会でリーチが売った楽焼き一〇点と富本の皿の一、二点とは、ふたりが堀川光山の店で絵付けしたものであった。これについて富本はこう述懐している。「全部で百点近くもあったろうか。ほんのいたずら半分だったつもりが、このように評判を呼んだのは、当時の楽焼きのきまりきった絵や模様とちがって私たちの描くものに斬新な魅力があったのだろう」11。もっとも、この段階で富本が、強く陶芸に心動かされたわけではなかった。しかし、のちのちの観点から振り返ってみれば、このときの楽焼きの絵付けと販売は、偶発的なものとはいえ、生涯の第一歩を刻印する重要な出来事であった。晩年、こう富本は回想する。
私はそのとき、まだ、さほど心が動いていたわけでもないが、あとからふりかえってみると、あの小さな拓殖博覧会で、いたずら半分に描いた茶わんやさらが、あのように評判を呼ばなかったならば、おそらく、一生陶芸の道を歩むようにはならなかっただろうと思う。思えば、それが私の生涯を決する重大な契機となったのである12。
しかし富本の東京での生活はここまでで、これよりのち、大和における「精神的な放浪生活」へと入っていくのである。一方リーチは、ますます焼き物に熱中し、「友人たちに誰か先生を探す手助けをしてくれと頼む」13ほどまでに、その熱は高まっていった。結果的にリーチの「先生」になるのが六代尾形 乾山 ( けんざん ) で、大和から上京し、通訳としてその橋渡し役を務めたのが、富本本人であった。その日のはじめての顔合わせの情景について、のちに富本は次のように書き記している。それは、富本の大和帰郷からほぼ五箇月が過ぎた一〇月のある日のことであった。
歐洲大戰が突發して歸國の話のあつたリーチもそのために遅れてゐた。その間に何か日本獨特な技術を歸るまでに習つておきたいといふので、拓殖博の席燒がもとになり樂燒をやつてみてはどうだといふことになつた。誰かよい先生はゐないかと尋ねてゐると、石井柏亭氏が樂燒の上手な老人を知つてゐるといふ。其人は入谷にゐるといふ事であつた。或日のこと私はリーチの通譯となつて入谷小學校の向側の尾形といふ人だと聞いて尋ねて行つた14。
その家は表通りを入った小路の突き当たりにあり、小路に入ると、長唄のおさらいが聞こえてきた。その家は、格子戸のある三間ほどの小さな家であった。玄関に立って、富本が来意を告げると、右手にあるらしい仕事部屋から、袖なしの仕事着を着た、白髪で無精ひげを生やした老人が現われ、ぶっきらぼうに「お上がりなさい」という。ふたりは、左側の部屋に通された。富本の回想は、さらに続く。
私はリーチを紹介して「英國人で是非日本獨特な樂燒の法を覺えたいから弟子にして敎へて下さるやうに」と話した。ところが老人がいふには「私は變屈で、やかましいので是まで弟子をとつても半歳もつゞく者はなかつたので、弟子は取らん事にしてゐたのだが、外國人で、そんな心がけの人は今の世に珍らしいことであるから引き受けませう」といふ事で、弟子入りはかなつた。そしていろいろな話を聞いたが三浦乾也の唯一の弟子で六代乾山であることを初めて知つたのであつた15。
この老人が六代乾山であることがわかったとき、ロンドンに滞在していたおりのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のことが富本の頭を過ったにちがいなかった。というのも、そこで富本は、初代乾山の焼き物を見ていたからである。「それは角形を二つ組み合わせた平向こう付けで、上から垂れ下がる梅一枝と詩句とを黒色で描いたものだった」16。
こうして、富本の通訳のおかげもあって、乾山のもとへのリーチの弟子入りはうまくいった。この上京のおり、リーチは富本にエッチングを教えている。ひょっとしたらお礼の気持ちがあったのかもしれない。翌一一月一日から一二日まで赤坂の三会堂で白樺主催の洋画展覧会が開かれたが、そのときリーチは、残して帰郷した富本の作品もあわせて搬入し、出品したものと思われる。
今回の上京は、リーチの通訳をすることだけが目的ではなかった。もうひとつの目的は、自分の展覧会開催の見通しをうかがうことであった。しかし東京の美術界の反応は、いつものように、富本の気持ちにとげを刺すものであった。「お端書有り難く拜見した。矢張りあの晩の十一時の汽車で歸つたさうだね、僕は君があゝは云つて居ても次の日位になるだらうと思つて見送りにも行かなかった、失敬した。僕は君が此度君の個人展覧會を開く事が出來ずに歸國した事を悲しく思つては居ないだらうかと心配して居る、實際僕も残念に思つた」17。この南薫造の富本に宛てた書簡の書き出しの文面からも察することができるように、そそくさと逃げるようにして、富本は東京を発った。そのとき、南も同じく、安芸の内海町から上京していた。温厚な南は、東京美術学校の学生だったころから、ロンドン時代を経て、帰国後のこの時期に至るまで、傷つきやすい富本の側にいて、常にその苦しみや悲しみに同情の念を示してきた、富本にとって父親のような、唯一の友であった。
一方、乾山に入門したリーチは、それ以降毎日彼の工房へ通うようになった。当時のことをリーチは次のように回想する。
乾山が好きなのを知っていたので、エビスビール一瓶をたいていもっていき、お昼に、ふたりで分け合った。硬い床に座り、棒でろくろを回しながら、濡れた手でやわらかい器をつくるか、チーズほどの硬さの壺を挽くかして、この工房で陶土のいろはを学びはじめた。乾山は非常に口数の少ない人だった。それで、実際のところ彼は、私が発するとても限られた日本語での多くの質問をうるさがった。「よくまあ、なぜ、なぜ、という人だな。――酸化焔(完全燃焼)とは何かとか、還元焔(いぶる)とは何かとか。あんたの質問を聞いていると頭が痛くなる」。私の貧弱な日本語の質問では、そうさせるのも無理はなかったかもしれない。「私がやってみせたようにやってごらんよ。こうやって私も師匠に教わったんだから」18。
わからないことがあると、どうしても知りたくなるらしくて、リーチの質問の矛先は、次に、英語のできる富本に向かった。
リーチを弟子入さして私は郷里に歸つた。乾山も今までにない熱をもつて敎へたらしい。リーチも良師を得たことを喜んで勉強し段々仕事もよくなつて來た。色に泥を交ぜて使ふことなども工夫して熱心にやつてゐて、乾山に聞いても、のみこめない事が出來ると私の處にハガキで照會してよこした19。
この時期、東京の美術界に対する不信や自らの結婚についての苦悩にあえいでいたにもかかわらず、富本はこうした照会に対して、決してわずらわしく思うこともなく、誠実に応えている。また、乾山にリーチを紹介した翌年(一九一二年)の三月には、『美術新報』主催の第三回美術展覧会にあわせて富本は上京しており、おそらくそのときリーチにも会ったであろう。さらにはその月の末から四月のはじめにかけて、妻のミュリエルとそろそろ一歳になろうとする息子のデイヴィッドを連れて、今度はリーチが安堵村を訪れている20。こうした直接顔を合わせたときの主な話題も、乾山のもとでのリーチの焼き物修業のことだったにちがいない。このように、はがきの遣り取りや相互の訪問が重なることによって、知らず知らずのうちに、富本自身もリーチの熱狂に自然と巻き込まれていくのである。
私もしろうとだから、それ[リーチからのはがきによる照会内容]をいちいち調べて返事を書かねばならなかったし、ときにはまた遠い大和からも東京へ通って、リーチと尾形[乾山]氏の技法上の通訳をしなければならなかった。 そうしているうちに、いつの間にかリーチの研究心が私にうつって私も家の裏にあるあき地に三、四十センチ立方の移動可能の楽焼き窯を一つこしらえ、熱心に楽焼きをはじめた21。
日本語が不自由なリーチから毎日のように届く、楽焼き製作にかかわる問い合わせに、より正確に答えるために、自らも試してみようと思ったのだろう――。はじめて富本が携帯用の簡単な楽焼き窯を準備したのは、一九一二(明治四五)年の七月のことであった。そして富本自身も、すぐさま、そのおもしろさに気づいた。南に宛てた七月二七日付の富本の書簡のなかに、このことについて以下のように短く触れられている。
津田[青楓]君に團扇をうって貰った金で[君の住む]安藝へ行かふと思ふて居たのが先日、安藝へ行ったら何處行かふ……三津あたりとも考へたが君の文部省の大作にジャマになるからと此れもやめた。ウチワの金で楽焼の道具を買って来てやって見た處ナカナカ面白い22。
四月五日より九日まで京都市岡崎町の図書館上階において開催された「津田青楓氏作品展覧會」に、南薫造、柳敬助、高村光太郎たちに交じって富本も賛助出品している23。この展覧会の賛助出品のなかには、油画、水彩画、パステル、半折画、團扇画、版画、木彫、新七宝品などが含まれていた。また六月には、五日から一二日まで、京都の西川生花洋草店二階のグリーンハウスにおいて「小藝術品展覧會」が開かれたが、そのおりにも、齋藤與里や津田青楓、長沼知恵らの作品とともに富本の作品が並べられた24。このときの展覧会の展示品目は、團扇画、刺繍、土人形、木版画、壁掛けなどであった。富本は、そうした展覧会の機会に売られた自作の團扇画の代金を使って、楽焼きの道具を購入したようである。そしてちょうどそのころ、リーチの方は、自分の家に窯をつくる計画に胸躍らせていた。というのも、同じ書簡のなかで富本は、「その中リーチは箱根から是非来い、此の秋築く本ガマの相談をしたいと言ふて来た」25と、南に伝えているからである。
リーチの腕は、乾山も認めるところとなったのであろう。ほぼ一年にならんとする乾山の工房での修業ののち、ある日のこと、乾山はリーチに、「自分の庭の片隅にでもちょっとした工房をもちたくないかね」26と、告げている。そして、「必要な棚とろくろを備えた簡素で小さい仕事部屋がまもなく建った。またこの工事が終わるまでには、乾山が窯をつくってくれていたので、こちらもまた、まもなくすると使用の準備が整うことになった」27。
準備が整うと、さっそくリーチは、富本に上京するように手紙を書いたものと思われる。「ほどなくして私は、ここに来て、真の処女作となる壺をろくろでつくるように、トミー[富本]を説得した」28。一方富本は、そのときのことをこう述べている。
これを道樂にして家をつぶした連中は古來隨分あるから注意し給えと云ふ前おきをつけて、陶器と云ふ事を友人のリーチに話してから二年になる[。]此頃では非常な熱心で、ユーロピアン、ブルウが何うの、ゴス又はオールド、ブル ー ( ママ ) ウが何うと、ナカナカ通な事を云ふて自分を困らせる。今度もいよいよ本式の大きい樂焼のカマを築くから來いとの事、厭やな東海道線を無理に我慢して東京に着いて見ると、その日から古道具屋や數寄者の家を案内者然と熱心に引つぱり廻す29。
そうするうちに、いよいよ製作がはじまると、リーチは富本の手際のよさに驚かされた。それは、富本が楽焼きの道具を買い求めた七月から三箇月が経過した一〇月の出来事であった。この間、リーチの感嘆を引き出すほどの鍛錬を富本は自らに課していたのであろうか――。以下は、そのときのリーチの述懐である。
当然ながら、本当に必要な所では手を貸したが、土をろくろの中央に盛り、内径七インチの鉢を成形することがおおかたできるのを知って驚いてしまった。私はこれに、半乾きのときに手を加え、うまく形を整えると、素焼きを行ない、次の週末までには富本が絵付けができるようにはからった30。
このとき富本は、絵柄として梅の花と、よく知られた春の歌「梅に鶯、ほけきょ!ほけきょ!とさえずる……」を選んだ。リーチは、さらにこう述懐する。
その後私は、初代乾山が二〇〇年前に同じこの春の歌を自分の壺のひとつに引用していたことを発見した。この壺はのちに私に与えられた。同じく富本のこの最初の作品も。双方の作品とも、いま、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館にある。31。
このとき富本が製作した《梅鶯模様菓子鉢》【図二】が一般に公開されたのは、翌年(一九一三年)の早春に三越新美術部によって開催された「現代大家小藝術品展覧會」においてであった。そのとき『美術新報』の雪堂(別の筆名を坂井犀水と称し、実名は坂井義三郎で、一九〇九年一一月の第九巻第一号より『美術新報』の主幹)は、富本の展示品のなかにあって、なかんずく「梅鶯模樣の菓子器の古雅なのが最も優れて見えた」32と評した。その後この作品は、その時期や理由を正確に特定することはできないが、結果的に富本からリーチの手に渡り、そしてその人によってヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に贈与されたのが、この博物館の作品番号から判断して、一九七七年のことであった。この年の三月三日から五月八日までこの博物館でリーチの回顧展が開かれており、おそらくそのとき寄贈されたものと思われる。リーチ九〇歳、亡くなる二年前のことであった。一方富本が亡くなって、もうすでに一四年が経過していた。寄贈されたこの作品には、割れ目や破損箇所に修復された跡が残されている。そのことは、リーチの手によって長い歳月のあいだ、富本の形見の品ででもあるかのように、大切に身近に保管されていたことを意味しているのであろうか――。このヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ日参してはスケッチに明け暮れていた富本の若かりし日の姿を、知り合った当時リーチは直接本人から聞かされていたにちがいなかったし、さらに最晩年に富本が、「もしこの博物館を知らなかったら、私はおそらく工芸家になることはなかったと思う」33と、率直に告白していたことも、その後の来日のおりに読み知っていたかもしれない。現在、この博物館には四点の富本作品が収蔵されているが、わけてもこの《梅鶯模様菓子鉢》が、リーチと富本とをあい結ぶ、さらにはまた富本をヴィクトリア・アンド・アルバート博物館につなぎとめる、永遠のきずなを人知れず物語っているのである――寄贈の翌年(一九七八年)に出版されたリーチの自伝の書題にあるように、まさしく「東と西を超えて」。
《梅鶯模様菓子鉢》の製作が終わると、この滞在中にまたしても東京の美術の世界に幻滅した富本は、怒りの気持ちを内に秘めながら大和へと帰っていった。だからといって、帰宅した大和の地が心安らぐ場かといえば、いつものように、決してそうではなかった。そうした心情を伝えるべく、まだ東京にいる南に宛てて富本は手紙を書き送った。その手紙に綴られた最後の短い一文が、冒頭の書き出しにおいて紹介した、「雨が降って陶土が乾かなくて困る。十一月一日夜 陶器師 久左 薫造様」だったのである。かくして富本の「陶器師」は誕生した。
この手紙がしたためられた八日前の一九一二(大正元)年一〇月二四日の官報において、第六回文展(文部省美術展覧会)の審査結果が発表された。それによると、第二部西洋画にあっては、小杉未醒の《豆の秋》とともに、南薫造の《六月の日》【図三】が二等賞に輝いた。一等賞は設けられていないので、二等賞の作品が事実上、最高位の入賞作であった。南は、留学から帰国した一九一〇(明治四三)年の第四回文展で三等賞を、続く昨年の第五回で二等賞を受賞しており、二九歳という若さながら、画壇における揺るぎない地歩を着実に固めようとしていた。そうしたなか、日本画家の結城素明が、『美術新報』(一一月号)のインタヴューに応じるかたちで、南のこの作品をこう評した。
南氏の「六月の日」は矢張り塲中一番の繪だね、然し缺點を見ればいくらもあるね、人物と景色とが調和して居ないね、人が水を呑んで居ないね、其の瓶へ持つて行つて、西洋の模樣を附けたなぞは、惡いシヤレで日本の百姓と云ふ感じを殺ぐね、模樣の爲めに眞面目な態度に裏切りされた樣だね、矢張り去年の方が宜いと思ふ34。
これを読んだ富本は、すかさず『美術新報』へ、その誤謬を指摘するとともに自分の考えを加えて書き送った。それが、翌年(一九一三年)一月号の『美術新報』に掲載された、次にみられる「大和の安堵久左君より來信の一節」である。
……先月號(文展號)の結城氏の南君の繪を批評されたうちにあの徳利の模樣を西洋の模樣の樣に言はれたことに就て申し上げたい事があります、あれは地方で現今でも使用されて居る百姓の徳利で、必しも西洋のものではありませむ。 民間の藝術と云ふものに今少し眼を向けていただきたいものです、それは結城氏だけでなく、又陶器だけではなく漆器、木工その他の模樣にも民間藝術の研究の必要がある事と考へます。……35。
ここにおいて富本は「民間藝術」という用語を使って、その研究の必要性を訴えている。それでは、その意味するところは何だったのであろうか。
この一文を『美術新報』に寄稿するおよそ二箇月前、富本はリーチの庭に新築された楽焼き窯の前で《梅鶯模様菓子鉢》の製作に向かおうとしていた。そのときリーチは、疲れてあまり気乗りのしない富本を無理に誘い、それでもふたりは仲よく兄弟のように連れ立って、上野公園で開かれていた拓殖博覧会へ足を運んでいる。行ってみると、朝鮮、満州、台湾、そしてアイヌの部屋があり、それぞれの生活用品や工芸品が展示され、製作の実演も行われていた。見るものすべてが、ふたりにとって大きな衝撃であった。とりわけ「蕃人」と呼ばれる台湾人の小屋では、時代や場所を超えて変わらない糸紡ぎの手法を見て、富本は驚きを禁じ得なかった。「土人主人の承諾を得て兩人が入つて行くと糸をつむいで居た主婦が自慢そうに見せて呉れたツムは眞直ぐな鐵の針の先きに石の薄い圓いツバの樣なものをはめたもので、西洋の博物舘で見た羅馬時代のそれと同形のものだつた、博物舘でそれを見た時、壺や何にかにある繪で利用法は知つて居るが、滊車や電車のある時代に未だこの形式が残つて居てマジメに實用に使つて居る人があるかと一種變な感想に打たれた。主人は室の内で籠をあむで居た」36。それとは別に、アイヌの会場では、「ギリヤーク」と呼ぶらしい樺太アイヌの「拾四五の娘が靜かに黑い毛を兩方にわけて繒はがきを賣つて居る前では動かれなかった」37。一目惚れとでもいうのであろうか――。隣りに座って同じく絵はがきを売っていた別の女性が、この娘のことを「本名位は日本語で書き、内地語もナカナカうまいそうだが、此處の來て多勢の人に顔を見られる樣になつてから下をむいて何むにも言はなくなりました」38と説明した。このとき富本は、もしかつて何かの機会に読んでいたとするならば、『美術新報』に掲載されていた「アイヌ装飾意匠」のなかの次のような一節が即座に脳裏に蘇ったにちがいなかった。
元來アイヌの小兒は文字も算盤もなし、親が敎へることは無い、それで全く無教育かといふに、さうではない。其小兒の時分に男の子には彫刻の考をすゝめ、女の子には 刺繍 ( ぬひ ) の考をすゝめる。故に小兒は初め地面に慰みに刺繍彫刻をする……[このように]意匠圖案を重んじて居るとは、恐らく世界中で同じ樣なものはあるまいと思はるゝ位である39。
これは、日本図案会総会で坪井正五郎が北海道の蝦夷人の美術について行なった講演記録の一節である。幼いときから刺繍に馴染んだアイヌの女の子は、単に刺繍の製作だけに止まらず、着物の着方そのものにも、独自の自己表現を身につけていたのであろうか。富本は、座ったままうつむいて絵はがきを売るこの無口な女性から受けた鮮烈な印象をさらにこう続ける。
……美つくしい首の線……大きな黑い眼、美つくしい黑髪、それが模樣から模樣にうつる時のクズレ方の面白味と云ふ樣なキモノの着かたをして無言で座つて居る、近年自分はコンナ美つくしい形をした娘を見た事がない……少し亢奮した自分は『女房にするならコノ形と心をした女』と云うに、一度去りかけたリーチは又近かよつて熱心に見て居た。そして左の眼だけ細くして肩を一寸あげて笑つて居た40。
こうして富本は、確かに、この若いギリヤーク人のなかに理想の女性像を見出した。結婚に悩む富本にとって、何か希望を抱かせる、あるいは届かぬ夢と終わりそうな、切ない一瞬の出来事であった。
いよいよ帰ろうとして正門に近づいたとき、売店が目にとまった。台湾のものばかりが並べられていたが、とりわけふたりは、「背の上部に白と青で段々にして下部赤、正面に太い赤い筋を二本通した『蠻衣』」41を争うようにして握りしめていた。そして「木製のパイプは明日金をもつて來ますから賣らないで呉れと頼んで置て其處を出た」42。【図四】がこのとき購入した「蠻衣」(台湾人の晴れ着)で、【図五】が翌日買いにいった「木製のパイプ」であろう。リーチの家に帰宅したふたりのあいだからは、食事がすんだあとまでも、「何う云ふ譯で野蠻人はコウ美つくしいものを造る力をシッカリと持つて居るのだろふか」43という羨望の問いかけが、幾度となく繰り返された。
書かれた時期から判断して、「大和の安堵久左君より來信の一節」のなかにおける「民間藝術」研究の重要性の指摘は、直接的には、主としてこの博覧会の見学から得られた知見に負うところが大きかったものと思われる。
このとき富本とリーチが衝撃を受けた朝鮮、満州、台湾、そして南樺太の芸術は、「内地」の「文明人」を中心に考えれば、すべて「外地」に属する「土着の人びと(土人ないしは野蛮人)」の芸術であった。この構図を世界に当てはめたらどうなるであろうか。そこには明らかに相似形に近いものがもはやすでに存在していた。ヨーロッパが「内地」であるとすれば、「外地」は、エジプト、ペルシャ、インド、中国、日本などの周縁の辺境地を指すことになる。そしてこの世界的構図は、一年前の『美術新報』(一九一一年の九月号)において、ヨーロッパ視察を終えて帰国した東京美術学校校長の正木直彦の談話をとおして紹介されていた。
美術上に於けるレネッサンスと云ふものは、十五六世紀に起つたのであつたが、今美術工藝上に一種のレネッサンスが起つて居ると云ふことが出來る。それには種々の原因があるであろうが、アーキオロジーの研究が、其主もなる原因を為して居る樣に思はれる。近來歐米の學界に於て、埃及[エジプト]、アッシリヤ、ペルシヤ、印度、支那等に關して、アーキオロジカルの探求が非常に盛んに行はれて、發掘品がどんどん本國に持ち歸へられて、博物館などに陳列せられて、盛んに研究せられて居る。そして、それ等の古代文明の遺品に、多大の趣味を見出して、それに倣つて種々の試作が行はれて居る。たとえば、埃及から發掘せられた、三四千年前のグラス……又支那の古代の 玉 ( ギヨク ) の名品……敷物などは古代ペルシヤ製品……陶磁器は、古代の波斯や支那の製品に倣ふとか云ふ風に、古代文明の遺品を研究して、復興に努力して居る。日本の古代の美術工藝品も大分渡つて居るから直接間接に、刺戟を與へたことであらうとも思はれる44。
正木が、ヨーロッパの主要な国々において一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて同時代的に進行していた美術とデザインの改革ないしは近代化をどのように認識していたかは、正確にはわからないが、ここでは、帝国主義や植民地支配といった政治的文脈は含まず、また原始美術、とりわけ現存する原住民族や先住民族の部族社会のなかに見受けられる美術やデザインに対する前衛芸術家たちの関心についても触れることなく、もっぱら正木は、古代文明に関する「アーキオロジーの研究」という学術上の文脈からこの時期を第二の「レネッサンス」とみなし、その胎動を語っていた。
その後正木はまた、日本における「土人藝術」の流行を認めたうえで、その社会的背景と造形上の特徴について、こうも述べることになる。
近頃は大分、土人藝術が流行して來た。世間が文明に進む程、あゝ云ふ反對の原始的の物を好む樣に成る。漸次社會の組織から、我々が日常生活の些細な事に至る迄、複雜し錯雜して來、従つて仕事も複雜して來ると、慰安を求める方法が、どうしても單純な方に傾くのは、自然の要求だらうと思ふ……[ペザントアートは]製作する上に於て少しも屈託した所がないから、斯うしやうと云ふ考丈で、斯う出來たもので、世間に少しもかまけた所がない……だから、ペザントアートと云ふ風のものには従つて行き届かない所がある……文明人の作品殊に日本の工藝家の有樣は隅から隅まで行き届き過ぎるので、是を玩賞する側の人に餘裕がなく、行き届いた作品を、一日も見て居ると、飽きが來る。然し行き届かないのは、想像の餘地が有る故、いつまで見て居ても飽きが來ないと思ふ45。
この文脈にあっては、文明化社会の進展に逆らうかのように、「土人藝術」が着目されているが、そうした人たちの表現や製作にみられる「ペザント・アート(農民芸術)」は、自由意志の発露であり、それゆえに製作者の心持ちが直截的に表出され、したがって文明人の技巧的で精緻な工芸品に比べ、造形的に行き届かない点があるも、それだけに人の想像力を喚起するのではないか、と正木は指摘しているのである。しかし、正木が指摘している、古代文明にかかわる考古学的研究についても、あるいは、土人芸術における造形上の魅力についても、正木に先だって富本は、主として一九〇九(明治四二)年の一年をとおして、ロンドンのサウス・ケンジントンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館においてすでに体験していたにちがいなかった46。
この体験記が、「工藝品に關する手記より(上)」で、「ウイリアム・モリスの話(下)」が掲載された翌月号の『美術新報』のなかに、それを見ることができる。「工藝品に關する手記より(下)」については、その後掲載された形跡は残されておらず、したがって、一九一二(明治四五/大正元)年の一年間にあって執筆された、美術家としてのモリスの生涯と作品を評伝としてまとめた「ウイリアム・モリスの話(上)」(二月号)および「同(下)」(三月号)、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のお気に入りの展示作品を紹介した「工藝品に關する手記より(上)」(四月号)、それに、主に大英博物館やヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が所蔵しているイス類を歴史的に通覧した「椅子の話(上)」(九月号)および「同(下)」(一〇月号)――これら五編の『美術新報』への寄稿文が、まさしく富本の英国留学の成果を伝える帰朝報告となるものであった。
さて、この「工藝品に關する手記より(上)」を読むと、世界から集められた過去の工芸品の数々に富本が魅了されていたことがわかる。それをごく断片的に拾い上げれば、おおよそ次のようになる。富本は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で何を学び、何に関心を寄せていたのであろうか――。
南ケンジントン博物館の近東の陶器を列べてある室に、私の好きな[陳列]箱があります……太古の西洋ではエジプトも自由な獨特な圖案を残して居り、アッシリヤでは諸種の彩瓦を建築に使つて居る事は皆樣御存じの事でしよう……ダツチや北獨逸、ロシアあたりの中世紀のもので麥酒を飲むコップや皿に面白いものが澤山ある樣です。雜誌ステゥデォの増刊で北歐の百姓の美術品を集めたものに面白い例が澤山ある樣です……歐洲中古のステインドグラスにも、隨分好きなものがあります……西洋の古いものではエヂプトのマンミーを巻いてある荒い麻布、エヂプトローマンの荒い木綿糸の刺繍やツゞレ織が好きです…… 敷物 ( カーぺツト ) は何むと云つてもぺルシヤ、印度一帯の地をあげねばなりませむ……野蠻人のやつた織物にも面白いものが無數にあります、特にぺルウの古代は刺繍でも染め方でも圖案でも好きなものが澤山にありました……織物に附隨して考へ得る皮細工、染め皮、皮の上に施す刺繍等の研究もやれば面白い事はたしかでしよう47。
この「工藝品に關する手記より(上)」には、富本が毎日のように通ってはヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で模写したスケッチのなかから一四点が選ばれて、掲載されている。その幾つかを紹介すると、【図六】が、一九世紀ペルシャの花瓶、【図七】が、古代エジプトの頸飾りの一部、【図八】が、一一、一三世紀インドの彩瓦、【図九】が、一六、一七世紀ペルシャの敷物の一部、そして【図一〇】が、古代ペルーの染めた木綿である。すでに紹介したように、「もしこの博物館を知らなかったら、私はおそらく工芸家になることはなかったと思う」と、晩年富本は語っている。その意味でこれらのスケッチは、工芸家富本の原点となるものであった。
また富本は、この引用文のなかで、「雜誌ステゥデォの増刊で北歐の百姓の美術品を集めたものに面白い例が澤山ある樣です」と述べているが、たとえばこれは、A・S・レヴェタスが『ザ・ステューディオ』へ寄稿していた、「オーストリア農民のレース」(一九〇五年一二月号)、「オーストリア農民の刺繍」(一九〇六年七月号)、「オーストリア農民の個人用装飾品」(一九〇六年九月号)、「昔のオーストリア=ハンガリー農民の家具」(一九〇六年一二月号)のような農民芸術に関する一連の記事を指しているのであろうか。もしそうであれば、その場合対象地域は「北歐」ではなく「オーストリア」ということになるが、刊行の年月からして、これらの連載記事を富本は、早くも英国留学以前の学生時代に文庫(図書館)において読んでいたことになる。自らの出自と重ね合わせながら、すでにこのとき以来、農民芸術に対して何か強い興味を抱いていたのかもしれない。以下の四つの図版は、上記の四編の紹介記事に掲載されている図版からそれぞれ一点を選んで複写したもので、【図一一】はダルマチア人農民のレースを、【図一二】はスロヴェニア人のヘッドスカーフを、【図一三】はダルマチア人の銀の首飾りを、そして【図一四】は、オーストリア北部とボヘミヤの農民家具を示している。
富本は、「工藝品に關する手記より(上)」を執筆しながら、一方で自らも、実際に織物の試作に着手した。そのときのインスピレイションの源泉となったものは、存命中に父豊吉が残していた推古布と呼ばれる標本であった。
實は私の父が生存中に集めておいた二十種ばかりの推古ぎれと云ふ標本を持つて居ります、此れで見ると小さい一寸四方程のきれが語る當時の支那印度遠くは中央亞細亞の文明、それが長時間に美しくされた植物や礦物の染料、模樣の形式の面白み、私は或日獨り畫室に坐りこむで自分で織物を始めようと云ふ決心を此れを見て致しました48。
さっそく行動へ移された。
先づ倉へ行つて曾祖母が使つたと云う最もプリミティーブな「手ばた」と云ふのに糸をのべて最初の試作をやりました、只今は研究中で何むとも申し上げられませむ、此の「手ばた」と云ふのはモー私の地方の百姓の手から亡むで仕舞つたもので、隨分器機の方から申せば馬鹿げたものです49。
富本にとってこの織物の試作が、一年後の「大和の安堵久左君より來信の一節」において主張することになる「民間藝術」の研究へ向けての最初の実践だったのかもしれない。
一方、ちょうど同じ時期、正確には一九一二(明治四五)年一月二二日の夜、富本は南に宛てて手紙を書いているが、その手紙のなかで、次のようなことを述べていた。これは、夫婦で協力して刺繍をはじめることを知らせる南からの手紙への返信だったものと思われる。
製作及び案 By Mr. & Mrs. Minermi と云ふ刺繍が出来 き ( ママ ) るそうだが面白いだろう。面白く行かない道理がない。僕からも特に奥様に申し上げます「マヅク ヤルコト」…… Mr. & Mrs. の刺繍は大変面白い事と思ふ。[一九一二年の]二月号の[美術]新報に出る Mor[r]is の話にも此の事を一寸書いておいた50。
富本のいう「マヅク ヤルコト」――こうすることによって、正木のいう「行き届かない所」が、結果的に生まれるのではないだろうか。そしてそれが、「いつまで見て居ても飽きが來ない」、つまり「想像の餘地が有る」作品へとつながっていくのであろう。
拓殖博覧会を見たあとの、「何う云ふ譯で野蠻人はコウ美つくしいものを造る力をシッカリと持つて居るのだろふか」という富本やリーチの感嘆の声は、少し前までにあって西洋人が日本の工芸品や美術品に向けた眼差しを再現するものであった。またこのとき、「自分等より確實に良い工藝品を造り得る土人の作品に蠻の字を加えない事にしよふ」と、富本がいえば、それに対してリーチは、「サベーヂ[未開の]と云ふ字の意味を自分等は普通の人と異つて考へて居るのだからかまわない」51と応じる。こうしてふたりは、製作する人が野蛮人や未開人であるからといって、その人たちによって造られた工芸や美術までもが同じく「野蛮」であったり、「未開」であったりするわけではない、という認識に到達する。このことは、「未開」から「文明」へと進む社会の歴史的な発展が、必ずしも工芸や美術の領域には当てはまらないことを含意しており、その視点に立ってふたりは、進化論的絶対性から離れて文化的相対性のうちに、工芸や美術を定位させようとしているのである。
博覧会の見学を終えて安堵村へ帰ると、ただちに今度は、「吉野塗り」についての研究に富本は手をつける。以下は、一九一二(大正元)年一一月二六日付の南に宛てた富本書簡のなかからの抜粋である。
今自分は 吉野塗 ( ・・・ ) と云ふ櫻の皮でツナ キ ( ママ ) 目をとめた檜細工に薄いウルシを施したものに面白みを感じて研究の歩を進めて居る。光悦とか乾シツとか云ふものの研究も必要な事だが、第一に民間の藝術を知らずに六ツカシイ[難しい]ものをやったってダメだと思ふ。 吉野塗に残って居る形、クリ形ジョイントが古い藤原時代の繪巻にある様な立派なものに源をなして居る事は言ふ人があっても、実際手に取って研究して居る人が無い様に思へる。…… [美術]新報十二月号に「拓殖博の一日」と云ふものを書いた52。
『美術新報』に「拓殖博覧会の一日」が掲載されてからほぼ三箇月後の一九一三(大正二)年三月二日の夜、今度は「半農藝術家より」と題された手紙形式の一文を執筆し、『美術新報』に送っている。そのなかで富本は、いまの自分のあり方について、こう模索し主張するのである。
都會に居住する繪かき又は田園の畫家がある以上、田舎にすみ、田舎の空氣に育つ工藝家が有るのも、さし支へ無い事と思ふ……田舎の澄み切つた空氣、野花、百姓の生活から、繪彫刻と同じ程度の興奮を模様にも起し得る人々には田舎に住む事が大變良い事だと信ずる……喰ひものや着るものが都會風でない事と、話し相手が無い位は我慢する事である。兎に角田舎に限る、そして半農半美術家(?)の生活が、今の自分自身には唯一の道である如く考へる53。
富本がイギリスに渡る少し前から、すでに当地にあっては「田園への回帰」や「自然への回帰」と呼ばれる生活信条が美術家や建築家たちのあいだで広まっていた。たとえば、早くも一八七〇年代のはじめにはジョン・ラスキンが、イギリスの大地のしかるべきささやかなる部分を美しく安寧で豊穣なものにするように私たちは努めたい、と述べていたし、ほぼ同じ時期にウィリアム・モリスも、ある事情からオクスフォードシャーの田舎に別荘として使う〈ケルムスコット・マナー〉を見つけると、友人へ宛てた手紙のなかでそれを「地上の天国」と形容していた。その後モリスは、この別荘に咲き乱れる植物や野に遊ぶ小鳥を主題にした作品を生み出すことになるが、確かにこの地は、ヴィクトリア時代の資本主義がもたらしていた賃金のための労働からも醜悪な製品の氾濫からも、無縁でありえた。一九世紀も終わりに近づき、田園回帰運動が勢いを得るにしたがって、田舎生活や簡素な生活を愛する信条は、ロマン主義的でユートピア的な社会主義と結び付きながら、とりわけ工芸や装飾美術の新たな実践形態への移行を促したし、それは同時に、まさしくアーツ・アンド・クラフツ運動の起こりの背景をなす部分でもあった。一八九三年には、アーネスト・ジムスンがバーンズリー兄弟とともにコッツウォウルズに移り住み、家具製作を再開しているし、遅れて一九〇七年には、エリック・ギルが自分の工房をロンドンからディッチリングの村へと移すことになった。こうした文脈にあって、とくに重要な意味をもつのが、一九〇二年のC・R・アシュビーの手工芸ギルド・学校のイースト・エンドからチピング・キャムデンへの移転であった。というのも、ここでは工芸製作と農作とが分かちがたく一体となって、ひとつの共同体が一五〇人ほどの男女によって形成されていたからである。
このとき富本が実践形態に選び取ろうとしている「半農半美術家」という考えは、昨年(一九一二年)一〇月の拓殖博覧会の見学がもたらした衝撃と、そしてそれに先立つ一九〇九年のロンドン滞在中に経験しえた知見とに、おそらく基づいていたものと思われる。
それでは富本が、その研究の重要性を主張する「民間藝術」と、工芸家のあるべきひとつの姿として、いまここで自己規定しようとしている「半農半美術家」とは、どのような関係にあるのであろうか。それについては、「半農藝術家より(手紙)」からさらに一年後に富本が、『藝美』において発表した「百姓家の話」のなかに見出すことができる。
私の見た處百姓等は立派な美術家であります。特に彼れ等の社會に殆むど國から國に傳へられた樣な形で殘つて居る歌謡、舞踏、織物、染物類から小道具、棚、箱類等を造る木工に至る迄、捨てる事の出來ぬ面白みを持つたものが多い事は誰れも知つて居られる事でしよう。私は此れ等のもの全體に「民間藝術」と云ふ名をつけて、常に注意と尊敬を拂つて参りました54。
人類の歴史にさかのぼれば、その起源にあってはすべてが農民であったであろうし、そして同時に、彼ら自らが実質的に美術家でもあったであろう。それは西洋にあってはおおむね中世まで続いた。そうであるがゆえに、アシュビーの手工芸ギルド・学校にみられるような、アーツ・アンド・クラフツ運動の正統なる活動基盤は再生されえたのである。そう考えれば、「百姓=美術家」あるいは「半農半美術家」という富本の考えは、歴史的にも原理的にも、すぐれて正しい認識であったということができよう。
それでは一方、「民間藝術」という用語法は、どうだったのであろうか。拓殖博覧会を見学するおよそ一年前、南に宛てた手紙のなかで富本は、「夜大抵おそく迄モ ー ( ママ ) リスの傳記を讀むで居る」55と書き記している。これは、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』という伝記であったが、そのなかに次のような一文を読むことができる。
いずれにしても、モリスは次のように述べている。「明らかなことは、中世に見受けられたような悲惨さと、私たちが生きるこの時代の悲惨さとでは、本質的に異なっていた。こうした結論は、ひとつの証拠によってひたすら私たちにもたらされることになる。つまり中世は、本質的に 民間 ( ・・ ) 芸術[popular art]の時代、つまり民衆芸術[the art of people]の時代だったのである。その時代の生活状態がいかなるものであったにせよ、民衆は、目で見て、手で触れることができる莫大な量の美を生み出していたのであった……」56。
ここでモリスは、自分たちがいま生きている一九世紀という時代が、有閑人に奉仕する芸術がひたすら残り、資本家に加担する芸術が新たに出現し、そして、中世の共同体に存在していた民衆による豊饒な民間芸術がすでに枯渇してしまっている、そんな悲惨な時代であることを指摘しているのである。もちろんこれが、詩人であり工芸家であり、そしてまた政治活動家でもあったモリスの原点となる時代認識であった。モリスはロマン主義の詩人としてこの悲惨さを歌い上げ、工芸家として民衆の芸術の復興を実践し、さらには、悲惨さの元凶とみなされる資本主義に取って代わる新たな理想主義を求めて自らを政治運動へと駆り立てていったのである。おそらく富本は、こうしたヴァランスの『ウィリアム・モリス』のなかで描き出されていたモリスの生涯を参照しながら、この「民間藝術」という用語法にたどり着いたものと思われる。
工芸における「近代」という扉を日本が開こうとするこの時期にあたって、「民間藝術」研究の重要性を主張する富本にみられる視座と、その先例として英国にあって、中世の社会と芸術に向けられたウィリアム・モリスの眼差しとは、疑いもなく、なにがしか通底するところがある。
半世紀以上もの時間的な差と、幾多の実態の相違があったにせよ、英国と日本が、それぞれに近代的な産業社会へ向けて進展する時代のプロセスのなかにあって、たとえば富本とモリスのような日英の工芸家のあいだに、そうした類似した時代に対する近似した反応が存在するとするならば、日本にとってそのインスピレイションの源泉が英国にあったことは紛れもない事実として認めなければならないものの、それでもなお、ある意味で人類の発展史における共通する通過点として理解することもまた、可能なのではないだろうか。そうした観点に立って、モリスと富本の幾つかの指標となる言説を拾い出してみると、おおかた以下のようにまとめることができる。
まず、民間芸術について。富本は、「民間藝術」と呼ばれるものを「歌謡、舞踏、織物、染物類から小道具、棚、箱類等を造る木工に至る迄、捨てる事の出來ぬ面白みを持つたもの」57という。それに対して、一八七七年にモリスは、「装飾芸術」(のちに「小芸術」に改題)と題した講演で、民間芸術に相当する芸術を「日常生活において慣れ親しんでいる事柄をいつでも、いくらかでも美しくしようと努力してきた人びとによって展開される多くの芸術の一団」58とみなしたうえで、具体的な例として「住宅建設、塗装、建具と大工、鍛冶、製陶と硝子製造、織物などなどの職業で構成される事実上の一大産業」59を挙げていた。一九世紀のはじめに、『職業の本――実用芸術ライブラリー』60という本がロンドンで出版されている。以下はそのなかに掲載されている銅版画による挿し絵の一部であるが、【図一五】は製本職人、【図一六】は織物職人、【図一七】は更紗職人、【図一八】は真鍮細工職人、そして【図一九】が家具職人を示している。モリスはこうした人たちによって製作されるものを民間芸術(あるいは民衆芸術)と呼んだのであろうし、その後富本がヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で感動した工芸品の多くも、こうした人たちによって生み出されたものであったと思われる。
それでは次に、家を建てる人については、どう考えていたのだろうか。富本は、「それ等[民間藝術]のうち彼れ等の住宅は最も力を籠められた主要な藝術品であると考へます。勿論家を建てるのは村の大工ですが、此れも半農者で誰れか家を建てると言はねば矢張り鎌を持つて居る連中で、大工の技術としては實にヒドイものです。その大工と手巧者な中年者と家を建てる百姓、それ等の友達、親類のものが手傳つて屋根も葺けば壁も塗る譯で、大工と云つても大工以外の仕事も致します」61と述べている。同じくモリスも、一八七九年の「民衆の芸術」と題された講演において、「[人びとが毎日住んでいた家や、人びとが礼拝をしていた、もはや顧みられることもない教会を]デザインし装飾したのは誰だったのでしょうか……ときにはおそらく、それは修道士、すなわち農夫の兄弟であったであろうし、たいていの場合は農夫の他の兄弟、すなわち、村大工、鍛冶屋、石屋、その他いろいろ――つまり『普通の人』だったのです」62との認識をすでに示していた。
さらに進んで、サウス・ケンジントン博物館については、どう受け止めていたのであろうか。モリスは同じく「民衆の芸術」の講演のなかで、このように話している。「私同様に、みなさまの多くも……たとえば、あのすばらしいサウス・ケンジントン博物館の陳列室をお歩きになり、人間の頭脳から生み出された美をご覧になると、驚きと感謝の気持ちで一杯になられたことでしょう。そこでどうか、これらのすばらしい作品が何であり、どのようにしてつくられたのかを考えていただきたいと思います」63。そして、それに応えるかのように富本は、「繪と更紗の貴重さを同等のものと云ふ事は、ロンドン市南ケンジントン博物館[富本が訪問したときの正式名称はヴィクトリア・アンド・アルバート博物館]で、その考へで並べてある列品によつて、初めて私の頭にたしかに起つた考へであります」64と、隠すことなく、この博物館への「驚きと感謝の気持ち」を告白するのである。同様に、モリスその人についても、尊敬の念をもって、以下のような讃辞を呈する。
「作家の個性の面白味」とか「永久な美くしいもの」は只繒や彫刻にばかりの物でなく織物にも金屬性の用具にも凡ての工藝品と云ふものにも認めねばならぬ事であります、モリスは此の事を誰れも知らぬ時にさとつた先達で又之れを實行して私共に明らかな行く可き道を示して呉れる樣な氣が致します65、
最後に、絵画や彫刻のような大芸術と、いわゆる装飾芸術と呼ばれる小芸術について、両者はそれぞれにどのような理解を示していたのか、それを見ておきたいと思う。
モリスは、少数者によって享受される芸術を「民衆の芸術」の講演で、こう断罪した。「少数者[a few]によって少数者[a few]のために公然と培われた芸術……このような芸術の一派の将来的見通しに多言を費やすのは悔いの種となるでしょう。この一派は……旗印として『芸術のための芸術』というスローガンを掲げています。それは、一見無害なようですが、実はそのようなことはないのです」66。モリスによれば、芸術は特定の一部の階層の人にしか理解できない特殊な表現ではなく、普通の人びとが、生きるために製作し、同時に普通の人びとによって生活のなかで使用されるような、まさしく万人のために存在するものでなければならなかった。一方「装飾芸術」の講演では、大芸術と小芸術が分離することの危険性を次のように分析していた。
小芸術は取るに足りない、機械的な、知力に欠けたものになり……一方大芸術も……小芸術の助けを受けず、両者は互いに助け合わなかったために、必然的に民間芸術としての権威を失うことになり、一部の有閑階級の人びとにとっての無意味な虚栄を満たす退屈な添え物、すなわち巧妙な玩具[toys]にすぎないものになっている67。
一方の富本は、「[美術]新報にテコラティブ、アーティスト[装飾芸術家]にもインディビジアリテー[作家の個性]云々と書いておいた」68とも、また「繪よりも彫刻よりも、日常自分等の實際生活に近くある工藝品を、ナイガシロにされて居る事に腹が立つ」69とも、述べている。そして、さらに鋭く、モリスと全く同じく「少數人(=少数者)」や「オモチヤ(=玩具)」といった言葉を使って、こうも断言するのである。
今迄の工藝品と名のつくものは只に少數人のために造られたオモチヤの樣なものでないでしようか70。
以上のように見ていくと、モリスと富本の言説のなかに、幾つもの類似した認識や表現を見出すことができるであろう。疑いもなく、ふたりの芸術観や製作態度は、それほどまでに時空を超えて重なり合っていたのである。これは、産業革命を経て近代社会へと向かう両国の文明史的発展段階における共通の通過点がもたらしたひとつの必然的な結果であるとみなすことができる一方で、明らかに富本のモリス受容の一端を示すものでもあった71。
それでは富本は、実際にモリスが書いていたものについては、ヴァランスの『ウィリアム・モリス』以外に、実証できる範囲にあって、一体何を読んでいたのであろうか。富本は、一九一二(明治四五)年の二月号と三月号の二回に分けて「ウイリアム・モリスの話」と題するその人の小伝を『美術新報』に寄稿しているが、そのなかで次のように述べている。
一千八百八十二年に出版された諸大家の美術上の意見を集めた「ゼ レッサー アーツ オブ ライフ」の内に彼の織物に對する意見が有ります、此れは重に歴史的の見地から論究したものですが、別に機械、アニリン染料、製作者の考へ、模樣等に付いて面白く、私にとつて大變利益な事を申して居りますが、こゝでは長くなるから申し上げられません、時機を見て、出來ればモリスの講話集を全體として御話し申したいと考へて居ります72。
富本の読んだ「ゼ レッサー アーツ オブ ライフ」は、『古建築物保護協会の主催による芸術に関する講演』のなかに所収されている六つの講演録のひとつであったにちがいない。この書物には、モリスが書いたものとしては「パタン・デザイニングの歴史」(講演五)と「生活の小芸術」(講演六)73のふたつの原稿が含まれているが、「ゼ レッサー アーツ オブ ライフ」、つまり後者の「生活の小芸術」は一八八二年の一月にバーミンガムにおいて講演されたもので、図版はない。この本の東京美術学校の購入記録を調べてみると、一九〇二(明治三五)年二月となっている。これは富本が入学する二年前に相当し、したがって、富本がこのモリスの「生活の小芸術」を読んだのは、留学中や帰国後ではなく、早くも在学中の文庫(図書館)においてだった可能性も十分に残されている。しかしながら、富本自身については、ほとんど「小芸術」という用語を使用した形跡は残されていない。そうであれば、英国に遅れてこの時期の日本にあって、この「小芸術」に関連するような表現形式や芸術領域にかかわる実践や記述の痕跡は残されていないのであろうか。もしその痕跡が認められるとするならば、それは、上で見てきたような、モリスのいう「 小芸術 ( レッサー・アート ) 」や「 装飾芸術 ( デコラティヴ・アート ) 」、あるいは「 民間芸術 ( ポピュラー・アート ) 」と、どのような違いなり類似性があったのであろうか。さらにはまた、富本がその重要性を指摘する「民間藝術」と呼ばれる芸術や「半農半美術家」によって生み出される芸術との異同は、どうだったのであろうか。
当時の主要美術雑誌のひとつであった『美術新報』におけるモリスに関する最初の言及については、一九〇三(明治三六)年一二月二〇日付の『美術新報』(第二巻第二〇号)に掲載の「歐洲輓近の装飾に就て《中》」のなかに見出すことができる。これは、日本美術協会における工科大学教授の塚本靖の講演記録であるが、そのなかにあって、アール・ヌーヴォー紹介の枕詞として、次のようにささやかにモリスとアーツ・アンド・クラフツが取り上げられていた。
装飾藝術の方は英吉利と佛蘭西と殆んど同じだが英吉利が少し前になる「モリス」(Morris)と云ふ先生此人及其の門人がどうも此の やかましい ( ・・・・・ ) [古代の復古に基づく釣り合いや割り合いなどに関する] 法則を脱して ( ・・・・・・ ) 装飾の美の ( ・・・・・ ) 原則に立戻つて ( ・・・・・・・ ) それを土臺として ( ・・・・・・・・ ) 装飾にも ( ・・・・ ) 家具にも ( ・・・・ ) 意匠をして ( ・・・・・ ) 見たら宜いだらう ( ・・・・・・・・ ) といふ考を抱いて ( ・・・・・・・・ ) これを盛んに ( ・・・・・・ ) やりました ( ・・・・・ ) 。「エリサベス」(Elizabethan)式とか「アン」女王(Queen Anne)式とか「チツペンデール」(Chippendale)とか云ふ流儀の家具を據り所としない。此等をすつかり離れて一つ何かやるといふことに着手して其の藝術を名附けて「アーツ、アンド、クラフツ」(Arts and Crafts)といふ即ち佛蘭西の「アールヌーボー」(Art Nouveau)のことでございます74。
記述内容の妥当性は横に置くとして、しかし、ここではまだ、モリスの「小芸術」についての言及はみられない。「小芸術」および「小芸術品」という言葉の『美術新報』における最初期の使用例は、「 小藝術品 ( マイノルアート ) 作家としての岡田三郎助氏」と題した、坂井犀水が一九一一(明治四四)年に執筆した作家紹介の一文だったものと思われる。これは、同年四月に吾楽殿で開催された『美術新報』の主催による「新進作家小品展覧会」のすぐのちに発表されたもので、岡田をここで紹介する理由について、坂井はこう述べる。「吾樂に陳列せられたる幾多愉快なる作品の内に、洋畫家岡田三郎助君の皮細工、及び薄板金屬細工の作品は、頗る雅至に富んで居るのみならず、藝術家が工藝的作品を試みたる點に於て、大に吾人の意を得たるが故に、茲に 小藝術品 ( マイノルアート ) 作家として、同氏を紹介することゝしたのである」75。掲載された図版は七点あり、【図二〇】は、皮細工および金属薄板細工のための用具で、【図二一】が、岡田の作品のひとつである「皮細工並に銀細工篏込木製煙草入箱」である。坂井は、詳しく岡田の作品を紹介したあと、最後に、「此小藝術は趣味の養成上、又淸雅な慰みとして、婦人には適當な手藝である。本誌の此紹介が、若し其端を我國に開くことになれば幸である」と結ぶ76。明らかにわかるように、坂井のいわんとする「小藝術」は、モリスの「小芸術」とも、富本の「民間藝術」とも異なる。それでは、何かほかに「小芸術」の用例はこの時期残されていないのであろうか。
確かに、富本がイギリスへ向けて出発する一九〇八(明治四一)年に、岩村透は、モリスの「 民間芸術 ( ポピュラー・アート ) 」を連想させるような、「平凡美術」なる用語を使って、その重要性を次のように『方寸』において説いている。
私が今「平凡美術」と題して述べやうとするのは繪畫彫刻建築以外日常の生活に於て我々の美欲を満足させる處のものを指したのである。……平凡な美術が興らなければ繪畫彫刻等建築の美術も發達するものではない。……國民の間に平凡美術の注意を促して日常生活に於ける美欲の満足を圖りたいと思ふのである77
しかし岩村は、「平凡美術」という用語の典拠については明らかにしておらず、そのうえ、日常生活のなかの美に着眼しているとはいえ、少なくとも内容的には、日本人の日常の行動や振る舞いに求められる美質を指し示す、国家主義的な道徳的観点に立った用語としてここで使用していることを勘案すれば、この時期岩村に、モリスの「小芸術」が念頭にあったとは、とても考えにくい。
富本が「小芸術」という言葉を積極的に使用しないのは、これまでに知りえたモリスの「小芸術」とこの時期日本で使用されはじめたこの用語との内容的乖離に気づいたことに遠因があったのかもしれない。
「工藝品と名の付く、繪彫刻以外の美術品にも、繪や彫刻に拂ふ敬意と異はない程度の貴重さを持つて向はねばならぬ事は勿論と考へます」78と主張する富本は、明らかに、絵画も彫刻も工芸も同等の価値をもった芸術であることを確信していた。かといって工芸は、一部のお金持ちの所有欲や目利きの鑑賞眼を満たすためにあるのではない。ましてや、『美術新報』の坂井が指摘したような、大作家の余技なるものでも、女性の手芸のたぐいでもなかった。「自分には出來ないが、出來れば模樣を繪や彫刻と同じ樣に自分のライフと結び付けて書いて見たい」79という言説からして、富本が考える工芸や模様は、普通の人びとの日常の生活のなかから立ち現われ、同じく生活のなかに息づくものでなければならなかった。たとえば、農村部において伝承されてきている「民間藝術」や、いまだ文明化されていない土着の人びとがつくり出す芸術のように。
明らかに富本の芸術思想は、すべてを西洋の規範にゆだねているわけでもないし、すべてを日本の伝統につなぎとめようとしているわけでもない。富本は、一方で、はるかに先行するモリスという巨人の哲学と実践につきながら、その一方で、継承されうるべき「民間藝術」という土着性を援用しつつ、西洋の絵画や彫刻に認められるような表現上の諸価値を、日常生活という現実世界における製作と使用の形式である工芸美術や装飾芸術にも等しく見出そうとしているのである。そこには生成を待つ「近代工芸」という名の大きな宇宙があったといえる。しかし、こうした富本の芸術観を当時の日本の美術界は、ほとんど理解ができず、受け入れることができなかったのではないだろうか。そこで富本は、本来あるべき芸術の病弊に対する「治療法として全般的な反抗」80をモリスが提案していたことにあたかも追従するかのように、イギリスから帰国するとただちに、しばしば孤独と絶望の淵に立ちながらも、体制や権威に対する不満や批判を露わにしていくのである。
帰国から七箇月ほどが立った、一九一一(明治四四)年一月二四日付の南薫造に宛てた書簡において、東京の近況を伝えるなかで母校の火災について触れ、次のように、実に辛辣な表現でもって心の内をさらけ出している。
昨夜美術学校の老朽だが形式の上から面白い舊木造建築全部灰となった。原因は今未だ解らないが僕等が兎に角此の職業に身をおとした記念すべき建物は焼けた。外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あるのに敬愛すべき建築物が先き へ ( ママ ) 焼けて厭やな奴は世にハビコル。アゝ――81。
この時期の図案科の教授は大沢三之助と古宇田実、嘱託は岡田信一郎と関野貞であった。その一箇月後、とくに大沢について、このように述べる。「大沢先生は僕に見せしめの為めに此の事務所をショウカイして呉れたそうだ。此れを以て先づ一ケ月ほどは働いて来た。一日に一円や一円五〇銭で頭の中、脚の形ち迠くづされて、は、タマラぬタマラぬ」82。これは、学生時代とロンドン時代に世話になっていた大沢から紹介されて、京橋区南鞘町の清水組(清水満之助本店)の事務所で毎日製図に向かわなければならない単調な仕事について、不満を述べているのであろう。
また、西洋美術史の教授の岩村透男爵(バルーン)に対しても、同年九月一二日付の同じく南に宛てた手紙のなかで、容赦なく富本は酷評する。
東京からの手紙によるとラスキン先生を書いたバルーン、岩村は後學を引きたてぬとかで連中大分さわいで居るとか。それで幸ひ[。]若し引き立てられたら大変と考へる83。
岩村はちょうどこのとき、『美術新報』(八月号)に「ラスキン先生とアルプスの山」84を書いており、そのことを富本は、「ラスキン先生を書いたバルーン、岩村」といっているのであろう。そしてさらに、岩村に向けられた毒舌は続く。以下は、三箇月後の一一月一一日に同じ南に宛てて出された書簡の冒頭の書き出しである。
讀賣新聞へ高村君が書いて居る文章は実に嬉しい。特に小杉ミセイのウソのデコラテイフな繪に對する感想が気に入った。アノ文章は美術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教科書にしたい様な気がする85。
「讀賣新聞へ高村[光太郎]君が書いて居る文章」とは、おそらく一〇月二九日付の「文部省美術展覧會第二部私見(一)」と一一月一〇日付の「文部省美術展覧會第二部私見(九)」のことであろう。前者において高村光太郎は、自らの芸術観の一端を披歴し、後者において、この年の第五回文展第二部で二等賞を獲得した小杉未醒の《水郷》について、わずかながら間接的に言及していた。
かてて加えて、同月三〇日の手紙では、まさしくこの時期にウィリアム・モリスの伝記を読んでいたのであろう、モリスを引き合いに出して、以下のように古宇田実のような人たちの悪趣味に批判の矛先を向けるのである。
[美術学校図案科の教授の]古宇田[実]とか誰れ彼れとか実にヒドイ連中だから。モリ ー ( ママ ) スの傳記を讀むでマスマス大学を出 で ( ママ ) 建築をやって居る人々の悪い趣味が腹立たしい様な気がする86。
こうした書簡という私的で間接的な資料のなかにしか見ることはできないとはいえ、その当時、富本はどうしてこれほどまでに美術学校時代の教師たちに反抗的で批判的であったのであろうか。その個別具体的な理由は、推し量るしかない。もっとも、自分が学生だった当時の教師の教え方を振り返って、晩年富本はこう述懐している。
……私は半年ほどのうちに入学はしたがいやになった。その気持ちを今から推して考えてみると、教える人がその実技を一度も経験したことのない図案家という人であり、その教えることが実技から遊離浮動していたことが原因であったらしい……それで知らないことを堂々とよくも教えたと思う87。
そうした学生からの不満はその後も続いた。富本より遅れて五年後の二一歳のときに美術学校の鋳金科に入学した、光雲を父に、光太郎を兄にもつ高村豊周が後年回顧するところによると、その当時のその学校の様子は、以下のようなものであった。
学校では二十一、二の青年の生活に、およそ縁のないクラシックな物ばかり作っている。たとえば、一年の時に作った筆筒は、自分の欲望から生まれたデザインでは決してない。クラシックな物ばかり載っている本を見て、こんな物をこしらえればよいのだろうと、見よう見真似のデザインをして先生の所へ持っていくと、何がいいのかわからないがいいと言うからそれを作る……しかし私たちは、ずん胴の筆立てよりはペン皿の方が使いやすい。するとこの筆立は、一体誰のために作るのだろうという疑問が起ってくる88。
富本や高村たちが学生時代であったころの東京美術学校の図案科や鋳金科の教育は、おおかたこのようなものであったようである。そして英国留学を経験して帰国してみると、相も変わらぬ教師たちの脳天気な姿に接し、そのたびに富本は言葉を失い、暗澹たる思いに駆られていったのではないだろうか。
そうしたなか、リーチの窯で《梅鶯模様菓子鉢》を製作して安堵村に帰り、『美術新報』へ送る「拓殖博覧会の一日」の原稿を書き終えた富本は、一九一二(大正元)年一一月二六日付の手紙で、「民間藝術」の対極にあるような、現在都会で流布している軽薄とも思われる模様について、南にこう忠告するのである。
三越流の模様や外国の雑誌、ドイツの下等の模様が入り 混 ( マジ ) じ ( ママ ) って居る東京に居られる兄に注意を要する事を書きそえる事を光榮とする89。
富本がこの手紙のなかで言及している「三越流の模様や外国の雑誌、ドイツの下等の模様」とは、具体的に何を指しているのであろうか。正確にはわからないが、富本の木版画によって装丁された表紙【図二二】をもつ木下杢太郎の『和泉屋染物店』がこの年の七月に東雲堂から出版されているので、その作品と比較考量するために、とりわけ当時のポスターと雑誌の表紙絵に着目し、なぜ富本が「注意を要する」といったのかを、わずかなりともここで推論してみたいと思う。
富本が東京美術学校に入学する一九〇四(明治三七)年に、株式会社三越呉服店は設立され、初代専務に日比翁助が就任すると、「デパートメントストア宣言」を行ない、日本で最初の百貨店が誕生した。そして三年後の一九〇七(明治四〇)年には大阪支店と日本橋本店に新美術部を開設し、展覧会事業へと乗り出すことになる。おりから三越は、同年の東京勧業博覧会の開催に際して出品された、当時東京美術学校西洋画科の教授であった岡田三郎助の油彩画《 紫調 ( むらさきしらべ ) 》【図二三】を原画として、石版印刷による広告ポスターを製作した90。こうした表現形式は当時「絵ビラ」と呼ばれていたが、この作品は、いわゆる華やかな「元禄美人」(モデルは三越重役高橋義雄夫人)を主題にした《紫調》の右下の余白に、「三越呉服店」の文字と店章を挿入したもので(さらにその下にローマ字による作者名と西暦による製作年とが小さく付け加えられている)、日本における最初の商業ポスターともいわれ、このころの「元禄ブーム」の世相の一端を担った。その後も、こうした三越の宣伝広告の路線は、一九一一(明治四四)年の公募一等の入選作品である橋口五葉の美人画ポスター《此美人》や、一九一四(大正三)年の杉浦非水によるアール・ヌーヴォー的女性像を中央に配した「新館落成記念」のポスターなどをとおして、さらに進展していくことになる。
それに先立ち、一九〇〇(明治三三)年のパリ万国博覧会において、多くの美術関係者が日本から海を渡った。たとえば【図二四】にみられる人たちは、そのときパリを訪れた白馬会の会員である。こうして、この世紀転換期に際して、訪問者たちや外国雑誌などをとおして、フランスだけではなく、当時ドイツやオーストリアにおいても流行していたアール・ヌーヴォーが日本へもたらされた。この様式の成立には、日本の美術や工芸の影響が認められ、それを往路とするならば、このときの移入は、西洋から日本へという復路を意味していた。移入されると、たちまちのうちに、大は建築物から小は印刷物に至るまで、このアール・ヌーヴォー様式は浸透していった。たとえばその様式は、藤嶋武二91によって雑誌『明星』の表紙絵【図二五】にも刻印されていったし、一九〇七(明治四〇)年の東京勧業博覧会のパヴィリオンにおいては、古宇田実の〈水晶館〉の設計にも反映された。『明星』自体は、第一〇〇号をもって一九〇八(明治四一)年に廃刊になるものの、その様式のもっている造形的特徴は、この手紙が書かれたこの時期(一九一二年)に至るまで、さまざまな視覚的媒体のなかにあって依然として息づいていたであろう。
いずれにせよ、その時期東京で流行していたと思われるこのふたつの視覚的表現形式をおそらく富本は嫌悪し、それゆえに、南に宛てた手紙のなかで、「三越流の模様や外国の雑誌、ドイツの下等の模様が入り 混 ( マジ ) じ ( ママ ) って居る東京に居られる兄に注意を要する事を書きそえる事を光榮とする」と、書いたのではないかと思われる。なぜならば、「美人画ポスター」は過去の歴史に題材を求めたものであり、「アール・ヌーヴォー様式」は西洋の表現の模倣であり、そのどちらもが、富本がこのとき主張していた「民間藝術」の形式になじまなかったのではないかと推測されるからである。上述したように、富本にとって事実上はじめての書籍装丁となる木下杢太郎の『和泉屋染物店』がこの間に刊行されていたが、その作品と、岡田三郎助の《紫調》や藤嶋武二の『明星』の表紙絵とを見比べてみるならば、そのことは、さらによりいっそう明瞭なものになるであろう。
加えて別の観点から、富本が嫌悪したであろうと思われる側面について触れてみたい。それはとくに「外国の雑誌、ドイツの下等の模様」にかかわる部分である。
富本と同じく一九〇四(明治三七)年に東京美術学校に入学した石井柏亭は、黒田清輝や藤島武二の指導を受ける一方で、すでにその二年前から、結城素明の紹介により、与謝野寛の新詩社の機関誌である『明星』へ挿画を寄稿していた。そうしたなか、一九〇七(明治四〇)年に石井は、山本鼎と森田恒友とともに、美術雑誌『方寸』を創刊した。石井によれば、『方寸』のモデルとなった雑誌は「独逸の『ユーゲント』仏蘭西の『ココリコ』その他の漫画雑誌にあった」92。その翌年、新詩社の同人であった北原白秋、太田正雄(木下杢太郎)、長田秀雄たちが退社するという事件が起きた93。彼らは、次の年に文芸雑誌『屋上庭園』を創刊することになるが、長田の記憶するところによると、そのとき、次のようなドイツの雑誌が彼らに影響を与えた。「丁度その頃、ドイツのミユンヘンの書店インゼルで發行されたクオータリーでインゼル・アルマナッハと云ふ大へん凝つた雜誌がわが國に來た……藝術至上主義者であるわれわれには大へん氣に入つた」94。富本がいう「外国の雑誌、ドイツの下等の模様」とは、こうした上で述べた外国雑誌とそのなかに描かれていた模様を指していたのではなかろうか。いずれにしても富本は、『明星』『方寸』『屋上庭園』とも、あるいはこれらの人的交流の場としてのパンの会とも、さらには彼らが標榜するロマンチシズムやエキゾチシズムとも、深く交わることはなかった。
さて、その後の南宛て書簡にも、引き続き富本の批判精神をかいま見ることができる。一九一二(大正元)年一二月一三日付の書簡では、「大阪在住の美術家は皆馬鹿な奴ばかり」95と書き記し、そして年が明けた一九一三(大正二)年二月一八日付の書簡では、「この間中沢ヒロ光氏が僕の画室へやって、こられた。寒い日で年の取った氏に気の毒だった。その上画室へすえておいて文部省やら工藝美術家の悪口を聞かされ実にイカンに思ふ事だろふ、と思ふ」96と伝える。『美術新報』の三月号に中澤弘光は、「時代の匂を要する」と題した自他の図案作品についての紹介談話を載せており、したがって、このときの安堵村訪問は、その取材を兼ねていたのかもしれない。その談話記事のなかで中澤は、「富本君や津田君のに見るやうな、象徴的に澁いのも面白いが、普通の雜誌や小説類は派手な方が俗惡にならない限は、宜しいかと思ひます」97と語っている。津田青楓は、自分が装丁を手掛けるようになった経緯について、「明治四四年に私は[京都から]上京して、職をもとめてあるいたが、画をかきながら生活のできる適当な職がなく困っていた。そのうち漱石山房で森田[草平]君が『十字街』の装釘をやってくれということになり、それを手はじめに[鈴木]三重吉の小説の装釘を次から次へとやるようになった。そのうち漱石も、私にやらしてくれるようになった」98と、後年述懐している。一方中澤は、当時【図二六】にみられるような、『新小説』の表紙絵のデザインに携わっていた。『新小説』(第一七年第二号)と『和泉屋染物店』の双方の表紙図版を、中澤の談話記事が掲載された『美術新報』三月号の中絵の同一頁にうまい具合に見ることができるが、明らかに、中澤と富本では作風が異なっていた。中澤の訪問の際に、富本が「文部省やら工藝美術家の悪口」をいったということであれば、想像するにその矛先は、工芸の領域を無視し、日本画、西洋画および彫刻の三部門で構成されている文展やその官僚主義的で権威主義的な審査方法、そしてまた、「象徴的に澁いのも面白い」ということが解せないような、当時の工芸美術家たちの通俗的で迎合的な仕事に向けられていたのではないだろうか。
中澤が富本の画室を訪れたのがいつだったのかを正確に特定することはできないが、ちょうどその前後のころに富本は上京したものと思われる。そのときの目的は何であったのであろうか。のちに憲吉の妻になる尾竹一枝は、晩年、いとこの尾竹 親 ( したし ) に、二度目の安堵村訪問について、次のように語っている。
青鞜でのいろいろな事件のあったあと、当時、私は『青鞜』の表紙など描かされそれがたまたま木版刷りだったものですから、教えてもらうために一人でたのみに行きました。『青鞜』の表紙のなかに、アダムとイヴを描いたものがありますが、あれは富本が下絵を描いてくれたものを、私が彫ったのです99。
一九一三(大正二)年の『青鞜』一月号の表紙絵から「アダムとイヴ」に差し替えられていることから判断すると、このときの上京は、一月号が刊行され、その下絵のお礼を伝えたい一枝からの呼びかけに応じるためのものであったのかもしれない。しかし、その証拠となる資料は残されておらず、資料の面からは、二月二〇日から三越呉服店の三階で開催される予定の「現代大家小藝術品展覧會」100への作品の搬入、あるいは、それに関する打ち合わせだった可能性の方が高い。このとき、百貨店という新たな大規模小売業の事業形態に何らかの刺激を受けたのであろうか、帰路の東海道の汽車のなかで富本は、「モウぐずぐずして居る時でない。今春から大いにビジネスの方向にも自分と云ふものを進めて行け」101という、強い思いに駆られている。いうまでもなく、敬愛するモリスも、工芸家であると同時に「モリス商会」のれっきとしたビジネスマンでもあった。このことが脳裏に浮かんだかどうかは別にして、「その第一歩としてリーチと同じサイズの楽ガマを築く事にした」102。二月一八日付の南宛ての富本書簡は、さらにこう続く。
[東京から]歸へってキンカンの樹の下へ煉瓦二百枚をつみ陶器用の土、繪具、その他の道具一切を買ひ入れ、リーチの處へ小僧をかして呉れと電報を打った103。
リーチの所の「小僧」とは、「亀ちゃん」と呼ばれる少年で、リーチはその出会いから死別までを自伝のなかで愛情深く描き出している。抜き書きするとこうなる。「この極東の地における私の生活のなかで最も悲しかった出来事のひとつは、亀ちゃんの出現であった。小学校出立ての一三歳の少年が、新築の私の家のドアをノックした……彼にはどこかおかしな所があった……とうとう医者を呼んだ……そして医者は、この子は精神病の一種である早発性痴呆にかかっている、と気の毒そうにいった……ときとして私たちは、喜びと悲しみのバランスをいかにうまく取るかを学ばなければならない。そこで私は、期待に胸躍らせて私の所にやって来て、ついには結核で自分の家で死んだと聞くこの少年の悲劇的な話を、ここに書き含めたわけである。亀ちゃんを描いた私のエッチングは、いくらかなりともその子の絶望をとらえている、と私は思っている」104。
当時リーチの工房で見習い中であった、その亀ちゃんが、呼ばれて大和の富本の家にやって来た。富本は、夢中になって亀ちゃんと一緒に、「カマを築き繪の具を大乳鉢ですり、ロクロを試して用意につとめた」105。絵の具をする仕事には「下女、弟、母、家族全體を使用して、約二十日間乳鉢のゴロゴロ云ふ音をきゝました」106と、そのときの壮絶な家族の働きぶりを語っている。富本には、急がなければならない理由があった。「實はイヨイヨ大阪の三越で五月一日から展覧會をやる事が決定(工藝品のみ)致しましたので、夜を日につぎ一生懸命、家族が狂者と思ふ程の有樣でやつて居ります」107。そして続けて、準備の進み具合を、「一尺の外ガマは乾き切つて、何時でも素焼ガマを待つて居り、二百五十程の壺、皿等の乾かぬ木地は、静かに南の米倉に模樣を待つて居る事になりました。其模樣の腹稿を三冊の帳にかきつけ、今は只東京より發送し参る内ガマを待つばかりです」108と、述べる。内窯は、先日の上京のおりに、六代乾山に依頼していたのかもしれない。以下は、晩年の富本の回顧談である。
私はその時分大和(法隆寺に近い安堵村)にいたんです。それから亀ちゃんという人がおりましたね。あれがロクロをけいこしたものだからきてくれた。また尾形[乾山]さんに一尺の折り畳み式のカマを作ってもらって、本宅のほうの庭へつくったんです109。
このとき富本は、二五〇点もの大量の器を焼こうとしている。明らかにビジネスを目指しているといえる。加えて家族総出の製作――これこそまさに、富本のいう「半農半美術家」による「民間藝術」の発露だったのではあるまいか。富本の興奮した気持ちが、南に宛てた手紙に踊る。
今自分の心は陶器を造ると云ふ事にのみワクワク、して居る。何物も見えない。コンナにコウフンした事は先づ一生中に未だない。そしてコンナに長く連く事も110。
そしてこの手紙のなかで、「此の手紙が着く頃には三越の展覧會はフタを 明 ( ママ ) けて居様と考へる。二十七点ばかり出しておいたが何うだか」111と、二日後に迫った東京三越での「現代大家小藝術品展覧會」のことを気遣う。富本にとって「現代大家」という呼称には、少々面映ゆさを感じる面があったかったかもしれない。それに対して「小藝術」という言葉には、なにがしかの共感をおそらく覚えたであろう。さっそく開催三日後の一九一三(大正二)年二月二三日に、「小藝術の興味」という見出しをつけて、『讀賣新聞』がその展覧会をおおむね以下のように紹介した。まず、「題名の珍らしいやうに内容も珍らしい展覧會である。『小藝術』と云ふ言葉は英語にも独逸語にもあるし、我國でも従來美術論の内には用ひられたが、一般にはまだ使はれてゐない……名の示す如く分量から見て小さいもので、つまり小さい工藝美術、又は應用美術、又は装飾美術である」と、展覧会の名称についての解説を施したうえで、次に、「併し分量の小は必ずしも性質上の價値の小を意味しない……日本は元來この小藝術に優れた遺物を持つてゐる」と、日本の伝統に照らして価値ある芸術領域であることを示唆し、そして今回の展示作品の造形上の特徴に触れて、「今三越に出品されてゐるのは、焼繪、刺繍、象眼、樂焼、木彫などであるが、元來畫家の餘技が多いので、技巧の方からは精緻とは云へない。寧ろ比較的簡單にして幼稚な技巧である。併し意匠は中々奇抜で面白いのが多い。殊に最も著しい傾向は、[多くはエジプト模様、なかには日本の古いものに見られる]原始的意匠の復活である」と指摘し、「而してこの原始的意匠が、簡單な幼稚な技巧と相待つて其處に立派な小藝術を現出したのである」と、全体を総括した。そしてそのあとに続く、岡田三郎助や津田青楓を含む主だった作家の個別作品評においては、富本に関してはこう紹介されていた。
富本憲吉 ( ・・・・ ) 君の樂焼は、陶器中では最も面白味がある、櫻鶯の菓子器などはあまりに氣に入つたので賣るのを止めた位のもの。刺繍の半襟も凝つたものである。版畫に至つては小藝術から出かけてゐる112。
このなかで「櫻鶯の菓子器」として紹介されている作品は、実際は、昨年の一〇月にリーチの窯で焼いた「梅に鶯、ほけきょ!ほけきょ!とさえずる……」の模様をもつ鉢【図二】のことだったのではないだろうか。一方『美術新報』(四月号)は、富本憲吉のこの《梅鶯模様菓子鉢》、バーナード・リーチの「花瓶」【図二七】、津田青楓の「刺繍壁掛」【図二八】などの作品図版を五点入れて、この展覧会を紹介した。以下は、そのなかにみられる富本に関する作品評である。
富本憲吉 ( ・・・・ ) 氏は精練せられた趣味性を以て、稍々荒削りなる手法を用ゐて、縦横に溢出する藝術的熱心を発揮して居る、其陶器は極て味ひのあるものであるが、就中梅鶯模様の菓子器の古雅なのが最も優れて見えた。名刺入や、刺繍の半襟や、銅の打出名刺盆や孰れも特色のあるものであつたが、習作女の胴の能く古代印度の作品の気持と、其特有なる現代的の感じとを現し得たのを見落すべからざるものと思つた113。
二月二三日付の『讀賣新聞』も四月号の『美術新報』も、ともに富本の作品に好意を示していた。おそらくそれは、ひとまず富本に満足を与えたであろうし、自信にもつながったであろう。しかし富本は、その喜びに浸る間もなく、五月一日から大阪の三越で開催される予定の「富本憲吉・津田青楓工芸作品展」に向けて、「夜を日につぎ一生懸命」応援の亀ちゃんと家族を動員して製作に励んでいた。そのときの画室の様子はといえば、「四五十の図案は画室の床に散ってあり、その棚には僕の持って居る支那陶器の標本がおき切れない程のって居る」114。そしていよいよ、初窯の日が来た。三〇点ほどの器が焼けた。以下は、石井柏亭との大阪三越での合同展のために大阪に滞在していた南に宛てた、三月一一日付の富本書簡からの抜き書きである。
丁度[三月]九日に夜一時半迠楽ガマ初めて立てた……座敷へ列べた三拾程既成の皿や丼を見て呉れ給え。先づ先づ此れ一つをたよりに寂みしい浮世に住むで行く……今度の三越では是非賣りたいものだ。その金をもって旅行したい……大抵拾五日に第二のカマを入れる。その日午後三時頃から夜二時頃迠なら出す處が見られる。面白いものだよ是非見せたい……聖僧の生活もあきあきした115。
いよいよ五月一日、「富本憲吉・津田青楓工芸作品展」の幕が開いた。展示された陶器は、本人が望んでいたとおりに、よく売れた。富本は、こう回想する。「津田青楓君と二人で大阪の三越で個展をやったことがあります。きわめて幼稚なものですが、私の楽焼の図案が面白いというのでよく売れました。売行は百三十円でした。けれどその時分の百三十円はかなり使いでがありました」116。そして、この売れ行きのよさが、富本の職業選択に大きな影響を与えた。富本はこうも回想する。
大阪の三越で展覧會をやつた時などは相當な成績を上げて、賣場の係りの人が後から後からと賣れて補給に間に合はないといふ有樣もあつた……だからまず自分の道樂が金になつたやうな譯で、賣れると面白いからまたやるといふ具合で勉強になつたことにもなつた……今にして思へばあの頃作品が賣れてゐなかつたら或は陶器はやめてゐたかもしれないのだ117。
このように富本は、売れ行きのよさが「勉強になつた」と告白している。それでは、そこから何を学んだのであろうか。証拠となる資料に乏しく、断言することはできないが、このとき富本は、新しい中流階級の胎動に気づいたのではないだろうか。彼らの多くは、医師や教師のような専門家、エリートの会社員や官吏、あるいは外国からの帰朝者たちであり、たとえば一九一〇(明治四三)年刊行の『白樺』や一九一一(明治四四)年創刊の『青鞜』の同人や読者層にみられるような、あるいはまた、一九一四(大正三)年ころに浜田四郎によって創案されたとされる「今日は帝劇 明日は三越呉服店」の広告コピー118が想定する生活者層にみられるような、日本の本格的な近代社会の形成期における、都市型の知的中間層に属する人たちであった。当時の新聞は、彼らの住む家について、「新式淸楚な住宅」という見出しのもとに、写真【図二九】入りでこう報じていた。
世が忙しくなるに従つて生活の慰安は漸次に殺がれて來る。殊に都市居住者に取つては家庭そのものが半ば事務室で生存競争の場所となる。従つて余裕のあるものは市中に事務所を置いて郊外に住宅を構へてゐる。又會社銀行官省に通勤する人々も交通機關の完備と共に出來得る限り郊外に住宅を構へる樣になつた119。
この記事には「東洋趣味の西洋式」「中流階級を標準」という副次の見出しもつけられていた。こうした住居に住む中流階級の人びとは、どのような工芸品や生活用品を求めたのであろうか。彼らは、このとき、「東洋趣味の西洋式」の生活を営むにあたって、古い支配層が享受していた、見るからに技巧的な視覚的表現を葬り去る必要があったのではなかろうか。そうした加飾的な表現の一事例として、一九〇四(明治三七)年にセント・ルイスで開催された万国博覧会での日本のパヴィリオン【図三〇】とそのなかに展示された幾つかの作品【図三一】【図三二】を挙げることが可能かもしれない。こうした意匠や図案が当時のナショナル・アイデンティティーを表象していたといえる。しかし富本は、その当時の日本の工芸品をこのように見ていた。
私は、單に現今日本の工藝品と云ふ語の底から「輸出向き」とか「濫造品」とか云ふ意味が大部分の樣に響きます、實に厭やな事です。資本をおろして利益を見ると云ふ事が唯一の目的の樣にも考へられて居る工藝品、無暗に手數と時間を省略しようとした事が良く作品に見える工藝品の事を考へる毎に、丁度自分が不治の病氣にかゝつた時は、コウ云ふ心持だらうと思はれる氣分に支配されます120。
こうした富本の見解に同意を示したであろう、新興の階層に属する人たちのある部分は、もはや「輸出向き」や「濫造品」に見受けられた図案や模様を引き継ぐことなく、それに代わる、自分たちの新しい生活規範にふさわしい「中流階級を標準」とする視覚的アイデンティティーを求めたにちがいなかった。それは、一種の土着性であり稚拙性であったかもしれない。人はこれこそが、社会という舞台へ踊り出るうえでの正直さや純粋さといった自らのアイデンティティーを象徴するものであり、うわべの虚飾を追撃するうえでの必須の力としてイメージしたかもしれない。そうした視覚的衝動が、富本作品の模様や意匠と重なり合い、積極的な消費を誘発していったものと思われる。そしてその消費の場が、三越に代表されるような、総合小売業として当時新たに誕生した百貨店であり、そのなかに設置された新美術部が、そうした階層の人びとに新たな視覚的アイデンティティーを供給する装置となって、この時期機能しはじめていったのであろう。富本は、自分の作品の売れ行きがよかったことから、そのとき、近年の日本における社会構造の著しい変化を実感として受け止め、それをもって「勉強になつた」と告白しているのではあるまいか。そしてまた、この時期の消費社会の到来こそが、まさしく富本が陶芸を職業として展望するうえでのひとつの重要な判断の根拠になったのであった。
近代の新しい視覚世界の出現に向けての大きな原動力となるジャーナリズムと百貨店という観点から日英の動向を比較した場合、英国を体験していた富本にあっては、このとき、『美術新報』を『ザ・ステューディオ』に、「三越」を「リバティー商会」に対応させて考えていたかもしれない。
【図三三】は、『美術新報』創刊号(一九〇二年三月)の第一面であり、題字の装飾は明らかにアール・ヌーヴォーの影響がみられる。【図三四】は、『ザ・ステューディオ』創刊号(一八九三年四月)の表紙で、デザインは、日本の浮世絵の影響を受けたイラストレイターのオーブリー・ビアズリーであった。一方、リバティー商会は、アール・ヌーヴォーの英国的化身としての「リバティー・スタイル」を生み出し、一九一四年の第一次世界大戦の勃発の時期に至るまで、主として中産階級における消費行動の促進と視覚体制の変容とを積極的に推進していった。そしてリバティー商会のA・L・リバティーもまた、『ザ・ステューディオ』のチャールズ・ホウムと一緒にすでにそれまでに日本を訪れていた親日家であった。おおむね世紀の終わりまでは、西洋から日本へ向けられた熱い眼差しが存在していた。そして世紀が変わるころ、今度は日本から西洋へと、視線の流れも変わっていった。パリ万国博覧会への訪問や『美術新報』の創刊が、その流れを加速させる役割を担ったといえる。それでは、この時期の日本における百貨店の役割はどうだったであろうか――。
先に少し触れたように、三越呉服店は、一九〇七(明治四〇)年の九月に大阪支店に、三箇月遅れて一二月に日本橋本店に、新美術部を開設した。東京勧業博覧会や第一回文展もこの年に開催されており、日本の美術界にとって一九〇七年は際立った特筆すべき年となっている。さて三越は、展覧会をプロモーションする部署名に、このとき「新美術」という名称を採用した。証拠となる適切な資料は見当たらないが、単純にこれが「アール・ヌーヴォー」の日本語訳だった可能性はないであろうか。もしそうであったとするならば、当時の三越は、「元禄」という過去の国内だけではなく、「アール・ヌーヴォー」という同時代の海外へも視線を伸ばしながら、うまく流行を追走し、あるいはまた先導していたことになる。元禄とアール・ヌーヴォーの異質なふたつの様式の混在――これが、二〇世紀初頭の、つまり明治の終わりから大正のはじめにかけての広く日本の消費動向を牽引する視覚的キーワードだったのではあるまいか。そしてまた、両者のモティーフの一部において、女性像が共通していたことも、同時に見逃すことのできない視覚要素だったにちがいなかった。
一方、富本や津田、そしてリーチたちは、こうした視覚世界とは異なる、もうひとつの別の視覚世界の創出にかかわって挑戦していた。すでに紹介したように、たとえば、【図二七】はリーチの「花瓶」、【図二八】は津田の「刺繍壁掛」である。ともに「現代大家小藝術品展覧會」における展示作品であるが、このとき『美術新報』(一九一三年四月号)は、リーチについては、「 リーチ氏 ( ・・・・ ) の製陶は漸じ本職を凌駕せんとするものである、氏は東洋の陶器の面白みを眞に理解した人である」121と述べ、津田については、「埃及[エジプト]ダンス刺繍の壁掛は時好向ではあるが、余は寧ろ春草模様及藤模様の刺繍壁掛に於て氏の特技を認めたのである」122と評している。この時期の実際の作品はほとんど残されていないようなので、作品に即して論じることはできないものの、彼らがこのとき追求しようとしていたものは、ほぼ疑いなく、南薫造夫妻が刺繍をはじめるに際していみじくも富本が助言した、「マズク ヤルコト」によって生み出される模様や図案だったように思われる。たとえ仮にその多くが、古今の魅力的な作品を手本にしたり、未開人の原始的意匠に倣ったりしながら製作された、一種の翻案であったとしても――。それでも、新しく形成されようとしていた消費階層の人たちにとっては、それらは驚きであり、新鮮にさえ思えた。これを三越が見過ごすことはなかった。先に引用した、「きわめて幼稚なものですが、私の楽焼の図案が面白いというのでよく売れました」という、富本の晩年の回想についても、同じく、当時のこうした社会的、文化的文脈を用意しながら解釈する必要があるのではないだろうか。
大阪支店の新美術部にあって、展覧会プロモーションの中心的役割を担ったのが、関西の美術界に幅広く人脈をもつ北村直次郎であった。新聞記者の経験をもつ北村は単なる商売人ではなく、趣味人でも知識人でもあった。そしてこのとき、彼の眼識は富本と津田に向かった。ふたりは関西人であるだけでなく、留学経験(富本はイギリス、津田はフランス)があり、出生地(富本は奈良、津田は京都)についてあまり好感をもっていなかったという点においても共通していた。北村の名前が南宛て富本書簡にはじめて出てくるのは、一九一二年一二月一三日付の手紙においてである。「大阪三越の北村と云ふ人が僕の作品展覧會をやつて見たいと云ふそうだ」123。これが、「富本憲吉・津田青楓工芸作品展」の発端であったことは間違いないであろうが、一方この手紙のなかには、続けて短く、「大阪在住の美術家は皆馬鹿な奴ばかり」124という、人を愚弄する言葉も認められる。これは、「富本憲吉・津田青楓工芸作品展」と同じ五月一日から六日までの会期で、大阪三越において開催された「第一回十五日会美術工芸品展覧会」へとその後つながることになる、何か最初の打ち合わせのようなものが最近あり、そのとき会った人たちの印象を南に伝えているのであろうか。その後も三越の御膳立てにより毎月一五日にその会合は開かれていたらしく、次の年(一九一三年)の『美術新報』四月号の「大阪だより(其二)」に、次のような報告を見ることができる。
此の冩眞は大阪三越呉服店が主催となり、京都大阪の新らしき美術工藝――寧ろ美術家自身の樂しみに製作したる作品――を盛にする目的で、毎日一五日同店のルイ室と云ふ大きい室を、半日此等の美術家に貸し、意見の交換やら、異つた製作家の互に異つた色々な事がらを談合せしめる爲に集めた京阪美術工藝家の團體であります……毎月十五日に集るから十五日會とでも言ふものでせう……其第一回展覧會を三越樓上で五月一日から一週間やる事になつて居ます125、
この記事で述べられている、その写真【図三五】は、同号の「大阪だより(其一)」に掲載されている。そこにつけられたキャプションによると、後列右より、三越大阪支店長の梯孝二郎、次に富本憲吉、そしてふたりおいて左端が、大阪三越新美術部主任の北村鈴菜(鈴菜は直次郎の俳号)であった。残りが、京都や大阪に在住の蒔繪家、彫刻家、陶芸家、鑄金家たちで、富本が、馬鹿呼ばわりしたのは、このような人たちのことだったのであろうか。もし、変化する時代のなかにあって、新たに期待されようとしている工芸の姿を熱心に語るわけでもなく、ひたすら技巧と先例の模倣に安住することをそのとき彼らの多くが求めていたとするならば、学生時代からモリスの工芸思想を知り、また『ザ・ステューディオ』も読み、留学中はヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ日々通い、おそらくリバティーズの動きにも気づいていたであろう富本にとっては、そうした内向きで閉鎖的な姿勢がどうしても許しがたく思えてならなかったのかもしれない。
ところで、この「十五日會」の集合写真のキャプションにつけられた富本の肩書きは、「藝術家」となっており、「陶器師」ではない。一方、「大阪三越の十五日會員製作品」126には、富本憲吉氏筆として、うちわ絵(一点)と扇子絵(三点)の作品が掲載されている。明らかにこの時期、美術や工芸のパトロネイジやプロモーションのあり方に大きな変化が訪れようとしていた。それは天皇家や大名家に連なる旧来の支配層から徐々に離れ、消費や商業に強くかかわろうとするものであった。大阪三越の新美術部の発展にあっては、とりわけ北村の存在が大きく寄与していた。北村の手によってこのとき組織された「十五日會」も、各工芸分野の横の連携を保つ親睦団体であったという点で新しく、同年(一九一三年)一一月に順調に第二回展を開くと、その後も一九一九(大正八)年五月の展覧会開催まで存続していった。
大阪三越での同時開催のふたつの展覧会(富本憲吉・津田青楓工芸作品展と第一回十五日会美術工芸品展覧会)が五月六日に終わるや、富本は、一〇日間くらいの滞在予定で一二日に上京した127。目的は、どうやら東京での豪遊であったらしい。晩年の座談会で、式場隆三郎の「いちばんはじめの個展はいつでしたか」という質問に答えて、富本はこう述べている。
大正 四 ( ママ ) [二]年じやないでしようか、大阪の三越で私と津田 晴風 ( ママ ) [青楓]とやったんです。売上げが百くらいあってね、その百円をもらうとき、支店長から、富本君この百円をどうして使うのですかというから、いやもう切符は買ってあるんだけれども、東京へ行ってこの百円がなくなるまで遊んでくるといってきたんです……そのときの宿賃が八円です。私は酒を飲まないので使いようがなくて……そこらの腰かけて食うような店や、寿司屋のようなところを食いまわって、とうとうその百円を無理に使つてしまって帰えった128。
もっとも、豪遊だけが目的ではなかった。この滞在のおり、「リーチと二十時間か三十時間ぶつ続けで楽焼を焼いた」ようである。そしてまた、リーチ夫人の出産にも遭遇した。続けて富本は、そのときの様子をこのように回想する。
桜木町のあいつの寝室の窓の下にカマがついてあった。二人で朝まで、ススだらけでやっていたら、突然お産だというんですよ。どうしたんだといったら、ミセスが 長男 ( ママ ) [次男のマイケル]を産むんですね。それがうなっている声が、なんやしらんけれども聞こえてくるんですけれども、二人は一生けんめい、百くらい焼いた129。
上京すると丸善に立ち寄ることが当時の富本の習いとなっていた。このときも、大和へ帰る前日に丸善に足を運んだ。するとそこで、ある本130に釘付けにされてしまった。そのとき富本は、昨日まで意味もなく浪費を重ねていた自分の愚かさにじだんだを踏んだかもしれなかった。
……フェーント・オールド・イングリシュ・ポタリーの一冊である。たしか廿三圓だつたと記憶する……かなしいかな持つて居る金子全部でも未だ足りない。不足の分は明日迄貸して貰ふ事にして電車賃だけ引いた持金全部を拂つて兎に角自分のものとなつた……走る電車のなかで包紙をほぐして……何事をも忘れて上野櫻木町のリーチの家へと急いだ131。
ところがリーチは、「金子は貸してやるが自分が充分見て仕舞ふ迄は自分の處に置くと云ふ条件でなければいやだと云ふ」132。そこで、とうとう茶の間に上がり込み、「如何にしてスリップを試む可きかを夜おそく迄語り明した……今から考へると電燈の下であの書物を見入つて居る若いふたりの眼は血ばしつて競ひ合つて燃えさかる焔のやうなものであつたらう」133。
この『風雅なる英国の古陶器』という本は、伝統的な英国のスリップウェアを主として紹介するものであった。しかしこの本への熱狂も、富本にとっては束の間のことだったのではないだろうか。というのも、それ以降、自らの製作を巡って深い苦悩へと陥っていくからである。もっとも、すでにその予兆はあった。半年前の一九一二(大正元)年一一月二六日付の手紙で、展望はもちながらも、現状ではどうにもできない自分の無力さを、富本は、実際に南にこう告白していた。
無 智 ( ママ ) な東京人の模様の力を大和から考へる毎に、その上に自分の模様に對する力を輝やかす事に譯ない事に思へる。只自分は何う云ふ方法でそれをやるのか一切知らない。知らないだけだ134。
それから約半月後の一二月一三日付の書簡では、「製作は案外はかどるから御安心を願ひたい」といいながらも、自らの心情を富本はこうも漏らしている。
只餘り頭がクリーヤ過ぎて死ぬ様に感じる事だけは困る。 昨夜も寝られぬまゝ「三橋文造の傳」と云ふ自傳小説を書いて居た。 昨日の處は僕の父が三拾歳と云ふ若い年で六人の子供を残して死ぬ處で庭の咲いた紅梅に淡雪がチラチラふる處だった。自分の今が死ぬ様な気分に打たれて居るものだからそう云ふシーンのみが明らかに眼に見えて仕方ない135。
何が富本をして「死ぬ様な気分に」させているのであろうか。自分の模様を輝かせるために「何う云ふ方法でそれをやるのか一切知らない」という状況が、極度の不安を生み出しているのであろうか。もっとも、原因はただそれだけではなかったようである。同じ手紙のなかで――。
良い適当な嫁があれば他動でなくとも行って探したいとも考へだした。母や年を取った祖母も稲荷様にきいたりクワンノン様に祈ったりして騒いで居る。若しクワンノン様に願って一日も早く出来る事なら実際自身でも行く程近頃は急に寂みしくて仕方なくなり出した136。
こうした心的状況のなかにあって、約半年間、展覧会へ向けての作品製作は進められていった。そして確かに大阪三越での「富本憲吉・津田青楓工芸作品展」は、ビジネスとして望みどおりの大成功であった。これは同時に、今後製陶を職とすることへの実感をもたらすものでもあった。しかし自分は、そこに展示した作品をどのような方法でつくったのであろうか――それは、真に自らの作品と呼ぶにふさわしいものだったのであろうか。製作の忙しさに忘れかけていた疑問が、展覧会が終わって一段落するや、再度頭をもたげ、富本に激しく襲いかかってきた。そのときの苦悩の様子を富本は、「模様雑感」と題して松屋製二百字詰め原稿用紙一四枚にまとめた。そして最後に次の一文をつけて、南に送った。「前略 十二号の新報か現代洋画かへ出したいと思ふて書きて見たが書きたい事ばかり多くてマトマラないで、これ位でよした……讀むだアト御返しに及ばない。憲吉 南様」137。差し出し日は、一九一三(大正二)年一一月六日となっている。それでは、この年の夏、富本の身に何が起こったのであろうか。この「模様雑感」を手掛かりにしながら、少し再現してみたいと思う。冒頭の書き出しはこうである。
今年の一月二月は多く刺繍更紗等に日を過ごし三四五の三ヶ月は大部分陶器等の試作に暮らした……五月初旬それ等約百五拾点を大阪で公開して先ず一つの段落を付けた。その頃から一種の模様に對するふ案?(別に良い云ひ現し方を知らないからふ安と云ふ語を使ふ事にした)、厭やな例へば獨り旅びで宿は見つからず汽車は明朝迠出ないと云った様な気持に襲はれた……出来上がった作品を見て充分會得し得ぬ自分の心を考へ出すとモウ一個の製作も出来なくなった138。
自分の苦しみを人に伝えることもせず、ただいらいらの日々を送る。そうするうちに大和に暑い夏が巡ってきた。「今迠やって来た自分の模様を考へて見ると何むにもない。実に情け無い程自分から出たものが無いのに驚いた」139。なぜなのだろうか、と自問する。すると、思いは学生時代へと遡行する。
学生時代の事を思ひおこすと先生から菊ならば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑誌――を見る……全体見たあとで好きな少し衣を変れば役に立ちそうな奴を写すなり或は其の場で二つ混じり合したものをこさえて自分の模様と考へ[て]居た事もある……人も自分も随分平氣でそれをやった。近頃は一切そむな事が模様を造る人々にやられて居ないか、先づ自分を考へるとタマラなく恥かしい140。
こう書きながら富本は、学生だったころ、一九〇七(明治四〇)年の東京勧業博覧会に出品した《ステーヘンドグラツス圖案》【図三六】が、脳裏に蘇ってきたのではないだろうか。当時の美術学校生の模様における課題製作の方法について、別の箇所で富本は、同じく以下のように回想している。
……此處例へばコーヒ[ー]器壹揃模樣隨意と云ふ題が出たとして、そう云ふ種類のものならば大抵ステユデオかアール、エ、デコラシヨンを借りてコーヒ[ー]器と云ふ事を良く頭に置きながら出來得る限り早く……パラパラと只書物を操る……コーヒ[ー]器の圖案が四五冊を操るうちに二三拾も見つかると、透き寫しするに最も良く出來た蠟引きの紙を取り出して寫眞をひき寫しするのである……寫した小さな紙片を敎室なり下宿なりに持ち歸つて茶碗の把手を入れかえ、模樣の一部を故意に或は無理に入れかえて、先ず下圖が出來上がつたものと心得て居た141。
そのとき富本は文庫に入り、『ザ・ステューディオ』を開いていくと、エドワード・F・ストレインジの「リヴァプール美術学校のニードルワーク」142において使用されていた図版【図三七】に心を動かされた。それは、フローレンス・レイヴァロックというリヴァプール美術学校の女子学生のうちわのデザインで、《アップリケと刺繍によるハンド・スクリーン》という題がつけられていた。富本は、この作品を下敷きにして、博覧会への出品作として「ステインド・グラスのためのデザイン」をつくることを決意した。そして、この図版の上に蝋引きの紙を置き、手前の女性を引き写したものと思われる143。こうして完成した《ステーヘンドグラツス圖案》は、上野公園内に設けられた東京勧業博覧会美術館に、三月二〇日から七月三一日までの会期をとおして展示され、一般に公開された。周りの学生もみな、それに近いことを当時行なっていたとはいえ、富本にとっての事実上の処女作は、明らかに「人の模様」から生まれたのであった。
それでは、最近作については、どうであろうか。これについても、そのとき富本の脳裏に去来したものと思われる。一年前(一九一二年)にリーチの窯で鉢を製作した際に富本が選んだ絵柄について、リーチ自身次のように述懐している。「彼は、梅の花と、有名な春の歌である『梅に鶯、ほけきょ!ほけきょ!とさえずる……』を選んだ……その後私は、初代乾山が二〇〇年前に同じこの春の歌を自分の壺のひとつに引用していたことを発見した」144。これが正しいとすれば、事実上陶器の第一作となる《梅鶯模様菓子鉢》もまた、「人の模様」から生まれていたことになる。そしてまた、五月の展覧会に向けて製作していたときの画室には、「四五十の図案は画室の床に散ってあり、その棚には僕の持って居る支那陶器の標本がおき切れない程のって居る」145という有様であった。床に広がる「四五十の図案」は「支那陶器の標本」から生み出されていたのであろうか。さらに突き詰めていけば、つい三箇月くらい前、丸善で見つけた『風雅なる英国の古陶器』をリーチの家で興奮して読んだのは、一体何だったのであろうか、無意識にもそこから自分の模様をつくろうとしていたのであろうか――そうした思いも、このとき容赦なく富本を襲ったにちがいなかった。いずれにしても、過去を振り返り、こうしかできなかった「自分を考へるとタマラなく恥かしい」という自責の念に駆られていったのであった。
そのとき富本は、「我れわれ日本人には初めて考へ出すと云ふ力が乏しい或は全然無いのかと云ふ事や……古い尊敬すべき模様以外に異ったものを、ある感動から作り得らるゝか又その造ったものを施す可き工藝品との関係が如何だろふなどと云ふ考へが無茶苦茶に頭の中に踊り廻る様に感じた」146。「初めて考へ出すと云ふ力」とか「ある感動から作り得らるゝ……もの」とかいう言葉の使い方から判断して、既存の手本や権威に対する模倣や順応を超えた、まさしく独創性や個性といったような概念が、そのとき富本の頭のなかに浮かびつつあったのであろう。それは、工芸における「近代的な自我」の発現としてみなすことができるかもしれない。歴史や伝統に彩られた重厚な拘束服、異国や舶来に見受けられる目新しい流行服、土着の民間に伝えられてきた素朴な野良着――それらとは、どのように向き合えばよいのであろうか、あるいは、それらに取って代わる、自分たちが普段に身につけるにふさわしい日常着は、どのようにして新たに造られるべきなのであろうか――このとき、改めて富本は、このような問いかけを自らに行なったにちがいない。しかし、容易に解決のつく問題ではなかった。風が止まり、強い日差しだけが、富本の不安と苦悩に照り注いでいた。「一切の製作を止めて暗い台處から後庭に光る夏の日を見ながら以上の考へにつかれた自分は旅に出た」147。それは一九一三(大正二)年八月二〇日の出来事であった。
(二〇一〇年)
(1)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、56頁。なお、このとき富本憲吉は差出人の名前に「久左」を使っているが、「久左」の由来については、辻本勇が次のように説明している。「江戸時代、東 安堵 ( あんど ) 村の庄屋として 富本 ( とみもと ) 八右衛門 ( はちえもん ) や富本 久左衛門 ( きゅうざえもん ) の名がしばしば登場する。富本家の当主は、八右衛門、久左衛門、と隔代に襲名したらしい。憲吉の父は、八右衛門 豊吉 ( とよきち ) 、したがって 憲吉 ( けんきち ) は久左衛門にあたる。憲吉の成長した時代には、もはや久左衛門を名乗るようなことはなかったが、憲吉が青年時代の 筆名 ( ペンネーム ) や、初期の版画作品などの署名に「久左」を好んで用いたのは、この久左衛門をもじったものだ」(辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、12頁)。
(2)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、55頁。
(3)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(4)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(5)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、208頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]
(6)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 55.[リーチ『東と西を超えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、39頁を参照]
(7)Ibid., pp. 55-56.[同『東と西を超えて――自伝的回想』、39-41頁を参照]
(8)前掲『私の履歴書』、206頁。
(9)Bernard Leach, op. cit., p. 56.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、41頁を参照]
(10)Ibid., p. 65.[同『東と西を超えて――自伝的回想』、55頁を参照]
(11)前掲『私の履歴書』、207頁。
(12)同『私の履歴書』、同頁。
(13)Bernard Leach, op. cit., p. 56.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、41頁を参照]
(14)富本憲吉「六代乾山とリーチのこと」『茶わん』第4巻第1号、1934年、65頁。
(15)同「六代乾山とリーチのこと」、66頁。
(16)前掲『私の履歴書』、200頁。
(17)南薫造「私信徃復」『白樺』第3巻第1号、1912年1月、65頁。
(18)Bernard Leach, op. cit., p. 57.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、41-42頁を参照]
(19)前掲「六代乾山とリーチのこと」、同頁。
(20)1912年4月7日付の南に宛てた書簡で富本は、「そこへリーチ夫妻が小児をつれて僕の家へ来た。そのセッタイに拾日ほど暮れた。二日前……リーチは……東京へかへった」(前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、49頁)と、述べている。
(21)前掲『私の履歴書』、209頁。
(22)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、53頁。
(23)『美術新報』第11巻第7号、1912年、32頁を参照。
(24)「美術工藝」『京都日出新聞』(1912年6月5日)を参照。
(25)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(26)Bernard Leach, op. cit., p. 57.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、42頁を参照]
(27)Ibid. [同『東と西を超えて――自伝的回想』、同頁を参照]
(28)Ibid. [同『東と西を超えて――自伝的回想』、同頁を参照]
(29)安堵久左(富本憲吉)「拓殖博覧會の一日」『美術新報』第12巻第2号、1912年、19頁。
(30)Bernard Leach, op. cit., p. 57.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、42頁を参照]
(31)Ibid. [同『東と西を超えて――自伝的回想』、同頁を参照]
(32)雪堂「早春の諸展覧會」『美術新報』第12巻第6号、1913年、42頁。
(33)前掲『私の履歴書』、200頁。
(34)結城素明氏談「日本畫家の見たる文展の洋畫」『美術新報』第12巻第1号、1912年、20頁。
(35)安堵久左(富本憲吉)「大和の安堵久左君より來信の一節」『美術新報』第12巻第3号、1913年、35頁。
(36)前掲「拓殖博覧會の一日」、同頁。
(37)同「拓殖博覧會の一日」、20頁。
(38)同「拓殖博覧會の一日」、同頁。
(39)坪井正五郎氏口演「アイヌ装飾意匠」『美術新報』第2巻第17号、1903年、2頁。
(40)前掲「拓殖博覧會の一日」、同頁。
(41)同「拓殖博覧會の一日」、21頁。
(42)同「拓殖博覧會の一日」、同頁。
(43)同「拓殖博覧會の一日」、同頁。
(44)雪堂生「正木校長を訪ふ――歐洲藝術界近時の風潮」『美術新報』第10巻第11号、1911年、19頁。
(45)正木直彦「土人の藝術に就て」『美術新報』第12巻第6号、1913年、7頁。
(46)詳細については、以下の拙論を参照。「一九〇九―一〇年のロンドンにおける富本憲吉(Ⅱ)――ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と中央美術・工芸学校での学習、下宿生活、そしてエジプトとインドへの調査旅行」『表現文化研究』第7巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2007年、59-88頁。
(47)富本憲吉「工藝品に關する手記より(上)」『美術新報』第11巻第6号、1912年、10-14頁。
(48)同「工藝品に關する手記より(上)」、12頁。
(49)同「工藝品に關する手記より(上)」、12-13頁。
(50)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、18頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。
(51)前掲「拓殖博覧會の一日」、同頁。
(52)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、57-58頁。
(53)富本憲吉「半農藝術家より(手紙)」『美術新報』第12巻第6号、1913年、29頁。
(54)富本憲吉「百姓家の話」『芸美』第1巻第1号、1914年、7頁。
(55)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、41頁。
(56)Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, Longwood Press, Boston, 1977, p. 326. (reprint of the 1898 second edition, published by G. Bell, London, and originally published by George Bell and Sons, London, 1897.)
(57)前掲「百姓家の話」、同頁。
(58)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXII, p. 4.[モリス『民衆のための芸術教育』内藤史朗訳、明治図書、10頁を参照]
(59)Ibid.[同『民衆のための芸術教育』、同頁を参照]
(60)The Book of Trades, or Library of the Useful Arts, Part III, Tabart, London, 1807.
(61)前掲「百姓家の話」、同頁。
(62)May Morris (ed.), op. cit., p. 41.[前掲『民衆のための芸術教育』、53頁を参照]
(63)Ibid., p. 40.[同『民衆のための芸術教育』、52頁を参照]
(64)前掲「工藝品に關する私記より(上)」、8頁。
(65)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年、27頁。
(66)May Morris (ed.), op. cit., pp. 38-39.[前掲『民衆のための芸術教育』、50頁を参照]
(67)Ibid., pp. 3-4.[同『民衆のための芸術教育』、10頁を参照]
(68)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、28頁。
(69)前掲「半農藝術家より(手紙)」、同頁。
(70)富本憲吉「工房より」『美術』第1巻第6号、1917年、30頁。
(71)郡山中学校および東京美術学校在学中のモリス受容の詳細については、以下の拙論を参照。「富本憲吉の英国留学以前――ウィリアム・モリスへの関心形成の過程」『表現文化研究』第6巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2006年、35-68頁。また、英国留学中のモリス受容の詳細については、以下の拙論を参照。「一九〇九―一〇年のロンドンにおける富本憲吉(Ⅰ)――ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館におけるウィリアム・モリス研究」『表現文化研究』第7巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2007年、27-58頁。
(72)前掲「ウイリアム・モリスの話(下)」、22頁。
(73)William Morris, ‘The Lesser Arts of Life’, Reginald Stuart Poole, Lectures on Art, Delivered in Support of the Society for the Protection of Ancient Buildings, Macmillan, London, 1882, pp. 174-232.
(74)塚本靖氏演「歐洲輓近の装飾に就て《中》」『美術新報』第2巻第20号、1903年、2頁。
(75)坂井犀水「小藝術品作家としての岡田三郎助氏」『美術新報』第10巻第11号、1911年、16頁。
(76)同「小藝術品作家としての岡田三郎助氏」、18頁。
(77)岩村透「平凡美術」『方寸』第2巻第5号、1908年、2-3頁。
(78)前掲「工藝品に關する手記より(上)」、同頁。
(79)前掲「半農藝術家より(手紙)」、29頁。
(80)May Morris (ed.), op. cit., p. 166.[前掲『民衆のための芸術教育』、78頁を参照]
(81)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、12頁。
(82)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、16頁。
(83)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、35頁。
(84)岩村透「ラスキン先生とアルプス山」『美術新報』第10巻第10号、1911年、5-10頁。
(85)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、39頁。
(86)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、41頁。
(87)富本憲吉「わが陶器造り(未定稿)」、辻本勇編『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、30頁。
(88)高村豊周『自画像』中央公論美術出版、1968年、93頁。
(89)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、58頁。
(90)この広告ポスターについては、以下に掲載の図版を参照のこと。『朝日クロニクル 週刊20世紀 1906-7』朝日新聞社、2000年、40頁。
(91)製作者名の表記については、『明星』第11号(1901年2月発行)の「明星第拾一號要目」のなかの「明星(表紙畫)藤嶋武二」に従う。
(92)石井柏亭『柏亭自伝』中央公論美術出版、1971年、197頁。
(93)このことについては、『明星』甲歳第貳號(1908年2月発行)の巻末の「社中消息」のなかに、「吉井勇、北原白秋、太田正雄、深井天川、長田秀雄、長田幹彦、秋葉俊彦の諸氏は、各獨立して文界に行動するを便なりとし其旨申出の上退社せられ候」と、述べられている。
(94)長田秀雄「屋上庭園の刊行」『ルネサンス』第3号、1946年、9頁。
(95)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、60頁。
(96)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、62頁。
(97)中澤弘光「時代の匂を要する」『美術新報』第12巻第5号、1913年、13頁。
(98)津田青楓『漱石と十弟子』朋文堂新社、1967年、298頁。
(99)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、252-253頁。
(100)この作品展の名称については、『三越美術部一〇〇年史』(三越編集・発行、2009年、25頁)においては「現代大家小芸術品陳列会」となっているが、「小藝術の興味」という見出しをつけて紹介している『讀賣新聞』(1913年2月23日)においても、また、『美術新報』(第12巻第6号、1913年、42頁)のなかの「早春の諸展覧會」と題した記事においても、ともに「現代大家小藝術品展覧會」となっている。そこで本稿では、後者の名称を使用する。
(101)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、61頁。
(102)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(103)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(104)Bernard Leach, op. cit., pp. 47-49.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、29-32頁を参照]
(105)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(106)前掲「半農藝術家より(手紙)」、同頁。
(107)同「半農藝術家より(手紙)」、同頁。
(108)同「半農藝術家より(手紙)」、同頁。
(109)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、9頁。
(110)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(111)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(112)「小藝術の興味」『讀賣新聞』、1913年2月23日、日曜日。
(113)前掲「早春の諸展覧會」、同頁。
(114)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(115)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、65-66頁。
(116)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、74頁。口述されたのは、1956年。
(117)前掲「六代乾山とリーチのこと」、同頁。
(118)この広告コピーを使用した事例については、以下に掲載の図版を参照のこと。『週刊朝日百科99 日本の歴史』通巻636号、朝日新聞社、2004年、10-280頁。
(119)「新式淸楚な住宅」『讀賣新聞』、1913年5月18日、日曜日。
(120)前掲「工藝品に關する手記より(上)」、同頁。
(121)前掲「早春の諸展覧會」、同頁。
(122)同「早春の諸展覧會」、同頁。
(123)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、60頁。
(124)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(125)「大阪だより(其二)」『美術新報』第12巻第6号、1913年、39頁。
(126)『三越美術部一〇〇年史』三越編集・発行、2009年、30頁。
(127)「よみうり抄」『讀賣新聞』(1913年5月18日、日曜日)を参照。
(128)前掲座談会「富本憲吉の五十年」、5頁。
(129)同座談会「富本憲吉の五十年」、8頁。
(130)Charles J. Lomax, Quaint Old English Pottery, with a Preface by M. L. Solon, Sherratt and Hughes, London, Manchester, 1909. この本については、以下に掲載の図版を参照のこと。『芸術新潮』2004年4月号、新潮社、32頁。見返しに、「K. Tomymoto May 1913 Tokyo」の署名が見られる。現在、日本民藝館に所蔵。
(131)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、166-167頁。
(132)同『製陶餘録』、168頁。
(133)同『製陶餘録』、同頁。
(134)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、58頁。
(135)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、59頁。
(136)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(137)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、77頁。
(138)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、74頁。
(139)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(140)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、75頁。
(141)富本憲吉「記憶より」『藝美』1年4号、1914年、9頁。
(142)Edward F. Strange, ‘Needlework at the Liverpool School of Art’, The Studio, Vol. 33, No. 140, November, 1904, Hon-No-Tomosha, Tokyo, 1997, pp. 147-151.
(143)詳細については、以下の拙論を参照。「富本憲吉の英国留学以前――ウィリアム・モリスへの関心形成の過程」『表現文化研究』第6巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2006年、35-68頁。
(144)Bernard Leach, op. cit., p. 57.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、42頁を参照]
(145)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、61頁。
(146)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、75-76頁。
(147)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、76頁。