中山修一著作集

著作集3 富本憲吉と一枝の近代の家族(上)

第一部 出会いから結婚まで

第一章 富本憲吉と尾竹一枝の出会い

一.ふたりの出会いのきっかけ

一九一四(大正三)年の一〇月二七日に、富本憲吉と尾竹一枝は日比谷の大神宮神殿で白滝幾之助夫妻を仲人として結婚式を挙げた。そのとき憲吉は二八歳、一枝は二一歳であった。ふたりの結婚に際して、東京美術学校の先輩で、ロンドン滞在以降も深い親交で結ばれていた、当時安芸の内海町に住む南薫造【図一】は、そのとき富本にお祝いの品を送った。富本はその返礼の書簡のなかで、冒頭でまず、「随分手紙もかゝず随分長がく遇はない。先づ第一に昨日は小包便で御祝ひを有り難う」と述べ、それに続いて、一枝との出会いのきっかけをこう南に紹介している。

道楽にやり出した楽焼きもいよいよ春夏大阪と東京でやった展覧會の結果本業にたち入る事となり。夏 信州 ママ [上州の鹿沢温泉]の海抜五千尺の上で脚の下に白雲が飛ぶのを見ながらガラになく結婚と云ふ話を[一枝と]して居た。それが其處では今二[、]三年末つと云ふ約束であった處が君の知って居る通りの僕の性質、それにあい手が僕と似て居るので早速にまとまり遂に入道[白滝幾之助]の手をわづらわす事となった。處が面白いのは四[、]五日前書棚の古い白樺を見て居て「私信往復」と云ふ例の手紙があった。初めて[一枝が僕の住む]大和[安堵村]の画室へ訪ねて来たのはアノ手紙を見たセイらしい

南は、一九一二(明治四五)年の一月号(第三巻第一号)の『白樺』に、「私信徃復」【図二】と題して当時のふたりの手紙を寄稿していたのであった。東京にそのとき滞在していた南からの往信は、個展の開催を夢見て上京したものの、東京の美術家たちや美術界に失望し、安堵村へ帰っていった富本の悲しみを慰める言葉で綴られていた。

 僕は君が此度君の個人展覧會を開く事が出來ずに歸國した事を悲しく思つては居ないだらうかと心配して居る、實際僕も残念に思つた。……初め君が國で作つて持つて來た色々な種類の物を見た時に、之れでは今日のガチヤガチヤした東京で其の展覧會を開く事は中々考へを要すると思つた、其れは君の多くの作が非常にデリケートなもので例えば露の玉の如きものである、今日の粗雜な物事に馴れてしまつて居る者の頭では到底君の作の好い點を解する迄一つの物を味はつては居ないだろう、今日の人の多くは大きな太鼓などで頭から鳴らしつけられる事に馴れて居る、其んなもので無ければ耳に入らない。
 君は君の作つた更紗の巾の内に悲しみを包んで國へ歸つた、……君の作つて居るものは非常に新しいものである、其の發表期が五年遅れても尚ほ早や過ぎる位に僕は思つて居る、何卒急がずに、自重し給へ、ソシテ猶ほ多くの製作を續け給へ

それに対して「友よりの返事」、つまり富本が南に宛てた返信が続くのである。

 [一九一一(明治四四)年一〇月]二拾八日夜、御親切なお手紙有りがたう、……個人展覧會は誰れにも解かりさうにもなかつたから止した、……今は東京人に(美術家にも)僕のやつたものを見せる時期で無いと云ふ事である。……東京で見るもの聞くものは皆な僕の感じ易い精神に針を差す樣なものであつた、……製作欲があつて仕事の出來ない時、胃病患者が物を喰い度いが喰へなくなつた時、コウ云ふ場合は誰にもある事と思ふ。……製作欲……暗い恐ろしい穴から逃げる樣な氣持……年老つた祖母や氣の毒な母が僕獨りの心がけで世間體は泣かずに涙を流がして居るのが見へる……兎に角く安堵村へ歸つて自然を見た時、總てが美しい秋の光線に包れて自分の眼に映つた。精神がトゲトゲの樣になつても、美しいものは美しく見へると思つた、嬉しかつた。此れで如何なる場合も死ぬ迄僕は如何んな迫害が有つても美しいものを見る僕の眼に變化は來ないと考へた。一日此の新らしい發見を試る為めに野に出たが實に聲を擧げて泣き度い程美しく見えた、此の新しき幸福を神に感謝する。……僕の展覧會は來年にならうが五年延び樣が一向に平氣だ

一九一二(明治四五)年の一月号の『白樺』に掲載された南のこの「私信徃復」を読んだ尾竹一枝は、さっそく単身安堵村に富本を訪ねた。おそらく一枝は、高い理想を抱きながらも現実に苦悩する若き美術家に一度会ってみようと思ったのであろう。これがふたりにとっての最初の出会いであった。このときの様子について富本は、帰国後知り合いとなっていたバーナード・リーチにある機会に打ち明けていたにちがいない。というのも、のちにリーチはこう回想しているからである。

 ある日のことである、富本が水墨画を描いていると、ひとりの客が面会を求めて玄関で待っていることをそっと伝えるために、下男がやってきた。そして下男は、男物の大判の名刺をこの家の主人[である富本]に差し出した。富本はちょっと目を向けただけで、「それでは、その男の方を別の部屋に案内しなさい。お茶を差し上げて、この絵が終われば行きます、と伝えなさい」という指示をした。
 しばらくすると、弁解をしようと下男がまたやってきて、作法に倣って咳払いをすると、「旦那様、もう一度その名刺をご覧になっていただけますでしょうか」と小声でささやいた。トミー[富本]はそうしてみた。すると、そこに書いてある住所が、いままさに東京で売り出し中の「女性」雑誌の住所であることに気づいたのであった

その名刺には、住所と一緒に、『青鞜』という雑誌名と「尾竹紅吉」というペンネームが書いてあったものと思われる。『青鞜』は、前年(一九一一年)の九月に創刊され、平塚らいてうを中心とする女性だけで編集されていた文芸雑誌であった。そして、「尾竹紅吉」という名前から判断して男性とばかり思い込んでいたこの女性こそが、のちに富本憲吉と結婚することになる尾竹一枝だったのである。実際に会ってみると、憲吉はさらに驚いたことであろう。名前だけではなく、着ている物といい、体格といい、まさしくそれは男と見間違わんばかりのものであったからである。このふたりの出会いは、おそらく憲吉に何か特別の印象を植え付けたにちがいなかった。というのも、明らかに旧来の日本人女性にない特質を一枝は備えていたからである。青鞜社へ加わったこの時期の紅吉(一枝)の様子について、平塚らいてうは次のように描写している。

 円窓のあるわたくしの部屋へ、このとき以来紅吉はよく訪ねてくるようになり、社の事務所へも顔を出して、編集の手伝いや表紙絵やカットの仕事など、なんでも手伝ってくれるようになりました。久留米絣に袴、または角帯に雪駄ばきという粋な男装で、風を切りながら歩き、いいたいことをいい、大きな声で歌ったり笑ったり、じつに自由な無軌道ぶりを発揮する紅吉。それが生まれながらに解放された人間といった感じで、眺めていて快いほどのものでした

このような女性と初対面した憲吉は、密かなある思いを抱いたにちがいない。それは、その当時仕事と結婚を巡る憲吉の置かれていた状況と密接にかかわるものであるので、以下において、そのことについての概略を明らかにしておきたいと思う。

二.モリスへの関心の芽生え

富本は自分の生い立ちを後年次のように回想している。

 奈良は法隆寺から一キロ半ほど東南の大和国生駒郡安堵村が私の生まれたところ、いまも同じ場所に生家がある。……付近一帯はいまでも農村だが……この村は徳川時代は天領で、私の家は庄屋といった家柄だった。……元禄のころは、私の家の 年貢米 ねんぐまい は千四百石ぐらいだったというが、これは村全体の九割にも当たっている。……幼時、男の子らしい遊びといえば、すべて父の思い出につながるものばかりである。山や川に親しんだのも父がよく連れ歩いてくれたからである。その父を私は 十二 ママ [満一〇]歳のときに失って家督を継いだ

ここからもわかるように、富本家は少なくとも江戸時代から続くこの地の大地主であった。そして憲吉は、一八八六(明治一九)年六月五日に富本家の第一子として生を授けられるも、一〇年後には幼くして父を亡くし、家督を譲り受けていた。幼年期を過ぎ郡山中学校に入学した憲吉は、のちに中央公論の社長を務める嶋中雄作と知り合う。嶋中は当時畝傍中学校に通っていたので、どのようにしてふたりが出会ったのかは、よくわからない。しかしそれは、富本に大きな思想的刺激を与えるものであった。富本の回想するところによると、こうである。

嶋中がし よつ ママ ママ うそういう[ウィリアム・モリスの]ことを研究していたし、私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた

どうやら、富本がはじめてモリスを知ったのは、週刊『平民新聞』に掲載されたモリスの紹介記事や翻訳の連載物をとおしてであったようである。周知のように、『平民新聞』とは、幸徳秋水や堺利彦らによって一九〇三(明治三六)年一一月一五日に創刊号が刊行され、創刊一周年を記念して第五三号に「共産黨宣言」を訳載すると、しばしば発行禁止にあい、一九〇五(明治三八年)一月二九日の第六四号をもって廃刊に追い込まれた、日本における社会主義運動の最初の機関紙的役割を果たした新聞である。【図三】は、発行所である平民社の建物で、【図四】は、その二階の編集局の様子である。正面の壁にはエミール・ゾラの肖像が、右側の壁の本箱の上には大きな額に入ったカール・マルクスの肖像が、そして、その手前にはウィリアム・モリスの肖像が飾られていた。この『平民新聞』においてはじめてモリスが紹介されるのは、「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」という表題がつけられた、一九〇三(明治三六)年一二月六日付の第四号の記事においてであった。この記事は、一八九九(明治三二)年にすでに刊行されていた、村井知至の『社會主義』10のなかのモリスに関する部分を転載したものであった11

ジヨン、ラスキンとウ井リアム、モリスとは當代美術家の秦斗にして、殊にモリスは美術家にして詩人なり、……モリスも亦ラスキンの感化を受けたる一人にして、彼と同じき高貴なる精神を持し、己れの位置名譽をも顧みず、常に職工の服を着し、白晝ロンドンの街頭に立ち、勞働者を集めて其社會論を演説せり、……ラスキンは寧ろ復古主義にしてモリスは革命主義なりも現社会に対する批評に至つては二者全く其揆を一にせり、彼等は等しく現今の社会制度即ち競争的工業の行はるゝ社会に於ては到底美術の隆興を見る可はず、……今日の社会制度を改革せざる可らずと主張せり、如此にして彼等は遂に社会主義の制度を以て、其理想となすに至れり、……モリスは社会主義者の同盟の首領として、死に抵る迄運動を怠らざりき12

これを読んだ富本は、「美術家にして詩人なり」と紹介されたモリスに興味をもったにちがいない。しかし、そのことと「社会主義」とは、富本にあって、そのとき果たしてどのようにつながったのだろうか。それを明らかにする資料は残されていない。さらにそれに続いて、一九〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七日付の第二三号までの連載をとおして、一八九〇年に社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』に連載されたモリスの「ユートピア便り」が、はじめて日本に紹介されることになる。それは、「理想郷」【図五】と題され、枯川生(堺利彦)による抄訳であった。そして連載後、ただちにその抄訳は単行本にまとめられ、「平民文庫菊版五銭本」の一冊に加えられるのである13

「理想郷」は社会革命後の新世界を扱っていた。この物語の語り手(語り手はモリスその人と考えてよいだろう)は、革命後に生まれるであろう新しい社会像について社会主義同盟のなかで論議が戦わされた夜、疲れ果てて眠りにつき、翌朝目が覚めてみると、すでに遠い昔に革命は成功裏に終わり、理想的な共産主義の社会にいる自分を見出した。語り手が知っている一九世紀イギリスの搾取される労働、汚染される自然、苦痛にあえぐ生活からは想像もつかない、全く新しい世界がそこには広がり、労働と生の喜びを真に享受する老若男女が素朴にも生活を営んでいた。これを読んだとき、富本には、モリスが描き出していた革命後の理想社会はどのようなものとして映じたのであろうか。それはわからない。しかし、社会が変化することの可能性、そして、それを成し遂げるにあたっての時代に抗う力の生成、さらにはその一方で、そうした行動や言論を弾圧しようとする国家権力の存在、これらについては、少なくとも理解できていたであろう。こうして富本は、この時期、確かにモリスの社会主義の一端に触れることになるのである。それはちょうど、主戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく反戦論など、なすすべもなく、御前会議でロシアとの交渉が打ち切られ、対露軍事行動の開始が決定された時期であり、一七歳の青年富本が郡山中学校の卒業を控え、東京美術学校への入学を模索しようとしていた、まさにそのときのことであった。

週刊『平民新聞』をとおしてモリスの社会主義の世界にはじめて触れた富本のモリスへの関心は、美術学校入学後も衰えることはなかった。「[『平民新聞』を読んでいただけではなく]それにモリスのものは美術学校時代に知っていた」14とも回想している。文庫に入っては、イギリスから送られてくる雑誌『ザ・ステューディオ』のなかのモリス関連の記事に目を通し、所蔵されていた何冊かのモリスに関する書物も、熱心に読んだことだろう15。一方、その当時の富本の政治的信条は、明らかに、一枚の自製絵はがきに表われており、そこから推し量ることができる。この絵はがきは、一九〇五(明治三八)年一一月一四日付で中学校時代の恩師の水木要太郎に宛てて出されたものである。中央に「亡国の会」という文字が並び、その下の三つの帽子に矢が貫通している。この自製絵はがきがはじめて一般に公開されたときのキャプションには、「亡国の会 陸軍・海軍の帽子と中折帽は官僚の象徴だろう 軍人と官僚への露骨な反感」16と、書き記されている。この年、八月に日露講和会議が開始されると、合意内容に国民の不満は高まるも、陸海軍の凱旋がはじまるや、一転して市中は異様な昂揚感に沸き返った。富本のこの自製絵はがきは、ちょうどこの時期に出されている。この間、美術学校では、六月はじめには一日臨時休業して日本海海戦の祝捷会を開き、東郷平八郎大将に感謝状を贈呈することを満場一致で可決しているし、一〇月末に大沢三之助大尉が解隊され、教授職に復帰すると、その暮れには、凱旋を兼ねた忘年会が盛大に梅川楼で開かれている17。富本の目に、この年の一連の出来事がどのように映っていたのかは、水木に宛てた一枚の自製絵はがきがそのすべてを物語っている。そうするうちに、美術学校で西洋美術史を講じていた岩村透が主宰するマンドリンのサークルを通じて知り合い、友情を深め合ってきていた二年先輩の南がイギリスへ渡ることになる。「徴兵の関係があったので」18と、述べているように、富本にも、徴兵を避けたいという気持ちがこの時期働いていたにちがいない。こうした状況のなかにあって、富本の英国留学へ向けての意思は固まり、一九〇八(明治四一)年のおそらく一二月のことであったろうと思われるが、モリスの実際の仕事に触れることを主たる目的として、翌年三月の卒業を待つことなく自費でイギリスへ向けて出発するのである。英国留学の動機について、後年富本はこう述懐している。

 留学の目的は室内装飾を勉強することだった。フランスを選ばず、ロンドンをめざしたのは、当時、ロンドンには南薫造、白滝幾之助、高村光太郎といった先輩、友人たちがいたからでもあるが、もう一つ、在学中に、読んだ本から英国の画家 フィ ママ スラーや図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかったからでもある19

一九〇九(明治四二)年のはじめにロンドンに到着すると、ロンドン美術学校ですでにリーチと面識をもっていた高村はそのときすでにパリに移動していなかったものの、待ち受けていた南と白滝から、富本と入れ違いに日本へ渡ろうとしていたバーナード・リーチのことを知らされた。

[イギリスへ]行つて見るとオンスローステユジオと云ふ畫室を南白瀧兩氏に譲つて高村氏がパリーに出かけ ママ [た]とゐつていた。その畫室は全く殺風景な汚ないので有名だつた。其處で二人からリーチの話を聞いた20

実際にはまだこのとき、リーチはロンドンに滞在していたものと思われる。のちにリーチは、「一九〇九年の春に、ドイツ定期船の三等客室に乗り込み、日本へ向けて出帆した」21と、回想しているからである。しかし、富本とリーチの初対面はロンドンでは果たされず、富本の日本への帰国まで待たなければならなかった。

リーチは、一八八七(明治二〇)年に香港で生まれ、出生のときに母を亡くしたこともあり、日本に在住していた祖父母によって養育されたのち、父の再婚や転任によりその後香港およびシンガポールで過ごし、一〇歳のときに、教育を受けるために独り祖国イギリスへ送り返された。一九〇三年(明治三六)年にスレイド純粋美術学校に入学すると、そこで、終生の友となる南アフリカ出身のレジー(レジナルド)・ターヴィーと面識をもつことになる。このターヴィーが、のちに富本とリーチを結び付ける、重要な役割を担うことになるのである。その後リーチは、帰国していた父の死去に伴い銀行勤めをするも、美術家への道を忘れられず、再びロンドン美術学校に入学し、フランク・ブラングィンの指導のもとにエッチングの勉強をはじめた。今度はそこで、ターヴィーとの再会を果たすとともに、ちょうど日本から留学していた高村を知ることになるのである。そして、日本への憧れがますます高まるリーチに対して高村は、「皇室おかかえの彫刻家である父[光雲]への紹介状を書いて渡した」22。こうして一九〇九(明治四二)年の春、念願の日本へ向けて出立し、上野桜木町に居を構えたリーチは、エッチングで生計を立てる道を歩みはじめようとしていたのであった。

一方富本は、おおよそ一年間、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と中央美術・工芸学校においてモリス、ステインド・グラス、そして世界のさまざまな工芸品を研究し、さらにその後に続く、新家孝正の助手としてのエジプトおよびインドでのイスラム教建築の調査を終えて、一九一〇(明治四三)年五月に帰国の途についた23。そして、英国からの帰路の船のなかで、日本にいるバーナード・リーチを訪問するために乗船していた、レジー・ターヴィーというひとりの青年画家との思いもよらぬ出会いに遭遇するのである。船上、リーチを巡って、富本とターヴィーの会話はおそらく弾んだことであろう。一九一〇(明治四三)年六月一五日、ふたりを乗せた三島丸が雨に煙る神戸港に錨を降ろすと、ふたりはそこで別れ、ターヴィーはリーチの待つ東京へ、富本は、とりあえず大阪の親戚の家へと急いだ。それから富本とリーチのあいだで手紙のやり取りが交わされると、すぐにも富本は東京に上り、リーチが新築していた桜木町の自宅を訪ねた。それは、リーチ夫妻とターヴィーが房総でひと夏を過ごすために東京を立つ少し前のことであった。このような偶然の経緯から知り合ったバーナード・リーチと、英国生活をともに経験した南薫造のふたりの友人との密接な交流を中心として、帰国後の富本の活動は展開していくことになる。

三.リーチとの初対面と新進作家小品展覧会

リーチの家をはじめて訪れたときの様子について、富本は次のように書き記している。

 リーチとの初對面は、櫻木町の家だつた。彼が設計したといふ茶の間の眞中の疊一帖だけ床を落しそこに格好な卓を置いてあつたので、床が椅子がはりになつて皆で腰をかけて向ひ合ふことの出來る設計で一寸面白いと思つて見た。
 それまで既に文通もあつたし、これが初めて會ふといふ氣持ちなどはなくすぐに肝膽相照すといふ具合で英國の話や工藝の話や圖案の話などを話し会つた24

一方リーチは、こう回想している。「私は最初から彼[富本]が好きになった。……私が日本で暮らした一九一〇年から一九二〇年にかけて、富本と私はさながら仲のよい兄弟のようであった――何でも分かち合った。……[そのころを]振り返ってみると、寛大で熱意にあふれるも、鋭い識別力をもった彼の眼差しが、過去の世界から蘇ってくる」25

一九一〇(明治四三)年のこの夏を境に富本の東京での活動ははじまる。寄宿先は、大久保近くの柏木村にある、すでに南が投宿していた同じ下宿であった。そこで富本はまず木版画の製作に着手した。年が明ける前にすでに安芸の内海町に帰郷していた南に宛てた、一九一一(明治四四)年一月二五日の日付をもつ手紙のなかで、その間の東京での出来事が記されている。「木版の色づくりウマク行ったナー」と書き出し、昨夜美術学校の建物が焼けたことについて言及したうえで、「外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あるのに敬愛すべき建築物が先き ママ 焼けて厭やな奴は世にハビコル。アゝ――」といった感想を漏らし、知り合いの留守居役のため数日後にはこの下宿を出ることなどが報告され、結婚や家の建築、そして仕事の発表など、これからのことについては、次のように告げられていた。

僕が留守居をする約束をしたのは三月末迠だが、それから何うするか、家を建てゝも何う建てるか、何處にするか、ミセスを貰いたいが(ヒミツヒミツ)それも何處からか、何むなか、何にをして生存して居る意味を発表するか、一切未定である26

続けて二月一日付の同じく南に宛てた書簡では、引っ越しができたことを報告し、さらに、生活費のことや木版画に続く新しい作品の構想のことなどについても語っている。「東京に居って一文も金が取れなければ勿論田舎をとも思ふが……地主も大きいのなら良いが小さい猫の額では此の血が、若い僕の血が聞いて呉れない。他の人が多忙がって居る中に君は繪をかいて居るそうだが僕は、繪なら未だ良いが、他の人が想像もつかぬ椅子やステインド、グラスを考へて暮らしている」27。南が行なっている絵画という表現形式の安定性や認知度に比べて、モリスの実践に倣い多様な工芸分野において今後製作を行なおうとした場合、技術修得の問題、製作の場の問題、素材入手の問題、購入者の有無の問題など解決が迫られる課題は多岐にわたり、そこには、「他の人が想像もつかぬ」困難性が横たわっていることを、そのときそれとなく富本は南に伝えたかったのではないだろうか。実際、ロンドンの中央美術・工芸学校で学んだステインド・グラスの製作については、晩年のある座談会で、「日本じゃまだステンド・グラスを入れるのは早すぎて仕事にならなかったでしょう」という質問に対して、富本は「ならなかったですね。一人おりましたけれど、仕事になりませんでした」28と、答えている。

初対面以降、富本とリーチはしばしば会っては、自分たちの今後の活動や生計の見通しについて相談していたようである。というのは、「イギリスから帰国した富本は、数ある創作活動のなかにあってすでに木版画に手を染めはじめていた。私はエッチングを行なっており、そのなかには、日本に来てから製作したものが何点かあった。そこで私たちは、何か合同展のようなものを開けないか話し合った」29と、リーチが回想しているからである。ここで考えられている展覧会は、作品を単に展示するというよりも、むしろ売るためのものであり、「展覧會を用ひて商賣をやることなどは其頃から始まつたかとも思ふ」30と、富本は述懐している。ふたりの話し合いも進み、いよいよ実行に移された。二月一八日のリーチの日記には、こう綴られている。「若い美術家たちの展覧会会場になることを想定してつくられた、東京の中心にある 画報社 ママ [吾楽殿]へ森田[亀之輔]と一緒に行った。そこは小規模ながらも、まさに最初の自主運営による画廊で、トミー[富本]と私の作品も参加させてくれるかどうかを見にいったのであるが、快く承諾してくれた。そのあとパーティーにも加えてもらい、そこで、森田、トミー、そして私は、余興に陶器の絵付けをしていた約三〇名くらいの若い美術家や文筆家、それに俳優といった人たちに会った」31。事実上これが、リーチが陶芸の道へ進むきっかけとなるものであった。

こうして、『美術新報』(版元は画報社)主催による新進作家小品展覧会は、四月一五日から三〇日までを会期として、京橋区八官町に新築落成した古宇田実の設計になる吾楽殿【図六】を会場に開催されることになった。富本は、そのことをさっそく南に伝えている。二月二三日付の手紙の内容は、こうである。まず冒頭で、学生時代とロンドン時代に世話になっていた大沢三之助から紹介されて、京橋区南鞘町の清水組(清水満之助本店)の事務所で毎日製図に向かわなければならない単調な仕事について、「大沢先生は僕に見せしめの為めに此の事務所をショウカイして呉れたそうだ。此れを以て先づ一ケ月ほどは働いて来た。一日に一円や一円五〇銭で頭の中、脚の形ち迠くづされて、は、タマラぬタマラぬ」32と述べ、次に近況報告として、「変ったことは別にないがターヴィー ママ 亜ふり加へ歸った事と、岡田先生の主さいで楽焼會があった事と、画報社の発起で青年西洋画家の展覧會を ママ 楽殿に開かうと云ふ事だ。事務の方の委員は森田君がやる事になり室内の装飾は僕が口をきく事になって居る。新しく建った ママ 楽殿と云ふ建物を見に行ったが一寸面白い。プライベートの展覧會には持ってコイの處だ」33と書き、新進作家小品展覧会で室内装飾を担当することになったことについて触れている。そして、最後に、挿入された今後建築予定の自邸の見取り図【図七】に関して、「大和で建てるか東京にするか未だ決まらぬ。今ではヤハリ田舎に住みたくて仕方が無い」34と、結んでいる。

展覧会へ向けての準備が進められた。『美術新報』の四月号は、「本誌主催小品展覧會に就いて」という記事のなかで、リーチと富本が行なう会場装飾についてこう予告している。

展覧會に海老茶の幕も餘り有り來りになつて來たから、此度はズックの幕を用ひ、そして其上部に極くプリミチヴな模様をステンシルでやる。此模様の考案もステンシルもリーチ君の手になる。それから會場に用ふる椅子は特に今度の會の爲めに新調したもので、富本君の意匠になる。富本君は近頃海外から來朝した建築装飾の青年美術家である。……會の展覧會であるから無論陳列作品本位であるが、吾々の望みは作品と同時に 展覧會 ・・・ 其物をも觀て戴きたいのである35

そうした準備のさなか、富本は突然高熱に襲われた。「三日前頭が痛いと思 て居た處が森田君が少し無理して展覧會の話をやった處が急に三拾九前後の発熱、三日間寝たきり動く事さえ出来 ママ ぬ次第」36と、三月一二日に南に手紙を書き送っている。三月一六日のリーチの日記には、「トミーが突然腸チフスにかかって、赤十字病院に入院している。明日見舞いに行こうと思う」と、記されている37。退院できたのは、展覧会がはじまる一〇日前のことであった。四月一〇日付の手紙で、南にこう伝える。「此の間はワザワザ病院迠有り難う。僕は此の五日の日に退院した。御陰で案外早かった。今は自宅で静養中。只腹がへるのと、する事が無いばかり。例の展覧會もイヨイヨ拾四日に繪をかけて拾五日にプライベート、ヴイユーをやるそうだ。此處に封入したのは僕のやつた、入場券の表紙で使用後ブック、マークに使ふつもりだ」38

この木版画で製作された入場券兼しおり【図八】の下半分には、「真珠は糸に結び付けられるのであって、紐に付けるものではない」といった意味の英文が彫り込まれていた。一部にスペルのミスがあるものの、これを見た南は、ちょうど一年前に、ギリシャ沖の船上から送られてきていた富本からの手紙39をすぐさま思い出したであろう。というのも、カイロのアラブ博物館のペルシャ・タイルに描かれていた詩のなかの一句として、「やせているからといって私を非難することなかれ。私は、自分の骨を覆っているものに満足しているのだから。太った人よりやせた人のなかに、美質はよりしばしば見出されるのではないか。真珠は糸に結び付けられるのであって、紐に付けるものではない」という意味をもつ英文が、その手紙には書き込まれていたからである【図九】。そしてさらに南は、この入場券兼しおりの上半分に刻まれた恰幅のいい貴族らしき男性の肖像が、美術学校の図案科教授の大沢三之助や古宇田実、美術史教授の岩村透のような美術界の実力者をひょっとしたら暗示し、彼らを揶揄しているのではないかと、直感したのではないだろうか。なぜならば、「其の廻りにかいてある女の形が又たまらぬものだよ」40と、その手紙のなかで富本は付言していたからである。富本が見たペルシャのタイルには、体に真珠をまとっていたかどうかは別にしても、細身ながらも知性を備えた可憐な女性がおそらく描かれていたにちがいない。そのように考えるならば、富本がデザインしたこの入場券兼しおりには、明らかに、ある特別なメッセージが込められていたことになる。しかし、この痛烈な皮肉を理解できたのは、このとき南ただひとりだったのではなかろうか。

ところでこのときの入場券兼しおりは、富本だけでなく、ほかにリーチと太田三郎のデザインになる三種類が製作され、好評を呼んだらしく、また収益をかねてのことであろうが、「新進作家小品展覧會 記念しをり 三枚一組 定價郵税共金六錢」との社告が、展覧会終了後の『美術新報』六月号に掲載されるほどであった【図一〇】。

四月一五日、展覧会がはじまった【図一一】【図一二】【図一三】【図一四】。売れ行きは上々だった。会期末が近づいた四月二七日のリーチの日記によると、「私は展覧会で、楽焼きを一〇点、エッチングを七点、紙に描いた油絵を二点売った。トミーは版画の小品を四〇点くらいと皿を一、二点、それに水彩画を一点売った。ふたりであわせて百点ほど売ったことになる」41。富本は、自分の水彩画が売れたことについて、「僕初めて水彩を一枚拾円で賣つた。何むだか変な気がする」42と、感想を漏らしている。このような日常生活を飾るうえで必要とされる安価な小品がよく売れたことは、この展覧会の企画の趣旨にうまく合致していた。『美術新報』五月号に、この展覧会の総括文ともいえる「本誌主催 新進作家小品展覧會 展覧會の成立に就いて」を森田亀之輔が書いており、そこにこう記されているからである。

出品する場所によつては大作を奬勵すべき時があるかも知れぬが、洋畫と日常生活とを接觸させる爲めには大作はまづ不必要と謂つていゝ。なるたけ世人の買ひ易い値段で、我々の住家に懸けられる樣な大さの作を供給することは此際最も時宜を得たる企てだと思つた。これが此展覧會の一つの目的である。……此點に於いて今度リイチ君、富本君が自畫の樂燒を會場で安價に供給したのは最も此展覧會の目的に叶つてると思ふ43

また、会場で使用された籐製の椅子【図一五】がどのような経緯から製作されるに至ったかについては、次のように紹介されている。

それから會場には、場内の装飾の爲めにも觀覧者諸君が休憩する爲めにも、室内に調和したコンフォタブルな椅子を備へつけたいと考へたが……新らしく作らしても又は出來てるのを買ふにしても、只十四五日間の展覧會で使用して後は不必用になるので、これは餘り贅澤過ぎる。然し是非椅子は欲しい。といふので懇意な先輩や友人を勸誘して椅子の新調を豫約して貰ひ、それを比較的安價に調製させるから、展覧會中損料なしで貸して貰ひたいといふ虫のいゝ相談を持ちかけた處、皆々同情を以つて其犠牲となるを承諾して呉れた。
此椅子の考案者は富本君で、又同君の盡力で寺尾家具店が矢張商賣氣なしに調製を引き受けて呉れたのである44

この富本のデザインした椅子を見て、「天地が急に広くなったような強烈な啓示を受けた」45ひとりの学生がいた。高村豊周である。高村は、父を光雲に、兄を光太郎にもつ、当時美術学校で鋳金を学ぶ学生であった。彼はそのときの「開眼」の様子を、のちにこう回顧している。

富本さんの帰朝は日本の新しい工芸の啓蒙にとっても、また私に新しいものの見方を教えてくれたことからいっても、非常に意味の深いことであった。富本さんは京橋八官町の吾楽という店を借りて、帰朝記念の展覧会を開いた。……私はそこに出品されていた椅子に非常に感動した。普通の椅子のようなごく簡単な構造のものなのだが、この椅子の一部に普通なら皮とか布とか用いる所を、小包用の縄でぎりぎりに巻いてある。……その時分には前人未踏の試みだった。つまり工芸品を作るのに、材料には自分が使いたいものを使えばよいのだ。昔からの掟によらなければ物を作ることが出来ないのではない。……今考えるとそれは一種の開眼でもあった46

富本の椅子は、確かに高村豊周のような若い学生に大きな衝撃を与えた。しかし、美術界全体を支配していたのは、旧弊な秩序に守られた官僚主義であったようである。四月一九日のリーチの日記。「個人的に独立して活動する画家や彫刻家や建築家には、めったに好機が訪れない。人びとは役人にへつらう習慣から逃れることができない。高村[光太郎]もトミーも、他の人もそうだが、反旗を揚げることができず、それで逃避したがっているように見える」47。そして、二七日の日記。「トミーは落ち着いて仕事に打ち込むために、五月三日ころに田舎へ帰る。高圧的な官僚主義的芸術の影響から逃れるためもあるのではないかと思う」48。一方、南に宛てた四月二二日の富本の手紙。「展覧會は先づ成功の方だろう。……君や僕の版画、リーチのエッチングを買って行く人も大分ある。……室内の装飾、リーチのやった ママ [ズ]ックのステンシル、僕の椅子等大分評ばんが良い。……只例のバルーン、イワムら[岩村透男爵]が何うも困った。それから小品は小品でも面白い作が少ないことだ」49。続けて二六日の手紙。「……急に荷物をまとめて来月二日頃大和へ歸る事になった。柏木の置ゴタツ吾楽の小品集も夢の様だ。誰れも大和へ行けと命令するものもなく、餘儀なく歸ると云ふ譯でもない。春の東京はカッフエー、プランタンにローカン洞にニギヤカな事だ。此の世界をのがれて肩をすぼめて旅に行く」50

こうして帰国後の一年は、あわただしく過ぎていき、喧騒の東京から逃げるようにして、「肩をすぼめて」安堵村へ帰る富本の胸には、どのようなことが去来していただろうか。帰国後も変わらぬ友情で支えてくれる南が側にいた。相互に信頼できる友人としてリーチとの因縁にも似た出会いがあった。腸チフスで入院したときには、このふたりは見舞いに駆けつけてくれたりもした。そして、吾楽殿での展覧会においては、単に、帰国後はじめて作品を発表する場に恵まれたというだけに止まらず、それをとおして――展示会場の装飾に携わったという点では、今日にいうインテリア・デザイナーとしての、椅子や入場券兼しおりをデザインしたという点ではプロダクト・デザイナーでありグラフィック・デザイナーとしての、楽焼きと木版画を製作したという点では陶芸家であり版画家としての、水彩を描いたという点では美術家としての――それまで隠されていた多様な能力の片鱗を確かに示すことができた。さらにはまた、東京を離れるに際しては、「森田は僕の歸国を東京から夜にげと評し、岩村先生は国家のために何むとかと言はれた」51。このように引き止める者もあった。それでも富本の気持ちのなかには、何か満たされないものが沈着していた。推量すれば、このときの富本の大和への帰郷には、東京の美術界への反発も一因としてあっただろうが、それだけではなく、英国留学とそれに続く東京滞在にひとまず終止符を打ち、今後の仕事と結婚について落ち着いて熟考する場を自ら欲したことも、もうひとつの要因となっていたのではないだろうか。しかし、熟考すべき中身は、いまだ具体的輪郭をもたない漠然としたものであったとしても、周りの人間はいざ知らず、富本本人にはこのときのこの帰郷が、その中身にかかわって、これから起こりうる苦悩の予鈴としてある程度自覚されていたのではあるまいか。

四.大和への帰郷と結婚問題

大和の実家に帰ると、母屋から少し離れた富本家ゆかりの菩提寺である円通院を仮の画室と定め、そこで荷を解いた。そして、さっそく新しい画室【図一六】の設計に取りかかってみた。「今度は東京の時と異って寝る処と Single hall さえあれば用は足るので又初めからやりなほし」52。東京時代に描いていた見取り図に比べて、この図は明らかに、生活空間を念頭に置いたものではなく、製作のための単身用の家となっており、結婚のことや家族生活のことをこの時点で富本がどう思い描いていたのかを、この図からうかがいしることはできない。その後も六月のあいだをとおして、南へ宛てた手紙が頻繁に出されていく。「手織木綿に印度流のプリンティングをやって Table center を製さえたり、自分の座る椅子をあむだり只何むと云ふ事なしに日を暮して居る。初夏の花、青空に涌く雲の峰が馬鹿にキレイだ。水彩も書かう書かうと思ひながら三脚をすえると ママ も眼に見える陰がジャマになって困る。陰なむてふ景気なものが僕に見えなかったら一寸は面白い繪も出来 ママ 様にと考える。木版は四[、]五枚やった」53。「此頃は毎日手紙をかく。……僕は此の頃何むにもせずに木版ばかり。それと云ふのは近頃水彩でやるより木版の方が良い様に思はれる。……今秋東京で Leach と二[、]三人で版画展覧會をやろふかとも云ふて居る。是非南君もはい て貰ってと思ふて居る」54。「僕も清水組でやった図が二等一席とかになったとかで奨学金とかを少し貰った。兎に角此れで木版の材料でも買ふ事にして居る」55。東京の騒音から逃れ、木版の製作に精を出しながらも、話相手もなく、寂しさを紛らわすかのように友だちへ手紙を書き送る日々。その一方で、大和の美しい自然に感動しつつも、この土地の人間に対する深い嫌悪感が入り混じる。「大和の空気、土の色、山の蔭、花の香、追想、古代の作品は皆僕自身の守本尊であるが、此處に住むで居る人間となると有金全体をカッパラって西洋で住むともコンナ国に住むものかと考へる程厭やだ」56

富本が東京を離れたあと、リーチは、「モリス商会」のようなものをつくることをしきりと考えていた。リーチの五月三一日の日記である。「芸術性を追求しながら、必要な生活費を得られるような計画を絶えず考えている。目下のアイディアは、ウィリアム・モリスが考えたような形式で、高村、トミー、私、そしてあと数人でもってひとつのグループをつくるというものである。油絵、彫刻、陶器、漆器などを自分たちの画廊に展示する」57。おそらくリーチは、手紙をとおしてこのことを富本に提案したものと思われる。しかし、そうした誘いにも、現実生活が許さず、さほど乗り気を示さない。「Leach はウィリアム、モ ママ ママ スの様な小さい店を僕にやれとスゝメて居た。僕も何うかと思ふて居るが、コウ云ふ風に田舎で思ふ存分木版でもやる、片ヒマに河漁に行くと云ふ様になってはトウテイ東京へ出られない」58。それでは、結婚はどうかというと、これも五里霧中。「早く麻上下を着せたいと家の人も云ふて居り僕自身も探して居るがサテとなると困るものばかり」59。そして、体たらくな自己を見詰める。「田植の最中に僕獨り笛をふいて居る。何むだかトルストイが地獄の底からオコリに来る様な気がしてならぬ」60。このように富本がいっていることから推量すると、ふたりのあいだでかつてトルストイが話題にのぼっていたのであろう。ふたりが美術学校に通っていたころであるが、一九〇五(明治三八)年一月二九日の週刊『平民新聞』終刊号に、金子喜一の「トルストイとクラ[ロ]ポトキン」が掲載されている。たとえば、こうした一文をふたりは一緒に読んでいたのかもしれない。そこにはこのような一節があり、富本はそれを思い起こし、いまの心境を南に伝えようとしたものと思われる。

トルストイも、クラポトキンも、等しく露國の貴族で、而も時代の欠點をみて、两個等しく一身の地位幸福を犠牲として、社會民人のために起つた所の偉人である。彼等の胸中にひそめる思想は、實に社會民衆の幸福であつた。彼等两個が露國を愛し、露人を思ふの情は、恐らく他の何人にも劣らなかつたであらふ。然るに彼等两個は露國政府のために苦められた。トルストイは國教より見はなされた。クラポトキンは外國に放逐された61

そうしたなか、旧家の家長として一日も早く結婚してほしいという周りの願いに翻弄されはじめることになるのである。七月になると、具体的な縁談が憲吉にもたらされたものと思われる。というのも、七月八日付の手紙を読むと、「今朝やったものを御めにかける。ドローイングを木版にしたもの」62と紹介したうえで、「壺その五(なむきん)」【図一七】を挿入している一方で、「裃は大分せまって来た。音楽が好きでない事や親類と云ふ理由で未だ印度以来の指輪の落ち付き處がはッきりせぬ」63と、南に述べているからである。ここから、憲吉は音楽を趣味とする女性を好み、プロポーズの証しとしてインドから持ち帰った指輪を用意していたことがわかる。そして「来るべきものが来た」という思いに、一瞬かられたのであろう。襲ってきた現実の問題からあたかも逃亡するかのように、富本は南の住む安芸を突然訪れている【図一八】。次は、七月二一日付のかしこまったお礼の手紙である。「突然参上種々御厄介に相成有り難く御礼申し上げ候。自分勝手の事のみ申しあげ誠に申し譯け御座なく候。……レフレッシュされたる小生の心持、暑さにも閉口仕らず製作し得る様相成候気持を得たる事を感謝仕り候」64。こうして、心の落ち着きを少し取り戻したのであろうか、木彫の香盒やサラサの木版に取り組み、さらに『美術新報』(八月号)へ「室内装飾漫言」を書き送ったのは、この安芸訪問直後のことであった。この「室内装飾漫言」の書き出しはこうである。「ある暗き雨ふる日語る友なき寂しさを消さむと獨り座敷に座りこみ、オランダ古渡りと稱する杯に酒をくみ、黙想にふけり申し候」65。そして富本は、美術品とそれが置かれる空間との関係性について、ロダンやホイッスラーの事例をあげてその重要性を論じ、結論として、「洋風を混入した日本室内装飾の前途……に光明を望む」66のである。

八月に入ると、はじめて安堵村をリーチが訪れてきた。富本は、法隆寺と奈良帝室博物館へリーチを案内した。ここでリーチ同様に、富本自身も日本の古い美術に魅了されてしまう。ふたりとも、西洋の美術にあまりにも慣らされてしまっていたのかもしれない。

金堂の壁画には僕大いにまいった。シャバ、フランチェスカの彩やフレリングを以てして何うも残念ながら油画の方が敗を取る様だ。
奈良博の佛画、白衣に細い金で一面にかいた金とも何にともつかぬ良い彩が黒い中にジッとして居る。此のジッとした處が タマ らない67

「室内装飾漫言」に続いて富本は、「法隆寺金堂内の壁畫」【図一九】と題してこのときの感動を『美術新報』(九月号)に書き、「如何にして、かゝる美しきものを製作したるかと云ふ 見當 ケントウ さえ付かぬもの三ツ此れあり候。エヂプトの或王朝の大石像、ペルシャ中世紀の大織物及び法隆寺金堂内の壁畫に此れあり候」68と、述べている。このときの富本の視線は、明らかに近代という同時代の西洋美術ではなく、非西洋の古い、純正美術というよりは、むしろ工芸や室内装飾に向かっている。しかしこうした感動とは別に、富本にとってこの法隆寺と奈良帝室博物館への訪問は、置かれている状況から推測すれば、結婚話から逃れて飲む、一服の清涼剤であったにちがいなかった。そしてリーチは、そうした富本の心情を鋭く感じ取ったのではあるまいか。おそらくこのときのことであろうと思われるが、富本本人にリーチは直接結婚について問いただしている。

 ある日結婚についてトミー[富本]に問うたことがあった。すると彼は首を横に振り、屋敷の屋根の一番高い所へと私を連れて行った。平らに耕された田畑から、木々の群生、そして遠くに見える比較的大きい家へと指で追いながら、彼は幅広のベルトから財布を取り出し、それから、この一帯に住む地主の娘の写真を私に差し出した。富本家に雇われた仲人が、思慮深い習慣とはいえ、相手方の家族の健康状態や財産について、それでも正確な調査を行なってから、この娘とあと数人の娘たちを推薦してきていたのである。トミーはこれらの写真を全部脇へ押しやると、しっかりと私を見詰めて、胸の内をこう説明した。「ぼくは昔ながらのやり方では結婚したくないんだよ。――君の国であるイギリスで生活したことがあるんだからね」。そしてこう続けた。「ぼくは長男だし、結婚が遅れていることに家族は悩んでいる。家長という立場を弟に譲り渡さなければならないかもしれない」69

家督を弟に譲ることまでもが、このとき憲吉と家族のあいだで話し合われていたようである。いずれにしても結果的には、このときの縁談すべてをきっぱりと憲吉は断わったものと思われる。そしてそれにより、家族とのあいだに大きな軋轢が生じてしまったにちがいない。というのも、八月二九日付の南に宛てた書簡で、引き裂かれるような胸のうちをこう吐露しているからである。

御説の通り東京は厭やだ。又大和もいやになった。近親に對するテキガイ心の様なものが僕の神経をサゝラの様にする。……自分には東京にも大和にもホントの宿る家がないのだと云ふ事がコミ上げる様に涌いて来る。実は此の間安藝[の君の家]へ行って長らく御厄介になった時も此のいやなセンプウの中心から逃げ様と行ったのだ。歸った一週間は御かげでよかった。今日あたりは実にヒドイ。家も倉も自分の教育も皆むな白蟻にやられゝば良いと思ふ程いやだ。……妹はシンケイスイジャクと云ふ病気だ ら醫者に見て貰へと云ふが、有馬の湯で ママ メな事は解って居る70

東京の美術界にみられる、リーチのいう「高圧的な官僚主義的芸術」と、大和に残る因習的な婚姻制度とは、ある種同一の構造と支配力をもち、このことから逃れることができない現実的苦悩が、富本をして「自分には東京にも大和にもホントの宿る家がない」と、いわせているのであろう。心底に自覚された「近親に對するテキガイ心の様なもの」は、このとき、富本を東京へと向かわせる力として働いたものと思われる。富本にとって、たとえ本意ではなかったとしても、二度も安芸へ逃げ出すわけにもいかず、もはやそれ以外に選択肢は残されていなかったにちがいない。それからわずか半月と立たないうちに、富本は、東京での共同の展覧会の開催を南にもちかけている。以下は、九月一二日付の手紙の一節である。

君の處へオジャマをしてから大分色々なものをやった。
今此の手紙と一處に坂井[犀水]さむに吾楽殿の階上を借れるか何うか問ひにやった。たしか一週二十円で借して呉れる筈。
一寸考えて見ると木彫人形置物三、木彫香盒六、サラサ三、机、(木製應接室用)一、木製椅子一、木版四五程、若し水彩を出品するならば二十枚内 三十枚は持って居る。それから秋やるにしても春にしてもそれ迠に木版や木工ならば随分出来 ママ る。只陶器類がないの ママ 困るが。
會期は一週間、作品百点、全費用約七十円、と云ふ様な事を君の前の展覧會のカタログで見當をつけた。百点となると僕獨りではチト困る。若し君に賛成して貰えればと思ふ。然し僕のやったツマラぬサラサや木彫と一處に列べられるのは君に取って困るとも考へる。
如何うだろう返事を貰へまいか71

この出品予定の目録を見ると、もたらされた縁談に反発するかのように、あるいは古美術への認識がそれに拍車をかけたのだろうか、この夏の二箇月間、木版画以外の作品も多数加わり、製作に没入していたことがわかる。しかし、この提案の実現性は、南からの返事を待つまでもなく、明らかであった。というのも、続けて富本は、この手紙のなかでこう書いているからである。「実はコンナ事でも云ふて僕の無理に押さえられた勢力をゴマカサぬと病気になりそうだ。遇って話せれば良いと思ふて居るが遠いので困ったものだ」。

一方、吾楽殿借用に関する何らかの返事はおそらく坂井犀水から届いたものと思われる。翌一〇月、幾つかの作品をまとめると、いやな安堵村をあとにして、とりあえず上京していった。リーチとの再会も、このときの目的のひとつであったかもしれない72【図二〇】。東京に着いてみると、相も変らぬ美術界の旧弊さに気づかされたようである。資料に乏しく具体的内容はわからないが、結果から判断すると、この地の美術関係者は富本の作品に好意を示すことはなかった。ある程度わかっていたこととはいえ、実際に直面してみると、怒りと悲しみが富本の心を覆った。文展(文部省美術展覧会)や白樺の展覧会にかかわってちょうど東京に滞在していたと思われる南は、富本の置かれているこの間の状況をよく知っていただけに、落胆して大和へ帰った富本の気持ちを気遣い、すぐにも慰めの手紙をしたためた。これが、「一.ふたりの出会いのきっかけ」の冒頭に引用に示した、『白樺』(一九一二年一月号)の「私信徃復」に掲載された南から富本に宛てた往信であり、それに続く「友よりの返事」が、一〇月二八日夜に書かれた富本からの返信の内容なのである。再度、「友よりの返事」の一部をここで引用しておきたいと思う。この文面に、このときの富本の心情を余すことなく見ることができるからである。またこれが、すでに紹介したように、のちに富本の妻となる尾竹一枝の心をとらえた一文でもあった。

二拾八日夜、御親切なお手紙有りがたう、……個人展覧會は誰れにも解かりさうにもなかつたから止した、……今は東京人に(美術家にも)僕のやつたものを見せる時期で無いと云ふ事である。……東京で見るもの聞くものは皆な僕の感じ易い精神に針を差す樣なものであつた、……製作欲があつて仕事の出來ない時、胃病患者が物を喰い度いが喰へなくなつた時、コウ云ふ場合は誰にもある事と思ふ。……製作欲……暗い恐ろしい穴から逃げる樣な氣持……年老つた祖母や氣の毒な母が僕獨りの心がけで世間體は泣かずに涙を流がして居るのが見へる……兎に角く安堵村へ歸つて自然を見た時、總てが美しい秋の光線に包れて自分の眼に映つた。精神がトゲトゲの樣になつても、美しいものは美しく見へると思つた、嬉しかつた。此れで如何なる場合も死ぬ迄僕は如何んな迫害が有つても美しいものを見る僕の眼に變化は來ないと考へた。一日此の新らしい發見を試る為めに野に出たが實に聲を擧げて泣き度い程美しく見えた、此の新しき幸福を神に感謝する。……僕の展覧會は來年にならうが五年延び樣が一向に平氣だ。

とくにこのなかで、「如何なる場合も死ぬ迄僕は如何んな迫害が有つても美しいものを見る僕の眼に變化は來ない」という言辞は、富本の生涯を貫く、偽らざる自己との約束として、見逃すことはできない。また、「年老つた祖母や氣の毒な母が僕獨りの心がけで世間體は泣かずに涙を流がして居るのが見へる」と、家族のつらい立場を思いやる気持ちも決して忘れてはいない。晩年富本は、祖母についてこう回顧している。「祖母は一人っ子の父を育て、父が死んでからは、私たち兄弟を暖かく包んで、それぞれが身の立つようにはぐくんでくれた女傑型の人だった。大和のいなかに住んでいたものの、もともと大阪の都会育ちで、器用人だったので、ある時期は家計の助けにもと裁縫の先生をしていた。……ささいなことのようだが、祖母になだめられ、すかされて、絵筆をもつようになったのが、私が後年、工芸家として立つ第一の動機だったような気がするのである」73

この「私信徃復」にみられる南からの手紙には、実はその一方で、極めて重要なひとつの指摘が最後に付け加えられていた。

 其れから此の間或る婦人が君の作つた更紗を見て大變讃めて居た。そして其れは色は變りませんかと僕に尋ねた、僕は正直に之れは水彩畫の繪具で押したのだから、水に洗ふ事は出來ませんと答へたら其の婦人は稍々失望した樣に思はれた。お互の樣な美しき夢の世界に遊んで居る者は更紗は水に洗はれやうが洗はれまいが綺麗でありさえすれば是れで宜いのであるけれども矢張り多くの人には此婦人の樣に洗はれる更紗でなければならない。之れは實際的な世界では致方も無い74

更紗は、あるいはすべての日常生活で使用に供される工芸品一般についていえることであろうが、壁に掛けたり飾り棚に置いたりして、単に所有欲を満たし見て楽しむ美術品とは異なる。更紗は、「美しき夢の世界」であると同時に「實際的な世界」につなぎ止められ生きなければならない宿命にある。そうした更紗の宿命を誠実に引き受けることが、つくり手に要求されるわけであって、この南からの指摘は、富本に大きな衝撃を与えずにはおかなかった。帰郷すると、ただちにその課題に取りかかったらしく、「友よりの返事」で富本は、こう述べている。「早速仕事場をかたづけにかゝつて昨日終つた。今日はモーわき目も振らずに二疊敷の更紗を打つて居る。今度は水で洗へる奴が出來さうだ」75

五.「ウイリアム・モリスの話」の執筆

それから二週間後の一一月一一日の朝に、富本は南へ次のような手紙を書いた。

今日初めて更紗の彩が止まった。洗濯の出来 ママ る奴が出来 ママ た。……兎に角更紗の彩が止まった ママ 事だけでも嬉しい處へ澤山美しい野の花を見て今日一日を馬鹿にカナシクもなく暮した76

どうやら富本は、これで少し心の安定を取り戻し、仕事への自信を深めたようである。南の思いやる手紙が、結果的にそうさせたのかもしれない。それはそれとして、実はこの手紙は、次のような言辞で書きはじめられていた。

讀賣新聞へ高村君が書いて居る文章は実に嬉しい。特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテイフな繪に對する感想が気に入った。アノ文章は美術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教科書にしたい様な気がする77

この一文は、当時美術学校の西洋美術史の教授として、また『美術新報』の顧問的存在として、この時期美術批評の世界に君臨していた岩村透の旧い講壇的な知識が、西洋を経験し帰朝していた若い美術家たちに受け入れられず、もはや限界にまで達していたことを物語っているのであろう。こうした実情が、東京で富本が味わった失意の原因と何がしか関係していたのかもしれない78。兒島喜久雄は、美術批評界を取り巻いていたその当時の様子を以下のように回顧している。ちなみに、リーチが来日してすぐにもエッチングを教えようとしたときに訪ねてきてくれたひとりが、この兒島喜久雄であった79

其間に靑年學生の外國語の力は非常に進んで歐文の美術書を耽讀する者も多く、西洋美術の歴史は元より各種の雜誌を通じて其現状をも知るやうになつたので、漸く美術學校の實情を侮り岩村透の文章などは顧みなくなつた。美術關係の圖書、雜誌、複製等も之に伴つて澤山輸入されるやうになつて來た。夫が丁度日露戦争後から歐洲大戦後迄の状勢であつた80

そうした状況のなかにあって、富本は、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』81を読みはじめていた。一九一一年(明治四四)一一月三〇日付の南に宛てた書簡のなかで、「夜大抵おそく迠モリ ママ スの傳記を讀むで居る」82と、述べているからである。そして、「バアン、ジョンスとの関係、当時連中がたがひに一生懸命だった事が今の自分に大変面白い」83と、続ける。エドワード・バーン=ジョウンズとウィリアム・モリスは、オクスフォード大学エクセタ・カレッジで知り合い、卒業後、バーン=ジョウンズはただちに画家としての道を歩み出した。一方モリスの職業選択には紆余曲折があった。ゴシック・リヴァイヴァリストの流れを汲むG・E・ストリートの建築事務所でまず建築の修行を行なうも、約一〇月間でその単調な仕事に飽き、続いて、ラファエル前派の中心的画家であったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの勧めで絵の分野に興味を示すも、そこにも自分の天分を見出すことはなかった。最終的にはこうである。G・E・ストリートの建築事務所で面識を得ていたフィリップ・ウェブの設計によって、ジェイン・バーデンとの結婚に際しての新居〈レッド・ハウス〉が完成し、その内装をバーン=ジョウンズやロセッティといった芸術家仲間の支援を受けて手掛けたことがきっかけとなって、その共同製作の経験をもとに、室内に必要とされるステインド・グラスや家具、壁紙やタペストリーなどのデザインおよび製作と販売を行なう「モリス・マーシャル・フォークナー商会」という名の会社をロンドンに興し、ここからモリスの本格的な共同実践は開始され、彼本来の才能が開花していくのである。富本は、この経緯をこの本から知り、南をバーン=ジョウンズに、そしてモリスを自分になぞらえ、「当時連中がたがひに一生懸命だった事が今の自分に大変面白い」と、いっているのかもしれない。さらに富本は、この本を読み進めていくにつれて、東京の連中の悪趣味ともいえる仕事が思い出されたのであろう。この手紙のなかで、さらに続けてこうも付け加えている。「[美術学校図案科の教授の]古宇田[実]とか誰れ彼れとか実にヒドイ連中だから。モリースの傳記を讀むでマスマス大学を出 ママ 建築をやって居る人々の悪い趣味が腹立たしい様な気がする」84

こうして富本は、ヴァランスの『ウィリアム・モリス』を底本に使い、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でのモリス作品についての見聞を織り込みながら、「ウイリアム・モリスの話」という評伝にまとめ、一九一二(明治四五)年の『美術新報』第一一巻第四号(二月号)および第五号(三月号)に発表することになるのである。しかしこの評伝において富本は、工芸家としてのモリスにもっぱら焦点をあて、モリスの社会主義に関しては意図的に記述を放棄した。以下は、そのときの富本の判断を示すひとつの言説である。

[ロンドンから帰ってその]後の話ですが岩村 とおる 氏の美術新報に大和から原稿を送ったことがありました。それに美術家としてのモリスの評伝を訳して出しましたが、社会主義者の方面は書きませんでした。あの当時もしも書けば私はとっくに獄死して、焼物を世に送ることはできなかったかもしれません85

このとき富本は、なぜ「獄死」まで意識しなければならなかったのであろうか。推測するにそれには、帰国した年(一九一〇年)の五月二五日の宮下太吉の逮捕から、執筆しているこの年(一九一一年)の一月二四日の男性一一名の死刑執行と翌二五日の女性一名の死刑執行へと展開していった大逆事件が大きく陰を投げかけていたものと思われる。

周知のように、『平民新聞』などにみられた反戦や非戦の論調に耳を傾けることなく、対露軍事行動の開始が御前会議で決定されると、一九〇四(明治三七)年二月一一日の紀元節の日に国民へ公表することを意図して、前日の一〇日に宣戦が布告された。こうして日本は日露戦争への道を邁進することになる。そして、一九一〇(明治四三)年、架空の「天皇暗殺計画」の容疑により社会主義者や無政府主義者の二六人が逮捕され、一九一一(明治四四)年一月一八日に逮捕者全員に有罪の判決が言い渡されたのち、『平民新聞』を創刊した幸徳伝次郎(秋水)や管野スガを含む一二人に対して、大逆罪での死刑がすべて執行されたのが、そのわずか一週間後のことであった。日露戦争とこの大逆事件は決して無関係ではない。韓国の保全が日露戦争のひとつの名目であったわけであるが、その戦いに勝利するや、日本は韓国の政治的経済的支配を着実に進めていく。これに対する韓国国民の怒りが、安重根による一九〇九(明治四二)年一〇月の伊藤博文の暗殺へとつながっていった。安重根は翌年三月、旅順において死刑が執行され、一方国内にあっては、日韓併合に至る侵略行為が阻まれることを恐れ、社会主義者や無政府主義者の根絶が企てられることになる。おおよそこれが、大逆事件へと至る過程である。

こうしてみると、日露戦争が開始された年に富本は週刊『平民新聞』をとおしてモリスに出会い、その後美術学校で学生生活を送るも、卒業を待たずして主としてモリス研究のために英国へ渡り、そして帰国の少し前から、東京に滞在しているさなかにかけて、大逆事件は起こったことになる。この間の富本の政治的信条がどのようなものであったのかについては、資料が不足しているためその全容を必ずしも明確にすることはできない。ただ、週刊『平民新聞』をとおしてモリスの社会主義の一端に触れていること、学生時代には、日露戦争反対の意志表示とも受け止められる「亡国の会」と書き記された自製絵はがきを郡山中学校時代の恩師に送っていること、そして、英国留学を急いだ要因に「徴兵の関係があった」ことなどを考え合わせると、このとき起こった大逆事件は、富本の政治的信条に少なからぬ衝撃を与えたものと思われる。この間、大沢三之助や岩村透、古宇田実のような美術学校の教授たちに対して強い反感が向けられたことも、また、東京滞在をきっぱりと切り上げ、展覧会が終わるやこの年(一九一一年)の五月はじめに、「肩をすぼめて」大和へ帰郷したことも、ひょっとしたら、それは公然と誰とでも論議できるような性格のものではなかったにしても、この大逆事件を巡る富本の思いと何か関係があったのかもしれない。つまり、リーチのいう「高圧的な官僚主義的芸術」をさらに超えて「狡猾な国家主義的芸術」ないしは「偏狭な愛国主義的芸術」への強烈な嫌悪が、また一方で、この事件を無視するかのような東京の華美なる喧騒への苛立ちと不満が、すでにこのときまでに、表からは見ることのできない富本の深い精神的谷底にあって着実に形成されていたのではないだろうか。

一方、帰国後の富本が東京での活動を開始しようとしていた、前年(一九一〇年)の九月一六日から翌月の四日にかけて、『東京朝日新聞』は、「危険なる洋書」を連載し、自然主義や社会主義が伝統的な道徳や習慣に反する破壊思想であるとの立場から、「危険なる洋書」を取り上げ批判と攻撃をしていく。この連載で断罪されたのは、たとえば、モーパッサン、イプセン、ニーチェ、オスカー・ワイルド、ゾラ、クロポトキンなどで、それを紹介したり模倣したりしていた日本の文学者が標的とされた。そうした文学の危機的状況を見過ごすことができなかった森鴎外は、反発と皮肉を込めて、『三田文学』(一一月号)に短編の寓意小説『沈黙の塔』を発表し、そのなかで、「外國語を敎へられてゐるので、段々西洋の書物を讀むやうになつた」86パアシイ族のなかの少壮者たちが、そのような自然主義と社会主義との「危険なる洋書」を読んだがゆえに殺され、「沈黙の塔」に運ばれる姿を描くのである。以下は、その結びの一節である。

 藝術も學問も、パアシイ族の因襲の目からは、危険に見える筈である。なぜといふに、どこの國、いつの世でも、新しい道を歩いて行く人の背後には、必ず反動者の群がゐて隙を窺つてゐる。そして或る機會に起つて迫害を加へる。只口實丈が國により時代によつて變る。危険なる洋書も其口實に過ぎないのであつた。
 アラバア・ヒルの沈黙の塔の上で、鵜のうたげが酣である87

富本はこの『沈黙の塔』を読んでいたであろうか。それはわからない88。しかし、「獄死」を意識し、評伝「ウイリアム・モリスの話」のなかでモリスの社会主義への言及を意図的に放棄して「沈黙」したことから推量すると、第一二章に「社会主義」をもつ、このエイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』が「危険なる洋書」に相当するのではないかとそのとき富本が判断したとしても、何も不思議ではない。事実、この評伝「ウイリアム・モリスの話」において、それがヴァランスの『ウィリアム・モリス』を底本に成り立っていることについて、富本はひとことも触れていないのである。

それでは、『ウィリアム・モリス』の「第一二章 社会主義」は、どのような立場から記述され、どのような内容をもつものであったのであろうか。この章は、晩年のモリスが政治運動の場とした社会民主連盟とそれに続く社会主義同盟での彼の活動について、その概略が記述されている。モリスの死後、モリスの生涯の友人であったバーン=ジョウンズ夫妻は、古典学者であった娘婿のJ・W・マッケイルに公式伝記の執筆を依頼した。一方、ヴァランスは、モリスの生前より伝記を書くことを熱望し、準備を進めていた。そこで、ヴァランスの伝記がどのようなものになるのかを心配した、つまりモリスの私的側面が興味本位に描かれることを恐れたバーン=ジョウンズ夫妻は、副題にあるようなそれぞれの活動領域に限ってのひとつの記録としてまとめるようにヴァランスに求め、記述内容に制限を加えたものと思われる。そのような上梓するにあたっての事情が介在していたために、この「第一二章 社会主義」も、モリスの社会主義的言説、とくに社会民主連盟の機関誌『ジャスティス』と社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』のなかにおけるモリスの言説を断片的に引用でつなぎ合わせるかたちで、逆にいえば、モリスの社会主義に関しての分析も論評もほとんど行なわれることなく、極めて機械的に、したがってある意味では極めて客観的に構成されているのである。

こうした性格を背景にもつ「第一二章 社会主義」を、富本はどのように読み進めたであろうか。ここで想起しなければならないことは、すでに富本は『平民新聞』のなかの記事「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」とモリスのユートピア・ロマンス「理想郷」の抄訳を間違いなく読んでいたということである。このことを念頭に置いて、この「第一二章 社会主義」を読んでみると、次に引用する一文が、すぐさま富本の目をとらえたのではあるまいか。

彼の芸術と彼の社会主義は、モリスの考えによれば、一方が一方にとって不可欠なものとして結び付くものであった。いやむしろ、単にひとつの事柄のふたつの側面にしかすぎなかった89

モリスの考えるところによれば、社会主義を欠いた芸術もなければ、芸術を欠いた社会主義もなく、両者はまさしく、コインの裏表のような一体化された関係のうちに認められうる存在であった。このような知見を得て、六年前に読んだ『平民新聞』において紹介されていた美術家としてのモリスと社会主義者としてのモリス――このふたつの側面が、富本のうちにあってこのとき結び付けられることになったのではないだろうか。さらに『平民新聞』とのかかわりでいえば、枯川生(堺利彦)訳による「理想郷」の原著が、いかなる背景と文脈にあってモリスが執筆したものであったのかについても、おそらく理解が進んだものと思われる。

それでは、モリスの社会主義とは何であったのか。ヴァランスは、「第一二章 社会主義」のなかで、『ジャスティス』のなかのモリスの言葉を引用して、こう紹介していた。

『ジャスティス』の編集者の求めに答えて、一八九四年に彼[モリス]はこう書いている。「はじめに私は、社会主義者であるということに関して私がいわんとするところをお話します。というのも、社会主義者という言葉は、一〇年前に指し示していた内容に比べ、もはやそれ以上に厳密かつ正確に言い表わせないということに気づいているからです。さて、社会主義という言葉でもって私がいおうとしているのは、あるひとつの社会状況についてです。その社会にあっては、要するに、富める人と貧しい人が存在すべきではありませんし、また主人とその下僕も、怠け者と過度の働き者も、さらには、脳が病んでいる頭脳労働者と心が病んでいる手工従事者も、存在すべきではありません。その社会では、すべての人間が、平等なる状況のもとに生きていると思われますし、物事は浪費されるようなことなく取り扱われていると思います。ひとりの人にとっての苦痛はすべての人にとっての苦痛を意味するであろうことを十分に意識しながら。つまりは、〈 公共の幸福 コモンウェルス 〉という言葉の意味の最終的な達成なのです」90

これを読んだとき、富本は何を考えたであろうか。もちろん、これを明らかにする資料は残されていない。

モリスは、「芸術の原理」を「社会の原理」に重ね合わせることを要求した。芸術的製作と社会的生産が分離し別個に存在する状況を否定し、それが一体となりうる新世界を理想に描き、その現実化のための運動へと実践的に自己を向かわせた。「芸術の原理」が単に「芸術の原理」に止まらないところに、モリス思想の特質はあった。こうした社会主義は、ロマンティックなものというよりも、むしろ極めてラディカルなものであったといえるであろう。モリスは、中世社会の製作的=生産的行為にみられるような、つくる喜びとしての労働の所産を真の芸術とみなし、そうした芸術を万人が等しく手に入れることができる社会を説き、そのために、その理想の実現を阻んでいる現行の資本主義体制を変革し、それに取って代わる新しい社会組織を生み出す戦いに挑んだ。そのような意味でモリスは、当時の体制のなかにあって、労働の充足感からかけ離れた分業と機械による生産品も、また裕福な少数者のみが享受可能な美術品も、真の芸術と呼ぶことはなかった。

しかし、こうしたモリスの芸術と社会主義を巡る考えは、この『ウィリアム・モリス』の「第一二章 社会主義」に直接書かれているわけではなく、またこの章は、上述のとおり、モリスの言説が部分的に引用されながら、社会民主連盟から社会主義同盟へと至るモリスの政治活動の過程が主として描写されていたこともあって、その行間に漂うものをうまく察知したとしても、その全体像をこの時点で富本がどの程度まで把握していたかについては、それを直接例証するにふさわしい資料はなく、明らかにすることはできない。その一方で、たとえば上に引用したようなモリスの社会主義に関する幾つかの見解を、そのまま訳して紹介するには、そのときの日本の政治状況に照らして危険すぎると富本は判断し、執筆を躊躇したことも事実である。そう考えると、モリスの社会主義に関する富本の理解の深度は必ずしも明瞭ではないものの、それを公表することには、このとき極めて慎重な態度を富本は示したということになる。

しかし、モリスの社会主義に言及することを避け、美術家としてのモリスに限定したとはいえ、それでも、モリスについて富本は 実際に ・・・ 書いた。『平民新聞』においてすでに紹介されていた事情からして、モリスが社会主義者であることを官憲が知りえる立場にあったことは、富本も理解していたであろうし、また、堺利彦がそのとき投獄されたことについても『平民新聞』の記事をとおしておそらく知っていたであろう。というのも、モリスの「理想郷」の訳載が終わると、次の号(四月二四日付の二四号)に堺は、「花見には少し後れたれど、小生は本日[四月二一日]より二箇月の間、面白き『理想郷』に入りて休養致します。……いざさらば!諸君願はくば健在なれ、小生も必ず無事で歸つて來ます」91と、書き記していたからである。したがって、モリスを書くことには、それなりの大きな危険性が伴っていたにちがいなかった。そうした危険性を押してまで、なぜこの段階で富本は、日本にあってはいまだ全く無名に等しい美術家モリスを取り上げ、あえて紹介しなければならなかったのであろうか。考えられうる理由は、次の二点に絞られる。

まずひとつは、英国留学を終えて帰国した富本にとって、一般によく認知されている画家や彫刻家としてではなく、工芸家として出発するにあたって、敬愛するモリスを事例に引きながら自らの拠って立つ立場をどうしても明確にし、それを周りの人びとに理解してもらいたいという思いがあったのではないだろうか。この評伝「ウイリアム・モリスの話」の最後の結論部分に、そのことがよく現われている。以下は、「序章」における引用と同文である。

「作家の個性の面白味」とか「永久な美くしいもの」は只繒や彫刻にばかりの物でなく織物にも金屬性の用具にも凡ての工藝品と云ふものにも認めねばならぬ事であります、モリスは此の事を誰れも知らぬ時にさとつた先達で又之れを實行して私共に明らかな行く可き道を示して呉れる樣な氣が致します92

このようにして、絵画や彫刻の下位に工芸が位置づけられることを否定し、同等なる別個の世界として工芸をみなし、その独自の美と個性を追求した人間としてモリスを紹介することにより、富本は自らの工芸への姿勢を明確化しようとしているのである。しかしまた一方で、この夏に法隆寺金堂の壁画を見て感動したときの記憶を思い浮かべてのことであろうが、現代の工芸品を評価するうえでの厳格な視点の存在を要求することも付け加えている。以下の引用は、上の引用に続けて書かれている一文である。

法隆寺金堂の壁畫を稱讃する私共は、又同時代の織物その他の工藝品に向つて壁畫に對した時と同じ程度の嚴格さを保つて見なければならぬと思います93

「ウイリアム・モリスの話」は、当然モリスの評伝として全文が書かれてはいるが、最後に付け加えられているこの極めて短い一文も、決して富本の気紛れな蛇足というものではなく、「法隆寺金堂内の壁畫」における彼の主張の延長として見逃してはならないだろう。ここにも、この時期における、西洋と東洋への富本の複眼的視野が感じられるからである。

一方、「ウイリアム・モリスの話」がこの時期に書かれなければならなかったもうひとつの理由についてであるが、この執筆には、東京で受けた失意のなかにあって、無知とも無神経とも思える東京の美術批評の世界に一矢を浴びせたいという富本の隠れた意図が含まれていたのではあるまいか。たとえば、岩村透に関していえば、どうだろう。高村豊周は、こう回想している。「第一その時分、大正四年頃に、こういっては悪いが、[美術学校の]工芸科の先生でウィリアム・モーリスの名前を知っている先生はいなかったのではないかと思う」94。そうしたなかにあって、富本の「ウイリアム・モリスの話」を読んだ岩村は、自分の教え子が自分の知らない世界を知っていることに、おそらくあせりを感じたものと思われる。自費で渡英を企て、帰国後、コムトン=リキットの『ウィリアム・モリス――詩人、工芸家、社会改革者』を底本とする「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」が巻頭に所収された岩村の『美術と社會』(趣味叢書第十二篇)が、趣味叢書発行所から上梓されるのは、富本の「ウイリアム・モリスの話」から遅れて三年後の一九一五(大正四年)のことであった。そして、モリスの社会主義に触れたことが直接の原因であったかどうかは別にしても、また、それが適切なモリスの社会主義紹介になっていたかは置くとしても、最終的に岩村は、翌年の一九一六(大正五)年三月に、東京美術学校教授を解職されるのである。

以上に述べたようなふたつの理由があったからこそ、ある程度の危険を覚悟せざるを得なかったにもかかわらず、どうしてもこの時期に、モリスについて富本は書き記さなければならなかったものと思われる。

しかし、帰朝報告という意味においては、本当は帰国後すぐにでも富本は筆を取りたかったのではないだろうか。ところが、すでに詳述したように社会状況が許さなかった。一九一〇(明治四三)年五月二五日、大逆事件の発端として宮下太吉逮捕。六月一五日、富本イギリスから帰国。九月一六日から『東京朝日新聞』が「危険なる洋書」を連載。一二月一〇日、大審院において二六名の逮捕者について裁判開始。年が明けて一九一一(明治四四)年一月一八日、判決言い渡し。一月二四日、一一名の男性死刑執行。翌二五日、一名の女性死刑執行。そして、その一週間後の二月一日付の南に宛てた書簡のなかで、富本は次のように述べるのである。

明治の今は僕等を苦しめる様に出来 ママ て居る時代とも考へられる95

富本にとってこの時代は、イギリスで調べてきたモリスのことを書くに書けない、受難の時代であった。それでも富本は、それから約一年ほどの時間を置き、その年(一九一一年)の暮れか、年が明けた一九一二年の正月ころまでには、この「ウイリアム・モリスの話」を脱稿した。おそらくそのとき、祈るような気持ちで、『美術新報』の画報社へその原稿を送ったのではないだろうか。一九一二年(明治四五)年の一月一二日付の南に宛てた手紙の冒頭で、括弧を使って強調するかのように、「モリスの話は二月号に出るそうだ」96と、書いている。

六.ふたりのはじめての出会い

しかしこの手紙にも、相変わらず結婚話がうまく進まないことに起因する苦悩の跡が漂っていた。富本は、行き場をなくした、そして満たされることのない日々を引きずりながら、年を越していた。

君の嫁は未だかと云ふ手紙を正月になってから充分澤山受け取ったが話は今混線中でナカナカらしい。今では僕もナカナカの事を望む様になった。東京へ出ずにゼイタクをやらなければ一年に千や千五百円はセーブ出来 ママ そうだ。二[、]三年たてば又厭やな西洋か暑い印度へでも出かけるかも知れぬ。
僕は出かけたく無くても僕の周囲と僕に先祖が呉れたハシタ金がソウ云ふ運命を僕にあたえるらしい。然し考へて見ると暗い處で氷のカケを首すぢにさし込まれた様な気がする。ホントウの画室を建てないのも嫁話を混線させて居るのも此れが理由かも知れない97

そしてさらにこの手紙で富本は、「私信徃復」が掲載された『白樺』一月号が届いたことに触れ、「白樺社から正月号をもらった。自分共両人の手紙だが面白いと考えた」98と、伝えている。そして続けて、「清宮と云ふ人が若し来れば面白かろふと考へる。先年末大阪の知らない人から手紙が来て僕を新報で知って居ると云ふて来た。それがふ思議に一度遭った親類の又親類の人だった」99とも述べており、どうやら前年の年末までには、南は清宮という人物を手紙で富本に紹介していたようである。たぶん白樺の展覧会か何かで、南は画家である、おそらく清宮彬と知り合っていたのであろう。それから一〇日後の手紙で、富本は、「入道[白滝幾之助]は一昨日来て二晩とまって大阪へ歸って行った。清宮君も同先月半分画室で遊むで行った。ゴーガンが好きらしい此の人が折角大阪から来て僕の薄い弱い様な水彩を見て此の人談ず可からずと云ふ風が見えた。遠い處を気の毒の様に思はれた」100と、南に清宮の来訪について報告している。

こうしたなか、『白樺』正月号に掲載されていた南の「私信徃復」を読んだ一枝は、清宮と一枝のつながりは不明なものの、おそらく清宮から一方の相手が富本であることを聞き、関心をもった一枝は、富本への橋渡しを相談したものと推量される。

一枝がはじめて安堵村に憲吉を訪ねたのは、この一月二二日付の南に宛てた手紙がしたためられて約三週間が立った、二月一一日か一二日かのそのころのことであった。この時期は、上述のとおり、仕事と結婚を巡る憲吉の深い苦悩の時期と重なる。

一方、一枝の置かれていたそのときの状況は、こうであった。らいてうが記憶するところによれば、青鞜社への入社を許諾する、当時親元の大阪に滞在していた一枝に宛てた手紙のなかで、「あなたは絵を勉強していられるそうですが、一つ『青鞜』の素晴らしい表紙を描いてみる気はありませんか。いいものが出来れば、今のをいつでも取り替えます」101と、書き添えていた。青鞜社への入社が許されたことに加え、何にも増してこの言葉は、らいてうを敬愛する一枝の一途な心を大きく揺り動かしたことであろう。そのとき一枝は、このらいてうの期待に応えようと必死の思いに駆られたのではないだろうか。「私信徃復」の返信の書き手が富本憲吉であることを知ると、一枝は居ても立ってもおられず、さっそく清宮に仲介の労を依頼し、その人物に会って作品の閲覧を求めようとしたにちがいない。そのいきさつについて、晩年一枝は次のように回顧している。

私は、本当に絵で立つ決心をしまして、法隆寺の壁画を勉強するため、ひとりで奈良へ行ったんです。ちょうど、その頃、英国の留学から帰った人で木版を彫る人が近くに住んでいるということを聞きましたので、清宮さんという方を介して訪ねてみたんです。それが富本だったわけです。当時、私は『青鞜』の表紙など描かされそれがたまたま木版刷りだったものですから、教えてもらうために一人でたのみに行きました102

一枝は、面会を求めるはがきを憲吉に宛てて書いたものと思われる。しかし、そのはがきは残っていないものの、それに対する一九一二(明治四五)年二月八日の消印をもつ憲吉から一枝へ宛てられた返信は残されており、そこには、次のようなことが書き記されていた。

御端書ありがたく拝見。別に何にと申して、御覧に入れる様なものも有りませむが、御かまいなひ無くば何日にても、御来駕を待ちます。なるべく早く。法隆寺駅で、車夫に安堵の富本と云へば、解ります。朝なら大抵、拾一時頃迄、寝て居ます。不一103

一枝は、法隆寺駅を降りると、約半里の一筋の道を人力車で運ばれ、古風な富本家の門前に降り立ったものと思われる。駅から門前に至る車からの眺めは、いかようなものであっただろうか。以下は、それから約半年後の夏に『美術新報』の坂井犀水が安堵村を訪ねたときの描写である。季節とおそらく時間帯は異なるが、一枝の目に映った風景も、おおかたこのようなものだったのではないだろうか。

暗紫色に次第に暮れんとする山々、吹く風も靑く薫る稻田、菱や萍の浮く池、森に包まれたる村、そを隠見する白壁の瓦屋……村に入る毎に、此村か此村かと思ふ内に、そを過ぎて又他の村に入る、かく幾つかの村々を過ぎて、車はとある村の細い路を入つて奥の行詰りに、大きな溝を前にした、大きな門の前に止まつた。門側に古雅な庭樹の梢が、一種の風致を添へて居る104

門前に降り立つと、おそらく離れの座敷に通されたものと思われる。その座敷は、「二方が外庭に、一方は中庭に面していた……[中庭には]大きな芭蕉の木が三株、互に明るい廣い緑の葉を打交はして、それが暗い軒先に迫つて來てゐる」105。そして一枝は室内を見渡したであろう。以下の描写は、一枝が訪れる約半年前のものであるが、このときの室内の様子もこれに近いものだったかもしれない。

室は苔深き處に、飛石石燈籠をおきたる關西風の庭に、北向の八疊にて、西側に一間の本床、連りて一段高き半間板張りの別床を取り、床に沿ふて五六百年前の製作と思はるゝ春日卓の中央に、テラカタ人形(パリ製模古)を置き、正面本床に二尺角位のマルセーユ博物館内ビユビイス・ド・シヤバンヌ作の堅畫の寫眞を、直線よりなる金の額に入れてかけ、別床には小生自彫の木版「雲」を同形の額にてかけ申し候106

はじめてのこの面会において、ふたりは何を語り合っただろうか。それを再現するにふさわしい資料は残されていない。しかし、ふたりの置かれている当時の前後の状況から推量すると、まず一枝は、『青鞜』の表紙絵について語り、憲吉は、一枝の求めに応じて作品の幾つかを並べて見せ、木版の手ほどきをしたものと思われる。それが終わると憲吉は、ロンドン時代の思い出や帰国後の鬱積した心情を、おそらく取り留めもなく、しかし情熱を込めて語ったであろう。そして、『美術新報』二月号に掲載された評伝「ウイリアム・モリスの話(上)」を紹介しながら、昨年末自分の「図案を下女が毎晩ヨナベに」107やった刺繍についても話したのではないだろうか。一方一枝は、本当は声楽を学びたかったものの、父親と叔父の尾竹竹坡の意向もあって当時本郷菊坂にあった女子美術学校(現在の女子美術大学)で日本画の勉強をした経験を語り、続けて近況として、青鞜社への入社が認められ、近いうちに上京するつもりであることや『青鞜』三月号のために「最終の霊の梵鐘に」と題した小文と詩をちょうど書き終えたこと、さらに加えて、巽画会の第一二回展覧会に出品する予定であることなどを話したにちがいない。話が弾むと、日本画家の川端玉章のことがふたりをつなぐ共通の話題としてのぼった可能性もある。というのは、直接的にも間接的にも、富本は東京美術学校時代に、かたや一枝は、女子美術学校でこの川端玉章に日本画を教わっていたからである。しかしながらふたりとも、玉章についてはその当時あまりいい印象をもっていなかったものと思われる。のちに憲吉は、「あるとき『ちょっと起て』といって、私のいすに腰掛け、自ら筆をとって一気に一枚の絵を描いてくれた。そんなことは、めったにしない人なのである。それほどにしてくれても、私は先生の絵は少しも好きでなく、内心『こんな絵なんか描くもんか』と思っていたのである」108と、回想しているし、一枝は一枝で、「毎日、日本畫の敎室に出て[当時女子美術学校の日本画の主任を務めていた]川端玉章のお弟子だといふ何とか紫川という老人の敎師から水墨のつけたての手本を與へられ、墨をふくんだ筆をとつて秋月と葛の葉、すゞめと稻穂、竹、欄、岩、石、そんなものを習はねばならなかつたことがどんなにせつなくつまらなかったか」109と、述懐しているからである。そして、ふたりの共通の話題は、やはり『白樺』一月号の「私信徃復」へと移っていき、往信の書き手である南のことも、そのとき話題になったかもしれない。もしそうであったとすれば、南が計画していた「画室の plan を拝見した」110ことや、それに対して「参考になるかも知らぬから荒い plan をかく」111といって、構想中の自分自身の画室の見取り図【図二一】を書き送ったことなど、最近南と交わした手紙の内容について触れたことであろう。大和へ引きこもって以来、身近に話し相手がいなかった憲吉は、おそらく興奮と感激のあまり、時が立つのを忘れて、しゃべり続けていったものと思われる。

さらに一枝は、その日の帰り道の出来事についても回想している。「帰りには、わざわざ私を大阪まで送って来てくれたんですが、そのとき、印度のガンジス川にいた洗濯女からもらったものだという、美しい石の指輪を、富本は私にくれました。ずいぶん、セッカチな話なんですが、一目惚れとでも言うんでしょうか…」112。これが一枝の記憶違いでないとすれば、驚くことに、はじめて会ったその日のうちに憲吉は一枝に対して愛の告白とも受け止めることができる「美しい石の指輪」をプレゼントしているのである。一方的な思いからであったかもしれないが、憲吉にとっては、確かにこのプレゼントは一枝へのプロポーズを意味し、これでもって「印度以来の指輪の落ち付き處がはッきり」したという、今後の行方は不透明ながらも、一種の賭けにも似た、自分を曝け出したときに伴う安堵の気持ちをこのとき憲吉は体感したのではあるまいか。

大阪へ帰宅すると、すぐにも一枝は憲吉にお礼の手紙を書いたにちがいない。その手紙は残されていないが、それに対する憲吉の返信は以下のようなものであった。日付は、一九一二(明治四五)年二月一五日となっている。

御手紙ありがたく拝見いたしました。
何むと云ふ理由か知りませむが、近頃私の神経が追々と、ガサガサに成って行く様に思はれます。特に此の四、五日はヒドイ頂点でした。
御出でになった時、何にを申し上げたか、何う云ふ物を御覧に入れたか、一切、只今から考へてわかりませむ。或は無礼な事がありはせむかと心配致しました。
御手紙の通りにマダマダ申し上げても申し上げても、云ひ切れぬ事が沢山あります。……113

憲吉が数日前の一枝の来訪を、不安定な精神状態のなか夢中になって受け入れていたことは、この文面からも明らかであろう。さらにその日、指輪をプレゼントしていることから判断して、憲吉の暗澹たる心の闇に一条の光が差し込んだのではないかと察することも、十分にできよう。憲吉にしてみれば、もっと多くを一枝に伝えたかったし、それをとおしてもっと自分を理解してもらいたかったであろう。そうした憲吉の切なる気持ちがこのとき一枝に伝わったかどうかはわからないが、少なくともそれを受け止めるだけの余裕はもはやなく、一枝の気持ちは、何ものにも代えがたい東京の待つ自由へとすでに向かっていたようである。憲吉二五歳、一枝一八歳の早春というにはまだ少し早い明治末年二月の安堵村での出来事であった。

(二〇〇八年)

第一部 第一章 図版

(1)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、85頁。

(2)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(3)南薫造「私信徃復」『白樺』第3巻第1号、1912年1月、65-66頁。

(4)同「私信徃復」、67-68頁。

(5)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, pp. 113-114.[リーチ『東と西を越えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、123頁を参照]

(6)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、29頁。

(7)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、183-188頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載。]

(8)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。

(9)『平民新聞』第41号、1904(明治37)年8月21日(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、335頁)における、この写真についての説明文は、次のとおりである。「五頁のは樓上の編輯局、一方が幸徳と神崎、一方が堺、石川、西川、柿内それから本箱の上の大きな額はカルル、マルクス、其前に立てゝあるのは井リアム、モリス、眞中のはゾラ、どうぞ是れにて我々の事業と生活とを想像して下さい」。

(10)村井知至『社會主義』(第3版)労働新聞社、1903年、43-44頁。なお、本稿において参照したのは、1903年刊行の第3版であるが、『社會主義』は、この第3版をもって発行禁止になったようである。1899年に刊行された初版は、以下の書物において復刻、所収されている。『社会主義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集 第Ⅳ期 キリスト教と社会・国家篇)日本図書センター、2004年。

(11)この記事は、二重かぎ括弧で括られており、記事のあとに、次のような注釈が加えられている。「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主義』中に記せし所を摘載せしもの也、以てウヰリアム、モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、33頁)。

(12)『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、33頁。

(13)ヰリアム、モリス原著『理想郷』堺枯川抄譯、平民社、1904年。そのなかの広告文で、『理想郷』については、ベラミーの『百年後の新社會』と比較して、次のように書かれている。「此書は英國井リアム、モリス氏の名著『ニュース、フロム、ノーホエア』を抄譯したるものであります。[同じく平民文庫菊版五銭本の]ベラミーの『新社會』は經濟的で、組織的で、社會主義的でありますが、モリスの『理想郷』は詩的で、美的で、無政府主義的であります。此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣として我等の眼前に浮かぶであらう。卅七年一二月初版二千部發行」。

(14)前掲座談会「富本憲吉の五十年」、同頁。

(15)富本憲吉が文庫において目を通したであろうと思われる『ザ・ステューディオ』のなかのモリス関連の記事、および、モリス関連の書物については、以下の拙論のなかで詳しく論じている。中山修一「富本憲吉の英国留学以前――ウィリアム・モリスへの関心形成の過程」『表現文化研究』第6巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2006年、35-68頁。

(16)『毎日グラフ』4月25日号、毎日新聞社、1982年、7頁。

(17)『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第二巻』ぎょうせい、1992年、309、315および333頁。

(18)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。口述されたのは、1956年。

(19)前掲『私の履歴書』(文化人6)、198頁。

(20)富本憲吉「六代乾山とリーチのこと」『茶わん』第4巻第1号、63頁。

(21)Bernard Leach, op. cit., p. 37.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、16頁を参照]

(22)Ibid., p. 16.[同『東と西を越えて――自伝的回想』、37-38頁を参照]

(23)富本憲吉の英国留学については、以下のふたつの拙論のなかで詳しく論じている。中山修一「一九〇九-一〇年のロンドンにおける富本憲吉(Ⅰ)――ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館におけるウィリアム・モリス研究」『表現文化研究』第7巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2007年、27-58頁、および、中山修一「一九〇九-一〇年のロンドンにおける富本憲吉(Ⅱ)――ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と中央美術・工芸学校での学習、下宿生活、そしてエジプトとインドへの調査旅行」『表現文化研究』第7巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2007年、59-88頁。

(24)前掲「六代乾山とリーチのこと」、64-65頁。

(25)Bernard Leach, op. cit., pp. 53-54.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、37-38頁を参照]

(26)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、12-13頁。

(27)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、14頁。

(28)前掲座談会「富本憲吉の五十年」、7頁。

(29)Bernard Leach, op. cit., p. 55.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、39頁を参照]

(30)前掲「六代乾山とリーチのこと」、65頁。

(31)Bernard Leach, op. cit., p. 55.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、39頁を参照]

(32)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、16頁。

(33)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(34)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、17頁。

(35)「本誌主催小品展覧會に就いて」『美術新報』第10巻第6号、1911年4月、199頁。

(36)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、18頁。

(37)Bernard Leach, op. cit., p. 64.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、51頁を参照]

(38)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、19頁。

(39)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、6-7頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分の算用数字によるノンブル)。

(40)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、6頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分の算用数字によるノンブル)。

(41)Bernard Leach, op. cit., p. 65.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、55頁を参照]

(42)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、23頁。

(43)森田亀之輔「本誌主催 新進作家小品展覧會 展覧會の成立に就いて」『美術新報』第10巻第7号、1911年5月、208頁。

(44)同「本誌主催 新進作家小品展覧會 展覧會の成立に就いて」、211頁。

(45)高村豊周『自画像』中央公論美術出版、1968年、125頁。

(46)同『自画像』、同頁。

(47)Bernard Leach, op. cit., p. 64.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、同頁を参照]

(48)Ibid., p. 65.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、同頁を参照]

(49)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、20頁。

(50)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、22頁。

(51)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、23頁。

(52)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、8頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(53)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、10頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(54)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、11頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(55)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、13頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(56)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、14頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(57)Bernard Leach, op. cit., p. 66.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、57頁を参照]。しかしながら、バーナード・リーチのモリスに対するこのときの認識は、極めて表層的なものであったのではなかろうか。一九一六年から二〇年ころにおいてさえも、リーチの認識は以下のようなものであった。「産業革命の影響に対する反動として、ウィリアム・モリスの指導のもとに、芸術家=工芸家の技能がイギリスに誕生した社会的必要性には、その段階において私たち[富本、浜田、そして私]は全く気づいてさえおりませんでしたし、来るべきヨーロッパの工芸運動についても本当に少ししか、あるいは全く知らなかったのであります。私たちは、陶器を造りたいがために造っておりました」(Ibid., p. 128.[同『東と西を越えて――自伝的回想』、145頁を参照])。しかしこの言説は、リーチ自身にはあてはまるとしても、少なくとも富本にはあてはまらない。というのも、すでに一九一二年に富本は、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を底本として、評伝「ウイリアム・モリスの話」を『美術新報』に発表していたわけであり、そのことを想起するならば、「産業革命の影響に対する反動として、ウィリアム・モリスの指導のもとに、芸術家=工芸家の技能がイギリスに誕生した社会的必要性」についての理解は、この段階でリーチよりは富本の方が、はるかに進んでいたものと思われるからである。

(58)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(59)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(60)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、15頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(61)前掲『週刊平民新聞』、521頁。

(62)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、25頁。

(63)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(64)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、27頁。

(65)富本憲吉「室内装飾漫言」『美術新報』第10巻第10号、1911年、328頁。

(66)同「室内装飾漫言」、同頁。

(67)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、30頁。

(68)富本憲吉「法隆寺金堂内の壁畫」『美術新報』第10巻第11号、1911年、347頁。

(69)Bernard Leach, op. cit., p. 113.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、122-123頁を参照]。バーナード・リーチの来訪について富本は、南薫造に宛てた一九一一(明治四四)年八月七日付の書簡のなかで、「手紙を書かふと思ふ中に箱根からリーチがやって来て一週間僕の家に居た。今法隆寺驛迠送って来た處」(前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、30頁)と書いており、リーチが富本本人に結婚について問いただしたのは、富本が置かれている前後の状況から判断して、この来訪のときであったと思われる。ただし、翌年の四月七日付の同じく南に宛てた書簡には、「そこへリーチ夫妻が小児をつれて僕の家へ来た。そのセッタイに拾日ほど暮れた。二日前……リーチは……東京へかへった」(同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、49頁)とあり、したがって、本文に引用しているリーチの回想が、そのとき(翌年の二回目の訪問のとき)のものであった可能性も、全くないわけではない。

(70)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、33頁。

(71)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、35頁。

(72)「私信徃復」のなかの返信「友よりの返事」において、富本は、「兎に角く早やく大和へ歸るのが利益であると考へながらエツチングのやり方を敎はり度いばかりに少し延びた」(前掲「私信徃復」、67頁)と書いており、また、「白樺展覧會の話が聞き度いものだ」(68頁)ともいっている。このことから、このときの東京滞在中に富本は、リーチからエッチングの手ほどきを受けて作品を完成させると、白樺主催の洋画展覧会への搬入の代行をリーチに依頼し、そのまま大和へ帰郷したものと推量される。『美術新報』第11巻第1号(1911年11月)の白樺の広告のなかで、11月1日から12日まで赤坂区霊南坂下の三会堂でこの展覧会が開催されことが予告され、出品予定者として、バーナード・リーチ、南薫造、富本憲吉を含む19人の名前が記載されている。

(73)前掲「私の履歴書」、186頁。

(74)前掲「私信徃復」、66頁。

(75)同「私信徃復」、68頁。

(76)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、39頁。

(77)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(78)当時の富本憲吉と岩村透の関係については、以下の拙論のなかで詳しく論じている。中山修一「岩村透の『ウイリアム、モリスと趣味的社會主義』を再読する」『デザイン史学』第4号、デザイン史学研究会、2006年、63-97頁。

(79)来日したてのバーナード・リーチが自宅を開放して行なったエッチング教室について、のちに兒島喜久雄が次の小論のなかで追憶している。兒島喜久雄「入門の思出」、式場隆三郎編『バーナード・リーチ』建設社、1934年、387-392頁。

(80)兒島喜久雄『希臘の鋏』道統社、1942年、146頁。

(81)Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897. なお、富本憲吉が、1912(明治45)年の『美術新報』第11巻第4号および第5号に2回に分けて発表した「ウイリアム・モリスの話」の底本が、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』であったことについては、以下の拙論のなかで詳しく論じている。中山修一「富本憲吉の『ウイリアム・モリスの話』を再読する」『表現文化研究』第5巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2005年、31-55頁。

(82)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、41頁。

(83)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(84)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(85)前掲『色絵磁器〈富本憲吉〉』、同頁。

(86)森鴎外「沈黙の塔」『三田文学』第1巻第7号、1910年、49頁。『東京朝日新聞』に連載された「危険なる洋書」と森鴎外の「沈黙の塔」との関連については、西垣勤『近代文学の風景』(績文堂、2004年)のなかの「漱石、その時代と社会」に詳述されており、参考にさせていただいた。

(87)同『三田文学』、56頁。

(88)富本憲吉が『沈黙の塔』を読んでいたことを例証する資料は、現時点で存在しない。しかし富本は、東京美術学校に在籍していたとき、鴎外の姿だけは目にしている。自分が京都市立美術大学の学生だったころに、教授の富本本人から聞かされた回顧談の一部として、陶芸家の柳原睦夫がこう紹介しているからである。「先生の回顧談は話題豊富で、『馬で美術学校に来よったわ……』というのは森林太郎閣下(鴎外)のこと。個展見にきた島崎藤村と田山花袋の話など、私たちに明治は遠いものではありませんでした」(柳原睦夫「わが作品を墓と思われたし」『週刊 人間国宝』1号、朝日新聞東京本社、2006年、18頁)。
ところで、岩村透が、「西洋美術史」の授業を美術学校から嘱託されているのは、一八九九(明治三二)年のことであり、嘱託教員として「美学および美術史」を講じていた森林太郎(鴎外)の第一二師団(小倉)への転任に伴うものであった。富本の美術学校への入学は一九〇四(明治三七)年であるので、解任後もときどき鴎外は美術学校に顔を見せていたことになる。
本文で例証しているように、帰国後の富本は、岩村の言動に批判を募らせていく。一方、この鴎外の『沈黙の塔』は、読んでいたとすれば、富本の帰国後の心情を慰め、勇気づけるものであったにちがいない。もし仮に美術学校時代に、岩村からではなく、鴎外から美術史が教授されていたならならば、個性や独創性を巡るその後の富本の精神的葛藤は、おそらく幾分かは軽減されていたのではあるまいか。

(89)Aymer Vallance, op. cit., p. 305.

(90)Ibid., p. 310.

(91)前掲『週刊平民新聞』、196頁。

(92)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年3月、27頁。

(93)同「ウイリアム・モリスの話(下)」、同頁。

(94)前掲『自画像』、151頁。

(95)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、14頁。

(96)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、43頁。

(97)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、44頁。

(98)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、43頁。

(99)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(100)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、18頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分の算用数字によるノンブル)。

(101)前掲『元始、女性は太陽であった』、27頁。

(102)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、252-253頁。著者の尾竹親は、尾竹竹坡の次男である。一枝にとって竹坡は叔父にあたり、したがって、親と一枝はいとこ関係になる。親は、後年『尾竹竹坡伝』を執筆するに際して成城の自宅へ二度一枝を訪ねている。そのとき一枝は、憲吉との出会いについて、正確には、実はこのように親に語っている。「青鞜でのいろいろな事件のあったあと、私は、本当に絵で立つ決心をしまして、法隆寺の壁画を勉強するため、ひとりで奈良へ行ったんです。ちょうど、その頃、英国の留学から帰った人で木版を彫る人が近くに住んでいるということを聞きましたので、清宮さんという方を介して訪ねてみたんです。それが富本だったわけです。当時、私は『青鞜』の表紙など描かされそれがたまたま木版刷りだったものですから、教えてもらうために一人でたのみに行きました。『青鞜』の表紙のなかに、アダムとイヴを描いたものがありますが、あれは富本が下絵を描いてくれたものを、私が彫ったのです」。
しかし、一枝が憲吉に宛てた面会を求めるはがきは残されていないが、それに応じる憲吉の返信のはがきは残っており、その消印が一九一二(明治四五)年二月八日となっていることから判断すると、はじめて一枝が憲吉を訪問したのは、「青鞜でのいろいろな事件のあったあと」ではなく、「青鞜社への入社が認められたあと」になる。また、この回顧談の最後は、「『青鞜』の表紙のなかに、アダムとイヴを描いたものがありますが、あれは富本が下絵を描いてくれたものを、私が彫ったのです」となっている。しかし、一九一三(大正二)年の『青鞜』一月号の表紙絵から一枝の「アダムとイヴ」に差し替えられていることから判断すると、一枝は、一九一二(大正元)年の暮れに、再度安堵村に憲吉を訪ね、表紙絵の依頼をしていたことになる。
以上のふたつの事実関係を踏まえてこの回顧談を読み返すと、一枝の記憶違いか、あるいは親の聞き取り違いによるものであろうが、はじめての出会いと二度目の出会いとが混在して記述されていることがわかる。
そこで本稿では、「私は、本当に絵で立つ決心をしまして、法隆寺の壁画を勉強するため、ひとりで奈良へ行ったんです。ちょうど、その頃、英国の留学から帰った人で木版を彫る人が近くに住んでいるということを聞きましたので、清宮さんという方を介して訪ねてみたんです。それが富本だったわけです。当時、私は『青鞜』の表紙など描かされそれがたまたま木版刷りだったものですから、教えてもらうために一人でたのみに行きました」の箇所をはじめての出会いに関する回想とみなし、一方、「青鞜でのいろいろな事件のあったあと、当時、私は『青鞜』の表紙など描かされそれがたまたま木版刷りだったものですから、教えてもらうために一人でたのみに行きました。『青鞜』の表紙のなかに、アダムとイヴを描いたものがありますが、あれは富本が下絵を描いてくれたものを、私が彫ったのです」の箇所を二度目の出会いに関する部分とみなし、それぞれに分けて引用したいと思う。
次に問題になるのは、それに続く、「帰りには、わざわざ私を大阪まで送って来てくれたんですが、そのとき、印度のガンジス川にいた洗濯女からもらったものだという、美しい石の指輪を、富本は私にくれました。ずいぶん、セッカチな話なんですが、一目惚れとでも言うんでしょうか…」という回想部分についてである。「帰りには」とは、一九一二(明治四五)年二月の最初の安堵村訪問の「帰り道」なのか、それとも一九一二(大正元)年暮れの二回目の安堵村訪問の「帰り道」なのか。これも上記の理由から必ずしも判然とはしないが、本稿では、「わざわざ私を[当時住んでいた]大阪まで送って来てくれた」および「一目惚れとでも言うんでしょうか…」という、ふたつの語句に着目することによって、「帰りには」とは、はじめての出会いのときの「帰り道」であったという立場をとっている。

(103)山本茂雄「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求愛・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、73頁。

(104)坂井犀水「京都、奈良の十日(二)」『美術新報』第11巻第12号、1912年10月、412頁。

(105)北山淸太郎「奈良より(一) 安堵村の二日」『現代の洋画』第2巻第5号、1913年9月、20頁。

(106)前掲「室内装飾漫言」、同頁。

(107)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、19頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分の算用数字によるノンブル)。

(108)前掲『私の履歴書』、196頁。

(109)富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年1月、85頁。

(110)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(111)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(112)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、253頁。

(113)前掲「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求愛・結婚までの書簡集」、同頁。