著作集3 富本憲吉と一枝の近代の家族(上)

第一部 出会いから結婚まで

第二章 一枝の進路選択と青鞜社時代

一.家庭環境と少女時代

尾竹一枝は、父尾竹熊太郎、母うた【図一】の長女として、一八九三(明治二六)年四月二〇日に富山市の越前町で出生した。新潟出身の父熊太郎は長兄で越堂の画号をもち、三男染吉(竹坡)、四男亀吉(國觀)とともに、日本画の世界にあっては、尾竹三兄弟【図二】と呼ばれて一時代、とくに明治末年の前後にあって、その名を馳せることになる。

晩年一枝は、竹坡の次男の尾竹したしが『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』を執筆するに際しての聞き取りに答えるかたちで、わずかながら、越前町での幼児期についてこう回顧している。

「郵便局の柱に紐でよくつながれていたことを覚えています」越前町での思い出を、そう語る一枝だが、そのころ、少年の竹坡は、もっぱら一枝や妹の福美たちの子守をさせられていたらしい

のちに母親となった一枝は、同じ年齢に成長した娘たちに対して、就学前の自分について、「母さんがあなた方の時分は一体どうしてゐたでせう、母さんの六つのときは、まだとてもひどい赤ん坊でした。母さんの故鄕が大火事で半分燒けて仕舞ひ、母さんは死なれた大おぢいさんや大おばあさんにつれられて東京に出た年です。餘程のあまつたれで、とてもお行儀なんか惡くてだめだつたやうです」と述べている。一枝のいう「大おぢいさん」とは、自分の祖父にあたる尾竹倉松のことで、「大おばあさん」とは、祖母のイヨのことであろう。どうやら、一八九九(明治三二)年八月の富山市を襲った大火事により、一時的な疎開が必要になったのではあるまいか。このとき一枝は、両親から離れ、倉松とイヨに連れられて、東京に出ることになったらしい。

別の箇所で一枝は、自分の小学校時代について、「父の仕事の都合で、小学校三年まで、東京にいた父の祖父母に預けられていました」と、回顧している。一枝と同じ一八九三(明治二六)年生まれの子どもたちに当時適用されていた学校教育制度にあっては、一般に、六歳で小学校の尋常科(四年義務制)に入学し、次に高等科(二から四年制)に進み、さらにその後、教育に熱心で裕福な家庭の少数の娘たちは高等女学校(多くは四年制)に進学し、だいたい一六歳くらいで卒業していた。一枝が通った小学校は根岸尋常高等小学校であった。この学校は、現在の東京都台東区立根岸小学校で、一八七四(明治七)年二月に第五中学区五番小学根岸学校として開校していた。その後の明治末年までに至る発展の経緯は、次のごとくであった。

 明治二十年(一八八七年)に、今の西蔵院のうしろ、円光寺との間、今の下谷病院のあたりに新しく木造校舎をたててひっこしました。二階だての木造校舎で、広さは前の十倍になりました。
 二年ほどたって、根岸町は金杉村から分かれて、下谷区にはいりました。そして、校名も、東京市下谷区根岸尋常高等小学校にかわりました。
 その後、生徒もだんだんふえてきたので、教室をたてまししました。生徒数は、明治の終わりころには、今と同じ八〇〇~九〇〇名くらいになりました

【図三】は、一八八七(明治二〇)年に中根岸に新築された二代目の校舎である。一枝は、一九〇〇(明治三三)年四月二日にこの学校に入級し、中根岸三七番地の祖父母のもとから通いながら、この学舎で学び、一学期を過ごしたのち、二学期が終わるまでのあいだに退学している。就学後のこの時期の日々について一枝は、同じく娘たちに対して、次のような思い出を語っている。

八つの年にはどうしてゐましたらう、たしか小學校に入學してゐました。勉強についての記憶よりか、學校の春秋の運動會にいつも走りつこの一番になり、かゝへきれぬ程欲ばつて賞品をもらつた事や、學校から戻るなり、祖父さんに作つてもらつた蟬とり網の袋をもつて、近所の男の子達と上野の山や田端邊に、日の暮れ暮れまで蟬とりにでかけてゐた記憶ばかりが思ひ出されます

そして以下は、いつの時期のことかは明らかではないが、父母についての一枝の回想である。

 私の父の兩親は浄土眞宗の信者だつた。私は、天保生れの祖父から、御文章おふみさんをおそわり、文久生れの祖母から、西國三十三番順禮歌をならつた。祖母はまた、苅萱かるかや道心や安壽あんじゆ姫のあわれな物語を、天狗にさらわれる話や、狸や狐が人を化かす話と同じようにきかせてくれた。桃太郎や舌切雀では、もうつまらなくなつていた私と妹は、めそめそしながら、石童丸のそのあわれな物語に、いつまでもきき入つていたものだ10

祖父の倉松は國石の画号をもつ絵師であった。一枝が根岸尋常高等小学校に通学していたときの保護者は倉松であったが、その職業欄には「画工」と記載されていた。一方、祖母イヨのする話を一緒に聞いていた妹とは、やはり、あまり歳の離れていない次女の福美のことであっただろうか。熊太郎とうたは、生涯に九人の子どもを儲けた。しかし幼くして四人は亡くなり、またひとりは亀吉(國觀)の養女となったため、最終的には三女の三井、そして末娘の六女の貞子を含めた四人姉妹【図四】が残った。のちに福美は洋画家の安宅安五郎と、三井は日本画家の野口謙次郎と結婚し、そして貞子は、武田家から正躬を婿養子として迎え入れることになる。

越堂夫妻は遅れて上京してきたものと思われる。祖父母に預けられていた一枝の東京滞在は短く、一九〇〇(明治三三)年の秋には、一家は新天地を大阪に求めることになった。しかしながら一枝は、一九〇二(明治三五)年二月二四日に再び根岸尋常高等小学校へ転入し、そこで約一年半を過ごしたのち、一九〇三年(明治三六)年九月三〇日に退学して大阪へ再度転居している11。こうした経緯を経て、ここから一枝にとっての本格的な大阪での生活がはじまるのである。その地で一枝は、日曜日ごとに、東本願寺別院へ通わされた。

 私は子どものころ、お經を習つたことがあつた。そのいきさつは忘れたが、とにかく、日曜ごとに『正信偈和讃しようしんげわさん』と數珠をもつて、大阪の東本願寺別院に通つた。本堂にあつまつた子どもは、どの子も私と同じとし格好で、二十人ほどだつたろうか、それが二人ずつ小さな經机に膝を入れて、お坊さんがあげるお經を、おとなしくして聽いていた。お經の字を讀める子は、ひとりもいなかつた。みんなはただ、お坊さんの唱えるとおりに、“キ ミヨウ ム リヨウ ジュ ニョ ラーイー、ナームフーカーシーギーコウ”と、聲を張上げて合唱するだけだつた。それでも、いつのまにか、『正信偈和讃』を覺えてしまつた。そして母は、弟たちの命日になると、私にお經を上げさせ、そのあいだ私の傍についていて、“南無阿彌陀佛” “南無阿彌陀佛”と、低い聲で唱名しようみようしていた12

そして、毎朝のお勤めや仏事、お盆のときにも、一枝は母の仕事を手伝った。

 母の盛つた御佛飯を、毎朝佛前に供えるのも私のつとめだつた。御佛飯のおさがりは母がいただくことに決まつていた。……佛事になると、なにごとによらず、母はやかましかつた。今年は、だれだれの十三回忌、ことしは、だれそれの三十三回忌、といつて、しきたりどおりに法事を營んだ。
 私は、母といつしよに、お精霊しようりようさまに供える茄子と胡瓜の馬をこしらえたことを覺えている。お盆が近づくと、母は佛具をきれいに磨き、佛壇のすみずみまで拭つていた13

これが当時の尾竹家の信仰生活の一部であったようであるが、一方、家庭における教育は、どのようなものだったのだろうか。

 子どもの教育は母にまかされておりました。父は、その頃、美人画ですこし売り出していましたから、お金にさほど困るはずはなかったでしょうに、とったお金は、母の手もとに極く少ししか渡さず、その金で新案特許をとる品物づくりに夢中になり、やれ、沈没した軍艦の引きあげ機だ、やれ、戦車をこしらえるのだといって、家のくらしはかまわず、母はずいぶん苦労したようです。この風変りな父のおかげで、私はのびのびと育った面もあり、またその半面、母の古風な躾けで、子どもながら途方にくれるようなこともあったのです14

さらにまた、一枝はこうも記憶していた。

幼いときから、畳のへりを踏んでも叱られるし、ごはんのたべ方にしても箸の上げ下げ一つにしても、いちいちやかましくいわれてきたものです。祖先をうやまうこと、君に忠、親に孝ということ、これが第一の敎えでした。夫につかえること、忍従の敎えは徹底したものです15

娘たちに対する母親うたの厳格なしつけは、どうやら武士の家系に由来する、親から譲り受けた一種の美質だったようである。

 母の父は、越中富山藩の高祿武士だつた。廃藩のとき與えられた金祿公債を、「武士の商法」ですつかり失くし、私のうまれたころは細々としたくらしだつたらしい。それでいて、武家の格式を守ることにやかましく、子供のしつけなども嚴しかつた、ということだ16

このような母親の行なう家庭でのしつけは、具体的にはどのようなものであり、そして当時の一枝の目には、それはどのように映っていたのであろうか。

 女の子は行儀よく、ということが第一でした。身なりをかまうこと、髪の毛一本ほつれていても、母はとても気にしました。下駄の脱ぎかたもやかましく、おふろ屋行は涙が出るほどつらいことでした。アカスリ、ヌカブクロ、の順で無理矢理にひっかかえられて洗われるのがこの上なくいやだったのです。また「学校」「先生」「復習」というものが母にとってオキテでありました17

そしてこの両親の生活信条といえば――。

 学校から戻ると、まず復習です。それがすむまで、ひとやすみも許しません。母はこの世で、うそ・・ほど悪いものはないと教えました。あたたかい人の真心のありがたさについても言い続けておりました。“偉い人になるのだぞ”としか私に言わなかった父と、この母の考え方の中で、私は育っていたわけです18

そうしたなか、一九〇四(明治三七)年二月に日露戦争が起こった。一枝が満一一歳になろうとする時期であった。「宣戰が布告されたときは高等小學校に通つておりました。校長の講和のあとみんなで萬歳をとなえたものです。あのころはそろそろ天皇陛下というものは絶對のものになりはじめておりました。祖母など、御眞影を見ただけで目がつぶれるといつていましたから……私たち式のときなど、初めからおしまいまで最敬禮したままで……」19。さらに、この戦争についての一枝の記憶は続く。

私は廣瀬中佐の、旅順口の閉塞の話を校長からきいたとき緊張して顔がほてつたほどでした。小學生ですからまことに單純なもので勝てば嬉しいし負けたときけば悲しかつたのです。遼陽の會戰で日本が勝つたときなど、授業を休んで祝つたものです。堺というところにロシアから捕虜がくるというので、母はお辨當をこしらえてまだ明けきらないのに、子どもたちを連れてそこまで汽車で出かけました。……しかし、しばらくそこにいるうちに、捕虜を眺めていることが妙に白々しい思いがしてきて、こんどは、ひどく可哀想に思えてきました。行くときは勇んで行つたくせに歸りには何か割り切れない、とてもさびいし氣がしたことだけは、はつきり覺えております20

こうした体験がその後の運動と何らかの関係があったかどうかについては、一枝は「全然ありませんね」21と言明している。まだ若い一枝にとって当時の戦争は、遠い世界の出来事だったようである。

このころ一枝は、義賊に憧れていた。いとこのしたしに、こう語っている。

高等小学校のころには、さかんに義賊に憧れましてね、父に見つかると叱られるもんだから、押入れに隠れて、コッソリと鼠小僧の本などを夢中で読みました22

これは、母親から譲り受けた正義感なり、他人思いの情感なりに由来していたのかもしれない。

 母は、うそをつくことと怠けることが大嫌いだった。へつらったり、自分さえよければ人はどうなろうと平気な人間を、とりわけ好きでなかった。……
 母がつねづね子どもにきかせていたことは、情のある人、思いやりのある人になることだった。一番はずかしいことは、困った人をたすけたことをいつまでも覚えていること。それと、「人のふり見て我がふり直せ」ということだった23

一枝はまた、少女時代の父親を思い出し、次のようなエピソードを同じくしたしに語っている。

 生来の発明狂といわれた父の越堂は、大阪在住のころにも、一時自ら粉歯磨を作っては売っていたという。「金盥に歯磨粉をいっぱい入れて、かきまわしている父の姿を、よく覚えています。たしか〈大和桜〉とかいうような名でしたが、袋に桜の花模様がついていたことを記憶しています。」一枝は、当時のことをそう語ってくれた。
「そのころ、売り出しのために、私は、チンドン屋の旗を持って、街中をねり歩き、ビラを配って歩いたものです」はじめて聞く彼女の少女時代の思い出である24

「義賊的な精神」、あるいは「隠れた義の優越性」が母親譲りであると考えられる一方で、「チンドン屋の旗持ちとビラ配り的な精神」、つまり「即興的演劇性」が、生涯の一枝の行動に多少なりとも反映しているとするならば、それは明らかに、この父親から受け継いだものといえるであろう。

そうするうちに、ちょうどこのころ、一枝の女学校入学が近づいてきた。

 私が女学校に入ることは、私の希望でもありましたが、父も母も、これからの女の子は「高等教育」を受けなければだめだ、ということでは一致しておりました。日露戦争がすんだ直後のことでした。といっても大阪というところでは、その当時は高等女学校へ子どもやる親たちは、まだごく僅かだったようです。私は、できたばかりの大阪府立夕陽ケ丘高等女学校へ入学いたしました。明治三九年でしたろうか25

しかし、一枝が入学した女学校は、正確には、一九〇六(明治三九)年三月に設立認可された大阪府立島之内高等女学校(現在の大阪府立夕陽丘高等学校)で、南区千年町の元千年小学校を仮校舎として四月二五日に一四七名の生徒を迎えて入学式が行なわれている。その後一九〇八(明治四一)年五月に南区天王寺夕陽丘の地に新校舎の建設が開始され、一一月末には四日間臨時休業して新校舎へ移転した。そして翌年の一月に校名を大阪府立夕陽丘高等女学校に改称し、四月八日に新築本校舎【図五】が完成すると、同月二七日に新校舎落成式が挙行された。景勝に富んだ新校舎の敷地について、初代校長の伊賀駒吉郎は、「新築落成記念帖」に次のように書き記していた。

本校校地夕陽丘はもと大阪名勝の一に算へられ梅樹を以て鳴る校地は街路より数十尺の高地に在り、後に歌聖藤原家隆卿の塚と聖徳太子建立の愛染塔とあり北は巨刹を控え南は大江神社に隣す。前面西方を望めば、煙突林立活動の市街をへだてて遠く茅渟ちぬの海を観る。天気清朗の日夕陽の海波に映じて淡路島山にかくれなんとする光景は雄大艶美、空気清涼四方静閑実に大阪の仙境たり26

新校舎落成式が終わると、その日のうちに運動遊戯会が催された。【図六】や【図七】にみられるような、テニスやピンポンの競技も、この日開催されたかもしれない。もしそうだったとすれば、最終学年に進級したばかりの一枝は、その腕前を学友のみんなに披露する絶好の機会となったのではないだろうか。一枝はこの新校舎で最後の一年間を過ごすことになる。その後も多くの学校行事が予定されていた。まず、一一月六日には第一回文芸会が催された。その日の様子を『大阪毎日新聞』は、こう伝えている。「夕陽丘女學校の文藝會は唱歌、筝曲、英語對話皆好成績、中にも無形の劇ともいふべき三段の朗讀對話なるものが來會者を驚嘆せしめたり……第三段の『酒匂の吹雪』と題せる二宮金次郎孝行の條に至りては川崎道江子の母お由、中村數枝子の金次郎等切々の哀情を表はし高橋楠枝子の馬鹿男、尾竹一枝子の強欲八郎兵衛なんど輕快なると執拗なるとを配し殆んど遺憾なく感ぜしためるが散會したるは午後七時なりき」27。『大阪毎日新聞』が伝える、この日「來會者を驚嘆せしめた」朗読対話とは、二年生による対話「二つの家庭」(演目八番)、三年生による朗読「乳母浅岡」(演目一二番)、そして、一枝が出演した四年生の朗読「酒匂の吹雪」(演目一七番)であったことが当日のプログラムから確認できる28。続いて、翌一九一〇(明治四三)年の三月二〇日には第一回運動会が開催され、それは「観客二千を超え非常の盛況」29であった。「若草色の校舎に沿うて見物人がずらりと詰めかけて居るが而も八分迄が女性なので髪の飾り着物の色が一しほに會場の色彩を引立しめた……最後には五百の生徒がカタン糸で(運動會)と書いた綠門アーチから第四師團軍樂隊の奏樂につれ手を組みながら出て來て行進プロ子ーズを演じたのは壯觀で白いリボンは四年、靑が三年、桃が二年、赤が一年と區別したのはおもしろい思付きである[。]先生と生徒が一緒に校歌を歌つて會を終つたのが五時、幸ひ雨も降らず、なかなか規律の立つた面白い運動會であつた」30。こうして一枝は、自由で華やいだ校風のもと、以下の追憶にみられるように、この女学校の一期生としての四年間をのびのびと勉学とスポーツに励んだのであった。

 その時の女学校は、ちょうど日露戦争後の興隆期にあたり、東京の大学で新しい教育をうけた先生方が集まって、学校全体が非常にフレッシュでした。校長も進歩的な考えを持った人で、若い先生たちを大切にして、どちらかといえば自由に、その考えを通してあげていたようです。英語と国語には特に力を注いでいたようでしたし、運動スポーツもなかなか盛んでした。テニスやピンポンもやりましたし、夏は、海へ出かけて水泳もやりました。私はピンポンではクラス一で、テニスは前衛でなかなか活躍しました31

そしていよいよ、運動会から五日後の三月二五日、九七名の卒業生をもって第一回の卒業式が執り行なわれた。入学者数に比べて卒業生の数が少なかったのは、結婚やその準備のために、在学中に学校を離れていった生徒がいたのかもしれない。卒業証書の授与と卒業生学事報告のあと、学校長の式辞、大阪府知事の告辞、生徒総代の三年月組の吉原春江による祝辞朗読が続き、そして最後に、卒業生総代の牧こむめが答辞を読み上げた。以下はその一節である。

 妾等今将に校門を辞せむとして、4年敬仰の恩師と同胞四百の諸嬢と袂を分かつは転々悲痛に堪へざる処なり、紅葉焦がるゝ大江の神社、古木鬱蒼たる愛染塔何時のときか忘らるべき、或は運動会に、或は文藝会に、或は遠足にかたみに楽しく、勇ましく語らいし昔あわれ、明日よりは思多き過去の生活となりぬべし、されども人生は人をして何時までも学校生活をなさしむるを許さざるなり、嗚呼妾等が敬仰せる恩師の君よ、よく健康にましまし永く我が校に止まりて我が同胞を強化し妾等卒業生を指導し給へ、親愛なる同胞よ、よく師命を守り束の間も校規を服膺し愈々我が校の名声を高められよ。いざさらば32

こうして一枝は、夕陽丘高等女学校をめでたく卒業した。しかしながら、家庭のなかは、学校の自由さと比べて、幾分重苦しい雰囲気が漂っていたようである。一枝は、この時期の父越堂を思い起こして、後年こう述べている。女学校に通っていたころの記憶である。

とにかく私は女學校の下級生であつた頃から父の考へのやうな繪をかくために仕込まれてゐたやうだ。學校から歸つてくると先づその日の新聞小説の挿繪があてがはれる。薄美濃といふ大型の……薄手の紙で、その繪を寫しとらせることと、「前賢故實」といふ大部な歴史物を極つた枚數だけそつくり寫しとることが仕事だつた。新聞小説の挿繪の方は……そんなに困難ではなかつたが、「前賢故實」といふのにはいい加減なさけない思ひをさせられた33

また一枝は、当時の母うたについては、このように回想している。

私の家は、父が貧乏畫家で、母が苦しい家計のやりくりをしていましたが、畫かきという仕事はまた一方格式ばらないところがありまして、私どもあまり窮屈な思いをしないように育てられておりましたけれども、やはり根本には父が權力をもつておりました。……母はどつちかと申しますと、落ちぶれ士族の子供で、お嫁に來ますときなど、家傅の九寸五分をもつてまいつたくらいで、萬事ひどく嚴格で所謂、しつけということをやかましく申していました。……
父は私を繪かきにさせるときめておりましたから、少しぐらい變り者の方がよいぐらいに考えておりました。母はさつき申しましたように、茶を習わしたり、三味線を習わしたり、させたがりました。ですから、女子美術に入るまでは、琴も、お茶もごく一通りでしたが、これは母のために習いもしました。それで母がよろこぶなら、というところでしようか。しかし、結局母の考えとは、ことごとにくいちがつて、いろいろな點で母を困らせておりました34

娘を絵描きに仕立て上げて「家」を継がせようとする父親、一方、士族の家系にふさわしいお稽古事の習得を厳しく娘に求める母親――こうした家庭環境のなかにあって、表向きは何とか両親の教えに従いながらも、その期待とは異なる自我が、徐々にこの時期、一枝の内面に芽生えようとしていた。

二.進路選択と『青鞜』との遭遇

女学校を卒業するころになると、一枝もそろそろ一七歳となり、自分の将来の進路選択について思いを巡らすようになった【図八】。本当にしたいことは何なのであろうか。どこへ行けばそれが可能なのか。自らの生を思い見詰める日々が続いた。

 時には、信貴山縁起だの福富草紙だのという繪巻の模寫まであてがはれたが、私は父の希望するやうに、繪をかく人になる氣などまるでなかつた。それどころか繪をかく勉強などさせる父を心のなかでどんなに憎んできたか知れない。……たゞ、小説を讀むことに夢中で、隙さえあつたら手あたりまかせに讀みあさつて居た。……その頃は良家の子女、善良な學生などは小説本など見るべきでない、それは恰度この頃左翼本が危険視されてゐるのよりもつと恐れられ邪視されてゐたやうに思はれる。……
 父は勿論そのことを悦ばなかった。……私は一體どうしたいのか自分に問うてみなければならない程、明確に進む目的なり方向をもつてゐない自分をそこにみつけて、黨惑したものだ。小説を讀むことはやたらに好きであつたが、小説をかくといふことがどんなことなのか、それすら考へ及ばぬことであつた。
 勉強の方法がわからなかつた。だから、さうなれば修業の方法がわかつてゐた聲樂をやつてみてもいゝといふ氣になつた。……それを自分の希望として父に話したら、頭からどなりつけられた35

しかし当時、東京へ出たいという思いは、確たるものとして一枝の胸に燃え盛っていた。「きまつた方針もたゝなかつたが、東京に行くことだけはあきらめきれなかつた。東京に待つものが、自分をきつとしあはせにし、自分にしつかりした目標を與へてくれる、その考へにつき纏はれた。……なにかしら東京といふものを考へてゐると、背後から激しい力で私を前に押しやるものがあつた。……私はひたすら東京に行かしてほしいことを頼みつゞけた」36。ちょうどそのとき、偶然にも叔父の竹坡が東京から来阪し、「父の意見と私の夢のやうな考へをきいてくれて……この子を美術學校に入れたらどうか、といふ意見を出してくれた。……私は好きでやらうともしないことに結局つれていかれることが悲しかったが、東京に行くためにそれ以外の手段が全くないことがわかつてゐたから、それでは美術學校に行きますと返事をするより仕方がなかつた」37

しかし上京はしたものの、上野の東京美術学校は女子に対して門戸を閉ざしていることがわかり、失意のうちに一枝は、女子美術学校(現在の女子美術大学)に入学するのである。この学校は、一九〇一(明治三四)年に本郷弓町において開校するも、一九〇八(明治四一)年に校舎を焼失し、翌年、本郷菊坂町に新校舎【図九】が完成し、弓町校舎からこの地へ移転していた。女子美術大学の歴史資料室によって確認されたところによれば、一枝は一九一〇(明治四三)年七月二〇日に入学している。籍を置いたのは日本画科であった。そして一枝は、同じ敷地内に設けられていた寄宿舎に入居した。「寄宿舎は建て坪一二一坪の総三階建てで、部屋数は八畳室二八、六畳室八の計三六室、それに洗面所、食堂、炊事室、浴室などが付属していた」38【図一〇】【図一一】。一枝にとって授業は必ずしも楽しいものではなかった。そのようなわけで、「やがて私は寫生するために配られて來た薩摩芋や栗を火鉢にくべて燒くことに成功をかさねたり、林檎や柿を半分まづ喰べてしまつて半分になつてしまつた果實でうまく立體的な感じを出すことが楽しいことになつてしまつた。併し學校でのこんな生活に私は我慢出來なくなつて、退屈な日が思つたより早くやつて來た」39。一枝の関心は、すでに日本画科の授業【図一二】から西洋画科の授業【図一三】へと移っていた。「日本畫の敎室から抜け出して三階の西洋畫の敎室に遊びに行く方が多くなつた頃、私は學校から立派な不良生徒としてにらまれてゐた。私が裸體のモデルを使ひたくなつて、西洋畫に轉科したい希望を父に書き送つた手紙の返事がこないうちに、私は、寄宿舎の舎監と衝突して、さつさと行李を伯父[竹坡]の家に搬ぶやうになつた」40。寄宿舎を出たときに退学の手続きも同時に行なわれたかどうかはわからないが、同じく確認されたところによれば、「家事の都合」を事由に一九一一(明治四四)年一一月一日にこの学校を退学したことになっている。やむなく叔父の家の食客となった一枝の日々は、希望した東京での生活とはいえ、目的のない、おそらく沈鬱なものであったにちがいない。ところがそこで、まさしく「天地振動」の出来事に出くわすことになるのである。それは、この年(一九一一年)の秋のことであり、女子美術学校を退学した時期とほぼ重なる。一枝の記憶によると、こうである。

「或る日の朝、表庭の掃除をしてゐたら伯母宛の手紙が一通配達夫から渡された。……私はその一本の手紙がひどく氣にかかり、不思議に思はれて裏返してみたら、靑鞜社と書かれて居た。……私の渡した手紙を伯母も不審らしく眺めていたが……封を切つてとり出したのが靑鞜發刊の辞と靑鞜社の規約であつた。伯母にとつては勿論それは一枚の印刷物に過ぎなかつたが、私にとつては天地振動そのものであつた」41。一枝はそこに、いままでに想像だにできなかった全く新しい、光輝く世界を見たのである。「その夜私は偶然なことから知合ひになつた私の文藝のたつた一人の友達であつた小林淸親の娘[歌津]さんに長い長い手紙を書いた。……記憶に残つてはゐないが、ありたけの熱情をかたむけつくして自分達のために自由な世界が出現したことに祝福と歓喜をさゝげたといふことには間違ひない」42

一枝の記憶はさらに続く。「はじめて靑鞜という雜誌を見たのは小林歌津さんに長い手紙をかいたすぐ後、伯父の下阪について大阪に戻つてゐた間だつたと思ふ。『元始女性は太陽であつた』といふ平塚さんのあの文章を、若い私は聖典のやうに毎日讀んで考へた。……なんといふ眩しい傲然とした宣言だ。……平塚さんの言葉を幾度も聲に出して讀みかへした。……私は[自分の]その部屋から平塚さんに何度となく手紙を書き送つた」43

『青鞜』の発行されたのは、東京にいた時分から知っていました。……然し……私は入社せずに大阪の町に帰りました。私は只口惜しく思います。そしてその反動の様に心斎橋の難波の本屋迄毎日のように行って『青鞜』をさがしました。けれど……一冊も[もう今月号の]『青鞜』はありません。私は泣きたくなりました。けれど来月号からは、私は本屋のおかみさんにかたく談じて、一番に私の家にまでとどける事を約束しました。……私は来月からいよいよ『青鞜』の読まれる、一人の女の子の仲間になりました。私はこれで入社ができたのですか?44

この手紙の差出日は、一九一一(明治四四)年一一月三〇日である。どうやら一枝は、購読することが入社を意味するものと、早合点していたようである。これには平塚らいてう【図一四】も、面食らったにちがいない。「天衣無縫とも、子どもらしいともいいようのない手紙を受けとったわたくしは、この手紙に惹かれるものを覚えながらも、出さずにいました。……それからも矢つぎばやによこしますが、自分の名前が手紙のたびごとにいろいろ変わり、これがいつの間にか『紅吉こうきち』『紅吉』と自分を呼び出しました」45と、らいてうは回想している。正式に尾竹一枝の名前が社員として『青鞜』に記載されるのは、一九一二年(明治四五)年一月号の「編輯室より」46においてであるので、このときまでには、入社許諾の返事をらいてうは出していたのであろう。すでに第一部「出会いから結婚まで」の第一章「富本憲吉と尾竹一枝の出会い」において述べたように、一枝がはじめて安堵村で憲吉に会ったのは、そのほぼ一箇月後の一九一二(明治四五)年二月、この大阪滞在中のことであった。

しかし、一枝の心は安堵村の憲吉にではなく、すでに東京のらいてうにあった。おそらく安堵村から大阪に帰った直後のことであろう、「武者小路實篤氏からロダンのブロンズを展覧するといふ通知をもらつた。私はそのハガキを見てからすぐに荷物をつくつて父の前に出た。さうして父の怒つた顔をそのまゝにして夜汽車で東京に立つた。新橋につくなりそのまゝ赤坂の三會堂に行つた。作品はすくなかつたが、私は天の星を眼近で見る思ひがした。……ロダンの作品はそれまでの私の退廃的な陶酔に不思議にも苦悩めいたものを感じさせた。私は身動きがならなかつた」47。確かに一枝はロダンに感激した。しかし、どうやら今回の上京は、単にロダンの作品を見るだけのものではなかったようである。ひょっとしたら、ロダンは二の次で、本当は憧れてやまない平塚らいてうに会うことが秘めたる主要な目的だったのかもしれない。それは「からッ風が烈しく吹いた二月十九日の午後だつた」48。ロダンを見た「その翌日、私は思ひきつて平塚さんを訪ねた。[すでに青鞜社の社員になっていた小林]ママ津さんに連れられて本郷曙町にあつた平塚さんの家にいつた」49。これが、一枝にとってらいてうとの初対面となるものであった。後々まで一枝は、このときの出会いの様子を実に克明に脳裏に焼き付けていた。

床の間に小さな香爐が置かれ、眞直ぐにさゝれた一本の線香からたちのぼる煙のかたちがくづれることなく天井にむかつて、部屋はよき香に満ちてゐた。ぴつたりしまつた襖を前に、私と歌津さんは人が違つた程静粛に列んで坐つた。
 憧憬のまとであつたその人がやがて襖をあけて這入つてくるのだ、私は出來るかぎり心を落着かせようとあせつたが、力がまるでお腹にはいつてこない。私は線香の煙を追うて、そこに心を集中しかけたその時だつた。襖が静かにひかれた。平塚さんだ――私は瞬間頭を眞直ぐにあげてその人と眼を合せたが――それなり意氣地なく眼を伏せなければならなかつた50

一枝はしだいに身体が硬直するのを覚えた。そしてこのとき、この女性に運命的なつながりとこれから訪れる愛とを敏感にも感じ取ったのである。

 あの時の、あの靜かな美しかつた人、その人の中から溢れこぼれた美、それは崇高といふ言葉で現はしても足りない。叡智といふものの輝かしさであつたらうか。……
 私は自分の身體が震へてゐたのがわかつて怖いほどだつた。さうしてその人の叡智に輝いた美しい双眸が、垂れた自分の頭上にそそがれてゐるのだ。さう思ふとますます身體がかたくなつて、足の指にまで力がかたまつて喰ひついてゆくのが解つて弱つた。こんなことでは、これはどうやら自分にとつて運命的なつながりが出來るのではなからうか。何人よりも私はこの人を愛するやうになるのではなかろうか。私は迷信的なさうして祈祷にも似たふしぎな氣持につかまへられて、そんなことが頻りに思はれてならなかつた51

一枝が日本画を学んでいたことを知っていたからであろうか、そのときの話題は主に芸術のことであった。続けて一枝はこう回想している。

ロダンのブロンズの話が出た。私は顔をあげずにきのふ感じたことをしかし愼み深く饒舌つた。……私から平塚さんにききたいことが澤山あつたが、それにもかゝはらず胸がせつなくなつて舌がつれるようになつて、なにも自分からは言へなかつたやうだ。およそ藝術の世界のことが、ぽつぽつとではあつたが、平塚さんから話し出された。哲學、宗敎、そんな方面の話はまるで出なかつた。私も小林[歌津]さんも、あまりにも子供だつたから――
 あなたは、いい繪をかくことに精進なさいと平塚さんに言はれた。繪など、そんなにかきたくないのですとどうしても言へなかつた。
 それどころか、きつと私はいい繪をかきますと言ひきつたものだ52

さらに言葉を継いで、「羞恥のため消え入るばかりの思ひでゐたから、文學の勉強がもしも出來たら本黨は好きでやりたいのですと言へなくなつたのも本黨だが、この人のためになら――そんな氣持もよほどてつだつてゐた」53とも、一枝は回想している。一方らいてうは、はじめて見る一枝を「細かい、男ものの久留米絣の対の着物と羽織にセルの袴をはき、すらりと伸び切った大きな丸みのある身体とふくよかな丸顔をもつ可愛らしい少年のような人でした」54と、描写している。らいてうとの面会が終わると、すぐにも大阪へ引き返したにちがいない。車中一枝は何を思っていただろうか。上京するにあたって怒らせてしまった父のことだろうか、らいてうへ向けられた祈りにも似た愛の予感についてだろうか、それとも、意に反して「きつといい繪をかきますと言ひきつた」自分の言葉の重みについてであったろうか。いずれにしても一枝の胸のなかは、抱えきれないほどの切なくも熱い思いで埋め尽くされていたことであろう。

帰阪してまもなくのことであろうか、すでに『青鞜』新年号においてイプセンの『人形の家』【図一五】を取り上げ、「附録ノラ」と題して「社員の批評及感想」を掲載していたものの、らいてうは、その後の大阪公演についての取材を紅吉に依頼した。「平塚さんから手紙が來て靑鞜でノラの批評をやるから、私にもその時大阪に來て上演中だつた松井[須磨子]さん達の『人形の家』を見てその批評を書くやうにといふことだつた。……とにかく私は道頓堀の劇場と川を隔てゝ建つてゐた河岸沿いの旅館で劇を觀るよりさきに松井さんと島村[抱月]先生に會つてゐた」55。このときの劇評を、その年(一九一二年)の『青鞜』五月号に掲載された「赤い扉の家より」のなかに見ることができる。これは、三月号に掲載された「最終の霊の梵鐘に」に続く、尾竹紅吉の筆名をもつ、一枝にとって『青鞜』誌上二作目になるものであった。また前号の四月号の表紙絵が、紅吉の描いた「太陽と壷」【図一六】に差し替えられている。この表紙絵について、紅吉はこう解説している。そのなかのBLUE-STOCKINGの日本語訳が実は「青鞜」なのである56

あれは、私が勝手に作り上げた、傳説から取つたのです。
世界の人間が最も、ほしがつてゐる者[物]は、不思議な國に藏されてゐる、眞黒な壺だつた。
その壺は、たつた一よりない。
その壺を得たものはどんな強さでも弱さでも自由に使い分ける事が容易に出來る。
けれど、その壺がそれ以外に、どんな不思議な力を有つてゐるか誰一人、知つてゐるものがない。
只その眞黒な壺の上には、曰く、BLUE-STOCKINGと記名されてゐるばかりで57

もし「太陽」をらいてうに、そして「壷」を憲吉になぞらえるものであったとするならば、たとえ、そのときの紅吉のささやかなる愛の心象を映し出していたにすぎなかったとしても、それが本当に現実のものとなってしまうことがわかれば、そういってしまうには余りあるものがこの作品にはあったと人は考えるのではあるまいか。

表紙絵「太陽と壷」の製作や劇評「赤い扉の家より」の執筆に先立って、すでに一枝は、第一二回巽画会の展覧会に出品する二曲一双の屏風《陶器》【図一七】の製作に邁進していたものと思われる。これが、父とのある種の和解を意味するものなのか、あるいは、らいてうの諭しの言葉に従うものなのか、一枝は多くを語ってはいないが、この作品は三等賞銅牌に輝き、父越堂の作品はその下の褒状一等に止まった58【図一八】。こうして一枝は画壇への初登場を見事に果たしてみせた。黒田鵬心は、二回に分けてこのときの展覧会についての批評文を『多都美』の「畫壇時評」に書いている。鵬心は、「今度の巽畫會を觀て、先ず驚いたのは模倣作の多いことである」59と指摘したうえで、尾竹竹坡の模倣作として、越堂の《花いかだ》や一枝の《陶器》などを列挙している。しかし、一枝の作品については、色彩のおもしろみを認めたうえで、「構圖がやゝ散漫であるが、題材がいゝし、余の好な畫である」60と好感を寄せていた。

この父と娘の受賞の結果が公表される数日前のことであったのではないかと思われるが、越堂は、妻のうたと次女の福美を大阪に残したまま、一枝と貞子を連れ立って東京に上り、下根岸に居を構えた。

尾竹竹坡、國觀兩氏の長兄たる越堂氏は、従來大阪に根據を作り雄を稱したりしが、兩弟が東京に於て今日の名聲を博し、しかも文展に於ては兩弟に貮等優勝を得られたるに比し、頗る振はざるものあるを奮慨し……極力勉強以て月桂冠を得、長兄たるに恥ぢざらん事を期し……是まで竹坡氏の邸宅たりし下根岸八十一番地にト居したり61

越堂たちが転居したのは、一九一二(明治四五)年の四月九日であった。そしてすぐにも、一枝のもとに福美からの手紙が届く。姉の《陶器》の受賞を大阪の地で知ったのであろう、そこには、「御立派な御成績をお喜びいたします」62というお祝の詞がしたためられていた。受け取ったのは、『青鞜』五月号に投稿するつもりで書いていた「赤い扉の家より」をちょうど脱稿した四月一五日のことであった。こうしてこののち、紅吉の青鞜社における青春と挫折の幕は一気に開いていくのである。

三.青鞜社での波紋の数々

越堂と一枝が上京する少し前、三月一五日から三一日まで上野の竹の台陳列館で美術新報主催の展覧会が開催され、富本にもひとつの部屋が与えられた。ここへ至る経緯は次のようなものであった。昨年の秋、東京の美術界に失望し帰郷した際に南薫造から受け取った手紙の返事に、「僕の展覧會は來年にならうが五年延び樣が一向に平氣だ」63と、書いた富本は、その後すぐに「ウイリアム・モリスの話」の執筆に取りかかった。年が明けた一九一二(明治四五)年、『美術新報』二月号に「ウイリアム・モリスの話(上)」が掲載され、続けて三月号に「ウイリアム・モリスの話(下)」が掲載されようとしていた二月二三日に、富本は、次の内容の書簡を南に書き送った。

こむど新報で洋画家のかいた日本画展覧會と云ふものを竹の台でやるそうだ。……處がその室が大きママ過ぎるとかで僕に個人の室を持っては何うか、森亀[森田亀之輔]の手紙によると策志めくが「モリスの話」、白樺の手紙[私信徃復]がエッフェリティブ[効果的]にきくから今に限ると云ふ様な事を云ふて来た。会期は十五日か三月イッパイだそうだが、なる可く早く荷物をまとめて上京し様と考へて居る64

展覧会の機会は、こうして思ったよりも早くもたらされた。しかし、昨年秋の東京での苦々しい思いが過ぎる。「厭やな東京の空気が僕の頭に一層重い石のカブトを着せるか、少しよくして呉れるか、此れが問題だ」65と、不安をのぞかせる。そして、計画については――。

今の處の僕の計畫、
 一工藝品のスケッチ、二百餘枚。
 一木彫。一木版。一更紗。
 一図案。一皮。 等
兎に角、二三百枚のスケッチを八百幾枚の僕の例の黒いポーママ[ト]フォリオからぬき取って此れを主とし、此れに最近作の小さい持ち運びに便利な作品を列べ様と考へて居る。水彩は三拾枚程列べられる奴をより出したが額を製るのがオックウなのと室全体を工藝、早く云へばモリスの気持ちでイッパイにしたものを見せたいつもり66

「美術新報主催第三回美術展覧会第三部富本憲吉君出品目録」によると、主として英国滞在中に描いたと思われる、時代と地域を越えた図案、金物、染織陶器、彫刻に関する大量のスケッチないしは模写と、帰国後に製作された木版や更紗やエッチングなど、総計一五一点の作品が富本の部屋に展示された【図一九】。これが、本人のいうところの「モリスの気持ちでイッパイにしたもの」であり、評伝「ウイリアム・モリスの話」とともに、事実上、英国留学の帰朝報告に相当するものであった。さらに富本は、会場の装飾にかかわって関係者を喜ばせてもいる。

會場の入口の装飾から、旗の紋樣から、富本氏の考案並に下圖を煩はしたので、従来の諸展覧會とは、聊か異つた趣味を現はし得たのは愉快でした、其他同氏は所蔵の更紗や珍らしい織物などを貸して會場を飾られたことは一同の感謝した處であります67

ここでも、作品というものはそれ単独で存在するものではなく、空間全体との関係で考えるべきものであるという、昨年の夏に「室内装飾漫言」において主張していた信念を具体化する試みがなされていた。またこの「出品目録」には、南薫造とバーナード・リーチによるふたつの頌辞が花を添えていた。以下は、この展覧会に富本が出品していた作品に寄せるリーチの英文による頌辞の一部である。

 ついにここに、ひとりの日本人による見事な奮闘を見ることができる。装飾的な美術の側面が十分に理解され、イギリスの樫の木彫、ペルシャのタイル、エジプトとインドの彫刻、メキシコの陶器、中国、日本、そしてヨーロッパの絵画、そのいずれのなかにも同等の美が存在することが明らかに認識されているのである。

富本の個人展示室は、「モリスの世界」であると同時に、さながら「イメージの世界史」を例証するものであったにちがいない。これは、日本にあっておそらくこれまで誰ひとりとして試みることのなかった、実に名状しがたい空間として異彩を放っていたのではあるまいか。帰郷後、「東京の展覧會も無事、餘り損をせずに収支つぐなったとか。大分よくなって来たねー」68と、南に書き送っているところをみると、この展覧会は、富本にとってほぼ満足のいくものであっただろう。その背景に、森田亀之輔がいっていたように、確かに「私信徃復」と「ウイリアム・モリスの話」の効果があったのかもしれない。しかし、この富本の展示室で展開されていた作品群の意味が、どのように東京の美術界に理解されたのかは、明確な資料がないので明らかにすることはできない。ただ、富本がいう「八百幾枚の僕の例の黒いポーママ[ト]フォリオ」とは、まさしく彼にとっての「デザイン・ソース・ブック」であり、一方、「最近作の小さい持ち運びに便利な作品」とは、多かれ少なかれそこからインスピレイションを受けて実体化された帰国後の数点の試作例であり、そうしたものは、当時一般に認知されていた美術のカテゴリーとしての「絵画」にも「彫刻」にも、あるいは「工芸」にも、いずれにもあてはまらない。また、「水彩は三拾枚程列べられる奴をより出したが額を製るのがオックウ」なのも、画家を目指しているわけではない富本にとっては当然の心情であったであろう。ここにひとつの「図案(デザイン)」の近代の予兆が認められるとするならば、このことの意味の重さ、つまりは富本が何を指向しようとしているのか、すなわち、大多数のスケッチや模写で構成された作品群が指し示す内容の価値と展示の意図について、南やリーチのような身近な理解者を除けば、このとき、それ以外の鑑賞者に十分に伝わったとは思えない。「ウイリアム・モリスの話」がほぼ誰にとってもはじめて聞く話であったのと同様に、木彫、タイル、彫刻、陶器、絵画「そのいずれのなかにも同等の美が存在することが明らかに認識されている」この富本の展示室も、多くの人にとってははじめて見る光景であったのではないだろうか。しかしそこには、言葉では表現しがたいある種の驚きと関心が伴っていたであろう。そのような状況のなかにあって富本の存在は、このとき人の目に止まるところとなったものと思われる。富本の満足感も、おそらくそうした点に起因していたのではあるまいか。

一枝はその展覧会に足を運ぶことはなかったと思われるが、『青鞜』五月号に、田澤操によってその展覧会の様子が次のように紹介されている。

 富本憲吉氏の木版やエッチング、山下新太郎、柳敬介、湯淺一郎、津田靑楓氏など、新歸朝者の個人室がある。バーナード、リーチ氏の日本畫、伏見人形の掛圖は排つたもの皆輪郭が鉛筆でとつてある。南薫造氏の辭に、富本君の工藝美術の趣味は、今日の日本に於ける卑俗なるそれとは餘程離れて居る樣に思はれます。遠く東京の地を距つて奈良の邊の自分の静かな家にあつて……嚴格な心持ちで模樣を置き刺繍をこゝろみて居るのが窺はれる、ウ井リアム、モリスを最も尊敬して居る君の製作を見ては、又モリスのなつかしい藝術の深い味を多く思ひ出させます。とある。ハンギング、テーブルセンターに更紗模様をおき、ぬいとりをして居る。奈良とさへ云へば幽しい所なのに、藝術のかをりの高い土地なのに。何となくなつかしい氣分になる69

新居に落ち着くとすぐにも一枝は、転居を知らせるはがきを憲吉に出したものと思われる。するとさっそく、東京での展覧会を終えて安堵村に帰っていた憲吉から、春の大和に咲き乱れる野の花の美しさを告げる返信の手紙が届いた。日付は、四月一三日となっている。

東京は何うです。大和の今はステキです。只シャバンヌの様な柔い空に桃の花が―、砂の丘に咲く菜の花、麦のグリーン、わら束、ソロソロと咲き出した春の野の花―、実にキレイです。遠い処に円い青い山が、屏風の様に見えます。……
東京は何うです。何日頃、大阪に帰りますか。五月の初め頃は富士川と云ふ法隆寺の東を流れる小川に、白い野バラがステキです。ご案内致します。
春になって大和の野も山も馬鹿にキレイですが、寂しい事は、前に同じです70

一枝との再会を待ち望む憲吉の思いが、確かにここから伝わってくる。さらに続けて憲吉は、《陶器》の受賞のお祝いとして木版画の「壷」を一枝に送ってもいる。『青鞜』六月号に紅吉が書いた「或る夜と、或る朝」から、そのことを読み取ることができる。

富本氏よりお祝ひに下すた黒い壺(木版)は、古代模樣の絹しぼりの中に留めつける。……富本憲吉氏と、らママてう氏に手紙をかく71

四月号の表紙絵のなかに描き出された紅吉の「眞黒な壺」、そして、間を置くことなく、憲吉から送られてきた「黒い壺(木版)」。「赤い扉の家より」のなかにみられる、表紙絵の由来についての紅吉の文章を憲吉は読んだのであろうか。実に見事な呼応ぶりであった72。しかし、この日記調で書かれた「或る夜と、或る朝」には、それ以上に重大な出来事が紅吉の身に起こったことが実は書き記されていたのである。

五月一三日に紅吉の自宅で青鞜社の同人によるミーティングが開かれた。そのとき紅吉が出した案内状には、「桃色のお酒の陰に、やるせない春の追憶を浮べて春の軟い酔を淡い悲しみで、それからそれに、覚めて行く樣に、私達は新しい酒藏から第二の壺を搬び出した。そして私達の仕事にママ大な祝福の祈を捧げ乍ら靑いお酒を汲み合ひたいと思ふ。来る十三日午後一時から紅吉の家で同人のミーチングを催します。紅吉は、黄色い日本のお酒とそして麥酒と洋酒の一[、]二種とすばしこやのサイダを抜いて待つて居る。……紅吉は、その日、その夜の來るのを、子供の樣に數へて待つて居る。さよなら」73と、書かれてあった。上京の願いがかない、実際に青鞜社の仲間の一員となれたことがよほどうれしかったのか、文面はまさに「子供の樣」なはしゃぎようである。それにしても、「やるせない春の追憶」とか「第二の壺」とは、何を意味しているのであろうか。この日のミーティングは泊まりがけになった。そしてその日の夜、らいてうと紅吉とのあいだに烈しい愛の衝動が走る。そのことを紅吉は、「或る夜と、或る朝」のなかで、誰にはばかることもなく告白していたのであった。

私は、どうしたらいゝのだろう。抱擁接吻それら歡樂の小唄は、どんなになる事だろう!?。……私の心は、全く亂れてしまつた、不意に飛出した年上の女の為めに、私は、こんなに苦しい想を知り出した。少年の樣に全く私は囚はれてしまつた。……けれども……あゝ私は毒の有る花を慕つて、赤い花の咲く國を慕つて、暗い途を、どこ迄歩ませられよう。……DOREIになつても、いけにへとなつても、只 抱擁と接吻のみ消ゆることなく與えられたなら、満足して、満足して私は行かう74

この「同性の恋」に続いて、さらに波紋を呼ぶ一文が、次の七月号の「編輯室より」に記載された。

らいてう氏の左手でしてゐる戀の對象に就いては大分色々な面白い疑問を蒔いたらしい。或る秘密探偵の話によると、素晴らしい美少年ださうだ。其美少年は鴻の巣で五色のお酒を飲んで今夜も又氏の圓窓を訪れたとか75

これは美少年(紅吉)とらいてうの恋について、紅吉自らが書いた文章であろう。同号に掲載されている紅吉の「『あねさま』と『うちわ繒』の展覧會」という記事やその後の当事者たちの書き残したものをあわせて読むと、事情はおおよそこうだったようである。六月下旬のこと、紅吉は、『青鞜』の広告【図二〇】を取るために、当時若い文士や美術家のあいだで知られていた「メイゾン鴻の巣」というレストラン兼バーへ行き、見学した展覧会のことを思い出しながら、出された「五色の酒」の鮮やかさに無邪気にも心を躍らせた。「五色の酒」とは、色の異なる五種類の酒を順次比重の重いものから注ぎ足してできる、虹のような色彩豊かな一種のカクテルだったようである。果たしてこれをそのとき紅吉が実際に飲んだのか、また、その晩らいてうの自宅の書斎である「円窓」を本当に訪れたのかまでは定かでないが、どうやらこの一文は、そのような事実に基づいて書かれたのではなく、青鞜社の仕事に自分も参加しているという高揚感、あるいは、憧れのらいてうに愛されているという充足感のようなものがない交ぜになって膨れ上がり、その結果、こうしたたわいもない、現実から遊離した表現になったものと推測される。

それに追い討ちをかけるかのように、紅吉の波紋はさらに広がりを増していく。いわゆる「吉原遊興」とか、「吉原登楼」とか呼ばれる「事件」であるが、それについては、戦後の一九五六(昭和三一)年の座談会「『靑鞜社』のころ」において一枝自身が、次のように述懐している。

おまえたち偉そうに婦人の解放とか何とかいつているが、吉原というところには非常に氣の毒な――解放しなければならない女がたくさんいる、そこを知りもしないで偉そうなことをいつているのはおかしい。平塚さんにぜひとも――今で申す見學をなさいませんか、ということで、平塚さんも見たことがないし、ぜひ行きたいということになつて、五、六ママ[平塚らいてうさん、中野初子さん、そして私の三]人で参りました。このおじ[尾竹竹坡]は……[岡倉]天心に大へんかわいがられていたそうですが、遊ぶことでも相黨だつたようです。そのおじの行きつけのお茶屋におじが話しておいてくれましたから、吉原でも一番格式の高いうちに案内されて、たいへん丁重に扱われました76

もうひとりの当事者であるらいてうは、このように回顧している。

ある日、紅吉が、叔父の尾竹竹坡氏からの話として、吉原見学の誘いを突然もちこみました。尾竹竹坡氏は、当時の日本画壇に異彩を放っていた尾竹三兄弟のひとり、なかでも天才的ということで名を馳せている人でしたが、紅燈の巷に明るい通人というか粋人というのか、そういう点でも知られていました。……竹坡氏は、姪の紅吉を通して、青鞜社やわたくしへの親近感というか、好意をもっていられたようで、その一つのあらわれが吉原見学の誘いともなったのでしょう。……そこは竹坡氏のお馴染みの妓楼で、吉原でも一番格式の高い「大文字楼」という家でした。「栄山」という花魁おいらんの部屋に通されましたが、きれいに片付いた部屋で、あねさま人形が飾られており、それが田村とし子の作ったあねさまだということを聞いて、紅吉はひどく興味をもち、田村さんを誘えなかったことを残念がりました。……おすしや酒が出て、栄山をかこみながら話をしたわけですが、栄山の話によると、彼女はお茶の水女学校を出ているということでした。……その夜、わたくしたち三人は花魁とは別の一室で泊まり、翌朝帰りました77

このことは、すぐにもジャーナリズムの知るところとなった。まず、一九一二年七月一〇日付の『萬朝報』の「女文士の吉原遊」と題された記事である。それは、「榮山は可愛い人」を副題として、次のような書き出しではじまる。「平塚明子、中野初子、尾竹ママ[一]枝などゝ云うふ青鞜社の女豪連が、二[、]三日前竹坡畫伯を案内にして吉原の大文字樓に豪遊を試みたと聞いた、何しろ珍らしい事である、所謂『新らしい女』の吉原觀も面白からうと、尾竹兄弟を叔父さんに持つてる數枝女史(廿二)を下根岸八一の越堂氏方に訪うて見る」78。そして、インタビューに答えるかたちで、紅吉はその記者にこう語ったのである。

……参るには参りました、私は少い時叔父(竹坡)に伴れられて吉原に泊つた事がありましたが、あの上草履のよかつたのを思ひ出して是非伴れてつて下さいと頼んだのです……私の花魁は榮山さんと云ふ可愛い人でしたよ、「女學生の昔が思出されて懐かしい」と云つて大切にして呉れ、今日手紙迄貰ひました、私は眞實に身受がしたくなり茶屋へ歸つてから聞きますと千兩は掛かると云ふんです……若し男だつたらと男が羨ましくなりました、浅草の銘酒屋もよう御座いますネ、今度は呼れたら上つて見やうと思ひます79

どうやら紅吉は、「吉原登楼」以降、あたりかまわず自分の感激をぶつけてしまう赤子のように、周りの人にうれしそうにこのことを吹聴したのであろう。ジャーナリズムがそれを放っておくことはなかった。それにしても紅吉の応対は、自分の年齢にしても、身受け話にしても、浅草の銘酒屋のことにしても、少しでも記者の期待に応え、歓心を買おうとしたのかもしれないが、脚色と大風呂敷にいくぶんすぎるように思われなくもない。もっとも、そうした色づけされた表現は、この記事を書いた記者の手によるものであったのかもしれないのであるが――。

こうして、この年の五月から七月にかけてのわずか二箇月足らずのあいだにあって、「同性の恋」「五色の酒」そして「吉原遊興」と、立て続けに紅吉は、当時一般に求められていた女性の規範から逸脱し、単に世間を驚かせただけに止まらず、話に尾びれがつき、事実が興味本位に歪曲され、ジャーナリズムの格好の餌食となっていくのである。たとえば次は、一九一二年七月一三日付の『國民新聞』に掲載された「所謂新らしき女(二)」の一部である。副題は「明子と美少年、紅吉と西洋酒」となっている。

七月の『青鞜』には雷鳥が左手で戀してるとか美少年を何うしたとか云ふ妙な事がある[。]其美少年と云ふのは夕暮に廔々白山邊を引張つて歩いて居るほんに可愛らしい學生帽を冠つた十二三の子供だ[。]それは兎も角此間の夜雷鳥の明子はること尾竹紅吉こうきち(數枝子)中野初子の三人が中根岸の尾竹竹坡氏の家に集まつた時奇抜も奇抜一つ吉原へ繰り込まうぢやないかと女だてらに三臺の車を連ねて勇しい車夫の掛聲と共に仲の町の引手茶屋松本に横著けにし箱提灯で送らせて大文字樓へと押上り大に色里の氣分を味つた……併しそれ許りではない[。]此人々は強烈な西洋酒を戀人の如に愛好する[。]先頃紅吉が巽畫會に出品した「陶器」と題する畫が百圓に賣れた時彼女は勿體ないから皆で御馳走を喰べやうとて四方の同人に葉書を飛ばせ赤い酒靑い酒を重いものから上へ上へと五色に注ぎ分けて飲み合つた……さうして其洋盃に透明る色を飽かず眺めた面々は……焼け付く樣な酒に舌を鳴らしつ其香に酔ふて思ふさま享楽したのである80

こうした新聞記事は、紅吉にとってだけでなく、青鞜社やらいてうにとっても、大きな衝撃であった。らいてうの記述するところによると、こうである。「『放蕩無類』の青鞜社に対する世間の非難攻撃は、とりわけわたくしに対して強く、だれの仕業か、わたくしの家には石のつぶてが投げられたりしたものでした。……なにか得体のしれない男が面会を強要して動かなかったり、『どこそこで待っているから出てこい、黒シャツ組より』などという脅迫状も舞いこんで来ます」81。一方、そのときの青鞜社内の様子については、こう回想する。

 「新しい女、五色の酒を飲む」「新しい女、吉原に遊ぶ」といった思いがけぬ噂が、新聞に出て、しかもその張本人が紅吉だという、社内からの批判が起こったのです。
 すでにわたくしたち「青鞜」に集う女の上には、「新しい女」という称号が与えられて、時のジャーナリズムはことあるごとに、わたくしたちの行動に目を光らせていたときでした82

この時点でらいてうは、この間の一連の出来事について振り返り、自らの気持ちをなにがしか整理する必要を感じ取ったものと思われる。『青鞜』八月号の「圓窓より」は異例の長文となり、そのなかでらいてうは、自分宛ての紅吉からの数通の私信を含めて、率直にその思いを開陳することになるのである。以下は、その概略である。

七月一〇日の夜、らいてうは、寂しがりやで不意の訪問を喜ぶ紅吉の顔が見たくなり、下根岸の紅吉の家を訪ねた。多くを語ったあと、上野広小路まで送ってきた紅吉は、別れる際に、「あした朝、行つてもいゝでせう。其時見せます」83といって、左腕の包帯を押えた。そして翌朝――。

「見せて、見せて、ね、見たい、見たい。」私の心は震へた。紅吉は戀の為めに、只一人を守らうとする戀の為めに……我が柔かな肉を裂き、細い血管を破つたのだ。……長い繃帯が一巻一巻と解けて行く。……はらわたの動くのを努めて抑へた。そしてぢつと傷口を見詰めながら、眞直に燃える蝋燭の焔と、その薄暗い光を冷たく反對する鋭利な刃身と熱い血の色とを目に浮かべた84

その日の午後、ふたりは万年山勝林寺にある青鞜社の事務所へ行った。疲労を滲ませる紅吉は、大きな体を縁側に横たえていたが、しばらくすると、ふと立ち上がって、黒板にこう書いた。

  離別の詩
あたいの人形に火がついた
赤いおべべに火がついた
いとしや人形は火になつた
いとしや人形が火になつた
    人形を買つて五十八日目の夕 紅吉
  らいてう様85

「五十八日目の夕」とは――。するとらいてうは、五月一三日のミーティングのあの夜から数えて五八日目であることに気づいた。

私の心はまたもあのミイチイングの夜の思ひ出に満たされた。紅吉を自分の世界の中なるものにしやうとした私の抱擁と接吻がいかに烈しかつたか、私は知らぬ、知らぬ。けれどもあゝ迄忽に紅吉の心のすべてか燃え上らうとは、火にならうとは86

しばらく沈黙が続いたあと、紅吉はふたつの心配事をらいてうに打ち明けた。ひとつは、吉原見学のあとに「新しい女」や青鞜社へ烈火のごとく浴びせられた非難や揶揄についてであり、もうひとつは、自分自身の健康状態についてであった。

『國民[新聞]』に「所謂新[ら]しママ[き]女」が掲載されだし事はこの日からのことだつた。紅吉は其記事に就いて眞面目に心配してゐるらしい。……私はあらゆるものを眞面目に考へることの出來る紅吉を、新聞の記事の虚偽を以て満されてゐるのを今更のやうに驚く紅吉を心に羨んだ。そして三[、]四年前の[塩原事件(煤煙事件)のときの]自分を目の前に見るやうな氣がした。……私は紅吉を咎めやうとはゆめさら思わない。……
「退社してお詫びします。」
「馬鹿」
私の少年よ。らいてうの少年をもつて自ら任ずるならば自分の思つたこと、考へたことを眞直に發表するのに何の顧慮を要しやう。みづからの心の欲するところはどこまでもやり通さねばならぬ。それがあなたを成長させる為めでもあり、同時にあなたがつながる靑鞜社をも發展させる道なのだ87

紅吉は、一箇月くらい前から消え入りそうな咳をし、よく頭痛で倒れもした。また、ますます神経が過敏になるのを恐れてもいた。らいてうは、そのことを薄々感じ取っていた。肺の病かもしれない――。らいてうは、高田病院での診察を勧めた。「明日診察を受けるでせう……すると、どつちかに極るでせう、ね、どつちかに」88と、紅吉は怯える。せめて医者の宣告だけは直接紅吉に聞かせたくないと思ったらいてうは、「私も明日病院へ行く。院長に一度逢ひたいことがあるから」89という。しかし紅吉は、入院となれば、今後らいてうに会えなくなることを恐れる。

「淋しい?どうした。」と言ひざま私は兩手を紅吉の首にかけて、胸と胸とを犇と押し付けて仕舞つた。「いけない。いけない。」口の中で呟いて顔を背けたが、さりとて逃げやうとはしない90

そして、らいてうは、「ね、いゝでせう。あなたが病氣になればわたしもなる。そしてふたりで[療養のために]茅ケ崎へ行く」91と、紅吉の心情を温かく包み込む。こうして万年山の事務所を出たふたりは、別れ際に、明日病院へ行く約束を交わした。帰宅するとらいてうは、これまで紅吉から受け取った、あわせて六七通の手紙とはがきを読み返しながら、眠れぬまま、「同性の戀といふやうなことを頻りに考へて見た」92

四.らいてうとの「同性の恋」の破綻

「何日頃、大阪に帰りますか。五月の初め頃は富士川と云ふ法隆寺の東を流れる小川に、白い野バラがステキです。ご案内致します」と、すでにその年の四月に書き送り、さらには、《陶器》の受賞のお祝いとして木版画の「壷」も送っていた憲吉ではあるが、この『青鞜』六月号から八月号までを読んでいたとするならば、そのとき憲吉は、ジャーナリズムや世間の好奇の目にさらされている一枝をどのような思いで、遠く安堵村から見詰めていたであろうか。らいてうとの「同性の恋」を、目を背けたくなるような不快なものとして受け止めていたであろうか。「五色の酒」や「吉原登楼」については、女性にあるまじき許しがたい不道徳な行為として映じていたであろうか。あるいはそれとは全く逆で、こうした一連の行動こそ、旧弊な日本の道徳や規範を打破するうえでのひとつの光明であると好意的に受け止め、こうした幼子にも似た何ものにもとらわれない無軌道な感性の発露のなかに、何か新しい時代の新鮮な息吹のようなものを感じ取っていていたであろうか。根拠となる資料がなく、したがって、それはよくわからない。

他方、南に宛てた以下の返信の書簡から、その時期の憲吉の心情の一部をかいま見ることができる。この大和にも東京にももはや自分の居場所はないという昨年来の空虚な思いはさらに強まり、他国へ逃げ出したいと本気で思い詰めるほどまでに、憲吉の精神は移ろい、不安定さを増していた。差出の日付は、一九一二(明治四五)年七月二七日となっている。

実はコンド安藝へ行かふと云ふたのは君に遇って充分後の事をたのむで置きたかったからであった。僕又近頃の中に英国にたつ事にした。……若し来年四月にたつとすると遇ふキカイは夏か、秋君が東京へ行く途で無理に大和へ来て貰ふ位なタヨリない望みだ。……
新しくやった版画を掛物にこさえて床へ掛けて見た。そう悪い出来でも無い。その室でキダママーを弾いて、意見が合はないで国を逃げるロシヤあたりの亡命の客と云ふものを考へて見る。
五年や拾年の間は未だ未だアンナ暑い印度洋やキリの暗いロンドンへ行きたくもない。獨り寂シくあむな處へ行ったって仕方がない。然し今日本に居て家族の奴等や東京の混乱した下等な美術界を見せられて居るより良ろうかと考へる。言はば押し出される様に逃げて行くのだと考へると馬鹿にカナシイ93

これは、南への救いを求める手紙として読むことも可能であろう。早くに父をなくした富本は、温和な南のことを、心を開き安心して率直に語ることができる数少ない親友のひとりであるという以上に、あらゆることを聞き入れ許してくれる父親にも似た存在として、無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。『美術新報』の坂井犀水は、「新時代の作家(一)」として南薫造を取り上げた際に「氏の親友富本氏の感想」を挿入している。そのなかで富本は、南のことをこう記述していた。

……美術學校やロンドンでは同じ室に住んだり、大抵毎日遇つて、私の友達のうちでは、最も親しい、又私に取つて最も尊重す可き人です。模樣や水彩は勿論、音樂、詩、とあらゆる方面に、高尚な趣味を敎て呉れた人です……大抵毎夜眠れない私は、眼を血ばしらして居りました。角の多いすぐ泣きたくなる、すぐ怒りたくなる、感じ易い私を、温和な南君が、長い間、此の美しい好みで良く誘導してくだすつた事を感謝して居ます94

そうした敬愛する南に宛てた、さきほどの書簡の末尾に、富本は、次の二首を書き添えるのである。かつて三年前に南とともに経験したロンドンでの生活を思い起こしながら――。

青き眼のローザ忘れぬ夢多き ひる寝悲しき大和の我が家
細き手のカーネーが弾くピアノ思ひ 梅雨の雨見て只暮す哉

富本のロンドンにおける下宿の主人がシェファード夫人と呼ばれる女性で、彼女にはビオラとカーネーという孫娘があった。下宿で富本は「暇があるとよくマンドリーヌをひいた。トミー[富本]がマンドリーヌをひくと、きつと裏の二階から[カーネーの]ピアノの音がし出すので得意だつた。その頃またギタラをひき始めたやうだつた」95。カーネーを思い出していることから判断すると、この時期、憲吉の心は一枝には向いていない。一度ならずも抱いた一枝との再会の期待といったものは、もはや憲吉の脳裏から消え去っていたのであろうか、あるいは、一枝に寄せる淡い思い以上に、自分自身の苦悩の重さに耐えかねていたのであろうか。

ちょうどこのころ、肺結核と診断された紅吉は、茅ケ崎の南湖院へ転地療養のため入院することになった。しかしこの地でまた、さらに過酷な出来事に紅吉は遭遇することになるのである。出来事とは、紅吉とらいてうの「同性の恋」の破局であり、それは、らいてうと奥村博(のちに博史と改名)との偶然の「めぐりあい」によるものであった。らいてうは、自伝のなかで詳細にこのことについて書き残している。これは、のちに夫となる男性との運命的な出会いの描写でもある。概略は、以下のとおりである。

 紅吉は茅ケ崎の南湖院でしばらく療養生活を送ることになり、やがてわたくしも「青鞜」八月号の編集をすませて、紅吉を見舞いかたがた、茅ケ崎へでかけました。……八月の半ばを過ぎたある日、わたくしたちは南湖院の応接間で、二人の未知の男客を迎えました。その一人は、[今後の『青鞜』の発行と発売を委託する件で相談にやってきた]当時文芸図書の出版社として有名な東雲堂の若主人で、詩人でもあった西村陽吉さんです。……[もうひとりは、たまたま藤沢駅で知り合い、西村さんに連れられてやってきた]骨太で、図抜けた長身に、真黒な長髪をまん中からわけた面長の青白い顔が、異様なまでに印象的な青年で、奥村博と名乗りました。……なんの装飾もないがらんとした休日の病院の応接間で、[青鞜社の社員で、いまだ南湖院との縁が切れず、東京と茅ケ崎のあいだを行き来していた]保持[研子]、紅吉、わたくしの三人が居並ぶテーブルをへだてて、最初に私を見、眼と眼があった瞬間、心臓を一突きに射ぬかれたようなせんりつが走り、青年になってはじめて、かつて覚えぬ想いで、ひとりの女性を見た――と、奥村はのちに述懐しました。わたくしもまたこの異様な、大きな赤ん坊のような、よごれのない青年に対して、かつてどんな異性にも覚えたことのない、つよい関心がその瞬間生まれたのでした96

そのとき紅吉は、らいてうの特別な感情の動きを敏感にも察知すると、すぐさま奥村へ手紙を書き送っていたことが、のちに奥村が上梓する自伝小説『めぐりあい』のなかに記されている。広岡昭子てるこがらいてうで、佐々しげりが紅吉であることは容易に想像がつく。どのような経緯で初対面の浩(奥村)の住所をしげり(紅吉)が聞き出していたのかなどの不明な点も残されてはいるが、前後の記述内容からして、この手紙の存在はほぼ間違いないもののように思われるので、ここに、そのまま浩に宛てたしげりの手紙の内容を引用しておきたいと思う。

 不吉な予感が私を襲って、私は悲しい、恐ろしい、気遣わしいことに今ぶつかっているのです。それがはっきり安心のつくまであまり面白くもない生活を送らねばなりますまい。そして幾日かののちに私は生まれて来るのです。だがそれまでは私は淋しい、私は苦しい。
 広岡[らいてう]がぜひあなたに来るようにと、そして泊まりがけでです。待っています、いらっしゃいまし。
   八月十九日   しげり[紅吉]97

この手紙について、らいてうはこのように回想している。「一度会ったばかりの奥村にこんな手紙を出したとはわたくしも保持さんもまったく知らないことでした。(知ったのは三十数年も後に奥村が『めぐりあい』という自伝小説を書いたときです。)手紙の最後には、あたかもわたくしからの伝言であるかのような一節があり、紅吉の病的な神経の動きの鋭さ、速さ、とくに嫉妬の場合の複雑さにわたくしは驚くよりほかありませんでした」98。もし、らいてうからの伝言ではなかったとするならば、どのような意図があって紅吉は、「[らいてうが]ぜひあなたに来るようにと、そして泊まりがけでです。待っています」と、偽ってまで書かなければならなかったのだろうか。いま一度両者を再会させることで、このふたりの愛が真実なものか、自分の目で確かめてみたかったのだろうか。それは紅吉にとって、危険を伴う大きな賭けを意味していた。影に隠れたこのような伏線のなかで、実際に奥村は二度目の訪問をし、さらにその数日後、紅吉が恐れていたとおりに、このふたりは雷鳴のなか一夜をともに過ごすことになるのである。らいてうの回想によれば、こうである。

 二、三日して写生の帰りだといって、スケッチ箱もった奥村が、突然わたくしの宿を訪ねてきました。いま、[馬入川が海に流れ込む河口一帯の]「南郷」で描いたというスケッチ板の松林の絵を見せてもらいながら、わたくしはふと、『青鞜』一周年記念号の表紙をあらたに、この人にかいてもらいたい気になり、さっそく頼んだのでした。それから、二、三日した日の夕方近く、その表紙図案をもって見えました。わたくしは奥村を連れて、南湖院に行き紅吉と保持さんを誘って海岸に立ち並ぶ海気室に行き、蒼い海と美しい夕映え雲を眺めながら四人でしばらく話しました。紅吉が柳島に小舟を出そう……といいだしたのがもとで、保持さんは親しい友だちの小野さんという入院患者の……元気な青年を誘って、五人いっしょに舟に乗り込みました。……月夜の馬入川の舟遊びはみんなに時を忘れさせるほどでした。そして奥村は藤沢へ帰る汽車にのりおくれてしまいました。歩いて帰るという奥村を保持さんはしきりと引きとめ、自分がいつも寝起きしている病院の松林の奥にぽつんと建った一軒家……に奥村を泊めることにし、保持さん自身は病院のだれかの部屋へ、紅吉は自分の部屋へ、そしてわたくしは自分の宿である猟師の家へ、それぞれ別れて引き上げて行きました。こうしてみんなが寝床についたころ……またたく間に烈しい雷鳴となって……とても眠れそうにありません。……すさまじい稲妻と雷鳴に怯えているであろう気の弱そうな若者を想うと……いよいよ寝るどころではありません。とうとう起き出したわたくしは、宿のおかみさんに提灯をもって付き添ってもらい……奥村を迎えにいきました。……その夜、大きな緑色の蚊帳のなかに寝床を並べて朝を迎えたときから、奥村に対するわたくしの関心は、しだいに関心以上のものへと、急速に高まってゆくのでした。蒸し暑い夏の夜のしばしのまどろみのあと、東の空の明るみはじめた海岸に出て、指をからませながら二人で寄りそって……浜辺を歩くとき……満ちあふれた生命の幸福感でいっぱいになっていました。こうして、奥村がわたくしの宿で一夜を過ごしたことは、夜明けを待ちかねてわたくしの宿の様子を窺いにきた紅吉のいちはやく知るところとなり、わたくしの愛の独占をのぞんでいた紅吉に、大きな衝撃を与えないではいませんでした99

九月になり、東京にもどっていたらいてうの手もとに、一通の手紙が届いた。奥村からのものであった。その手紙には、「池の中で二羽の水鳥たちが仲よく遊んでいたところへ、一羽の若い燕が飛んで来て池の水を濁し、騒ぎが起こった。この思いがけない結果に驚いた若い燕は、池の平和のために飛び去って行く」100といった内容が書かれてあった。らいてうは、「奥村の人柄にそぐわない技巧的な、気取った文章」101と感じつつも、「燕ならばきっとまた、季節がくれば飛んでくることでしょう」102との短い返事を書き送った。らいてうの後年の回想によれば、「この手紙は新妻[莞]さんが作った『お話』を、奥村が、君のためだとばかり勧められ、強いられて書いたもので、新妻さんが仕組んだ筋書だった」103。こうして、「若い燕」は、その時代の流行語となり、そしていつしか、らいてうの予言どおりに、「若い燕」は一方の水鳥のもとへと帰っていくのである。

『青鞜』創刊一周年を記念する九月号の表紙絵は、奥村が描いたものへと差し替わった【図二一】。またこの記念号に、紅吉は書簡風の「その小唄」という一文を南湖院から書き送り、らいてうへの未練と恨みが交錯する、やり場のない重苦しい心情を吐露した。「又私自身もよくあれだけの場所を押通したと感心してゐました。けれども私はそれだけにまだ充分未練をもつてゐた。……[立派に育てようと誓った子供を養育院へ送ろうと計ったとき]あなたは、其の時すでに私を捨てゝ、そして私を偽つてしまつたのです。そんな罪の深い無慈悲な言葉があなたの口から出たと云ふことを到底信じることが出來ません。自分獨りの満足の為めに、自分獨りのさもしい欲望の為めに、あなたは、誓つて育てゝ來た子供迄捨てると云ふ、そんな事がよく云へたものですね、……私があたたを歸へした後で少なからずあなたを可哀そうに思つたことだけ知つてゐて下さい、あなたが私を偽つてゐることもこの手紙で少しは反省して見て下さい。そしてそれでも私に對してあなたの下さる愛が眞實の愛であるかを最う一度考へて下さい」104。一方、奥村の『めぐりあい』によると、このときしげり(紅吉)は、浩(奥村)へも手紙を送りつけ、憎しみをあらわにしている。そこには、「あなたにはもちろん何の罪もないのです。罪はないがきっとこの復讐はするつもりです。私はあなたによって生きることの出来ない傷を受けたのです。私の前途は暗くなった。広岡[らいてう]を私は恋しています。あなたはあんまりよくも知らない女の家に泊まった。それで平気でいた。私は近いうちにあからさまにこの間のことをある場所で書き出すつもりです。きっと書きます……」105と、しげりの激昂が書き散らされていた。それを受け取った浩は驚きもしたが、「事実とすればしげりの立場は気の毒だと思った。だが、彼には女どうしの恋愛というものがどんなものか想像もつかなかった。しかし……しげりは《あなたはよくも知らない女の家に泊まって平気でいた》などと人を責めるが……そのもとを作った者は結局しげり自身ではないか、と彼はそう考えるとき、それが自分ひとりの責任とばかりは思われなかった」106

青鞜社入社以来、紅吉が最も親しくしていたのは、らいてうへの橋渡しをしてくれた小林哥津であった。最後の浮世絵師とも呼ばれる小林清親の娘で、仏英和高等女学校(現在の白百合学園中学校・高等学校)を卒業し、語学が堪能だった。そうしたなか、ちょうどこのころ、伊藤野枝という新人が青鞜社の仲間に加わった。紅吉、哥津、野枝の三人は、順に一歳違いで若かった。「靑鞜社で最年少者は野枝さんと歌津ちやんと私だつた。この三人はそんな意味でわりかた一緒になつてよく遊びもし、話合ひもした。歌津ちやんは江戸ツ子だつた。黒襦子の襟をかけた黄八丈の着物に博多の意氣な柄の帯をしめることが得意でもあつたし、ぴつたり似合つてもゐた。……泉鏡花のものが一番好きで、永井荷風の作品も好きだつた。……いなせなところが有つて、どうかすると横ずわりになつて、たんかでも切りさうで、横櫛お富といふ仇名をつけて、私などその名で歌津ちやんを呼んだことが多かつた」107。哥津は、「その後一枝の仲立ちで、当時竹坡の門生だった小林祥作氏と結ばれた」108

一方で紅吉は、入社する以前の野枝の姿を知っていて、それを思い出して、こう語っている。

東京にきて上野の圖書館に通うようになつて見て女の人が多いので安心しました。伊藤野枝さんとは、偶然圖書館で一緒になりました。その時代は圖書館は女の人にとつて勉強するのに大へんよい場所で、讀みたいものがたくさん揃つていました109

そしてさらに詳しく、晩年、いとこのしたしに、その出会いの様子を以下のように話している。

私は、小さい時から人に負けるのが嫌いでしてね、道を歩いていても人に先を越されるのが、とてもいやでした。……ちょうど、上野の図書館に通っていた頃です。私が歩いていると、反対側の道路をいつもきまって、足ばやに私を追ってくる女性が一人いるんですね。私も負けるのが癪ですから、一生懸命歩きました。あとで知ったのですが、その人が、私より少しあとで青鞜社に入った伊藤野枝さんでした。野枝さんも、なかなか気の強い負けず嫌いな人で、非常にライバル意識の強い女性ひとでした110

紅吉と野枝は、双方競争心をもつ間柄ではあったが、紅吉は、不安におののきながら、あのときの一夜をどのようにして過ごしたのかを、その後野枝に涙ながらに打ち明けている。そして続けて、こうも漏らしている。「私は本当に、死んでしまはうと思ひました。えい、本当に死ぬ積りでした。……私の大切な大切な愛にヒゞが入つたんですもの、もう何うしたつて直りつこはないんです」111。こうして、数箇月間のらいてうと紅吉の同性の関係は終末へと向かっていくのである。

紅吉は、「入院してから丁度二ケ月目、九月の拾四日に……退院を許可された」112。東京へもどると、「歸へつてから」と題された一文を執筆し『青鞜』一〇月号に寄稿した。このなかで紅吉は、自己の性格に触れ、このように率直な内面分析を行なっている。

私は誰も知らない、自分たつた一人で大切にしてゐる面白い氣分があるのです。
よく考えて見ると、その氣分は幼い時からすつと今迄續いて來てゐたのです。これから先きもどんなにそれが育つて行くことか樂しむでゐます。人が知つたら恐らく危険だとか狂人地味た奴だとか一種の病的だろうとか位いで濟ましてしまうでしよう。
私のその事が世間に出ると不眞面目なものに取扱はれて冷笑の内に葬らはて行くものだと考へてゐます。私が銘酒屋に行つたとか、吉原に出かけたとか酒場に通つて強い火酒に酔つたとか云ふことは其の大切にしてゐる氣分の指圖になつた悪戯わるふざけなのです、薄つ片らな上づつたあれらの幼稚な可哀いい氣分を世間の人達は随分面白く解釋してゐます。
私は自分を信じてゐます。それだけに自分以外の人達には平氣で偽をついてゐます。
そのくせ私は人の言葉を妙に心配したり氣に懸けるのです113

「自分たつた一人で大切にしてゐる面白い氣分」――これが、この時期紅吉に自覚された自己の心的断面であろう。この「面白い氣分」は、周囲の秩序だった常識的な世界に混入されれば、多くの場合、「不眞面目なものに取扱はれて冷笑の内に葬らはて行く」運命をたどることになる。しかし一方、人が容易に抵抗できないでいる旧弊な壁にこの「面白い氣分」が投影されるならば、ときとしてその壁は相対化され、ものの見事に崩落する。徹底した純真性に潜む破壊力――そうした異界に作用する力としての「面白い氣分」を紅吉は自覚したうえで、「私は自分を信じてゐます」と、告白しているのであろうか。

一方、この一〇月号の「編輯室より」には、次のような最近起こった出来事が書き綴られていた。書き手は紅吉のように推量される。話の概略はこうである。

佐世保在住の社員の上野葉子が上京してきた。万年山の事務所での歓迎会が終わった夜、らいてうは、初対面の上野と紅吉とを連れ立って、谷中の墓地に近い田村俊子の家を訪ねた。本箱と床のあいだには、「あねさま」が踊り出すように飾ってあった。すでに紅吉は、『青鞜』七月号において田村の「あねさま」と長沼智恵子(のちに高村光太郎と結婚)の「うちわ絵」と取り上げた「『あねさま』と『うちわ繒』の展覧會」という批評文を書いていた。おそらくこのとき、この展覧会評だけではなく、大文字楼の栄山の部屋で、田村がつくった「あねさま」を見たこともまた、話題になったことであろう。紅吉は、はじめて会った田村に、「あねさま」をひとつつくってほしいとねだると、田村はそれに応じ、次の間のたんすの引き出しから美しい「あねさま」を取り出し、それを紅吉に渡した。それから二日後、田村から、「逢つたあと」と題する次のような詩が送られてきた。「紅吉はフフフンと聲を出して笑いました、そしてこの詩はいけませんよいけませんよと少し不平らしい」114。そうはいいながらも、無視するわけでもなく、この一〇月号の「編輯室より」にしっかりと掲載されている。

紅吉、/おまいはあかんぼ――――だよ。/この――――の長さは/おまいの丈の長さと、/おんなじ長さ、さ。

紅吉、/おまいの顔色はわるいね。/まるで、すがれた蓮の葉のやうだ。/Rのために腕を切つたとき、/それでもまつかな、/赤い血がでたの、紅吉。

紅吉、/おまいのからだは大きいね。/Rと二人逢つたとき、/どつちがどつちを抱き締めるの。/Rがおまいを抱き締めるにしては、/おまいのからだは、/あんまりかさばり過ぎてゐる。

紅吉/おまいの聲はとんきよだね。/けれど、金屬の摺れるやうな聲だ。/おまいの、のつけに出す聲は、/火事の半鐘を、/ふと、聞きつけた時のやうに人をおどろかせる。

紅吉、/でも、おまいは可愛い。/おまいの態のうちに、/うぶな、かわいいところがあるのだよ。/重ねた両手をあめのやうにねぢつて、/大きな顔をうつむけて、/はにかみ笑いをした時さ115

「歸へつてから」の一節が、紅吉自身による偽りなき自己分析であるとするならば、この「逢つたあと」は、初対面の田村による鋭角的な紅吉観察といえるだろう。田村は、紅吉の常識を超えた行為を揶揄しながらも、それでもその様態のうちに、「うぶな、かわいいところ」を認めている。徹底した純白性のもつ、人を魅了する力ともいえようか。

ある日のこと、田村が長沼を連れて、紅吉の家を訪ねてきたことがあった。紅吉に先立って長沼は『青鞜』創刊号の表紙絵を描いていた経緯はあったものの、ふたりが実際に会うのはこれが最初であった。そのとき紅吉は、求めに応じて、あるいは自分から誘ったのかもしれないが、製作中の絵を長沼に見せた。そして、同じことを長沼に求めると、きっぱりと断わる態度を長沼は示した。紅吉は、長沼のこうした神経に感心もし、絵を見せたことを後悔もした。数日後、長沼から手紙が届いた。

「あなたの画は、青草を噛むような厭味なところがあるが、あなたは、俊子さんのいうとおり、大きな、邪気のない赤ん坊だ。」と書いてあつた。……長沼さんは見かけよりずつと強靭なものを内にしまつていた。童女のようにあどけなく、美しく澄んだあのつぶらな眼は、おのれひとりを愛した眼である。気質も肌合もまるでちがつてはいたが、田村さんにもおなじものが感じられた116

このとき紅吉は、長沼や田村がもっていた「おのれひとりを愛した眼」に気づかされた。おそらく、すでにらいてうにも、同じものを感じ取っていたのではなかろうか。紅吉がこの人たちのなかに見出した「おのれひとりを愛した眼」とは何だったのであろうか――。個人主義の基底を形成する「自我」の存在だったのであろうか。そうであるとすれば、紅吉自身には、そうした「自我」はそのときまでにどのように芽生えていたのであろうか。それを正確に論証することはできない。しかしそれに関連して、あえてひとつのことをいうならば、紅吉にあっては、自己の内面を探索して止まない内向的で静的な個の部分よりも、むしろ他人の世界に侵入して繰り広げられる外向的で動的な個の部分の方が、この三人と引き比べて、どちらかといえば勝っていたのではあるまいか。その場合、紅吉にみられるこうした個性の領域については、分別を欠いた幼児性として軽視したり、秩序撹乱の要因として排除したりすることが妥当なのであろうか、あるいは、何か新たな変革に必要不可欠なエネルギーとして余分な手を加えず、あるがままの状態を保障することの方が適切なのだろうか――。意識的であったか、無意識的であったかは別にして、紅吉とらいてうとの確執も、最終的にはこの両者のバランスの崩壊に起因していたように思われるし、そして、その最後の確執と終局が、徐々にこのふたりに近づこうとしていたのである。

ところで、それとは別に、「歸へつてから」のなかには、この間の南湖院での療養生活のために文展への出品をあきらめた経緯にかかわって、紅吉の内面が表出されていた。この四月に大阪を離れ、父越堂に連れられて紅吉が東京に上ったのも、青鞜社の活動に加わることだけが目的であったわけではなく、日本画の製作に専心することもまた、重要な目的であったものと思われる。紅吉は、上京後の約半年間の製作への思いをこう語っている。「描きたい、描け、描こうと、これたけの動きが今月の文展製作にピリピリしてゐたのです。今年の春からこつち私は描きたい氣分でそつちの神經はどれもこれも尖つてゐました」117。そして続けて、「文展なんか別段どうでもないのです」、製作への「未練と執着」がいつまでもあったのは、「描きたい、描け、描こうと云ふ氣分が不意に病氣なんかの為めに破壊されてしまつたから」であり、「文展に出せなかつたから」ではないことを強調していた。このとき紅吉は、自分の製作にこだわりをみせるのではなく、それよりもむしろ、他人の充実した製作を待ち望むメッセージを発している。何かこれが、生涯を貫く紅吉(一枝)の生き方の底辺を形成する一部のようでもあり、以下に引用しておきたい。

三[、]四日前でした、思いがけなく長沼[智恵子]さんに逢つたのです。その時長沼さんは近頃は只畫が描きたい、描きたい、今度はきつと描けるでしよつて、しきりに話してゐらした、私は其の時、それたけの氣分を倍の倍にして羨やましく思いました。
そんな樣に凡てが充實しきつて、そして出來上つた作品はどんなに尊いものでしよう。
私達にしたつて、そうして出來上つた作品の前に面とむかつたら、どんなに氣持が好いでしよう。私は一人でも多く充實した、自分を信じた、そして露骨な「作品」を作り出す人が增して行くことを待つてゐます118

おそらくちょうどこのころであろう、「青鞜」研究会が再開されている。そのときの様子をらいてうは、こう回想する。

 九月号から発行経営に関する一切の実務を東雲堂に一任することになったわたくしたちは、今までの雑務に注いでいた力を編集の充実にあてる一方、久しく休んでいた研究会を、十月から万年山の事務所で再開することにしました。「青鞜」研究会は、この四月からはじめたもので、内容は「モーパッサンの短編」生田長江先生、「ダンテの神曲」阿部次郎先生で、毎週火曜日と金曜日の二回講義が行なわれておりました119

研究会のあと、らいてう、紅吉、哥津、野枝などの常連の参加者たちは、新しい知識に接したことに喜びを表わすかのごとくに、一群をなして、大通りを闊歩していたようである。とりわけ紅吉の姿が目立っていた。以下は、江口渙の証言である。

婦人の自由と解放をさけんで青鞜社にあつまった平塚らいてう、伊藤野枝、尾竹紅吉(いまの富本一枝)など、当時のいわゆる新しい女が[万年山勝林寺の]本堂をかりて週一、二回ずつ近代欧州文学や、近代思潮、近代美術の講座をひらいていた。講師は生田長江、高村光太郎、阿部次郎などであった。そういう講座のおわったあとでもあったろうか。彼女たちが本郷の帝大前の大通りを三丁目へ向かって、まるで新しい女のデモンストレーションみたいに一団となって歩いていくのをよく見かけた。中でも、尾竹紅吉が、あの大柄のからだで、カンカンと日の照る中を高下駄でがらがら歩く姿を、いまでもはっきりおぼえている120

すでにこのときまでに、文壇や画壇、ジャーナリズムの世界にあって紅吉は、よくも悪くも「時の人」であり「話題の人」であり、まさしく青鞜社の中心人物として人の目を引き付けていたといえるであろう。

そうしたなか、一〇月一七日に、『青鞜』創刊一周年を祝って鶯谷の料亭「伊香保」で宴席が設けられた。費用は、「吉原登楼」のきっかけをつくったかたちになっていた竹坡の好意によるものであった121。このときはじめて、「生涯の盟友」となる、五歳年長の神近市子に紅吉は出会うことになる。神近は、そのときの紅吉をこう回想する。

尾竹一枝は久留米絣くるめがすりにセルの袴で、おそらく子どものときは私のようなトム・ボーイだったろうと思われた。それがそのまま大きくなった感じで、顔色は浅黒く、よく太って背丈も高かった。私は一目でこの人が好きになり、彼女もいちばんよくみんなとの紹介の労をとってくれた。
 この日以来、私たちは生涯の盟友になり、強い友情で結ばれた。彼女は当時から紅吉というきれいな号をもっており、まだ十八ママ[一九]歳だが、才気に富み、親切な人だった122

このめでたい宴席からちょうど一週間後、この年の第六回文展の受賞者が、一〇月二四日の官報で発表された。尾竹三兄弟のうち、竹坡は《にはかあめ》【図二二】で、また國觀は《勝閧》【図二三】で、ともに何とか褒状は得たものの、しかし長兄の越堂の名は見当たらなかった。ひょっとしたらその日のことだったかもしれない、『東京日日新聞』の記者の小野賢一郎が、自分の「東京觀」というコラム123に「新らしがる女」を連載するにあたって、紅吉にインタビューしようとして下根岸の自宅を訪れた。すると、その「出合頭に文展で落選した繪が俥で持込まれた」124。それは越堂の屏風絵だったのではないだろうか。文部省から落選の報を受けた越堂は、「身を屈し情けなさをかみしめたのだった」125

そして翌一〇月二五日――、今度は紅吉が「情けなさ」をかみしめることになる。それは、小野が、一〇月二八日を除く一〇月二五日から三一日まで『東京日日新聞』の「東京觀」に「新らしがる女」と題して六回にわたって連載した記事の内容を巡ってであった126。らいてうとの最後の確執、そして青鞜社退社へと進む、紅吉にとって、感情の横溢で塗り染められた悲劇の一週間が、いよいよこうしてはじまるのである。以下は「新らしがる女(一)」の、その書き出しである。

ノラやマグダが問題になる、新しい女、覚めたる女、自覺した女、新時代の女、いろいろの言葉を以て一部の婦人を呼んでゐる、中でも靑鞜社のお嬢さん達が一番世間の注目を惹いてゐる、夫れはお嬢さん達のあられもない鴻の巣で五色の酒を呑む、吉原へ遊びにいつて華魁と御馴染みになる、浅草十二階下の白首と御友達になると言ふやうな噂がパッと立つたから愈問題となつて同社の機関雑誌「靑鞜」が俄に賣れ出す一方には古風な家庭で娘達に「靑鞜」の購讀を禁ずるといふやうな有樣となつた、靑鞜の女と言へば毎日酒を呑んでブラブラやつて生意氣な事許り言つてゐるやうに聞えるが社則とも言ふべきものを讀むと「本社は女流文學の發達を計り各自天賦の特性を發揮せしめ他日女流の天才を生まむ事を目的とす」といふ極めて生眞面目なものである、處で現代の婦人の間に日毎勢力を伸ばしつゝある「靑鞜」の女は如何に生活しつゝあるかそして其結社なるものは如何なる組織であるか是非とも調べてみる必要があると思ふ、先づ同社の後見人とも言ふべき文學士生田長江君の話を聞く127

この文面にあるように、小野は、新聞記者としてのあるべき本能からと思われるが、青鞜社の社則に書かれている目的と、鴻の巣で五色の酒を飲み、吉原で花魁遊びに興じる社員の奇行との隔たりに、強い関心をもった。後見人と目される生田長江に話を聞いたものの、「これはホンの表面の[青鞜社の]歴史であつて記者は満足出來ない、そこで先づ靑鞜者の人氣者である尾竹紅吉(越堂畫伯の令嬢)に面會を求めた」128。翌二六日付の「東京觀(三一) 新らしがる女(二)」は、紅吉の部屋の様子から書き始められる。「紅吉は號で本名を一枝といふ、紅吉との對話に移る前に室の模樣を書いて見たい[、]玄關を入ると右が書齋で庭には菊が咲亂れてゐる、机の上には田村とし子から貰つたお人形さんが飾つてある、机の横の書棚には和洋の文學書類が詰込まれてオルガンも置いてある、紅吉が生れて始めて描いた油繪も立掛けてある、其他三色版や人形や花瓶やよろしくある、紅吉の姿と言つば五尺五寸三分[約一六六センチメートル]の身の丈にかてゝ加へて横も張つてゐるので宛として柔道師範役のやうである、ト言ふのは帯は角帯、袴はセルで下腹にグツと力を入れて腹式呼吸のお稽古と言つたやうな姿勢は甚だ恐れ入るが御婦人とは見えない……紅吉と語ること約五時間[、]生田長江君から其性格を前に聞いてはゐたが書いたものを見たのと本人に會つたのとはまるで違ふ、紅吉は無邪氣な又女としては珍らしい性格と頭をもつてゐる女だとしみじみ思つた」129。そして、ここから「東京觀(三四) 新らしがる女(五)」までが、記者と紅吉の、および記者とらいてうの対話形式の記事で、最後の「東京觀(三五) 新らしがる女(六)」において、紅吉の退社の経緯と、青鞜社の社員についてのその他の興味深い話題とが紹介され、この「新らしがる女」の連載は完結する。長大であるため枝葉と思われる箇所は省略し、この文脈にとって必須の主だったものを順番に抜き書きすれば、おおよそこのようになる。

記「吉原の榮山と大分親密だつて大變な評判ですが近頃もお通ひですか」
紅「徃復はしてゐますよ、私は決して偽は申しません……らいてう(煤煙女史)は人に會へば直ぐ偽を言ひます、私は先達或る新聞の方がお出でたので本當な事を話したら夫れが變な風に紹介されて迷惑をしてゐます……」
記「榮山といふ花魁は餘程面白い女ですか」
紅「えゝ女學校出なのです……榮山は筆跡もなかなか上手ですが昨日も手紙を呉れました……三晩ばかり泊まりました、平塚なんかも酔つちやつてね……」
記「鴻の巣はドウです」
紅「鴻の巣は靑鞜の廣告取にいつたのが大變な評判になつたのですよ、十二階下の銘酒屋でも吉原でも其時の氣分氣分で行くのですからね[、]ドウかツて問はれたツて其時の氣分次第といふより外にお答への仕樣がございません」
記「平塚らいてう女史と始めて會はれた時の感じはドウでした」
紅「小説の煤煙を通じて平塚を知つてゐました、平塚は今まで未だ煤煙を讀まないさうです、煤煙を讀むと自分の事が餘り誤られてゐるから癪に障ると言つて自叙傳も讀みません……私が平塚と會つたのは今年の春ですが大阪に私がゐる時に色々自分の胸の中で平塚の性格を描いてゐたのです……」130

森田草平の『煤煙』と『自叙伝』をとおしてらいてうに関心を抱いたことが、紅吉の口から語られている。それは事実であったとしても、他の会話には、誇張は含まれていないだろうか。たとえばこの箇所はどうだろう。すでに引用で示したように、「その夜、わたくしたち三人は花魁とは別の一室で泊まり、翌朝帰りました」と、晩年のらいてうは回想している。そうであれば、紅吉が記者に語った、「三晩ばかり泊まりました」という言葉は、本当なのだろうか。もしこれが真実でないとすれば、「私は決して偽は申しません」という紅吉の、もうひとつの言葉は、もろくも瓦礫化してしまう。他方、「歸へつてから」(『青鞜』第二巻第一〇号)において紅吉は、これもすでに引用によって示したが、「私は自分を信じてゐます。それだけに自分以外の人達には平氣で偽をついてゐます」と書いている。こうした相対する言説のなかに、真実と虚偽のあいだの曖昧な境界線のうえに立って、特段罪の意識もなく、軽やかな身振りでもってふたつの異なる世界を行き来する、あたかも得意満面のトリックスターのような、この時期の紅吉の一側面を見出すことはできないであろうか。

紅「煤煙を通じて平塚の性格をみますと或る微妙な點が私と似通つたところがあるのです、世間の人から見ると一寸不思議に思へるやうな興味を持つてゐるやうですから會つて見ると果たしてさうでした」
記「その興味といふのは例へばドンナものです」
紅「それは今は言へません、私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐますが夫れは自ら獨り樂しむ氣分であつて決して口に出して話す氣分ではないのです、死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」
紅「私は世間の人が新らしい女といふ言葉を以て呼ぶ事が不平です……私どもは尋常の婦人と少しも變つた事はない筈ですが……世間の人は餘りに好奇の目を以て私どもを見られます、全く迷惑な話です」
紅「平塚は禪をやつてから思想が少し囚はれるやうですよ……近頃珍らしい婦人ですね、根津の權現樣で晝寝したといふのですか?それ位の事は平氣でやりませうよ」
紅「私は生れて畫といふものを四枚かきました……然し私は文展などが迫つてくると非常に苦痛を覺えました、家の者は俯向いてセツセと畫を描いてゐるといふ事を非常な勉強のやうに心得てゐますからね、全く困りますよ……」131

このように多くを語る紅吉であった。そのなかにあって紅吉は、「私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐます」と、小野に告白しているが、これは、すでに紹介した「歸へつてから」(『青鞜』第二巻第一〇号)のなかの「私は誰も知らない、自分たつた一人で大切にしてゐる面白い氣分があるのです」と、ぴったりと符号するし、「死ぬる時に遺言状の中には書くかしれません」という、死を見越したうえでの自覚から推量すると、すでに少し示唆したように、この「面白い氣分」こそが、生涯にわたる紅吉の言動を何がしか規定していく心的枠組みとなるものなのかもしれない。

このインタビューのあと、その日の夕方、紅吉と記者の小野は本郷曙町のらいてう宅へ向かう。家を出るとき紅吉は小野に、こういった。「あなたと平塚がドンナ話しをし平塚がドンナ應對をするか夫れが私は見たうございます、それを見てゐる氣分がキツト面白いに違ひないから」132。そして道中、ふたりはこんな会話をした。

記「今度の文展はドレが氣に入りましたか」
紅「どれもどれも感心するやうなのはありません[、]然し大觀の畫はいゝ感じがしました、畫家といふものは世間の人が得意の境遇に置いてくれぬと油の乗つたいい氣分の畫は出來まいかと思ひます、大觀は得意の時代ですから氣分が快く出るのではありますまいか」133

紅吉は、横山大観と尾竹三兄弟とのあいだの確執を十分に知り尽くしたうえで、とりわけ今回の文展で父越堂の作品が落とされていることの背景を正確に理解したうえで、こう語っているのであろうか。もしそうであったとすれば、この言葉のもつ意味の複雑性はいやがうえにも増すことになるであろう。こうしたやりとりをしたあと、ふたりは「曙町の平塚女史の宅の門を潜る、紅吉が先に入る、書齋に通される……机の上には翻譯の本や原稿紙が見える……書棚の上には『若い燕』の描いた油畫がある、『若い燕』といふのは茅ケ崎で女史が知合になつた奥村[博]という畫師で女史より年がズツト下である……暫くすると女史が紅吉と同じやうなセルの袴を穿て出て來た」134。ここから、らいてうへの記者のインタビューがはじまる。

記「少しこつちに寄つて下さい[、]お顔も拝見が出來ませんから」
記「靑鞜社のお話を聞きにまゐりました」
平「何もありませんよ」
平「私はよく嘘を吐きますよ。嘘を吐くのも新聞社の方々から敎へられたのです」
平「自分の事などが新聞記事に出るかと思ふと馬鹿馬鹿しくて話せません……疑惑の目を以て訪問され一ツの記事を頭の中で作つてそして當人の談話を無理に其中に入れられるから記事が變なものになつて了ひます」135

このように、らいてうの口は堅く、よそよそしい。この日の「東京觀(三三) 新らしがる女(四)」には、ここまでのインタビューのあとに、別稿のかたちをとって、前回の記事のなかの文言に対する二点の訂正が記載され、それに続いて最後に、驚くべきことには、「紅吉は今月限靑鞜社を退くようです」136と書かれてあった。おそらく、前号を読んだ紅吉が、小野に連絡をとって修正の申し出をし、あわせて自分の退社の意向を伝えたのではないだろうか。こうして、紅吉の青鞜社退社は、一九一二年一〇月二九日付の『東京日日新聞』の「東京觀(三三) 新らしがる女(四)」をとおして突然にも公にされたのであった。

続く「東京觀(三四) 新らしがる女(五)」には、こうした会話が収録されている。

平「紅吉にお會ひになつた感じはドウです、想像とはまるで違ひませう」
記「えゝ違ひます……私が胸に描いていゐた紅吉とはまるで違ひました」
平「こどものように可愛いでせう」、すると紅吉が口を挿んだ
紅「私と平塚とはまるで違ひませう[、]私が幼稚園なら平塚は小學校か女學校のようでせう」平塚女史はフゝンと笑った、記者はニヤニヤと笑つて置いた
記「あれが例の若い燕の畫ですか」と書棚の上の油畫を指さすと平塚女史は其方をチラリと向いて笑つた許りである、こゝらが座禪で度胸が出來てゐるのだなと思った137

そして翌日の「東京觀(三五) 新らしがる女(六)」は、紅吉の退社表明についてすばやく言及し、こう報じた。

紅吉は自分等の行動が靑鞜社に煩ひを為すのを大いに恐れてゐる、で、断然本月限り退社して了つた、これから一生懸命畫を勉強するさうである、平塚女史から大變怒られたのでモウこれから平塚の事は一切口にしないと言つてゐる、紅吉は其時の氣分氣分で話したのだが平塚から私を賣つたのだとか探偵のやうだとか言つてキメつけられた、全く何と言つてよいか判らなくなつて泣いたさうである138

そして、ほかの青鞜社の社員評に交じって、らいてうについては、こう表現されている。「平塚女史は酒を飲むと頭が堅くなつて自分が解らなくなるさうな、禪學と酒は別だと見える……紅吉曰く平塚といふ女は恰も黒燿石に映つた女のやうです、上面は暗いやうですがよく見るとピカピカ光る奥の方に平塚といふ女がゐるのです」139。黒燿石はらいてうのお気に入りだったようである。「当時父が北海道旅行の土産に持帰った黒耀石の大きな原石がたいへん気に入って、それを自分の部屋の床の間の置物にしていた」140と、らいてうは回想している。さらに「東京觀(三五) 新らしがる女(六)」のらいてう評は続く。「毎週水、金の午後一時から三時まで本郷駒込蓬莱町萬年山(勝林寺)で文學士生田長江、阿部次郎氏等の講話がある、社員外の人も聴講が出來るが婦人に限るといふ事、此萬年山が編輯本部で萬年山の門を入る時一ばん清ましてゐるのは平塚女史ださうな……森鴎外博士は平塚女史の議論は男も及ばぬと褒めるし、又或人は今の日本にはコンナ婦人が多數は困るが少數はゐなくてはならぬと言つてゐる、これは同情したのださうな」141

「新らしがる女」の連載がはじまると、らいてうは紅吉をしかった。そしてこのことが、紅吉が青鞜社を退くうえでの決定的な引き金となった。「前の『国民[新聞]』の記事ほど荒唐無稽のものではありませんでしたが、そのことでわたくしやまわりの者が紅吉の軽率な態度を少しきつくたしなめたことが、退社の決意(?)を一挙に押しすすめたようにも思えます」142。叱責の理由についてらいてうは、「紅吉の存在が、本人自身は意識しないでも、青鞜社全体をひっかき廻していることはたしかでしたから、今後の『青鞜』のためには、ここで一応距離をおきたいという気持ちも十分ありました。そして、なおもう一つ、わたくしとしては、この機会に紅吉を本来の画業に進ませたいという願いが強くありました」143と、述懐している。

この夏の奥村博の出現以来、紅吉とらいてうとの「同性の恋」には、すでに亀裂が入っていた。「距離をおきたいという気持ち」とは、らいてうにとって、もはや紅吉がお荷物に感じられるようになったことを意味するのであろう。そうであれば、この「新らしがる女」の連載は、紅吉に青鞜社からの引退を勧告し、さらには「同性の恋」の清算を告知するうえでの絶好の口実をらいてうに与えたのではないだろうか。

しかし一方、紅吉の立場からすれば、こうも考えられるのではないだろうか。紅吉宅かららいてう宅へ移動するとき、紅吉は記者の小野に対して、「あなたと平塚がドンナ話しをし平塚がドンナ應對をするか夫れが私は見たうございます、それを見てゐる氣分がキツト面白いに違ひないから」と、いっている。ここで、らいてうと紅吉のそれぞれの数箇月前の言説を想起する必要があるだろう。ひとつは、吉原登楼後のジャーナリズムが書き立てた中傷記事について、紅吉が「退社してお詫びします」といった際に、「みづからの心の欲するところはどこまでもやり通さねばならぬ。それがあなたを成長させる為めでもあり、同時にあなたがつながる靑鞜社をも發展させる道なのだ」といって、紅吉をかばったときのらいてうの言説である。

もうひとつは、らいてうと奥村がはじめて会ったあと、このふたりの愛が真実なものであるかを確かめようとするかのように、「らいてうがぜひあなたに来るようにと、そして泊まりがけでです。待っています、いらっしゃいまし」といって、偽ってまで奥村を呼び出そうとしたときの手紙のなかに書かれた紅吉の言説である。

果たしてここに至って、らいてうは自分をどう考えているのであろうか。不安に駆られた紅吉は、小野をらいてう宅に案内してインタビューさせることでらいてうの態度を引き出し、いまなおらいてうに自分をかばう気持ちがあるのかどうかを、直接自分の目で確かめたかったのではないだろうか。しかし、これもまた、紅吉にとって大きな賭けであったにちがいなかった。結果はどうであったか。らいてうはもはや紅吉をかばうことはなかった。それどころか、紅吉の軽率な態度を厳しくたしなめさえした。

すべての望みは絶たれた。こうして紅吉は、青鞜社へ別れを告げる決意を最終的に固めたのであった。次は、『青鞜』一一月号に掲載された「群集のなかにまざつてから」という一文のなかの一節である。

 私は今、あらためて私を紹介します。私は偽と知らずに偽を知つてゐた人間でした、正直だと思つて不正直なことをしてゐた人間でした。まるつきり責任と云ふものを考へて見ない、人と云ふものを見もしない、僭越な、我儘な奴だつたので御座います。……それで今度拾一月號の編輯が終ると同時に私は靑鞜社を退社致すことになりました。……この靑鞜は私にとつて最終の編輯にあたつたので御座います。……私は涙と光りでこの原稿をかき終へます。ぢや左樣なら、私は今もう歸へつて行きます144

この『青鞜』一一月号には、「冷たき魔物」と題された詩も掲載されていた。「群集のなかにまざつてから」と同じく、この詩も、事実上紅吉の青鞜社退社の辞となるものであった。「罪はないがきっとこの復讐はするつもりです。広岡[らいてう]を私は恋しています」と書かれた、しげり(紅吉)から浩(奥村)へ宛てた手紙の末尾の差出人名は「モンスター」となっている。一方、詩のなかの「冷たき魔物」は、らいてうのように読める。そうであるとすれば、茅ケ崎での悲劇の一夜以来、紅吉のなかには、「モンスター」である自分と「魔物」であるらいてうとが同時に住み着いていたことになる。「モンスター」は、「魔物」によって産み落とされた「赤ん坊」であり、不実なことに最後には、「魔物」は自分の「子供」の生膽を食いちぎろうとしている。「冷たき魔物」という詩は、一四の連から構成されているが、以下は、最初の連、第三連と第四連、そして最後のふたつの連である。

冷たき魔物は/今ここに、/赤裸な人世の前に/生膽とられた子供の肉軀ししむらは/只消へて逝くよな響をたてて/びくりびくりと動いてゐる。
……
秘密から生まれた/お前と云ふ魔物冷たい魔物/虚僞から生まれた/わたしと云ふ子供、赤裸あかはだかの子供。
不可思議の思ひ出は/眞赤にむかれた子供の肉軀の陰にかくれて/恐ろしい顔して黒燿石のなかからぞのママく。
……
さようなら/さようなら/破られた調子と/亂された調子、/葬ママれた調子で/丸裸の子供は死んで逝く。
さようなら、/さよなら/赤裸な人世の前に/虚偽から生れた私と云ふ/その赤ん坊は死んで逝く/さようなら145

この詩の最後には、「拾月二拾九日文祥堂の二階で」と付け加えられている。それから推測すると、『青鞜』一一月号の最後の編集作業のさなかに、そしてまた、『東京日日新聞』の「新らしがる女」の連載のさなかに、この詩はいっきに書かれたことになる。らいてうは紅吉のことをしばしば「私の少年」と呼んでいた。一〇月二九日の祥文堂の二階には、ほかの男性に心を奪われたことに由来する母親の残忍さと、それに加えて、その母親から自分の行為を無分別なものとしてなじられた際に被った傷心とに耐えかねて、黒燿石のなかに身を隠す母親に「さようなら」といいながら死んでいく少年が無残にも横たわっていた。

もっとも、母親がその男性と雷鳴の一夜を明かしたのも、もとをただせば、少年の猜疑心によって引き起こされたものであり、また、母親が少年から距離を置こうとしたのも、その主たる原因は、本人の真意はどうであったかは別にして、結果としてあたかも母を愚弄するかのようなコメントを新聞記者に流してしまった、その少年の身勝手で軽率な行動にあった。そう考えれば、「さようなら」は、少年の「身から出た錆」といえなくもなかったのであるが――。

「新らしがる女」の連載が終わった翌日(一一月一日)と翌々日(二日)の二回にわたって、「紅吉より記者へ」という題で紅吉からの手紙が、本人の了解を得たうえで、引き続き『東京日日新聞』の「東京觀」に掲載された。手紙の日付は「三十日夕」となっている。そのなかで紅吉は、「活字になつて現はれて來る自分の姿、言葉、心や頭、あんなに迄、あんなに迄自分の知つてゐない自分の忘れてゐる自分が出ていゐるのが不思議でなりません。私は實申しますと、あす出る自分、翌日出て來る自分が全く案じられてならなかつたので御座います。……それから又私はあの記事について或る友人の二[、]三から私の想ひもかけなかつた話を聞きました、それはあの記事に出てゐるものに依つて如何にも私が卑劣だ、そして自己辯護の上手な奴だ、正直を看板にして偽をつく子供だ、友を賣つて平然としてゐる人間だ、と。私は、私にはそんな心がそりや全くなかつたのです」146と、日々活字によって描き出されていく自己の姿に驚き、友人からの叱責にも困惑する。そして、らいてうについては、次のように、相手の不快感を察したうえで、少々自虐的ではあるが、自分の幼さを認めている。純粋に自発的なものであったのか、ある程度強要されたものだったのかはわからないが、結果としては、これは、このとき率直に自覚された、少年から母へのおわびの言葉として読むことができるのではなかろうか。

 全体通じて私はあんまり自分を知らずに饒舌り過ぎました、只平塚さんのことを私が惡くばつかり話してゐたと思はれてゐますから[、]それが記事の終り迄心苦しく思つてゐました。平塚さんに迄いろいろのことを思はれてゐるかと思ひますと[、]つくづく自分乍ら自分が痛ましい樣な可哀そうな馬鹿の樣な赤ん坊の樣な氣になつてしまひました147

これまで、らいてうと紅吉の関係は「同性の恋」や「同性愛」、あるいは「レスビアン・フェミニズム」という用語でもってさまざまに表現されてきているが、その後の生涯にわたるらいてうと一枝(紅吉)の持続的なきずなの強さを考えてみれば、また、いまだ二〇歳に満たない一九歳の紅吉と、すでに数年前に森田草平とのあいだで起こした「塩原事件」を潜り抜けてきていた、二六歳のらいてうとの経験の差というものを勘案すれば、このとき表面化された紅吉かららいてうへの感情のほとばしりは、いわゆる「同性愛」の破綻からくる嫉妬というよりも、むしろ潜在的実態を構成していたのではないかと思われる「母子愛」の一時的崩壊からくる心身の喪失に、より近いものであったのではないだろうか。

さらに、もうひとつ付け加えるならば、四月の上京以来、絵を描くことへの葛藤が精神的なストレスを引き起こし、この時期の紅吉の言動に不安定さをもたらしていた可能性もあったのではなかろうか。すでに引用によって紹介したように、「私は父の希望するやうに、繪をかく人になる氣などまるでなかつた。それどころか繪をかく勉強などさせる父を心のなかでどんなに憎んできたか知れない」。それにもかかわらず、らいてうに対しては、「きつと私はいい繪をかきますと言ひきつた」。そして、思いもよらぬ茅ケ崎の南湖院での転地療養――退院できたのは、九月一四日。本当は絵など描きたくない、しかし、約束した以上は描かなければならない、それでも病がそれを許さない、結果は――文展への不出品とそれに続く一〇月二四日の受賞者の発表、そして最終局面へ。こうして一〇月二九日付の『東京日日新聞』紙上において、ついに紅吉は押し出されるようにして青鞜社退社の表明を行なうのである。らいてうとの確執の底流にあっては、こうした絵の製作を巡っての葛藤がこの時期紅吉の内面を鋭利に刺激していたことも、決して見逃すことはできないであろう。

らいてうとの「同性の恋」はこうして完全に終息した。しかし、それはそれとして、同性へ向かう一枝の関心は、決して一過性のものではなかった。その後も、その生涯において、女性の美しさや才能に魅了されていく一枝の姿がしばしば認められることになるのである。

五.安堵村再訪と青鞜社との決別

青鞜社から身を引いた紅吉は、安堵村を再訪したいとの希望を憲吉に知らせたものと思われる。以下は、そのときの一枝の回顧である。

 青鞜でのいろいろな事件のあったあと、当時、私は『青鞜』の表紙など描かされそれがたまたま木版刷りだったものですから、教えてもらうために一人でたのみに行きました。『青鞜』の表紙のなかに、アダムとイヴを描いたものがありますが、あれは富本が下絵を描いてくれたものを、私が彫ったのです148

この再会がいつだったのかを正確に特定することはできないが、一九一三(大正二)年の『青鞜』一月号の表紙絵から「アダムとイヴ」【図二四】に差し替えられていることから判断すると、青踏社を退社すると、すぐにも紅吉は、憲吉に面会の手紙を出し、その年(一九一二年)の遅くとも暮れまでには安堵村を再訪し、表紙絵の依頼をしたものと思われる。紅吉にとっても、またらいてうにとっても、この表紙絵の製作は、暗黙のうちにふたりの関係を何とかつなぎ止めておくためのわずかに残された唯一の手段だったのかもしれない。再会すると、まず一枝は、巽画会に出品した二曲一双の屏風《陶器》が入賞したことを祝って、この春に木版画の「壷」を贈ってもらっていたことに対してお礼を述べると、その間青鞜社で起こった一連の出来事について、さらにはつい最近退社したことなどを告げたうえで、おもむろに、表紙絵の製作を依頼したしたものと思われる。それを聞いた憲吉は、快く了解したであろう。もっともそのとき、前回同様、突然にも表紙絵を依頼する一枝の一方的な態度に、憲吉は多少なりとも戸惑いを感じたかもしれない。あるいはまた、話をしていくうちに、忘れかけていた熱い思いが、再び憲吉の胸中に蘇っていったかもしれない。しかし、それを明らかにする資料は残されていない。たとえ後者であったとしても、そのときの憲吉の思いは、またしても一枝に伝わらなかったのではないだろうか。紅吉の心は、どうやら帰京後も、別の関心事に奪われていたようである。

若き日の彫刻家の朝倉文夫は、越堂をはじめ、紅吉や田村俊子などとも近所付き合いをしていたらしく、そのころのことを以下のように回想している。その後朝倉は、一九一三(大正二)年秋の第七回文展に、越堂の父親の倉松をモデルにした《尾竹翁》を出品することになる。そのことを考えると、ちょうどこのころから、しばしば朝倉は越堂宅を訪れていたのかもしれない。数年前の二〇代半ばという早い時期に、すでに彼は、「アルバイトで得た金で、その後ずっと住んでいる谷中天王寺の地にアトリエを新築」149していたのであった。

そのころ、青鞜社の新しい女性ともよく交際をしていたが、思えばおもしろい時代だった。私の住んでいた谷中の天王寺町には田村松魚君が住み、その夫人が有名な田村俊子さんだ。また私の隣りには尾竹竹坡、国観という日本画家の兄弟とその長兄の尾竹越堂の三人を育てた高橋大華という先生が住んでいたので、私は高橋家や尾竹越堂さんのところへもよく遊びに行った。その越堂さんの娘が一枝さんすなわち紅吉で、そこへ神近市子、伊藤野枝などという女史連が往来していて、自然知り合いになった。
 ある日、越堂さんから招かれて『きょうは、“新しい女”に酌をしてもらおう』ということで、紅吉、市子、野枝の三女史が青鞜社の出版事務をしているのをつかまえて、越堂老が『青鞜社の事務は青鞜社でやれ、せっかく客を招いたからもてなせ』と大喝したもので、大いにご馳走になったのだが、越堂さんは『芸者の酌などというものはつまらんもので、“新しい女”のお酌で飲む酒は天下一品』だとひどくごきげんだった。おそらく、この人たちのお酌で飲んだ人はあまりいないだろう150

荒れ狂う嵐のなかの青鞜社退社から一日、また一日が過ぎ、紅吉の心にも徐々に平静が蘇っていったものと思われる。そうしたころの一二月一〇日の午前一〇時、ひとりの青年が下根岸の紅吉の自宅を訪ねてきた。そのときの紅吉の心身の落ち着き具合はどうであったろうか。年が明けた一九一三年の『新潮』一月号のなかの「謂ゆる新しき女との対話――尾竹紅吉と一青年」と題された一文に、その答えを求めることができる。紅吉宅を訪問した「一青年」とは、『新潮』の記者であった。この一文は、この青年の紅吉から受けた印象から書き出されている。そこには、「紅吉は愛す可き女だ。天眞で、卒直で、無邪氣で、素朴で、單純で、正直だ。彼女の色は黒く、髪は硬く、顔も、鼻も丸く、謂ふところの美人ではない。けれども見よ!其の眼と、頬と、唇のあたりには、彼れのそれ等の性質の總ゆる美點が雲の如くに漂つて、接する人々に、一種の親しみを感ぜしめる。新聞の三面記事や、人々の噂に創造された尾竹紅吉と、尾竹紅吉其の人の實體とは全然別個のキャラクタアであることを、親しく紅吉の實體に接した余は断言する」151と、述べられている。本題の部分では「吉原登楼」などについての型どおりの質問もなされているが、これらに対する応答も含めて、全体として、感情を抑えた、冷静な受け答えとなっている。以下は、前置きが終わり、本題に入った青年と紅吉の対話の一部抜粋である。過去についての話題の部分は割愛し、この時期の紅吉の心情を知るうえで必要と思われる対話部分が主として選択されている。

青年 貴方はあゝ云ふ[大坂毎日や東京日日のような]記事を承認することが出來ますか。
紅吉 いゝえ、全然――私の實際とは全きり違つて居ります。初めの中は腹も立ちましたし、辯解もしようと思ひましたけれども終ひには寧ろ滑稽になりました。……今では辯解しようなどゝは思ひません。……長い將來を期して、眞面目な仕事を以て本當の私と云ふものが了解されるのを待つより外ありません。
青年 しかし、あゝ言う記事が出ましても、家庭の方は別に貴方の一身に對して干渉されませんですか。
紅吉 初は随分詰問を受けましたけれども、何分事實が違ふもんですから、今では何ともありません。
青年 貴方は青鞜を退社したんださうですね。
紅吉 えゝ、私が居ますと、私一個のことがいろいろ不眞面目に書かれる時に、青鞜と云ふものにまで累を及ぼしますものですから、それで退社いたしました。
青年 それで貴方は、貴方自分を世間の云ふ「新しい女」と自認して居ますか。
紅吉 いゝえ、――世間で云ふ新しい女と云ふものは、よく分りませんけれども、不眞面目と云ふ意味が含まれて居るやうですね[。]私は不眞面目と云ふことは大嫌ひです。……私自身はどちらかと云ふと昔の女で、私の感情なり、行為なりは、道徳や、習慣に多く支配されて居る事を感じます152

この青年が訪ねてきたころには、もうすでに紅吉は、憲吉の下絵を版木に彫り始めていたかもしれない。らいてうは、当時の紅吉についてこう回想している。「すでにおもて向きは退社となっていながら、紅吉は編集室へもわたくしの円窓の部屋へも、相変わらず顔を見せていますし、三巻新年号からの表紙絵――それはアダムとイブを描いたすぐれたものでしたが――を、自分で木版を彫るなど、たいした骨のおり方でした」153

一九一三年一月号の『青鞜』は、紅吉の「アダムとイヴ」に表紙絵が差し替えられた。他方、内容においては、「新らしい女、其他婦人問題に就て」を「附録」として巻末に組み、創刊以来の文芸雑誌としての性格を保ちながらも、女性解放運動へ向けての機関誌的存在へと、この号から徐々に舵が切り替わることになる。このことを考えると、前年の紅吉の一見無軌道とも思える一連の行動は、青鞜社内の一部においても問題視されることがあったとはいえ、それは決して無駄であったわけではなく、内部の人間に対して「新しい女と婦人問題」への自覚を促すうえでの隠れた役割を担い、この方向転換の伏流水となって生きていたといえるのではないだろうか。換言すれば、青鞜社にとっての紅吉の存在は、平板な秩序の維持にとっては単純なるマイナスであったとしても、歴史的課題への目覚めという意味においては、複雑にもプラスの異化作用をしたといえるのではないだろうか。疑いもなくこの新年号は、表紙に表現された図像といい、着目された特集の内容といい、その双方において、『青鞜』にとってのひとつの記念碑となる号だったのである。

一方で紅吉は、『中央公論』新年号の特集「閨秀十五名家一人一題」のために、「藝娼妓の群に對して」の執筆にも、そのころ精を出していた。『青鞜』において発表されたものが主として詩、ないしは日記や手紙の形式をとった散文であったことを考えれば、これは、それまでにみられなかった論説文であった。内容は明らかに、半年前の吉原見学を参考にしたものであったが、この間の紅吉は、こうした論説文を十分に書きこなすにふさわしい、旺盛な読書家だったようである。たとえば、大阪にいるときは図書館で「北村透谷とか中江兆民のかいたものを讀んだりして」154いたし、上京してからも上野の図書館通いは続いた。また、田村俊子からもらったお人形さんが飾ってある下根岸の自宅の「机の横の書棚には和洋の文學書類が詰込まれて」155もいた。この「藝娼妓の群に對して」は、紅吉にとってはじめての婦人問題への関心を表出するものであった。以下は、その論点の抜粋である。

 人世を具體的に表現してゐる今日迄の歴史は男性の性格と天職を述べて來てゐるに過ぎぬ。……今日の文明は獨り男性の舞臺であつて、……換言すると今日の文明は男性の文明にして女性の混入することの出來ない文明であると。……その男性的文明のなかに生れた女性が全くとりえのないものとせられ人格あるものとして尊敬されないのは當然である。……彼等藝娼妓の群の存在、增加は男性の野獣的情慾の人類記録に一層の光彩を放つものと見てもさしつかへはないと思う、……これらの群の存在は女性・・にとつて完全なる女性を男性にも又同じく知得さし得ぬことを悲しむのである。女性の解釋が眞實に出來ないことを悲しみたいのである。人格あるものとして尊重されないのを悲しむものである。……男性に女性の所謂暗黒面のないのと同じく女性みづからも暗黒面の女性を壊碎してしまいたいのである。……今日の文明から暗黒面の女性を消滅せしめたなら今日の男性は如何に表面の女性に男性自身を示すであろう。……暗黒面の女性は要するに藝娼妓をさすべきものである。曾て吾人は暗黒面の女性と表面の女性を單に女性として彼の奇矯に瀕する男尊女卑論から打破し相互の人格を尊重し尊卑を排し優劣を以つて女性の標準を定めたいと思う、即ち赤裸な原始に歸り作られたる性格の本質にとつて尊重仕合いたいと考へる156

最後の「赤裸な原始に歸り作られたる性格の本質にとつて尊重仕合いたいと考える」という語句には、平塚らいてうの『青鞜』発刊の辞「元始女性は太陽であつた」を思い起こさせるものがあるが、他方、「『青鞜』の表紙のなかに、アダムとイヴを描いたものがありますが、あれは富本が下絵を描いてくれたものを、私が彫ったのです」という一枝の回想と重ね合わせてみると、この最後の語句は、人間相互の原初的関係を、つまりは、一枝と憲吉のあいだにあって求められるべき男女の交わりの基本となる形式を、無意識的に先取りしたものとして読むこともできよう。そのような意味において、『青鞜』を飾った表紙絵「太陽と壷」のみならず、この「アダムとイヴ」も、らいてうと憲吉へ向けられたこの時期の一枝の自覚なき心象を直截的に投影し視覚化したものだったといえなくもなかった。

この『中央公論』新年号の特集「閨秀十五名家一人一題」には、田村とし子の「同性の戀」や平塚らいてうの「新らしい女」も含まれていた。「新らしい女、其他婦人問題に就て」を「附録」として巻末に組んだ一月号の『青鞜』と考え合わせると、まさしく一九一三(大正二)年の正月は、日本における「婦人問題」への関心がスタートラインについた時期といえよう。それはさらに加速し、その年の七月には、「婦人問題号」と銘打って『中央公論』は夏季臨時増刊を発行するに至った。そして、さらにそれが、『婦人公論』の創刊へと発展していくのである。そのとき尽力したのが、のちに社長を務めることになる、大学を出たばかりの嶋中雄作であった。

 嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた。畝傍中學を經て早稻田大學哲學科に學び、この年[大正元年]の九月卒業したばかりである。學生時代には、島村抱月にもつとも傾倒し、したがって自然主義文學運動には深い興味を有つていたごとくであつた。當時聲名高かつた中央公論社であつたから、大きな期待をもつて入社したのであるが、入つてみるとその組織は家内企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた。……明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は、いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが、大正期に入ると、澎湃として個人主義思想が擡頭してきた。特に婦人問題が重視せられて、婦人の自覺と解放が叫ばれた。これに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥などの『靑鞜社』の運動であった。嶋中はこの動きに注視し、[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめて、これを『婦人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)。これが反響を呼んだことも一の理由であろうが、新しい婦人雑誌の當然生るべき時代の趨勢たることを麻田社長に説いて、ついに容れられるところとなり、ここに『婦人公論』が創刊されることとなつた。大正五年一月のことである157

第一部「出会いから結婚まで」の第一章「富本憲吉と尾竹一枝の出会い」においてすでに詳述したように、嶋中雄作と富本憲吉とは、在籍した中学校こそ違っていたが、中学時代にすでに面識があり、富本をウィリアム・モリスの社会主義思想へといざなったのが、この嶋中だったのである。

大正期に入り、台頭してきたのは、ただ個人主義思想だけではなかった。大杉栄と荒畑寒村の手によって、『近代思想』が創刊されるに至った。

 天皇の死とともに明治時代は終り、改元して大正となった。……大正元年[一九一二年]の十月一日にやっと初号を出した。誌名は『近代思想』……三十二ページ定価金十銭という薄っぺらなものであったが、とにかく大逆事件以降、沈黙雌伏を強いられていた社会主義者が運動史上の暗黒時代に、かすかながら初めて公然とあげた声である158

寒村の回想は、さらに続く。

当時の文壇には、人生の無解決なんていう従来の自然主義説に代って、自我の解放とか個人の自由とかいう観念が、個人主義の哲学的な体系をととのえないまでも、一つの新しい傾向として現われていた。たとえば、雑誌『青鞜せいとう』のいわゆる「新しい女」のグループは個性の完成を唱えていたし、『早稲田文学』の相馬御風君は自我の生命の燃焼ねんしようを説いていた。「白樺」派の主張や作品にも、こういう傾向が明らかにうかがえたのである。大杉[栄]の主張には、こういう文壇の新しい思潮と共通するところが多く、私たちはこれらの傾向にもとより同情を惜しまなかった。しかしその反面、これらの文壇人が社会と個人との関係に深い認識を欠き、社会改革を度外視して個性の完成や自我の拡充を可能と考えるような、二元論的な個人主義の旧套きゆうとう脱しない観念に、私たちは失望を禁じ得なかった159

ちょうどそのころであろうか、「ある時、私[荒畑寒村]と上野から根岸の方を散策した際、青鞜社同人の尾竹紅吉の家を見つけると、彼[大杉栄]はいつもの流儀で臆面おくめんもなくこの未知の女性を訪問した。そして画室に迎えられた彼は、空腹を訴えて飯のご馳走ちそうになった上、『あなたは知らぬ男にでも、空腹だといえば飯を出してくれるが、もし性欲にえていると言ったらどうしますか』と質問した。彼女が返答に困っていると、食欲も性欲も生理的には同じじゃないかと追及して、まじめな紅吉女史をからかって面白がった」160。こうしたことがきっかけとなって、それ以降、大杉は紅吉の家をときどき訪ねてくるようになった。のちに一枝は、大杉のことをこう回顧している。

その頃大杉[栄]さんとおつきあいしていましたから大杉さんがママ[訪]ねてみえるたびに、無政府主義やクロポトキンのことをうかがつたりしていました。大杉さんは私のぼんやりさをなんとかしてやりたいとされたようです。幸徳秋水の大逆事件のことも、大杉さんからきいて……。そのとき、私たちの自由も、進歩も、それをはばんでいるものをとりのぞかない限りどうすることも出來ないのだときかされたことは、なんといつても、それからあとの自分の考えの基底となつてきているような氣がします161

一枝がこのように回顧しているところをみると、一枝の社会主義への初期の関心は、この時期に大杉によって植え付けられたのであろう。

ところが、自由主義的な「多角恋愛」により、血に塗られた惨劇が、その数年後に引き起こる。大杉には年上の堀保子という妻があった。夫の入獄中は苦労を重ね、『近代思想』の刊行では広告を担当して事業を支えた。大杉と伊藤野枝が知り合うのは一九一四(大正三)年のことで、当時伊藤はまだ辻潤の夫人であった。次に翌年、自分のフランス語の私塾の生徒であった神近市子と、大杉は関係をもつことになる。そうするうちに大杉は、伊藤との恋愛を発展させ、保子夫人と別居し、同棲生活に入る。そしてこの「多角恋愛」は、一九一六(大正五)年一一月、神奈川県葉山村の日蔭茶屋の旅館で大杉が神近に刃物で傷つけられるといった惨事へと展開し、終末を迎える。いわゆる「日蔭茶屋事件」と呼ばれるものである。

堀保子は、「新らしい女、其他婦人問題に就て」を「附録」として巻末に組んだ一九一三年一月号の『青鞜』へ、堀保の執筆者名で「私は古い女です」という論考を社外から投稿していた。表題から受ける印象とは異なり、実際の内容は、自分が「古い女」であることをことさら強調することよって、それに代わる「新しい女」像を逆説的に浮き彫りにしていた。保子が「見るからに日本的な内気な奥さんという感じ」162の女性だったことを考えれば、この文章のなかに大杉の影を見たとしても、あながち憶測とばかりは言い切れなかったであろう。そして、すでに紹介したように、伊藤野枝と紅吉とは、上野の図書館への行き道を競って歩いたことに端を発して知り合い、その後青鞜社のなかにあって年の近い小林哥津を加えて、あたかも三羽烏のごとくによく遊び、よく話もした仲間同士であった。また一方、少し年長の神近市子とは、『青鞜』創刊一周年を記念して開かれた宴席で知り合って以来、「生涯の盟友」と呼ぶにふさわしい関係へと、晩年に向けてそのきずなを強めていくべく間柄にあった。こうした自分の周りの親しい友人たちのあいだで、旧弊な制度や習わしに縛られない、いわゆる「自由恋愛」といった名のもとに、そのような凄惨な事件が数年ののちに起きようとは、紅吉の鋭い直感力をもってしても、当時全く想像だにできなかったのではなかろうか。

「アダムとイヴ」を彫り、「藝娼妓の群に對して」を書き終わると、紅吉は、この年(一九一三年)の第一三回巽画会絵画展覧会へ出品するために《枇杷の實》【図二五】【図二六】と題された六曲屏風一双の製作に本格的に取りかかったものと思われる。この作品は褒状一等に入選した。昨年度の作品《陶器》が三等賞銅牌であったことを考えると、ひとつ下の受賞ではあったが、その間新聞にあって「五色の酒を飲み、吉原に遊ぶ新しい女」といったイメージでセンセーショナルな話題をふりまいていた紅吉の作とあって、世間の関心は高かった。四月五日付の第七巻第七号の『多都美』は、紅吉の絵の総見が準備中であることを報じている。

 靑鞜社を退いた尾竹紅吉女史は殆と一ケ月の間寢食を忘れて本鄕西須賀町の生田長ママ氏方の二階に閉ぢ籠り畫導を揮つてゐたが、殊に出來得るや本會出品した。畫は六曲屏風一双にて藤原時代の人物を描き『枇杷の實』と題せるが落款は本名の『一枝』で感じのいゝ作である。されば別記の如く紅吉の知己はち大連の總見をなさんとて其準備中である163

この号の『多都美』は、総見が準備中であることだけでなく、別の「消息欄」において、「尾竹一枝氏はママ父尾ママ竹坡氏の後援に依て文藝雜誌を發行するさうである」164と報じ、一枝の次の計画について短く言及していた。そして、この予告どおりに、そのおおよそ一年後に『番紅花さふらん』という雑誌が一枝の手によって創刊されることになるのである。

準備が整い、四月一日に、ジャーナリストや文化人が参加して総見が行なわれた。「事務所ではママりに『お腹が痛い』と云つていゐた」一枝ではあったが、それでも、二〇歳の門出を祝うかのような、春欄漫の晴れがましい催しだったにちがいなかった。さらにそのときの様子を、『多都美』は次のように伝えている。

 靑鞜派の一人として新らしい女の名を天下に馳せた尾竹紅吉氏の丹靑の花が麗しく本會の展覧會場に咲いたので、春の上野は去年に增して人目を集めた。中にも文士、畫家、女優の面々が同氏のために總見をやつたのは振つてゐた。時は四月一日正午である。文士の生田君を始めとして新聞記者畫家女優等數十名韻松亭から會場へ繰込むで熱情を罩めた紅吉氏の六曲屏風一双と云ふ大作「枇杷の實」の前に立つて讃美の聲を漏らす。……嚴君越堂氏や、ママ父國觀氏は其娘姪の今日の譽れに一種のプライドを感じたらしい面持ちであつた。……因に紅吉氏の繪は福島於莵吉氏が買つた165

しかしこの四月二〇日付の『多都美』には、一枝の作品に対する歯に衣着せぬ批評文も、同時に掲載されていた。以下は、津田靑楓の「巽會展覧會を見て」の一節である。

 近頃、新聞や雜誌で馬鹿に持て囃やす所謂新らしき女の一人に尾竹紅吉と云ふがある。其人の作も出てゐるのでニヤケた三文蚊士や靑蹈派のお轉婆連が總見をやつたと云ふ騒ぎ、如何な名作かと見れば昔の繪巻物からとつて來た構圖に何等の新奇も、創意もない古い古いものである。新らしい女ならばコンベンシヨンを破壊したものを描きさうなものだ。あんな下らない模倣的なものを出して新らしい女が呆れて了ふ。名作に旨いものがないとは眞理である。僕は失望した166

そして次の号に、黒田鵬心の批評記事「淸水町より 巽畫界展覧會を觀て」が出た。そのなかで鵬心は、一枝の作品についてはこのように評していた。

この繪は所謂新しい女たる紅吉女史の作だと云ふので注目されてゐるが、繪としても注意すべきものである。殊に婦人の繪としては今までの婦人か多く華美な風俗畫を描いてゐたのと代りこれは男の畫家の題材と少しも違ひがないので珍らしい、實は去年の此の展覧會では男とも女とも知らず、越堂氏の子とも知らずに可なりうまいと思つて觀た、併し竹坡氏の模倣のうまいのだと云つた。その言に就いて女史は後で大に怒つて余の友人に詰問したと聞いたが、今年の繪も亦大體に於いて竹坡氏の模倣を出ないと思ふ。金と銀と黄とあまり違はぬ繪具を用ひて全體の調子を纏めたところは此の繪の第一の佳い所である167

鵬心のこの「淸水町より 巽畫界展覧會を觀て」は、出品作品の短評で構成された記事で、どの作品もわずか一行か、せいぜい二、三行の寸評であるのに比べて、《枇杷の實》の批評だけが、このように突出した長文となっていた。それだけこの作品が、鵬心の関心を強く引き付けていたことは間違いなかったであろう。

その一方で、こうしたまともな作品評に交じって、この時期の記事のなかには、皮肉や冷やかしを少々感じさせるものもあった。たとえば、『讀賣新聞』の「紅吉の畫が賣れる――三百圓で花魁身受の噂」の記事がそうである。すでに紹介したように、確かに昨年七月一〇日付の『萬朝報』の「女文士の吉原遊」のなかにおいて、記者のインタビューに答えるかたちで紅吉は、「私の花魁は榮山さんと云ふ可愛い人でしたよ……私は眞實に身受がしたくなり茶屋へ歸つてから聞きますと千兩は掛かると云ふんです」と、語っていた。「紅吉の畫が賣れる――三百圓で花魁身受の噂」を書いた『讀賣新聞』の記者は、おそらくこのことが頭のなかに印象深く残っていたのであろう。また、この作品が、世間の関心を引いている「新しい女」の作品ではなく、まだ無名の普通の男女の作品であったならば、このような騒ぎが起こっただろうかという思いもあったかもしれない。いずれにしてもこの記者は、三〇〇円で絵が売れたことと、栄山の身受け話と、そして文芸雑誌の創刊予告とをうまくつなぎ合せて、次にみられるような刺激的で話題性に富んだ記事へと仕立て上げたのだった。

新らしい女の標本の樣に伝はれてゐる尾竹紅吉は見樣見眞似で繪筆を弄ぶことが上手な上に巌父越堂氏の仕込で一通り物になつて居るが、今回一枝といふ畫名で巽畫會に出品したのは「枇杷の實」と題する六曲屏風で、大枚三百圓と札がつけてある、世間は妙なもので、新しい女のやる事なら、何に限らず大騒ぎをする、この畫の總見なども馬鹿騒ぎの一つだろう……その畫は開會間も無く物好きな福島於莵吉氏が買取つたので、紅吉はホクホクもの、サテ其の三百圓は何うなるのかと云へば、今度紅吉が出す雜誌の保證金に充てるのだそうだ、花魁身受なぞと評判を立てゝ置いて、陰でペロリと舌を出す紅吉も女ながら人が惡い168

一枝は、根津神社に近い生田長江宅に寄寓し、「殆と一ケ月の間寢食を忘れて」この《枇杷の実》を製作した。もうこの時期になると、母親のうたと妹の福美も大阪を離れ、下根岸の地で家族そろって生活していたものと思われる。一枝が生田宅の一室をなぜそのとき間借りしていたのか、その理由はよくわからないが、家族の上京に伴い手狭になり、製作に集中できる部屋が必要とされたのかもしれない。あるいは、「紅吉の今の家は大變家相が惡くて長女が病死する」169らしく、そのことを気に病んでのことであったのであろうか。もっとも、その少し前、立ち退きを迫られていた生田は、次の借家として、根津権現上の高台に大小九室もある立派な二階建ての家を見つけると、その家賃の八〇円の支払いについて、当時慶応義塾の学生であった佐藤春夫に、「無理をして六十円は出すが、あとの二十円のところを五円は[生田]春月君に出させる。あとの十五円で君はその家の一番気に入った一室に来て住む気はないかという相談」170をもちかけ、佐藤はそれに同意している。この新たに賃貸された生田家の豪邸に一枝が同居するにあたっても、そうした事情がひょっとしたら隠されていたのかもしれないが――。

「生田家にいる姉のもとへ、家からのおつかい役で出入りする紅吉の妹、福美ふくみさんを、佐藤春夫が見そめたのもこのころでした。福美さんはその名のように、大柄なからだながら、姉さんとは違って女らしい、やさしい感じの関西ふうな美しい人でしたが、たいへんな姉思いで、何ごとにつけ、『姉さん、姉さん』と、紅吉を大事にするのでした」171。しかし、ふたりの恋を知った越堂は、それを認めようとはしなかった。尾竹したしが、一枝から聞いたこととして伝えるところによると、こうである。

「あんな、片方の手を懐に入れたままものを書く奴には、どうせ碌なのがいない……」という父の反対で、お互いに心を引かれながらも、結局この二人の淡い恋は実を結ばなかった。
「そのころ、私が佐藤さんの恋文を妹に手渡す役をしたわけなんですが、あいだにはいって私が邪魔をしているんではないかと、佐藤さんは大分邪推していたようです」172

島田謹二は、この時期の佐藤の詩作について、こう解説する。

 その心境は、「泉と少女」と題する詩の中に直寫されている。……詩風はこれまでのものにくらべて、まるで一變しているのではないか。ここに表われる「少女」は……當時名を知られた日本畫家の令嬢であつた。……彼は改めてわが身の在り方を省み、清らかな少女にふさわしい清純な魂の人に立ち戻ろうとした。……尾竹ふくみとの戀を契機にして、彼は或る意味で人間がかわつた。生活もかわつた。これから、彼は一種のどん底のなかをさまよい歩いて、詩筆を捨てた173

春夫は、「少年の夢をいざなふ」少女福美の清らかさを、こう歌い上げた。次は、その「泉と少女」の前半部分である。

泉よ、泉よ、水の舞踏よ、
杯にあふれ出づる山の酒よ、
奏づる妖精の歌にあはせて、
よき花かげにをどりいでつつ、
汝はメルヘンのなつかしさもて
しばしば少年の夢をいざなふ174

この詩が発表されたのは、一九一三(大正二)年一月の『三田文学』においてであった。そうであれば、春夫と福美がはじめて顔を合わせたのは、前年の暮れのことだったのだろうか。しかし、ふたりの淡い恋は、最後まで淡いままで、何か具体的なかたちをなすようなことはなかった。一方、紅吉と青鞜社との結び付きも、潮が引くように、しだいに弱まっていった。おりしも『中央公論』は「臨時増刊婦人問題号」を七月に刊行した。そのなかで「平塚明子論」が組まれ、一〇人の論者のなかに交じって紅吉も「自叙傳を讀んで平塚さんに至る」と題された人物評論を寄稿した。昨年の一〇月三一日付の最終回の「新らしがる女(六)」では、「平塚女史から大變怒られたのでモウこれから平塚の事は一切口にしないと[紅吉は]言つてゐる」と報じられていた。それから約八箇月が過ぎ、紅吉はいま一度らいてうを見詰めた。そして自分を見た。

 いゝにしろ、わるいにしろ、人一人をあらたまつて評をすると云ふことは随分責任のある、そしてむつかしいものです。……私が一番最初に平塚さんを知つたのは[森田]草平氏の自叙傳を讀んだ時なんです。その時私は随分、樣々の好奇心を自叙傳を通して平塚さんの上に描いておりまいた。そしてどうも不思議なすばらしい人だとも考え、恐ろしい人のようにも考え、女として最も冷つこい意地の惡い人のようにも思つてをりました、……そして讀み終つた日などは、すぐにでも東京に出て面會して私の解釋がどうだかみきはめたいとまで好奇心を一ぱいもつてをりました。……平塚さんの門の前に連れてこられたその時、私は右の手に自叙傳でも持つて一々讀んでゐるかのやうに、舞臺監督のやうな心持で私はそら芝居が始るのだと云ふ風で門をあけました。……私が再び上京してから、私と平塚さんはよく逢ふやうになつたんです。私が自叙傳をよんだときに握つてしまつた好奇心をどうにかしてはつきりしてしまひたいと云ふ私の行為は、又いつの間にか平塚さんからもいぶかしい不思議な奴だなあ、どんな奴かと云ふそこに起きてくる自然の好奇心がいつの間にか、かち合つて、そうした中から、いつの間にか眞實が生れそして私と平塚さんは、一歩ふみ込んだ場所に愛と云ふものを結びつけて立つてゐるやうになつたのです。……私はかつての私と平塚さんの間の感情や行為を思ひ出しますと、とてもこの原稿がかけません。平塚さんは、私達よりも、どれだけ涙もろかつたでせう。私はあらゆる我儘をしてゐたゞけ平塚さんを困らせたものです。今考えると全くお氣毒です。……なんだかばらばらになりましたが、私はこれより以上かくことを好みません。……この記事はかへつて平塚さんの今の位置なり、名譽なりを傷つけたかも知れませんが、しかしその邊のことはどうぞしかるべく御許し下さい。私がこの原稿をかくに對して、充分の好意をもつてゐることは、全く實際だと云ふことを信じてゐますから175

らいてうは、これをどう読んだであろうか。ここに至って紅吉は、ふたりの愛に向う様相を内省的に位置づけると同時に、破局に際してのらいてうの忍従の姿に思いを馳せる。何か、母親をいたわるかのような、かつての無邪気な少年の、成長ののちに現われる大人びた気配が、この一文「自叙傳を讀んで平塚さんに至る」には漂っている。しかしながら、こうした紅吉のらいてうに対する冷静で理性的な距離の置き方と、そのときの『青鞜』が発信した距離の置き方とでは、大きく異なっていた。翌月に刊行された『青鞜』八月号の「編輯室より」の記述に、それを見ることができる。たとえらいてうの筆になる記述ではなかったとしても、あまりにも形式的で事務的であり、その分紅吉に冷たかった。以下は、その記述の抜粋である。「尾竹紅吉氏がまだ本社の社員であるかのやうに思つてゐる方もあるやうですが、同氏が自分から退社を公言されたのは昨年の秋の末だつたかと思ひます。……同氏の特殊な性格を知つて居ますから社は大抵は黙許して参りました。けれども今日はもう社とも、社員とも全然何の關係もありません。従って同氏の言動に就ては……社にとつてもらいてうにとつても誠に迷惑なものであります」176

こうして、表紙絵「太陽と壷」と巽画会への出品作品《陶器》にはじまり、「同性の恋」「五色の酒」「吉原登楼」そして「恋の破綻」を経て、表紙絵「アダムとイヴ」の製作と巽画会への《枇杷の實》の出品をもって、紅吉の青鞜社時代は最終的に幕を閉じ、七月の下旬、紅吉いや一枝は、長野、新潟、そして秋田への旅に出るのである。

(二〇〇九年)

第一部 第二章 図版

(1)尾竹竹坡に関する評伝として、次のものがある。尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年。著者の親は、竹坡の次男。この評伝のなかで、一枝の出生に関して、「紅吉――即ち尾竹一枝は、明治二十六年四月二十日、父熊太郎(越堂)の長女として、富山市の越前町で生まれた」(234頁)と記述されている。おそらく晩年の一枝によって提供された情報であると思われるが、一方、一枝が在籍した根岸尋常高等小学校の生徒明細簿(尋常科ノ部)には、一枝の生年月日は「明治二六年三月二〇日生まれ」と記載されており、「三月二〇日」であった可能性が全くないわけではない。

(2)尾竹國觀に関する評伝として、次のものがある。尾竹俊亮『闇に立つ日本画家――尾竹国観伝』まろうど社、1995年。著者の俊亮は、國觀の孫。

(3)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、234頁。

(4)富本一枝「母親の手紙」『女性』、1922年12月号、150頁。

(5)富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『講座女性5 女性の歴史』三一書房、1958年、172頁。

(6)尾竹親は、一枝が受けた教育について、次のように記述している。おそらく晩年一枝へのインタビューから得られた情報であろう。「[父の越堂は]たまたま明治三十二年の大火を機に、上京、その後大阪に移り、再び上京しているが、そうした移転にともない、一枝も三年までは東京の根岸小学校で学び、のち大阪に転校、尋常高等二年の時、たまたま夕陽ヶ丘女学校が創立されたので入学、そこの第一期生となった」(前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、234頁)。

(7)『創立百十周年記念読本「根岸」』東京都台東区立根岸小学校、1985年、5頁。

(8)東京都台東区立根岸小学校から与えられた情報によると、学年別男女別で入級日順に生徒に関する基本事項が記載された生徒明細簿が残されており、尾竹一枝に関しては、明治三二年と明治三三年の生徒明細簿(尋常科ノ部)にその記載が認められる。まず、明治三二年の生徒明細簿には、「明治三三年四月二日入級、明治二六年三月二〇日生まれ」と記載されている。このことは、明治三二年の年度末である明治三三年の三月ころに保護者から入学の意向が示されたことをおそらく意味するのであろう。次に、明治三三年の生徒明細簿には、同じく「明治三三年四月二日入級、明治二六年三月二〇日生まれ」と記載されているほかに、「退」の印が書かれている。退校年月日は未記入ながら、成績が一学期分のみ記入されていることから判断して、二学期が終了する前までに転校ないしは休学したものと考えられる。なお、保護者については「祖父の尾竹倉松」、その職業については「画工」、住所は「中根岸三七番地」と記されている。

(9)前掲「母親の手紙」、同頁。

(10)富本一枝「愛者――父の信仰と母の信仰」『大法輪』第25巻第9号、1958年、57-58頁。

(11)東京都台東区立根岸小学校から与えられたさらなる情報によると、一枝は、一九〇二(明治三五)年二月二四日に、大阪市東区北久寳寺小学校から、この根岸尋常高等小学校へ転入している。届けられている住所は「下谷区中根岸町壱番地」であった。この二度目の東京滞在が、どのような理由から行なわれたのかはわからない。しかし、「父の仕事の都合で、小学校三年まで、東京にいた父の祖父母に預けられていました」と、一枝が回想しているところから判断すると、このときの東京滞在には、何か「父の仕事の都合」が関係していたのかもしれない。大阪への転居のために、一枝が再びこの学校を退学するのは、保存されている記録によると、一九〇三(明治三六)年九月三〇日のことであった。これは、一枝にとって、尋常科四年の在学途中の出来事ではなかったかと思われる。しかし一方で、この学校の尋常科を卒業し高等科一年に当時在籍していたことをうかがわせる記述がなされた別の関連資料も残されており、一枝の退学時の在籍学年については、現時点では必ずしも明確にすることはできない。

(12)前掲「愛者――父の信仰と母の信仰」、56頁。

(13)同「愛者――父の信仰と母の信仰」、56-57頁。

(14)前掲「青鞜前後の私」、同頁。

(15)「『靑鞜社』のころ(二)」『世界』第123号、岩波書店、1956年3月、137頁。

(16)前掲「愛者――父の信仰と母の信仰」、57頁。

(17)前掲「青鞜前後の私」、172-173頁。

(18)同「青鞜前後の私」、173頁。

(19)「『靑鞜社』のころ」『世界』第122号、岩波書店、1956年2月、130頁。

(20)同「『靑鞜社』のころ」、131頁。

(21)同「『靑鞜社』のころ」、同頁。

(22)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、同頁。

(23)富本一枝「母の像――今日を悔いなく」、日本子どもを守る会編『子どものしあわせ』6月号(第121号)、草土文化、1966年、3頁。

(24)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、同頁。

(25)前掲「青鞜前後の私」、同頁。

(26)『創立80周年記念誌』大阪府立夕陽丘高等学校、1986年、84頁。

(27)「文藝會と運動會」『大阪毎日新聞』、1909年11月7日、日曜日。

(28)『夕陽丘百年』大阪府立夕陽丘高等学校、2006年、88-89頁。

(29)前掲『創立80周年記念誌』、66頁。

(30)「春淺き夕陽丘――高等女学學校の運動會」『大阪毎日新聞』、1910年3月21日、月曜日。なお、同じ日付の『大阪朝日新聞』においても、この運動会の様子は取り上げられた。記事の大半は、割烹着を着て頭に手拭いを巻いた、いわゆる世話女房姿で四年生が行なった「簇張しんしはりの競技」の模様についてであり、写真入りで紹介されている(「簇張りの競技」『大阪朝日新聞』、1910年3月21日、月曜日)。

(31)前掲「青鞜前後の私」、同頁。

(32)前掲『夕陽丘百年』、94頁。

(33)富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、82頁。

(34)前掲「『靑鞜社』のころ」、127-128頁。

(35)前掲「痛恨の民」、83頁。

(36)同「痛恨の民」、84頁。

(37)同「痛恨の民」、同頁。

(38)『女子美術大学八十年史』女子美術大学、1980年、48-49頁。

(39)前掲「痛恨の民」、85頁。

(40)同「痛恨の民」、同頁。

(41)同「痛恨の民」、同頁。

(42)同「痛恨の民」、85-86頁。

(43)同「痛恨の民」、86頁。

(44)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、24-25頁。

(45)同『元始、女性は太陽であった』第2巻、26-27頁。ところで、尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』(東京出版センター、1968年)のなかに「紅吉べによし考」の一節が挿入されているが、これによると、紅吉は、慣わしとして「こうきち」と呼ばれてきたが、もともとは「べによし」と読むものであったらしい。

(46)『青鞜』(第2巻第1号、1912年1月、172頁)に「尾竹一重ママ 大阪南區笠屋町五一」との記載がみられる。

(47)前掲「痛恨の民」、87頁。

(48)らいてう「一年間(つづき)」『青鞜』第3巻第12号、1913年12月、9頁。

(49)前掲「痛恨の民」、88頁。

(50)同「痛恨の民」、同頁。

(51)同「痛恨の民」、同頁。

(52)同「痛恨の民」、同頁。

(53)同「痛恨の民」、同頁。

(54)前掲『元始、女性は太陽であった』第2巻、29頁。

(55)前掲「痛恨の民」、86-87頁。

(56)平塚らいてうは『青鞜』という雑誌名の由来について、次のように述べている。らいてう自身は、お気に入りの黒燿石に因んで『黒燿』という誌名を考えていたようであるが、「生田[長江]先生も熱心にあれこれと考えて下さって、思いつく名を挙げているうちに、はたと膝を打って『いっそブルー・ストッキングはどうでしょう。こちらから先にそう名乗って出るのもいいかもしれませんね』ということになったのでした。わたくしは、このときはじめてブルー・ストッキングという言葉をしりましたが、そのときの生田先生の御説明や、あとでエンサイクロペディアで調べたところでは、ブルー・ストッキングという言葉の起こりは、十八世紀半ばごろ、ロンドンのモンタギュー夫人のサロンに集まって、さかんに芸術や科学を男たちといっしょに論じた婦人たちが、黒い靴下が普通であった当時青い靴下をはいていたことから、なにか新しい、いわゆる女らしくないことをする婦人にたいして、嘲笑的な意味で使われた言葉ということでした。それでわたくしたちの場合も、女が仕事をやり出せばきっと世間からなにかいわれるに違いないから、こちらから先に『ブルー・ストッキング』を名乗って、先手と打っておこうというわけでした。……わたくしたちは生田先生と相談して、これに『青鞜』の訳字を使うことにしました」(平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第1巻、大月書店、1992年、326-327頁)。

(57)尾竹紅吉「赤い扉の家より」『青鞜』第2巻第5号、1912年5月、48頁。

(58)『多都美』第6巻第8号(1912年4月20日)に、第一二回巽画会絵画展覧会審査委員長の河瀬秀治による「審査報告」に加えて、受賞者の名前と作品名が掲載されている。これによると、この展覧会の受賞者は、二等賞銀牌八名、三等賞銅牌一一名、褒状一等一六名、褒状二等二〇名、褒状三等二五名であった。

(59)黒田鵬心「巽畫會展覧會を觀る(上)」『多都美』第6巻第9号、1912年5月5日。

(60)黒田鵬心「巽畫會展覧會を觀る(下)」『多都美』第6巻第10号、1912年5月20日。

(61)雜報「尾竹越堂氏東京に轉ず」『多都美』第6巻第9号、1912年5月5日。

(62)前掲「赤い扉の家より」、51頁。

(63)南薫造「私信徃復」『白樺』1912年1月、68頁。

(64)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、47頁。

(65)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(66)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(67)「展覧會雜事」『美術新報』第11巻第6号、1912年4月、198頁。

(68)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、49頁。

(69)田澤操「雨の日」『青鞜』第2巻第5号、1912年5月、61頁。

(70)山本茂雄「富本憲吉・青春の奇跡――出会い・求愛・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、73頁。

(71)尾竹紅吉「或る夜と、或る朝」『青鞜』第2巻第6号、1912年6月、116頁。

(72)しかしながら、南薫造宛ての一九一二(明治四五)年四月七日付書簡には、富本は、この「黒い壷(木版)」をこの時点で一枝に送ったとは書いていない。富本は、「それで昨夜大いにカンズッてやった壷を此の手紙と一處に送る。これで先づ壷を刻む事も一段落とする。此の試作は第一に材料を送って呉れた榮公、最も大き感化を呉れた長原先生と君に送ったぎり」(前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、49頁)と書いている。

(73)「編輯室より」『青鞜』第2巻第6号、1912年6月、121-122頁。

(74)前掲「或る夜と、或る朝」、115-116頁。

(75)「編輯室より」『青鞜』第2巻第7号、1912年7月、110頁。

(76)前掲「『靑鞜社』のころ」、129頁。

(77)前掲『元始、女性は太陽であった』第2巻、37-39頁。

(78)「女文士の吉原遊」『萬朝報』、1912年7月10日、水曜日。

(79)同『萬朝報』、同日付。

(80)「所謂新らしき女(二)」『國民新聞』、1912年7月13日、土曜日。

(81)前掲『元始、女性は太陽であった』第2巻、40頁。

(82)同『元始、女性は太陽であった』第2巻、32頁。

(83)らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、79頁。

(84)同「圓窓より」、80頁。

(85)同「圓窓より」、81-82頁。

(86)同「圓窓より」、82-83頁。

(87)同「圓窓より」、83-85頁。

(88)同「圓窓より」、87頁。

(89)同「圓窓より」、同頁。

(90)同「圓窓より」、88頁。

(91)同「圓窓より」、同頁。

(92)同「圓窓より」、89頁。

(93)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、53-54頁。

(94)坂井犀水「新時代の作家(一)」『美術新報』第11巻第3号、1912年1月、82頁。

(95)佐藤碧坐「富本君のポートレー」『中央美術』第8巻第2号、1922年、96-97頁。

(96)前掲『元始、女性は太陽であった』第2巻、43-48頁。

(97)奥村博史『めぐりあい 運命序曲』現代社、1956年、35頁。

(98)前掲『元始、女性は太陽であった』第2巻、49頁。

(99)同『元始、女性は太陽であった』第2巻、49-52頁。

(100)同『元始、女性は太陽であった』第2巻、56頁。

(101)同『元始、女性は太陽であった』第2巻、同頁。

(102)同『元始、女性は太陽であった』第2巻、57頁。

(103)同『元始、女性は太陽であった』第2巻、同頁。

(104)尾竹紅吉「その小唄」『青鞜』第2巻第9号、1912年9月、126-130頁。

(105)前掲『めぐりあい 運命序曲』、60頁。

(106)同『めぐりあい 運命序曲』、60-61頁。

(107)前掲「痛恨の民」、89頁。

(108)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、239頁。

(109)前掲「『靑鞜社』のころ」、127頁。

(110)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、237頁。

(111)『伊藤野枝全集』第1巻、學藝書林、2000年、156頁。

(112)紅吉「歸へつてから」『青鞜』第2巻第10号、1912年10月、129頁。

(113)同「歸へつてから」、131頁。

(114)「編輯室より」『青鞜』第2巻第10号、1912年10月、135頁。

(115)同「編輯室より」、135-136頁。

(116)富本一枝「一つの原型」、草野心平編『高村光太郎と智恵子』筑摩書房、1959年、289頁。

(117)前掲「歸へつてから」、130頁。

(118)同「歸へつてから」、同頁。

(119)前掲『元始、女性は太陽であった』第2巻、58頁。

(120)江口渙『わが文學半世紀』(靑木文庫)靑木書店、1953年、84-85頁。

(121)このことについて平塚らいてうは、「尾竹竹坡さんがこの家の常連であったことから、竹坡さんの御紹介でここを使ったのでした。そのため、竹坡さんからあらかじめ申しふくめられていたのでしょうか、会のあとでわたくしが支払いをしようとしても、どうしても受けとりません。竹坡さんがこうした好意をわたくしたちに示してくれたことには、紅吉との関係だけでなく、世間の非難のなかに立つ青鞜社を後援してやろうという、竹坡さんらしい気骨のあるお気持ちもあってのことでしょう」(前掲『元始、女性は太陽であった』第2巻、49頁)と回想している。一方尾竹竹坡は、この年の「新年の所感」を『多都美』に寄稿し、そのなかで自分の酒の飲み方をこう告白していた。「僕は獨り好むで遊ぶものではない。友人や、知己の交際で酒も飲み、亦遊ぶのである。此の樣にして人にも馳走をし、人からも饗を受ける」(『多都美』第6巻第2号、1912年1月20日)。

(122)『神近市子自伝 わが愛わが闘い』講談社、1972年、102頁。

(123)このコラムについて、のちに小野賢一郎は次のように述懐している。「この[一九一二年の]秋、私は『東京觀』と題して續き物を書き始めた。讀み物は益々調子を高めて行つて、『東京觀』では、當時の東京の社會相の解剖といつたやうなものを扱つたのである」(小野賢一郎『明治・大正・昭和――記者生活二十年の記録』萬里閣書房版、1929年、156-157頁。本稿執筆にあたっては、次の復刻版を利用。小野賢一郎『明治大正昭和――記者生活二十年の記録』大空社、1993年、156-157頁)。

(124)「東京觀(三十) 新らしがる女(一)」『東京日日新聞』、1912年10月25日、金曜日。

(125)前年(一九一一年)の第五回文展では、越堂の《韓信》が入選し、竹坡は《水》で二等賞を、そして國觀は《人まね》で三等賞を得ていた。それに比べて、なぜこの年(一九一二年)の尾竹三兄弟の結果は、このように低調に終わったのであろうか。とりわけ越堂の出品作が落とされたのは、どのような理由からだったのか。國觀の孫である尾竹俊亮は、その経緯について、次のように述べている。「最終的に三兄弟をおとしたいのが[横山]大観らの本心であった。その前段として文展歴のあさい越堂をおとしてみたわけだ。大正元年[一九一二年]、彼の全作がおとされ国観らの出品画が褒状へさげられる。この年の文展で他評も高かかった越堂、祝いのビールを飲もうとするとき落選の電報が文部省からとどく。六尺・二二貫の大男が身を屈し情けなさをかみしめたのだった」(尾竹俊亮『闇に立つ日本画家――尾竹国観伝』まろうど社、1995年、186-187頁)。そして三兄弟へのこの冷遇は、翌年(一九一三年)の第七回文展でさらに決定的なものになる。

(126)「新しい女」について、のちに小野賢一郎は次のように述懐している。「新しい女といふ言葉もその頃からやかましくなつた、平塚らいてう、尾竹紅吉等の靑鞜社一派の運動は相當に珍らしいものであつた。當時はカフエー、バーといふものも珍らしかつた、文士連中は鎧橋の近くに出來たメーゾン鴻の巣でパンの會など開いてうれしがつてゐた頃で、バー、カフエーの珍らしいものに、靑鞜社の人々が結びつけられて、五色の酒――卽ち新しい女といふやうに世の中の人に見られて來た。私は、その頃根岸の御行の松の近くに住んでゐたので、尾竹紅吉氏の近所であつたから、よく行きもし、お父さんの越堂氏ともよく會つたものである、この人々もカフエ、バーにも相當に行つたには違ひないし、また私も一緒に行きもしたが、今日から考へると何でもないことであるが、当時としては、婦人が堂々と思想を發表したことが如何に世間を驚かしたものか、また五色の酒や紅茶コーヒーが如何に珍らしがられたものかを推しはかることが出來る」(前掲『明治・大正・昭和――記者生活二十年の記録』、158-159頁。本稿執筆にあたっては、次の復刻版を利用。前掲『明治大正昭和――記者生活二十年の記録』、158-159頁)。

(127)前掲「東京觀(三十) 新らしがる女(一)」。

(128)同「東京觀(三十) 新らしがる女(一)」。

(129)「東京觀(三一) 新らしがる女(二)」『東京日日新聞』、1912年10月26日、土曜日。

(130)同「東京觀(三一) 新らしがる女(二)」。

(131)「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」『東京日日新聞』、1912年10月27日、日曜日。

(132)「東京觀(三三) 新らしがる女(四)」『東京日日新聞』、1912年10月29日、火曜日。

(133)同「東京觀(三三) 新らしがる女(四)」。

(134)同「東京觀(三三) 新らしがる女(四)」。

(135)同「東京觀(三三) 新らしがる女(四)」。

(136)同「東京觀(三三) 新らしがる女(四)」。

(137)「東京觀(三四) 新らしがる女(五)」『東京日日新聞』1912年10月30日、水曜日。

(138)「東京觀(三五) 新らしがる女(六)」『東京日日新聞』、1912年10月31日、木曜日。

(139)同「東京觀(三五) 新らしがる女(六)」。

(140)前掲『元始、女性は太陽であった』第1巻、326頁。

(141)前掲「東京觀(三五) 新らしがる女(六)」。

(142)前掲『元始、女性は太陽であった』第2巻、75頁。

(143)同『元始、女性は太陽であった』第2巻、76-77頁。

(144)紅吉「群集のなかに交つてから」『青鞜』第2巻第11号、1912年11月、97-99頁。

(145)尾竹紅吉「冷たき魔物」『青鞜』第2巻第11号、1912年11月、ノンブルなし。

(146)「東京觀(三六) 紅吉より記者へ(上)」『東京日日新聞』、1912年11月1日、金曜日。

(147)「東京觀(三七) 紅吉より記者へ(下)」『東京日日新聞』、1912年11月2日、土曜日。

(148)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、252-253頁。

(149)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、29頁。

(150)同『私の履歴書』(文化人6)、34-35頁。ところで、憲吉と一枝は、どの程度酒を飲めたのであろうか。憲吉は学生生活を振り返って、「酒は飲まないし女遊びはしないし、友だちと遊び回るということもなかった」(『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、192頁)といっている。憲吉は愛煙家ではあったが、生涯酒を好まなかった。その憲吉は、一枝と面識をもったころ、バーナード・リーチにこう漏らしている。「それ以外のことではそのようなことはないが、酒を飲むことだけは、どうしても彼女にかなわない!」(Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 114.[リーチ『東と西を越えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、124頁を参照])

(151)「謂ゆる新しき女との対話――尾竹紅吉と一青年」『新潮』、1913年1月、104頁。

(152)同「謂ゆる新しき女との対話――尾竹紅吉と一青年」、105-107頁。

(153)前掲『元始、女性は太陽であった』第2巻、99頁。

(154)前掲「『靑鞜社』のころ」、127頁。

(155)前掲「東京觀(三一) 新らしがる女(二)」。

(156)尾竹紅吉「藝娼妓の群に對して」『中央公論』1月号、中央公論社、1913年、186-189頁。

(157)『中央公論社七〇年史』中央公論社、1955年、13-15頁。

(158)荒畑寒村『寒村自伝』上巻、岩波書店、1975年、347頁。

(159)同『寒村自伝』、349-350頁。

(160)同『寒村自伝』、377頁。

(161)前掲「『靑鞜社』のころ(二)」、138-139頁。

(162)前掲『元始、女性は太陽であった』第2巻、117頁。

(163)「紅吉の繪の總見――畫界に珍らしい催し」『多都美』第7巻第7号、1913年4月5日。

(164)「消息欄」『多都美』第7巻第7号、1913年4月5日。

(165)「紅吉氏の繪」『多都美』第7巻第8号、1913年4月20日。

(166)津田靑楓「巽會展覧會を見て」『多都美』第7巻第8号、1913年4月20日。

(167)黒田鵬心「淸水町より 巽畫界展覧會を觀て」『多都美』第7巻第9号、1913年5月5日。

(168)「紅吉の畫が賣れる――三百圓で花魁身受の噂」『讀賣新聞』、1913年4月8日。

(169)「編輯室より」『青鞜』第3巻第1号、1913年1月、136頁。

(170)佐藤春夫『詩文半世紀』読売新聞社、1963年、60頁。

(171)前掲『元始、女性は太陽であった』第2巻、101頁。

(172)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、256頁。

(173)島田謹二「解説」『佐藤春夫全集』第1巻、講談社、1966年、629-630頁。

(174)「泉と少女」『佐藤春夫全集』第1巻、講談社、1966年、55-56頁。

(175)尾竹紅吉「自叙傳を讀んで平塚さんに至る」『中央公論』臨時増刊婦人問題号、1913年7月、174-181頁。

(176)「編輯室より」『青鞜』第3巻第8号、1913年8月、195頁。