中山修一著作集

著作集3 富本憲吉と一枝の近代の家族(上)

緒言

周知のとおり、富本憲吉は、とりわけ陶芸の分野において大成した、日本の近代を代表する工芸家のひとりである。

富本は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)入学以前から、まだ日本にあってはほとんど紹介されていなかった、ヴィクトリア時代の詩人であり社会主義思想家であり、また同時にデザイナーでもあったウィリアム・モリス(一八三四―一八九六年)に関心を抱き、徴兵の関係から卒業製作を早めに提出すると、当時、親友の南薫造がすでにロンドンに滞在していたこともあって、一九〇八(明治四一)年の晩秋、モリスと室内装飾を研究するために私費でイギリスに渡ることになる。

一九一〇(明治四三)年六月に英国留学から帰国すると、その成果を、一九一二(明治四五)年三月一五日から三一日まで上野の竹の台陳列館北部で開催された美術新報主催の第三回美術展覧会において公開する機会が与えられるが、そのとき、作品を展示するにあたって富本は、ロンドン時代をともに過ごした画家の南に宛てた書簡のなかで、モリスへの熱い思いを次のように述べている。

……室全体を工藝、早く云へばモリスの気持でイッパイにしたものを見せたいつもり1

そして同じく一九一二(明治四五)年の二月と三月の二号に分けて、『美術新報』誌上に評伝「ウイリアム・モリスの話」を発表するのである。これは、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』に依拠しながらも、英国留学で得た知見を踏まえて、富本がモリスに倣って工芸家として立つうえでの、一種の宣言文となるものであった。この評伝の最後の部分を富本はこう締め括っていた。

「作家の個性の面白味」とか「永久な美くしいもの」は只繒や彫刻にばかりの物でなく織物にも金屬性の用具にも凡ての工藝品と云ふものにも認めねばならぬ事であります、モリスは此の事を誰れも知らぬ時にさとつた先達で又之れを實行して私共に明らかな行く可き道を示して呉れる樣な氣が致します2

しかし富本は、この「ウイリアム・モリスの話」において、モリスの社会主義について触れることはなかった。そのときの心情について、のちに富本は、「[イギリスから]帰ってきてモリスのことを書きたかっ ママ んですけれども、当時はソシアリストとしてのモリスのことを書いたら、いっぺんにちょっと来いといわれるものだから、それは一切抜きにして美術に関することだけを書きましたけれども」3と、述懐している。

ここで想起されなければならないことは、捏造された「天皇暗殺計画」を理由に、社会主義者や無政府主義者の二六人が逮捕され、翌年の一九一一(明治四四)年一月、大審院は、逮捕者全員に有罪の判決を言い渡したのち、『平民新聞』を創刊した幸徳秋水を含む一二人に対して、大逆罪での死刑が執行された事件に関してである。この「大逆事件」以降、日本の社会主義運動は、いわゆる「冬の時代」を迎えることになるが、帰国直後のこの事件は、富本に大きな衝撃を与えたにちがいなかった。ロンドンでは「彼[モリス]の組合運動などを調べてきました」4と、はっきりといっている。富本は「組合運動」という曖昧な言葉を使っているものの、これが社会主義運動を指し示していることは、ほぼ間違いないであろう。しかし、富本の視野にあっての時代状況は、それを日本において公表できるような環境から実に程遠いものであった。モリスが政治活動に精力を注いだイギリスの一八八〇年代と日本のこの時期とでは、明らかに、政治的、社会的環境が異なっていたのである。

しかし、その一方、日本の社会主義運動が「冬の時代」へと入っていくなかにあって、自我に目覚めた女性たちの発言の場が平塚らいてうを中心として形成されようとしていた。一九一一(明治四四)年の秋に創刊された雑誌『青鞜』がそれであり、その磁場に吸い寄せられていった女性たちに交じって、とりわけ世間の関心を引いたひとりの「新しい女」がいた。尾竹紅吉(本名一枝)である。一九一二(明治四五)年一月に青鞜社への入社が許されると、その四月、日本画家の父越堂とともに大阪から上京し、そこで紅吉は、「同性の恋」「五色の酒」「吉原登楼」といった一連の波紋を社の内外に向けて投げかけていく。これは、女性にあるまじき許しがたい不道徳な行為だったのであろうか、それとも、旧弊な日本の道徳や規範を打破するうえでのひとつの光明であったのであろうか。

その年の九月、約二箇月にわたる茅ケ崎の南湖院での転地療養から東京へもどった紅吉は、「歸へつてから」と題された一文を執筆し『青鞜』一〇月号に寄稿した。このなかで紅吉は、自己の性格に触れ、このように率直な内面分析を行なうのである。   

私は誰も知らない、自分たつた一人で大切にしてゐる面白い氣分があるのです。
よく考えて見ると、その氣分は幼い時からすつと今迄續いて來てゐたのです。これから先きもどんなにそれが育つて行くことか樂しむでゐます。人が知つたら恐らく危険だとか狂人地味た奴だとか一種の病的だろうとか位いで濟ましてしまうでしよう。   
私のその事が世間に出ると不眞面目なものに取扱はれて冷笑の内に葬らはて行くものだと考へてゐます。私が銘酒屋に行つたとか、吉原に出かけたとか酒場に通つて強い火酒に酔つたとか云ふことは其の大切にしてゐる氣分の指圖になつた 悪戯 わるふざけ なのです、薄つ片らな上づつたあれらの幼稚な可哀いい氣分を世間の人達は随分面白く解釋してゐます。
私は自分を信じてゐます。それだけに自分以外の人達には平氣で偽をついてゐます。
そのくせ私は人の言葉を妙に心配したり氣に懸けるのです5

「自分たつた一人で大切にしてゐる面白い氣分」――これが、この時期紅吉に自覚された自己の心的断面であろう。この「面白い氣分」は、周囲の秩序だった常識的な世界に混入されれば、多くの場合、「不眞面目なものに取扱はれて冷笑の内に葬らはて行く」運命をたどることになる。しかし一方、人が容易に抵抗できないでいる旧弊な壁にこの「面白い氣分」が投影されるならば、ときとしてその壁は相対化され、ものの見事に崩落する。徹底した純真性に潜む破壊力――そうした異界に作用する力としての「面白い氣分」を紅吉は自覚したうえで、「私は自分を信じてゐます」と、告白しているのであろうか。

偶然にもこの時期、富本自身も、自分の性格について触れている。『美術新報』の坂井犀水は、「新時代の作家(一)」として南薫造を取り上げた際に「氏の親友富本氏の感想」を挿入している。そのなかで富本は、南のことを以下のように記述し、あわせて自分の性格を「角の多いすぐ泣きたくなる、すぐ怒りたくなる、感じ易い私」と表現していた。

……美術學校やロンドンでは同じ室に住んだり、大抵毎日遇つて、私の友達のうちでは、最も親しい、又私に取つて最も尊重す可き人です。模樣や水彩は勿論、音樂、詩、とあらゆる方面に、高尚な趣味を敎て呉れた人です……大抵毎夜眠れない私は、眼を血ばしらして居りました。角の多いすぐ泣きたくなる、すぐ怒りたくなる、感じ易い私を、温和な南君が、長い間、此の美しい好みで良く誘導してくだすつた事を感謝して居ます6

イギリスでモリスの思想と実践を学び、帰国後、工芸のあるべき姿を懸命に模索しようとしていた、「角の多いすぐ泣きたくなる、すぐ怒りたくなる、感じ易い」憲吉。青鞜社の「新しい女」として世間に揶揄され、「自分たつた一人で大切にしてゐる面白い氣分」さえも適切に理解されないまま、周りの思惑に翻弄され苦しむ紅吉。このふたりが出会い、そして電撃的に結婚するのは、それから数年の時が立った一九一四(大正三)年一〇月のことであった。こうして日本の近代にあって、ひとつの「新しい家族」が二八歳の憲吉と二一歳の一枝によって誕生したのである。

これまでに公刊された夫たる富本憲吉(一八八六―一九六三年)ないしはその妻である富本一枝(一八九三―一九六六年)を扱った評伝および小説に、高井陽・折井美耶子『薊の花――富本一枝小伝』(ドメス出版、一九八五年)、吉永春子『紅子の夢』(講談社、一九九一年)、辻井喬『終りなき祝祭』(新潮社、一九九六年)、辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』(双葉社、一九九九年)、そして渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(不二出版、二〇〇一年)の五冊がある。それぞれに優れた作品であり、それぞれに独自の視点から描き出されている労作であることには間違いない。しかし、現在の関心から読み返してみれば、若干の難点を見出せないわけではない。無知と無理解を十分に承知のうえであえて言及すれば、『紅子の夢』と『終りなき祝祭』は、実名で書かれているわけではないが、その内容からして憲吉と一枝を扱ったものであることは明らかであり、それでもフィクションという形式がひとつの隠れ蓑としての役割を担い、虚実の混在にかかわって、うまくその責めを免れているといえる。書かれた意図については推し量るしかないし、また、文学的な価値について踏み込むことには手に余るものがあるが、少なくともこれまで何か学術の世界で話題になることはなかったであろう。『近代の陶工・富本憲吉』と『青鞜の女・尾竹紅吉伝』についていえば、前者は、小品ながらも年譜等が充実した、現時点で唯一の憲吉に関する評伝である。しかし、郷土が誇る陶芸家としての憲吉を顕彰する筆の勢いが勝るあまりに、実証性に欠ける記述が散見されると同時に、一枝の存在はほぼ完全に後景へと押し流されている。後者の作品は、期待されるフェミニズムの視点から描かれているものの、著者自身の女としての男性中心主義に対する憤りが随所に滲み出ており、その分主役としての一枝の言動の輝きは曇りがちになっているし、憲吉については、他の研究成果の追走か、あるいは一方的な独自の解釈に止まっている。また、評伝として最初に世に出た『薊の花――富本一枝小伝』は、この夫妻の長女の陽によって生前提供された情報によっておおかたその骨子が編年的に構成されており、それゆえに清楚な印象を与えるものの、その一方で、主題と文脈の希薄さがどうしても目に止まるのではないだろうか。

これらの作品に多かれ少なかれ共通している点は、憲吉と一枝のいずれかの立場から一方向的に書かれており、両者の人生と仕事を、同等の重みと双方向性とでもって描こうとする視点が欠落していることである。本書は、その点に着目している。というのも、明治から昭和にかけての近代日本における普通の家族の普段の生活に、意識的であろうと無意識的であろうと、共通して潜んでいたであろうと思われる、「日常感覚としてのモダニズム」といったものがあるとすれば、それはどのようなものであったのかを、憲吉と一枝の「近代の家族」のなかに探し求めることによって、遠く展望してみたいと考えているからである。

それでは、その記述の手法について、ここで簡単に検討しておきたいと思う。ジャン・マーシュの Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938 の邦訳書『ウィリアム・モリスの妻と娘』(晶文社、一九九三年)が出版されるにあたって、著者のマーシュは、原著執筆に際しての意向について、訳者に対して次のようなことを語っている。

 第一のねらいは、「公的」生活に対置されるところの「私的」生活の問題を真剣に取り上げ、公的あるいは専門的業績について論評するのと同じくらいに、個人の私的な振る舞いについても論議することである。……私の考えでは、こうしたことは公的生活と同様に調査し探求する価値があると思われる。……第二のねらいは、ストーリーテリングつまり伝記の「読みやすさ」に関するものである。……伝記というものは絶対的に厳密に確認可能な事実に肉薄しなければならないものである以上、自分で勝手に物語をつくり変えることはできない。したがって、おもしろく読める本にするためには、筆力に頼らなければならない。……したがって私が興味をもっていることは、第一に様々な女性の生活を発掘することであり、第二に政治的社会的文脈であり、第三にそして重要な点であるが、筆力の質なのである7

基本的には本書にあっても、ここで指摘されている諸点は踏襲されなければならないと思っている。とくに意を用いたいのは、「伝記というものは絶対的に厳密に確認可能な事実に肉薄しなければならない」という点である。というのも、一般的にいって、英国とは異なり、日本において出版された伝記においては、対象としている人物を無条件に賞讃せんがために事実を必要以上に拡大し加飾化したり、不在の資料を補わんがために興味本位の虚構をつくり上げて穴埋めしたり、書き手の人生観や価値観を執拗に投影せんがために最も重要な対象人物を後景に押しやったりする傾向が、これまでにときとして見受けられたからである。偶然ではあるが、このことに関連して、一枝のいとこの尾竹親が、日本画家として一時代を風靡するも挫折した父竹坡の伝記を執筆するにあたって、「紅吉考」と題された一稿を設け、そのなかで次のように述べているので、ここに紹介しておきたいと思う。「紅吉」とは、青鞜社時代の一枝の筆名である。

人間の言動というものは、決して一つの情景のみに定着して語られるべきものではなくして、その人間が生きた全存在の一環に組み込まれてこそ、はじめて、よりよくその映像を伝え得るものだと私は信じている。
 瀬戸内[晴美]氏[の『美は乱調にあり』という本]にしても、それが史実をもとにした 小説で ・・・ あって ・・・ みれば ・・・ 、フィクションとしてのある種の無責任さに救われているのだろうが、時間の経過というものは、得てして、伝説という神話をつくり上げたがるもので、いつかはそれが事実とまではならぬとしても、史実に欠けた情緒の補足としてのさばり返ることがよくあるものだ。私が、実名、或いは史実にもとづいた小説の安易さを恐れる理由が、ここにもあるわけである8

以上の引用は、青鞜社時代に紅吉が引き起こした、いわゆる「吉原登楼」事件における竹坡の役割を巡っての論点が念頭に置かれて書かれている箇所であるが、これは極めて重要な指摘であって、このことは、さらに普遍化されることも可能かと思われる。というのも、研究の対象たる歴史上の人物について、前後の関係や文脈から離れ、ある時代の一事象を特化して言及することには自ずと限界が存在し、それを乗り越えようとした場合、その人間の全生涯のなかにそれぞれの事象が組み込まれることによってはじめて、その人物の言動や作品の真の意味が実体化するのであって、そこに、伝記といった形式の本来の存在理由があるのではなかろうか、と考えるからである。小説という形式であれば、虚構を前提に読む楽しさもあるであろう。しかしその場合、虚実がない交ぜになっているというところに、尾竹親が指摘するように、「伝説という神話」を形成しかねない危険性が潜んでいるわけであり、さらにいえば、そうした形式が取られる限りは、対象が実在の人物であるがゆえに虚の部分を排し、真実としてのその人の人間存在を理解したいという知的欲求が満たされることは、最後まで期待できないのではあるまいか。それでは、伝記や評伝といった形式が、「実名、或いは史実にもとづいた小説の安易さ」の二の舞を踏まないためにはどうしたらよいのであろうか。

そのためのひとつの示唆を与えるのが、ジリアン・ネイラーの William Morris by himself という本であろう。この本は、『ウィリアム・モリス』(講談社、一九九〇年)という邦訳題ですでに翻訳出版がなされているが、この原著題をそのまま訳せば、「自らが語るウィリアム・モリス」といった程度のものになる。事実この本は、モリスが書き残した言説をうまくつなぎ合わせるかたちでもって、その人物の生涯が生き生きと描き出されているのである。つまり、外野席や後世の安全地帯から、人の人生をあれこれと詮索したり憶測を働かせたりするのではなく、実在した人間その人に自分自身の人生と作品とを語らせようとする記述の手法がここでは取られているのである。人の言説を別の言葉に置き換えて、つまり二次加工して解説的に記述する手法に比べて、可能な限りその人自身に直接語らせる手法の方が、記述内容の衝撃といったものは、はるかに読む側に伝わるのは確かであろう。つまり、外側の高みに立って対象を語るのではなく、内側に存する声に発話させることの言葉のもつ重みとでもいおうか。そのことにかかわってネイラーは、日本語版の「はじめに」のなかで、こう告白しているのである。

 この書物を編纂するため私が資料を選んでいたとき、当然のことながら、私はデザイナーとしてのモリスの作品には通暁しておりましたし、芸術や政治に対して彼がどんな理想を抱いていたかということも熟知しておりました。しかしながら、あらためて彼の論文や手紙などを繰り返し読んでいくにつれて、私はモリスが理想主義を頑として曲げなかったその勇気と気概と、自分の理想を実践に移すために彼が示した断固たる決意に強い感銘を受けたのでした。もちろん、モリスの伝記作家の多くの人たちも、この点を強調してはきました。しかし、モリスの抱いていた確信の強さや、その大きさや、したたかさは、モリスが実際に書いたことにこちらが全面的に没入してみて、初めて十分に伝わってくるのです9

「実際に書いたことにこちらが全面的に没入してみて、初めて十分に伝わってくる」というネイラーの実感は、全くそのとおりであろう。もっとも、いうまでもなく、それを単純に伝記に持ち込めば、言説を単縦列に並べただけの年代記ないしは引用の羅列に終始し、おそらく退屈な読み物にしかならないだろう。そうした陥穽に落ちないためには、すでに紹介した、マーシュが指摘する、語りを構成する「ストーリーテリング」つまり「筆力の質」が重要な要素となるのではないだろうか。つまり、言説を特定の社会的、文化的文脈に配置するうえでの主題と編集力が必要とされるのであり、いかなる主題のもとに言説を編集し、いかなる文脈にのせて歴史のなかに再配置するかということが重要なのではあるまいか。しかし、主題も文脈も、当然ながら、ひとつに固定されるようなものではないだろう。一般的にいって、主題や文脈が、一個人の書き手の関心から生まれるというよりも、むしろ移り変わる時代の関心によって与えられる以上、それに伴い編集力も変容し、伝記は、ひとつの伝記から次の伝記へと形式と内容を変えながら書き続けられてきたし、これからもそうなされていくにちがいない。つまり逆にいえば、伝記の質的差が時代の変量とも考えることができるのである。こうした現象は、たとえばモリスに関する伝記が、この一〇〇年以上にわたってどのようにして生み出され続けてきたのか、とくに最近のその様子を見るだけでも、十分に明らかであり、そのことを確かに例証しているのである。

そこで、本書では、以上において検討してきた執筆にかかわる幾つかの論点を十分に意識しながら、「近代の家族」に内在したであろうと思われる、「日常感覚としてのモダニズム」という文脈を用意したうえで、それに沿いながら、富本夫妻や子どもたちによって存命中に公表されていた家族を巡る断片的な言説を主として拾い集め、あわせて当時彼らと親交のあった人たちの証言を次なる資料として援用することによって、憲吉と一枝の家族のなかで生じた理想や安寧、あるいは葛藤や亀裂を物語っていきたいと思う。いわば本書は、主に憲吉と一枝が自ら語る、仕事、芸術、教育、友人、イデオロギー、性に関する闘争の場としての家族についての物語なのである。

(二〇〇八年)

(1)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、47頁。

(2)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年3月、27頁。

(3)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。

(4)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。口述されたのは、1956年。

(5)尾竹紅吉「歸へつてから」『青鞜』第2巻第10号、1912年10月、131頁。

(6)坂井犀水「新時代の作家(一)」『美術新報』第11巻第3号、1912年1月、82頁。

(7)ジャン・マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年、436-437頁。[The original text is Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986.]

(8)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、217頁。

(9)ジリアン・ネイラー編『ウィリアム・モリス』多田稔監修、ウィリアム・モリス研究会訳、講談社、1990年、3頁。[The original text is Gillian Naylor ed., William Morris by himself: Designs and Writings, Macdonald & Co, London, 1988.]