二〇世紀もすでに終わりに近づこうとしている現代とはどのような時代なのだろうか。とりわけ、「デザイン」という、目に見える具体的なかたちでもって文明の姿を構築してきた、そしてまた、これからもそうしようとする分野においては、現代をどのように理解しておいたらよいのだろうか。
かえりみれば、ちょうどいまから五〇年前の一九三三年は、ナチの台頭によってバウハウスが閉鎖された年であったし、一〇〇年前の一八八二年は、A・H・マクマードウによってセンチュリー・ギルドが創設され、アーツ・アンド・クラフツ運動が最盛期にあった時代であり、同時にそこから、アール・ヌーヴォー様式が生まれ出ようとしていた時代でもあった。さらにさかのぼる一五〇年前の一八三〇年代には、工学技術の進展に即応し、デザイン教育の諸改革がイギリスにおいて胎動しはじめようとしていた。
この間のデザイン史に関する考察が、多くの歴史家やデザイナーや建築家たちによって試みられてきている。なかでもわれわれは、ニコラウス・ペヴスナーの数多くの著作に影響を受けていることを認めなければならないだろう1。ペヴスナーの歴史観は、一般にいわれているとおり、近代デザイン(モダン・デザイン)の成立を勝ち残ったものとして歴史の中心にすえ、その前後の時代に行なわれた諸運動を、それぞれ近代デザインの源泉および展開として解釈し位置づける方法であった。しかし、このような歴史解釈が現代においても依然として有効なものであろうか。現代という時代に対する理解にもよるだろうが、少なくとも現代を何らかの危機感でもって見詰める場合においては、勝ち残ったものを不動のものとして固定し、現代をその延長に置くことからは新しい批判は萌芽しえず、したがってまた、その危機を超克すべきデザイン思想も生まれえないだろう。
現代の危機。そのことでいえば、われわれの身近な生活や環境を取り巻いているプロダクツが、一見豊かさと進歩のあかしであるかのように大量に、しかも多様に存在しながらも、自然と人間とプロダクツの三者の関係において決して安定した調和関係が存在しているわけではない、という現実を指摘することで十分であろう。
このような現代文明の危機を構成している諸問題は、単に「デザイン」の分野からだけでは解決不可能であるのは当然のこととしても、「デザイン」の側からその問題を考えた場合、果たしてどうなるのだろうか。もちろんその場合、明確な方法論がすでに用意されているわけではない。それはいま開始されたばかりだからである。われわれは、現時点におけるひとつのユートピアとしてのデザイン理念をまずつくり出し、それによって現代批判をはじめるべきだろうか。それともわれわれは、たとえば、近代デザイン思想が勝者の理念となるための過程において影に隠れ去ったものにもいま一度照明をあて、その両者の「和解」を目指す作業を行なうことに、現代の諸問題を乗り越えようとする努力を見出すべきだろうか。とはいえ、後者の場合においても、「和解」に解決の糸口を求めること自体に一つのユートピアとしてのデザイン理念が内在していることをわれわれは認めなければならない。そもそもデザインの理念が、プロダクツの世界をつくり出すための価値基準、あるいはその前提となる世界観である以上、いかなるデザインの理念もその時点における一種のユートピアであることには変わりがない。したがって、そのような性質をもつデザインの理念を新しく求める作業は、一見矛盾とも思えるような二重構造をとらざるを得ない。二重構造とはすなわち、あらかじめ暗黙のうちに予想されているデザイン理念に基づき歴史に再解釈を加える作業と、歴史に再解釈を加えることによって、あらかじめ暗黙のうちに予想されていたデザイン理念を逆照射する作業の、同時性と二重性である。
本論文の目的は、このような立場と方法から近代デザイン史を再検討することによって、現代文明の危機とそれにかかわるデザインの理念について考察することにある。
ここでわれわれが行なおうとすることは、現代の危機的状況を数量的関係に基づく対比によって認識を深めることや、あるいは、そのような状況を招来した諸原因を個別観点から詳しく調べることではない。「デザイン」をとおしてのアプローチとは、現代文明あるいは現代生活の状況や事態を直視することがそのすべてであり、またそこからすべてははじまるのである。いいかえれば、現代文明や現代生活を構成しているプロダクツを生み出す際にわれわれが前提としてきた世界観と、いまわれわれの目の前で繰り広げられている事態との隔たりとを見据えることである。このことは、人間のみがプロダクツを製作し使用することの事実、裏返していえば、製作と使用との全体的関係において人間そのものは問われるべきであるという確信――この両者のうちにわれわれが立ち返ることを意味している。プロダクツを生み出してきたのも、またこれから生み出そうとしているのもわれわれ人間自身である以上、常にわれわれは、産み落とすための理念となったものと、その結果産み落とされたプロダクツのあるがままの姿から顔を背けることはできない。
「デザインとは何であるか」という問いも、このような姿勢から発せられなければならないだろうし、それはまた、不断の問いかけでなければならない。この不断の問いかけの幾つかをわれわれは近代デザイン史のなかに見ることができよう。そこで、この「一.近代デザインの主題」において、とりあえず近代デザイン史のなかの主要な人物に焦点をあて、その人物が生きた時代の主題とそれに対応しようとしたその人物の思想とについて概略的な考察を行なってみたいと思う。
(一)ピュージンと〈世界観の前提〉
まず、オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージン(一八一二―五二年)。ピュージン自身のデザイン思想に触れる前に、われわれは、彼が生きた時代、すなわち一九世紀イギリスの社会状況を思い浮かべなければならない。この時代の人びとが直面した課題(これを危機と呼んでもよいが)とは、一言でいえば、機械によって生み出されるようになったプロダクツの粗悪性に対してどのように対応するか、という問題だった。しかしこの課題は、一九世紀前半の限られた範囲内にある一過性のものでは決してない。実はこの課題こそ、われわれがいま生きている現代の危機の根源にあるものであり、それは同時にデザインの近代運動が抱え込んだ中心的課題でもあった。しかし、中心的課題ではあったとしても、その課題を単に、生産手段が手から機械へ置き換わることを容認するか否か、という問題に矮小化してはならない。なぜならば、そのような矮小化の方向は、デザインの近代運動のなかにあって、機械生産における形態原理の発見へと向かわせた理念だけを単に勝者とするだけでなく、「デザイン」があずかる形態外の諸関心を無視することになりかねないからである。われわれは、形態外の諸関心をいま一度喚起しなければならない。われわれがピュージンに関心を抱くのも実はそのことについてなのである。
ストロベリー・ヒル邸に代表されるように、廃墟や恐怖を好む中世指向はすでに一八世紀初頭に現われている。この中世における精神を単に生活上の趣味に終わらせることなく、建築やデザインを行なう場合の前提となる世界観にまで導いたのがピュージンであり、その観点に立った運動がいわゆるゴシック・リヴァイヴァルと呼ばれるものであった。ピュージンは、一八三六年に自費出版した『対比』のなかで、中世の街中の風景と一九世紀の同じ街中のそれとを図版によって比較している。この本の副題には、『つまり、一四、一五世紀の高貴な造営物と今日の類似した建造物との比較――今日の趣味の退廃を示すために』という長文のタイトルがつけられていて、ここで彼は、その時代の趣味の堕落を説くのである。もちろんここで使われている 趣味 ( テイスト ) とは、今日われわれが日常的に使っている 趣味 ( ホビー ) の意味ではなく、美的、社会的、宗教的価値基準ないしは判断基準に近い意味であろうが、さらに彼は、自分の目に映った趣味の荒廃を救う道として中世精神への回帰を唱導するのである。ピュージンにとって、中世こそが、芸術と社会が共通の倫理に支えられた安定と秩序の時代であった。彼が主張したゴシック復興とは、ゴシック様式を単にその様式を模倣することによって再現することではなく、ゴシック様式を生み出したゴシック精神そのものを復興させることだった。したがって、ゴシック 様式 ( ・・ ) の復興というよりもゴシック 精神 ( ・・ ) の復興ということになるだろう。彼にとっては、建築もデザインも、その形態はその時代の精神によって支配され、正しい形態を生み出すためには正しい精神が前提となるのである。彼はその正しい精神をローマ・カソリックに求めた。事実彼自身も一八三五年、二二歳のときにカソリックに改宗している。彼が考えるように、中世芸術あるいは中世社会を最も調和と秩序あるものとみなし、それを支える精神の復興を唱えることは、ただ彼ひとりの改宗に止まらず、イギリス全体の回心が必要であったことはいうまでもない。彼の思想の実践上の困難さはまさにこの点にあったといえる。
彼は、四〇歳という若さで精神錯乱を引き起こし死に至る。しかし、われわれはピュージンを一種の偏執狂(医者が彼のカルテに記した病名)として片付けてしまうわけにはいかない。彼の思想が実践不可能であるほどの偏執性をもつものであったとしても、それはそれとして、われわれがピュージンに学ばなければならないことは、人間がプロダクツを製作するという行為においての前提となる世界観に関して、である。プロダクツが生命あるものとして存在するためには、換言すれば、プロダクツが人間の有機的全生活において切り離せない存在であるためには、プロダクツを生み出し使用することの全体を包み込んでいる「了解」がわれわれのなかに存在しなければならない。しかし、その「了解」の存在も、結局はわれわれにとっての共通の世界観の存在が前提となるのである。いまわれわれが現代の危機を語るとき、あるいは、安定とか調和とか秩序とかを口にするとき、〈世界観の前提〉をどこにすえようとしているのだろうか、あるいはまた、何にそれを求めようとしているのだろうか。少なくともピュージンはローマ・カソリックに求めた。そして彼は、一言でいえば、調和の支配権を人間の側に奪い取った瞬時以降の人間存在のあり方、つまり、調和の構成要素としての人間存在と調和の支配者としての人間存在のあいだに横たわる矛盾を問題にしたのであった。
その後、ピュージンは、製作において正しい精神が存在していれば生産手段が機械であろうともその立場を認めていた2ために、その点でコウル・グループのデザイン改革運動に力を貸すことになる3。また同様に、中世指向という点(カソリック復興は実践不可能だったとしても)では、モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動を用意する源泉のひとつ4として影響を与えることになる。
(二)コウルと〈教育機関の設立〉
二〇世紀に入って形成されることになるいわゆる近代デザインは、ひとつは産業革命によってもたらされた工学技術の急速な発展、もうひとつは市民革命によってもたらされた近代市民社会の確立、このふたつの社会的基盤の成立を前提としている。この一方の前提である産業技術の発展が社会に与えた影響、とりわけ、それが、一九世紀前半のイギリス社会における生産に関与していた人びとにもたらした影響とはどのようなものであったのだろうか。ペヴスナーの観察するところによれば、「生産者も消費者も、無数に出てくる新しいものの応対に忙殺されて、それをいちいち洗練している暇はなかった。中世紀の職人は絶滅してしまい、すべての製品の形態や外観は、無教育な製造業者の手に委ねられていた。いくらかの地位のあるデザイナーはまだ産業界に入らず、芸術家は超然としており、労働者は芸術的な事柄に何も言い分を持たなかった」5。当時このような状態のなかから、悪趣味で粗悪な製品群が機械の口からはき出されるようになるわけであるが、ひとつのデザイン改革運動の始動は、まさにこのような社会的状況を背景としていた。周知のように、この改革グループの中心人物がヘンリー・コウル(一八〇八―八三年)で、彼はヴィクトリア時代の有能な文官だった。
コウルの業績は、現在われわれが親しんでいるクリスマス・カードや糊付き切手の創案から、一ペニー郵便制の導入、鉄道の軌道幅の統一、グリムズビーの波止場の建設などの行政上の改革に至るまで、実に多彩である。そしてその彼をして、デザイン上の改革運動に向かわせることになったものが、一八四六年に芸術協会(一九〇八年以降「王立」を冠する)によって主催された「デザイン競技」であるといわれている。公務員である彼は、この競技に「サマリー」という匿名でティーセットを出品し銀賞を獲得することになる。重要だったことは、銀賞の獲得それ自体ではなく、この出品の経験をとおしてコウルに、工業製品の美的水準の低下を痛感させたことだった。コウルは大衆の趣味の低下を憂い、その解決方法を美術と製造の実際的な結び付きに求めた。状況に対する認識は近いものがあったとしても、選ばれた方法においては、ゴシック精神の復興を主張したピュージンとは異なっていた。コウルは、自分の回りに、ジョン・ベル、リチャード・レッドグレイヴなどの多数の芸術家を集め(いわゆるこれが、コウル・グループあるいはコウル・サークルと呼ばれるものである)、一八四七年に設立したフェリックス・サマリー美術製品では実製作をとおして、一八四九年に創刊した雑誌『デザインと製造』では理論的な面から、イギリス産業におけるデザイン改革を推し進めていった。フェリックス・サマリー美術製品の設立理念は、「至上の芸術を、親しんでいる日用品と結び付ける古きよき実践を復興させること」であり、雑誌の創刊目的は、「装飾の原理を広めることと、装飾はそのものの使用性と密接に関係しており、自然から引き出された適切なモティーフから成立すべきであることを主張すること」だった6。
コウル・グループのこのような改革運動とは別に、一方では芸術協会の動きがあった。芸術協会は「美術と製造と貿易を奨励する目的」で一七五四年に設立されたが、その間活動らしきものはなく、当時はほとんど消滅しかけている状態だった。動きがあわただしくなるのは、一八四三年、ヴィクトリア女王の夫君であるアルバート公が協会会長に就いてからである。会長としてアルバート公が強調した点は、「高貴な美術を機械技術と結合させること」、すなわち、産業における美術を奨励することだった。アルバート公のこの考えは、盟友コウルのデザイン改革の方向とまさに軌を一にするものであり、ふたりのその後の協同は、一八五一年に、大博覧会の開催というかたちで結実するのである(現在われわれが万国博覧会と呼んでいるものの一回目に相当する)。しかし、工学技術の発展を盲目的に謳歌する楽天主義者たちの評価は別として、大博覧会に出品された展示物の美的価値ははなはだ低いもので、「一般の趣味の向上」という目的にもほど遠く、「芸術家の無感覚は恐るべきもの」7だった。展示物は、ほとんどの場合、俗悪な装飾過剰か過去の様式の粗野な復興を呈していたのである。つまりこの博覧会は、機械生産における造形の原理を追及したのではなく、機械生産という近代的方法を取りながらも、造形上は、正直さと質の高さをもっていた過去の装飾や様式を単に表面上模倣することに終始したのだった。
大博覧会に出品された展示物の虚偽性は、開催を推進したコウル・グループのなかからも指摘されたが、しかし、コウルのデザイン改革運動はこれで終わったわけではなかった。「一般の趣味の向上」を今度は教育に求めたのである。コウルはその数年後に、博覧会で得た利益をもとに、サウス・ケンジントンに博物館と学校の教育複合体を建設する。これが現在のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と王立美術大学なのである。
ここで、少し時代をさかのぼってそれまでに至るデザイン教育の改革について触れておきたい。
一八三二年に、財界人であるサー・ロバート・ピールは、輸出の低調を工業製品の質の低下に原因があるとし、その解決策として美術館設立のために三万ポンドを政府が出資するように建議している。これによって設立されたのがナショナル・ギャラリーで、製造業者たちにデザインのセンスを教え込み、大衆の趣味を向上させることを目的としたものだった。一八三五年には、国会内にウィリアム・ユアットを中心とした下院特別委員会が構成されている。この委員会は、「デザインの 術 ( アート ) と原理についての知識を国民(とくに製造業に携わる市民)に普及するための最善の方法を調査すること」8を目的に設置されたもので、その結果は、芸術家、企業家などからの意見聴取を踏まえて、三五〇ページにのぼる報告書にまとめられた。報告書は、結論としてデザイン教育の欠如を強調しており、その答申の結果、一八三七年に、商務省によってデザイン師範学校がまず本校としてロンドンに設置され、その後もロンドン以外の各地に一一の分校がつくられ、政府からの財政援助を受けるようになる。しかし、この新しい教育システムの崩壊は早く、一〇年後の一八四六年には、政府内にふたつの委員会が設けられ、その失敗の原因を調査している。原因は、「誰も、中央の学校においても分校においても、どういう方法でデザインの教育に着手したらよいかを知らなかった」ことにあった9。一八四六年といえば、コウルが芸術協会の「デザイン競技」に参加した年でもある。文化行政官としてのコウルのデザイン教育に対する考え方は、「学生は産業に対して直接役に立つように教育されるべきであり、しかもその教育は、決して高級芸術に役に立つ教育ではなく、幾何学と装飾模写に基礎を置いた実践教育である」というものだった10。そして、その実践こそが、サウス・ケンジントンでの教育改革だったわけである。しかし、そこでのコウルの教育改革も本質的には実を結ばなかった。一八九八年にウォルター・クレインが王立美術大学の学長に就任したとき、彼は、「この学校はむしろ混乱の状態のなかにある。これまで主に、この学校は、美術教師とマスターをつくるための一種の工場として運営されてきた」と、感想を漏らしたといわれている11。一八三五年のユアット委員会が作成した報告書の内容と同様に、コウルのサウス・ケンジントンでの教育改革もまた、デザインの本質的意味を問うなかから企てられたものでは決してなく、一般大衆の趣味の向上を題目に掲げ、それに対して「美術と製造の結婚」という表面的で安易な方向づけに終始したのだった。
ここでわれわれが見ておかなければならないことは、デザインと教育に関する諸点である。デザインという、プロダクツを生み出す行為は、人間の根源的な営みのひとつであり、同時にあるいはそれゆえに、それは社会を目に見えるようなかたちで変革していく力でもある。現在のプロダクツが企業によって生産される商品のかたちを取るからといって、企業家に美的教育を行なうこと(コウルのデザイン教育に対する考え方)だけがデザイン教育では決してない。デザイン教育の意味するものは、われわれがこれから生きていくそのあり方を探ることであり、また、その理念を具体化するために必要な形態を構想することである。われわれ一人ひとりが、明日はどこかの環境で、何らかのプロダクツの助けを借りながら生活していくという事実に変わりがない以上、デザイン教育は万人に向けられた教育でなければならないだろう。しかし、このようなデザイン教育の理念と、現在行なわれている、デザイナー養成としての「デザイン教育」や美術教師養成としての「美術教育」との落差は大きい。いまわれわれは、落差は落差として認めておかなければならない。そうでなければ、コウルの教育改革同様に、教育制度の改革のなかにあって、再びデザイン教育が脱落していく可能性を自ら開くことになりかねないからである。コウルが設立した教育機関に現在多くの恩恵を受けながらも、ペヴスナーの次の指摘は、現在も有効であるだけでなく、重い。「彼らは芸術の機構を、とくに芸術教育を、変更しようとは試みたが、あえて根本的な問題、すなわち、一つの時代の芸術とその時代の社会組織とは一体不可分であるという問題には、手をつけようとしなかった」12。
(三)モリスと〈労働の喜び〉
コウル・グループのデザイン改革からモリスを中心としたアーツ・アンド・クラフツ運動へと移り変わる様子を、フィオナ・マッカーシーは次のように描写している。「『純粋美術と製造の縁組』を促進するというコウルの困難でしかも適切な試みは、『芸術の始まりは、われわれの国土をきれいにし、われわれ民衆を美しくすることにある』という、より実践的で、同時に、さらに一段とより空想的な、このより壮大な命題によって完全に一掃された」13と。この「より壮大な命題」を用意したのがジョン・ラスキン(一八一九―一九〇〇年)であり、それを実践したのがウィリアム・モリス(一八三四―九六年)だった。このふたりの関係を小野二郎氏は、「ラスキンは時代の課題に対するさまざまな運動――思想、宗教、建築、美術等々――の結節点、集約点であって、モリスは逆にその集約点を出発点とした芸術運動であり思想運動であり批評運動であり、そして社会運動でもあるようなある総体的綜合的創造運動を生涯にわたって徐々に創っていった」14と述べている。それでは、その時代の課題に対する、ラスキンにとっての集約点、あるいは、モリスにとっての出発点とは何だったのだろうか。ここではそれを〈労働の喜び〉という主題から考察してみたい。
ピュージンのゴシック様式の復興がゴシック様式を生むに至った精神の復興を意味していたのと異なって、ラスキンはそれを中世工人の労働のあり方に求めた。ここへ至る動機が、機械生産が進行する一九世紀イギリスの労働者が〈労働の喜び〉をもつことなく、機械の位置におとしめられているという社会状況にあったことはいうまでもない。ラスキンは労役としての労働(labour)を仕事(opera)と区別する。労働には喜びがないが、仕事には喜びが伴うというのである。しかし、少なくとも過去においては労働に喜びがあった。それをラスキンはゴシック芸術を支えた中世工人の労働のあり方に求めたのである。周知のように、この考えは、一八五一―五三年の『ヴェニスの石』の、とくに「ゴシックの本質」の章において述べられており、モリスが生涯にわたってバイブルとした書でもあった。そして、ラスキンのこの思想を受け継いだモリスは、一九世紀イギリスの産業化社会の進展を一方に対置しながら、〈労働の喜び〉の回復を基軸に、芸術と社会にかかわる運動として自己の実践活動を展開していくのである。
モリスは、単にデザイナー、詩人であるだけでなく、すぐれたデザイン思想家でもあった。そして、その思想は旺盛な講演活動によってあますところなく展開されている。ここでは、数多くの講演のなかでも最初の講演である一八七七年の「装飾芸術」15(のちに「小芸術」と改題)、一八七九年の「民衆の芸術」16、一八八一年の「芸術と大地の美」17を中心にモリスの思想に触れてみることにする。
モリスは芸術を大芸術と小芸術に区分する。大芸術とは彫刻や絵画であり、小芸術とは装飾芸術、すなわち、「人々が日常生活で見慣れていることがらをいつでも、いくぶんでも美化しようとしてきた多くの芸術」18のことである。この小芸術のことをさらに具体的な職業を挙げてモリスは、「家屋建築、塗装、建具と大工、鍛冶、製陶と硝子製造、それに織物などの職を網羅する一大産業であって、一般人民に極めて重要であって、ましてわれわれ手工職人にはなおさら重要な一団の芸術」19であるという。そしてモリスは、これらのふたつの芸術が分離していた当時の状況に危機感を抱く。小芸術は手工職人の手から機械仕事へと変わり、大芸術は小芸術の助けを受けず、一部の金持ちの虚飾化した玩具になっていたからである。さらに機械生産による労働は、モリスをもうひとつの危機感へと導く。ラスキンから受け継いだ、労働における喜びの欠如という視点からである。そこでモリスは、大芸術と小芸術がともに助け合い総合化されていた、また、工人の労働に喜びが伴っていた時代として中世を引き合いに出すのである。モリスの目には、中世の労働者が自由人であったのに比較して、芸術家と職人との分離がはじまり、人びとの日常生活から芸術が切り離されていったルネサンス以降の労働者は奴隷として映る。モリスはいう。「芸術が最初に始まって以来、その時代まで、芸術は常に、前向きであったが、その時代には、芸術は後向きであったことを私は理解できる」20と。まして一九世紀の労働者は機械の一部にすぎないのである。その労働をモリスは、「肉体のすみずみの筋肉と脳味噌の最後の一滴まで酷使して絞り取る労働」21という。それでは、この「すべての職人に降りかかった、仕事に当然あるべき喜びの欠如と、それに伴う芸術の病弊と文明の堕落の治療法とは何であろうか」22。これがモリスの問いであり、その解決策として「全般的な反抗」を提案し、その反抗の目的を「ある形式の芸術を、人類の必要な慰めとして、再び創設すること」23に置くのである。そして最後に、「明日とは」という問いかけに対しては、「もはや貪欲でも闘争的でも破壊的でもなくなった文明世界が、『制作者と使用者にとっての幸福の種としての、民衆によって、民衆のためにつくられた、名誉ある芸術』という、この新しい芸術を、持つような時代のことである」24という言葉で結んでいる。
このような思想を背景にモリスは、一八六一年に設立したモリス・マーシャル・フォークナー商会を基盤に、家具、織物、壁紙、印刷などの多様な工芸の分野で手仕事による創作活動を展開していく。そしてさらに、モリスのこの思想と創作活動は、イギリス全土に強い影響を与え、手工芸職人による工房やギルドが各地に創設され、いわゆる、アーツ・アンド・クラフツ運動という一大運動となっていくのである。
さて、これまで述べてきた〈労働の喜び〉の回復と、それによって導かれた、工芸職人の集団による手工芸製作活動は、産業化が進む当時のイギリス社会においては、一見時代への逆行を意味するかに見えるだろう。しかしわれわれは、モリスの思想を単にユートピア的社会主義思想として片付けてしまうわけにはいかない。小野氏の言葉を借りれば、「大芸術と小芸術の分裂に時代の危機の集中的表現を見るということは、いかにもロマンチックな詩人らしい観察どころではない。社会の、あるいは歴史の基本的構造での芸術の役割の透徹した理解に基づくこの批評は、社会主義へ移行の前段階などと解釈してはならぬ。社会主義はむしろモリスの後を追いかけてきたに過ぎない」25となる。モリスはあえて芸術を大芸術と小芸術に分けて呼んだ。しかし、求めるところは、ふたつの別個のジャンルの独立でも確立でもなかった。モリスが求めたのは、ふたつの芸術が助け合う状態としての総合化された真の芸術の状態なのである。そしてその方法として小芸術、すなわち装飾芸術の復興を説いたのである。それでは、一部金持ちの付属物として堕落していた大芸術を民衆へ解放させる方向へモリスが向かわなかったのはなぜか。その機会は確かにあった。若き日のラファエル前派との親交がそれであり、一時期絵の勉強もしている。しかしモリスは装飾芸術へ向かったのである。そこにわれわれは、社会における芸術の役割に対するモリスの内面に潜む鋭い視点を見ることができよう。社会の基本構造が生産にあるといおうと芸術にあるといおうと、それは結局のところプロダクツを生み出す構造にほかならず、モリスは、製作する側の価値を〈労働の喜び〉という一点に集約して、それを芸術に対してと同様社会に対して向けたのである。このことは、芸術と社会がともに別個に独立し、できあがったものとして対置させることを否定し、芸術にとって真の芸術のあり方を要求することが必然的に社会のあり方の改革に道を開くことを意味している。モリスが大芸術の民衆への解放ではなく、小芸術の復興の道を選んだのも、小芸術こそが本来的に民衆の芸術であり、小芸術の復興なくしては大芸術の解放もありえない、と考えたからであろう。そしてそのことは、同時に、芸術と社会の本質的なかかわり方を求めてのより有効な実践だったわけである。芸術とは全くの社会の拘束性のなかにあるのだろうか、それとも、芸術は全くの社会から自律したところにあるのだろうか。少なくともモリスは、芸術の総合化のなかに社会と芸術の絡み合う場を求め、両者を貫通する命題として〈労働の喜び〉を唱導し、そのための最も有効で必然的な手段として装飾芸術の復興を実践したのだった。われわれがモリスの思想を検討することは、そのこと自体、芸術と社会のあり方を検討することにほかならず、現代芸術と現代社会を批評、検討する場合のひとつの確かな視座であることには間違いないだろう。
(四)ムテジウスと〈工業製品の質〉
コウルのデザイン改革においてそうだったように、どのようなデザイン運動も最終的には教育改革へ投影されていく。一八九六年に、建築家でモリス門弟のひとりだったウィリアム・リチャード・レサビーが、ジョージ・フレムトンとともに、装飾芸術の産業への応用を奨励する目的で創設された中央美術・工芸学校の管理者に任命されている。また、一八九八年には、もうひとりの発言力をもったアーツ・アンド・クラフツ理念の布教者であるウォルター・クレインがサウス・ケンジントンの王立美術大学の校長に就任している。一九〇〇年にはレサビー自身も王立美術大学デザイン学科初代教授になるわけであるが、ふたりとも、これまでのアカデミックで硬直化した教育システムから、カリキュラムの改正や設備の改善をとおして、より実践的でより柔軟な教育へと、改革を進めていったのである。
一方、アーツ・アンド・クラフツ運動は、英国内の美的、社会的、そして教育的側面に強い影響を及ぼしただけではなく、ヨーロッパ大陸におけるその後の芸術運動におけるひとつの布石となるものでもあった。アーツ・アンド・クラフツの第一便がイギリスから到来したとき「春が来た」と叫んだのは、ベルギー人デザイナーのヴァン・デ・ヴェルデである。まさにこの時点から、いわゆるアール・ヌーヴォーがベルギーを出発点としてヨーロッパ大陸に開花していくのである。フランスや英国での呼称であるアール・ヌーヴォーは、ドイツでは、雑誌『ユーゲント』に因んで「ユーゲントシュティル」、オーストリアでは「ゼツェシオン(分離派)」、そしてイタリアでは、ロンドンの百貨店の名前を借用して「リバティー様式」と、さまざまな名称で呼ばれることになるが、その様式を特徴づけるモティーフは、一般には、女性の長い髪や海草を連想させるような流れる曲線や渦巻きであり、花や蝶から抽象された有機的な形体と躍動するリズムである、といわれている。しかし一方、別の部門では、「有機的な形体よりむしろ構築的な形体を求めて、論理的幾何学的構成の方向」26へ向かったことも認められている。とはいえ、アール・ヌーヴォーという様式は、アーツ・アンド・クラフツ運動がラスキンやモリスの哲学をその基盤としたように、ひとつの明確なデザイン思想に支えられていたわけではなかった。実際には、「現実を越えて象徴的神秘主義の世界を期待した夢想家たち、中世の工芸を追い求めたロマン主義者たち、美を広げる手段として機械を見た実際的なモダニストたちをも含んでいた」27と、マリオ・アマヤが指摘するように、世紀末から二〇世紀へと向かうなかでの、思想的、芸術的、社会的全体像としての〈混沌〉がアール・ヌーヴォーの全局面を支配していたのである。その〈混沌〉は、神秘主義とロマン主義とモダニズムの混在、歴史様式からの解放と逆にそれからの束縛という製作態度にみられる二重性、手仕事と機械生産という製作(生産)手段に見られる二重性、などに由来するのだろうか。しかしそれは、新しい社会におけるよりよい生活を求める芸術家と、新しい社会を拒否し自らの創造的世界に隠遁住いを求める芸術家との、対立的な共存を許し、したがって作品自体にも、ある程度抑制のきいたものから、幻想的で神秘的でエロティックなものまで、幅広く認められている。〈 混沌 ( カオス ) 〉とは〈 秩序 ( コスモス ) 〉を迎えるための必然的な一段階なのだろうか。それとも、〈秩序〉こそが〈混沌〉のなかの一休止時期と考えるべきなのだろうか。アール・ヌーヴォーは、イギリスに端を発し、ヨーロッパ全土のみならずアメリカへも波及し、その主題は、デザイン、工芸の分野だけでなく文学、音楽、絵画、建築などのすべての芸術の分野になだれ込んでいった28。それにもかかわらず、その開花期間は、世紀末から今世紀初頭にかけての極めて短いものだった。まさに時代は、近代デザインという〈秩序〉へ向けて、「装飾的要素から構造的機能的要求への価値観の変化」29を成し遂げることによって、「漸次、美的、社会的理想追求のために、機械化を受容する方向へと転換し始めていた」30のである。
ドイツ人建築家へルマン・ムテジウス(一八六一―一九二七年)がイギリスの住宅を公的に調査するためにロンドンのドイツ大使館員となったのがちょうどこの時期にあたる(一八九六年から一九〇三年まで)。彼はイギリス中のあらゆる所を旅し、情報を入手し、それによって得た知見を一八九八年にドイツの雑誌『装飾芸術』に投稿する。投稿の目的は、アシュビーの手工芸ギルド・学校、とくに、アシュビーのデザインが有機的形態をもっていることを強調することだった。ムテジウスはさらに、一九〇四年と一九〇五年に、三巻からなる『イギリスの住宅』を刊行し、そのなかで、図解入りで近代イギリスの住宅を紹介することによって、健全で正しい素材の使い方とアーツ・アンド・クラフツの基本原理を、ヨーロッパ大陸へ持ち込む役割も演じている。帰国後ムテジウスは、美術・工芸学校を監督するプロシア商務省の管理局長の要職に就くが、その彼の唱導によって一九〇七年ミュンヘンにおいて結成された団体が、ドイツ工作連盟である。会員は、芸術家や建築家のみならず、製造業や商業に携わる実業家から役人やジャーナリストに至るさまざまな立場の人たちで構成されており、その理念は、〈工業製品の質〉の向上を目的としていた。理念の前提として、当然、科学・技術の急速な進展と、それによってもたらされた新しい材料や製造法の登場があったことはいうまでもない。工作連盟の人たちは、二〇世紀の文明を機械文明に求めたのである。そしてそのような立場からはじめて、〈工業製品の質〉の問題を問うたのである。しかもその〈質〉とは、単に材料や技術や機能の面での質だけではなく、単に美的、形式的な面での質だけでもなく、これらすべてを統合したうえでの質を意味していたという31。このことはすなわち、一九世紀における造形や製作が、美的、形式的諸側面においてそのすべてを集約しようとした試みであったのに対して、二〇世紀の造形や製作が、もはやこれまでの諸側面のみでは集約しきれない事態に至ったことをはっきり物語っている。そしてこれを契機に、プロダクツを生み出す行為が、美的、形式的諸側面に立脚し個人主義的製作態度にその方向性をもつ芸術的製作から、美的、形式的諸側面のみならず技術的、経済的諸側面にも同時に立脚した集団主義的製作態度にその方向性をもつデザイン的製作へと分離、移行することになるのである。このような意味においてわれわれは、歴史様式からも、個人主義的製作態度からも決別した、このドイツ工作連盟の理念に、本格的なインダストリアル・デザインの成立を見出すことができるであろう。
とはいっても、連盟結成当初から、このような、いわゆる近代デザインの思想で会員たちの考え方が一本化していたわけではない。そこには常にふたつの対立する考え方が内在していた。それは「規格化」を巡ってであった。工作連盟が機械生産を積極的に肯定し、先述したデザイン的製作態度を支持する以上、量の増大をも当然ながら肯定しなければならなかった。量の増大に基準と秩序を与えることが、すなわち「規格化」の概念であろうが、しかし、果たして「規格化」によって工作連盟の理念である〈工業製品の質〉は解決するのであろうか。問題点と対立点はまさにその「規格化」にあったといえる。対立が表面化するのは、一九一四年のケルンでの工作連盟総会においてであった。「規格化」を強調するムテジウスの考えはこうである。「建築その他すべての工作連盟の活動領域は、規格化に向かって進んでいく。それによって始めて、それらの領域は、かつての調和ある文化の時代に備わっていた広い一般的な意義をとりもどすことができるようになるだろう」32。それに対して、アール・ヌーヴォー期の代表的デザイナーであるヴァン・デ・ヴェルデは、「工作連盟の中になお芸術家がいる限り、そうして彼らが工作連盟の運命に影響をもつ者である限り、彼らは、規準(カノン)とか規格の提案に対して抗議するだろう。芸術家というものは、本質的には、燃え立つ個人主義者であり、自由意志を持った創造者なのだ」33と主張し、ムテジウスの「規格化」に反対を唱えるのである。「熾烈な論争と投票の結果、ヴァン・デ・ヴェルデ派は大多数の支持を得て勝ち」34、ムテジウスの考えは退けられたわけであるが、それは、「会員の多くが、自らを芸術家であると考え、ムテジウスの外形的基準と商業に対する強調を、自分たちの独立と高潔に対する脅威であると解した」35ことによるものだった。もっとも、同じ場面を扱った箇所で、阿部公正氏は自著の『デザイン思考』において、「当時の状況についてみれば、言うまでもなく、ヴェルデ流の考え方は後退し、首脳部の考え方が引き続き主導権を握ることになる」36と記述し、結果内容が異なっている。
しかし、さしあたりここでは、どちら側の考えが勝利したかの事実関係が重要な問題ではない。その対立によって、たとえヴェルデ側が支持されたのであったとしても、工作連盟の基本理念が崩れ去ったわけではないだろうし、たとえムテジウスを中心とする首脳部が支持されたのであったとしても、ヴェルデ側が主張する芸術家的、個人主義的態度が消え去ったわけでもないだろう。工業文明を認め、大量生産を肯定したからといって、そのことによって工作連盟が、美的、形式的諸側面のすべてを放棄したわけではもちろんなく、工業製品の〈質〉のなかに美的、形式的諸側面を内包しようとした、と考えるべきだろう。ただし、ここでいう美的、形式的諸側面とは、もはや一九世紀的な、手づくりや装飾性のなかに見出されるそれとは異なって、機能性、合理性、経済性といった二〇世紀的諸価値のなかから萌芽してくる様式、すなわち「機械様式」のなかに認められる美的、形式的諸側面のことなのである。したがって、工作連盟内部に存するふたつの対立は、デザインを、美的価値と非美的要素、逆のいい方をすれば、社会的価値と非社会的要素とのどちらに重きを置いた観点から理解するかの違いによるものであろう。とはいえ、この問題は、現在われわれがデザインの概念を定位させる作業を行なう場合常に遭遇する、避けて通れぬ深刻で重大な課題であり、そのことに具体的な解答を与えるためには、芸術と技術の関係を再度明確にとらえ直すことが急務であることに間違いはないだろう。したがってそのことは、必然的に「芸術」概念の再検討へとつながっていく。
(五)グロピウスと〈芸術と技術の結合〉
一九一四年の工作連盟総会における「規格化」を巡る意見の対立は、ジョン・ヘスケットの記述するところによれば、ヴェルデ側の勝利に終わったようであるが、「しかし展覧会自体は工作連盟の勝利であり、少なくとも現代技術にふさわしい様式を達成したいくつかの建物が示された」37。もちろんその建物が、「ひとつはブルーノ・タウトの設計したガラス工場のための展示館であり、他はヴァルター・グローピウスとアードルフ・マイアーの設計したモデル工場の機械館と管理棟であった」38ことは、これまで多くの歴史家によって再三指摘されているところである。そのような意味で、ドイツ工作連盟の総会と展覧会が行なわれた一九一四年は、近代デザイン史上特筆に値する一時期だったといえるだろう。
一方、社会の情勢は、この年からドイツ帝国が西部戦線で軍事的大敗を招く一九一八年まで、第一次世界大戦が進行していく。しかし最終的には、一一月革命の結果共和国が宣言され、総選挙によって新しく誕生した国民議会が一九一九年二月、ヴァイマルの地に召集されるに至って、事態はようやく収拾の方向へと向かうのである。
建築家ヴァルター・グロピウス(一八八三―一九六九年)が国立バウハウスを設立したのも、いまだ敗戦の混乱が続く一九一九年四月のヴァイマルにおいてであった。以降バウハウスは、一九三三年ナチの台頭によって閉鎖されるまでの一四年間、建築とデザインの教育機関として、また生産工房として、デザインにおける近代運動のメッカ的存在となってその役割を担うことになる。
一般にバウハウス運動は、その活動期間を三期に区分することによってその特質が考察される場合が多い。しかもその区分の仕方にはおおむね三通りが考えられる。まず一番目は、バウハウスが設置されていた所在地による区分で、「ヴァイマル時代(一九一九―二五年)」「デッサウ時代(一九二五―三二年)」「ベルリン時代(一九三二―三三年)」が挙げられる。次に、就任した校長とその在任期間による区分の仕方で、「ヴァルター・グロピウスの時代(一九一九―二八年)」「ハネス・マイアーの時代(一九二八―三〇年)」「ミース・ファン・デル・ローエの時代(一九三〇―三三年)」に区分することができる。三番目は、「表現主義期」「構成主義期」「機能主義期」という三区分で、これは、建築やデザインに関する思想上の変移を表わしたものといえる。ここでは、三番目の区分に着目し、表現主義から機能主義へと推移するデザイン思想を跡づけることによって、バウハウス運動の最終的目標ともいえる〈芸術と技術の統合〉という問題に絞って検討してみたい。
今日われわれがバウハウスに近代運動のピークとしての位置を与えるとき、そこには、バウハウスの実践と思想が合理主義と機能主義によって導かれたひとつの様式として完成した、という認識が含まれている。しかしバウハウスは、実際には、創設当初からその理念として合理主義思想と機能主義思想を標榜した運動体では決してなかった。そのことをわれわれは、バウハウス設立にあたってのグロピウスの最初の宣言文の一節に読み取ることができる。「 建築家、彫刻家、画家、 ( ・・・・・・・・・・・ ) 我々はみな手工芸に ( ・・・・・・・・・・ ) 帰らなくてはならぬ ( ・・・・・・・・・ ) !と言うのは『生粋の芸術』は存在しないからである。芸術家と手工芸家との間に本質的区別はない。 芸術家は高揚せる手工芸家である ( ・・・・・・・・・・・・・・・ ) 。天の恩寵が、作者の意志の届かぬまれな輝ける瞬間に、無意識に手わざから芸術を開花せしめるが、 しかし手工の熟達という基本は ( ・・・・・・・・・・・・・・ ) あらゆる芸術家にとり不可欠である ( ・・・・・・・・・・・・・・・・ ) 。そこに創造的形成の根源があるのだ」39。表現主義的色彩に満ちたこの文章は、阿部公正氏の指摘にもあるように、あたかも一九世紀イギリスのラスキン、モリスの思想を思い起こさせるものがある。ドイツ工作連盟の一員としての、また、ファーグス製靴工場(一九一一―一四年)とドイツ工作連盟博覧会への出品作品(一九一四年)をとおしての、近代運動を唱導し、積極的に機械生産のあり方を問おうとしたこれまでのグロピウスの姿勢とは、明らかに相反するものだった。しかし、グロピウス自身の告白にもあるように、彼にとってモリスが大きな存在になっていたことは確かである。そこでグロピウスは、モリスが理想とする〈手工芸の回復〉と〈大芸術と小芸術の統合〉という命題を「 すべての造形活動の ( ・・・・・・・・・・ ) 最終目的は建築である ( ・・・・・・・・・ ) !」、そして「 手工の熟練という基本は ( ・・・・・・・・・・・ ) あらゆる芸術家にとって ( ・・・・・・・・・・・ ) 不可欠である ( ・・・・・・ ) 」という表現によって受け継ぎ、バウハウス開校にあたっての基本理念にすえたのだった。アルゲマイネ電気会社(AEG)の顧問デザイナーとして、いちはやく近代産業のなかでの造形を実践していたペーター・ベーレンスの直接の弟子だったグロピウスにとって、時代が機械様式へ向けて進行していたことは自明のことであったろう。それにもかかわらず、彼はアーツ・アンド・クラフツ理念の全局面を引き受けようとしたのである。そこにわれわれは、建築が諸芸術の統合体であり、その訓練にあたっては手工芸から開始すべきである、というグロピウス自身の確たる信念を見ることができよう。グロピウスは、歴史の全局面の否定から現代における造形理念を萌芽させようとしたのではなく、とりあえずアーツ・アンド・クラフツの全遺産を引き受け、そしてそれを出発点として新しい時代への対応を具現化しようとしたのである。しかし、アーツ・アンド・クラフツの理念をバウハウス開校の出発点にすえることは、一九世紀的造形理念から二〇世紀的造形理念へと橋渡しする重要な意味をもっていたものの、モリス的要素とベーレンス的要素を整合させることがいかに困難な主題であったかはいうまでもないだろう。しかし、この主題こそ、近代デザイン思想を生み出す陣痛の予兆であり、以降バウハウス運動に底流を支配することになる基本的命題だったのである。
さて、グロピウスはバウハウス開校に際してリオネル・ファイニンガー、ゲルハルト・マルクス、ヨハネス・イッテンの三人の芸術家を教授陣に招聘している。ファイニンガーは画家でマルクスは彫刻家である。しかしグロピウスは、このふたりを、自分の狭い芸術分野に固執する芸術家ではなく、建築にすべての芸術を統合するというバウハウスの理念に十分共鳴できる柔軟な精神の持ち主としてみなしていたようである。ところがイッテンの場合は少し事情が違っていた。イッテンを推薦したのはグロピウスの妻アルマであり、グロピウス自身は直接の面識はなかったようであるが、イッテンが芸術教育の経験をもっていたことが教育について全く素人だったグロピウスとの対立を招く結果となるのである。その対立は芸術と芸術教育に対する考え方の違いによるものだった。イッテンの芸術観は、芸術行為を個人の内面に潜む意識の解放に重きを置くものであり、芸術の教育もそれに従い直接人間の形成に結び付けようとするものだった。それに対してグロピウスは、芸術を社会的、集団的活動の一環にすえ、近代の生産技術に立脚した造形の追及にその方向性を求めたのである。イッテンの個人の内面へ向けて求心する芸術思想と、グロピウスの社会的、産業的側面へ遠心する芸術思想とは明らかに相容れるものではなかった。利光功氏の指摘どおり、グロピウスの目には、イッテンの考え方は旧来のアカデミックな美術学校に遡行するものと映っただろう。イッテンが、バウハウスに自己の芸術思想を展開するうえでの限界をみてとり、バウハウスを去ったのは一九二三年の春のことであった。
しかし、この意見の対立をとおして、グロピウスが、バウハウスの造形理念の危機を感じ取ったことも確かである。グロピウスは同年の夏、大バウハウス展の開会記念講演において、「芸術と技術――その新たな統一」と題した講演を行ない、開校宣言文にみられるモリスの手工芸的立場に立つ〈芸術と技術の統合〉から一歩踏み出し、機械技術を前提とした造形における〈芸術と技術の統合〉を展望しているし、また、「バウハウスの理念と構成」と題した同じく一九二三年の論文では、デザイン教育機関としてのバウハウスの方向性の明確化にさらに力点を置くのである。バウハウスにとって一九二三年は、初期の表現主義的傾向が弱まり、合理主義的デザイン思想へと変移する重要なひとつの転換期だったといえる。
しかし、一九二三年を境にその発展がみられる合理主義的、構成主義的デザイン思想も、グロピウス辞任後二代目校長となったハネス・マイアーの機能主義的立場からすれば、美的形式主義に偏向したものであり、それによって生まれたバウハウス様式もバウハウスの退廃を意味するものでしかなかった。マイアーの建築思想は「この世のあらゆる事物は機能掛ける経済という公式の産物である」という立場に立った、徹底した機能主義であり、建築における芸術的側面を強く否定するものであった40。マイアーが好んで使った言葉は「民衆への奉仕」だった。マイアーの関心は、単にプロダクツの美的形式的側面にかかわる問題ではなく、デザインや建築が現実に投入されることになる場としての社会との関連性の問題だった。この点について利光功氏は次のような指摘をしている。「美的趣味的造形、いわゆるバウハウス様式に反対するのも、それが決して民衆の利益にはならないと判断していたからにほかならない。ただここで注意したいのは、彼が芸術そのものを無条件に否定した訳ではないことである。芸術は、彼によれば秩序であり、それが集団社会の表示としてすべての人のために規定された新しい客観的秩序である限りとくに否定されない。ただ生活や機能から離れた幾何学的形象を否定するのである」41。マイアーの主題はデザインの社会的役割である。事象のすべてを社会的、経済的側面との関連においてとらえようとするマイアーの考え方は、事実社会主義的世界観へとつながっていった。学校を政治化したという理由によりデッサウ市長からマイアー宛にバウハウス校長解任の通知が届いたのは一九三〇年の夏のことだった。
われわれはこれまで、イッテンとマイアーの思想を中心にバウハウス思想の推移を見てきた。結果的には、イッテンの表現主義的、個人主義的、そして神秘主義的芸術観はグロピウスとの対立を招き、一方マイアーの社会主義的造形観は体制側からの圧力を招き、二人ともバウハウスを去ることになるのである。確かにグロピウスが理念に掲げた〈芸術と技術の統合〉は、美的形式的側面におけるひとつの完成させられたものとして、バウハウス様式のなかに認めることができよう。そして、その立場が現在においても有効な立場であることには間違いない。しかし、今日われわれが、デザイン行為の全体のなかに、ものをつくるという地平において、再度すべての諸側面を内包しようと試みる場合、イッテンの〈個〉を主張する造形の立場も、マイアーの〈イデオロギーとしての造形〉を主張する立場も、ともに捨て去ることはできないであろう。なぜならば、造形の初源に〈個〉に潜む製作意志があり、造形の終着には〈集団〉としての社会が存在しているからである。グロピウスの立場を軸として、この両極に位置するふたつの側面に整合性を与えることは確かに困難を極める作業にちがいない。しかしそれが、現代のわれわれに課せられた課題なのである。
(六)ピーチと〈環境問題〉
この主題に入る前に、その後のアーツ・アンド・クラフツ運動の推移を見ておかなければならない。アーツ・アンド・クラフツ運動とは、先に述べたとおり、モリスの思想と実践に影響を受けイギリス各地に設立されたギルドや諸団体による手工芸復興運動であるが、一八八八年にはアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会として団結し組織上のまとまりをみせることになる。多くの会員の理想とするところは、ラスキンやモリスから受け継いだ思想であり、「職人と雇い主にとって一段と人間らしい状態があるとすれば、それをとおしてと同時にそれに向かって本来存在すべきである装飾芸術の復興」42を実践することであった。展覧会は、一八八八年、一八八九年、一八九〇年と最初の三年間は毎年開催されたが、その後はレリエンナーレ展としての形式を取るようになる。一八九九年の第六回の展覧会までは、極めて強い印象を与え、とくに一八九六年の展覧会では、ウィリアム・モリスの死によって開会式は打ち切られたものの、展示品は「並はずれた品質と個性をもった作品が並べられた」43。ところが、このころからアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の硬直化がしだいに表面化するようになるのである。マッカーシーは、一八九五年の『ザ・ステューディオ』が、W・A・S・ベンスンとモリスの作品を比較して、ベンスンの作品の方がより一段と大衆の美的価値観に影響を与えている、という論評を行なったことを挙げて、このことは、「ベンスンによって量産された金属製品の方が、アーツ・アンド・クラフツの展覧会を埋め尽くした凝った手工芸品やタペストリーや製本やモザイク式の炉棚の上の飾りよりも、ある点で価値があることを意味していた」44と指摘する。それとは別に、アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の硬直化や排他性は、アール・ヌーヴォー様式の作家や作品を蔑視するといった態度にも現われる。協会の人たちの多くは、チャールズ・レニー・マッキントシュ、その妻マーガレット・マクドナルド、そしてハーバート・マクネアーとフラーンセス・マクネアーの夫妻を中心としたグラスゴウ出身のアール・ヌーヴォー作家を、大陸における高い評価とは裏腹に、当時スプーキー・スクール(幽霊派)というレッテルをはり全くみくびっていた。また、大陸からアール・ヌーヴォーが到来したとき、すなわち、一九〇〇年のパリ万国博覧会の展示物がヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に展示されたときにも、同様の態度を示した。そのとき『ザ・タイムズ』に、「この作品は、原理においても正しくないし、使用された材料に対しても適切な配慮を示していない」との抗議が著名建築家たちから投稿された45というが、「確かな職人技」とか「素材に対する敬意」を支えとするアーツ・アンド・クラフツの理念からすれば、彼らにとって、アール・ヌーヴォー特有の形態上のモティーフや使用されている目新しい素材を率直に受容することは極めて困難なことであったのであろう。アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の内部にあった、目新しいものや、外来のものや、極端と思われるものを嫌う傾向は、いまだゴシック調の装飾品で構成されていた一九〇三年と一九〇六年の展覧会によって、よりいっそう強められたといえる46。海を隔てた大陸のドイツではデザインにおける近代運動へ向けてドイツ工作連盟が結成されようとしていた時期においてでさえも、イギリスは、「アーツ・アンド・クラフツが脇目もふらず平然と進行しており、自分だけの心地よい道を歩んでいたのである」47。
イギリスにおける近代運動の胎動は、まさにこのような状況を背景としていた。一九一二年のどちらかといえば不成功に終わった展覧会が開催されたころには、すでに、協会内部にも、このようなアーツ・アンド・クラフツ運動末期にみられた排他性と沈滞に不満を抱く者が現われるようになっていた。そのひとりがハロルド・ステイブラーである。ノエル・キャリントンは、「彼は、アーツ・アンド・クラフツ運動内部における一種の改革をずっと心に抱いていたのだが、この考えが拒否された時にやっと脱会へ動いたにちがいない」48と述べている。「手仕事」から「機械生産」へ、別の言葉でいえば、「芸術的手工芸」から「近代デザイン」へと、時代は大きく転換しようとしていたのである。一九一四年のドイツ工作連盟展を見学し、イギリスの遅れに気づいたハロルド・ステイブラー、アムブロウズ・ヒール、ハリー・ピーチらが「新しい目的を持った新しい団体」としてデザイン・産業協会(DIA)を創設したのは翌一九一五年の五月のことであった。
ここで論じたい主要人物が、DIAの創設に参画し、のちに創設の父と呼ばれる七人のなかのひとりに挙げられるハリー・ピーチ(一八七四―一九三六年)なのである。ピーチは、「創設の父と呼ばれうる七名のうち、物事を要領よく運んだ点で、最も活発であり積極的な人だった」(『英国のインダストリアル・デザイン』、三六頁)が、事柄を進めるにあたっては、「無頓着に、すなわち自分自身の時間や仕事に関係なく、また他人の時間や仕事にもあまり関心を払わず」(同書、三六―三七頁)遂行していく、実に愚直な性格の持ち主だった。この愚直さこそが、彼をして〈環境問題〉へと向かわせる力となるのである。
二〇年代のイングランドの北部や中部では、一九世紀からの産業主義の横行以来、より一段と自然破壊が進んでいた。一方、都市は、自動車輸送と電気の発達により、膨張の一途をたどり、かつて広々としていた田舎や静寂を保っていた村のなかにも日々その悪影響が現われはじめていた。そこには、工場の煙突、濃霧、そして汚れた川があった。このような事態に対してどのような態度で臨めばよいのだろうか。ピーチのこの疑問に力を貸したのは、おそらく直接にはリチャード・レサビーの思想だろう。レサビーもDIA創設の父のひとりであり、協会内部では「予言者」の異名をもち、モリス同様手短に自分の芸術哲学を語ることができた。レサビーの芸術観を知るうえで、一九一六年のアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会での演説の一節は確かに重要である。「私は、都市生活における共通の問題に対する、普通の人々の関わりがどうあるべきかについて話したいと思う。私たちは、芸術を、建築家や画家や音楽家と呼ばれる特殊な人々によって取り扱われる特殊な事柄として考えることによって、私たちの町や生活から、美というものを追い払ってしまったのである。ここで私が考えている芸術とは、わずかな人々に関わる出来事ではなくて、すべての人々に関わる出来事である。それは秩序であり、清楚であり、物を作ったり、事を(とりわけ、私たちの公共の事を)行なったりする際の正しい方法なのである。それは、快適な鉄道駅の問題であり、道路清掃の問題であり、広告規制の問題であり、健全な人々が住むのに適した住宅の建設の問題であり、健康な人々が口にする食事の調理の問題である。それは、文明にあって事態を直視する態度の問題なのである」(同書、一四七頁)。ここでレサビーが強調している点は、芸術の日常性と、それを行なう際の正しい方法と、事態を直視する態度についてである。ピーチの愚直な性格とレサビーの芸術哲学がうまく響き合い、DIAは都市環境の告発へと乗り出していく。最初の仕事は、セント・オールバンズという町の景観についての告発で、その町の建物、交通機関、店頭、それに広告がやり玉に上げられた。結果は、『忠告手引き書』とタイトルがつけられた小冊子にまとめられ、よくデザインされた見本と比較ができるように写真による対照の方法がとられた。その後も、『オクスフォードへの忠告手引き書』や『村のポンプ』という表題の小冊子が発行され、オクスフォードの街と、自動車修理工場とガソリンスタンドが問題にされた。ピーチの目的は、「私たちが受け継いできた英国と少なくとも同じくらい文明化された英国を、たとえより以上に文明化されてはいなくても、次の時代の英国に継承すべきである」(同書、一五七頁)というものであった。
ピーチの〈環境問題〉への取り組みは、DIAの運動のなかではごく一部の位置しか占めることはないであろう。しかし、ピーチの行動はわれわれに、デザイン問題が、単に一プロダクツの形態の美醜のみならず、都市や自然の環境全体の美醜にかかわる問題であることを教えている。これは、芸術と社会を貫通する命題として〈労働の喜び〉の回復を唱えたラスキン、モリスの立場とは異なってはいたが、近代市民社会における芸術実践のあり方の一方法を示したものといえるだろう。ピーチと行動をともにしたキャリントンも、「どんな場合にも私には、より広汎な市民生活の場合におけるデザインの実体が、水差しにおける形の完成、あるいは紙面上の活字のレイアウトにおける形の完成と同様に、あるいはそれ以上に、私にアピールするように思えた」(同書、一四五頁)と告白している。しかし、DIAは、環境破壊に力を貸している物質主義や産業主義を確かに告発はするが、決してそれ以上イデオロギー的実践を協会内部に持ち込もうとはしなかった。彼らは、政治的な問題として環境を考える人間としてよりも、あくまでプロダクツを生み出す主体としての人間として、自己を規制したのである。デザインとイデオロギーの接点をどこに求めるか――それは、現代のわれわれに向けられた問題でもある。ピーチは、一九三六年に、六二歳の生涯を閉じることになるが、彼が最後に盟友キャリントンに残した言葉をわれわれはどのように受け止めればよいのだろうか。「私たちの運動は、大変誤解されてきたようだ。私たちが得ようと努力すべきだったのは若い世代だ。学校に期待することだ。若い人々は広い心を持っている。彼らにはこの運動のまじり気のない意味と正しさがわかるだろう。三十年後か、そこいらのうちには、人間の心は殻でおおわれる。その時の人間は、醜悪、騒音、大気汚染に身を任せざるをえない。もう、それを見たり、そのにおいをかいだりはほとんどしない。君は、若い人たちに、今何を失いつつあるのかを理解させなくてはならない。私は、その行動がまだ間にあってくれることを願うだけだ」(同書、一五八頁)。
「一.近代デザインの主題」において、われわれは近代デザイン史上の幾つかの主題を見てきた。取り扱った時代範囲は、一八三〇年代から一九三〇年代までのおよそ一〇〇年間であった。そしてどの主題も、それぞれ、その間の各時代の、「デザイン」を軸とした、芸術的、社会的、教育的混乱――すなわち、文明的秩序の混乱――に対する危機の認識とその回復を求めようとするものであった。文明的秩序の混乱。それは、おおむね、中世社会の崩壊と科学技術の進展に由来するものであって、同時に、近代の「自由」を求める精神が力となって作用していた。中世社会が、社会的諸関係が統合へ向かう社会であったとすれば、近代社会は、社会的諸関係が分化へ向かう社会だった。したがって、そのような歴史の流れに身を置いた近代のデザインにかかわる運動を、われわれは、「分化へ向かう社会」(そのことは、「芸術」の解体をも意味するが)に未来を見るか、それとも危機を見るか、二極に位置づけられた対立する立場の葛藤の総体として見ることができた。
しかし、実際には、「一.近代デザインの主題」で見てきた個々の主題は、デザイン上の問題としては後景に退き、デザインのもつ全体性は、分節化され解体が進んでいったのである。デザインにおける「近代」の確立という場合、それは明らかに、本来生活と社会に内包されていた有機的諸関係を分断するなかから萌芽した「インダストリアル・デザイン」の成立と、同時に、本来総合されていた諸芸術を自ら切り離すことによって生まれ出た「近代建築」の成立とを意味していた。とはいっても、近代デザインの確立が進むなかで、それと立場を異にする理念がすべてそのなかに吸収され、対立が解消していったわけではなかった。われわれが「一.近代デザインの主題」で近代デザイン史の主題を扱ったとき、その主題に、あえて、源泉、成立、展開という位置づけを行なわず、並列的に見ていこうとした意図も実はそこにあったといえる。
近代デザインの崩壊が至る所で露呈している現代において、未来を、近代デザイン思想の直線的延長上に定めることはもはや許されえないだろう。それでは、現代のわれわれの生活形式、都市空間のあらゆる側面を規定してきた近代デザインの、その崩壊とは何をいうのであろうか。そして、その超克の方途とは。「二.現代の危機とデザイン理論の課題」では、近代デザインの崩壊現象を視野に入れながら、それを取り巻く現代の危機的状況の諸相と、そこから現代デザイン理論に向けられた諸課題を考察の対象とする。
(一)主題の共通的底流
デザイン史のなかに認められる文明的秩序の混乱を招来したものは果たして何であったろうか。われわれは、ここでもう少し歴史のパースペクティヴの焦点を遠ざけてみなければならない。ピュージンがデザインにおける〈世界観の前提〉として求めたものは、中世の精神、すなわちカソリックの精神だった。ラスキンとモリスが〈労働の喜び〉の回復を唱導したとき、その拠り所としたものは、同じく中世の工人の労働形態だった。また、バウハウスを設立したグロピウスも、最初の宣言文において、建築のなかにすべての諸芸術の統合を目指す、中世指向の考えを表明していた。彼らにとって、中世社会こそデザイン上の理想社会だったわけである。斎藤博氏は中世社会を次のようにいう。「中世社会はキリスト教によって統合された文明社会であって、そこでは学問も文化も経済もあらゆる社会的諸関係が宗教を離れては考えられない統合的社会であった。中世社会にとって枢要なことは解体や分化ではなく、統合であり結合であり、それが宗教によって就されている社会である」49と。ピュージンも、モリスも、グロピウスも、ともに、宗教的側面に対する考え方には差異があったとしても、秩序と調和と安定の社会としての中世社会のなかにプロダクツを生み出すデザイン行為の本来の原型――すなわち、美的、倫理的、経済的、技術的諸側面の全体を有機的に内包している、人間の営為としての原型――の存在をみてとっていたのである。しかし、このようなキリスト教的な社会的統一態は、ルネサンスと宗教改革という歴史的事件によって解体へと導かれていくわけであるが、さらにその終焉は、産業革命以来の急速な機械技術の進展によって決定的になるのである。それゆえにわれわれは、一九世紀を、中世社会の崩壊によってもたらされた文明的秩序の混乱期と見ることができよう。それと同時に、近代のデザインにかかわる運動についていえば、一面では、時代秩序の回復を理念に掲げた、芸術的、思想的、社会的、教育的運動の総体だったということになるだろうし、また一面では、近代の合理主義的、機能主義的思想に依拠することによって、本来デザイン行為に絡み合っていた諸側面を切り捨てていく方向へと向かう一連の近代運動だったということになるだろう。
ところで、デザイン行為に本来絡み合っていたもの、あるいは、いわゆる近代デザインが成立するために切り捨てなければならなかったもの――それは一体何だったのだろうか。ここでいま一度整理して問うておかなければならない。なぜならば、そうすることによってはじめて、デザイン行為本来の原型の姿を見ることになるだろうし、最終的には現代の危機を克服する際の批判の基軸への到達が可能になるであろうと考えられるからである。
デザイン行為に本来絡み合っていたものとして認められうる第一点は、倫理的価値の側面である。ジリアン・ネイラーは、アーツ・アンド・クラフツ運動を「良心の危機によって鼓舞された」50ものとみなし、「その運動の動機は、社会的で倫理的なものであったし、その運動の美的価値は、社会がそれ相応の美術と建築をつくり出すのである、という確信に由来していた」51と述べている。アーツ・アンド・クラフツ運動に参加した人たちは、プロダクツを生み出す行為自体に倫理性の発露を見出し、しかも、その倫理性とプロダクツの美的価値とが極めて緊密な関係にあることを承認していたのである。モリスの〈労働の喜び〉という問題も、労働価値(使用価値と創造価値)という点でデザインの倫理的価値を表現したものといえる52。アール・ヌーヴォーについても同様のことがS・ギーディオンを援用した阿部公正氏の次の指摘のなかに見出すことができる。「アール・ヌーヴォーの底を流れている『構成的事実』は、その社会性あるいは道徳性の要求ということと、そのデザインの持つ造形的骨格だと言ってよいだろう」53。また、アーツ・アンド・クラフツ運動を批判的に継承したDIAにおいても、芸術概念のとらえ直しと、社会的倫理の問題が創設初期の協会にとって重大な問題となっていた54。「レサビーがいったように、何かしようとするのに、正しい方法も、また悪い方法もある。私たちは、〈正しい行ない〉を示そうじゃないか」とは、ピーチが環境問題に乗り出すときにいった言葉である。彼は、文明のなかで変化していく要求に答える正しい方法を示すことによって、自分たちのなすべき貢献を強調しようとしたのである55。この「良心」は、自分たちが生み出している文明がその理念に反して悪化していく状態に対する、自然と社会との有機的共存のその秩序を求めたひとりの人間の生なる叫びではなかったか。アーツ・アンド・クラフツ運動、アール・ヌーヴォー、さらにはDIAの運動にも、等しく、プロダクツを生み出す行為のなかに倫理的、社会的価値と美的価値とが分かちがたく内包されていた事実をわれわれは認めなければならない。
デザイン行為に本来絡み合っていたものとして認められうる第二点は、芸術と技術に関する側面である。バウハウスの理念が〈芸術と技術の新たな統一〉にあったことは前述したとおりであるが、それでは、発生的発達史的には芸術と技術の関係はどのようなものだったのだろうか。竹内敏雄氏の見解によれば、「芸術の概念は近代においてこそ美の理念と不可分にむすびつけられているが、古代ではこれとさほど緊密な関連におかれるにいたらず、むしろまず〈τέχνη〉の Inbegriff のもとに包摂されていた」56し、同様に中世においても、「芸術は工技とともに〈ars〉であった」57。ところがルネサンスの時代から、芸術家の社会的独立、芸術の美的自律、さらには生産技術の発達が主な要因となって、「かつては技術として根源的統一をたもっていた芸術と工技とが、かくしてたがいに疎隔し分裂」58していくのである。こうして、「『テクネー』の系統をひく〈technics〉〈technique〉〈Technik〉などが有用な『技術』の意味に局限され、芸術についてはただ『技巧』をさすものとなる一方、『アルス』に由来して本来すべての技術を包括する〈art〉や、同様に技能一般を意味する〈Kunst〉が次第にせばまって『芸術』の意味に凝縮するようになった」59のである。したがって、バウハウスの理念も、芸術と技術が根源的同一のものであったという歴史的事実をその主張の拠り所としたものであり、両者が分離することの危機に対応しようとしたものである、と考えることができよう。芸術と技術の分離に危機を見ようとするこのような視点の存在は、近代における両者の離反の激しさを物語るものであろう。同時に、両者を結合させようとする理念は、プロダクツを生み出す側の人びとの、それだけに強い期待だったのである。「技術なき芸術」も、あるいは「芸術なき技術」も、その存在において自ら社会的調和性を喪失することになるであろう。したがって、デザインするという行為が、人間の生きる 場 ( ・ ) 、さらには、その 場 ( ・ ) を媒介とした生活の実体そのものをつくり上げることにほかならない以上、そのような行為にとって、分化された単なる「芸術的価値」にも、あるいはまた、単なる「技術的価値」にも、その一方のみに製作の契機を求めることができないことは自明のことといわねばならない。
これまで、われわれは、近代デザインが成立する過程において後景に押しやられてしまった主要な側面に改めて照明をあてることによって、デザイン行為本来の原型を見ようと努力してきた。その検討の結果、われわれは、デザイン行為本来の原型とは、美的、倫理的、社会的、技術的諸価値を有機的に内在させているところの製作行為であり、同時にそのことを思想の根底にすえた運動体としての実践的行為であった、と結論づけることができよう。「一.近代デザインの主題」で見てきた幾つかの主題の底流に横たわっていたものは、近代デザインが成立に向かうなかにあって常に見え隠れしていたものの、実は、そのような意味における「デザインの全体性」だったのである。これよりわれわれは、「デザインの全体性」という視点から、現代の危機の諸相に批判を加えなければならない。
(二)現代の危機の諸相
現代の危機の諸相については、断片的ではあったが、これまで、数編の拙論60,61,62のなかで取り上げて論じてきた。したがってここでは、キャリントンの「今や再び、私たちは、詩人と哲学者に耳を傾ける時である」63という言葉を受けて、彼らの危機に対する認識とそれに対応する秩序回復への方途に照明をあてることにする。
建築家黒川紀章氏は、ル・コルビュジエとS・ギーディオンによって提案され、その後の近代建築運動の中心思想となった、一九二八年のラ・サラ宣言を要約して次のようにいう64。
(1)歴史的に蓄積され、自然発生的に混在する機能や需要を、合理的に分離する機能主義あるいは分離主義。
(2)手仕事の持つ個性よりは、規格化されたものを重視する工業主義あるいは効率主義。
(3)伝統、地域性、民族性を拒否し、世界に共通の原理を求めた国際主義あるいは普遍主義。
黒川氏によれば、この三点が近代建築の基本原理だったわけであるが、「しかし、近代建築の成果であったはずの、これら三つの原理は、そのいずれもが、同時に近代建築の欠陥ともなったのである」(『建築論』、七〇頁)。それでは、近代建築の成果とは、また欠陥とは、具体的には何をいうのであろうか。氏は、成果として、製品や材料の規格化と量産化によって成し遂げられた、「近代建築の大衆レベルへの普及」(同書、七二頁)を挙げる。同時に欠陥となった部分として、機能主義的な考え方が、「場合によっては触媒のような役割を果たして、対立する要素を共存させ、調和させていたかもしれない曖昧な部分(人間的な部分)」(同書、七一頁)を切り捨ててしまったことを指摘する。この成果と欠陥を踏まえて近代建築を約言すれば、「近代建築、近代都市計画は、職能の純化と、機能性という成果と引きかえに、有機性と人間性という大切な要素を失った」(同書、七一―七二頁)のであり、その結果、「大味で変わりばえのしない鉄とガラスとコンクリートの近代建築が、都市全体を覆いつくすことになった」(同書、七二頁)ということになる。
そこで、そのような認識に立つ黒川氏は、現代建築の課題を「近代建築に欠落していた、機能的空間の周縁部や中間領域の問題に光を当てていく作業」(同書、七五頁)、換言すれば、「空間の持つ多義的で両義的で、曖昧な性格を新しい建築の質として評価すること」(同書、同頁)に置く。そして、そのような空間としての質を古来の日本文化に求め、「道」「広縁」「軒」などを、両義的性格の空間として再評価するのである。
ここまでは、氏の近代建築と現代に対する視点に、大方の人は賛成することができるのではなかろうか。しかし、「私は、機能主義が無効となったといっているのではない。分離主義によって欠落した中間領域性や曖昧性を拾いあげる〈落穂拾いの作業〉が、われわれに今課せられている作業ではないか」(同書、一四〇頁)という黒川氏の表現には、向井正也氏の指摘65にもあるように、危惧を感じざるを得ない。というのは、近代建築を支えた排他的な機能・分離主義と、総合化あるいは全体化の方向をもつ〈落穂拾いの作業〉とでは、「近代」に内在する原理そのものに照らして矛盾した行為であるからである。しかも、現代建築の空間に、「道」から連想されうる両義的性格をもった空間的質を持ち込むことは、それとしての意味はあるとしても、建築全体のもつ質の観点からすれば、それも一部の質にしかすぎないことも指摘できよう。われわれは建築にかかわる全体的な質を問わなければならない。それは、われわれが文明論的視点に立つことを意味する。
さて、哲学者の斎藤博氏は、「私たちにとって、今日、文明の存在自体がすでに問題的である」66という。そしてそこから、氏は、文明の学的地平を模索するのである。斎藤氏によれば、「文明学」胎動の要請は、学問の専門分化や細分化を進めること(学問そのものの解体)が学問そのものの進歩であるとする近代的な学の理念に対する反省に起因するものであり、したがって、「文明学に要求される基本方向は、解体をではなく統一を目差すものである」(『文明への問』、四頁)。この立場は、近代的なデザインの理念に対する反省を提示せんとするわれわれの試みにとって、その方向においてほぼ同一のものとみなすことができよう。そのような意味で、もう少し、斎藤氏の主張に耳を傾けることにする。
氏の語るところによれば、「近代のヨーロッパ文明は実証主義をはぐくみ、実証主義は近代文明を支える思想であった」(同書、六頁)。ところが、実証主義とは、その実、「科学的厳密性や確実性のある有効な予測性に支えられて近代のいわば世俗的な知的確信の核となったもの」(同書、七頁)であって、「実証主義的な枠組によって人間社会を理解しようとする試みは、現実の人間社会の経験的な理解に即応しなくなった」(同書、六頁)ことを契機に、かかる知的確信に動揺(知的秩序の混乱)が起こり、実証主義への反逆が顕在化するに至ったのである。すなわち、氏によれば、文明の学的自覚の経緯は、実証主義への反逆の現われであり、「実証主義への反逆は近代の知的秩序の混乱の現われにほかならない」(同書、九頁)ことになる。しかし、「近代的な知的秩序の混乱は自然認識それ自体における矛盾から生じているものではなく」(同書、一四頁)、「自然と人間を包む全体的な知的秩序の混乱」(同書、同頁)に由来するものであり、「自然科学的な技術」(同書、同頁)がそれを可能にしたのである。そして、かかる技術によって、「近代の人間は自然の拘束から自由になれる方途を手に入れたと思った」(同書、同頁)わけであるが、斎藤氏は、このような近代人の自由を、「自然支配による自然からの解放の自由」(同書、同頁)であり、「本質的に力に支えられた自由」(同書、同頁)であり、したがって、「世俗的な自由にほかならない」(同書、同頁)という。近代的な自由が「個人の自由の意識であって、社会の意識に基づいた自由でない」(同書、二三頁)以上、近代が自由のもとに否定したものが「社会的なるものであった」(同書、二三頁)ことはいうまでもない。このことは、近代デザインが「社会的なるもの」つまりは「生産の全体性」を切り捨てていったことと揆を一にするものであろうし、また、近代における、芸術と社会の著しい乖離の現象も同様に近代の自由に原因を求めることができよう。「社会的なるもの」を否定する近代の自由を、続けて斎藤氏は、「神なき無底の世界へ通ずる自由」(同書、三九頁)であり、その帰着は「人間の自己喪失であろう」(同書、四二頁)という。そしてそのような事態を「回避するための自由は人間の社会的なるものの意識に索められなければならない」(同書、同頁)ものであって、「文明化へのそうした方位は、人間の社会的原体験から社会的なるものの理念に関する形而上学的探索のうちに確認されていくものである」(同書、同頁)からである、と述べている。最後に斎藤氏は、J・ホイジンガの『あしたの蔭りの中で』を受けて、文明への問いかけを倫理的地平に置こうと試みるのである67。
そこでわれわれがとくに問題としなければならないのは、「近代の自由」と「社会的なるもの」の関連についてである。斎藤氏のいう「神なき無底の世界へ通ずる自由」は、かつておそらくはピュージンが認識していたであろう「自由」であり、それゆえにピュージンは〈世界観の前提〉としてローマ・カソリック教の復興とその精神に基づくデザイン改革を唱導したのであった。しかし、その後に続くモリスは、同じ中世社会でも、その時代を支配する精神ではなく、その時代の労働のあり方に理想を求めた。かつて、モリス主義者の小野二郎氏は、モリスが理想としていた中世工人のことを「自らの労働に最も深い喜びを感じ、それを最も見事に表現しえた 自由な ( ・・・ ) クラフツマン」68という表現で前置きし、ギルド職人たちの「協同生活」の 質 ( ・ ) と、モリスのいう自由との関係を、「むろん集団の全体的利益に個々の自由の服従を意味するものでもなければ、集団の全体意志の理念に自由の発想を見るものでもなく、集団の組織原理と生産構造とを重ね合わせ、人間と自然との関係が最も正直になる瞬間を指示しているのである」69と指摘した。そのようなことを可能にする自由が、社会的なるものの意識に基づく自由なのであろうか。
さて、斎藤博氏が文明学を提唱するに至る動機の基底に、巨大な工業生産活動によってもたらされた、自然と人間の相互関係の破壊的状況を呈している現代にわれわれが立っていることに対する危機意識が存在していたことは十分推量されるところである。ところで、現代をこのような視座のもとに分析し、それに対処しようとする試みは、玉野井芳郎氏の「広義の経済学」70に代表される社会科学の理論から文学の理論に至るまで今日幅広く認められている。そこで次に、文学者の野間宏氏の文学理論に焦点をあててみたいと思う。
野間氏は現代の危機を次のようにいう。「自然から生まれてきた人間が、自然を破壊するという、自然と人間との乖離、そこから生じる人間にとっての、これまでの人間の経験の一切を越える、まず理解しがたい、したがってその解決もまた、極めて困難な事情が人間の上に訪れてきている」71と。そして、文学は、危機の「構造と変換、その移動、そしてその終局などについて明らかにし、それがいかなるものであるかを見、果たしてその解決は可能か否か、可能であるとすれば、いかなる方法をもってするのかを、その文学理論をもって問いつめなければならないことを文学者は心底に収めてきた」(『新しい時代の文学』、三―四頁)のであるが、「しかし文学もまた自然と人間の極度の乖離によって生じたその深い裂け目のただなかに落ち込み……日本文学は、文明に関わる機能を欠いてから、すでに久しい」(同書、四頁)という。そのような現代の危機のなかにあって、いや、現代がそのような時代だからこそ、野間氏はあえて、創造とは何か、を問うのである。「創造とは、これまでにない価値あるものを造ることなのである」(同書、一〇三頁)が、氏が問題にしているのは価値そのものなのである。価値について氏は次のように述べている。「価値とは本来あるべき生態系につつまれたまことの新しい社会構造と対応する真の生命活動と生活活動をすすめるところに成立する、秩序の体系であり、それを一つ一つ生きるところに生まれる全体化作用に支えられた、実践的、弁証法的な構造と機能をもった、真(誤謬)であり美(醜)であり善(悪)であり、これら一切を統一した、近代・現代そのものを内に含みこれを超える全体的真実の世界・宇宙の構造とその全座標軸である」(同書、一〇三―一〇四頁)と。そして氏によれば、さらにいまは、「真の使用価値とは何かを問わなければならない時」(同書、一〇五頁)であり、「その時、ものを造る、という『造る』という言葉の意味もまた大きな変化をこうむらなければならないのである。もちろん『造る』ということは、大地の上に立つ労働者の労働によって造るということである。しかし今や商品の使用価値の多くは、行方不明になっているとすれば、その商品を造る労働そのものを、真の使用価値をつくる労働へと向け直さなければならないのである」(同書、同頁)。
それでは、「真の使用価値」、あるいは「真の使用価値をつくる労働」とは何であろうか。ここでいま一度モリスに帰ってみたい。モリスは、仕事には二種類がある、という。「一方は善であり、他方は悪である。一方は天の恵み、すなわち、生活を明るくするものとそんなに距ってはいないものである、他方はたんなる呪い、すなわち、生活の重荷である」72。その両者の相異は、「一方には希望があり、他方にはない」73ところの違いである。そして、この、仕事を価値あるものにする希望の本質をモリスは「休息の希望、成果の希望、それに仕事そのものにおける喜びの希望」74の三つである、という。そのことを換言すれば、プロダクツを生み出す価値(労働価値)とは、労働に伴うある種の苦痛を解放する保障(苦痛解放の保障)を前提とし、労働の所産であるプロダクツをわれわれが使う楽しみ(使用価値)を予想した、労働を通しての創造的技能を楽しむこと(創造価値)、といえるだろう。
それでは、経済学はこれまで、交換価値とともに使用価値、さらには創造価値をも問題としてきたのであろうか。その点について、小野二郎氏は、「近代経済学のいわゆる主観的価値論は使用価値を問題にするといっても、その価値の質を問題にせず、量に還元できる『強さ』のみを考えているわけである。この主観的価値の大小は『欲望』の大小ということになる」75と述べている。われわれが見ておかなければならないことは、小野氏同様、「欲望」の解放が決して人間の解放を意味するものではない、という点である。このことは、前述した近代の自由の問題ともかかわってこよう。そのような意味で、現代の危機に直面しているわれわれにとって、真の使用価値を問うことが、さらには、真の創造価値を問うことが、「近代の虚偽の欲望体系に対する批判の武器として、今日こそ再評価されるべき問題提供」76として成立するのである。
これまでわれわれは、小野二郎氏のモリス思想を基軸とした現代批判を織り込みながら、建築家の黒川紀章、哲学者の斎藤博、文学者の野間宏、この三氏の現代の危機に対応すべく論述を検討してきたが、最後に、美学者の竹内敏雄氏の「技術時代」における芸術理論の展望を見ることにする。
竹内氏はまず、美学と芸術理論の癒合の歴史的経緯を次のように説明する。「芸術は美なるものとして把握されるよりも、まず制作の能力ないし活動としての技術に属するものと考えられていた」77ので、古代ギリシャでは芸術の概念と美の理念とはかなり疎慢な関係にあった。「この事態は大体において古代から中世をへてルネッサンス期におよんでいる」(『美学総論』、五四八頁)が、近世に至って「『美学』がこの名のもとに独立の哲学的分科として創設されてからは、ひとたび美の形而上学となった」(同書、同頁)のである。ところがその後、「ドイツ観念論の隆盛期においてその代表者たちが美学を『芸術哲学』として説いて以来、その体系的研究は、多くの場合、主として芸術美にささげられ、端的にいえば、芸術美学となってきた」(同書、同頁)のである。さらに竹内氏は、このような近代美学の趨勢のもとで、「美の研究が芸術美の一面に偏局する一方、芸術の認識は審美主義的方向にかたよった跛行的なものになった」(同書、五四九頁)ともいう。
したがってこれまで、近代デザインや近代建築が近代美学の主たる考察の対象となりえなかったのも、デザインや建築の製作の契機がただ美的価値のみに立脚するものでないがゆえに、芸術美の一面に偏局する近代美学にはなじまなかった、という事情によるものであろう。しかし一方、「デザイン」や「建築」の側からの「芸術」の要請は、芸術と技術の乖離がその激しさを増すごとに、繰り返されてきた。バウハウスの理念がその典型的な現われである。しかしながら、それに対する「美学」側からの応答は、かかる近代美学の趨勢により皆無に等しかったといえようが、少なくとも近代技術の「美」についていえば、美学の基本概念として導入されるに至った。その間の事情を竹内氏は次のように要約する。「現代工業の機械技術は飛躍的進歩をとげて人間の生活に対する効用を増大するとともに、そのデモーニッシュな威力をもって人間存在そのものを変質させ、これに応じて現代人の美意識もかつてはかえりみなかった機械的なものにあたらしい美をみいだし、それに魅力を感ずるにいたった。技術美の概念はこの時代の状況において自然美と芸術美の概念対立のあいだにわりこんできたものである」78。
しかし、技術美の美学への進入はそれとして、「デザイン」や「建築」からの、芸術と技術の統一という理念の問いかけは、無論、技術美の認知がその主たる目的ではなく、製作する人間の、秩序を予想した欲求に基づくものであった。その意味で、竹内氏の説く「芸術理論」は、この種の欲求に呼応するものといえよう。その「芸術理論」とは次に見るとおりである。
「芸術の学は一方において 美学 ( ・・ ) を基礎学として、これに依拠するとともに、他方では技術一般の原理論として成立すべき 広義の技術哲学 ( ・・・・・・・ ) 、あるいは制作学(Poietik)に基礎をおき、そのうえに構築されなければならぬ。この両面からの基礎づけによってのみ芸術理論はその 研究対象 ( ・・・・ ) に充分適応したものとして確立されるであろう」79。この主張は、「現代における芸術の反審美主義的諸研究が美学の枠をこえて発展していることが、新時代の要求に適応するものであるならば、芸術を、そのテクネーとしての根本性格に着目して、技術一般の存在基盤のうちにおきなおして観察することも、われわれにとって緊急な課題であろう。いや、これこそこの『技術時代』において芸術の意義を正当に理解するために没却すべからざる現代的課題でなければならぬ」80とする、現代に対する竹内氏の理解に基づくものである。
そこで、ここでは、デザインの理論の性格とデザイン運動の理念の性格に触れることによって、「芸術理論」との関連を見ておかなければならない。デザインの理論の性格とは、いうまでもなく、デザインの全体性の正しい理解であり、デザインの運動とは、かかる理解に基づく、理念的実践活動である。デザインの全体性の正しい理解が、コインの裏と表であるような芸術と社会双方の理解に基づかなければならない以上、デザインの理論は、芸術理論と社会理論の総合的、統一的地平においてのみ求められうるものであり、したがって、「芸術=社会の理論」という名辞を与えることができよう。その場合、芸術を社会学のための単なる材料として扱うことでも、芸術を軸としたその社会学的関連性を扱うことでもないことは自明のことである。というのは、あくまで、「芸術と社会とをそれぞれできあがったものとして対立させるのではなく、いわば論理的に芸術以前の状態と社会以前のそれとを考え、それが絡み合う場所、むしろ同一の構造となるところ」81にデザインの初源的発生機、あるいは斎藤氏のいう社会的原体験を認め、その構造と機能を明らかにすることがデザイン理論の使命であると予想されるからである。したがって、このような理論的研究が可能となるためには、芸術理論に「社会」を持ち込むことや、社会理論に「芸術」を持ち込むことはそれ自体の純化と自律にとっての妨げである、という無用の心理的危惧をいちはやく取り払うこともまた、明らかな前提となるであろう。
(三)デザイン理論の現代的課題
われわれは、この「二.現代の危機とデザイン理論の課題」において、まず、近代デザインの主題の底流が「デザインの全体性」であったことを理解したうえで、次に、各分野からの現代への発言を検討してきた。そして、それらのどの発言にも、根底に、「現代の危機」が共通に横たわっていた。
われわれが、現代が危機である、と具体的かつ現実的に意識するようになったのは、いわゆる「社会的症候群」がわれわれに襲いかかってきた六〇年代後半以降のことである。公害、資源、エネルギーなどの諸問題は、単に将来にわたるわれわれの生活に暗い影を落とすだろうといった程度の問題でなく、われわれの生存自体が危機に瀕していることをはっきりと示していた。この事態は、当然、学問に対しても緊迫した問いかけとして現われた。しかもそれは、社会科学の諸分野のみならず、哲学から芸術に至るあらゆる分野に対応を迫るものであった。そして十数年を経た今日においても、その根本的な問い直しが続いているのである。
それでは、このような現代の状況におけるデザイン理論の課題とは何であろうか。この問いかけこそが、本論文の全体をとおしての最終的な問いかけなのである。われわれが生活しているこの都市空間を見渡せば、高層ビルが立ち並び、そのわきの高速道路をまさに近代的なスタイルのクルマが連なり走っている。車内の運転操作のパネルは機能的に整然と処理され、ステレオ・スピーカーからは良質の音が流れ出る。それと併走するかのように、カラー・コーディネイトされた新幹線が時速二〇〇キロのスピードで走り抜ける。「高層ビル」も、「高速道路」も、「クルマ」も、「運転操作用パネル」も、「ステレオ・スピーカー」も、「新幹線」も、これらすべて、人間がデザインしたプロダクツの世界である。一方、大気はどうか。海はどうか。そして、森はどうか。大気汚染、水質汚濁、森の枯渇――これらすべて、人間がデザインしたあとに残された自然の世界である。デザイン理論に対する現代からの要請もまた、このような「プロダクツ」と「自然」との極めて対照的関係にある現実に起因するものであった。
それでは、そもそも、人間がデザインする(プロダクツを生み出す)とはどのようなことを意味しているのだろうか。人間にとってデザインの第一歩は、当然自然への働きかけである。しかし、この場合、人間のために有用なものをつくり出すことが前提となっているからといって、自然への働きかけが、常に功利的態度によるものとは限らない。なぜならば、自然から得られた材料に実際に形態や色彩を与えようと構想する段階で、われわれはおおむね、有用な材料源としてと同時に、形態構想のためのインスピレイション源としても、事実、自然に対して働きかけを行なっているのである。竹内敏雄氏は、りんごや駿馬の例を挙げて、「自然の諸対象は美的態度で観照されもすれば、功利的態度で使用されもする」82と前置きし、自然の諸対象における「美的価値と功利的価値とは たがいに他に依存せず、 ( ・・・・・・・・・・・ ) それぞれ独立の価値として ( ・・・・・・・・・・・・ ) 並存する ( ・・・・ ) 」83ことを指摘している。しかし、たとえその両価値が独立性をもったものであったとしても、人間がプロダクツを生み出す際には、決して功利的価値のみを引用するのでも、美的価値のみを引用するのでもなく、両価値をあわせもった形式で自然からプロダクツへと引用するのではなかろうか。それは、美的価値と功利的価値とを分離することが実際上不可能なことであるだけではなく、分離を否定することそれ自体が、プロダクツの製作における極めて人間的欲求だからでもある。人間が生きていくうえで基本的に必要とされるプロダクツは、功利的価値を捨象した美的価値のみからも、また、美的価値を捨象した功利的価値のみからも生まれることはない。分かちがたいこのふたつの価値に支えられて自然から生まれたプロダクツであるからこそ、われわれはそれを、「第二の自然」または「第二の人間」としてみなすことができ、自然と人間とプロダクツの三者のあいだに緊密なる関係が成立するのである。
ここにひとつの湯呑み茶碗がある。土と火でできている。形態は、たとえば洗面時などの両手を添える際のボールの形状からインスピレイションを得ている。そしてもし、その表面に装飾が施されているとすれば、それは、あるものは、歴史のなかで堆積したわれわれの記憶のあかしであり、またあるものは、自然界の森羅万象の再生であり、さらにあるものは、未来からの問いかけに呼応する刻印であるにちがいない。一方その湯呑み茶碗は、人間の手に代わって湯を保持し、口もとまで運ぶのである。われわれが、プロダクツを「第二の自然」または「第二の人間」として呼ぶのは、プロダクツが、自然のなかから生まれたものであると同時に、人間の身体機能の延長されたものにほかならないからである。仮に、自然と人間のあいだに秩序関係が成立とすれば、人間が自然に働きかけた結果としてのプロダクツがそのような状態で定立しているとき、ただそのときだけであろう。そして、そのような状態でプロダクツが定立する瞬間が、すなわち、自然と人間との一体化という営為のもとにプロダクツが生み出される瞬間が、デザインにおける 初源的発生機 ( ・・・・・・ ) 84なのであろう。その瞬間においてのみ、プロダクツは、自然から恵まれた素材と自然から感得された着想のもとに、人間の生活を保障すべき形態となるのである。したがって、この初源的発生機には、自然に対する感謝の念とともに生活の質への問いかけとして、美的価値、功利的価値、それに倫理的価値が分化することなく包摂されている、といえるのである85。
ところで現実の世界はどうだろうか。現実には、「人間がデザインしたプロダクツの世界」と「人間がデザインしたあとに残った自然の世界」との、二極に分解された荒涼、不毛の世界が眼前に横たわっている。それはなぜか。それは、近代思想の二分法に基づき自然と人間を対置させ、人間の側が、自然を、人間にとって有用なものを生み出すための源としてのみ取り扱ったためであろう。また、人間の側が、より大きい、より高い、より速いといったことがよりよいことであるという価値判断に基づき、プロダクツを、欲望解放の手段としてのみ取り扱ったためであろう。そこには、「第二の自然」あるいは「第二の人間」としての姿を認めることはもはやできない。それではなぜそのような事態に陥ったのだろうか。それは、近代から現代に至るまでに、デザインにおける初源的発生機をわれわれ人間が喪失してきたからにほかならない。人間が自然とプロダクツの秩序関係を予想しえるのは、初源的発生機においてのみである。現代の危機の根底にあるものは、人間の側の、プロダクツを生み出す際の初源的発生機の喪失にあった、といわねばならない。
芸術と技術の著しい乖離も、すべてそのことに原因を求めることができよう。初源的発生機の喪失は、プロダクツの製作から、芸術的価値と技術的価値の分離を容易ならしめ、それぞれの独立と自律を助長する力となった。近代の「芸術」の、社会からの離反にいちはやく危機を感じたモリスは、「このような芸術の一分派の将来性に多言を費やすのは悔いの種となるであろう。この分派はある意味で、少なくとも理論的には現存しているし、そのスローガンとして、『芸術のための芸術』という、一見したところ無害のようだが、実はそうでない俗言を掲げている」86と、極めて強い調子で非難するのである。「制作者と使用者を幸福にするものとしての、民衆によって民衆のためにつくられた芸術」87を擁護するモリスにとって、技術的価値とともにプロダクツを生み出す際の価値として包摂されていた芸術的価値が、それ自体独立し、そのことによって社会性を喪失し、「芸術のための芸術」を主張することは、まさに芸術の自己否定、あるいは自己破壊を意味することにほかならないのである。
一方、経済学の場合はどうだろうか。現在、経済学は、いわゆる「社会的症候群」を外部不経済として捨象することも、また、既成の枠組みのなかに内部化することもできない、極めて困難な状況に直面しているといわれている。このことは、商品と市場のみを対象としてきた従来の経済学の破綻を意味するものであろう88。先述のとおり、プロダクツを生み出す初源的発生機には、モリスのいう労働価値に従えば、休息の保障とともに、少なくとも使用価値と創造価値が含まれていた。従来の経済学の破綻も、商品価値や市場価値を第一義的価値として取り扱うことによって、プロダクツを生み出す際の発生機にみられる使用価値と創造価値を捨象したことに起因するものといえよう。
さてこれまで、われわれは、プロダクツを生み出す初源的発生機に、本来は分離不可能な同一構造としてとらえなければならないが、便宜上あえてふたつの側面に分けて照明をあて、形態を生み出す製作の立場から美的価値と功利的価値を論じ、一方、生産行為としての労働の立場から使用価値と創造価値を論じてきた。また、この発生機において製作=労働する人間のみが、自然―人間―プロダクツの、三者の緊密な調和関係を予想しえるものであることも述べた。
プロダクツを生み出す初源的発生機においてのみ自然と人間とプロダクツの調和を予想しえるものである以上、われわれは、生産の原理、共同体の組織原理、芸術の原理のすべてに先立ち、この初源的発生機に照明をあてなければならない。さらに、現代の危機の根源が、自然と人間とプロダクツの三者の諸関係において調和関係が成立していないことにある以上、われわれは、現代デザイン理論の課題を、デザインにおける初源的発生機の回復方途の提示に定めなければならない。同時にまたそれが、現代におけるデザイン運動の理念となるものである。初源的発生機の回復を主張することは、必然的に、既存の生産の原理、共同体の組織原理、芸術の原理の解体と同時に、それらを新しく貫通する統一された原理の創造とを意味している。しかし、そのような、プロダクツを生み出す際の初源的発生機を保障しえる共同体の成立を可能とするためには、ひとつには、社会の原理と芸術の原理に個別的自律を認めそれらに従うのではなく、両者を貫通する統一された新たな原理に従わなければならないこと、もうひとつには、その原理によってのみはじめて、自然と人間とプロダクツの三者は秩序を回復し、調和的共存が可能となることの、この二点をまず、われわれのすべてがいちはやく承認しなければならないのである。
この数年来私の脳裏にあったのは、現代の「デザイン行為」の実態が資本と市場にあまりにも強く制約を受けていることに対する、さらには、そのことを当然視する考えに対する疑念であった。しかしそのような疑念は、いわゆる「純粋美術」と呼ばれる造形の一分野に補完的役割を期待することによって解消されるものでは決してなかった。私の不満は、現代社会の全くの拘束性のなかにあるデザイン(そのようなデザインは自然との関係や自然に対する倫理性を捨象するととになる)に対しても、また、個人の全くの自由性のなかにある純粋美術(そのような美術は社会との関係や社会に対する倫理性を捨象することになる)に対しても、等しく向けられていた。
このような状態にあった私にとって、小野二郎氏の著作にはじめて接したとき、それは驚きであった。小野氏は、「芸術の理論と社会の理論を重ね合せる」という視点から、「芸術と社会が同一となる構造」をとらえていたのである。私の疑念と不満は、このような地平に立つことによってひとまず解消の方向へと向かった。しかし、この問題提起がいかにラディカルなものであるか、いまようやく私にはわかりかけてきている。というのは、芸術と社会が同一となる構造を見据えることは、いわゆる「体制」や「イデオロギー」が姿を現す直前の発生機においてしか存在しないからである。この発生機の回復を求めることは、現代におけるデザインの理念的ユートピアであろう。しかし、デザイン史を見る限り、人は常に過去の時代にあってもこうした理念的ユートピアと苦闘してきたのだった。ここでいうユートピアとは、遠くにある望み多きユートピアでは決してなく、プロダクツを生み出すという現実のまっただなかに身を置くことの矛盾から立ち上がってくるユートピアである。そして顕在化したユートピアは、ときのイデオロギーに同化も対立もするのである。そのようにして、あるいは、それにもかかわらず、人はプロダクツを生んできたのである。したがって、発生機に照明をあてようとする現代のユートピアもそのような矛盾発生基盤(製作あるいは労働、作品あるいは商品、アトリエあるいは工場、美術館あるいはショウルーム)から展望されたユートピアでなければならないだろう。
このような考え方を私は小野氏の多数の著書から教えていただいた。しかし、面識の機会を得ることもなく、昨年の春、小野氏は他界された。本稿は、その学恩に報いるために書かれたものであり、モリス主義者小野二郎氏に心から捧げたいと思う。そしてまた、私自身これから、モリスの思想と実践についてさらに詳しく研究してゆきたいとも思う。
(一九八三年)
(1)しかしながら、ニコラウス・ペヴスナーの歴史観に対する批判も、すでに今日幾つか見受けられる。小野二郎氏は、ペヴスナーのアール・ヌーヴォー評価について、また、D・ワトキンは、「建築を建築以外の何ものかの表出の結果として説明する」ペヴスナーの歴史観について、批判している。小野二郎『ウィリアム・モリス』(中公新書、1973年)、およびD・ワトキン『モラリティと建築』(榎本弘之訳、鹿島出版会、1981年)を参照。
(2)ジリアン・ネイラーは、A・W・N・ピュージンが『尖塔式建築つまりはキリスト教建築の正しい原理(The True Principles of Pointed or Christian Architecture)』の冒頭で、「その後一九世紀のデザイン理論の基礎となった妥当性と構造的適性の原理を明らかにした」ことに触れたうえで、「彼は、機械の進歩についてラスキン主義が持ち合わせていたいかなる嫌悪ももっていなかった」と述べている。Gillian Naylor, The Arts and Crafts Movement, Studio Vista, London, 1971, pp. 13-15を参照。
(3)A・W・N・ピュージンとヘンリー・コウルの「ふたりの考え方は、『建築上の美についての試金石は、それが意図された目的にデザインが適合しているかどうかである』という点で基本的に一致していた」と、フィオナ・マッカーシーは指摘している。事実ピュージンは、コウルの新しい装飾美術館のために、一八五一年の大博覧会の展示品のなかから展示物を選択する審査員団の一員を務めた。Fiona MacCarthy, A History of British Design 1830-1970, George Allen & Unwin, London, 1972, p. 11を参照。
(4)ジリアン・ネイラーは、アーツ・アンド・クラフツ運動の源泉に、「ラスキン」は別章として、「ピュージン」「一八三五年委員会」「コウル」「大博覧会」の四点を挙げている。Naylor, op. cit., pp. 11-22を参照。
(5)ニコラウス・ペヴスナー『モダン・デザインの展開』白石博三訳、みすず書房、1957年、35頁。
(6)Fiona MacCarthy, op. cit., pp. 9-12を参照。
(7)ニコラウス・ペヴスナー、前掲書、32頁。
(8)Antony J. Coulson, A Bibliography of Design in Britain 1851-1970, Design Council, London, 1979, p. 14.
(9)Fiona MacCarthy, op. cit., p. 17を参照。
(10)Ibid., p. 17を参照。
(11)Ibid., p. 32を参照。
(12)ニコラウス・ペヴスナー、前掲書、36頁。
(13)Fiona MacCarthy, op. cit., p. 19.
(14)小野二郎『ウィリアム・モリス』中公新書、1973年、46頁。
(15)ウィリアム・モリス「装飾芸術」『民衆のための芸術教育』内藤史朗訳、明治図書、1971年。
(16)ウィリアム・モリス「民衆の芸術」『民衆のための芸術教育』内藤史朗訳、明治図書、1971年。
(17)ウィリアム・モリス「芸術と大地の美」『民衆のための芸術教育』内藤史朗訳、明治図書、1971年。
(18)同書、10頁。
(19)同書、同頁。
(20)同書、71頁。
(21)同書、57頁。
(22)同書、78-79頁。
(23)同書、78頁。
(24)同書、63頁。
(25)小野二郎、前掲書、143頁。
(26)マリオ・アマヤ『アール・ヌーヴォー』斎藤稔訳、PARCO出版、1976年、8頁。
(27)同書、6頁。
(28)しかし、マリオ・アマヤは、現在においてもアール・ヌーヴォーの様式が追求されていることを、エーロ・サーリネンによって設計されたケネディー空港のTWAターミナル・ビルなどの例を挙げて指摘している。同書、159-162頁を参照。
(29)John Heskett, Industrial Design, Thames and Hudson, London, 1980, p. 85.
(30)Ibid.
(31)阿部公正『デザイン思考』美術出版社、1978年、114頁を参照。
(32)同書、116頁。
(33)同書、117頁。
(34)Heskett, op. cit., p. 90.
(35)Ibid.
(36)阿部公正、前掲書、120頁。
(37)ギリアン・ネイラー『バウハウス』利光功訳、PARCO出版、1977年、21頁。
(38)Ibid.
(39)利光功『バウハウス』美術出版社、1970年、9頁。
(40)同書、160-161頁を参照。続けて利光功氏は、芸術的側面を強く否定するハネス・マイアーの考え方は、「あらゆる現象を社会的なあるいは経済的な面から理解する彼の世界に根ざしていた。この世界観とは反資本主義的なつまり社会主義的なそれを意味し、これがマイアーの思想のもう一つの重要な側面を構成していた」(同書、162頁)ことを指摘している。
(41)同書、163頁。
(42)Fiona MacCarthy, op. cit., p. 28を参照。
(43)Ibid.
(44)Ibid., p. 39.
(45)Ibid., p. 35を参照。
(46)Ibid.
(47)Ibid.
(48)ノエル・キャリントン『英国のインダストリアル・デザイン』中山修一・織田芳人訳、晶文社、1983年、41頁。
(49)斎藤博『文明への問』東海大学出版会、1979年、23頁。
(50)Gillian Naylor, The Arts and Crafts Movement, Studio Vista, London, 1971, p. 7.
(51)Ibid.
(52)ウィリアム・モリスはまた、労働については、「すべての人間の労働は、自然と調和したものになり、道理にかなった美しいものになるであろう」(37頁)と述べ、芸術については、「芸術を道徳、政治それに宗教から分離することはできない」(60頁)と述べている。『民衆のための芸術教育』(内藤史朗訳、明治図書、1971年)を参照。
(53)阿部公正、前掲書、100頁。
(54)中山修一「D. I. A. の創設と初期の活動」『デザイン理論』21号、意匠学会、1982年を参照。
(55)ノエル・キャリントン、前掲書、第ⅤⅢ章を参照。
(56)竹内敏雄『美学総論』弘文堂、1979年、39頁。
(57)同書、同頁。
(58)同書、40頁。
(59)同書、同頁。
(60)中山修一「デザイン学の発生」『デザイン学研究』別冊、日本デザイン学会、1975年。
(61)中山修一「非経済学的価値としてのデザイン」『デザイン理論』16号、関西意匠学会、1977年。
(62)中山修一「デザインにおける形態および色彩からの脱皮とは何か」『デザイン理論』18号、意匠学会、1979年。
(63)ノエル・キャリントン、前掲書、269頁。
(64)黒川紀章『建築論』鹿島出版社、1982年、66-70頁を参照。
(65)向井正也「書評『建築論』」『デザイン理論』21号、意匠学会、1982年、123-128頁。
(66)斎藤博、前掲書、i頁。
(67)斎藤博氏の、文明への問いかけを倫理的地平に置こうとする試みは、今道友信氏が提唱する、eco-ethica(生圏道徳学)とmetatechnica(技而上学)と密接な関係があるといえる。今道友信「哲学の新しい学問領域について」『学士会会報』no. 748、1980年を参照。
(68)小野二郎、前掲書、146頁。
(69)同書、147頁。
(70)玉野井芳郎氏は、商品経済や市場経済を対象としてきた従来の経済学を「狭義の経済学」としたうえで、機械的・可逆的循環系としての狭義の経済学の本質的欠点を批判し、それに代わる、人間―生態系を視野に入れた有機的・非可逆的開放系としての「広義の経済学」を提唱している。玉野井芳郎『エコノミーとエコロジー』みすず書房、1978年を参照。なお、この「広義の経済学」の概念は、同著者の『市場志向からの脱出』(ミネルヴァ書房、1978年)、『生命系のエコノミー』(新評論、1982年)のなかでさらに展開されている。
(71)野間宏『新しい時代の文学』岩波書店、1982年、3頁。
(72)ウィリアム・モリス「有用な仕事と無用な労役」『民衆のための芸術教育』内藤史朗訳、明治図書、90頁。
(73)同書、同頁。
(74)同書、同頁。
(75)小野二郎『運動としてのユートピア』晶文社、1973年、65-66頁。
(76)同書、66頁。
(77)竹内敏雄、前掲書、548頁。
(78)同書、515頁を参照。
(79)同書、557頁。
(80)同書、553-554頁。
(81)小野二郎『ウィリアム・モリス』中公新書、1973年、5頁。
(82)竹内敏雄、前掲書、512頁。
(83)同書、同頁。
(84)小野二郎氏は、「人間が物を使おうとする時、先ず立上がってくる形式」(304頁)に、「発生機の形式」という言葉をあてている。この言葉は、同氏がよく使った「民衆の神話形成力」に近いといえる。小野二郎『紅茶を受皿で』晶文社、1981年を参照。
(85)小野二郎氏は、これを「深い美の直感による、人と自然、人と人、さらには人と超越的なるものとのそれぞれの関係の正しい結節点(芸術の原理と社会の原理の一致、あるいは美の原理と信仰の原理の一致)」という表現で指摘している。小野二郎『ウィリアム・モリス』中公新書、1973年、13頁を参照。
(86)ウィリアム・モリス「民衆の芸術」、前掲書、50頁。
(87)同書、59頁。
(88)このことに関しては、次に挙げる文献を参考にした。正村公宏『経済思想の革新』(日本放送出版協会、1969年)、正村公宏『計画と自由』(日本放送出版協会、1972年)、青沼吉松『産業社会の展開』(日本放送出版協会、1973年)、稲田献一『弱者の経済学』(東洋経済新報社1977年)、および玉野井芳郎『エコノミーとエコロジー』(みすず書房、1978年)。