現在の私たちの生活が、よくも悪くも多くの工業製品の生産と消費によって成り立っていることは明白である。そうであるとするならば、私たちはそのような生産様式と生活様式をいつのころから、どのような経緯のもとに手に入れてきたのだろうか。『工芸の歴史』の著者であるエドワード・ルーシー=スミスはその本のなかで、工業製品の出現に至るまでの歴史を三つの段階に分け、次のように説明している。
まず、すべてのものが工芸だった時代があった。製作の全工程が手によって行なわれ、つくり出されたものはどれも、実用的なものであれ、儀礼に用いられるものであれ、あるいは単に装飾的なものであれ、(これらの三つの機能を分けて考えることはしばしば困難である場合が多いが)本質的には工芸品であった。その後、少なくともヨーロッパにおいては、ルネサンスを境として、さらなるふたつの発展の段階を認めることができる。工芸の観念と純粋美術の観念とのあいだに知的な分離が生じ、ついには、純粋美術の観念の方が優位なものとしてみなされるようになった。こうした発展は、ヨーロッパ・ルネサンスの際立った痕跡のひとつとなっている。さらにその後、産業革命に伴って、機械によって生み出されるもの――つまり工業製品と工芸品とのあいだに分離現象が発生したのである1。
この簡潔にまとめられた一文は、人類の造形と生産にかかわる全体の歴史を見通すうえで大変有益である。とはいえ、エドワード・ルーシー=スミスのこの『工芸の歴史』は、一九七〇年代の欧米における「クラフツ・リヴァイヴァル」の動きを反映して、工芸の新たな社会的役割を再発見する立場から描かれた歴史書であり、したがって、「工業製品と工芸品とのあいだに分離現象が発生した」のちの工業製品の歴史については、当然ながらあまり詳しく触れられていない2。しかし本稿にとっての興味は、あくまでも「工業製品の歴史」であり、とりわけそれをどう記述すべきかという問題、つまり「デザイン史の方法論」がここでの考察の対象にすえられている。
デザインの歴史はどのような方法に基づいて記述されるべきであろうか。
「デザイン」という用語はすでに日常語のひとつに数えることができるし、昨今では、英語圏のみならず、世界の共通言語として頻繁に使用されるに至っている。しかしそれほどまでに一般化しているにもかかわらず、万人にとって満足のゆく定義をそれに付与することは、それが多層的でかつ放射的な意味内容をもつだけに、実際問題としては不可能に近いであろうし3、またそれだけに「デザインの歴史」も複雑なものにならざるを得ない。しかし興味の対象がいかに複雑な諸関係により成り立つものであろうとも、対象それ自体がこれまで存在してきたことは自明であり、対象のありようの複雑さを理由にその歴史記述を放棄することはできない。それでは、放棄することなくその歴史を記述しようとする試みにとって、どういう手続きにしたがえば「デザイン」についてのどのような歴史的真実が解明されるのであろうか。
以下のふたつの引用は、「デザイン史」とういう新たなディシプリンを巡る一九八〇年代の言説である。
デザイン史は、もしそれに取って代わる学問がほかにないのであれば、デザイナーが関与することによって生まれた実際的な結果――その人が行なった選択、その人が全力を傾けた創造力、あるいはまた、そのような諸活動にとっての文化的、情報的環境――についての研究として存在することになる4。
デザインのもつ文化的意義と経済上の重要性についての理解が広範囲に行き渡ることによって、デザイン史構築のための幅広いすそ野は用意されることになる。そこでこの『ジャーナル』は、たとえば人類学、建築史、美術史、実業史、工芸史、文化学、デザイン・マネジメント研究、経済・社会史、科学・技術史、社会学といった、物質文化を考察の対象にすえる他の学問と積極的に連携してゆくことを追求する5。
こうした言説を念頭に置いたうえで、本稿は、八〇年代の英国におけるデザイン史研究の胎動を視野に入れながら、これからのデザイン史研究に要請されるであろう新たな幾つかの視点に対して基礎的な考察を加えようとするものである。
英国においてデザイン史研究が本格的に進められるようになったのは一九七〇年代になってからのことであり、極めて新しい学問分野であるということができる。サイモン・ジャーヴィスは、デザイン史研究が胎動してきた背景を次のように述べている。
少なくともイギリスにおいては、デザイン史は、一九七〇年代からその成長が認められる研究領域である。しかしその展開が、ポリテクニックにおいて画一的なものにされてしまったことは、多くの点で不幸であった。……よくも悪くも、ほとんど例外なく、こうした将来デザイナーになる学生たちにとっては過去の一〇〇年間ないしはそれくらいのデザインの歴史が重要である、とみなされていたのである6。
この引用からわかることは、単にデザイン史研究が胎動する時期だけではなく、その研究者の所属する機関が、ユニヴァーシティーの人文系の学部ではなく、デザイナーを養成するポリテクニック7、ないしは美術・デザイン系の単科大学(カレッジ)であるということである。このことは、日本における近年のデザイン史研究が、文学部においてではなく、実技系の学部で進められてきていることと類似している。つまり初期の英国のデザイン史研究は、純粋に学術的な地平から発生してきたのではなく、より有能なデザイナーを養成するための教育的観点から要請されたものなのである。
このような意味におけるデザイン史研究の要請には、大きく分けてふたつの要因が考えられる。ひとつは、六〇年代に進められた美術・デザインの教育制度の変革という外的要因である。この時期、サー・ウィリアム・コウルドストリームを議長とする美術教育国家諮問協議会は一連の報告書を提出し、それにより、英国の美術・デザインの教育制度は大きく刷新されることになった。その特徴のひとつは、デザインにかかわる教育課程の大幅な導入とその確立にあったわけであるが、それはいうまでもなく、質の高いデザイナー養成に対する社会の要求に基づくものであった。質の高いデザイナーを養成するためには、高度なデザインの技能だけではなく、デザインに関する幅広い知識や見識を学生たちに教授しなければならず、そのような理由から、順次ポリテクニックやカレッジにデザイン史の専門家が職を得るようになり、一段とその研究も専門化し、急速に発展してゆくことになるのである。
もうひとつの要因は、内的なものである。少なくともこの時期までは、社会で活躍しているデザイナーも、大学でデザインを教えている教師も、大筋では、「モダン・デザイン」の教義を揺るぎないものとして確信していたのであるが、六〇年代後半のステューデント・パワーは、デザインにかかわる多くの人たちに、デザインの社会的な意義や役割について再考させる機会を与え、一方「ポップ・デザイン」の登場は、機能主義デザインに対する少なからぬ疑念を彼らに抱かせるようになった。こうした社会状況のなかにあって、近代運動を正当とする旧来のデザイン史に代わる、新たな歴史記述を求める気運が高まってゆくとともに、記号論や構造主義、あるいは大衆文化研究の成果を導入するかたちをとることによって、デザインの歴史のとらえ直しは不可避のものとなったのである。
デザイナーを養成する教育の現場からデザインの歴史研究が発生した初期の事情は、アメリカにおいても同様である。これについてイリノイ大学のヴィクター・マーゴリンはこう述べている。
歴史家がこの教科を教えるようになる以前は、たとえば、シンシナティー大学のジェイムズ・アレグザーンダやシラキュース大学のアーサー・プーロスやカリフォルニア美術研究所のキース・ゴーダールのような多くのデザイナーが、インダストリアル・デザインないしはグラフィック・デザインの歴史の授業を展開していた。……初期のデザイン史の課程のひとつは、デザイン・ジャーナリストで編集者であったアン・フィアビーによって、最初は一九六五年から六九年にかけてニューヨークのプラット研究所において、次に一九六八年からその翌年にかけてパースンズ・デザイン学校において展開され、教授された8。
こうした授業の体験のなかから、いまやデザインの通史の古典のひとつとなっている、アン・フィアビー『ヴィクトリア時代から現在までのデザインの歴史』9は生まれたのである。
ところで初期の段階にあっては、デザインの歴史は、将来デザイナーになる学生のための有益な知識として、実技系の大学において教授されはじめたわけであるが、その場合のデザインの意味がインダストリアル・デザインの意味に単純化され、したがって、その一〇〇年くらいの歴史に限って教えられてきたことに対して、幾つかの批判もまたこれまでに出されてきた。とくにサイモン・ジャーヴィスは、次のように不満を述べている。
このことは、近代様式の出現や産業革命の結果を強調するものである。こうした近視眼的アプローチによる不幸な副作用として、近代様式は、……ポスト・モダンの歴史主義によって……いまや置き換えられようとしているのである10。
ジャーヴィスのこの見解がどれほど正当なものであるかは別の問題としても、これは、「デザイン史が扱う歴史範囲の限定」についてのひとつの重要な提起であった。この問題提起は、つまるところ、デザインの意味を、限定された狭義の意味でのインダストリアル・デザインに解するか、それとも、デザインの語源であるルネサンス期イタリア語のディセーニョの意味に解するか、という問題に収斂する。前者に依拠すれば、デザイン史が対象とする歴史範囲は、当然産業革命以降ということになるし、後者に根拠を置く場合には、ジャーヴィスのいうように、デザイン史もルネサンス期までさかのぼらなければならないのである。しかし、ルネサンス期までさかのぼってデザイン史を記述するには、学問的に多くの困難と混乱が予想されるため、現時点では、英国のデザイン史家は、その間の歴史は工芸史や建築史や美術史にゆだね、機械時代におけるデザインの歴史、すなわち一九世紀以降の近代社会における歴史を主としてその守備範囲としているようである。
その場合でもなお問題として残ったのは、将来デザイナーとして役に立つことを配慮するなかから生まれた、つまり、現実的で功利的な立場からの要請のもとに生まれたデザイン史は、それゆえに学問としての純粋性と自立性に欠けるのではないか、という疑問であった。デザイン史家がこれまで腐心してきたのは、まさしくこの点であり、デザイン史がその学問的地平を開拓してゆくうえでの推進力となるものでもあった。八〇年代をとおして、ユニヴァーシティーや大学院をもつポリテクニックにおいて「デザイン史」が学位論文のテーマとして選択可能なひとつの学問領域へと急速に発展したのも、そうした努力の結果の現われなのである。
こうして英国では、デザイン史という研究分野は、七〇年代以降、とくにポリテクニックにおいて、授業と研究の対象になってきたわけであるが、それでは、それ以前にあってはデザインに関する研究の形態はどのようなものであったのだろうか。この点について、ジャーヴィスは次のように書いている。
今世紀のはじめの時期にあっては、とくにイギリスでは、工芸家自らが最良のデザイナーであると一般に信じられていた。反論の証拠が十分にあるにもかかわらず、いまだもってこの信念は生きている。同様に工芸家は、デザインの諸技能に関する学術的な研究を支配する傾向にあった11。
事実英国では、美術史家協会は別にしても、デザインに関する学術研究は、家具史学会、ガラス・サークル、ジュエリー史学会といった工芸の各分野に基づくさまざまな機関でこれまで行なわれてきており、したがって、「研究者が論議する場合も、……陶芸デザインとか、家具デザインとか、金工デザインといった範囲で論じられる傾向があり、全体的で包括的なアプローチはほとんど皆無に等しい」12状態だったのである。
デザイン史を発展させてゆくためには、当然ながら、旧来の「工芸」という概念ではなく新たな「デザイン」という概念のもとに歴史記述を行なう必要があったわけであるが、伝統的な「工芸」支配の歴史のなかにあって、文献や史料の整備さえも、七〇年代においては手つかずのままであった。もとより、ひとつの学問分野が自立し、組織的な研究が進められてゆくためには、関係する文献の整備が常に必要であり、そのような学問的要請を受けて、次のふたつの著作が世に出たのである。 Anthony J. Coulson, A Bibliography of Design in Britain 1851-1970, Design Council, 1979. Simon Jervis, The Penguin Dictionary of Design and Designers, Allen Lane, 1984.
前者は、大博覧会が開催された一八五一年をひとつの目安として、それから現代までの範囲内で、運動、理論、教育はいうに及ばず、色彩や装飾の問題から技術的、社会的、経済的要因に至るまでのデザインに関する基本文献を整理したものであり、一方後者は、デザインの意味を一九世紀以降のいわゆるインダストリアル・デザインに限定することなく、ルネサンス期までさかのぼってデザインの事象とデザイナーを収録した画期的な事典であった。
こうした専門家向けの文献案内の図書に加えて、一九八七年には初学者向けに、ヘイゼル・コンウェイ編『デザイン史――学生の手引き書』13という本も出版されるに至った。この本では、デザイン史の研究分野を、「デザイン史基礎」「服飾とデザイン」「陶芸史」「家具史」「室内デザイン」「インダストリアル・デザイン」「グラフィック・デザイン」および「環境デザイン」の八つに分け、それぞれの分野について個々の専門家が、研究上の問題点の所在、研究の方法、文献の紹介にあたっており、学生がはじめてデザイン史を学ぶ場合の有効な手引き書となることが意図されていた。王立美術大学文化史学科のペニー・スパークは、この本を次のように評すとともに、さらなる期待も付け加えている。
この案内書は、この研究分野における文献として歓迎されるべき一冊であり、また、デザイン史専攻の学生にとっての必読の書に加えられなければならないのも当然のことであろう。そうした一方で私は、デザイン史には、人の感動を呼ぶような知的な挑戦の側面があることを論述した、次の段階の書物が引き続き出版されることを期待したい。なぜならば、衣服がどのようにしてつくられたかを理解しようとする場合、デザイン史は、衣服の縫い目をほどくことだけに全面的に信頼を寄せているわけではないからである14。
このような書誌学上の文献の整備だけではなく、英国では、一次資料の保存にも力を入れてきている。一九七八年には、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のなかにある国立美術図書館の分館として、ハマスミスに美術・デザイン資料館が設立されており、二〇世紀の美術家とデザイナーの草稿や印刷物、スケッチ類などが多数、重厚な建物のなかに所蔵されている。同じく政府の振興機関であるデザイン・カウンシルのピクチャー・ライブラリーには三五、〇〇〇枚以上ものスライドが、そしてクラフツ・カウンシルには二五、〇〇〇枚を超えるスライドが保管され15、利用者に便宜をはかっている。また、ウィリアム・モリス協会やチャールズ・レニー・マッキントシュ協会といった愛好家による団体もあり、機関誌や講演会をとおして個別研究が献身的に進められている一方で、ウィリアム・モリス・ギャラリーでは、まとまったモリス作品とセンチュリー・ギルドの業績を見ることができるのである。
これまでに述べてきたように、デザイン史研究の場合、その歴史がまだ十数年と極めて短いために、現在デザイン史家として活躍している専門家のそれまでの経歴も実にさまざまである。美術やデザインの実践や、建築や工芸の歴史研究を背景にもつ人がいるのは当然であるとしても、経済学や社会学をもともと専攻した人や、科学や技術の分野からデザイン史に転向した人も含まれている。日本でもその名前がよく知られているデザイン史家を例に挙げると、『バウハウス』16の著者のジリアン・ネイラーは、かつて雑誌『デザイン』の編集に携わったことのあるジャーナリスト出身であり、『インダストリアル・デザイン』17の著者のジョン・ヘスケットは、大学では経済学を勉強し、都市計画、編集出版、中学校教師などを経験したのち、デザイン史を専攻するようになった歴史家である。このように戦前生まれのデザイン史家の多くは、それぞれに異なった背景をもってデザイン史の研究に進んできた人たちであり、それに対して、戦後生まれの若手の歴史家は、デザイン史研究の発展とともに歩んできた世代に属し、まさにデザイン史研究の申し子的存在ということができる。このグループのなかにあってこれまで最も活躍してきた研究者を挙げるとすれば、『デザインの社会文化史』18をはじめとして、すでに多数の著作を発表している王立美術大学のペニー・スパークや、その旺盛な執筆活動だけではなく、ボイラーハウス・プロジェクトのディレクターとしても盛んに注目を集めたスティーヴン・ベイリーなどの名前を列挙することができよう。
さて、ひとつの研究領域が開拓され、共通の学問的興味をもつ専門家が増えてくるにしたがって、自然発生的にそのための研究グループができるのは、当然の成り行きといえる。英国では、一九七七年に「デザイン史学会」という名称のもとにデザイン史に関する学術団体が正式に創設された。その母体となったものは、「デザイン史研究グループ」という小さなグループだったようであるが、亡くなるつい最近まで、『第一機械時代の理論とデザイン』19の著者であり、またインディペンデント・グループの指導的立場にあったレイナー・バナムが、デザイン史学会のパトロンのひとりとして名を連ねていた。バナムの学問的後継者にあたるユニヴァーシティー・カレッジのエイドリアン・フォーティーは、バナムとデザイン史学会との関係を次のように書き記している。
一九八八年三月一八日に亡くなったレイナー・バナム教授は、デザイン史学会のパトロンであり、彼がアメリカ合衆国に渡った一九七六年以前の学会創設期にあっては、積極的な支持者であった。……六〇年代および七〇年代のデザインに関する論文をとおして、デザイン史が公認された学問領域として存在していなかった当時、それが将来興味の尽きぬ価値ある学問分野になるかもしれないことを私たちの多くの者に確信させてくれたのが、彼だったのである20。
ところで、これまでこの学会は、年次大会の開催と年に四回の会報を刊行してきた。年次大会では、ひとつのテーマのもとに論文が提出され、討論がなされ、デザイン・カウンシルからひとつの冊子にまとめられ、市販されてきた。一定のテーマを毎年設定し、一年間の研究の成果を年次大会に集中させることによって、その課題についての深い考察だけではなく、さまざまな経歴をもつデザイン史家にとっての共通の知的基盤が得られることが期待されていたものと思われる。一九七九年の第二回年次大会のテーマは、「デザインと工業――工業化と技術的変化がデザインに及ぼした影響」、第四回大会のテーマは、「デザイン史――過去、変遷、製品」であった。また一九八四年には、「スピットファイアからマイクロチップまで――一九四五年以降のデザイン史研究」というテーマのもとに年次大会が開かれている。「スピットファイア」とは、第二次世界大戦中に英国空軍が使用していた単座戦闘機のことである。一方会報には、学会の動き、デザイン一般に関する今後のイヴェントの紹介、書評、文献の紹介などが掲載され、会員に便宜をはかっている。会員の多くが英国で活躍している歴史家であるのは当然であるとしても、アメリカ、イタリア、オーストリア、カナダ、ハンガリーなどの海外の研究者も含まれている。自国にいまだデザインの歴史に関する学会が整備されていないことがその理由になっているようであるが、デザイン史の学問的性格からして、この学会自体が、インターナショナルなものになることを目指していることも確かなのである。
発足以来一一年目を迎えた一九八八年は、デザイン史学会にとって大きな記念すべき年になった。というのも、念願の学会誌をオクスフォード大学出版局から創刊することができたからである。創刊に先立って、論文の応募を呼びかけるパンフレットがつくられているが、そのなかで「編集方針」が述べられており、それをとおしてその学会誌の目的と同時に、その当時のデザイン史胎動の様子をうかがい知ることができる。
本誌は、この学問分野における屈指の国際雑誌になることを目指している。この十数年のあいだにデザイン史研究は、急速な広がりをみせてきており、本誌は、この動きを反映しなければならない。本誌の目的は、新しい研究を公刊したり、対話と討論の場を提供したりすることによって、……さらなるデザイン史の発展に対して積極的な役割を演じることにある。
またこのパンフレットによると、学会誌は年四回刊行され、特集号も随時組まれることが予定されており、「ドイツ・デザイン――一八九〇―一九四五年」「技術の歴史とデザイン史」「女性とデザイン」「台所のデザイン」「デザイン教育」などが、そうした特集号のテーマとして候補に挙げられている。一方、取り扱う歴史範囲や地域に関しては、これまで主として照明があてられてきた一九世紀と二〇世紀に限ることなく、前工業化の時代のデザインや非ヨーロッパ諸国のデザインについても積極的に目を向けるように奨励されており、また、人類学や技術史や経済史などの他の研究分野に属する研究者からの投稿も強く期待されているのである。
一方、八〇年代の英国におけるデザインの展覧会のなかにあって最も衆目を集めたのは、ボイラーハウス・プロジェクトの活動であった。ボイラーハウス・プロジェクトとは、産業とデザインの関係をより活性化する目的で一九八一年にテランス・コンランによって創設されたコンラン財団の理念を具体的に執行してゆく実行機関である。ロンドンの中央美術・デザイン学校でテキスタイル・デザインを学び、一介の家具デザイナーとして出発したコンランは、現在、世界の主要国に進出している家具の店「ハビタ」をはじめとして、幾つもの企業のオーナーの地位にあり、英国では立志伝中のひとりに数えられている人物である。コンラン財団が創設されると、そのディレクターの職に、それまでケント大学で芸術史を教えていたスティーヴン・ベイリーが任命された。一九五一年生まれの彼は、したがって三〇歳になるかならないかの若さでその地位に就いたことになるが、しかしそのときまでに彼は、デザイン・カウンシルから『適切な姿――一九〇〇年から一九六〇年までの工業製品における様式』21という、まさに二〇世紀前半の工業製品についての戸籍簿と呼ぶにふさわしい本を出版しており、デザイン史家としてのその能力は高く評価されていたのであった。
ボイラーハウス・プロジェクトの活動は、主として、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館を拠点とした一連の展覧会活動であった。そのなかには、「メンフィス」「売るためのイメージ」「コーク」「テイスト」「イッセイ・ミヤケ」「ソニー」などの展覧会が含まれている。これらの展覧会を支えてきた思想は、ひとりの芸術家とそのパトロンという旧来の「芸術」の成り立ちを産業と大衆との関係に置き換え、その総体こそが二〇世紀の文化である、という認識に基づくものであった。私たちを取り巻いている文化状況を産業と商業と大衆の三者が生み出した結果としてとらえることによって、そのような文化構造のなかでのデザインのもつ役割の重要性をひとつの教育的価値として展示したことが、まさしくボイラーハウス・プロジェクトの特徴であり、同時に進歩性だったのである。一方、それぞれの展覧会に応じて刊行された、スティーヴン・ベイリー自身の執筆になる詳細なカタログも、大変注目を集めた。その理由は、たとえばフォード「シアラ」がどのようにして生まれたかを展示した「カー・プログラム」展のためのカタログ22にみられるように、単にオブジェクトを配列しただけのカタログではなく、デザインが生まれるまでの詳しいプロセスを、その間に影響を与えた社会的、経済的、技術的要因に照らして解説し、例証していたからである。ボイラーハウス・プロジェクトが企画した展覧会は、テーマの選定のうえからも、またカタログの編集のうえからも、従来の展覧会にはみられなかった斬新なものであり、まさに、デザイン史の新たな方法論にのっとった視覚的な展開だったといえよう。
こうした一連の活動の実績を踏まえて、一九八九年の夏、ボイラーハウス・プロジェクトの今後の活動の拠点となる「デザイン・ミュージアム」が、ロンドン東部の再開発地の一角、バトラーズ・ウォーフに完成した。開館に先立ってそのミュージアムの概要を紹介したパンフレットのなかに、次のような一節を読むことができる。
常設の展示を含め、さまざまな展覧会をとおして、このデザイン・ミュージアムは、過去と現在のデザインを一般化し、解説し、批評し、そしてさらには、デザインの未来についても展望することになるであろう。そしてそれは、産業と文化のあいだに新たな関係を創造する一助となることであろう。……このミュージアムが創造的であるとするならば、産業がわれわれの文化である、という認識に遅ればせながら立っていることである。
このように、疑いもなく「デザイン・ミュージアム」は、貿易のための見本市会場でも、単にオブジェクトを並べただけの美術館でもなく、人間が生み出す産業製品に付着しているイメージやイズムまでをも含め、多様なメディアをとおしてデザインの紹介と検証が行なわれる、全く新しいタイプの「デザイン教育の場」であり、「文化を分析する国際拠点としての館」となることを目指しているのである。
ところで、文献や史料が整備され、学会活動や展覧会活動が活発になるにしたがって、研究成果が具体的なかたちをなして現われてくるのは当然のことである。八〇年代に入るやいなや英国では、デザイン史に関する研究書がまるで洪水のように刊行されてきたといっても過言ではない。そこで、一九世紀から現在に至るデザイン史の全体的な構図を見るうえで最も参考になると思われる数冊を選んで、出版年代順にここに挙げておきたい。 John Heskett, Industrial Design, Thames and Hudson, 1980. Stephn Bayley, et al. Twentieth Century: Style & Design, Thames and Hudson, 1986. Adrian Forty, Objects of Desire: Design and Society 1750-1980, Thames and Hudson, 1986. Penny Sparke, An Introduction to Design & Culture in the Twentieth Century, Allen & Unwin, 1986. Penny Sparke, Design in Context, Bloomsbury, 1987.
これらは代表的なデザインの通史であるが、一方では、二〇世紀のデザイナーの個人研究も進められてきており、デザイン・カウンシルから叢書として出版されている。その幾つかは次のとおりである。 Penny Sparke, Ettore Sottsass Jnr, Design Council, 1982. Avril Blake, Misha Black, Design Council, 1984. Pat Kirkham, Harry Peach: Dryad and the DIA, Design Council, 1986.
また同時に、英国の歴史家は、自国の歴史だけではなく、海外の歴史にも積極的に目を向けており、主として、アメリカ、ドイツ、イタリア、スカンジネイヴィア諸国、日本などがその対象となっている。デザイン史の全体像をよりよく理解するためには、これらの国々のデザインの発展過程を無視することはできず、出版活動のみならず、各国史に関するセミナーも盛んに行われてきた。日本についてだけいえば、ペニー・スパークの『日本のデザイン』23などが刊行されているし、セミナーとしては、一九八八年一一月に、「戦後日本のデザイン」と題したセミナーがヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開かれ、あわせて、キングストン・ポリテクニックの美術・デザイン史学科から、二編の論文と詳細な文献目録とからなる同表題を冠した小冊子が出されている。
とにかくこのようにして、一九世紀から現代に至る通史、モノグラフによる詳細な研究、デザイナー研究、各国史といった、さまざまなレヴェルでのデザインの歴史に関する研究成果が、八〇年代をとおして、いっきにその姿を現わしてきたのであった。
この十数年のあいだに英国を中心としてデザイン史研究がいっきに活性化してきているものの、なぜそれまでのあいだ「工業製品の歴史」は等閑視されたのだろうか。その理由を英国に例を取れば、ひとつには、独立した歴史を記述しようにも対象となる工業製品の歴史それ自体がいまだ極めて浅いという実情があったことに加えて、各工芸のジャンルに基づく歴史記述の手法が支配的だったために、それぞれの工業製品もアイテムごとに各工芸史のなかに分割され、そのなかで部分的に取り扱われる傾向が強かったことが挙げられよう。またひとつには、工業製品の歴史は芸術の歴史のなかでどのような位置を占めうるのか、という切実な問題に折り合いをつけることに時間を要したことも確かである。それは、一言でいえば、純粋美術とデザインの分離をどうとらえるかにかかっていた。純粋美術の観念をもって芸術の歴史を語ろうとする人にとっては、工業製品がその対象となることはなかったし、芸術の歴史のなかでも工芸史について述べようとする人にとっては、使用を目的としているという観点からすれば工芸品も工業製品も同列の対象とみなすことができたが、しかし一方で、製作上の、ないしは生産上の「手段と工程」という観点からすれば、工業製品を工芸品と同等に扱うことはできなかったのである。ここに近代の芸術の歴史の複雑さと対立性があったように思われる。
一九八〇年代にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館においてボイラーハウス・プロジェクトのディレクターとして一連のインダストリアル・デザインの展覧会を推進することになるスティーヴン・ベイリーは、かつてある本のなかで、「インダストリアル・デザインが二〇世紀の芸術である」24と言い切っている。それに対して、建築およびデザインの歴史家であるエイドリアン・フォーティーは、「『インダストリアル・デザインが二〇世紀の芸術である』とする見解は、芸術とデザインのあいだに横たわるあらゆる違いを覆い隠すことを意図しているように思われる」25と述べることによって批判を加え、さらに続けて、「決定的な差異は、現在の状況下では、通常芸術作品はひとりの人間である芸術家によって(あるいはそうした人物の指揮のもとに)構想され制作されるのに対して、工業製品にはそのことがあてはまらないことにある」26というのである。
先のスティーヴン・ベイリーの見解は、一九七九年に出版された『適切な姿――一九〇〇年から一九六〇年までの工業製品における様式』のなかにみられるものである。確かにこの本は、二〇世紀の前半に生み出された代表的な個々の工業製品についての簡単な記述と著名デザイナーの紹介とによって構成されており、純粋美術の作品を取り扱う場合の書物ないしはカタログの形式を取っている。したがって彼のその見解は、純粋美術とデザインの違いを無視し、混同していると受け取られたとしてもやむを得なかったかもしれない。しかしその後の彼の著作や展覧会のプロモーションのあり方を見ると、決して彼が混同した見解の持ち主でないことが判明してくる。むしろ彼は、二〇世紀の芸術は、作家/作品/享受者の関係のうちに存在するのではなく、産業/製品/消費者の関係のなかに横たわっていることを認め、そのことをインダストリアル・デザインという観念のなかでとらえようとしていたのである。したがって彼にとっては、まさしく字義どおり、「インダストリアル・デザインが二〇世紀の芸術である」ということになる。彼の『適切な姿』という本は、形式こそ確かに純粋美術の作品紹介のためのカタログに近いものの、彼のもくろみは、そうすることでインダストリアル・デザインをいわゆる純粋美術の高みにまで引き上げることではなかった。デザインの歴史についての一冊の十全な研究書さえもいまだ姿を現わしていなかった当時にあって、彼が意図していたことは、今後の研究において必要不可欠と思われる二〇世紀の工業製品の基本台帳をつくることだったのである。
それでは果たして、スティーヴン・ベイリーがいうように、インダストリアル・デザインは二〇世紀の「芸術」なのだろうか。一面では確かにそういえるかもしれない。高度な科学技術と複雑な経済行為のもとに、ある種の倫理観を伴いながら人間の夢や欲望やイデオロギーがひとつの具体的な形態となってその姿を現わすのが工業製品である。しかも工業製品は、二〇世紀という時代の技術と経済と精神の総体を具現化するだけではなく、一方で新たな生活様式を創出する原動力となっていることも事実である。明らかにそれは、「手と個人」によって生み出されるものではなく、「機械と社会」によってつくり出されるものではあるが、しかしもし、「手と個人」という「芸術」を規定する旧来の尺度に再解釈を加え、時代の有する技術と経済と精神が一体となって創造的に表現されたオブジェクトのもつ情報量と影響力との度合いをもってその新たな尺度とし、それによってそれまでの時代と二〇世紀を対比しつつ「芸術」の意味と機能を理解しようとする立場に立とうとするならば、スティーヴン・ベイリーの見解もあながち過言ということにはならないだろう。しかしそれはそれとして、また、これまでにも一部の偶像破壊主義者たちによって純粋美術の社会的正当性が問いただされたことがあったとしても、「現在の状況下では」、エイドリアン・フォーティーが指摘するように、「手と個人」に立脚した芸術観が伝統的なヨーロッパの仮説となっていることも確かなのである。
そうであるとすれば、エイドリアン・フォーティーは、工業製品は「芸術」でないがゆえにその歴史を記述することは無益である、といっているのであろうか。いやそうではない。彼が目を向けているのは、幾つかの側面で純粋美術とは大きく異なる工業製品をあたかも純粋美術であるかのように記述しようとする従来からの手法と態度に対してなのである。そこで彼は、近代の建築とデザインの歴史について古典的名著を数多く残したニコラウス・ペヴスナーの歴史記述の手法を一例として取り上げ、こう批判するのである。
たとえば、三〇年以上も前に改訂版として出版され、デザインに関して最も広く読まれた本のひとつである『モダン・デザインの先駆者たち』27におけるニコラウス・ペヴスナーの主たる目的は、建築とデザインにおける近代運動の歴史的な系譜を明確にさせることであった。もっとも、彼の方法論は、単に個々のデザイナーの仕事と公表された声明文から製品を検証するだけで十分にデザインは理解されうるといった仮説に基づくものであった。しかし、建築家やデザイナーによってなされるしばしば不明瞭で冗長な声明文が、その人たちのデザインする建物や品物を完全にあるいは十分適切に物語っているとする理由はどこにもないように思われる28。
フォーティーに従えば、私たちを取り巻いている建物やオブジェクトは、決して著名な建築家やデザイナーによってのみつくり上げられるものではなく、その多くは、技術や経済や政治といったその時代のさまざまな社会的環境のもとに生み出される、実際には集団製作による無名性を特徴とするものなのである。そうであるとするならば、一個人としてのデザイナーの仕事や思想からのみそれらの成り立ちを説明することは、確かに不十分であるだけではなく不適切ということになる。つまり、個々人の業績を細い一本の糸でつなぎあわせるペヴスナー流儀の歴史記述に欠けていたものは、フォーティーにいわせれば、多様な社会的糸によって織りなされた広がりをもった面の堆積としてデザインの歴史を理解し検証する方法論だったのである。
ところで、先のエイドリアン・フォーティーの一文は、一九八六年に出版された『欲望のオブジェクト――一七五〇年から一九八〇年までのデザインと社会』からの引用である。それに先立つ一九八〇年には、デザイン史記述における新たな方法論に基づくおそらく最初の研究書といえる、ジョン・ヘスケットの『インダストリアル・デザイン』が世に出ている。こうして、七〇年代のデザイン史研究の黎明期を経て、八〇年代に入ると英国では、デザインの歴史の記述を巡ってこうした新たな方法論が一段と確固たるものとなってゆくのである。たとえばそうした一例を、マイクル・コリンズの『ポスト・モダニズムを目指して――一八五一年以降のデザイン』29における記述手法を批判した、王立美術大学のペニー・スパークの一文に求めることができよう。そのなかで彼女は明快にペヴスナー流儀の歴史記述の方法を否定し、こう述べているのである。
この本には、歴史の歪曲による奇妙な偏向が至る所で見受けられる。こうした問題の原因は、この主題を論じるにあたって、社会的、文化的、政治的、経済的、さらにはそれ以外の、いかなる文脈からも考察されていないことに基づくものである。……いまや私たちは、偏狭で美術史的なペヴスナー流儀の見方を乗り越えて、「デザイン史学」と呼ばれる学問領域の発展へとつながる道へと希望を抱いて動き出しているのである30。
ペニー・スパークが「社会的、文化的、政治的、経済的、さらにはそれ以外の、いかなる文脈」というとき、そこには、一九世紀から現代に至る工業製品のデザインは、デザイナーや技術者を含む製作集団と、実際にそれらを製造する産業と、それらを購入し使用する大衆との三者の関係のうえに成り立つものであって、作家と作品と享受者とのうちに成立する工芸や美術とは本質的に異なっている、という見解が前提とされている。したがって、そのようなデザインの歴史を検証しようとする場合、記述にあたっては、おのずと工芸史や美術史とは異なる独自の方法論が用意されなければならず、その確立こそが、デザイン史研究を発展させるうえでのこれまでのひとつの大きな課題であった。英国におけるデザイン史研究にとっての八〇年代は、一言でいえば、デザインの実践者によって語られる経験談の域からの脱皮と、ペヴスナーにみられるような美術史的記述からの解放とを求める歴史であり、それに代わって、一九世紀と二〇世紀の人たちが生み出したオブジェクトとイメージに対して、実態に即して社会的、技術的、経済的文脈から照明をあてる作業だったのである31。
デザイン史の記述を巡って、旧来の美術史的方法論からの脱皮が唱導され、新たな方法論が再構築されようとしていた八〇年代は、実は美術史研究自体においても、学としての美術史の危機が意識され、その克服の途が模索されはじめた時代だった。六〇年代後半以降急速に力を増してくる、モダニズムに対する懐疑の潮流は、美術史研究にも大きな波頭となって押し寄せてきた。その結果、アヴァンギャルドの美術をもって近代美術史の正統とする価値観が揺らぐとともに、モダニズムに内在する普遍主義もまた批判の対象にすえられることになったのである。米村典子は、こうした動きを一種の英雄神話の崩壊ととらえ、次のように述べている。
そして、今、われわれはその神話の崩壊に立ち会っている。標題に挙げたリヴィジョニズムとは、一九六〇年代の末頃から顕在化し、現在も進行中の美術史研究における見直し(revise)の動きを総称したものである。十九世紀を対象とする研究においては二つの主な見直しの動きがある。一つは、ここまで見てきたモダニズムによる近代芸術の枠組みの立て方と、アカデミー対アヴァンギャルドの対立の図式にかかわるものである。もう一つは、第一の見直しと関連して、近代芸術の発展史に名を連ねる画家のほとんどがフランス人か、フランスで活躍した人物であるというフランス中心主義に対する反省の気運である32。
リヴィジョニズムの登場は、モダニズムが捨象してきた側面に再度照明をあて、いわゆる「落ち穂拾い」を行なうことを可能にした。しかし六〇年代後半以降にみられる現象は、いうまでもなく、近代美術を支えていた前提となるイデオロギーが失速したことを意味するものであり、したがって、単に「落ち穂拾い」による歴史の再構成だけでは十分な回復の方途は開けず、これまでの制度化されてきた美術史研究における前提それ自体が再検討の対象とみなされ、歴史の再配置が求められるようになるのである。そこには、大きく分けて二つの設問が用意されていたといえる。ひとつは、実証主義の精神である中立性と客観性を前提にしながらも、近代美術の記述にあたって、果たして美術史家はイデオロギーから全く自由でありえたかどうか、さらには、そのようなことが実際に可能なのかどうか、という設問であり、いまひとつは、伝統的な美術史がこれまで前提としてきた「芸術」概念、つまり「芸術のための芸術」という自律性の美学は真に有効なものであるのかどうか、という問いかけであった。前者の設問に答えるかたちで、加藤哲弘は、「解釈者がそうした無垢の立場に立つことは、実際には不可能である」と述べ、さらに、「見せかけの中立性は、支配的なイデオロギーの絶好の隠れ蓑になってしまう」33とも指摘している。つまり、近代美術の擁護者は中立性を装いながら、実のところ支配的であったイデオロギーを媒介としながら政治的役割を演じていたのであり、そのことへの自覚がいま問われているといえよう。また後者の設問にみられる、「芸術を、芸術以外のなにものにも奉仕しない、一種のミクロコスモスだと想定する」34自律性の美学の「芸術」概念も、もとはといえば近代の合理主義精神の内実である純粋性と排他性に由来する西洋的仮説にほかならず、モダニズムの失速とともに見直しの動きが顕在化してきたとしても、それは当然のことといえよう。
そうした状況のなかにあって、『新しい美術史学』が一九八八年に刊行されるのである。編者は「新しい美術史学」を次のように語っている。
新しい美術史学とは、きちんと決まった同じひとつの傾向を指すというよりも、ゆるやかで広い範囲を指していう呼び名である。美術に対する保守的な趣味が支配し、しかも、その趣味を研究のなかで正統化することで悪名高いこの学科に対して、フェミニズム、マルクス主義、構造主義、精神分析をはじめとする社会的政治的関心から批評を加えるものであれば、そのなかに含まれる35。
これは、様式史としての美術史から離れ、社会史としての美術史への展望を切り開くものであり、同時に、伝統的な美術史に内在していた前提としてのイデオロギーを、暗黙の了解事項から研究に値する検討事項へと解き放すことを意味していた。つまり、美術制作なり美術作品を閉ざされた実験室のなかで純粋培養し、それによって研究の成果を得ようとするのではなく、それらを成り立たせている実際の社会的、政治的、経済的諸環境のなかに還元し、そうした文脈のなかから等身大の実像を得ようとすることがそこには意図されているのである。したがってその場合、特定の様式に属しない「美術」も、特定の国や地域に属しない「美術」も、特定の性や人種に属しない「美術」も、等しく研究の対象になるであろうし、それ以前の問題として、これまでそれらを「特定」するうえで支配的に作用してきた価値や観念さえも、俎上に載せられることになるのである。
このように見てくると、「新しい美術史学」も、デザイン史研究におけるパラダイム・シフトも、少なくとも英国にあっては同じ危機意識と反省のなかから七〇年代から八〇年代にかけての同時期に胎動してきたことが理解できるであろう36。
ペニー・スパークは、デザイン史の記述を巡ってのパラダイム・シフトが起きた背景について、ニコラウス・ペヴスナー、ルイス・マンフォード、ハーバート・リード、ジークフリート・ギーディオンといった今世紀前半のデザイン史家やデザイン批評家たちの多くが共有していたイデオロギー上の前提に対しての批判的な視線に触れ、次のように要約している。
……彼らは皆、両大戦間期における近代運動のもつ機能主義的理想を支持し、「グッド・デザイン」は機械美学と同義語であるという神話を垂れ流すことに手を貸し、社会がそうした特定のデザイン運動とつながりをもつようになることの意義を無視し、その帰結として、デザインを日常的なというよりはむしろ英雄的な概念へと変えてしまったのである。こうした著述家によって確立された批評の伝統を塗り替えることはこれまで困難を要してきたし、彼らの見解に疑問が付されるようになったのは、近代運動への不満が高まっていった結果によるものであって、つい最近のことにすぎないのである37。
これまでデザインの歴史といえば、デザインにおける近代運動の歴史を指し示すことが伝統的であり、同時に支配的でもあった。そして、そうした観点からの歴史記述にあたっては、その運動に加担したデザイナーたちの思想と彼らが製作したオブジェクトの様式とに主たる照明があてられていた。したがってそこでは、本来近代運動が社会的なものであるにもかかわらず、そのことに意が用いられず、個人的なものであるかのような記述のすり替えが行なわれていたのである。もっとも、デザインの近代運動それ自体をひとつのまとまりをもった歴史としてみなし、それを記述することには、それはそれとしてとくに不当性はないだろう38。しかしそうした手法を取る限り、この二世紀のあいだに急速に発展してくる大量生産と大量消費に結び付けられた近代社会におけるデザインの複雑なありようはおおむね捨象され、視野に入ってこないことを意味するのである。
まさしくペニー・スパークの『二〇世紀のデザインと文化への招待』は、そうした捨象された側面に光をあてることによって、デザイン史における記述の枠組みを再構築しようとするものであった。その本のなかで彼女は、「近代社会が全体として生み出すに至った観念と価値を包摂する概念として」39文化という用語を用いながら、近代社会における支配的な文化パタンが経済と政治と技術といった諸力によって決定されてきたことに着目し、同様の諸力によって形成され維持されているデザインを文化的記号としてとらえようとする姿勢を一貫してとっている。そして彼女は、「一九〇〇年以来、こうした広い意味において、デザインと文化はますます相互依存の関係を深めるようになった」40というのである。
このように、デザインと文化の相互関係のなかでデザインの歴史をとらえようとする視点は、英国のみならず日本の研究者のあいだからも指摘されていた。たとえば、一九八三年という早い時期に、「工業デザイン全集」の第一巻『理論と歴史』のなかで阿部公正は、デザイン史の記述のあり方について言及し、次のように述べている。
工業製品が人間の日常生活に影響を及ぼすようになってからすでに一世紀以上経っているにもかかわらず、今日われわれは、工業デザイン史について、それをすでに確立されたものとして語ることはできない。それは、美術史に準じた形の様式史でないことはもちろん、単なる製品発達史でもなければ、技術史でもなく、また本当はデザイン運動史でもないはずだからである。工業デザイン史は、工業製品を対象としながら、その生産と消費をめぐる諸関係より生ずる生活様式についての、ひとつの文化史でなければならないだろう41。
ここで述べられているデザイン史観は、表明された時期が欧米のデザイン史家たちによる同種の認識への到達時期とほぼ同じという意味で、まさに卓見に属するものであろう。しかし、実際にこの『理論と歴史』を読むと、デザインの歴史に関しては、「デザイン思想史の概略」と「戦後のデザイン振興策」についてしか扱われておらず、「工業製品を対象としながら、その生産と消費をめぐる諸関係より生ずる生活様式についての、ひとつの文化史」としてのデザイン史のレヴェルにまでは到達していないことがわかる。これは、デザイン史を規定するにあたっての理念上の概念と、当時の記述レヴェルとのあいだに大きな溝があったことを物語るものであるが、残念ながら日本にあっては、その溝はいまだもってほとんど埋められているわけではない。
もはや二〇世紀のデザインの歴史を、これまでどおり、定形化された「デザインにおける近代運動」の文脈からのみ語ることはできない。今世紀の工業製品の成り立ちを見た場合、その多くはある意味で大衆の欲望の正確な反映とみなすことができ、そうした大衆の欲望を、技術者は技術革新をとおして機能と構造のうえから支え、デザイナーは一定の美的判断に基づいて形態のうちに表象してきたのである。そしてそのようにして生まれ出た工業製品は、限られた私的空間のための静的な展示物といったものではもちろんなく、市場をとおして商品として生活空間へ流出し、人びとの行動様式や生活様式を一面から強く規定してきたのであった。たとえば、家事労働の合理化に対する欲求が家事の機械化という概念を生み出し、新たなエネルギーである電気に支えられながら、電気掃除機や電気洗濯機といった家庭電化製品の登場を促したことは周知の事実であり、そのことによって家庭内の労働のありようは一変し、余剰の労働力の一部は明らかに社会における労働力へと転移され、こうして女性の社会進出への途が開かれるためのひとつの物質的契機は生まれることになったのである。この事例の場合、誰がその製品をデザインし、ひとつの様式を生み出したのかという個人の問題に焦点をあてるよりも、どのようにして家事労働の合理化に対する欲求は形成され、それがどのような形態のうちに表象されることで受け入れられ、その後の女性の生活様式にどう影響を及ぼしていったのかといった、むしろ社会的主題のうちに考察が進められた方が、デザインの意味の全体構造は明瞭になるのではないだろうか。そのような意味からして、もはやデザインの歴史をデザインの語彙のみで描写することはできないのである。明らかに近代社会におけるデザインは、個人の完結した行為のなかにあるのではなく、社会の諸関係の全体構造のうちにあって執り行なわれる、社会的観念の物質化にほかならず、したがって、物質に刻まれた観念を歴史的に読み解こうとするデザイン史は、必然的に、その時代のその地域の、人間の営みの総体である文化それ自体を物語ることになってゆくのである。
とはいえ、デザインの歴史を多元的な文脈から網状的に記述する手法には、その正当性とは別に、それゆえの困難性が当然つきまとうことになる。なぜならば、その手法が、他の多くの学問にみられるような、分析という既成の方法論ではなく、統合という新たに用意された方法論だからである。そのような方法論のもとに歴史記述を行なおうとするデザイン史家には、したがって当然ながら、社会史、技術史、経済史などの他の学問領域についての広範囲でしかも正確な知識が要求されることになるだろう。というよりはむしろ、デザイン史家は、人類がつくり出した実際のオブジェクトとイメージを媒介物として、既存の隣接する諸学問の成果を積極的に組み替え統合する役割を担うことになってゆくのかもしれない。あるいはまた、関連する諸科学の研究者との対等な共同作業のなかにデザイン史のさらなる発展は横たわっているのかもしれない。どちらにしても、デザインそれ自体が人間の社会的営みの重層性がもたらすひとつの結果である以上、その歴史を対象にすえるデザイン史もまた、放射的多層性をその学問的特性として有することになるのである。
(一九八九年初出/一九九五年増補)
(1)Edward Lucie-Smith, The Story of Craft: The Craftsman's Role in Society, Phaidon, Oxford, 1981, p. 11.
(2)ただし同著者によるインダストリアル・デザインの歴史に関する論考として、次のものがある。Edward Lucie-Smith, A History of Industrial Design, Phaidon, Oxford, 1983.
(3)トーマス・マルドナード博士(ウルム造形大学の当時の学長)によって作成され、1964年のブルージュでのデザイン教育に関する国際セミナーで採択された、国際インダストリアル・デザイン団体協議会の定義の一部は次のとおりである。「インダストリアル・デザインは、産業が生み出す製品の形態的質を決定することを目的とした、創造活動である。ここでいう形態的質とは、単に外観的特質のことではなくて、主として、製造者と使用者の双方の視点に立つことによって、ひとつの機構からひとつの一貫した統一体へと導くことになる、構造的、機能的関係性のことである。インダストリアル・デザインは、工業製品のいかんによって決定される人間環境のすべての側面を包含するものである」。しかし、国際インダストリアル・デザイン団体協議会の1971年のバルセロナでの会議では、「この専門職の有効性は実践者の仕事のなかにいうまでもなく内在しており、そうした意味から、定義は不必要である、ということが決議された」。Avril Blake (ed.), The Black Papers on Design, Pergamon Press, Oxford, 1983, pp. 179-180.[ブレイク編『デザイン論――ミッシャ・ブラックの世界』中山修一訳、法政大学出版局、1992年、169頁を参照] 1964年の上記の定義がモダニズムの観点から導き出されているのは明白であり、60年代後半から70年代にかけてのモダニズムの失速が、71年のバルセロナ会議での定義の不必要性の決議へとつながってゆくのである。最近では、テランス・コンランの次の一文にみられるように、多くのデザイン史家のあいだでデザインの多義性は広く認められるようになった。「それでは『デザイン』とは何であろうか。まさにこの言葉は多くの人びとに混乱を巻き起こしている。確かにこの言葉は、世代、民族、信条、社会・経済上の立場、業務内容のいかんによって、その人たちにとって違ったものになる」。Sir Terence Conran, ‘Industrial Design from 1851 into the 21st Century’, in Jocelyn de Noblet (ed.), Industrial Design: Reflection of a Century, Flammarion / APCI, Paris, 1993, p. 8.
(4)Roger Newport, ‘Introduction’, Design and Industry: The Effects of Industrialisation and Technical Change on Design, Design Council, London, 1980, p. 4.
(5)From the Editorial Policy of the Journal of Design History by Oxford University Press.
(6)Simon Jervis, ‘Introductory Essay’, The Penguin Dictionary of Design and Designers, Allen Lane, London, 1984, p. 11.
(7)1992年5月に学校法(School Act)が改正され、それにより、すべてのポリテクニックは、ユニヴァーシティーへの名称変更をすでに行なっている。
(8)Victor Margolin, ‘A Decade of Design History in the United States 1977-87’, Journal of Design History, vol. 1, no. 1, Oxford University Press, Oxford, 1988, p. 51.
(9)Ann Ferebee, A History of Design from the Victorian Era to the Present, Van Nostrand Reinhold Campany Inc., New York, 1970.
(10)Simon Jervis, op. cit., p. 11.
(11)Ibid., p. 11.
(12)Ibid., p. 12.
(13)Hazel Conway (ed.), Design History: A Students’ Handbook, Allen & Unwin, London, 1987.
(14)RSA Journal, vol. CXXXVI, no. 5384, Royal Society of Arts, London, July, 1988, p. 598.
(15)これは、1988年に執筆者が調査した時点での数値である。
(16)Gillian Naylor, The Bauhaus, Studio Vista, London, 1968.[ネイラー『バウハウス』利光功訳、PARCO出版、1977年]
(17)John Heskett, Industrial Design, Thames and Hudson, London, 1980.[ヘスケット『インダストリアル・デザインの歴史』榮久庵祥二・GK研究所訳、晶文社、1985年]
(18)Penny Sparke, Design in Context, Bloomsbury, London, 1987.
(19)Reyner Banham, Theory and Design in the First Machine Age, The Architectural Press, London, 1960.[バンハム『第一機械時代の理論とデザイン』石原達二・増成隆二訳、鹿島出版会、1976年]
(20)Adrian Forty, ‘Reyner Banham’, Newsletter, no. 38, Design History Society, UK, July, 1988, p. 10.
(21)Stephen Bayley, In Good Shape: Style in Industrial Products 1900 to 1960, Design Council, London, 1979.
(22)The Car Programme: 52 Months to Job One or How They Designed the Ford Sierra, catalogue of an exhibition at the Victoria and Albert Museum, text by Stephen Bayley, Boilerhouse Project.
(23)Penny Sparke, Japanese Design, Michael Joseph, London, 1987.
(24)Stephen Bayley (1979), op. cit., p. 10.
(25)Adrian Forty, Objects of Desire: Design and Society 1750-1980, Thames and Hudson, London, 1986, p. 7.[フォーティ『欲望のオブジェ』高島平吾訳、鹿島出版会、1992年、10頁を参照]
(26)Ibid., p. 7.[同訳書、10頁を参照]
(27)Nikolaus Pevsner, Pioneers of Modern Design (first published by Faber & Faber in 1936 as Pioneers of the Modern Movement), The Museum of Modern Art, New York, 1949.[ペヴスナー『モダン・デザインの展開』白石博三訳、みすず書房、1957年]
(28)Adrian Forty (1986), op. cit., p. 239.[フォーティ、前掲訳書、301-302頁を参照]
(29)Michael Collins, Towards Post-Modernism: Design since 1851, British Museum Publications, London, 1987.
(30)Journal of Design History, vol. 1, no. 1, Oxford University Press, Oxford, 1988, p. 82.
(31)こうした新しい方法論は、80年代のはじめに大学におけるカリキュラムへも反映されていった。たとえば、大学院大学である王立美術大学文化史学科の3つの教育課程のひとつである「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館/王立美術大学共同デザイン史修士課程」の教育方針がそのことをよく表わしている。その教育内容を記した「概要」には、3つの教育目標が掲げられている。ひとつは、「デザイン理論」で、理論やイデオロギーがデザインの実践にどうかかわってきたかを理解するためのものである。次は「社会的および経済的文脈」で、デザインが生み出されるにあたっての政治的、社会的、経済的要因を検証することを目的としている。最後の3番目の目標が「製品――技術と形態」である。この目標は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に所蔵されている歴史的な作品をとおして、素材や構造や加工技術がその製品の形態にどのようにかかわっているかを実地に学ぶことによって達成されることが期待されている。この3つの観点に基づきデザイン史家を養成している王立美術大学文化史学科では、理論や思想のみならず、政治、経済、社会、技術といった多元的な視点からの網状的なアプローチがいまや不動の方法論となっているのである。See Royal College of Art Prospectus 88/89, pp. 29-30.
(32)米村典子「リヴィジョニズム――近代美術史の新潮流」、神林恒道ほか編『芸術学ハンドブック』勁草書房、1989年、49頁。
(33)加藤哲弘「美術史学の『危機』とその克服」、神林恒道ほか編『芸術学の軌跡』(芸術学フォーラム1)勁草書房、1992年、162頁。
(34)同書、163頁。
(35)A. L. Rees & F. Borzello (eds.), The New Art History, Humanities Press International, Atlantic Highlands, NJ, 1988, p. 2.
(36)このようなデザイン史と美術史に共通した現象が、次の引用にみられるような、英国における70年代以降の社会史の隆盛に強く影響を受けていることは、ここで指摘されてよいだろう。「イギリスの社会史研究は、およそこの四半世紀のあいだに歴史学のひとつの大きな分野として確立してきたものである(p. 1)。……イギリスの歴史学で用いられる場合『社会史』という用語は、異なるも関係しあう次の3つのアプローチを包含している。第1は、人びとの歴史。第2は、社会科学から導き出された概念を歴史的に適用することのなかに見出される、私が『社会=歴史のパラダイム』と呼ぶところのもの。そして第3が、『全体の歴史』ないしは『社会の歴史』と呼ばれている、全体化もしくは統合化の歴史への志向(p. 7)」。Adrian Wilson (ed.), Rethinking social history: English society 1570-1920 and its interpretation, Manchester University Press, Manchester and New York, 1993, p. 1 and p. 7.
(37)Penny Sparke, An Introduction to Design & Culture in the Twentieth Century, Allen & Unwin, London, 1986, p. xxi.[スパーク『近代デザイン史』白石和也・飯岡正麻訳、ダヴィッド社、1993年、15頁を参照]
(38)しかしながら、そのことに問題がないわけではない。ポール・グリーンハルジュは、「モダン」とデザインの結び付きがこれまで無原則的であったことと、20世紀のデザインとモダニズムのデザインが同義でないことを指摘して次のように述べている。「今世紀の大半にあって『モダン』という言葉は、デザインに限っていえば、比較的問題にされることはなかった。その言葉は、その言葉によって人が担わせようとした意味が何であろうと、そのすべてを意味していた。多かれ少なかれその言葉は、特定の文脈を与えられると、いかなるデザインされたオブジェクトにも適用されたし、したがって、ひとつの蔑称かひとつの賛辞として解釈された。多くのことを意味していたがゆえに、しばしばその言葉は何も意味していなかった(p. 1)。……私たちの世紀の大多数のデザインは、モダニズムなるものではなかったし、いまもそうではない(p. 2)」。Paul Greenhalgh (ed.), Modernism in Design, Reaktion Books, London, 1990, p. 1 and p. 2.[グリーンハルジュ編『デザインのモダニズム』中山修一ほか訳、鹿島出版会、1997年、1頁と3頁を参照] ポール・グリーンハルジュの上記指摘に関連して、日本におけるその一例として、Penny Sparke, An Introduction to Design & Culture in the Twentieth Century (Allen & Unwin, London, 1986) の訳書題が、著者の意図に反して、『近代デザイン史』となっていることが挙げられるし、『世界デザイン史』(『BT』3月号増刊、美術出版社、1994年)がもっぱら「近代デザイン」の文脈からしか記述されていないことにも注目したい。
(39)Penny Sparke (1986), op. cit., p. xix.[スパーク、前掲訳書、12頁を参照]
(40)Ibid., p. xix.[同訳書、12頁を参照]
(41)工業デザイン全集編集委員会編『理論と歴史』(「工業デザイン全集」第1巻)日本出版サービス、1983年、167頁。