これから述べる小史は、美術/工芸/デザイン/テクノロジーのはざまに横たわる親和性と敵対性について、その様相の幾つかの根源に照明をあてながら、現代の英国デザインの精神がどう形成されてきたのかを手短に物語ることに主眼が置かれている。
ウィリアム・モリスの散文ロマンスのひとつである『世界のかなたの森』を訳した小野二郎は、その訳書の「あとがき」のなかで、「[モリスは]近代小説などには見向きもしなかった。その代りに、ロマンスを書きました。これは近代絵画でなく、装飾芸術を選んだのと同じことでしょう」1と述べている。周知のように、オクスフォードを卒業したモリスは聖職者への道を放棄し、ゴシック・リヴァイヴァルの建築家として当時著名であったG・E・ストリートの弟子になるが、しかしそれもつかのまのことであり、学友で画家のエドワード・バーン=ジョウンズをとおして知り合ったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの激励を受けて、一時期絵画の勉強を志している。モリスが装飾芸術に目を向けたのは、絵画における描写力にいかんともしがたい困難を覚えていたことも事実であろうが、直接的には、ジェイン・バーデンとの結婚に際して新築した〈レッド・ハウス〉の室内を妻や友人の芸術家たちとともに装飾する機会を得たことに由来する。その後モリスは、そのときの協同体験をひとつの職業として生かすべく、同じ仲間たちと一緒に、今日でいう室内装飾の会社を設立するのである。当初「モリス・マーシャル・フォークナー商会」と呼ばれたその会社は、レッド・ライオン・スクウェアの地で、家具や刺繍、ステインド・グラスなどのデザインおよびその製作と販売を開始した。それは、その一方でモリスが『地上の楽園』という物語詩の執筆に精を出していたころであり、正確には、二回目の万国博覧会がロンドンで開催される一年前の一八六一年のことであった。
大芸術である彫刻や絵画ではなく、いわゆる装飾芸術と呼ばれる小芸術と詩やロマンスの世界にモリスが強く心を奪われたのはなぜだろうか。すでに当時、大芸術と小芸術の分離は顕在化していたし、芸術の歴史的文脈からすればこの時代は、ある意味で不幸な混乱期であった。一八七七年に行なった「装飾芸術」についての講演のなかでモリスは、「小芸術は取るに足りない、機械的な、知力に欠けたものになり、……一方大芸術も、一部の有閑階級の人びとにとっての無意味な虚栄を満たす退屈な添え物、すなわち巧妙な玩具にすぎないものになっている」2と分析しているし、一八七九年の「民衆の芸術」と題された講演ではさらにこうも述べているのである。
(いわゆる)歴史のなかに名声と功績を留めている人びととは別に、それ以外の人たちがいたように思われる。……そうした人たちをわれわれはいま「 民衆 ( ピープル ) 」と呼んでいる。……彼らの仕事が単なる奴隷の仕事……ではなかったこともわれわれは承知している。なぜならば、(いわゆる)歴史は彼らを忘れたけれども、彼らの仕事は忘れ去られることもなく、もうひとつの歴史つまり「芸術」の歴史を形成したからである3。
いうまでもなくモリスは、明らかに民衆の歴史を生産の歴史に、さらにはその歴史を芸術の歴史にみてとっているのである。
しかしこの時代は、もはやモリスのそうした歴史観を許容するほど牧歌的なものではなかった。
……こうした新たに生み出されるに至ったすべての品々を洗練しようにも、全く時間がそれを許さなかった。それらは生産者と消費者を圧倒した。中世以来の工芸職人たちがその姿を消したことによって、すべての製品の形状と外観は、無教養な製造業者の手にゆだねられていた。ある程度名の知られたデザイナーたちもいまだ産業界に分け入っておらず、芸術家たちは超然として距離を保ち、そして労働者たちは芸術上の問題に発言する権利を全くもっていなかった4。
このような状況は、「産業革命と一八〇〇年以来の美学の学説」5に加えて、社会構造の大きな変革によってもたらされたことはいうまでもない。どちらにしてもこの時期、職人技は機械に取って代わられ、しかもおおかたの機械生産品は、一八五一年の大博覧会(正式名称は、万国産業製品大博覧会)に出品された作品にみられるように、上流階級の趣味に迎合したさまざまな歴史様式によって装飾され、醜悪な姿を露呈していた。一方大芸術においても、幾つかの理由からアカデミー的な原理の有効性が徐々に衰微し、パトロンと芸術家のきずなも緩み、これまでの大芸術の社会的機能は喪失してゆく傾向にあった。
モリスはこうした事態を芸術の危機とみなした。なぜならば、モリスにとっての芸術は、民衆によって生み出されたものであり、同時に芸術は、それ自体が目的として存在するのではなく、ものの形のなかに民衆の夢や希望、あるいは追憶や悲しみを刻み込む手段だったからである。モリスは自らの信じる芸術の危機を救う方途として、芸術の歴史が民衆の生産の歴史であったことを説き、装飾芸術の復興へと歩み出すのである。しかしその実践は決して平坦なものではなかったはずである。ものをつくる人びとに労働の喜びを与えないがゆえに機械は否定されなければならなかったし、一部の富裕階級の玩具と化した「芸術のための芸術」もまた否定されなければならなかった。両者の双方を否定することで、モリスは何を手に入れようとしたのだろうか。一言でいえば、それは、すでにでき上がって相互に対立している芸術と社会ではなく、中世の労働と芸術がそうであったように、それぞれに分化する以前の原型的結合を伴った生産の原初的形式であった。A・W・N・ピュージンやヘンリー・コウルと異なり、モリスが認識していたものは、「ひとつの時代の芸術とその時代の社会組織の不可分な一体性」6を保障するような、新たな芸術=社会像だったのである。
大芸術と小芸術の分離現象と同時に、ヴィクトリア時代にあっては、両者の階級的差別もまた存在していた。絵画や彫刻を指し示す大芸術は高級芸術と呼ばれ、小芸術である装飾芸術には低級芸術という名辞さえ与えられていた。高級芸術を追求できる人たちは、王立美術アカデミーの会員たちにみられるように、裕福な貴族階級や特権階級からの庇護のもとに、多くの場合イタリア美術に盲目的に追従し、「産業のためのデザインは装飾のなかで最低の分野であり、手工芸よりもさらに低いもの」7とみなされていた。一方、低級芸術を担う人びとは、当然ながら、概して名もない貧しい職工階級に属していた。こうした芸術の階級的差別は当時の社会のそれを反映したものであったが、両芸術の不当な垣根を是正するひとつの試みが、芸術の民主化を求める声によってというよりも、むしろ産業化社会の出現に伴ってもたらされた。
一八三五年、英国政府は「芸術と製造」に関する特別委員会を下院に設置し、「デザインの 術 ( アート ) と原理についての知識を国民(とくに製造業に携わる市民)に普及するための最善の方法を調査することと、さらには、王立アカデミーの体質とそれによって生み出された結果を調査すること」に乗り出したのである。もともと一七六八年にロンドンに創設された王立美術アカデミーは「デザインの術を促進する」目的で設置されたものであり、芸術家の職能団体であるのと同時に、「芸術を志す学生にとっての有益なデザインの学校」でもあった。しかし、一九世紀の産業から途方もなく生み出される装飾や量産品のデザインに対して芸術的な見地から責任を負う人たちの階級はいまだ形成されておらず、また設立当初の目的がどうであったにせよ、王立アカデミーの会員のあいだにさえも、そうした問題に対しては無関心と無気力とが蔓延していた。一八三五年の下院特別委員会の目的は、まさしくこうした王立アカデミーの実態を調査することであり、「デザイナーという新しい階級を職業芸術家の地位にまで引き上げること」8がそこにはもくろまれていたのである。このことは、急速に出現しようとしていた産業化社会を背景として、国家が芸術に対して新たな、もしくは本来の社会的役割を求め、それにふさわしい新しいタイプの芸術家の養成に乗り出したことを一応意味している。一八三七年には、国家によるはじめての美術教育機関がロンドンのサマセット・ハウスに設置された。これが「デザイン師範学校」であり、現在の王立美術大学へとつながってゆくのである。
国家が美術教育に介入し「デザイン師範学校」が創設されると、たちまちのうちに英国の主要都市に「デザイン学校」が分校として設置されていった。また一八五一年には、芸術協会(一七五四年に創設され、正式名称は芸術・製造・商業振興協会で、一九〇八年より「王立」を冠する)の会長であったアルバート公によって「芸術と産業の結婚」をスローガンに大博覧会が開催され、その剰余金を原資としてその後サウス・ケンジントン博物館(現在のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)も設立されるに至った。しかしそうした幾つかの国家的施策にもかかわらず、その世紀が終わりに近づくまで、英国に芸術上の大きな刷新が訪れることはなかった。機械製品にしても手工芸にしても、表面を飾ることが重要な意味をもっており、その意味であくまでも濃密な装飾芸術であり、装飾するにあたっては過去の偉大な装飾様式を機械的に応用するという意味で、多くの場合つまるところ定型化された応用美術にすぎなかった。一八五六年に世に出た『装飾の分析』の著者のレイフ・ワーナムはこう述べている。
われわれはいまや「装飾芸術」を 創造する ( ・・・・ ) 必要はないが、しかしそれを 学ぶ ( ・・ ) 必要がある。なぜなら、その本質のすべてにおいて「装飾芸術」ははるか遠い過去にすでに確立しているからである9。
同様に純粋美術の場合も、とくにアカデミーの芸術家にとっては、過去の様式を模倣することが重要な課題であったという点では応用美術の場合と変わらず、しかもどの時代の歴史様式を取り入れるかについても支配的なものが存在していたわけではなかった。したがって応用美術と純粋美術の双方にとって、単に歴史主義に陥っていたというだけではなく、各時代の様式が幾重にも重なり合い交差した状況をさらけ出していた。さらには、双方の指導者が入れ代わるごとに、学校教育の現場も少なからず混乱を呈していたことが認められる。スチュアート・マクドナルドは次のように要約している。
大衆美術教育の開始以来、その中央機関の校長が新たに任命されるたびに、方針もまた最大限に揺れ動いた。すなわち、まずダイス(ドイツ的で功利主義的)、それからウィルスン(イタリア的でアカデミー的)、次にコウルとレッドグレイヴ(ドイツ的で功利主義的)、そしていまやポインター(フランス的でアカデミー的)といった具合である10。
ナザレ派の一員であるウィリアム・ダイスが「デザイン師範学校」の審議官兼教授に任命されたのが一八三八年で、王立アカデミー準会員のエドワード・ポインターが「スレイド純粋美術学校」の初代教授に任命されたのが一八七一年のことであった。そうしたなかにあって、折衷主義と装飾の問題に決着をつけるべく新たな動きが徐々に胎動しようとしていた。
一八八五年、社会民主連盟を脱退したウィリアム・モリスは社会主義同盟を結成するとともに、自ら編集長として機関紙『ザ・コモンウィール』を創刊している。この八〇年代後半は、ウェスト・エンドが騒乱化するほどの集会や示威行動が頻発し、政治的に波乱に富んだ刺激的な時代であったわけであるが、この時代は芸術観の刷新という意味からも同様のことがいえた。モリスの門弟であり、一八八八年にアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会が創設されたときにその初代会長に就任したウォルター・クレインが、自著の『装飾芸術の主張』(一八九二年)のなかで、「芸術に絶対的なものは何ひとつ存在しない」11と主張したことは、明らかに過去の拘束服を脱ぎ捨てる必要性を要求するものであった。また別の箇所で彼は、「これまで私は、デザインを表面装飾の観点から主に話してきました。――しかし、構造の観点から考えてみますと、立派なデザインとは、当然装飾とは全く無関係なものであるかもしれません」12と書いており、これは明らかに「クレインが『応用美術』から『デザイン』を分離して考えようとしていたこと」13を意味している。ここに至ってはじめて、歴史装飾や定型化された装飾からの脱皮が唱えられ、新たな「デザイン」という概念が用意されることになったのである。しかし、こうした文脈のなかで「デザイン」という用語を用いるときのクレインの念頭にあったものは、あくまでも手工芸のことであり、今日にいうところのインダストリアル・デザインのことではない。モリス同様彼も、いまだ機械については一種敵意に満ちた次のような見解をもっていた。
商売と迅速な生産という関心のなかでのみ使用される機械は、労働者の地位を引き下げたばかりでなく、労働の重要性も破壊してきた。そして手工芸についても、おおかた破滅へと追いやった14……。
確かに、生産のプロセスを分断し、それによって労働の喜びを奪い取り、その結果低品質の醜悪なものをつくり出すのが機械であるとするならば、製作の倫理の観点からも、社会生活の充実という観点からも、決して機械は容認されるべきものではなかった。したがって、こうした考えは単にウォルター・クレインひとりのものではなく、アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会から分かれるかたちでデザイン・産業協会が創設された一九一〇年代から二〇年代までの長期にわたって、多くの英国の美術家と工芸家を支配し続けたひとつの強固な精神だったのである。そこで、「工芸からデザインへ」というさらに新たな概念形成へ向けての革新、つまりは「機械の容認」へ向けての運動は、その場を英国からヨーロッパ大陸へと移すことになるのである。
一九世紀も終わりにさしかかると、商工業や科学技術、交通手段やジャーナリズムの飛躍的な発達に伴い、生活のあり方も大きな変貌を遂げようとしていた。こうした変貌は、進歩とも退廃ともみなすことができ、受け止め方には実に多様なものがあったとしても、芸術の分野においてもまた、新しい様式を求める土壌が形成されようとしていた。「ベルギー人であるヴァン・デ・ヴェルデは、アーツ・アンド・クラフツの第一便がイギリスから到着したとき、『春が来た』と叫んでいる」15。アーツ・アンド・クラフツを源泉にもつアール・ヌーヴォーは、その後、総じて歴史様式に陥ることも新しい技術や素材を嫌悪することもなく、ヨーロッパ大陸やアメリカで幅広く展開されていった。しかも、応用美術と純粋美術の垣根を越えて。このことは、「われわれは美術家を工芸家に変えなければならないし、工芸家を美術家に変えなければならない」16と述べていたウォルター・クレインにとって待ち望んでいたことだったかもしれない。しかしその彼でさえ、一九〇〇年のパリ万国博覧会の展示品がヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で紹介されたときには平静でいることができなかった。アール・ヌーヴォーの有する自然をモティーフにした、流れるような曲線の多用は、有機的な生命感の躍動とは受け止められず、不安定な生命のもがき、つまりは単なる「装飾の病」と映じたのである。事実アール・ヌーヴォーは「もがき」とも呼ばれ、グラスゴウ出身の四人組に対してでさえも、「 幽霊派 ( スプーキー・スクール ) 」という蔑称が与えられていた。こうした偏狭で閉鎖的な精神構造についてフィオナ・マッカーシーはこう説明している。「アーツ・アンド・クラフツは島国根性的なものであった。そして、健全さを求める仲間内の理想から決して離れることはなかった」17と。しかし今度はその「健全さを求める理想」が、当時在英大使館員でのちにドイツ工作連盟の創始者となるヘルマン・ムテジウスによって、『イギリスの住宅』と題された三巻本をとおしてドイツにもたらされることになるのである。
今世紀の両大戦間期、ヨーロッパ大陸ではさまざまな分野で 近代運動 ( モダン・ムーヴメント ) が萌芽的に展開された。それに先立つ一九〇七年に創設されたドイツ工作連盟は、「工業製品の高い質へ向けてあらゆる努力を結集する」ことを目的にしていたし、一九一九年に設立されたバウハウスの校長のヴァルター・グロビウスは、「現代人は、現代の衣服をまとっているのであって、過去の衣服をまとっているのではないのだから、同時にまた、現代に適合した日常品を備えた、自分とその時代にふさわしい住居を要求しているのである」18と述べている。また、アール・デコ様式を生み出すきっかけとなった、一九二五年のパリにおける現代装飾・産業美術国際博覧会の「究極目的は、ある程度まで芸術家たちを手工業に精通させることによって、だがそれ以上にデザインを大量生産の必要条件に適合させることによって、芸術と産業の間の古くからの争い、芸術家と職人の俗物的な差別を終結させることであった」19。こうした一連の美術/建築/デザインにおける近代運動は、とりもなおさず、いわゆる「近代精神」に基づき生活と社会の再構築を目指すものであり、ここには、「機械様式の承認」と「芸術の大衆化」が含意されていたのである。
一方英国におけるこの分野の近代運動は、ドイツ工作連盟を手本にして、第一次世界大戦のさなかの一九一五年に創設されたデザイン・産業協会(DIA)によって展開されていった。しかし、「新しい目的をもった新しい団体」を標榜していたにもかかわらず、「新しい目的」が実際には何であるのかが本当の意味でDIAの会員たちのあいだで理解されるようになるのは、実は三〇年代以降のことなのである。
DIAは、……異国趣味、未知なるもの、そして極端な機械化を受け付けることはなかった。ヴァイマルでの発展[バウハウス]……も、わずかな興味しか呼び起こさなかった。……また、ジャズ的雰囲気とキュビスムに彩られた一九二五年のパリ博覧会[現代装飾・産業美術国際博覧会]からも、全くDIAは感化されるようなことはなかった20。
なぜ英国はこれほどまでに近代運動に実質的な遅れを取ったのだろうか。ひとつは「芸術」についての二〇世紀的な再解釈に手間取っていたことに起因している。一九世紀的な定型化された装飾については「無意味な装飾」として非難はしているが、しかし、装飾を排除して機能と構造と素材のうちに成立する形態の論理にまでは思いを抱くことができなかったし、機械生産という問題にしても、労働と芸術を同一視する彼らの社会的倫理観からすれば、全面的に承認することは容易なことではなかった。スローガンであった「目的への適合」にせよ、W・R・レサビーがしばしば使った「機械は制御されなければならない」という命題にしても、「こうした信条の再解釈がその後の一〇年あまりのあいだ、長期にわたる真剣な討議課題だったのである」21。アーツ・アンド・クラフツから巣立つ必要性を自覚し、産業のためのデザインへと向かったものの、創設当初の会員の多くはあくまでも芸術家=工芸家であったために、手工芸と機械生産の違いがいまだ十分に理解できず、理論のうえからも、実践のうえからも、苦渋に満ちた選択が常につきまとっていた。そうした状況のもとにハーバート・リードの『芸術と産業』が一九三四年に出版された。「デザイン運動にとって、レサビーの教えに取って代わる……わかりやすい理路整然とした哲学を与えてくれる能力をもったよき指導者をこの段階で見出したことは幸運だった」22とノエル・キャリントンが回顧しているように、リードはそのなかで、「人間の理想や感情を造形的に表現することにかかわっている『人文主義的美術』と、形態が美的感性に訴えるような品物をつくる以外にはいかなる関心ももたない非具象的美術、つまり『抽象美術』」23とを区別し、インダストリアル・デザインに芸術的根拠を与える試みとともに、それが成立するうえでのさまざまな原理の構築を行なっていたのである。まさにこの本こそ、これより戦後の復興期に至るまでの「モダン・デザイン」の振興運動のなかにあってひとつの福音書の役割を果たすものであった。
第二次世界大戦が終わると、英国ではじめての本格的なデザイン事務所である「デザイン・リサーチ・ユニット」がミッシャ・ブラックとミルナー・グレイによって創設された。そしてその事務所の初代理事長にはハーバート・リードが就任した。復興期の多くのデザイナーたちは、たとえ現実には満たされることがないにしても、リードが一九五五年に『イコンとイデア』のなかで描き出していた新たな社会における芸術家像をインダストリアル・デザイナーに投影して自らを鼓舞していた。それは次のようなものであった。
未来の芸術家は、画家や彫刻家や建築家ではなく、画家と彫刻家と建築家をひとつにした造形形態の新たな形成者なのである。――このこと自体、これらすべての才能の不義なる混合ではなく、そのすべてを包摂するとともに、そのすべてに取って代わる一種の新たな才能なのである24。
また、のちに王立美術大学の教授になったミッシャ・ブラックは、一九七一年に自らの体験をこう回想している。
あの当時[一九三〇年代]は、「グッド・デザイン」はひとつの倫理的な改革運動であった。友人たちや私は、装飾を悪として断罪したアドルフ・ロースを正しいと思い、バウハウスをすべての真理を放射するヴァティカンのごときものと信じ、さらには、よいデザインが私たちの環境を変え、そうすることによって人間を変えることができるものと考えていた。……このような信念の強さが、画家をデザイナーに、彫刻家を自動車のモデラーに、そして私をインダストリアル・デザイナーに変えたのである25。
戦後のおよそ二〇年間は、英国にあっては、こうした近代精神に基づく「グッド・デザイン」の啓蒙と実践の期間であったといえる。そこには、本格的な近代生活へ向けての質的転換が産業と芸術と社会倫理の視点からもくろまれていたわけであり、したがって当然ながら、インダストリアル・デザイン協議会(のちのデザイン・カウンシル)の設置にみられるように、行政もデザインとの関係を一層深めてゆくことになるのである。
しかしこの間、インダストリアル・デザイン(産業のためのデザイン)が社会的に認知されるにあたっては、幾つかの困難と対峙しなければならなかった。ひとつは、商業主義のもとに一九三〇年代以降のアメリカで展開されてきた「スタイリング」に対してであった。人間の生活や行動における合理的な諸機能の純粋な充足と、生産にあたっての工学的必然性とが支配的要素となって姿を現わす「スタイル」と、利潤動機に誘導され大衆が求める欲望や趣味や夢をそのまま形に表現する「スタイリング」のあいだには大きな溝が横たわっていた。この「スタイリング」の問題は、当時の多くの英国のデザイナーにとって、正しい生活を営むためには正しい原理を用いた製作とデザインが必要であるとする伝統的な倫理観からすれば受け入れがたいものであり、そこで、人びとが望むものを多くの人の手に届くようなかたちでデザインするという経済的観点とどう折り合うかが、重要な焦点となったのである。
いまひとつは、工学や技術者に対して折り合いをつけることであった。それまで多くの場合、産業生産品は技術者たちによって生み出されていた。もし仮に、おおかたの技術者たちが確信していたように、工業製品の形態が工学的必然性によってのみ決定されうるのであれば、もはやインダストリアル・デザインの産業における役割は存在しないことを意味する。したがって、そうした形態決定の論理の誤謬を指摘し、操作したり使用したりする人たちの人間的欲求の多様性を母体にした形態決定の正当性を論証するなかで、次第にインダストリアル・デザインの意義は社会的認知へとつながっていったといえる。しかしそこには、人間的欲求レヴェルでの穏やかな多様性が商業的欲望によって塗り替えられる危険性が常に存在していた。こうして「グッド・デザイン」の戦後の啓蒙運動の過程にあっては、美術や工芸からデザインを分離させる傾向が一層強まる一方で、デザインはまた、単に形態や装飾を巡る造形上の問題だけではなく、経済活動や生活システムに関する諸問題にも直面し解決を迫られてゆくのである。
そして、六〇年代後半から七〇年代にかけて、さらに大きな幾つかの波がモダニズムのデザインに襲いかかろうとしていた。ひとつの波は、さまざまな理由から機能主義理論にひび割れが生じるとともに、大衆文化や 若者文化 ( ユース・カルチャー ) と連動しながら、表現性の強い「ポップ・デザイン」や「 悪趣味 ( バッド・テイスト ) 」が登場してきたことだった。もちろんこれは、正統なこれまでのデザインの近代運動の立場からすれば、美術とデザインをいまさらながら混同しようとする、容易に承認することのできない動きであったといえる。しかしそれが、のちのポスト・モダニズムのデザインの出現へとつながってゆくのである。もうひとつの波は、『真実世界のためのデザイン』のなかでのヴィクター・パパネックの主張にみられるような、インダストリアル・デザインの社会的責任を追求するものであった。
犯罪的に危険な自動車をデザインすることによって……永遠の廃棄物の完全な新種をつくっては景観を乱すことによって、また、私たちが呼吸する空気を汚す材料や生産工程を取り入れることによって、デザイナーは危険な人種となっているのである26。
これは「新たな修正論」とも呼ばれるもので、デザインと商業主義のはざまでこれまで屈曲していた葛藤の根強さを改めて英国のデザイナーたちに自覚させる結果をもたらすことになった。さらに三つ目の波を挙げるとすれば、ヴィクトリア時代への回帰の潮流とともに、伝統的な個人主義に基づく工芸運動が復興してきたことである。その底流には、ある意味での歴史主義的視点とともに、今日のグリーン・デザイン運動にみられるように、資源や環境の問題に目を向ける社会的視点もまた同時に横たわっていた。こうしてこの時期より英国のデザインは、一言でいえば一義的な「 近代主義 ( モダニズム ) 」が失速し、まさしく「 多元主義 ( プルラリズム ) 」の時代へと入ってゆくのである。
これが生命感と活力に満ちた真の英国社会を反映した様相であるかどうかの判断は今後の課題として残すとしても、これまでこの小史のなかで見てきたように、少なくともそうした様相の根底には、芸術と産業の社会的役割とデザインの倫理性についての問いかけ、つまりは、人間がものを生み出す根源的な意味についての英国独自の伝統的な自問が常にこめられていたことだけは確かなのである。
(一九九六年)
(1)モリス『世界のかなたの森』(「文学のおくりもの」14)小野二郎訳、晶文社、1979年、287-288頁。
(2)May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge / Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XXII, pp. 3-4.[モリス『民衆のための芸術教育』内藤史朗訳、明治図書、1971年、10頁を参照]
(3)Ibid., p. 32.[同訳書、42-43頁を参照]
(4)Nikolaus Pevsner, Pioneers of Modern Design (first published by Faber & Faber in 1936 as Pioneers of the Modern Movement), Penguin Books, London, edition of 1981, p. 45.[ペヴスナー『モダン・デザインの展開』白石博三訳、みすず書房、1957年、35頁を参照]
(5)Ibid., p. 20.[同訳書、7頁を参照]
(6)Ibid,. p. 48.
(7)Stuart Macdonald, The History and Philosophy of Art Education, University of London Press, London, 1970, p. 70.[マクドナルド『美術教育の歴史と哲学』中山修一・織田芳人訳、玉川大学出版部、1990年,88頁を参照]
(8)Ibid., p. 70.[同訳書、87頁を参照]
(9)Ralph Wornum, Analysis of Ornament (1856), Chapman & Hall, London, tenth edition of 1896, p. 25.
(10)Stuart Macdonald, op. cit., p. 265.[マクドナルド、前掲訳書、349頁を参照]
(11)Walter Crane, The Claims of Decorative Art, Lawrence & Bullen, London, 1892, p. 95.
(12)Quoted in Stuart Macdonald, op. cit., p. 312.[マクドナルド、前掲訳書、418頁を参照]
(13)Ibid., p. 312.[同訳書、418頁を参照]
(14)Walter Crane, op. cit., p. 54.
(15)Fiona MacCarthy, A History of British Design 1830-1970 (first published in 1972 as All Things Bright and Beautiful), George Allen & Unwin, London,1979, p. 33.
(16)Walter Crane, op. cit., p. 187.
(17)Fiona MacCarthy, op. cit., p. 35.
(18)コンラーツ編『世界建築宣言文集』阿部公正訳、彰国社、1970年、120頁。
(19)ヒリアー『アール・デコ』西澤信弥訳、PARCO出版、1977年、14頁。
(20)Fiona MacCarty, op. cit., pp. 50-51.
(21)Noel Carrington, Industrial Design in Britain, George Allen & Unwin, London, 1976, p. 41.[キャリントン『英国のインダストリアル・デザイン』中山修一・織田芳人訳、晶文社、1983年、51頁を参照]
(22)Ibid., p. 127.[同訳書、216頁を参照]
(23)Herbert Read, Art and Industry: The Principles of Industrial Design (1934), Faber & Faber, London, edition of 1956, p. 57.[リード『インダストリアル・デザイン』勝見勝・前田泰次訳、みすず書房、1957年、57頁を参照]
(24)Quoted by Misha Black in Avril Blake (ed.), The Black Papers on Design, Pergamon Press, Oxford, 1983, p. 34.[ブレイク編『デザイン論――ミッシャ・ブラックの世界』中山修一訳、法政大学出版局、1992年、57頁、およびリード『イコンとイデア』宇佐美英治訳、みすず書房、1957年、148頁を参照]
(25)Ibid., p. 5.[同訳書、11頁を参照]
(26)Victor Papanek, Design for the Real World (1971), Thames and Hudson, edition of 1985, p. ix.[パパネック『生きのびるためのデザイン』阿部公正訳、晶文社、1974年、9頁を参照]