ポール・ライリー(のちのライリー卿)【図一】は、一九六〇年から七七年にかけて、英国政府のデザイン振興機関であるデザイン・カウンシルの三代目の会長を務めた人物です。この間彼は、二度ほど来日しています。最初は日本政府の招待による講演のためで、二回目は、国際インダストリアル・デザイン団体協議会(ICSID)の大会への出席のためでした。彼の自伝である『デザインを見る眼』1【図二】を読むと、初来日のおりの講演では「通訳に大変時間がかかり三時間を要したが、会場は誰もが決められたとおりに、ありがたく聞き入っていた」ことが書き記されており、二度目の滞在の機会には、旧友の日本人夫妻の案内で奈良と吉野を訪れ、そのとき「戦前天皇のお気に入りだった旅館に宿泊した」ことが回想されています。
ライリー卿は、会長在任期間の「六〇年代と七〇年代はデザイン・カウンシルにとっても、またむしろその会長にとっても、よき時代であった」と書き残しています。といいますのも、デザイン・カウンシルの前身であるインダストリアル・デザイン協議会(COID)の一九四四年の発足以来、英国デザインの国家的振興は順調に進み、この六〇年代はその努力が世界から注目を集めていた時期にあたるからです。この時期彼は、日本のみならず、ソ連、香港、北欧、ニュージーランド、オーストラリアなどの各地を飛び回り、カウンシルの仕事を精力的に紹介しているのです。当時のカウンシルの業務は、雑誌『デザイン』の刊行や展覧会の開催などをとおして、合理的で健全なモダン・デザインを英国の産業と国民生活へ広く普及させることでした。しかし、カウンシルが標榜する「グッド・デザイン」の理念は、「ポップ・デザイン」や「バッド・デザイン」といった反モダニズムの潮流が形成される六〇年代後半から強い批判の的になろうとしていたのです。
妻と私がライリー卿のサウス・ケンジントンの自宅に招かれ、直接お目にかかったのは、ブリティッシュ・カウンシルのフェローとしての最初の英国留学中の一九八七年一二月のある寒い日のことでした。定刻におうかがいすると、すでにテーブルには奥さまによって温かいお茶の用意がなされていました。おそらく彼の脳裏には、これまでの公私にわたる日本や日本人との交流がよみがえっていたにちがいありません。私が英国のデザインを専門とする歴史家であることを知っている彼は、英国デザインの振興政策の失敗についての回想も含めて、実に丁寧に私の質問に答えてくれました。そして驚くことに、別れるに際して、王立芸術協会会員(FRSA)への推薦人になることを約束してくれたのでした。
その数年後ライリー卿は亡くなり、一九九四年にはデザイン・カウンシルも整理縮小され、再出発を余儀なくされました。デザインの意味と役割が多様化するなかにあって、その振興がいかに困難な仕事であったのか――その業績の全貌は、いまブライトン大学デザイン史研究センターに「デザイン・カウンシル・アーカイヴ」として保存されるに至っているのです。
(一九九八年)
図1 著者が訪問した日のポール・ライリーとアネット・ライリーのご夫妻。
図2 Paul Reilly, An Eye on Design: An Autobiography, Max Reinhardt, London, 1987 の表紙。
(1)Paul Reilly, An Eye on Design: An Autobiography, Max Reinhardt, London, 1987.