中山修一著作集

著作集1 デザインの近代史論

第三部 英国デザインの近代

第四章 歴史のなかの基礎造形

はじめに

はじめまして、神戸大学の中山でございます。本日は、日本基礎造形学会の倉敷大会の基調講演をさせていただく機会を与えていただきました。大変光栄なことであり、ありがたく思っています。しかし大きな不安も抱えています。私自身、この学会の会員ではなく、会員のみなさまがどのようなご関心を日頃おもちなのかがわからず、ひょっとしたら、的外れのお話になるのではないかと心配しているからです。

はじめに藤原洋次郎先生からこのお話をいただいたとき、ちょうどその時期私は、陶芸家の富本憲吉を調べていたこともあって、英国留学をとおして富本が何を学んで、その後の自己の造形思想をどう確立していったのかをテーマにしようと考えました。しかし、このテーマは、歴史の一断片にしかすぎず、多くの会員のみなさまにとってはお役に立たないのではないかと考え、次のテーマを探すことにしました。それがすでに印刷物に掲載されている「モダニズム再考――シンプルなものはベストなのか」というテーマでした。そして、数日前から本日のための講演原稿を書きはじめたのですが、そこで思わぬことに思いあたりました。それは、この学会の会員の多くの方は、作家活動をされていると同時に、大学でその実技を教授されており、その実技教育のなかにおける基礎的なものとは何か、ということに強い関心をもっていらっしゃるのではないかと、いうことでした。そこで今日は、モダニズムの再考を含めて、もう少し歴史的時間軸を長く取り、作家であり教育者であるような人びとが、その基礎なるものをどのようにとらえてきたのかについて、つまり、「歴史のなかの基礎造形」についてお話をさせていただきたいと思います。発表されているテーマを少し修正することになりますが、どうかお許しいただきたいと思います。

それに加えてもうひとつ、お許しをいただかなければなりません。それは、私自身がイギリスを対象としたデザインの歴史の専門家であるために、どうしてもその分野に偏ってしまうことです。どうかこの点もご了解いただきたいと思います。

それではこれから、主にイギリスを事例に取りながら、「歴史のなかの基礎造形」というテーマでお話をさせていただきたいと思います。

一.一八世紀後半の美術アカデミーとその「デザイン学校」

英国における最初のアカデミーである「ロンドン王立美術アカデミー」は、一七六八年に設立されました。設立文書には、次のようなことが謳われていました。「当アカデミーは四〇名の会員のみで構成され、会員は王立アカデミーのアカデミー会員と呼ばれ、入会を認められた時点で、その職業を美術家とする」。つまり、当時美術家を名乗ることができたのは、アカデミー会員の四〇名のみであっことになります。このアカデミーはいうまでもなく、美術家の職能団体であり、そのなかには、後継者を養成するための「デザイン学校」が付設されていました。その学校の教師には、当然アカデミーの会員であり、有能な歴史画家や彫刻家が毎年選ばれていました。「デザイン学校」という名称に、違和感をおもちになる方もいらっしゃるかもしれませんが、この言葉は、イタリア語の「アカデミア・デル・ディセーニョ」を訳したもので、したがって「ディセーニョの学校」といった意味になります。それでは、「ディセーニョ」とは何だったのでしょうか。レオナルド・ダ・ヴィンチは、この「ディセーニョ」というイタリア・ルネサンス期の言葉を「三つの芸術の親」と呼びました。つまり、絵画、彫刻、建築の三つの芸術(字義的には技術)に共通する最初の創造的なプロセスをとおして必要とされる発想や計画を指して「ディセーニョ」と呼んだのです。英語の「デザイン」、フランス語の「デッサン」は、このルネサンス期のイタリア語の「ディセーニョ」を語源にしています。したがいまして、ロンドン王立美術アカデミーに付設された「デザイン学校」は、その語源に従えば、「ディセーニョの学校」、つまり、意味的には「三つの芸術(技術)に共通する創造プロセスのなかに必要とされる発想を培う学校」ということになります。そのように考えてみますと、今日私たちが使用する「デザイン」という意味と、この時代に使われた「デザイン」の意味とでは、大きく異なることになりますが、「ディセーニョ」を母語とする、この時代の意味での「デザイン」が、「基礎造形」の原型だったのではないかと思われます。したがって、フランス語の文脈に置き換えれば、「デッサン」がその原型ということになるのでしょうか。

それでは、三大芸術(技術)である絵画、彫刻、建築の親としての「デザイン」は、その当時にあっては、どのような内容をもっていたのでしょうか。ご承知のように、一八世紀と一九世紀を広く支配していたのは、歴史主義でした。それは、過去の様式の模倣であり、再現であり、復興でもありました。したがいまして、当時の「デザイン」という用語は、そうしたことを実際に可能にするうえで、基本的に備えておかなければならない知識や描写力を指し示すものでありました。具体的にいえば、黄金分割や解剖学的研究、遠近法や理想美などがそれに相当します。一八世紀の半ばにウィリアム・ホウガースは『美の分析』をいう本を出版しています。そのなかの図版は、当時の歴史主義の様相をよく物語るものではないでしょうか。

二.一九世紀における美術教育の国家的制度化

ご承知のように、英国の産業革命は、一八世紀の半ばから一九世紀の三〇年代をとおして進行していきます。それは、新しい近代国家にふさわしい美術と産業にかかわる美術家の養成を要求するものでもありました。美術家による職能団体である王立美術アカデミーのなかでの美術家の養成とは別に、国家の産業政策の一環としての美術の公教育が、ここに生み出されることになるのです。このような背景から一八三七年にロンドンのサマセットハウスに「デザイン師範学校」が設置されます。これが、現在の「王立美術大学」の前身校ということになります。「デザイン師範学校」の設置以降、その後の約五〇年間にわたって、イギリスの主要都市に、美術学校やデザイン学校がつくられ続けていきます。しかし、とくに一八五〇年代までは、どの学校の教育内容やカリキュラムも、非常に不安定でした。アカデミーに倣った純粋美術の学校を目指す学校もありましたし、その一方で、産業界が要求する人材を養成しようとする学校もあったからです。またひとつの学校にあっても、校長が代わるたびに、その方針が大きく変わることもしばしばでした。世界の国々に先駆けて産業革命を経験した国がイギリスであり、それを受けての美術教育のあり方を巡る改革ですので、手本となるものがなく、したがって、そのような不安定な状況をさらけ出していたのは、ある意味で、いたしかたなかったのかもしれません。そのようなわけで、この時期は、先ほど述べましたアカデミー的な原理が崩壊しつつも、それに取って代わる明快な美術教育の原理が見出せない混迷の時代であったと見ることができます。

そうしたなか、ヴィクトリア女王の夫であったアルバー公を支えて、一八五一年にロンドンのハイド・パークで開催された大博覧会を成功に導いたのが、国家公務員のヘンリー・コウルという人物でした。

大博覧会が終了しますと、その収益金をもとに、サウス・ケンジントンに広大な土地が購入されました。そしてこの地に、科学・芸術局という行政機関、大博覧会での優れた展示品を所蔵した新設のサウス・ケンジントン博物館、そして「中央美術訓練学校」に名称を変更した「デザイン師範学校」の三つの組織が、集結することになるのです。まさしく美術教育の複合施設の完成ということになります。そしてこのとき、科学・芸術局の局長とサウス・ケンジントン博物館の館長に就任したのが、大博覧会をプロモーションした文化行政官のヘンリー・コウルでした。一八五七年のことです。これにより、イギリスの美術の公教育が、制度的にはほぼ完成に至ったということができます。

この全国規模での美術教育の制度は、科学・芸術局がサウス・ケンジントンにあったために、サウス・ケンジントン制度と呼ばれ、また、コウルの周りに集まった美術家や理論家たちのグループは、サウス・ケンジントン・サークルと呼ばれていました。このなかには、リチャード・レッドグレイヴ、レイフ・ワーナム、オウイン・ジョウンズ、クリストファー・ドレッサー、ゴットフリート・ゼムパーといった人が含まれていました。

ヴィクトリア時代の人びとは、絶対性を確信していました。したがって、絶対的な美の存在も信じていたのです。たとえば、レイフ・ワーナムは、次のようにいっています。「私たちはいまや『装飾美術』を創造する必要はない。しかし、それを学ばなければならない。なぜならば、その本質のすべてにおいて装飾美術ははるか遠い過去にすでに確立しているからである」。美が、過去の美術家たちによってすでに獲得されている以上、学生がそれを手に入れる最も確実な方法は、古代の美術を模写することでありました。サウス・ケンジントン制度の美術教育の本質は、まさしく「古典の厳密な模写」にあったのです。それを厳格に適応したのが、「国立美術学校の国定指導課程」というものでした。この指導課程は、四つの指導領域から成り立っていました。それは、「描画の課程」「絵画の課程」「彫刻の課程」「デザインの課程」の領域でした。そして、各課程を貫いて、二三の指導上の段階が規定されていました。ここには、一人ひとりの学生の個性や自由は認められていません。そのような意味で、極めて機械的なものでありました。しかし、美が過去においてすでに確立しているという考えが一般的であったこの時代にあっては、この二三の階梯を一歩一歩登っていくことが、美に近づくための最も確実な道であり、その階梯を途中で放棄したり、横道に逸れたりすることは、理想とされる美の王国の門をたたくことをあきらめたことを意味していました。このような考えと教育内容は、おおかた、二〇世紀の三〇年代まで続くことになるのです。

三.二〇世紀はじめの工芸教育の胎動

一九世紀の終わりになりますと、これまでの厳格な国定指導課程は次第に姿を消していきますが、それでも、過去の作例に範を取った製作には、変わりはありませんでした。一八九六年には、アーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受けて、中央美術・工芸学校という学校が設置されます。この学校は、一九世紀の終わりから二〇世紀のはじめにあって、イギリスで最も充実していた学校でした。特徴的なことは、素材や技法に従って、幾つかの工房ごとに教育が進められていたことです。それでも、模範や手本となるものは、過去の作例でした。この学校のカリグラフィーの教師が、エドワード・ジョンストンという人でした。彼の教育方法を図版でお見せしたいと思います。当時の工房教育の典型的な一例がおわかりになることと思います。

富本憲吉が一九〇九年にイギリスに渡り、ステインド・グラスの実技を学んだ学校が、この中央美術・工芸学校でした。また、先ほど紹介いたしましたサウス・ケンジントン博物館は、新しい建物の建設にあたって、一八九九年に名称をヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に変え、現在の姿となりました。富本は、日参してはこの博物館で展示作品の模写をしています。この博物館には世界中の美術品と工芸品が、上下の隔てなく、展示されていました。若き日の富本に工芸家として自立することを開眼させたのが、まさしくこの博物館だったのです。また、富本と同じ時期にロンドンに留学していた南薫造もしばしばこの博物館に足を運んでいます。そして帰国後、当時の雑誌『美術』においてこのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館を紹介することになるのです。

こうした美術における教育方法のあり方は、イギリスでは一九四〇年代まで続くことになります。つまり、過去の作品の模写を基礎にすえた教育です。美術学校から古典彫刻の石膏像が姿を消すのは、第二次世界大戦後のことではないでしょうか。しかし、ヨーロッパ大陸では、両大戦間期に、そうした模写や模刻に頼らない、新しい造形のあり方が実験されていました。それが、ご承知のようにモダニズムという考えでした。

四.英国における基礎課程の導入――一九五〇年代

これまでお話してきました、アカデミーにおける諸原理、コウルによって創案された国定指導課程、そして工房教育のなかでの過去の作例を手本とする実践的な図案教育――確かにこれらも、それぞれの時代における「基礎造形」ということができるかもしれません。しかし、実際に「基礎造形」あるいはそれに類似する「基礎課程」あるいは「基礎デザイン」という用語が使われはじめたのは、英国ではいつころからなのでしょうか。少なくとも一九四〇年代までは、英国の美術学校が、基本的な形態の研究、構成主義的な美術、あるいは広い意味での非具象作品の形式に関心をもつことはありませんでした。しかしそのころから、美術家のなかには、こうした形式に関心をもちはじめた人たちがいました。たとえば、ベン・ニコルスンやバーバラ・ヘップワースといった人たちです。しかし、五〇年代に入りますと、たとえば、ヴィクター・パスモアやリチャード・ハミルトン、トム・ハドスンといった美術家たちが、中央美術・工芸学校やリーズ美術学校において、そうした基本的な形態、あるいは抽象的な製作を導入していくことになります。そして、そうした新たな動きは、現代美術研究所(ICA)での彼らが企画した展覧会によって加速されていきました。たとえば、一九五一年の「成長と形態」、一九五五年の「人間・機械・運動」、そして一九五九年の「発達過程」などが、そうした展覧会に相当します。

こうした展覧会にみられた作品の傾向も、美術学校に導入された新しい課程も、バウハウスでの実践におおかた倣うものでした。つまり、それらの作品や教育課程は、過去の作例を手本としない表現の実験、多様な素材の研究、さらには、描画、形態、色彩の理論に関する基礎的訓練に関連していたのです。そして、こうした新しい教育課程が、英国ではこの時期、つまり、一九五〇年代をとおして「基礎課程」とか「基礎美術・デザイン」と呼ばれはじめることになるのです。

ご承知のように、バウハウスは、一九一九年にヴァルター・グロピウスによってヴァイマルの地に設立された学校で、これまでモダニズムを生み出した聖地としてみなされてきました。この学校では、学生たちは、半年間の「予備教育」でさまざまな素材を体験し、形態の理論を学び、そののち、ひとつの工房のなかで、三年間「工芸教育」と「形態教育」を受けるように、教育プログラムがつくられていました。したがいまして、五〇年代をとおしての英国での「基礎課程」の発展は、バウハウスにおける最初の半年間の「予備教育」をモデルとしたものであったということができます。つまり、英国の「基礎課程」とその課程での教育内容は、明らかに、バウハウスをはじめてとして、両大戦間期にヨーロッパ大陸で展開されたモダニズムの思想と実践に大きな影響を受けていたのです。

五.英国における反モダニズムの展開――一九六〇年代と七〇年代

ところが、一九六〇年代になりますと、この「基礎課程」あるいは「基礎デザイン」に対して、意義を申し立てる姿勢が見受けられるようになってきました。それは、いわゆる反モダニズムの登場に起因するものでした。この反モダニズムという動きは、広い意味での反体制運動の一部と考えることができますので、まず、反体制運動につきましてお話をさせていただきたいと思います。

戦後すぐに生まれた世代は、英国においても「ベビーブーム世代」と呼ばれ、そしてこの世代は、日本と同じように、戦後復興期の経済発展のなかで成長していきました。一九六〇年代は、そうした世代が大学へ進学する時期に相当します。この時期英国では、この世代の進学率にあわせて、二〇校を超える大学が新設されています。彼らはここで新しい知識を吸収するとともに、その知識をもとに、いま社会や世界で起こっていることに対して、自らの見解をもち、その変革を求めようとして立ち上がりました。そのピークとなるのが、一九六八年で、ロンドン、ニューヨーク、パリ、東京で、学園紛争に火がつきました。彼らが戦いを挑んだのは、当時彼らを支配していた旧い価値観や制度に対してでした。

なぜ女性は「女性らしく」しなければならないのか。
なぜ若者は国家の命じるままに戦場へいかなければならないのか。
なぜ学生は教師の与える知識を無批判に吸収しなければならないのか。

こうした疑問が若者たちを促し、反体制運動へと駆り立てていったのです。そしてそのなかにあって、美術学校の学生たちは、モダニズムという考えに反旗を翻すことになります。戦後の復興期は、国家のデザイン振興の基準も、博物館や美術館でのコレクションの基準も、また学校で美術を教える教師の基準も、モダニズムに沿うものであり、それ以外の考え方や表現が認められることはほとんどなく、多くの学生たちにとっては、息苦しさを強く感じ取るようになっていたのです。こうした土壌から反モダニズムは生み出され、ポップ・アートやポップ・デザインといった新たな表現が七〇年代をとおして展開されていくことになるのです。

六.多様な表現にとっての基礎造形の模索――一九八〇年代以降

先ほど述べましたように、イギリスの一九五〇年代に導入された「基礎課程」は、バウハウスでの実践とそれを支えるモダニズムという考えに範をとるものでありました。そして、六〇年代の反モダニズムの胎動は、単に美術やデザインの新たな表現の可能性を開いただけではなく、美術やデザインの教育にも大きな影響を及ぼすことになりました。とくに「基礎課程」という教育制度と教育内容に対してそうでありました。なぜならば、「基礎課程」は、すでにお話しましたように、モダニズムの原理に基づく「基礎造形」の原理的追及だったからです。モダニズムからポスト・モダニズムへの移行は、広い意味での相対化を要求するものでありました。たとえば、次のようなかたちでその要求は展開されていきました。

過去の様式を否定したモダニズムに対しては、歴史様式の復活を要求しました。
装飾や具象性を否定したモダニズムに対しては、それらの復活を要求しました。
合理性や機能主義を追求したモダニズムに対しては、それらの否定を要求しました。
普遍性や国際様式を標榜したモダニズムに対しては、個別性や地域性を強調しました。
大量生産という生産手段に対しては、手の復権、つまり工芸の復活を要求しました。

つまり、これらのことを一言でいえば、中心の喪失であり、多元的価値の承認ということになります。こうした状況を受けて、モダニズムに支えられた「基礎課程」は、大きくその意味と内容を変えていくことになるのです。これが、イギリスにおける、「基礎課程」をとりまく、一九八〇年代以降の様相ということになります。つまり、多様な表現を保障するような「造形的基礎」の可能性の模索と追及ということになるでしょうか。そこには、モダニズムのような、ひとつの明快な答えとしての原理が存在しているわけではありません。強いてそれを別の言葉で表現するとするならば、革新と伝統、創造と再生、人工と自然、合理と反合理、機能と装飾、西洋と東洋、男と女、多数者と少数者、白人と黒人、機械と手、抽象と具象、単純と複合、普遍と個別といった幾つもの対立項の存在を認めたうえでの、相対的網状的観点に立った、造形行為にとっての基礎のあり方を模索する姿勢、とでもいえるのではないでしょうか。

それでは、英国の事例から離れて、日本におけるこの間の「基礎造形」はどのような展開過程を示してきたのでしょうか。それに対する具体的な状況の把握と今後の見通しに対する論議は、このあと開催されますシンポジウムでのパネリストの先生方のディスカッションにゆだねさせていただきたいと思います。そろそろ予定の時間がきましたので、私の基調講演はこれで終わらせていただきます。長時間のご清聴、ありがとうございました。

(二〇〇六年)