中山修一著作集

著作集1 デザインの近代史論

第三部 英国デザインの近代

第三章 ウィリアム・モリスの二〇世紀

はじめに

一八九六年一〇月三日、ウィリアム・モリスはハマスミスの自宅〈ケルムスコット・ハウス〉で亡くなった。それから一世紀が立ち、一九九六年には英国をはじめ、さまざまな国で、彼の没後一〇〇年を回顧する展覧会やシンポジウムが開催され、モリスの業績に対して改めて多くの視線が注がれることになった。とくにふたつの展覧会に注目が集まった。ひとつは、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催されたモリス展であり、いまひとつは、マンチェスター大学ウィットワース美術館、クラフツ・カウンシル・ギャラリー、およびバーミンガム博物館・美術館の三箇所を巡回したモリス展であった。そしてそれぞれの展覧会にあわせるかたちで、さまざまな角度からモリスの業績を検討した論文が収められたカタログも同時に出版された。双方の展覧会カタログのなかにあって、今世紀に及ぼしたモリスの影響を検討しているという点において、ポール・グリーンハルジュの「モリス以降のモリス」とターニャ・ハロッドの「後回しにされた楽園――二〇世紀のウィリアム・モリス」は、共通のテーマを扱っていた。そこで、このふたつの論文を手掛かりにしながら、改めてこの小論においても、過去一〇〇年の英国デザイン史のなかにあってモリスがどのような役割を担ってきたのか(あるいは、担わされてきたのか)を取り上げ、概略的な考察を加えてみたいと思う。

一.詩人としての名声とその凋落

レッチレイド駅から干し草用の荷馬車に乗せられたモリスのひつぎは、彼が後年最も愛した〈ケルムスコット・マナー〉のある教会墓地へと運ばれ、そこで、モリスの妻とふたりの娘を喪主とする、簡素ながらも感銘を与える葬式が執り行なわれた。そして、このときすでに、生存中と同様に波乱に満ちたモリスの第二の生涯が幕を開けていたのである。

一九九四年に出版された最も信頼の置けるモリス伝記のひとつである『ウィリアム・モリス――われわれの時代のためのある生涯』の著者のフィオナ・マッカーシーは、モリスの死亡記事を扱った記述箇所で、次のような描写を試みていた。    

 目に着くのは、それに続く数日間の死亡記事の多くにあって、主としてモリスは著述家として記憶されていたことである。「詩人、しかも、テニスンやブラウニングがまだ健在だった時代にあってさえも、六本の指に数えられるわれわれの秀でた詩人のひとり」と『ザ・タイムズ』は述べているし、『ザ・デイリー・ニューズ』は、「私たちの心に残るまさしく正真正銘の詩の巨匠」と書いている。「英国の中産階級の心のなかに美的共感を目覚めさせた」という意味において、彼が視覚芸術に貢献したことについて報じる企ても幾分かなされた。同じくその死亡記事の書き手は、深い洞察力をもって、こう論評している。「最初はブルームズバリーの小さな店において、その後はマートンにあるより大きな施設において」製作された壁紙と家具は、詩歌や絵画が理解できない人びとに芸術的認識を植え付けるのに成功した

存命中のモリスは確かに一流の詩人として自らの名声をすでに確立していた。一八七七年にはマシュー・アーノルドの後任としてオクスフォード大学の詩学教授職への就任がモリスへ要請されたし、一八九二年にはテニスンの死去に伴い、桂冠詩人の地位提供の打診も受けている。これらの申し出は、もし受諾されていれば、詩人としての最高の名誉を名実ともにモリスにもたらすものであったにちがいなかった。実際には双方ともモリスは辞退した。しかしそれによってモリスの名声が低下するわけではなく、モリスの死亡記事の多くが詩人としてのモリスを賞讃していたとしても、それはそれとして当然のことだったのである。

周知のように、しばしばこれまでモリスは、詩人、政治活動家、デザイナーといった幾つかの連なる肩書きでもって呼ばれてきた。さらに最近では、モリス研究が進むにつれて、その肩書きの数も増え、ビジネスマンとしてのモリスや環境保護運動家としてのモリスの側面にも、積極的に照明があてられるようになった。しかし、そうした幾つもの側面をもつモリスであったにもかかわらず、なぜ多くのヴィクトリア時代の人びとはモリスの詩人として側面を最重要視し、高く評価したのだろうか。

その理由は、さまざまな分野におけるモリスの業績のなかにあって詩人としての業績が明らかに他を抜きん出て突出していたからではなく、壁紙や家具の製作に比べて詩作や著述の方がより高い社会的活動領域であるとみなす、ヴィクトリア時代特有の社会通念におおかた由来するものであったと思われる。モリスは豊かな中産階級の家庭に生まれ、オクスフォード大学へ進学する。当時のオクスフォード大学は若い紳士たちの教養学校という面影をいまだ強く残しており、聖職者への道に進むことが当然のこととして期待されていたモリスが別の進路を決意するにあたっては、一時期母親を嘆き悲しませてもいる。そうした出自と教養をもった紳士が、丸いふちどりの帽子をかぶり、作業着に身を包みながら、版木を彫ったり、織機や染め桶の前で仕事をしたりする光景を想像することさえ、ヴィクトリア時代の中産階級の人びとには困難だったにちがいなかった。

しかし、この時期にみられたモリスの詩人としての輝くばかりの名声は、大変皮肉なことに、他の側面と比較して、とくに第一次世界大戦以降劇的なまでに低下していった。確かにW・B・イェイツの作品に顕著な影響を及ぼしたことは広く認められているものの、モリスの詩やロマンスがこれまで好意をもって積極的に取り上げられることはほとんどなかった。モリスの伝記作家のひとりであるイーアン・ブラッドリーは、「ヴィクトリア時代の人びとのなかにあってモリスの詩を大変人気あるものにしていた特質、その古風な表現、そしてゆっくりとした、とりとめのない様式は、現代の読者にそれほど強く訴えているわけではない」と結論づけている。また別の伝記作家は、「彼の時代に最も有名であった『地上の楽園』は現在ではほとんど読まれていないし、あまり気にも止められていない。それとは対照的に、モリスと同時代の人たちからよく思われていなかった『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』は、幾つかの点で今世紀後半の象徴主義の詩を先取りしているために、驚くほど革新的なものとして今日認められている」と述べ、一部のモリスの詩の再評価の気運について言及している。しかし、総じていえば、モリスの全業績のなかにあって「皮肉にも一番長続きしなかったのが詩人としての業績」だったのである。

二.社会主義者像の再構築

詩人としてのモリスの運命ほどではなかったにしても、政治に対するモリスの社会主義的姿勢もまた、今世紀の前半までにあっては低い評価が与えられてきた。というよりは、とくに公的な場面においては無視に近い取り扱いを確かに受けてきた。モリスの死去に際しての日刊紙の評伝は、モリスの詩人としての側面を絶讃したのに対して、全体としてモリスの政治思想や政治活動については直接的な言及を避けていた。    

 『ザ・タイムズ』は、「理論に対してや生活の諸要因に対しての配慮を著しく欠いたまま、彼を一種のセンチメンタルな社会主義へと引き入れた力」に蔑視を浴びせた。いずれにせよ、その執筆者は、「どう見てもモリス氏の社会主義的見解が多くの実害をもたらした様子はない。彼のそうした見解は、詩的な言い回しでもって労働者向けに述べられたものであった。そしてその詩的な言い回しは、実に周到に用意された簡潔さのため、労働者には奇怪に映った」と言葉を足していた

さらに『ザ・タイムズ』の執筆者は、モリスの政治性を「温かい心と間違った熱狂の結果」とみなし、それらは「その人物の強さではなく、弱さを指し示すものであった」と分析している。これらの論評が、モリスの政治性を正確に描写することなく、逆に隠蔽してしまったことは明白である。モリスの社会主義を詩人としての夢想的な視点から導き出されたセンチメンタルなものとして、ある意味で温情的な歪曲を加え、モリスを政治の世界から切り離して別の世界に意識的につなぎ止めようとする企ては、保守層の陣営にとって避けて通ることのできないものであったが、それはさらに、モリスの公式伝記である『ウィリアム・モリスの生涯』にも反映されることになるのである。

モリスが死亡すると、さっそく伝記の問題が遺族や親しい友人たちのあいだで持ち上がった。その直接のねらいは、権限のない書き手によって今後モリスの生涯が興味本位に暴露されるのを恐れたことに起因しており、そこで最もふさわしい執筆者として、モリスの友人のエドワード・バーン=ジョウンズ夫妻の娘婿であった古典学者のJ・W・マッケイルに白羽の矢が立った。こうしてモリスの死去から三年後の一八九九年に二巻からなる『ウィリアム・モリスの生涯』は出版されるに至ったのである。この伝記では、モリスの政治活動については「民主連盟 一八八三―一八八四年」と「社会主義同盟 一八八五―一八八六年」と題して、主としてふたつの章が割り当てられてはいるものの、全体としてそれらの章の記述内容は、モリスの政治活動を積極的に跡づけようとするものではなかった。著者のマッケイルと彼の義父のバーン=ジョウンズが、社会主義に共感を覚える立場の人物ではなかったこともひとつの理由に挙げられようが、また同時に、偉大な人間への讃辞としてのこの種の伝記にあっては、社会主義者としてのモリス像が周囲の目にはばかられたことも、疑いの余地はない。そのような理由からこの伝記では、同様に、モリスの妻ジェインの貧しい出自、ラファエル前派の画家D・G・ロセッティとジェインの恋愛関係、そしてそれに対するモリスの苦悩、さらにはてんかんを患った娘ジェニーとの父子関係についても、本人モリスと遺族の立場に最大限の配慮が施されるあまり、あからさまな記述は差し控えられ、モリス讃美の基調が貫かれているのである。

このように、モリスの生涯にわたる多面的な活動から政治的側面を意図的に覆い隠すことによって、生活の身近なところで起こりがちな恋愛問題には心を動かすようなこともなく、社会で繰り広げられている政治経済上の矛盾には、夢見る詩人にありがちな感傷的な眼差しで臨み、「詩歌や絵画が理解できない人びとに芸術的認識を植え付ける」ほどの豊かな審美眼を持ち合わせた、非政治的で超俗的な詩人モリス像が公的に鋳造されたのであった。

そして、その鋳造のプロセスはさらに続いていった。モリスの娘メイ・モリスの編集によって、一九一〇―一五年に『ウィリアム・モリス著作集』(全二四巻)がロングマンズ社から刊行された。詩作活動が、晩年のデザインや政治の分野での精力的な活動に対する影の部分となっていたことに意を用い、詩人としてのモリスの名声をいま一度確保することが、この『著作集』を刊行するにあたっての主たる目的であった。したがって、社会民主連盟や社会主義同盟などでモリスが行なった政治演説の原稿も、『ザ・コモンウィール』などに掲載されたモリスの記事や論評も、ともに収録されることなく、削除された。このことは、詩人としてのモリスの地位をさらに際立たせるうえで確かに役に立ったかもしれないが、その一方で、モリスの非政治的な人間像を結果的に強化させる役割も、十分果たすことになった。しかし、この『著作集』を『地上の楽園』や『フォルスング族のシグルド』といったモリスの詩で構成する意向は、編者のメイからではなく、出版社側から提示されたものであった。『著作集』に欠落していたモリスの政治的な著述が公にされるのは、同じくメイの手によって編集され、『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』と題された二巻本がブラックウェル社から上梓される一九三六年まで待たなければならない。しかし三〇年代にあっては、モダニズムが重視されるにしたがい、ヴィクトリア時代の詩人としても、ユートピア社会主義者としても、モリスはすでに人びとのあいだから忘れ去られようとしていた。一九三四年にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で、ウィリアム・モリスの生誕一〇〇年を祝う展覧会が開催されたとき、そこでもモリスの社会主義は全く取り上げられることはなかったのである。

しかし、第二次世界大戦の終結以降、事情は一変した。モリスの政治性を隠蔽しようとするこれまでの鋳造のプロセスに歯止めがかかり、逆に、解体のプロセスが始動し出したのであった。このプロセスのなかにあって、最も大きなハンマーとなったのが、一九五五年に刊行された、こののち「新左翼」の担い手のひとりとなるE・P・トムスンの『ウィリアム・モリス――ロマン主義者から革命主義者へ』であり、彼はこの八〇〇頁を超える重厚な本をとおして、「中産階級の俗物精神」によってそれまで無視されてきたモリスの実像を緻密にえぐり出す実証的作業に取りかかったのである。トムスンの見解に従うと、モリスの実像とはおおよそ次のようなものであった。   

……彼[モリス]は、こうした詩人たち[シェリーやキーツ]が歌い上げていた人間精神、つまり「ロマン主義的反抗」を邪魔立てようとする最後の大きな渦のなかに引き入れられた。ロマン主義は彼の骨身に浸透し、初期の意識を形成した。こうした情熱的反抗の最後の音調は、若きウィリアム・モリスが『グウェナヴィアの抗弁』を出版した一八五八年に、明らかに響き渡った。……
 それ以降、英国詩における反抗の衝動はほとんど使い果たされてしまった。……耐えがたい現実社会への情熱的な抗議としてかつて存在していたものは、切なる郷愁か甘美なる泣き言以上のものではなくなる運命にあった。しかし、失意にあった一八五八年から七八年までのすべての歳月のなかにあって、モリスの最初の反抗の炎は、彼の内部でいまだ燃焼していた。ヴィクトリア時代のイギリスの生活は耐えがたいものであったし、……産業資本主義の価値は危険に満ち……人類の過去の歴史をあざ笑っていた。一八八二年にイギリスにおける社会主義の最初の先駆者たちとの接触を彼にもたらしたのが、彼の内部でいまだ燃焼していた、この若き日の抗議精神であった。そしてこうした先駆者たちが、単に近代文明に対する自分と同じ憎悪感を共有していただけではなく、その成長を説明するうえでの歴史理論とその成長を新たな社会へと変革するための意志をも持ち合わせていたことが、彼自身の理解につながったとき、古い炎が再びめらめらと燃え上がった。反抗のロマン主義者、ウィリアム・モリスは、現実主義者であると同時に革命主義者になったのである

やや長いこの引用文が指し示していることを短くまとめると、伝統的にロマン派の詩人たちが共有していた「ロマン主義的反抗」の精神を最後に受け継いだウィリアム・モリスは、その精神を絶やすことなく苦悩の期間中も温存し、社会主義運動の最初の高揚期を迎える八〇年代に、彼のそれまでのロマン主義は必然性と連続性のうちに革命的社会主義へと進展していったことになる。こうしてトムスンは、非政治的で超俗的な夢見る詩人としての旧来のモリス像を一気に解体し、それに代わる、「ロマン主義的反抗」という実に強固な伝統的抗議精神に裏打ちされた実践的革命主義者像を新たにモリスに用意したのであった。

確かにこの見解には一時期保守陣営からの無理解な攻撃が加えられたこともあった10が、しかしその一方で、この新たに発掘されたモリス像を衝撃のうちにも積極的に受容しようとする動きが当然ながら広がっていった。それからおおよそ四〇年後にモリスの伝記を書くことになるフィオナ・マッカーシーは、そのときの様子を次のように率直に告白している。    

 私がE・P・トムスンを最初に読んだのは、オクスフォード時代だった。すでに私はモリスに感嘆していたが、しかし彼の多様性は一種のパズルのように思えていた。壁紙と政治が結び付かなかった。この本は、……暴露された事実の力をもって私を痛打した。それというのもトムスンは、モリスにおける政治と芸術の主要なる関係性を、実に正確に把握し、実に辛抱強く請い求めていたからである11

トムスンの『ウィリアム・モリス――ロマン主義者から革命主義者へ』の刊行以降も、さまざまな出版物や展覧会などをとおして、旧いモリス像の解体作業は続いた。そのなかにあって、一九七八年に英語版として出版されたポール・メイエの『ウィリアム・モリス――マルクス主義の夢想家』と、一九八四年にモリス生誕一五〇年を記念してロンドンの現代美術研究所(ICA)で左翼陣営に属する人びとの手によって開催された「今日のウィリアム・モリス」展が、とくに目を引く成果物であった。そして、こうした一連のモリスの政治に関する再検討は、彼の没後一〇〇年を迎えた現時点にあって、「私たちは、ある程度の確信をもって、モリスの政治は彼のもとへと返還されるに至ったと言明することができる」12という認識へとつながっていった。しかし、戦後の積極的な解体と再構築の作業をとおして、モリスの社会主義の意味するところが少しずつよみがえってきたことは事実であるにせよ、その一方で、モリスの望んだ社会主義が二〇世紀の現実の政治の場にあっていかなる地位を手に入れることもなかったということも、また同様に真実なのである。そうした意味において、政治活動家としてのモリスは、「決して歴史が追い付くことのできないような人間のひとり」13として、いまだ一九世紀の彼の時代につなぎ止められたままなのである。

三.アーツ・アンド・クラフツ運動の隆盛

ウィリアム・モリスが二〇世紀に対して行なった最大の貢献は、詩や政治の分野においてよりも、むしろ視覚芸術の分野においてであった。すでに八〇年代に入ると、モリスの思想と実践は次の世代に影響を及ぼし、装飾芸術にかかわるギルドや団体が誕生していった。早くも一八八二年に、アーサー・ヘイゲイト・マクマードウはセンチュリー・ギルドを創設した。彼はそのときの経緯をこう語っている。   

……私は、機械類を無制限に使用することは「芸術と美」を救済するためのあらゆる試みを葬り去るであろうという点でモリスの意見と一致していました。しかしその反面、いまだ私は、モリスの衣服のへりにしがみついているにすぎず、自分にできる建築の仕事と工芸の仕事を行ないました。……壁紙、クレトン、室内用織物、真鍮や鉄の細工物、あらゆる種類の家具。私は、住居を装飾したり、家具や必需品を住居に備え付けたりするうえで必要とされるすべてのものを提供できる大勢の美術家と工芸家を自分の周りに集めました。このグループを私はセンチュリー・ギルドと呼んだのでした14

このグループのなかには、セルウィン・イミジやウィリアム・ダ・モーガンたちがいたし、C・F・A・ヴォイジーもまた、マクマードウに強い影響を受けたデザイナーのひとりであった。このマクマードウのセンチュリー・ギルドは、雑誌『ホビー・ホース』の刊行をとおして、私家版印刷工房である「ケルムスコット・プレス」をモリスに創設させる道を開いただけではなく、『レンの市教会』の扉絵といった作品をとおして、ヨーロッパ大陸におけるアール・ヌーヴォーの開花の先駆けをなしたという意味において、極めて重要な役割を担ったのであった。

さらに一八八四年には、「ラスキンとモリスを精神的父親とみなす建築家=工芸家の幾つかのグループ」15が結集し、芸術労働者ギルドが組織された。その源となるグループは、その二年前にルイス・F・デイの指導のもとに結成されていた「一五人組」と、建築家のリチャード・ノーマン・ショーの弟子たちによって一八八三年に結成されたセント・ジョージ芸術協会であった。彼らは、王立美術アカデミーの孤立主義的な方針と英国建築家協会の「プロフェッショナリズム」に対峙するかたちで、モリス同様に、人間が日常に使用するオブジェクトに目を向け、当時危機的状況にあった諸芸術の統合を唱えた。デイのそれまでの実践のなかに、そのことは十分証明されていた。彼は、一八七〇年まではステインド・グラスを専門とするデザイナーであったが、さらにその後、自らの商会をとおして、壁紙、タイル、陶器、時計、家具といった生活用品のデザインに挑戦し、一八八一年には、織物製造会社のターンブル・アンド・ストックデイルのアート・ディレクターに任命されていたのである。彼はまた、装飾やパターンについての多作の著述家でもあった。一八八二年に彼は、『日常の芸術――純粋にあらぬ芸術に関しての短篇評論集』を刊行し、そのなかで、装飾については次のように論述していた。    

 装飾を愛することは、救世主御降世以来のこの年に固有の特徴ではない。装飾は人類の最初の段階にまでさかのぼる。もし装飾をその起源に至るまで跡づけようとするならば、私たちは自らの姿をエデンの園のなかに――あるいは猿の領地のなかに見出すことであろう。今日においても、装飾は、私たちのなかにあって無限の力を有している。したがって私たちは、装飾をもたない「来るべき人類」を心に描くことはほとんどできないのである16

これは、デイの「純粋にあらぬ芸術」に寄せる確たる信念を示すのに十分なものであり、「王立美術アカデミーと英国建築家協会のふたつの専門家の団体に取って代わる、影響力をもった別の団体を用意する」17にふさわしい根拠を明らかにするものでもあった。実際には、この分野の最初の職能団体の設立は、産業美術家協会(のちの産業美術家・デザイナー協会で、現在の王立デザイナー協会)が創設される一九三〇年まで待たなければならなかったが、しかし、その後の芸術労働者ギルドは、そのマスター職に、J・D・セディング(一八八六―八七年)、W・クレイン(一八八八―八九年)、W・モリス(一八九二年)、ヘイウッド・サムナー(一八九四年)、W・R・レサビー(一九一一年)といった人たちが就任するなかにあって、ヴィクトリア時代の人びとの生活の趣味に新たな基準を与え続けた。その一方でこのギルドは、工芸教育の胎動期にあたって、一八九六年に中央美術・工芸学校の初代管理者にレサビーが、一八九八年に王立美術大学の校長にクレインが任命されることによって、大衆教育の分野においても大きな貢献をなすことになったのである18

クレインもレサビーもともに、一八八七年前後に創設されたアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の主要メンバーであった。ウィリアム・モリスの親友であった、装飾金工師のW・A・S・ベンスンがその創設に尽力し、ウォルター・クレインが初代会長に就任すると、一八八八年の秋にリージェント・ストリートにあるニュー・ギャラリーで一回目の展覧会が開催された。モリスの伝記作家のJ・W・マッケイルは、この展覧会の計画段階にあっては「 連合芸術 コムバインド・アート 」という名称が用いられていたものの、「『アーツ・アンド・クラフツ』という用語は……T・J・コブダン=サーンダスン氏の創案によるものである」19ことを明らかにしているし、さらにマッケイルは、当初モリスがこの展覧会を決して好意的に受け止めていなかったことにも言及している。モリスは、慈善行為を嫌うとともに、アマチュアリズムの台頭を恐れていたわけであるが、それでも、「すべてのメンバーが、自分たちの生活と職業を選択するうえでモリスという手本が主たる決定要素のひとつになっていたと言明していたであろうことは、疑いもない真実なのである」20。このアーツ・アンド・クラフツ展覧会は、一八九〇年までは毎年開催され、それ以降は三年に一度の開催へと姿を変えていった。これは、ひとつには、健全な精神に宿る健全な製作を標榜するアーツ・アンド・クラフツが、大陸から伝播してくるアール・ヌーヴォーの病に感染してしまうのではないかという警戒心に由来するものでもあった。

アーツ・アンド・クラフツ運動は、約一五〇人の男女を擁していた、チピング・キャムデンにおけるC・R・アシュビーのギルドが端的に示しているように、生産と生活と芸術のそれぞれの形式が別個に分断させられることなく、有機的に一体となるような共同体の実現を目指して展開された改革運動であった。アシュビーもそうであったが、アーツ・アンド・クラフツ運動の多くの工芸家やデザイナーたちは、もともとは建築家としての修業を積んでいた。たとえば、マクマードウはゴシックの建築家であるジェイムズ・ブルックスの事務所にいたし、レサビーはリチャード・ノーマン・ショーのもとで建築の実務を経験していた。またJ・D・セディングは、ゴシック・リヴァイヴァルの建築家のA・W・N・ピュージンの大いなる賞讃者であった。したがって、こうしたゴシック・リヴァイヴァルの建築家の事務所がアーツ・アンド・クラフツの揺りかごとしての役割を果たしたのは明らかである。そしてその揺りかごから育った彼らは、当時の産業資本主義がもたらしていた醜悪な結果――貧困と貧富の差の拡大、不衛生で過密なスラム、人間の労働を搾取する工場、瀕死にあえぐ田園、品質の悪い見せかけの生活用品の氾濫――に対して目をそむけることなく、社会的、道徳的、美的立場から反抗を企てたのであった。芸術労働者ギルドの主要メンバーのひとりであったJ・D・セディングは、その時代の「芸術と産業」について次のような理解を示していた。   

……いわれているように、機械類が、デザインと製造にかかわる古くからの伝統を崩壊させた。機械類が、 熟練職人 アルティザン と製品との関係性に邪魔立てをした。……    
この点についての私の理解によれば、われわれの産業が抱える問題はふたつの側面に及んでいる。ひとつは、芸術にかかわる側面であり、いまひとつは、社会にかかわる側面である21

こうした反産業主義へ向かう認識は、セディングに先立つ、A・W・N・ピュージンやジョン・ラスキン、さらにはウィリアム・モリスとその仲間たちが共有していたものであり、アーツ・アンド・クラフツ運動の川底を流れる抗議精神の基盤となるものでもあった。そしてこの抗議精神から、一方で、マルクスの科学的言説にというよりは、むしろ建築家=工芸家の道徳的実感に源を発した社会主義が用意されたのであり、その一方で、「高級芸術」の排他主義に闘いを挑むことによって、「低級芸術」として差別化されていた「装飾芸術」の真の社会的復興へ向けての実践が踏み出されたのであった。

四.ヨーロッパ大陸への影響

アーツ・アンド・クラフツ運動は、単に英国国内の運動に止まらず、たとえば、一八九三年に、オーナーのチャールズ・ホウムとエディターのグリースン・ホワイト(正確には、二代目エディター)によって創刊された『ザ・ステューディオ』などの定期刊行物やさまざまな書籍をとおして、アメリカ合衆国とヨーロッパ大陸に強い影響をもたらすことになった。とりわけ、ドイツの建築家ヘルマン・ムテジウスの『イギリスの住宅』(全三巻、一九〇四―〇五年)は、一八九六年から一九〇三年にかけての在英ドイツ大使館員時代に自らが実地に調査した結果を、一八六〇年以降の近代的なイギリス住宅の発展史としてまとめたものであり、そのなかで彼は、ラファエル前派とラスキンに霊感を受けたモリスの諸活動とその後に続くアーツ・アンド・クラフツ運動の系譜を手際よく記述していた22。デザインの思想と実践にかかわるこの時期の英国とドイツの橋渡し役として、一方にレサビーがいるとすれば、明らかにドイツ側の担い手はムテジウスであった。ドイツへ帰国すると彼は、プロシヤの商務省の役人として、自らの「イギリス体験に由来する方針に従って」23デザインと美術の学校の改組に取り組む一方で、「急速な産業化と近代化が国の文化にとっての脅威をもたらしているという広く行き渡った感情に対応して」24一九〇七年に設立されたドイツ工作連盟の主要メンバーのひとりになるのである。ゲルト・ゼレは、こうした新しい団体がこの時期に設立されなければならなかった当時の社会的、経済的、文化的背景をこう分析している。    

 復古的な社会的ユートピアに代わって国民経済学的リアリズムが登場しているのだといえよう。もはや、ラスキンの場合のように工業化の結果から社会を いや すことが問題になるのではなく、また手工作による生産や単純な物々交換の流通形式へ立ち返ることによって疎外された労働を止揚することが問題になるのでもない。こういった観念は完全に克服されたものと思われているのだ。いまや問題になるのは、国の工業生産品の洗練と資本主義的商品流通の国際的伸張なのだ。いまやモットーとしてうたわれるのは、文化的進歩と合体した競争能力である25

この分析に従うならば、もはやラスキンやモリスが思い描いていた社会改革の炎は、すでに消え去り、役に立たないものになろうとしていた。しかし実際には消滅したわけではなく、激しい対立の要因として、新設された工作連盟のなかにその後温存されていったのであった。

創設の父であったヘルマン・ムテジウスとフリードリッヒ・ナウマンとアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの三人は、「極めて異なる経歴を背景にもつ人たちであり、基本的な目的においては合意していたものの、政策と組織の問題に関しては、それぞれが独自の見解をもっていた」26。産業化に伴う俗物根性や成金、粗悪な機械生産品が氾濫する社会を文化的危機としてとらえたムテジウスは、単純性や純粋性や品質性といった古くからの価値を擁護しながら、一方でそれを個々人の工芸家やデザイナーに対してというよりは、むしろ産業化社会における生産の主体である製造業者に対して求めていった。楽天的にすぎたかもしれないが、ムテジウスは、模倣や珍奇を生み出している製造業者が倫理的に行動するように改めることによって、単に利益を得ることになるだけではなく、視覚環境の醜悪さから文化的国民性を救い出すことにもなるであろうと考えていた。一方、アール・ヌーヴォーの代表的デザイナーのひとりであったベルギー人のヴァン・デ・ヴェルデは、工作連盟の設立に先立って、一九〇二年にヴァイマルの芸術顧問に、一九〇四年にはその地の新設の装飾芸術学校の教授に任命されていた。ジョン・ラスキンとウィリアム・モリスの実践と社会思想に強い影響を受けていた彼は、すでに絵画から装飾芸術の領域へと活動の場を変え、一九世紀後半の「芸術のための芸術」という考えにも組することなく、モリスの伝統に従った社会主義者であることを自認し、産業化社会にふさわしい新たな装飾と様式を生み出す方向へと歩み出しているところだった。

そしてこのふたりの見解は、ドイツ工作連盟の活動方針にかかわって、一九一四年のケルンでの年次総会において真っ向からイデオロギー的に対決することになったのである。ムテジウスが、機械製品の「規格化」をとおして美的環境の質の回復を求める方針に立ったのに対して、ヴァン・デ・ヴェルデは、機械は個人主義に基づく創造的なデザイナーの行為を著しく制限するものであるとして、ムテジウスの見解に異義を申し立てたのであった。醜悪な視覚環境から大多数の消費者を救い出すために、量産に必要不可欠な「規格化」を認め、そこから統一化された機械製品が生み出される文化の形式と、個人主義的唯美主義に動機づけられてつくり出される、統一性よりはむしろ多様性をその特徴とする文化の形式とのあいだには、明らかに大きな隔たりが存在していた。ムテジウスの陣営とヴァン・デ・ヴェルデの陣営との激しい論争を巡って、ジリアン・ネイラーは、ヴァン・デ・ヴェルデの拒絶の態度とアーツ・アンド・クラフツの精神とを次のように関連づけて、妥当な理解を示している。    

 こうした決定論を拒絶することは、時代の精神に対するアーツ・アンド・クラフツ的拒絶と、デザイナーを人間的諸価値の保護者としてみなすアーツ・アンド・クラフツ的観念とに根ざすものであった。したがって、その結果起こった論争は、一九世紀の態度を要約しているように読めるし、また、二〇世紀のデザイナーの本質と役割についてのその後の論議に向けてのリハーサルのようにも読み取れる27

すでにこの年の展覧会にあっては、ムテジウス陣営の見解が反映された実践が一方では高い評価を呼び寄せていたわけであるが、この論争自体においては、多数の支持が集まったのは、ヴァン・デ・ヴェルデ側の陣営であった。こうして、個人主義を背景とした芸術的理念とエリート主義に基づく工芸的生産観念というデザインにおけるイデオロギーが、ムテジウス的見解と微妙に拮抗しながら、一九一九年のバウハウスの開校まで引き継がれていくことになるのである。

五.アーツ・アンド・クラフツからモダニズムへ

ドイツ工作連盟の内部においてイデオロギー的対立が激化したケルンでの年次総会の翌年、つまり一九一五年に、英国にあってはデザイン・産業協会(DIA)が発足した。明らかにこれは、大陸諸国におけるモダニズムに向けての初期的実践、とりわけドイツ工作連盟の活動がもたらした強い影響によるものであった。大陸に対する遅れの認識が、第一次世界大戦のさなかにもかかわらず、こうした「新しい目的をもった新しい団体」の創設を促したのである。

すでに一九〇八年には、ウィリアム・モリスの思想と実践に倣った、アシュビーの主宰するチピング・キャムデンでの壮大な共同生活の実験も、破綻に見舞われていた。破綻の理由のひとつは、粗悪で廉価な製品を供給する製造業者との激しい競争にあったわけであり、アシュビー自身、デザイナーとして「現代文明は機械に依存している」28ことを認めざるを得ないような、社会的、経済的、教育的状況が英国においても生まれていたのである。

DIAの創設に参加した人は、新しい二〇世紀の文明は一九世紀的文明の延長にあるのではなく、さらに合理的に、しかももっと美しく再建されるべきであるという信念を抱いていた。それは、裏返していえば、不承不承であろうとも、手工芸的生産に代わる機械的生産を容認し、それに基づいて、新たに社会、生活、芸術、教育などの諸形式が再編成されなければならないことを意味していた。初期のパンフレット類に使用されている「新しい目的をもった新しい団体」という表現は、そうした意味内容を抽象的に体現するものであった。抽象的な表現に止まらざるを得なかったのは、参加した多くの人にとって、新しい時代への認識と新しい芸術の形式を求める意志においては同じであったとしても、その具体的内容を描くにはあまりにも大きな一九世紀的遺産を引きずっていたからにほかならなかったからである。彼らは、ウィリアム・モリスの理想と実践に端を発したアーツ・アンド・クラフツ運動の世界で育った人たちであり、まさしく改宗を迫られている状況に置かれていたのである。DIAの創設者のひとりで、その団体の精神的父親としての立場にあったのがW・R・レサビーであった。その経歴が示すように、彼自身、リチャード・ノーマン・ショーのもとでの建築実践を体験したのち、一八八四年の芸術労働者ギルドの創設に参加し、一八九〇年には「優れたデザインと職人技による家具を製作する」ためにケントン商会を起こした、生粋のアーツ・アンド・クラフツのデザイナーのひとりであった。またその一方では、一八九六年に中央美術・工芸学校が設立されると、ジョージ・フレムトンと共同管理者を務め、一九〇〇年からは王立美術大学の装飾・デザイン学科の初代教授として、工芸教育に深くかかわっていた教育者でもあった。

中央美術・工芸学校での教育者としてのレサビーは、モリスの例に倣い、手工芸による実際的な製作を重要視していた。    

 工房環境のなかで直接工具を取り扱う教育に対するこうした強調が、レサビーの哲学の中心をなすものであった。彼にとって、芸術への抽象的で論理的な接近は、水も用意されていない所で幾多の講義によって泳ぎ方を学ぶようなものであった。……大成の学者ではあったが、個人的には控えめな人であり、彼の教育のすべてが啓発することに向けられていた。そうしたなかで、彼は、ウィリアム・モリスの恩義に感謝していた29

その一方で、彼の芸術観は、「芸術とは、普通の料理に付け加えられる特別のソースではない。それは、よいものであれば、料理そのものである。最も単純化し一般化していうならば、芸術とは、 行なう必要の ・・・・・・ あることを ・・・・・ よく行なうこと ・・・・・・・ としてみなされるかもしれない」30というものであった。これは、一九一三年一月の『イムプリント』のなかの「芸術とワークマンシップ」と題された論文でレサビーが述べている言葉であった。DIAの会員たちには、この定義は、実に明瞭さを欠いた謎めいたものに映っていたことであろう。他方でレサビーは、「機械は制御されなければならない」31としばしば繰り返し、工芸的生産から機械的生産への移行を展望したうえでの新たな芸術のあり方を会員たちに指し示すことは最後までできなかったようである。このことは、レサビーひとりの責任に帰されるものではなく、創設からおよそ二〇年間にわたるDIAの苦悩と混迷の総体的現われとして理解されるべきであろう。

まさしく英国にとっての一九二〇年代は、建築同様、工芸の沈滞期であった。この時期は、一九世紀からのアーツ・アンド・クラフツの伝統が徐々に衰退し、しかもいまだモダニズムが明確に出現していない、そのような過渡期の重苦しい時期にあたり、オランダのデ・ステイルやドイツのバウハウス、フランスの純粋主義といったような、大陸における近代運動の高まりからすれば、明らかに英国は大きな遅れを余儀なくさせられていたのである。そうした遅延を解消し、英国の近代運動に明快な指針を提供するうえで、極めて重要な役割を演じたのが、一九三四年に刊行されたハーバート・リードの『芸術と産業』であった。そのなかでリードは、モリスとその追従者たちについて、こうも決然と断罪したのであった。    

 今日われわれがモリスの名前と業績を思い浮べるとき、そこに非現実感がまつわりつく。こうした非現実感は、彼が設定したそのような目標が間違っていたことに起因しているのである。……
 私は、……今日にあってはモリスも、機械の不可避性を甘受するであろうと信じているのであるが、ところが、失われた主義主張を取りもどすための戦いを起こそうとしている昔からの彼の弟子たちが、いまだに見受けられるのである32

そして同書において、リードは、その年にDIAにおいてヴァルタ-・グロピウスが行なった講演原稿を詳しく引用し、その引用のあとに続けて、彼は、「ここに述べられているグロピウス博士の理想を支持し、広めること、ただそれだけが本書における私の切望するところです」33と付け加えているのである。そのときグロピウスは、DIAの会員たちに対して、バウハウスにおける実践と手工芸の将来像について次のように語っていたのであった。    

 バウハウスは、造形のために不可欠な近代的媒体物として機械を受け入れ、機械との協調の道を探求しました。バウハウスの諸工房は真の意味で実験室であり、そのなかで、今日的な品物を対象とした実際的なデザインが、大量生産のモデルとして入念に練り上げられ、絶え間なく改良されていきました。
……いまや手工芸は、その伝統的な本質を変えつつあります。将来にあっては、手工芸の受け持つ分野は、工業生産のための研究的な仕事と……実験室=工房での思索的な実験とのなかに存在することになるでしょう34

この本のなかで述べられていることが、「芸術と産業」についてのリードの最終的な見解ではなかったにしても、確かにこの著作は、いまだ沈滞していた英国における近代運動を加速させるうえでの、またレサビーの哲学にとって代わるうえでの、この時期における最も価値ある福音書となるものであった。しかし、それは同時に、見方を変えれば、アーツ・アンド・クラフツ運動、ひいてはウィリアム・モリスの思想と実践の影響力が、この時期モダニズムによっておおかた遮断されてしまったことを意味するものでもあった。

しかし、そうであるにしても、多くのモダニストたちのデザイン思想が、モリスの思想を源泉として成立していることは、疑いを入れないないであろう。モリスが、中世的精神の崩壊、粗悪な機械製品の氾濫、荒廃する田園、人間の労働を搾取する産業資本などに由来する醜悪さから人間的に価値ある社会と芸術を救い出すために、復古的な手工芸という生産手段をとおして、デザイン改革に挑戦したとすれば、第一次世界大戦からこの時期までの、ポール・グリーンハルジュが規定する「先駆的段階」のモダニストたちは、見せかけの伝統、民族主義による対立、序列化された階級、不平等な富の分配などに由来する醜悪さを打破するために、機械的生産手段を積極的に利用することによって、等質で普遍的な社会的文化的状況をつくり出そうと試みたのであった。そのような意味において、求められた生産の手段と生み出された様式は確かに大きく異なるものの、必要とされた社会的倫理と美を要求する意志については、明らかに両者は共通しており、少なくともこの部分において、モダニストたちはモリスに多大な恩恵を受けているのである。多くの「先駆的段階」のモダニストたちが社会主義者であったということが、そのことを裏づけている。こうして、リードの『芸術と産業』が出版された二年後の一九三六年にニコラウス・ペヴスナーは、『近代運動の先駆者たち――ウィリアム・モリスからヴァルター・グロピウスまで』を出版し、そのなかで、「……モリスからグロピウスに至る段階は、歴史的にみてひとつの単位なのである。モリスが近代様式の基礎を築き、グロピウスによってその性格が最終的に決定されたのであった」35とするモダニズムのデザインの成立過程に関する歴史的系譜を明確にし、モリスに「近代運動の先駆者」としての地位を与えたのであった。

六.近代運動への懐疑と工芸の復興

グロピウスやミース・ファン・デル・ローエ、そしてル・コルビュジエのような人たちによる主張と実践は、「先駆的段階」に続く「国際様式段階」としてのさらなるモダニズムの発展のなかにあって、とくに第二次世界大戦以降、都市の景観を大きく塗り替えることになった。そして一方で、日常に使用されるオブジェクトも、この時期、急速に新しいモダニティーの視覚世界へと置き換えられていった。歴史家のエリック・ホブズボームは、そうした事態をこう分析しているのである。    

 こうしたことは、日常の使用ということに自らの姿勢を投入していたアーツ・アンド・クラフツやアール・ヌーヴォーの運動の遺産に実に多くを負うものであった。またそれは、そのうちの幾人かが量産のためのデザイン革命に慎重に乗り出したロシアの構成主義者たちにも、そしてさらには、(たとえば台所のデザインのような)家庭のなかの近代技術にまさしくふさわしいモダニズムの純粋主義にも、実に多くを負うものであった36

新しい近代精神に基づく生活と芸術の変革を求める近代運動の展開は、日常に使用されるオブジェクトのデザインを確実に変えようとしていた。そして、そうしたモダニズムのデザインは、当然ながら社会の進歩と普遍性の観念を前提にしながら、反歴史主義、機能主義、抽象形態、機械美学、総合芸術といった造形の理念ないしは原理から導き出されたものであった。このことは事実上、モリスとアーツ・アンド・クラフツが標榜していた、手工芸的生産をとおしての装飾芸術の存立基盤をおおかた破壊ないしは変形してしまうことを意味していた。このことについてレイナー・バナムは、一九六〇年に出版した『第一機械時代の理論とデザイン』の初版の「序文」(そののちの版においては新しい「序文」に差し替えられている)のなかで次のように論評しているのである。    

 グロピウスからウィリアム・モリスへ、さらには彼を越え、ラスキン、ピュージン、ウィリアム・ブレイクへと遡行する近代運動の先駆者たちの人的連鎖は、グロピウスからそれ以降へとは進まない。手から手へと伝えられてきた手工芸の美学という貴重なうつわは、下へ落とされ、壊され、そしていまや誰もその破片をわざわざ拾い上げようとする者はいない37

グロピウスが、量産のための実験モデルの製作として手工芸を位置づけ、リードがそれを承認したとき、手工芸は、芸術的にも社会的にも、その伝統的な本来の役割を喪失することになった。そのことは確かに事実であるにしても、そのことへの強調がこれまで左翼陣営の歴史家たちによって強化されてきたことも、また疑いを入れないであろう。   

……[一九八四年の]「今日のウィリアム・モリス」展は、第一次世界大戦以降の発展過程にみられるような工芸運動に左翼陣営がほとんど共感をもっていなかったことを実にうまく体現している。エラン・ハットやハロルド・ストウヴィンのような両大戦間期の左翼に属する歴史家や社会批評家たちにとって、工芸は、慈善活動や……「かわいい手工芸の善意の作品」と不幸にも結び付いていた。一九四八年に共産主義の雑誌である『われわれの時代』に書いていた、歴史家のエリック・ホブズボームにとっては、すでにモリスの革命的な教訓と模範は、「 アーツ・アンド・クラフツ アーティー・クラフティー・ まがいの運動 ムーヴメント 」へと堕落してしまっていたのである38

確かに両大戦間期の工芸は、社会的生産活動とは明らかに形式を異にする、アマチュアリズムに支えられた慈善活動のなかに吸収されるか、建築的総合芸術から離れ、しばしば「美術」の形式に近い個別化された各領域のなかにあって活路を見出すか、そのどちらかの道をおおかた選ばざるを得なかった。そうした工芸のあり方に対して左翼の陣営はあまり共感を抱くことはなかったわけであるが、しかし、一九六〇年後半以降から顕著に認められる近代運動への懐疑の傾向は、そうした意味で閉塞状態にあった工芸の存在に対して新たな復興の道を用意したのであった。

近代運動に対して異議を申し立てようとする人たちの目には、その運動が人間の文化を一義的方向に抑圧する装置として映じていたのである。概して彼らは、効率的機能主義に対して装飾的表現主義を、普遍的国際主義に対して個別的地域主義を、そしてさらに、必要に応じて、機械的生産に対して手工芸的生産の復活を要求したのであった。こうした事態は、新しい生産手段とそれにふさわしいデザインのなかに社会的倫理の発露を見出していた「先駆的段階」のモダニストたちの思惑を明らかに越えるものであった。しかし彼らの時代にあっては、いまだ大量生産が現実のものになっていたわけではなく、資本主義的消費文化ないしは大衆文化との同化作用のなかにあって、それがどのような影響を及ぼすかについて彼らは十分に知りえる立場になかったことも事実であり、したがって、近代運動の負の側面をすべてモダニストたちの責任に帰すことはできないかもしれない。事実モダニストたちは、不必要な消費を誘発するような美学には禁欲的でありえた。しかしそれでも、モダニストたちの理念のなかに「独裁的決定論に帰着する可能性があった」39ことは確かであり、そのことが、ポスト・モダニストたちの批判根拠となったのである。そして、没個性的で画一的な機械的量産の現実に、「独裁的決定論」への反省と過剰な消費への危機意識が投影されて考えられたとき、その論理的帰結のひとつとして、「抑制ある機械の調和に寄せるモダニストたちの信頼」は損なわれ、「量産技術に対する別の接近方法を誘発する」40ことになったのであった。

こうしたポスト・モダニズムの状況下にあった七〇年代から八〇年代をとおして進行する「クラフツ・リヴァイヴァル」の新しい波は、再びモリスを要求しはじめた。ノエル・キヤリントンは、この時期における工芸諮問協議会(現在のクラフツ・カウンシル)に支援された芸術家=工芸家の胎動をモリスとの関連において、こう描写しているのである。    

 こうして……芸術家=工芸家は、経済的に保証された地位を回復した。一般的と思われるであろう傾向とは逆に、すべての時間を費やして製作に向かう男女の工芸家の数が年々増加している。……そうした活動は、ウィリアム・モリスの描いたユートピアを満たしてはいないかもしれない。……しかし、それもこれもすべて、モリスのインスピレイションに由来しているということができる41

そして、戦後の英国を代表するモダニストのインダストリアル・デザイナーのひとりで、王立美術大学の教授であったミッシャ・ブラックも、この時期(一九七〇年)の講演のなかでこう表明せざるを得なかったのである。    

 ヴァルター・グロピウスでさえもが、ドイツのバウハウスの校長であったとき、工芸とインダストリアル・デザインはあい入れないものであることを認めようとはしませんでした。一九二三年に彼は、「古い工房が工業のための実験室へと発展していくであろう」と書いています。いまや周知のとおり、これは絶望的な助言でした。……私の考えでは、工芸は純粋美術の一側面として生き残ることができ、またそうすべきものでありまして、一方、インダストリアル・デザインは、それ独自の自律した正当性を引き受けているのであります42

ここに表明されたブラックの、工芸とインダストリアル・デザインが独自の別個の層に属する創造形式であるとする認識に従うためには、モリスに源を発するモダニズムのデザインの歴史的系譜とは別に、一方でモリスに由来する工芸ないしは装飾芸術の歴史的系譜の存在が改めて想定されなければならない。そしてそこにはふたつの異なる系譜が横たわっているように思われる。ひとつは、エリック・ギルやバーナード・リーチのような、モダン・クラフトの哲学を創案した人びとへと連なる系譜である。概してそうした工芸家たちは、「本来、反技術ではなく、むしろ、資本主義と制度化された労働組織にイデオロギー的に反対する」43立場に立っていた。いまひとつの系譜に属する人びとは、近代運動の影の部分としてこれまで進歩的な歴史家があまり照明をあてることのなかった、大勢のアマチュアを含む個々人の工芸家たちとその保護者たちなのかもしれない。事実ポール・グリーンハルジュは、今世紀の「モリス商会」を例に挙げながら、「民族主義的ナショナリズムへの指南役」としてモリスと彼の作品が利用されたことを指摘しているのである44。前者にみられる物質文化への社会倫理的接近としてのステューディオ・クラフトの歴史であれ、後者のヴァナキュラとノスタルジアを価値とする工芸の歴史であれ、モリスに何らかの霊感を受けた、そうした別の歴史的系譜が明確に存在することになれば、ペヴスナーが特定した「近代運動の先駆者」としてのモリス像は、半面的な真実でしかありえなかったことになる。こうして近代運動の破綻は、ある意味で確定されていた旧来のモリス像に修正を加えることを可能にする余地を結果的に自ら切り開いてしまったのであった。

七.二一世紀へ――グリーン・デザインの相のもとに

他方英国では、八〇年代の後半から九〇年代に至るなかで、過剰な大量生産と大量消費に支えられた現行の社会的、技術的、文化的構造に対する危機意識と批判が一面でさらに増幅していった。デザインの世界にあっては、それは、「市場誘導型デザイン」ないしは「消費誘導型デザイン」に取って代わる「グリーン・デザイン」という観念でもっていい表わされた。この「グリーン・デザイン」には、総じて、環境や資源の限界を逸脱した生産=消費構造からの脱却、高度に細分化した労働から全体的に把握可能な労働への転換、オブジェクトの量的所有の豊かさから質的使用の喜びへの脱皮、自ら制御可能な生活形式の創出といった幾つかの重要な視点が含まれていた。ナイジェル・ホワイトリーは、とくにグリーン主義者の労働観について次のような分析をしている。    

 マルクス主義者や社会改革者たちは、給料袋の「麻酔」では、断片化され、疎外された非人間的な労働を穴埋めすることはできないという論議を長いあいだ行なってきた。幾つかの企業では、職務にある程度の幅の広さを導入することによって、単調さを減少させる試みがなされた。……しかし、多くのグリーン主義者たちは、根本的に不完全なシステムの表面上の取り繕いとして、これを退ける。……
 別の人たちのなかには、ロボット化が、精神性を欠いた型どおりの仕事への回答になると仮定する者もいるが、自動化の増大が失業を招くことへの影響はよく知られている。こうした考えに立つ一部のグリーン主義者たちは、……最も基幹をなす自動化された大量生産のプロセス以外はすべて拒絶し、……本質的には工芸に基盤を置く生産手段へもどることを求めようとする。他のグリーン主義者たちは、「二層の経済」という考え方を好む。こうした経済にあっては、一方では、広範囲に自動化された、芸術の状態にある大量生産の手法が、それと並行してまた一方では、つくり手に満足を与えるような、高度な技術に到達した、しばしば労働集約型の工芸か手による生産のプロセスが、社会のありふれた日常品目を生産するために用いられることになる45

こうした労働と生産への展望は、当然ながら、過去へさかのぼれば、一世紀前のモリスへと行きつく。事実ホワイトリーも、「双方のグループとも、自分たちの指導者としてウィリアム・モリスを要求している」46ことを認めている。グリーン・デザイン運動は、明らかにモリスの手本に倣った「産業主義」への拒絶であり、基本的には工芸的手段をとおしての「人間的に自然な」労働と生活の再編へ向けての実践として現在進行しているといえよう。

ひとつの社会の政治とデザインのあいだには分かちがたい緊密な関係があることを、したがって、社会倫理に由来する一方の改革運動は避けがたくもう一方の改革運動に連動することを、実践と思想の双方において最初に提示したひとりが、ウィリアム・モリスであった。そして、これまでに述べてきたように、デザインをひとつの改革運動とみなす視点に立った場合、二〇世紀の英国デザインの歴史は、まさしく「ウィリアム・モリス」を巡る歴史そのものでもあった。「モリスの影響は大きくて長く、それ自体一つの歴史である」47と小野二郎が書いたのは、一九七三年のことだったが、その歴史は、グリーン・デザイン運動というかたちをとおして、いまや二一世紀のデザインの歴史のなかへと確かに足を踏み入れようとしているのである。

(一九九八年)

(1)Paul Greenhalgh, 'Morris after Morris', in Linda Parry (ed.), William Morris, Philip Wilson Publishers in Association with the Victoria and Albert Museum, London, 1996, pp. 362-367.

(2)Tanya Harrod, 'Paradise Postponed: William Morris in the Twentieth Century', in William Morris: Questioning the Legacy, Whitworth Art Gallery, Crafts Council, Birmingham Museum and Art Gallery and Authors, 1996, pp. 5-23.

(3)Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, pp. 671-672.

(4)Ian Bradley, William Morris and His World, Thames and Hudson, London, 1978, p. 116.

(5)Christine Poulson, William Morris, Quinted Publishing, London, 1989, p. 120.[ポールソン『ウィリアム・モリス』小野悦子訳、美術出版社、1992年、120頁を参照]

(6)Ibid., p. 120.[同訳書、120頁を参照]

(7)Fiona MacCarthy, op. cit., p. 672.

(8)Paul Greenhalgh, op. cit., p. 362.

(9)E. P. Thompson, William Morris: Romantic to Revolutionary (1955), Pantheon Books, New York, 1976, pp. 1-2.

(10)たとえば、木村正身「ウィリアム・モリス解釈の新段階」『香川大学経済論叢』第29巻第5号、香川大学経済研究所、1957年、39-41頁を参照。

(11)Fiona MacCarthy, 'E. P. Thompson: 1925-1993', in The Journal of the William Morris Society, vol. X, no. 4, Spring 1994, p. 4.

(12)Paul Greenhalgh, op. cit., p. 363.

(13)E. P. Thompson, op. cit., p. 730.

(14)Quoted in Lionel Lambourne, Utopian Craftsmen: The Arts and Crafts Movement from the Cotswolds to Chicago, Astragal Books, London, 1980, p. 40.[ラバーン『ユートピアン・クラフツマン』小野悦子訳、晶文社、1985年、66頁を参照]

(15)Gillian Naylor, The Arts and Crafts Movement (1971), Studio Vista, London, 1980, p. 120.

(16)Lewis F. Day, Every-Day Art: Short Essays on the Arts Not Fine (reprint of the 1882 ed. published by B. T. Batsford, London), Garland Publishing, New York and London, 1977, pp. 5-6.

(17)Gillian Naylor, op. cit., p. 121.

(18)See Stuart Macdonald, The History and Philosophy of Art Education, University of London Press, London, 1970, pp. 292-293[マクドナルド『美術教育の歴史と哲学』中山修一・織田芳人訳、玉川大学出版部、1990年、388-389頁を参照]

(19)J. W. Mackail, The Life of William Morris (originally published in two volumes by Longmans, Green, and Co., London, in 1899), Dover Publications, New York, Two Volumes Bound as One, 1995, vol. II, p. 200.

(20)Lionel Lambourne, op. cit,. p. 32.[ラバーン、前掲訳書、54頁を参照]

(21)J. D. Sedding, Art and Handicraft (reprint of the 1893 ed. published by Kagan Paul, Trench, Trubner, London), Garland Publishing, New York and London, 1977, pp. 116 and 118.

(22)See Hermann Muthesius, The English House (first published as Das englishe Haus by Wabmuth, Berlin in 1904 and 1905, 3 volumes), trans. Janet Seligman, BSP Professional Books, London, 1987, pp. 13-15. (This English language edition is a slightly abridged version of the second edition consolidated into one volume.)

(23)Ray Watkinson, William Morris as Designer, Studio Vista, London, 1967, p. 78.[ワトキンソン『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』羽生正気・羽生清訳、岩崎美術社、1985年、144頁を参照]

(24)Joan Campbell, The German Werkbund: The Politics of Reform in the Applied Arts, Princeton University Press, Princeton, New Jersey, 1978, p. 3.

(25)ゲルト・ゼレ『デザインのイデオロギーとユートピア』阿部公正訳、晶文社、1980年、102頁。

(26)Joan Campbell, op. cit., p. 11.

(27)Gillian Naylor, The Bauhaus Reassessed: Sources and Design Theory, The Herbert Press, London, 1985, p. 43.

(28)C. R. Ashbee, Should We Stop Teaching Art?, Batsford, London, 1911, p. 4.

(29)Thereas Gronberg, 'William Richard Lethaby and the Central School of Arts and Crafts', in Sylvia Backemeyer and Theresa Gronberg (eds.), W R Lethaby: 1857-1931, Architecture, Design and Education, Lund Humphries, London, p. 17.

(30)Quoted in ibid, pp. 17-18.

(31)Noel Carrington, Industrial Design in Britain, George Allen & Unwin, London, 1976, p. 41.[キャリントン『英国のインダストリアル・デザイン』中山修一・織田芳人訳、晶文社、1983年、52頁を参照]

(32)Herbert Read, Art & Industry: The Principles of Industrial Design (1934), Faber & Faber, London, edition of 1956, pp. 47-50 and 51.[リード『インダストリアル・デザイン』勝見勝・前田泰次訳、みすず書房、1957年、50および54頁を参照]

(33)Ibid., p. 63.[同訳書、65‐66頁を参照]

(34)Ibid., pp. 62-63.[同訳書、67頁を参照]

(35)Nikolaus Pevsner, Pioneers of Modern Design (first published by Faber & Faber in 1936 as Pioneers of the Modern Movement), Penguin Books, London, edition of 1981, p. 39.[ペヴスナー『モダン・デザインの展開』白石博三訳、みすず書房、1957年、28頁を参照]

(36)Eric Hobsbawm, Age of Extremes: The Short Twentieth Century, 1914-1991 (1994), Abacus, London, 1995, pp. 185-186.

(37)Reyner Banham, Theory and Design in the First Machine Age, The Architectural Press, London, 1960, p. 12.[バンハム『第一機械時代の理論とデザイン』石原達二・増成隆士訳、原広司校閲、鹿島出版会、1976年、5頁を参照]

(38)Tanya Harrod, op. cit., p. 6.

(39)Paul Greenhalgh, 'Introduction', in Paul Greenhalgh (ed.), Modernism in Design, Reaktion Books, London, 1990, p. 19.[グリーンハルジュ編『デザインのモダニズム』中山修一・吉村健一・梅宮弘光・速水豊訳、鹿島出版会、1997年、21頁を参照]

(40)Ibid., p. 23.[同訳書、25頁を参照]

(41)Noel Carrington, op. cit., p. 186.[前掲訳書、272頁を参照]

(42)Avril Blake (ed.), The Black Papers on Design: Selected Writings of the late Sir Misha Black, Pergamon Press, Oxford, 1983, pp. 201-202.[ブレイク編『デザイン論――ミッシャ・ブラックの世界』中山修一訳、法政大学出版局、1992年、204-205頁を参照]

(43)Paul Greenhalgh, 'Morris after Morris', op. cit., p. 366.

(44)See ibid., p. 364.

(45)Nigel Whiteley, Design for Society, Reaktion Books, London, 1993, pp. 66-67.

(46)Ibid., p. 67.

(47)小野二郎『ウィリアム・モリス――ラディカル・デザインの思想』中公新書、1973年、192頁。