中山修一著作集

著作集1 デザインの近代史論

第三部 英国デザインの近代

第五章 ミッシャ・ブラックの著作を訳す

半年の英国での研究と、それに続く一箇月間のヨーロッパ旅行を終えて、四月末に帰国した。外国での生活を振り返りその余韻に浸る間もなく、もう夏休みである。大学の教師にとって夏休みは決して「休み」ではない。常日頃の勉強の不足を取りもどす、一年で唯一まとまった時間なのである。今年の夏は天候不順で雨の日が多いが、それでも夏は夏であって、暑い。

この夏取り組んでいるのは、翻訳の仕事である。『デザイン論――ミッシャ・ブラックの世界』【図一】という本で、内容は、英国のインダストリアル・デザイナー、ミッシャ・ブラックが生前に書き残したデザインについての論文や講演原稿を集めたものである。日本の専門家のあいだでもブラックを知る人は意外と少ない。しかし、英国デザインの近代運動のなかにあって、彼ほど能力があり、人から信頼を受けたデザイナーはいない。一九五七年に王立芸術協会の「ロイヤル産業デザイナー(RDI)」の称号が、一九七二年には「ナイト」の爵位が彼に与えられたことが、そのことを物語っている。さらに今日にあっては、ミッシャ・ブラック・メダル【図二】が制定され、国の内外を問わず、デザイン教育にかかわって顕著な業績を残した人に贈られている。

ところで、翻訳の仕事である。人の書いた文章を日本語に直すだけなのだから、とても創造的な仕事とはいえない。ところが思いのほかそれが難しい。翻訳の命は、当然、正確で読みやすく美しい文章である。しかし実はこれが難しい。辞書に出ている日本語を単に文法に即してつなぎ合せてみても、正確なものになるとは限らない。まして読みやすい文章からは程遠い。英語以上に日本語のリズムを熟知していなければならないのである。日本人なのに、美しい日本語を何と理解していないことか。暑さにも増してこの難解さ、ついつい放棄したくもなる。

しかし、ロンドンで著者の未亡人であるレイディー・ブラック(ジョアン・ブラック)さんに会ったとき、「夫が日本からのおみやげとして買ってきたものなの」といいながら見せてくれた、何の飾り気もない静かに金色に光る指輪と、人懐っこい笑顔を思い出すと、そうもいってはいられない。一日も早く訳出を終えて出版したいものである。

(一九八八年)

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図1 Avril Blake (ed.), The Black Papers on Design: Selected Writings of the late Sir Misha Black, Pergamon Press, Oxford, 1983 の表紙。

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図2 ミッシャ・ブラック・メダル。このメダルは、産業美術家・デザイナー協会(SIAD)、王立美術大学(RCA)、王立芸術協会(RSA)ロイヤル産業デザイナー部会、デザイン・産業協会(DIA)の4つの団体が共同スポンサーとなって授与されている。すでにサー・ウィリアム・コウルドストリーム、サージ・シェルマイエフ、マックス・ビルが受賞している。メダルの画像は、DIA YEARBOOK 1986 から複製。

(1)Avril Blake (ed.), The Black Papers on Design: Selected Writings of the late Sir Misha Black, Pergamon Press, Oxford, 1983. 翻訳書は、ブレイク編『デザイン論――ミッシャ・ブラックの世界』中山修一訳、法政大学出版局、1992年。