今日、一九世紀後半以降のデザイン運動やデザイン理論を考察する場合、ジョン・ラスキンの芸術に対する考え方とウィリアム・モリスのデザイン実践活動を中心とした、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動を動かすことはできない。しかし、その影響を受けながらも、機械文明の肯定という二〇世紀的視点をもったデザイン運動体は、引き続きイギリスにおいて生まれるのではなく、大陸のドイツにおいて新しく登場するのである。周知のように、一九〇七年にミュンヘンにおいて結成されたドイツ工作連盟がそれであった。ヘルマン・ムテジウスを代表者とするこのドイツ工作連盟のデザイン思想は、アーツ・アンド・クラフツ運動のそれと幾つかの点で一線を画するものであったが、とりわけ、製品の「質」の問題を問う場合において、いっそう明確なものとなった。その違いについては、生産手段が手であったときの「質」の問題に代わって、機械生産における「質」の問題に言及したムテジウスの一九一四年のケルンでの総会の講演のなかに、はっきりと読み取ることができるであろう。手から機械へと生産手段が移行することは、製品の量的拡大と、標準化の積極的推進とを意味すると同時に、個人主義的な製作態度から脱し、集団主義的な考え方へと変化していくことを意味していた。一般にこのような理由から、ドイツ工作連盟の結成をもって、デザイン史上のひとつの転機とみなし、近代デザイン(モダン・デザイン)のスタート地点としての位置が与えられているのである。
それでは、なぜイギリスは、近代デザインの流れにおいてドイツに遅れをとったのだろうか。また、その遅れに気づいたイギリスは、どのようにして、近代デザインを啓蒙し、活動を展開していったのだろうか。
以上のような疑問を視野に入れながら、イギリスにおけるデザインの近代運動の中核的役割を果たすことになったデザイン・産業協会(DIA)について検討することが本研究の目的となる部分である。
一九一五年のデザイン・産業協会(DIA)の創設の経緯に触れる前に、生産手段が人間の手から機械へと移行していくなかで、建築家や工芸家たちは機械に対してどのような態度を示したのかを概観しておく必要があるだろう。というのも、のちほどDIAのデザイン理念を検討する場合に――すなわち、DIAは一九世紀的なものの何を継承し、何を否定しようとしたのかを検討する場合に――必要とされる主題だからである。しかしながら、一九世紀を語り尽くすことは能力を越えるものであり、同時に本研究の主要な目的でもないので、ここではさしあたり、機械生産が進行していく時代にあって、それを積極的に受け入れようとした人たちと、あくまでも機械を不信の目で見続けた人たちについての簡単な記述に止めておくことにしたい。
現在人びとが享受している機械文明は、周知のように、産業革命以来急速に発展したものである。産業革命初期における機械の役割は、綿工業の工程を加速することに限られていた。はじめのうちは、そのエネルギーとなるものは水力に頼っていたが、機械の工夫や改良が進むにつれて、エネルギー集中の必要性が増し、蒸気エンジンが発達していった。このように機械が、より大きく、より複雑化していくことによって、従来からの小屋式産業は次第にその姿を消していくことになる。このような社会状況のなかにあって、一九世紀のイギリスでは、機械が人間の手に取って代わりその優位性が顕著になるも、その一方で、機械に対する不信感も増長されていくのである。産業主義に対する抗議や否定の態度は、一八一一年のラッダイト運動や一八三〇年代の都市での機械破壊といった社会現象を誘発し、また、パーシー・B・シェリーやウィリアム・ブレイクなどの文学者たちは、作品をとおして、産業がもたらす悲劇を予言した。
それでは、当時の建築家や工芸家たちは、機械に対してどのような態度を取ったのだろうか。
機械が、人間の価値や美的価値の後退を強いるものであると判断する人たちにとっては、機械は否定されなければならなかった。しかし、その態度においては決して一様ではなかった。このことについて、ライオネル・ラバーンは、ウォールター・クレインの一八六九年の一枚の絵《三つの道》を用いて説明している。この絵には、中央に三人の若者(求婚者たち)が立ち、ちょうど立っている地点から道が三つに分かれていて、後景の(ひとりの姫がいる)険しい森のなかの城へと続いている様子が描かれている。ラバーンは、この絵を「一九世紀の人びとの反応の三つの主要な要素を説明するのに役立つ視覚的暗喩として利用できる」1としながら、第一の道を、「中世の秩序ある社会にもどる道」であり、第二の道を、数多くの教育機関を設立することによって「産業生産品の水準と生活とを改善する道」であり、第三の道を、「社会主義者のユートピアへ至る道」である、と解釈している。換言すれば、その三つの道とは、A・W・N・ピュージンに導かれたゴシック・リヴァイヴァルがたどろうとした道、社会教育にその方向性をもったコウル・サークルがたどろうとした道、思想家としてのラスキンと実践家としてのモリスがたどろうとした道、の三つであるというのである。そして、続けて彼は、「しかしながら、これらのすべての思索家たちは、共通して、根本的なそして互いに関連し合うふたつの関心事をもっていた。労働者の運命、そして、機械生産のデザインとその低い水準であった」2と述べ、一九世紀の思想家や製作者たちの精神的底流をなすものが何であったのかを指摘している。
ラバーンがいうとおり、幾つかの方法があったにせよ、全体としては一九世紀後半の工芸家たちの多くは、機械生産によるデザインの質の低下を回復する方法として中世のギルド社会を理想とした歴史主義的態度を、また、機械による生産では製作(労働)の喜びは失われるという判断から手による製作を尊重する個人主義的製作態度を取ろうとしたのである。そして、いうまでもなくこの姿勢こそが、アーツ・アンド・クラフツ運動の底流に横たわる基本思想であり、その理念のもとに、一八六一年にモリス・マーシャル・フォークナー商会が、一八七一年にラスキンによってセント・ジョージ・ギルドが、一八八二年にA・H・マクマードウによってセンチュリー・ギルドが、一八八四年にセント・ジョージ芸術協会を母体として芸術労働者ギルドが、さらに一八八八年にはC・R・アシュビーによって手工芸ギルド・学校が設立され、こうしたなかから、実践的な活動が行なわれていくのである。各々のギルドの性格は別にして、このような工芸製作組織や芸術運動体の芸術観は、芸術を社会から遊離した超越的存在とは考えず、常に芸術のあり方をその人の生き方との関連のなかでとらえ、倫理的な側面をもつことで共通していた。したがって、その目指すところは、アシュビーのコッツウォウルドでの実験がそうであったように、製作することと生活することと教育することとが分離することなく有機的に結合した世界観の達成だったのである。
一方、機械化と産業化が進行していく一九世紀のイギリスにおいて、機械の特質、機能的な造形、それに、生産工程からのデザインの分離を認めようとした工芸家たちが全くいなかったわけではない。ジョン・へスケットは、商業的価値と美的価値を調和させる可能性を示した人物としてクリストファー・ドレッサーを挙げている。ドレッサーはロンドンのデザイン学校で学んだのち、植物学の教師として出発した人であるが、一八六〇年前後、幾つかの製造業者からの依頼があったことを機会に、教師を辞め、デザイン活動に没頭することになる。彼は、オウイン・ジョウンズの影響を受けながらも、過去の様式を現在の要求に適応させるというジョウンズの折衷主義的デザイン観から一歩踏み出し、自然の形の幾何学的、構造的原理を分析することによって、歴史主義的造形観をいちはやく拒否した人だった。へスケットは、ドレッサーの作品を「彼の上品な幾何学的外形は、過去の様式にとらわれることなく、製造と使用の容易性に細心の注意を払い、機能を綿密に分析した結果に基づいた簡素性によって特徴づけられる」3と評している。ドレッサーの作品のなかには、明らかに、歴史主義を否定したところに得られる機能性、単純性、それに経済性といった二〇世紀的視点の萌芽が見受けられる。このような観点から一九世紀を見た場合、同じような例をノエル・キャリントンは、アレグザーンダ・モートンとジェイムズ・モートンの親子に求めている。アレグザーンダ・モートンは、一八六〇年ころ、家庭的な織物工業の共同体に属していた。ところが、機械による生産がいつかはこのような小屋式産業を破滅に追いやることに気づいたアレグザーンダは、周囲からの反対にもかかわらず、機械と蒸気機関を導入した工場を設立するのである。この段階で、デザイン、生産、販売といった分離が必然的に起こり、彼は、これまでの一介の職工から、雇い主とセールスマンの二役に変ずるのである。しかし、彼が織物に使用したパタンは、これまで旅をしながら集めた伝統的意匠の数々によるものだった。彼の息子ジェイムズは、父親が織物のパタンを伝統的意匠に求めたことに満足せず、それを、新しくつくるパタンのためのインスピレイションの源とみなした。ジェイムズはC・F・A・ヴォイジーに近づき、彼の単純化された自然からの抽象形態によるデザインを織物のパタンに採用する。するとその作品が、一八九六年のアーツ・アンド・クラフツ展覧会で受け入れられることになる。キャリントンは、モートン親子のこのような職人と産業の協同という動きをとらえて、モリスたちの活動よりもはるかに近代デザインを用意するものであった、とみなしている。
これまで、一九世紀に生きた工芸家たちの機械に対して示した幾つかの態度を簡単に見てきたが、概していえば、「イギリスのデザインに対する姿勢を支配していたのは、ラスキン、モリス、そしてアーツ・アンド・クラフツ運動の反産業的思想のなかで具体化した伝統の力だった」4ということになるだろう。萌芽的ではあったが、将来の発展への決定的な出発点を用意したとみなされるドレッサーやモートン親子でさえも、アーツ・アンド・クラフツ運動の精神や芸術観から完全には抜け切っていなかったからである。一九世紀後半の多くの芸術家=工芸職人の多くは、ラスキンにみられる芸術観――すなわち、芸術とは、人間の信仰を強め、倫理的状況を完成へ導き、人間にとって具体的に役に立つものである――に多かれ少なかれ影響を受けていた。そうであったがゆえに、アール・ヌーヴォーの誕生をマクマードウのセンチュリー・ギルドに求めることができるとしても、その開花は大陸に譲ることになるのである。芸術を社会的関連性のなかで認知しようとするイギリスの芸術観は、個人の内面に潜む美意識や世界観を表現したアール・ヌーヴォーを全面的に受け入れることができず、抑制のきいたものにしている。そのような理由から、キャリントンは、今日から世紀末を見た場合、アール・ヌーヴォーの芸術家=工芸職人への影響を認めながらも、「インダストリアル・デザインを研究する立場からいえば、アール・ヌーヴォーは私たちにそれほど密接な関わりはない」5と言い切るのである。同じく、近代デザインの立場に立って、アーツ・アンド・クラフツ運動を評価するひとつの視点-―すなわち、「一九世紀後半に国内や国外であのような測り知れない影響をもったその運動の全貌は、その起こりが、ひとりの人間における芸術的天才と多方面にわたる手の器用さとのありようもない組み合わせから生じたことを考えても、まさに、最も異常としかいいようのない歴史上の偶発事故か奇跡ではなかったか」6――が生まれてくるのも、世紀が変わり二〇世紀になってからのことなのである。これから述べる内容は、二〇世紀に入り、アーツ・アンド・クラフツ運動から巣立ち、それを乗り越えようとしたDIAの人たちの活動と理念についてである。
世紀末から今世紀初頭にかけて、アシュビーのギルドはチッピング・キャムデンに移転してから六年後に破綻に見舞われ、アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会のトリエンナーレ展は内容的にも財政的にも行き詰まるようになり、また、協会内部には、その閉鎖的製作態度や沈滞に不満を抱く者や、改革を主張する者が現われるようになった。美の存在を精神と手工芸の一致のなかに見出し、その理想を中世のギルド社会に置いたアーツ・アンド・クラフツ運動は、理念の面でも、実践の面でも、財政の面でも、次第に破綻や沈滞を見せるようになり、生産手段としての機械の位置づけを巡っての対立が顕在化するようになってきた。もちろん、反感の持ち主たちも、ラスキンやモリスの考えに影響を受け、アーツ・アンド・クラフツ運動のなかで、またアール・ヌーヴォー期にあって、育った人たちであったが、しかし彼らは、機械の存在はもはや否定することができないものであり、それによって生み出される機械様式こそ今世紀の様式であり、生活上の価値基準である、という考えにたどり着いたのである。この考えは、「工業製品の良質化」を合い言葉に一九〇七年に結成されたドイツ工作連盟のデザイン理念に強く影響を受けたものだった。ドイツ工作連盟は、今世紀初頭、いちはやく、標準化と無名性を伴った機械化による大量生産の容認という近代デザインの精神に到達していたのである。この近代デザインの精神は、とくに一九一四年のケルンでの工作連盟展において、ヴァルター・グロピウスがデザインした近代工場のモデルと、ブルーノ・タウトがデザインした革命的なガラスの家のふたつの展示作品によって見事にまとめ上げられたといえるだろう。デザイン・産業協会(DIA)の創設の父たちと呼ばれるハロルド・ステイブラー、アムブロウズ・ヒール、セシル・ブルアー、ハリー・ピーチたちに、これこそがイギリスにおけるデザインの未来であると確信させ、イギリスにも同種の団体が必要であると決意させたものは、まさに、このケルンでの博覧会を見学したことによるものだった。それはちょうど、イギリスとドイツが戦争に突入する二箇月前の出来事だった。帰国後七名からなる暫定委員会が設置され、最初の会合も開かれた。新しい団体の発足の準備をする一方で、八月の宣戦布告後、戦争が進行していた。しかしその戦争は、発足を遅らせるのではなく、促進させる作用をしたのである。戦争が進むにつれて、産業経営者たちや政府は、あらゆる点で自国製品がドイツ製品に遅れていることに気づき、その認識は一段と深刻なものになっていた。そこで商務省は、イギリスの製造業者に見せる目的で、ドイツ製品の収集物を展示する企画を考えたのであった。その機会をとらえたピーチたちは、その展示会にはドイツ工作連盟の製品も展示に加えてほしい旨の覚え書きを、商務省のヒューバート・ルエリン・スミスに提出した。彼はそれに同意し、さっそく収集品が政府関係筋から、また、ピーチがドイツから持ち帰っていたもののなかから集められ、一九一五年三月、ロンドンのゴウルドスミス・ホールで展示されることになった。そのとき発行された政府刊行物には、ドイツ工作連盟についての言及とともに、イギリスにおける同種の団体の必要性を示唆する記事が掲載されたが、このことは、DIAの発足を控えてさいさきのよいものとなった。それから二箇月後の一九一五年五月に、DIAの発足会がグレイト・イースタン・ホテルで、議長席にアバコンウェイ卿を迎えて開催され、公式のアピールが採択されたのである。翌六月には七八人が、その年の終わりまでには二〇〇人近くが加入し、戦争が終結するまでには、会員数は四〇〇人を数えるまでになっていた。会員の大半は、アーツ・アンド・クラフツの諸団体から引き抜かれた人たちと、モリス、フィリップ・ウェブ、それにG・E・ストリートなどの思想を受け継いだ建築家たちから構成されていた。彼らが共通にもっていたものは、「文明は、自分たちが一九世紀から引き継いできたものよりも、もっと合理的で、もっと効果的で美しいものとして建設されうるはずである」7という確信であり、この確信こそが、「大戦の最中にもかかわらず、ただちに行動に移す力として作用した」8のであった。これよりイギリスでは、民間団体であるDIAを中心として、近代デザインの啓蒙運動が展開されていくことになるのである。
DIAを創設した人たちは、この協会のことを「新しい目的を持った新しい団体」と呼び、初期のDIAのパンフレット類のなかのひとつの標題にもなっている。この「新しい目的」こそが、DIA運動の理念となるものであったが、内容は、目的に適合したデザインの推進ということだった。そのことはすなわち、ヴィクトリア時代の過剰装飾を「意味のない装飾」として否定し、それに代わって、デザインを素材、生産過程、使用目的といった全体的な系で考えるなかから生まれてくる効率性、経済性、機能性といった価値観の出現を意味していた。しかし、「目的への適合」といっても、そのような信条の解釈が「その後の一〇年あまりものあいだ、長期にわたる真剣な討議課題だった」9ことから推察できるように、創設からしばらくは、DIAの人たちでさえも十分な共通の理解をもっていたわけではなかった。まして、製造業者や大衆においてはなおのことであった。DIAの主張と、当時の製造業者のあいだにみられたデザイン意識とのずれを、創設初期のDIA展をとおして見出すことができる。最初の展示会は、印刷に関するもので、ホワイトチャペル・アート・ギャラリーで挙行された。二回目の展示会は、マンチェスター・アート・ギャラリーで開催され、展示物は染織物に限定された。三回目の機会は、アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会からの、トリエンナーレ展の期間中会場の一部を提供する旨の申し出を受け入れることによって実現した。その展覧会はバーリントン・ハウスで行なわれ、DIAは、「目的への適合」という基準を厳格なまでに適用し選抜された家事用陶器を展示した。ところがここで、思わぬ数々の障害にDIAはぶつかったのである。マンチェスターでは、展示見本を求めるDIAの要請を全く無視することによって製造業者たちは選抜デザイン展の考えに抵抗を示したし、同様に、ストウク=オン=トレントでは、ロンドンを拠点とするグループが生意気にも地元陶工の製品に意見を述べたということで、大騒ぎになったのである。しかし、これほどの抵抗にあいながらも、DIAの人たちは自分たちの理念を放棄することはなかった。会員たちは、討論会を計画し、国中を講演して回り、また機関誌も発行していた。当時十分に認識されていなかったものの、DIAの人たちは、「目的への適合」や「効率性の様式」を説くことによって、単に製品の形態上の問題だけに止まらず、その当時の生活のあり方や文明のあり方にまで言及しようとしていたのである。そうしたなかにあって、伝統的な工法や意匠にいまだに頼っていた業界や、アーツ・アンド・クラフツの思想にいまだに忠実であった芸術労働者ギルドの人たちが、DIAのデザイン理念を理解するどころか、疑いの目で見詰めたのは確かである。まして大衆にとっては、また、高等教育を受けた階層の人たちにとってさえも、一九二〇年代までは、よい趣味という言葉は骨董趣味と同義語であり、このことが、DIAの啓蒙運動の努力の前に立ちふさがっていたのである。キャリントンは、「この影響[骨董収集の熱狂]は、インダストリアル・デザインに関するどのような研究においても強調される必要がある」10と述べている。電気照明器具、電気ストーブ、あるいはラジオなどの新しい発明品にさえも、時代物の意匠を着せたデザインを施していたし、建築においても、ほぼ同様のことがいえた。DIAは、近代デザインの意味を製造業者に伝え、それによって導き出される生活のあり方を大衆に教育する以前の問題として、その当時の社会的、美的価値観(趣味の問題)と闘わなければならなかったのである。
しかし、DIAの人たちは、それにふさわしい自信をもって近代デザインの原理について発言をすることができた。というのは、はじめのうちは、彼ら自身が、製造業主や店主としての実践家であり、DIAの思想を目に見えるかたちで表現することができたからである。二〇年代の運動で重要と思われる人たちのなかには、ドライアッド工房(籐家具と金工)のハリー・ピーチ、銀細工師で、プール陶器会社の理事でもあったハロルド・ステイブラー、ヒール商会のアムブロウズ・ヒールらがいた。どの人もDIAの創設の父と呼ばれる人たちである。また、テキスタイルの分野では、モートン商会のジェイムズ・モートン、フォックストン商会のウィリアム・フォックストン、印刷の分野では、カーウィン・プレスのハロルド・カーウィン、ナンサッチ・プレスの創設者であるフラーンシス・メネル、家具の分野では、ゴードン・ラッセルがいたし、アーネスト・ジムスンの影響もこのころ現われはじめていた。
それでは、彼らに代表される二〇年代のDIAの平均的な美的価値観とはどのようなものだったのだろうか。彼らは、素材に対する率直さと誠実さを賞讃する一方で、仰々しさ、凝りすぎ、それに、にせものをひどく嫌った。DIAの理念はアーツ・アンド・クラフツと一線を画するものであったものの、「確かな職人技」とか、「素材に対する敬意」とかいうものは基本的信条として確かに受け継いでいたのである。このような信条が根底にあったことによって、DIAは、極端な反伝統主義的な態度に陥ることはなかった。したがって、彼らが非難の対象としたものは、伝統的なものを持ち合わせていない表現主義的なものだった。ヴァイマルでの発展さえも、当時わずかな興味しか呼び起こさなかったことや、一九二五年に開かれたパリ現代装飾・産業美術国際博覧会の特徴となったジャズ的雰囲気とキュビスムからも感化されることが全くなかったことからも判断できるように、異国趣味、未知なるもの、それに、極端な機械化については、決して進んで受け入れるようなことはなかった。彼らの目には、黒人音楽、「目ざわりな模様」、ロシアからのバレエ、そして、オメガ・ワークショップが、凝りすぎで、にせものとして映ったのである。DIAのデザイン精神にとって、中世を理念とする歴史主義、また、それによって引き出された骨董趣味と古代物保護運動が闘いの的であったことは確かであるが、それと同時に、表現主義的なものや機能主義的なものが、けばけばしいものである、極端すぎる、と感じられるほどのものであれば、それもまた非難の対象となったのである。ニコラウス・ぺヴスナーは、「この時代を理解するためには、簡潔さと適合性を求める主張はドイツ工作連盟を目ざすのと同じ位にアーツ・アンド・クラフツ運動の目ざすものであり、そしてまたアーツ・アンド・クラフツ運動を目ざすのと同じ位にジョージ朝時代の先例に倣うものであったことを、常に銘記しておかなければならない」11ことを指摘し、さらに「DIAは長いあいだ、自らが何に属するのかを知らなかった」12と断言している。すなわち、DIA創設以来の一〇年間は、「自分たちの目標、すなわち、国家的改良という自分たち英国クラブ員の理想像を追い求めることに熱心」13なあまり、その結果、その間イギリスには、国際的な近代運動が入り込むことはなかったのである。
DIAがヨーロッパの他の国々とのあいだでその主張を競う機会が訪れたのは、やっと一九二七年になってからであった。一九二七年にライプツィヒ工芸博覧会の開催を予定していたドイツは、アーツ・アンド・クラフツ運動の発祥の地であるイギリスを職人技における質の保護者とみなし、イギリスの出展を依頼してきた。しかし、イギリス商務省は、あいまいな理由にもかかわらず、その申し出を断わる態度を示し、そこで、国に代わって民間団体であるDIAが個人的な寄付金を頼りに、ライプツィヒでの展示品の選抜とディスプレイに関する責任を負うことになるのである。DIAは当然ながら工業製品の出品を予定していたが、予期せぬことに、多くの製造業者は出品依頼の申し出に難色を示し、したがって出品物は工業製品から工芸品の方へと着実に傾いていき、「産業におけるデザイン」の啓蒙を理念とするDIAは選抜の段階からつまずくことになるのである。その結果、出品された品物は、工業製品、美術工芸品の雑多なものになり、そのなかに、「目的への適合」という近代デザインの理念に対して明確な解答となるような出品物を見出すことはできなかった。一九二七年のライプツィヒ工芸博覧会への参加をとおしてDIAは、これまでヨーロッパの近代運動の流れに加わっていなかったことや、運動体としての指導力が欠如していたことや、さらには、美術工芸品と産業生産物との性格の違いにいまだ明確な位置づけがなされていなかったことを思い知らされたのであった。
DIAは、一九一五年の設立以来、これまでのアーツ・アンド・クラフツ運動の理念を一部では否定し一部では逆に継承しながら、また一方では、ドイツ工作連盟の活動を手本としながら、運動を続けてきたが、その間の活動の主眼点の多くはイギリス国内の改革運動に向けられており、二〇年代までは、明らかに大陸のデザイン運動の流れに沿うものではなかった。機械生産と「質」との関係において近代デザインの意味を理解し、その位置づけが本格的に行なわれはじめようとするのは、三〇年代に入ってからのことなのである。
ここまで、DIA創設の経緯とその後約一〇年間の活動に絞って簡単に描写してきたが、次に、問題となるふたつの主題――「美術」の解釈と「倫理」の問題――について、その間DIAの人たちがどのような態度を示したかを検討することにする。
(一)「美術」の解釈を巡って
ウィリアム・リチャード・レサビー。彼は、ロンドンの中央美術・工芸学校の初代管理者を務めた、当時の偉大な建築学者のひとりである。アーツ・アンド・クラフツ運動に深くかかわり、芸術労働者ギルドの「マスター」をしたこともあり、工芸職人が彼に寄せる信頼には大きいものがあった。このような経歴をもつレサビーは、デザイン・産業協会(DIA)のなかでは「予言者」という名で呼ばれ、モリス同様に、手短に自分の芸術哲学を表現することができた。その表現の幾つかは、「芸術とは、行なう必要のあることをよく行なうことである」「芸術作品とは、よくつくられた半長靴であり、よくつくられた椅子であり、よくつくられた絵である」、あるいは、「芸術とは、普通の料理を引き立たせるために用いる特別のソースではない。料理がおいしいものであれば、芸術とは料理そのものである」というものだった。しかし、このような芸術観は、DIAの内部の人たちのあいだにおいては理解されるものであったとしても、近代デザインを啓蒙する立場から大衆や製造業者に向かって発する言葉としては、あまりにも一九世紀的であり、機械文明が進行している当時の現実にはそぐわないものだった。一九世紀においては、家具、印刷、壁紙のどれをとっても、装飾芸術あるいは小芸術として、その地位が保たれていた。しかし、教会や上流階級が芸術の保護者であり、製作にかかわるすべてが工芸職人の手のなかにあったモリスたちの時代は、すでに過去の時代になろうとしていた。生産手段として機械が取り入れられ、製作にかかわる諸側面が分断されていくにしたがって、いかなる産業生産品も「売るための品物」という性格を強めていき、製造業者や商売人たちにとって、もはやそれらは「芸術作品」ではなくなっていたのである。DIAの人たちも、そのことは十分に承知していた。しかし彼らは、高価で、一部の裕福な人びとだけにしか手に入らない作品やその製作態度を否定するなかで近代デザイン思想を取り入れようとしたにもかかわらず、ものを製作する際の信条としては、生産手段が手から機械へ移り変わろうとも、それが「行なう必要がある」ものであれば、また、「よくつくられた」ものであれば、それもまた「芸術作品」と呼びたかったのである。ところがそれは、直接製造業者や商売人たちには通用しない用語であった。それは、単に「工業の中心地においては『美術』という言葉が、『商売』という言葉とほとんど正反対をなすものだった」14ためだけではなく、機能性や経済性を追及するところから生まれる工業生産品によって、生活の秩序と調和をはかろうとするデザイン行為は、それ自体あくまでも理性の産物であり、感性の表現としての「美術」とはある意味で正反対をなすものだったからでもあった。とくに後者の理由は、その後DIAに、純粋美術上の運動との交流を否定的にとらえる傾向を強めさせている。前世紀においては、ラファエル前派とアーツ・アンド・クラフツ運動のように、絵画における運動と建築や工芸におけるそれとのあいだに相互関係が成立していたのに――。しかし、この相互関係否定の傾向は、「美術」のなかから産み落とされたデザインが、行為としての社会性を内包することによってその存在基盤を勝ち得るための、必然的な過程の第一歩としてみなすことができる。新しい運動体に名称を与える際に、当時定着していた「Industrial Art」という名称をあえて避け、「Design and Industries」という名称を採用した理由のひとつもその点にあった。当時のDIAの討論会へ出席していたキャリントンは、「ある工場生産品や建築物を美しいと評することをどんな講師の場合もいやがった。誰もが、『効率性』『経済性』『正直さ』以外のことを賞讃することはなかった。仮にあったとしても、それはせいぜい『使用の楽しさ』程度だったろう」15と回想しているが、事実、「運動の初期の文書すべてにわたって、この危険な言葉である『美術』はめったに使われてない」16のである。アーツ・アンド・クラフツ運動から引き継いだ芸術観を堅持しながらも、一方ではそれを深く仕舞い込むかたちを取らなければならなかったところに、初期のDIAが葛藤した「美術」に関する一側面があったといえる。美術とデザインの性格の違いがさらに正しく理解されるようになるのも、またそのことによって、美術教育の改革が起こるのも、ハーバート・リードたちの仕事が進む三〇年代以降のことなのである。
(二)製作における「倫理」の問題について
「創設初期の協会にとってたぶん最も重大な問題は、社会的倫理についてであった」17ように、デザイン・産業協会(DIA)の人たちは、「美術」の問題だけではなく、「倫理」の問題についても解釈を迫られていた。これもまた、生産の過程のなかに機械の存在を認めることによって生まれてきた再解釈を要する問題だったといえる。前世紀後半を支配していたアーツ・アンド・クラフツの精神によれば、正しい方法によって、すなわち、人間の精神と手技によって生み出されるものだけが、正しい製作であり、正しい芸術である、というものであった。そしてさらに、正しい労働、すなわち、金銭のための労働ではなく、ものを生み出す喜びとしての労働によってのみ、人間の生活は幸福なものとなり、社会は正しいものとなる、と考えられていた。これは明らかに、芸術と労働を不可分の同一行為とみなすものであり、モリスをはじめとして、当時の芸術家=工芸職人の多くに見受けられた芸術家にとっての社会主義思想を支える基盤となる考えであった。彼らが機械生産を否定したのは、まさにこの点に依拠していた。彼らは、機械による生産では、労働の喜びは失われ、芸術は消滅し、生活は堕落する、と信じていたのである。確かに初期のDIAの人たちも、機械生産の肯定という立場は取ったものの、このような、正しい製作、正しい芸術、正しい労働、そしてそれから生み出される正しい社会という側面では、アーツ・アンド・クラフツの精神を受け継いでいた。それは、レサビーの「芸術は人生において不可欠のものであり、したがって、教育においても、労働においても然りである」という言葉からも理解することができるし、DIAが発行した初期の冊子には、『喜びに対する労働者の権利』というタイトルがつけられ、機械生産における労働の意味を巡っての討論会も開催されている。しかし、この段階では、機械生産と労働の両者を結び付ける明解な結論は導き出されてはいない。精神と手技の一致という前提を機械生産に置き換えることは、正しい芸術も、正しい労働も、その存在自体が危うくなることを意味するからである。DIAの人たちが、アーツ・アンド・クラフツの精神と比較して強く主張できたものがあるとしたら、それは、誰のためのデザインか、という命題だった。アーツ・アンド・クラフツの作品を手に入れ、それを享受できたのは、一部の人たちだけだった。しかし、DIAの人たちは、今世紀の芸術の保護者を市民の一人ひとりに置き、その人たちの趣味をよくすることによって、人間の生活や社会を改良することができる、と考えたからである。そして、そのための量産化や機械化であれば、極端でない限り認める価値のあるものとみなしたのである。アーツ・アンド・クラフツのデザイン思想では、手による正しい製作が正しい社会をつくり、人間を幸福にする道であるとしたのに対して、DIAのそれは、人間を幸福にする社会は、生産手段が手に取って代わった機械であろうとも、それを正しく使うことによって実現できるはずである、という信念であった。
このようなDIAの倫理的信念を実際の行動をとおして具現化しようとした人が、ハリー・ピーチ、その人であった。彼は、DIAを創設した七人の父のひとりで、一九二七年のライプツィヒ工芸博覧会でのDIAの参加を指揮した人でもある。ピーチが関心をもったのは環境の問題だった。スラム街、スクラップの山、けばけばしい広告、それに汚れた川――このように自分たちの美しくあるべき国土を醜くしているものは何か、と彼は問うのである。それは明らかに、利潤追求を至上としている産業主義と商業主義の横行によるものだった。ピーチはそれが許せなかったのである。デザイン行為とは、そもそも人間生活を豊かに、幸せにするものではないのか。それを阻止しているものがあるとすれば、その事態を直視し、社会をつくるための何が正しい方法で何がそうでないかを大衆へ向けて警告しなければならない――これがピーチの主張だった。このピーチの主張を受けて、DIAは環境問題の告発に乗り出すのである。最初の目標地としてセント・オールバンズが選ばれ、その土地の建物、交通機関、店頭、広告がやり玉に上げられた。よくデザインされた見本と比較ができるように、写真による対照の方法が取られ、『忠告手引き書』という小冊子にまとめられた。その後も、『オクスフォードへの忠告手引き書』『村のポンプ』と続き、同じ手法によって、オクスフォードの都市景観と、何の規制もなく増え続けるガソリンスタンドが問題にされた。このことからも判断できるように、DIAの人たちは、無制限に機械の振る舞いを容認したのではなかった。それどころか、機械生産の行き過ぎやそれを支えている産業至上主義には勇敢にも異議を申し立てた。それは単に、デザインされた結果としてのものや環境や景観に対する忠告に止まらず、結果的には、醜悪なものを生み出すことに手を貸している考え方そのものの告発だったのである。一九世紀から引き継いだ「芸術とは、秩序であり、ものをつくる際の正しい方法であり、文明にあって事態を直視する態度の問題である」という信条が、機械文明へ向けて、このとき具体的な力となって実践に移されたのである。そしてこの環境問題を契機として、機械文明下におけるデザイン行為とは、社会や環境の全体的な秩序の問題であり、同時にそれを左右することができる政治と実は密接に結び付いていることが次第に判明していくのである。しかしその後は、「インダストリアル・デザインや建築に対するアプローチが急進的であることが、同様に社会観においても急進的である、と評された人たちが多くいた」18にもかかわらず、DIAの人たちは、非政治的な立場を取ることになる。彼らは、政治的な問題として環境を考える人間としてよりも、あくまでものをつくり出す主体としての人間として、自己を規制したのであった。このことが妥当であったかどうかは別にして、DIAの偉大さは、「産業のためのデザイン」を主張し、啓蒙活動を行なうことから出発しながらも、いちはやく、「生活のためのデザイン」あるいは「文明のためのデザイン」という観点にたどり着き、機械あるいは産業自体を、人間の生活や文明をつくり出す単にひとつの側面としてその欠点さえも問い直すほどの相対化をしてみせたことだった。ピーチの主張と行動のなかに、機械文明という時代のもとでの、ものを生み出す人間の倫理観の発露の一例を見ることができるのではないだろうか。
(一九八二年)
(1)Lionel Lambourne, Utopian Craftsmen: The Arts and Crafts Movement from the Cotswolds to Chicago, Astragal Books, London, 1980, p. 4.
(2)Ibid., p. 6.
(3)John Heskett, Industrial Design, Thames and Hudson, London, 1980, p. 25.
(4)Ibid., p. 26.
(5)Noel Carrington, Industrial Design in Britain, George Allen & Unwin, London, 1976, p. 28.
(6)Ibid., p. 21.
(7)Ibid., p. 17.
(8)Ibid.
(9)Ibid., p. 41.
(10)Ibid., p. 81.
(11)ニコラウス・ペヴスナー『美術・建築・デザインの研究II』鈴木博之・鈴木杜機子訳、鹿島出版会、1980年、354頁。
(12)同書。
(13)Fiona MacCarthy, A History of British Design 1830-1970, George Allen & Unwin, London, 1979, p. 51. The original edition was published in 1972 as All Things Bright and Beautiful.
(14)Noel Carrington, op. cit., p. 71.
(15)Ibid., pp. 70-71.
(16)Ibid., p. 41.
(17)Ibid., p. 69.
(18)Ibid.