中山修一著作集

著作集9 デザイン史学再構築の現場

第六部 伝記書法を問う――ウィリアム・モリス、富本一枝、高群逸枝を事例として

第三編 伝記書法論(3)――高群逸枝の伝記作家はその夫をどう描いたか

はじめに

私は、先行する第一編の「伝記書法論(1)――モリスの伝記作家はその妻をどう描いたか」におきまして、一九世紀英国の詩人でデザイナーで政治活動家でもあったウィリアム・モリスにかかわって、一八九六年の死去からおよそ一〇〇年のあいだ、彼を主人公とした伝記作家は、どのようにその妻であるジェイン・モリスを描写してきたのか、その推移を振り返って検証しました。その結果、没後すぐに公刊された伝記にあっては、その妻にかかわる描写はほとんどありませんでしたが、その後少しずつ増えてゆき、女性の伝記作家のジャン・マーシュが、一九八六年にモリスの妻と娘に関しての伝記を上梓してからは、モリスの伝記作家は、妻と娘の存在を無視することはもはやできず、家庭内にあって、モリスと、妻や娘とは、どのような相互の関係をつくっていたのかというテーマにも関心をもつようになってきたことが明らかになりました。

続く第二編「伝記書法論(2)――富本一枝の伝記作家はその夫をどう描いたか」では、青鞜社の社員で、のちに小説家や評論家として活躍する富本一枝を取り上げて、一枝を主役にすえる女性の伝記作家は、男性である夫の富本憲吉をいかなる観点から描いてきたのかを、大和の安堵村から東京の千歳村への移転の場面に主たる焦点をあてて検証してみました。つまりここで、英国と日本の伝記書法の違い、そして、伝記執筆における男性視線と女性視線の違いを明らかにしようとしたのです。使用した素材は、高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』(ドメス出版、一九八五年)と渡邊澄子の『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(不二出版、二〇〇一年)でした。ここで判明したのは、英国のフェミニスト・アプローチが、歴史の影に隠れていた女性を発掘し、その人の人生や仕事を再度歴史に配置する試みであったのに反して、日本におけるフェミニスト・アプローチは、主人公たる女性を相対的に高く称賛せんがために、その配偶者たる夫に対しては、事実を曲げてでも、極めて冷酷な評価を与えてきていたということでした。

そうした、伝記書法上の日英両国の事例を受けて、この第三編「伝記書法論(3)――高群逸枝の伝記作家はその夫をどう描いたか」では、高群逸枝を取り上げて、その伝記書法上の特異点を検証してみます。高群逸枝は、いうまでもなく、日本における女性史学の創設者として知られる人物です。他方その夫は、常に妻に寄り添って支え、妻が亡くなったあとには、『高群逸枝全集』(全一〇巻)への刊行に導いた名高い編集者でした。果たして、逸枝の伝記作家は、夫の何に着目し、それをどう描いたのでしょうか。伝記作家が着目するのは、おおかた次の二点です。ひとつは、逸枝の婚外の「恋愛事件」とそれに対する夫の憲三が示した態度であり、いまひとつは、逸枝の最期に際しての逸枝を後援してきた女性たちとのあいだに芽生えた夫憲三との亀裂にかかわる問題です。果たしてこれらの注目点にかかわって、女性伝記作家たちは、いかなる立場に立って夫の憲三を描いてきたのでしょうか。その内容をここで紹介し、私自身の観点から、以下に論じることにします。

一.高群逸枝の婚外の「恋愛事件」にかかわる瀬戸内晴美の記述を巡って

橋本憲三が、妻高群逸枝の死後、東京での残務整理を終えて、自身の姉(橋本藤野)と妹(橋本静子)が住む熊本県水俣市へ移ったのは、一九六六(昭和四一)年一二月のことでした。この地で橋本は、逸枝の墓をつくり、『高群逸枝雑誌』(季刊)を発行することになります。この雑誌の編集を支えたのが、同じく水俣に住む作家の石牟礼道子でした。石牟礼は、創刊号から「最後の人」の連載に入ります。一方、逸枝の業績は、多くの研究者や学生たちを惹きつけ、絶えることなく逸枝巡礼者が水俣を訪れてくるようになりました。そのなかのひとりに、作家の瀬戸内晴美がいました。一九七三(昭和四八)年の二月一日の橋本の「共用日記」(妻の逸枝が亡くなってからは事実上憲三単独の日記)には、瀬戸内の訪問が、こう記されています。

午後八時三十分-10時50分、瀬戸内さん、村上彩子さん(筑摩書房)とみえる。石牟礼さん同道

翌二月二日の日記には、次のような文字が並びます。

午前一一時、瀬戸内さん村上さん、Mさん。瀬戸内さんお墓まいりしてくださったと。紅梅白梅がさいていたと。室にいらず、そのまま水俣駅へ(庭で静子あう)

「Mさん」とは、石牟礼道子のことでしょう。このとき橋本は、庭に二階建ての建物を建て、一階を、藤野と静子が経営していた、食品や日常雑貨を扱う橋本商店の倉庫に貸し、二階を、自室と『高群逸枝雑誌』の編集室にあてていました。このとき筑摩書房の村上彩子が同伴していることや、その五箇月後に「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」が筑摩書房発刊の文芸雑誌である『文芸展望』に登場することから推し量れば、このときの訪問は、逸枝と憲三の伝記を書くに当たっての事前の了解をとるためだったのではないかと思われます。

瀬戸内は、『文芸展望』に「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」を連載するに先立って、松本正枝という女性に会って取材をしています。そのことが見て取れるのは、瀬戸内が、自著の『談談談』のなかで政治家の小沢遼子と中山千夏を相手に語る場面においてです。その箇所を、以下に引用します。

瀬戸内 ……だから私は男性で、内助の夫の系列というのを書こうと思って、岡本かな子と一平、高群逸枝と橋本憲三がいいと思って水俣へ行ってみたの。ところがだんだんいろんなことがことがわかってきてね。仲がいいかと思っていたら、その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって。
中山 普通との反対みたいね

瀬戸内が水俣の憲三宅を訪ねたとき、本当に憲三は、このようなことを瀬戸内に話したのでしょうか。上の引用で示していますように、「共用日記」によれば、憲三が瀬戸内に会ったのは、一九七三(昭和四八)年の二月一日のことで、このときがはじめてです。しかも、面談したのは、午後の八時三〇分から一〇時五〇分までの二時間と二〇分です。「その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって」といった内容のことを、憲三が初対面の瀬戸内に二時間余の短い会話のなかにあって語ったとは、にわかに信じることはできません。

続けて瀬戸内は、小沢と中山に対して、こんなことも話題にします。

瀬戸内 ……きのう私が訪ねて行ったおばあちゃまのところできいてみたの。「婦人戦線が潰れたところがよくわからないんですけど、逸枝さんはよく聞いてみると、男を作って、しょっちゅう逃げ出していたそうですが、ほんとうですか?」「ええ、ほんとうですとも。われわれの時代のアナキストは恋愛に対してもアナーキーで、逸枝さんはそれを実行なさいました。人の亭主でもなんでもおかまいございませんの」「だれか逸枝さんの相手で覚えている方ございませんか?」「はあ、ございますとも」そのおばあさんはそれからちょっと出ていってお茶を入れて、「うちの人です」(笑い)。
小沢・中山 へえー(笑い)

瀬戸内は、「きのう私が訪ねて行ったおばあちゃまのところできいてみたの」といっていますが、この「おばあちゃま」というのは、たぶん松本正枝(本名は延島治)のことでしょう。そして、瀬戸内は、小沢遼子と中山千夏を相手にしたこの対談について、「本書のための語り下ろし 昭和四十八年五月十日赤坂にて」と書いています。それであれば、「おばあちゃま」を訪ねたのは、前日の五月九日で、水俣訪問から約三箇月後のことになります。そこから類推しますと、「その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって」と語ったのは、橋本憲三本人ではなく、松本正枝だった可能性が派生します。もしそれが真実であったとするならば、瀬戸内は、小沢遼子と中山千夏のみならず、多くの読者に対して、憲三にかかわっての虚偽の印象を植え付けたことになります。

それでは、松本正枝という女性につきまして、ここで少し検討しておきます。高群逸枝が主宰する『婦人戦線』が創刊されたのは、一九三〇(昭和五)年三月でした。それから七箇月遅れてその年の一〇月に、松本正枝の夫の延島英一が『解放戦線』を発刊しました。逸枝は、自身の『婦人戦線』だけでなく、延島の『解放戦線』にも寄稿します。一方延島は、松本正枝の筆名で逸枝の『婦人戦線』に論考を書きます。女性史研究者の堀場清子は、『婦人戦線』の同人であった住井すゑに、『婦人戦線』における松本正枝名の論考は、自伝特集号の際の文以外はすべて延島英一の代作であったことを確認したうえで、自著の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』のなかで、次のように自身の見解を述べていますので、ここに紹介します。

[『解放戦線』は]延島英一の主宰で、解放社から5冊まで出た。逸枝は毎号力作の論文を寄せ、その高揚感から、英一との間に稀有の思想的共鳴があったと感じさせる。彼の妻松本正枝(本名延島治)は、1970年代になって瀬戸内晴美氏に、『解放戦線』は「二人の恋の記念碑」と語り、故事を白日の下に曳き出した。二人が‶恋愛関係″だったか否かを、私は審かにしない。……英一の側に恋愛感情のあったのは事実であろう。『婦人戦線』最後の2冊(2巻5号・6号)の「松本正枝」書名の論文は、あげて高群攻撃である。振られた男の恨み節とでもいうべきか。それにしても、代作によって『婦人戦線』同人になっていた(晩年に至るも同様の姿勢だった)、延島治という人の心理が、私には解りにくい

瀬戸内が松本正枝に会った一九七三(昭和四八)年五月九日、両人がどのような会話をしたのかは、資料が残されていませんので、それを再現することはできません。しかし、三年後の一九七六(昭和五一)年九月に『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』と題された私家版(国立国会図書館デジタルコレクション個人送信にて閲覧可能)が発行され、そのなかに、松本正枝の「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」という一文が掲載されていますので、そこから、松本が瀬戸内に話した内容を類推することができます。

この私家版が発行されたとき、『婦人戦線』の最終号の刊行年から数えて、すでに四五年が経過していました。また、瀬月内が松本に取材した日から、この『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』が刊行された日までにあって、瀬戸内の「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」は『文芸展望』に掲載され、すでに五回の連載をもって「了」となっていました。それでは、「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」のなかで、松本正枝は、その「事件」について、実際にどう書いているのでしょうか。

ラブレターを先に女性から手渡されてどうして男性がそれを受けないでいられましょう。「据膳食わぬは男の恥」という言葉を英一が教えられたのはその時だったでしょう。思想的に大いに共鳴しあいしかも肉体的に喜びを分ちあえる友はそうざらにいないでしょう。彼女は橋本氏にないものを彼に見出したのでしょう

こうして、自分の夫の英一と逸枝のあいだに、肉体関係があったことを、誰にはばかることもなく、明言するのです。そして、瀬戸内の「日月ふたり」については、次のように言及します。

一つの事件を三人三様にいい立てるのですから、「日月ふたり」を文芸展望に発表されて橋本氏を高群氏という素材を名器に仕上げた人と評する瀬戸内さんの多大な研究・取材は実に大きいと思います

最後にこの文を、松本はこのような言葉で結ぶのでした。

故人となった高群氏の「婦人戦線」時代を高く評価する人々、反面「実り少ない時期であった」と過小評価する、むしろ否定する橋本氏。しかし、高群氏をあの当時私が尊敬していた事、また今でも尊敬している事はかわりありません

以上の三つの引用文から、松本が瀬戸内に語ったであろうと思われる会話内容が伝わってきます。瀬戸内は、のちに上梓した『人なつかしき』において、松本という人物をこう評しています。

 正枝さんの話し方は決して逸枝さんと夫との情事を非難しているふうではなく、過去の事実として語っているという感じを受けたし、高群逸枝という天才女人の多面的な性格の説明にはなっても、逸枝の人格の瑕瑾として感じるような話し方ではなかった。
 ユーモラスで皮肉なことを、全く飄々として顔でいってのけるのは、この人の天性のものか、晩年身につけたものかわからなかったが、私には好感が持てた10

瀬戸内は、ひたすら松本正枝の語りに好感を寄せます。そして、瀬戸内の目には、英一と逸枝の関係は「情事」として映りました。こうして、伝記執筆に必要とされる、事象にかかわるクロス・チェックがなされないまま、瀬戸内は、松本から得られた取材内容をそのまま信じ、「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」の執筆に入るのでした。

一九七四(昭和四九)年の三月二六日に、橋本憲三は、瀬戸内晴美の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が掲載された、四月に発売予定の『文芸展望』第五号の見本誌が、筑摩書房の村上彩子から事前に送られてくると、二日後の二八日に、瀬戸内に宛ててはじめての手紙を書きました。一九七四(昭和四九)年の橋本の「共用日記」には、このように書かれてあります。

三月二六日「文芸展望5、村上彩子さんからとどく(筑摩書房)。瀬戸内氏『日月ふたり』3、掲載」。
三月二八日「瀬戸内氏にははじめて手紙をかく」11

それではまず、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」には、どのようなことが書かれてあったのかを見てみたいと思います。橋本の瀬戸内宛ての反駁の手紙は、手紙としては実に長大なもので、そのなかで、「……というのはちがいます」「……混同ではないでしょうか」「……といったおぼえはありません」「……のことは私はしりません」「……全く考えられないことです」などといった表現を使って、幾つもの誤謬を指摘するのですが、そのうちの最大の核心部分は、『婦人戦線』のころの同人であった松本正枝が、逸枝の恋人が自分の夫の延島英一であったことを、聞き手の瀬戸内晴美に語る、次の場面でした。

 逸枝の印象を訊くと、
「そうですねえ」
 と、ちょっと遠い所を見る目つきをして、
「とにかく変わった人でしたから」
 といい、口辺に微笑とも苦笑ともとれる笑いを浮べながら、
「あの人はアナーキストでしたからね……恋愛もアナーキーに実践なさいましたよ」
 という。
「ということは、橋本さんの他に恋人がいたということでしょうか」
「ええ、アナーキーな恋ですから」
「その頃の恋の相手の方を御存じでいらっしゃいますか」
 正枝さんは、小さな肩をちょっと落とすようにして、ふっと座を立つと部屋を出ていった。玄関のつきあたりにあった炊事場でお湯をわかしてきた薬かんをさげてほどなく部屋にもどってきた人は、白い柔和な表情で、またふっと軽く微笑して坐りながらさらりといってのけた。
「存じておりますとも」
 さっきの話のつづきのつもりらしい。
「うちの主人でしたから」12

逸枝を中心とする無産婦人芸術連盟が結成されたのは、一九三〇(昭和五)年の一月でした。構成員は、伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子の一四名。そして、続く三月に、この結社の機関誌となる『婦人戦線』が創刊され、それは、翌年(一九三一年)六月刊行の第二巻第六号まで続きます。この間、松本正枝もこの雑誌に論考を寄稿しますが、瀬戸内に宛てた手紙のなかで憲三は、「松本さんの『婦人戦線』論文はほとんど(あるいは全部)延島さんの代筆。たぶん住井すゑさんはご存知でしょう」13と書いていますので、松本正枝はこの雑誌の活動にほとんど加わっておらず、実質的には、夫の延島英一が関与していたことになります。これが、『婦人戦線』を巡るおおかたの環境でした。そして四〇年以上が経過したこの時期に至って、松本正枝は、逸枝と自分の夫の延島がその当時恋人関係にあったことを瀬戸内に暴露したのでした。

それでは次に、それに対して橋本は、手紙のなかで、どう反論したのでしょうか、それを見てみたいと思います。「あの人はアナーキストでしたからね……恋愛もアナーキーに実践なさいましたよ」という語句については、「事実は全く正反対。恋愛論においても。実践において」14と主張し、「ということは、橋本さんの他に恋人がいたということでしょうか」という発語については、「現在の私、次号を読まない私には、『恋人』の語は適当とは思われません。強いて考えれば、表層的擬恋の状況とでもいうものではないかと思われるのです」15と、切り返します。逸枝と延島は、『婦人戦線』を通して、ともにアナーキストとして思想的に共感しあう間柄でした。瀬戸内の問いかけに、松本はそれを「アナーキーな恋」と表現し、一方の憲三は、「表層的擬恋の状況」という言葉で表わします。

さてそれでは、本当のところ、逸枝と英一の関係はどのようなものだったのでしょうか。それを解き明かす証拠となる一次資料が残されていないようですので、断定することはできません。あえていうならば、この言説は、不倫をしたであろうと思われる夫の、その妻の言説だということです。必要とされる証拠(エヴィデンス)は、あくまでも、不倫をした当事者の、日記か書簡に記された言説に求められなければなりません。そうした物証が現時点で存在しないのであれば、何らかの利害関係があることを排除できない妻の言説のみをもって、英一と逸枝の関係を「情事」ないしは「恋愛関係」と決定づけるのは困難ではないかと思われます。そもそも、四〇年もの歳月が流れた過去の夫の不倫を公言することによって、いかなる利益がその妻にもたらされるというのでしょうか。もし仮にこの言説が、何らかの理由から、たとえば、妄想や自虐的快楽のような精神的要因から、真実性を欠くものであったとするならば、どうでしょうか。夫の英一の名誉はいうまでもなく、その相手とその夫の名誉もまた、損なわれることになるのです。そこで、この「事件」を、記述の素材にするに当たっては、極めて慎重な配慮が必要だったのではなかろうかと愚考します。つまり、最終的にいまだ事実確認ができていない以上、松本正枝の証言は、証拠としての有効性や信頼性に乏しく、一般的にいえば、伝記を執筆するに際しては、参考までに紹介することはあっても、事柄の断定に用いられるべきではないのではないかというのが、私が思料するところです。

さらに、一般論としての観点から、私見をいわせてもらえるならば、この世の中には、「情事」や「恋愛事件」に異常にも関心をもつ著述家や記者がいて、他方で、その人に、極端に誇張された「事件」を吹聴し、それを嬉々として文にする書き手の姿と、それを読んで端無くも歓喜する読者の姿とを、遠くから眺めては愉快な感情に浸る人間がいることは、否定しがたいのではないかということです。

いずれにいたしましても、「この写しはあなたに参考にしていただこうと、気息えんえんながら起きて書いたものです。雑誌にいつかのせる気になるかも知れないとの潜在意識もあったらしくて」16と書き添えて、橋本憲三は、この手紙のコピーを石牟礼道子に託すのでした。橋本が書いた「瀬戸内晴美様への手紙」が公になるのは、一九八〇(昭和五五)年一二月二五日発刊の『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)においてでした。

その手紙から四箇月が過ぎた、八月七日と翌八日の橋本の「共用日記」を見ると、次のような文字が書き込まれています。

八月七日「石牟礼氏に電話。夕方みえる。みやげものもらう。お茶も。10時に辞去。辺境五と瀬戸内氏の談談談をもらう。睡眠薬服しすぐ就寝」。
八月八日「けさ、談談談を散見したら、一項目、さんたんたる事実無根の記事あり。……」17

こうして、橋本は、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」のなかだけでなく、『談談談』においても、瀬戸内の事実無根の記述を見出すのでした。昨日人から聞いた醜聞を、真偽を確かめることもなく、さもおもしろそうに他人にいいふらし、さらにそのうえに、それを自慢げに文字に書く、瀬戸内晴美という作家に対して、橋本憲三は、強い不信感を抱いたにちがいありません。

私は、瀬戸内の専門家ではありませんし、ほとんど彼女の作品も読んでいませんので、この作家を語る資格は全くありません。しかし、これまでの私の富本一枝研究において、瀬戸内晴美という小説家の存在については気づいていました。そこで、一枝のいとこの尾竹親と、一枝の古き友人の丸岡秀子の言説を引き、その範囲にあって瀬戸内作品の含み持つ特殊性の一端をここで紹介し、あわせて、それについて検討しておきたいと思います。

富本一枝のいとこの尾竹親は、自著の『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』のなかで、次のようなことを書いています。

人間の言動というものは、決して一つの情景のみに定着して語られるべきものではなくして、その人間が生きた全存在の一環に組み込まれてこそ、はじめて、よりよくその映像を伝え得るものだと私は信じている。
 瀬戸内氏にしても、それが史実をもとにした小説であってみれば ・・・・・・・・・ 、フィクションとしてのある種の無責任さに救われているのだろうが、時間の経過というものは、得てして、伝説という神話をつくり上げたがるもので、いつかはそれが事実とまではならぬとしても、史実に欠けた情緒の補足としてのさばり返ることがよくあるものだ。私が、実名、或いは史実にもとづいた小説の安易さを恐れる理由が、ここにもあるわけである18

以上の引用は、瀬戸内晴美の『美は乱調にあり』(文藝春秋、一九六六年)という本のなかで描写されている、青鞜社時代に紅吉(尾竹一枝の筆名)が引き起こした、いわゆる「吉原登楼」事件における尾竹竹坡(尾竹親の父親)の役割を巡っての論点が念頭に置かれて書かれている箇所であろうかと思われます。はっきりと「フィクションとしてのある種の無責任さ」、そして「小説の安易さ」が指摘されているところに、注目する必要があります。

次に、丸岡秀子の場合を見てみます。以下の引用は、自身の『田村俊子とわたし』の「あとがき」の冒頭の一文です。

 なぜ、いまごろになって、これを書いたのだろう、と書いてしまって思う。やっぱり、書かないではいられなかったからだった、というよりない。
 だが、ひとつには瀬戸内晴美さんが、『田村俊子』をまとめられたとき、わたしとしては俊子について思う存分、語れば語れる機会だった。瀬戸内さんからはそのために、何度かその機会を作るように依頼されたのだが、わたしは大病つづきのために、それができなかった。もしあのとき、健康で俊子を語っていたら、長いあいだの胸 づか えは、ずっと前にとれていたかもしれない19

瀬戸内晴美の『田村俊子』(文藝春秋新社、一九六一年)は、その一二年前に上梓されていました。それでも、丸岡は、田村(佐藤)俊子について書かざるを得ない思いにあったようです。丸岡を田村に紹介したのは富本一枝でした。一枝にとって田村は青鞜社時代以来の友人で、一方丸岡は、奈良女子高等師範学校の生徒であったときからよく知る若き知り合いでした。田村が海外生活を終えて帰国した一九三六(昭和一一)年の富本憲吉の窯開きのある日、ふたりは招待されて、面識を得ることになります。田村にとって、それからの三年というものは、思うように作品が書けず、金銭の管理が甘いがゆえに友だちを失い、窪川いね子(のちの佐多稲子)の夫である窪川鶴次郎との道ならぬ恋にも陥り、満たされぬ苦悶の歳月でした。田村は、何かにつけて丸岡を頼ります。丸岡も悪い気はしません。いつも寄り添うように、田村を支えます。こうして田村が中国に発つまでのおよそ三年間、田村と丸岡は誰よりも親しい間柄にありました。丸岡にとって、瀬戸内が書いた『田村俊子』には、自分の知る田村俊子が十全に反映されていなかったのでしょう。あるいは、丸岡の目からすれば誤謬が含まれていたのかもしれません。田村と丸岡のふたりがこの時期に交わし合った書簡という一次資料を全面的に援用して、何とかその移ろえる像を修正し、より正確で真実に肉薄した田村像を、どうしてもここで書かなければならないという切迫した状況に、丸岡は立たされていたものと思量します。

以上見てきましたように、私の研究の極めて狭い範囲においても、瀬戸内晴美(寂聴)が書いた「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」(『文芸展望』に五回連載)、『談談談』、『美は乱調にあり』、そして『田村俊子』には、記述の対象となっている人物の、まさしくその人本人、あるいは、その親族や関係者にとっては、承服しがたい、事実無根ないしはそれに近いと思われる内容が随所に含まれていたのでした。

そこで、そのことに関連して、以下に少しばかりの愚見を述べることにします。

『瀬戸内寂聴全集 第二巻』の巻末に収められている「解題」は、次の文ではじまります。「本巻は、著者の伝記小説の分野の口火を切った『田村俊子』と、つづく大作『かの子繚乱』とを収録した」20。私は文学史も文学論についても、知識がありませんが、ここで使用されている「伝記小説」という用語に遭遇したとき、強い違和感に襲われました。といいますのも、「伝記」はあくまでも「事実」に沿って記述されるものであり、ところが「小説」はそれとは異なり、書き手の自由な構想力ないしは想像力にゆだねられるものであると承知していたからです。つまり、私の理解では、「伝記」と「小説」では向かう方向が正反対であるはずなのです。ところが、それにもかかわらず、そのふたつが合体し、あろうことか一語になっていることに、私は違和感を覚えたのでした。

私が、伝記書法の原理として理解している事柄は、おおよそ、第一編の「伝記書法論(1)――モリスの伝記作家はその妻をどう描いたか」において述べているとおりです。しかしながら、ここにおいて取り上げた、瀬戸内晴美の「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」、『美は乱調にあり』、そして『田村俊子』の「伝記小説」は、こうした英国における伝記にかかわる執筆の原則や書法とは大きく異なる相に位置します。なぜ瀬戸内は、いまだ存命中の、あるいは死去して日が浅い人物について、いっさいの証拠を示すことなく、したがって、プライヴァシーや人権への配慮もなく、そのために、その人の名誉と人格を傷つけかねない状況のなかにあって、あえて「伝記小説」という独自の領域を設定して描くに及んだのでしょうか。本人はもとより遺族や関係者からの反発を招いたのは、そのことに起因していたものと思料します。

参考までに、「伝記」と「小説」の分離を促した、ある書き手の一例を紹介しておきます。以下の文は、吉永春子の『紅子の夢』の「あとがき」から一部を引用したものです。吉永は、富本一枝との学生時代の一瞬の出会いが忘れられず、その強い衝撃が動機となって筆を執ることになりました。「紅子」が、尾竹紅吉こと富本一枝であることはいうまでもありません。

 ふとした機会から私は、彼女について書くことになり、改めて調査に入ったが、すぐに戸惑ってしまった。
 事実と、私の脳ミソに焼きついた存在とが、時には重なり、時には遠く離れ、複雑な線となって、縦横に走りまくり始めた。これはいけない、どっちかにしなければ。
 選択の結果が〈小説・紅子の夢〉ということになった。
 歴史上の人々の名前は実名にしたが、あくまでもそれは時代背景を生かすためで、人物表現はフィクションをベースにした21

これを読むと、執筆に際しての吉永に、明らかに、「事実と、私の脳ミソに焼きついた存在と」の激しいせめぎ合いが発生していることがわかります。つまりこれが、「事実」を基礎とする「伝記」と、「脳ミソに焼きついた存在」を描く「小説」の違いとなります。瀬戸内の「伝記小説」は、真実と虚構とがない交ぜになった、つまり「伝記」であるようで「小説」でもあるような、あるいは「伝記」でもなければ「小説」でもない、いまだ未分化の状態で存在していたものと思われます。その結果それは、何をもたらすことになるのでしょうか。

「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」を読んで、誤りを指摘するために瀬戸内に手紙を書いた一九七四(昭和四九)年の三月以降の憲三は、心身ともにさらに悪化が進み、一進一退の状態にありました。それから半年後に憲三を訪問した堀場清子は、そのときの様子を、こう描写します。

 朝日評伝選『高群逸枝』の取材のために、鹿野政直と私とが、はじめて橋本氏を訪ねた昭和四十九年九月、氏は「事件」の衝撃の渦中にあった。それ以外のことを聞こうとする私達の質問に対し、氏の答えはいつもその点にたちもどって、少なからず困惑させられた。逸枝との愛の一体化と、女性史の大成とに生涯をかけ、女性一般の未来のために多大の貢献をされた氏の、最晩年での傷つけられ方が、いたましかった22

堀場は、訪問当日の憲三の様子について、「『事件』の衝撃の渦中にあった。……最晩年での傷つけられ方が、いたましかった」と、表現しています。他方で、橋本憲三からの誤謬を指摘する手紙を受け取った瀬戸内晴美は、後年、自著の『人なつかしき』のなかで、こう書いています。

 それまで私に示されていたのとは全くちがう憲三氏があらわれた。私は憲三氏のショックが意外でもあり、意外でもないような気がして、複雑な想いにとらわれた23

「ショックが意外でもあり、意外でもない」と書く以上は、ほぼ間違いなく、執筆に当たって当初瀬戸内は、自身の「伝記小説」は「真実」を描いたものであり、そのため、そのなかで描写された人物は、すべてその記述内容に同意するはずであり、いわんや、それにより傷つくようなことなどありえない、と思い込んでいたのでしょう。しかし、存命中の人間が、いきなり「伝記小説」という舞台に引っ張り出され、まさに著者の「脳ミソに焼きついた存在」として脚色されて踊らされることになるとしたらどうでしょうか。そのとき、その登場人物が、実際の自分との違いに気づき、ショックと憤りを感じたとしても、それは、何ら不自然なことではないように思われます。他方で、観客である読者はどうでしょうか。おそらく演じられている物語を、虚構世界のそれとして楽しむのではなく、実名で語られている以上は、真実世界のそれとして誤認することでしょう。さらに加えて、その書き手が、これは事実ではなく、読み物という作り話ですからという弁明を残して、その場を立ち去ったとしたらどうなるでしょうか。描かれた人間は、行き場を失い、そこに倒れ込むしかありません。そして一方の読者は、与えられた虚飾の物語を真実として信じ込んでこれから生きてゆくことになるのです。いま一度、前述の、尾竹親が指摘した「フィクションとしてのある種の無責任さ」と「小説の安易さ」を、ここで想起しなければなりません。「伝記小説」のもつ限界と罪悪は、まさしくこの点にあったものと理解します。

「日月ふたり(最終回)――高群逸枝・橋本憲三――」が世に出たのは、一九七五(昭和五〇)年一月発刊の『文芸展望』(第八号)においてでした。瀬戸内は、のちにこう書いています。

 私は正直いって、憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、「日月ふたり」を書きつづける意欲を失っていった24

しかし私は、この理由にも、疑問をもっています。といいますのも、本人がそう語っている以上、そのことはそのとおりであるにちがいないと思われますが、それだけが理由となって「『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」わけではないのではないかと考えられる余地が、他方で残されているからです。

一点目。瀬戸内晴美と筑摩書房の村上彩子が、はじめて憲三を水俣に訪ねたとき、石牟礼道子も立ち会っています。おそらくそのとき、憲三がつくる『高群逸枝雑誌』のことが話題になり、石牟礼も、この雑誌に逸枝と憲三の評伝である「最後の人」を連載していることを話したにちがいありません。それから一年が過ぎた一九七四(昭和四九)年の四月に、瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が『文芸展望』に登場するのですが、ちょうど同じ月に、「最後の人 第十一回 第一章 残照2」も世に出るのです。当時ふたりは、まさしく競合するテーマで執筆しているのです。瀬戸内の連載回数は、いまだ三回で、道子のそれは、すでに一一回を数えます。扱っている資料は、松本正枝などからの聞き取りもありますが、主に瀬戸内が利用しているのは、逸枝と憲三が著わした『火の国の女の日記』です。一方の道子は、「森の家」での憲三との同居生活の実際から「最後の人」を書き起こすという、極めて有利な立場にありました。この先、石牟礼の「最後の人」が出版されることになれば、瀬戸内の立場はどうなるでしょうか。

二点目。「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」から五箇月後の九月、鹿野政直と堀場清子の夫婦が憲三を訪ねてきました。鹿野は、日本近代史を専門とする早稲田大学の教授で、堀場は女性史家です。ともにふたりは、逸枝の生き方と業績に共鳴していました。その年の一二月から、いよいよ橋本憲三と堀場清子のあいだで、郵便を介した一問一答形式による「おたずね通信」がはじまります。さらに年が明けた一九七五(昭和五〇)年の一月、再び鹿野と堀場の夫妻が橋本を訪問してきました。この先、橋本と堀場の「おたずね通信」が書籍化されることになれば、瀬戸内の立場はどうなるでしょうか。「日月ふたり(最終回)――高群逸枝・橋本憲三――」が『文芸展望』(第八号)に掲載されたのは、その月の一五日のことでした。文末には、「(了)」の文字が記されました。

三点目。橋本憲三が瀬戸内に宛てて送った手紙のなかには、「固有名詞――地名人名などの誤植は校正者にはわからないと思われるものがありますから、『日月ふたり』完結後に、正誤表をつくってみて、差し上げようと思っています」25という記述がありました。仮にこのまま連載を続け、今後そうした「正誤表」が『高群逸枝雑誌』などにおいて発表されることになれば、瀬戸内の立場はどうなるでしょうか。ましてや、固有名詞だけに止まらず、内容についての「正誤表」も公開されるならば、瀬戸内の文の信憑性や信頼性が厳しく問われることになりかねません。

さらには四点目として。のちに刊行された『人なつかしき』のなかで、瀬戸内は、「憲三氏と逸枝の愛のかたちを知りたかった」26と書いています。もしそれだけが執筆の目的であったとするならば、五回の連載をとおして、一九二五(大正一一)年の九月、逸枝が置き手紙を残して、当時自宅に寄宿していた憲三の友人男性と家を出た「事件」と、『婦人戦線』時代の逸枝と延島英一との恋愛を巡る「事件」とを書き終えたいま、もはや瀬戸内の関心は完全に燃焼してしまい、その後に続く、逸枝の女性史学の完成へ向けての物語まで書く意欲は最初からなく、五回目のここがちょうど連載の「(了)」にふさわしい時期だったのかもしれません。同じく『人なつかしき』のなかで瀬戸内は、橋本の死去に際し「私はやはり『日月ふたり』を最後まで書きあげるべきだと思った」と書き、その後水俣の静子を弔問した際には「私は静子さんに『日月ふたり』を必ず完成させると誓った」と書いています。しかし、その形跡はありません。残ったのは、ただ言葉の軽さだけです。

以上の四点が、「憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」とする瀬戸内の言説を疑問に思う私の理由です。

それでは最後に、石牟礼道子が、瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝と橋本憲三――」に言及した文がありますので、それを紹介します。

瀬戸内は、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝と橋本憲三――」のなかで、逸枝をこう描いていました。松本正枝の視線からの描写です。

 駅からわが家の方への一本道を歩いていくと、向うから逸枝が歩いてくる。今日もきれいに化粧して、袂の長い派手な着物を着た逸枝は、少女がするように、長い袂を両手で持ってひらひら蝶々のように両脇で躍らせながら、浮きたつような足どりでステップをふんでくるのだった。人の目も全く眼中にないように、その姿は何か抑えきれぬ喜びをそういうそぶりであらわしているとしか見えなかった。
 よほど嬉しいことがあるにちがいない、まるで子供のような人だ。ずっとそんな逸枝の姿を見つめながら正枝が近づいて声をかけると、逸枝は雷に遭ったように硬直して路上に突っ立ってしまった。大きな目をうつろに見開き、息もとまったように正枝をみつめてあえいでいる。
「どうなさったの、うちへいらっしゃったんじゃなかったの、延島はいませんでしたかしら」
 その道はわが家への一本道なので、正枝はこう問いかえした。逸枝はようやく夢からさめたように、
「あなた、まだ会社じゃなかったの、どうなすったの」
 と訊いた。詰問するような調子に、正枝はふたたび驚かされた。逸枝はそんな正枝の横をすりぬけると、挨拶もせずに駅の方へ走り去っていった。
 家に帰ると英一が同じように愕いた表情で迎えた27

一九八二(昭和五七)年一月号の『思想の科学』に掲載された、「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」のなかに、石牟礼のそれへの解釈を見ることができます。瀬戸内の上の文を引用すると、それに続けて石牟礼は、こう書いています。

 逸枝亡きあとに書かれたこの作品を読まれて憲三氏の苦悩は深刻だった。長い袖を両手に抱え、蝶のようにひらひらゆくような逸枝をかつて見た覚えがないといわれるのである。……正枝氏はそのような逸枝を、ご自分の夫君と愛を交わした姿と受け取られ、瀬戸内氏も、憲三との一体的夫婦の伝説がやぶれ逸枝に恋人がいたとされているのだが、わたしはそこに立ち入る気はない。逸枝は憲三氏の眼に触れるように延島氏からの求愛の手紙を常にそれとなく机辺の置いており、その間の事情と処理については、憲三氏自身の手記が残されている。(『高群逸枝雑誌』終刊号)28

「この作品を読まれて憲三氏の苦悩は深刻だった」――これが、身近にいて憲三に寄り添っていた道子の実感だったのでしょう。そして石牟礼は、逸枝のその蝶のごとき姿に、表題のとおり「本能としての詩・そのエロス」を見ているのであって、最後にこの文をこのように結ぶのでした。

蝶のように浮き立つ足どりの逸枝はじつは詩の刻の人なので、健全な日常にいきなり出逢ってたちすくむ姿の背後には、彼女の詩篇のすべてが放電するように広がってゆくのをわたしは見る29

つまり、あえて換言すれば、この石牟礼の結語は、詩人の情感は、文字や文のうえだけでなく、舞や踊りにみられるように、身体のもつたおやかさにも現われるものであり、そうした非日常な身体表現を見誤って、「愛を交わした姿」であるとか「恋人がいた」といった世俗用語に置き換えてしまうことに内在する虚しさのようなものを暗に示しているのではなかろうかと、私は思料します。

しかし、高群逸枝を対象とするこれまでのおおかたの伝記作家は、瀬戸内晴美の描写を無条件に信じ、したがって、松本正枝の証言に疑いを入れず、それに反して、夫の橋本憲三については、ヒステリックで弁解がましく、多くのことを隠匿する、不誠実で自己中心的な男として描写するのが通例でした。こうして女性伝記作家は、意識的であったか、無意識的であったかは別にして、あたかも自身の意を得たかのように、逸枝の自由を抑圧する封建男性像を憲三に覆い被せたのでした。このような特異な視線は、逸枝の臨終の際に生じた橋本憲三と市川房枝との確執にかかわる取り扱いにおいても、よく表われることになります。そのことを、次節で検証します。

二.高群逸枝の臨終の際に生じた橋本憲三と市川房枝との確執にかかわる記述を巡って

高群逸枝が死去したのは、一九六四(昭和三九)年六月七日、国立東京第二病院においてでした。この病院への入院を斡旋したのが、市川房枝です。市川は、戦前の『母系制の研究』発刊のころからこのときに至るまで、親身になって逸枝を支えてきた後援者のひとりでした。おそらく市川は、逸枝に最良の医療を施すために、善意をもって参議院議員という立場から厚生省(現在の厚生労働省)に働きかけ、国立東京第二病院への入院の斡旋をしたにちがいありません。ところが、遺体が霊安室に運ばれ、今後の葬儀を巡って話し合いがもたれるなか、喪主の橋本憲三とのあいだで意見の相違が現前化し、それをもってこれまでの交流に亀裂が入り、結果的に断絶という事態へと発展するのでした。

熊本出身の逸枝が亡くなると、その土地の地方雑誌である、荒木精之が主宰する『日本談義』の八月号で「高群逸枝女史追悼」の特集が組まれました。特集は、橋本憲三、福田令寿、島田磬也を含む九人の執筆陣で構成され、志垣寛は、「高群さんと橋本君」という一文を寄せました。志垣の妻が、熊本県師範学校女子部で逸枝と同級であり、志垣自身は、かつて憲三を平凡社に入社の斡旋をしたことがあり、今回の告別式に当たっては葬儀委員長を務めており、逸枝とも憲三とも昔からの親しい間柄でした。その志垣が、追悼文「高群さんと橋本君」のなかで、逸枝が亡くなった日の病院の霊安室での通夜の一幕に触れていますので、ここに引用します。

 六月七日、国立第二病院の死亡者室に横たえられた亡き人の枕頭には、従来長い間彼女のためにあらゆる協力と奉仕をいとわなかつた数々の名流婦人があつた。彼女たちに囲まれたたゞ一人の故人の骨肉者は夫憲三君一人であつた。橋本夫妻がいかに貧乏であつたかは、彼女たちがよく知つていた。だからこそ彼女たちは年々逸枝さんの研究費を扶け、治療費を扶け、そして今は死後の葬式まで心配していた。
 しかし橋本君にしてみれば、せめて葬儀位は亭主たる自分の手で、自分の心ゆくまゝにとり行いたいと念願した。そのかげには憲三君をこの上なくいたわしく感じていた憲三君の妹さん(水俣在)があつた。妹さんは逸枝さんの臨終には居合せなかつたが、亡くなる数日前に訪ねて、治療費として百万円をおいて行つた。橋本君は今こそその金で逸枝を自分の思う通りに葬りたいと思つていた。
 名流婦人たちは、橋本君の意中を察せず葬式万端、自分たちの手でとり行うべくすでに枕頭には葬儀やが呼ばれていた。初め橋本君は彼女たちからのがれたくて、葬儀は熊本でとり行うといつて彼女たちをおどろかせた。しかしせめて「告別式」だけはとのたつての要望から、橋本君も折れて、葬儀やが招かれたわけだ。その席上、橋本君は最高葬儀を注文し、彼女たちの眼の前で即金を渡した。これには流石名流婦人たちがびつくりしてしまつた。貧乏をうりものにする似而非ものであると怒つた。橋本さんがあんなお金持ちとは夢さえ思わなかつた。そんなにお金があるなら、先刻さしあげた「見舞金」は返してほしいといつた名流婦人もあつた。もちろんその金は返した。わたくしが現われたのはそれらの事件のあとであつた。
 名流婦人たちは死亡広告に名を連ねる事を拒み、葬式にも列せず、僅かに平塚雷鳥、守屋東、伊福部敬子、住井すえ等々の数女史にすぎなかつた。
 故人は原始女性は太陽であつたという平塚女史の言葉を実証すべく一生の研究を続けた。しかし女性解放は男性を奴隷化することとはいわなかつた。男も認め、女も認むることが故人の心ではなかつたろうか30

「見舞金」の返金を求めたのは、市川房枝でした。この件にかかわっては、憲三の妹の静子が兄の口述を筆記した市川房枝に宛てた手紙の写しが残されています。以下に、その全文を紹介します。

拝啓
 故高群逸枝こと、国立東京第二病院入院につきましてはご高配をたまわりましてまことにありがとうございました。そのせつ、金参万円也と記入されたご封筒を手わたされ、お見舞い金と思いちがいをいたしました。
 そのとき療養費についておたずねになり、当座用にはとりあえず五〇万、その他充分の用意があることをお答えいたしました。
 死亡いたしまして霊安室での通夜の席において、みなさまの前であの金は返して欲しい旨を申し入れられ恐縮いたしました。
 葬儀を完了いたしまして、せいりにとりかかりましたので本日書留郵便をもってご返金申し上げます。お受け取り下さい。故人は参万円のことについてはなにも知りませんでした。旧来からの御厚情、深くお礼申し上げます。
 昭和三十九年六月十七日 橋本憲三
 市川房枝様31

この手紙が公開されているのは、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」と題された文においてですが、さらにそのなかで、筆者である憲三は、市川からの金は「入院前日の五月一一日に自宅で受け取った……貳万円返金すべきところをあやまって参万円にしてしまった」32と、書き加えています。

続く六月二二日に、婦選会館で高群逸枝を追悼する会が催されました。『婦人展望』は、その様子を、短くこのように伝えています。

去る六月七日死去した女性史研究家高群逸枝の追悼会が六月二十二日午後二時~五時婦選会館においてひらかれ、次の諸氏が出席、故人をしのんだ。市川房枝、鑓田貞子、浜田糸衛、稲津もと、高良真木、中島和子、近藤真柄、児玉勝子、武石まさ子、市川ミサオ、両沢葉子33

しかし、この追悼会は、逸枝をしのぶ場というよりは、憲三への悪口を並び立てる場と化したのではないかと想像されます。といいますのも、この追悼会に出席した人たちは、一週間前の一五日に自宅の「森の家」で挙行された告別式に参加していなかった可能性があるからです。なぜ、彼女たちは告別式への参列を見送ったのでしょうか。どうやら、逸枝が入院した際に憲三が病院側に個室と面会謝絶を要求したことや、葬儀に際して憲三が大金を用意していたことが原因となって、市川房枝とその周囲の人たちに不快感を生じさせたようです。しかし、事はそれで終わらず、それから一〇年もの歳月が流れたのち、この逸枝の入院および臨終時に発生した反目が、小説といったかたちをとって、蒸し返されることになるのです。それは、「献身」と題された小説でした。著者は戸田房子で、掲載誌は『文學界』です。その物語は、こうしてはじまります。

 昭和三十九年晩春の朝のことである。二人の男が彼女の寝室に入って行き、ベッドの中の綿のはみ出た蒲団と色褪せて毛のすり切れた毛布にくるまっている鷹子を、そっと担架に移した。……門の前に待機していた白い救急車に鷹子を運び入れた。
 鷹子の夫の楠昌之は、萎えた開襟シャツとズボンで担架のあとから歩いていた。彼は七十歳にはまだ間のある年齢であったが、老年に特有の黄ばんだ艶のない顔をして、額と鼻のわきに彫り込んだような皺をつくっていた。……
 彼のあとから、かなりおくれて、坂本滋子が両手に紙バックと風呂敷包みをさげて、急ぎ足で救急車の方へ近づいて来た34

本城鷹子が高群逸枝で、楠昌之が橋本憲三、坂本滋子が、市川房枝の側近のひとりの女性、おそらくは画家の高良真木であることは明白です。そして、描かれている場面が、医師の竹内茂代の発案を受けて、参議院議員の市川の尽力で入院が決まった国立東京第二病院に、自宅の「森の家」から逸枝が搬送されるところであることは、その事情を知る者にとっては、これもまた、容易に判断がつくことでした。この物語には、市川房枝と竹内茂代が、脇田さつきと山下照代という仮名で登場します。一方、石崎せつ子という名の婦人が、おそらくは平塚らいてうでしょう。

この小説では、全編にわたって、楠昌之つまり橋本憲三は、妻の気持ちを理解しない、横暴で利己主義に凝り固まった、腹黒い男として描かれています。逸枝が息を引き取ったあとの霊安室での様子についての描写にも、その一例を見ることができます。それは、次のような会話で構成されています。

 「実は脇田先生にお願いがあるのですが、お聞きいただけないでしょうか?」
 「どういうことでしょう?」
 「新聞に妻の死亡広告を出したいのですが、先生にお名前を出していただきたいのです。いかがでしょうか?」……
 「新聞広告をするとなれば、二、三十万は覚悟しなければなりませんよ」
 「金はいくらかかってもかまいません」
 「失礼なことを伺うようですが、ご用意があるのですか?」
 「沢山ではありませんが、銀行預金が四百万ございます。亡き妻のために出来る限りのことをしたいと思います」
 女たちはあッという愕きでいっせいに楠昌之に視線を集中した。四百万円! いったいどこから得たお金なのだろう。鷹子の悲惨な生活を見かねて授けつづけてきた女たちは、自分たちにすら縁遠い巨額な金を昌之が持っていたと知って茫然となった35

続けて脇田さつきは、こういうのでした。

「私はね、楠さん、そんなにお金をお持ちでいながら、皆さんから金銭的な援助を平気で受けていらしたあなたのお気持ちがわかりません。私は、あなたがたお二人をいままで貧乏だとばかり思っていました。そのように事を運んできました。いま考えますと、貧乏でなかったあなたがたに対して大変失礼なことであったと思います。お詫びいたします。――死亡広告のことは、私の素志と相容れない点がありますので、私の名前を出すのは遠慮いたします。どうかあしからず」36

「献身」が『文學界』に発表されたのは、一九七四(昭和四九)年の七月でした。ちょうどそのとき、村上信彦から、一〇月一日刊行予定の『高群逸枝雑誌』第二五号のための「私のなかの高群逸枝8」の原稿が憲三のもとに送られてきました。そのなかで村上は、「最近出たモデル小説」37という用語を使って、その小説に触れていました。驚いた憲三は、「最近出たモデル小説」の詳細を問い合わせます。すぐにも返信がありました。八月三一日に書かれた村上からの返事は、以下のようなものでした。

 ある雑誌のモデル小説というのは、「文学界」7月号の戸田房子の「献身」です。一読して、市川房枝たちの側からの考えだということが分かります。高群さん入院前后をめぐるあなたと一部の女たちとの対立をえがいたもので、私はあなたから事情を聞いていたのですぐ見当がついたのです。私としては、よむことをおすすめすべきかやめることをすすめるべきか判断がつきません。たゞ、よんだら不快を感ずるだけでしょう38

そのあと憲三は、この小説を入手し、取り急ぎ読んだにちがいありません。戸田房子という作家は、逸枝の入院や臨終に立ち会った形跡はありませんので、浜田糸衛や高良真木のような人に取材したか、あるいはそうした人が、戸田を使って書かせたのではないかと、憲三は即座に直感したものと思われます。もっとも、憲三のこの小説にかかわる読後感は、調べる限り、資料には残されていないようです。しかし、「不快」どころか、実際には、突然背後から鈍器のようなもので頭を殴られたような、激しい衝撃を憲三は感じたにちがいありません。といいますのも、現に実在する人物が、小説という虚構空間に連れ込まれ、あることないこと、おもしろおかしく、罵倒され中傷されている場面に出くわしたとき、それに怒りを覚えない人はいないと思われるからです。「小説」である限り、そこに描かれている内容に、著者は責任をもつ必要はないかもしれませんが、名誉を棄損された「モデル」は、いかばかりの傷を負うことでしょうか。それにしても、「小説」という隠れ蓑をうまく使って、一〇年前の出来事がなぜいまになって蒸し返されなければならないのでしょうか。発表された時期を考えますと、瀬戸内晴美の小説「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」に誘発されたとも考えられます。

逸枝の臨終を主題にした「献身」は、憲三にとりまして、細部の事実関係には承服しがたい箇所が多々含まれていたにしても、出来事自体は実際にあったことですので、憲三をそう驚かすものではなかったかもしれません。しかし、実際の出来事に事寄せて、個人を攻撃する態度には、憲三は、許しがたく耐えがたいものを感じ取ったにちがいありません。それは、次のような、霊安室での楠昌之と脇田さつきの、死亡広告と金銭を巡る会話をそばで聞いていた坂本滋子の心情を描写した箇所によく表われています。

 坂本滋子は昌之から金の話を聞いた瞬間から、打ちのめされた気持ちになっていた。……
 昌之の行為はずるくきたない。どこまで男らしくない男であろうと、滋子は彼を心の底から軽蔑した。そういう男と半世紀近くも一緒に暮してきた鷹子のことを思うと、だまされつづけた鷹子が可哀想でならない。なぜ昌之との共同生活を解消しなかったのかと、いまさら言ってみても仕方がないが……日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか39

しかしここで、高良真木がモデルではないかと思われる坂本滋子や著者の戸田房子を責めることはできません。男性を清算して女性を新生させようとする思考は、もとをただせば、逸枝が創案したともいえるからです。逸枝が主導した無産婦人芸術連盟の標語であった「強権主義否定」「男性清算」「女性新生」を想起すれば十分でしょう。しかしながら、上で引用した、坂本滋子の心情を戸田房子が描いた表現部分、つまり、「だまされつづけた鷹子が」「日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか」の箇所は、明らかに事実とは異なっています。それを実証するにふさわしい一次資料(エヴィデンス)は存在しないのです。さらに加えれば、逸枝が死去すると晩年の憲三は、逸枝の著作集を昼夜分かたず編集し、石造の立派な墓廟をつくり、病のなかにあっても自身の死が訪れるまで『高群逸枝雑誌』の刊行を続けるのですが、その「献身」の姿に目を向けるならば、「すっかり昌之にしてやられたではないか」という表現がいかに事実無根の誹謗中傷であるかは、すぐにも判明しようというものです。それにしても、事実を曲げてまで、男にだまされた女の哀れさという虚構をつくり上げ、そのうえに立って女性を擁護し男性を断罪するところに、潜在的に定型化されたこの時代の女性作家の固定的視点がにじみ出ているようにも感じ取れます。といいますのも、すでに私は、第二編の「伝記書法論(2)――富本一枝の伝記作家はその夫をどう描いたか」において、高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』(ドメス出版、一九八五年)と渡邊澄子の『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(不二出版、二〇〇一年)を取り上げて検証しましたが、両書においても、事実を無視し、妻を玉座に祭り上げるも、他方でその夫へ一方的な攻撃を加えるという語りが闊歩しているからです。果たしてこうした姿勢が、真実はどうあろうとも男性を悪の化身として俎上に載せ、それを標的に闘おうとする、同時代の女性解放運動家たちにとっての日常活動の常套手段というものだったのでしょうか。あるいは、それとの関連が深い女性史やモデル小説(あるいは伝記小説)と呼ばれるものにおける当時の際立つ記述手法のひとつだったのでしょうか。かくして戸田房子の「献身」は、書かれていることの真偽はともかくとして、市川房枝とその周辺の女たちが秘めていた不満の大きさと執念の深さだけに止まらず、自らが確信する「男性清算/女性新生」という逸枝由来の定式をも、自ずと表出した「女性史」の一幕となったのでした。

それから二年が立ち、橋本憲三は世を去ります。しかし、その後も、憲三への攻撃は続くのでした。

一九八〇(昭和五五)年の秋のある日、憲三の妹の橋本静子のもとに一冊の本が集英社から送られてきました。見るとそれは、集英社刊の円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)でした。これは、女性史に関する論集で、そのなかにもろさわようこが執筆した「高群逸枝」がありました。読み通した静子に、体の震えが止まらない、大きな憤りが吹き出してきたにちがいありません。何ゆえに、こうまで兄が罵倒されなければならないのか――。さっそく静子はペンを握り、もろさわに宛てて手紙をしたためました。これが、憲三の死去に伴い廃刊となっていた『高群逸枝雑誌』が息を吹き返し、「終刊号(第三二号)」として発刊されなければならなかった要因となる部分でした。この誌面に、その手紙は掲載されます。

それでは、一九八〇(昭和五五)年一二月二五日に刊行された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)の「編集室メモ」に目を向けてみましょう。ここに、橋本静子と石牟礼道子のそれぞれの名で、ふたつの文が所収されています。ここでは、静子の文に着目します。この号を出すに至った背景が、こう書かれてありました。

 『高群逸枝雑誌』は兄がひとりの手作りをたのしんだもので、私は終始を門外に居ました。家の孫三人に続いて同居の従業員夫婦の三人の子守りをしなければならず、姉が倒れて寝たままとなったりの事情などもありました。兄の没後も四箇年を過ぎました今、集英社の本に触発されました形で不本意にも終刊号を借ります仕儀となりましたことをなにとぞお許しくださいませ。また、兄生前をお支えいただきましたことを遅ればせながら深く御礼申し上げます。まことにありがとうございました。
 『高群逸枝雑誌』を身近かにお支えくださいました石牟礼道子様お一人だけに事情を申し上げて終刊号を諒承していただきました。志垣寛様の御遺族の志垣美多子様、上村信彦様、鹿野政直様には、それぞれの玉稿の転載を御許可いただきましたことを厚く御礼申し上げます。編集は、水俣在住中の数少ない兄の知友であられた渡辺京二様にお願いしました。渡辺様は雑誌『暗河』の高群逸枝小特集の件で私宅をお訪ね下さったこともあり、その御縁を頼らせていただいた訳でございます。兄の主治医であられた佐藤千里様には、精神安定剤や栄養剤をおねだりしましたばかりでなく、おはげましや有益なご助言をいただきました。ただありがたく、御礼を申し上げる言葉もございません。失礼をいたしましたことはなにとぞ、御あわれみで御寛怨くださいますよう、臥してお願い申し上げます。
 あたたかい陽ざしの此の頃を、兄夫婦の墓家と下段の私どもの墓家を毎日訪ねています。レリーフによりかかりますと、途端に私は八歳の少女になり「イツエねえちゃん。どうしよう?」とたずねます。「静子さん、もういいのよ。あなたもここにいらっしゃい」と声が返って来たように思いました。人は皆、死ぬことに決まっているのに。「お手紙」を書いたことにこころがいたみます40

この『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)は、次の論考で構成されていました。

もろさわよう子様へ 橋本静子
高群逸枝の入院臨終前後の一記録 橋本憲三
  終焉記 橋本憲三
  高群さんと橋本君 志垣寛
瀬戸内晴美氏への手紙 橋本憲三
橋本憲三氏の生涯 鹿野政直
高群逸枝の女性史学 村上信彦
朱をつける人 石牟礼道子

見てのとおり、「もろさわよう子様へ」は、もろさわの「高群逸枝」における記述内容に関しての否定であり、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」は、逸枝の臨終に際しての市川房枝らの言動に対する批判であり、「瀬戸内晴美氏への手紙」は、瀬戸内が書いた「日月ふたり(第三回)――高群逸枝と橋本憲三――」にかかわる表現内容についての反駁となっています。一方、鹿野政直の「橋本憲三氏の生涯」と村上信彦の「高群逸枝の女性史学」は、逸枝と憲三の人生と仕事を称賛する旧稿の転載であり、最後に所収されている「朱をつける人」は、石牟礼道子による独自の橋本憲三論になっています。それではここで、そのなかから静子の「もろさわよう子様へ」の手紙文を選んで、少し触れることにします。静子の文は、次の言葉ではじまります。

 集英社から『近代日本の女性史』第二巻が贈られました。この本のもろさわ様の御担当になる『高群逸枝』を拝見しましたので、初めてお手紙を差上げます。
 兄憲三をいわれもなく侮辱されていますし、二人の四十五年の共生が憲三の卑しい志のゆえんであったと、意図してお書きになっているように思います。憲三には、いずれも「普選会館」のかかわりで二度の面識と言われながら、二回の瞥見で他人の七十九歳の生を斬られたことは無謀だと思いました。
 昭和三十九年(一九六四)六月十日、逸枝の代々幡葬祭場における葬儀で、「憲三の妹静子」(二〇七頁)としてお見知りいただいているようでございますが、逸枝国立東京第二病院入院前後の時にも私はもろさわ様を存じあげていません。……
 文章とは無縁で一行の活字もありません。性格は父母からの血が流れており、理不尽に対しては正直に腹を立てますから、おとなしい方だとは申されないかも知れません。生来、お茶目だと言われています。地位、名声、職業、風采などでは人を見ず、品性や志、それと人柄のあたたかさ、詩情などの情感にひかれます……
 姉逸枝の国立東京第二病院前後にかかわりました遺族のうち、ひとりの生き残りでもありますので、兄憲三のことと合わせて、私の見たこと、感得したことをお伝えしたいと思います41

こうした前書きのあと本論に入り、もろさわの文のもつ誤謬や偏見の数々を、その頁を明記しながら、指摘してゆくのでした。

それでは、もろさわとは、どのような人だったのでしょうか。もろさわ自身、この「高群逸枝」のなかで、自分のことをこう記しています。「橋本憲三を私が見知ったのは、『招婿婚の研究』を頒布するため、高群逸枝著作刊行後援会の事務局が、普選会館に設けられた昭和二十七年(一九五二)だった。そのころ私は、やはり普選会館に事務局を持つ日本婦人有権者同盟の事務局に勤務、機関紙の編集をしていた」42。では、もろさわが書いた「高群逸枝」とは、どのような文だったのでしょうか。この文は、節の番号は付されてありませんが、「その死をめぐって」「詩と真実」「愛と自由」「所有被所有をこえて」の四節で構成され、後ろの三つの節が、逸枝に関する評伝になっています。もろさわ本人が書いていますように、使われている参考文献が、『高群逸枝全集』全十巻(理論社)、『高群逸枝』(鹿野政直、堀場清子著・朝日新聞社)、『娘巡礼記』(高群逸枝著・堀場清子校訂・朝日新聞社)、『火の国の女 高群逸枝』(河野信子著・新評論)といった、多くは既知の二次資料の類であるため、その記述内容に目新しさはほとんどありません。それだけではなく、第一節に相当する「その死をめぐって」が、なぜその後に続く評伝の導入に使われているのかも、その必然性と整合性に鑑みて疑問が生じます。ここに、もろさわ独自のある意図が隠されているように感じられます。静子の目を引いたのは、まさに、この「その死をめぐって」という一節でした。内容は、逸枝の入院と葬儀に際しての、市川房枝をはじめとして、もろさわ自身を含むその取り巻きが感じ取った憲三への不満であり、そのことが、憲三への恨みとなって現われているのです。静子の目には、「兄憲三をいわれもなく侮辱されていますし、二人の四十五年の共生が憲三の卑しい志のゆえんであったと、意図してお書きになっているように思います」と、映ったのでした。

そして静子は、「もろさわよう子様へ」を次の言葉で結びました。

 何ヶ月か前に、郷土紙上の市川房枝様のお名前が出ている記事で、憲三のことがあしざまに書かれていてはらが立ったと、近親者からも聞いています。今回のことといい、何度もむしかえし活字になさらねばならないお心が理解できません。
 私は文筆とは無縁で、一行も活字にした経験はございませんが、亡兄の縁にせがみ、『高群逸枝雑誌』終刊号の誌面を借りて、当面した一人だけの生存者として、真意をお届けいたしました。
  昭和五十五年十月二十五日記43

それでは、もろさわの文から引用して、少し検討を加えてみたいと思います。もろさわは、最初の節である「その死をめぐって」のなかで、普選会館ではじめて見知ったころの憲三の風采を、このように描写します。

憲三は少年のおり傷つけた左眼が失明しているため、首をいささか左にかたむけ、肩をいからせ勝ちにしていた。物資のない戦中に使われた粗末ななわ編みの古びた買い物袋をいつも下げて持ち、膝のつきでた古ズボンをはき、ちびた下駄をせかせか飛び石に鳴らして、普選会館へ入ってくる彼は、その気配に都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人でもあった。それから絶えて会うことがなく、十年余の歳月があったのだが、彼は当時と同じく、大人の男の気配を相変わらずその身に宿してはいなかった44

さらにもろさわは、憲三の人となりを、こう描きます。なかに出てくる「逸枝の業績と人柄を敬愛する人びと」とは、「逸枝の著作生活について、物心両面の支援を長くつづけてきた市川房枝や、逸枝が主宰した『婦人戦線』時代の同志鑓田貞子、晩年の逸枝のもとに繁く出入りしていた浜田糸衛と高良真木ら」45を指します。

 おもいを妻に密着させ、他者への配慮を欠く憲三の自己中心的な態度は、ことあるごとにあらわれたらしい。逸枝の業績と人柄を敬愛する人びとは、それを妻を愛するが故と、なかば苦笑しながら許していたらしいが、逸枝の亡くなった夜、それらの人びとと憲三との間におきた確執は、妻の死をコマーシャルベースにおいて広告しようとする憲三に対する反発からはじまった46

その記述に続けてもろさわは、霊安室での市川房枝と憲三の言葉のやりとりと決裂に至る瞬間を詳述します。他方、最終節の「所有被所有をこえて」にあって、もろさわは、その末尾に、次の語句を当てます。

 逸枝はらいてうの「忠実な娘」と自称しているが、その史的業績は、らいてうにまさるとも劣っていない47

すでに指摘していますように、「その死をめぐって」と、その後に続く「詩と真実」「愛と自由」「所有被所有をこえて」とのあいだには、大きな断絶が認められます。前者において、夫憲三の野暮で自己中心的な態度が強調され、後者において、妻逸枝の史的業績が称讃されているのです。こうした叙述の構図に、夫と妻、つまりは男と女のあいだにくさびを打ち込もうとする、際立つもろさわの意図が感じ取れなくもありません。それが、「女性を善、男性を悪」とみなす、単純な図式が支配する、埋め込まれた固定概念、あるいは、刷り込まれた偏見に由来するものであったのかどうかはわかりませんが、のちに紹介する石牟礼道子の「朱をつける人」のなかでの言説と引き比べてみれば、もろさわが、逸枝と憲三の夫婦が見せたひとつの真実の愛のかたちを見誤っていたことが、自ずと浮かび上がってきます。

それでは、逸枝の臨終の際に生まれた確執について、一方の当事者である橋本憲三は、それについて、どう考えていたのかを見ておきたいと思います。前述のとおり、逸枝死亡後ただちに『日本談義』が特集として「高群逸枝女史追悼」を組むと、憲三は「終焉記」と題した文を寄稿します。内容的は、逸枝の最期の入院に至るまでの経緯について、時系列に沿ってその様子が記述されたものでしたが、その雑誌が刊行された直後に、その補遺として憲三は「高群追悼特集に添えて」という一文を起草していました。静子の「もろさわよう子様へ」と同じく、『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)に掲載されている「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」が、それに相当するものです。この文は、A(市川房枝)、B(浜田糸衛)、C(高良真木)、D(初見の人)、E(市川みさを)と明記したうえで、「終焉記」のなかの論争点となるにちがいない重要な箇所を一つひとつ取り上げ、それについてより具体的に捕捉し釈明したもので、かなりの長文となっています。末尾の一節を、以下に引用します。

 A(市川)は私が当然にも病人の身柄一切に責任を負って個室をとったり、葬儀を正したり、死亡広告を出したりしようとすることを迷惑がっているという実感を私に与え、しばしばあなた(私)はそれでよいだろうが、自分の面目は丸つぶれだという意味のことをいわれるのだが、私はそのつどけげんに思い、考えても見るが氷解できなかった。一つの実例をいえば、私は霊安室で主治医からの解剖希望をことわった。故人は肌身を人目にさらすことを極端にきらっていたから私はそれを尊重したのである。するとA(市川)はあなたはそれでよいだろうが病院にたいして自分の面目は丸つぶれだといったものである。……
私はいま妻の霊前にぬかずいて一切のことがらをかなしく反芻し、彼女の声を聞こうとしている48

市川房枝は、希代の女性史学者である高群逸枝の戦前からの後援者のひとりでした。そのため、逸枝の最期の入院に際して市川は、参議院議員という立場から、「清貧の学者」として、つまりは「施療患者」に準じる者として逸枝を受け入れられないか国立東京第二病院と掛け合っていたようです。また、葬儀に要するおおかたの費用についても、自身が負担する心づもりができていたかもしれません。その前提として、市川とその取り巻きには、逸枝と憲三は乞食同然の「貧民」であるというひとつの思い込みが、疑うことなく、長年意識下で形成されていたのでした。ところが憲三の口から、多額の資金が用意されていることを聞かされたのです。かくして、彼女たちがもつ暗黙の「貧民」像が崩れ落ちてしまいました。ここに、市川グループと憲三との反目の原因があったといえます。市川にしてみれば、自身が中心となってこれまで逸枝支援を要請してきた友人たちに対して、そしてまた、自身が仲介の労をとった病院に対して、「自分の面目は丸つぶれ」ということになるのかもしれません。一方の憲三は、なぜ自分の自由意思で妻の死に向き合うことができないのかという疑念に、そのときさいなまれたものと推量されます。そこで、それらのことも踏まえながら、この問題につきましての私見を、以下に少し述べることにします。

一点目は、憲三が個室と面会謝絶の対応を病院に要求したことについてです。市川房枝とそのグループの女性たちは、時間の許す限り病室を訪れ、手を握りしめながら、思い出を語り、感謝の言葉をお互い交わし合って、最後の日を迎えたかったものと想像されます。したがいまして、個室にかくまい、他者の面会を拒絶しようとする憲三の行為は、そうした人たちの願いを踏みにじるものであったかもしれません。しかし、夫である憲三には、妻に対する固有の別の感情がありました。つまりそれは、残り少ない時間にあって多くの後援者たちが見舞いに押しかけ、それに無理をして応対する状況が続けば、妻の心身の衰弱は一気に進行するにちがいないという懸念でした。そもそも三十余年ものあいだ「森の家」に引きこもり、来客を断ち、机を友に生活してきた逸枝でしたので、個室と面会謝絶を強く望んだのは、むしろ逸枝の方だったのかもしれません。

二点目は、病院が完全看護制だったことについてです。逸枝が入院した病院は、完全看護という医療制度のなかにありました。のちに石牟礼道子は、『高群逸枝雑誌』に掲載の「最後の人」のなかで、憲三が語ったこととして、次のように書いています。

 完全看護制などということがわかっていれば、入院などさせなかったのです。ここで、彼女が求め続けていた森の家でのいとなみを終わることができたのに、僕がうかつにも気付かなかったから、彼女のいとなみを断ってしまった……49

完全看護制を敷くこの病院は、憲三にとって、決められた短い時間以外はもはや自分が入り込むことができない、いままでに経験のなかった、ふたりを分かつ異界でしかありませんでした。あくまでも憲三は、ふたりして長く暮らしてきた自宅の「森の家」で、逸枝をしっかりと胸に抱き、最後の別れの言葉を交わしたかったのではないかと思われます。実際にそれができなかったことは、まさしく「慙愧の極み」として、その後終生憲吉を苦しめ、そうした後悔の弁が、上記引用のごとく、身近な石牟礼へ向けられたのではないかと推察されます。

もっともそれは、この病院を紹介した市川房枝に責任があるわけではありません。しかし、その制度により、最後に手を握ることもできないまま、独り妻を旅立たせてしまうという、夫のつらさだけが残る結末となってしまったのでした。

三点目は、故郷の熊本で葬儀を行なうことができなかったことについてです。逸枝が亡くなると、主要な新聞紙上において、高群逸枝の死亡記事が掲載されました。地元紙の『熊本日日新聞』も、二日後の六月九日の朝刊九面で報じました。

 高群逸枝さん(本名橋本イツエ、女性史研究家、評論家)は東京・目黒の国立第二病院入院中、七日午後十時四五分ガン性腹膜炎のため死去、七十歳。……十日午前十時から自宅で密葬。本葬は熊本で行なう予定。日時その他は未定。

しかしながら、本葬が熊本で行なわれることはありませんでした。憲三が、市川房枝らの主張に譲歩したためでしょう。といいますのも、すでに引用にて示していますように、葬儀委員長を務めた志垣寛が、『日本談義』に寄稿した追悼文「高群さんと橋本君」のなかで、「初め橋本君は彼女たちからのがれたくて、葬儀は熊本でとり行うといつて彼女たちをおどろかせた」と書いているからです。

ここで想起すべきは、逸枝の「望郷子守唄」です。一九五三(昭和二八)年一一月四日の夜、夢のなかで、次の一首が浮かんできました。参考までに、それに対応する「五木の子守唄」の原詩を角括弧のなかに入れておきます。

おどま帰ろ帰ろ熊本に帰ろ
恥も外聞も 忘れて50
[おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと 盆が早よ来りゃ 早よ戻る]

そして、目が覚めた翌朝、続けて一〇首をつくりました。かくして一一首からなる、逸枝の「望郷子守唄」は完成したのでした。その後、「望郷子守唄」は歌碑となって、逸枝の生まれ故郷に建立されます。憲三が、逸枝の本葬を熊本で行ないたかったのも、こうした逸枝の望郷の念を引き受けてのことであったにちがいありません。そうすることができなかった夫憲三の無念は、いかばかりのものだったでしょうか。

一方、逸枝ゆかりの松橋町久具の寄田神社の境内で行なわれた「望郷子守唄」の歌碑の除幕式には、浜田糸衛も高良真木も出席しました。憲三は、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」にこう記しています。

 B(浜田)、C(高良)の両人はかつて「望郷碑」の序幕式当時から水俣の私の姉妹と知り合い(そのときは湯の児の三笠屋旅館に案内したり自宅に接待したりした。……)……51

そうであれば、浜田も高良も、ある程度、逸枝が故郷に寄せる思いを知っていたものと思われます。この引用文に続けて、憲三は、こうも書きます。憲三本人からだけではなく、浜田と高良からも逸枝の入院の知らせが、水俣に住む憲三の妹の静子のもとに届きます。

……上京に際し妹夫婦は羽田に迎えられたが、普選会館までの車中、以前とは打ってかわった不思議な私のざんぼうをきかされ驚き悲しみ私を見るまでは心もそらだったと、あとで妹は私にいった。病院に直行せず、まわり道して普選会館のA(市川)のもとに連れ込むことは私には解しがたいことであった52

病院に行くよりも、まずは、病院を紹介した市川のもとに行くことが企図されています。人のいのちにかかわるこの瞬間において、あいさつやお礼、あるいは、真偽がわからない状態での兄の讒謗にかかわっての謝罪といったものが最優先されなければならない理由は、どこにあるのでしょうか。ここに形式主義や権威主義の影をかいま見るような気がします。

四点目は、死亡広告についてです。憲三にとって、妻の死亡広告を新聞に出すことは、逸枝の両親の例に倣ったもので、妻の死に対する夫の最大の儀礼を示すものでした。逸枝は、そのことについて、こう書いていました。

 母が死んだとき父は九州日日と九州の両新聞に家族連名の死亡広告を出して、有縁の人たちに知らせることを忘れなかったが、またこれは母への最後の父の敬意でもあったろう53

したがいまして、死亡広告を出すことに拒否反応を示した市川房枝は、明らかに高群家の習わしに無理解すぎたといわざるを得ません。どの家庭にも、あるいは、どの地域にも、家族の死に対する独自の習わしやしきたりがあるものです。

『熊日』においては、死亡広告は六月一一日朝刊四面に掲載されました。「夫 橋本憲三 親戚代表 橋本英雄 高群晃 友人代表 家永三郎 志垣寛」の連名によるもので、「告別式」を自宅で行なうことが、以下のように告知されたのでした。

高群逸枝(橋本イツエ)こと六月七日午後十時四十五分永眠いたしました 茲に生前の ご厚誼を深謝しご通知いたします 追て来る六月一五日午後三時より五時まで自宅にて仏式により告別式を相営みます

友人代表を務めたのは、東京教育大学(現在の筑波大学)文学部の日本史の教授の家永三郎と、同郷熊本県の出身で教育評論家の志垣寛のふたりでした。市川房枝の名は、ここにはありません。二日前の六月九日の『熊日』の死亡記事には、「本葬は熊本で行なう予定」と書かれていたことを覚えていた『熊日』の購読者、とりわけ逸枝を慕う人びとは、この死亡広告を見て、なぜ、予定どおりに地元熊本の地で逸枝を送り出せないのか、不自然さと不満を感じた読者も多かったのではないかと考えられます。

五点目は、市川房枝が「見舞金」の返却を憲三に求めたことについてです。すでに書きましたように、市川は、逸枝の遺体が運ばれた病院内の霊安室において、死亡広告や葬儀のあり方について憲三と意見があわず、そのためその場で、入院に先立って渡していた「見舞金」の返却を憲三に要求しました。人それぞれに「常識」は異なるとしても、私なりの「常識」からすれば、市川のこの行為は、常軌を逸した極めて異常な振る舞いのように映ります。果たして市川は、「見舞金」にどのような意味を込めて憲三に渡していたのか、それを考えると、実に複雑な思いに駆られます。

他方、憲三の受け止めとは違って、ひょっとしたら市川は、このとき激怒するがあまり、わずかな「見舞金」ではなく、これまで自身が支援に使ったすべての金品の返却を暗に求めたのかもしれません。しかし、これも意味をなしません。といいますのも、生涯にわたって逸枝が受け取った、個人と財団からのあらゆる援助金は、彼女のあの膨大な著作を通じて、学問の発展と女性の自立への貢献という点において、十分に弁済されているものと考えるからです。

最後となる六点目は、憲三が保持していた金融資産についてです。逸枝は独立研究者ですので、退職金があるわけでも、年金が保証されているわけでもなく、年をとり筆が細れば執筆料の収入も細くなり、かといって、ときおり恵まれる支援の金品もあくまでも相手次第で、いつ途切れるかわからず、そのような家計環境のなかにあって、常にその日暮らしをするわけにもゆかず、老後の生活や、医療や葬式などのために将来必要となるであろうと思われるしかるべき資金を用意していたからといって、必ずしもそれは、非難に値する事柄ではなかったのではないかと思量します。人に施しをすることは尊いことです。しかし、そのことで人を支配したり、束縛したりすることはあってはならないことではないでしょうか。

以上の諸点を踏まえて結論的にいえば、たとえどんなに生前故人に多大な援助を与えていたといえども、入院や葬式は、最終的には、遺された親族の判断にゆだねられるべき事柄であって、仮に親切心からであろうとも、あるいはまた、たとえ「貧民」とみなす思い込みがあったにせよ、強引にそのなかに割り込み、差配しようとする行為は厳に慎むべきことではなかったろうかというのが、私の理解です。

さらに加えていえば、逸枝が亡くなる日まで、着るものも貧相、家具や食器も貧弱、口にするものも粗食であったこのふたりの、貧しさに甘んじた暮らしぶりを考えたとき、また、たとい日ごろはそうであろうとも、愛する妻との最後の別れのときだけはできる限りの贅を尽くして見送りたいという夫の心情を考えたとき、日常的にはその支援行為に深い謝意を捧げながらも、このとき市川が示した言動ばかりは「考えても見るが氷解できなかった」状況に立たされてしまった憲三のつらさは、いかばかりのものであったろうかと推察されます。総じていえば、この対立には、明らかに個人的問題に対する過剰介入が災いしているように思われますし、他方、男性の行為のすべてを強権行使の結果とみなすような、ひとつの強固な女性固有の視点が、さらに問題を複雑化させているとも、感じられないわけではありません。社会的経験を積んだ今日にあっては、著名人の場合、近親者による本葬儀と、その後の「お別れの会」が切り分けられて営まれるようになってきていますが、当時にあってはいまだその線引きは明確でなく、あたかも遺族と後援者との綱引きを見るかのような、そのときの混乱と双方の不信は、誠に不幸な出来事であったとしかいいようがありません。以上が、私が愚考するところです。

しかしながら、こうした私のような考えを是とし、それに近い立場に立って、高群と橋本の伝記なり論評なりを書く人は、ほとんどいませんでした。多くの執筆者は、市川房枝らの行動を支持する立場から、裏を返せば、橋本憲三のエゴイズムを過度に誇張し、ことさら強調する立場から、いまなお、この件について、書き継いできているのです。そこで最後に、憲三と静子の身近にいて、ふたりの苦しみを日常的に目の当たりにしていた石牟礼道子の見解に、耳を傾けようと思います。静子の「もろさわよう子様へ」が掲載された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)に、道子は「朱をつける人」を寄稿していますので、ここで、それを読んでみることにします。

一九七八(昭和五三)年の暮れ、道子は、沖縄の久高島に行き、その地に残るイザイホーの名で知られる祭儀を見学しました。道子はこう書きます。「一二月一四日(昭和五十三年)初日の『夕神 アシ び』から始まった神事の第三日目、『花さし遊び』の日が、とりわけわたしには感銘深く思われた」54。「『夕神 アシ び』から始まった祭儀は三日目に入り、『花さし アシ び』の中の『朱つき』『朱つき アシ び』へと展開してゆく」55

イザイホーは、三〇歳を超えた島の既婚女性が神女となるために行なわれる、一二年に一度開催される一種の通過儀礼で、そのなかのひとつの儀式が、根人と呼ばれる男性主人が、ナンチュと呼ばれる巫女の額と両頬に朱印をつける神事です。道子の論考の題に用いられた「朱をつける人」は、そこに由来します。

静子が、もろさわの「高群逸枝」について、その誤謬を正そうとして正面から論じたのに対して、道子は、背後に回り、そのなかで侮蔑的に描写されていた逸枝と憲三を救い出そうとして、論理的にというよりは、むしろ詩的に、ふたりに備わる幾多の美質を説こうとします。道子は、まず、こういいます。

……本稿は、『高群逸枝雑誌』の発刊と終刊に立ち会いながら、ただただ無力でしかなかったひとりの同人として、森の家と橋本憲三氏の晩年について、いまだ続いている服喪の中から報告し、読者の方々への義務を果たしたい56

憲三の死から四年が過ぎてなおも服喪に身を置く姿を見ると、単なる「ひとりの同人」の域を超えた道子の、「森の家」で静子を立会人として「高群夫妻とそして自分とに、後半生を誓った」57決意が蘇ります。道子は何としてでも、敬愛する逸枝と憲三を、落とされた闇のなかから救済し、その名誉を回復せねばならないのです。それが、道子が自覚する、まさしく「義務」だったのでした。道子は、こう書きます。

 死の数日前水俣から上京して、病院を見舞った義妹の静子さんに、「森の家に行ったら、ぜひ『留守日記』を読んで下さい」とわざわざ彼女がいったのは……森の家に帰りたいのを訴えていたのではあるまいかと思えてならない。
 私どもが夫婦の生き方に心をゆすぶられてやまないのはなぜなのか、愛の形はいろいろあろうけれども、この二人においては徹底的に相手に対して真摯にむきあい、慢性的な弛緩やなれあいが、みじんも感ぜられないからであろう58

そして憲三については、こう書きます。道子は「森の家」で、自身の出発作となる『苦海浄土』の初稿となる「海と空のあいだに」を書いていました。

 その後の著書はすべて『椿の海の記』に至るまで、師が最初の読者、批評者であった。いかに透徹し卓越した批評家であられたことか。水俣のせんすべない事情はえんえんにひき続き、今に至るも恩師から託された御志を果たせないでいる。御死去に逢い、はなはだしい気落ちからいまだに立ち直れないのである59

道子が「久高島で十二年に一回、午年 うまどし に行なわれるイザイホーの神事をまのあたりにした時、胸に去来してやまないことがあった」60。それは道子にとって、「今は亡き森の家のふたりに、生命の奥の妙音を聴くような、あるいは生命の内なる宇宙の、光源の島にたどりついたような秘祭」61だったのでした。道子は、「朱をつける人」を、次の言葉で結びます。

深い感動の中にいて、「花さし アシ び」の中の朱つけの儀式、素朴な木の臼に腰かけているナンチュと、その額にいましも朱をつけるようとしている根人の姿に、著者には高群逸枝とその夫憲三の姿は重なって視え、涙ぐまれてならなかった。
 逸枝がいう憲三のエゴイズムは、男性本来の理知のもとの姿をそのように云ってみたまでのことであったろう。その理知とは究極なんであろうか。久高島の祭儀に見るように、上古の男たちは、懐胎し、産むものにむきあったとき、自己とはことなる性の神秘さ奥深さに畏怖をもち、神だと把握した。そのような把握力のつよさに対して女たちもまた、男を神にして崇めずにはおれなかった。そのような互いの直感と認識力が現代でいう理知あるいは叡智ではあるまいか。
 憲三はその妻を、神と呼んではばからなかった62

この結語をもって、もろさわから憲三に浴びせられた罵声への反論として書かれた、道子の「朱をつける人」は終わります。

かくして「朱をつける人」を擱筆した道子は、このとき、憲三のことを、逸枝に対してだけでなく、自分にも朱をつけてくれた人として受け止めていたにちがいありません。道子にとって憲三は、のちに告白するように「最後の人」であると同時に、まさしく「朱をつける人」だったものと思量します。

橋本静子の「もろさわよう子様へ」と石牟礼道子の「朱をつける人」が掲載された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)が刊行されておよそ二箇月後、今度はもろさわようこが筆を執り、『毎日新聞』に寄稿します。以下は、「視点」欄に掲載された、もろさわの「市川房枝さん」の一部です。

 市川さんとはまったく無関係に、私が執筆した文章が原因になり、昨年末、市川さんに対する誤解をもとに編集された小雑誌が出た。このことについて市川さんは、誤解にもとづく悪口は言われ馴れている、事実はかならずあきらかになることを信じているので、気にしていませんと、濶達に笑っていた63

「事実はかならずあきらかになることを信じているので」あれば、戸田の「献身」やもろさわの「高群逸枝」にみられる、周囲の人間の語りにまかせるのではなく、一方の当事者である市川本人が口を開き、自身の真意を広く公にする方が、より正確で迅速な方法だったのではないでしょうか。しかし、市川房枝の随想集『だいこんの花』(一九七九年、新宿書房)と、その養女である市川ミサオの回想記『市川房枝おもいで話』(一九九二年、NHK出版)を見る限りにおいては、そのことについていっさい触れられていません。この沈黙こそが、憲三との絶交の意思の強さを如実に表わしているともいえますし、あるいはその沈黙を、自身の行為の正当性を述べるほどの自信がもはや希薄になっているあかしとして受け止めることもできるかもしれません。

一方、市川房枝と同じく、逸枝にとっての最大の支援者のひとりであった平塚らいてうの態度はどうだったのでしょうか。ここで改めて、一九六四(昭和三九)年六月七日に逸枝が死去した直後の、周囲の人間の動きへと、立ち返らなければなりません。逸枝を慕う、高群研究者の村上信彦がそのときの自身の体験を、こう書き記しています。

 取るものもとりあえず、国立東京第二病院に駆けつけ、霊安室に直行した。室の中央の台の上に遺体が安置され、顔に白布をかけてある。一方に一段高い畳敷の小さな部屋があって、先客が集まっている。平塚らいてう、市川房枝、浜田糸衛、高良真木、熊本から来られた友人の五人である。……だが私は興奮していた。「なぜもっと前に知らせてくれなかったのです」と廊下で橋本氏に食ってかかり、こんなことになるなら面会謝絶を無視して押し入ってでもいま一度会っておきたかった。面会謝絶を忠実に守ったばかりに唯一無二の機会を逸してしまった。おれはばかだった……。無念と怒りが渦巻いて、私は強く詰め寄った。さだめし血相を変えていたにそういない64

このとき村上は、憲三から、東京では密葬のみとし、その後本葬儀を熊本で執り行なう予定であることを聞かされ、この日が事実上の最後の別れとなりました。しかしその後、周囲の意見に押されて、自宅の「森の家」で葬儀が行なわれることになり、案内状が送られてきたものの、村上は出席しませんでした。葬儀も終わった、六月一八日に村上は、らいてう宅を訪ねます。この日の話題は、主に逸枝のことでした。村上は、こう書いています。

いろいろ話しているうちに、らいてうが高群さんをどのように評価していたかも分かり、この二人の女性の関わりを興味ふかく感じた。そのとき私は十日前の霊安室でのはしたない振舞を詫びたのであるが、私がまず詫びねばならなかったのは橋本氏だったと分かる日が、やがてやって来るのである65

らいてうが村上をどう諭したのかはわかりませんが、霊安室で見せた橋本憲三の言動について、らいてうが深い理解と信頼を置いていたことは確かでしょう。らいてうは、東京での葬儀のあとも、自身の死が訪れるまで、引き続き水俣に転居した憲三に寄り添います。その最たるものが、らいてうの発案のもと、一九六九(昭和四四)年の春に高群夫婦の住居跡に建立された「高群逸枝記念碑」への貢献でしょう。臨終という同じ場に立ち会いながらも、その後に市川房枝が示したきずなの断絶と平塚らいてうが示した友愛の継続――この違いは一体何だったのでしょうか。学者への援助のあり方、夫婦としての存在の仕方、人の死を洞察する力等にかかわって、一考に値するテーマかもしれません。

三.栗原弘が描いた高群逸枝像と妻の栗原葉子が描いた橋本憲三像を巡って

石牟礼道子は、逸枝の死後、東京から水俣へ居を移した橋本憲三の晩年の様子を、こう描写しています。

 水俣に移られてから、全集の売行と比例して訪問者たちがこの部屋に「防ぎようもなく侵入し」はじめていた。森の家の原則はくずれかけていた。卒論を控えた学生たちとか、新聞の人たちとか、いわゆる逸枝ファンの人たちだったが、なぜ氏が逸枝の蔭の人として終始されたか、その秘密を知りたい、隠されている ・・・・・・ それを直接氏の口からききたい、というのはその人たちのやみがたい希求のようであった。氏はたいてい寡黙に微笑して、例のように額の汗を拭きながら悪戦苦闘して答えられる66

「防ぎようもなく侵入し」てきた訪問者には、栗原弘と栗原葉子も含まれます。憲三の一九七三(昭和四八)年七月一〇日の「共用日記」に、このふたりの来水の様子について、こう記されています。

栗原弘・葉子さん、河野さんの紹介名刺をもってみえる。同志[社]大院生(3年)、高群研究(婚姻)をしているとのこと。6時ごろ水天荘へ。葉子さんは同大学美術科出身。また院生になって勉強したいとのこと67

続く七月二三日の「共用日記」には、「同志社大学院生(3年)栗原弘さんみえる。1月ぐらい下宿して、高群婚姻史についていろいろ質問したいとのこと。下宿について西条美代子さんを紹介する」68、さらに七月三一日の「共用日記」には、「栗原さん、『平安鎌倉室町家族の研究』コピーはじめ、市役所で(ゼロックス)」69との記載があります。

それから三年後、憲三は死去します。遺された静子の大きな仕事は、憲三の遺言に従い、それを忠実に遂行することでした。それについて、道子は、こう書いています。

[橋本憲三先生]ご生前私は、彼女[高群逸枝]に関する資料をいただきたいとお願いしたことは一度もなかった。橋本先生ご死去の直前からそのあとにかけて、彼女の女性史研究の資料をめざして、多くの人たちが意思表示をはばからないのを知って、私はある困惑に包まれた。憲三先生が死の直前まで「彼女のゴミ類」を焼却しようとされ、妹の静子さんに実行させられたのは周知のことである70

栗原弘と栗原葉子も、「橋本先生ご死去の直前からそのあとにかけて、彼女の女性史研究の資料をめざして……意思表示をはばからない」訪問者だったようです。といいますのも、栗原葉子の文に、このような一節があるからです。

 氏の葬儀の後、憲三氏の令妹橋本静子さんから高群の未完の遺稿「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」、高群の使っていた書物十冊ほど遺品分けのように譲り受けた71

栗原弘の校訂による『平安鎌倉室町家族の研究』が、一九八五(昭和六〇)年二月に国書刊行会から上梓されると、続いて、栗原葉子と栗原弘のふたりの校訂になる『日本古代婚姻例集』が、一九九一(平成三)年五月に高科書店から刊行されるに至ります。しかし、この遺稿は、道子が書いているように、「彼女のゴミ類」に相当するものでした。といいますのも、憲三自身、『高群逸枝全集』の最終回の配本となった第七巻「評論集・恋愛創生」の「解題/編者」のなかで、次のように書いているからです。

 全集には、はじめ、もう一巻、「平安鎌倉室町家族の研究」を予定していたが、編纂の最終段階で検討の結果、この原稿には書き込みが非常に多くて接合不明の箇所なども少なくなく、ことに表類にいっそうその難があり、その他にも書き入れ指定が果たされていない等、そのまま活字製版に付することは可能でないため、やむをえず、これは除外されるにいたった。別に、「日本古代婚姻例集」の採録も一応考えられたのであったが、その成果の精髄は「平安鎌倉室町家族の研究」とともに「招婿婚の研究」に吸収されていることではあり、強いて採録するにもおよぶまいとして、同じく除外されることになった72

こうした背景に照らして考えますと、校訂本『平安鎌倉室町家族の研究』が刊行され、世に流布したことに、静子は、遺族として、また著作権継承者として、驚きを禁じえなかったものと推量されます。それというのも、憲三が「彼女のゴミ類」とみなした逸枝の未完の手稿である「平安鎌倉室町家族の研究」が栗原弘の手によって校訂されて上梓された翌年の一九八六(昭和六一)年に、『女人藝術』の復刻版が龍溪書舎から刊行されるのですが、そのとき、逸枝が寄稿した文のすべてが、「著作権継承者の了解が得られませんでした」という理由により、復刻版から削除されるからです。静子自らが、自分のことを「遺言による高群逸枝著作権継承者」73と書いていますので、『女人藝術』の復刻版が世に出るに当たって逸枝の文の掲載を見送る判断をしたのは、静子本人だったものと考えられます。憲三の遺言書は現存していないようですが、おそらくそのなかに、『高群逸枝全集』以外の著作物は、今後いっさい人の目に晒してはならぬといったような指示がなされていたのではないかと想像されます。したがいまして、「書き込みが非常に多くて接合不明の箇所なども少なくなく」、そのため『高群逸枝全集』の収録から除外された、未完手稿の「平安鎌倉室町家族の研究」が、校訂本という姿に変わり突如として発刊されたことは、高群逸枝著作権継承者である静子にとって、さらには、すでに黄泉の客になっているとはいえ、『高群逸枝全集』の編集者であった夫の憲三にとっても、晴天の霹靂だったにちがいありません。『平安鎌倉室町家族の研究』の「あとがき」にも、著作権継承者の静子の承諾を得て出版に至ったというような経過説明にかかわる文言は見出せません。

続いて、一九九一(平成三)年五月に、栗原葉子と栗原弘のふたりの校訂になる『日本古代婚姻例集』が、高科書店から刊行されます。さらにそれから、三年が経過しました。一九九四(平成六)年の九月、『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』が、高科書店から世に出るのです。著者の栗原弘は、その「はしがき」において、こう述べています。

 高群逸枝は『母系制の研究』『招婿婚の研究』という大著を発表し、日本の原始古代社会に母系制が存在し、女性の地位が高かったことを主張した。今日、この高群学説には批判と賛同が複雑に交錯し、どちらかといえば、批判の方が多いといえるであろう。しかし、婚姻史・女性史の分野では今なおその影響力は少なくないといえる。筆者は大学院生の頃、村上信彦の論文に影響を受け、高群学説に傾倒した。その当時は、同学説が正しいと信じて二、三の論文を執筆した。その後、高群の遺稿『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』の出版にたずさわり二著を世に送り出した。二著は、高群学説の実証部であった。筆者は二著の校訂作業の過程で、高群学説の実証には根本的な誤りがあることに気付いた。
 高群学説の誤謬には洞富雄から鷲見等曜まで、実にさまざまな批判が行われてきた。筆者はそれらの多くが正しいことが理解できるようになった。しかしながら、従来の批判は、彼女がひたすら真実を追求した結果が不幸にも誤っていたとする見解に立っていたと思われる。ところが、筆者の追調査によれば、高群学説の誤謬は彼女の極めて意図的な操作改竄の産物であったことを確信するに至った74

鷲見等曜の『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』は専門書であったこともあり、一般の人の目には留まらなかった可能性がありますが、栗原弘のこの本は、地元紙である『熊日』の書評で取り上げられたということもあり、おそらく、静子も道子も、この書評を読み、実際に『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』を手にしたものと思われます。

それでは、この本には、どのようなことが具体的に書かれてあったのでしょうか。その内容の中心となる部分を、幾つか以下に引用します。著者は、次のように、高群史学が「整然とした誤謬 ・・・・・・・ 」によって成り立っていることを説きます。

このように、高群が、事実に反して、妻方提供型を主流として描いたことによる誤謬・説明不足には、実に明快な法則性がみられる。
  婚姻の前半期(詳述)  婚姻の後半期(略述)
  外祖父と外孫(詳述)  祖父と内孫 (略述)
  母子関係  (詳述)  父子関係  (略述)
  両親と娘  (詳述)  両親と息子 (略述)
  夫と妻方  (詳述)  妻と夫方  (略述)
  家の女系伝領(詳述)  家の父系伝領(略述)
右のように、極めて意図的に、一方に偏った叙述構成となっている。このような「整然とした誤謬 ・・・・・・・ 」こそ、高群自身が、自身の誤謬を認めていた、動かぬ証拠というべきである。意図の内容を一語でいえば、族制上の非父系的(高群によれば母系制)側面を前面に押し出して、父系的側面を無視したわけである75

それでは、こうした「整然とした誤謬 ・・・・・・・ 」は、いかなることが原因となって生じたのでしょうか。高群史学にあっては、「男性史から女性史を自立させ、女性解放の歴史的根拠を打ち立てることが目標とされていた」76とみなす著者は、「整然とした誤謬 ・・・・・・・ 」の発生要因を、自身が抱く「理想」を優先させ、見出した「史実」を隠蔽したことに求めようとします。

 以上のような前提に立脚する高群の歴史研究は、避けて通ることができない難問を内包していた。一方で極めて実証的な作業を行いつつ、他方では、立証不可能な理想像を追い求めていたからである。ここでは、理想像への憧憬の強さが、客観的事実における整合性の範囲を逸脱し、過去の史実を改変させる危険性が内在していた。すなわち、高群史学とは、女性に関する歴史を、冷静にみようとする存在史ではなく、女性に生きる希望を与えることを使命とした当為史であったと言えよう。ここに、高群史学の特質(生命)があり、また問題点もあったのである。高群が、歴史研究の全生活中で、最大のエネルギーを投入したのが、五〇〇家族の調査であった。ところが、高群は、五〇〇家族の数量的分析結果をどこにも発表していない。五〇〇家族という膨大な事例を婚姻形態に分類し、それを各時代別に数量的に示せば、読者には、各時代の婚姻居住形態が一目瞭然で理解されるはずである。しかし、高群は、それらの正確な調査結果の報告を、明らかに拒否している。理由は、はっきりしている。高群が発見した史実 ・・ と彼女の理想 ・・ とが、齟齬していたからである77

さらに著者は、こうした「意図的な操作改竄」あるいは「創作原理」は、単に『母系制の研究』や『招婿婚の研究』といった学術の範囲を超えて、日記等を含む逸枝の全著述に共通する特徴であるとして、その敷衍化を試みます。

 高群の誤謬問題について、参考になるのは、『火の国の女の日記』である。その中で、高群は、酒乱の父に苦悩した家族であったにもかかわらず、「一体的同志的」結合を遂げた理想的夫婦であるかの如く描写している。これは、明らかに、自己の理想的夫婦像を、父母に投影した、事実に反する虚構である。彼女の場合は、通常一般の人間が、親族の恥を隠すために、事実を改竄する性質のものと一線を画さなければならない。というのは、自己の理想のために、事実が曲げられるのは、彼女の著作に共通しているからである。高群は、自分の父母の過去の事実を正確に把握しており、また叙述のための方法論上の錯誤があったとは思われない。その上で、高群は、極端な事実の変容をおかしているのである。……ただし、『母系制の研究』『招婿婚の研究』は研究書であり、日記と同等に扱うことはできない。もちろん、それは通常の人ならばそうなのである。高群はそうではない。彼女には、詩も研究書も日記も同等の作品なのである。それ故に、すべてに共通した創作原理が存在している78

一九九四(平成六)年の九月に『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』が刊行されると、学問の世界へとその影響は広がってゆきました。その一例を、翌年(一九九五年)一〇月に福岡市女性センター「アミカス」を会場に比較家族史学会との共催によって開かれたシンポジウム「『国家』と『母性』を超えて――高群女性史をどう受け継ぐか」に求めることができます。発表者は、石牟礼道子、栗原弘、女性史研究者の西川祐子の三人で、司会を社会学者の上野千鶴子が務めました。各自の当日の発言内容をまとめた、このシンポジウムの報告書は、一九九七(平成九)年三月に、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)として、早稲田大学出版部から公刊されました。そのなかに、道子の「表現の呪術――文学の立場から――」を見ることができます。そこには、「当日のレジュメ」も再掲載されており、道子は、その冒頭に、こう書いています。

 かの有名な、
 われ日月の上に座す
 詩人 逸枝
というのを、まだわたしは読めていないと近頃思う。栗原弘氏の提出された、高群逸枝の歴史改竄説以来、結構このあたりでも、藪の賑わいが聞こえてくるからである。逸枝の業績を一瞥もしないで「やっぱりそうか」と鬼の首でもとったような揶揄が聞こえてくるけれども、もとよりそれは栗原氏の望まれることではあるまい。私は、壮大な仮説の古典として高群史学を読みたい79

当日の道子の実際の発言がどうであったのかは再現できませんが、その後に起稿した「表現の呪術――文学の立場から――」のなかから幾つか以下に引用して、「高群女性史をどう受け継ぐか」という主題に対しての道子の考えを探ってみることにします。道子は、どのような観点に立って、栗原弘の説く「意図的な操作改竄」から逸枝を救難したのでしょうか。まず道子は、「詩人としての逸枝」について言及します。

 栗原さんから投げかけられました高群さんの歴史歪曲説は大変ショックでございます。……
栗原説の事件で、わたくし、はっといたしましたのは、かの有名な、
 汝洪水の上に座す神エホバ
 われ日月の上に座す詩人逸枝
という詩を若年の折に、発表致しまして、大方の顰蹙を買いました。……
 詩人、芸術家というものは、その現身は世俗の中にあるほどに、巷を歩けば千の矢が飛ん来るという事も作品に書き付けております。そういう風にしか生きられないのが詩人ではないでしょうか。……
同時代の詩人たちにくらべて、熊本時代も処女詩集の時代も『婦人戦線』のときも、異性との家出事件も、「森の家」も、終始一貫、彼女は、一般社会からみれば、異様で、エキセントリックで、トラブルメーカーでさえありました80

次に道子は、「詩から学問へ」という文脈で、逸枝の業績を語ります。

詩というものは、その世に対して即効的で有効性のあることをいえるわけではない。表現と言うのはそういう宿命を持っています。ですから、その詩は、一種、呪術的に成らざるを得ない。古代呪術の力をもった詩人が希にいます。学術論文でそれをやろうとして、人跡未踏の女性史というものに取り組んだ時、彼女の内なる詩は点火されて……鳥瞰的な表現を幻視したのではないか。そういう欲求がせめぎ合ったのではないか。……
高群さんは、こうあって欲しいという女たちの国を最高に良い形で作り上げてみせる、という詩と学問との刺激的調和を、誰も書いた事のない、一種の飛躍的新世界。神話劇みたいな大叙事詩を書こうとする衝撃が、噴火状態になって出てきたのだと思います。そのとき、彼女にはやはり歴史上の女たちが乗り移って、心象世界の核に成ったのだと思います。
 そうすると、今まで調べてきた平安・鎌倉・室町の五百家族、藤原氏の日記の全部を読破するということで蓄積してきた資料の中から、彼女の詩的な欲求に応じて、資料の方が波頭を立てて彼女と呼応したのだと思います81

このように道子は、まずに詩人の幻視があり、次に史料から聞こえてくる歴史上の女たちの声に耳を傾け、最終的にそれを歴史的時間軸に並べ直し全体が俯瞰できるようにしたものが高群史学ではないかと、いうのです。栗原学説が、「意図的な操作改竄」という用語を使って高群史学を否定的にみなしたのに対して、明らかに道子は、それを肯定的にとらえ、詩人のもつ創造的エネルギーの産物として理解したのでした。果たして逸枝は、日本史学上の「ペテン師」ないしは「犯罪者」だったのでしょうか。それとも、女性史という新しい学問の「創造主」ないしは「預言者」だったのでしょうか。道子は、憲三の言葉を紹介して、このようにまとめます。

 橋本憲三先生は、常々、「あなたは、高群逸枝を信じなさい」とおっしゃっていました。私が聞こうとすると、早くも察知されて、「信じなさい、マルクスが、初期の頃に、人類の精神の富ということをいいましたが、高群が定説化した女性の為の精神の富は、みんなで、実らせて行く価値があるとぼくはおもいます。だから信じなさい」、といわれたことが、今思い当たります。その後、私は、水俣の事情とか、視力の事情とかがあって物理的に時間がとれなくて、勉強ができていませんが、今までやれずに来たのも幸運と思います。皆さんの実りのある研究成果を頂戴する事ができて、有難いと思っています82

それでは最後に、再び「当日のレジュメ」から一節を、少し長くなりますが、引用します。これが、このシンポジウムにおいて、道子が最もいいたかったことではないかと、推量するからです。

 人跡未踏であった女性史の原野にわけ入るのに、地母神たちの力に押されて、伏在する女たちの意識の総体に言葉を与えてきた逸枝を読みたいと思う。誰がこのことをなしえたろうか。壮絶である。お手本はなかった。創りあげてゆく仕事だった。創作というより創造であった。国づくりでさえあった。その体系は自ずから鉱脈の露頭がつながるようにあらわれたのではないだろうか。彼女自身「ボダ」をかぶりながらの仕事である。「一坑夫」の仕事だと謙遜している。
 学問的業跡というものは、いつかは乗り越えられる運命にある。そして学問というものは、乗り越えられてこそ意味があるのではないだろうか。しかしながら、あとからあとから出現する学説が流砂のように去ったあと、その流砂に洗われて、古典となって発光しながら横たわる作品もある。
 書かれる前から高群逸枝は古典として出現したのだった。それゆえ、稀なる介助者があらわれた。夫妻の業跡の意味を私はそうとらえたい。二人を洗う歳月の砂は、むしろ必要なのである83

道子の「表現の呪術――文学の立場から――」が所収された『ジェンダーと女性』が発刊されたのは、一九九七(平成九)年の三月一〇日でした。逸枝が亡くなって三三年の歳月が、そして憲三が亡くなって二一年の月日が、そろそろ流れようとしていました。発刊の翌日、道子は七〇歳の誕生日を迎え、それからおよそ四箇月が立った七月二五日に、静子は八六歳になりました。

さてそこで、『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』における栗原弘の「意図的な操作改竄」説と、「表現の呪術――文学の立場から――」における石牟礼道子の「詩と学問との刺激的調和」説を並べて、少しここで検討してみたいと思います。

一点目は、『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』はどのような本であるのか、その特徴についてです。すでに一一年前に弘文堂から出版されていた、岐阜経済大学教授の鷲見 すみ 等曜の『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』(一九八三年刊)の書題に比べて、本書のタイトルに使われている「婚姻女性史像」という用語は、一見して内容がつかめず、実に不鮮明なものになっています。ここに外見上の特徴を見ることができます。内容的にも、際立つ特徴があります。この本は、鷲見等曜の書籍とは異なり、日本の原始・古代・中世社会における婚姻にかかわる形態についての純粋な学術研究の書ではなく、その学問領域を母系制という観点に立って日本ではじめて開拓した高群逸枝の研究手法についての批判の書として成り立っているのです。内容を端的に表現する適切な書題を与えるとするならば、少し長くなりますが、「高群史学の誤謬とそれを導いた意図的操作改竄にかかわる今日的受容状況についての研究」といったほどのものになるでしょうか。実際、『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』は、ふたつの部によって構成され、第一部「高群学説の受容と展開」において、家永三郎や村上信彦らによる高群学説の今日的受容の過程が批判的に跡づけられ、第二部「高群学説の意図的誤謬問題」において、いかにして高群が事実を無視して史料の改竄を行なったかが論じられています。結論的にいえば、鷲見等曜の『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』が、この分野における最初期の先行研究である高群史学に異を唱える新説の開陳であるとするならば、おそらくそれを受けての、栗原弘の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』は、高群史学の研究の方法論に着目し、それについて徹底的な批判を展開したところに、その特徴がありました。

二点目は、『母系制の研究』(一九三八年刊)と『招婿婚の研究』(一九五三年刊)における高群の研究手法を巡る栗原弘と石牟礼道子の解釈の相違についてです。すでに『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』から引用することによって栗原弘の考えは紹介していますが、それを総じていえば、高群には、男性史から女性史を自立させ、女性解放の歴史的根拠を打ち立てなければならないという強い願望があり、そのために高群は、意図して、史料に見出した「事実」を隠蔽し、自身が理想に抱く女性世界の「虚構」を描いてみせた、ということになるでしょうか。それに対して石牟礼道子は、まず詩人の幻視があり、次に史料から聞こえてくる歴史上の女たちの声に耳を傾け、最終的にそれを歴史的時間軸に並べ直し全体が俯瞰できるようにしたものが高群史学ではないか、と解釈するのです。

これを別の表現に置き換えるならば、栗原弘の見方は、定量的観点とでもいうべきものであり、その視点に立てば、自身が調査した五〇〇家族の婚姻居住形態を数量的に分析し、その結果を時代ごとの数的分布に置き換えて示せば事足りることを、高群は、あえてその調査結果を隠し、意図的に時代を延伸し、女性中心の結婚形態があたかも十全に存続したかのような「創作」を施したということになります。これに対して石牟礼道子の見方は、定性的観点とでもいうべきものであり、その視点に立てば、自身が渉猟した平安、鎌倉、室町の五〇〇家族に関する史料のすべてを読破し、そのなかから、自分の詩的な欲求に呼応して近づいてくる「事実」に着目して歴史を編んだということになるのでしょうか。これに関して付言するならば、高群にとっての関心は、いつからその婚姻形態が減少し、別の形態にとって変わられ衰退したかではなく、たとえ一例であろうとも、その婚姻形態が存続したのはいつまでなのか、といった定性的な問題だったのではないかと推量されます。

一般的には、栗原弘にみられる定量的観点の方が、今日における学術的手法に照らせば適切なように感じられますが、しかし、石牟礼道子の定性的観点も、容易に捨て去ることはできません。なぜならば、たとえば古事記や日本書記にみられるように、日本史それ自体の発展の原初において、その最初の歴史記述は、必ずしも数量的観点、あるいは「客観的」観点によるものではなかったのではないかと思われるからです。日本史の一分科学である女性史においても同じことがいえ、石牟礼の、「高群さんは、こうあって欲しいという女たちの国を最高に良い形で作り上げてみせる、という詩と学問との刺激的調和を、誰も書いた事のない、一種の飛躍的新世界。神話劇みたいな大叙事詩を書こうとする衝撃が、噴火状態になって出てきたのだと思います。そのとき、彼女にはやはり歴史上の女たちが乗り移って、心象世界の核に成ったのだと思います」という言説にも、それなりの真理が含まれているものと感得されるのです。私には、石牟礼道子の「詩と学問との刺激的調和」という言辞にこそ、すべての学問の誕生にかかわる秘儀が隠されているように思料されます。つまり着目すべきは、高群という人間は、完成したひとつの学問が何代にもわたって継承されてゆくなかで活躍した一学徒ではなく、誰も見たこともない全く新たな学問が産み落とされる、まさにその瞬間に立ち会った詩人=学者だったという点にあるのです。

三番目は、「意図的な操作改竄」ということについてです。栗原弘の定量的分析の観点からすれば、調査結果を全面的に開示しなかった高群の行為は、「意図的な操作改竄」ということになるのかもしれませんが、しかしながら、史料が語りかけてくる声に耳を澄まし、それを文にした可能性のある高群自身には、己が「意図的な操作改竄」を行なったという自覚はなかったのではないかと想像されます。たとえば、多数の白と黒の碁石が床一面に広がっているなか、自分がほしいと思う白の石を拾い上げることだけに強く動機づけられた人にとっては、一方の黒の石が目に入らないということはないでしょうか。つまりこの場合、主題となるのは、全体として石が何個あり、そのなかから白を幾つ手にしたかという数量にかかわる問題ではないのです。高群が調査したといわれている五〇〇家族のうち、自分に関心ある家族だけが目に止まり、そうでない家族の存在は視野から消えていたということはなかったでしょうか。そういうことが人間の心理学的現象として実際にあるのであれば、あえて「意図的な操作改竄」として、騒ぎ立てる必要はないのです。石牟礼道子の、「栗原弘氏の提出された、高群逸枝の歴史改竄説以来、結構このあたりでも、藪の賑わいが聞こえてくるからである。逸枝の業績を一瞥もしないで『やっぱりそうか』と鬼の首でもとったような揶揄が聞こえてくるけれども、もとよりそれは栗原氏の望まれることではあるまい」という言説に、そのことがにじみ出ているように感じられます。

栗原弘は、「筆者の追調査によれば、高群学説の誤謬は彼女の極めて意図的な操作改竄の産物であったことを確信するに至った」と書いていますが、「意図的な操作改竄」を主張する以上は、いつ、どこで、どのようにして、といったような「意図の働き」の実際的全体にかかわっての事実確認が必須となります。それは、高群の日記や書簡に見出されるかもしれません。この点の実証ができるかできないかの判定は、今後の研究における不可欠な要素となるものと考えます。

四点目として、「意図的な操作改竄」あるいは「創作原理」の敷衍化についてです。栗原弘は、高群の「意図的な操作改竄」や「創作原理」をもってして、単に『母系制の研究』や『招婿婚の研究』といった学術の範囲を超えて、日記等を含む高群の全著述に共通する特徴であると断言しました。しかし、もしそうであるとするならば、高群の書き残したものはすべて、改竄ないしは創作されたものになりますが、ところが栗原弘は、『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』のなかにおいて、しばしば高群の『火の国の女の日記』や『日本女性社会史』から引用して、立証のための根拠として使っているのです。これは、明らかに矛盾した行為といわざるを得ません。『火の国の女の日記』や『日本女性社会史』が、本当に全編にわたって操作され創作されたものであるならば、史料としての信憑性も信頼性もなく、物事を判断するうえでの証拠(エヴィデンス)とはなりえないのではないかと愚考します。

栗原弘の、「『母系制の研究』『招婿婚の研究』は研究書であり、日記と同等に扱うことはできない。もちろん、それは通常の人ならばそうなのである。高群はそうではない。彼女には、詩も研究書も日記も同等の作品なのである。それ故に、すべてに共通した創作原理が存在している」という発話は、著述家として高群逸枝の人格を全面的に否定するものであり、すべての人がこれを受け入れるには、困難性がつきまとうのではないかと思われます。

最後に五番目として、高群史学の今後についてです。引用に示していますように、石牟礼は、こう書きます。「学問的業跡というものは、いつかは乗り越えられる運命にある。そして学問というものは、乗り越えられてこそ意味があるのではないだろうか」。この見解は、極めて妥当なものでしょう。そして、すでにとっくに、乗り越えられているともいえます。たとえば、鷲見等曜は、自著の『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』の「はじめに」において、「日本家族史の研究における高群逸枝氏の業績は巨大である。私もはじめ氏の説に依拠して、勤務校で社会学の講義を行なっていたが、氏の所論に多くの矛盾があることに気づきはじめた」84と述べ、日本の平安時代の婚制が、東南アジア社会にみられる双系制に酷似している点を根拠に挙げ、高群が述べる母系原理に基づくものでないことを、本文において立証しようとするのでした。

おそらく今後も、次の世代の研究者たちによって新しい学説が生み出されてゆくにちがいありません。といいますのも、女性の歴史にかかわる、「恋愛」「性的少数者」「結婚と離婚」「出産と育児」「労働と政治」「教育とその継承」「財産とその管理」「母子関係と父子関係」「住居と服と家具」「看病と介護」といった観念は、それ自体が同時代的な現象に呼応して変化するものであり、新しく生み出された文脈から史料を再読し、改めてその主題への接近を試みれば、自ずと新説の誕生が続く可能性が予想されるからです。

一方で石牟礼は、「あとからあとから出現する学説が流砂のように去ったあと、その流砂に洗われて、古典となって発光しながら横たわる作品もある」ともいいます。問題は、そうして生産された幾つもの説を時間軸に沿って並べてみたとき、高群の研究がどう位置づくのかということではないでしょうか。日本の婚姻や家族を主題に考察した、これからも長く続くであろう研究の全体史のなかにあって、高群の業績が、確固としてその先史に位置づくのであれば、石牟礼がいうように、それは「古典となって発光しながら横たわる」ことになるのではないかと思われます。そのとき人は、これも石牟礼が指摘するように、「古代呪術の力をもった詩人が希にいます。学術論文でそれをやろうとして、人跡未踏の女性史というものに取り組んだ」最初の人間が高群逸枝だったのです、という讃美に満ちた評価を高群に付与するにちがいありません。

以上五点が、栗原弘の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』に対しての、石牟礼道子の解釈を援用したうえでの私的見解です。

それでは、話を先に進めます。『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』という流砂に続いて、その五年後の一九九九(平成一一)年に、『伴侶 高群逸枝を愛した男』と題した新しい流砂が、高群逸枝研究の世界に押し寄せてきました。著者は栗原弘の妻の栗原葉子でした。この本の「あとがき」で著者は、このように書きます。

 橋本憲三については、夫との会話の中で度々話題にのぼっていたことだった。だが、私は自分で執筆するつもりはなく、堀場清子氏か石牟礼道子氏がいずれ書かれるであろう決定版憲三論の、ただ、読者でありたいと思っていた。で、待った。待って、待って、待ちくたびれて、とうとう大胆にも自分で筆を執ることを決意した85

これは、高群逸枝の夫の橋本憲三を対象としたはじめての評伝でした。すでに述べてきていますように、憲三の人生については、とりわけ次の三点が、焦点となる箇所でした。つまり、一点目が、著者の夫の栗原弘が指摘した、逸枝作品の「意図的な操作改竄」説について、二点目が、記述内容に関わる憲三からの執拗な追及によって「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」の連載が中止に至ったと語る著者の瀬戸内晴美の言説について、そして三点目が、逸枝の入院と臨終に際しての市川房枝のグループと憲三とのあいだに生じた確執について、以上の三点です。著者の栗原葉子は、この三つの焦点に対して、どのような照明をあてたのでしょうか。その箇所をこれから見てゆきます。

それではまず、著者の夫の栗原弘が指摘した、逸枝作品の「意図的な操作改竄」説について、著者は、どう書いているでしょうか。以下に引用します。

 厖大な文献から練り出された高群史学の心臓部は、日本では平安中期になって夫婦の同居が開始され、その婚姻形態は夫が妻の家に住む妻方居住婚が一般的で、婿取式後の夫婦は絶対に夫の家に帰らないという点にあった。それを根拠にして、日本の婚姻制度は古代より一貫して家父長制であったのではなく、古代母系家族から家父長的家族へ移行したとするのが高群学説の骨格であった。だが、彼女とほぼ同じ一〇年をかけて原資料に当たって逐一検証した栗原弘によれば、高群が自説の根拠とした平安中期の妻方住居婚の事例は、高群が調査した五百家族中、藤原道長家族のたった一例のみ。道長家族は主流どころか例外的一例に過ぎなかった。が、問題点はこの次である。《女性の地位が高かった母系古代から、父系に移行して女性の地位は低下したのだ》という予めの構想のために、逸枝は調査結果そのままを提示するのではなく、史料操作や改竄まで行って婚姻史を体系化してしまったのである86

それでは、そうした逸枝の行為を、憲三はどう見ていたのでしょうか。筆者は、このように推断します。

 ところで、こうした逸枝の「意思的誤謬」を、夫の憲三が知らなかったということがありうるだろうか。逸枝の書く一行一句一字を余さず読み、書き過ぎた指の痛みや背の凝りまで体験を共有していた憲三が、これを知らなかったという方が不自然である。否、それどころか、憲三は隅から隅まで知り尽くしていたのであった。……あるがままの客観的史実の上に構築するのが、実証史学の学問的誠意と真理であるとするならば、憲三は、いわば歴史学の自殺行為にも等しい改竄の共犯者だったのである87

次に、記述内容に関わる憲三からの執拗な追及によって「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」の連載が中止に至ったと語る著者の瀬戸内晴美の言説について、見てみたいと思います。著者の記述の主要部分は、以下のとおりです。

 瀬戸内が発表した内容は、水俣で人生の最晩年にあった憲三にとって、古傷をえぐり出されるような痛恨事であった。当事者の胸奥深くに封印されたと思っていた事件が、白昼に引き出されたのであるから。憲三は瀬戸内宛に長い手紙をしたためた。この時の憲三との経緯を、後に『人なつかしき』に記した瀬戸内によれば、憲三の追及は執拗を極めたようである。松本に直接取材した瀬戸内に、松本が逸枝の手紙を秘蔵しているのではないかと疑心暗鬼となって問い、異常なほどしつこく言ってきて、瀬戸内が「見せられていない」と言っても信じなかったこと。怨念をこめて延島夫妻を悪く言う意固地さに凝り固まった気配のヒステリックな憲三の追及に、とうとう瀬戸内は憲三夫妻の評伝を書きつづける意欲を失ったという88

最後に、逸枝の入院と臨終に際しての市川房枝のグループと憲三とのあいだに生じた確執については、著者は、どう書いているのでしょうか。それを見てみたいと思います。

 逸枝の入院と死をめぐる経緯は、逸枝の死後一〇年目に出た戸田房子のモデル小説「献身」(『文学界』)によって、さらに憲三の逝去後には、もろさわようこが「高群逸枝」(『近代日本の女性史』)を書いて広く世間の目に触れた。私はここでこれらの作品の出来を云々するつもりは全くないし、また、市川房枝ら高群逸枝著作刊行後援会のメンバーであった人々と憲三のどちらが正当であるかを論議するつもりはない。ただ、双方の齟齬のあまりの大きさに、憲三の生き方がいかに世間からは理解され難いものであったかを知るのみである。この点については後に触れる89

そして著者は、この点について、再びこのように触れています。

 精神も肉体も、まさにその最後の光芒を放つ瞬間に、逸枝が会いたいと望んだのは憲三ただひとりであったろう。森の家ではほぼ三〇年間、夫以外のほとんど誰にも会わずにきた逸枝にとって、何の身構えの必要なく向かい合えるのは憲三だけであった。逸枝自身が面会謝絶の隠棲生活を望み、憲三は世間通常の価値判断からいえば、自己中心的な男の、妻の占有物化と誤解されなくもない、その風変わりな望みを引き受けた。だが、実際に妻の肉体の死が目前に迫ってみれば、憲三とて狼狽する。嫌がる逸枝をなだめて医者に診せ、ためらう彼女を諭すようにして入院させる。失策だったと憲三は後悔するが、あとの祭りであった。入院してみて初めて失策に気がついた憲三は、病院で必死に抵抗したのだった。面会謝絶に、個室に、と。逸枝の柩を前にして霊安室は修羅場となった90

以上が、憲三の人生を語るうえで焦点となるにちがいない主要な三点についての、『伴侶 高群逸枝を愛した男』における著者が示した見解です。明らかにこの三箇所は、栗原弘の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、瀬戸内晴美の『人なつかしき』、戸田房子の「献身」ともろさわようこの「高群逸枝」をなぞるようにして描写されています。なぜ著者は、『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)に掲載されていた憲三の「瀬戸内晴美氏への手紙」も、憲三の「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」も、そして静子の「もろさわよう子様へ」も、同じように対等かつ十全に検討の俎上に取り上げなかったのでしょうか。同様に、『ジェンダーと女性』のなかの道子の「表現の呪術――文学の立場から――」も、なぜ、栗原弘の言説への反論として、同等の重みをもって適切に拾い上げて検討しなかったのでしょうか。栗原弘は、高群逸枝の学問的業績を指して「整然とした誤謬 ・・・・・・・ 」という言葉を使って批判しましたが、明らかに、栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』においても、「誤謬」であるかどうかは別にして、類似の「整然とした ・・・・・ 」偏った叙述の手法が見出されるのです。

橋本静子や石牟礼道子の目には、この書は、憲三の伝記でありながら憲三の立場には立たず、ほとんど先行する文献の吟味もなされず、自分にとって都合のいい、憲三へ向けられた既往の批判言説だけが延々と羅列されたものとして映り、言葉を失ってしまったのではないかと愚考します。静子も道子も、もはやこの本について、何も語っていません。これもまた、必要不可欠な、逸枝と憲三の「二人を洗う歳月の砂」であってみれば、多弁を労せず無言のうちにそれを甘受し、いつかは、逸枝の作品同様に、ふたりの「一体化した近代の夫婦」像も、神話世界の「双頭の蛇」のごとくに、あらゆる歴史の流砂に耐え忍んだ古典像となって発光するにちがいないことを静かに夢想していたのかもしれません。

それでは、著者の栗原葉子が向けていた橋本憲三へのまなざしというのは、どのようなものだったのでしょうか。以下に引用します。

 橋本憲三とは、いったい何者だったのだろうか。鑚仰の中の逸枝像にまつわる得体の知れない不分明さの秘密を知りたくて、多くの研究者は背後にある影のような憲三の存在にいきつく。が、ぶ厚い不分明な壁の前に、ある者は断念し、ある者は嫌悪する。理知の言葉で掬おうとすればするほど、結ぶ像は下手物性を帯びるからで、真面目な研究者はだまされたような、うさんくささを味わわされる。だが、大抵、「稀有な」とか「かけがえのない」といった修飾語をつけ、不分明さの究明は意識的、無意識的に避けられてきたように思われるのである91

果たして、そうだったでしょうか。以下に、早稲田大学教授で日本思想史を専門とする鹿野政直の言説を引用して、それに対置してみたいと思います。

憲三が死亡すると、鹿野政直は、「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」と題された追悼文を『朝日新聞』に寄稿しました。一九七六(昭和五一)年六月七日の夕刊五面に掲載されたその文において、鹿野は、憲三をこのように評しました。

 わたくしは橋本氏に会って、氏がじつに編集者的な感覚に富んでいるのを発見したが、有能であったにちがいないその仕事をすてて、妻の仕事のささえ手にまわった。家事を一切ひきうけたばかりでなく、資料さがしにでかけ、生活設計をし、研究の方向に助言をあたえ、妻のかいたものの最初の読者となり批判者となった。さらに、おしよせる世間のまえに、一人でたちはだかった。彼女の作品には、今日ふつうに思われているよりはるかにふかく、その夫がかかわりあっている。橋本氏の編集者的な才能はその妻に向かって集中し、彼女のプロデューサーになった、というのがわたくしの観測である。

そして末尾を、以下の文で締めくくるのでした。

 こういう生涯があったということに、やはりわたくしは、大正期のデモクラシーの機運の一端をみとめずにはいられない。そうして氏は、日本女性史に少なからず貢献をなしとげたのだった。と同時に、もし日本男性史 ・・・ というものが書かれるとしたら、橋本氏は、既成の男性像を身をもって否定した人間として(否定のかたちは、必ずしもそれが唯一ではないにせよ)、いわば「新しい女」にたいする「新しい男」として、位置づけられるのが至当ではなかろうかと、わたくしは、氏をいたむ念とともに夢想する。

この文が『朝日新聞』に載ったのは、奇しくも逸枝の一三回忌に当たる、その日のことでした。憲三の死後、逸枝と憲三に関心をもつ人は絶えませんでした。おおかたの人は、憲三を誹謗中傷しました。もろさわようこは、風体貧しく、品行卑しき男として憲三を罵りました。瀬戸内晴美は、自身の小説の連載断念に至った原因を憲三の意固地でヒステリックな性格のせいにしました。栗原弘は、逸枝が書いたすべての著作が事実を隠蔽した偽造品であると推断しました。栗原葉子は、人前に仁王立ちし、ふたりの恥部を隠す熱演者であり共犯者として憲三を活写しました。こうした幾度となく押し寄せてくる受難のなかで、憲三同様に静子も、自身の晩年を過ごすのでした。静子にとっては、なぜここまで、市井の一人間である兄が、著名な詩人で学者の夫であったという理由だけから、口汚く罵声を浴びせられ、人としての人格を疑われ、誇りも名誉も毀損されなければならないのか、自分自身、理解ができなかったかもしれません。それは、道子も同じであったろうと推量されます。といいますのも、石牟礼道子が描く橋本憲三像は、以下のようなものだったからです。

 一人の妻に「有頂天になって暮らした」橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しく典雅で、その謙虚さと深い人柄は接したものの心を打たずにはいなかった92

次にもうひとつ、道子の目に映った憲三の姿を紹介します。

まなうらにあり続ける橋本憲三、わが恩師は、匂やかな含羞を湛えた典雅な方であった。……私事を書かせて頂ければ、処女作「苦海浄土」のかなりの部分は東京世田谷の朽ち果ててゆく森の家で、お励ましにうながされて書き進められた。当時そこしか、わたしの身の置く場所はなかった。……
 その後の著書はすべて『椿の海の記』に至るまで、師が最初の読者、批評者であった。いかに透徹し卓越した批評家であられたことか93

何ゆえに、栗原葉子が描く憲三像と、鹿野政直や石牟礼道子が抱く憲三像とのあいだに、かくも隔たりがあるのでしょうか。もはやそれに立ち入る愚行は慎まなければなりません。ここでは、『伴侶 高群逸枝を愛した男』の「あとがき」から再び引用することに止めます。

 橋本憲三については、夫との会話の中で度々話題にのぼっていたことだった。だが、私は自分で執筆するつもりはなく、堀場清子氏か石牟礼道子氏がいずれ書かれるであろう決定版憲三論の、ただ、読者でありたいと思っていた。で、待った。待って、待って、待ちくたびれて、とうとう大胆にも自分で筆を執ることを決意した。だから、こうして書き上げた今も、大先輩の前に頭を垂れて審判が下されるのを待っている気分である94

一見挑発とも受け止められかねないこの言葉を、堀場清子と石牟礼道子がどう受け止めたのかは明確にするだけの資料が残されていないようです。また、本人たちが「審判」を下す目的で上梓したのかどうかもわかりませんが、遅れること二〇〇九(平成二一)年に、堀場清子は『高群逸枝の生涯 年譜と著作』を世に問い、一方の石牟礼道子は、二〇一二(平成二四)年に『最後の人 詩人高群逸枝』を世に出すのでした。前者の作品は、これよりのちのさらなる実証研究になくてはならない、精緻を極めた、逸枝の「年譜と著作」が綴られ、後者の作品において、自身にとっての「最後の人」が橋本憲三その人であることを告白するのでした。

四.堀場清子の『高群逸枝の生涯』と石牟礼道子の『最後の人』を巡って

橋本静子の一周忌が巡ってきました。そして、その二箇月後の二〇〇九(平成二一)年の六月、堀場清子の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』が世に出ます。その「あとがき」に堀場は、こう記しました。

 橋本静子氏の死は、単にひとりの女性の死には止まらない。九歳のとき、兄の妻になった高群逸枝に会った最初の日から、逸枝を愛し、生涯変わることがなかった。逸枝・憲三夫妻の貧しい研究生活を、物心両面で支え、夫婦の没後もひたすら顕彰に努めて来られた。その深い愛と、豊かな記憶と、つねに支持を表明してやまない強靭な意思が、活動を終熄したのである。なんと大きな喪失であったことか95

そして堀場の記憶は、静子が亡くなる三年前の水俣訪問へと向かいます。

 二〇〇五年一月、鹿野政直と私が水俣へ静子氏を訪ねたときの、彼女の言葉が蘇ってくる。
 「憲三はね、いうなれば、普通ですよ。しかし、逸枝は天才です」。
 高群逸枝に関する仕事では、いつも有りうる限りのご助力をいただいてきた。本稿の完成を、終焉に近い日まで気にかけていられたという。静子氏が亡くなるなど、思ってもみなかった私の愚かさ。しかも仕事が遅く、その「旅立ち」に間に合わなかったことは、痛恨の極みというほかない96

水俣に帰郷した橋本憲三のもとをしばしば訪れ、高群逸枝についての資料の収集に当たってきた堀場清子の手によって、静子没後一年目に、この『高群逸枝の生涯 年譜と著作』は上梓されました。高群と憲三に関する詳細かつ精緻な年譜と関連著作の一覧から構成されています。また、本書が対象とするのは、静子が亡くなる二〇〇八(平成二〇)年四月までで、そのなかには、憲三が書き残したそれまでの「共用日記」も随所に配置されていました。そうした意味において本書は、逸枝と憲三の生涯と業績を知るうえでの欠かせない貴重な文献が整理された有益な資料集成となっているのです。このとき堀場は七八歳になっていました。それではなぜ、自身の晩年にあって、堀場はこうした性格をもつ書物を公にしたのでしょうか。この本は、従来一部にみられた、独断的な多弁と能弁によって成り立つ逸枝や憲三についての評論や評伝とは大きく異なり、書き手の言葉は最小限度に抑制されています。そこから判断しますと、踏まえなければならない必須の一次資料(エヴィデンス)の全貌を開陳することによって逆に生まれてくる、事実から乖離した一部の独善的な既往研究への暗黙裡の抗議の表明だったのではないか――もしかしたら、そうした思いが込められていたかもしれません。

一方このころ、堀場より三歳年上の石牟礼道子も、自身の晩年と向き合っていました。憲三を亡くし、憲三の姉妹である藤野と静子を見送ったいま、自分が蘇生した「森の家」を知る人は誰ひとりいなくなりました。道子は、何を頼りに生きていけばいいのか、自問したにちがいありません。そしていよいよ、その思いをかたちにするときが巡ってきたのです。

『最後の人 詩人高群逸枝』が藤原書店から上梓されたのは、堀場の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』から遅れて三年のちの、二〇一二(平成二四)年一〇月でした。本書は、『高群逸枝雑誌』に連載した「最後の人」に加えて、補遺として、「森の家日記」「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死」「朱をつける人――森の家と橋本憲三」を含む旧稿の数編と、「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」とによって構成されていました。そのなかの「森の家日記」については、編集部によって、次のような注釈が記されています。

本稿は、「最後の人」執筆のもとになった、石牟礼道子が森の家に滞在した時の覚え書(取材メモ)である。「東京ノート」と題されたこのノートは近年渡辺京二氏によって発見された。重要かつ興味深い記述があるため、ここにそのまま収録する97

ここに述べられている「重要かつ興味深い記述」とは、いかなる記述なのでしょうか。次に挙げる箇所が、おそらくそれに該当する記述であることに疑いを入れる余地はないでしょう。「彼女」とは、高群逸枝を指します。

わたしは 彼女を
なんと たたえてよいか
ことばを選りすぐっているが
気に入った言葉が見つからないのに 罪悪感さえ感じる
……
わたしは彼女をみごもり
彼女はわたしをみごもり
つまりわたしは 母系の森の中の 産室にいるようなものだ98

次に、七月三日のノートには、こう書かれてあります。

 今夜更に高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った。それは橋本静子氏に対する手紙の形で(つまり、静子氏を立会人として)あらわした。午前三時これを書き上げる99

そして、神秘に包まれた聖夜が明け、帰郷する七月一一日の朝が来ました。以下も、道子の「森の家日記」からの引用です。

 六時目覚め。
 木立の中の深い霧。
 私の感情も霧の中に包まれてしまう。しかしそれは激烈で沈潜の極にあるものだ。
 沐浴。
 今朝の私は非常に美しい、貴女は聖女だ、鏡を見よと先生おっしゃる。悲母観音の顔になったと見とれる100

「九時半、逸枝先生にお別れつげる。彼女は私の内部に帰る。切ない。玄関を出る」101。こうして道子は「産室」を出たのでした。

「森の家日記」に書かれている内容は、極めて衝撃的なものでした。さらに加えて、衝撃的なことが、「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」のなかにも現われます。このインタヴィューは、二〇一二(平成二四)年八月三日に道子の自宅において行なわれました。聞き手は、藤原書店の藤原良雄です。

「最後の人」が所収された『石牟礼道子全集・不知火』の第一七巻の刊行が、二〇一二(平成二四)年の三月です。それから七箇月後に『最後の人 詩人高群逸枝』は世に出ます。道子は、こう書きます。「この度、『最後の人』を『全集』のなかから取り出して、わざわざ単行本にして下さるという。藤原良雄氏のご厚意にはお礼の申しあげようもない」102。それでは、あえて『全集』から取り出し、どうしても「最後の人」を単行本として世に送り出さなければならなかった、その目的とは一体何だったのでしょうか。「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」のなかの藤原良雄と道子のやり取りのなかに、その一端を見出すことができます。「最後の人」の連載は、憲三が亡くなる直前に刊行された『高群逸枝雑誌』第三一号における掲載を最後として、あえなく終了します。それから三六年が経過していました。藤原の「どうしてずっと単行本にされなかったんですか」という質問に、道子は、こう答えます。

 高群逸枝のファンはたくさんいますよね。ですから、慎んでいたという気持ちです。森の家に滞在する特典を与えられて、そこで『苦海浄土』まで書かせていただいて、『西南役伝説』の一部も書いているのです。それも全部、憲三先生の目を通って、とても大切な時間をいただきました103

「高群逸枝のファン」とは、その一部に、もろさわようこ、栗原弘、栗原葉子なども含まれるものと思われます。そして、この返答に続けて、道子の意味深長な語句が並びます。「奇跡のような時間をいただきました。それをひけらかしたくない、と思っておりました。……そのうち、だれかが見つけて読んでくださるだろうと、そんな気持ちでした」104。上述のとおり、「最後の人」の取材メモとなる「森の家日記」には、「森の家」で憲三と道子が交わした、静子を仲立ちとする「後半生の誓い」と、男女としての「聖なる夜」に関する記述が含まれますので、そのことを暗に指しているのかもしれません。藤原良雄のインタヴィューは続きます。

――憲三さんから逸枝さんのことをお聞きになって、憲三さんの姿もそばで見ておられて、[憲三さんのことを]そう思われたわけですね。
石牟礼 はい。憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が鮮明でした。おっしゃることも、しぐさも。何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる。
――「最後の人」というのはどういう思いで。
石牟礼 こういう男の人は出てこないだろうと。
――憲三さんのことを。
石牟礼 はい。高群逸枝さんの夫が、「最後の人」でした105

ここではっきりと道子は、「最後の人」が橋本憲三であることを、世に告白するのでした。それには、多くの人が驚愕したものと思われます。といいますのも、石牟礼や高群の研究者たちは、これまでに「最後の人」を、こう解釈していたからです。たとえば、女性史家の西川祐子は、次のように書いています。

 石牟礼道子は『高群逸枝雑誌』に「最後の人」の序章、第一章「残像」、第二章「潮」、第三章「風」を連載した。連載は編集責任者であった橋本憲三の死、雑誌の終刊によって中断されたままである。「最後の人」という題名は、文明の最後をみとどける人ととれる。高群逸枝は、人類はしだいに子どもを生まなくなり、やがて寂滅すると、終末を予言したのであった。「最後の人」とはまた、チッソの工場がはきだす産業社会の毒に汚染される水俣の海とさまざまな生命の死を見届ける石牟礼道子その人でもある106

また、同じく女性史家の河野信子は、「最後の人」を、このように推断していました。

 高群逸枝の史料処理をめぐっては、いくつかの錯誤が指摘され、『母系制の研究』からは、十五年戦争中のヒメの力への期待が導き出され、女たちの原記憶の潜在性を浮上させた。これらの事実をめぐって、石牟礼道子は「鬼の首をとったように」(一九九五年十月福岡市アミカスで開かれた「高群逸枝をめぐるシンポジュウム」のレジメ)はしゃぐものではなく、その最も内質である場にこそ、視線を集中させることを提言している。やはり、石牟礼道子にとって「最後の人」は高群逸枝であった107

上の事例からもわかるように、道子にとっての「最後の人」が橋本憲三であることを指摘した研究者はこれまでに存在せず、それだけに、この公言は、石牟礼道子研究および高群逸枝研究の全面的刷新をも招来しかねない、激震を伴って受け入れられたものと思われます。

『最後の人 詩人高群逸枝』の刊行から六年後の二〇一八(平成三〇)年二月、石牟礼道子は帰らぬ人となりました。享年九〇歳でした。

それから四年の歳月が流れ、藤原書店から『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26、二〇二二年刊)が世に出ました。これは、多くの論者による論考を集めたものでした。そのなかに、橋本憲三と石牟礼道子に触れたものとして、女性史研究家で評論家の山下悦子の「小伝 高群逸枝」と、戦時下の女性史・女性作家を研究する岡田孝子の「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」が所収されていますので、ここに紹介します。

山下悦子は、高群逸枝についての「小伝」のなかで、概略、逸枝の思いに理解を示さない自己中心的で欺瞞的な性格をもつ憲三をからませながら、疎外された逸枝の苦悩の人生を描きます。おおかたこれは、これまでしばしば逸枝の評伝や評論にみられた記述の観点と手法を踏襲したものといえます。以下に紹介する事例も、その延長線上にあります。山下は、「森の家」の売却益に着目し、こう述べるのでした。

……橋本が石牟礼に語った一〇〇〇万円(当時のお金)しか残らなかったという言葉が事実に基づくかは疑問も残るが、森の家を売って今のお金でいえば数千万から億単位の資産を得たことは間違いない。こういった事実から筆者に見えてくるのは、高群逸枝は徹頭徹尾「無産者」を貫いた人であり、無欲の人、「放浪者の詩」を生きた人だったということである。
 若い頃、妻子を持つことは負担になるからと瞬間恋愛説をいい、金持ちの後家との結婚が理想だなどと言って高群を悩ませた橋本だったが、かなりの財産を稼ぎ、財を残して死んだ高群は、最高の女性だったということになるだろう。ぼろ着をまとい、栄養失調になるまでやせ衰え、死ぬ直前まで研究し続けて……108

この引用文にも、高群を哀れんでは擁護し、憲三を金の亡者とみなしては切り捨てようとする著者の視点がよく表われています。もしこれを、憲三なり、静子なり、道子が読むことができたとするならば、どう反論したでしょうか。いまや三人とも永眠の身にあります。そこで、彼らの無念の思いに耳を傾け、私なりに代弁してみます。

山下は、「森の家」の処分に伴う収益についてしか言及していません。正しく憲三を知るためには、そのお金が何に使われたか、つまり、収入と支出の両面から検討する必要があり、このままでは、明らかに片手落ちというべきものであって、読者に間違った印象を与える原因にもなりかねません。憲三は、公園への転用を計画する世田谷区に「森の家」を売却すると水俣に帰還し、一階を実家の商品倉庫に、二階を雑誌の編集室と自身の居室に使う、二階建ての家をつくります。また、逸枝の遺骨を納めるために石造の大きな墓廟をつくります。その正面左手には、彫刻家の朝倉響子に製作を依頼した逸枝のレリーフがはめ込まれていました。さらに憲三は、逸枝の業績を顕彰する目的で、季刊の『高群逸枝雑誌』を、死が訪れるまで刊行し続け、没後の終刊号(第三二号)は、静子の編集により世に出ます。この雑誌には、いっさい広告はありません。編集や出版にかかわる費用も、全国の主要な大学や図書館への配送料金も、すべて自前によります。この間、豪華な食事を楽しんだり、美酒に酔いしれたり、外国はもとより、国内にあってさえも旅行へ出かけたりした憲三の形跡は残されていません。ひたすら清貧に甘んじ、心から逸枝を追慕する日々を送るのでした。

ここで重要なことは、あくまでも当時の具体的金額によって、収入と支出の全体的バランスを明らかにすることではないかと愚考します。そうすれば、憲三が、逸枝への恭順の思いのなかにあって、いかほどの金子を実際に使ったかがわかり、自ずと正しい憲三像が見えてくるはずです。つまりは、ふさわしい地道な調査をしたうえで、換言すれば、公平で正確な動かしがたい証拠(エヴィデンス)に基づいて、もしするのであれば、憲三の品行を云々すべきであったものと思われます。そうしたことがいっさいなされず、単に憶測による収入の面だけを強調して、一方的に憲三を、「財産を稼ぎ、財を残して死んだ高群」の遺産を喜び勇んでわがものにする、あくどき「有産者」の夫であるかのように、にべもなく断罪しているところに、この山下論考の特徴を見出すことができます。さらに加えれば、果たして逸枝は、意に反して、夫に服従するようなかたちにあって、「ぼろ着をまとい、栄養失調になるまでやせ衰え、死ぬ直前まで研究し続けて」いたのか、その真実性もまた、思い込みや印象に頼らず、一次資料を根拠として問われなければならなかったものと判断します。

想像するに、憲三も、そして静子も道子も、私の思量するところとほぼ同じ思いであるにちがいありません。以下に、逸枝と憲三の夫婦に向ける石牟礼のまなざしを、山下の言説に対置するために、ここに書き残します。

それにしても、憲三にむけてのみ終生積極的に愛を訴え、それを確認したがり、共に「完成へ」と歩んだのは、よくよくその夫を好きであったと思われる109

そしてまた、すでに引用で示していますが、あえていま一度、この夫婦についての石牟礼の理解を、下に書きます。

 私どもが夫妻の生き方に心をゆすぶられてやまないのはなぜなのか、愛の形はいろいろあろうけれども、この二人においては徹底的に相手に対して真摯にむきあい、慢性的な弛緩やなれあいが、みじんも感ぜられないからであろう110

これらふたつの石牟礼の言説からもわかりますように、山下が理解する逸枝と憲三の夫婦像と、石牟礼の理解するそれとは、はっきりと完全に分かれます。

参考までに、ついでにひとこと――。道子は、「森の家」の売却代金について、「森の家日記」のなかで、こう書いています。「およそ二千万で売れて、税金に半分とられて千万円(半分)のこるとのこと。この家が一千万の値打ちとは安すぎる」111。また、同じく「森の家日記」には、逸枝の蔵書を引き取った古賀書店の見積もりが二〇〇万円であったことや、当時買ったアンパンが一個一四円、中村屋で食べたカレーライスが一二〇円であったことなども書き記されています。

さらにもうひとつついでにいえば、憲三が逸枝のために秋葉山の中腹に建造した墓廟の図版がこの山下の論考に掲載されていますが、そのキャプションには〈詩碑「望郷子守歌の碑」〉とあります。これは、明らかに誤りです。

さて、「森の家」の売却の話まで書くと、そこで山下の筆が止まります。山下は、こう書きます。「最後に、ここでは高群逸枝の死後、一二年間生きた橋本憲三に触れる予定だったが、枚数の関係で別の機会に譲りたいと思う」112。筆が止まった理由は、「枚数の関係」もあったのかもしれませんが、それだけではなく、石牟礼道子が『最後の人 詩人高群逸枝』のなかで書いていた、橋本憲三との親密な関係を理解することができなかったことに、多くの要因があったものと推量します。つまり、逸枝を抑圧する夫として憲三を見立て「小伝」を草した自身の観点と、憲三をして典雅なわが恩師であり自身の「最後の人」とみなす石牟礼の観点との両極にあって、山下自身、どうしても折り合いをつけることができなかったのではないでしょうか。そこで、そのことにかかわって、高群逸枝、橋本憲三、橋本静子、石牟礼道子へ向けられた、著者の山下悦子のまなざしがよく現われている箇所を拾い出し、少し長くなりますが、以下に引用してみます。

 「憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が鮮明でした。おっしゃることも、しぐさも。何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる」。「こういう男の人は出てこないだろうと」「高群逸枝さんの夫が『最後の人』でした」という石牟礼の言葉を読んだとき、石牟礼と橋本のワールドが見えてきたのだ。それは明らかに高群逸枝の世界とは別のものである。
 夫と息子のいる石牟礼は三九歳、橋本六九歳の森の家での奇妙な同居生活(六月二九日~一一月二四日)。この間同居生活を導いた橋本の妹橋本静子の真意も筆者には理解し難いものがある……。馬事公苑へ行った時のこと、「先生」とわたくしの表現が「わたくしたち」、「わたくしたち」とかわる場面があったり、肉感的な表現も見え隠れする箇所があったりと、それが何を意味するのかというような意味深な表現も多々ある本が『最後の人』なのである。……
 [憲三から道子は]眼鏡をプレゼントしてもらい、中村屋のカレーを食べといったような楽しいデートを森の家に籠ってからの高群は経験したことはなかったのではと思うと、なにか割り切れないものを感じる。橋本のために甲斐甲斐しく食事の世話もする石牟礼は高群とは違い、伸びやかな性を発散できるタイプの女性であり、橋本は石牟礼に高群を重ねるというより、三〇歳も年下の石牟礼との同居生活に楽しさを感じていたのではないだろうか。……
 高群の死後のこととはいえ、森の家での若い女性との奇妙な同居生活、しかもそれに協力した橋本の妹静子(高群にとっては小姑)という事実に対し、多くの女性はいい感情をもたないのではないか113

「小伝 高群逸枝」の末尾にこのように書く著者は、本文の記述内容においてと同じく、あくまでも憲三を、妻に曲従を強いり、支配しては劣等感に陥らせようとする、理解しがたい異質の人間としてみなしているといえます。あたかも、自分にわからないものは否定し排除しようとするかのような視線です。自分の観点を死守するためかもしれませんが、そうしたまなざしは、周りの橋本静子にも石牟礼道子にも、同じく向けられるのでした。静子の役割、道子の思いへの共感は、ここには微塵もありません。

一方の岡田孝子の「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」における論調も、山下のそれとほぼ同じです。岡田は、「もうこれ以上の素晴らしい男性は出てこない、『最後の人』だと石牟礼道子にそこまで思わせた橋本憲三とは、どのような人物だったのか」114という問いを発します。しかし、『最後の人 詩人高群逸枝』に書かれていた記述内容は、岡田にとって驚きの連続だったようです。岡田が驚きの読後感を書き並べた箇所を、これも少し長くなりますが、以下に引用します。

 「そこしか、わたしの身を置く場所はなかった」とはどういうことなのか。夫の弘や息子のいる水俣の「家」は、彼女の居場所ではないのだろうか。告白めいたことばでもある。しかも、この後さらに彼女は「その後の著書はすべて『椿の海の記』に至るまで、師が最初の読者、批評家であった」という。逸枝に対してと同じようなことを憲三は道子にしていたことになる。
 「森の家日記」の十一月六日のメモは、なかなか衝撃的でもある。

 「晴れ 弘より手紙、ガックリ、内容空疎」

 当時の彼女の心境が実にリアルに記されていてドキッとさせられてしまう。それに、その前の七月五日には「彼女の遺品――帽子とオーバー――着てみよとおっしゃる。そのとおりする。鏡をみてみる。よく似ているとのこと。感動」。
 七月十一日の日記は、さらに読む者に戸惑いを与える。「木立の中の深い霧。私の感情も霧の中に包まれてしまう。しかしそれは激烈で沈潜の極にあるものだ。沐浴。今朝の私は非常に美しい、貴女は聖女だ、鏡を見よと先生おっしゃる。悲母観音の顔になったと見とれる」。
 このような記述が随所にあり、また、道子は甲斐甲斐しく一人住まいの憲三の食事から身の回りの世話までしている。全体を流れる不思議な関係の、それもどこか悩ましささえ漂う雰囲気を私は感じてしまうのだが、これは考え過ぎだろうか。ちなみに十月七日のメモには、谷川雁と会い、「森の家」に滞在していることを告げると、彼は複雑な表情をみせたとある。彼女は何を思い、『最後の人』で伝えようとしているのか115

やはり岡田孝子も、『最後の人 詩人高群逸枝』に書かれてある、「森の家」での憲三と道子の同棲生活がどうにも理解できないようです。これまでに自分が獲得した憲三像と、この本のなかで石牟礼が語る憲三像とが一致せず、混乱に陥ってしまったのではないかと思われます。ふたつの像の乖離を、もろさわようこの「高群逸枝」を引き合いに出して説明する箇所がありますので、紹介します。

 一九五二年、初めての出会いの時、もろさわようこの目に映った憲三は「膝のつきでた古いズボンをはき、ちびた下駄をせかせか」と鳴らしながら歩き、「都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人」だった。十年余の後、病院で再会したものの、「大人の男の気配を相変わらずその身に宿してはいなかった」し、「おもいを妻に密着させ、他者への配慮を欠く憲三の自己中心的な態度」「偏屈な男」等々と描写していて、石牟礼道子が描く憲三像とはあまりにもかけ離れている。道子は「一人の妻に『有頂天になって暮らした』橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しい典雅で、その謙虚さと深い人柄は接したものの心を打たせずにはいなかった」と記しているのだから116

すでに引用で示していますように、このもろさわの「高群逸枝」を読んだ橋本静子は、このように反駁しました。

 兄憲三をいわれもなく侮辱されていますし、二人の四十五年の共生が憲三の卑しい志のゆえんであったと、意図してお書きになっているように思います。憲三には、いずれも「普選会館」のかかわりで二度の面識と言われながら、二回の瞥見で他人の七十九歳の生を斬られたことは無謀だと思いました117

他方、静子と道子は、憲三の死に際して、心からの献身的対応をします。以下は、道子の文からの引用です。なかにでてくる「佐藤さん」という人物は、憲三の主治医で、佐藤の母親と逸枝が幼年時代の同期生でした。

 静子さんこの十日間ほとんどお睡りにならない。……
 佐藤さん、午後からほとんどつきっきり、いよいよフェルバビタール打たねばならぬようになったようですとおっしゃる。お悩みのご様子。
 先生のお姉さんの藤野さんが、若主人におんぶされておいでになる。そしておんぶされたまま肩越しに、よく透る声で、
 「憲さぁん、憲さぁん!姉さんが面会に来たばぁい。もう、もの言わんとなあ」
 とおっしゃる。そのお声の愛情、哀切かぎりなく、先生の寝息と交互に、
 「おお、思うたより、やせちゃおらんなあ。憲さぁん、うつくしゅうしとるな」
 静子さんも佐藤さんも髪ふりみだしている、たぶん私も。徹夜118

憲三とはわずか二回しか顔をあわせたことのないもろさわの言説を信じるか、憲三の最期を必死に看取った静子と道子の言説を信じるか、それは人さまざまでしょうが、比べれば、その信頼性なり信憑性は、明らかなように思われます。

最後に岡田は、こう語ります。

 憲三がいなければ高群逸枝という偉大な女性史家は生まれず。その大著を私たちは手にすることはできなかった。また、逸枝は幼児が母親を求めるように憲三を死の間際まで求め、全存在をゆだねていた。まさに、逸枝にとって永遠の「最後の人」そのものだった。私の想像をはるかに超えることだけれども、それらの事実は、そのまま認めるしかないだろう119

もっとも、これが、この論稿の最終結論ではありませんでした。続けて著者は、次のような言葉をもって結びに代えるのでした。

しかし、『婦人戦線』の最終号、「森の家」に閉じこもる直前に掲載された短編「みぢめな白百合花の話」は、当時の逸枝の心境を物語っているように、私には思えてならない120

とくに実証も論証もされることなく、暗に、憲三に虐げられる逸枝の孤独感を言外に漂わせながら、その姿を、いかにも「みぢめな白百合の花」であるかのごとくに、読み手に印象づけるのでした。どう見ても、窮地のなかから生まれた、思わせぶりな結論です。

『婦人戦線』の最終号に掲載されている逸枝の短編「みぢめな白百合花の話」についての私の解釈は、著作集14『外輪山春雷秋月』に所収しています「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」におきまして、少し検討していますので、ここでの繰り返しは避けることにします。他方、山下の論考と岡田の論考で私が興味をもったのは、女性に向ける男性の行為に対しての、女性である論者が着眼する固有の視点に関してです。すでに引用文において示していますように、山下は、「森の家」でかいま見せた憲三と道子の楽しそうなデートに着目し、逸枝には見せたことのない憲三のもう一面の行為であるがゆえに釈然としないようです。その一方で岡田は、「森の家」で憲三が道子の作品の最初の読者になっていたことに着目し、憲三がかつて逸枝にとった行為と同じであるがゆえに合点が行かないようです。男性である私の目には、ここに、女が男に求める異なるふたつの固有の内在的視点が表出されているように映ります。

それはそれとして、岡田孝子もまた、山下悦子同様に、石牟礼の新刊『最後の人 詩人高群逸枝』に動揺こそせよ、自己の抱える呪縛された憲三像を捨て去るまでには至らず、いやむしろ堅持する姿勢を貫いているように見えます。おそらくこれが、広く高群逸枝研究者が示す現在の状況ではないかと思われます。しかし、岡田は、山下と違って、たとえ印象批評であれ、憲三は「逸枝にとって永遠の『最後の人』そのものだった」と、率直に書きます。逸枝にとっても、道子にとっても「最後の人」であった憲三――そこで、次の最終節で、私の理解する「高群逸枝と橋本憲三と石牟礼道子の三つの巴」について、短く述べることにします。おそらくその結果は、岡田孝子のみならず、多くのこの分野の研究者の一人ひとりにとって、「私の想像をはるかに超えること」になるかもしれませんが――。

五.高群逸枝と橋本憲三と石牟礼道子の三つの巴

石牟礼道子(旧姓吉田)は一九二七(昭和二)年三月に熊本県天草郡宮野河内において出生しました。それから数箇月後、石工を生業とする一家は、八代海(不知火海)を挟む対岸の水俣町に移ります。道子が物心ついたころには、すでに祖母のモカ(おもかさま)は精神に異常をきたしていましたし、父の亀太郎は、酒におぼれる日々を過ごしていました。一九四五(昭和二〇)年八月、日本は終戦を迎えます。そのとき一八歳の道子は、小学校の代用教員をしていました。その二年後、結婚話が持ち込まれます。そのときのことを、次のように道子は、述懐します。「結婚はまとまった。……家にいると弟たちの邪魔になりはすまいか、また口減らしをしなければ、という思いもあり、弟の友人というのが何よりありがたくて、ゆく気になった。……いまひとつ思ったのは、吉田姓であるよりも石牟礼姓を名乗った方が、ペンネームのようで面白い。……父は並々ならず石を尊敬していたから、石牟礼弘という弟の友人と式を挙げることになった」121。しかし、結婚生活は、殺伐としたものでした。ここへ至るまでに、自殺未遂も複数回ありました。この願望は終生続きます。

それから一〇年ほどの歳月が流れます。水俣病の出現と拡大、『サークル村』の創刊と参加、弟の死、日本共産党への入党と離党――これが、おおまかな一九五〇年代後半における石牟礼道子の足取りでした。労働者をつなぐ「表現」の場として、炭坑のある筑豊の地で谷川雁や上野英信、森崎和江らによって創刊された文芸雑誌が『サークル村』でした。谷川雁も同じ水俣の出身でした。この雑誌の創刊は、一九五八(昭和三三)年九月で、その二箇月後の一一月に弟を鉄道事故(自殺)で亡くします。道子は、自分が置かれているこのころの状況について、こう書きます。

サークル村に参加することと、入党することは、いまだ書かれざる近代思想史がどうであれ、私にとっては突然湧いてきた美学でした。いえ、すべて混沌の内部にいつもいて引き裂け、つぎなる混沌を生みだす民衆のひとりとして私はそこにいました122

道子はさらに、こうも書いています。

私はサークル村に入っててちょっと書いたり、谷川雁さんがやっておられた大正行動隊に行ってみたりしていました。短歌をやめかかっていたので、別な表現を獲得したかったのです。そのころ、自分を言い表せるものが何にもないと思って、いろいろ悩んでいました。結婚とは何ぞやとか。そして表現とは何かと123

そこで、石牟礼の足は、図書館へ向かうようになりました。水俣には、淇水 ・・ 文庫と呼ばれる、徳富蘇峰が寄贈した図書館がありました。館長の中野普は、本や文献といったものにまるで知識がなかった一家庭婦人に、噛んで含めるように、一から十までを教示しました。最初は郷土史についての古い文献に関心をもつ道子でしたが、しばしば通ってくる道子に対して館長は、特殊資料室の書物を自由に閲覧できるように便宜を図りました。ここに、まさしくひとつの大きな出来事が待ち受けていたのです。石牟礼は、そのときの衝撃を、このように文字にしています。少し長くなりますが、省略することなく、書き写します。

 それまでの家庭生活にくらべてあまりに世界がちがうのに圧倒され、特殊資料室の大書架に誘われてたたずむうちに、ふと夕日の射している一隅の、古びた、さして厚味のない本の背表紙を見たのである。「女性の歴史・上巻・高群逸枝」とある。われながら説明のつかぬ不可思議な経験というよりほかないが、夏の黄昏のこの大書架の一隅の、背表紙の文字をひと目見ただけで、書物の内容については何の予備知識もないのに、その書物がそのとき光輪を帯びたように感じられた。つよい電流のようなものが身内をつらぬいたのを覚えている。そのため、しばらくその書物を手にとることがためらわれた。ややあって、なにかに操られるような気持ちでそれを手にとるとかすかな埃が立った124

時は「夏の黄昏」という。高群逸枝が亡くなるのが一九六四(昭和三九)年の六月です。であれば、このときの『女性の歴史』(上巻)との出会いは、逸枝が亡くなる前年の、つまりは一九六三(昭和三八)年の夏の出来事ということになります。「ハットして読みふけりましたが、興奮しましてね。かねてから私が思っていることに全部答えてある。それですぐ高群逸枝さんに手紙を書きました。そしたら逸枝さんは一カ月くらいして亡くなられました」125

道子が逸枝に宛てて手紙を書いたのが、逸枝が亡くなる一箇月ほど前であるとしますと、一九六四(昭和三九)年の四月か五月ころになり、道子は三七歳になっていました。逸枝が、「森の家」に入居し、女性史研究に着手するのも、三七歳のときでした。ふたりの女性の再出発の時期が、偶然でしょうが、重なります。道子の文に、このようなものがあります。

 一九六 ママ 年冬、私は三十七歳でした。
 ようやくひとつの象徴化を遂げ終えようとしていました。
 象徴化、というのは、――なんと、わたしこそはひとつの混沌体である――という重たい認識に達したのでした。いまや私を産みおとした‶世界″は痕跡そのものであり、かかる幽愁をみごもっている私のおなかこそは地球の深遠というべきでした126

この一文を、地球の起源に由来する、いまだ混沌体として現存する自分を含めての人間、とりわけ性を司る族母、そして混沌世界を描く文筆家――このことへの道子の自覚の第一歩として読むことも可能かもしれません。逸枝宛ての道子の手紙は、それを象徴するものであったはずなのですが、残念ながら、残されていないようです。後年、本人は、このような内容のものであったと回想します。「ともかく私のふだん思っていること、一番悩んでいること、一番つらいことに、逸枝さんのこの本は全部答えてくださっています、感謝しましたとか……まだお尋ねしたいことがいろいろあるとか、こんな本を読んだのは生まれてはじめて、と書いたと思います」127。石牟礼が記憶するところによれば、橋本憲三は「逸枝と二人で、あなたの話を、ちょこちょこしておりました」128という。これは、このとき出された手紙のことだったかもしれませんが、『詩と眞實』(通巻第百六十四号)に掲載された石牟礼の「石の花」のことだったかもしれません。「石の花」は、「テレビ劇のための試作」という副題がつけられていて、筑豊のボタ山に生きる人たちを扱ったものです。発行日は、一九六二(昭和三七)年一二月二五日です。「石の花」について、石牟礼は、このように書いています。「同じ時期、この夫妻は、ある同人雑誌にはじめて書いて『石の花』と題してのせた、まるでなっていない戯曲のつもりのものを読んで話題にしていられたということだった。その雑誌はわたしがお送りしたものではなく、たぶんその雑誌の発行者が同郷の先人に敬意を表して、森の家に定期的に送っていたものだった」129

以下の文を読むと、図書館での偶然の邂逅が、いかに強い心的衝撃を石牟礼にもたらしたかがわかります。

そのような出遭いが、水俣病問題とほぼ同じ時期におと ママ れて、わたしは、自分自身で名状しがたい何ものかに、突然変異を遂げつつあるのではないかという予感がしてこの頃内心異様な戦慄に襲われ続けていたのである。必然の時期が訪れたのだと言えなくもないのだった130

高群逸枝の書物に遭遇したことは、決して単なる偶然ではなく、石牟礼の生きづらさを感じる深刻な苦悩が引き寄せた結果だったのかもしれません。であれば、確かに石牟礼にとって、生まれ変わって生き直すための、このときが「必然の時期」だったということになるでしょう。それ以降、異様な戦慄を覚えながら石牟礼は、自身が名状しがたい何か別物に大きく変貌するにちがいないという予感を抱き続け、煩悶の時を過ごすのでした。

逸枝の死去ののち、東京の「森の家」では、『火の国の女の日記』の後半部分が憲三の手によって書き進められていました。一九六五(昭和四〇)年六月の逸枝の一周忌にあわせて、この自伝が刊行されると、迎えに来た静子と英雄の夫妻に付き添われて憲三は、遺骨をもって水俣に一時帰省します。そして、すぐにも東京にもどるや今度は、『高群逸枝全集』(全一〇巻)の編集に全力を注ぐのでした。第一回の配本は第四巻の『女の歴史一』で、一九六六(昭和四一)年二月に刊行されました。およそこの二年間、静子は、二箇月に一度、二週間くらいの滞在予定で「森の家」に行き、憲三の編集作業の手伝いに当たります。

その間道子は、しばしば憲三に宛てて手紙を書き、自身の苦悩と逸枝への追慕の念を伝えたものと思われます。それについての、わずかな証拠が残っています。『火の国の女の日記』を執筆した時期、憲三は道子に手紙を書いています。「――もう二カ月も、誰とも、ひとことも対話しない日々が続いています。ただ姿なき彼女と――」131。前後が省略されています。ここに何が書かれてあったのか、興味がもたれるところです。もし、そうした手紙類が現存するならば、この時期の憲三と道子の関係は、いっきに明確になるのですが――。

加えて想像するに、水俣にあって道子は、静子を訪ね、自分が宿す苦境の実際を同じく告白したにちがいありません。さらにそれを受けて、「森の家」で静子と憲三が、道子のことを話題に取り上げていた可能性も決して否定することはできないでしょう。現在のところ、逸枝の死去(一九六四年六月)から三回忌(一九六六年六月)までの二年間の憲三、静子、道子をつなぐ交流の軌跡は、一次資料(エヴィデンス)にあってどうしても十全に確認することができない、全くの空白部分となっています。しかしながら、この期間が三者にとって、濃密な関係構築の時期となっていたことは、その後に続く出来事から判断して明らかなように推量されます。

さて一方の石牟礼は、逸枝が亡くなると、さっそく筆を執り、「高群逸枝さんを追慕する」という追悼文を七月三日の『熊本日日新聞』(六面)に寄稿します。以下は、その一節です。

 高群逸枝氏が、その女性史の中で、まれな密度とリリシズムをこめて、ほかに使いようもないことばで「日本の村」と書き、「火の国」と書き、「百姓女」と書き、「女が動くときは山が動く」と書いたとき、彼女みずからが、古代母系社会からよみがえりつづけている妣(ひ)であるに違いない。(注=妣は母)

石牟礼は、『女性の歴史』以外の高群逸枝の著作について、「ほかの作品は『森の家』に行ってから徐々に読ませていただいたんです」132と、述懐しています。しかし、この一著からの知識と感動のみをもってして新聞に追悼文を書き寄せるに至ったとは到底考えにくく、実際その文面を読む限りにおいても、淇水文庫で『女性の歴史』(上巻)を手にして以来、逸枝への関心は持続し、「高群逸枝さんを追慕する」を執筆するまでの約一年間、石牟礼は、『女性の歴史』以外にも、入手可能な限りの逸枝の書物に目を通していたのではないかと推察されます。分量もあり、学術的な内容をもつ難解な部分もあります。石牟礼にとって、自分の再生を賭した必死の読書だったにちがいありません。しかしその結果、このときまでに、すでに石牟礼の内面には、逸枝をもって自分の妣/母とみなす慕情の念が、醸成されようとしていたのでした。換言すればそれは、逸枝を妣/母として、いま一度生まれ変わりたいという強い願望の発露だったにほかなりません。石牟礼の暗部に、ほのかな希望の閃光が射した瞬間でした。

続く一九六五(昭和四〇)年六月、逸枝の一周忌にあわせて『火の国の女の日記』が出版されると、道子はそれを読み、逸枝にとって憲三という夫の存在がどのようなものであったのか、その真の姿にはじめて接し、強い感銘を受けたものと思われます。しかしそれに先立って、実際には道子は、「全集に組まれる前の『火の国の女の日記』の初稿ゲラ刷を読んでいる」133のです。これは、明らかに憲三が、道子の求めに応じて「森の家」から送ったものであると思われます。こうした交流を背景に、すでにこの時期、憲三に会ってみたいという情感が道子に湧き上がっていたとしても、それはそれとして、決して不自然なことではなかったのではないでしょうか。

他方で、渡辺京二が『熊本風土記』を創刊すると、石牟礼道子の「海と空のあいだに」の連載がはじまります。第一回が創刊号(一九六五年一一月)に、そして第五回が通巻七号(一九六六年六月号)に掲載され、最終的には第八回(通巻第一一号、一九六六年一一月号)まで続きます。これが、『苦海浄土 わが水俣病』(講談社、一九六九年)のおおかたの部分を構成する、事実上の元原稿となるものでした。

明らかにこの時期、石牟礼は、死に傾く自身を生へと蘇らせる すべ をひたすら逸枝の著作に見出そうとしていました。憲三との手紙のやり取りもしていました。そしてまた、原因不明の奇病が体を麻痺させ、それによりいのちを落とす人間の悲惨な姿に、血筋として自分が宿しているかもしれない狂死の発現を折り重ねるかのようにして、これまた必死になって、この病気と向き合っていたのでした。

そうしたふたりを取り巻く状況のなかにあって、いよいよ憲三と道子が巡り会う日が訪れました。憲三の「共用日記」には、次のような記述が残されています。時は、一九六六(昭和四一)年の五月と六月です。逸枝の三回忌(二周年)にあわせて、憲三が水俣に帰ってきたときのことでした。それは、道子の「海と空のあいだに」の第五回が『熊本風土記』に掲載された時期でもありました。

五月一六日 静子と石牟礼さん訪問。
六月七日 二周年。……石牟礼さんお花。/ささやかな法事。読経。
六月八日 午後石牟礼さん。世田谷にいきたいといわれる。ごいっしょしていいとはなす。
六月二九日 15じ11分きりしまで出発、一週二週で帰水の予定。石牟礼さん同道。帰りはべつべつか134

五月一六日に、憲三と静子が石牟礼宅を訪れると、今度は、六月七日の逸枝の三回忌に、道子が花をもって憲三と静子を訪ね、翌八日に再び訪問して、「森の家」に行きたい旨を伝えます。それから三週間後の六月二九日、ふたりはそろって、西鹿児島発東京行きの急行「霧島」の一等車に国鉄水俣駅から乗り込むのです。この一箇月半のあいだ、三者でどのような会話が取り交わされたのか、そして、どのような取り決めがなされたのか、それを明らかにするための証拠となる一次資料は残されていません。その後に起こる出来事から推量するしかないのです。

それにしても、子どももある既婚女性が単身、遠路東京まで行って、妻を二年前に亡くした寡夫である男性と一週間ないしは二週間を過ごすに当たっては、それなりの覚悟と目的があったものと思われます。その一方で、初見に近い人妻に東京へ連れて行ってほしいと懇請された場合、思慮ある男性であれば、二つ返事でその申し出に同意するとはにわかに信じがたく、それであればそれは、わずか一箇月半という短時間のうちにまとめられた計画ではなく、この約二年間の三者の交流のなかにあって熟慮が重ねられた結果の成案であり、この三回忌にあわせて、実際に三人が顔をあわせて気持ちを確かめあい、そのうえで、外部の人間からすれば無分別にも見えそうなこの計画が三者のあいだで共有されるに至った――この場合は、そう考えるのが妥当ではないかと、思量されます。

五月一六日に、憲三は静子と一緒に道子の家に行きました。憲三にとって道子に会うのは、これがはじめてだったのではないかと思います。しかし、静子の方は、栄町にいたころの子ども時分の道子を知っていました。道子は、こうも書き記しています。

橋本憲三氏の妹の静子さんという人をわたしは幼い頃から知っていた。というのも、水俣川の河口へうつる前に住んでいた栄町に、憲三氏の姉妹のお店がわたしの家の四、五軒先にあったのだ。食品の卸問屋をしておられた135

道子はまた、次のように、静子のことを書いています。「静子さんは、わたしがどういう育ち方をしたか十分にご存知でいらしたにちがいない。祖母が街中をさまよっていた姿などもしょっちゅうごらんになっていただろう」136。それだけではなく、精神病院を出るや鉄道事故で死亡した道子の弟のことや、道子自身の自殺未遂のことも、静子は知っていたにちがいありません。しかし、静子は、そうしたことを理由に道子を避けるようなことは決してなく、むしろ温かく包み込むような、理解ある態度で接しました。次は、道子による静子についての人物評です。「妹の静子さんは、たいそうのびやかな見かけの美女で、頭脳明晰な人だった。時々お手紙を頂いたけれども、切れ味のある名文である」137

六月八日の午後、道子は憲三に、「森の家」がある「世田谷にいきたい」と懇願します。しかし、その理由や目的については何も書かれてありません。この間の状況から判断すれば、おおよそ道子は、次のようなことを憲三と静子に伝えたのではないでしょうか。「尊敬する逸枝先生を慕いながら、再び自分は逸枝先生を妣として『森の家』で生まれ変わり、これからの後半生を憲三先生の後添いとなって、逸枝先生とともに過ごしてゆきたい、静子さんを立会人として――」。そのように推測する理由のひとつには、道子が「森の家」で書いた日記の冒頭に、次のような文字が並んでいるからです。

わたしは 彼女を
なんと たたえてよいか
ことばを選りすぐっているが
気に入った言葉が見つからないのに 罪悪感さえ感じる
……
わたしは彼女をみごもり
彼女はわたしをみごもり
つまりわたしは 母系の森の中の 産室にいるようなものだ138

別の箇所で道子は、こうも書いています。

 私には帰ってゆくべきところがありませんでした。帰らねばならない。どこへ、発祥へ。はるか私のなかへ。もういちどそこで産まねばならない。私自身を。それが私の出発でした139

こうした文面を読むにつけ、産室としての「森の家」で、敬愛する妣なる逸枝の子宮に一度帰着し、そこから再び自分が生まれ落ちる――そのことへの道子の避けがたい衝動を、そこから感じ取ることができます。自分の出自、育った家庭環境、そしていまの結婚生活、そのすべてを産湯に洗い流し、別のもうひとりの「石牟礼道子」としてこの世に再誕生、つまりは再生を成し遂げる――何にもましてそのことを、道子は無心に願望していたのでした。

上京する前日の六月二八日、道子は、最後の行動に出ます。「橋本家へあいさつに行った。『うちのセンセイ』をつれていったのはひとまず進行したといえる」140。道子は夫の弘に、今回の東京行きをどう説明したかはわかりません。おそらくは本心を隠し、弘をあまり傷つけないように、水俣病の調査のためとか、それに類するもっともらしい理由をつけて説得したものと考えられます。

六月二九日、一五時一一分、水俣駅のホーム。その時が来ました。「いよいよ東京行き霧島に乗る。厳粛な気持ち。はじめて夜汽車に乗ることになった。瀬戸内海見えず。関門トンネルに気づかない。憲三氏とつい話しこんでしまったので」141。ふたりは、どのようなことを話題にしたのでしょうか。想像するしかほかに手立てはありません。逸枝のこと、「森の家」のこと、全集刊行のこと、水俣病のこと、さらには、連載中の「海と空のあいだに」のこと、そして、ふたりの今後のこと――。翌日の午後東京駅に着くまでのおよそ二五時間、ふたりの会話が途切れることはなかったでしょう。実にこうして、六九歳の憲三と三九歳の道子の一昼夜にわたる、生まれ変わりへ向けての厳粛なる道行きが、進んでいったのでした。

道子は、憲三について、こう吐露します。

ほとんど宿命的にかかえこんでしまった故郷水俣の出来事についても、同郷のよしみで直感的に把握していられた。その上突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動をも、たぶん理解されていたのだっただろう。静と動との極点を、わたしはゆきつもどりつせねばならなかった142

水俣病との対峙、そして逸枝と憲三への恭順、このふたつが、道子の内面を駆け巡っていました。まさしくこの時期に形成された両要素が動力となって、こののちの道子の生涯を先導することになるのです。道子は、それについて、以下のように分析しています。

 水俣のことも、高群ご夫妻のことも、一本の大綱を寄り合わせるかのごとき質の仕事であった。二本の荒縄をよじり合わせて一本の綱を作る。人間いかに生きるべきかというテーマを、二つのできごとは呼びかけていた143

ここに引用した文は、そののちの道子の生涯を規定する極めて重要な言説であるように思われます。といいますのも、人間のいのちと暮らしについての無自覚な生後体験から、民衆へ寄せる私的かつ詩的な独自のまなざしへの昇華、――そしてその、まさしく着床された土着的魂に導かれて描かれる普遍的な人類族母の史的再生。これが、その後の石牟礼文学を通底する「人間いかに生きるべきかというテーマ」の原像ではないかと考えるからです。

「産室」となる「森の家」でのふたりの生活がはじまりました。七月三日の日記に、「昨夜、というより今晩(一時)憲三氏(以下K氏と書く)より、ノートの御許し出る」144とあります。これは、尊敬してやまない憲三と逸枝を主人公とする伝記執筆のためのノートを意味します。この伝記は、水俣へ帰郷後、まず「最後の人」と題されて『高群逸枝雑誌』に連載され、そして最終的に、道子が八五歳のときに、『最後の人 詩人高群逸枝』として書籍化されます。それを思うと、まさしく道子の生涯は、これよりのち、「最後の人」とともに歩んでゆくことになるのでした。

同じく七月三日のノート(東京日記あるいは森の家日記)には、こう書かれています。

 今夜更に高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った。それは橋本静子氏に対する手紙の形で(つまり、静子氏を立会人として)あらわした。午前三時これを書き上げる145

その手紙は、次のように書き出されます。

 深い感謝の気持でこの手紙を書きます。このたびの上京について、私自身にとっては破天荒なことであり、はためにはずいぶんづかづかとしたお願いを、みなさまによっておききとどけ下さいましたことに、貴女さまの御配慮が全面的に動いて下さいましたことを、その経緯の積み重ねがありましたことを、私は肝にめいじているつもりでございます146

「高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った」という語句や「静子氏を立会人として」手紙を執筆していることから推測しますと、このとき道子は、女としての自身が寄って立とうとする立場を明確に「誓った」のではないかと思量されます。この手紙には、世俗的な「後添い」や「後妻」といった言葉はいっさい使われていませんが、配慮の「経緯の積み重ねがありました」という字句に目を向けますと、およそこの二年間にあって、しばしば道子は静子に会っては、そのことにかかわって暗に意思表示をしていたのではないかという推断の道が開きます。こうした「積み重ね」が、すでに引用で示しています、「突如としてこの森にかけこみをした盲目的衝動」となって、ここに顕在化したものと思われるのです。しかし、「静子を立会人として、高群夫妻と自分に対して、後半生について誓った」というわずか一語だけに頼って、本当にそれが「後妻」になるという意味を招来する、と即断していいものかどうか――。残されている資料のなかから、この疑問の解消に資するであろうと思われる事例を拾い上げ、以下五点について言及したいと思います。といいますのも、このことをここで明確化することによって、これ以降の道子の人生と作品とを適切に理解するうえでの極めて重要な判断材料が入手できるものと考えるからです。

一点目。「森の家」に滞在中の道子の書くもののなかに、「われわれの森はと云えばそれらの中にそびえ立ち、その夕闇の一瞬を司る」147という表現があります。また、別の箇所では、自身の外出からの帰りを「二時、わが家へ。化粧部屋で着替え」148と表現しています。もし、道子と憲三が明白な他人同士であれば、決して「われわれの森」とか、「わが家」とかいった表現は使わず、それぞれにおいて、事実に即して「憲三氏の森はと云えば……」、そして、「二時、憲三氏の家へ。……」という言葉遣いに、止めるのではないでしょうか。「われわれの」という所有格の表現は、これ以外にも散見されます。

また、憲三と自分を主語として書くに当たって道子は、数箇所で「わたくしたちは」という表現を使っています。たとえば、「秋から冬に入ってゆく空の重さを心に抱いて、わたくしたちは馬事公苑へゆく」149という箇所が、その例に相当します。単なる一介の滞在者であるならば、「憲三氏と私は」と書くのが通例でしょう。「わたくしたちは」と書く以上は、ふたりがすでに極めて親密な関係になっていたことを例証します。

二点目。その年(一九六六年)の一一月二四日、ひと足先に道子は、「森の家」をあとにして水俣に帰ります。しかし、そこでの生活が懐かしく思い出され、憲三に手紙を書きます。以下はその一節です。日付は一二月二〇日。「森の家」の処分がすべて終わり、すでに憲三も水俣に帰っていました。

 お話がしたいと思います。お話に飢えています。……わたくしはよく逃げ出していました。トンコたちのように。
 おもえばまるでわたくしはあの鶏たちとよく似ていました。……結構お二人にいたわられて、愛されさえして、(実際それは本当でしたから)うつくしくしあわせに暮させていただきました。まるで窓から飛びこむように、彼女の書斎にもお茶の間にも寝室にさえ飛び込んでいたのですから150

この文にみられる「愛されさえして」「寝室にさえ飛び込んでいた」といった字句に注目するならば、道子は単なるひとりの食客として過ごしたのではなく、この言葉は、明らかに「森の家」での同居中、憲三と道子のあいだに性的関係があったことを示唆します。

三つ目。一九七六(昭和五一)年五月二三日、憲三が死去します。それに際して、主治医が、憲三に死期が迫っていることを告げたのは、静子ではなく、道子に対してでした。

 最後の逸枝雑誌、三十一号の編集が終ってしばらくした頃、主治医の佐藤千里氏から、私は、もうあまりお互いの持ち時間がないことを具体的に知らされていた。つらいことだったが実妹の静子さんにその状態を理解してもらわなければならなかった151

医師はその倫理において、人の生死を安易に他人に口外することはありません。それでは、なぜ佐藤は、肉親である静子に先立って、他人であるはずの道子にまず一番に伝えたのでしょうか。それは佐藤が、戸籍上はどうであれ、また、たとえ同居はしていなくとも、道子が実質上の憲三の内縁の妻であることを、これまでの付き合いを通して、すでに知っていたからにほかなりません。「もうあまりお互いの持ち時間がない」という表現に、そのことが十全に凝縮しているように感じられます。

四つ目。憲三が亡くなって四年が過ぎた一九八〇(昭和五五)年のこと、『高群逸枝雑誌』の終刊号が発行されます。道子は、「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」を表題にもつ一文を寄稿します。そのなかで道子は、次のように語ります。

……本稿は『高群逸枝雑誌』の発刊と終刊に立ち会いながら、ただただ無力でしかなかったひとりの同人として、森の家と橋本憲三氏の晩年について、いまだに続いている服喪の気持の中から報告し、読者の方々への義務を果したい152

道子は、没後四年が立ったいまも、喪に服しています。これは、仕事上の限定された仲間関係の域を超えるものではないでしょうか。「森の家」での生活から憲三を看取るまでの一〇年間、道子は、水俣病闘争へ身を投じているさなかにあっても、心は途切れることなく憲三に添い続けました。「喪主」であるとの隠された自覚は、次の最後の五番目の事例にみられるように、おそらく、その後引き続き最晩年に至るまで道子の心情の海底を支配していたにちがいありません。ここは、「高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った」という道子の言葉が、決して偽りではないことを信じたいと思います。

また、「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」のなかには、「わたしたちの逸枝はしかし、詩人としての出発に当ってまことよい理解者にめぐまれたといわねばならない」153という一文があります。注目すべきは「わたしたちの逸枝」という表現です。つまり逸枝は、単に「憲三の逸枝」ではなく、もはや「憲三と道子にとっての逸枝」という位置づけがなされているのです。理由は何でしょうか。逸枝は『孌愛論』のなかで「寂滅」という用語を使っています。本人によれば、その語が含意するところは、「他の新生命への發展」です。「森の家」を離れるとき、「寂滅(□□)の言葉はゆうべたしかめあった」154と、道子は書きます。つまり、この時点で、逸枝と憲三と道子の三つの巴はすでに一体化しており、そうした共有化された認識があったればこそ、「わたしたちの逸枝」という表現がここで現前化したものと考えられます。

いよいよ最後に五点目として。「最後の人」の初回が、『高群逸枝雑誌』の創刊号に掲載されたのは、一九六八(昭和四三)年のことでした。それから数えて四四年後の二〇一二(平成二四)年、藤原書店から単行本となって世に出ます。この『最後の人 詩人高群逸枝』の巻末には、藤原良雄による「高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」と題されたインタヴィュー記事が収められています。

――憲三さんから逸枝さんのことをお聞きになって、憲三さんの姿もそばで見ておられて、[憲三さんのことを]そう思われたのですね。
 はい。憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が新鮮でした。おっしゃることも、しぐさも、何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる。
――「最後の人」というのはどういう思いで。
 こういう男の人は出てこないだろうと。
――憲三さんのことを。
 はい。高群逸枝さんの夫が、「最後の人」でした155

このインタヴィューのとき、道子はすでに八五歳になっています。亡くなる五年と数箇月前のことです。「最後の人」という題を道子が考えついたのは、「森の家」滞在中の一九六六(昭和四一)年の秋でした。

 たぶんこのような一文を草せねばならぬ日が確実におと ママ れるのを予感しながら、あの「森の家」の一室で、ノートの表題を「最後の人」と名づけたのだった。
「最後の人としたのですか。なるほど、うん。よい題だなあ」156

このとき憲三は、道子にとっての「最後の人」が自分であることを十分に理解していたことでしょう。それから時が流れ、道子にも最期が近づいてきていました。『最後の人 詩人高群逸枝』の出版とほぼ同じ時期、道子は、新作能「沖宮」を書きます。著作集14『外輪山春雷秋月』に所収する「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」の第一五章「志村ふくみ監修の能衣装による石牟礼道子の『沖宮』初演」において詳述していますように、描かれているのは、少年天草四郎と五歳のあやの、海底 うなぞこ に沈む「沖宮」への道行きです。事実上の絶筆となるこの虚構空間において、おそらく道子は、自覚された死期が近づくまさしくこの時期に、四郎に憲三を託し、あやを自分自身に見立て、現世で果たせなかった実相を、悲しくも美しい幻想世界に置き換えて、誰にはばかることもなく、そのすべてを表出したのではないかと愚考します。

かつて道子は、「森の家」から静子に宛てて、次のような手紙を書いていました。

 うつし世に私を産み落とした母はおりましても、天来の孤児を自覚しております私には実体であり認識である母、母たち、妣たちに遭うことが絶対に必要でした。……
 つまり私は自分の精神の系譜の族母、その天性至高さの故に永遠の無垢へと完成されて進化の原理をみごもって復活する女性を逸枝先生の中に見きわめ……そのなつかしさ、親しさ、慕わしさに明け暮れているのです。そして私は静子様のおもかげに本能的に継承され、雄々しいあらわれ方をしている逸枝先生のおもかげを見ます157

この言説から判断すれば、〈沖宮〉に住むいのちたちの大妣君は、まさしく逸枝その人であり、周りでそれを支えるいのちたちが、藤野であり静子であるということになります。かくして、逸枝、藤野、静子といった敬愛する妣たちが住む死界の「沖宮」へ向けて、読経がとどろき渡るなか道子は、最愛の「最後の人」である憲三に導かれて旅立つのでした。

精神に異常をきたした盲目の祖母と、酒に酔い狂う父と、若くして自殺に走った弟とを家系にもつ石牟礼道子は、結婚生活にも展望が開けず、本人もはっきりと気づいていたように、明らかに、生きることへの適応障害を引き起こしていました。彼女にとっての選択肢は、死か再生しかありませんでした。繰り返した自死行為もすべて未遂に終わります。そのとき彼女は、高群逸枝が書いた『女性の歴史』(上巻)に偶然にも出会うのです。こうしてここに、蘇生へ向けての扉が開き、かつて高群逸枝と橋本憲三が住んだ「森の家」が産室となり、逸枝の面影を宿す、憲三の妹の橋本静子が産婆役となって、道子は生まれ変わるのでした。水俣に帰った憲三と道子は、逸枝を顕彰する雑誌づくりに励みます。一方、生と死を主題にする執筆活動が、生き返った道子により再開され、それは生涯続くことになります。しかしその間、憲三には、逸枝の過去や自身の性格にかかわって、いわれなき罵詈雑言が執拗に繰り返されるのです。それをまぢかで見ていた静子と道子は苦しみます。そうしたなか、やがて憲三も静子も旅立ち、そのとき、遺児同然となった道子に救いの手を差し伸べるのが、再び憲三その人でした。ここに至りて道子は、もはや「再生」ではなく、「最後の人」たる憲三との「心中」を選ぶのでした。ふたりを待っていたのは、大妣君の逸枝だったにちがいありません。これが、最晩年の道子が思い描いていた、自身の人生物語の全容だったのではないかと、私は推量します。

ところが、道子の自叙伝である「葭の渚」(『石牟礼道子全集』別巻に所収)は、「森の家」から水俣に帰ったところで、つまり、新たないのちが吹き込まれたところで、突如途切れます。最終章の章題が「道行きのえにしはまぼろしふかくして」です。この時点で道子は、再生なった自身の、憲三との「道行き」を胸に秘めていたにちがいありません。そして、その思いの決定的な告白瞬間が『最後の人 詩人高群逸枝』のなかに出現し、続くまさしく終幕となる「沖宮」で、「道行き」が満願成就されるのでした。

以上に述べてきました五点を根拠として、私は、「森の家」での同棲生活にはじまる憲三と道子の親密な交わりを、男女関係のあり様にかかわる、現実世界に規定されるところの特殊なひとつの愛の形態とみなしたいと思います。その上に立って私は、「静子を立会人として、高群夫妻と自分に対して、後半生について誓った」という一語を、これよりのち憲三の「後添い」つまりは「後妻」となって生涯を生きてゆくことを契った道子の決意の表明であると解釈します。ここに、橋本静子の立ち合いのもと、高群逸枝、橋本憲三、石牟礼道子の三つの巴が誕生し、生涯の強靭なきずなとなって、この巴はひたむきに生き抜いてゆくのでした。これを、逸枝の恋愛論に謳われる「寂滅」の完成形とみることもできるかもしれません。この間、数々の心ない罵声が憲三に浴びせられました。それに対して道子は、静子とともに毅然として闘いました。絶筆となる新作能「沖宮」において、道子は憲三に守られながら、恋い慕う妣たちである逸枝、藤野、静子の三人が待つ、天草灘の海底の死界へと向かいます。こうして、大妣君高群逸枝を巡る一大叙事詩は幕を下ろしたのでした。

以上が、私の確信するところです。

おわりに

私の専門分野は、歴史学の一分野であるデザイン史学です。デザインの通史にも興味がありますが、個別デザイナーにも関心を寄せ、英国のデザイナーで、詩人にして社会主義者でもあったウィリアム・モリスと、その思想と作品に影響を受けて英国に渡り、のちに陶工として世に出た富本憲吉について研究してきました。その過程で私は、富本憲吉の妻の富本一枝の存在を知りました。その研究成果の一端が、著作集3と4の『富本憲吉と一枝の近代の家族』です。しかしそのとき、大きな「衝撃」を受けました。参考までに読んだ二冊の、一枝に関する伝記が、あまりにも事実から逸脱していたことを知ったからです。それについては、第二編「伝記書法論(2)――富本一枝の伝記作家はその夫をどう描いたか」において詳述していますので、ここでは触れません。一方このとき、偶然にも、汀女が主宰誌『風花』を創刊するに当たって、一枝がその能力を活かして編集者になっていたことや、志村ふくみが染織の道に入るに当たっては、一枝と憲吉からの温かい励ましがあったことを知りました。その後、郷里の熊本で仕事を続けるなかで、同郷人である高群逸枝と石牟礼道子に関心をもったことにより、高群の著作後援会の一覧のなかに一枝の名前があることに気づく一方で、石牟礼の最晩年の作である「沖宮」における能装束を志村ふくみが担当していたこともわかってきました。それをきっかけに私は、一枝を媒介として見出された、高群、汀女、石牟礼の三人の火の国の女に焦点をあてて、ひとつの物語を書いてみたいと思うようになりました。それが、先ほど擱筆した、著作集14『外輪山春雷秋月』に所収する「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」です。しかし、ここでも、同じような苦い思いを味わうことになりました。といいますのも、逸枝にかかわる評伝や小説のなかにあって、その夫である憲三に対しての風当たりがあまりにも強く、それを不思議に思い少し調べてみると、一枝に関する二著の伝記と同じく、至る所で事実から乖離した記述に出くわすことになったからです。なぜにこうも、憲三は、逸枝の伝記作家や小説家から足蹴にされなければならないのか――。そうした思いのもと、その実態と背景を探ったのが、この第三編「伝記書法論(3)――高群逸枝の伝記作家はその夫をどう描いたか」でした。

伝記を読む場合も伝記を書く場合も、英国由来の伝記書法に照らして接近することが、いつのまにか私の慣わしとなっています。英国由来の伝記書法については、第一編の「伝記書法論(1)――モリスの伝記作家はその妻をどう描いたか」において、少し書きました。また、そこに書き記した内容は、著作集6の『ウィリアム・モリスの家族史』を著わすに際して、私が一番意を用いた点でもあります。私は、二度の英国での長期滞在を通じて、伝記執筆にかかわる多くの知見を現地の同僚研究者たちから得る機会をもちました。彼らが考える「伝記」とは、おおよそ以下のようなものでした。それをここに箇条書きにします。

(1)歴史上の人物の生涯を第三者である研究者ないしは伝記作家が書く場合は、本人や遺族のプライヴァシーや人権を絶対的に尊重して、少なくとも没後五〇年の歳月が経過しない限り、着手してはいけない。
(2)一般に英国の場合、著名人が死去すると、その人の書簡類や日記は、しかるべき図書館かまたは博物館に寄贈され、少なくともおよそ五〇年は非公開となるため、いずれにしても、定められた時を経て実際に一般公開された暁に、研究者や伝記作家は筆を執ることになる。
(3)執筆に当たっては、根拠となりえない、単なる思いつきや思い込みは排除し、すべて一次資料をもって論述の証拠(エヴィデンス)として実証に努め、あらゆる読者がのちに検証することが可能となるように、それを注および出典という書式でもって、巻末に加える。
(4)このように、伝記というものは、記述内容の検証が将来的になされることを前提に、完全なる一次資料に基づいて執筆されることになる以上、決して書いてはいけないというタブーの領域はいっさい存在せず、歴史の真実を知りたいという、人類に共通する普遍的な知的欲求の観点に立ち、たとえ夫婦の性生活であろうと、夫婦外の恋愛事件であろうと、すべての事象が論述の対象となる。
(5)つまり伝記は、かつて実在した個人の生涯についての、換言すれば、その人の家族、生活、教育、仕事、恋愛、結婚、性、育児、友人、イデオロギーなどにかかわる、厳密なる歴史書なのである。そこには、苦悩や喜びに満ちた、その人の生きたあかしが叙述されることになり、当然ながら、真実に肉薄しなければならないし、決して虚偽であってはならない。ただ、同じ個人について、ほぼ同じ一次資料を使って叙述しようとも、書かれるときの社会的文化的状況に違いがあり、そして、書く人の人間に対する興味や観点に違いがあり、さらにその一方で、新しい資料の発掘が進行し、また、学問全体の求める主題や文脈が推移するため、そうした要因によって伝記それ自体も日々進化する。その意味において書かれた伝記は、すぐれて独創性の産物であり、人類全体にとっての希求されるべき共通知となる。

だいたい以上のようなことが、これまでに私が英国で学んだ伝記書法の原理です。そこで次に、その具体例として、私の研究の対象であるウィリアム・モリスと、加えて、モリスの親友で、モリスの妻の愛人でもあった、画家で詩人のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティについての、直近のフル・スケールの伝記を紹介します。発行年は少し古いのですが、フル・スケールの伝記というのは、研究に多くの時間を要し、一〇年から二〇年くらいのピッチで刊行されるのが通例です。しかしそれだけに、十全に論証と実証がなされた信頼に足るだけの重厚さがあります。その二冊のデータは、以下のとおりです。著者はふたりとも、ウィリアム・モリス協会の会長を務めたことのある、著名な英国女性の伝記作家です。

Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, 780pp.

Jan Marsh, Dante Gabriel Rossetti: Painter and Poet, Weidenfeld & Nicolson, London, 1999, 592pp.

しかしながら、この第三編「伝記書法論(3)――高群逸枝の伝記作家はその夫をどう描いたか」において取り上げた、瀬戸内晴美の「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」、戸田房子の「献身」、もろさわようこの「高群逸枝」、栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』、山下悦子の「小伝 高群逸枝」は、こうした英国における伝記執筆上の原則や書法とは大きくかけ離れています。これらの作品と、先に挙げた英語圏のふたつの伝記とを読み比べてみれば、すぐにも、幼児と成人ほどの歴然とした差があることに気づかされます。その一方で、上の高群に関する伝記のなかの幾つかにあって、その記載内容に関連してこの間、本人はもとより遺族や関係者からの強い反発を招いたという事実もありました。

そこで、以上に触れた諸点を踏まえて、私の周辺に散見されたわが国の伝記書法の特徴を概略整理すれば、次のようになるかと思います。ひとつには、いまだ存命中の、あるいは死去して日が浅い人物であるにもかかわらず、いきなり伝記の対象に選ばれ、記述にあたっては、いっさいの証拠を示すことも、プライヴァシーや人権への配慮もなく、その結果、その人物の名誉と人格を傷つけかねない状況のなかにあって、おおかたその伝記は世に出ていること。いまひとつには、女性の伝記作家や小説家たちの記述するところにあっては、あたかも女性擁護の反転であるかのように、事実を無視してまでも執拗に男性を攻撃しようとする傾向がおおかた共通して認められること。この二点をもって、私は、その特徴として挙げることができるものと考えます。別の言葉に置き換えれば、概して、英国におけるフェミニスト・アプローチによる伝記書法が、著名男性の陰にあって無視されてきていた女性を発掘し、共感の思いをもってその人の生涯と仕事に積極的な評価を与え、再び歴史に配置しようとするのに反して、日本においてのそれは、著名女性に寄り添った男性を無理にも引っ張り出してはいわれなき罪を覆い被せ、あたかも鬼退治でもするかのように罵倒して叩き潰すことに、その意義を見出しているように感じられます。私の経験は貧弱で狭いものですが、そのようなかたちで発表される伝記は、英国ではまず見かけることはないような気がします。なぜ私たちの国では、こうしたことが平然とまかり通るのか、それが、富本一枝伝記と高群逸枝伝記から受けた私の「衝撃」の内実でした。この国の、おそらく多くの女性伝記作家たちにみられる、人権を無視し事実をないがしろにした一方的な男性蔑視の記述手法が、何に起因するのかはわかりませんが、ここではその論点までは踏み込まず、とりあえず、ここまでの論議をもちまして、この第三編「伝記書法論(3)――高群逸枝の伝記作家はその夫をどう描いたか」の結論といたします。

ところで、以上のような本稿における考察を踏まえて、一種、義憤という力に後押しされて、私はこれから著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』を執筆しようとしています。ここに、予告として書き記します。

(二〇二四年五月)

(1)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、178頁。

(2)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(3)瀬戸内晴美『談談談』大和書房、1974年、⑳⑥頁。

(4)同『談談談』、同頁。

(5)同『談談談』、⑳④頁。

(6)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、58-59頁。

(7)松本正枝「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』(国立国会図書館デジタルコレクション)、31-32頁。

(8)同「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」、33-34頁。

(9)同「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」、34頁。

(10)瀬戸内晴美『人なつかしき』筑摩書房、1983年、69-70頁。

(11)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、184頁。

(12)瀬戸内晴美「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」『文芸展望』第5号、1974年4月号、424頁。

(13)橋本憲三「瀬戸内晴美様への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、59頁。

(14)同「瀬戸内晴美様への手紙」、54頁。

(15)同「瀬戸内晴美様への手紙」、同頁。

(16)同「瀬戸内晴美様への手紙」、52頁。

(17)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、186頁。

(18)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、217頁。

(19)丸岡秀子『田村俊子とわたし』中央公論社、1973年、239頁。

(20)『瀬戸内寂聴全集 第二巻』新潮社、2001年、836頁。

(21)吉永春子『紅子の夢』講談社、1991年、274-275頁。

(22)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、183頁。

(23)前掲『人なつかしき』、69頁。

(24)同『人なつかしき』、70頁。

(25)前掲「瀬戸内晴美様への手紙」、58-59頁。

(26)前掲『人なつかしき』、69頁。

(27)前掲「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」、427頁。

(28)石牟礼道子「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』思想の科学社発行、1982年1月号(通巻349号)、44頁。

(29)同「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」、同頁。

(30)志垣寛「高群さんと橋本君」『日本談義』日本談義社、1964年8月、57-58頁。

(31)橋本憲三「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、36-37頁。

(32)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」、36頁

(33)月刊『婦人展望』、1964年7月号、3頁。

(34)戸田房子「献身」『文学界』文藝春秋、1974年7月号、80-81頁。

(35)同「献身」、114-115頁。

(36)同「献身」、115-116頁。

(37)村上信彦「私のなかの高群逸枝8」『高群逸枝雑誌』第25号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1974年10月1日、21頁。

(38)前掲「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」、25頁。

(39)前掲「献身」、116-117頁。

(40)橋本静子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、100頁。

(41)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、3-4頁。

(42)もろさわようこ「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)集英社、1980年、204頁。

(43)前掲「もろさわよう子様へ」、19頁。

(44)前掲「高群逸枝」、204-205頁。

(45)同「高群逸枝」、202頁。

(46)同「高群逸枝」、205頁。

(47)同「高群逸枝」、244頁。

(48)前掲「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」、38-39頁。

(49)石牟礼道子「最後の人 第九回 序章 森の家日記9」『高群逸枝雑誌』第18号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1973年1月1日、27頁。

(50)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、381頁。

(51)前掲「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」、30頁。

(52)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」、同頁。

(53)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、236頁。

(54)石牟礼道子「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、97頁。

(55)同「朱をつける人」、98頁。

(56)同「朱をつける人」、78頁。

(57)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、247頁。

(58)前掲「朱をつける人」、92-93頁。

(59)同「朱をつける人」、94頁。

(60)同「朱をつける人」、96頁。

(61)同「朱をつける人」、同頁。

(62)同「朱をつける人」、99頁。

(63)視点「市川房枝さん」『毎日新聞』(夕刊)1981年2月26日、5面。

(64)前掲「私のなかの高群逸枝8」、18頁。

(65)同「私のなかの高群逸枝8」、18-19頁。

(66)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、58頁。

(67)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、180頁。

(68)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、181頁。

(69)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(70)石牟礼道子「夢の中のノート」『毎日新聞』(夕刊)1979年10月17日、3面。

(71)高群逸枝編、桑原葉子・桑原弘校訂『日本古代婚姻例集』高科書店、1991年、i頁。

(72)『高群逸枝全集』第七巻/評論集・恋愛創生、理論社、1967年、372頁。

(73)前掲「もろさわよう子様へ」、3頁。

(74)栗原弘『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』高科書店、1994年、i頁。

(75)同『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、359頁。

(76)同『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、368頁。

(77)同『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、同頁。

(78)同『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、364頁。

(79)石牟礼道子「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、早稲田大学出版部、1997年、213頁。

(80)同「表現の呪術――文学の立場から――」、206-209頁。

(81)同「表現の呪術――文学の立場から――」、209-211頁。

(82)同「表現の呪術――文学の立場から――」、211頁。

(83)同「表現の呪術――文学の立場から――」、214頁。

(84)鷲見等曜『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』弘文堂、1983年、i頁。

(85)栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、250頁。

(86)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、189頁。

(87)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、190-191頁。

(88)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、156頁。

(89)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、211-212頁。

(90)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、219頁。

(91)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、18頁。

(92)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」、53頁。

(93)前掲「朱をつける人」、94頁。

(94)前掲『伴侶 高群逸枝を愛した男』、250頁。

(95)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、249頁。
 引用で示しましたように、『高群逸枝の生涯 年譜と著作』の著者の堀場は、「あとがき」において、「なんと大きな喪失であったことか」という言葉で、こころから橋本静子の死を悼みました。他方、『伴侶 高群逸枝を愛した男』の著者の栗原葉子は、その「あとがき」のなかで、「橋本静子さんには、私にはどうしても確認できない点を教示いただき、感謝にたえません」(二五二頁)と、一言書いているのみで、いつ水俣を訪れたのか、あるいは、単に手紙などによる問い合わせだったのか、そして、何を確認したのかも、全く不明です。同じ「あとがき」にあって書かれてある、堀場清子と栗原葉子の、静子に対する思いの差は、歴然としています。ひょっとすると静子は、栗原葉子の問い合わせに冷たかったかもしれません。というのも、静子の胸のなかには、兄の橋本憲三が「ゴミ類」とみなしていた、逸枝の「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」が、栗原弘と葉子の夫婦の校訂によって上梓されたことに、著作権継承者としての不信感が残余していた可能性が残るからです。
 また、『伴侶 高群逸枝を愛した男』のなかで、著者の栗原葉子は、橋本憲三に宛てた堀場清子の「おたずね通信」に触れたあとで、こうしたことも書いています。「しかし、そのような堀場や、その夫君である近代思想史家・鹿野政直による研究であっても、憲三にはこれ以上の他人の介入を許すまいとする不可侵の壁があり、氏に対する遠慮や敬意が研究者にあればあるほど、不分明さを突き崩すことを断念させている」(一九頁)。こう断言するに当たって、著者は、いっさいの根拠も証拠も示していません。果たして本当に、憲三は、鹿野政直の調査に対して、「不可侵の壁」をつくっては、「不分明さを突き崩すことを断念させて」しまったのでしょうか。一方、堀場清子は『高群逸枝の生涯 年譜と著作』の「あとがき」のなかで、「二〇〇五年一月、鹿野政直と私が水俣へ静子氏を訪ねた」と述べています。このときのこの夫婦の水俣訪問は、静子が亡くなる三年前のことでした。ここから、憲三死去ののちも、この夫婦は、妹の静子と親密な交流を重ねていたことがわかります。その視点に立って判断しますと、鹿野政直に対して、「憲三にはこれ以上の他人の介入を許すまいとする不可侵の壁があり、氏に対する遠慮や敬意が研究者にあればあるほど、不分明さを突き崩すことを断念させている」という、栗原葉子の言説は、あまりにも独断的にすぎ、懐疑的にならざるを得ません。
 さらに付け加えるならば、栗原葉子は、その本の「あとがき」の最後に、「小著を橋本憲三と高群逸枝の墓前に一冊……捧げます」(二五三頁)と、書きます。実際にふたりが眠る水俣の墓廟へ足を運んだのかどうか、それは知る由もありませんが、いずれにせよ、そうした内容をもつ『伴侶 高群逸枝を愛した男』を捧げられた橋本憲三と高群逸枝は、地底の泉にあって、怒り狂ったのではないかと、私は想像します。

(96)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(97)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、244頁。

(98)同『最後の人 詩人高群逸枝』、244-245頁。

(99)同『最後の人 詩人高群逸枝』、247頁。

(100)同『最後の人 詩人高群逸枝』、265頁。

(101)同『最後の人 詩人高群逸枝』、266頁。

(102)同『最後の人 詩人高群逸枝』、464頁。

(103)同『最後の人 詩人高群逸枝』、452頁。

(104)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(105)同『最後の人 詩人高群逸枝』、453-454頁。

(106)西川祐子「一つの系譜――平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子」、脇田晴子編『母性を問う(下)――歴性的変遷』人文書店、1985年、188頁。

(107)河野信子「『火の国』から『近代』を問い直す――高群逸枝と石牟礼道子」、加納実紀代編『リブという〈革命〉――近代の闇をひらく 文学史を読みかえる⑦』インパクト出版会、2003年、246頁。

(108)山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、50-51頁。

(109)前掲「朱をつける人」、91頁。

(110)同「朱をつける人」、93頁。

(111)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、314頁。

(112)前掲「小伝 高群逸枝」、同頁。

(113)同「小伝 高群逸枝」、51-53頁。

(114)岡田孝子「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、200頁。

(115)同「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」、201-202頁。

(116)同「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」、203頁。

(117)前掲「もろさわよう子様へ」、3頁。

(118)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」、63-64頁。

(119)前掲「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」、210頁。

(120)同「『最後の人』橋本憲三と『森の家』」、同頁。

(121)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、208-209頁。

(122)石牟礼道子「高群逸枝との対話のために(1)まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」『無名通信』No. 3、1967年9月、2頁。

(123)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、436-437頁。

(124)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、12頁。

(125)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、439頁。

(126)前掲「高群逸枝との対話のために(1)まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」、1頁。

(127)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、440頁。

(128)同『最後の人 詩人高群逸枝』、439頁。

(129)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」13頁。

(130)同「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、同頁。

(131)石牟礼道子「最後の人2 序章 森の家日記(二)」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、9頁。

(132)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、444頁。

(133)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、11頁。

(134)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、153頁。

(135)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、274-275頁。

(136)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、275頁。

(137)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、同頁。

(138)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、244-245頁。

(139)前掲「高群逸枝との対話のために(1)――まだ覚え書の『最後の人・ノート』から」、1頁。

(140)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、246頁。

(141)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(142)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、12頁。

(143)前掲『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、287頁。

(144)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、247頁。

(145)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(146)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。

(147)前掲「最後の人2 序章 森の家日記(二)」、5頁。

(148)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、271頁。

(149)石牟礼道子「最後の人 第九回 序章 森の家日記9」、24頁。

(150)石牟礼道子『潮の日録 石牟礼道子初期散文』葦書房、1974年、219頁。

(151)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」、56頁。

(152)前掲「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」、78頁。

(153)同「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」、84頁。

(154)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、327頁。

(155)同『最後の人 詩人高群逸枝』、453-454頁。

(156)前掲「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」、8頁。

(157)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、248-249頁。