過去に活動した著名な人物の生涯を描く伝記作家は、その人物をどうした視点から描いてきたのでしょうか。とりわけその配偶者については、その際、どれほどまでの関心を注いできたのでしょうか。単なる英雄物語として、対象たる著名人だけに目を向けるならば、名もなき配偶者は歴史の影に隠れてしまいます。他方、配偶者の存在に意を用いれば、ひとつの空間にあって、両者の力がどのように作用し、そこからどのような結果が生じたかが見えてきます。そのなかには、抑圧や人権、役割や愛といったものに関する様相もまた含まれ、かくして、現像された複雑な関係性のなかに、その時代のもつ固有の価値観が読み解かれてゆくことになります。
近代の伝記書法の歴史を見ると、明らかに、有名人独りを対象とした単線的歴史の記述から、配偶者を含めた男女の織りなす複線的歴史の記述へと、推移していることがわかります。これまで歴史上の人物といえば、男性であり、その男性を語る伝記作家といえば、それもまた男性でした。その伝統が揺らいできたのです。男性の伝記作家が歴史上の著名な男性の生涯を描く場合、その配偶者やパートナーである女性は、多くの場合、語るに及ばない一種の添え物とみなされていました。しかし、いまやその視点に変更が加えられ、伝記記述にかかわる新しい地平が開拓されてきているのです。こうして、歴史の隅に追いやられていた女性の存在に光があてられ、夫婦の関係、ないしは男女の関係の実体が明らかになることにより、そこに、男性の書く男性の歴史だけからは見えてこない、別の歴史の存在が見えてくるようになったのでした。
そのことを私は、前作の第一編「伝記書法論(1)――モリスの伝記作家はその妻をどう描いたか」において例証しました。そこで今回は、英国から離れて日本に視線を移します。そして加えて、男女を入れ替えて、妻の伝記作家はその夫をどう記述してきたのかという点に照明をあてます。日本において、多くの場合、女性の歴史に興味をもってその伝記を書いてきたのは、女性の伝記作家です。女性が女性の生涯を記述する際の、その夫へ向けるまなざしの特異性について論じてみたいと思います。
ここに登場する夫は、富本憲吉で、妻は、富本一枝(旧姓は尾竹、青鞜時代の雅号は紅吉( こうきち ) です。ウィリアム・モリスの思想と実践に興味を抱き、一九〇八(明治四一)年の暮れに神戸港を出て、英国に渡ったのが、富本憲吉でした。そして、帰国後結婚する女性が、『青鞜』の社員だった尾竹一枝なのです。それよりのち憲吉は、陶工として大成してゆきます。一方一枝は、小説家として、また評論家として活躍します。果たして、富本一枝を対象とした女性伝記作家は、男性たる夫の憲吉をどう描いたのでしょうか。その視線の一端を、この第二編「伝記書法論(2)――富本一枝の伝記作家はその夫をどう描いたか」において、概略的に検証します。
本論に入るに先立って、これまでに刊行された、富本憲吉と富本一枝に関する伝記、ないしはそれを題材にした小説について紹介します。それらは以下の五点で、出版順に並べてみます。
高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年。 吉永春子『紅子の夢』講談社、1991年。 辻井喬『終りなき祝祭』新潮社、1996年。 辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年。 渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』不二出版、2001年。
『薊の花――富本一枝小伝』の一方の著者である高井陽は、富本憲吉・一枝夫妻の長女で、この本が上梓されるときはすでに世を去っていました。したがいまして、最終的な原稿のとりまとめに従事したのは、もう一方の著者名にあがる、女性史研究者の折井美那子であったと思われます。
『紅子の夢』の著者の吉永春子はジャーナリストで、富本一枝との学生時代の一瞬の出会いが忘れられず、その強い衝撃が動機となって、この小説を書くことになったと述べています。一方、『終りなき祝祭』の著者の辻井喬は小説家で、富本夫妻の息子の壮吉の友人であり、両親へ向ける生前の壮吉の思いがこの小説の執筆へと駆り立てたと語っています。
『近代の陶工・富本憲吉』を書いた辻本勇は、当時富本憲吉記念館の館長を務める篤志家であり、『青鞜の女・尾竹紅吉伝』を書いた渡邊澄子は、当時大東文化大学の教授を務める近代文学の研究者でした。
そこで、本稿「伝記書法論(2)――富本一枝の伝記作家はその夫をどう描いたか」においては、富本一枝を主たる伝記の対象とした、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』と渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』を素材に選び、女性の伝記作家が女性の生涯を記述する際の、その夫へ向けるまなざしの特異性について、検証してみることにします。
いかなる脚注もなく、したがってエヴィデンス(証拠となる一次資料)が示されないまま、記述が進行している点が、このふたつの伝記に共通しているところです。そのことは、いかなる実証も論証もなく、一枝を擁護し、憲吉を断罪する記述の手法へとつながってゆきます。とりわけ、大正末年、奈良の安堵村を離れ、東京の千歳村に移転する際の記述に、このことはよく表われています。双方の本とも、転居は、憲吉の「女性問題」に原因があったと、断定されていますが、しかし、事実は違います。著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』と著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』において詳述していますように、のちの私の研究によれば、原因は一枝の「女性問題」にありました。一枝本人は、明確にカミング・アウトしていませんので、安易な推断は避けなければなりませんが、数々の傍証からすればほぼ間違いなくトランスジェンダー男性だったのです。もっとも、当時にあっては、「カミング・アウト」も「トランスジェンダー」も、用語としては存在しません。
そこで、この二冊における該当箇所をつまびらかにすることによって、そこに現われた女性伝記作家に共通した固有の視線を検証してみたいと思います。それではまず、高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』にあっては、富本一家の安堵村生活の終焉と東京移転に関して、どのように書かれてあるのでしょうか、そこに目を向けます。以下は、その箇所からの引用です。
その頃になると長女の陽も成長し、中等教育をどうするか考えねばならなくなっていた。理想をもって始めた小さな学校は、十全とはいえなかったし、子どもたちに一層よい教育環境をと考えた時、それは安堵村では無理だった。子どもたちのために東京へ、そんな話が夫婦の間で何度か出たが、容易に解決できないでいた。 そんな時、憲吉の起こした女性問題によって、一枝は東京への移転を決意する。憲吉にとってはほんの一瞬の気の迷いであったろうし、当時の男性にとっては、ありがちのことだったかも知れない。しかし一枝は深く傷ついた。一カ月に及ぶ、二人の夜ごとの話し合いの末、大正一五年三月、東京への移転が決められた1。
このような記述をするに際して、著者の折井は、いっさい注釈を施していませんし、また、最も肝心な証拠となる資料も明示していません。したがいまして、ここに述べられていることが真実なのかどうかを再検証する方途がいまや完全に奪われているのです。
共著者である陽が、生前に、上のような内容を折井に漏らしていた可能性がないことはありません。しかし、たとえば、別の箇所では、「……と陽さんは語っている」2とか、「陽さんの回想に詳しく書かれているが……」3とか、「……という陽さんの記憶で」4といった表現形式でもって、情報の提供者が明らかにされているにもかかわらず、ここの箇所に関しては、陽によって情報が提供されたことをうかがわせる注釈は残されていないのです。そのことから判断しますと、この記述内容は、折井の独断的な想像と判断によって練り上げられたストーリーであるといわざるを得ません。
記述の内容にも疑問が残ります。「憲吉の起こした女性問題によって、一枝は東京への移転を決意する」と、著者の折井は書いていますが、その相手は誰だったのであるのか、いつのことであったのか、これらについては、何も語っていません。さらに、「当時の男性にとっては、ありがちのことだったかも知れない」「女性問題」がなぜ、「東京への移転」という、一般的にはあまりありがちとは思えない特殊な「決意」を一枝にさせてしまったのか、その理由についての言及もありません。
仮に、憲吉の身に「女性問題」が存在したとして、なぜそのことが、家族そろっての東京移住につながるのか、裏を返せば、なぜ一枝は離婚を考えなかったのか、あるいは、なぜ娘たちを連れての一枝単身の転居や実家への寄宿とはならなかったのか――こうした一般的に考えられそうな対応についても、何ひとつ説明がなく、ひたすら疑問だけが残ります。もしふさわしい資料が手もとにあるのであれば、もっと積極的にそれらの資料に真実を語らせるべきだったのではないかと考えます。
しかし、私がこれまでに調査した範囲でいえば、憲吉の「女性問題」を示す資料は、いっさい存在しません。したがいまして、東京移転の理由としての憲吉の「女性問題」は、いまだ折井個人の仮説の域に止まっていると判断するのが妥当でしょう。このことを実証するためには、たとえば、憲吉と一枝の当事者たちを含め、周りの関係者たちの手紙や日記などに記述されているかもしれない、動かすことのできない何か新しい資料の発掘が必須の要件となるにちがいありません。もしそのことができなければ、憲吉にかけられた「女性問題」の嫌疑は、誰ひとりとして事実かどうかの再検証ができないまま独り歩きし、今後永遠に語り継がれていくことになります。これでは「冤罪」を構成しかねません。すでに鬼籍に入っているとはいえ、実在した人物である以上、その名誉と人権は、当然ながら、尊重されなければなりません。
この記述問題につきまして、私は、次のように推量しています。
この情報は、おそらくは母親から娘に伝えられた内容でしょう。こうしたストーリーを持ち出すことによって、一枝は子どもたちに東京移転の理由を説明したものと思います。それが折井に伝わり、折井はその真偽を検証することもなく、そのまま、情報の提供者名を伏せたうえで、文にしたのではないでしょうか。
それでは、なぜ一枝は虚偽のストーリーをつくらなければならなかったのでしょうか。すでに、著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』において詳しく論述していますように、性的少数者であることをカミング・アウトできないことに起因して、やむを得ず、真実とは異なるストーリーを捏造しなければならなかったものと考えます。そうした事例は、ほかの場面にも幾つか見受けられ、一枝の言説のひとつの特徴を形成しているのです。
富本家の東京移転を知るうえで、残されている唯一ともいえる具体的な資料として、一枝が一九二七(昭和二)年の『婦人之友』の正月号に寄稿した「東京に住む」があります。ここに一枝はどう書いているのか、ここで検討したいと思います。「東京に住む」の冒頭において、一枝はこのように書きます。
いくどか廻り來た大和國の四季に、住馴れた私達が、東京に移り住むやうになつたそこには樣々の理由があつたが、そのなかでも特に大きく強い事柄があり、むしろ樣々の理由といふよりそのこと一つが根本的の動きであつて、それ以外の私共のいふ理由は枝葉の問題に過ぎないが、その根本の問題にふれることは家庭的のことで、今は書くことがゆるされない。かいつまんで云ふなら人間同志のなかに必ずかもされる危機、その危険期に私達も亦等しく陥つた。さうして久しい間そこに悩み、嘆き、かなしみ、ありだけの人間らしい悲痛の感情の幾筋かの路を味ひ過ぎた。さうしてどうにかしてその境地から匍ひ出し、今後の生涯を立派に生き抜かうと決心し、そのためにこれまでの境遇、生活を見事にぶち破つて新しい生活を築きたてたいと思つた[。]その結果へ枝葉の理由が加へられ、東京に住むことゝなつた5。
この一文が、富本家の東京移転に関して、『薊の花――富本一枝小伝』のなかで折井美那子が引用している唯一の箇所です。上の引用文にあるように、一枝は、東京に移り住むようになった理由には「特に大きく強い事柄」である「根本の問題」があって、それについては「家庭的のことで、今は書くことがゆるされない」と書いています。そこで、おそらく折井は、この文言に着目して、憲吉の「女性問題」を暗にほのめかし、東京移転の理由にしたものと想像されます。しかし、「東京に住む」を最後まで読めば、東京移転の具体的な理由には、一枝のセクシュアリティーにかかわる問題が関与していたことが自ずと判明します。そこから判断しますと、「特に大きく強い事柄」である「根本の問題」があって、それについては「家庭的のことで、今は書くことがゆるされない」という一枝の言説は、夫憲吉の「女性問題」を念頭に置いて書いているのではなく、自分のセクシュアリティーについていまはカミング・アウトすることはできないという意味のことをいっているのではないかと考えられます。
一枝はまた、上の引用文にあって、「どうにかしてその境地から匍ひ出し、今後の生涯を立派に生き抜かうと決心し、そのためにこれまでの境遇、生活を見事にぶち破つて新しい生活を築きたてたいと思つた」とも、書いていますが、これは、転地による療法を暗に指しているにちがいありません。ここでは、このときの一枝の「女性問題」の相手が誰で、どういう顛末があったのかは、本稿の論点から離れますので詳しくは述べません。しかし、「その頃になると長女の陽も成長し、中等教育をどうするか考えねばならなくなっていた。理想をもって始めた小さな学校は、十全とはいえなかったし、子どもたちに一層よい教育環境をと考えた時、それは安堵村では無理だった」という、上に引用した高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』のなかの一節に注目する必要があります。つまりこのとき、富本家の私設の「小さな学校」が崩壊しているのです。原因は、それを担当していた女教師が突如として姿を消したことにありました。
しかし、この女教師が安堵村を去ったからといって、問題が根本的に解決したわけではありません。今後また別の女性が一枝の魅力に惹かれて集まってくる可能性を、全く否定することができないのです。一枝の性的指向を再度惹起させないための、問題解決の方途が模索されました。東京から安堵村へ転居した、かつての前例に倣い、このとき選ばれた道も、転地でした。
それでは、一枝の「東京に住む」を最後まで読むことにします。以下は、著者の折井美那子が『薊の花――富本一枝小伝』のなかでいっさい触れることのなかった部分です。
いよいよ荷造りがはじまりました。
かうして幾十日か過ぎた。自分に頼む心の弱々しさを知らねばその間すら過すことが出來ない程もろい自分であつた。夫に勵( はげ ) まされ、荷をつくりかけてゐてすら、さて何處に落着くかその約束の地を見ることが出來なかつた。夫の仕事のためには陶器を造るために便宜多い土地を撰定しなければならなかつた。土を得るに、磁器の料を採るために、松薪を求めるためにも、その他仕事する上には繪を描く人、文筆をとる人々のやうに軽らかに新しい土地に轉ずることは出來ない色々の困難があつた6。
「夫に勵( はげ ) まされ」、荷造りをしているところから判断すれば、憲吉の一枝に対する同情の気持ちが見えてきます。一方の一枝は、転地先を選ぶにあたって、製陶に必要な薪や土などの入手に際しての利便性について憲吉を思いやります。そうした夫の仕事上の特殊な条件を考えると、落ち着くべき約束の地がなかなか見つかりません。それに、娘たちの今後の教育のことも、考慮に入れる必要がありました。一枝は、こう続けます。
夫の仕事のことだけを念頭に置いてゆくなら、琉球にでも北部朝鮮にでも、九州の山深くある片田舎にでも容易に決定することが出來た。さうして私は夫を愛してゐる。その仕事を思ふことは夫についでゐるものである。しかしながら、すでに女學校へ入學しやうとする程たけのびた上の子供、まもなく姉の後につかうとする妹兒[。]それも四[、]五年の間家庭にあつて特殊な方法で敎育されて來た子供達であつたから、今後の教育方法について考へることが實に多かつた7。
「五年の間家庭にあつて特殊な方法で敎育されて來た子供達」という文言は、「小さな学校」で、ひとりの女教師から受けていた陽と陶の教育を意味します。教師を失った子どもたちの今後の教育のこと、憲吉の仕事の安定的持続にかかわること、一枝の特殊な性的指向からの解放にかかわること――解決すべき問題が複雑に絡みあっているのです。なかなか結論へはたどり着けません。そこで、憲吉と一枝の夫婦は、話し合う場を変えるために、山陰の奥にある古風な湯宿へ向かいました。
夫は夜は荷をつくり晝は生活費を受るために土をのばし呉州をすり、つめたい素焼の壺を膝にのせたり、窯に火を投げた。さうして少しの金を得たので、私達はいよいよ最後の決心をつけるために何處に居住すべきかを決めるために、その金をもつて短い間の旅ではあつたが秋はじめ山陰の奥まで出かけて來た。古風な湯宿で過した十日程の日數、しかしそこでもまだあざやかな決心がつきかねたまゝ再び悩み深い歸路をとらねばならなかつた8。
しかし、いくら話し合っても決心がつかないまま、ふたりが、山陰の古宿から安堵村の自宅に帰ったのは、一九二六(大正一五)年の秋のことでした。そうであれば、すでに引用によって示しています、「一カ月に及ぶ、二人の夜ごとの話し合いの末、大正一五年三月、東京への移転が決められた」という『薊の花――富本一枝小伝』のなかでの著者の言辞は、明らかに事実誤認ということになります。「思へば一九二六年の早春から、如何に私達が悩み多い日を送つて来たことか」9という一枝の述懐から判断すれば、「大正一五年三月」は、「東京への移転が決められた」時期ではなく、「悩み多い日を送つて来た」その最初の時期なのです。
場所を変えて話し合っても、どこへ転居すればよいのか、決心がつきません。さらにそのうえに、「金の問題と、子供を無駄に過させてゐる心配、生活に落ち着きのないところからくる焦燥」10が一枝の心に重くのしかかります。ついに一枝は、そのとき神を見たのでした。
神を見る心、ひたすらに信頼する世界、祈り、これを失してゐたことがすべての悩みの根源であることを強く思つた。私は自分の心を捨てゝ神の意志を尊く思ひ、そこで新しく生まれてこない限り自分達の生活は何度建て直しても駄目であることを知つた。 こゝに歸依したことは同時に小さい自我を捨てたことである。世界が限りなく廣く私達の前に幕をあげた11。
ここに至って一枝は、宗教心に帰依します。精神的に不安定な状態にあった息子を心配した、当時東京に住む中江百合子が、教会に通っていました。一枝は、自分の悩みを友人である中江に打ち明けて、一緒に教会に足を運んだのではないかと推量されます12。一九一四(大正三)年発行の当時の新約聖書「ロマ書(ロマ人への書)」(現在訳の「ローマ人への手紙」)第一章の第二六節と第二七節には、同性愛について、こう書かれてありました。
二六 之によりて神は彼らを恥づべき慾に付し給へり、即ち女は順性の用を易へて逆性の用となし、二七 男もまた同じく女の順性の用を棄てて互い情慾を燃し、男と男と恥づることを行ひて、その迷に値すべき報を己が身に受けたり13。
また、異性装については、舊約聖書「申命記」第二二章第五節に、こう書かれてありました。
五 女は男の衣服を纏ふべからずまた男は女の衣裳を着べからず凡て斯する者は汝の神エホバこれを憎みたまふなり〇14。
一枝は、聖書のこれらの言葉を知り、それを受け入れたのでしょう。こうして一枝は、憲吉とともに、考えに考えを重ね、疲労と涙にあえぎながら、最後には神の存在に気づくことによって「神の意志を尊く思ひ」、「自分の心」や「小さい自我」を捨て、眼前に広がる新しい世界にとうとうたどり着いたのでした。ついに、新しく生まれ変わるべく「生活の建て直し」の道が開いたのです。
そこで、陶器を焼くためには不充分でありむしろ不適の土地ではあるが、それでも焼いて焼けないことはあるまい。要は制作するものゝ心の持方一つである。ただ材料その他の點の不足は物質で解決がつくことだから、仕事のために助力してくれる人があるなら必ず焼いてみせるといふ夫の話も、その人を得て、それでは子供のためにも都合よく行くし、また自分達にしても決して好んで住みたい土地ではないが、欠點だらけな人間の性質は同樣その弱點をもつ人間社會の中に飛び込んでお互にもまれ合ひ争闘しあひ相互扶助しあつて、はじめて完全に近いものともならう15。
そういう思いに至るなかから、生活再生のために落ち着くべき約束の地として、最終的に東京が選ばれました。幸い、憲吉へ資金を援助してくれる人たちも見つかりました。子どもたちは、中江家の子どもたちと同じく、成城学園に入れることにしました。それでも心配なのは、人が多く集まる東京の地で、根本となる問題は再燃しないのでしょうか。「欠點だらけな人間の性質は同樣その弱點をもつ人間社會の中に飛び込んでお互にもまれ合ひ争闘しあひ相互扶助しあつて、はじめて完全に近いものともならう」――こう信じるほかありませんでした。
一枝の、この「東京に住む」のなかに、わずかながら自分のセクシュアリティーについて間接的に言及している箇所があります。そのひとつが、こうした文言です。
この久しい間の爭闘、理性と感情この二つのものはいまだにその闘を中止しようとはしない。そうしてそのどちらも組しきることが出來ない人間のあはれな煩悶を冷酷にも見下してゐる。平氣でゐる感情に行ききれないのは自分が自分に似合ず道徳的なものにひかれてゐるからで、といって理性を捨切つて感情に走ることをゆるさないのは根本でまだ×に對して懀惡や反感と結びついてゐるために違いない。……本當にこの心の底には懀惡しかないのか、それでは偽だ。あんまり苦しい16。
この文章を読み解くうえで最大のポイントとなるのは、伏字となっている「×」にどの一字をあてるかということになるでしょう。あえて「性」をあててみたいと思います。自分のセクシュアリティーを憎悪する。しかし、それだけでは、偽りであるし、あまりも苦しすぎる。ここに、セクシュアリティーの解放を巡る理性と感情の激しい対立の一端をかいま見ることができます。自己の特異なセクシュアリティーに向けられた憎しみと、憎みきれない苦しみとが、混然一体となって一枝の心身を襲うのです。一枝が神を見るのは、そのときのことでした。
別の箇所には、こうした文言も見出すことができます。
かつて若かつた頃、なにかにつけて心の轉移といふ言葉を使つたものであるが、まことの轉移といふものは、並大抵の力では出來るものではなく、身と心をかくまでも深く深く痛め悩まして、身をすてゝかゝつてはじめて出會ふものであり行へるものであることを沁染と知ることが出來た17。
一枝は「心の轉移」という言葉を用いています。一枝が、自身を女性間の同性愛者(当時の通称では「レス( ママ ) ビアン」など)として認識していたとすれば、彼女にとってこの言葉は、同性愛から異性愛へと性的指向を「轉移」させる試みを示唆する心的な用語法だったのかもしれません。それとは違って、一枝が、肉体的には明らかに女性でありながらも、心の性を男性として自己認識するトランスジェンダー(当時の通称では「男女( おとこおんな ) 」や「おめ」など)であると思っていたとするならば、この言葉は、心の性を体の性へと「轉移」させことを意味する彼女の内に秘められたキーワードだったにちがいありません。しかし、どちらにしてもそれは、「並大抵の力では出來るものではなく」、過度の心身の葛藤と衰弱を伴うものでした。
この東京移住は、ふたりにとって、まさしく二度目の賭けであり、もはやこれ以上はない背水の陣とでもいえる、生活の再生へ向けての悲壮感漂う、療法としての転地だったものと思われます。それにしても、あまりにもあっけない安堵村での生活の終焉でした。
かくして、一九二六(大正一五)年の一〇月の半ばを過ぎたある日、一家は、四人それぞれが深刻で複雑な思いを胸に抱えながら、本宅の「舊い家に母を残し、私達の小さい住居の庭木の一本一本にも挨拶の言葉をかけ、美しい遠山をめぐらした平原のなかの暖い一小村、土塀と柿の木の多い安堵村」18をあとにし、東京へと上ってゆきました。おおよそ一一年半の安堵村生活でした。このとき、満年齢で憲吉四〇歳、一枝三三歳、長女の陽一一歳、そして次女の陶は、まもなく九歳になろうとしていました。一枝のセクシュアリティーに起因して東京から安堵村に来たときには、一枝のお腹には陽がいました。今度の上京には、まもなく生まれてくる壮吉が一緒です。大正から昭和へと改元される二箇月ほど前の秋の日の出来事でした。
ここまで書いてきますと、どうしても、ひとつの大きな疑問が残ります。つまりそれは、どのような理由から、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』にあっては、一枝の「東京に住む」の冒頭に書かれてある、東京に移り住むようになった理由には「特に大きく強い事柄」である「根本の問題」があって、それについては「家庭的のことで、今は書くことがゆるされない」の一箇所のみが引用され、それが、あたかも憲吉に「女性問題」があったかのような陣立てに使用され、その反面、それに続く、一枝自身のセクシュアリティーにかかわる記述部分から見えてくる一枝の「女性問題」については、なぜ、いっさいの言及がなされなかったのかという疑問です。これは、著者だけが知りえることであり、他者は推し量るしか手立てがありません。そこで、あえて推量するならば、女性の女性史家が女性の生涯を描くに当たっては、「抑圧する男性と抑圧される女性」とか「傷つける男性と傷つけられる女性」とか「優越の男性と劣等の女性」とかいった、社会文化的に定型化された対立する二項関係を無条件に措定したうえで、それを何が何でも打破する観点から、証拠があるなしにかかわらず、女性を擁護し男性を断罪するという記述の手法が、この時期、絶対的なものとして先験的に存在していたということでしょうか。そして、さらに加えるならば、一枝のような性的少数者にかかわって、世間の目に晒すことを意識的に避けようとする、目に見えない一種の余分な配慮のようなものが、作動していたということでしょうか。そうしたことは、次に取り上げる、渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』においても共通しており、女性が執筆する女性についての伝記に備わる、当時にあっては抜きがたい本質的な脅迫観念だったといえるのかもしれません。
それでは次に、『青鞜の女・尾竹紅吉伝』における、憲吉の「女性問題」に関する記述内容について検討します。この本のなかで、著者の渡邊澄子は、安堵村から東京への移転の理由について、折井がすでに示した憲吉の「女性問題」をそのまま踏襲したうえで、こう述べます。
一家は一九二六年一〇月、東京へ移住することになるが、それには、晩年にまで水面下で尾を曳き、結局、二人の間を離隔させることになったが、その根に憲吉の女性問題をみることができる。 私が紅吉に魅せられ、紅吉の生涯を書きたいと願って準備に入ってからすでに二〇年になる。私はこの間、生前の二人を知る人を訪ねては聞き書きをとる作業を仕事の合間の折々に続けてきたが、憲吉の女性問題の相手は井出秀子が世話したお手伝いさんだった、と複数の方の証言を得た。子どもも生まれていてこの子は里子に出されたはずと明言した人もいた。しかし一方で、そんな事実はない、田舎は狭いのでもしそのようなことがあったら、誰知らぬ者なく広まってしまうはずだ、という人もいた。しかし、夫である男性が妻とは別の女性と特別の関係を持つ例は、ほとんど日常茶飯事としていわば公認されていた時代状況下では、事実があってもそれは大問題にならないということもあるのではないだろうか。夫を愛している妻である女性がそのことでどれほど傷つくか、その痛みの深さを感じ取れない男性社会だったのだ19。
残念ながら、本書にも注などは存在せず、そのように断言するうえでの根拠となる証拠も何ひとつ示されていません。「生前の二人を知る人を訪ねては聞き書きをとる作業」をしているのであれば、いつ、どこで、誰に、何を聞き、その聞き取った内容を相手に確認してもらったうえで公表の了解を得て、そのすべてを開示すべきであったと愚考されるものの、そのような学問的配慮に欠けるため、このままでは、憲吉の「女性問題」は単なる風聞か噂話の域を出ない状態に置かれているといわざるを得ません。
井出秀子とは、丸岡秀子のことを指しているのであれば、紹介者としての当事者である丸岡に、事の真相を直接問い合わせるべきだったのではないでしょうか。「紅吉の生涯を書きたいと願って準備に入ってからすでに二〇年になる」と著者は書いていますが、この本が出版されたのが二〇〇一(平成一三)年、そこから逆算すれば、一九八一(昭和五六)年ころから聞き取り調査をはじめていたことになります。丸岡が亡くなるのが一九九〇(平成二)年であることを勘案すれば、著者の渡邊は、その意思さえあれば、丸岡本人へ直接インタヴィューを試みることも、あるいはまた、書簡による問い合わせも十分可能だったものと思量します。
丸岡自身は、生涯、憲吉の生き方に強い共感を示し、敬愛の念を持ち続けました。晩年に至ってまでも、丸岡はこう書いています。
いま、若い人たちにとって、二人[憲吉と一枝]は名前さえ知られてはいないであろう。だが、京都、奈良めぐりの旅行の中に、‶世紀の陶工″富本憲吉美術館を入れてもらいたいと、私は願う。法隆寺からすぐなのだから20。
もし、「憲吉の女性問題の相手は井出秀子が世話したお手伝いさんだった」のであれば、紹介者自身も深い傷を負い、憲吉に強い怒りと不信を向けたにちがいなく、晩年にあって、こうした憲吉に寄せる信頼と讃美の言葉を丸岡が書き記すことは、おそらくなかったであろうと思われます。その意味で、渡邊の言説をそのまま受け入れるには、大きな違和感が生じるのです。もし仮に、それが真実であると主張するのであれば、どうしても、それを裏づけるにふさわしい証拠となる資料を明示すべきだったのではないでしょうか。とりわけ、「井出秀子が世話したお手伝いさん」が、いつどのような経緯で富本家へ入り、いつ妊娠し、いつどこで出産し、いつどのような経緯でその子が里子に出されたのかを明確な根拠に基づき実証すべきであったと愚考します。
他方で、その情報を提供した複数の人物とは誰と誰なのか、これについても、歴史的証人として本人たちの了解を得たうえで、明らかにするべきだったのではないでしょうか。「生前の二人を知る人」と渡邊はいいますが、「女性問題」が持ち上がった一九二六(大正一五)年前後のあいだの安堵の富本家の生活の様子を日常的に知ることができ、渡邊が「聞き書きをとる作業」をする時期まで存命していた人物は、そう多くはないはずです。この時期一枝も妊娠していました。一方、丸岡秀子の奈良女高師の先輩で友人と思われる若い女性が、陽と陶の個人教師として、富本家の菩提寺である円通院で教鞭をとっていました。そうしたこととの混同や取り違えはないのか、あるいは、どこかの段階で誰かが、一枝の「女性問題」を憲吉の「女性問題」と聞き違えたり、伝え違えたりしているようなことはないのか、慎重な対応と吟味が必要とされなければなりませんでした。
さらに著者の渡邊澄子は、上で引用した文に続いて、こう書いています。
憲吉に女性問題が生じていたことを知った一枝は、ほとんど一カ月にわたって、睡眠らしい睡眠をとることもできない状態にあって、憲吉と話し合う夜が続き、一時離婚も考えたらしい21。
著者は、こう断定するだけの根拠を示していませんので、それが真実であるかどうかを検証することは不可能です。繰り返しになりますが、一枝の「東京に住む」の一節を、あえていま一度、ここに以下に引用します。
夫の仕事のことだけを念頭に置いてゆくなら、琉球にでも北部朝鮮にでも、九州の山深くある片田舎にでも容易に決定することが出來た。さうして私は夫を愛してゐる。その仕事を思ふことは夫についでゐるものである22。
このように一枝は、自身のセクシュアリティーが原因となって転地をするにしても、十分に夫の仕事に心を砕いていますし、何よりも一枝は「夫を愛してゐる」のです。そうした一枝が、離婚を考えることがあるでしょうか。どう考えても、一枝が書く文と、渡邊が書く「一時離婚も考えたらしい」のあいだに、整合性をとることができません。証拠となる一枝が書き残した文を越えてでも、こうであったにちがいないという強引な想像や、こうあってほしいという個人的な願望が、渡邊をしてこう書かせているのかもしれません。
いずれにいたしましても、もし、以上に述べてきたような学問上の基本的手続きに立ち返ることができなければ、すでに高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』にかかわって上で述べた指摘同様に、反論することも、弁明することも、真実を語ることも、何もいっさいできないまま、憲吉の「女性問題」は永久に歴史のなかに刻印されることになります。これによって、いまや事態は、憲吉の身に「虚偽の歴史」ないしは「歴史上の冤罪」が構成されかねない状況に立ち至っているのです。
上の引用にありますように、渡邊は、「私が紅吉に魅せられ、紅吉の生涯を書きたいと願って準備に入ってからすでに二〇年になる」と語っています。「紅吉」は、一枝が青鞜社の社員であったときに使った雅号です。一枝は、一九一二(明治四五)年のほぼ一年間、青鞜社に籍を置いていました。それでは紅吉は、『青鞜』のなかで、自身のセクシュアリティーをどう見ていたのでしょうか。以下に二点引用して、検討してみます。
まず、一九一二(明治四五)年刊行の『青鞜』(第二巻第六号)の「編輯室より」に書かれてある一節を紹介します。
私は悪い身體を無理に無理して、勝ちやんと出た、何處に、何處に、私は苦しい苦しい心の病氣を、少しでも慰めるために、十二階下にゐつた。銘酒やの女を見に行つた。…私は立派な男で有るかの樣に、懐手したまゝぶらりぶらり、素足を歩まして、廻つて來た、その気持のいゝ事。あの女の一人でも私の自由に全くなつて來れたらなら…とあてのない楽しみで歸つて來た。私は元気だつた23。
引用文中の「勝ちやん」とは、当時紅吉が親しくしていた小林哥津のことでしょうか。この引用文の前に、編集者による、「紅吉と勝ちやんは此の頃浅草の銘酒屋の女にのぼせてゐる。昨日も二人で出掛けたのだそうだ。今朝もこんな葉書を受取つた」という文言がついています。
この引用文でとくに着目していいのは、「私は苦しい苦しい心の病氣を、少しでも慰めるために、十二階下にゐつた」と述べている点です。セクシュアリティーに関する違和感を、紅吉(一枝)は「心の病氣」としてとらえているのです。今日の心理学や医学の見地においては、これをもって「病氣」とみなされることはほぼありません。
加えて、この引用文で着目していいのは、「私は立派な男で有るかの樣に、懐手したまゝぶらりぶらり、素足を歩まして、廻つて來た、その気持のいゝ事。あの女の一人でも私の自由に全くなつて來れたらなら…とあてのない楽しみで歸つて來た」と述べている点です。この告白により、紅吉(一枝)の性自認が「男」であり、性的指向が「女」であることは、ほぼ疑いを入れないでしょう。そしてまた、この開陳をもって、無意識下の間接的な「カミング・アウト」行為とみなすこともできるかもしれません。
次に、一九一二(明治四五)年刊行の『青鞜』(第二巻第一〇号)に掲載された紅吉の「歸へつてから」に書かれてある一節を紹介します。
私は誰も知らない、自分たつた一人で大切にしてゐる面白い氣分があるのです。 よく考えて見ると、その氣分は幼い時からすつと今迄續いて來てゐたのです。これから先きもどんなにそれが育つて行くことか樂しむでゐます。人が知つたら恐らく危険だとか狂人地味た奴だとか一種の病的だろうとか位いで濟ましてしまうでしよう。 私のその事が世間に出ると不眞面目なものに取扱はれて冷笑の内に葬らはて行くものだと考へてゐます。私が銘酒屋に行つたとか、吉原に出かけたとか酒場に通つて強い火酒に酔つたとか云ふことは其の大切にしてゐる氣分の指圖になつた悪戯( わるふざけ ) なのです、薄つ片らな上づつたあれらの幼稚な可哀いい氣分を世間の人達は随分面白く解釋してゐます。 私は自分を信じてゐます。それだけに自分以外の人達には平氣で偽をついてゐます。 そのくせ私は人の言葉を妙に心配したり氣に懸けるのです24。
この引用文でとくに着目していいのは、「その氣分は幼い時からすつと今迄續いて來てゐたのです」と述べている点でしょう。いつのころから特異な自己のセクシュアリティーにかかわる「その氣分」が自覚され出したのかについては、一枝は何も述べていないので特定はできませんが、資料的には、夕陽丘高等女学校時代に美しい女性の音楽教師を好きになった出来事25に、「その氣分」の最初の発現を見ることができます。
加えて、この引用文で着目していいのは、「自分以外の人達には平氣で偽をついてゐます」と述べている点です。これも資料的には、夕陽丘高等女学校時代に、「うちにオルガンある」と、友人たちにうそをついた出来事26が、その最初の事例となります。この行為は、一枝の性格を構成するひとつの要素として、生涯を通じて折に触れ発露します。
以上の二点が、『青鞜』に見出される、紅吉(一枝)のセクシュアリティーを巡る主な事例ですが、ちょうどそのころ、記者の小野賢一郎が紅吉にインタヴィューを行なった記事が、『東京日日新聞』に掲載されていますので、そこから一部引用します。
紅「煤煙を通じて平塚の性格をみますと或る微妙な點が私と似通つたところがあるのです、世間の人から見ると一寸不思議に思へるやうな興味を持つてゐるやうですから會つて見ると果たしてさうでした」 記「その興味といふのは例へばドンナものです」 紅「それは今は言へません、私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐますが夫れは自ら獨り樂しむ氣分であつて決して口に出して話す氣分ではないのです、死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」27
この引用文でとくに着目していいのは、「それは今は言へません……死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」と述べている点ではないでしょうか。この発話部分から、紅吉(一枝)は、特異な自己のセクシュアリティーについて、今後生涯にわたって「カミング・アウト」するつもりはないことを心に刻んでいたことがわかります。
以上に述べた三つの根拠から、紅吉(一枝)は、身体的には女性であるも性自認においては男性であるような、今日的用語法に従えば、FTM(Female to Male)のトランスジェンダーの人間であったと推断できます。当時は隠語として「男女( おとこおんな ) 」あるいは「おめ」が使用されていました。他方、女性間の同性愛(レズビアン)は、この国にあっては当時、「といちはいち」「おめ」「でや」「おはからい」「お熱」「御親友」といった隠語で呼ばれていました。
繰り返しになりますが、確かに一枝の性的指向は小さいころから常に美しい女性に向かっているものの、異性装の着用や、「紅吉( こうきち ) 」という男性名の使用、さらには酒場通いや遊郭での享楽などから判断すると、一枝の性自認はほぼ間違いなく「男」であった可能性があり、その場合、一枝とその女性との愛は、決して女性と女性のあいだに生じた同性愛ではなく、見まごうことなく、男性と女性との結び付きを示す異性愛を構成することになります。そうした一枝の「異性愛」は、結婚後も相手を変えながら晩年まで続きます。もっとも、雅号の「紅吉」については、「紅」が生物学上の性を、「吉」が自己認識上の性を含意していた可能性もあります。
しかし、一枝自らが、「男女」ないしは「おめ」であること(つまりはトランスジェンダー男性であること)を公表すること(つまりは正式に周囲にカミング・アウトすること)はありませんでした。したがいまして、本人以外の者がはっきりとそのように決めつけることはできません。それでも、上に挙げた幾つもの関連する資料の分析結果から、そのように推断するには十分な合理性があり、逆に、何らかの配慮が働き、そのことを隠蔽してしまうようなことがあれば、正しい一枝像は勢い遠のき、それに代わり、人の手によって捏造された虚偽の一枝像が出現する結果を招きます。そこで、これ以降の一枝がたどる人生(つまり、その人の言動および書き残したものの総体)を見てゆく場合には、ともに本人が明確に自覚するところである、「私は誰も知らない、自分たつた一人で大切にしてゐる面白い氣分があるのです」という心的内面の存在と「自分以外の人達には平氣で偽をついてゐます」という性格上の働きと、それに加えて「苦しい苦しい心の病氣」としての心身の動きとに十分に注意を払ったうえで、慎重にも読み解く必要があるのです。
それでは最後に、紅吉(一枝)のセクシュアリティーに関連して、「男女」や「おめ」という用語の使用例に関して、紹介しておきます。
紅吉(一枝)のセクシュアリティーを、「男女」や「おめ」(あるいはトランスジェンダー男性)といった用語でもって描写された事例は、現時点において、史的資料においても学術論文においても、見出すことはできません。しかし、小説という形式においては存在します。富本一枝に魅せられた吉永春子は、一枝をモデルにした小説『紅子の夢』を上梓するのですが、そのなかの以下の引用文中の湯浅の発話部分に「男女」の用例を見出すことができます。場面設定は、昭和二九年に開催された「世界婦人大会」の受付ロビー。登場人物は、夏子が、当時女子学生であった吉永春子で、会場の受付を手伝っています。大竹紅子が尾竹紅吉(富本一枝)、富田龍彦が、その夫の富本憲吉であることは明らかです。湯浅芳子は実名で登場します。
「あの大柄な方は、どなたですか」 夏子は近くに坐っている、一見男とも見間違うロシア文学者の湯浅芳子にたずねた。 「なんだい、君、知らないのかい」 彼女は断髪の髪をゆすり、懐手をしたまま、タバコの煙を天に吐いた。 「あの女はね、明治のブルー・ストッキング、‶青鞜″の大竹紅子だよ」 「大竹紅子」 夏子は、思わず小さな声をあげた。 「男のような絣と、袴をはいて、さっそうとして生きたあの人ですか」 「そうだよ。彼女は、‶青鞜″、〈ブルー・ストッキング〉のマスコット・ガール。いや、違う。そんなもんじゃあない。台風の眼だった」 湯浅芳子は、続けざまに、タバコの煙をプカプカと吐いた。 「紅子は、変っていた。もっとも‶青鞜″の女達は皆変っていた。明治というと、箸の上げ下げ一つまで、うるさくいわれ、女は女中か、子供を産む道具ぐらいにしか思われていなかったんだ。そんな中で女がね、‶自立″とか‶解放″とか叫ぶなんて大変なことなんだ。そんなことを口走ろうものなら、狂ってるとか、男女( おとこおんな ) とか言われてね、社会から抹殺されたもんなんだ」 「男女?」 「そう、女の格好をしているけど、本当は男だろうって、失礼な話さ。‶青鞜″の女達は、そんな陰口を山と言われ、面と向って、石も投げられ、罵倒もされたもんだ。中でも紅子に対しての攻撃は、ひどかった。紅子は、天真らんまんで、行動的だった。好奇心も強かったし。一度、浅草のバーに足を踏みいれたんだ。それを新聞記者に見つかって、‶女だてらに、毎晩、五色の酒を飲み干し、あげくの果、遊郭に行って、女を買った″と書かれちゃって、そりゃあ、ひどいもんだった」 「先生、その時、お幾つでした?」 「十五歳で、女学生だった。遠くから‶青鞜″に憧れていたんだ」 「それで紅子さんは」 「うん」 湯浅芳子は、一寸声をつまらせた。 「その後、陶芸家の富田龍彦と結婚してね。……。もっとも今は別居中だ。可哀想に捨てられたんだ」 彼女は言い終ると、男物のステッキをついて、プイと席をたった28。
「遠くから‶青鞜″に憧れていた」、当時一五歳だった湯浅は、京都市立高等女学校に在籍し、自分の特殊なセクシュアリティーと重ね合わせるかのようにして、東京での紅吉の言動を注視していたのでした。
以上、先行する既往評伝の二冊を取り上げ、そこで述べられている、富本一家の安堵村生活の崩壊と、それに伴う東京移住の理由について批判的に検討してきました。結論としていえることは、総じてどちらの評伝においても、渉猟された適切な一次資料を十全に駆使して論証ないしは実証するという、真実に近づくための学術上必要とされる手続きがほとんど、あるいは全く見受けられず、そのことに起因して、ともに、述べられている内容に絶対的信頼を置くことができない状態を露呈しているということでした。
それでは、一枝の夫である富本憲吉は、どのような男性だったのでしょうか。結婚に際して憲吉は、一枝にこう語っています。
アナタが家族をはなれて私の処に来ると思はれるが、私の方でも私は独り私の家族をはなれてアナタの処へ行くので、決して、アナタだけが私の処へ来られるのではない、例へ法律とか概観で、そうでないにしても尾竹にも富本にも未だ属しない、ひとつの新しい家が出来るわけである。そう考へて居て貰ひたい29。
ここには、「家」に拘束されない、対等の個人たる両性の結び付きとしての結婚観が示されています。一八九八(明治三一)年に公布された「明治民法」の第七五〇条では「家族カ婚姻又は養子縁組ヲ為スニハ戸主の同意ヲ得ルコトヲ要ス」と、また第七八八条では「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」と、規定されており、そのことを想起するならば、ここで示されている憲吉の婚姻についての見識は、家制度を乗り越えた、まさしく革命的な思想となっているのです。
他方、実際の家庭生活における憲吉の振る舞いはどうだったのでしょうか。それについて、このように一枝は書いています。
二三日雨が降りつゞいて洗濯物がたまる時がある。そんな時、私と女中が一生懸命で洗つても中々手が廻りかねる[。]それを富本がよく手傳つて、すすぎの水をポンプで上げてくれたり、干すものをクリツプで止めてくれたりしてゐるのを見て百姓達はいつも冷笑した。「いゝとこの主人があんな女の子のやる事をする」といって可笑しがる。……可笑しいと云ふより、本當は危険視してゐたかも知れない。同じ村に住む自分達の親類になる人さへ、私達の生活は「過激派の生活だ」と言つて、自分の若い息子をこゝに遊びに寄すことをかたく禁じているのだ。私達が一緒に、一つの食卓をかこみ、同じ食物で食事をすまし、一緒に遊び、一緒に働くことが危険でたまらないのだ。私達は、その人達の考へこそ可成り危険だと思ふのに30。
憲吉と一枝の家族は、この一枝の言葉からもわかるように、村のなかで孤立していました。それは、おおかたの家庭において引き継がれてきていた男にとっての伝統的な役割を否定する、憲吉がとった行動に起因していました。それほどまでに憲吉は、近代的な思想と行動の持ち主だったのです。
最後になりますが、本稿を閉じるに当たって、伝記書法にかかわって、フェミニスト・アプローチのイギリスにおける歴史的展開について少し振り返っておきたいと思います。戦後、高等教育や成人教育が一気に拡大するなか、そこで学ぶ多くの進歩的な学生たちは、これまでに描かれていた「歴史」には、自分たちが属する階層の人間を含む弱者や少数者、あるいは被抑圧者や非特権者たちの姿が存在しないことに気づきはじめました。彼らが指摘するように、たとえば芸術史を例にとりますと、伝統的にその学問が扱ってきたのは、限られた例外を除けば、ほとんどが「偉大なる男性作家」であり、そこには、「普通の人びと」の芸術的行為も「女性芸術家」の作品も完全に抜け落ちてしまっていたのです。彼らはそこに着目して不満と批判の声を上げ、既存の「歴史」の成立過程と記述内容に異議を申し立てたのでした。
続くフェミニスト・アプローチの第二段階に入ると、両性の不公平さへの感情的なほとばしりは、冷静にも学問的作業の新たな道を開拓し、「普通の人びと」の芸術的行為や「女性作家」の作品が再発掘され、「歴史」のなかに再配置されてゆくようになります。第一編の「伝記書法論(1)――モリスの伝記作家はその妻をどう描いたか」において詳述していますように、ジャン・マーシュさんの手によって一九八六年に刊行されました、ウィリアム・モリスの妻と娘であるジェイン・モリスとメイ・モリスに関する伝記も、そうした文化的、学問的状況のなかから誕生したといえましょう。
私は、この作品の日本語への翻訳出版に携わることになって以来、マーシュさんと交流をもつようになりました。文部省(現在の文部科学省)の長期在外研究員としてイギリスに滞在した一九九五(平成七)年のころ、次のようなことをマーシュさんは私に話してくれました。イギリスのフェミニズム運動は、両性の不公平さについて多くの不満を爆発させた第一段階を経て、現在は、女性のなしえた仕事を、共感の情をもって掘り起こし、冷静に理解しようとする第二段階にあるといえる。そしてたとえば、ウィリアム・モリスについて書く場合には、今日にあっては多くの執筆者が、妻のジェインや娘のメイが体験した家庭内での出来事や、彼女たちが達成した幾つもの業績にも、目を配るようになってきた。これが、芸術史や文化史へのフェミニスト・アプローチの大きな成果であると思う――。
こうしたマーシュさんの九〇年代当時のフェミニスト・アプローチについての認識を念頭に置いて、翻って日本を見たとき、そのころの日本の事情はどうだったのでしょうか。全体像を語る力量は私にはありませんが、少なくとも、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』(一九八五年刊)と渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(二〇〇一年刊)を読んだ当初の私には、いまだイギリスの記述段階に遠く及ばないように思われました。そしてまた、両性間の不公平の存在が先験的に措定され、それを前提として事象や事物を感情的に読み解こうとするために、勢い単なる表層的な女性擁護と男性攻撃に終始し、必要とされる論証も実証もないがしろにされ、力余って事実から大きく離反する記述結果を招いてしまったのではないかとも感じられました。もちろん今日的には、こうしたことが学術研究の場にあって許されることはないのですが、日本におけるフェミニスト・アプローチの初期段階固有の特徴を、この事例は示しているのかもしれません。
以上のような本稿における考察を踏まえて、一種、義憤という力に後押しされて、私はこれから著作集17『ふたつの性――富本一枝伝』を執筆しようとしています。ここに、予告として書き記します。
他方、いうまでもなく、日本において「女性史学」を打ち立てたのは、詩人でアナーキストでもあった高群逸枝です。そして、それを支えたのが、夫で編集者の橋本憲三でした。それではこれまでに、高群逸枝の伝記を執筆した人たちは、そのなかで、夫たる橋本憲三をどう描写したのでしょうか。次の第三編「伝記書法論(3)――高群逸枝の伝記作家はその夫をどう描いたか」において、そのことを検証してみたいと思います。
(二〇二四年五月)
(1)高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、149-150頁。
(2)同『薊の花――富本一枝小伝』、126頁。
(3)同『薊の花――富本一枝小伝』、137頁。
(4)同『薊の花――富本一枝小伝』、147頁。
(5)富本一枝「東京に住む」『婦人之友』第21巻 1927年1月号、108頁。 一方、夫である憲吉は、東京移住の理由について、晩年の一九六二(昭和三七)年に執筆した『日本経済新聞』の「私の履歴書」のなかで、こう述べています。「大和の一隅でロクロを引き、画筆をにぎる私の仕事も、だんだんと世間に認められ、生活には別段、不便を感じることもなかった。しかし、そのころ、東京へ出て仕事をしたい気持ちが日ごとに強くなった。東都の新鮮な気風にふれることは、かねてからのやみがたい念願であり、また陶芸一本で生涯を過ごす覚悟も、ようやく固まってきたのである。かくして大正十五年[一九二六年]の秋、十年余親しんだ大和の窯を離れ、東京郊外、千歳村(現在の世田谷区祖師谷)に居を移した。」(『私の履歴書』〈文化人6〉日本経済新聞社、1983年、210頁。[初出は、1962年2月に『日本経済新聞』に掲載。])
(6)同「東京に住む」『婦人之友』、109頁。
(7)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。
(8)同「東京に住む」『婦人之友』、111頁。
(9)同「東京に住む」『婦人之友』、112頁。
(10)同「東京に住む」『婦人之友』、111頁。
(11)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。
(12)当時の『讀賣新聞』(1925年9月29日、7頁)を見ると、富本一枝がふたりの娘(陽と陶)を連れて上京し、砧村の成城学園に滞在したことを伝えています。このとき、一枝は中江百合子に会い、教会に通うとともに、ふたりの娘の成城学園女学校への入学について相談したものと思われます。
(13)国立国会図書館デジタルコレクション(国立国会図書館/図書館送信限定)「旧新約聖書」大正三年一月八日發行、發行者/米國人 ケー・イー・アウレル、發行所/米國聖書協會、「新約聖書」二百十六頁。 たとえば、この箇所は、現代にあってはこう訳されています。「26このことのゆえに、神は彼らを恥ずべき情欲へと引き渡された。実際、彼らのうちの女性たちは、自然な[性的]交わりを自然に反するものに変え、27同様に男性たちも、女性との自然な[性的]交わりを捨てて、互いに対する渇望を燃やしたのである。[そして]男性たちは彼ら同士で見苦しいことを行ない、彼らの迷いのしかるべき報いを、己のうちに受けたのである。」(『新約聖書』(新約聖書翻訳委員会訳)岩波書店、2004年、628頁。)なお、亀甲の括弧は、原文のママです。 一枝が、もしこのような意味に理解していたのであれば、この段階で一枝は、自分の性的指向を、「恥ずべき情欲」であり「自然に反するもの」であり「見苦しいこと」であり、「迷いのしかるべき報い」を受けるべき大きな罪であるとして認識したものと思われます。
(14)同「旧新約聖書」、「舊約聖書」二百八十二頁。 この箇所の現代語訳の一例はこうなります。「5女が男の着物を身にまとうことがあってはならない。男が女の着物を着ることがあってはならない。これらのことを行なう者はすべて、あなたの神ヤハウェが忌み嫌うものであるからである。」(〈旧約聖書Ⅲ〉『民数記 申命記』山我哲雄・鈴木佳秀訳、岩波書店、2001年、349頁。) このとき一枝は、聖書の言葉を通じて、異性装が「忌み嫌うべき服装」であることに気づいたものと思われます。
(15)前掲「東京に住む」『婦人之友』、111-112頁。
(16)同「東京に住む」『婦人之友』、110頁。
(17)同「東京に住む」『婦人之友』、112頁。
(18)同「東京に住む」『婦人之友』、同頁。
(19)渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』不二出版、2001年、210-211頁。
(20)丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、28頁。
(21)前掲『青鞜の女・尾竹紅吉伝』、211頁。
(22)前掲「東京に住む」『婦人之友』、109頁。
(23)「編輯室より」『青鞜』第2巻第6号、1912年6月、124頁。
(24)紅吉「歸へつてから」『青鞜』第2巻第10号、1912年10月、131頁。
(25)尾竹一枝「Cの競争者」『番紅花』第1巻第3号、1914年5月、106-139頁。 「Cの競争者」の「C」は、ほぼ間違いなく一枝本人で、内容は、美しい新任の女性音楽教師を巡っての競争相手との奪い合いの顛末記となっています。自身の女学校時代の体験が率直に語られている一種の独白としてみなしてもいいのではないでしょうか。また、書かれている内容から判断して、意識的か無意識的かは別にして、暗に自分の特異な性的指向を「カミング・アウト」している文として位置づけることも可能かもしれません。 なお、掲載誌の『番紅花( さふらん ) 』は、青鞜社を離れたのち、一枝本人が創刊した月刊文芸雑誌です。
(26)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、237頁。
(27)「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」『東京日日新聞』、1912年10月27日、日曜日。
(28)吉永春子『紅子の夢』講談社、1991年、13-14頁。
(29)山本茂雄「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、75頁。
(30)富本一枝「私達の生活」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、56-57頁。