過去に活動した著名な人物の生涯を描く伝記作家は、その人物をどうした視点から描いてきたのでしょうか。とりわけその配偶者については、その際、どれほどまでの関心を注いできたのでしょうか。単なる英雄物語として、対象たる著名人だけに目を向けるならば、名もなき配偶者は歴史の影に隠れてしまいます。他方、配偶者の存在に意を用いれば、ひとつの空間にあって、両者の力がどのように作用し、そこからどのような結果が生じたかが見えてきます。そのなかには、抑圧や人権、役割や愛といったものに関する様相もまた含まれ、かくして、現像された複雑な関係性のなかに、その時代のもつ固有の価値観が読み解かれてゆくことになります。
近代の伝記書法の歴史を見ると、明らかに、有名人独りを対象とした単線的歴史の記述から、配偶者を含めた男女の織りなす複線的歴史の記述へと、推移していることがわかります。これまで歴史上の人物といえば、男性であり、その男性を語る伝記作家といえば、それもまた男性でした。その伝統が揺らいできたのです。男性の伝記作家が歴史上の著名な男性の生涯を描く場合、その配偶者やパートナーである女性は、多くの場合、語るに及ばない一種の添え物とみなされていました。しかし、いまやその視点に変更が加えられ、伝記記述にかかわる新しい地平が開拓されてきているのです。こうして、歴史の隅に追いやられていた女性の存在に光があてられ、夫婦の関係、ないしは男女の関係の実体が明らかになることにより、そこに、男性の書く男性の歴史だけからは見えてこない、別の歴史の存在が見えてくるようになったのでした。
具体的には、それはどのようなことなのでしょうか。それを、一九世紀の英国で活動したウィリアム・モリスを例にとって見てみたいと思います。彼は、詩人であり、デザイナーであり、社会主義者でありました。妻のジェインは、ラファエル前派の画家として有名なダンテ・ゲイブリエル・ロセッティのモデルとして、しばしばその作品に姿を見ることができる女性です。モリスが亡くなるのが一八九六年です。それから一〇〇年間、幾多の伝記が世に出ました。その歴史のなかで、妻のジェインがどう描かれているのかを概観すれば、伝記作家の筆に及ぼした、時代の力が見えてきます。果たしてモリスの伝記作家は、いかなる文脈から、この夫婦を描いてきたのでしょうか。その一端を、本稿「伝記書法論(1)――ウィリアム・モリスの伝記作家はその妻をどう描いたか」で、明らかにしたいと思います。
ウィリアム・モリスが亡くなる以前にあって、モリス伝記の執筆を熱望していた人がいました。その人は、エイマ・ヴァランスという人物でした。一八六二年生まれの彼は、学者であると同時に牧師でした。また唯美主義者でもあり、資産家でもあったらしく、しばらくすると芸術に傾倒し、教会の仕事を諦めて、美術雑誌の『ステューディオ』に寄稿するようになります。そうしてモリスの知遇を得たヴァランスは、モリスが亡くなる二年前に、伝記を書きたい旨の申し出をします。しかし、そのときのモリスの返事は、以下のようなものであったと、ヴァランスは回想しています。
……彼[モリス]は率直に次のように私にいった。あなたであろうと、ほかの誰であろうと、自分が生きている限り、そのようなことはしてほしくありません。もし死ぬまで待ってもらえれば、そうしていただいてもかまいません1。
こうしてヴァランスは、モリスの死後、伝記を書き進めることになるのですが、すでに公式伝記の執筆を娘婿の J・W・マッケイルに依頼していたエドワード・バーン=ジョウンズ夫妻は、ヴァランスの伝記がどのようなものになるのかについて、心を痛めていたにちがいありません。そこでバーン=ジョウンズ夫妻は、記述内容に制限を加えたものと想像されます。つまり、デザイナー、製造業者、詩人、政治活動家といった公的側面に限ると。当然ながらそのことは、この伝記の表題、『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』にも、端的に表われることになります。原著は、以下のとおりです。
Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897.
なぜそうした内容にしなければならなかったのかについて、ヴァランス自身、その事情をこう説明しています。
慣例にしたがって序文を書くことは、私の意のあるところではないけれども、事情があって、そのようにしなければならない必要が生じた。まず、この本にこのような書名をわざわざ選んだ事実に注意を促したい。このことは、この本がモリス氏の個人的な問題や家族の問題についての評伝ないしは記録として成り立っているものではないということを示している2。
こうしてヴァランスは、わずかな例外を除いてはモリスの私的側面にいっさい触れることなく、したがって十全な個人の伝記としてではなく、公的側面の一記録として、この本を書き上げることになるのです。その書法は、生前モリスが公的な場で発表していた言説を引用し、かぎ括弧をつけてつなぎ合わせて連続させるというものでした。そうしたことが反映されて、このなかで記述されているジェイン(将来モリスの妻となる女性で、旧姓はバーデン)は、ただ次の一箇所のみとなっています。「一八五七年の秋にオクスフォードに一時滞在していたおりに、ウィリアム・モリスは、二年後に妻となる婦人と出会った」3。何と、「ジェイン」という実名さえも、使われていないのです。そして続けて、ヴァランスはこう書いています。「モリス夫人についてはいかなる描写も企てる必要はない。というのも、その人の特徴は、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの手になる多数の素描と絵画において、すでに不朽の名声が与えられているからである」4。
以上のような理由から、『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』と題されたこの伝記のなかにあって、ヴァランスは、ジェインの存在については完全に無視することになったのでした。
ヴァランスのモリス伝記から二年遅れて、J・W・マッケイルによる伝記が世に出ました。次が、その原著です。
J. W. Mackail, The Life of William Morris, two volumes, Longmans, Green and Co., London, 1899.
モリス死去ののち、すぐさま遺族や親しい友人たちのあいだで、モリスの伝記について話し合われました。彼らにとっての関心は、今後心ない書き手によってモリスの人生や作品、さらには家族や交友関係が興味本位に解釈され、暴露されることを避けることにありました。そこで彼らは、バーン=ジョウンズ家の娘のマーガリットの夫である J・W・マッケイルにその任を負わせることにしました。モリスとバーン=ジョウンズは終生の友人であり、仕事上のパートナーであり、かつまた双方の家族は相互に信頼を寄せ合う間柄だったのです。マッケイルはオクスフォード大学の詩学の教授であり、その能力という点においてはいうまでもなく、同時に、モリスを取り巻く人びとの思いを反映させることができる立場にあったという点においても、最もふさわしいモリスの公式伝記作家としての役割を担うことになるのです。当然ながら、その執筆に当たっては、エドワード・バーン=ジョウンズとその妻のジョージアーナ・バーン=ジョウンズが協力し、積極的に資料の提供も行ないました。しかし、その伝記には、幾つかの重要な注文がつけられることになりました。当時のヴィクトリア時代の社会や道徳における規範に照らし合わせて考えてみますと、これもまた当然のことだったのかもしれません。その注文とは、モリスについては、彼が積極的な政治活動家であったという側面、また彼の妻のジェインについては、その貧しい出自(馬屋番の娘)、ラファエル前派の画家のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとの愛情関係、その後の、旅行家で著述家であったウィルフリッド・スコーイン・ブラントとの恋愛事件、そして長女ジェニーについては、わずらっていた深刻な病気(てんかん)、次女のメイについては、バーナード・ショーとの恋愛感情、その後の別の同志との結婚の失敗などに関することでした。つまりバーン=ジョウンズ夫妻と遺族は、そうした世間に知られたくない問題にかかわっては極力記述を和らげるように、マッケイルに配慮を求めたのでした。マッケイルは「序文」のなかで、この伝記の成り立ちについて、こう述べています。
この伝記は、サー・エドワード・バーン=ジョウンズから私への特別の依頼に基づいて、着手されたものである。したがってこの伝記が、彼の導きや勇気づけにいかに多くを負っているかはいうまでもなく、また同時に、この伝記が、そうした援助がなかったために、いかに不完全なものとなっているかについても、言を待たないであろう5。
この本のなかでのジェインについての言及は、わずかに四箇所のみです。どれも一、二行の短い記述に終わっています。そのひとつに結婚に関する記述がありますが、マッケイルは、実にそっけなく、次の一語に止めています。「一八五九年四月二六日の木曜日、ウィリアム・モリスとジェイン・バーデンは、オクスフォードのセント・マイケル教区の古くからある小さな教会で結婚した。そのとき彼は、ちょうど二五歳であった」6。マッケイルは、自分に課せられた問題を実にうまく処理すると、機敏にもモリスの死去から三年が立った一八九九年にこの『ウィリアム・モリスの生涯』と題された伝記(二巻本)を上梓したのでした。
ところで、ヴァランスとマッケイルのふたつの評伝の出版に先立ち、モリスが死亡するとただちに、新聞各紙は、モリスについての短い評伝や論評を掲載していました。そこには、ヴィクトリア時代の価値基準、すなわち、しばしばいわれるところの「俗物根性」が、色濃く投影されていました。たとえば、手を使う職人よりも、心を表現する詩人の方が偉大であるとする、当時の職業差別感のうえに立って、多岐にわたるモリスの活動領域のなかにあって、とりわけ詩人としてのモリスに高い評価が与えられることになります。それに比べて、デザイナーとしては、趣味の改善に貢献したとしながらも、絶賛の言葉が付与されることはありませんでした。中産階級の出身で、オクスフォードで学んだ紳士が、織機の前に座って機を織る行為など、どうしても理解できなかったのでしょう。まして、モリスが確信する社会主義や政治活動については、詩人によくありがちな空想的でセンチメンタルな、実害のないひとつの慈善行為であると歪曲し、まともに関心を示すことさえありませんでした。
かくして、各新聞の死亡記事(一八九六年)をはじめとして、その後に世に出る最初の二冊の伝記であるヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』(一八九七年)とマッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』(一八九九年)とによって、政治や恋愛といった世事から遠く離れた「夢見る詩人」としてのモリス像が、死後すぐにも鋳造されてしまったのです。それは同時に、妻や娘たちの真実の生涯も、家族という実世界も、歴史のかなたに葬られてしまうことを意味したのでした。
世紀が変わると、モリスの娘のメイ・モリスの編集によって、一九一〇―一五年に『ウィリアム・モリス著作集』(全二四巻)7がロングマンズ社から刊行されました。これは伝記ではありませんが、各巻に、編者のメイによって「序文」がつけられていて、そこから、娘が見た、父親モリスの人生の断片をうかがい知ることができます。また、『著作集』を刊行するに当たっての主たる目的は、前半の詩作活動が、後半のデザインや政治の分野での精力的な活動に対する影の部分となっていたことに意を用い、詩人としてのモリスの名声をいま一度確保することでした。そのため、所属していた社会民主連盟や社会主義同盟といった政治団体などでモリスが行なった演説の原稿も、社会主義同盟の機関紙であった『コモンウィール』などに掲載されたモリスの記事や論評も、ともに収録されることなく、削除されました。このことは、詩人としてのモリスの地位をさらに際立たせるうえで確かに役に立ったかもしれませんが、その一方で、モリスの非政治的な人間像を結果的に強化させる役割も、十分果たすことになりました。しかし、この『著作集』を「地上の楽園」や「ヴォルスング族のシガード」といったモリスの詩で構成する意向は、編者のメイからではなく、出版社側から提示されたものでした。そこで、自らも社会主義者であったメイは、父親の社会主義者像を切り捨てることなく後世に遺すことを企てます。それが、同じくメイの手によって編集され、一九三六年にブラックウェル社から上梓された『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』(二巻本)8です。とりわけ第二巻は、『ウィリアム・モリス著作集』(全二四巻)に欠落していたモリスの政治的な発言によって構成されていました。
しかし三〇年代にあっては、モダニズムが重視されるに従い、ヴィクトリア時代の詩人としても、ユートピア社会主義者としても、モリスはすでに人びとのあいだから忘れ去られようとしていました。一九三四年にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で、ウィリアム・モリスの生誕一〇〇年を祝う展覧会が開催されたときも、モリスの社会主義は全く取り上げられることはありませんでした。そうしたなか、モリスの妻のジェインは一九一四年に、長女のジェニーは一九三五年に、そして次女のメイは一九三八年に黄泉の客となり、これをもってウィリアム・モリスの直系は、完全に途絶えることになったのでした。
第二次世界大戦が終結すると、英国政府は戦後の復興政策を推し進めます。モリスの政治性を隠蔽しようとするこれまでの鋳造のプロセスに歯止めがかかり、解体のプロセスが動きはじめたのは、ちょうどこの時期に相当します。このプロセスのなかにあって、最も大きなハンマーとなったのが、一九五五年に刊行された、こののち「新左翼」の担い手のひとりとなる E・P・トムスンの『ウィリアム・モリス――ロマン主義者から革命主義者へ』でした。彼はこの八〇〇頁(一九五五年の初版は九〇八頁で、一九七六年の再版は八二九頁)を超える重厚な本をとおして、「中産階級の俗物精神」によってそれまで無視されてきたモリスの実像を緻密にえぐり出す実証的作業に取りかかったのです。トムスンは、モリスの実像を次のように再解釈しました。
……彼[モリス]は、こうした詩人たち[シェリーやキーツ]が歌い上げていた人間精神、つまり「ロマン主義的反抗」を邪魔立てようとする最後の大きな渦のなかに引き入れられた。ロマン主義は彼の骨身に浸透し、初期の意識を形成した。こうした情熱的反抗の最後の音調は、若きウィリアム・モリスが『グウェナヴィアの抗弁』を出版した一八五八年に、明らかに響き渡った。…… それ以降、英国詩における反抗の衝動はほとんど使い果たされてしまった。……耐えがたい現実社会への情熱的な抗議としてかつて存在していたものは、切なる郷愁か甘美なる泣き言以上のものではなくなる運命にあった。しかし、失意にあった一八五八年から七八年までのすべての歳月のなかにあって、モリスの最初の反抗の炎は、彼の内部でいまだ燃焼していた。ヴィクトリア時代のイギリスの生活は耐えがたいものであったし、……産業資本主義の価値は危険に満ち……人類の過去の歴史をあざ笑っていた。一八八二年にイギリスにおける社会主義の最初の先駆者たちとの接触を彼にもたらしたのが、彼の内部でいまだ燃焼していた、この若き日の抗議精神であった。そしてこうした先駆者たちが、単に近代文明に対する自分と同じ憎悪感を共有していただけではなく、その成長を説明するうえでの歴史理論とその成長を新たな社会へと変革するための意志をも持ち合わせていたことが、彼自身の理解につながったとき、古い炎が再びめらめらと燃え上がった。反抗のロマン主義者、ウィリアム・モリスは、現実主義者であると同時に革命主義者になったのである9。
やや長いこの引用文が指し示していることを短くまとめると、伝統的にロマン派の詩人たちが共有していた「ロマン主義的反抗」の精神を最後に受け継いだウィリアム・モリスは、その精神を絶やすことなく苦悩の期間中も温存し、社会主義運動の最初の高揚期を迎える八〇年代に、彼のそれまでのロマン主義は必然性と連続性のうちに革命的社会主義へと進展していったことになります。こうしてトムスンは、非政治的で超俗的な「夢見る詩人」としての旧来のモリス像を一気に解体し、それに代わる、「ロマン主義的反抗」という実に強固な伝統的抗議精神に裏打ちされた実践的革命主義者像を新たにモリスに用意したのでした。
こうした文脈において、トムスンは、ジェインをどう描写したのでしょうか。この伝記において最初にジェインが登場するのは、次のような場面においてでした。トムスンは、のちにモリスと結婚することになる独身のジェイン・バーデンを最初に見出したのは、画家のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティであり、ロセッティとバーン=ジョウンズとモリスの、女性に対する態度の形成は異なるものの、ロセッティの初期の絵、モリスの初期の詩、バーン=ジョウンズの絵画には、「愛」の理想化という点でなにがしか共通していることを指摘したうえで、「将来の妻であるジェイン・バーデンへ向けられた『我が貴婦人の礼讃』というモリスの詩のなかに、そうした態度の最も顕著な表現の一例を見出すことができる」10と述べ、そのあとに、モリスのその詩を引用するのです。『ウィリアム・モリス――ロマン主義者から革命主義者へ』においてトムスンが最初にジェインを登場させたのは、こうしたモリスの初期の詩の分析過程でのことでした。この伝記におけるジェインにかかわる記述量は、ヴァランスやマッケイルの伝記に比べると、大幅に増えています。
しかし、あえて本書の難点をいえば、モリスのデザイン活動への言及が少ないことでした。それを補うものが、レイ・ワトキンスンの『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』11でした。この本の初版は、一九六七年に公刊されました。
E・P・トムスンに続くフル・スケールのモリス伝記は、以下のとおり、一二年後の一九六七年に、フィリップ・ヘンダースンによってもたらされました。
Philip Henderson, William Morris: His Life, Work and Friends, Thames and Hudson, London, 1967.
著者のヘンダースン自身が書いているように、この伝記のひとつの特徴は、メイ・モリスが編集した『ウィリアム・モリス著作集』(全二四巻)(一九一〇―一五年)と、その補遺に相当する『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』(全二巻)(一九三六年)から多くが引用されていることであり、もうひとつの特徴は、多くの手紙や手稿(マニュスクリプト)が参照されていることです。すでにヘンダースンは、本書刊行以前にあって、次の書簡集『家族や友人に宛てたウィリアム・モリスの手紙』を編纂していましたので、準備よく、これを活用することになります。
Philip Henderson ed., The Letters of William Morris to His Family and Friends, Longmans, London, 1950.
またヘンダースンは、ロセッティからジェイニー(モリス夫人のジェインの愛称)に宛てて書かれた一連の書簡を参照したとも述べています。ジェイニーが死去してちょうど半世紀が立った一九六四年に、非公開期間の終了を受けて大英博物館は、この書簡集を一般に公開しました。そのなかで、ロセッティは、絵や詩についてだけではなく、病弱なジェイニーの身体についても、妄想に取りつかれたかのように書いており、そこからその時期におけるロセッティの心的状況とともに、ジェイニーの置かれていた様子を読み取ることができるようになりました。
さらにヘンダースンは、フィリップ・ウェブ、ジョージ・バーナード・ショー、そしてシドニー・コカラルといったモリス家と深くかかわっていた友人たちの書簡類を参照したことも、同じように述べています。書題が『ウィリアム・モリス――彼の人生、仕事、友人たち』となっているのは、そうしたところに由来していると思われ、ロセッティを含む「友人たち」との交流を扱った点で、既存の伝記にはない新鮮さがこの伝記には感じられます。しかしこの伝記は、大著であるものの、主題と文脈に乏しく、散漫な記述も目立ちます。
いずれにしましても、著者であるヘンダースンは、公開された手紙や手稿(マニュスクリプト)を手掛かりに、モリスの複雑で感じやすい生身の性格や、神経質的で落ち着きのない感情の動きを提示する一方で、妻のジェインと、夫婦共通の友人であるロセッティとのいわゆる「三角関係」についても、従来からの噂話や憶測を超え、新資料を駆使して描写することができたのでした。こうして、公式伝記である『ウィリアム・モリスの生涯』において著者のマッケイルが口をつぐんでしまっていた箇所の一部が、この伝記のなかで、新しく現像されることになったのでした。
資料公開について付言するならば、一九六四年の大英博物館によるロセッティ書簡の解禁に続いて、今度は一九七二年に、ケンブリッジにあるフィッツウィリアム博物館が、これまで封印されていたウィルフリッド・スコーイン・ブラントの文書類をはじめて公開しました。次に挙げる書物も、ジェイニーとブラントの関係を示す資料となります。
Peter Faulkner ed., Jane Morris to Wilfrid Scawen Blunt: The Letters of Jane Morris to Wilfrid Scawen Blunt Together with Extracts from Blunt’s Diaries, University of Exeter Press, Exter, 1986.
これにより、ロセッティ亡きあとの、モリスの妻であるジェインの新たな恋人が、ウィルフリッド・スコーイン・ブラントであったことが公然と判明し、この後の伝記作家に、ジェインにまつわる新たな記述の素材を与えることになりました。
一九六〇年代の後半には学生運動がピークに達しますが、ちょうどこのころから、デザインの世界では、モダニズムの妥当性を巡る論議が活発化します。とくに批判を浴びたのが、モダニズムの機能優先の思想でした。こうして、ニコラウス・ぺヴスナーの歴史書やハーバート・リードの理論書などによって主導され、一九三〇年代以降英国を支配してきたデザインの近代運動は、次第にその勢いを失うことになります。それによってデザインの原理も見直され、「機能」から「装飾」へと、移り変わります。それは、モダニズム以前に展開されたアーツ・アンド・クラフツやアール・ヌーヴォーの再評価を招来しました。かくしてこの時期、ウィリアム・モリスの思想と実践が、再び歴史のなかから呼び出されることになるのです。
直接このことと関連していたかどうかはわかりませんが、一九七五年という、まさしく近代運動崩壊前後のこの時期に、ジャック・リンジーの手によって、ヘンダースンに続く、新しいフル・スケールの伝記が発刊されました。「序文」において彼は、これまでに刊行された伝記を顧みて、次のように述べます。
ウィリアム・モリスに関する書物やそれぞれの彼の仕事についての出版物は大変多く、この十数年以上にわたり確実に増加している。その一方で、伝記として十全に論じられた大著は三冊にすぎない。それらは、マッケイル(一八九九年)、エドワード・トムスン(一九五五年)、そしてフィリップ・ヘンダースン(一九六七年)によるものである。いずれにもそれぞれの長所が見受けられる。最初の伝記は貴重な作品で、家族の評伝としてのすばらしい一例である。最後のものは、マッケイルが築いた土台の上にさらに生き生きと描き出された労作となっている。二番目に挙げたものは、モリスの政治的活動の重要性をついに打ち立てることに成功し、ペイジ・アーノットの先駆的な指摘があったにもかかわらず、この伝記の登場以前に支配していた、さまざまな誤謬を覆すものであった12。
それでは、列挙されている既刊の三つの伝記にはみられない、この『ウィリアム・モリス――その人生と仕事』独自の特質とは、一体何なのでしょうか。それは、幼年時代の体験と後年の行動のあいだに認められる因果性と再現性という論理的な構造のなかでモリスの人生と仕事を語ろうとしている点ではないかと思われます。たとえばリンジーは、後年のモリスが遭遇することになるジェインとロセッティとの「三角関係」を、姉のエマが結婚することで愛を喪失した幼年時代の体験と関連づけようとします。しかし、ウィルフリッド・スコーイン・ブラントとジェインの関係については、とくに何も触れていません。一方、リンジー的な分析に従えば、こうした精神的苦痛のいやしが、モリスをして芸術という仕事に一意専心させたということになり、ここでも、原因と結果の連続性を暗に提示しています。『ウィリアム・モリス――その人生と仕事』を公刊するに際しての伝記作家としてのリンジーの関心は、ジョン・マッケイル(一八九九年の『ウィリアム・モリスの生涯』)、エドワード・トムスン(一九五五年の『ウィリアム・モリス――ロマン主義者から革命主義者へ』)、そしてフィリップ・ヘンダースン(一九六七年の『ウィリアム・モリス――彼の人生、仕事、友人たち』)の既存の大著に伍して、モリスが展開した複雑で苦悩に満ちた人生の実際と、多領域にわたる精力的な仕事の全貌とを、独自の心理学的ロジックでもって解釈し、再整理することだったといえるかもしれません。もっとも、モリス伝記にかかわる心理学的アプローチは、これが最初というわけではなく、すでに一九一三年に刊行された『ウィリアム・モリス――詩人、工芸家、社会改革者』13のなかで、著者のアーサー・コムトン=リキットが、モリスのパーソナリティーに関して論じていました。
一九八〇年代に入ると、モリス研究にとっての大きな動きがありました。それは、次のような、ノーマン・ケルヴィンの編集になるモリスの書簡集の第一巻が、プリンストン大学出版局から発刊されたことでした。
Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME I 1848-1880, Princeton University Press, Princeton, 1984.
すでに言及していますように、フィリップ・ヘンダースンの編集による『家族や友人に宛てたウィリアム・モリスの手紙』が一九五〇年に刊行されていましたので、それに続く、書簡集の刊行ということになります。編者のケルヴィンは、「この編纂書の範囲」と題した巻頭文の冒頭で、「『ウィリアム・モリス書簡集成』は、およそ二、四〇〇の文書から構成されており、そのうちの一、五〇〇は、以前にあって公刊されていないものであり、それ以外のものは、現在までにあって、必ずしも完全なかたちをとって公刊されているわけではない」14と、述べます。そして、「この編纂書の範囲」のあとに「序文」が続き、そのなかでケルヴィンは、まとまった紙幅を割いて、所収されているモリス書簡についての概観と分析を行ないます。妻のジェインに宛てた手紙、そして長女のジェニーに宛てた手紙については、「モリスの結婚やジェニーの病気の家族への影響に関しての新たな情報に照らして読まれなければならない。ある意味で、それらの手紙は、……最も明示的なものとしてみなされることができる。別の意味で、それらの手紙は何も明示していない。それらが『明示』するのは、自分の心を覆う多くのことを、そして、自分が感じる多くのことを、ともに隠そうとするモリスの能力なのである」15と、ケルヴィンは書いています。
この第一巻には、一八四八年から一八八〇年までの総計六五九の文書が所収されていました。その後、一九九六年のモリス没後一〇〇年の記念の年まで、続巻が刊行されてゆきます16。
ケルヴィンの『ウィリアム・モリス書簡集成』の第一巻が公刊された二年後の一九八六年に、ジェイン・モリスとメイ・モリスの母と娘の二代を扱った、次に示す伝記が世に出ました。
Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986.
著者は、すでにラファエル前派についての著述などでよく知られていた、女性の伝記作家のジャン・マーシュでした。こうしてはじめて、妻のジェイン・モリスと娘のメイ・モリスを主人公にした伝記が公になりました。その書法は、偉大な男性の影となって隠れていた女性の存在を発掘し、歴史のなかに再配置しようとする、フェミニスト・アプローチに基づくものでした。以下は、その本の「序文」の書き出しです。フェミニスト・アプローチの本質部分を描いた箇所でもあります。
この本は不公平に対する義憤の念から執筆されたものである。本屋や図書館の書棚に行けば、この物語に登場する三人の主要な男性であるウィリアム・モリス、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョージ・バーナード・ショーの著作や彼らについての研究書を多数見ることができる。彼らは極端に注目されすぎていると考える人もいるかもしれないが、彼らが注目されるのはそれなりにわかる。彼らが生きた時代の文化史を考えれば、これらの男性は重要で著名な人物であるし、彼らはそれぞれ研究に値する莫大な芸術上の仕事をしているのである。彼らの絵画、デザイン、演劇はいまでも展示され、複製され、上演されているし、学術的な批評や論文、著作やテレビ番組の主題ともなっている。また彼らの伝記はいまなお執筆され、出版されている17。
続けてマーシュは、モリス、ロセッティ、ショーの周辺に存在する女性たちは、単なる彼ら男性たちの「端役」であり、決して重きが置かれてこなかった経緯を、こう指摘します。
こうしたなか、彼らの人生にかかわってきた女性たちは完全に忘れ去られてしまっているというわけではないにしても、感情面でのあるいは家庭のうえでの「端役」として、副次的で隷属的な役割を与えられるに止まっている。しかしそれももっともなことであると論じることもできるだろう。というのも、後世の人間がこの男性たちの人生を興味深く思うのも、また、当然にも私たちが絶え間ない注目を注ぐのも、それは彼らの芸術上の業績に対してであり、決して彼らの個人的な人間関係に対してではないからである。それに比べると、女性たちの役割は副次的なものであった( ・・・ ) 。つまり、ときには男性たちを照らす光明ではあったとしても、基本的にはあまり重要な存在ではなかったのである。モリス、ロセッティ、ショーがいなかったならば、誰もジェイン・モリスやメイ・モリスの名前など耳にもしなかったであろう18。
こうした経緯に対して、マーシュは、フェミニストたちの考えを代弁して、次のように、言葉をつなぎます。
そうはいってもしかし……。フェミニストたちは歴史書のすべてが男性についての歴史であることを飽きることなく指摘している。人間族の残りの半分がほとんど無視されてきた。そしてまさに、いま挙げた論拠こそ、無視の本質的な部分をなしているのである19。
このようにマーシュは、「この本は不公平に対する義憤の念から執筆されたものである」という衝撃的な言葉でもって、「序文」を書き出しました。その一語のうちに、ウィリアム・モリス、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョージ・バーナード・ショーといった著名人を取り巻く女性たちの存在が、あたかも男性の添え物であるかのように、顧みられることもなく、歴史のなかで忘却されてきていることへの強い憤懣が込められていたのでした。
学術研究の分野でのフェミニズム運動は、女性を軽視する体制や論調に対して直接的に抵抗と異議申し立てを行なった第一波を経て、すでに八〇年代には、女性の存在と業績を闇から救い出して考察の対象に据え、歴史のなかに再び適切に配置しようとする第二波の時代に入っていました。『ジェイン・モリスとメイ・モリス』も、そうした背景から生み出された作品でした。このなかで著者が、ジェインの描写にかかわって、男性の伝記作家の視線ンに意義を申し立てる場面がありますので、以下に紹介します。
それは、ジェインがロセッティに愛情を移す行為にかかわっての解釈と記述を巡る言説に関連するものでした。ジャック・リンジーは、自著の『ウィリアム・モリス――その人生と仕事』(一九七五年)のなかで、次のように述べていました。
ジェイニーが神経症の病人となってモリスの人生のいかなる活動的な部分からも自らの存在が薄くなればなるにつれて、それだけ彼女は、ロセッティの心を揺さぶり、彼の美術作品のなかに姿を現わすようになった。……ジェイニーは、このような人物を相手にして、その人を理解し、その人の人生にあわせる能力に全く欠けていた20。
この言説には、男性の凹凸に女性があわせることが、あたかも男女間の、あるいは夫婦間の適切な形式であるかのような考えが含まれています。また、『ウィリアム・モリスと彼の世界』(一九七八年)の著者のイアン・ブレッドリーの見解は、こうです。
モリスは、九年間の結婚におけるジェインとの関係は、ロマン主義的恋愛の理想化された幻想から、現実の愛情と理解の水準へと一歩も進まなかったことに、徐々に気づくようになっていた。ジェインは、モリスから心が離れるようになると、さらにロセッティに傾いていった。一八六〇年代の終わりころ、彼らふたりは、モリスが出席していない、アトリエでのパーティーにおいて、しばしば、人の目につくようになった21。
この言説は、ジェインの妻としての貞操を守らない行動をことさら強調しているようにも読めます。
これに対して、女性の伝記作家であるジャン・マーシュは、上記のふたつの論述内容に言及したうえで、このように主張するのでした。
このような判断を下す根拠がどこにあろうとも、それは明らかではないし……彼らの関係は単なる否定的言説に矮小化されうるものではない。一方、結婚が失敗する経緯や理由についてや、男と女が別れる事情については説明しにくい場合が多いことも真実である。それはそうだとしても、ジェインと夫との関係はどうであったのか、ある程度分析してみる必要がある。そのことがこれまで多大な好奇心を喚起してきた問題であり、それを満足させたいという、ただそれだけの理由からだとしても22。
つまりマーシュは、偉大な男の才能を理解できない無能な女としてジェインをみなす男性視線に、そしてまた、夫以外の男性との愛情関係を不義密通として断罪しようとする男性視線に意義を唱えているのです。
この本のなかで著者のマーシュは、ジェインの、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとの愛情関係だけではなく、その後のウィルフリッド・スコーイン・ブラントとの恋愛事件についても言及し、それと同時に、長女ジェニーが不幸にもわずらった病気のことや、次女のメイのジョージ・バーナード・ショーとの恋愛と挫折についても、積極的に明らかにしました。そのうえに立って、ジェインについては、優秀な刺繡家であり、誇りをもったロセッティの絵のモデルであったことを、一方メイについては、時代に先立つ社会主義の女性運動家であり、膨大な父の遺作を『ウィリアム・モリス著作集』(全二四巻)と『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』(全二巻)にまとめ上げた、学識豊かな編者であり解説者あったことを、歴史のなかから新たに発掘し、再評価への道を開いたのでした。このように、フェミニスト・アプローチによるモリスの妻と娘を対象にした伝記が誕生したことは、これまでの男性が主として書いてきたモリス伝記の歴史に、大きな一石を投じるものでした。あえて例外として挙げれば、夫亡きあと、妻のジョージアーナ・バーン=ジョウンズが書いた『エドワード・バーン=ジョウンズの思い出』23のなかで、著者と深い友愛の関係にあったモリスがもうひとりの主人公となって、女性視線から描写されていることでしょうか。
デザインの近代運動が力を失うに従い、デザイン史家たちは、それ以前に展開されたモリスのアーツ・アンド・クラフツに関心を向けてゆきました。そのなかのひとりに、王立美術大学でデザイン史の教鞭を執るジリアン・ネイラーがいました。彼女はすでに、一九七一年に『アーツ・アンド・クラフツ運動』24を上梓していましたが、それから一七年を経過した一九八八年に、以下の本を世に出したのでした。
Gillian Naylor ed., William Morris by himself: Designs and writings, Macdonald & Co (Publishers), 1988.
訳すならば、書題は、『本人が語るウィリアム・モリス――デザインと著作』となるでしょうか。内容を見ると、モリスの生涯が、おおかた本人の著作からの引用と、デザインの図版の例示とによって成り立っています。他方、編者であるネイラーの文は、各章の冒頭の短い解説に限られ、控えめで小さな存在となっていました。ここに、新しい伝記書法の誕生を見ることができます。
一般論として、原点に立ち返り、伝記の書法について、あえてここで考えてみます。
過去に実在した人物の生涯を描くということは、どういうことでしょうか。それは、あくまでも事実に肉薄した学問的作物でなければなりません。逆のいい方をすれば、決して虚偽を構成してはならないのです。そのために、関連する人物および事象にかかわって、限りなくエヴィデンス(証拠となる一次資料)を渉猟し、十全にそれを援用して描写することが、伝記作家に厳しく求められることになります。その観点に立つならば、事実とは大きく異なる虚構空間に実在の人物を投入し、そのなかでマリオネットよろしく書き手が自在に操る小説のごとき手法は、決して適切な描画法とはいえません。他方、実在人物の言動を都合よく利用し、書き手個人の強い思いを一方的に割り込ませようとする過度な評伝的手法もまた、同じく適切とはいえません。描写する歴史は真実であってこそ、人はそこから安心して多くの知識と教訓を得ることができ、そのことを前提として、伝記文学という形式は成り立っているといえます。英国にあって、過去の実在人物の歴史を知るうえで小説の形式よりも伝記の手法の方が好まれる理由が、ここにあるのです。
それでは伝記は、どのような書法によって叙述されなければならないのでしょうか。単にエヴィデンスを並べるだけであれば、無色透明の年表になり、無味乾燥の年代記になってしまいます。単にそれだけであれば、実在した人物が生き生きとした画像でもって現像されることはありません。かといって、実在人物に余分なものまで恣意的にまとわせ、加飾してしまえば、どうなるでしょうか。この場合は、書き手にとって都合のいい主人公像が生み出されることはあっても、一人ひとり関心の異なる読み手にとっては、思考の自由が奪われ、脚色された主人公像が無理に押し付けられてしまいかねない危険性が残されることになります。そうした危惧される事態を避けるためには、どうしたらいいのでしょうか。
少し極端かもしれませんが、ひとつの解決法として考えられることは、書き手自身が余分な思い込み(多くの場合は、事実に基づかない個人的な感想)の披歴をできるだけ差し控え、主人公たる本人に自身の人生にかかわる大部分を語らせることではないでしょうか。ウィリアム・モリスの幾多の伝記にあって、そうした事例が過去にありました。それは、すでに紹介しています、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』です。この本で著者のヴァランスは、主としてモリスの言説をつなぎ合わせるかたちをとって彼の生涯を構成しました。そのため、著者の語りは極力抑えられていますが、その反面で、引用符号が多用される結果となりました。この描写法は、著者の自由意思によって考案された書法ではなく、個人的な憶測や感情のもとにモリスの生涯が描かれることを避けようとする、遺族や関係者の意向を反映した、どちらかといえば、苦肉の産物ともいえるものでした。その意味でこの著作は中立的であり、機械的であり、その分物足りなさを感じる読者もいたかもしれません。
しかしここへ来て、ヴァランスを踏襲しながらも、新たにそれを越える書法が、開拓されました。それが、ネイラーの編になる『本人が語るウィリアム・モリス――デザインと著作』だったのです。モリスのデザインと著作(書簡類を含む)とが多数援用されながら、その生涯がどのようなものであったのかが概観できるように工夫されています。ヴァランスの書物の成り立ちとは異なり、編著者であるジリアン・ネイラーなり出版社なりの発案による産物だったのではないかと考えられます。極力客観性と真実性を担保しようとする、伝記書法にかかわる、新鮮なひとつのモデルが、ここに提示されたのでした。
英国にあっては、七〇年代から九〇年代にかけて、デザインにおいてはモダニズムが崩壊する一方で、フェミニズム運動がさらに高揚し、環境問題に新たな注目が集まり、社会的文化的多元主義が広く力を得るようになるなかにあって、一九世紀のモリスの思想と実践への関心がにわかに高まり、再評価へのプロセスが一段と加速してゆきました。
そうした時代を背景に、一九九四年、『ウィリアム・モリス――われわれの時代のための生涯』と題された、フィオナ・マッカーシーの手になる、次の浩瀚の一著が世に出たのでした。
Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994.
重要なのは、この本の副題に「われわれの時代のための生涯」の一語が選ばれたことです。モリス伝記にとって副題は、その伝記の眼目(目的、方法、時代背景等)を表わす極めて重要な意味をもちます。たとえば、さかのぼれば、E・P・トムスンは自著の副題を「ロマン主義者から革命主義者へ」(一九五五年)としました。ヘンダースンの伝記の副題は、「彼の人生、仕事、友人たち」(一九六七年)です。そして、二年後にモリス没後一〇〇年を迎える一九九四年のこの年、著者のマッカーシーは、まさしく副題に「われわれの時代のための生涯」という金冠を設け、モリスは単にモリスの時代のためだけに生きたのではなく、モリスの生涯こそが、すべての時代が必要とする普遍的な生き方であったことを含意させたのでした。
マッカーシーは、オクスフォードの学生時代に E・P・トムスンの『ウィリアム・モリス――ロマン主義者から革命主義者へ』を読んでいました。彼女は、こう回顧します。
私が E・P・トムスンを最初に読んだのは、オクスフォード時代だった。すでに私はモリスに感嘆していたが、しかし彼の多様性は一種のパズルのように思えていた。壁紙と政治が結び付かなかった。この本は、……暴露された事実の力をもって私を痛打した。それというのもトムスンは、モリスにおける政治と芸術の主要なる関係性を、実に正確に把握し、実に辛抱強く請い求めていたからである25。
ジリアン・ネイラーと同様に、フィオナ・マッカーシーの関心も、デザインの歴史にありました。以下が、それに関する彼女の著作です。
Fiona MacCarthy, A History of British Design 1830-1970, George Allen & Unwin, London, 1979. First published in 1972 as All Things Bright and Beautiful.
Fiona MacCarthy, British Design since 1880: A Visual History, Lund Humphries, London, 1982.
基本的には、一九世紀後半のモリスの影響を受けたアーツ・アンド・クラフツ運動、両大戦間期のデザイン・産業協会の主導による近代運動、そして、戦後のデザイン・カウンシルが展開したデザインの国家的プロモーションが、英国デザインの通史の骨格として描かれていました。しかしそれ以降、マッカーシーは、デザイン史家としての側面だけでなく、加えて伝記作家としての側面を見せるようになるのです。それについては、次のような著作があります。
Fiona MacCarthy, Eric Gill, Faber and Faber, London, 1989.
Eric Gill: Autobiography with a New Introduction by Fiona MacCarthy, Lund Humphries, London, 1992.
こうして伝記作家としてのマッカーシーは、エリック・ギルを経て、モリスへと向かいました。
マッカーシーの『ウィリアム・モリス――われわれの時代のための生涯』の特徴は、副題の選定だけには止まりませんでした。その最大の特徴は、これまでのモリス伝記のなかで考察された研究成果のみならず、フェミニスト・アプローチがもたらした妻や娘についての新しい知見も余すことなく取り入れられ、さらに加えて、これまでに公にされた書簡や手稿類が実証の手段として十全に駆使されていたことでした。こうして、この一〇〇年にわたるモリス研究を集大成した大著が、ここに誕生したのです。
「序文」のなかで、このように語る著者の一節がありますので、引用しておきます。
モリスに関する最近の書物は、専門家としての立場からモリスについて見解を述べる傾向にありました。私たちはすでに、マルクス主義からのモリス像、ユング心理学からのモリス像、フロイト派精神分析からのモリス像をもっています。そしていまや、モリスはグリーン主義者から賞讃されています。理論が積み重ねられてゆくことによって、モリスの「全体的な」パーソナリティーは見えにくくなっています。私は、このプロセスを逆転させて、彼を解き放し、そのうえで彼を記述したいと思いますし、もし可能であれば、モリスの最初の伝記作家である J・W・マッケイルが一八九九年に見事な二巻本として出版した『ウィリアム・モリスの生涯』以来、誰も試みていない方法でもってモリス神秘の一端を見定めてみたいと希望しています26。
かくして、ジャン・マーシュ、ジリアン・ネイラー、フィオナ・マッカーシーという女性の歴史家たちによって、ウィリアム・モリス研究は新たな視線から塗り替えられ、新世界が開拓されていったのでした。それは、モリスに関する展覧会についても、同様のことがいえました。
一九九六年、モリス没後一〇〇年を祝う記念の年を迎えました。この年、モリスに関する展覧会や講演会、モリス史跡への見学会や旅行会が多数企画されました。とりわけ展覧会として注目されたのは、五月九日から九月一日の期間にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催された「ウィリアム・モリス」展でした。これまでヴィクトリア・アンド・アルバート博物館は、モリスを扱った展覧会として、一九三四年に「ウィリアム・モリス生誕一〇〇年記念展」、一九五二年に「ヴィクトリア時代とエドワード時代の装飾美術」展、そして一九六一年に「モリス商会創設一〇〇年記念展」を開催してきました。没後一〇〇年にあわせて開催された、一九九六年のこの「ウィリアム・モリス」展は、モリスの思想と実践を積極的に再評価しようとする時代背景と重なったこともあって、入館者数は何と二一万人を超え、この博物館にとって過去に例を見ない記録的な成功となりました。この展覧会の開催に際して企画を担当したのが、同館の女性学芸員のリンダ・パリーでした。テクスタイル研究を専門とするパリーには、それまでに次の著作がありました。
Linda Parry, William Morris Textiles, Weidenfeld and Nicolson, London. 1983.
Linda Parry, Textiles of the Arts and Crafts Movement. Thames and Hudson, London, 1988.
Linda Parry and Gillian Moss, William Morris and the Arts and Crafts Movement: A Design Source Book, Studio Editions, London, 1989.
しかし、女性研究者としてモリス研究の一時代をつくったネイラーが二〇一四年に、マッカーシーが二〇二〇年に、パリーが二〇二三年に、他界します。おそらく彼女たちの業績は、次の第二世代の女性研究者たちに引き継がれてゆくことになるでしょう。こうしてモリス研究は、これよりのち、次に訪れる二〇三四年の生誕二〇〇年へ向けて、新たな一歩を踏み出すことになったのでした。
以上、およそ一〇〇年にわたって世に姿を現わしたウィリアム・モリス伝記の記述内容、とりわけ妻のジェインについての描写内容に関心を寄せ、その文脈からその推移を概略的に述べてきました。この結果、「はじめに」において仮説的に書きました、「有名人独りを対象とした単線的歴史の記述から、配偶者を含めた男女の織りなす複線的歴史の記述へ」の伝記書法の推移の一端が明らかになりました。
それでは、そうした英国における歴史的進展は、果たして日本にあっては、どうだったのでしょうか。同じなのか違うのか、興味がもたれるところです。
ウィリアム・モリスの思想と実践に興味を抱き、一九〇八(明治四一)年の暮れに神戸港を出て、英国に渡ったのが、富本憲吉でした。そして、帰国後結婚する女性が、『青鞜』の社員だった尾竹一枝(青鞜時代の雅号は紅吉( こうきち ) )です。それよりのち富本憲吉は、陶工として大成してゆきます。それでは、富本一枝の伝記作家は、夫である富本憲吉をどう描いたのでしょうか。それを、次の第二編「伝記書法論(2)――富本一枝の伝記作家はその夫をどう描いたか」で検証してみたいと思います。
他方、日本における女性史学の樹立者とされる高群逸枝も、モリスの晩年の作品である「ユートピア便り」27を読んでいました。わずか一箇所ではありますが、自著の『戀愛創生』(萬生閣、一九二六年)のなかにおいて、それに関して言及しています。このモリスのユートピアン・ロマンス(夢想的物語)は、すでに過去においては堺利彦によって「理想郷」の訳題のもとに抄訳され、『平民新聞』に連載されていましたし、その後も、「芸術的社会主義」という名辞のもとにモリスの思想と実践に関する研究書や紹介書が絶えることなく続くなかにあって、高群が『戀愛創生』を発表する五箇月前の一九二五(大正一四)年の一一月には、布施延雄が「無何有郷だより」という訳書題でもって、至上社から上梓していたのでした。夫の橋本憲三は、生涯をとおして、妻の執筆に寄り添い、妻亡きあと、『高群逸枝全集』(全一〇巻)を世に送る名編集者です。それでは、高群逸枝の伝記作家は、夫である橋本憲三をどう描いたのでしょうか。それを、続く第三編「伝記書法論(3)――高群逸枝の伝記作家はその夫をどう描いたか」で検証してみたいと思います。
このようにして今後、英国と日本の伝記書法の異同を明らかにすることによって、両国の伝記作家の関心の隔たり、あるいは資質の違いについて、可能な限り踏み込んで論じてみようと考えています。
ところで、以上のような本稿における考察を踏まえて、私はすでに著作集6『ウィリアム・モリスの家族史』を執筆しました。ここに、忘備録として書き記します。
(二〇二四年五月)
(1)Aymer Vallance, ‘PREFACE’, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897. なお、この ‘PREFACE’ には、ノンブルは付けられていません。
(2)Ibid., ‘PREFACE’.
(3)Ibid., p. 42.
(4)Ibid., p. 42.
(5)J. W. Mackail, ‘PREFACE’, The Life of William Morris, volume I, Longmans, Green and Co., London, 1899. なお、この ‘PREFACE’ には、ノンブルは付けられていません。
(6)Ibid., p. 138.
(7)May Morris ed., The Collected Works of William Morris, 24 vols., Longmans, London, 1910-15.
(8)May Morris ed., William Morris: Artist, Writer, Socialist, 2 vols., Blackwell, Oxford, 1936.
(9)E. P. Thompson, William Morris: Romantic to Revolutionary (1955), Pantheon Books, New York, 1976, pp. 1-2. 私が利用したのはこの再版本で、以下の初版は未見です。 E. P. Thompson, William Morris: Romantic to Revolutionary, Lawrence and Wishart, London, 1955.
(10)Ibid., p. 65-66.
(11)Ray Watkinson, William Morris as Designer, Studio Vista, London, 1967.
(12)Jack Lindsay, ‘Foreword’, William Morris: His Life and Work, Taplinger Publishing Company, New York, 1979. なお、この ‘Foreword’ には、ノンブルは付けられていません。また、初版は一九七五年にロンドンのカンスタブル社から発行されているようですが、私は未見です。他方、著者のジャック・リンジーは、この引用文なかで「ペイジ・アーノットの先駆的な指摘」に言及していますが、それは、以下の文献を指すものと思われます。 R. Page Arnot, William Morris: A Vindication, Martin Lawrence, London, 1934. このなかでペイジ・アーノットは、モリスはマルクス主義者ではなかったという通説を覆して、いかにマルクスやエンゲルスから影響を受けていたのかを論証しています。
(13)Arthur Compton-Rickett, William Morris, Poet, Craftsman, Social Reformer: A Study in Personality, E. P. Dutton and Company, New York, MCMXIII (1913).
(14)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME I 1848-1880, Princeton University Press, Princeton, 1984, p. xi.
(15)Ibid., p. xxx.
(16)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part A] 1881-1884, Princeton University Press, Princeton, 1987. Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part B] 1885-1888, Princeton University Press, Princeton, 1987. Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME III 1889-1892, Princeton University Press, Princeton, 1996. Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME IV 1893-1896, Princeton University Press, Princeton, 1996.
(17)Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986, p. xi.
(18)Ibid., p. xi.
(19)Ibid., p. xi.
(20)Jack Lindsay, William Morris: His Life and Work, Taplinger Publishing Company, New York, 1979, pp. 138 -139.
(21)Ian Bradley, William Morris and his world, Thames and Hudson, London, 1978, p. 42.
(22)Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986, p. 63.
(23)Georgiana Burne-Jones, Memorials of Edward Burne-Jones, 2 vols., Macmillan, London, 1904.
(24)Gillian Naylor, The Arts and Crafts Movement: A study of its Sources, Ideals and Influence on Design Theory, Studio Vista, London, 1971.
(25)Fiona MacCarthy, 'E. P. Thompson: 1925-1993', The Journal of the William Morris Society, vol. X, no. 4, Spring 1994, p. 4.
(26)Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, p. viii.
(27)William Morris, ‘News from Nowhere’, in May Morris ed., The Collected Works of William Morris, VOLUME XVI, Longmans, London, 1912.