中山修一著作集

著作集9 デザイン史学再構築の現場

第二部 デザインの歴史学の創生――三人の英国のデザイン史家に聞く

第三編 デザイン史学誕生を巡って――ジョン・ヘスケットさんに聞く

序――ジョン・ヘスケットさんに会見するまで

ジョン・ヘスケット(John Heskett)さんは、一九三七年にコヴェントリーで生まれ、二年間の軍務に服したのち、ロンドン経済大学(London School of Economics)で経済学、政治学、および歴史学を学びます。卒業後しばらくして、現在のコヴェントリー大学(Coventry University)であるランティスター・ポリテクニック(Lanchester Polytechnic)に職を得、ここで一九六七年から七七年まで、デザイン史を講じます。その後彼は、一九八四年に、ロンドンの南東部に位置するレイヴェンズボーン・デザイン・アンド・コミュニケーション大学(Ravensbourne College of Design and Communication)に移籍し、一九八九年まで勤務します。一九七七年にデザイン史学会(Design History Society)が発足するときには、すでに彼は、際立つ存在となっていて、一九八五年から八七年まで会長を務めます。私が、彼に会うためにこの大学を訪れたのは、一九八八年二月八日でした。そのときまでに彼が書いていた本に、次のものがありました。

Industrial Design, Thames and Hudson, London, 1980.

Design in Germany: 1870-1918, Trefoil, London, 1986.

書きましたように、一九八八年二月八日にレイヴェンズボーン・デザイン・アンド・コミュニケーション大学のジョン・ヘスケットさんの研究室において、私は、彼にインタヴィューを行ないました。以下の文は、その際の私の質問に対する彼の返答を集約して、それを、本稿のために新たに三つの主題(「デザイン史学会創設の発端について」「デザイン史とデザイン実技の教育について」「研究と関心の世界的広がりについて」)に分節化し、簡略的に記述したものです。

一.デザイン史学会創設の発端について

それでは、用意されています質問事項に沿いまして、お答えいたします。

この国におけるデザイン史学およびデザイン史学会にかかわる誕生の背景についてですが、それは、サー・ウィリアム・コールドストリーム(Sir William Coldstream)とサー・ジョン・サマースン(Sir John Summerson)のふたりが作成した、政府への報告書に起因しています。そのなかの提案のひとつが、美術・デザイン教育に、これまで必要とされることのなかった、より高いレヴェルでの学術的要素を導入することでした。これにより、一九六〇年代初頭に、美術・デザイン教育にかかわる再編が行なわれたのです。具体的には、学業時間の少なくとも一五パーセントを学術研究分野に割り当てようとするもので、そこで、当初ほとんどの大学が、美術史のコースをもって、それに対応しようとしました。しかし学生たちは、「自分たちはデザイナーであって、美術家ではない」と主張したため、多くの問題が発生することになりました。とくに一九六八年には、フランス、ドイツ、そして日本でも学生運動が発生しました。フランスでは暴動が起こり、政府を揺るがす事態になりました。英国の美術学校やデザイン学校における学生運動は、主として美術史に反発するもので、彼らは美術史の排除を求めました。ホーンジー美術大学(現在のミドルセックス・ポリテクニックの一部)での学生運動は、長期に及んだことでよく知られています。

その結果、一九六〇年代の半ばには、単なる美術史ではない、デザイナーにとってよりふさわしい教科の必要性に、幾人かの人びとの目が向かい始めたのです。たとえば私は、三年間英国を離れ、一九六七年に帰国したのですが、そのとき職を得たランティスター・ポリテクニック(Lanchester Polytechnic)で、現在はコヴェントリー・ポリテクニック(Coventry Polytechnic)に改名していますが、社会的・経済的背景に特化した美術・デザインの指導ができないか求められました。当時の私は、建築デザインに興味をもっていましたので、この要求はとても困難なように感じられました。しかしその一方で、社会的・経済的背景との関連性なくしてはデザインを語ることはできないことにも、気づかされたのです。そこで一九六七年に、私たちは、コヴェントリーでデザイン史の授業をスタートさせ、それは緩やかに発展してゆき、一九七〇年に、デザイン史に強い興味をもつデザイナーであったひとりの同僚が、小さなひとつの集会を開くに至ったのです。われこそが最初の集会の開催主だと主張する人は多くいますが、実際のところ、デザイン史に関する最初の会合はロジャー・スミス(Roger Smith)によるこのイヴェントだったと思います。彼はいま、コヴェントリー・ポリテクニックでグラフィック・デザインの指導をしています。ほかにも興味深いメンバーがいました。デニス・シャープ(Desis Sharp)は建築協会建築学校(Architectural Association School of Architecture=AA)で建築を教えています。エイドリアン・フォーティー(Adrian Forty)についてはお聞きになったことがあるかもしれませんが、彼も、一九七〇年にその現場にいました。当時彼は、ブリストル・ポリテクニック(Bristol Polytechnic)で教鞭を執っていた若い教師でした。ロジャー・ブレイクワード(Roger Blakeward)はアルスター大学(University of Ulster)でデザインの教授をしています。ロジャー・ニューポート(Roger Newport)は、バーミンガム・ポリテクニック(Bermingham Polytechnic)でインダストリアル・デザインの学科長を務めています。このように、初期の段階におけるこの集会は、約二五名のメンバーからなる小規模なものだったのですが、実に興味深い人物たちがいたのでした。

この小さな集会の開催ののち、一九七〇年代には、デザイン史やデザイン論の発展が周りから認知されるようになり、より満足度の高いものとなってゆきました。こうして、美術史の学習を学生に強要するのではなく、彼らが求めていたデザイン学の一部としての学術研究を追求することによって、その結果、学生たちとのあいだに密接な関係性を保つことができるようになりました。学生たちが入学してくると、私たちは、デザイナーのあり方を教えます。私たちの任務は、彼らによりよいデザインを生み出してもらうことなのです。したがって、デザインそのものに歴史や理論があるという認識のもと、デザイン史の履修コースが発展したのでした。

一九七〇年代中頃までには、私たちは、美術史家協会(Association of Art Historians)の一部に小さな組織をもつようになっていたのですが、しかし、一九七七年に、デザイン史学会(Design History Society)の最初の会合がブライトンで開かれたのでした。このことに関しては、おそらくすでに他の方々からお聞きになっているかもしれませんが、したがって、つまるところ、デザイン史学が発達してきたのは、この二〇年間のことだったといえるのです。そして忘れてならないのが、事の発端は、ニコラス・ペヴスナー(Nikolaus Pevsner)の著書の Pioneers of Modern Design にありました。この研究領域に最初に着手した本であるという点では、敬意を払いますが、私自身も、ほかの人たちも、この本における彼の美術史的な考え方やアイデアに賛同しなかったのです。

こうして、デザイン史学が、一九七〇年代の中頃に胎動しました。そして、次第に規模が大きくなってゆきました。それ以降、定期的な会議や大会が開催され、多くの出版物も世に出るに至りました。

全国を見渡してみますと、現在、Brighton Polytechnic のようにデザイン史に特化した学位を授与する大学もあります。Newcastle には美術・デザイン史、North Staffordshire にはデザイン史、Manchester Polytechnic と Leicester Polytechnic には美術・デザイン史のコースがあります。Birmingham Polytechnic の大学院大学のコースにも、美術・デザイン史があります。そして当然ながら、Royal College of Art のコースには V&A Museum とのジョイント・コースがあり、とても興味深いものとなっています。もっとも、デザイン史研究の方法や目的については、各々の機関により名称もアプローチも異なりますので、一概にはいえません。

二.デザイン史とデザイン実技の教育について

それでは、ご質問に沿いながら、primary school から university までのデザイン教育につきまして、お話いたします。

この国では、五歳になると primary school に入学します。ここでは、特別なデザイン教育は行なわれていませんが、英国の初等教育での一般的なアプローチとして、子どもたちには、創造力や探求心を促す内容と機会が提供されます。主に立体と平面を扱いますが、幼い段階では、自由にさせています。ある意味で、準備期間ということになります。

一一歳になると、全員ではないのですが、secondary school に通うようになります。ここでは、私たちが CDT と呼ぶところの「クラフト・デザイン・テクノロジー」に近年の成長を認めることができます。しかし、問題は、適切な資格をもった教員が不足していることです。もっとも、最近では、政府の支援によって改善されつつあります。

通常一八歳で secondary school を終えるわけですが、デザインを学びたい若者は、カレッジやポリテクニックに設置されている foundation course に入ります。ここは一年間のコースで、造形についてのさまざまな実験的なアプローチを知る機会になります。そして最終的に、「自分は美術家になりたい、グラフィック・デザインを深めてみたい、インダストリアル・デザインを学びたい」となるわけです。

学校によって異なりますが、たとえば本校では、純粋美術、ファッション、グラフィック・デザイン、三次元デザインの foundation course があります。これは、極めてまれなことです。複数の組み合わせも可能です。しかし、本校では、最終段階に至らなくても、専門分野を早めに選択するように、学生たちに促しています。常に多くの選択肢を用意したうえで、一般性とは異にする例外も認めるという、英国らしい特徴ともいえるシステムです。こうして、学生たちは、一年間の foundation course とさらなる学びを加えて、合計 ママ 年間、カレッジやポリテクニックで過ごすことになるのです。その後、大学院の修士課程に進学する者もいます。しかし、本校には、修士課程はありません。カレッジやポリテクニックのすべてに、大学院があるわけではないのです。

続いて、本学の、といいますか、私個人の、デザイン史教育についての考えを述べてみます。

私は、デザイン史の教科にあっては、英国において、さまざまな方法論を模索しながら、いかにして成長してきた学問なのか、その理解を学生に促すように指導されるべきであると思っています。デザイン史とデザイン実技へのアプローチは、ただひとつではありません。私たちは学生に対して、いかなる方向性が重要なのか、その選択の機会が与えられるよう、意を用いなければなりません。たとえば、現在では異なる考え方や理論が存在しています。モダニスト、ドイツの伝統、イタリアのメンフィスなどにみられる、さまざまに異なる思想や主張が、そうです。私は学生に、「これが最良であるとか、いかなることが最良であるのかとか」をいうのではなく、「こんなことが起こっている、あんなことも起こっている。才能があれば世界は目の前に広がっている。しかし、そこへ接近するためには、自らがどの方向に進みたいのかを決めなければならない」と伝えたいのです。これが重要なことだと思います。

次に重要なのは、とくにコミュニケーション能力に関する事柄です。現代社会におけるデザイナーは、明確な言語化でもってコミュニケーションを図るべきであると考えます。つまり言葉によるテクストの分析ができなければならないのです。二次元、三次元のオブジェクトを認識するだけでは不十分なのです。本校の一年次では、学生にヴィジュアルフォームの文法を教えることに力を入れています。さらに一年目には、デザインの書かれ方や、異なったコンセプトやアプローチについての見極めをしてゆきます。こうして、企業や国家、時代や社会の潮流などに注目し、異なったアプローチでテクストを作成し、歴史がどのように構築されているのかという認識が促されるのです。

私は、一年次の終わりには、デザインや形態の文法、さまざまなアプローチによる検証等が理解できるようになるよう、学生たちを指導しています。私が彼らに期待していることは、自分自身にとって何が重要なのかを、徐々に見極められるようになってゆくことです。今後もこれを発展させ、英国に限らず世界の現代的なデザイン・パタンについて検証してみたいと思っています。さらには、企業におけるデザイン・マネジメントのあり方についても検証することが必要です。経営とマーケティングの視点に注力し、本学の学生プロジェクトに結果的に統合してゆきたいと考えています。デザイン史の授業をとおして学生とは密接に関わり合いをもっていますが、最終学年の大きなプロジェクトに取り組むころには、彼ら自身が製作室においてすべての要素を取り入れて、完全に一体化できるようになることを、私は目指しているのです。したがいまして、最後の半年間は、私たちも、彼らのプロジェクトのビジネス性や市場性について、一緒に検討することになります。学生が雇用主を訪問するに際しての彼らのプレゼン方法などについても助言します。つまり、簡潔にいうならば、デザインは広大な知的世界へ開かれた窓であり、私たちは、細部にも焦点をあてながら、学生が専門的なプロフェッショナルになることを手助けしているということになります。

本校のように degree を授与するカレッジは、ポリテクニックの美術・デザイン学部と類似しており、あまり差異はありません。ポリテクニックの美術・デザイン学部のほとんどは、少し前までは独立したカレッジでした。University においては、デザイン教育はほとんど行なわれておりません。例外的に、Reading University には、グラフィックやタイポグラフィーのコースがあります。University of Ulster は、二、三年前に小さな university と polytechnic から編成された経緯があり、カレッジを背景にもっています。このように、英国では、デザイン教育は university においては存在しないのです。したがって、カレッジとポリテクニックを念頭に語るならば、大学院大学として王立美術大学(Royal College of Art)が、この分野の教育機関の中央に位置するのです。

三.研究と関心の世界的広がりについて

ここで少し、私自身の今後の行動について語ってみましょう。

私はこの大学で、週四日勤務しています。残りは、出張や講演などで外に出ます。先週もドイツへ行き、ブラウンや AEG のような電気メーカーや、BMW やベンツのような自動車メーカーのデザイン関係者と会ってきました。このことは、学生に提供できる話題が増えることを意味します。こうした出張は、それにより私の経験が豊かになるようにとの、大学側の配慮によるもので、ありがたく思っています。私の妻がドイツ人であるということもあり、年に一、二回はドイツを訪問します。

デザインは、世界中の至る所に存在します。そしていまでは、極めて一般的な事柄になっており、頻繁に私のもとにも招待状が届きます。たとえば、来月はオランダに行かなければなりません。四月には訪問教授として一週間トルコへ、次いでドイツです。五月には、ハーバード大学に研究員として一年間行く予定です。デザイン・マネジメントに関する大きな展覧会の開催が予定されており、アメリカ、ヨーロッパ、日本から、それぞれ五社が参加することになっています。すばらしい機会になると思います。来年には、デザイン・コースにかかわる外部審査員として香港ポリテクニック(Hong Kong Polytechnic)を訪問します。あらゆる場所に、興味深いデザインが存在します。どこかの段階で執筆のための調査も必要になります。そうでなければ、昔のことを繰り返ししゃべり続けることになりますから。今後何が起こるか未知数です。書きたい本がたくさんあるのです。

最後に、私の、デザインについての基本となる考えを述べてみます。

私は、デザインには、工業化以前にさかのぼる長い歴史があると認識しています。産業革命に限定してしまいますと、一般的にそれがはじまったとされる一七一八年以前において存在していた重要な側面を見落としてしまうことになります。私にとってデザインは、基本となる人間の能力のことです。つまりデザインする力とは、自然界の他の生き物とは異なる最も重要な人間に潜む才能のひとつであると、私は思うのです。私たちには、他の生物が創造することのできない、独自の環境を形成する力が備わっています。手があり、目があり、脳があります。これらの三つを使って自然界にはない形を想像することができるのです。私たちは、ものをつくり、形をつくってきた人類の歴史に注目しなければなりません。それこそが、私たちが解明しなければならない課題のひとつなのです。デザインを産業化だけに限定してしまいますと、世界の狭い一部だけに留まってしまうことになります。海外を旅行すると、人類が創造したあまりもの多くのもの、あらゆる方法などなどに目を奪われます。そのすべてを解き明かし、可能であれば総論としてまとめてみたい、そのように私は、純粋に思います。こうして、すべての可能性を包摂することができれば、デザイン、つまり人間の営みの総体を構築できると思うのです。そこには、もちろん、異なった場面や異なった段階でのデザインが存在します。伝統的に日本や中世ヨーロッパでは、工芸の存在がありました。また、かなり以前に訪問したことのあるインドでは、現在もなお、機械でつくられた製品のデザインに対する思いとは異なる認識が、人びとを根強く支配しているようです。しかし一方で、いまやそれと同時に、システム、生産のフレキシブルな手法、そして、適用や消費にかかわるフレキシブルな方法などにおいて、私たちは新しい段階に移行しつつあるのです。全体史への一般的なアプローチにあっては、これらの異なるステージの意味するところが、注意深く考察されなければなりません。当然ながら、関係性に着目しつつ、しかも差異を認識しつつです。

この地球上には、優れた人が散らばっています。たとえば、India Institute of Technology にも、Hong Kong Polytechnic にも、優秀な人材がいます。デザイン学の問題点は、そうした人たちが世界に分散していることです。彼らを一同に集めることはできないでしょうか……そうしなければならないというのが、いまの私の思いです。

以上、デザインに対する私の基本となる考えを述べてきました。いかがだったでしょうか。

跋――その後のジョン・ヘスケットさん

以上において私は、ジョン・ヘスケットさんからお聞きした内容を、「デザイン史学会創設の発端について」「デザイン史とデザイン実技の教育について」「研究と関心の世界的広がりについて」の三つの主題に分節化し、要約的に構成しました。聞き間違いや訳し間違いがあれば、それはすべて、私の責任に帰されます。また、内容は、インタヴィューを行なった一九八八年二月八日時点のものです。このこともあわせてご承知おきください。

その後彼は、アメリカ合衆国に渡り、一九八九年から二〇〇四年までイリノイ工科大学(Illinois Institute of Technology)のデザイン学部(Institute of Design)で教授を務め、さらに続けて、二〇〇四年から二〇一一年まで、すでに香港ポリテクニック(Hong Kong Polytechnic)から改名していた、香港理工大学(Hong Kong Polytechnic University)のデザイン学部(School of Design)の教授職につき、二〇一二年には学部長の要職も務めました。次に挙げるものが、そのころの主な彼の著作です。

Philips: A Study of the Corporate Management of Design, Trefoil, London, 1989.

Toothpicks and Logos: Design in Everyday Life, Oxford University Press, Oxford, 2002.

レイヴェンズボーン・デザイン・アンド・コミュニケーション大学を訪問してしばらくして、一九八八年の秋、来日のおりに突然彼から電話があり、神戸の拙宅でお会いしました。ビールを飲みながら、デザイン史学の将来について一晩語りあかしたことが、いまも鮮明に記憶に残っています。また、私がデザイン史学研究会の代表をしていた二〇〇七年七月に開催した第五回シンポジウム「デザイン×テクスト×コンテクスト――誰のためのデザイン史?」の基調講演者に、私たちはジョン・ヘスケットさんを招待しました。このころから、毎年旧正月ころになると、一年間の活動を記した、年賀状に代わる長文の手紙が届くようになり、こうして、彼のデザイン史学およびデザイン思考の日常にかかわって、身近に接するようになりました。そして、退職ののち、彼は香港を離れ、英国の海に面した南部の町、サセックス州のホーヴへ帰還します。

その彼は、二〇一四年二月二五日、ホーヴにて、帰らぬ人となりました。七六年の生涯でした。

(二〇二四年六月)