中山修一著作集

著作集9 デザイン史学再構築の現場

第二部 デザインの歴史学の創生――三人の英国のデザイン史家に聞く

第二編 デザイン史学誕生を巡って――ジリアン・ネイラーさんに聞く

序――ジリアン・ネイラーさんに会見するまで

ジリアン・ネイラー(Gillian Naylor)さんは、一九三一年にシェフィールドで生まれ、オクスフォード大学で近代言語を学びます。卒業すると文筆家を目指してロンドンに移ると、一九五七年に、デザイン・カウンシル(Design Council)の前身組織であるインダストリアル・デザイン協議会(Council of Industrial Design)が発行する Design の編集スタッフに加わり、デザインに関する多くの記事を書くことになります。その後転じて、ブライトン・ポリテクニック(Brighton Polytechnic)においてデザイン史の教育と研究に従事し、その後、ペニー・スパークと同じく、王立美術大学(Royal College of Art)に移籍するのでした。私が、彼女に会うためにこの大学の文化史学科(Department of Cultural History)を訪れたのは、一九八八年一月一五日でした。そのときまでに彼女が書いていた本に、次のものがありました。

The Bauhaus, Studio Vista, London, 1968.

The Arts and Crafts Movement: A study of its Sources, Ideals and Influence on Design Theory, Studio Vista, London, 1971.

The Bauhaus Reassessed: Sources and Design Theory, The Herbert Press, London, 1985.

書きましたように、一九八八年一月一五日に王立美術大学文化史学科のジリアン・ネイラーさんの研究室において、私は、彼女にインタヴィューを行ないました。以下の文は、その際の私の質問に対する彼女の返答を集約して、それを、本稿のために新たに三つの主題(「これまでの学問的関心について」「バウハウス研究の経緯について」「王立美術大学文化史学科とデザイン史学の誕生について」)に分節化し、簡略的に記述したものです。

一.これまでの学問的関心について

それでは、ご質問に沿って、今日に至る私の学問的関心の変遷についてお話します。

これまで私がアーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)やバウハウス(Bauhaus)について研究をしたのは、私自身が美術や建築に囲まれた環境のなかで教育を受けてこなかったことに由来します。ペニー・スパーク(Penny Sparke)と同じように、私もフランス語の学位を取得して大学を卒業しました。『デザイン(Design)』誌で働くようになったのは、一九五〇年代の後半から一九六〇年代の前半にかけてのことでした。周りは、実技系のデザイン科を卒業した人たちでしたので、彼らが、美術やデザイン、アシュビー(C. R. Ashbee)やモリス(William Morris)、そしてバウハウスなどについて語るのをよく耳にしました。しかし、当時の私は、何も理解できなかったのです。そのことが、私自身本を書くきっかけとなりました。とくにアーツ・アンド・クラフツ運動について書きたいと思いました。というのも、デザイン・カウンシル(Design Council)では、ご存知のように、独自にセレクトしたオブジェクトをディスプレイに並べています。それから、デザイン・センター・アワードも授与しています。彼らは、よいデザインがいかにあるべきかを理解していたのです。異分野からきた私は、何がよいデザインで、何がそうでないのか、どのデザインが目的にかなっていて、どのデザインがそうでないのか、……実際にデザイナーが受け継いできている、そうした価値観や判断力を持ち合わせていなかったのです。そのような教育を私は受けていませんでしたから、なぜなのか、どうしてなのか、それを知りたくなったのです。最初に興味をもったのが、アーツ・アンド・クラフツ運動でした。それについて実に多くの研究をしました。その前にバウハウスについて書きましたが、私は、シンプルでささやかなものを考えていましたので、ジャーナリストがするように、可能な限り雑誌の記事に当たり、情報を得てプレゼンしました。しかし、アーツ・アンド・クラフツ運動の本の執筆には、長時間を費やしました。

いま私は、この大学で教鞭を執っています。製造哲学(philosophy of manufacture)と呼んでいますが、一九世紀の製造論について一学期間デザイン史専攻の院生とともに研究しています。当然そのなかで、モリスやラスキン(John Ruskin)、アーツ・アンド・クラフツ運動、ゴシック・リヴァイヴァル(Gothic Revival)について語ります。しかし私は、その細部について取り上げることはありません。というのも、それらのことは学生自らが本を読んで知ることができるからです。

現在私は、一八〇〇年から一八五〇年の期間を詳細に検証し、産業化への拒絶の原因を解明しようとしています。このことは、事実よりもさらに込み入った内容をもっています。工場生産にかかわる環境は、人間性を奪うものであり、非常に複雑です。そこで、一八四〇年代から一八五〇年代に起こった政治的経済的側面を調べているのです。分業(労働の分割)の否定がなぜ強調されなければならなかったのかを理解するためです。モリスやラスキンは、工場システムとその効果について単に言及していただけではなく、初期の思想家として、政治経済的な姿勢や分業への対応などについても議論をしていたのです。このようなことを取り上げて、私は講義をしています。

また私は、これはデザイン系の学校でも見受けられることなのですが、規範的デザインやシステム・アプローチによるデザインの合理性についても討論します。それとは別に、デザイン系の学校では、デザインの原理を必要としており、言語化された形態として装飾の文法を確立しようとしています。言語化された形態を見るとき、なぜ彼らにとってそれが必要だったのか、そうした視点を探ります。そこで、ゴッドフリート・ゼムパー(Gottfried Semper)と彼の思想についても論じます。アーツ・アンド・クラフツ運動は、全体の小さな一部であり、その運動とそのメンバーについてはかなりの研究がなされているので、現在私は、この研究を継続していません。私にとって興味があるのは、アーツ・アンド・クラフツ運動の代替案としての、次に来てほしいと思う生産システムについてです。

当時イングランドでは、さまざまな産業から実際に製品が生み出されていました。多くは小規模の産業で、明らかに、多量生産と呼べるものではありませんでした。現在もたくさんの産業がありますが、いまだに多くは、中途半端な技術、つまりは半工芸的な技術に基づいているのです。そのことを私は不思議に思います。なぜでしょうか。わからないでもありませんが、私自身、そのシステムが何であるのかをまさしく知りたいのです。問題のひとつは、ご存知のように、この国のアーツ・アンド・クラフツ運動に起因しています。これは、歴史家や歴史編纂学の視点によれば、一九世紀英国のデザインに起こった唯一の事柄なのです。現在私が研究しているのは、以上のような内容です。

二.バウハウス研究の経緯について

私は The Bauhaus に続いて、The Bauhaus Reassessed: Sources and Design Theory という本を上梓しました。ご質問に応じて、このときの経緯につきまして、これからお話します。

前作の不備を補い、全体をより明らかにするために、私は、ワイマールとデッサウを再訪する必要がありました。さまざまな場所を訪れ、人びとと会話をしたことで、この再訪は非常に興味深いものとなりました。しかし、東ドイツでの長い滞在は難しく、そのため、資料の収集は困難を極めました。私は愚かにも、ブリティッシュ・カウンシルを介しての手配を怠っていたのです。したがって、東のブロックされた国々に入ることは決して容易ではなく、一箇所に五日間までしか滞在が許可されず、連絡を取り、資料に目を通し、必要としているものを依頼する程度のことしかできませんでした。

バウハウスの一次資料のほとんどは、西ベルリンの「バウハウス・アーカイヴ」にあります。かなり大量の資料を彼らはもっています。しかし、彼らの対応ときたら、非常に難儀なものでした。私が滞在していた期間で知りえた範囲でいえば、彼らは、所蔵している資料の目録さえももっていなかったのです。ひとりの女性が切り盛りしていて、「目録は自分の頭のなかにある」というのですから……。事前に私は、「アーカイヴ」で調べたい、さまざまな事柄について書き留めておいたのですが、彼女は「ありません、ありません、ありません」というばかり……。それで諦めて……そんなわけで、私は、「バウハウス・アーカイヴ」にあまりよい印象をもっていません。西ベルリン滞在中、午前中は「バウハウス・アーカイヴ」に行き、午後になったら市内の大きな美術図書館(Kunstbibliothek)に通いました。ここはとても充実していました。彼らは実に協力的でした。その図書館で、自分の国では見出すことができない本を手にすることができたのです。さらに、彼らは雑誌も発行していたのですが、それもとても有効でした。「バウハウス・アーカイヴ」では、そのようなことは難しかったのですが……。したがって、午後になるとそのような資料に目を通すことができたのです。夜の七、八、九時くらいまで開館していたので、資料を調べるには好都合でした。しかし、「バウハウス・アーカイヴ」そのものは……。一体そこで何が可能だったのか、いまとなっては覚えてもいませんし、興味を引くものがあったのかどうかも記憶にありません。私が知りたかったのは、どのくらいの数のデザインが実際に生産に移され、誰がプロデュースし、そこからどのような収入を得ていたのか、売り上げはどのくらいだったのか、といった事柄でした。西ベルリンの「バウハウス・アーカイヴ」では、それはわかりかねる、といわれました。デッサウの「アーカイヴ」の人は、そういった情報は非常に少ないともいいました。このことが、ずっと私が気になっていたことのひとつであり、私が探し求めていたことです。東ドイツにおける生産と販売の研究は明らかに興味深いのですが、しかしながら、私には、入手が困難な事柄でした。

ワイマールはとても美しかったです。デッサウは、残念ながら問題があります。怖い、怖いところです、困ったものです、全く。しかし、ワイマールは本当に素敵です。ただ至る所に兵士がいました。

いま、私の博士課程の学生で、ドイツのグラフィック・デザインの教授法について研究をしている人がいます。そのなかで彼は、ハーバート・バイヤー(Herbert Bayer)やモホリ=ナージ(Moholy-Nagy)に関する作品を取り上げています。Moholy-Nagy の発音について、いまご質問があり、日本では「ナジ」や「ナギ」と呼ばれているそうですが、私は、「モホリ=ナージ」だと思います。一九五〇年から六〇年代にハンガリーの政治家がいたのですが、スペルが N・A・G・Y で、ラジオやテレビで「ナージ」と発音していました。イースターでハンガリーに行くので、どう発音するか、聞いてみます。

チェコスロヴァキアのプラハを訪れたこともあります。いまいいましたように、ハンガリーへはこの春に行きます。東のブロックされた国に行くと、ご存知のように、デザインや消費財や建築について知ることが非常に困難になります。なぜなら、明らかに大きな住宅事情があるからです。なぜなら、このような国々は資本主義国家でないからです。なぜなら、奥がよくわからないからです。ですので私は、非常に興味がありました。かなり異なった事情があるにちがいありません。ポーランドはおもしろいと思います。なぜなら、ポーランドにはデザイナーやインダストリアル・デザイナーがいるにはいますが、多くないからです。チェコスロヴァキアでは、陶器やガラス、ポスターのデザイナーたちに会いました。彼らは、インダストリアル・デザイナーではありません。ハンガリーについてはよくわかりません。しかし、われわれの西側諸国と全く異なる社会構造のなかで、デザイン学校がどのような成果を上げているのか非常に興味があります。とてもおもしろいと思います。彼らが成し遂げたものは何であるのかを見なければなりません。といいますのも、理論上、資本主義のシステムをもたないことが理想的だからです。もっとも、それなくして何ができるのか、あるいは、できないのか、私にはわかりません。しかし、その問題が、ウルム・デザイン学校を崩壊させてしまったのです。彼らの研究手法は、非資本主義を基盤とした生産モデルに基づくものでした。その学校を崩壊へ導いたのは、その地の政治・経済系の学校がそうであったように、イデオロギー的な緊張によるものでした。私がバウハウスの建物を訪れたのは、一九八五年になる前でしたが、それにしても、その建物は美しかった。実に本当に美しかったです。

バウハウスに関連してウルム・デザイン大学(Ulm School of Design / Ulm Hochschule)についてお尋ねですが、確かにこの学校は、バウハウスの影響を受けています。興味深いことに、バウハウスと同じ一四年間存続しました。一九五三年に設立され一九六八年に閉鎖されています。そこでの教授法は、バウハウスが活動を停止した時点から、さらに進化したものでした。今日のドイツのデザイン教育も、建築の文脈で行なわれているようです。実際、ドイツの大学を卒業したドイツ人留学生が本学に来ていますが、彼らは家具のデザインを専攻しています。彼らがいうには、ドイツでは家具デザインはできないらしいのです。なぜならそれは、異分野だからなのです。家具産業では徒弟制に入るのが通常です。しかし彼らは、それを望んでおらず、ある分野では、彼らの希望どおりにはならないということなのでしょう。しかし、私はデザイン教育の専門家ではありません。お聞きすると、ジョン・ヘスケット(John Heskett)に近いうちにお会いになるということですので、この質問への回答は、ジョンにまかせましょう。

バウハウスのこの国への影響についてお尋ねがありましたが、一九五〇年代や一九六〇年代は確かに多くの影響が見受けられました。なぜなら英国においては、また本学においても、バウハウスに関わった人びとが実際に教えていたからです。彼らが亡命して英国に来たことで、バウハウス関係者の女性が来たことで、本学では織物の部門ができましたし、他の美術系大学でも同様です。しかしながら、当時は影響力をもっていたものの……その後の美術系の学校が取り入れようとしているものをみると……システムを教えるのか、あるいは創造力や自由を指導するのか……したがっていまや、バウハウスの影響はほとんどありません。

三.王立美術大学文化史学科とデザイン史学の誕生について

ペニー・スパークと私がここにスタッフとしてやって来たのが一九八 ママ 年で、ちょうど学科の名称が「文化史学科(Cultural History Department)」になったばかりのときでした。それ以前は、「一般教養学科(General Studies Department)」という名称でジョン・コーンファッド(John Cornford)という人物によって運営されていました。文学、哲学、社会学、美術史と建築史のコースもありました。かっちりとした構造はなくて、とても緩やかなものでした。そして、魅力的ですばらしい人たちがいました。小説家、詩人、芸術家などです。

クリスタファー・フレイリング教授(Professor Christopher Frayling)が着任すると、文化史学科が設立され、指導要綱がまとめられ、学生は論文を書くように求められました。どこの大学も、学部レヴェルでは、デザイン史を扱っていたのですが、大学院大学においては、そういた履修コースはこれまでになく、フレイリング教授によってはじめて開始されました。そのとき彼は、二名のデザイン史家を任用しました。ペニーと私がここに来るに当たっては、このような背景がありました。

ペニーは、インダストリアル・デザイン専攻の学生に、そして私は、建築と家具を専攻する学生に、ときには織物専攻の学生に、デザイン史を講じています。一方で、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victora and Albert Museum=V&A)と王立美術大学が共同で運営するデザイン史の修士課程がありますので、ふたりは、そちらでの講義も担当します。つまり、前者は、よりよいデザイナーを養成するための教養科目としてのデザイン史で、後者は、将来研究者や学芸員などになるために必要とされるアカデミックな研究内容をもつデザイン史です。

V&A とのジョイント・コースについては、すでにペニーからお聞きになっていると思いますので、ここでは簡単に説明します。

学生たちは、三本の小論文を書きます。初年度の一学期に、この博物館が所蔵するオブジェクトを選び出し、一次資料に基づいて文脈に沿ってひとつの事例研究をします。二学期においては、材質と技術がいかにデザインに影響を与えるのか、特定期間の産業を取り上げ、その効果が変化してゆく過程を検証します。そして三学期に入り、概念的な理論に取り組みます。このようにして、学生たちは、三つのアプローチによる異なった方法論によって、自身が選んだテーマに取り組んでいます。私たちが当初から重きを置いているのは、社会的、経済的、技術的文脈からデザインを分析することなのです。

次に、デザイン史学のこの国での誕生の背景につきまして、お答えします。

デザイン史学の誕生は、一九六二年あるいは一九六三年だったかと思いますが、この国の美術系大学がディプロマを授与するようになったことに起因しています。それは、美術大学が学位(degree)提供のステータスをもつことを意味しました。ここでは、実技的な指導と同様に、学術的な指導も取り入れなければならないことが強調されました。学術的な指導とは、明らかに講義と論文を意味しました。そこで、美術史家がカレッジやポリテクニックで美術史を教えるようになり、高い学術レヴェルの指導を行なったのです。というのも、当時まだカレッジには五年ごとの査察が入っていて、美術史家が美術史のコースを審査することも含め、全ての履修コースが外部審査を受けなければならなかったからです。実に執拗なまでの行政的指導があったのです。

すると、実技を抱える学部では学生とスタッフのあいだで問題が生じました。自分が指導するインダストリアル・デザインの学生たちに、なぜ時間を割いてまで、美術史を履修させなければならないのか。インダストリアル・デザイン専攻の学生は学生として、自分たちに直接かかわりのないボッティチェルリ(Botticelli)の勉強をさせられるようなカリキュラムに強く反発しました。彼らにとって、もし美術史の単位を落としてしまえば、いかに優れたデザイン能力があっても、学位に手が届かない事態になるのです。こうして、デザインの実技に関わる人間とアカデミックな立場に立つスタッフとが、両極に分裂してしまったのです。

当時私は、ふたつの大学で教えていましたが、とても困難な時期でした。私の指導には試験はありませんでした。なぜなら、デザイン史は副教科とみなされていて、美術史ではなかったからです。しかし、次第に美術史の教員たちは妥協の姿勢を示し始め、デザインの歴史を教え始めたのでした。もっとも彼らは、自分自身でデザイン史を勉強しなければなりませんでした。グラフィックの歴史、ポスター、写真など、そして、インダストリアル・デザインも……妥協点は、学生に対してデザイン史をひとつの学問分野として講義する、ということでした。この国では、このようにしてデザイン史学が生み出されていったのです。

明らかにこのとき、二、三のポリテクニックがデザイン史のコースを設置しました。初期のデザイン史の履修コースは、美術・建築史の要素が強いものでした。しかし、それが、唯一の乗り切るための道だったのです。こうして、デザイン史のコースが、より独立性をもつようになり、いまやデザイン史の学士号を授与する大学は五大学になりました。そうした大学から、私たちの大学院大学にかなりの人数を送り込んでくるのです。確かに、デザイン史はアカデミックな学問へと成長してきました。しかしながら、それでもなお、私が合間合間に話しましたように、問題は幾つも残っているのです。

最後になってしまいましたが、お知り合いということですので、私の Bauhaus を翻訳していただきました利光功教授に、お帰りになりましたら、どうかよろしくお伝えください。そしてその前に、あなたとは、近いうちにブライトンのレイ・ワトキンスン(Ray Watkinson)の家で再びお目にかかることになると思います。楽しみにしています。

跋――その後のジリアン・ネイラーさん

以上において私は、ジリアン・ネイラーさんからお聞きした内容を、「これまでの学問的関心について」「バウハウス研究の経緯について」「王立美術大学文化史学科とデザイン史学の誕生について」の三つの主題に分節化し、要約的に構成しました。聞き間違いや訳し間違いがあれば、それはすべて、私の責任に帰されます。また、内容は、インタヴィューを行なった一九八八年一月一五日時点のものです。このこともあわせてご承知おきください。

私がインタヴィューをしたときのジリアン・ネイラーさんの肩書は、上級講師(Senior Tutor)でしたが、その後外来教授(Visiting Professor)となり、王立美術大学でのデザイン史についての教育と研究は続きます。次に挙げるものが、そのころの主な彼女の編著です。

William Morris by Himself: Designs and Writings, Macdonald & Co (publishers), London & Sydney, 1988.

Bloomsbury: The Artists, Authors and Designers by Themselves, Pyramid, 1990.

その後、王立美術大学を退職し、教え子や友人を訪ねて一九九八年に来日。神戸のわが家にも数日間滞在していただき、最終日には、六甲ケーブルを使って有馬温泉へ行き、一夜の日本旅情を楽しんでもらいました。私自身も、この間渡英するたびに、ホーヴの彼女の家に遊びにいったり、隣り町のブライトンのレイ・ワトキンスンやピーター・ホリデー(Peter Holliday)の家に集まったりしては、親交を深めていました。思い出は尽きません。

その彼女は、二〇一四年三月一四日、ホーヴにて、帰らぬ人となりました。八三年の生涯でした。

(二〇二四年六月)