中山修一著作集

著作集24 残思余考――隠者の風花余情(上)

第一部 山野に生きる(日記編)

第三編 二〇二六(令和八)年――これもよし、それもまたよし

一.最後の年賀状

謹んで新春の御祝詞を申し上げます

昨年は病気に見舞われた年でした。膀胱がんステージⅠの標準的治療とされる、二回のTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)と六回のBCG膀胱内注入治療が終わり、いよいよ一二月から、再発の有無を調べるための、尿道からファイバースコープ(内視鏡)を入れて直接膀胱内を見る、経過観察に入りました。これから約二年間、だいたい三箇月おきに、この観察が進められてゆきます。再発率は五割です。ステージⅠの五年生存率は七、八割といわれています。また秋には、激しい痛みを伴い脊柱管狭窄症が襲ってきました。現在、痛みを和らげる五種類の薬を服用しています。机に向かっての勉強や、買い物や通院時の車の運転など、座る姿勢のときには支障はありませんが、歩行の痛みは解消せず、いまだ杖をつく不自由な生活を強いられています。

そこで、年賀状による新年のご挨拶は、これをもちまして最後とさせていただきます。この間ちょうだいしましたご厚情に対し、みなさまお一人おひとりに、こころから感謝の言葉を申し添えます。ありがとうございました。

穏やかなお正月をお迎えのことと思います。 これよりのちのさらなるご多幸とご健康を、ここ火の国大阿蘇の山野から、衷心よりお祈りいたします。

二〇二六(令和八)年 元旦

二.がんにあらず、回復の兆しあり

予定どおり、一月五日に病院に行きました。病理検査の結果は、「がん細胞の所見なし」というものでした。主治医の先生と握手をして喜び合いました。

しかし、年末の三回目の手術の少し前から、下腹部に痛みを覚えていました。例えるならば、小さなラグビーボールのような形をした鉛のような異物が、ずっしりと下腹部に陣取っている感じです。椅子に座っているときは、あまり感じませんが、ひとたび立ち上がり、歩こうものなら、その異物から四方八方に痛みが走り、伝い歩きをして部屋を移動するのがやっとという具合でした。

この日、下腹部の痛みについて相談しました。主治医の判断では、これは脊柱管狭窄症から来る痛みではなく、膀胱痛ではないかということで、抗生物質を処方してもらいました。この間の経過を報告するために二週間後にまた病院に行きます。抗生物質の服用によって、それまでに完全に下腹部の痛みが和らぐといいのですが。

そうした思いのなか、予約を入れていた二週間後の一月一九日に病院に行きました。まだ痛みが残っていましたし、この日のエコー検査でも、膀胱に炎症のような形跡が認められました。そこで、さらに二週間後に、念のためにMRI検査で確認するということになり、その日の予約を入れて帰宅しました。

帰宅後から、主治医の勧めがあって鎮痛薬の服用を再開しました。この薬は、脊柱管狭窄症を緩和するためにかかりつけの整形外科によって処方されていたものですが、下腹部の痛みが脊柱管狭窄症に由来するものではないとの判断から、自主的に服用を中断していた鎮痛剤です。すると、一週間を待たずして、痛みが次第に和らぎ、室内は杖なしでも移動が可能になってきました。また、街に下りて買い物をしたり、休暇村の日帰り温泉を楽しんだりすることもどうにか可能になりました。本当にありがたいことです。

しかし、尿漏れは落ち着いてきたものの、頻尿はほとんど改善されず、夜間でも、一時間前後で尿意が訪れる状況です。これでは安定した睡眠が約束されず、生活の質を損ないます。何とか、二月二日の次の通院日までには、こうした症状が完全に解消し、MRI検査でも、何ら問題が確認できないまでに改善できることを強く望んでいます。そうなれば、この強度の膀胱炎から解放され、三箇月に一度の、内視鏡を入れてのがん再発の有無を調べる経過観察へと再びもどることになります。早くそうなって、かつての生活と勉強を取り戻したいというのが、いまの願いです。

もっとも、この間の長い痛みのせいで、作業能力や判断能力のようなものが低下しているように思います。また、虚脱感や疲労感も感じています。勉強にしても生活にしても、あまり先を急がないで、少しこの時期、体を休めるのもいいかな、とも思っています。(一月)

三.今年も雪が

今年も雪が降り、家に閉じ込められることになりました。

健康なときは、四方を雪で覆われそうな予報を聞くと、あらかじめ事前に、家から一キロくらい牧野道を下ったガードの下に車を置き、その坂道を徒歩で上り下りしながら、車を使って街に出たものですが、数年前に膝を骨折して手術をして以来、雪道が肉体的にも精神的にも受け入れることが困難になり、完全に雪が融けきるまで、家で過ごすようになりました。今年はそれに脊柱管狭窄症の痛みや膀胱痛が加わり、歩くこと自体が不自由になり、当然ながら、家での雪消待ちとなりました。

家のなかは、エアコンの暖房とガスファンヒーターのおかげで、寒さ知らずの快適さです。ウッドデッキや庭の木々を眺めては、覆われた白銀の雪景色を楽しみます。積もっていた雪も二日目ころには徐々に消え始めましたが、坂道は凍結している恐れもあり、念のために、もう二日間家で過ごし、やっと五日目に街に下りてみました。街は雪の形跡はほとんどなく、スーパーも銀行も郵便局も、人びとの普段の生活で暖かい活気に満ちていました。家に帰って周囲を眺めると、まだ雪があちこちで積もっています。いまだここは厳冬進行中なのです。街と山の違いがここにもくっきりと現われているのを実感します。

もうすぐ二月です。この月に入ると、庭に積もった残雪をかき分けるようにして、例年、黄色い福寿草が顔をのぞかせます。(一月)

四.春めく、例年より早く

二度目の積雪に見舞われました。しかし今回は、雪の量も少なく、外出せずに様子を見ながら家で過ごしたのは、わずか二日間ですみました。少し拍子抜けの感じでした。

雨が降ってきました。残雪や根雪を融かします。道路も庭もウッドデッキも、地肌が見えてきました。暖かい空気が流れます。一週間の気温の予報を見ると、今日からの最低気温は、氷点下を脱しています。この数字に接するだけでも、こころが軽くなります。春めいてきた感じです。例年より早いです。今後寒の戻りがあるのでしょうか。それとも一気に春になるのでしょうか。

勉強から少し遠ざかっていました。その間、いつ再開できるのか、たとえ再開できても、いままでどおりに文が書けるのか、内心不安が渦巻いていました。しかし、徐々に痛みも緩和してきました。短い距離であれば、歩行もできるようになりました。積もった雪の融解に似て、不安も溶け出し、少しずつ書きたい文が私の指先に伝わり、パソコンのキーをたたいています。ああ、まだ書けるんだ――喜びが込み上げてきました。(二月)

五.回復の兆しが見えてくる

昨日、病院に行ってきました。

この間病理検査に出していた尿の結果は、がん細胞も、炎症の原因となっていると考えられる細菌も、見出せなかったというものでした。また、先週金曜日に撮影した全脊椎のMRIも、骨への転移は、認められなかったという結果でした。

心配していた事態は、これでひとまず回避できました。しかし、主治医の判断で、念には念を入れて、もう一度、二週間後の三月二日に膀胱と恥骨周辺のMRIを撮りたいということでした。もしこの段階で問題がなければ、やっと、三箇月おきに膀胱内に内視鏡を入れて再発の有無を確認する経過観察にもどることになります。

主治医にとって、理解できなかったことは、なぜあのような強い痛みが出たのかということでした。しかし、がん細胞が尿に混じっていないことは、現在、膀胱にがんはなく、痛みが緩和したということは、骨への転移による症状ではなかったことを意味します。転移していれば、痛みは続きます。先生の判断は、六回のBCG注入の副作用による炎症反応と思われるというものでしたが、これだけの痛みは、極めてめずらしい症状ということでした。

振り返れば、二回の切除手術後の、六回に及ぶBCG注入による治療が終わり、一回目の経過観察を受けたのが昨年の一二月一日でした。その結果を受けて、一九日に三回目の切除手術に臨みました。しかし、そのころから、脊柱管狭窄症に由来すると思われる足の痛みは緩和したものの、下腹部の痛みが現われ、歩くこともできないほどで、これまでの生活が一変しました。加えて頻尿も尿漏れもあり、先の見えない状況に立ち入りました。年が明けた五日の診察での主治医の説明では、年末の手術によって切除した部位からはがん細胞は確認できなかったというもので、ほっとしたものの、痛みは、いっこうに治まる気配はなく、その後、腹部エコー検査、尿検査、MRI検査が繰り返し続き、今日に至りました。

現在、痛みはまったくなく、杖も必要としないようになっています。買い物も調理も、ウォーキングも温泉も、そして勉強も、ほぼ従来どおり行なっています。ただ、頻尿と尿漏れがまだ続いていますが、膀胱の活動がもとどおりになれば、それも回復するのではないかというのが主治医の所見です。

最終的には三月二日の判断まで待たなければなりませんが、私の気持ちとしては、完全に回復したものと思っています。(二月)

六.住宅型有料老人ホームを見学する

私が住む町の地域包括支援センターの職員の方の案内で、隣り村にある住宅型有料老人ホームの見学に行きました。ここは、かつて温泉ホテルだったということで、二階建ての外観は、高原の山小屋を彷彿させるオレンジ色を基調とする瀟洒なたたずまいを見せていました。一歩中に入ると、暖炉をもったロビーがあり、イスやテーブルがほどよく配置され、入居者同士の歓談の場になっていました。隣りの空間は食堂で、大小のテーブルとイスが、思い思いに並べられ、カウンター奥の壁面のボードには、色とりどりのカップやお皿が飾られていました。また、一角の畳敷きのコーナーには、いまの季節にふさわしく、雛飾りがしつらえてありました。

ロビーと食堂の南東の面は、すべてガラスの壁と扉で外界と仕切られ、そこから、天空に昇ってゆく午前の朝日が、差し込んでいました。外界は広々とした芝生で、足湯を楽しむ露天の湯場や、家庭菜園用のビニールハウスも見て取れました。

対応していただいた職員の方の説明によりますと、いま、女性八名、男性五名が入居しており、その多くは、こうした、他の施設にはみられない、取り巻く自然環境の豊かさや、潤沢な内部空間の良質性が、入居の決め手になっているとのことでした。また、浴室の湯が、天然温泉水であったり、外来者のためのゲストルームが備わっていたりすることも、魅力になっているとの説明でした。実際、入居者のなかには、東京や福岡などの都会から移住して老後の時間を楽しむ方もいらっしゃるようで、自然の安らぎや地方の暖かさが、世代を超えて人のこころをとらえていることが、ここでも見てわかりました。

最近立て続けに居住者が亡くなられて、現在空室になっている四室と、共同浴室、それにゲストルームを見学させてもらいました。居室はいずれも広く、共同浴室も、障害の度合いによって対応できる、ふたつの浴槽で構成されていました。

料金のことや生活の実態などについて、詳しくお聞きしたかったのですが、その日は、理事長も施設長も所用があって不在とのことで、後日の電話での問い合わせか、再度の訪問に譲ることになりました。

この老人ホームは、私の家から車で一〇分くらいのところにあり、ときどき前の道を通って、見知っていたのですが、内部に入るのは今回がはじめてでした。ゲストルームでの体験宿泊や食堂での食事体験も可能とのことで、ぜひ近いうちに遊びにきてほしいというお言葉に送られて、この日は玄関をあとにしました。(二月)

七.老後指南の本数々

老後をどう過ごすか、それを指南する本が、あふれているような気がします。内容は、大まかにいえば、定年後の仕事のこと、食事や栄養管理のこと、健康や医療のこと、老後資金や資産の遺し方に関するもの、葬儀や墓のいまの事情に関するもの、といったところでしょうか。

こうした内容をもつ案内書が多く出回るということは、それに関心をもつ読者が多くいることを表わします。ひと昔前は、青春をいかに生きるべきか、恋愛とはいかなるものか、自己実現とは何をいうのか、といった若者向けの案内書が多く世に出ていたように思います。そのことからしても、やはり今日に至るまで、老人人口が増え続ける一方で、若者の数が激減していることがわかります。

個人の生活が重視され一世帯家族が一般化する前の多世帯家族にあっては、老人の生き方についての話題は、これほどまでににぎわいを見せていなかったように思われます。老人には配偶者がいて、その夫婦には子どもがあり、孫も含めて三世帯がひとつの家族として同居していたことを考えれば、老人問題は、家族全員で引き受けていたのでしょう。ところが、老人の生き方問題は、老人その人がひとりで抱え込む時代へといまや入ってきたのです。どうやらそれが、老後人生の指南書の洪水を引き起こす要因となっているようです。

老後人生真っ只中を生きる私も、ついつい、周りの人はどう生きているのかとか、老後について人がどういう本を書いているのかとか、そういったことに、全く関心がないわけではありません。その一方で、若いときから、自分の人生くらい、人の意見に惑わされずに自分で決めろ、といった具合に歩いてきたこともあり、ついつい自己肯定的で自己満足的な流れに沿って身を処す傾向にあるようです。これを人は終極の自由というのでしょうか。それとも、極点の身勝手というのでしょうか。そう書いて、ひとりで笑い転げる、ひとり上手な自分がいるのでした。(三月)

八.タイヤ交換

この時期になると、行きつけの整備工場でタイヤ交換をします。地下の倉庫に保管していた四本の夏タイヤを取り出して、車に乗せて持参するのです。オフィスで、出されたコーヒーを飲んでいると、三〇分くらいで交換は完了します。

タイヤ交換のときに、いつも思い出すことがひとつあります。かつて神戸大学に勤務していたころ、デザイン・コンサルタントとして、あるタイヤメーカーに月に一回出向いていたことがあり、そのときのことが懐かしく頭をよぎるのです。

車のタイヤにデザインが必要なのか、それを聞くと人はみな驚きます。確かにタイヤは機能部品として、操縦安定性やノイズなどの観点から、多くは機能の面から決定されます。そうはいっても、タイヤのトレッド・パタンは、無限の可能性を秘めているのです。そこで、いかなるパタンにするか、そのデザインは、タイヤをつくるうえでの重要な視覚上の要素となって力を発揮するのです。

実際上、タイヤのトレッド・パタンは、溝に着目すれば、それが直線的であるか、曲線的であるかによってその違いが生まれます。また、接地面に着目すれば、それが粗の状態で構成されているか、蜜の状態で構成されているかでパタンの印象は大きく変わります。そこでデザイナーに要求されることは、対象となる乗用車の性格に応じたパタンを生み出すことであり、その際、「粗密直曲」の組み合わせの様子が、重要な要素となるのです。つまり、タイヤのトレッド・パタンは、感性と機能の複合模様として成立しているのです。

そのようなことを思い出しながらの今回のタイヤ交換でした。(三月)

九.確定申告と新年度予算編成

私は、毎年確定申告をしています。いつもですと、その時期になると、それに関連する書類が税務署から送られてくるのですが、今年は待っても待っても届かず、役場に行ってその書類を入手しました。役場の職員の方の話によると、申告を、紙からウェブに切り替えたいという意向が、そこにはあるとのことでした。私個人は、この申告書類に関しては紙派に属します。といいますのも、指示書に記載されている内容に従って自分自身で電卓を使って計算することに、私は、頭の体操と収支の実態把握というふたつの意義を見出しているからです。そうした意義もさることながら、今年も申告したおかげで、つい先日、数千円ではありますが、還付金が指定口座に振り込まれました。

この時期、ひとり暮らしながら私も、本年度の決算と新年度の予算編成をします。エクセルで作成します。横に支出の費目を並べていき、縦に一月から一二月を並べます。各月、「予算」「実績」「バランス」の三項目で構成されます。右端が、月ごとの総計が、最下段に費目ごとの総計が表示されます。たとえば、本年度(二〇二五年度)のガス(プロパンガス)の年間支出は、予算が七万三千円、実績が八万四千円、したがいまして、バランスとしては、一万一千円の赤字になりました。そこで、新年度(二〇二六年度)の予算編成に際しては、本年度の実績を踏まえて、ガスの費目には八万四千円の予算を計上することになりました。

私が最も重要な指針としているのは、収入である年金の範囲内で予算を組み、それに基づいて実際の生活を営んでゆくことです。といいますのも、年金収入を超えて、老後資金を切り崩すようなかたちで生活をしてしまいますと、いつかは老後資金が枯渇し、最晩年に必要とされる医療費や介護費、さらには施設入居費にも困るようになり、間違いなく老後破綻に見舞われることになるからです。

しかし、最近の物価高は年金生活を圧迫します。わずかに残してある老後資金にも手をつけたくありません。大変困難な時代に入ってきたと、実感しています。(三月)

一〇.熊本地震から一〇年

一〇年前に大きな地震が熊本地方を襲いました。それから一箇月後、今度は私の体を心筋梗塞が襲いました。二〇一六(平成二八)年という年は、私の脳裏から消え去ることはありません。

振り返ってみますと、神戸で生活していたとき、一九九五(平成七)年に阪神淡路大震災で被災し、その後、今度は二〇一二(平成二四)年に前立腺がんに罹患し、全摘出の手術を受けました。そしていま、私は、昨年来膀胱がんの切除手術を三回受け、まさしくその身は闘病中にあります。

昨年の夏のはじめ、治療に入った最初のころ、主治医の先生から職業を聞かれたときのことです。私は、定年退職以降、阿蘇の森のなかに引きこもり、毎日机に向かって執筆し、その成果を「中山修一著作集」として公開していることを告げました。その後先生も、そのウェブサイトを訪問されたらしく、私が、「全巻完成までには、まだ九年くらいを要するのですが、大丈夫でしょうか」と聞くと、「なるべく急いでください」という返事でした。どうやら、私のいのちは、その長期保証はないようです。

先日も、主治医の先生に、「何か自分で心がけることで、がんの再発が防げるようでしたら、それを教えてほしいのですが」と尋ねたところ、にべもなく「それはありません」との言葉が返ってきました。がんの再発は、運動や食事といった自分の意志や努力では、どうにもコントロールできないようです。

こうしたわずかな会話から、私は、残り少なくなった生存の可能性を前提に、日々生活するようになりました。自然災害も、心身の老化も、避けがたく甘んじて受け入れなければならないのが現実であることを、いまに至って少し自覚するようになったようです。(四月)

一一.春の「変化」

冬から春への変化の季節を迎えました。一般的には、胸躍る好季節の到来です。しかし私は、この数年来、季節の変化ではなく、春そのものの実質の変化を感じています。その事例を挙げてみます。

この時期のこの数年、雨の日が多く、開花したばかりの庭の桜が雨に打たれ、早々と散ってしまいます。断続的な長雨に、楽しみのお花見が奪われた格好です。

庭から鳥の声が消えて久しくなります。あれほど大声で鳴いていたのに、あのときの鳥たちはどこへ行ってしまったのでしょうか。

玄関横のシャクナゲは、いつも大型連休のときに満開を迎え、周りを明るく照らし出していました。しかし最近は、桜が散るとすぐにも開花します。季節が前倒しされているようです。

ただ、変わらないものもあります。それは新緑です。いまは、それを楽しんでいます。秋が深まると、それが一面紅葉し、落葉となって地を覆います。この営みは、まだ変わらず、生命の輪廻を感じさせてくれます。ありがたく思います。(四月)

一二.暖房の季節の終わり

私の書斎の暖房は、エアコン、電気ヒーター、それに電気カーペットです。寒さの一番厳しい一時期は、この三つの暖房器具が活躍します。しかし、暖かくなるにつけ、三つがふたつに、ふたつがひとつに、そして最後のひとつと別れるのが、毎年だいたい四月の中頃です。やっと寒さから解放されるときで、身も心も、本当にその軽さを感じることになります。

ここは山のなかですので、平野部の熊本市内と比べれば、およそ四度近く気温が低く、夏場の冷房は、まず必要としません。三〇度を超えることは、ほとんどないからです。

しかし夏が終わると、次第に、朝夕の空気が冷たくなるのを感じるようになります。再び暖房の登場です。私の生活は、暖房を要する人工の季節の六箇月と、自然の風雨と日月に身をゆだねる六箇月とによって成り立っています。

さあ、これから自然のままの半年がはじまります。しかし、自然は多くの恩恵をもたらしますが、それと同時に脅威も運んできます。先日も夜に突然停電に見舞われました。電力会社に電話しても、つながりません。回線の許容量を超える集中的な問い合わせが想像されました。そこで、これも自然の一部と思い就寝し、夜中に目が覚めたところで照明のスイッチを入れると、あかあかとした恵みの明かりが目に飛び込んできました。「待てば海路の日和あり」というのが、自然を友とする生き方の鉄則のようです。次は何が起こるか、半ばそれを楽しむように、いまこの山暮らしをしています。(四月)

一三.憲法回帰

私は、憲法記念日は、年に一度、憲法の精神に回帰する日として理解しています。いうまでもなく、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、これが、日本国憲法の三大原則です。私は、この精神が、主権者たるわれわれ国民一人ひとりにとっての行動の規範として、日々有効に作動することを願っています。

私は、日本国憲法の前文は、人類普遍の理想を語っていると承知します。とりわけ、次の語句が、それを象徴します。「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

しかしながら、いま世界の置かれている状況を見れば、軍事力を背景に他国の領土に侵攻する国が存在し、そしてまた、同じく軍事力にものをいわせて他国の指導者を殺害する国が存在します。

では、わが国は、どうでしょうか。殺傷能力をもった武器を製造し、それを他国へ輸出することを実行しようとしています。いまやこの国は、人を殺す行為を公然と容認し、その手助けをしようとしているのです。

私の目からすれば、この行為は、明らかに日本国憲法の精神に反します。なぜ、崇高な理想を捨て去ってまで、醜い金儲けに走らなければならないのでしょうか。私は、輸出すべきは、戦争に使う武器ではなく、日本国憲法の前文がうたう平和主義の精神ではないかと信じます。これこそが、世界に勃発している争いを終結させ、平和を維持するうえでのまさしく実際的な力となるにちがいありません。核兵器を含む武力の増大は抑止力にも平和の維持にも決してつながらず、そうではなくて、粘り強い理想の説得をもってして、はじめて国際社会は安定を確保するものと、私は思います。同時にこのことが、日本国民の世界に果たす真の役割であると考えているのです。

おそらく世界の人びとの多くは、戦争を通してではなく、平和のうちに生きる活路を希求しているにちがいありません。しかし、わが国の為政者は、それに耳を傾ける余裕をもちません。なぜ、世界の内なる声に向けて、誠実をもって日本国憲法の精神を日々訴え、共有しようとしないのでしょうか。

近年私は、こうした武力と恐喝とが横行する国際社会にも、憲法が定める平和の精神を喪失したこの国の社会にも、なじみ切れずにいます。明らかに、居場所を失った適応障害者のひとりとなっているのです。(五月)

一四.頭痛解消

二箇月くらい前から、血圧が高くなり、乱高下がみられるようになりました。それと同時に、頭の左側面から首筋にかけて鈍痛を感じるようになりました。私は、高血圧と乱高下が原因となって頭痛が発症したものと思い、かかりつけの医師に相談してみました。ところが、その医師の判断は、そうではなくて、頭痛が原因となって血圧に乱れが生じている可能性があり、頭痛の原因が何であるか、それを明らかにする必要があるというものでした。そこで、少しは離れた町にある中核病院の脳神経内科へ紹介状を書いてもらうことになりました。

数日後、私は、紹介状をもってその病院に行きました。対応された医師は、私の血圧手帳を見ながら、昨日とった三食の献立を聞き、それに答えると、今度は、適切な一日の塩分の量を知っているかを尋ねられました。それに対して、はっきりと六グラムであることを答えました。おそらく、生活習慣の改善にどう私が取り組んでいるかを確認するための質問だったのではないかと思われます。あるいは、認知症の進度を調べるための質問だったのかもしれません。私は、一〇年前に心筋梗塞を患って以降、食事と運動に注意を払い、台所にはいっさい塩は置いていないことも告げました。

問診が終わると、次に医師は、立ち上がって、手を移動しながら目の動きを確認し、さらに頭や首筋に手を当てて痛みの場所を確認されました。こうして、一連の触診が終わりました。そこで私が、脳出血や脳梗塞の前兆のようなことを心配している旨を訴えると、その可能性はほぼないと思われるが、念のためにMRIを撮りたいとの返事が返ってきました。

MRIの撮影後、再び診察がありました。画像を指さしながら、全く脳の血管に異常は認められず、加えて、この画像から認知症を疑う余地もいっさいないという、説明がありました。それでは、「頭痛の原因は」と尋ねると、「単なる肩こりでしょう」というものでした。

何か脳に異常があって頭痛が発症しているものと思っていた私にとって、この診断結果は、喜ばしいものではありましたが、拍子抜けするものでした。この日は、肩こりを緩和する二種類の薬を二週間分処方してもらうとともに、紹介してもらったかかりつけ医への返信をいただいて、帰路につきました。(五月)

一五.健康再建

病院から帰ると、私は、肩こりの原因について、思いを巡らせました。

昨年は、夏前に膀胱にがんが発症し、二度の切除手術を行ない、その後に、六回にわたって、残っているがん細胞を撲滅するためにBCG溶液を膀胱内に注入しました。この一連の標準的治療が終わると、それに続けて、三箇月ごとに内視鏡を入れて再発の有無を確認する経過観察に入りました。

経過観察の一回目で、がんらしき異形物が見つかり、年末に、切除手術に臨みました。病理検査の結果、この異形物は、がん細胞でないことが判明しました。そのことは喜ばしいことだったのですが、その前後から、膀胱の箇所に激しい痛みが現われました。しばらく原因がわからず、尿検査やエコー検査、MRIの検査などを繰り返した結果、どうやらBCGの副作用による炎症から来る痛みではないかという結論に達しました。しかし、その間の数箇月は、歩くことさえままならない過酷な生活の連続でした。

一方、昨年秋に、急に臀部から下肢にかけて激痛が走りました。レントゲン検査の結果、脊柱管狭窄症による痛みであることがわかりました。この激痛もおよそ半年間続き、膀胱の痛みと重なったお正月の時期は、トイレへの移動も、杖をつき、壁をつたって歩くあり様で、まさしく苦界の苦行といった感じでした。脊柱管狭窄症と膀胱炎に由来するふたつの痛みから解放されたのは、少し暖かくなった、二月の終わりか三月のはじめのころでした。

しかし、そのころから、血圧の乱高下がはじまり、圧迫されるような左側面から首筋にかけての鈍痛が現われてきたのです。そしていま、病院でのMRIの検査の結果、その原因が肩こりにあることが判明したのでした。

思うに、その肩こりは、その間の生活にあったようです。脊柱管狭窄症と膀胱炎の痛みのため、この半年間、戸外のウォーキングはいうまでもなく、室内さえもろくに移動ができず、体も丸まったままで、伸ばすことさえ考えつかない状態で過ごしていました。どうやら、こうした暮らしが、肩こりを招いたにちがいありません。

いまストレッチやラジオ体操をすると、体の至る箇所で悲鳴にも似たガチャガチャという音が聞こえ、痛みを伴いながら骨や筋肉がバラバラになって崩れ落ちてゆくのを体感します。その直接の原因は、明らかに、この半年間の激痛に起因する硬直した体にあったことに求められますが、実はそれだけではなく、間接的には、この一〇年間、休むことなく毎日五時間続いているパソコンに向かっての勉強の、その姿勢の悪さにもあったのではないかと、思うようになりました。

この間、食事と運動には気をつけてきましたが、骨の歪みや筋肉の柔軟性の喪失には、全く配慮が足りていなかったことに、いまここに来て、思い当たったのです。では、これから、何をしなければならないのか、健康再建にかかわる日々の処方が、一気に見えてきました。(五月)

一六.がんの疑いが晴れる

前回の検診から二箇月が立ち、予約された日に病院に行きました。結果は、MRIにも腹部エコーにも、とくに大きな異変は認められず、内視鏡で直接膀胱内を観察された主治医の先生によると、とてもきれいになっていて、がんか炎症か前回判断がつかなかった箇所も、ほとんどその形跡がなくなっているというものでした。

そこで、これより通常の経過観察にもどります。次回は、三箇月後の九月に受診することになりました。このとき、再び内視鏡を入れて、再発の有無を観察します。今後三箇月ごとの経過観察で再発が認められないまま、少なくとも二年が過ぎれば、事実上の根治となるようです。いままでどおり、食事、運動、睡眠などの生活習慣をしっかり律してゆけば、そこへ到達するのではないかと思っています。

しかし、主治医の説明によれば、再発率は五割です。したがって、これからの二年のあいだで、いつ再発が見つかってもおかしくありません。見つかれば、再び手術によって切除しなければなりません。それが繰り返されれば、ステージ数も上がり、一歩一歩、最終地点に近づくことになります。それを考えると、「そのときは、そのとき」と、開き直って生きてゆくしかありません。その境地を維持できれば、この「綱渡り」も、ハラハラドキドキのドラマを見るように、少し客観的に他人事として、楽しむことができるかもしれません。(六月)

一七.「野の花コンサート~はなしのぶ~」を楽しむ

今年も、「野の花コンサート~はなしのぶ~」の開催の日が巡ってきました。今回で九回を迎えます。演奏会場は、近くにある屋根付きのステージで、観客は、思い思いに芝生の上にシートを敷いて座ったり、持参の椅子にかけたりして楽しみました。出演者は、隣り村の中学校のブラスバンド部や、熊本市内にある中高校のギターマンドリン部でした。常連だった地元の中学や高校のブラスバンド部の演奏が聴けなかったのは、残念でした。部員数も減って、部活動に支障をきたしているのでしょうか。

「野の花コンサート~はなしのぶ~」は、それまでは、「はなしのぶコンサート」の名で親しまれていました。近くの野草園での野外コンサートでした。その歴史は長く、その発端は、天皇家とつながっているようです。一九八五(昭和六〇)年に、この野草園への昭和天皇の巡幸があり、それを示す記念碑が残っています。一方、美智子皇后殿下が「はなしのぶ」を主題に歌をお詠みになったことを受けて、この野草園の一角に、その歌碑が建立されています。こうした、天皇家との交流を背景に、記念碑や歌碑のある、かつては「はなしのぶ」が咲いていたであろう野草園で「はなしのぶコンサート」がはじまりました。しかし、いつしか途絶え、近年再興を果たすと、名称は「みなみ阿蘇 野の花コンサート~はなしのぶ~」に変わり、会場も、野草園から、近くの屋根をもつステージへと移りました。

演奏を聴きながら私は、石牟礼道子さんのことを思い出していました。といいますのも、「今日こそは死にたい」と思って山歩きをしていたとき、見知らぬ野草に出くわし、それをもって自宅に帰り、観察していると、青い可憐な花を咲かせ、図鑑で調べてみると、「はなしのぶ」であることがわかったという文を、かつて読んでいたからです。「はなしのぶ」は、この阿蘇地区一帯にしか自生していませんので、道子さんが「はなしのぶ」を見つけたのは、この野草園だったかもしれません。道子さんのいのちを救ったのが、「はなしのぶ」の花でした。いまやこの野草は、絶滅危惧種となっています。

また、生前、道子さんは、美智子さまと親交があり、来熊されたおり、ぜひ胎児性水俣病の患者に声をかけてほしいと懇請され、それが実現したことも、ある文から読み知っていました。

「はなしのぶ」が取り持つ不思議な縁というものを頭に浮かべながら聴いていると、何とか耐えていた黒い雲も、ついに耐え切れず雨粒を落とし始めました。傘を忘れた私は、残念ながら、途中退席と相成りました。(六月)

一八.娘と人吉の旅へ出る

娘が神戸から来たので、人吉への一泊の旅に出かけました。私にとって人吉は、はじめて訪問する土地です。しかしながら、この地には、深い思いがありました。

旅館のロビーの一角の壁面に六年前の大水害の様子を示す写真があり、あわせて、女将さんからの復興支援に対する感謝のメッセージを読むことができました。夕食の時間、レストランに行くと、女性スタッフの列のなかに、ロビーの写真で見た、あの女将さんの姿がありました。さっそく私から「女将さんですね」と声をかけ、被災時のご苦労に思いを馳せ、ご挨拶をしました。食事が進行してゆくと、今度は、女将さんが挨拶に来られました。小さいころ、両親が、「人吉に行くなら、泊りは鍋屋旅館ばい」とよくいっていたことを話すと、とても感激してくださいました。もう七〇年以上も前の話になりますが、やっとこうして、頭の片隅に残る親の言葉が実行できたことを、私自身、熱く思い出し、続けて、林大九郎先生のことも、話題に出しました。

私が一浪して、一九六八(昭和四三)年の春に入学した大学は、東京教育大学農学部林学科木材工学専攻(定員一五名)という、いまはなき駒場にある大学でした。木材加工学講座と林産化学講座のふたつの講座で構成され、前者の講座の教授をなされていたのが、林大九郎先生でした。林先生は、名前のとおり、大正九年のお生まれで、人吉湯前の造り酒屋のご出身でした。私は、林先生のご指導のもと、スギ材の含水率と横せん断強度にかかわる研究で卒論を書き、卒業に際してはご自宅に招いていただき、卒業後も、先生が大阪にいらっしゃるときは、卒業生が集まり、酒を酌み交わし、近況を語り合う宴席が、お亡くなりになるまで続きました。同郷ということもあって、林先生にはひときわかわいがっていただいた記憶が強く残っています。

食事をしながら、どうしても林先生のご実家のことが気になり、スマホを片手に調べていると、「林酒造場」が目に留まり、ここがご実家であるかどうかの確証はありませんでしたが、中座して、電話をしてみました。電話をかけた事情をお話しすると、とても喜んでくださり、電話に出られたそのお身内の方と、ついつい長話になりました。

席にもどって、そのことを話すと、女将さんもとても熱心に耳を傾けられ、現在の「林酒造場」の当主のお写真を見せてくださいました。鍋屋旅館同様に「林酒造場」も、相良藩の藩政に由来する、およそ二〇〇年の伝統をもつ酒蔵でした。

こうして私の気持ちも高揚し、次に女将さんに持ち出した話題は、橋本憲三さんのことでした。憲三さんは、日本における女性史学の創始者である妻の高群逸枝さんのために食事をつくり、原稿を整理しては逸枝さんを支えた明治男で、ここ人吉の生まれであることを話すと、これまた女将さんは感動され、帳場に帰られ、両人について調べられたらしく、再びもどってこられると、話はさらに再び盛り上がってゆきました。

おいしい料理と、とっておきの話題、至福の夕べでした。翌朝は、受付でのチェックアウトにあわせて、女将さんが挨拶に来られ、玄関先まで一緒に会話を重ね、そこで最後のお見送りをしてくださいました。(六月)

一九.「中山修一著作集」の最終編として四巻を追加

このたび、ウェブサイトで公開しています「中山修一著作集」に、著作集27『余滴を集めて――高群逸枝研究』、著作集28『余滴を集めて――橋本憲三研究』、著作集29『余滴を集めて――石牟礼道子研究』、著作集30『余滴を集めて――伝記書法研究』の四巻を新たに加えました。いずれも、膀胱がんと脊柱管狭窄症との長引く苦しみのなかで書いたものです。

これまで、病闘にあって私は、全巻の完結を待たず、途中で筆が途切れてもやむなしという消極的な気持ちにありました。がしかし、今回の更新を受けて全三〇巻になったいま、健康を取り戻したこともあり、執筆継続中や未着手の状態にあるすべての巻を何とか書き上げ、全巻完結したいという強い思いに変わりました。そのためには、少なくともあと八年と六箇月、ゴールへ向かって走り続けなければなりません。

そのとき私は、八六歳になっています。(七月)

二〇.休暇村南阿蘇の日帰り温泉再開

私は基本的に週に三回、月、水、金に街に出ます。その日の要件によって異なりますが、家を出るのは、だいたい九時前後です。要件の主な内容は、ゴミ集積場へのゴミの搬入、町役場での回覧文書の受け取りと温泉入浴券の購入、銀行での記帳や出金、郵便局での振り込みや切手の購入、スーパーでの買い物、コインランドリーでの洗濯物の乾燥、かかりつけの病院での定期的な受診、処方された薬の薬局での受け取り、ガソリンスタンドでの給油などです。これらのうちその日必要とされる要件をすませたあと、毎回、一〇時三〇分を目標に野草園に行くようにしています。三〇分間、園内をウォーキング。それが終わると、隣接している休暇村南阿蘇のロビーで新聞の閲覧。その後、一一時三〇分に開く日帰り温泉を楽しむことになります。おおよそこれが、週三回の日課となっていました。

ところが、レジオネラ属菌が検出されたということで、温泉が閉鎖されました。その間、やむを得ず、自宅でシャワーを浴びて過ごしました。ときどき電話をして、再開されたか問い合わせをしますが、なかなか期待どおりの返事はもらえません。それでも、二週間くらい立ったときに、やっと朗報に接することができました。

この日帰り温泉は、町の補助により高齢者の町民は一回の入浴につき三〇〇円です。開場時間にあわせてこの日帰り温泉の一番風呂を楽しむのは、ほとんどの場合、私ひとりです。まさに貸し切り湯なのです。露天風呂を含む三つある湯舟のどこからも、阿蘇五岳のひとつである根子岳の、その雄姿を眺めることかできます。そのようなわけで、再開できたことは、私にとって大きな喜びとなりました。(七月)

二一.学生時代のヨット部同期が拙宅来訪

私は学生時代、ヨット部に所属していました。平常は、艇庫がある千葉県館山の大学施設の寮で合宿生活をします。春と秋のレースのある時期は、神奈川県の葉山に艇を移動し、民家を借り上げて合宿します。年間を通して、一〇〇日を超える別次元の生活でした。

私の同期は、私を含めて六名でした。そのひとりは、昨年亡くなりました。体調がかなわず、お葬式に参列できないという、つらい思いを味わいました。加えて、昨年末は、膀胱がん治療の副作用による痛みに苦しめられ、同時に、発症した脊柱管狭窄症の痛みにも、耐えなければならず、とうとう年賀状には、今回を最後とすることを公言する始末でした。

私の代の二学年下の後輩に熊本出身者がいて、いまもバンド活動をしています。そこで、同期の四人(ふたりが東京都内に、残りのふたりが神奈川県内に在住)が、そのステージを見るために熊本にやってきました。その夜の演奏には一〇〇人を超える来場者があり、主にビートルズの曲目を演奏したようです。

翌日、この五人が、私の住む阿蘇を訪ねてきました。待ち合わせたのは、南阿蘇村の久木野にある「あそ望の郷くぎの」でした。ここからは、眼前に広がる阿蘇五岳を望めます。幾つかのレストランや地元物産を販売する「道の駅」もあります。そのなかのひとつのレストランに入り昼食をとりました。同期の四人は、東京の行きつけの店にしばしば集まっては、日々の状況を互いに報告し合っていましたが、私は、一三年前に神戸からこちらに移住してからは、その会に出席する機会もなく、本当に久しぶりの再会となりました。この間の空白部分を埋めるかのように会話は続き、その場は、私の家へと持ち越されました。

みんな、私が森のなかでどんな生活をしているのかを知りたかったようです。また、私の体の状態がどんなものであるのかを確認したかったようです。一階と二階のすべての部屋を案内しました。都会の生活と違って森の生活がどのようなものであるのかも、説明しました。生活用水のこと、野生動物のこと、冬場の積雪のこと、私自身の仕事のこと、話題は尽きません。コーヒーの用意ができました。全員テーブルについてもらって、コーヒーを飲み、クッキーを食べながら、再び学生時代に帰って、話題が沸騰してゆきました。このままでは、阿蘇見学もできません。みんな、阿蘇ははじめてでした。そこで、話の流れをせき止めることになったのですが、時間が残り少なくなったことを知らせました。

私は、いまだ体調に万全の自信がなく、阿蘇登山道の入口までの案内に止め、その場で、それぞれに別れのあいさつをし、固い握手を交わしました。一行は、阿蘇山頂での見学を楽しみ、夕方には、予約してある旅館に向かい、そこで一泊し、翌日は、それぞれ思い思いに観光地を訪問し、その後それぞれの交通手段を使って、帰宅することになっていました。

館山と葉山の海でヨットに乗っていたのは、もう六〇年も前の話になります。レースへ向けての練習は過酷な面もありました。葉山での合宿のときは、一年生が食当(食事当番)を担います。いってみれば、まさしく同じ釜の飯を食った仲間たちです。お金では買えない、貴重な人間同士のきずながここにはありました。(七月)