昨年は、私にとりまして大きな節目の年となりました。
神戸大学を定年退職してから、三月末でちょうど一〇年の歳月が流れました。神戸大学で勤務していたことも、もはや過去の記憶の一片になろうとしています。
九月、町役場の駐車場で転倒し、救急車で運ばれ一箇月弱の入院生活を送りました。右足の膝の骨にヒビが入り、二本のピンとワイヤーで固定する手術でした。
一二月、七五歳の誕生日を迎え、後期高齢者の仲間入りをしました。役場から新しい保険証が届いたとき、何か急に老人になったような気にさせられました。
誕生日から四日後、母親を見送りました。通夜と葬儀は、菩提寺の蓮政寺で行ないました。二年前に父親を亡くし、いまふたりの遺骨は、わが家の納骨堂に並べられて眠っています。
昨年の末から、ウェブサイトで公開しています「中山修一著作集」(全一五巻)を全二四巻に組み替える作業を行なっています。今後、残された日々にあって一巻一巻を完結してゆきたいと思います。
このように去年は、健康、年齢、家族、研究のすべての面で転換期となりました。今年は、再出発元年です。決意も新たに、晩年生活後半へと向かいます。(一月)
今季最初の雪は、先月の二二日に降りました。庭もウッドデッキも、一瞬にして一面銀世界に変わりました。数センチの積雪でした。ところが、幸いなことに、二日間の家ごもりですますことができました。といいますのも、そのあと暖かい雨が降り始め、それにより、積もっていた雪が一気に消え、坂道の凍結も免れたためです。今年の冬は暖冬との予報が出ていましたが、そのとおりになりました。
年が明けました。予報で大雪になることがわかっていましたので、二三日の午前中に買い出しをし、しばらく行けなくなることを予想して、温泉にも行き、正午ころに帰宅しました。すると予報どおりに、雪が舞い始め、翌日の午前中まで続きました。昨年の雪と違って、今回は一〇センチを大きく超える積雪になりました。降雪が一段落した午後、郵便局から電話があり、配達をしばらく控えたいとの連絡でした。大雪で自宅へ通じる坂道が上がれなくなっているようです。前にもこうした経験はあり、まさしく下界との関係を断つ、本格的な家ごもりを覚悟せざるを得ない一報でした。
食料も十分にあり、暖もとれ、室内生活に支障はありません。窓から雪景色を楽しむ毎日です。積雪と凍結から解放されるまでの結局五日間にわたる家ごもりになりました。おおかた雪が融けた週明けの二九日の朝、郵便局から電話があり、これから届けるとのことでした。開口一番、「遅くなって、申しわけありませんでした。ここは、ぽつんと一軒家ですからね」。これには、返す言葉もなく、笑って応えました。(一月)
年末に母を亡くしたので、年賀状を出すのを控えていました。忌明けを迎え、いただいた年賀状の返信に、寒中見舞いを書きました。以下がその文です。
寒中お見舞い申し上げます 梅の季節を迎えようとしています。いまだ冬の寒さが厳しいおり、お変わりなくご健勝にてお過ごしのことと拝察いたします。 喪中につき、年頭のごあいさつを控えさせていただきましたが、穏やかなお正月をお迎えになったことに思いを寄せて、本年のさらなるご多幸とご健康を心よりお祈り申し上げます。 私事になりますが、昨年一二月六日、入院加療中でありました母中山マル子が、九六歳の生涯に幕を閉じ、過日、熊本市内にあります菩提寺の蓮政寺に、滞りなく納骨いたしました。生前にいただきましたご厚情に衷心より感謝申し上げ、ここに謹んでご報告させていただきます。 二〇二四(令和六)年 立春を前にして
こうして新年あいさつと母の死亡についての報告を、日ごろ交流のある方々にしました。母が亡くなって、そろそろ二箇月になろうとしています。(一月)
神戸で働いていたころ、独身時代に購入したワンルーム・マンションを売却するまでのあいだ、人に貸しはじめたときをきっかけとして、確定申告をするようになりました。最初の数年間は要領がわからず事前に税務署に足を運び、一つひとつ記入の仕方を教えてもらっていましたが、その後は、自分ひとりで作成ができるようになり、税務署に行くこともなく、おおかた郵送ですませるようになりました。そうしたことがしばらく続き、その部屋を売却したあとも、いまに至るまでこの時期になると確定申告書が送られてきます。もはや年金以外に収入はなく、確定申告の必要はないのですが、頭の体操だと思って申告書をつくってみます。そうすると、地震保険や寄付、年によっては医療費などの控除があるために、いくらか還付されてきます。これが、毎年この時期の楽しみとなっていました。
ところが今年は、事情が大きく違いました。といいますのも、昨年、遺言により父から譲渡を受けていた実家を売却したため、それに対する所得税を支払うことになったのです。書類のつくり方がわからず、予約のうえ税務署に相談に行きました。担当の方はとても親切で、私の持参した書類を見ながら、必要な申告書(いわゆる第三表)のほとんどを自分の赤ペンで記入してくれました。
いつものように、その時期が来ると、確定申告書(第一表と第二表)が送られてきました。この部分はいつもこれまで自分でつくっていましたので、ある程度問題なく記入が進み、最後の所で第三表にある納税額を転記し足し合わせることによって、何とか書類作成が終了しました。いよいよ確定申告がはじまりました。私は、それら必要な用紙をもって税務署に行き、係の人にチェックしてもらいました。ひとつの間違いもなく、無事、受け付けてもらい、控えの用紙に受付印を捺してもらうと、その足で銀行に行き、納税額を振り込み、こうして今年の私の確定申告は終わりました。
譲渡所得に関する申告書の作成ははじめてでしたので、なかなかうまく進まず、いらいらすることも多かったのですが、税理士の方に依頼することもなく、自力で無事終了したことに、いま安堵しています。(二月)
私が確定申告した前後の時期から、「国民は増税、議員は脱税」という言葉が生まれ、世論を盛り立てました。国民にとって、今後、防衛費、社会保障費、子育て支援経費などに関する増税が待っているようです。一方それに対して、自民党派閥の政治資金パーティーでの販売ノルマを超えたお金が所属する各議員に還流され、どうもそのお金が政治活動資金収支報告書に不記載のまま、裏金となって流用され、この分への税務申告がなされていなかったようです。政治活動費は、原則非課税とのことですが、私的に使用したお金や、使い残した部分については所得とみなされ、課税の対象になります。ところが、おおかたの議員が申告を怠り、納税の義務を果たしていないことが判明したのです。「国民は増税、議員は脱税」というキャッチ・コピーは、こうした背景から生まれました。
この裏金が所得とみなされる性格のものであれば、当然ながら、確定申告が必要となるでしょう。日本国憲法第三十条は「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う」と定めているからです。ところがこのお金について、こともあろうに財務大臣が、「納税するかどうかは各議員の判断による」といった趣旨の答弁を国会で行ない、まっとうな国民の納税感情をいっきに逆撫でしてしまったのです。どうやら国会議員には納税の義務は、免除されているようにも聞こえてきます。
このことはゆゆしき問題だと思います。しかし、それ以上に問題なのは、この裏金の使途が明らかにされていないことです。過去五年間で、ひとつの派閥としては数億円、ひとりの議員として数百万円から数千万円とも伝えられています。このお金は何に使われたのでしょうか。裏金ですので、法に触れる可能性のある裏の政治活動や選挙運動などに使われたにちがいありません。したがって、領収書もないでしょうし、確定申告など論外なのです。であるならば、この国の政体は、裏金による裏活動が横行する闇政治によって成り立っていることになります。このような暗闇のなかから、明るい未来社会が描き出せるでしょうか。政治と政治家がいま問われていると思います。(二月)
この山奥で生活を開始してから一〇年が過ぎました。その間、都会生活では考えられないことが、幾つかありました。そのひとつが、屋内へのアリの侵入です。侵入場所のひとつは、台所の床に置いてあるごみ箱で、もうひとつは、書斎にある三枚引き戸の金属レールの、壁に面した端の部分です。
そこで、自分なりに、群れをなしてごみ箱に入ってくるアリ対策を考えました。これまでは、床に置いているごみ箱に、この地域専用の大きめのごみ袋を入れ、そこに直接ごみを入れていたのですが、それをやめて、スーパーのレジで魚や肉の生鮮食品や豆腐やこんにゃくなどの水分を含んだ品物に入れるのに使用される小さなビニール袋を残しておき、キッチン台の上にだいたい一日に一袋を置いておいては、調理に出たごみを入れ、いっぱいになったところでしっかり封をし、ごみ箱の大きいごみ袋に入れるようにしてみました。これが功を奏し、それ以来、アリの襲来は止まりました。
次に書斎のアリ対策です。なぜレールの端部分の一点にアリが大挙して集まってくるのかはわかりません。何かアリが好む特別な匂いか味があるのでしょうか。はじめのうちは、粘着剤のついた紙シートのようなものを買ってきて、その場所に置いていたのですが、手間も暇もかかるので、掃除機を部屋の片隅に置いておき、アリが押し寄せてくれば、掃除機で強制的に吸い取る方法に代えてみました。数時間おきに数日はかかりますが、いつのまにか自然とアリの姿が消えてゆきます。
それでも、書斎へのアリの襲来は、毎年続いています。いつも決まって、寒さが緩む春のはじめの数日です。これまでの例ですと、三月か四月でした。ところが今年は、この現象が二月に起こりました。アリにとってはもう春なのでしょう。そういえば、この冬の降雪は、昨年の一二月と今年の一月でした。二月はもう暖かくなり雪は降りませんでした。普段ですと一月と二月に訪れる積雪体験も、今年は一変しました。季節が前倒しされながら進んでいるのが実感されます。(二月)
私が住む家は、およそ三十余年前に別荘地用として開発された一区画に立っています。山を崩し整備されると、すぐにもすべての区画は完売しました。しかし家ができたのは九軒に止まり、いまではそのうちの五軒くらいしか利用されておらず、残りは未使用地、ないしは廃屋となっています。日常的に使用されている五軒のうち、私だけが定住者で、それ以外の人たちは、みな週末や季節を楽しみにやってくる外来者です。
この地にたどり着くには、約一キロの曲がりくねった、車一台が通る坂道を登らなければなりません。別荘地に隣接して牧野があり、かつてはトラックに載せて牛を運ぶ牧野道として、日々にぎやかな往来がありました。しかし、畜産業の衰退で牛を飼う農家が減ってゆき、いまや牧野には一頭の牛さえもいなくなってしまいました。また別荘地に立つ家も、所有者の高齢化と相続人の不在等により、一軒、また一軒と廃屋になっています。そのようなわけで、この牧野道は、生活道路としても、人影のまばらな単なる山道と化してしまったのでした。
この山道は、途中の一〇〇メートルくらい、人工的に山のあいだを切り開いて造成した箇所があり、高さ五、六メートルののり面の地肌がむき出しになっています。当初はネットが張られていたのですが、次第にそれも切れ落ちてしまい、いまでは、年に一、二回、崩れた土砂が路面をふさぎ、倒れた木が電線に覆いかぶさるといった具合に、実に危険な道路になっています。それまで、牧野組合が、その管理に当たっていたのですが、その消滅が、そうした悪化した道路事情を加速させているのです。大きな崩落や倒木の場合は、町役場か電力会社に連絡し、対応をお願いすることになります。しかし、車が通れる程度の左右両脇の土砂の滞留や、小枝や葉っぱの散乱は、強い雨風のあとなどには避けがたく起こります。かつて牧野組合があった集落の人たちによる年に一度の清掃はありますが、牛がいなくなってしまったいまにあっては、なかなか日常的には、そこまで手が回らないのが実情のようです。
そこでこの間、梅雨が終わった初夏の時期と、落葉がすんだ晩秋の時期の年に二回ほど、私自身、スコップと一輪車を出して、できる範囲での清掃をしていました。しかし、去年の九月、膝を骨折して以来、いまだ自由な歩行ができず、この道の土砂や枝葉の清掃は、できずじまいになっていました。するとどうでしょう。いつものように、家を出て車でこの道路の危険個所にさしかかると、何ひとつ路面に障害物がなく、道路幅もいつもより広く、完全にきれいになっているではありませんか。どなたからの恵みかわかりません。管理ができなくなって山野が荒れる一方で、こんなに温かい人間の施しがあることに、強くこころを打たれました。(三月)
いつものように温泉に向かっていたときです。春一番といえばいいのでしょうか、強い風が吹いていました。すると、雪が降り出し、風の力を借りて、フロントガラスをたたきはじめました。ああ、これが今年のなごり雪なんだなあ、と思うころには、雪も止み、温泉に着きました。受付で、そのことを話すと、「ここからも見えていました。忘れ雪ですね」と、返してくれた。「忘れな草」や「忘れ霜」同様に、はじめて聞く「忘れ雪」も、いい語感で伝わってきました。そろそろ春が来るのでしょうか。(三月)
目覚まし時計は使いませんが、ほぼ毎日、午前一時半ころに目が覚めます。するとベッドのなかで、この日のことに、思いを巡らせます。まずは仕事のことです。昨日書いた文を思い起こしながら、頭のなかでページをめくり、添削をします。修正点が見つかると、いよいよエンジン始動です。次に、買い物や銀行、コインランドリーや役場、散歩や温泉など、外出の日は、街中での立ち寄り先の手順を確認します。そして最後に、この日の三食の献立が確定すれば、いよいよ体に力が注入され、ベッドから起き上がることになります。これが、私の一日のはじまりの定例儀式です。
明日、四月一日は、新しい年度のはじまりです。学校では新入生が、会社では新卒社員が集います。そのときの祝辞は、どのようなものになるのでしょうか。少子高齢化、気象変動、人口減少、分断差別、格差拡大――そうした状況のなかにあって、指導者は、どう明日の世界を語るのでしょうか。
私自身は、定年と同時に社会を離れ、新年度の祝辞とは縁遠くなりましたが、社会の衰退を表わす指標を目の前にして、何か若い人に励ましの言葉をと、思うのですが、なかなかいい言葉が、見当たりません。あえていえば、「適正」という言葉でしょうか。いまの社会を私は、「過大」「過剰」「過重」「過密」「過労」が支配する社会とみなしているので、この言葉が、浮かんでくるのかもしれません。(三月)
私は、定年退職と同時に、現役時代に書いた論文を集めて、ウェブサイト上に「中山修一著作集」を開設しました。最初は四巻からなる小さなものでした。しかし、時間とともに、構成する巻数が増えてゆき、一五巻に到達しました。まだこの一五巻は全巻が完成しているわけではありませんが、おいおい完結するでしょう。一方、幸いなことに私の体は、健康を維持しているのです。まだ書けます。もちろんいつまで書けるかわかりませんが、一五巻を超えてまだ書ける状態にあるのです。そこで増巻の計画に頭を巡らせました。書きたいこと、書けそうなことは、何と何か――。こうして、追加の九巻が確定しました。そこで今回、ウェブサイト「中山修一著作集」を一五巻から二四巻へと更新するに至ったわけです。二四巻のすべてが完結するには、およそあと一〇年の歳月を要する見込みです。そのとき八五歳になっています。果たしてこの計画は思いどおりにゆくでしょうか。一日五時間、絶やすことなく歩み続けるほかありません。これが、これまでの延長としての、これからの私の学究生活です。(四月)
私が住む南阿蘇の地域には、高校の同窓生でつくる阿蘇南部江原会という、会員二十数名の小さな団体があります。いつも四月に花見、一二月に忘年会を開いてきました。ところが今年の四月は、新しく趣向をこらし、〈A列車で行く「春の宴」in天草〉と題して日帰りで天草に行くことになりました。会員やその同伴者を含め、一六名が参加しました。
そのなかの数名と私は、南阿蘇鉄道で大津まで行き、そこで豊肥本線に乗り換えて、待ち合わせ地点の熊本駅へ向かいました。八年前の熊本地震で被害を受けていた南阿蘇鉄道が全線開通したのは昨年の夏のことで、私はこの日はじめて、この鉄道に乗りました。また、熊本駅から終着の三角駅までは、二両編成の特別仕立ての「A列車」に乗車しました。車内には、カウンター・バーもあってお酒も提供され、さらに、途中のひとつの駅では、三〇分くらい停車し、乗客はホームに出て、ジャズの生演奏を楽しむことができました。題目には、‘Take the A train’ も含まれていました。こうして、思いがけない歓迎を受けることができました。
三角駅を出ると、すでに予約してあった小型バスが待っていました。全員それに乗り込むと、天草大橋の一号橋を渡りました。これは、最近新しく造営されたもので、古い橋と並行して走っていました。この新営橋を通過するのも、私にとって初体験となりました。橋を渡ってしばらくすると、お目当ての食事処に到着。ここでお昼の会食がはじまりました。提供されたのは、天草らしく、すべて新鮮な魚を用いた料理でした。そのなかに、「コノシロ」の仲間の「コハダ」と呼ばれる地元産の魚を使ったバッテラが含まれていました。バッテラというと、白板昆布を上に載せたサバの押し型寿司を思い浮かべますが、この日食したのは、この店の自慢料理の一品で、薄くむいた大根でコハダをくるんだ巻きものでした。はじめて楽しむ食感でした。
食事が終わると、海に面した大型の温泉施設に行きました。ところが、それのすぐ近くに「天草四郎ミュージアム」があることに気づき、私ともうひとりは、みんなと別れて、このミュージアムに入りました。ちょうどいま、石牟礼道子さんの最後の作品である「沖宮」について書いているところで、これは、天草四郎と五歳の童女のあやとの道行きを主題とした新作能の台本です。実にタイミングよく天草四郎に出会うことができ、願ってもない収穫のひとときとなりました。
そのあと一団と合流し、来た道を引き返して、三角西港を散策しました。ここは明治時代に西洋人技師の指導のもとに開発された港の跡で、幾つかの洋館も残っていました。ここで、記念の集合写真を撮ると、この日予定されていた行事はすべて終わり、再び三角駅から「A列車」に乗り込み、終着の熊本駅で解散となりました。
南阿蘇鉄道、A列車、天草五橋の新一号橋、コハダのバッテラ、天草四郎ミュージアム――私にとりまして、初物尽くしの旅でした。(四月)
阿蘇地方の名産に高菜漬けがあります。いまが新漬けの季節です。信州の野沢菜や広島の広島菜ほどに全国的に有名かどうかはわかりませんが、地元の食卓には欠かせない食材です。私の住む町に、明治初期に創業された味噌や醤油を扱う老舗があり、たまたまその四代目の、九〇歳になられる経営者の方とお話をする機会がありました。このお店では、高菜漬けも主力商品となっているものの、しかし昨年は、害虫によって高菜の生育が妨げられ、その結果、今年の生産量は減少し、収益がかなり落ち込んだとのことでした。害虫が発生したのは、おそらく温暖化の影響だろうということで、今後駆除剤を使用できるように、組合を通じて政府に働きかけを行なったと話されていました。
また、この経営者は、こんなことも話されていました。人手がほしくて募集の広告をするのだが、なかなか応募者に巡り会えない――。背後に、若者をはじめとする生産労働力の衰退があるようです。その方がおっしゃるには、数十年前に一万三千人だったこの町の人口は、すでに半数を割り込み、いまや五千人台に入ったと、嘆いておられました。
この小さな町においても、温暖化と人口減の影響は、日々大きくなっています。何か解決策はあるのでしょうか。(四月)
私が神戸大学に就職したのは、一九七四年の四月でした。今年が二〇二四年です。引き算してみました。答えは五〇となりました。何ともいえない気持ちになりました。一見長そうに見えます。しかし、研究の成果は微々たるものです。大海に浮かぶ笹の葉のようでも、台地を歩むカタツムリのようでもあります。実に小さな存在です。それでも、笹の葉もカタツムリも、あるがままの力を出して、そこにいるのです。おそらく、大きいとも小さいとも、何も感じることなく――。私も、あるがままの力を出して、あと一〇年は、研究の日々を続けたいと思います。しかし、「あと一〇年」なんぞ思うところが、笹の葉にもカタツムリにもない、人間の浅ましさであり、愚かさのように、感じてきました。これも、「あるがまま」でよいのではないでしょうか。(五月)
この熊本県出身で女性史学の開拓者と称される人に高群逸枝さんがいます。彼女の自叙伝『火の国の女の日記』を読みますと、彼女は、東京武蔵野の一角にある、富士山が望める「森の家」と呼ばれる自宅の二階の書斎に、毎日一〇時間こもって勉学に励んでいます。着ている服の片方の袖だけが日焼けして色が変わったとも述懐します。玄関には、「面会お断り」の札が掛けてありました。夫の憲三さんが、編集者として逸枝さんの仕事の指南役を務め、あらかた炊事洗濯も引き受けました。「森の家」で仕事をはじめて以来、こうしたふたりの日常が、逸枝さんが亡くなるまで、戦争を挟んでおよそ三〇年間続きました。
実におこがましい話題になりますが、逸枝さんと憲三さんのこうした学究生活をつい最近知った私も、少しそれに似た生活をしているのです。現役を離れて一一年間、いまも山にこもり、執筆を続けています。夜中の一時過ぎに起きて朝食をとり、三時から八時までの五時間机に向かいます。八時から昼食、午前中に用をすませ、昼過ぎの二時に夕食を食べて、四時に就寝です。土日も祭日もなく毎日この生活です。母親が昨年末に亡くなって以来、定期的に熊本市内の施設や病院に通うこともなくなり、それ以来、山を下りて地元の町に出るのは、週に三回か四回となりました。町では、買い物や温泉、役場やクリーニングのときなどに、顔なじみの会計や受付や担当の方と言葉を交わす程度です。それ以外の午前中は、家や庭の片付けや掃除、洗車などをして過ごします。家では、新聞は購読せず、テレビもほとんど見ません。人や情報と交わらなくなって、自分の体内から社会性といったようなものがなくなってしまってゆくような気がしています。ときどき、逸枝さんや憲三さんがお元気であれば、そうしたことについて、聞いてみたいような気がするのですが、どんな答えが返ってくるのでしょうか。(五月)
「中山修一著作集」を一五巻から二四巻に再編したとき、二三巻に『隠者の風花余情』を設け、その一部を、俳句と短歌を掲載するスペースとしました。毎週NHKのEテレで、俳句の短歌の時間があり、前もってそれぞれのHPで兼題とテーマが発表されますので、それを確認して、毎週、三つの句をつくり、三つの歌を詠むことにしています。
この年齢になりますと、いまの心境というよりも、過去の思い出が、どうしても多く題材になります。たとえば、兼題が「電車」であれば、幼いときに見た、電飾に光り輝く花電車が、テーマが「名残」であれば、かつて経験した大事な人との別れが、すぐにも素材として頭に浮かびます。私はそれを、日常的に書いている文のなかで見出した言葉たちとうまく練り合わせて作品にするわけですが、俳句の場合は、文字数が少ないので、たとえば、円の中心を目がけて投げるダーツのような感じがし、点による衝撃を楽しみます。一方、短歌の場合は、俳句に比べて字数が多いこともあって、たとえば、息を吹きかけて空に向かって飛ばす風船やシャボン玉のような感じがしていて、空間的な膨らみに触れることをおもしろがっています。どちらの場合も、私にとっては、心なり頭なりの奥底に眠る未現像のネガを取り出し、それを現像して写真にするような行為です。この場合、現像液が言葉の役割を果たします。なかなか、時を得た、場面にふさわしい言葉が見つかりません。また言葉はすでにあっても、そのつなぎ方に苦労します。それが魅力となって、私を惹きつけているのかもしれません。愚作を承知で、また今週も、俳句をつくり、短歌を詠じたいと思います。(五月)
先ほど「人口戦略会議」が発表した報告書によりますと、日本の全自治体の四割を超える七四四の自治体が「消滅可能性自治体」なのだそうです。「消滅可能性自治体」とは、二〇歳から三九歳の若年女性の人口が二〇一〇年からの三〇年間で五〇%以上減少する市町村とのことで、私が住む町も、減少値が五七%で、不名誉な「消滅可能性自治体」になりました。
地元の人に聞くと、五〇年くらい前は、この町の人口はおおよそ一万二千人だったそうですが、いまや五千人を割り込むまでに減少しています。このペースのまま進めば、遠からずこの町の人口はゼロということになります。町の広報紙に人口の増減表がいつも掲載されており、それを見ると、だいたい月に一〇名弱ずつ減少していることがわかります。年に一〇〇人の人がいなくなるとすれば、五〇年以内に、間違いなくこの町は消滅するのです。段々と人影がなくなり、車の往来もまばらとなり、店舗や民家も、シャッターや雨戸で閉ざされ、役場の職員も減り、最終的には、誰も住まない町になってゆくのです。
「人口戦略会議」の報告では、日本の自治体の四割超が「消滅可能性自治体」ということですので、この町が消滅するころには、日本の人口それ自体が、いまの六割程度に縮小することになります。とても想像しにくいことなのですが、これが、近未来のこの国の姿のようです。果たしてこの国は「消滅可能性国家」となるのでしょうか。(六月)
少し目がかすむようになったので、数年前から隣り村の眼科に数箇月おきに通っては、白内障の進行を抑制する薬と目の疲れを和らげる薬を処方してもらっていました。ところが、昨年末で、閉院となりました。最後に出していただいた薬も切れ、つい先日、もらっていた紹介状をもって、さらに遠くの新しい眼科に行き、受診しました。
診断の結果は、矯正視力で右1.2、左1.0、眼圧は両眼ともに16、白内障「あり」、糖尿病網膜症「なし」でした。六箇月後に再び来院し、そのとき眼底検査をするとのことで、その日は、お薬を出してもらって、帰宅しました。
私の友だちも、閉院に伴い、この眼科に足を運んでいることがわかりました。遠くなったので、通院に時間がかかります。その友だちは、今後は銀行もガソリンスタンドもその姿を消せば、また時間をかけて、新しい銀行やガソリンスタンドまで通うようになるだろうといいます。昨年の秋、ふたつあったスーパーも、一軒店を閉じました。そしてまた、コンビニも一軒閉店しました。町の様子が、徐々に変化していることを肌で感じるようになりました。私は外からの移住者ですが、生まれたときからこの地で暮らしている人にとっては、この変化を、何とも言葉に表わせない無常の北風のような思いで受け止めているのではないかと想像します。もっとも、普通の北風であれば、いつかは春になり、暖かい南の風に代わって身を包みます。しかし、いま吹いている北風は、さらに冷たさを増すばかりです。(六月)
私の庭にあるシャクナゲは、毎年、サクラが散って、四月末の連休がはじまるころに花を咲かせます。ところが、今年は例年と違って、まだサクラが咲いている四月のはじめに咲きました。おそらく、暖かい日が続いたからだと思います。
今年はまた、いつもの年と違って、鯉のぼりが勢いよく泳ぐような五月晴れはなかったような気がします。この間ずっと雨が断続的に降り続いていたためです。私は、毎週日曜日には庭に出て、落ちている枝葉を集めたり、雑草を引いたりするのですが、今年は天候に恵まれず、なかなかそれができません。いつも庭もウッドデッキも、湿ったままの状態です。部屋の湿度も、だいたい八〇%前後のままです。まぶしい太陽の日差しが欲しくなります。
先日は激しい雨が数日続きました。そうしたときは、いつも不安になります。といいますのも、町に行くには、狭い牧野道を車で下りなければならないのですが、雨が続くと、しばしば、土砂崩れが発生するからです。幸いにも、今年はまだそれはありません。しかし、おそらく牧野道ののり面の木が倒れ、電線を切ったのではないかと思われますが、夜中に停電しました。乾電池式のテーブルランプも懐中電灯も手もとも置いてあるので、慌てることはなかったのですが、それでもこころを落ち着かせて、電力会社に電話をしました。しばらくして、地元担当の保安員の方から連絡があり、現場を確認したので、その様子を知らせて、作業班に出動を要請するとのことでした。それから、五、六時間が立ち、見事に通電するに至りました。深夜の雨のなかの作業は困難だったと思います。ただただ感動と感謝の一瞬でした。(六月)
この地域には、町村自治体の補助金で成り立つ温泉が幾つかあったのですが、ここ数年で、経営が困難になり、その数が半減してしまいました。それに加えて料金も、数年前の三〇〇円から徐々に値上がりが続き、いまや二倍の六〇〇円になっています。私の場合は、一箇月に温泉に使うお金は一定ですので、三〇〇円の時代は毎日通っていたのですが、六〇〇円になってからは、半分の回数に減ってしまいました。
そうしたなか、私にとって「ふろの日」が、ありがたい制度となっています。毎月、二六日が「ふろの日」です。この日に行くと、一〇枚綴りの回数券を五千円で購入できるうえに、一枚の無料の入浴券がついてきます。
温泉料金だけでなく、あらゆる面での料金の高騰と節約志向、これがこの数年、生活者にのしかかっている重圧です。所得税の減税がはじまると聞きます。しかし、それは一時的なものであり、今後も物価の上昇は続く傾向にあります。生活しづらい時代に暮らしている、というのが偽りのない実感です。(七月)
私の住む町は、幾つかの行政区で構成されています。昔ながらの「組内」と呼ばれる住民自治の単位です。古い時代にあっては、この単位で冠婚葬祭が執り行なわれ、地下水や入会地が管理され、全員参加して、あぜ道や牧野道の草取りや清掃も行われていたそうです。しかし、その組織をまとめるには、さまざまな習わしや約束事がつきまとい、それに嫌気がさして、一見自由そうに見える都会に憧れて都会に出てゆく若者も多くいたと聞きます。その一方で、この旧い住民組織は、外部からの移入についても、高い壁となって立ちはだかります。私自身も、一一年前に神戸からこの地に移住してきたのですが、結局、この組織には入れず、町からの回覧文書は直接町役場に取りに行きますし、生活ごみも、ごみ集積場まで個人的に持ち運びます。そうした意味で、私自身は、この地域の自治組織とは無縁な状況で生活しているといえます。ところが、一点だけ接点があるのです。
毎年七月のお盆ころになると、集落挙げての道路の清掃とその周りの草取り作業があるのですが、こうした道路の保全は、私たち別荘地の住民にとっても日常的に使用する生活道路ですので、とても助かっています。そこで、別荘地ができた数十年も前から、別荘地の自治会は、そのお礼に焼酎二本をこの地域の行政区の区長さんの家に届けることが習慣となっているのです。私自身、この別荘地の自治会の代表を数年前から仰せつかっており、今年も清掃が終わると、スーパーに行って焼酎を買って届けに行きました。玄関先での立ち話になりますが、聞くと、いろいろな集落の様子を語ってくれます。いまの区長さんは女性ですが、この集落で女性が区長になるのははじめてのことだそうです。集落から人が離れてゆく傾向も悩みの種になっているとか。いつもながら、日本全体の縮図を見るような思いに駆られます。集落が機能しなくなれば、町の機能も失われます。そのときこの町は、そしてこの日本は、どうなっているのでしょうか。(七月)
この町にも、社会福祉協議会という組織があります。二〇一六(平成二八)年の熊本地震が発生したとき、私は、身体も家屋も、問題ありませんでしたので、被災した家庭の小さな子どもたちに絵本の読み聞かせのようなことはできるのではないかと思い、電話をして、問い合わせたことがありました。しかし、そのときは、そうしたボランティアを受け入れる制度はないということで実現しませんでした。
それから八年が過ぎ、私も後期高齢者になりました。あるとき、民生委員の方が来訪され、社会福祉協議会に、ボランティアを派遣して大型ごみを回収する制度があるらしく、その制度の利用についての説明でした。高齢者になると体力的に大型ごみをごみ集積場まで搬入するのが困難になることが予想され、それを支援する制度のようです。ちょうど私も困っていたので、さっそく申込書に記入しました。
その後、社会福祉協議会から電話があり、訪問の日時が告げられました。当日、男女のふたりの大人と、ご婦人の小さな子どもさんの三人がいらっしゃって、さび付いた自転車や壊れた一輪車など、軽トラック一台分のごみをもっていってもらいました。いまや、人の支援を受けなければ生活が成り立たない、その入り口に立っている自分に気づかされました。(七月)
私にとって仏壇は何か暗いイメージがあり、そのため、実家を解体するときに、菩提寺でお焚き上げの処分をしてもらい、両親が使用していたさまざまな仏具だけを、私の住む草庵へもってきて、明るい感じの祭壇をこしらえました。腰高のチェストの上に赤い毛氈を敷き、金の屏風を立てます。ちょうど雛飾りに似た、しつらえです。
昨年の師走に母が亡くなりました。父親の遺影の隣りに母親の遺影を並べて置き、それ以降は、ふたりのために、花を飾り、水とご飯を日々取り換え、果物やお菓子を供えています。
両親が健在のときは、節目節目で手を合わせる程度で、仏壇のお世話をすることはありませんでした。そうした私が、在りし日の両親の姿に倣い、いまや祭壇を整えることに精を出しているのです。自分でも何か不思議な思いに駆られます。人は親の背中を見て育つといいますが、あながち間違いではないようです。
この夏、母の初盆が巡ってきました。菩提寺である熊本市内にある蓮政寺でお経をあげていただきました。いつものように広い本堂で、三人のご住職によるお勤めでした。参列したのは、私と、私の妹夫婦と、その娘の四人でした。小さな小さな法要です。そのあと近くの中華料理店で食事をし、両親の思い出などを語り合いました。子どもとして、元気な体で親の面影を偲ぶことができることを、ありがたく思いました。しかし、これも健康なあいだだけです。残された一年、一年を大切にしたいと思います。(八月)
今年の日本列島の夏は、猛暑、地震、台風と、落ち着かない日々が続いています。
聞くところによると、四〇度を超える地点もあるようです。どのような暑さか、想像することさえできません。といいますのも、私が住むこの山のなかにあっては、三〇度を超えることはほぼ皆無だからです。夏のあいだは、どの窓もほとんど開けっ放しの状態で、クーラーを使うこともありません。朝起きるのは、午前一時半ころですが、温度計を見ると、いつも二七度くらいです。それから夜明けころにかけて二五度くらいまでいったん温度が下がり、それから上がり始め、お昼ころに二九度くらいになるのが通例なのです。だいたい平地よりも四、五度は低いのではないかと思います。
先日、地震がありました。震度四くらいだったと思います。震源は、お隣りの宮崎県の日向灘で、南海トラフの西端に位置します。一九九五年の阪神淡路の大地震と、二〇一六年の熊本を襲った地震の、ふたつの地震を経験している私は、ある意味で馴れており、決して慌てふためくことはありません。揺れが次第に激しくなっても、一定の限度まで冷静に待つ余裕ができているのでしょうか、今回も、ピークになる揺れを察知し、テーブルの下に身を寄せるまでには至りませんでした。
今年はこれまで、台風の数は少ないようです。直撃に見舞われることはまだありません。しかし、先日の七号は、関東地方への上陸は、幸いに回避されたものの、飛行機や新幹線など交通への影響は大きかったようです。
猛暑に地震、それに加えて台風。これからもまだしばらく続くのでしょうか。気象変動と、何か関係しているのでしょうか。落ち着かない毎日です。(八月)
ウッドデッキの手すりの一角に、水を入れた皿を置いています。すると、鳥たちがひっきりなしに水飲みや水浴びにやってきます。部屋にいながらの、バードウォッチングです。先日、こんなことがありました。一羽の褐色の鳥が飛んできて、水を飲み始めました。おそらくヒヨドリではないかと思われます。くちばしに水を含むと、頭部をまっすぐ上にあげます。それを何度も繰り返すのです。そこで考えたのですが、この鳥は、自分で水を飲み込むことができず、食道を垂直にした状態で胃に流し込んでいるのではないだろうか――。
そこへもう一羽の鳥が飛んできました。普通ですと、そこで先客はそそくさと退散するのですが、この先客は、数歩後ずさりをして、飛んできた鳥の水飲みをじっと見ているのです。そしてその鳥が水飲みを終えて立ち去ると、ゆっくりと先客は水の入った皿に近づき、また水飲みをはじめました。この仕草は何なのか考えてみましたがわかりません。怖いもの知らずの鳥なのでしょうか。それとも、周りを優先する優しいこころをもった鳥なのでしょうか。
次は、鳥とは違う蟻の話です。災害に備えて食料品を備蓄しています。そのなかにカップラーメンがあります。先日備蓄品を点検していたら、カップラーメンの周りに、なかにあるはずの乾燥具材が散乱していました。最初すぐには事態が飲み込めませんでした。しかし、よく見るとふたの一箇所に五ミリくらいの穴が開いているではありませんか。そこで、そこからこぼれ落ちたことは、すぐにも合点がゆきました。しかしそれにしても、誰がどうして、なかの具材を外に運び出したのでしょうか。不思議に思って、容器を手にもって揺すってみました。すると何と、その穴から蟻が何匹も出てくるではありませんか。驚きました。
それにしても、カップ麵を見つけ、そのふたに穴を開けてなかに入り込み、自分の体より大きな具材を幾つも外まで運び出し、そこから、おそらく土のなかの自分の住み家まで運ぼうとしていたのでしょう。驚くべき忍耐強い努力家です。確かに蟻は、働き者なのです。(八月)
朝起きて見ると、テーブルに載せていた煎餅の位置が少しずれていました。次の朝また見ると、透明の薄いビニールの包みが破られ、少しかじられた跡が残っていました。どうやら夜にネズミが出没したようです。わが家にはネズミが住み着いていて、これまでも、ときどき壁のあいだから物音がしたり、粘着シートのネズミ捕りに引っかかっていたりすることがありました。しかしそれは、いずれも夜の話であって、今回驚いたのは、何と昼間に出くわしたことでした。一瞬一匹の小さいハツカネズミが、開けっ放しの風呂場に入って行くのを目撃したのです。私は、すかさずドアを閉め、ネズミ捕りを取りにゆき、そっとドアを開くと、いました、いました。静かに近づくも、逃げる気配はなく、一気に粘着シートを上から被せると、首尾よく捕獲成功。シートをふたつに折ると、チューと鳴きました。この鳴き声はいつものことです。この世との別れのあいさつなのかもしれません。かわいそうな気もします。しかし、これもやむを得ません。合掌です。それにしても、人間とネズミの住み分けが、昨今、もはやできない状態になっているような気がします。そういえば、先日見つけたふたが破けたカップラーメンは、ネズミの仕業だったのかもしれません。(九月)
私の書斎の窓から、お隣りの地所が見えます。ここは土地だけで、家屋は建っていません。この時期になりますと、雑草が伸びます。その雑草に交じって、目を引く野草を見ることができます。不思議なことに、それが、毎年同じ野草ではなく、一年一年、変わるのです。今年は野アザミが、背が高くなった雑草の一部に群生しています。黄色や白のチョウがその周りを舞っています。アザミは、富本憲吉がしばしばモティーフに使った花です。葉の緑と、花の薄紅色のマッチングがいいのかもしれません。
こうした楽しみはあるのですが、放っておくと雑草は越境して、私の地所へも侵入してきます。これまでは、運動の一環として、自分で草刈りをしていました。しかし、寄る年波には勝てず、昨年から土地の所有者の方に頼んで、草刈りをしてもらうことにしました。一区画の土地ですが、雑草の茂みがなくなると、それに連なる先のわずかながらの「大地」が見渡せ、広々感を味わうことができます。今年は、いつ草刈りがあるかわかりませんが、その「大地」に雪が積もるのも、そう先のことではなさそうです。(九月)
夏のあいだは、夜が明けるのは、五時ころでした。それがいまは、段々延びてゆき、最近は六時が過ぎて、やっと夜明けを迎えます。この時間帯は、いつも書斎の椅子に座り、仕事をしています。夜明けの時間になると、雨戸を開けます。窓越しに、東の木々のあいだから、太陽が少しずつ差し込んでくる気配が感じられます。ときには、透明の輝く光線であったり、またときには、赤い絵の具で描いたような光線だったりします。そうした日の出を追いながら、よくこの時間帯にお茶の休憩をします。一日がはじまるこの時間、私の勉強も半ばが過ぎ、ラストスパートとなります。
今日は、仕事を少し早めに切り上げ、久しぶりに日の出を見にゆきました。東の外輪山から昇る太陽は、書斎からの繊細でか細い日の光とは違い、大きく、強く、堂々としています。ご来光を仰いだあと、その足で、行きつけの温泉に車を走らせました。一番風呂の湯船に浸かり、照らし出された阿蘇五岳を眺める至福は、この世のものではありません。すべての疲れが、洗い流されてしまいました。(九月)
いま私は、ウェブサイトで公開しています「中山修一著作集」の第一八巻に相当します「三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子」を書いています。いうまでもなく、高群逸枝は、日本における女性史学の最初の開拓者であり、橋本憲三はその夫で、逸枝没後、妻の遺稿を全一〇巻にまとめて出版した編集者です。そして、あまり知られていませんが、その夫婦を通じて新しく生き直す道を見出したのが、水俣病の作家として有名な、あの石牟礼道子でした。
高群逸枝の自伝には、『愛と孤独と』や『今昔の歌』、それに加えて『高群逸枝全集』の第一〇巻の「火の国の女の日記」などがあり、それを読んでいましたら、私が住む南阿蘇にある清水寺の話が出てきました。以下は、「火の国の女の日記」のなかの一節です。
明治二十六年に、父は矢部郷の御所小学校からいまの松橋町豊川にあった磯田小学校へ転任のこととなったので、ちょうど私を妊娠中だった母をしたがえて、阿蘇南郷谷の清水観音に大矢越えをして四日がかりで参拝した。
こうした事実をはじめて知った私は、さっそくそこへ行ってみたいと思いました。インターネットで調べてみると、阿蘇南郷谷の南外輪山の奥懐にある清水寺は、奈良時代の創建で、ご本尊は木彫りの千手観音像で、阿蘇西国三十三ヶ所観音札所の二一番札所と書かれてありました。続けて、地元に住む知り合いのふたりに、清水寺のことを聞いてみました。すると、ふたりとも、名前は聞いたことがあるが、実際に行ったことはないという返事でした。どうやら、日常的には村人との接触はあまりないようです。
とりあえず、簡単な地図を片手に車を走らせてみました。阿蘇五岳と南外輪山に挟まれた南郷谷は東西に県道二八号線が走っていますが、そのある地点から南外輪山の尾根を目指して狭い山道を登っていったところに、目的の清水寺はありました。こじんまりしたお寺で、お賽銭を入れて靴を脱ぎ、数段の階段を上って本堂へ入ってみました。お堂の隣りに住居らしき家がありました。おそらく住職の住まいではないかと思われましたが、人の気配はなく、結局、声をかけることはしませんでした。
一三一年前、高群逸枝の両親がここで女の子の出産を祈願したことを思うと、何か不思議な空気に包まれました。ふたりは、このとき、どのような旅姿だったのでしょうか。本堂のどこに座して、本尊にどう語りかけたのでしょうか。そして、ここから見渡す、阿蘇五岳と南郷谷は、彼らの目にはどう映ったのでしょうか。年が明け明治二七年の一月、無事願いどおりに、女の子が生まれました。その子は「観音の子」として、大事に育てられることになります。高群逸枝誕生の瞬間です。
清水寺は、私の草庵から車で二〇分ほどの距離にある、みぢかにも観音様を祀る寺でした。この日私は、執筆成就を祈願して、帰路につきました。(一〇月)
高群逸枝の全集の第一〇巻「火の国の女の日記」には、次のような一節もあります。
一九〇三(明治三六)年六月十四日、私たち一家は久具を去って、松橋駅から汽車に乗った。久具校の窓から北に親しく見えていた木原山の西麓を右手にみて、宇土半島のつけ根を横断し、つぎの宇土駅に下り、駅前からすぐと( ママ ) 田んぼに入りこむと、もうそこは、高群勝太郎の新任地守富村のうちだった。
この一節にある木原山には、かつて雁を弓で射る名手が住んでおり、そのため雁は、この山を迂回して飛んだという逸話があり、これに由来して、別名この山は、雁回山と呼ばれます。他方、この山にある不動尊は、日本三大不動のひとつとして有名で、地域住民の信仰の対象として昔から敬愛されています。
私の祖父は、一八八三(明治一六)年に宇土に生まれ、父は幼少のころしばしば祖父に連れられて木原山(雁回山)の不動尊に参詣していたといいます。そののち私も父のあとについて参拝するのが常となっていました。数年前に父は亡くなりましたが、その数箇月前にも、私の運転でこの不動尊を訪れ、お参りしたことが、いまとなれば懐かしく思い出されます。
高群逸枝も、同じく「火の国の女の日記」において、こう回想しています。
この山には、後には自分ひとりでもよく登った。身を山中にひそめて、雑木のなかに悲しく風をきいた記憶がなつかしまれる。……私は木原山を「風吹く山」と呼んで親しんでいたが、いまもその風はむかしのままに吹いていることだろう。
高群が「風吹く山」と呼ぶ木原山、私もいつかまた詣でてみたいと思います。そのときもその風はむかしのまま吹いているにちがいありません。(一〇月)
先日、衆議院の選挙がありました。その期間中、読売新聞からショートメッセージを使った調査への依頼があり、質問事項に答える経験をしました。前には朝日新聞のこの種の質問に答えたことがあり、これが二度目でした。
私は、期日前投票をしました。私の小選挙区では、三つの党からの候補者しか立候補しておらず、有権者にとって選択の幅が極端に狭められた状態にありました。どの小選挙区においても、すべての党が候補者を擁立する仕組みができないものか、投票に当たって私は、そのようなことを考えていました。
選挙の結果は、ひとつの党が過半数を制することはありませんでした。これまで「一強多弱」という言葉で揶揄されることがありましたが、ここへきて「多党多強」の状況が現われたのです。これにより、政治家や政党には、これまで眠っていた政策力、交渉力、説得力、妥協力、協調力といった真の政治力が試されることになります。私は、同調を越えて多様な考えや生き方が存在する社会にあっては、これが本来あるべき政治の状況であると思います。しかし、単なる私利私欲や党利党略に陥り、そうした求められる政治力が有効に働かなければ、「多党多弱」の泥沼に沈むことも予想されます。今後果たして、どのような政治世界が出現するのでしょうか。期待半分、不安半分、といったところです。(一〇月)
私のような山野に引きこもって執筆する者にとって、なくてはならないのが公立の図書館です。まさしく図書館は、研究者の命綱なのです。しかしながら、私の住む阿蘇郡高森町には町立の図書館がありません。私は熊本県民ですので、熊本県立図書館は自由に利用できますが、一方の熊本市立図書館は、熊本市民ではありませんので、一時期までは使用に困難がついて回っていました。しかし何年か前に、自治体間に協定が結ばれ、高森町民も熊本の市立図書館を制限なく、利用できるようになりました。こうして現在、私は日常的に、熊本市立図書館と熊本県立図書館のふたつの館を利用させていただいています。ところが、この両館には、利用上の対応にかかわって違いが幾つかあるのです。たとえば、以下の事例がそのひとつです。
両方の館とも、一度に一〇冊、二週間の借用ができ、連絡をすれば、さらに二週間借りることができます。つまり、延長期間を含めて四週間、自宅にて閲覧が可能となっているのです。しかし、そのあとの対応が異なります。熊本市立図書館の場合は、四週間後に返却に行き、予約が入っていなければ、ただちに新規に同じ一〇冊を借用することができます。しかし、熊本県立図書館の場合は、予約が入っていなくても、一度返却し、一週間くらいあいだを置いて、同一の書を借用するような規定になっているらしく、返却と同時の借用はできません。理由を聞いても、「規定がそうなっているから」の一点張りです。そのため、また一週間くらいののちに、片道一時間以上をかけて車を運転し、この図書館に足を運ばなければならないのです。どうして一週間ものあいだ、死蔵する必要があるのでしょうか。どう考えても、不合理に思われます。
私はいま、著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』を書いていますが、参考にすべき文献は、本当に山のようにあります。理想は、それぞれの館から常時一〇冊ずつ借りて、机の横において相互に参照しながら執筆することなのですが、現実は、なかなかそうはゆきません。ついつい愚痴をこぼすことになります。(一一月)
上に書きましたように、私はいま、著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』を執筆しています。この三人は熊本の出身であり、熊本市立図書館と熊本県立図書館に、彼らに関する貴重な資料が所蔵されています。それ自体は書き手にとってとてもありがたいことなのですが、その一方で、とりわけ高群逸枝の戦前の本は、閲覧に幾つもの制限が課されていますし、また、熊本県立図書館の場合は、比較的新しい戦後の書物であろうと、ほとんどが禁帯扱いになっており、館内で読むしかなく、日常的に不自由さを感じます。
ところがこの数年で、ひょっとするとコロナ禍で開館が制限されていたことも要因になっていたのかもしれませんが、国立国会図書館における蔵書のデジタル化が一気に進んだように感じられます。高群逸枝の戦前の書物も、書斎にいながらにして、その多くをデジタル版で読むことができます。本当にありがたいことだと思います。欲をいえば切りがありませんが、さらにデジタル化を加速していただきたいし、加えて、現在閲覧方法は、「ログインなしで閲覧可能」「送信サービスで閲覧可能」「国立国会図書館内限定」の三種類ですが、新刊書は別にしても「国立国会図書館内限定」の制限をはずして、すべてのデジタルコレクションを「個人閲覧可能」にしてほしいという希望ももっています。そうすることにより、どこに住もうと、どの時間帯であろうと、すべての個人が、国立国会図書館の多くの資料にアクセスすることができるようになります。これは、地域間の利用格差の完全解消を意味します。いまは、山野に生きる独立研究者がひとり見る夢なのかもしれませんが、これがバリアフリーのオープン・アクセスの最終形態であると思われますし、これに向かって、地方の公立の図書館も含めて、すべての図書館が連携して邁進してほしいと願う次第です。(一一月)
今年は夏の暑さが続き、紅葉もそれにあわせて、少し遅れてはじまりました。しかし、私の庭の紅葉もそうなのですが、紅葉にとっての大敵は、雨と風です。これで、一気に色づいた葉が落下します。
今年の庭の紅葉は、見ごろの期間が短く、それに代わって、朝の冷え込みが急に襲ってきた感があります。一昨日、阿蘇山が初冠雪しました。いまのところ山頂だけですが、もうしばらくするとすそ野の山里にも雪が降り始めます。スタッドレスタイヤに交換しなければなりません。庭にある二箇所の水道の養生もしなければなりません。雪に覆われて外出できないときのための食料も確保しなければなりません。師走の声を聞くと、いよいよこれよりのち、冬の寒さ対策が進行します。高齢者の独り身にとって冬を越すのも、一苦労です。(一一月)
「晩年生活後半の再出発を誓う」――これが、この年の念頭に当たっての私の思いでした。前年までに私は両親を亡くしました。身体的には、右足の膝を骨折し、ピンとワイヤーで固定しました。仕事のうえでは、ウェブサイトで公開しています「中山修一著作集」を全一五巻から全二四巻への構想が芽生えつつありました。そして、神戸大学を定年退職して一〇年が過ぎようとしていました。加えて、前年の誕生日で七五歳になっていました。このようななかにあって、二〇二三年が終わり、二〇二四年が出発したのでした。
さて、そうやって幕を開けた二〇二四年ですが、どのような一年だったのでしょうか。八月に母親の初盆の供養を行ない、数日後の一二月末に一周忌の法事をします。体も、少し足を引きずることはありますが、杖がなくても、歩くことができるようになりました。著作集については、予定どおり、全一五巻を全二四巻に再編することができました。多くの人に支えられながら、「晩年生活後半の再出発」のための準備が整いました。感謝します。(一二月)
それでは、来年二〇二五年からはじまる「晩年生活後半」は、自分にとってどのような時間になるのでしょうか。いま私は、阿蘇の山のなかで独り暮らしています。その実態は、食事をつくり、部屋や庭を保つ、まさに生命維持のための「生活」と、頭のなかに散らばっている断片的な雑多な知識を、まとまった有機的な塊に組織立てる「研究」とから成り立っています。この「生活」と「研究」の両輪を、適切なスピードとバランスをとりながら、うまく回転させてゆくことが、私に残された「晩年生活後半」です。もうここまでくると、その内容を事前に「計画」するということはできません。一日を一日としてしっかりと受け止め、「あわてず/あせらず/あきらめず」を肝に銘じ、確実に歩を進めるしかありません。私の東京教育大学の恩師は、インダストリアル・デザイナーの明石一男先生です。先日、その明石先生に関する幾つかの資料に目を通す機会をもちました。そのなかに、晩年の明石先生のモットーが出てきました。それは「不悔不諦」をいうものでした。タイミングよくこの時期に、ありがたいお言葉に巡り会いました。私も、その思いをしっかりと胸に刻み、恩師のあとに続きたいと思います。(一二月)
年の瀬の三〇日、母親の一周忌の法要をしました。年末年始を利用して一時帰国した息子の四人家族も参加してくれました。読経を耳にしながら、母親の在りし日のことを偲びます。すると、こんなことが頭に浮かんできました。人はみな、生を授かり、いのちを燃やし、最後は死に絶え、土にもどります。それを永遠と繰り返しているのです。人は、そのいのちが誕生する前、どう生きていたのでしょうか。そして、土に帰ったあと、その人はどう生きるのでしょうか。自分が元気に日々を過ごしているときは、このようなことを考えることはありませんでした。しかし、自分の年が傾き、終わりが近づきはじめたことを自覚するようになったいま、その設問が自然と自分を襲ってくるのです。最後の日が来るまでのしばらくのあいだ、この問いと向き合いたいと思います。これも、母親が幼子に与える「なぞなぞ遊び」の一種なのかもしれません。(一二月)