中山修一著作集

著作集24 残思余考――隠者の風花余情(上)

第一部 山野に生きる(日記編)

第二編 二〇二五(令和七)年――喜寿を生きる

一.初夢(年賀状)

謹んで新春の御祝詞を申し上げます

私が研究の対象としているウィリアム・モリスは、一九世紀の英国において、詩人、デザイナー、政治活動家、経営者、環境保護運動家として活躍した多才の人物です。没後彼の娘が、全二四巻の「ウィリアム・モリス著作集」を編み、続けて補遺として二巻を追加して世に送り出しました。

昨年私は、ウェブサイトで公開しています「中山修一著作集」を一五巻から二四巻に再編し、この春には、それに二巻を加えて全二六巻にすることを計画しています。内容や質は、モリスの足元にも及ぶわけではありませんが、おこがましくも、せめて巻数だけでも、敬愛するモリス先生に近づきたいと思っているのです。

記念すべき二〇三四年三月二四日のモリス生誕二百年の日が迫ってきています。何とか健康を維持しながらこの阿蘇の山野に隠棲し、この日をめどに、現在執筆中の巻や本文未着手の巻のすべてを書き終え、全巻完結したいと考えています。これが私にとっての今年の見果てぬ初夢となりました。

穏やかなお正月をお迎えのことと思います。

本年のご多幸とご健康を心よりお祈り申し上げます。

二〇二五(令和七)年 元旦

二.情報と報道に関して

私は、この山野に暮らしはじめて、新聞も取らず、災害時以外は日常テレビも見ず、加えて、ソーシャル・メディアにはほとんど関心を寄せず、あたかも世捨て人であるかのような生活をしています。最近では、新聞もテレビも若者から見放されて、「オールド・メディア」と呼ばれているそうです。また、すでにマスコミは、「マスゴミ(大量のごみ)」という蔑称が与えられるまでになっています。メディアが発する情報や報道に対して私個人が接してきたこれまでの経験からすれば、それは、「知りたいことを伝える」新聞のような書斎的言論、「見たいことを見せる」テレビのようなお茶の間的動画、そしていまや、「思ったことを語る」SNSのような井戸端的世間話、このように推移してきたように感じられます。換言すればこれは、エリート的知識の占有、大衆的関心の共有、そして私的見解の拡散、そうした発信と受信にかかわる変化の推移といえるかもしれません。いま日本や世界で起こっている出来事の真実を知り、それを分析し、それに基づき自身の行動規範とするためには、私たちは、どのような情報や報道を生み出し、それをどのように受け取るのか、その仕組みが、問われているような気がします。単に回顧的に過去にもどることはもはやできないでしょう、かといって、このまま安易に未来を待つことも、同じくできないでしょう。情報や報道にかかわる発信と受信の新たな仕組みづくりがいま必要とされているように思われます。そして、そこで一番大切にされなければならないことは、人権を巡る取り扱いではないでしょうか。何人たりともが安心して生きるためには、人権無視も名誉棄損も、絶対に許されてはならないと信じるからです。(一月)

三.夜明けが早くなる

お正月から一箇月が過ぎようとするこの時期、夜明けが早くなったことを感じます。まだ薄暗いうちに書斎の雨戸を開け、窓を通して朝の陽ざしを楽しむことが日課となっているのですが、樹々のあいだから直線状に射しこむ朝日が、少し力強いものになってきたように感じられます。こうして一歩一歩春に近づいてゆくのでしょう。

毎年この時期になると、こうした感じがこころに湧いてきます。しかし今年は、ことさらその感覚が強く、自分でも不思議な思いに駆られています。思うに、どうやらそれは、自分の加齢と関係があるようです。つまり、春を待つ潜在的思いが、年をとるにつれ、いままで以上に高まっていて、それが、少しの陽ざしの早まりに、素早く対応しているようなのです。裏を返せば、それほどまでに現状の冬のつらさが、老いた体に重くのしかかるように感じはじめてきたということかもしれません。

少し前までは、雪に覆われれば、車を坂の下に置くと、家とのあいだの約一キロを、防寒着を着て、長靴を履いて、杖をついてでも町まで行き、買物をしたり、銀行や郵便局に行ったり、コインランドリーで洗濯物の乾燥をしたり、温泉を楽しんだりしていたのですが、膝を骨折したこともあり、いまやそれだけの体力も気力も、段々と衰え、雪が積もっているあいだ家のなかに引きこもることが多くなったように思います。どうやら、冬景色も、こころを喜ばせる季節の風物詩ではなく、次第に、できれば避けて通りたい、苦痛の単なる「気象状況」になりつつあるのです。

どうやら、そうした心情が、敏感に、夜明けが早くなる一日一日の変化をとらえているようです。冬越しの大変さをしみじみと感じる年になりました。これもまた、健全な「衰退」の一環として受け入れなければならないのでしょう。(一月)

四.「血尿」が出る

血尿がでました。最初少し動転しました。原因は何だろう。大病の兆候か。

三回続けて出ました。しかし、それ以降は、通常の尿にもどったように感じました。一体、この血尿は何だったのでしょうか。私はかつてロンドンで暮らしていたとき、急に横腹が痛くなり、尿路結石を患い、入院のうえ、尿管から膀胱に落とした石を内視鏡で爆破して、尿として排出した経験がありました。そのとき、粉々に砕かれた石が尿道を通る際に摩擦により傷つけ、数日間、血尿となって現われました。この経験からして、この日の血尿も、本当に小さな石が尿道を通過した際の結果的現象ではないかと直感しました。

最初は驚きあわてて、病院に行こうか、膀胱がんではないかと、心配したのですが、もうこの年齢になると、いつ何が起こっても不思議はなく、しかも、がんで死ぬのが、長期の療養による家族の負担も少なく、最もいい最期であると聞いていましたので、それであればそれもよし、と腹をくくり、いまは、自己による経過観察をしています。

血尿の日、こんなことが頭に浮かびました。いま私は、高群逸枝を書いているのですが、彼女は、いっさいの来客を断って書斎にこもり、一日に一〇時間、勉強に専念したと書いています。すると体調に異変が生じ、経血が逆流して鼻血となって外に出たこともあったといいます。私の場合は、一日およそ五時間の勉強ですので、逸枝さんの半分です。しかし、雪に閉じこめられて家で過ごすことが多くなるこの時期は、一〇時間くらい机に向かうことがあります。そこで私も、過剰な勉強が血尿を招いたのではないかと思った次第です。

まあ、これは、逸枝さんだから絵になる話であって、私のような魯鈍な人間にはあてはまりません。それに思いが至って、自分で笑い転げてしまいました。血尿が、いい気分転換になりました。(二月)

五.「つらら」が現われる

この時期、雪が降り、庭や道に、ウッドデッキに積もります。予報によりますと、今年の寒波は、「最強最長」とのことです。例年ですとこの時期は、大雪、あるいはドカ雪が一瞬にして降り積もるのですが、しかし今年は、通例の様子とは違っていて、中程度の雪が、積もっては融け、融けてはまた積もるという具合に、長期化しています。この間、外の温度は、日中も氷点下です。

確かに昼間の気温は氷点下二、三度の低温なのですが、それでも、太陽が出て陽ざしがあれば、積もった雪は融け始めます。屋根に積もった雪が日光に照らされて融けてゆき、軒下に滴り落ちますと、外気は氷点下ですので、落ちるしずくがそのままの状態で凍り、垂れ下がることになります。こうして氷の棒ができます。これが「つらら」です。

小さいころに「つらら」を経験したことはありましたが、それ以降の東京や神戸での暮らしでは、縁遠い存在になっていました。いまこの年齢になって、再び「つらら」と再会しています。気温が上がりはじめると、軒下に何本も垂れる氷の棒は融け出し、一滴一滴、しずくとなって落下してゆきます。何か、自然が泣いているような光景です。春へと向かう合図かもしれません。(二月)

六.著作集が二四巻から二六巻へ

私は、今年の年賀状におきまして、「昨年私は、ウェブサイトで公開しています『中山修一著作集』を一五巻から二四巻に再編し、この春には、それに二巻を加えて全二六巻にすることを計画しています」と書きました。その計画が現実のものとなり、いまここに更新することができました。この二六巻が、私の著作集の最終形態となります。内訳は、「デザイン史・デザイン論」が八巻、「ウィリアム・モリス研究」が六巻、「富本憲吉・富本一枝研究」が五巻、「火の国の女研究」が二巻、そして「肥後大阿蘇に生きる」が五巻、となります。加えて、別巻1として「主題別著述総覧」を、別巻2として「外部機関提供のデジタル・リソース」を用意しました。

そしてまた、私は年賀状に、次の一文を書いています。「記念すべき二〇三四年三月二四日のモリス生誕二百年の日が迫ってきています。何とか健康を維持しながらこの阿蘇の山野に隠棲し、この日をめどに、現在執筆中の巻や本文未着手の巻のすべてを書き終え、全巻完結したいと考えています」。さあ、この日まで、残り九年です。この四月に大学に入学する新入生が、研究者を目指そうとすれば、学部四年、博士前期課程(修士課程)二年、博士後期課程三年の計九年を、勉学に費やすことになります。私も大学新一年生になったつもりで、必死に本と机を友として学問にいそしみ、九年後には著作集の全巻を完結するや、研究者としてやっと独り立ちしたという、その晴れがましい思いを胸に旅立ちたいと思います。(二月)

七.ネズミ三匹を捕獲

台所と隣り合わせの寝室の壁から、夜になると小動物の足音のような物音が聞こえてくるようになりました。おそらくハツカネズミが歩き回っている音です。それから数日後、朝起きてみると、サイドテーブルに置いてあったクッキーがかじられている光景に出くわしました。これまでの経験から、間違いなくこれは、ネズミの仕業です。どこにいるのか、居場所を突き止める必要があります。すると、システム・キッチンと壁とのあいだに小さい隙間があり、その隙間から出た床の上に、フンらしきものが数粒散乱していました。ここが、ネズミの移動経路のようです。そこで、その床の上に、粘着シートでできたネズミ捕り(およそ二〇センチ四方)を置き、シートの隙間よりの箇所に、好物であるにちがいない、かじられたクッキーをのせました。こうして外出して数時間後に帰宅して、そっと見にゆくと、何とそこに二匹のネズミが強力な粘着シートの上で、息絶え絶えの状態で横たわっていました。それを処分したあと、もう少しいそうだったので、同じように、今度は、半分に切ったアンパンをのせて、新しい粘着シートを置いてみました。すると翌朝、そこに一匹の獲物がかかっていました。また、新しいものを置いていますが、変化はありません。壁からの物音も聞こえなくなりました。これでもって、一件落着であればいいのですが……。いつもながら殺生するのには、こころが痛みます。(三月)

八.休暇村南阿蘇の日帰り温泉を楽しむ

これまで私は、お隣りの南阿蘇村にある「四季の森温泉」に通っていました。同じ村にある「瑠璃温泉」が売りに出され休業に入ると、「四季の森温泉」に客が流れ、混雑するようになりました。そうしたなか、「休暇村南阿蘇」が日帰り湯をはじめたことが、話題に上り始めました。さっそく私も試しに行ってみました。家から近いこともあって、それ以降、こちらの温泉を利用しています。

行く曜日は、いつもどおり、だいたい月、水、金の週の三日です。買い物やコインランドリー、役場や銀行などの街中での用事をすませ、一一時ころに駐車場に車を止めて、それから三〇分くらい隣接する野草園のなかをウォーキングし、一一時三〇分の温泉の入館時間にあわせてチェックインします。高森町民は五〇〇円で、町民でない人は八〇〇円です。「四季の森」に比べて浴室が広々としており、ホテルだけあってアメニティ・グッズも充実しています。根子岳を目の前に眺めることができる露天風呂があり、清潔でくつろげるサウナもついていて、とても快適です。

数年前に「高森温泉館」が廃館となり、つい最近も「月回り温泉」もなくなり、高森町からすべての温泉がなくなりました。そこへきて、「休暇村南阿蘇」の立ち寄り湯がはじまったわけです。しかし、お客は少なく、いつも閑散としています。毎日、一一時三〇分から三時までの宿泊客が利用しない短い合間の開館ですので、それが影響しているのかもしれません。営業的にはどうかわかりませんが、私のような、ゆっくり温泉を楽しみたい地元民にとっては、ありがたい憩いの場となっています。(三月)

九.トイレのタンクに水が溜まりにくい

二月の後半、強い寒波が長期間居座りました。外の最低気温は、いつもマイナス六度から八度まで下がり、日中も氷点下の日が続きました。まさに、冷蔵庫のなかにいるような環境です。しかし、書斎はエアコンと電気ヒーター、食堂兼居間はエアコンとガスヒーターのおかげで、設定した二〇度が維持され、快適です。

そうしたある日、トイレのタンクに水が溜まりにくくなりました。前に一度そうした現象があり、そのときは、水の出口の所についているフィルターの汚れを除去することで解決しました。それで今度もそうしてみました。しかし、うまくゆきません。全く出ないわけではないのですが、つららから滴り落ちるしずくのようなもので、一滴一滴しか出ず、タンクに溜まるのに時間を要すのです。これでは、短い時間を置いて次に使う場合に支障をきたします。

そこで考え付いたのが、水道管のどこかで凍結が発生しているのではないか、という仮説でした。であれば、暖かくなるまで待つしか解決の方法はありません。完全停止しているわけではないので、気長に様子を見ながら、それでも水の出が悪ければ、業者を呼ぶしかないと思い、そのままにしていました。

それから一、二週間が立ちました。流したあと、水の流れ出る音が聞こえてきました。ということは、水の出がよくなったことを意味します。タンクのふたを開けて、のぞいてみると、間違いなく以前より、多くの量の水が流れ出ています。凍結が原因だったのか、そうではなくて、何かのきっかけによる自然回復だったのか、それははっきりとはわかりませんが、いまや少し、暖かさを感じるようになってきたことは確かです。このまま、後戻りすることなく、春へ向かうといいのですが、これもまた様子見といったところです。(三月)

一〇.泌尿器科へ行く

二月のある日、続けて三回ほど血尿が出ました。それから一箇月ほど立った日に、また血尿が出ました。これは何かのサインかもしれないと思い、四月に入り、隣り村にある病院を訪ねました。この病院では週に一回、非常勤の泌尿器科医の先生が診療に当たられています。

この間の経緯を話したあと、さっそく尿検査と残尿測定、それにCT撮影をしました。結果は、膀胱に二センチくらいの大きさの腫瘍があるとのことでした。そして、確認すると、膀胱にできる腫瘍は悪性の場合がほとんどということでした。つまり、がんができているらしいのです。

この病院は、これ以上の検査と手術に必要な人材と設備が整っていません。そこで、熊本市内にある規模の大きい病院で再検査することを勧められ、予約を入れてもらいました。果たしてどんな検査結果が出るのでしょうか。

実は私は、定年の一年前に前立腺がんが見つかり、神戸大学医学部の附属病院で全摘出の手術を受けています。それで、がんの告知は、二度目になります。人は、いつかはその時を迎えるのでしょうが、それがいまや現実のものになろうとしているのです。しかし、余分なことは考えず、すべては結果を待って、残りの人生の処し方を考えようと思っています。(四月)

一一.柳川の川下りを楽しむ

この地区に住む高校の同窓生が集まって、柳川の川下りを楽しみに出かけました。これまでは、サクラの下での酒宴でしたが、去年の春から、少し遠出するようになりました。今年の「柳川川下りの旅」は、去年の「A列車で行く天草旅行」に続くものになりました。

私は、はじめての体験でしたので、とても楽しみにしていました。しかし前日夜半から雨になり、天候が心配でしたが、夜が明けると、小雨になり、予定どおり小型バスに乗り込み、さっそくビールを開けて、歓談がはじまりました。伝統的に、こうした行事には伴侶を同伴される方が多く、この会の特徴となっています。今回は、総勢一五名が参加しました。

柳川に着くころには、完全に雨も上がり、絶好の行楽日和になりました。川下りの舟は、われわれ一行の貸し切りでした。まだ両岸にはサクラが残っており、酒とつまみで、さらに会話が盛り上がりました。一時間ほどの、船頭さんの案内による、舟遊びでした。ちょうど途中で、和装の花婿と花嫁を乗せた舟に出合いました。船頭さんの話によると、この一団は、「御花」という名の由緒ある料亭での披露宴へ向かうところであるとのことでした。

私たちの舟も、「御花」に着きました。「御花」は、立花家を呼び習わす名前で、屋敷と敷地は、戦国時代に活躍した藩祖立花宗茂の時代にさかのぼるとのことでした。ここで、昼食として「ウナギのせいろ蒸し」をいただきました。もう柳川には天然のウナギはいないそうですが、しかし、久しぶりの美味を堪能しました。

庭園は、松濤園と呼ばれる、松と石で構成された実に立派なものです。残念ながらこの日は、結婚披露宴のために貸し切りとなっていて、窓越しに眺めるだけで、中に入って散策することはできませんでした。しかし、明治時代に建築された「西洋館」には足を踏み入れることができ、そこで雛飾りや「さげもん」を見ることができました。

「御花」を出た一行は、歩いて北原白秋の生家跡と記念館を訪ねました。白秋の生家が造り酒屋であったことをはじめて知りました。一時間くらいの見学でした。その後、再びバスに乗り込み、帰路につきました。(四月)

一二.熊本市内の病院で膀胱がんの検査を受ける

四月の二四日、済生会熊本病院で、採血、採尿、心電図、腹部エコーの検査後、医師の診察を受けました。エコー検査の結果、膀胱腫瘍(膀胱がん)の疑いがあるということで、ただちに膀胱鏡検査を受けることになりました。これは、尿道からファイバースコープ(内視鏡)を挿入し、膀胱内を観察する検査です。これにより腫瘍の存在が確認されました。そして、五月一六日からの二泊三日で、TURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)による手術が行なわれることが決定されました。

翌二五日、造影CT検査を受けました。これは、ヨード造影剤を静脈内に投与し、X線とコンピューターを使用して、体内の病変を調べる検査です。続く、二八日にMRI検査が行なわれ、その後に、CTとMRIの検査結果についての説明が医師からありました。

結果は、個数はたぶん一個で約三センチの大きさ、場所は膀胱の上部、上皮にできた表在性のがんで、おそらく筋肉層への浸潤はなく、また、他の臓器への転移も見当たらなく、最終的なステージと五年生存率については、TURBTの手術後に正確に判明するということでした。ただ、私の場合は、一回のTURBTではすべてを切除することができないことが予想され、そのため、約一箇月後に二回目のTURBTを実施することが示唆されました。また、この手術により根治が期待されるものの、表在性膀胱がんの場合は、術後二年で二割から五割の確率で再発する可能性があり、定期の経過観察が必要であることも示唆されました。

これを聞いた私は、それまでにネットで調べた情報と照らし合わせて、私のがんはステージⅠで、五年生存率は七〇パーセントではないかと、自分なりに判断しました。これは、私と同じ症状にある人が一〇〇人いるとすれば、そのうちの三〇人は五年を待たずして死亡することを意味します。この程度で収まったことをよしとするのか、いまは複雑な思いです。次は、五月九日に麻酔科の医師の説明を受け、その一週間後の一六日にいよいよ施術となります。(四月)

一三.手術入院前夜

いよいよ明日、済生会熊本病院に手術入院をします。

入院に際して、今週は毎日検温をしたり、かかりつけの病院から処方された薬の一部を止めて、済生会からの薬を飲んだり、昨日と今日は、下剤の服用もしました。明日早朝の坐薬で、薬の管理も終わります。入院用具の準備もほぼ完了しました。血尿もなく、排尿痛もなく、体に違和感はなく、病院に行くのが不思議な感じがします。日ごろは土日もなく、毎日五時間勉強をしていますので、この二泊三日で、ゆっくり休養をしたいと考えています。そのためパソコンはもっていきません。

人は自分の死に方の選択はできませんが、がんによる死が一番いいと、友だちもかかりつけの医師もいいます。心筋梗塞は、あっという間の出来事になりますし、脳梗塞は、言語や身体に障害が残ります。がんの場合ですと、その時が来るまである程度時間があり、食べたいものも食べ、会いたい人にも会え、子どもにも自分の思いを伝えることができます。そのことを考えると、自分は幸運であると思っています。

これから二回の手術を受け、それから、おそらく三箇月間隔の経過観察が続くものと思います。まさしく「闘病」という生活に入るわけです。何とか五年間は生存したいという目標をしっかりもって闘っていこうと思っています。五年生きれば、私は八一歳になり、男性の平均寿命に到達し、早くもなく、若くもなく、自分も周りもそれが受け入れやすくなるだろうと思うからです。ただ、著作集は完結するにはまだこれから九年が必要ですので、一部未完に終わることになりますが、あまり欲張ってもいけませんので、これくらいがちょうどいいのかもしれません。

普段は四時就寝ですが、明日からの病院生活を考えて、今日は八時に夕食をとり、そのあとベッドに入るつもりです。明日は完全絶食です。一〇時からは水分補給も禁じられています。六時に起きて坐薬を入れ、少し勉強をして、一〇時半ころに家を出て、途中熊本市立図書館(東部公民館図書室)に寄って借りている一〇冊の本の返却と再借用の手続きをして、受付時間の一二時三〇分までに着くように病院に向かいます。(五月)

一四.手術入院

膀胱がんにおけるTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)の手術には、ふたつの目的があります。ひとつは、膀胱内部の腫瘍を切除するという治療目的です。もうひとつは、切除した腫瘍の悪性度を病理学的に調べるという検査目的です。つまり、治療と検査を兼ねてこの手術は行なわれます。

別室で、体温や血圧を計ったり、特別の靴下に履き替えたり、そしてパジャマに着替えると、職員に案内されて中央手術室に入りました。廊下を挟んで左右の両側に、番号が付いた手術室が長く並んでいました。十何室かあったように記憶します。私が入室したのは、七番の番号が付いた手術室でした。麻酔は、全身麻酔ではなく、下半身だけの脊椎くも膜下麻酔であることを事前に告げられていました。手術用のベッドに横になると、すぐにも意識がなくなり、手術の様子は全くわからないまま終了しました。すこし意識がもどったときは、すでに手術は終わり、そこから入院用の病室に運ばれました。

到着すると、すぐに抗がん剤をカテーテルの管を通して注入されました。支柱(点滴スタンド)には、上に点滴と生理食塩液、下に尿袋(尿道留置カテーテル)がぶら下がっていたような記憶がうっすらと残っています。先生は、「切る」とか「切除する」とかという言葉はほとんど使われず、「削る」という表現をされます。おそらくこの手術は、電気メスで腫瘍を「削る」感覚で取り除くのではないかと想像されます。当初二泊三日の入院が予定されていましたが、先生の説明によりますと、広範囲に「削った」ので、入院を二日間延ばして、様子を見たいとのことでした。

手術当夜は、都合がつかず、二人部屋で一夜を明かしました。痛みがある場合は鎮痛剤を処方するとのことでしたので、覚悟はしていたのですが、耐えられないほどの痛みはなく、結局、痛み止めを使うことはありませんでした。

翌日、希望していた個室に移りました。窓からは、遠く私の住まいのある阿蘇が望めます。シャワーもついていて、さっそく利用しました。三度の食事もすべて完食し、大きなトラブルに襲われることもなく、無事四泊五日の入院が終わりました。カテーテルの管が取れたのは、退院前日でした。

次は、六月九日の外来受診のときに、病理検査の結果が告げられることになります。はじめてここで、ステージ幾つかが判明し、今後の治療方針が明らかになります。私の素人判断では、ステージⅠ、二度目の手術入院後、三箇月おきの経過観察になるのではないかと思っていますし、またその程度で止まってほしいと願っています。果たしてどうなりますか――。六月九日の受診までは、とりあえず体のことは忘れ、いままでどおりの生活と仕事に集中したいと思います。(五月)

一五.変化、それとも異常現象

この数年、この季節に感じることは、この森において、鳥の鳴き声がほとんどしなくなったことです。以前は、春から秋にかけて、いろんな鳥の鳴き声がこだまして、こころに安らぎを与えてくれていました。鳴き声が減少したのは、鳥がいなくなったからではないかと思います。私の散歩コースは、休暇村南阿蘇に隣接する野草園を一周することですが、この時期、望遠レンズをつけた大型のカメラをもった人たちとすれ違います。どうも手持ち無沙汰です。聞くと、やはり、被写体となる鳥がいないということでした。

夏の虫や蝶が姿を消したのは、もう一〇年以上になります。それまでは、夏になると、夜、網戸にいろんな種類の虫や蝶が集まってきていました。しかし、いまはもう、そうした生き物を目にすることはありません。

虫や蝶に加えて、鳥までもいなくなりつつあります。気温や湿度、日照時間や降雨量などと関係があるのでしょうか。

その一方で、ものの値段が高騰しています。コメに至っては、わずかなあいだに、二倍以上の価格に跳ね上がりました。食料品だけでなく生活用品も、またガソリンやガスや電気の料金も高止まりしています。これは、単なる変化ではすまされません。明らかに異常事態です。この現象も、虫や蝶や鳥がいなくなる現象も、根底では、ともに私たち人間の「異常」に由来しているように思われます。人間はいつから、どのような理由で、「異常」に陥ったのでしょうか。もう回復は望めないのでしょうか。(五月)

一六.診断の確定と今後の治療

病院から無事帰宅して、夕食を食べ、就寝したのが七時でした。いつもより三時間の遅れです。何度かトイレには行きましたが、今朝起きたのが七時。何と一二時間の睡眠でした。体調は良好です。全く心配はいりません。

昨日の診療の際に、前回の手術で採取した腫瘍組織の病理検査の結果についての説明がありました。以下にそれを箇条書きにします。

 
・私の膀胱にできた腫瘍は、膀胱内部の上皮にできた筋層非浸潤性がんだそうです。ステージⅠになります。これまでは、「腫瘍」という取り扱いでしたが、これで、正式に「がん」として診断が確定したことになります。それはつまり、これから治療に入ることを意味します。
 
・治療の進め方は、まず、来月の七月一〇日に、前回と同じTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)を受けます。前回の取り残しを切除するためです。一応二泊三日の予定ですが、出血が多いときなどには、前回と同じく主治医の判断で入院が延びることもあります。
 
・この手術のあと、一週間に一度、六週間にわたって、BCGを膀胱内に注入します。膀胱がんの特徴は、再発の可能性が高いことにあり、この治療は、がん細胞を死滅させ、再発やステージの進展を予防する目的で行なわれるものです。しかしながら、この治療には、人によっては激しい副作用(血尿、排尿痛、排尿困難、発熱等)が伴い、途中で別の治療に変更することもあるそうです。
 
・BCG注入の治療のあとは、二、三箇月おきに来院して、内視鏡で膀胱内を観察し、再発が確認できれば、そのつどTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)により切除することになります。これをとりあえず二年間続けることになるとのことでした。しかし、この切除手術を繰り返すと膀胱の機能に悪影響を与え、結果として、尿路の変更、つまりは膀胱の全摘出による人工膀胱への切り替えをしなければならない事態へと発展する可能性もあるとのことでした。
 
・五年生存率についてお聞きしましたが、明快な答えは返ってきませんでした。ネットで調べる限り、七〇%か八〇%ではないかと推定されます。この数値は、私の同じ状態の患者が一〇〇人いれば、その内の二〇人から三〇人は、五年以内に死亡することを意味します。
 

主治医によれば、以上が、この状態のがんに対する最良の標準的な治療方法だそうで、私もそれに同意しました。これから、いよいよがんとの闘いがはじまります。

主治医から受けた説明で印象的だったのは、かなりの確率で再発するため、何とかそれがステージの進展や他器官への転移につながらないことが最も重要である、ということでした。ステージⅡおよびⅢに進展すれば、つまり、筋層浸潤性がんが発生すれば、膀胱を全摘出し、それに代わって人工の膀胱を装着することになりますし、他の臓器への転移が認められるステージⅣになれば、もはや膀胱の摘出もなされず、全身の抗がん治療となり、まさしく終末期の医療に入ることになるのです。

私は、ステージⅠであったことにとりあえず安堵しました。何とかあと九年生きて、著作集全巻を完結する見通しが少し見えてきからです。しかし、これからの治療の過程で、望まない状況に進むことも、一方で十分考えられます。少しずつ様子を見ながら、そのときそのときで最善の対応をとるしかありません。楽観もせず、悲観もせず、現状をしっかり認識したうえで、一日一日、充実した勉強と、山での自然の生活を楽しみたいと考えています。(六月)

一七.みなみ阿蘇・野の花コンサートの開催

今年も、みなみ阿蘇・野の花コンサートが開催されました。八回目になります。このコンサートは、一九八一(昭和五六)年から二〇一四(平成二六)年まで三四回にわたって開催されてきた「はなしのぶコンサート」を継承するものです。これまでは、阿蘇野草園の屋外を会場に催されていましたが、今年から、お隣りの休暇村南阿蘇の「テラスハウス」での開催になりました。この時期は雨が多く、演奏者にとってはこの方がいいのかもしれません。しかし観客は、持参した敷物やイスを使っての野外からの鑑賞となります。私もイスと傘を用意しました。ときおり小雨が降りましたが、予定どおり、最後まで進行してゆきました。

出演したのは、地元の高森高校SPO吹奏楽団と南阿蘇中学校吹奏楽部、熊本市内の尚絅中学校・高等学校のギターマンドリン部などの団体でした。これが第一部で、午後からの第二部では、熊本県立鹿本農業高校の生徒や東海大学の学生らによる野草を守る取り組みの報告、加えて阿蘇野草園観察会が予定されていました。私自身は、第一部だけの参加でしたが、その幕間を利用して、「ハナシノブについて」と題して専門家による短い講話がありました。ハナシノブは、茎が三〇センチから五〇センチほどまっすぐに伸び先端に薄紫の小さな花を咲かせる、この土地にしか自生しない、いまや絶滅危惧種に指定されている、貴重な植物です。講話によりますと、これまでにハナシノブを絶滅に向かわせていた要因としては、「盗掘」「原野の縮小」「交雑」の三点が考えられていましたが、近年はそれに加えて、「気候の温暖化現象」の脅威を見逃すことができないとのことでした。昨年のこの土地の気温は、前年までの平均気温を二度上回っており、わずか一度の上昇であっても、植物の生息には大きな危険因子となっているようです。この日は、「テラスハウス」のステージに上がる階段に一〇体のハナシノブの鉢植えが並べられていました。

大自然のなかに響き渡る吹奏楽やマンドリンの美しい音色を聞きながら、他方で、ハナシノブの息苦しさを訴える声に耳を傾けながら、梅雨の日のひとときが、今年もまた、過ぎてゆきました。(六月)

一八.娘の来熊

去年に続けて、仕事の関係でこの時期、神戸に住む娘が熊本に来ました。私の山の家に二泊しました。話題はどうしても、私のがんのことになります。まだ私にがんが発生する数年前から、先を見越して、不測の事態に際しての対応について、ふたりの子どもに伝えていたのですが、いまや、それがやや現実のものとなり、この滞在のおりに、改訂版「私の今後について」をつくり、その内容を娘に伝えました。シンガポールに駐在する息子には、例年一時帰国する年末年始に伝えたいと思っています。

ひとり暮らしの老人が増えているといいます。私もその仲間です。一番気をもむのは、最期に際して、子どもたちに迷惑や負担をかけたくないという思いの扱いです。最後の入院、葬儀、家や家財の処分、どれをとっても、大変重たい対応を強いることになります。これから、がんとの闘いがはじまります。事態の変化に伴って、「私の今後について」の文章も書き換えてゆくことになります。いよいよ私の人生も、終わりに近づいてきています。これがいまの実感です。(六月)

一九.図書館での珍事

熊本市内にある図書館に行きました。一〇冊借りていた資料のうちの三冊を返却し、残りの七冊を再借用、加えて、新たに三冊を借りる手続きをしました。新規借用の三冊は、これから書庫に行き取りそろえておくので、退館するときに受け取ってはどうかということになり、私はその提案に従い、閲覧室で別の資料に目を通すことにしました。二、三時間が過ぎ、予定していた資料の閲覧が終わりました。そこで再び窓口へ行き、頼んでおいた図書を受け取ろうとしました。すると、司書の人が数人集まって、何やらひそひそ話がはじまりました。どうやら、何か問題が発生したようです。コミュニケーションが途絶え、虚無的な時間が流れてゆきました。

結論が出たのでしょう、ひとりの司書の方がカウンターから出てきて、私に話しかけました。その説明によると、私が借用の手続きをした三冊を、間違って別の来館者に渡し、その来館者はすでに館外に出てしまったようです。そこで、これからその人に連絡をとり、指定場所まで受け取りにいき、返却が確認されたら私に連絡するので、いましばらく待ってほしいということでした。

なぜ担当者は本人確認をしないまま、渡してしまったのでしょうか。また、来館者は、内容確認をしないまま、受け取ってしまったのでしょうか。一瞬、キツネにつままれたような話の内容でしたが、人間のミスは、えてしてそのようなものであると、これまた不思議にも魔法にかかったように、怒りも笑いも何もなく、感情が停止したまま、その状況を受け入れてしまったのでした。(六月)

二〇.町による備蓄米の配給

次のようなことが、新聞紙上で報道されました。

熊本県高森町は、コメの不足や価格高騰への対応を求める町民の要望を受け、民間からコメを仕入れ町内の子ども食堂や子育て世帯などに無償で配布する緊急支援事業を始める。配布は七月上旬を予定。町によると、今回の米価高騰を受けて自治体が現物配布方針を打ち出すのは熊本県で初めてという。

JA系の熊本パールライス(菊陽町)から、政府備蓄米(二〇二三年度)を五キロ当たり三、四〇二円で計一〇トン購入する。配布先は子ども食堂四箇所、中高生の下宿五箇所、一八歳以下の子どもがいる三五六世帯、六五歳以上の単身高齢者の七一九世帯、精米したコメを食堂には九〇キロ、下宿は子ども一人当たり一〇キロ、子育て世帯は一〇キロ、高齢者世帯は五キロ配る。

配布は高森町内のコメ販売店三箇所に委託。対象者は、町が発行する引換券を販売店に持ち込む。引換券は高齢者には町が郵送。子育て世帯は世帯主が町の公式LINE(ライン)を通して申し込み、電子チケットを受け取る。余ったコメは学校給食で活用する。

以上が、新聞が報道したおおまかな内容です。

それからしばらくして、町役場からお米の引換券が送られてきました。(七月)

二一.セカンドTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)

予定されていた七月一〇日、二度目のTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)を受けました。前回と全く同じ内容の手術ですので、幾分気持ちに余裕がありました。手術が終わり病室に運ばれました。主治医から、内視鏡で見る限り、がんの組織はすべて切除したことが告げられました。二泊三日の入院中、前回のように体調や気分に大きな陰りがあるようなことはありませんでした。事前に医師から聞いていたのですが、二度目とあって、免疫力が形成されていたのかもしれません。翌日には、点滴も、尿道留置カテーテルも取れました。痛みはなかったものの、血尿が続いていましたので、止血剤を服用することになりました。退院予定の朝になってもまだ完全に普通の尿の色にもどっていなかったのですが、私の希望もあって、主治医の許可が出ることになりました。私の思いのなかにあって、あと一日か二日で改善することが、前回の経験から感じられていたからです。

予感どおり、退院して自宅に帰って翌日には、血尿が止まりました。しかし、頻尿と尿漏れの解消までには、まだ時間を必要とする状態でした。退院から三日後、予定どおり病院から現状確認の電話がありました。血尿改善の話をすると、「それはよかったですね」という返事が返ってきました。次は、今回の手術で採取した細胞の病理検査の結果を聞くために、八月四日に病院に行きます。そしてそのとき、今後の薬物治療についての説明があるものと思われます。やっとふたつ目の山を越えました。しかし、まだ闘いは続きます。(七月)

二二.死を前提に生きる

主治医の先生との会話のなかで、職業を聞かれる場面がありました。そのとき私は、かつて大学で教鞭をとっており、いまは阿蘇の山のなかで執筆に専念し、ウェブサイトに公開している全二六巻の「中山修一著作集」の完成に向けて日々の暮らしを楽しみ、完結まであと九年かかります、と答えました。するとその医師は、「がんばって、執筆を早めてください」と、言葉を返してくれました。それからというもの、その言葉は励ましの言葉であったと思われるものの、つい思い出しては、もう自分は、九年は生きられないのではないかと反芻するようになりました。膀胱がんのステージⅠの五年生存率は、七〇%といわれています。同一病状にある一〇〇人中三〇人は、五年以内にステージが上がったり、他器官に転移したりして最期を迎えるのでしょう。それを思うと、何か人生のはかなさのようなものをどうしても感じてしまいます。そうなりますと、「どうせ死ぬのだから」という言葉が、口をついて出てきます。しかし、最近になって、「どうせ死ぬのだから」といって投げやりになったり、諦めて内側に閉じこもったりしないで、「どうせ死ぬのだから」もう少しよりよく生きてみたいと思うようになりました。そんなある日、スーパーで「ニッケ玉」が目に止まりました。七〇年前の自分がそこにいました。すーっと手が伸びました。どうやら私にとって死を前提にしてよりよく生きるとは、ほんの小さなことに喜びを見出すことのようです。(八月)

二三.薬物治療開始

退院から三週間が過ぎ、予約していた日時に病院に行きました。二回目のTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)の病理検査の結果が出ていました。一回目と同じステージⅠでした。進行していないことに安堵しました。しかし、血尿は止まっていましたが、頻尿と尿漏れはまだ続いていました。主治医の説明によると、これは膀胱炎の症状ということでした。そこで、抗生物質とロキソプロフェン(痛みや炎症を抑える薬)が処方されました。ロキソプロフェンは確かに私に効果的でした。一日食後三回の服用ですが、飲んで五、六時間くらいは、頻尿も尿漏れも和らぎ、快適な時間を過ごすことができます。しかし、効果時間が過ぎると、再び一時間か三〇分間隔のトイレタイムが襲ってきます。睡眠中に頻繁にトイレに行くのは、大変なつらさを伴うだけでなく、全体として生活の質を落とす要因にもつながってゆきます。

そうした生活が二週間続いたあとの八月一八日、予約に従って、再び病院に行きました。まだ、わずかながら膀胱炎の症状が続いていることを先生に話すと、BCG注入の治療に入るかどうか躊躇されている様子で、私に意見を求められました。私はそのつもりで覚悟を決めて今日来ていることもあり、先延ばしにせずに、今日から注入治療をはじめてほしいと要望しました。

それを受けて治療がはじまりました。すべての作業をひとりの看護師さんが行ないます。尿道から膀胱までカテーテルを入れ、それを通して尿を自動的にすべて排出し、そのあとに、今度は逆にBCG溶液四〇CCを注入していきます。時間にして一〇分程度です。それが終わると、この溶液が膀胱内部の全体に行き渡るまでの一時間、待合室での待機となりました。時間が来たところで、看護師さんに呼ばれ、紙コップにすべて尿として取り出し、これで一連の一回目の注入治療が終わりました。

先生からは、激しい頻尿や尿漏れ、血尿や排尿痛などの副作用があることを聞かされていたので、覚悟はしていたのですが、一晩明けたいまに至るまで、不思議なくらいに、全く副作用は出ていません。一週間後の来週月曜日が二回目の治療になりますが、何とかそれまで、副作用なしの生活ができればと、思っているところです。しかし副作用は、三回目くらいからより強くなるとも聞いていますので、まだまだ楽観はできません。

それでも、こうして無事に一回目が終わったことに、ほっとしています。これで、支障なく執筆が続行できます。執筆がいまの私の支えになっています。順次一巻一巻を完成させたいという強い思いが耐性なり免疫力となって、副作用を和らげているのかもしれません。(八月)

二四.支援金の支給

熊本県LPガス支援金審査サービスから、LPガス価格高騰対応支援金の支給についてのお知らせが郵送されてきました。それによると、今後三週間程度で、記載の振込先口座に五千円が入金されるとのことでした。この支援金は、これで三回目となります。思ってもいなかったことで、本当に助かります。

かつての一時期に比べると、LPガスだけでなく、電気料金や車のガソリンも高騰しています。さらにそのうえに、米や野菜や果物、肉や魚も、高止まりしていて、大きく生活を圧迫しています。いつまでこうしたインフレ状況が続くのでしょうか。先が見通せない不安感や、将来に希望がもてないことに対するいらだちは、若者世代に多いようです。収入は伸びず、支出だけが増える状況が続くと、人間誰しも生きる力をなくし、うつむいてしまいます。いまこうした困苦の感情が私たちの実生活をどんどん蝕んでいるのです。その結果、将来、何が待っているのでしょうか。想像するだけで、恐ろしくなります。年寄りの取り越し苦労であればいいのですが。(八月)

二五.BCG膀胱内注入の副作用か

先週の水曜日から、左のお尻からふくらはぎにかけて関節痛が出て、歩行に困難が生じる状態になりましたが、座っている限りは、痛みを感じないほどの症状まで回復しましたので、昨日は、病院に行き、四回目のBCG膀胱内注入を行ないました。車の運転中は全く痛みを感じることはありませんでしたし、杖も携帯しました。

関節痛が、この治療の副作用かどうか、主治医に聞いたところ、いまのところ判断ができず、坐骨神経痛のような別の病気が原因で痛みが出ている可能性もあり、様子を見ながら、あまりにも強い痛みが続くようだったら、近所の整形外科を受診するように勧められました。今日もまだ、立ったり、歩いたりすると痛みがあります。もうしばらく様子を見て、必要と思ったときは、前に膝の骨折で入院したときの、大津にある整形外科に行こうと思っています。

いまのところ、それ以外に副作用と思われる症状は出ていません。お薬は、カロナールと、ロキソプロフェンとそれに対応する胃薬の三種類を毎食後服用しています。その効果があって、この治療が引き起こす膀胱炎の症状を遮断しているものと思われます。

九月二二日と一〇月六日のあと二回で、このBCG注入の治療は終わります。副作用が出ない人はいないといいます。また、その症状も人によってまちまちのようです。向き合って、何とか、あと二回を乗り切りたいと思います。(九月)

二六.喜寿の誕生日を三箇月後に控えて


わがいのち 受けてこのかた 喜寿の今日
空となりにし この身喜ぶ

わがいのち よくぞここまで 保ちけり
死につつ生きて 生きながら死す

わがいのち 散るにまさるは 何もなし
ながらえるより いまここに辞す

草原も 静かにそして 厳かに

いまここに いよいよ昇る 月のなか

生かされし わが身を胸に 旅立ちぬ(九月)

二七.副作用ではなく脊柱管狭窄症でした

少しまだ痛みが続いていましたので、昨日、かつて膝の骨折で手術し入院したことのある整形外科を訪ねました。レントゲンの結果、脊柱管狭窄症による痛みであることがわかりました。BCG膀胱内注入による副作用にみられる関節炎の痛みではありませんでした。

私の場合この痛みは、立ったり、歩いたりするときに現われます。しかし、座っているときや、車の運転をしているときには現われません。つまり、椅子に座ってパソコンに向かっているあいだは痛みがなく、勉強に支障はないのですが、台所に立ったり、掃除機を使ったり、部屋から部屋へ移動したりするときに痛みが走り、つらい思いをします。

二週間分のお薬(プレガバリンOD錠)を処方してもらい、腰部固定帯も購入しました。初期の症状なので、手術の必要はなく、二週間以内には、痛みは緩和するとの説明でした。また、済生会熊本病院の主治医の先生宛てに、病状に関するお手紙(診療情報提供書)も書いてもらいましたので、次回のBCG膀胱内注入をする二二日に、もっていこうと思っています。

早くも薬の効果が出はじめ、痛みが和らいでいます。また、BCG膀胱内注入治療にみられる、激しい膀胱炎のような副作用も、幸いなことに、いっさい出ていません。本当にありがたいことです。(九月)

二八.膀胱がんステージⅠの治療完了

二回のTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)と六回のBCG膀胱内注入治療が終わりました。これでもって、膀胱がんステージⅠの標準的治療が完了しました。本来であれば、あるいは、論理的には、これですべてのがん細胞が死滅し根治したことになります。しかし、膀胱がんの場合は、再発率が非常に高く、それを早期に発見するために経過観察が必要とのことで、この経過観察は二本立てで行なわれます。ひとつは、採尿によりがん細胞の有無を調べる検査です。もうひとつは、尿道からファイバースコープ(内視鏡)を入れて、直接膀胱内を見る検査です。これから約二年間、だいたい三箇月おきに、これらによる観察が進められてゆきます。主治医によれば、私の場合の再発率は、およそ五割だそうです。再発を防ぐための、食事や運動などに関する事前の予防法もなく、すべては天の配剤にゆだねるしかありません。もし再発が認められた場合は、最初にもどってTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)により、がん細胞を削ることになります。一回目の経過観察のための検査が、二箇月後に予定されました。もうもはや、私は、自身の努力やこころがけでは、いかんともしがたい状況にあります。昨夜は中秋の名月でした。月や星は、私のいのちの行く末を知っているのでしょうか。私に残されているのは、何も考えず、無になって、日々の勉強と生活を続けることだけです。(一〇月)

二九.高齢者への温泉入浴料の助成

私の住む高森町では、だいたい二週間ごとに回覧文書が出ます。私のような外部から移住してきた新参者は、昔からの集落単位の行政区に所属することは嫌われ、したがって、回覧文書も役場に取りにいくことになります。先日受け取りにいった回覧文書を一つひとつ、自宅に帰って眺めていましたら、「高齢者温泉施設入浴料助成事業の実施について」というお知らせが目につきました。内容は、高森町内とお隣りの南阿蘇村にある温泉施設の入浴料金の一部を助成するというものでした。具体的には、高森町にある休暇村南阿蘇の温泉については、私は高森町民ですので、いま一回五〇〇円で利用していますが、町が今後二〇〇円助成することによって三〇〇円になり、一方、南阿蘇村にある白水温泉瑠璃と久木野温泉四季の森のふたつの温泉につきまして、村民外である私の場合は、これまで一回六〇〇円でしたが、これが二〇〇円の町の助成により、今後四〇〇円での利用が可能、と書かれてありました。

私のこの地区の温泉とは、長いお付き合いがあります。私が定年と同時にこの地に移り住んだのは、これまで別荘として使用していた小さな家がここにあり、その自然に恵まれた環境のなかで、前立腺がんの治療を終えたばかり私の体を癒したいという思いからでした。それからすでに一二年が立ってしまいました。最初私は、瑠璃温泉に日に二回通いました。しかし、熊本地震後しばらく休館になり、通う温泉を地元の高森温泉館に替えました。すると今度は、町が運営するこの温泉は、入館者不足で閉館となってしまい、再び瑠璃温泉に変更しました。すると、瑠璃温泉までもが、赤字経営に陥り閉館となり、少し遠い四季の森温泉に通うようになりました。やっと慣れてきたころ、確か今年の春のことでしたが、今度は、村外者の入浴料金が、一回五〇〇円から六〇〇円に上がってしまいました。ちょうどそのころ、南阿蘇休暇村が、高森町民の場合、一回五〇〇円で昼間の短い時間帯に開放するというニュースが飛び込んできました。利用時間に制約があるものの、南阿蘇休暇村は、私の家から最も近く、料金も安く、露天風呂からの眺めもすばらしく、迷わずそのときから、南阿蘇休暇村の温泉を楽しむようになりました。

売りに出されていた瑠璃温泉は買い手がつき、最近再建されたようですが、私はまだ一度も行っていません。また、南阿蘇村には、熊本地震で甚大な被害を受け、再建の見通しが立っていない別の温泉もあります。

この一二年のなかにあって、温泉料金は三〇〇円から高騰を続けてきています。それにあわせて、私の利用回数も、最初来たころの日に二回から、いまの週三回へと、どんどん減少してきました。そうしたなか、今回、町の助成がはじまります。他方でこの間、地震もあり、閉館もあり、追われるようにして、余儀なくもうひとつの温泉へ足を運ばざるを得ない事態に何度か遭遇しました。それによって、いつも身近な話題で盛り上がっていた温泉仲間や受付の人たちとやむなく別れることになり、人の縁が次第に希薄になってゆくのを感じてきました。

一見平和で穏やかそうに見える田舎に、自然災害があったり、人口減少によって経営が成り立たなくなったりと、日本全体の縮図ともいえる現象が起きているのです。これからもまだまだ、日本の社会的変動の写し絵となって、私の温泉生活も変動し続けてゆくものと思われます。(一〇月)

三〇.父の絵画作品を写真に撮る

私がいま住んでいる山荘を建てたのは、一九九〇年代のはじめでした。もう三〇年以上も前のことになります。そのころは子どもたちもまだ小さく、春や夏の帰省にあわせてこの山荘に足を伸ばしては、ひとときの自然に囲まれた山暮らしをしていました。私たちが使わないときは、熊本市内に住む両親が、しばしばこの山の家にやって来て、老後の生活を楽しんでいました。母親は庭いじりが好きで、父親は、近所の風景を写真に収め、実家に持ち帰っては、油絵に描く趣味をもっていました。こうしてできた作品が、実家にはたくさん残されていました。父親が亡くなったとき、その多くは、ゆかりの人たちに受け取ってもらいました。ただ遺作のなかで、自分の関心を引く数点は、この山荘に移動し、父親がこの家に残していた作品とあわせて、十数点を壁に掛けて暮らすようになりました。どの作品も阿蘇の絵で、外も阿蘇、内も阿蘇、まさしく阿蘇一色の空間となりました。しかし、これらの絵を見ながら、私の死後、この作品たちはどうなるのだろうと、ときどき考えるようになりました。そこで、とりあえず写真に撮り、紙に焼いたものと、デジタル化されたデータとでもって、保存することにしました。いつ、どういう方法で撮影をするか悩んでいた、ちょうどそのときです、私のマイナンバーカードについての更新の知らせが届きました。更新申請書には所定の大きさの顔写真を添付する必要がありました。そこで、いいタイミングだと思って、近くの写真館で、顔写真だけでなく、この家にある父親の遺作のほぼすべてを撮影してもらうことにしました。そのとき私の肖像写真もお願いしました。遺影にするためです。これらすべて、終活の一環です。いま私の頭のなかには、近づく死を前に自分がなさなければならないことが、幾つも刻まれており、意識的なのか無意識的なのか自分ではわかりませんが、タイミングに遭遇すれば、それに引きつけられるようにして、ひとつずつ実行しているようです。(一〇月)

三一.「中山修一著作集」の更新

「中山修一著作集」を更新しました。前回は二月でしたので、この間九箇月が立っていました。振り返れば、この間の九箇月は、私にとって、少し大げさにいえば「死闘」の日々でした。膀胱がんが確定し、五年生存率が七割か八割であることを知ったときは、二、三割の確率で自分も五年以内に死ぬ運命にあることを覚悟しました。死を覚悟するのは、はじめてのことです。しかし、受け入れなければなりません。幸いなことに、それまでに少し時間がありそうです。最大の課題は、いま住んでいる家と家財をどう処分するかです。負の財産を子に遺すことはできません。そう考えると、少し元気なうちに、わずかな身の回りの品だけをもって老人ホームに入り、この家を無償で譲り渡すか、その受け手が見つからなければ解体するしかありません。こうして、私の終活は本格化してゆきました。

しかしながら、実際は、なかなか体がついてきてくれません。二度の手術と六回にわたるBCG溶液の膀胱注入が、頻尿と尿漏れを誘います。ほぼ同時に発症した脊柱管狭窄症が、激しい痛みをもたらします。八方が完全にふさがれた状態でした。しかし、不思議なことに、人間の体には、自分で元の体にもどろうとする復元力があるようです。それと、症状を緩和しようとする薬剤の効果も大きく働きます。徐々に徐々に回復に向かってゆきました。そうしたなかでの著作集の更新でした。全二六巻を眺めると、少しずつ空白部分が埋められてゆくのがわかります。完全に埋められて、全巻が完結するのに、少なくともあと八年が必要です。完結まで生きて執筆ができるか、誰もわかりません。しかし、今回の更新は、ゴールへ向けての一歩であることは間違いありません。そこに喜びを感じます。

新しいマイナンバーカードができたとの知らせが役場からありました。役場で受け取ると、次回の更新は一〇年後とのことでした。私がふと、「それまで生きているだろうか」と漏らすと、その女性職員は、「大丈夫ですよ」といいながら、両手で私の手を握ってくれました。(一一月)

三二.歯が痛む

膀胱がんと脊柱管狭窄症に苦しむ私に、今度は歯の痛みが加わりました。痛みは、左の上下の奥歯です。それと上の奥歯に内接した頬の内側にも痛みがありました。私は元来歯の治療は苦手で、しばらく様子を見ていたのですが、我慢も限界に達し、近くの歯科医院に駆け込みました。予約もないままの受診でしたので、一時間ほど待ちました。診察用のイスに座っただけで、血の気が引いてゆく感じに襲われます。その間、口のなかの診察と、全体の歯のレントゲンと写真撮影がありました。医師の見立ては、上の奥歯は虫歯で、下の奥歯は、根の部分が残っているものの、上の部分は欠損しているとのことで、両方とも抜歯した方がいいだろうということでした。一方、頬の内側の痛みは、上の奥歯の先端が常時触れることよって発生する痛みと思われるが、しこりもあるので、腫瘍も考えられ、痛みが続くようだったら、口腔外科を紹介するとのことでした。この日は、上の奥歯の先端部分を削る処置をし、この歯を抜く、次の来院日を予約することで終わりました。

抜歯の予約日が来ました。ほぼ予約時間どおりに診療がはじまりました。医師の説明では、虫歯であるため、途中で歯が折れる可能性もあり、折れた場合は、その後それに続いて根の部分を抜くことにするということでした。麻酔を終え、抜歯がはじまりました。もう私は生きた心地がしません。半分意識がなくなっていたように感じます。医師から声をかけられ、無事一回で根っ子まで抜けたということで、その歯を見せてくれました。痛みもほとんどなく、出血も同じくほとんどありませんでした。なぜ生きた歯が、すーっと静かに抜けるのか、その理屈がわからず、恐怖感が全身を襲っていたのかもしれません。

今日は、炎症を止める抗生物質と痛み止めロキソプロフェンが処方され、抜糸と消毒の次の予約を入れて、終了しました。

抜いた歯も、残っている下の歯も、痛みがありません。頓服として処方された痛み止めは使う必要はないようです。また、頬の内側の痛みも取れています。やはり、虫歯の奥の歯との接触が原因だったようです。これで、口腔がんの疑いはなくなりました。(一一月)

三三.経過観察で再発発見か

膀胱がんステージⅠの標準的治療である、二回のTURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)と六回のBCG膀胱内注入治療が終わり、いよいよ、尿道からファイバースコープ(内視鏡)を入れて、直接膀胱内を見る経過観察に入りました。これから約二年間、だいたい三箇月おきに、この観察が進められてゆきます。

一回目の経過観察のために病院に行きました。主治医の先生とモニターを見ながら膀胱内を見ます。どうも腫瘍ができているようです。診察室にもどり、その画像を指さしながら、がん再発の疑いがあることを告げられました。再発率はおよそ五割と聞いていましたので、悪い方の目が出たことになります。それにしても、一回目で再発とは、思ってもいなかったので、少々ショックを受けました。MRIなどの手術前の検査の日と、入院の日程が決まり、その日は帰宅しました。

一二月一日に、手術に先立つ検査を行ないました。血液検査、尿検査、心電図、MRI、レントゲンなどです。しかし、どの検査の結果においても、がんを疑うに十分な因子は確認することはできませんでした。主治医の話によると、先日内視鏡で見た腫瘍は、がんではなく、膀胱炎などの炎症でできた腫物の可能性も排除できないということでした、しかしながら、TURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)の手術は、予定どおり、一九日に行なわれます。三泊四日の予定での入院です。三回目の手術となりますので、だいたいの様子はわかっているとはいえ、やはり一抹の不安は残ります。

手術後、削除した細胞は病理検査に出されます。その結果、単なる良性の腫瘍か、いままでどおりのステージⅠのがんか、さらに進行したステージⅡのがんかが判明します。おそらく、年が明けた通院日に、それが主治医から告げられるものと思われます。

ステージⅠであれば問題ないのですが、もしステージⅡになっていれば、たぶん尿路変更手術を受け、人工膀胱を装着することになるでしょう。これだけは避けたい気持ちですが、ステージⅠからステージⅡへ進む確率は、主治医の説明では1割だそうです。悪い方の目へ振れないといいのですが。こればかりは、心配しても、どうなるものでもありません。一つひとつ、そのときそのときの結果を踏まえながら、最善の選択肢を選んでゆきたいと考えています。(一二月)

三四.「お米券」配布

住んでいる高森町から「生活支援お米券」が支給されることを知り、先日、町役場で受け取りました。この「生活支援お米券」は、千五百円の割引券です。たとえば五キロ四千五百円のお米を町内の指定されたお店で買うときに渡せば、三千円で購入することができるとのことでした。一二月と、来年の一月、二月、三月の四回、この「生活支援お米券」が一枚発給されます。

私の感覚ですと、この間お米の価格は、ほぼ二倍に跳ね上がりました。お米は主食ですので、食べないわけにはいかず、この高騰は家計を圧迫します。なぜ、こんな値上がりを招いたのでしょうか。もうこれが通常の値段となり、元にもどることはないのでしょうか。「生活支援」もありがたいのですが、このまま高止まりするのであれば、それにふさわしく給与も年金も上げてほしいと思います。一時しのぎの「生活支援お米券」では、根本的な解決にはならず、焼け石に水になってしまう可能性の方が高いような気がします。(一二月)

三五.民生委員の交代

一昨日、三年の任期が切れたということで、新しい民生委員の方を連れて、引継ぎの紹介に来られました。ひととおりの話が終わると、話題は、私の足のことへと移りました。

いうまでもなく、脊柱管狭窄症による足の痛みについてです。私の場合は、椅子に座って勉強することにも、車を運転することにも、ベッドで十分な睡眠をとることにも、支障は出ていません。ありがたいことだと思っています。しかしながら、歩くのに少し不自由をしています。室内での歩行はもとより、買い物や銀行や役場などで、駐車場から目的地までの歩きに痛みが伴うのです。杖をつきながら、半歩半歩の歩みとなります。階段を昇るときや重い物をもつときは、その痛みは倍増します。ときには話しかけてくる人や手を貸してくれる人もいます。膀胱がんの治療をしている大きな病院では、車椅子の対応をしてもらえます。

私の歩く姿を見て、新旧の民生委員の方から、高森町の地域包括支援センターへ、私の足の具合について報告をしておくというお言葉があり、その日は、お帰りになりました。

その数日後、地域包括支援センターの職員の方がいらっしゃいました。その日は、介護保険制度について、支援や介護の認定について、高森町と、お隣りの南阿蘇村の老人ホームについてなど、いままでにほとんど知ることのなかった、さまざまな貴重なお話を聞く機会となりました。年が明けたら、とりあえず、「白水高原ホテル」という名のかつての温泉ホテルが改装された、南阿蘇村にある有料老人ホームを見学する方向で、アレンジしてもらうことが決まりました。

膀胱がんがステージⅡに進み、人工の膀胱を装着するようになれば、また、脊柱管狭窄症の痛みがさらに強くなって続くようであれば、いまの生活を維持することはできなくなるにちがいありません。最悪の状況になる前に、早目の対応が必要であると考えた次第です。ここへきて、少しずつ、私の晩年の生活が動き出している感じがしています。未知の霧に包まれながら……。(一二月)

三六.三回目の切除手術完了

すでに書いていますように、血液検査、尿検査、心電図、MRI、レントゲンなどの術前検査の結果では、がんを疑うに十分な因子は確認することができませんでした。主治医の話によると、先日内視鏡で見た腫瘍は、がんではなく、膀胱炎などの炎症でできた腫物の可能性も排除できないということでした。しかし、TURBT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)の手術は、予定どおり、一九日に行なわれました。三泊四日の入院でした。

手術によって切除された細胞は病理検査に出され、その結果、単なる良性の腫瘍か、いままでどおりのステージⅠのがんか、さらに進行したステージⅡのがんかが判明します。おそらく、年が明けた一月五日の通院日に、それが主治医から告げられるものと思われます。

こればかりは、心配しても、どうなるものでもありませんので、一つひとつ、そのときそのときの結果を踏まえながら、最善の選択肢を選んでゆきたいと考えています。

この入院で、ひとつ感動的な経験をしました。退院の前日の夕方、病室のある五階のフロアーを、杖をつきながら歩行訓練をしていたときのことです。南西の行き止まりの非常用の出入り口までたどり着きました。ガラスの扉越に眼前に見たものは、木原山の全景でした。ここは高群逸枝の少女期の遊び場となっていたところです。私もよく父に連れられて山中の不動尊に参拝した思い出があります。いま私は、その山の容姿のすべてを手に取るようにして眺めているのです。感動的でした。

そしてまた、視線を天空に向けると、夕日が、木原山から西の天草、島原方面へと赤々と輝きながら、落ちてゆこうとしている瞬間でした。逸枝の自伝には、こうした夕日を眺めながら、自分も含めて、幼子を背負ったこの土地の子守りたちは、大勢集まって「五木の子守歌」を合唱したと書かれてあります。百年以上前の情景の再来を見るような思いで、沈みゆく夕日を、「五木の子守歌」をこころで口ずさみながら、じっと見つめていました。今年は、病に悩まされた年でした。その二〇二五(令和七)年も、いままさに暮れようとしています。(一二月)