本稿は、女性史学者である高群逸枝の戦後における戦前思想の清算の一過程に照明をあてて、その実際を、残されている一次資料(エヴィデンス)の範囲のなかにあって紹介するものです。内容は、ふたつの論点から構成されます。ひとつは、戦前のアナーキズム的政治思想が、戦後にあってどう否定的に論じられるに至ったのかという側面です。そしてもうひとつは、戦前の皇国史観が、戦後どのようにして脱色されていったのかという側面です。私自身は、その過程や方法が妥当であったかどうかを評価する立場にはありませんが、その実際について言及することの必要性については、著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』をいま書き終えた伝記作家ないしは歴史家として感じるところがあり、あわせて「おわりに」において、同世代に属する陶工の富本憲吉の身の処し方に触れ、その異同を見てみたいと思います。以上が、本稿の目的と方法ということになります。
高群逸枝が、単身熊本の片田舎から上京し、時期を同じくして『日月の上に』(叢文閣)と『放浪の詩』(新潮社)を上梓するのは、一九二一(大正一〇)年の六月のことで、二七歳になっていました。それから五年後の一九二六(大正一五)年四月、夫の橋本憲三が勤務していた平凡社の別会社である萬生閣から『戀愛創生』が世に出ます。ここに、マルクス主義と無政府主義者(アナーキスト)について、本人自らが言及していますので、以下に、その一部を引用します。最初は、マルクス主義に関しての部分です。
マルクス主義の理論は、その有名な唯物史観に根をもつてゐる。 唯物史観といふのは、人間の一切の生産樣式は、物質的事情、経済関係の如何によつて決定する。人間の社會生活の外観は勿論、その精神生活、政治、法律、道徳、宗教、文藝、科學、哲學等も、すべて、その時代の経済組織を中心として變化する。といふのである。 (中略) この生産関係の総和が、社會経済の骨組みをするので、法律、政治など、上部構造を作り上げる、眞實の基礎。また、それに相應する、ある社會的自覺を生む基礎1。
次の引用は、無政府主義者(アナーキスト)についての部分です。
無政府共産主義者として數へらるゝものに、プルードン、バクニン、クロポトキンがある。 プルードンは、平等を力強く主張した。境遇の平等、機會の平等を。 プルードンは、國家的支配を否定し、人間としての自由を熱望し、バクニンは、革命的無政府主義者として、革命の化身といはれ、人間平等の精神に立脚して、一切の特権制度に反對した。 彼の理想社會は、政府といふ組織を持たないばかりでなく、いかなる種類の制度をも持たなかつた。 (中略) クロポトキンの思想は、「パンの略取」「相互扶助」論等で有名である2。
逸枝は、マルクス主義ではなく、無政府主義(アナーキズム)の立場にありました。アナーキズムに惹かれた経緯について、本人は、以下のように書いています。
私がアナキズムにひかれたのは書物からではなく、大逆事件に私の故郷から無実と思われる犠牲者たちを出したことが火の国の娘の胸を打ったのが遠い動因の一つであり、またKが下中さんの教員組合啓明会の雑誌や出版物に加勢して自然に私にアナ系の思想を持ち込んだことが近い契機の一つとなったともいえよう3。
大逆事件とは、捏造された「天皇暗殺計画」を理由に、社会主義者や無政府主義者の二六人が逮捕され、翌年の一九一一(明治四四)年一月、大審院は、逮捕者全員に有罪の判決を言い渡し、『平民新聞』を創刊した幸徳秋水を含む一二人に対して、大逆罪での死刑が執行された一連の出来事を指します。このとき逸枝は一七歳、そしてまた、『青鞜』が創刊された年でもありました。死刑の犠牲者のなかに、逸枝と同郷の新美卯一郎と松尾卯一太がいました。ふたりとも、熊本県尋常中学校(現在の熊本県立濟々黌高等学校)の卒業生で、一九〇七(明治四〇)年に『熊本評論』を創刊していました。この肥後人の非業の死が、まさしく「火の国の娘の胸を打った」のでした。のちに逸枝の弟の清人も元男も、この学校で学びます。他方、「教員組合啓明会の雑誌や出版物に加勢して」いた「K」とは、平凡社の社長である下中彌三郎の思想に共鳴し、そのもとで働いていた夫の憲三であることは、いうまでもありません。
そしてまた、いうまでもなく、「アナ」とは、アナルコ・サンディカリスム派 (アナ派、無政府主義、組合主義)を、「ボル」とは、ボルシェヴィズム派 (ボル派、マルクス主義、レーニン主義)を指します。この両者間の論争は、社会運動や社会主義運動を巡る思想的、実践的対立として、一九二〇年代のはじめから展開されてきていました。たとえば、労働組合運動の組織論に関しては、アナ派は自由連合論を唱え、政党の指導を排除すべきであると主張しました。それに対してボル派は、中央集権的な組織論を展開していました。
さて、ここでの論争の中心となる人物は、山川菊榮と高群逸枝です。菊榮は社会運動家の山川均の妻で、いわゆる「科学的社会主義」の立場にあるボル派であるのに対して、逸枝はアナ派の立場にあり、その考えは、どちらかといえば「空想的社会主義」でした。舞台は、一九二八(昭和三)年の『婦人公論』の誌上。まず、その五月号に逸枝は、「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」を寄稿します。それに対して、次の六月号において菊榮は、「ドグマから出た幽霊――高群逸枝氏新發見の『マルクス主義社會』について――」を著わし反論します。すると、七月号の『婦人公論』に逸枝は、「踏まれた犬が吠える――山川菊榮氏に――」と題した文を寄稿し、再反論を試みます。その二箇月後、今度は平林たい子が筆を執り、「ロマンチシズムとリアリズム――山川菊榮・高群逸枝両氏の論争の批評――」を『婦人公論』九月号に寄せました。
解放された女性の姿と、その人がかかわる恋愛、結婚、家族のあり様とを、過去の一時期の、女性が中心であったにちがいない社会に目を向けてそこから引用するのか、それとも、社会進化の必然的結果として出現するであろう近未来の世界に託すのか、平林は、逸枝と菊榮の論争を「ロマンチシズムとリアリズム」の対立としてみなしたのでした。
以上が、一九二八(昭和三)年の『婦人公論』誌上における逸枝と菊榮のあいだで戦わされた「アナ・ボル論争」でした。その翌年(一九二九年)、この論争は舞台を変え、『婦人公論』から『女人藝術』へと持ち込まれてゆきます。「アナ派」としては、八木秋子や伊福部敬子に加えて高群逸枝が論陣を張ります。一方、「ボル派」の論客は、中島幸子や隅田龍子といった人たちです。「ボル派」の視点に立てば、「アナ派」の主張は、政治行動を否定する反動的ユートピア思想に見えます。他方「アナ派」には、「ボル派」の思想は、ブルジョワ教育によって与えられた国家偶像観の悪しき観念に映ります。この論争のなかにあって『女人藝術』へ逸枝が寄稿した文が、一九二九(昭和四)年九月号の「小ブル藤村成吉に與ふ」と一二月号の「お出になさつた」です。後者の論文の副題は「一アナーキストの宣言」となっています。このとき逸枝は、はっきりと「アナ―キスト宣言」をしたうえで、きっぱりと『女人藝術』から離脱することを決意したものと思われます。この文の最後は「さよなら」4で結ばれています。
年が改まった一九三〇(昭和五)年の一月、逸枝の『黒い女』が解放社から出版されます。この本の第一章に相当するのが「妻」ですが、これは、短編六作品で構成されています。内容的には、逸枝のそれまでの人生を総括した自伝的寓話として読むことができます。このなかにある幾つかの断片を拾い上げてみます。逸枝と憲三の関係、逸枝に対する憲三の役割、そして、逸枝がアナーキストへ姿を変える過程が、自ずと見えてきます。以下に引用します。
初めて東京駅に下りたとき亭主がいふには、 『たまらない不調和を感ずるね。さあ、こいつを踏みにじつて行かう』5。 『洗濯はいやだ』と私の心がつぶやく。 『裁縫も……』 そしてたゞ溜息をついて私はゐる6。 私は、此上もなく、おづおづと、夫を恐れてゐた。けれど、私がどんなに夫を愛してゐるか、そして夫を離れると、もう私というものはなくなつてしまふといふことを、ひとこと、夫に云ひたいと思つた。けれど、それは云へないことだつた7。 『俺はお前も知つてゐる通り、小作人の子だ。お前はお前で、もつと酷い者の子だ。だから俺達は當然、階級といふものを勉強しなくてはならん』 こうして彼らは、事物に關し二つの相反する意見といふものを持ちはじめた8。 彼女は夫がおぼえてきて歌ふあらゆる歌を世界のどんな歌よりも早くおぼえてそれを歌ふのであつた。 『そんな歌わらはれるよ。男はいいけど』 と時々夫が夫そつくりの調子で歌つてゐる妻を見ながらいふ。 『だつて……』 と妻はつぶやく。 『あたしそんなら何を歌へばいいの』 そして涙ぐむ9。
しかしながら、逸枝の筆力は、これをもって一段落したわけではありません。そのとき彼女は、無産婦人芸術連盟の創設という新しい動きのなかにありました。風雲急を告げる彼女の日記の一九三〇(昭和五)年一月の一部には、以下のようなことが記されています。この結社の設立と機関誌の刊行には、「K」のイニシャルが示すとおり、夫である憲三が深くかかわっていたのでした。無産婦人芸術連盟の会合や機関誌『婦人戦線』の編集作業は、逸枝の住まいの上荻窪の家で行なわれました。
一月二日 はれ 『婦人戦線』準備会。(K) 一月十日 はれ 『黒い女』解放社から届ける。 一月二十六日 はれ 無産婦人芸術連盟成立。機関誌『婦人戦線』。出席者平塚らいてうさんら十四名。(K)10
かくして、『女人藝術』内での「アナ・ボル論争」は、アナーキズム派が離脱して、新しい団体を組織することにより、ひとまずの決着に至ります。一月二六日に結集した創設会員は、伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子の一四人でした。続いて、機関誌『婦人戦線』が産声を上げるのが、この年(一九三〇年)の三月一日。「アナ・ボル論争」を経て、「アナーキスト高群逸枝」の独自の舞台が、ここにこうして誕生するのです。
『婦人戦線』創刊号(三月号)に逸枝は、「婦人戦線に立つ」を書きました。このなかでの逸枝の主張は、こうなります。労働者は労働者であることを「自覚」することにより、農民は農民であることを「自覚」することにより、そして、婦人は婦人であることを「自覚」することによって、それぞれに、自らの手になる「自治」を求める。いずれもそれらは、政治社会(強権社会あるいは専制社会)を完全に否定するし、同時に、「自治」への介入も拒む――。
そしてまた、同じく逸枝の主張は、創刊号に掲載されている「創刊宣言」または「綱領」と呼ぶにふさわしい以下の文言に端的に凝縮されています。これが、無産婦人芸術連盟の旗印となるものでした。
一 われらは強權主義を排し、自治社會の實現を期す。 標語 強權主義否定!
二 われらは男性専制の日常的事實の曝露清算を以て、一般婦人を社會的自覺にまで機縁するための現實的戦術とする。 標語 男性清算!
三 われらは新文化建設および新社會発展のために、女性の立場より新思想新問題を提出する義務を感ずる。 標語 女性新生!11
あえて以上の「創刊宣言」を図式化すれば、「強権主義=資本主義=家父長主義の否定」、対するは「自治主義=組合主義=母性中心主義の新生」となるでしょうか。
しかし、『婦人戦線』の刊行は、それほど長くは続きませんでした。翌年(一九三一年)六月発刊の第一六号をもって終刊となります。もともとは夫の憲三の主導ではじまった雑誌の刊行であったにもかかわらず、その夫が、消極的な態度を見せ始めます。なぜだったのでしょうか。アナーキズムに対する熱情が冷めてしまったという精神的変容が底辺に存在していたことは明らかであるとしましても、それに関連した具体的な要因も幾つか考えられそうです。たとえば、解放社に支払う負担金が重荷になっていたのではないか、特高や憲兵による連行を避けようとしたのではないか、あるいは、当初志していた女性史研究の道に妻を連れ戻そうとしたのではないか、はたまた、夫婦のあいだに表に出すことがはばかられるような問題が発生し、そのことへの対応が迫られていたのではないか――おそらくは、何かひとつの要因によってというよりも、むしろ複合的な要因が絡み合って、そのときの憲三の内なる思いは形成されていたのではなかろうかと推量されます。ここに、「最大の夫婦の危機」が到来したのでした。
逸枝の立場に立てば、夫の勧めによって意を決し、不退転の覚悟のもとに開始した雑誌刊行から手を引くことは無責任なことであり、自身の矜持が許しませんでした。しかし、逸枝は、「社会運動はロマンチシズムではいけないと思う。また、各人にはそれぞれに長所がある。その長所をもって貢献すべきだと思う。あなたの長所と使命とは、長い年月、あなたのなかに蓄積せられてきた女性史の体系化だ。生活は私が保証する」12という憲三の説得にこころが動かされ、「感謝のあまりいつものくせで泣いてしまった」13のでした。こうして逸枝は、ついにアナーキストとしての言動を放棄するとともに、古材によって完成した「森の家」に移り住むと、用意された書斎の机の上に本居宣長の『古事記伝』一冊を置いて、険しい「女性史の体系化」の道へと入っていったのです。一九三一(昭和六)年七月一日のことでした。
それ以降、逸枝は「森の家」にこもり、外来者を断ち、ひたすら史料を友として、一日に一〇時間の勉学に勤しみます。こうした並外れた過酷な環境のなかから、次のような成果が世に出てゆきました。
(1)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938(昭和13)年6月。 (2)高群逸枝『招婿婚の研究』大日本雄辯會講談社、1953(昭和28)年1月。 (3)高群逸枝『女性の歴史』上巻、大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年4月。 (4)高群逸枝『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955(昭和30)年5月。 (5)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年6月。 (6)高群逸枝『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年7月。
まさしく初志を貫徹した、見事な研究成果というほかありません。しかし、私の目には、奇異に映る表現が、高群逸枝『女性の歴史』(下巻)に散見されます。ひとつは、アナーキズムやマルキシズムについて知りえた時期について言及している箇所です。逸枝は、こう告白するのです。
アナキズムにたいしては、ほとんどそれ[大逆事件で落命した郷土の無政府主義者たち]以上のことを知らず、したがってクロポトキンも、バクーニンも、プルードンも、ルクリュも知らず、これらについては、昭和六年の六月に「婦人戦線」を廃刊(通巻一六)して、郊外の森の中に退き、日本女性史研究に学究として専心するようになってから、マルクス、レーニンらの学説をも含めて、はじめてようやく知りえたといえるくらいのものであった14。
しかし、上の節で詳しく述べていますように、実際には、「郊外の森の中に退き、日本女性史研究に学究として専心する」もっと早い段階において、疑いもなく逸枝は、マルクス主義を知り、海外のアナーキストたちの存在についても承知していたのでした。何ゆえに逸枝は、明らかに虚偽なる言説を、晩年の一九五八(昭和三三)年に刊行した『女性の歴史』(下巻)に盛り込んだのでしょうか。あえて憶測すれば、「森の家」において学究生活に入る以前の自身のアナーキストとしての姿に蓋をして、人目から遠ざけたかったからなのではないでしょうか。しかし、たとえそうであったとしても、実際には、本や雑誌に書いた文まで消し去ることはできず、そう思うと、逸枝のこの仕業は理解に苦しみますし、もしこれが、夫である憲三の指示によるものであったとすれば、さらに不信は深まります。
さらに、いまひとつ私の目に奇異に映るのは、上の引用文に続いて、アナーキズムの限界について逸枝が語る箇所です。このように逸枝は語ります。
アナキズムの欠点は、必然論でなく、発展説ではないこと、したがって婦人解放史に学的根拠を与ええないことであるとおもう。またそれは同時に実践への弱点でもあるといえる15。
こうした認識にいつ到達したのかはわかりませんが、明らかにアナーキズムからの撤退を意味しますし、戦前の積極果敢な言動との落差を感じないわけにはゆきません。
他方でその当時、逸枝は、マルクス主義にかかわっては、どのように理解していたのでしょうか。以下は、一九六〇(昭和三五)年の日記に記されている一節からの引用です。亡くなる四年前の言説です。
寸感メモ。女性史については、あらゆる学問-社会・民族・歴史等が冷淡であるなかに、ただ一つ、マルクス主義史学のみが、これに関心を示していることを知ったとき、はじめてマルクス主義に無知であり反感さえもっていた私は、あらためてこれに敬意を感じはじめた16。
しかしながら逸枝は、その三〇余年前の一九二八(昭和三)年、『婦人公論』五月号へ「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」と題した一文を寄せ、マルクス主義における女性観や恋愛観にかかわって、以下にみられるように断罪していたのでした。
この文は、「われらが心に久しく求めてゐる純悴素朴な戀愛とは何か、それはいかなる社會組織を母胎として芽生えるものであるのか」17を念頭に論じられてゆき、最終的に、純粋素朴な恋愛が保障される社会組織は、「分業的、統割的社會ではなくして、綜合的、集約的社會でなくてはならぬ。それは即ち、現在、反マルクス主義的新興思想として、眞に自覺せる勞働者、農民、婦人の中に侮り難い勢力を確保しつゝある自由聯合主義思想の目ざす社會であらねばならぬ」18という結論に到達していました。そして、最後のまとめに当たって逸枝は、菊榮に対し、こうした厳しい言葉を投げかけるのでした。
山川菊榮氏よ。氏はいたづらに純悴素朴な戀愛とか、婦人の欲求とかを口にされる。けれど氏がマルクス主義を捧持してゐられる限り、その言葉は、単なる無智な、単なる空疎な、そして無自覺であり、無責任であり、無内容である言葉であつて、眞に目ざめた婦人に對しては、何等の権威なき、嗤うべき、唾棄すべき振舞であるといふことを、自ら恥ぢられるやうにと、私は改めて、ここでおすゝめしたく思つてゐると19。
しかし、見てきましたように、一九六〇(昭和三五)年の日記には、明らかに、マルクス主義に関する好意的受け止めが示されているのです。そのことは、戦前の論敵であった山川菊榮の業績に対する再評価へとつながってゆきます。以下は、『女性の歴史』(下巻)からの引用です。
山川菊栄がもつ女性史的意義は、らいてうに代表されたいわゆる中産階級的婦人解放運動を克服崩壊させ、その廃墟のうえに無産階級的婦人運動のヘゲモニーを打ち立てた一点にあった20。
こうした、上に挙げた幾つかの事例から判断しますと、逸枝は「戦前」の自分を捨てて、「戦後」の新しい自分のなかに活路を見出していることが判明します。その様相は、「アナーキズムからマルクス主義へ」や「ロマン主義から現実主義へ」、あるいは「詩人から学究へ」といった用語で形容できるかもしれません。確かにここに、逸枝の思想的変移の一端があったのでした。しかしながら、逸枝の思想的変移はこれのみに止まらず、戦前の歴史観の払拭という文脈においてもまた、はっきりと現われるのです。それでは次節で、それについて論じてみたいと思います。
「森の家」への引っ越しから五箇月が過ぎた一九三一年の一二月、『大百科事典』の編集のために、招かれて憲三が平凡社に復帰します。しかし、四年後の一九三五(昭和一〇)年の一〇月、『大百科事典』は完成したものの、経営不振に陥った平凡社は、突如として社員全員に解雇を通告します。これにより夫は失職するのでした。それは収入が途絶えることを意味し、ふたりにとって大きな打撃となりました。家計逼迫のおり、おそらく憲三の発案であったものと思われますが、この夫婦は、『大日本女性史 母系制の研究』の刊行に先立って、取り急ぎ、『大日本女性人名辭書』を世に出すことを考えました。次の引用は、それについての、逸枝による後年の説明です。「Kの協力」がいかなるものであったのかは、具体的に述べられていませんが、「印税収入が期待される」ことは、間違いなかったようです。
年があけて昭和十一年になると、私はKの協力をえて『女性人名辞書』の成稿を急ぐことにした。私のこれまでの主たる作業は、江戸時代以前の一切の歴史文献を片はしから読破して、系譜および婚姻記事を抽出することが中心であったが、副次的に史上の女性人名をカードにとっていた。いまそれを拡張活用して人名辞書としてまとめたら、今後の長い自己の仕事にとっても何彼と便利であるし、何より出版による印税収入が期待されるのだった21。
こうして一九三六(昭和一一)年の一〇月、厚生閣により『大日本女性人名辭書』が上梓されました。古今の女性およそ一千八百名が収録された、重量感を漂わす、本文六二三頁からなる大著でした。特徴的なことは、人名の生没年が皇紀によって表記されていることです。他方、「跋」は次の語句で結ばれており、そこに、逸枝の思いがにじみ出ているとみなしてもいいかもしれません。
なほ此書の甚だ不備である事に就きましては、今後の補正のため大方の皆様の御示教、御援助を得たく、それと供に前記「大日本女性史」も第一巻として「日本母系制の研究」を支障なき限り近く脱稿の筈で御座いますゆゑ、これが刊行の上は何卒御併讀たまわらんことをも、序でを以て御願ひ申上げて置く次第で御座います22。
ここに、「母系制の研究」の発刊がまぢかいことが予告されていました。この予告は、自分たちの出自と来歴を「歴史学」というかたちにおいてはじめて知ることになる胸躍る予感を、多くの女性たちに与えたにちがいありません。すでに、一九三一(昭和六)年に『婦人戦線』は廃刊となり、翌一九三二(昭和七)年には『女人藝術』も同じく廃刊となっていました。かつての「プロ派」と「ブル派」の対立も、「アナ派」と「ボル派」の抗争もおおかた姿を消していました。ここに、婦人解放運動にかかわる女性たちが一様に手を結び、ひとつになって立ち上がる時代的な契機が潜んでいたように思われます。つまり、対立や抗争の焦点が、時局により失われていたのです。
こうして「高群逸枝著作後援会」が発足しました。呼びかけたのは、平塚らいてうと『東京朝日新聞』の竹中繁子でした。逸枝は、こう書きます。「この会は事務所を竹中さんのところに置き寄付および著作の普及等を目的として昭和十二年一月に発足し、その後私はすくなからぬ便宜をあたえられることになったのだった」23。
このとき組織された「高群逸枝著作後援会」からの支援金と『大日本女性人名辭書』からの印税収入とが追い風となって、逸枝と憲三は何とか苦境を脱しました。それは、「森の家」での生活が安定することだけでなく、逸枝の女性史研究の第一巻に相当する『大日本女性史 母系制の研究』がいよいよ完成へと向かうこともまた意味しました。
一九三八(昭和一三)年六月、いよいよ『大日本女性史 母系制の研究』が、前書の『大日本女性人名辭書』と同じ書肆の厚生閣から世に出ました。そしてまた、前書と同じく、六四九頁に及ぶ浩瀚なものでした。副題の「母系制の研究」の背表紙の文字は、あたかも人目を避けるかのように、目立たぬ小さな文字で組まれています。「序文」は、逸枝にとって同郷人であり、「皇室中心以外には一億一心の団結はあり得ないとする信念」24をもつ徳富蘇峰の手にゆだねられました。巻末には、「紹介辭」が収録されました。これは、「高群逸枝著作後援会」作成の近刊案内にかかわる印刷物に寄せられていた推薦文を再録したものでした。執筆したのは、麻生正藏、市川房枝、尾崎行雄、金子しげり、下田次郎、下中彌三郎、高嶋米峰、竹内茂代、竹田菊、新妻伊都子、福島四郎、三木清、吉岡彌生、らいてうの各氏でした。
そのなかで、哲学者である三木清の文は、このようなものでした。
久しく待望されてゐた日本女性史が愈々世に出ることになつたのは悦ばしい。これは日本の一女性が日本の全女性のために建てる記念碑である。 殊にその第一巻は母系制といふ最も興味深いテーマを取扱ひ、學界の宿題に解答を與へてゐる。 家族制度は今日思想上においても重要な問題になつてゐるのであるが、この篤學な著者の多年の苦心の研究に成る業績は凡ての人によつて顧みられねればならぬものと信ずる25。
のちに逸枝は、唯一この三木の推薦文を、『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」のなかにおいて全文引用し、紹介することになります。晩年に至るまでこの一文は、逸枝のこころを支えていたものと思われます。
平塚らいてうも、以下のような、全身から湧き出る讃美の言葉を、「畏友、高群逸枝」へ贈ります。
畏友、高群逸枝女史、久しき以前より我が國に眞の女性史なきを慨嘆し、昭和五年、大發願を起し、爾來その研究、編纂に全生活を没入し、獨力、奮勵、今日に至つたことは、すでに世に知られてゐます。一昨年、女性史に先立ち、その副産物「大日本女性人名辭書」を上梓、朝野を驚嘆させましたが、今回いよいよ、その本願である女性史、第一巻、出版の運びとなりましたことは、慶賀の極みで、女史を知り、女史の胸中を察しうるわたくしは、まことに感慨無量、言うべき辭を見出しません26。
それでは、この『大日本女性史 母系制の研究』の内容はどのようなものであったのでしょうか。逸枝は、「例言」のなかで、研究の方法、本書の構成、および研究の意義について述べます。ここに、その核心部分を抜き出してみます。
私の研究は、古文献に埋蔵されたる母系的遺産を發掘組織化し、これを系譜と婚姻の両面より観察したものである。……私の取つた方法は、これを(一)多祖の研究、(二)複氏の研究、(三)諸姓の研究、(四)賜氏姓の研究に大別し得るが、一言に要約すれば、すべてを多祖説とすることもできる。この多祖説こそ、私が學界に問はんとするものである。……この研究は、次の三つの意義を含んでゐる。其一は、上代における家族制の問題であり、他の一は、母系的遺習が國家の中央統制として、之を比較的平和裡に進捗せしめた隠れたる要因をなしてゐる事實である。……このことは第三に、わが國民の血の歸一を物語るものである。女性史の第一歩において、すでに母系の犠牲と支持による國家の統制乃至一家族化といふ必然の結論に達した私は、以後の發展においても恐くは女性の秘められた犠牲と奉仕との絶大なる貢献を顕彰することが出來るであらう27。
ここに言及されている「多祖説」と「わが國民の血の歸一」とが、本書の主要な結論に相当します。この本は、「第一篇 緒論」「第二篇 本論」「第三篇 結論」から構成され、「第三篇 結論」も、「第一章 國作り氏作り部作り」「第二章 母系姓より父系姓への變化過程」、そして「第三章 吾等の収穫」の三つの章から組み立てられています。「第三章 吾等の収穫」のなかで、逸枝は、第一節で「多祖説」を、そして第二節で「血の歸一」を語ります。「血の歸一」について、その一部を引用して、以下に示します。逸枝の『大日本女性史 母系制の研究』の結論部分として、最も重要な箇所であると思われます。
此世のこと皆正し、母系より父系への推移は黨然の發展である。母系は保守的排他的な血族團體であり、父系は進歩的抱擁的婚姻團體である。社會の推移はすべて此線に沿つて流れるであらう。 ここに吾等は、偉大なる日本父系の進歩的態度――凡ゆる異族、蠻民等と進んで婚姻し、彼らを完全に自系下に結合し、國作り、氏作り、部作りをなしたこと、或いはまた、なさざるを得ない天與の事情にあつたことを限りなく喜ぶものである。 (中略) 氏姓の進化は云ひかへれば系譜の一姓化である。我國ではいかなる異族も歸化人も、その母系の犠牲と支持によつて系譜的に、明文的に、相率ゐて皇別化し、神別すを得た。すなはち、一姓化への方向に促進せられた。次に血の純化は前に述べた血の歸一をいふ。 これを要するに、系譜においては一姓化、血においては歸一、著者、これをもつて、吾等の収穫の最後のものとする28。
このように逸枝は、『大日本女性史 母系制の研究』の最後を結ぶのでした。しかし、戦後、この結論部分の一部が姿を消すのです。明らかにこれは、逸枝の戦前思想の清算を意味します。それでは次節で、その過程を跡づけてみたいと思います。
まず、理解を助けるために、『大日本女性史 母系制の研究』の出版に関わる変遷の過程をたどり、以下に整理します。
(1)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』(初版)厚生閣、1938(昭和13)年6月。 (2)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』(再版)厚生閣、1941(昭和16)年7月。 (3)高群逸枝『母系制の研究 大日本女性史第一巻』(改訂三版)恒星社厚生閣、1948(昭和23)年11月。 (4)高群逸枝『母系制の研究』(新版)大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年2月。 (5)橋本憲三編『高群逸枝全集』第一巻/母系制の研究、理論社、1966(昭和41)年9月。
次に、体裁や内容につきまして、その変遷の過程を見てみたいと思います。
一九四一(昭和一六)年七月刊行の再版は、体裁、内容ともに初版と変わりありませんでした。しかし、戦争が終わって三年が立った一九四八(昭和二三)年一一月に発刊された改訂三版においては、体裁と内容に大きな変化が認められます。すぐにも目に止まるのは、主題と副題が入れ替わり、『母系制の研究 大日本女性史第一巻』へと改題されていることです。他方、初版と再版の『大日本女性史 母系制の研究』の題簽は吉岡彌生の揮毫によるものでしたが、改訂三版の題字は活字で組まれ、しかも、副題の「大日本女性史第一巻」には、ほとんど目につかないほどの小さな活字が用いられていました。戦前にあっては、「大日本女性史」が強調され、戦後にあっては、「母系制の研究」が前面に出ます。戦争を挟む前後の際立つ特徴をこの書題は担うことになったのです。
体裁だけではなく、内容においても、大きな改変がありました。このことについて逸枝は、改訂三版の「例言」のなかのひとつの項目において、このように触れていますので、以下に引用します。
一、本書は昭和一三年六月四日初版第一刷、一六年七月二〇日再刷、今回は第三刷である。第三刷は、初版第三篇の第三章を除きたるほか全體にわたつて若干の改訂を施したが、それは主として、たとへば「母系」といふ文字すらややもすれば伏字しなけらばならなかつた初版發行當時の社會状勢を顧慮するあまりなされた學術書にはふさわしからぬ贅語的表現を整理したのであつて、内容的變化はない29。
逸枝は、このように「例言」において、「初版第三篇の第三章を除きたる」事実については確かに言及していますが、しかし、その理由については直接の明言を避け、「初版發行當時の社會状勢」をほのめかすに止めるのでした。畢竟この示唆は、「第三篇 結論」の「第三章 吾等の収穫」は、自身の意に反して、「初版發行當時の社會状勢」にやむなく身をゆだねて書いたまでのことであって、ここで抹消しようと、それによって大きな「内容的變化はない」ということを含意しているように読めます。しかしながら、すでに述べていますように、『大日本女性史 母系制の研究』(初版)は、「第一篇 緒論」「第二篇 本論」「第三篇 結論」から構成され、「第三篇 結論」は、「第一章 國作り氏作り部作り」「第二章 母系姓より父系姓への變化過程」「第三章 吾等の収穫」の三つの章から組み立てられていました。また、「第三章 吾等の収穫」では、第一節で「多祖説」が、そして第二節で「血の歸一」が語られていました。このことから判断しますと、「第一節 多祖説」と「第二節 血の歸一」とから成り立つこの「第三章 吾等の収穫」は、『大日本女性史 母系制の研究』(初版)の中心となる考察と結論の部分であり、同時に、本書最大の「収穫」の部分である以上、「初版發行當時の社會状勢」に従って不本意ながらも書いてしまったことを示唆する逸枝の言辞は、どうしても説得力を欠くものといわざるを得ません。裏を返せば、『大日本女性史 母系制の研究』(初版)を書いた戦前の逸枝は、「多祖説」と「血の歸一」を本心から信ずる歴史家であり思想家であったにちがいなく、したがって、戦後すぐの一九四八(昭和二三)年一一月に恒星社厚生閣から刊行された改訂三版において「第三章 吾等の収穫」を削除せざるを得なかった逸枝は、歴史家として、また思想家として、大いなる敗北に見舞われたことになったものと思料されます。
しかしこのとき味わった「苦杯」は、逆の見方に立てば、戦前思想から離れ、戦後思想のなかでこれから生きてゆこうとする、逸枝にとっての内なる一種の契りを意味する、ささやかなる「祝杯」だったかもしれません。といいますのも、初版(一九三八年刊)および再版(一九四一年刊)にみられる『大日本女性史 母系制の研究』が、この改訂三版において、『母系制の研究 大日本女性史第一巻』に改題され、研究内容を直接言い表わした「母系制の研究」を前面に出すことができたからです。初版と再版の「大日本女性史」の一文字に、おそらく逸枝は、「皇国女性の歴史」ないしは「大日本帝国女子の歴史」を含意させていたものと思われます。しかし改訂三版において、こうして、完全に主題と副題を入れ替えることにより、加えて「第三章 吾等の収穫」の抹消することにより、さらにそれだけではなく、巻頭の徳富蘇峰の毛筆になる「序文」も巻末の「紹介辭」も削除することにより、逸枝は、戦前思想からの解放の一歩を踏み出すことができたのでした。
しかしながら、当時の逸枝の思想の本質部分が投影されていると思われる「第三章 吾等の収穫」が戦後の価値観とは相容れない内容とみなされ、完全に闇に葬られていったことを、私たちはどう受け止めればいいのでしょうか。「多祖説」と「わが國民の血の歸一」を抜きにして、この『大日本女性史 母系制の研究』は、本論と結論のあいだで齟齬を来たすことなく、一貫した論理的安定性のもとに成立しうるのか、どうしても疑問がつきまといます。
続いて一九五四(昭和二九)年に大日本雄辯會講談社から新版が登場します。順番からいえば、第四版に相当します。この版においては、もはや「第三篇 結論」の「第三章 吾等の収穫」の削除についてはいっさい触れられることはありませんでした。しかも、改訂三版にはかすかに小さい文字で残っていた「大日本女性史第一巻」の副題も完全に消え去り、書題は、単純で明快な『母系制の研究』という表現に一新されました。
他方、この新版の跋文には、従来のそれへの加除が認められます。加えて、改訂三版までの跋文においては「高群逸枝著作後援会」の発起人として六五名の名前が挙げられていましたが、新版の「跋」におきましては二〇八人の名が挙がっています。しかしながら、新版の跋文において、そうした加筆訂正への言及はありません。それどころか、執筆日が「昭和十三年春」となっており、初版と再版にみられた皇紀による表記である「二五九八年五月」、改訂三版にみられた元号による表記である「昭和十三年五月」と、表記の違いはあるものの、実質上同じ年月になっています。したがって、新版をはじめて手にする読者にあっては、新版の「跋」をもって初版の「跋」と思い違いをする人も多かったのではないかという危惧も残ります。
いずれにしましても、初版(一九三八年、厚生閣刊)と再版(一九四一年、厚生閣刊)の『大日本女性史 母系制の研究』、続く戦後の改訂三版(一九四八年、恒星社厚生閣刊)の『母系制の研究 大日本女性史第一巻』――こうした先行するどの版のなかにも認められた「大日本女性史」という文字は、新版(一九五四年、大日本雄辯會講談社刊)に至って完全に消し去られ、新たに単独の『母系制の研究』という書名に変わったのでした。このときすでに、初版発行から戦争を挟み一六年の歳月が流れていました。かくして書名改変の道程をたどりながら、やっとこの新版において逸枝の戦前思想の払拭は完結したものと推量されます。いよいよかかる過程を経て、一九五三(昭和二八)年刊行の『招婿婚の研究』(初版、大日本雄辯會講談社)と、続く一年後に出版される一九五四(昭和二九)年の『母系制の研究』(新版/改訂四版、大日本雄辯會講談社)の、このふたつの大作によって、この時期、高群女性史学の土台となる基礎部分が、鮮明に造形されていったのでした。
一九六四(昭和三九)年に逸枝が没すると、夫の憲三が、一〇巻からなる『高群逸枝全集』(理論社)を編みます。その第一巻が「母系制の研究」でした。憲三は、この巻の「解題/編者」のなかでこう書いています。
……この「母系制の研究」は最初の出版社厚生閣で三版まで重ね、後に講談社から厚生閣原版紙型による鉛版象嵌の手続きをもって新訂版(四版)が出た。 全集にはこの新訂版を収めた30。
編集をした憲三の説明にあるように、一九六六(昭和四一)年に『高群逸枝全集』第一巻の「母系制の研究」を上梓するに当たっては、一九五四(昭和二九)年に大日本雄辯會講談社から刊行された新版(改訂四版)が使われました。それは、『大日本女性史 母系制の研究』の初版ないしは再版に立ち返らない限り、本書の結論の一部である「吾等の収穫」も、徳富蘇峰の毛筆による「序文」も、吉岡彌生の揮毫になる題簽も、一四名の支持者たちが書いた「紹介辭」も、残念ながら、もはやこの「全集」第一巻からは、うかがい知ることができないことを意味します。
その巻の末尾に付された「解題/編者」を見る限り、書題が改変されてきたこの間の経緯についても、「第三篇 結論」のなかの「第三章 吾等の収穫」が削除されなければならなかった事情についても何も語られず、沈黙が貫かれ、その真相が明かされることはありませんでした。あえてこの場に及んで過ぎ去った昔の事象に言及する必要はないという編集者の思いがあったのかもしれませんが、皇国史観からの脱却という逸枝に課せられた戦後の宿命的作業の過程は、いまやこうして完全に暗闇に閉ざされてしまったのでした。
私は批評家でも評論家でもありませんので、本稿で紹介しました逸枝の戦前思想の清算の仕方について、とくに何かをいう立場にありませんが、一個人の感覚からすれば、アナーキズムの放棄にしても、皇国史観からの脱却にしても、あまりにも処理法が淡白すぎ、しかも歯切れも悪く、もう少し決然とした姿勢で、戦前の自分に向き合った方がよかったのではないかと思料します。私の知見には限りがあり、多くの事例を知っているわけではありませんが、研究の対象としています、陶工の富本憲吉の例には、次のように、逸枝あるいは憲三とははっきりと異なる毅然とした態度が確認できるのです。『日本経済新聞』に連載された、憲吉の自叙伝「私の履歴書」からの引用になります。
「敗戦でどんでん返しになった世の中に、従来、帝国芸術院と称していたものがそのまま存続するのはおかしい」31という考えから、「終戦の翌月、つまり九月に芸術院会員辞任の届けを提出した」32。しかし、この辞意の申し出は、清水澄芸術院長に撤回させられてしまい、翌年(一九四六年)春に開催された戦後最初の日展の工芸部門の審査長を務めたのち、改めて「五月に再び私は芸術院へ辞表を出した。このときは、同時に美術学校(いまの芸大)の教授の辞表も出した」33。こうして憲吉は、すべての公職から身を引いたのでした。
もちろん逸枝は公的な職には就いていませんので、「辞表」を書く場面はなかったのですが、それでも、以下に述べるように、戦前戦中において、間接的であろうとも、積極的な文筆をもって時勢に加担していたことは明らかです。
戦前にあって逸枝は、『婦女新聞』『都新聞』『家庭新聞』『輝ク』『女性展望』『ホーム・ライン』『日本談義』等に文を寄せています。そのなかには、次の一文も含まれます。一九四〇(昭和一五)年は、神武天皇が即位してから二六〇〇年に相当する年でした。この皇紀二千六百年の記念すべき年頭に際し、逸枝は、『婦人朝日』(新年号)に「女性二千六百年史」を寄稿します。それがきっかけとなって出版の依頼を受けた逸枝は、それに手を加え、わずかおよそ二週間で『女性二千六百年史』という題の一巻本に仕上げ、厚生閣より公刊します。この本は、「女性二千六百年史」「女訓」「日本女性の本質」「女性史のために」「女性史話」「道遠し」から構成されています。「女性二千六百年史」は、「第一 古代」「第二 中代」「第三 近代」「第四 現代」で成り立ち、「女性二千六百年史」以外は、それまでにさまざまな紙誌に書いていた小文を集成したものです。この書に、戦時体制下における逸枝の歴史観と女性観の一端を見ることができます。「女性二千六百年史」は、天照大神の御代から書き起こされていますし、日本女性の美質を、逸枝は、健全な保守性と中庸な性格に求めているのです。おそらくこれが、『女性二千六百年史』の刊行から二年後の、大日本婦人会が主宰する『日本婦人』における連載執筆へとつながっていったものと思われます。
一九四一(昭和一六)年一二月、日本は開戦を迎えます。翌年(一九四二年)の二月には、既存の愛国婦人会と大日本連合婦人会と大日本国防婦人会の三団体が統合され、大日本婦人会が発足します。これにより、国家総力戦へ向けてすべての女性を動員する体制がつくられ、機関誌『日本婦人』も発刊されるに至ります。逸枝も、これに寄稿し、この団体の活動に協力します。『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」(逸枝自叙伝)の執筆は、逸枝の死亡により、戦中戦後の記述から夫の憲三に引き継がれますが、それには、逸枝が行なったこの機関誌への寄稿について、こう記されています。
この『日本婦人』の寄稿(一五枚)は二十年終戦直前の廃刊までつづき、私たちの家計はその間この毎月の稿料百五〇円でほぼまかなわれ、他の雑文も書かないですみ、研究に停滞をもたらさなかったことは思いがけない幸運だったとしなければならないだろう34。
しかし憲三は、戦時中の自分たちのこの行為に対して、いっさいの論評を避け、何も言及しませんでした。上で紹介した富本憲吉の自叙伝「私の履歴書」における記載内容とは大きな開きがあります。私は、こうした自己評価の希薄さに、何か物足りなさを覚えるのです。そして、この優柔不断な姿勢から、いつのまにか、戦前のアナーキズムを疎ましく思う気持ちが生まれ、他方で、人知れず、戦前の『大日本女性史 母系制の研究』という書題を『母系制の研究』へと変え、加えて、結論の一部を削除するという事態が発生したのではないかと推量するのです。さらにいえば、かかる曖昧模糊とした姿勢が、そのまた一方で、『高群逸枝全集』にアナーキズムに関する逸枝の論考を所収することをためらわせたのではないかとも思量するのです。そこで、「戦後を生きるなかでの高群逸枝の戦前思想からの脱却」をテーマとした第三話はここで閉じ、次の第四話におきまして「橋本憲三の『高群逸枝全集』の編集手法について」若干の考察を加えてみたいと思います。
(二〇二五年八月)
(1)高群逸枝『戀愛創生』萬生閣、1926年、303頁。
(2)同『戀愛創生』、335-336頁。
(3)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、236頁。
(4)高群逸枝「お出になさつた――一アナーキストの宣言――」『女人藝術』第2巻第12号、1929年12月、39頁。
(5)高群逸枝『黒い女』解放社、1930年、59頁。
(6)同『黒い女』、26頁。
(7)同『黒い女』、42頁。
(8)同『黒い女』、11頁。
(9)同『黒い女』、5頁。
(10)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、238-239頁。
(11)『婦人戦線』第1巻第1号、婦人戦線社、1930年、4頁。 橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』(朝日新聞社、1981年)のなかの「高群逸枝著作年譜」には、「創刊宣言」という表記のもと、「橋本憲三起草、高群逸枝加筆」(386頁)であることが明示されています。しかし、高群逸枝本人は、「創刊宣言」ではなく「綱領」という語を使っています。これにつきましては、『高群逸枝全集』第一〇巻、234頁を参照してください。
(12)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、241-242頁。
(13)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、242頁。
(14)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958年、287頁。
(15)同『女性の歴史』下巻、同頁。
(16)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、462頁。
(17)高群逸枝「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」『婦人公論』第13巻第5号、1928年5月、93頁。
(18)同「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」『婦人公論』、同頁。
(19)同「山川菊榮氏の戀愛觀を難ず」『婦人公論』、同頁。
(20)前掲『女性の歴史』下巻、294頁。
(21)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、257頁。
(22)高群逸枝『大日本女性人名辭書』厚生閣、1936年、「跋」の4頁。
(23)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、261頁。
(24)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、275頁。
(25)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938年、「紹介辭」の8頁。
(26)同『大日本女性史 母系制の研究』、「紹介辭」の10頁。
(27)同『大日本女性史 母系制の研究』、2-3頁。
(28)同『大日本女性史 母系制の研究』、637-638頁。
(29)高群逸枝『母系制の研究 大日本女性史第一巻』(改訂三版)恒星社厚生閣、1948年、3-4頁。
(30)『高群逸枝全集』第一巻/母系制の研究、理論社、1974年(第6刷)、1頁。
(31)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、222頁。[初出は、1962年2月に『日本経済新聞』に掲載。]
(32)同『私の履歴書』、223頁。
(33)同『私の履歴書』、同頁。
(34)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、306頁。