以上私は、「『下層』としての第二の層――気質あるいは性格」という章題のもとに、逸枝の、職業選択あるいは社会的活動のおそらく「下層」に内在する気質や性格について、「従順の支配、あるいは『曲従』の意識」、「主体性の欠如、あるいは依存心の常態化」、そして「正義感の情動、あるいは他者への奉仕精神」の三つの文脈から語ってきました。しかし私は、逸枝の全貌を語り尽くしたという充足感からはいまだほど遠いところにいます。といいますのも、気質や性格が固有の認識可能な形をなして産出されるに当たっては、きっとそれを取り巻く風景や背景のようなものがあるのではないかという想像を捨て切れないでいるからです。つまり、いま私は、天の空に雲が流れるように、あるいはまた、地の川に水が流れるように、形をなさない、雲流や流水のごとき宇宙空間が間違いなく逸枝にあるのではないか、もしそうであれば、ぜひともそれを突き止めてみたいという思いのなかにいるのです。こうした関心が、私をして、本章「『筋層』としての第三の層――心的風景あるいは精神的宇宙」を用意させました。語りの文脈は、「第一節 野に遊び月を待つ」、「第二節 宿命としての家出」、そして「第三節 愛を求め一体化を願う」の三つです。それでは、「第一節 野に遊び月を待つ」から、語りをはじめてみたいと思います。
逸枝がはじめて山野の大地に畏怖を覚え、昇る月に目を奪われ、流れゆく雲に不思議ないのちを感じたのは、五歳のときでした。これは、神が自身の身をさらってゆくのに似た、一種の既存の自己にかかわる喪失ないしは解体とでも呼べるもののの体験でした。
五歳のとき私は『神隠し』にあった。なにかで父にしかられ、泣く泣くそとにでたが、いつか裏山をのぼっていたのだった。 その夜の山上の景色、それはまだわすれない。月があった。雲がふくらんでほうと飛んだ。 「この美しさは?」 とおたばこ盆の袖無しの子がおもい、そして一晩じゅう見入っていたのだった183。
それから月日が流れ、逸枝は二五歳になりました。一九一九(大正八)年四月一二日の『九州新聞』六面に、「月漸く昇れり」の主題のもとに一〇首が掲載されています。そのなかの中心となる歌が、次の作品です。
吹く風と野べとのみなる一角に飴色の月漸く昇れり
風や野辺を巧みに織り込み、「月漸く昇れり」の自身の心情を見事に言い表わした作品といえます。五歳のときの体験が持続していたものと思われます。この歌が『九州新聞』に掲載された二日後の四月一四日、逸枝は憲三との約婚を果たすのです。
さらにそれから二年が立ち、『放浪者の詩』の出版と時期を同じくして、一九二一(大正一〇)年六月に、逸枝の処女詩集となる『日月の上に』が叢文閣から世に出ます。この詩集を構成するのは。表題詩である長編詩の「日月の上に」に、短編の「五月の雨」「虐待される歌」「妻歌う日没時に」「夕べの哀歌」、そして「月漸く昇れり」を加えた計六編です。逸枝は、「日月の上に(長編詩)」の題詩を以下のように書き、「神エホバ」と「詩人逸枝」を、かくも堂々と対比してみせたのでした。五歳のときに「神隠し」にあった出来事を回想し、夜の山野に昇る飴色の月に座る自身の高揚する姿を描いているものと思われます。
汝洪水の上に座す 神エホバ 吾日月の上に座す 詩人逸枝184
一方、短編の「月漸く昇れり」のなかの最後の詩片が、次に引用するものです。
ああ解放されたる展望よ! よろこばしくも寂みしく妾は思ふ! (月漸く昇れり!) 野邊なる月が 妾の心を照る時に185
上に挙げた、『日月の上に』における「日月の上に(長編詩)」の題詩、および短編の「月漸く昇れり」のなかの最後の詩片を読むにつけ、「月漸く昇れり」が逸枝のこころを、いまなお強く支配していることがわかります。
逸枝が世に公表した最後の詩と思われるものは、詩集の形式ではなく、一編の長詩でした。それは、一九二九(昭和四)年の『女人藝術』の初春号に寄稿した「戀愛行進曲――月漸く昇れり」です。この長編詩の最後は、次の詩句で結ばれます。
夜の女王、満月が 正座して昇り行く おゝ月とわが戀 漸く昇る このとき妾はいふ かの月とわが戀とは 高く昇るにしたがひ 輝きと冷たさを増すのであると186
このように「月漸く昇れり」の詩句が、この間の逸枝の詩歌を全面的に支配してきた黄金の旋律となるものでした。この美しき繰り返しの旋律に、善きことが起こることを、善きものに恵まれることを、加えて、善き人が近づいてくることを、常にこころから待ち望む逸枝の心象風景の一側面を見ることができるものと思料します。しかしながら、他方で逸枝は、それにかかわって「よろこばしくも寂みしく妾は思ふ」とも、「輝きと冷たさを増すのである」とも表現しており、したがって「月漸く昇れり」の詩句には、たとえば幸不幸のような、異なる心情の二面性が密かに含意されていたのかもしれません。
とはいえ、見てのとおり、「月漸く昇れり」には、「吹く風と野べ」や「野邊なる月」といったように、「野」がしばしば随伴します。逸枝にとって「野」なるものは、どのような存在だったのか、次にそれを見てみたいと思います。
幼少期に山野を自分の居場所としていたことを示す詩的短文を、下に三つ紹介します。はじめのひとつは『十三才集』からの、残りのふたつは『少女集』からの引用です。どちらも、手書きの用紙を糸で綴じた文集で、熊本市立図書館に所蔵されています。
やみませる母上様にさゝげんと 秋の山道を花折りに行く 操高くて 野に住まむ事は いつ枝が只の一つの望なり。 野に住める此身は名もなくて亡び行くをなげくでなし。只父母に仕へまつりて清くありなむ。春は花 秋は月によき田園のなづかしさよ。いざ歌ひてむ
これらを読めば、「野に住まむ事」を望むだけでなく、「操高くて」「父母に仕へまつりて清くありなむ」ことを願う逸枝の少女時代の心的風景が、浮かび上がってきます。
成人した逸枝は、約婚へ至る前の短いあいだに、愛を求めたり、愛を確認したりする内容の手紙を頻繁に憲三宛てに出しています。これもまた、娘時代の逸枝の心的風景ではないかと思われますが、ここでは進行中の文脈に沿って、それらの手紙から、野や山、そして月光について描写している箇所を三例紹介します。
妾は山の中にバラツク風な小屋を建てて、牧羊をしようかと思ひます。美しい處です。場所も選定しました。其處には誰も來ません。……まるで閑静な別世界です。そこに椅子をもつて來ませう。そこの若草の中に。秋は女郎花でいちめんです。 あなた。 お察し下さい。此の上泣かせないで下さい。妾は眞心深くあなたの御幸福をお祈りいたして居ります。 妾は人に愛される資格・價値をもつた女なので御座いませうか。妾はこのごろ特につくづく思ひます187。 妾はよく夕方裏山にのぼります。御存じでせう。妾は入日が好きなので御座います。血のやうにあかい寂しい光が、小さな妾を照らします。妾は山頂の松の木に凭れてゐます188。 すつかり夜になりました。今夜も月明です。茫とした光が白雲をとほして、丘、樹立、渚を抱愛してゐます。附近のもののすべてが柔らかな酔にひたされてゐます。こころよいねむりがその上を蔽ひます。戀の薫香を感じます。…… 妾をどうぞだいて下さいまし。そしていぢめないで下さいまし。妾はすつかり弱くなりました189。
憲三と約婚を果たすと、独り逸枝は、完成したばかりの詩集「放浪者の詩」の原稿を肩から下げたカバンに入れ、上京します。一九二〇(大正九)年のことで、そのとき逸枝は二六歳になっていました。それ以降逸枝は、『日月の上に』『放浪者の詩』『美想曲』『妾薄命』『戀唄 胸を痛めて』『東京は熱病にかゝつてゐる』の六つの詩集を上梓し、一躍詩人として頭角を現わします。それでは、ここで、前半の四つの詩集のなかにおいて、山野、月光、あるいは夕日について描写されている箇所のなかから、以下に幾つか拾い上げてみたいと思います。
山の上では娘が一人 目をさらし 耳を傾けた 眞つ赤な螢が飛んできた190 月は野山を照らしてゐる 誰か芝生の上に仆れてゐる 風はその死骸の上を吹き 昆蟲はその頭の上に集(たか)つてゐる191 人を忌むにはあらねども 安心したれば山に ひとり來て居り淋びしく暮らす192 妾が詩人であらうと 妾が小説家であらうと それが妾に何であらう 妾は夕日を眺めてゐる193 月が照る 林の底に乞食がゐる 笑つてゐる 仰向いて194
これらの詩群から受け止められることは、何でしょうか。私の脳裏においては、詩人や小説家といった世俗の栄華から太古の山野に降り立って、沈む夕日を眺め、しばらくすると昇り出る月の光に照らされて、巡礼者が食を乞うがごときに乞食の振る舞いをしながらも、いつか来る死を覚悟のうえで、独り寂しさのなかにあって喜びに満ちた暮らしをする純心無垢なる乙女の姿が映像化されます。
さらに逸枝は、自伝小説『黒い女』のなかで、こうもいいます。
『洗濯はいやだ』と私の心がつぶやく。 『裁縫も……』 そしてたゞ溜息をついて私はゐる195。 どんな可憐な野の花も、庭におけば惨めである。だが然し、野においたら、何と美しく見えることか196。
確かに逸枝は、「野」に帰りたいのでしょう。それでは、「可憐な野の花」が求める理想の「野」は、どこにあるのでしょうか。『日月の上に』において逸枝は、こう歌い上げます。
乙女をして歌はしめよ 太古の山に住ましめよ 女郎花をして咲かしめよ しら雲をして飛ばしめよ197
一方、『妾薄命』には、逸枝の、こうした表現が残されています。
妾はいま歸りませう 父よ母よ 宇宙が妾を呼ぶままに198
どうやら、逸枝を呼んでいるのは、かつて父と母が住んでいた、さらにその上の父母たちが住んでいた「宇宙」のようです。そしてそれは、「太古の山」であり、そこが、逸枝の帰還願望の、たどり着く先なのでしょう。それでは、この「太古の山」とは、具体的にはどのような世界なのでしょうか。逸枝は、『孌愛創生』のなかに、このような言葉を刻んでいます。
ウイリアム・モリスの「無何有郷だより」をみると、多くの子供達が、そこでは、自由な生活をして、森から丘へと遊び戯れてゐる。そこには學校といふものはない199。
現在では一般に、『ユートピアだより』という訳書題で知られていますが、逸枝が『戀愛創生』を発表する五箇月前の一九二五(大正一四)年の一一月に、ウィリアム・モリスのこの News from Nowhere を、布施延雄が「無何有郷だより」という訳書題でもって、至上社から上梓していましたので、逸枝はそれを読んでいたものと思われます。この夢想的物語は、革命後の人びとが生きる新世界を描き出していました。
それでは、この引用文のなかの「子供達」を「女性たち」に、そして「學校」を「家庭」に置き換えてみますと、どうなるでしょうか。
多くの女性たちが、そこでは、自由な生活をして、森から丘へと遊び戯れてゐる。そこには家庭といふものはない。
この世界こそが、まさしく逸枝にとっての帰るべき「宇宙」であり、「太古の山」だったにちがいありません。それはつまり、いかなる束縛もなく、女性が自由に生きていたにちがいない太古の昔の原始・古代の世界ということになるでしょう。その世界にあっては、男女はどのような関係にあって暮らしていたのでしょうか。逸枝は、こう描いて見せます。
ある戀の日に、 青年が米を洗ひ、 少女が薪をとりに行つて笛を吹いてゐるのが、 不自然なことだらうか。 我々は、原始人類が、 かうした生活をしてゐたことを確信する200。
男が炊事場にあって飯をつくり、女が外に出て労働する。原始人類の男女が行なっていたであろうこうした役割分担が、逸枝が詩のなかで描く夫婦の理想像でした。現実にあっては、この理想は、とりわけ「森の家」での新しい生活の開始に際して、夫婦のあり方にかかわって憲三の認識に大きな変革が訪れたことによって、見事に成し遂げられました。
一方、「原始人類が、かうした生活をしてゐた」ときの共同体は、どのような社会として機能していたのでしょう。逸枝が描くそれは、こうです。
農耕の生活が安定するやうになつてくると、ここに始めて人類は、経済的に最も安定した生活を送ることが出來た。それと共に、母系制度が確實な形をとつて現はれ、民族は財産共有の基礎の上に立てられた。即ち、それは共産主義的な社會の形式であつた。婦人はこの血族團體の指導者であり、支配者であつて、大いに尊敬せられ、彼女の意見は、家庭内におけると同様、種族の問題に関しても大いに尊重せられた。彼女は仲裁者であり、裁判官であり、神官として宗教的信仰の義務を盡していた201。
それであれば、「母系制度が確實な形をとつて現はれ、民族は財産共有の基礎の上に立てられた」社会から、いまこの時代の現実社会へと、もし仮にひとりの婦人が迷い込んでしまったとするならば、その女性は、一体どんな感情に駆り立てられることになるでしょうか。逸枝の描写を借りれば、まさしくこのようになります。
愛の女神を原始の森の中から連れてきて現在の家庭のなかにおしこめたならどうであらうか。彼女はきつと、遠い故郷にあこがれて涙の日を送るに違ひない。 (中略) しかし、耐へてゐるといふことは、あきらめてゐるといふことではない。彼女は、積極的に、かの光明と、自由とへ、この家庭を推し進めて行かうとする意志と、行為とをもつて立つであろう。 このとき、彼女は社會に宣戦し社會に火蓋をきらねばならない202。
「原始の森の中から連れてきて現在の家庭のなかに」おしこめられ、「遠い故郷にあこがれて涙の日を」送っている「愛の女神」、その人こそが、高群逸枝本人であることは明らかでしょう。そうであればその人は、二度と「涙の日を」送らないですむようにするために、「かの光明と、自由とへ」現状を変革しようとして、どうしても、「社會に宣戦し社會に火蓋をきらねばならない」のです。
そこで、まず逸枝は、女を中心として成り立っていたであろうと思われる原始・古代社会の根幹部分であったにちがいない「母系制度」と「婚姻制度」に着目し、その基礎作業の完成へと向かいます。次に、その成果を得て、いまだ闇に閉ざされていた「女性の歴史」の全貌記述の作業をはじめるのです。それは、男によってつくられた「歴史」を敵に回しての、原始・古代人たる逸枝にとっての「聖戦」であったに相違ありません。
一方、夫の憲三は、妻逸枝をこのように見ていました。「あれは原始人でもあり、未来人でもあり、したがって現代人であるわけだが」203。そのとおりであれば、逸枝の書く「女性の歴史」は、原始人であり現代人でもある逸枝が、原始の時代から現在のこの時代まで、女としてこの間にあって歩いてきた、まさしく「自分の歴史」であった可能性があり、したがって、たとえそうした洞察が実際に存在したとしても、決して妄想の類として一蹴されることはないのではないかと想像されます。
妻が「女性の歴史」を書くために、そして、その夫がその思いを下支えするために、一組の夫婦が移り住んだのは、二〇〇坪の広い敷地に建てられた「森の家」と呼ばれる二階建ての屋敷でした。その家の庭は、「野に遊び月を待つ」逸枝にふさわしく、自然に満ち溢れており、その様子を、憲三の妹の静子は、実に情感豊かに、このような文で書き表わします。
通称「森の家」の四季を見た訳ですけど、野鳥が運んだ糞の中の種子の植物がいろいろの種類で自生していました。鳥たちはどこからとんで来るのか、群をなして幾群かで一日中を訪ねていました。 栗の実を拾い、むかごを採り、ポポの木は大きくなってしまって、もうたべきれない程、胡桃の木もあって、リスだか野ねずみだか見たことがあります。柿の実は固く熟して甘く、二階の窓からも採れました。ゆすら梅の甘ずっぱい赤い実、姉が書斎にしていたところの前にはぶどう棚があって、いっぱい実りました。少しクリーム色の入った白のバラは、お葬式の時の写真にもあざやかに写っています。木戸の入口から玄関までのフェルト草履の感覚、あれは、何十年だか住んでいたあいだ中の落葉がかき集められて作られたのだそうです204。
「森の家」での生活がはじまったのは一九三一(昭和六)年七月でした。逸枝はここで、亡くなる一九六四(昭和三九)年六月までの三三年間、おおかた一日一〇時間の勉強を日課として励みました。しかし、逸枝の病死後、その家もまた、いのちを失ってゆきます。以下は、石牟礼道子による描写です。おそらく憲三から聞き取ったものであろうかと思われます。
静子がいつも云っている。森の樹々の葉っぱさえ、お義姉(ねえ)さんがいて下されば、いちまいいちまい、うるうるしていましたのにねえって。不思議ですねえ、お義姉さんが亡くなると、まず森の樹々がいっせいに、いのちをうしなってゆくみたいですねえ205。
「愛の女神」にとって、心地よい自分の居場所は、間違いなく原始・古代の世界にあったでしょう。それにふさわしい現代の住まいが「森の家」でした。のちに憲三は、逸枝について、「強烈な野生の女、内部に過剰なまでに原始の血を受けた女、という一面は多少あるかもしれない」206とも、「バケツ一杯の水を一、二メートルの外井戸から運ぶことすら困難したようであった」207とも書きます。あたかも太古を模したかのような「森の家」は、その後世田谷区によって買い取られて公園として整備され、さらにその後その場所には、平塚らいてうらの有志によって、逸枝を記念する石碑が建立されます。かくして、「月漸く昇れり」の逸枝の黄金句に先導されるかのように、もはや森なき「森の家」は、憲三が編集した『高群逸枝全集』(全一〇巻)とともに、後世に託されることになるのでした。
すでに引用で示していますように、逸枝は、『日月の上に』で「乙女をして歌はしめよ/太古の山に住ましめよ」と書き、『妾薄命』において「妾はいま歸りませう/宇宙が妾を呼ぶままに」と書きました。宇宙が呼ぶままに、太古の山に帰り、歌姫として生きることが、逸枝にとっての願望でした。また、一九二五(大正一四)年、三一歳の逸枝は家出をします。そのときの書いた手記の一節が、次のものです。
あたしゃ愛ゆえ家を出る 恋しい人よさようなら あたしゃ愛ゆえ旅に出る それがあたしの宿命よ208
このように、逸枝は家出を自分の宿命と考えています。家を出るのは、このときだけではなく、生涯にあって、たびたび繰り返される事象です。逸枝は、避けがたく家出を宿命として身に囲っていた女だったのです。それでは、この「第二節 宿命としての家出」におきまして、資料に確認できる一一の「家を出る」事例を紹介しながら、逸枝の宿命にかかわる、その内実を、あるいは、それに際しての心的風景を少し眺めてみたいと思います。
[事例1]神隠し
この「神隠し」につきましては、すでに紹介していますが、この文脈においても欠かせない事象ですので、いま一度、引用します。
五歳のとき私は『神隠し』にあった。なにかで父にしかられ、泣く泣くそとにでたが、いつか裏山をのぼっていたのだった。 その夜の山上の景色、それはまだわすれない。月があった。雲がふくらんでほうと飛んだ。 「この美しさは?」 とおたばこ盆の袖無しの子がおもい、そして一晩じゅう見入っていたのだった209。
自叙伝的詩集である『日月の上に』において逸枝は、この「神隠し」をこう詩に表現しました。
夜は眞つ白になつた 星は一時に崩れ落ちた 山は中心を失つて 地平線へと傾いた 神隠しだとしか 思へませんね と翌る日皆が云つた 娘は睡つてゐた210
[事例2]森が恋しい
一九二一(大正一〇)年、逸枝は『新小説』四月号に、「日月の上に」を発表します。詩壇への初登場です。それを受けて『九州新聞』は、「肥後が生んだ唯一の女流詩人」と題して三回に分けて連載を組みます。内容は、逸枝のこの日までの歩みで、逸枝本人からの聞き取りがベースになっています。そのなかで、逸枝のこうした逸話が披露されています。
まだ七八才の頃彼女は漂然として家を出て幾日も歸らなかつたことがある、其の時お母さんは涙をたゝへ乍ら『あの子は観音さまの申し子ですからね』と泣ひたそうであるが、然し彼女に言わせると只森が戀しさに野面吹く微風が戀しさに家を出たまでで決して事情なんか伏在してはゐなかつたのだそうな、とまれ七八才にして森を戀する彼女の気持ちは早藝であり、行為は常に奇行的であつた211。
これに対応する『日月の上に』における逸枝の詩文は、以下のとおりです。
此の子は観音さまから 頂いた子で御座いますからねと 若い信心ぶかい母親は 涙を拭いて俯向いた212
『日月の上に』のなかのこの詩句は、「神隠し」に関して同書から引用した上の詩文のその次に続くものですので、『九州新聞』に書かれてある記事の内容は、「まだ七八才の頃」の家出の話ではなく、「五歳のとき」の「神隠し」についての逸話である可能性もあります。しかし、仮にそうであったとしても、「森を戀する彼女の気持ちは早藝であり、行為は常に奇行的であつた」ことには、変わりはないものと思われます。
[事例3]尼寺入り志願
同じく、『九州新聞』の「肥後が生んだ唯一の女流詩人」の記事は、こうした逸話も伝えています。
彼女が尼僧となる決心をしたのは十二歳の頃であつたが、家庭の都合で許されなかつた……213。
これについて逸枝は、その事情を、このように説明しています。
祖母の死や従姉千代野の病気への深刻な同情と痛み(彼女は胎内にいるとき堕胎の水銀薬のために不具となった)、私の一族や私のぐるりの部落の人びとの上にみられる貧困、憎しみ、怨み、犯罪、酒乱等々の悲惨時をみたりきいたりするとき、感受性のつよい幼い私の心は、釈迦や日蓮や親鸞に比せられる清い尼となって、大乗的に人を救い、または小乗的にひとり行いすます道に進み入りたいとねがわずにはいられなかった。このねがいは熊本の観音坂の尼寺入り志願となり半ば実行して挫折した214。
この守富時代の「尼寺入り志願」は、かつての白石野時代の「神隠し」の再来のようにも感じられます。必ずしもこの間の日々がすべて平穏であったというわけではありませんでした。満たされぬ思いがあったのです。さらに逸枝は、このようにも表現します。
私の小学時代のあわれな魂の欲求は、こうして欲求不満におちいることが多かったが、とにもかくにも、それは知的欲求、愛の欲求、自由の欲求等となって、多角的に燃えあがっていたのだった……215。
『日月の上に』では、逸枝は、こう詩に表わしました。
十二の春の静かな日に 思へば妾は家出をした そしてあてもなく 尊いお寺に辿りついて 家出をしようと考へた その小娘の頭には いつも夕日が沈んで見えた して地平線も人の命も くるくると落ち沈んだ216
[事例4]家を出て女工になる
師範学校を退学になった逸枝は、四年生として一年間だけ熊本女学校に在籍したのち、一九一三(大正二)年の三月、この学校を自主退学します。逸枝はこの間、熊本県立中学済々黌(現在の熊本県立済々黌高等学校)に通う弟の清人とふたりで熊本の京町台にある専念寺に寄宿していました。しかし、末弟の元男も済々黌に入学することになったため、逸枝は、専念寺を出て家族が住む佐俣の実家に帰郷しました。しかし、職につかないまま、惰眠をむさぼるわけにもいかず、再度家を離れ、熊本の地で働くことにします。
清人の「大正二年日記」によると、「朝、姉さまを送りて春日停車場まで行く。いそぎ昇黌。校門を入りしとき鐘鳴る」とあるが、これは、私が京町の専念寺から、熊本駅近くにあった鐘紡紡績に通勤していることを示している。工場は朝が六時なので、暗いうちに出かけねばならないから、清人と元男が熊本城内を通って送ってくれていたのである217。
しかし、女工として熊本で働くことを、逸枝は、家族に伝えていなかったようです。
女工になつたことが、故郷の父親に知れると、父親は火のやうに怒つて彼女を呼び戻した、そこで彼女は詮方なく故郷に歸つて代用教員となり濟ました、然し不安と、不満と、反抗とは常に彼女の胸に鬱積して、毎日退屈な日を送つた218。
逸枝の女工生活は四箇月余りで、長続きはしませんでした。翌一九一四(大正三)年の三月、逸枝は退社します。二〇歳の春でした。ふたりの弟の学費を援助することが目的であったかもしれませんが、他方で、今回の女工就職も、「神隠し」と「尼僧志願」に続く逸枝の「奇行」の一種だったといえるかもしれません。いずれにしても、親の激怒に会い、頓挫するに至るのでした。
[事例5]四国巡礼の旅に出る
逸枝がのちに夫となる憲三と会ったのは、一九一七(大正六)年八月二三日でした。その日は八代の旅館に泊まり翌朝別れますが、また会いたくなった逸枝は、次の日、憲三に会いに行きました。払川の自宅に帰ると、逸枝は「永遠の愛の誓い」を書いて憲三に送ります。逸枝は、恋愛を永遠的なるものと考えていました。しかし、憲三から届いた返信は、恋愛に永遠はなく瞬間的なものであるという、逸枝にとって冷たいものでした。「永遠説」と「瞬間説」の対置に、逸枝は動揺し、自分が時代に取り残されている感覚に陥りました。また、家庭にあっては、父親の定年をまぢかに控えていて、どうしても自身で正規の職を得る必要がありました。そこで、代用教員の職も家族をも振り捨てて、熊本に出たのでした。
逸枝は、九州日日新聞社に職を求めましたが、うまくゆきませんでした。また、熊本の文学青年たちの多くも、憲三と同じ思想の持ち主で、唯心論者であった逸枝は驚き、その思いは、音を立てて崩壊してゆきました。もはや食することにも不自由をするようになりました。逸枝はこのときの生活を「汚辱の沼」と形容します。かくして、すべてに行き詰った逸枝は、一九一八(大正七)年六月四日に四国巡礼の旅へ向けての第一歩を踏み出すのでした。
この旅について逸枝は、晩年に執筆した『今昔の歌』のなかで、以下のように書いています。
私は豊予海峡を渡るまでは、この雨具を買っただけで、ほかには一銭も支出しなかった。日が暮れると門に立って一宿を乞い、翌日は握りめしをもらって出かけた。もちろん断られたこともあるが、その場合私はけっして言葉をくりかえさず、次の門に立ったのである。幾日めかに、故郷肥後とわかれる峠に立った。 「火の国の火の山にきて見わたせばわがふるさとは花模様かな」 私の安住をゆるしてくれない払川、汚辱の沼熊本よ、さよなら。私はかならずしも故郷に帰る日を期していなかった219。
「ふるさとは花模様」であろうとも、自身は絶望の境地にありました。「私の安住をゆるしてくれない払川」とは、いわゆる「口減らし」を意味するのでしょう。他方、「汚辱の沼熊本」とは、自身が身につけてきたセンティメンタルな唯心論やロマンティックな詩心を許容しない都会の冷酷な思潮を指すのでしょう。さらにもうひとつ、逸枝のこころに寒風となって吹き荒れていたのは、いうまでもなく、球磨の山奥の教師、憲三の存在でした。加えて、極貧がもたらす絶望的な日々も。
[事例6]再び尼を目指して
巡礼の旅から帰熊すると、逸枝と憲三の交流が再開され、ついに逸枝は、自分との結婚について父親宛てに手紙を書いてほしいと、憲三に懇願します。憲三からの手紙を受け取った父親の勝太郎は、逸枝を呼び、確かめました。
「お前はこの人とあつたことがあるか。」 この人、と父が云つたので、それに非常におだやかであつたので、妾はどんなにうれしかつたでせう。妾は一二度お目にかかりました、と申しました。 「さうか、よし兎に角御返事をしなければならん」220。
父が返事を書いてくれることに安堵したのでしょうか、逸枝は憲三に、こうした胸の内を隠すことなく告白します。
實際のことを申しませうか。妾は尼僧になりたいと思ひました。熊本の観音坂に尼寺があるのです。初め四國へ行く前に一度訪ねたことが御座いますので、よく存じて居ります。そこで其處の尼僧の方に手紙を書きました。しかし投函しませんで、まだここにもつて居ります。あなたは決して御立腹なさいませんと信じます。ああ、どんなにおなつかしくお思ひいたしてゐますでせう。なぜお手紙を下さらない? 二十八日にお書きなすつたきりでは御座いません!221。
すでに述べていますように、逸枝は一二歳のころ尼僧になることを決意したことがあります。出家して尼僧になることは、逸枝の変わらぬこころに宿す願望だったようです。しかし、この時期に出家をすれば、憲三との結婚はどうなるのでしょうか。逸枝は熊本で尼僧になり、憲三はこれまでどおり球磨で教師を続けるとすれば、別居婚ということになります。逸枝は、そうした結婚形態を夢見ていたのでしょうか。それとも、「なぜお手紙を下さらない? 二十八日にお書きなすつたきりでは御座いません」という文言が、そのあとに続きますので、この手紙を受け取った憲三は、このときの、尼僧になるという逸枝の告白は、自分の気を引くための一種の「うわごと」として受け取ったかもしれません。しかしその一方で、尼僧になって駆け込んだ寺が「隠れ家」となって、愛を求める男たちに「常に温い食べ物と美しい灯りとを用意する事に忠實で」あろうとすることを意味するのであれば、憲三の気持ちは、決して穏やかではなかったにちがいありません。
約婚は無事相整います。そのあと、逸枝は憲三に手紙を書きました。以下は、その内容の抜粋です。
かんにんして下さい。もう尼さんにはなりません。ああはづかしいことばかり、妾どうしてこんなでせう。自分で愛憎がつきて了ふ。ほんとうにどうしてこんなでせう。どうぞお許し下さいまし。…… 妾をどうぞだいて下さいまし。そしていぢめないで下さいまし。妾はすつかり弱くなりました。呆然としています。妾達はたぶん二三年後、御いつしよになれるでせう。それまで妾も勉強します。どうぞ妾も達者でゐますから、あなたもお達者でお暮らし下さいまし。忘れないやうに、忘れないやうに、あなたの妻を。あなたの妻を222。
約婚をしたばかりというのに、この手紙は、ふたりが別れゆくかのような内容です。ふたりのあいだに何があったのでしょうか。それとも、逸枝と両親のあいだに、何か大きな問題が生じたのでしょうか、あるいは、家を出ることは、逸枝にとって既定の路線だったのでしょうか。すべて不明です。
[事例7]妹を連れ立っての家出
「かんにんして下さい。もう尼さんにはなりません」と、逸枝は、憲三に手紙を書きました。しかし、出家して尼になることは諦めたものの、それでも家を出る決意には変わりなく、約婚からちょうど三箇月後のこのとき、実行されたのでした。
大正八年七月二十六日、私は妹栞をつれて家を出た。母の了解のもとに。このとき私の立場は、緬羊の計画もおじゃんとなり、いわば家では𧏚つぶしの状態なので、われとわが心に追われて、よそ目には無茶とも思われるような行動に出るはめになったのだった。しかし、こんなのが無産者の家族(当時の)の常態なのだ。さしあたりの目標は大阪へんの紡績会社で労働しようというのだった。妹を道づれにすることはためらわれたが、彼女が希望するのを捨ててはいけなかった。母も頼んだ223。
道連れの栞は、一九〇二(明治三五)年一一月の生まれですので、このときまだ一六歳でした。なぜ向かう先が、大阪なのでしょうか。働く場所も決まっておらず、そしておそらく所持金もわずかであっただろうと思われます。そうしたなかでの、姉妹ふたりによる大阪行きは、たとえこれまでに、熊本で女工勤めの経験をし、四国では無銭旅行の体験があったとはいえ、やはり、「よそ目には無茶とも思われる」、逸枝特有の「奇行」だったように感じられます。しかし、この「奇行」も、それに続くさらなる「奇行」によって挫折します。逸枝は、こう書きます。
妹を熊本の旅館において、九州相良の城下ちかくの城内校につとめているKのところに、しばらくの別れを告げにいったのが不覚で、私はくぎづけにされてしまい、妹は家にひきもどされた224。
憲三は、前年の一九一八(大正七)年三月に、尾崎尋常小学校から城内尋常小学校へ移動していました。そこへ逸枝が現われたのです。人吉駅での再会でした。この夜ふたりは、城内校の宿直室で結ばれます。憲三は逸枝を、人吉駅から汽車に乗り、八代駅まで見送ることにしました。柴田道子は、こう証言します。
Kは逸枝のことを、何をしでかすかわからないと考えながらも、この人の出発を引き止める力は自分にないことを知っていた。Kが彼女にわかれを告げて、八代駅で下車すると、後から彼女も何もいわずにとことことついておりてくるのだった。…… Kは逸枝をとどめることもできず、二人がかつて最初の出会いをした思い出の地八代に、その夜は一泊し、とうとう翌日も逸枝はKと別れがたく共に城内校に帰ってくる225。
姉の逸枝がそのまま憲三と城内校で生活をはじめるならば、残された妹の栞は、どうなるのでしょうか。柴田の文には、「熊本の旭館に一人残してきた妹の栞は、払川の父に手紙を出して引きとらせる。父は使いを出して栞をむかへにやった」226とあります。栞はこのとき、姉を責める言葉さえ見出せず、両親にあわせる顔もなく、茫然自失の状態にあったものと思われます。他方、父親勝太郎の、ふたりの娘に向ける激怒の感情は、推測するに余りあるものがあります。いうなれば、逸枝の身勝手と無分別とによる、こうした家族の犠牲を踏み台にして、憲三と逸枝の新婚生活はその幕を開けるのでした。
[事例8]出京
このときの新婚生活は、およそ四箇月後には続行不可能となり、逸枝は、両親の住む払川に帰ります。
決心がついてみると、Kの毒舌や暴力も、私の欠点も、それらのすべてが、彼と私とのくいちがいからきたものばかりだったので、ただ私は知らないこととはいえ、Kのところに侵入し、さんざん彼を手こずらせ、ずうずうしくも大きな損害を彼に与えたことを心から詫びて、帰郷することにした227。
しかしながら、城内校での新婚生活とその破綻は、逸枝の成長と詩作に大きな衝撃を与えました。このとき、逸枝の身に「感情革命」が起こったのです。
これは不思議なことだった。私はたびたびいったように、文学を知らず、興味もなく、この種の本はまだ数えるほどしか読んでいなかった。それでKのところで文学についての概論や解説や内外の小説、戯曲、詩などを読んだのであるが、とくにKが押しつけた『沈鐘』を読んだことは、私には大きなショックだった。 これが感情革命の導火線となったのだった。 作中の森の姫ラウテンデラインは、私のうちに眠っていた「火の国の女」をよび覚まして、これを表面化させた。ここに私はKを忘却し、私自身となった。それは結果としては「女体の成熟」をめざす方向をもつものだった228。
さらに逸枝は、こう続けます。
球磨から帰ってくると感情革命とともに、山の乙女の女体は成熟し、その精神は悲鳴をあげて生き悶え、人生のむざんな露骨な表現への苦悩、それのひきおこす思想的相尅、もう一ついえば家の貧乏等に、山の乙女の私は、あるときはか弱く抵抗し、あるときは進んで対応し、跳ね飛び、あるときは打ち仆されて死骸となった。常識も、自己防衛も断絶した229。
そしてついに、逸枝にとっての新しい詩型が誕生しました。
まさに一飛躍だった。陶酔の山の乙女はここにきて冷厳な観照派となり、さらに異様な四次元的な抽象的世界へ入り込もうとする気はいさえみせはじめた。こうして、山の乙女の生活情緒は、ついに短歌の定型(三十一文字)からはみ出し、破調(自由律)の短歌となった230。
こうしたなか、詩作がひとつの完成の域へと向かいます。
私は定型短歌では表現されないものを内部に感じたときに破調短歌にすすんだが、さらに短詩形では盛り切れないないものを感じて長詩に移った。 それは『放浪者の詩』と題する一巻になった。―これを書き終えたのは八月下旬のことだった231。
いよいよ、逸枝の出京の準備が整いました。このとき憲三は、「私の出京については生活費は保障するから、むりなことはしないようにといってくれて、だまって旅費百円を本の下において帰った」232。逸枝は、またこのようにも書きます。
憲三は生活費を送ってくれるといったが、私は旅費だけをもらって、あとはなにか労働して自活するつもりだった。東京に出ることは、若い貧しい私たちには必至的な運命であって、いちどは二人いっしょに出ようとしたが、収入のあるものがのこって、そうでないものを助けるという常識的な考えにおちついた233。
かくして、その日が来ました。
大正九年八月二十九日午前六時、私は払川の父母の家を辞した。あたらしい天地をもとめて。「逸枝は東京に出発したり」と父はこの日の日記に書いている。暁霧がはれたばかりで、すがすがしい初秋の気が山や川や道をこめ、払川は静かな朝だった。 父は窓のふちに片手をかけ、すこしからだをかがめて、土橋から向うの道にまわってきて、川をへだてて父と向いあって別れの最敬礼をした私に、かるく頭をさげてこたえてくれた。母は大銀杏樹の店の手前の山角まで送ってきた。もう路傍には女郎花が丈高く咲いていたが、母は花の中に立って、別れの言葉をあたえた。そして、「出世しなはりえ」といった。私は、「出世します」とつつしんで答えた。……やがて母はその道をまがって歩き去ったが、これが父母への永久の別れとなった234。
[事例9]弥次海岸への都落ち
一九二〇(大正九)年八月二九日、二六歳の逸枝は単身、「放浪者の詩」一巻をバッグに入れ、払川の実家を出ます。東京に着くと、幸いなことに、富農の軽部仙太郎・なみ夫妻の屋敷に引き取られ、自叙伝風の長編詩「日月の上に」を執筆します。守屋東の尽力で『放浪者の詩』が、生田長江の推薦で『日月の上に』が上梓されるのは、翌年(一九二一年)の六月でした。それを受けて、逸枝の身辺が一気にあわただしくなりました。
私の昼の時間はジャーナリストや各種類の男女の訪問客のために奪われるようになった。訪問者のない日はほとんどなかった。……私はまだ訪問者をさける分別をもたなかったので、いちいち対応して悩んでいるのを、後にはなみ夫人がみかねて上手にことわってくれるようになったが、それでも心の自由さはだんだんむしばまれてくるようだった。もはや林の中の思索も、散歩すらも可能でなくなった235。
こうした状況を、そのおよそ一箇月前に茶摘みの休暇を利用して上京していた憲三も直接目の当たりにし、「心の自由さはだんだんむしばまれてくる」逸枝を心配したにちがいありません。「彼は休みの期間が過ぎるとすぐ帰るはずだったが、私をみるなり、たちまちひょう変して、私を略奪する気になったらしく、故郷の南の海岸にいって一年くらい二人だけでのんびりくらしてみないかといい出した」236。結果的に、この憲三の申し出を、逸枝は受け入れます。それについて逸枝は、こう書いています。
私は……大正九年の秋出京し、世田ヶ谷満中在家の軽部家に寄宿し、親切な宿の人たちや美しい自然にかこまれて勉強し……[翌年の]四月には処女作が発表され、六月には二つの本が出版されるといったような幸運にめぐまれていた。そこへ夫が球磨から出てきて、そのまま弥次へつれて行ってしまったのである。このとき出版元の新潮社の人が、「いまがいちばん人気の立っている大事な時だから都落ちなどはしないほうがよいが」とひきとめてくれたが、私はそれを夫にいえないほど、こういう場合には優柔不断で、ひとがよろこぶことなら、すぐに曹大家の「女誡」にいうように「曲従」する性格があった237。
逸枝には、言葉に特別の化粧を施す性癖があるように感じられます。たとえば逸枝は、通常使用される「婚約」を「約婚」や「婿入り」に置き換えたり、「上京」には「出京」や「都のぼり」、「帰郷」には「都落ち」の文字を当てたりします。ここで使われている「曲従」も、本人自身がいうとおり、日常用語の「優柔不断」とほとんどその意味に変わりはなく、「曲従」という言葉のもつ、その印象からすれば、自分の意に反して、他者の威圧に完全に屈服することを示しているように受け止められそうですが、この場合も、新潮社の人などの助言に従ってこのまま東京にいるのがいいか、憲三の誘いに乗って帰郷するのがいいか、自分では判断がつかない迷いの状況にあって、それを見抜いて憲三が下す判断に従って、東京を離れることになった、という程度の意味ではないかと思われます。
もし憲三の提案を断わり、そのまま東京生活を続けることになれば、「心の自由さはだんだんむしばまれ……もはや林の中の思索も、散歩すらも可能でなくなった」結末を招いたことは明白です。逸枝にしてみれば、訪問客のあしらい方も知らないこうした状況で、本当に次の詩作ができるのでしょうか。かといって、熊本に帰り、憲三が示す八代の弥次海岸での生活は、城内校での経験から考えて、必ずしもこころ躍らせるようなものではなかったでしょう。物事にかかわって自分で適切な判断ができず、勢い、すべてを受け入れてしまい、その結果混乱に陥るという自らの性格からして、逸枝はこのとき、即決も即答もできなかったものと思われます。しかしながら最終的には、憲三の、ある意味での支配力と、逸枝の、ある意味での依存性とがうまく合体して、熊本への帰省という結論へふたりは到達したのでした。あたかもこの状況を先取りするかのような詩が、『放浪者の詩』にありますので、以下に紹介します。
二人は今も遺る瀬なく 愛し合つてゐるのだけれど こんなに暗い顔をして 睨み合つて暮らしてゐる だがその戀しい妾の戀人は 優しい聲で妾に恁う言つた 僕は貴女をお友達にして あの地平線まで歩いて行きたいと もう貴女を可愛いとは思ふまい そして尊い人だと思ひたい そして二人で仲よく手を取り合つて 静かにお話をしませうと238
逸枝が描く詩の世界と同様に、実際にここに至って憲三は、逸枝のことを、「可愛い」人を越えて「尊い人」とみなしていたにちがいありません。次は、逸枝の文です。「出京したKはそうした独占欲を発揮して、一本の手紙で学校の方はやめ、六月末には私をつれて都落ちした。軽部家では親類の人たちをも呼んで、心のこもった別離の宴を催してくれた」239。
こうして、憲三は、勤務先の城内校に辞表を送ると、逸枝を伴って東京を離れ帰郷し、熊本県八代郡金剛村の弥次海岸に家を借りて、城内校に続く二度目のふたりだけの生活をはじめるのでした。
[事例10]男と一緒に家を出る
弥次海岸の家を引き払い、東京の軽部家にもどったのは翌年(一九二二年)の三月でした。次の年、憲三は平凡社に入社し、編集の仕事に携わります。しかし、それからまもなくして、ふたりを襲ったのが関東大震災でした。軽部家には被災した親類の者たちが身を寄せるようになり、それを機に、一九二四(大正一三)年の春、逸枝と憲三は軽部家を出て、借家を転々と移り住む、逸枝の用語法に従えば「路地裏時代」がはじまるのでした。しかし、逸枝が「幸福だった」のはつかのまのことで、憲三は、新妻を郷里に残したまま職を探していた人吉の友人を家に招き入れ、水入らずの生活は、あっという間に、潰え去ります。このとき以来、「私の家にはいつも一人か二人の無料常宿人がいることになり、翌十四年のはじめに東中野の借家へ移ってからもこの習慣はずっとつづいた」240。憲三にすれば、家もなく、食べるものにも不自由する知人を見て、見ぬふりをすることができなかったのかもしれません。もっとも、「彼らは行儀がわるく、家じゅうを占領して気ままにふるまい、そして私を台所の板の間に追い出した。私はこの板の間のチャブ台の上で雑文を書くことになった……この梁山泊的、どん底の宿的生活はその頃の一種の時代的流行で……誰かが家を持てば、宿無しの友人たちが、わんさとたかってくるのだった。……私の肉体も心も、頭脳も、石のように動かなくなり、することなすことがKの短気をつのらすばかりとなり、自分を夫や家庭につなぐ自信さえぐらついてきた」241。
以下は、家出のおよそ三箇月前の、一九二五(大正一四)年六月二日の日記に記された、逸枝の文の一部です。
私の行くところはどこやら分かりません。別れたくないが別れるのがいい、心がそうささやきます。どうぞ私のいない後には、よい家庭を作ってください。私のような不具なもののみが、あなたのご機嫌をそこねます。私はまたの世には不具ではないものに生まれてきて、あなたのほんとうの妻になりとうございます242。
続く六月二七日の日記には、こうした文字も並びます。
きょうも夫が出て行けという。いくど夫はこの言葉を使うだろう。これはブルジョアがプロレタリアにたいして、その弱身につけこんでいう悪辣な言葉とおなじに悪辣である。こうした言葉は使って欲しくない。 私の夫に対する愛情はほとんど絶無に帰した。百年の恋も一時にさめてしまった243。
実際に逸枝が家を出たのは、九月一九日でした。置き手紙がありました。「旦那さま つらい逸枝」で書き出されます。「さよなら。さよなら。……金を少し下さい。××さんに返します。そこまでいっしょに行き、わかれ、それからひとりになります。それから山の中のお寺を見つけ、恋愛論を書きますから、その間だけ宿代をおめぐみ下さるように下中さまに願って下さい。(一、二ヶ月)……けれどもその先はわかりません。捨て身になります。……探し出さないで下さい。恋愛論の参考書はいって上げますから送って下さい。……西国に行きます。死んだ坊やや母を弔いながら少し巡ります」244。
逸枝に同行した「××さん」は、憲三の平凡社における同僚で、そのとき憲三・逸枝宅の食客となっていた藤井久市でした。藤井は、「新しき村」にも参加した経験があり、根っからの「さすらい人」でもありました。ちょうどそのとき、会社も辞め、西国への巡礼の旅を計画していたようです。「下中さま」とは、憲三が勤務する平凡社の社長の下中彌三郎を指します。
このときの逸枝の手記には、こうした詩も、書き付けられていました。「それに時代は移って、革命の機運がわれわれを呼んでいたことも感じられた。そうときまれば、もう私は火の国の女なのだ」245。
あたしゃ愛ゆえ家を出る 恋しい人よさようなら あたしゃ愛ゆえ旅に出る それがあたしの宿命よ 愛の足かせたちきって 行けば向こうに火が燃える 若いいのちをささげよと 革命の火が燃えて待つ246
この詩からは、家を出る悲壮感はあまり伝わってきません。漂うのはむしろ、自分の「宿命」を楽しもうとする戯れ的な雰囲気です。逸枝にしてみれば、自分の理想に沿って夫を真剣に愛すれば愛するほどに、すれ違いや隙間風が生じ、自分の存在への自信を失い息苦しくなるのでしょう。そうなれば、生き返るために新鮮な空気を求めて外に出るしかありません。これまでもそうでしたが、逸枝にとっての「家出」は、再生のための一種の転地療法だったように思われます。つまりそれは、決して夫への裏切り行為ではなく、ある一面から見れば、逆説的な意味をもつ、夫への愛の伝達手段ということになるでしょうか。
そうした固有の複雑な思いのなかにあって、実際に逸枝は、「西国巡礼から高野山におちつき、婦人論の著述に生涯を託するつもりだった。……大正十四年九月十九日、私はついに家出を決行した。しかし、せっかくのこの家出もKが半狂乱で追っかけているということを新聞で知ると、私はたちまち豹変して、自分から熊野街道に出ばってKが乗ってくるだろう自動車を待ち受けたり、警察に届け出たりして、進んで連れ戻される結果となってしまった」247のでした。
果たして逸枝は、本当に「高野山におちつき、婦人論の著述に生涯を託するつもりだった」のでしょうか。これを字義どおりに読めば、このとき逸枝は、家庭生活に自分の居場所を見出せず、そして、その苦しみにももはや耐えきれなくなり、絶望のうちに、夫から離れて、女僧となって高野山に入り、その地で一生涯、婦人論の執筆にひたすら生きたいという強い思いに駆り立てられていたことになります。しかしその一方で、自ら進んで、「Kが乗ってくるだろう自動車を待ち受けたり、警察に届け出たり」していることから判断しますと、逸枝は、本気で憲三と別れる意思など最初からなく、ひとえに憲三が、自分の存在にしっかりと目を向け、一日も早く自分を探し出してくれる、そうしたひとつの愛情表現を秘かに待ち望んでいたようにも、受け取ることができます。そうであれば、ある意味で、逸枝にとってのこの家出は、子どもが「隠れん坊」や「鬼ごっこ」をするような、単なる遊び心の発露だったのかもしれません。そうでなければ、「婦人論の著述に生涯を託するつもり」というほどの深刻な覚悟ではなく、一、二箇月の短いあいだ、誰にも邪魔されずに山にこもって、いま抱えている婦人論ないしは恋愛論を自由な思考のもとで完結させたいという、ごくささやかな執筆願望の現われだったのかもしれません。あるいは、向こうに燃え盛る「革命の火」を自分の目で確かめたいという、未知の世界に引き寄せられていたのかもしれません。
[事例11]巡礼旅行の計画
「森の家」で研究生活に入った逸枝は、その二年後の一九三三(昭和八)年の秋、大きく体調を崩します。「椅子にかけていると下半身が麻痺し、腹部から胸部にかけて強直を感ずるようになった。数日間眼が充血し、眼球にはおそろしい血の網がはられた。それでも私は、かつて熊本の生活できょくどの飢えや衰弱に耐えた経験をもっているので、こんども自己の抵抗力を過信して、平気でやり過ごそうとした。しかし、それには限界があった」248。
ある日のことです。帰宅した憲三を迎えに出ようとして、足が自由にならずベッドから落ち、気を失ったことがありました。そのときは、風呂場の窓ガラスを破って、憲三が部屋に入り、大事には至りませんでした。数箇月間に及ぶ憲三の介護ののち、幾分回復すると、逸枝は、厳禁されていた仕事を、憲三の目を盗んで続けようとします。すると、「右の腕がいうことをきかず、無理にペンを動かすと胸に疼痛がおこり、ペンを取り落とす。思考力も鈍っており、第一あれほど湧きたっていた仕事への興味さえ失われているようだった」249。このとき逸枝は、転地療法を考えましたが、経済状態が許さず、結局、「再び往年の巡礼旅行を思い立った」250のでした。以下は、一九三四(昭和九)年四月一〇日の逸枝の日記からの抜粋です。
昨夜巡礼の話が出たが、けさになってとつぜん具体化した。費用のこともあり、Kを留守居させて私ひとりが旅でもあるまいと夢にしてしまっていたが、彼がすすめてくれるので、計画が急にまとまってきた。秋ごろにと思っていたが、それではこの月末に立とうかと思う。…… さていよいよ行くとなれば、いまから二十日の間に準備を完了しなければならない。まず服装、それに笠、杖、負い衣その他、軽部のおなみさんに相談してみよう251。
この巡礼の旅には、軽部家の夫妻が、支援してくれました。そしてまた、平塚らいてうにも、同行を誘ったようです。逸枝は、このように書いています。
軽部夫妻はいろいろ旅装上の用意をしてくれた。そのとき、せんべつにもらった特別あつらえの白い地下足袋がまだ残っている。らいてうさんはご病気でだめだった。けっきょく、私も実行できずじまいだったが、幸い、これが契機となって、健康も、頭脳も、回復した252。
なぜ「計画が急にまとまってきた」のか、また、なぜ「実行できずじまいだった」のか、逸枝の書く文だけからは、そのことは明らかになりません。
以上、「家を出る」ことに関して、一一の事例を挙げて紹介してきました。そこにはさまざまな理由が隠されていましたし、理由がはっきりしないものもありました。しかし、総じていえることは、逸枝は、従順にも現状を受け入れようとするものの、どうしても限界に達すればそれに耐えきれず、そこからの脱出を図ることにより、自身の清廉な心的状況を回復させようとしてきたように思われます。つまり、生き直し、生き返り、再生、蘇生、生まれ変わりが、逸枝の人生には、どうしても必要だったようです。以下は、憲三が石牟礼道子に語った、逸枝についての観察です。二例、書き記します。
乞食にもなれたし、おかみさんにも女王にも革命家にもなれた。乞食になれたでしょうきっと。夢みる乞食に。あなたこそは悲惨そのものにもなれたひとでした253。 あなたは洗濯がとても下手で、僕の方がずっと上手でした。……放浪は出来ても商売など出来る筈はない254。
「家を出る」最後の事例にありますように、巡礼の計画が急にまとまりかけたものの、実行されなかったのは、一九三四(昭和九)年四月のことでした。それ以降、逸枝の「家を出る」行為は、認められません。それは何を意味するのでしょうか。ある一面から推量すれば、憲三との愛が、究極的な一体化へと進んでゆき、こころの不安や葛藤が払拭されたからではないかと考えらえます。そこで、次節「愛を求め一体化を願う」において、生涯における逸枝と憲三の愛の実際とその変遷について、少し詳しく見てみたいと思います。
この主題を語るに当たって私は、逸枝と憲三のふたりが織りなした生涯における愛の実相を幾つかの特徴的な段階に分け、その推移に着目してみようと考えました。分節化の結果は、次に挙げる七つの段階です。「第1段階 出会いから約婚まで――逸枝の熱愛と憲三のつれなさ」「第2段階 城内校での最初の新婚生活――両者のくいちがい」「第3段階 弥次海岸での二度目の生活――憲三の自覚の芽生え」「第4段階 再出京後の逸枝の家出事件――古い夫婦関係の見直し」「第5段階 女性史学者として立つ――夫婦の役割分担の新たな構築」「第6段階 一体となって生きる――陰膳、そして『誓い』」、そして最後に「第7段階 逸枝亡きあとの憲三の追慕――『不離の愛』の完成」。それでは、この流れに沿って、[第1段階]から順次語ってゆきます。
[第1段階]出会いから約婚まで――逸枝の熱愛と憲三のつれなさ
一九一七(大正六)年のはじめころ、逸枝ははじめて憲三からの手紙を受け取ります。ふたりとも、田舎の小学校の教師をしていました。その手紙には、『少数派』という回覧雑誌を出すので、それに参加しないかという勧誘の言葉が綴られていました。それ以降、ふたりのあいだで、文通がはじまります。
一九二三(大正一二)年の四月に、憲三の『恋するものゝ道』が耕文堂から世に出ます。内容は、序篇の「七夕前夜」が憲三によるふたりの出会いにかかわる小説で、それ以外の残りの本文は、すべて逸枝から憲三に宛てて出された手紙によって構成されています。印税取得を目的に出版されたものですので、幾分そのため創作の手が加えられている可能性もありますが、以下に、「第一 青春の始めの日に」(全三七信)から部分的に断片断片を適宜引用して、ふたりが実際に会うまでの逸枝の心情を再現してみたいと思います。日付は記されてありません。
[第一信] 妾の住んでゐます在所は、山の峽間の淋しい村なんで御座いますの。……月が出ました。だんだん光が深くなつて參ります。 [第三信] 妾はいま斷崖に立つてゐる――妾の眼下は涯知れぬ暗黒の谷底です。 [第五信] ね、月の夜に二人で山に上つたらどんなに嬉しいでせう。 [第七信] 妾はあなたをお信じ申し上げることを、あなたに首肯していただきたいばかりに、希ひ、悶え、泣くので御座います。……妾は七才の春から母に就いて……古文を學ぶことになりました。……妾の憧憬は、紫式部と袈裟御前とで御座いました。……操ということが妾の胸にどんなに尊く響いたことで御座いませう。 [第九信] 寫眞を差し上げます。これは今の妾とはあまり肖てはゐません。またすぐにとつて差し上げます。あなたにわるく思はれたら悲しい。 [第十三信] ああ、戀ひしいあなた! 戀ひしい戀ひしいあなた! 妾はいつお目にかかれるでせう。 [第十八信] 今、妾の心は白紙ですの。娘の妾は騎士のあなたによるのですの。妾の敎育は、あなたのお手によつて。右も左もあなたのみ心のままに。 [第二十信] あなた。あなたに憤られたなら、妾がどうして生きて行かれませう。……おこらないで下さいな。あなたに一寸でもおこられては、それこそ死ぬ程かなしいので御座いますもの。 [第二十一信] お寫眞を見るたびに、あなたの着物をお縫ひした人を妬みますわ。妾にだつてそれは出來ますわ。またお料理だつて稽古しますわ。また妾は音樂家でもあるのですわ。 [第二十四信] ほんに今會ひたい。會つて、み胸に顔をあてたい。あなたをたよりにしてゐます。妾のこの切ない燃ゆる心を、あなたは知つてゐて下さるの。何だか無情ないわ、あなたは。 [第二十九信] こんな晩にかうして佇んでゐるとかなしくなりますの。……いつまでも月を見て、歌つて、思つて、泣いてゐる妾を御想像下さいまし。妾はもうこのまま、この清い月を眺めて死んでしまひたいとさへ思ひますの。 [第三十四信] 明日から松橋に行きますわ。今夜はきつと眠れないわ。 [第三十六信] 今日は二十二日なの。あと一日。もう今になると羞かしさが一杯なの。どうして、この羞かしさをとり除いたらいいの。お目にかかつたら妾何と云つたらいいの。きつと、きつと何も云へないわ。 [第三十七信] 二十三日。あはただしい、仄かな朝が來ました。……これがたぶん最後の・・・・お目にかかるまでの・・・・手紙で御座いませう。追つつけ俥が、參る筈で御座います。苦しさを通り越して、今はうつとりしてゐます255。
自己紹介や近況報告というよりも、明らかに内容は、いまだ会っていない男性への熱烈な恋文、さらにいえば、愛の詩文となっています。当時の自分を振り返って逸枝は、「文学を知らず、まったく彼とは対蹠的なロマンチックなひたむきな野生のままのしらたま乙女」256であった、と書いています。
一方、この時期の憲三の心的状況は、どのようなものだったのでしょうか。『恋するものゝ道』には、憲三から逸枝へ宛てた書簡は所収されていませんので、そこから判断することはできず、推測するしかありません。おそらくそのころの憲三のこころの背後には、幼い妹を不慮の事故で亡くした虚しさや、視覚世界の半分を喪失したがために進学を断念せざるを得なかった悲しみや、胸部疾患により就職が遅れた苦しみが複雑に混在していたものと推測されます。そしてそれらが要因となって、積極的に憲三をして読書や執筆へと向かわせ、思想傾向も、ある程度このときまでに形づくられるに至っていたのではないかとも思われます。『少数派』という雑誌の刊行も、そうしたことに遠因があったかもしれません。このころの憲三について、逸枝は、「一種の作家志望者でもあったので、私との恋愛事件も、彼にしてみればいわゆる好個のネタでもあったわけだったろう」257と、表現しています。
およそ週に一便の頻度で約八箇月間、手紙のやり取りが続きました。そして、ついに逸枝は、「戀ひしい戀ひしいあなた」に会う機会をもつことになるのです。それは、一九一七(大正六)年八月二三日の午後のことで、その日は、七夕祭の前夜に当たっていました。この夜ふたりは、八代の旅館に一泊したものの、うまく意思の疎通が図れなかったことを逸枝は愁い、そこで、憲三に電報を打つと、再び憲三に会いに行きました。待ち合わせの一勝地駅のホームに憲三はいました。半日の語らいを楽しみ、払川の自宅にもどった逸枝は、「永遠の愛の誓い」を文にして憲三に送りました。その内容は、次のようなものでした。
私はあなたへの永遠の愛を誓います。私に不正な行為があったら、あなたの処分にまかせます。あなたのお手紙はたいせつにしまっています。恋しいあなたよ258。
しかし、返事はすぐにはありませんでした。しばらくして届いた返事は、次のような内容で、逸枝の気持ちを茶化し、踏みにじるものでした。
この世には永遠というものはありえない。瞬間のみがある。まあ行けるところまで行きましょう。あなたが僕の手紙をたいせつにしてくれるのはありがたいが、手紙というものは時の拍子で書くものだから、あとで恥をかくから焼いてくれ259。
それまで逸枝は、恋愛というものを「永遠説」のもとに夢想していました。ところが、憲三が思い描いていたものは「瞬間説」でした。逸枝はいいます。「二十三歳のこんにちまでにすこしの疑いもなく持ちつづけていた愛の『永遠』の観念が根本からくつがえって『瞬間』のそれへと切りかえられることには、ひじょうな苦悩と体験、時間などがまだこのとき必要だったとしても、私はわるびれずこれを受容することを決意して、その第一歩を踏み出すことをためらわなかったのだった」260。
それにしても、一度しか会っていない男性に、「私に不正な行為があったら、あなたの処分にまかせます」という内容の「永遠の愛の誓い」を書く逸枝も逸枝ならば、「手紙というものは時の拍子で書くものだから、あとで恥をかくから焼いてくれ」と相手に求めながら、その一方で自分がもらった手紙については、のちに『恋するものゝ道』において世に公開する憲三も憲三であるといわざるを得ません。ふたりとも、未熟といえば未熟、自己中心的といえば自己中心的、純朴といえば純朴、そうした言葉がお似合いの恋人たちのようです。先走っていえば、この乖離をどう埋めるのか、それが、これからこのふたりが繰り広げる恋愛の、悲劇とも喜劇ともなる部分でした。のちに紹介しますように、逸枝はそれを、「くいちがい」や「ユーモラス」、「曲従」や「奴隷根性」などといった用語を使って言い表わします。その一方で、「不離の愛」や「一体化」という言葉で、自分たちの親密な愛を表現します。もし仮に、憲三がいう「瞬間」の一つひとつが連鎖して持続し、結果として逸枝のいう「永遠」が全体として到来するのであれば、ふたりの恋愛は、まさしくそれに相当する格好の事例になるのかもしれません。私が、この「第三節 愛を求め一体化を願う」を書くに当たって、ふたりの恋愛を分節化するのも、それは「瞬間」を見逃さないためであり、生涯を描くのも、それは「永遠」に着目しているからでもあります。いずれにせよ、自分が持ち合わせていない異なる考えであろうとも、愛する夫の適切な言説であれば、「わるびれずこれを受容することを決意」するところが、逸枝の性格上の大きな特徴であるといえます。しかしまた一方で、この姿勢は、あたかも無言のうちに妻から突き付けられた、夫憲三にとっての大いなる命題となるものでもありました。受動的に生きているように見えながらも、その実、そこに自身の居場所を見つけては、はっきりと自分自身になりきる逸枝。エゴイストとして生きているように見えながらも、その実、その自分の性格を顧みては、はっきりと過去を捨て去り新生する憲三。かくして、この火の国の恋人たちは、明日へ向け、「ひじょうな苦悩と体験、時間など」を、おそらく無意識のうちに覚悟しながら、ここにこうして歩み出したのでした。
出会いから約婚に至るまでの二年間、明らかに逸枝の姿勢は熱愛的で積極的であり、それに対して憲三は、どちらかといえば冷ややかで懐疑的な態度を維持します。たとえばその例を、以下のような、両者の文に求めることができます。最初は、一九一九(大正八)年一月一四日の『九州新聞』七面に掲載された憲三の小説「山を越えて(二)」からの引用です。場面は、「小さん」と「私」が会話を交わす部分です。
私は吃驚(びつくり)したやうに彼を見て、そして寫眞を見た。私は此の頃殆ど彼女を忘れてゐた。 『……たしか毒藥だつたさうですよ。しかしいさといふとき女は逃げてね、かういつたんです、死ぬことは止(よ)しませう。そして私達は生きませう。つてね』 『つまり遊戯(いたづら)だつたんですね』 『男を食ひ歩くんですよ、きつと魔物に違ひない。……どうです近頃は。』 『……』 『早く突き放しておしまひ……毒婦つていふ氣がしますね』 私は苦笑した。 『もう止して下さい、でないと私は腹を立てますよ』 彼は素直に黙つた、私も黙つてゐた。
「小さん」が「私」に語った「たしか毒藥だつたさうですよ。しかしいさといふとき女は逃げてね」の内容は、真実であるかどうかは別にして、四国巡礼の旅に出る前に、逸枝に血書を送りつけてきた一青年との心中未遂のようなものが念頭にあるのでしょう。この会話が、実際に憲三を訪ねてきた友人が口にした言葉であるのか、憲三が、小説という虚構空間を利用して、自分の思いを「小さん」なる人物に語らせているのか、それもわかりません。しかし、小説とはいえ、憲三がこう書いている以上は、このときの憲三の胸の内には、逸枝の優柔不断さに対する激しい嫌悪感と、その一方で、何とかそれから目をそらそうとする、ある意味での希望的否定感とが渦を巻いていたものと思われます。
次は、『恋するものゝ道』に所収されている、この時期逸枝が憲三に宛てて書いたと思われる手紙文からの一部抜粋です。「要するに妾は理性の上から見て、あなたと戀をしないでゐることを最もいいことだと思つてゐます。が、感情はさうではありません。……例へおたよりは絶えてゐても、妾はあなたを深く信じ且尊敬いたします」261。憲三からの返信は一向に届きません。残るのは、理性を越えた、押さえ切れなく噴き上がってくる熱情のみです。そしてこの手紙は、こう続きます。「あなたは『愛してゐる』といふあなたの眞心を一寸もみせて下さらない。それが妾には悲しい」262。
そうしたなか、いよいよ逸枝は、大胆にも核心部分に突入するのでした。
ね、結婚いたしませう。初めに約婚だけでもいい。……お遊びにいらつしやい、妾のところへ。ね、母は優しう御座いますのよ。…… あなたから父に手紙を下すつたらいかがです。すぐに、率直に結婚を申し込んで。面倒を排して。それからお遊びにいらしたらどう? 父がかたくなでいけませんけど一時も早くとそのことを思ひます。妾は待つてゐます。あなたがいらつしやいますとき、妾はお迎へに參りたいと、それをもう考へてゐます。妾は父や母の前であなたにお會ひいたしたら、それこそくちもきけない程だと存じます263。
突然の結婚の申し出に、憲三は面食らったにちがいありません。しかし、結果として、この単刀直入な意思表示が、憲三のこころを動かしたものと思われます。一九一九(大正八)年四月一四日、ふたりの約婚は、相整うのでした。
[第2段階]城内校での最初の新婚生活――両者のくいちがい
約婚後、逸枝は、このような内容の手紙を憲三に送りました。
妾があなたをお思ひいたしてゐますやうに、あなたも妾を思つてゐて下さいますか。…… 若い、氣高い、血氣が、妾をおそひます。ああ、妾どもの高潮した青春よ。妾はそれを決して萎らせないでありませう。……妾を愛して下さい。愛して下さい。愛して下さい。強く強く愛して下さい。 妾はあなたに抱かれて死にませう。…… 妾はしばらく讀書しよう。燃ゆる思ひを唄にしよう。……すべてをすててあなたと二人で暮らしませう。妾は女神のやうに崇高です。また、小羊のやうに従順です264。
「すべてをすててあなたと二人で暮らしませう」と、逸枝はいいます。しかし、逸枝のこころは、憲三へは向いていません。逸枝にとってこのとき重要だったことは、家を出ることでした。逸枝は、こう書きます。
大正八年七月二十六日、私は妹栞をつれて家を出た。母の了解のもとに。このとき私の立場は、緬羊の計画もおじゃんとなり、いわば家では𧏚つぶしの状態なので、われとわが心に追われて、よそ目には無茶とも思われるような行動に出るはめになったのだった。しかし、こんなのが無産者の家族(当時の)の常態なのだ。さしあたりの目標は大阪へんの紡績会社で労働しようというのだった。妹を道づれにすることはためらわれたが、彼女が希望するのを捨ててはいけなかった。母も頼んだ265。
払川の家を出て、熊本まで行ったものの、やはり憲三のことが気になったのでしょうか、逸枝は、「妹を熊本の旅館において、九州相良の城下ちかくの城内校につとめているKのところに、しばらくの別れを告げにいったのが不覚で、私はくぎづけにされてしまい、妹は家にひきもどされた」266のでした。その結果、この年(一九一九年)の七月から一一月までの約四箇月間、ふたりは、憲三の勤務先である城内尋常小学校の宿直室で、まさしく新婚生活を送ることになります。憲三は、小説「山の郁子と公作」のなかで、最初に八代で逸枝に会ったときの感想を、このような、友人との会話文で表現していました。
彼等が最初に會つた時、彼女は蟲のやうな女であつたが、その翌日には「滅茶滅茶に會ひに參ります」と電報を打つて彼を驚かした。 「どんな女です?」彼の友人が笑ひながら訊いた。 「気狂ひです。」彼も笑ひながら應へた。 「美人ですか?」 「愛らしいが、一寸愛されぬ女です。」267
このときも逸枝は、妹を宿に残すや、唐突にも城内校の憲三のもとに飛び込んできました。逸枝の直情径行的な振る舞いに直面した憲三は、上記の会話内容とほぼ同じ感情を再び逸枝に抱いたのではないかと想像されます。つまり、「気狂ひです。」「愛らしいが、一寸愛されぬ女です。」
憲三にとって、外的要因がもたらす「負担」が、最も忌避すべきものだったようです。憲三の性格は、自分の内面への他者の侵入を拒み、安定した内的世界に身を置くことに喜びを感じる、そうした性格だったものと思われます。こうした姿勢は、逸枝の目にはエゴイズムと映りました。加えて、逸枝の目に映ったのは、憲三の悪魔主義でした。これは、虚構の物語への陶酔や夢想の世界への飛翔を嘲り笑うものでした。互いに理想を語り合い、絶対的愛を共有しようとする逸枝の心的側面と、憲三が持ち合わせるエゴイズムと悪魔主義とは、どうしても噛み合わず、ついつい憲三は逸枝に対して、暴言を吐くようになります。「彼は私のことをよく低能児といった。あらゆる暴言がそこからほとばしり出た」268。「Kのエゴイストぶりは私にもよくわかっていたし、それがまた私をひきつけるものでもあったが、それにしても城内校での彼の私への虐待ぶりは、ちょっと想像にあまるものがあった」269。それでは、その「虐待」とは、どのようなものだったのでしょうか。以下は、逸枝が書く、そのときの憲三の言説の一部です。
「おれが毎日通っている人吉の夏期講習会には、すばらしいべっぴんがいるので、おれはせいぜい頭にチックでも塗りたくっておめかしして行くんだ」270 「おれは肉感的な女がすきだ。この本に出ている『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫に扮したドイツ女優のようなものがすきだ。第一に森の姫そのものがすきだ。それにくらべるといわゆる貞淑な鐘匠の妻は恋愛の対象としては型がふるい」271 彼は理想的な妻の像を、「金持ちの若後家」に発見した、と私にいって聞かせた。彼女はたぶんあらゆる点で負担にならない存在でありうるだろうから、と272。
逸枝に浴びせる暴言は、さらに、暴力へと発展してゆきます。「Kの暴力は、私にとって生まれてはじめてといってよいほどのおどろきだった。しかしいちばん私にとって心配になったのは、これによってKをノイローゼにおとしこむことになりはしないかということだった。彼はこんな場合、みていられないほど、青ざめ、おそろしい目つきになり、手をぶるぶるふるわせるのだった」273。自分に向けられる暴力への恐怖、憲三が陥りかねない精神機能喪失への不安――かくして逸枝は、確実に居場所を失ったものと想像されます。
それに加えて、さらに決定的な出来事が起こりました。少し長くなりますが、憲三と逸枝の行動のちぐはぐさをよく表わしている箇所ですので、逸枝の文からそのまま引用します。
はやくここを出て払川に帰らなければならないと思いながら、見えなくなった妹の手紙や私の写真などをさがしていると、書物箱の中から、私のKへの最初からの手紙の幾束かが、番号札をつけてころがり出た。よくみると、彼はこの生まの手紙をつかって小説を書こうとしているらしい。後に説明されたところによると、それはかなり長い作品になるはずだった。東京で本にしたときには手紙は分離された。 私は彼が自分の手紙は私に焼き捨てさせながら、私の手紙は当人に相談もなくかってに利用するのが理解できず、しかもこの手紙は創作に組みこまれるほどととのったものでなく、もちろん公表などすべき性質のものでなく、はずかしさと腹だちで、顔から火が出るおもいだったが、もし私が彼に文句をつけたら、彼のせっかくのでき上りつつある構想はぶちこわしになるだろう。Kの創作欲にも水をかけることになるだろう。そう考えて黙って見のがすことにした274。
ここに、逸枝の憲三に対する強い憤りと、それを直接表面に出すことのできない優柔不断な従順さとがない交ぜになった複雑性を感じ取ることができます。この文に続けて、逸枝は、こう書きます。「Kのエゴは私の曲従と反比例して募った。それに私も、この一時期ほど、自分の持っている欠点をバクロしたことはなかった」275。自分が認識する欠点である「曲従」の結果、その後「東京で本にしたときには手紙は分離された」のち、分離された手紙だけでの構成として書籍化されたものが、『恋するものゝ道』だったのでした。
おそらくこの新婚生活にあって、逸枝は「曲従」の連続にあったにちがいありません。しかしその一方で、井戸の水を汲み、薪を割り、炊事をしたり、風呂を沸かしたり、掃除をしたりすることは、ほとんどできなかったものと思われます。そうした現実世界の仕事から目をそらせ、他方で、気の赴くままに夢世界に遊び、憲三の内面秩序を破壊する逸枝の独断的で自己中心的な行動に、常に憲三はいらだっていたものと推量されます。それに耐えて必死に抵抗するがごとくにして、憲三の暴言と暴力は生まれ出たものと考えられます。逸枝も、そのことに気づくと、それなりに得心がゆきました。こう逸枝は、書きます。
決心がついてみると、Kの毒舌や暴力も、私の欠点も、それらのすべてが、彼と私とのくいちがいからきたものばかりだったので、ただ私は知らないこととはいえ、Kのところに侵入し、さんざん彼を手こずらせ、ずうずうしくも大きな損害を彼に与えたことを心から詫びて、帰郷することにした276。
逸枝は、自身のよって立つ境地も、そして自尊心も、ずたずたに傷つけられてしまいました。他方憲三は、自分が住む純正な心的世界に土足で踏み込まれ、忍耐の限界に達しました。かくしてもはや、この新婚生活の継続は不可能となりました。逸枝は、「それらのすべてが、彼と私とのくいちがいからきたものばかりだった」と表現します。
[第3段階]弥次海岸での二度目の生活――憲三の自覚の芽生え
妹の栞を連れ立っての家出の失敗、そして、憲三との新婚生活の悲劇、逸枝は、苦難のどん底にあり、憲三への思いが走らず、手紙の筆が止まります。他方憲三は、神経衰弱の病のなかでのたうち回っていました。ふたりのあいだに、いいがたい距離感が生まれていたのです。逸枝が憲三のもとを去っておよそ九箇月が立った、一九二〇(大正九)年八月、憲三が渡した交通費としての一〇〇円と、完成したばかりの詩集「放浪者の詩」とを懐にしまい、いよいよ逸枝は単身東京に上ってゆきました。
東京に着くと、逸枝は、親切な人びとに恵まれました。とりわけ軽部仙太郎家に寄寓することができたことは幸いでした。ここで逸枝は、「日月の上に」を書き上げます。そして、翌年(一九二〇年)の六月、上京前に擱筆していた「放浪者の詩」とともに、これらふたつの詩集を上梓します。ちょうどそのとき、茶摘み休暇を利用して、憲三が逸枝を訪ねてきていました。逸枝は書きます。「私をみるなり、たちまちひょう変して、私を略奪する気になったらしく、故郷の南の海岸にいって一年くらい二人だけでのんびりくらしてみないかといい出した」277。詩人として世に出たばかりの逸枝を、出版社の人たちはしきりと引き止めました。しかし、「Kは強引に実行に移してしまった。そうなると私は例のように優柔不断となり、曲従するのだった。……彼に会えば、曲従を通りこして一体化の理想が目をさまし、その理想の前には名誉も地位もあったものでなかった」278。その心情を、さらに詳しく、以下のように逸枝は語ります。
長い年月をそれは必要としたけれども、Kはそれによって彼の未熟で無道だったエゴイズムを修正したと、彼自身私にいってきかせたことがあった。私はそのとき、Kに感謝して泣いたことを覚えている。それは、同時に、私が最初からもとめていた一体的夫婦愛の成就でもあったからだ。思えばKのエゴイズムも、私の曲従も、そのほとんどが必至的に行動されたもので、その主たる動機は両者の不離の愛-それは宿命ともいえる-にあることが考えられてよかろうと思う279。
これを読む限り、この時期、どうやらふたりのあいだにあって、「一体的夫婦愛」あるいは「両者の不離の愛」が、エゴイズムも曲従も越えて、避けがたい宿命として自覚されようとしていたことがわかります。そこへと至る心境の推移を見るために、ちょうどこのとき刊行された逸枝の処女詩集である『日月の上に』と『放浪者の詩』から三つの詩片を抜き出して、以下に、並べてみたいと思います。
ある日妾が浮氣をして お嫁に行つて仕舞つたので こんなに二人は仲が悪るく 睨み合つて暮らしてゐるのだ またも妾が悲しいので お嫁を止して歸つてくると あの人は妾を丘につれて行つて 長い長い間泣いてゐた280
これは、逸枝が出京する前の四国巡礼の前後に発生した、憲三以外の男性とのかかわりを念頭に置いてつくられた詩片でしょう。いまだこのとき憲三は、逸枝の自由に対する根源的な欲求を十分に理解していなかったようです。旧来の男性性や支配欲が憲三を縛っていたのかもしれませんし、あるいはまた、俗世に流布する愛や恋にかかわる男女の思いのようなものを快く受け入れることができないでいたのかもしれません。その反面、そうした自分の内にある感情が、呪っても呪っても決して消え去ることのない状況にいま立っていることに気づいたとき、憲三の目から粒の涙が流れ出て、「長い長い間泣いてゐた」のかもしれません。しかしそれにしても、何ゆえに、「ある日妾が浮氣をして/お嫁に行つて仕舞つた」のでしょうか。もうひとつの憲三の立場からすれば、「こんなに二人は仲が悪るく/睨み合つて暮らしてゐる」のも、当然といえば当然でしょう。憲三が、逸枝を前にして「長い長い間泣いてゐた」のは、逸枝が浮気をして、「お嫁に行つて仕舞つた」ことに起因する、悲しみの号泣だったのかもしれません。どうやら、逸枝の奔放な大胆さを恨んでも恨んでも別れきれない憲三のめめしい姿が、丘の上にあったようです。
次の詩片は、憲三を残し、単身上京するときの逸枝の不満と苦悩の感情を表現するものです。
妾が女詩人として 九州から出て來た時に お前が妾に呉れたものは 不自由と不幸とであつた 云つて呉れるな 貴女の御本領は詩作ですなどと なぜ我々は 詩作の爲めに苦しまねばならないのか281
この詩からわかることは、逸枝の上京時にあって、逸枝と憲三のふたりのあいだに、明らかに越えがたい溝が存在していたということです。この溝は、逸枝の視点に立てば、自分はただ単に詩人になることを望んでいるのではなく、第一義的には、憲三との「永遠」の愛を望んでいるのであって、それを理解しない憲三の「未熟で無道だったエゴイズム」がもたらしたものでした。おそらく、城内校での新婚生活の破綻が念頭にあったものと思われます。しかし、次の詩を読むと、対立から和解へ向けての強い願望が、いまだ逸枝の内面に失われずに存続していたことがわかります。
二人は今も遺る瀬なく 愛し合つてゐるのだけれど こんなに暗い顔をして 睨み合つて暮らしてゐる だがその戀しい妾の戀人は 優しい聲で妾に恁う言つた 僕は貴女をお友達にして あの地平線まで歩いて行きたいと もう貴女を可愛いとは思ふまい そして尊い人だと思ひたい そして二人で仲よく手を取り合つて 静かにお話をしませうと282
この作品は、東京での再会以前につくられたものですが、この詩的表現のとおりに、久しぶりに逸枝に会った憲三は、逸枝のことを、「可愛い」人を越えて「尊い人」とみなしたかもしれません。「そして二人で仲よく手を取り合つて静かにお話をしませうと」、詩にあるように、逸枝を誘ったかもしれません。他方逸枝は、「彼に会えば、曲従を通りこして一体化の理想が目をさまし、その理想の前には名誉も地位もあったものでなかった」のです。逸枝にしてみれば、詩人としての「名誉も地位も」たとえ横に置いてでも、憲三との愛がすべてであったにちがいありません。そうであれば、このとき逸枝は、はじめて「Kに感謝して泣いたこと」でしょう。「出京したKはそうした独占欲を発揮して、一本の手紙で学校の方はやめ、六月末には私をつれて都落ちした」283のでした。着いた先は、ふたりの郷里である熊本県の八代にある弥次海岸でした。ここでふたりは、城内校での生活に続く、二度目の水入らずの暮らしに入ります。
次は逸枝の文です。「この家にきてほどなく妊娠の身となり……悪魔主義の夫が出産をよろこばないことは、既定の事実のように思われたし……妊娠のことは口にも出せず、ひとりで苦しむほかはなかった」284。逸枝だけではなく、憲三の体調も悪くなります。「秋のはじめごろから彼はまたもや神経衰弱におちいり、正坐することもできないほどになり、寝転んだり、いらいらと歩きまわったりすることが多くなっていき、なんだか生きる力や意思さえ失った」285あり様でした。
憲三の体調不良の要因は、逸枝のつわりを自分の身に引き寄せた、ひょっとすると疑似のつわり、つまり「クーヴァード症候群」だった可能性も否定できません。その一方で憲三は、「私が熱心に勉強しているのを親しくみたり、また私が無心に思索しながら庭先などをうろついているのをみたりしているうちに、そうした私に〈不思議な魅力を感じた〉そうで、しだいに私の押しつけ原稿もよろこんで見るようになったのだった。……こうして彼はついに毒舌と賞讃とで私の成長をたすけてくれるようになっていったのだった」286。
「クーヴァード症候群」は、妊婦への強度の同情や共感といった感情移入によって発症するといわれており、もしそうであれば、このことと、逸枝の執筆行為について「不思議な魅力を感じた」このときの憲三の心的状況とをあわせて考えるならば、逸枝を「可愛い」人を越えて「尊い人」とみなすようになる最初の実際的なきっかけが、ここにあったのではないかと思われます。のちに憲三はこう回顧します。逸枝は自分の書く原稿を「『しゃりむりKに押しつけて』などと書いているけれども、これは彼女の心理状態を語っているのみで、私にはしゃりむり押しつけられたという実感などまるでない」287。つまり、自ら進んで逸枝の書く原稿に興味をもち、喜んで目を通そうとしていたのです。
さらに、逸枝がみごもったことは、本人よりも憲三の方に大きな喜びをもたらしたものと推量されます。といいますのも、かつて逸枝は、憲三へ宛てた手紙のなかで、「子供を考えることは恐ろしい。妾は母としての資格はない。第一子供といふものを初めにどうすればいいのか心配です」288とも、また、別の手紙のなかでは、「あなたがもし妾を愛して下さいますならばあなたと妾との二人きりの世界に住みたい……そのためには二人の間の子どもさへも厭はしひ。二人でゐたい。二人つきりで」289とも、書いているからです。しかし、一方の憲三は、こうでした。「そんな頃のこと、ある日嘘のように、夫が私の妊娠に気がついた。すると意外にもかれに生きる力がよみがえったらしく、起き上がって東京に帰るといいだし、旅費をつくりに一勝地の父母のもとに出かけた」290のでした。
年が明け、一九二二(大正一一)年を迎えました。この前後にふたりは、婚姻届を出すことに合意したものと思われます。「払川の父にはとうとう帰省ができなかったお詫びと、結婚のゆるしを乞うてやった。父は寛大に受け取ってくれて、すぐに書類を送ってくれ、私たちはその手続きをすました」291。ここに憲三と逸枝は、晴れて法的に認められた夫婦になったのでした。
こうして弥次海岸での、二度目のふたりだけの生活において、子を宿すことと言葉を紡ぐこと――この両者に共通する産出行為のもつ神々しさと不思議さに、憲三は、目を見開かされたのでした。弥次生活は、憲三の体内に眠っていた、男としての、夫としての、そして、父親としての、自覚が目を覚ました瞬間となりました。
いよいよ再出京です。「この都のぼりは、いまから思うとユーモラスでもあった。Kはバスケットのなかに義姉たちが弥次の自炊生活のためにくれた世帯道具をいれて何くわぬ顔で提げていたし、私は袷と羽織だけはどうやら新調したけれど、コートもショールもないさむざむしたかっこうだった」292。憲三は、妊婦の逸枝に代わって、おそらく弥次に引き続き、東京でも自分が炊事することを覚悟していたのかもしれません。逸枝は逸枝で、十分な旅立ちの服を用意できず、妊婦の身には寒さが身に染みていたにちがいありません。ユーモラスといえばユーモラスな若い男女の姿です。かくして憲三と逸枝の夫妻は、この年の「三月のはじめには世田ヶ谷の軽部家に舞いもどった」293のでした。
[第4段階]再出京後の逸枝の家出事件――古い夫婦関係の見直し
弥次海岸の家を引き払い、東京の軽部家にもどったのは一九二二(大正一一)年の三月、逸枝二八歳、憲三二五歳の春でした。ここで逸枝は出産しますが、運悪く死産という結果に終わりました。憲平と名づけられた男の子でした。一方、幸いも舞い込み、次の年(一九二三年)、憲三は平凡社に入社し、編集の仕事に携わります。しかし、それからまもなくして、関東大震災に見舞われ、それを機に、翌一九二四(大正一三)年の春、逸枝と憲三は軽部家を出て、借家を転々と移り住む、逸枝の用語法に従えば「路地裏」暮らしをはじめることになりました。しかし、ふたりだけの落ち着いた生活はつかのまのことで、憲三は知人や友人を家に招き入れるようになります。憲三にすれば、家をなくしたり、生活に困ったりしている人を見て見ぬふりをすることができなかったのでしょう。しかし、逸枝にしてみれば、炊事、洗濯が苦手なうえに、仕事も邪魔され、完全に自分の居場所を失ってしまったのです。そこで逸枝は、家出を敢行します。逸枝が家を出たのは、一九二五(大正一四)年の九月一九日でした。以下のような、置き手紙がありました。
旦那さま つらい逸枝 さよなら。さよなら。 もうおっつきません。俥がきました。
では月末に局留でいってあげますから金を少し下さい。××さんに返します。そこまでいっしょに行き、わかれ、それからひとりになります。
それから山の中のお寺を見つけ、恋愛論を書きますから、その間だけ宿代をおめぐみ下さるように下中さまに願って下さい。(一、二ヶ月)……けれどもその先はわかりません。捨て身になります。……探し出さないで下さい。恋愛論の参考書はいって上げますから送って下さい。……西国に行きます。死んだ坊やや母を弔いながら少し巡ります294。
この置き手紙のなかにみられる「××さん」は、憲三の平凡社の同僚で、当時憲三宅に居候をしていた藤井久市という人物でした。
逸枝の家出に気づいた憲三は、居ても立ってもいられなくなって、翌日の二〇日に東京を発ち、逸枝を探し求めて、「和歌山・大阪・滋賀をまわり、断念して近江八幡駅から汽車に乗り、帰京」295するのでした。東京へもどる夜行列車のなかで憲三は、探し出せなかった無念さのなかで、このような内容の手紙を草しました。
私はいま旅から絶望して帰るところです。さびしいむなし東京へ。私がそこへ明日の十二時にかえったとて、何が私を待っていましょう。……あなたがなくて、私に何の生活があろう。あなたと二人で、骨になっても、未来へも、どこまでもいっしょでなくては承知できぬ、どん底からの思索と抱擁とが私にはあるのです。……私は家をたたみました。……あなたとわたくしの形而下的な家庭は、かくして短日月にほろびました。私たちは、こんどは形而上的な家庭にすむのです。ナベ一つ茶わん一つの生活にしましょう。……田舎の一軒家に行きましょう。実は私は早くあなたにお目にかかれていっしょに巡礼乞食したいと思い家を捨てたのですよ。……恋しい恋しい私の妻よ!今にあなたのところへいきますよ。いっしょに回国しましょう。……ああこんどいっしょになってからは、交友を吟味しましょうね。家には一切入れず、向こうの家にもいかず、手紙か、野原、林などの散歩の交際にしましょうね。巡礼がすんだら、家をもちましょう。そして夏の休みの一ヵ月はきっと僕がナベを背負って旅行につれていきます296。
明らかにこの手紙には、憲三が示す妻への深い愛情がにじみ出ています。家出から九日が過ぎた九月二八日、憲三は逸枝との再会を果たすことができました。以下は、憲三の証言です。
この手紙を書いてから数日後―九月二八日に、私は新宮駅前のたしか新宮館といった旅館に彼女を訪うことができた。玄関の敷台の前に立って待っていると、奥から出てきた彼女は、私のぼさぼさした頭髪のなかに手をつっこんで、「あなたおやせになったのね」といった297。
このときの再会について、さらに晩年、こう憲三は述べています。
私は無言で彼女に導かれて部屋に通り、そして手紙を彼女にわたし、女中さんがお茶を運んできたので、すぐたちたいことを告げて勘定書をもとめて、お金を払いながらいちばん近い温泉をききました。そこへ、別の部屋から藤井さんがみえられたので「お金を借りたりなどとご迷惑をかけました」とあいさつして三十円を「これでいいでしょうか」といってお渡しし、藤井さんはそれを受け取られ、無言のままていねいに一礼をして退かれました。彼女は「ありがとうございました」といいました298。
一方の逸枝は、この日(九月二八日)の日記に、こう書き付けました。
私が夫と別れようと決心したのはもう長いことになる。夫が私を愛し、私が夫を愛していればいるほどに、私は私自身の悪徳がたえきれなくなってくる。私はまあなんという不完全な女であろう。その悪徳はかずかぎりがない。結婚は妻の悪徳まで背負いこんだということはわびしくて辛い。いまさら何をいおう。共同生活をするということは、共同生活を否定した時しか、私には可能でない。私が孤独でないということは、私は孤独であるときしか、意味をなさない。いまはただぼうとしてばかのようになっている。けれども、夫の愛、またその態度にたいして、私はなにをしえよう。私はつらいが夫につれられて行こう299。
逸枝は、前段にあって、「私は私自身の悪徳がたえきれなくなってくる。私はまあなんという不完全な女であろう」と書きます。家事や裁縫が不得手で、夫の友人の接遇も満足にできない自分を責めているように読めます。しかしこのことは、いまにはじまったことではありませんでした。かつて約婚に先立って逸枝は、次のような手紙を憲三に出しており、その文面が、そのことを例証します。
妾には人の妻としての資格はまるで缺けてゐるやうです。唯、妾は決して不愉快な顔とか腹を立てるとかはありません。……妾はまるで、ほんのむすめです。妾はそれを妾の父母から氣に食わないと云つていつも叱られます。……ですからどう考へても妾には結婚の資格はないのです。妾はもつと妾の理想的な空想的な生活をいたしてゐたいのです。いまの普通のそれには耐へられないのです。それを自由、と妾は申します300。
この一節から読み取れることは、ひとつには、「野生の子」としての逸枝の存在が両親から理解をしてもらえず、家庭内での居場所を失くしていること、いまひとつには、男が外で働き、女が家で家事と育児を担う、当時一般的にみられた家庭のあり方に苦痛を覚えていること、そしてそのすべてに取って代わる「理想的な空想的な生活」を希求していること、この三点です。これが、「人の妻としての資格はまるで缺けてゐる」という劣等意識を生んでいるのでしょう。しかし、妻が備えるべき強制された「資格」は欠如していたかもしれませんが、制度や義務や常識といった人間を縛る余分な力から遠く離れた所にある「自由」の存在には気づいていました。
家出のおよそ三箇月前の日記にも、逸枝は、ほぼ同じようなことを書き付けています。「どうぞ私のいない後には、よい家庭を作ってください。私のような不具なもののみが、あなたのご機嫌をそこねます。私はまたの世には不具ではないものに生まれてきて、あなたのほんとうの妻になりとうございます」301。
「不具なもの」がもつ夫へ詫びるこころと、「ほんのむすめ」がもつ「自由」への限りない憧憬とが複合されて、家出の要因になっていたものと思量します。そこから判断しますと、上で引用した手紙と日記とのあいだにおよそ六年もの歳月が流れているとしても、そこに書かれてある内容には大きな変化は認められず、逸枝に備わる本来的な心根が、決して汚されることなく、いまなお持続していたことがわかります。
一方で逸枝は、後段において、「共同生活をするということは、共同生活を否定した時しか、私には可能でない。私が孤独でないということは、私は孤独であるときしか、意味をなさない」と書きます。この文言にも、対応する逸枝の手紙があります。同じく、約婚以前にあって憲三に宛てて出されたものです。「要するに妾は理性の上から見て、あなたと戀をしないでゐることを最もいいことだと思つてゐます。が、感情はさうではありません。……例へおたよりは絶えてゐても、妾はあなたを深く信じ且尊敬いたします」302。
逸枝の論理によれば、戀をするからこそ、相手にとってのよき恋人になれないのです。なぜならば、相手が気に入らない欠点を自分がもっているからです。もっとも、その欠点を清算すれば自分が自分でなくなります。そうであればこそ、「あなたと戀をしないでゐることを最もいいこと」、と逸枝は認識するのです。そうはいっても、「感情はさうではありません」。
ふたりが愛し合えば愛し合うほどに、悪徳のささやく声が聞こえ、共同生活を捨て去ってはじめて共同生活の実際がその姿を現わし、真に孤独であるときにあってこそ孤独からの解放が実質可能となるのです。逆説的ではありますが、これが、逸枝の家出の論理なのでしょう。そうであるならば、このとき逸枝は、現実と虚構の壁がもはやない、両者が混然一体となった異質の仮想空間を、もっとも逸枝自身にとっては宿命的な現実空間を、放浪していた、といえるかもしれません。この放浪こそが、避けがたく、詩人にとって血となり肉となる部分なのでしょう。つまり、放浪者である限り詩人としての存在があり、詩人である限り放浪者としての存続もありえるのです。もっとも、その逆もいえるかもしれません。詩人からアナーキストに、そして学者へと変貌するや、もはや逸枝から、家出も放浪も、その姿が消えてしまうことになるからです。その背景には、何があるのでしょうか。あるとすれば、憲三に向けられた逸枝の「一体的夫婦愛」あるいは「両者の不離の愛」への確信ではないかと思われます。そのことを暗示するのが、上に引用にみられる、この日(九月二八日)の日記の、次の末尾の文言です。「いまはただぼうとしてばかのようになっている。けれども、夫の愛、またその態度にたいして、私はなにをしえよう。私はつらいが夫につれられて行こう」。その際私は、「夫につれられて行こう」とするのが「つらい」のではなく、「私は」と「つらいが」のふたつの字句のあいだに「夫に何もしてあげられないのが申しわけなくて」を挿入して、「私は[夫に何もしてあげられないのが申しわけなくて]つらいが夫につれられて行こう」という意味に解釈することになります。といいますのも、この文言は姿を変えて、そのおよそ三箇月後、以下のような表現のなかへと憑依してゆくからです。
逸枝の家出から約三箇月の月日が流れ、寒さが増す一二月になりました。憲三は引き続き平凡社で編集の仕事に従事していました。帰宅を待つ逸枝は、旅館で渡された憲三からの手紙を読み返します。そしてそこに、書き込みをするのでした。おそらくこれが、これよりのち死が訪れるまでの、逸枝の憲三に対する偽らざる思いであると考えられます。以下にその全文を引用します。
大正十四年十二月十日夜。まだお帰りになりません。今夜もこのお手紙を出して見ました。もう何処にも行きません。あなたに仕えようが足らないとき、私はこのお手紙を出して見るのです。 私とあなたとがこの地上から去って後もたぶんこのお手紙は残りましょう。私は王様のお姫さまよりなお幸福です。夢と血と愛をえて、天国に行くことができるのですもの。 あなたも私も地上では貧乏な夫婦でございます。人はみな誤解しています。けれども何一つ私をいまはあなたから裂くものはない上に、私はよろこんであなたとならば死を迎えましょう。私ほどの生の執着をもった女でも、この不可思議な事実を心のなかに確かめうるとは、まあ何て不思議でしょう。愛がはるかに死よりも強いことを今私は知り、この上なく喜んでいます。いつでも もう 死ねますから。このさき幾年生きるでしょう。なるだけおじいさんとおばあさんになるまで生きましょうね。私はまだ仕えかたが足りませぬ。心ゆくまでつくしてからなら、何の思い残すこともない303。
他方で逸枝も、自分がなぜ家を出たのか、憲三にその真意を伝え、理解を求めたものと思われます。『高群逸枝全集』は、逸枝の死後、憲三の手によって編集されたものですので、その「第一〇巻/火の国の女の日記」の巻末に付けられた「高群逸枝年譜」も、憲三が作成したものと思われます。その「一九二五年=大正一四年(31歳)」の項目を見てみます。そこには、「九月十九日、夫婦のありかたに絶望して出離をはかったが徹底を欠き帰り、夫に夫婦の尊厳をもとめ、下落合に仮寓」とあります。以下は、家出をする約三箇月前に書かれている逸枝の日記からの抜粋です。
きょうも夫が出て行けという。いくど夫はこの言葉を使うだろう。これはブルジョアがプロレタリアにたいして、その弱身につけこんでいう悪辣な言葉とおなじに悪辣である。こうした言葉は使って欲しくない。 私の夫に対する愛情はほとんど絶無に帰した。百年の恋も一時にさめてしまった304。
家出から帰り、再び生活をはじめるとき、逸枝は、「夫婦の尊厳」のあるべき姿について、熱意をもって憲三に説いたにちがいありません。おそらくこれ以降、憲三の意識に変革が生じ、これまでにみられた暴言も暴力も、その卑劣さに気づかされた憲三から、ほぼきっぱりと消え去ったものと推量されます。
[第5段階]女性史学者として立つ――夫婦の役割分担の新たな構築
逸枝の、いわゆる「家出事件」が起こるのが、一九二五(大正一四)年の九月です。これを契機にそれ以降、逸枝と憲三の夫婦の心情に変化が訪れます。逸枝にみられたのは、婦人論=女性史と恋愛論=婚姻史の研究へと向かう隠された欲求の顕在化です。他方、憲三にみられたのは、逸枝の「擁護者」たらんとする気づきの芽生えです。逸枝は、こう語ります。
婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史の研究……これは……私が持ちつづけてきた学問的欲求で、社会的開眼とともにいよいよ拡大されてきていたものだったが、夫婦生活を重くみる私の傾向から、この欲求がKとの融合をそこねることにならないようにねがっていたので……Kが自然にこの欲求に気づき、擁護者とならないかぎりは、私はあえてそれを彼の前に切り出そうともしなかった。ところがKは私が自己の欲求をおさえ、彼を本位としてとことんまでついてこようとする私のいわば愛の深さをひとりでに知るようになり、このころになると私の希望を実現させようとする心理状態に変わりつつあったらしい。正しくいえば、私の家出以来、彼はそれを切実に感じて機会を待っていたのだという。ちょうど平凡社をやめて客員の期限も切れたところだったことがその機会をつくってくれたのだった305。
上荻窪の台地に見つけた、比較的環境の整った家に、一九二九(昭和四)年の二月四日に引っ越すと、憲三は、研究資料を整理するために、「これまで持たなかった大書棚を二つ買い入れた」306。こうしてはじまった新しい家での生活ですが、「平和だったのは当初の期間だけで、にわかにこの界隈も区画整理の渦中にまきこまれることになり……もはやここも勉強の場所、勉強の家には適しなくなってきた」307。そこで憲三は、逸枝が研究に専念するにふさわしい住居探しにこころを砕き、ついに、かつて身を寄せていた豪農の軽部家から二〇〇坪の土地を借り受け、そこに、通称「森の家」と呼ばれる自宅兼研究所を完成させたのでした。この夫婦がこの家に入居するのは一九三一(昭和六)年の七月、「家出事件」から六年が経過していました。この間にあってふたりは、詩人の時代から離れ、新たな政治活動の時代を、具体的には、アナーキズム参画への時代を生きることになるのでした。
一九三〇(昭和五)年一月に、逸枝の『黒い女』が刊行されます。このなかの、とりわけ第一章に相当する「妻」を構成する短編の六作品は、立て付けは確かに小説ですので虚構でありましょうが、語られている内容自体は、逸枝のこれまでの半生の総括として読むことができます。そこで、山奥の寒村の純朴な乙女が、いかにして、熱病にかかっているかのような大都会にあってアナーキスト(無政府主義者)へと変貌してゆくのか、その姿を、幾つかの断片を抜き出し、以下に短く組み立ててみたいと思います。
私は父を恐れてゐた。が愛してもゐた。父は飲んだくれではあつたけれど、それが悪人だらうか308。 人生は刑罰に満ちてゐた。何處から何處まで辛いことばかりだつた。 けれど、けれど、 『妾に学問があるなら……』 朝になると學校の鐘が鳴る。…… 私の心は、長い間、學校へ憧れた。それを人がわらつた309。 一六のときに、私はいまの夫と、その盆地で出會つた。……不思議なやうに、彼はどこの誰とも分らぬ小娘に對して、丁度何も彼も知り盡してゐるやうなふうをした310。 初めて東京駅に下りたとき亭主がいふには、 『たまらない不調和を感ずるね。さあ、こいつを踏みにじつて行かう』311。 彼女は一分間も夫を離れては生きてゐられなかつた。けれどもそんなことを仮にも彼女がいふなら夫もわらふだらうし他人はなほ嘲るだらう312。 『洗濯はいやだ』と私の心がつぶやく。 『裁縫も……』 そしてたゞ溜息をついて私はゐる313。 『きれいな晩ね。あなた』 私は遠い夫へ叫んだ。そして心から、 『さよなら、さよなら』と、おじぎした。…… 私は涙にぬれたが、しかし、行くといふことが、もう私の宿命であつたから、私は草履のひもを結んで立ち上つた314。 どんな可憐な野の花も、庭におけば惨めである。だが然し、野においたら、何と美しく見えることか315。 私は、此上もなく、おづおづと、夫を恐れてゐた。けれど、私がどんなに夫を愛してゐるか、そして夫を離れると、もう私というものはなくなつてしまふといふことを、ひとこと、夫に云ひたいと思つた。けれど、それは云へないことだつた316。 だが、やがて、私は夫と共に、暗い、低い、夜空の下を歩いてゐた。 『うちを出たのが悪かつたのだ』 と、夫がいつた317。 私は心に思ふことを口にだしていふことのできない女である。けれど思ふことがあまりに多くなると、たへることができなくなる。……そのとき私は卒倒しさうになる。それからカツと逆せあがる。そして無茶苦茶なことを口から出たらめに云つてしまふ。 私はあとで、それを悔ひもし、恥ぢもする。そして心で、夫にわびをいふ。けれど夫にはそのときの私を可愛いく思ふ様子がある。それがだんだん分つてくるのだつた318。 『俺はお前も知つてゐる通り、小作人の子だ。お前はお前で、もつと酷い者の子だ。だから俺達は當然、階級といふものを勉強しなくてはならん』 こうして彼らは、事物に關し二つの相反する意見といふものを持ちはじめた319。 彼女は夫がおぼえてきて歌ふあらゆる歌を世界のどんな歌よりも早くおぼえてそれを歌ふのであつた。 『そんな歌わらはれるよ。男はいいけど』 と時々夫が夫そつくりの調子で歌つてゐる妻を見ながらいふ。 『だつて……』 と妻はつぶやく。 『あたしそんなら何を歌へばいいの』 そして涙ぐむ320。 『すべて人生を知らない奴は、書物からだけ描かうとする』 今や、夫の胸には、書物を批判する意識が動いてゐた。そして彼女も當然さうであつた321。
以上は、『黒い女』と題された小説のなかにおいて描かれている内容です。もっとも、現実世界においても、逸枝のアナーキズムは、まさしく「夫がおぼえてきて歌ふあらゆる歌を世界のどんな歌よりも早くおぼえてそれを歌ふ」かのように、『婦人公論』や『女人藝術』といった雑誌の誌面を借りて炸裂するのでした。そしてついに、『婦人戦線』の主宰者となって、アナーキズムの立場から論陣を張るようになるのです。しかしこれは、必ずしも逸枝の本意ではありませんでした。逸枝の書くところによれば、こうなります。「はじめ私はこんな雑誌を出すことにも、私が主宰者になることにもひどく尻込みした。……だがKのすすめもあり、四囲の状勢からも要請されるはめになって……火の国的熱烈さをもって不退転の献身を誓うことになる」322のです。すでにこの時点で「婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史」の構想ができていました。といいますのも、一九二九(昭和四)年の年末に、逸枝は、「はじめて印刷した年賀ハガキをつくり……研究著述の計画を発表し、知人の援助をもとめた」323経緯が実際にあったからです。こうして、婦人論、恋愛論、日本女性史の婦人論三部作からなるこの「研究著述の計画」は、ここで頓挫することになります。以下も、逸枝の文からの引用です。
だが運命はなお私には酷だった。それを投函した直後の十二月三十日に前から話のあった解放社からの『婦人戦線』発刊のことが決定したという通知があり、私の新コースに大きな番狂わせがもたらされることになってしまったのだった324。
一九三〇(昭和五)年の新春を迎えました。さっそく一月二日、『婦人戦線』刊行のための準備会が開かれました。逸枝にとっては、明らかに「大きな番狂わせ」でしたが、それでも「不退転の献身を誓う」逸枝の「火の国的熱烈さ」は、『婦人戦線』の創刊へと注がれてゆくのでした。ところが、一年が立つか立たないかのうちに、憲三と逸枝のあいだに不協和音が生じます。逸枝はそれを「最大の夫婦の危機」と呼びます。どうそれが迫ってきたのでしょうか。逸枝は、このように記述します。
『婦人戦線』は年を越したころから売れ行きががた落ちして、解放社から負担金を要求されるようになったが、私がKと真剣に話し合ったのがちょうどこのときで、私の苦悩は倍加したが、それでも責任をさける考えはなく、あらゆる方法で負担金をつくって命脈を保とうと努力した325。
このころ逸枝は、『婦人戦線』の月例研究会や、他組織との合同研究会等にしばしば出席していました。それは彼女にとって大いに裨益するものでした。しかしながら、それに対して夫が示した態度は、実に冷淡なものでした。
こうして私には研究集団も革命運動の一環たるべきことがようやく切実に自覚されてきた。私は革命者でなければならなかった。ところが私がこの転機に直面し、いわばウルトラの自分に良心の呵責を感ずるようになってくるにつれて、それと反比例してKの興味は去っていくようだった。私は彼をともに会合に出るように誘ったが、彼は、 「ひとりで行きなさい」 と突き放した326。
なぜ憲三は、会合への出席に対して後ろ向きの態度をとったのでしょうか。その理由については、逸枝は直接何も明確に述べていませんが、その結果がどのようなことをもたらすかについては、十分に理解できていたようです。
こうなると彼が冷酷であることはかつて城内校で経験ずみだった。しかし城内校の場合は繊月城跡とか球磨川探訪等の問題にすぎなかったが、こんどはそれとちがい、私がひとりで私の目ざすコースをとることは、きょくたんにいえば彼と私とが、敵味方に分裂することだった。ここにきて私は最大の夫婦の危機感にさえ、見舞われる思いだった327。
「敵味方に分裂する」という言葉に着目すれば、「最大の夫婦の危機」とは、逸枝は、革命者であることを強く望み、一方の夫の憲三は、それへの情熱がすでに薄れ、日和見主義者へと後退した結果、そのことによってもたらされるであろう、夫婦間の亀裂ということになるのではないでしょうか。こうして、ここに来て、アナーキズムに対する親密度の差が「最大の夫婦の危機」をもたらしたのでした。夫婦それぞれに言い分はあるでしょう。逸枝は、両者の言い分を、このようにまとめています。少し長くなりますが、この時期のふたりの立場をよりよく理解するうえで必要かと思われますので、以下にその箇所の全文を引用します。まず、自身の言い分について――。
私は最初から集団を組織する確信も、ましてその集団の主宰者となる自信もなかったが、それらのことをむしろ強くすすめたのはKではなかったか。それだのにKが途中で外れて私をひとりにすることは無責任ではないか。これが他のことなら私はこれまでやってきたようにKに曲従するだろう。しかし、この場合はそうした私的問題ではない。すでに引き受けたときに私の態度は決定している。私はこの責任を生命にかけても堅持しなければならないというのが、私のいい分だった328。
次に、夫の言い分について――。
彼のいい分は、彼は私に女性史研究をすすめておきながら、いっぽう偶然のことで『婦人戦線』を持ち込んで、こんな手違いになったことをあやまりたい。けれど前から懸案の研究所の場所も世田ケ谷に物色中であるから、彼はそのほうを押し進めることにしよう。研究と運動とが両立しないわけでもなかろうというのだった329。
このように、『婦人戦線』と女性史研究を巡って、ふたりの見解が対立します。それぞれがそれぞれの立場を強く主張し譲らなければ、「最大の夫婦の危機」は現実のものとなり、夫婦の関係は崩壊します。そこで、逸枝が書くところによれば、「研究生活に入る前に私とKとはつぎのような話し合いをした」330のでした。
夫は妻に、このようなことを伝えました。
……そのくるしみのためによそ目には逆上して支離滅裂にさえなり手のつけようもなくなったようなあなたのなかに、あなたの本来の火の国的な炎のような個性や高貴な才能や、あなたの全面的に人をはっとさせる野性的な美貌――これらの抑圧されていたものが一時に輝き出たことはまさに驚嘆すべき現象だったと思う。……どんなことをしてもあなたを手ばなしたくなかったのです。しかし馴れてくると、あなたがやはり従順なので、私もまた持ちまえの独裁者になったようだった。……もう私たちも三十歳をいくつか越した。ここらで根性をすえてかからねばならない。……私はあなたのもっとよい後援者になろうと思うのだ。……社会運動はロマンチシズムではいけないと思う。また、各人にはそれぞれ長所がある。その長所をもって貢献すべきだと思う。あなたの長所と使命とは、長い年月、あなたのなかに蓄積せられてきた女性史の体系化だ。生活は私が保証する331。
すると、かつての「独裁者」からいまや「後援者」へと変容しようとするこの夫の言葉に、妻は「感謝のあまりいつものくせで泣いてしまった」332のでした。そして妻は、こう応じます。
でも私には長所なんてものはないの。だから長所をもって貢献するという自信もないの。ただ私の希望を率直にいうなら、それは私が将来有名な学者になることではなく、生涯無名の一坑夫に終わることなの。これはもちろん一種のエゴイズムでしょう。……名声も収入もなく、だからただ貧困と病苦とだけが伴う。……それは、こんな私をただ一人で保護してくださるあなたをまでもたぶんまきこんでしまうことになるでしょう333。
それに対して夫は、「いいよ、二人でやろう」334といって、笑ってうなずくのでした。
実に仲睦ましい会話内容です。かくして、「最大の夫婦の危機」はこれで消滅し、新しい夫婦の未来像が構築されてゆきました。ふたりが、『婦人戦線』を廃刊とし、新築なった「森の家」に入居するのは、逸枝三七歳、憲三三四歳、ちょうど人生の折り返し点にさしかかろうとする、まさにそのときのことでした。
逸枝が亡くなったあと、憲三は「森の家」で石牟礼道子とおよそ五箇月間の同居生活をします。そのときの生活の様子を道子はノートに書き留めていました。主としてその内容を綴った作品が「最後の人」で、そのなかに、当時の憲三にとっての逸枝像が、こう描写されています。
あのひとは、あのひとの心は、人類とともにいつもあって、僕はそれをおもう……彼女はやはり天才者だった……。彼女は三十七歳で研究にはいったが、僕はもっと早く準備をしてやれたらなおよかったと思う。もっと早く気づくべきだった……335。
このように、このとき憲三は、妻の逸枝が「天才者」であることを自覚します。そしてまた、それまでの憲三が無意識のうちに身につけていた伝統的な男性の存在様式に手を加えるのでした。同じく以下も、晩年に至って憲三が、同居中の道子に語った発話内容の一部です。
ボクはね、男の一生を棒に振って女房につくした、という風におもわれているのですよ。僕は家庭爆破に、いささかの協力をしただけですよ。かといって僕たちはとくにボクは、家庭の遺制、つまり男権社会の遺制の中に育ったから、とくにボクはそれをひきずっていたから、一度これを爆破しなければ、女性は、全面的に生れ替ることはできない。それが自分の体験でよくわかるのです336。
憲三がいう「家庭爆破」とは、家父長的で男尊女卑的な、いまだ伝統として根を張る家族制度を破壊することを意味します。ここに至って、逸枝と憲三の夫婦のあり方や役割分担が大きく変わるのです。逸枝にとっては、憲三の要求を受け入れ、本来的に身に宿していた詩人である部分と、その後時代にあわせて身に着けたアナーキストである部分を振り捨て、それに代わって、しっかりとした婦人解放の自覚のうえに立って、女性史の未出現の書き手としてその王道へと進み入ることであり、憲三にとっては、望むと望まざるとにかかわらず、いつしかしみついてしまっていた「男権社会の遺制」を意識的に振り払い、編集者としての職分をしっかりと自覚したうえで、「天才者」である書き手だけが含み持つ金色の才能を探り当てることでした。逸枝は、こういいます。
この物すごいエゴイストは興味のない事柄や人物には冷淡だが、決意したことにはさりげない誓いのうちにも、私を心のずいから信頼させるものを持っていた。私はいまは遠慮なくそれに依存しようと思った337。
かくして逸枝は、「夫のつよい心からのすすめもあって、意を決し、ここに過去いっさいの生活をふりきって、おそろしい未知の世界にはいっていった」338のでした。
[第6段階]一体となって生きる――陰膳、そして「誓い」
逸枝は、自身のなかにあって、女性史や婚姻史という学問への関心がどう芽生えていったかについて、こう述べています。「これは守富時代のたけくらべのころ、熊本の女学生時代のころ、弥次海岸の憲平ちゃん妊娠のころ以来、私に芽ばえ、そして私が持ちつづけてきた学問的欲求で、社会的開眼とともにいよいよ拡大されてきていたものだった」339。しかし、逸枝は、いつものように控えめでした。続けて逸枝は、こう書きます。「Kが自然にこの欲求に気づき、擁護者とならないかぎりは、私はあえてそれを彼の前に切り出そうともしなかった」240。しかし、いまや憲三は、逸枝のその欲求に気づき、「擁護者」になろうとしているのです。ここに逸枝の感涙がありました。
逸枝にとって、自身の学問的欲求が日の目を見るに当たって時間がかかったように、憲三にとっても、自身が妻の「擁護者」になることを決意するのに、それなりの時間を要しました。弥次海岸での夫としての自覚の芽生えにはじまり、逸枝の家出に伴う、古い夫婦関係の見直しを経て、ついにここに至って、「男権社会の遺制」の破壊へと進んだのです。「男権社会の遺制」の破壊も、逸枝のこころから願うところでした。といいますのも、逸枝は、自身の最後の詩集で、しかも時事詩を内容とする『東京は熱病にかゝつてゐる』のなかで、新しい夫婦像を、このようにイメージしていたからです。
ある戀の日に、 青年が米を洗ひ、 少女が薪をとりに行つて笛を吹いてゐるのが、 不自然なことだらうか。 我々は、原始人類が、 かうした生活をしてゐたことを確信する341。
逸枝のイメージによれば、家にいて米を洗う青年と、外に出て薪を取りにゆく少女が、原始の世界にいました。ふたりは、深い愛に包まれて暮らしていました。いまやその恋人たちが、時空を超えて、書斎にあって学問に励む妻と、家事をしながら妻の原稿を整理する夫へと姿を代えて、現代のここ「森の家」に出現したのです。この恋人たちは、このように問うたにちがいありません。これは「不自然なことだらうか」。いや、それは決して「不自然なこと」ではありませんでした。「不自然なこと」ではないとすれば、それでは、「森の家」のこの恋人たちは、一体全体、どのような暮らしをしていたのでしょうか。以下に幾つかの言説を援用して、再構築してみたいと思います。
憲三の妹の橋本静子は、こう書きます。仕事にかかわって、男女の旧弊な役割分担が、ここでは消滅していました。
憲三は他の多くの男性と同じく……男性上位の体質でした。……或る日、女性の位置まで降りて来たのです。そして、男女が平等のところで住んで見れば、居心地よくてたのしく、有頂天になって暮したのです。二人には、男の仕事、女の仕事という区別はありませんでした342。
静子が「二人には、男の仕事、女の仕事という区別はありませんでした」と書くように、資産についても、ふたりには所有の区分がありませんでした。次は、逸枝の言葉です。
私は、夫の扶養ということを、可能不可能とは全く別にして、生来的に問題にしたことがない。それと同時に、結婚後の同居生活では、近代個人主義とは別に-それは非難しないが-徹底的に共同だった。夫はなんの介意なしに私のえた印税を処理した。夫の収入に対する私の態度も同じだった。 ただ二人には分担があったのみだ。たいがいの経済的、生活的名義は夫が引き受けた。二人は信頼の上に成り立っていた343。
このようにふたりは、収入や資産については、「徹底的に共同」なものとして扱っていました。もっとも、おそらく電気や水道、それに銀行通帳などのような、日常生活上の契約書類等については、形式上その名義は、夫の名前が使用されていたようです。しかし、いずれにしても、表面上の名義は別にして、実際的な収入と資産は、個別に専有化させるのではなく、双方の共有化のうちにあり、まさしく「二人は信頼の上に成り立っていた」のでした。
それでは、逸枝の著作についてはどうでしょうか。静子に宛てて書かれた逸枝の手紙の下書きが残されていますので、その一部を引用します。
主人のすゝめで、いまの仕事をはじめた時から、私は一身上の娯楽も名利心もすてゝしまい、戸外一歩も出ないで暮しています。主人は私にあらゆることを教え、指導し、また日本にない「女性史」を二人で一生かゝって書き上げようとしているのです。だからこの仕事は、名前は私ですが、主人と私の合作です344。
もちろん、どの著作も、名義上は逸枝の著者名で表記され、公開されます。しかし、この手紙文が例証するように、逸枝は、自身の女性史研究が、夫である憲三との「合作」として成り立っていることを自覚していたのでした。逸枝の研究への憲三のかかわりについては、憲三自身がこう述べていますので、紹介します。
彼女は起稿のとき、新しい原稿用紙に向かって、私に第一章の題目を書かせる。最初のとき、あなたの原稿の書きはじめを、なんで私がしなくてはならないのですか、と文句をいうと、 「あなたが題目を書いてくだされば、本文がらく(・・)に書き出せるのよ」 といった345。
憲三はいいます。こうしたことは「『招婿婚の研究』の原稿からであったらしい。……ただ、彼女は雑文の原稿にも、よくこの題目を書かせたから、この習慣は早く熟していたのかも知れない」346。そうであれば、すでに「森の家」への入居以前にあって、編集者橋本憲三、執筆者高群逸枝の、分かちがたく一体となった著述を巡る産出関係が成立していた可能性もあります。逸枝は書きます。「私の本の出版、私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊、女性史への創業までが、彼の発意または勧告によるものだった。この意味では、彼が私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった」347。
一方、石牟礼道子は、憲三のもつ美質をこう評価します。
事業家、経営者として、憲三がいかにすぐれた資質者であることか。『高群逸枝全集』を出現させてゆく過程をつぶさに見てゆくと『大日本女性人名辞典(ママ)』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった。これを出版したときのパンフレットなどを読んでも隠されているその綿密な企画力、実行力、持続力、全過程への心配り、さらには事後処理の完璧さにおどろく348。
道子がいう、憲三の「隠されているその綿密な企画力、実行力、持続力、全過程への心配り、さらには事後処理の完璧さ」とは、具体的にはどのようなことでしょうか。想像するにそれらは、出版社との事前の打ち合わせや契約、書き手の書く原稿の整理やとりまとめ、献本や寄贈本の送付、印税収入の管理、原稿用紙やインクなどの購入、図書館での調査、古書店などにおける史料等の発掘と入手、日々送られてくる雑誌や新聞や手紙類の整理整頓といった一連の業務を指しているのでしょう。そして、さらに重要なことは、日常的に書き手のよき相談相手になり、悩んでいるときなどには、執筆の方向性を与えたり、打開策を示したりする業務も加わります。先を読む力に裏打ちされた高度の管理能力が問われる仕事であるといわざるを得ません。憲三に代わって誰でもができるわけではない、まさに、平凡社での経験が生かされる、満を持しての憲三の登場場面といえるのではないでしょうか。
それでは、「森の家」時代を通じて、逸枝は憲三に対して、どのような思いを抱いていたのでしょうか、ふたつの事例を紹介します。次のひとつ目の引用が、母親から離れられない幼子に似た、逸枝の姿を明らかにします。
たまに夫が外出すると、その留守のさびしさはたまらない。もう帰るか、帰るかと、門に出て待ちくたびれる。こういう私という女はなんといったらいいだろう。とても学者の型ではない349。
憲三の姿が見えないと、逸枝は落ち着かないようです。夫が留守であれば、その間執筆に専念すればいいのですが、全くその逆で、一行も書けません。すでに引用によって示しているところですが、上の言説を裏づけるように、『黒い女』のなかで逸枝は、「一分間も夫を離れては生きてゐられなかつた」とも、「夫を離れると、もう私というものはなくなつてしまふ」とも書いています。夫と一体であればこその逸枝でした。
それでは、もうひとつの事例を紹介します。逸枝の「留守日記」のなかの一節です。一九四一(昭和一六)年に死去した父親の辰次の三周忌にあわせて憲三は水俣に帰ります。「森の家」に残る逸枝は、その間の思いを「留守日記」に綴りました。以下はその一節です。
ご飯をたべてきた。はじめて新しく炊いた。のりとざぜん豆のおかず。夫にもよそい、お茶も二人ぶん。上にあがると、きのうとおなじ夕焼けである。窓からみていると、あの欅の下から夫がやってくるような錯覚がおこる。こたつに火をいれる。むこう側の夫の影にあいさつして机にむかう。影はふかく頭をたれてねむっている。ああまた日没時だ。風がさびしい。かきおとしたが、のこりのぼた餅をたべた。ちょうどお母さんが夫からもらってたべてくださったであろう時刻に。つめたくはあるが、うまかった。いまごろ水俣ではどんなだろう350。
おそらく、このときの夫の帰郷が、ふたりがはじめて離れて暮らす瞬間でした。逸枝は、陰膳をして、憲三の無事の帰宅を待ちます。そしてまた、「いまごろ水俣ではどんなだろう」と、逸枝は水俣に思いを馳せます。それほど、水俣は、逸枝にとってみぢかな存在だったのでした。
経済的にも、精神的にも、「森の家」に暮らすこの夫婦を支えたのは、水俣に住む、憲三の姉の藤野と妹の静子でした。間違いなく、このふたりの支援がなければ、「森の家」の夫婦は、拠り所を失い、こころ穏やかに執筆業に専念することはできなかったものと思料します。逸枝と憲三が「森の家」で研究生活に入っておよそ二年後、藤野と静子は、水俣の地に「橋本商店」を開き、それよりのち店も繁盛へと向かいます。それでは、藤野と静子が、いかにして「森の家」のふたりを支援したのか、具体的に見てみたいと思います。
次は、一九四〇(昭和一五)年の四月二九日に、逸枝が静子宛てに書いた手紙の一節です。英雄は、静子の夫です。
おたよりありがたく拝見、お写真なつかしくなつかしく。先日は英雄さまこまごまお手紙まことにうれしく存じました。…… 私が年とって動けなくなったらあなたが養ってくださるってありがとう。感謝します。 あと十五年――私たちもそうすればよぼよぼになることでしょう。喜んで静子さんのところへ帰りたいと思っています351。
いよいよ戦争がはじまります。しばしば、水俣から食料品や生活物資が届きます。一方、身の危険を感じたふたりは、一九四四(昭和一九)年の一一月には「遺書」を、年が明けた三月には「疎開計画」を、静子に宛てて送ります。しかし、幸いにも、「遺書」も「疎開計画」も、無用のものとなり、終戦を迎えるのでした。戦後に入ると、藤野や静子が、折に触れて「森の家」を訪れます。一九五二(昭和二七)年、老朽化した「森の家」を改修するに際して、その資金を用意したのも、また、一九五五(昭和三〇)年、軽部夫人からの申し出によって「森の家」の土地を購入するに際して、そのしかるべき部分を負担したのも、憲三の姉の藤野でした。
逸枝の六八歳の誕生日でもある、一九六二(昭和三七)年一月一八日に、逸枝ゆかりの松橋町久具寄田の地において「望郷子守唄」の歌碑の除幕式が執り行なわれました。逸枝も憲三も出席できず、東京の「森の家」から熊本方面を向いて頭を垂れて、関係者への謝意を示しました。しかし、その姿は幾分やつれ、着ている服も、どちらかといえばみすぼらしいものでした。その写真が、除幕式の記事とあわせて『熊本日日新聞』に掲載されると、それを見てこころを痛めた藤野は、静子に筆を執らせます。その手紙の文面は、以下のようなものでした。
除幕式には英雄さんが出席させていただきました。盛会でたいへんきれいな会であったと申しています。…… 熊日に出された写真が老いられていて、近い期限で私たちといっしょに暮される方がよいと思います。きびしい生活を続けられたのですから、もうホッとされてよい日が必要です。いつでもお迎えに参ります。 田舎は静かで不安ありません。研究のお金がいればうちの姉さんが送るからと申しています。いってやって下さい。少しでも早く片づくとよいと申しています352。
この年(一九六二年)の旧暦の七夕前夜は、逸枝と憲三がはじめて出会って四五周年に当たる記念の日でした。そこでふたりはこの日、そのことに感謝して、仕事を休んで休養を取り、新たな気持ちで誓い合いました、以下に引用するのは、逸枝が書いた「誓い」の言葉です。
誓い われらは貧しかったが 二人手をたずさえて 世の風波にたえ 運命の試れんにも克ち ここまで歩いてきた これから命が終わる日まで またたぶん同様だろうことを誓う そしてその日がきたら 最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない すべてを土に帰そう 相見てから四十五周年 一九六二年七夕前夜353
のちに憲三は、この「誓い」について、こう書き記しています。「彼女とKと、生涯の終わりには、いっしょに墓にはいるが、しばらくあとにのこされたものが不自然にあとをおったりしないようにかんがえ、彼女がまだ生きていたその手で書き、Kにも納得させた『誓い』」354でした。もうこのとき、逸枝は、自分に死期が迫っていることを自覚していたのかもしれません。
それから二年後、逸枝の体は、東京国立第二病院の入院室にありました。逸枝と憲三が交わした最後の会話の場面を、以下に再現します。
私「私はあなたによって救われてここまできました。無にひとしい私をよく愛してくれました。感謝します」。 彼女「われわれはほんとうにしあわせでしたね」。 私「われわれはほんとうにしあわせでした」。力を入れてこたえ、さらに顔を近づけて私が「……」というと、彼女ははっきりうなずいて、「そうです」といった。 彼女は心からそれをゆるし、そしてよろこんでいるのだった。いまこそわれわれは一心になったのだ。…… 七時十分に付添いさんが帰室したのちも九時までいたが、いよいよかえりのあいさつのとき、逸枝はかたく私の手をにぎり、「あしたはきっときてください」とつよいことばでいった355。
この病院は完全看護のため、どうしても憲三は宿泊ができず、やむを得ず帰宅します。「病院からのれんらくで十一時にかけつけた。そのとき、もう彼女の偉大な魂は一生の尊い使命を終え、永遠のねむりにはいっていた。私は妻逸枝の髪をなでやわらかい頭をかかえてくちびるを合わせた-」356。死亡時刻は、一九六四(昭和三九)年六月七日の午後一〇時四五分、病名は、ガン性腹膜炎でした。かくして「彼女のなきがらは翌日らいてうさん、主治医の見送りのなかに病院を出て、軽部夫人らの待つ森の家に帰った」357のでした。
[第7段階]逸枝亡きあとの憲三の追慕――「不離の愛」の完成
逸枝が亡くなると、遺された憲三は、生前逸枝が書き、死によって中断していた、「火の国の女の日記」の後半部分の執筆に入ります。こうして、憲三の補筆により逸枝の自叙伝である『火の国の女の日記』は完成し、逸枝の一周忌にあわせて、一九六五(昭和四〇)年六月に、理論社から刊行されました。その奥付には「著者/高群逸枝 橋本憲三補」と明記されています。この表記に、逸枝と憲三の生涯の関係がすべて表象されているように思われます。引き続き憲三は、『高群逸枝全集』(全一〇巻)のための校合と編集の作業に取りかかります。完成までのその間、静子がしばしば「森の家」に行って憲三を助けます。第一回の配本として『高群逸枝全集第四巻 女性の歴史一』が出版されるのが、一九六六(昭和四一)年二月でした。この年の六月、逸枝の三回忌(二周忌)で水俣に一時帰省していた憲三は、石牟礼道子の強い希望を受け入れ、一緒に「森の家」へ帰ります。ここで道子は、水俣にいる静子を立会人として、逸枝と憲三に対して、自身の後半生を誓うのでした。道子にとって逸枝は、自身の生まれ変わりに必要な妣でした。また、のちに道子は、憲三が自分の「最後の人」であったことを告白するのでした。
憲三は、最終配本予定の『高群逸枝全集第七巻 評論集・恋愛創生』の原稿を理論社の編集者に渡し、逸枝の個人蔵書を古書店に売却し、そのあと、世田谷区役所とのあいだで「森の家」の譲渡契約を結ぶと、いよいよ「森の家」を離れ、水俣に帰還することになります。一九六六(昭和四一)年一二月のことでした。年が明けた一九六七(昭和四二)年の一月、『高群逸枝全集』の第六巻「日本婚姻史/恋愛論」が出版され、翌二月、最終配本となる第七巻の「評論集・恋愛創生」が世に出ます。この「評論集・恋愛創生」の巻末にあります「解題/編者」において、憲三は、こう書きました。
あとにして思えば、死の当日、彼女はおそらく眼前の死の自覚なくて、はしなくも後事を私に託する発言をした。彼女を失っていまは廃屋と化した二階の一室、彼女が三十余年前に机上ただ一冊「古事記伝」を置き、「女性史学事始」をなしたその一室に、私はひとり老残を横たえて、未完のままのこされた彼女の自伝「火の国の女の日記」の整理にしたがい、その刊行について理論社社長小宮山量平氏の然諾および前述のように全集発行の申し入れを受けるにいたる。かくて「火の国の女の日記」は一九六五年六月に刊行、その書をも含む「高群逸枝全集」は一九六六年二月第一回刊行、同六七年二月最終回刊行をみる。彼女に負う私の義務もここに終わるのである358。
この文を含む「解題/編者」の末尾には、「遺影のもとで一九六七年一月一日橋本憲三しるす」とあります。この日、おそらく憲三の胸は、万感の思いで満たされていたにちがいありません。この「解題/編者」を書き終わると、憲三の関心は、逸枝の墓廟の建立に向かいます。
墓廟の形状は、「幅および奥行き各三・八メートル、高さ二・三メートル」359の石積みで、製作は、大塚石材に発注されていました。一月二〇日の「共用日記」には、「大塚さん――昨々日から山口に石を注文に出かけ今朝帰ってきたと。雪のため、山元では三月はじめごろ出荷のみこみと、……明後日から墓所の整地はじめを依頼」360と、あります。そして、五月二二日、墓廟は完成し、逸枝の霊骨を入れる段取りが整いました。
夕ぐれ時、お骨を骨座にいれる。その他に、全集と愛用の万年筆。憲平の土。愛鶏たちのお骨。白ばら。静子と二人で。故人も安心しなはったろう。自分の家に入って。と病床の姉がいう361。
こうして六月七日の逸枝没後三年目の命日を前にして、無事納骨が終わりました。
墓廟の正面左手には、彫刻家の朝倉響子に依頼した、「高さ八五センチ、幅七〇センチ」362の等身大胸像のレリーフがはめ込まれることになっていました。完成したレリーフが到着したのは、翌年(一九六八年)の八月一日でした。次は八月九日の「共用日記」からの引用です。「6時起床。静子をたのみレリーフを山下まで運ぶ。8時まえ上山、献花。大塚さんすでにあり、レリーフも上げあり。8時仕事はじめ」363。続く翌日、「8時上山、献花と昼べんとう。午後3時施工終了。下山」364。そして、次の一一日に、「午前清掃。ひとりで除幕式」365を執り行ないました。こうして旧盆に間に合ったことに、憲三はきっと安堵したことでしょう。
全集の完結、墓廟の建造に続く、三番目の憲三の大きな仕事は、『高群逸枝雑誌』の刊行でした。憲三は、この季刊誌に、逸枝に関する若手研究者の最新の成果や新たに発掘された関連資料などを掲載することにより、日本における女性史学の樹立者である妻の業績を顕彰しようと考えたのでした。一九六八(昭和四三)年九月三日の「共用日記」には、「Mさん10時ごろ。高群雑誌の原稿『最後の人1』持参」366と記されています。「Mさん」が石牟礼道子であることは、いうまでもありません。道子は、こう書きます。
そのお仕事は氏の晩年の日々の、せめてもの慰めであった。『高群逸枝雑誌』はそのような意図を秘めて出され始めた。同人は先生と弟子の私のふたりであった367。
一九六八(昭和四三)年一〇月一日、『高群逸枝雑誌』の第一号が発刊されました。この号の誌面は、橋本憲三「『火の国の女の日記』の後」、高群逸枝「《拾遺》額田王」、石牟礼道子「最後の人1 序章 森の家日記(一)」、加えて「たより」欄から構成されました。「たより」には、四箇月前の六月七日の逸枝の命日に平塚らいてうから届いていた電文も転載されています。「本日、逸枝さんの五回忌をおむかえして、ご冥福のますますゆたかならんことを心からお祈りいたします。合掌」368。因みに、創刊翌年の六月、らいてうの呼びかけで「森の家」跡の公園に「高群逸枝住居跡の碑」が建立されました。これが、らいてうと逸枝夫妻との変わらぬ友情の終着点となりました。
発刊から三日後の一〇月四日、地元の『熊本日日新聞』が、『高群逸枝雑誌』が創刊されたことを伝えました。とりわけ石牟礼道子の「最後の人」に、関心が向けられています。以下は、「高群逸枝雑誌の創刊」(八面)という見出し語をもつ囲み記事のなかの一節です。
「最後の人」は長編評伝の第一回。「序章 森の家日記(一)」で、一九六六年夏、逸枝なきあと東京・世田谷の森の家が取りこわされる前に一度見ておきたいと上京した石牟礼氏が、残務整理もすませていよいよ、憲三氏とともに森の家をあとにするところから始まる。憲三氏は「瞑目したまま軽く呟くように、『逸っぺごろ、また水俣にゆきますよ』と熊本なまりでそういわれた」――それは逸枝自身が帰省のために森を出た昭和十五年八月の朝へと連想をさそい、さらに連想はさかのぼって招婿婚の研究当時の逸枝の日常へと連なったりする。逸枝の日記、憲三氏の談話ノートなどを随所に混じえながら、ある時は伝記風に、ある時は日記風に、書き進めていく。逸枝と著者との自由な対話といった趣のすべり出しである。
そして続けて、以下のように、今後の成果に期待を寄せるのでした。
雑誌は季刊の建て前をとり、研究論文、エッセー、評伝、創作など表現形式は自由、同人以外の寄稿も歓迎する。特定の学者一個人の研究を目的とする雑誌が、しかも地方で定期的に発行されるという例はきわめてまれであるが、この雑誌が息長く刊行され、成果をあげることを期待したい。
この創刊号の裏表紙の見返しには、『高群逸枝全集』を推薦する「高群全集に思う」と題された道子の文が掲載されています。そのなかで、憲三に言及した箇所を、次に引用します。
このような大事業をなして彼女が現世に得たものは名声にあらず富にあらず地位にあらずむしろその逆のものであったが、この事業の生涯の協力者であった夫憲三の至純の愛ひとつを抱きえた事は涙あふるる思いがする369。
こうして『高群逸枝雑誌』は、高群女性史学にとっての継続的な砦となることを目指して、水俣という小さな地方都市から産声を上げたのでした。
一方、水俣の地は、深刻な公害汚染の問題を抱えていました。道子の『苦海浄土――わが水俣病』が上梓されるのが、『高群逸枝雑誌』創刊の次の年の一九六九(昭和四四)年の一月です。道子は、この闘争に参画し、「最後の人」の執筆が困難になりました。そこで、それを埋める意味もあって憲三は、「題未定――わが終末記」の連載を開始します。第一回が『高群逸枝雑誌』に掲載されたのは、一九七〇年七月刊行の第八号でした。そのなかで憲三は、このようなことを書いています。「私は昨年の三月から感冒のため臥床がちとなり、そのうちかぜはとれたが全身の神経炎らしい極度の不快感を覚え、その日の天候によって心身の乱調が顕著に知覚されるようになった」370。そして、こうも告白するのでした。
私はできるだけ長生きしたいと希望しているのではないのだ。売薬を利用したり病院にいったりするのは、当面の‶肉体的苦痛″からのがれたいためである。じつをいえば私はいつも死を欲しているのである。それもはっきりいえば自然死ではなくて自死なのだ。私一個にのこされた仕事があるから、つまり「まだ生きている」のだ371。
憲三は、いまにも逸枝のもとに行きたいのでしょう。しかし、「誓い」にあるように、決して後追いは許されません。憲三には、「私一個にのこされた仕事」があります。それは、『高群逸枝雑誌』の発行の継続にちがいありません。逸枝の学問的業績の顕彰、これが憲三の唯一の生きる力となっていたのです。しかし、病魔がさらに憲三に襲いかかります。
これまで『高群逸枝雑誌』に連載されてきた憲三の「題未定――わが終末記」は、一九七二(昭和四七)年七月一日刊行の第一六号に掲載された第九回をもって休載となります。連載開始の時期から比べて、さらに体力や気力が衰えてきたようです。その号の巻末の「編集室メモ」に、そのことがよく現われています。
私は前号の終末記の原稿をベッドの上で書いているとき鼻から血を出した。はじめ気分が悪くなり、次の瞬間、「ふいに思考がふっ切られ、目が見えなくなり、頭の中にモヤのようなものが立ちこめ、鼻から赤い血がぽたぽたと紙の上に落ちてきた」のである。……こういった中で、15号はかなりの編集ミスをおかした。発送は他の援助にあずかった。現在は小康状態372。
それから一年が立った一九七三(昭和四八)年八月三日の「共用日記」には、「突然、尿の排出がわるくなり、下腹部張る。午後5時ころ上田病院に静子とゆく。前立腺肥大にて手術(入院を要す)」373との記述があります。八月七日「市立病院にゆく。(上田病院の紹介をもって)。静子と」374。続く八月一三日「市立病院に入院。精密検査はじまる」375。半月後の八月二八日、「十時すぎ一時退院で帰室。21号編集にかかり、早速第一便原稿を下田印刷に送る。夜になり、あとのもの全部おわり、投函する」376。
憲三の主治医は、近所で内科医院を営む女医の佐藤千里でした。佐藤の母の坂崎カオルが、幼き日、逸枝と机を並べた仲でした。一九七五(昭和五〇)年一〇月刊行の『高群逸枝雑誌』第二九号を見ると、佐藤が逸枝の墓参りをした、そのときの様子が記されています。墓前に立つ佐藤は、改めて逸枝と憲三の二人の出会いについて考えこんでしまったのでした。
男と女がひかれ合うということ、これは究極的には最も単純で原始的ともいえる反応ではなかろうかと思うのですが……高群逸枝の観音様のように可愛いい口許や鼻に見とれていますと、あれだけの研究を科學的に積み上げていった天才のもう一つの面、つまり相手に何も要求しないのにしかも身も心もぴったりと夫憲三に寄り添ってしか生きられなかった一人の女性の匂やかさが伝わってくるのでした。…… 森の小動物に還った逸枝は今後も夫憲三の着物の懐で小さな寝息をたてているのではないでしょうか377。
逸枝が放つ香気に包まれながら、一方で佐藤は、再び二匹の森の小動物となって生きられる日が、そう遠くない時期に訪れるかもしれないことを報告したかもしれません。佐藤が、憲三の死期が迫っていることを最初に告げたのは、憲三の実の妹の橋本静子ではなく、石牟礼道子でした。佐藤は、この間の付き合いのなかにあって、道子が憲三の実質的ないわゆる「後妻」であることをよく知っていたからにほかなりません。道子は、このように書いています。
最後の逸枝雑誌、三十一号の編集が終ってしばらくした頃、主治医の佐藤千里氏から、私は、もうあまりお互いの持ち時間がないことを具体的に知らされていた。つらいことだったが実妹の静子さんにその状態を理解してもらわねばならなかった。静子さんは東欧旅行を計画されていたが、それを中止された378。
『高群逸枝雑誌』の第三一号は、予定どおり、一九七六(昭和五一)年四月一日に発刊されました。しかし、憲三にとって、この号が最後の編集となりました。「もしや重態になっても誰にも知らせてはならない」というのが憲三の意向でした。しかし道子は、悩みながらも、「静子さんには内密で、朝日評伝選に高群逸枝を執筆予定の、鹿野政直、堀場清子夫妻に緊急事態がせまっていることを連絡した」379のでした。道子は、こう記します。「五月十八日、昨夜鹿野夫人二十時二十三分『有明』でおみえ。間にあってよかった。今朝の御面会よい結果であればよいがと思い、時間をずらしてゆく。十一時お見舞い。……五月二二日……朝十時半ごろ、鹿野政直先生もおみえ、間に合われた。ご夫婦で橋本邸へ。おともする。静子さん枕元にいらして先生おめざめ。ちょうど痛みが去っていて、ご夫妻にごあいさつがおできになる」380。
鹿野と堀場が、部屋を出て、帰路につくと、いよいよその時が迫りました。以下は、道子が述懐するところです。
「寒椿が」 「はい……」 それは最後のおことばだった。静子さん上がっていらっしゃる。 佐藤先生がおみえ。朝日出版局(評伝選の係)の宇佐美さんご到着、五時頃。白菊を持って濡れておいでになる。それで雨が降っているんだなと思う。もう、お話がおできにならない。 七時頃うすぐらくなり、先生の呼吸、ハーッ、ハーッと深く長くなる。 静子さんこの十日間ほとんどお睡りにならない。…… 佐藤さん、午後からほとんどつきっきり、いよいよフェルバビタール打たねばならぬようになったようですとおっしゃる。お悩みのご様子。 先生のお姉さんの藤野さんが、若主人におんぶされておいでになる。そしておんぶされたまま肩越しに、よく透る声で、 「憲さぁん、憲さぁん!姉さんが面会に来たばぁい。もう、もの言わんとなあ」 とおっしゃる。そのお声の愛情、哀切かぎりなく、先生の寝息と交互に、 「おお、思うたより、やせちゃおらんなあ。憲さぁん、うつくしゅうしとるな」 静子さんも佐藤さんも髪ふりみだしている、たぶん私も。徹夜381。
こうして女三人による懸命なる手厚い看取りのもと、一九七六(昭和五一)年五月二三日午後零時五十分、高血圧性心不全のため水俣市幸町六-一の自宅で、憲三は帰らぬ人となりました。次は、佐藤の回想です。「やっと逸枝のもとに旅立った憲三の両手を組み合わせてやりながら、手の甲に私が無残につけた注射のあとが目にとまったとき、それまで張りつめていた肩の力が、一時にどっと抜けていくのをどうしようもなかった」382。憲三、享年七九歳。遺された静子は六四歳、道子は四九歳でした。
それでは、憲三に思いを寄せる静子、道子、佐藤千里の五人の言葉を、選りすぐって、ここに紹介します。まずは、静子の言葉から――。
涙も出ないんですよ。この心の底の方にある悲しみは、病気ではないでしょうか。正常なんでしょうか、涙も出ないんですよ。なんという人でしょうねえ、この兄は。こんなにうつくしくなっている人は383
次に、道子の言葉から――。
一人の妻に「有頂天になって暮らした」橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しく典雅で、その謙虚さと深い人柄はせっしたものの心を打たずにはいなかった384。
そして、佐藤千里の言葉から――。
「あなたは僕たち夫婦のことを森の小動物の一目惚(ぼ)れとからかったが、まったく今になってみると、僕は単に運がよかっただけかもしれない」 この憎らしいほど幸福な男の科白(せりふ)が、結局、憲三氏と私の最後のやりとりになってしまいました385。
憲三が旅立った日から数えて一五日が立った六月七日は、逸枝の一三回忌でした。かくして憲三も、森の小動物となって逸枝のもとに還りました。いまや逸枝は、佐藤が書くように、「夫憲三の着物の懐で小さな寝息をたてているのではないでしょうか」。
(183)前掲『愛と孤独と』、73頁。
(184)前掲『日月の上に』、ノンブルなし。
(185)同『日月の上に』、252頁。
(186)前掲「戀愛行進曲――月漸く昇れり――」『女人藝術』第2巻第1号、21頁。
(187)前掲『恋するものゝ道』、157-158頁。
(188)同『恋するものゝ道』、164頁。
(189)同『恋するものゝ道』、191頁。
(190)前掲『日月の上に』、5頁。
(191)前掲『放浪者の詩』、5頁。
(192)高群逸枝『美想曲』金星堂、1922年、71頁。
(193)同『美想曲』、225頁。
(194)前掲『妾薄命』、33頁。
(195)前掲『黒い女』、26頁。
(196)同『黒い女』、60頁。
(197)前掲『日月の上に』、249-250頁。
(198)前掲『妾薄命』、104頁。
(199)高群逸枝『戀愛創生』萬生閣、1926年、253-254頁。
(200)前掲『東京は熱病にかゝつてゐる』、399-400頁。
(201)前掲『戀愛創生』、44-45頁。
(202)同『戀愛創生』、278-279頁。
(203)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、78頁。
(204)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、13-14頁。
(205)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、127頁。
(206)前掲「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、32頁。
(207)同「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、34頁。
(208)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、213頁。
(209)前掲『愛と孤独と』、73頁。
(210)前掲『日月の上に』、6-7頁。
(211)「肥後が生んだ唯一の女流詩人【上】」『九州新聞』、1921年4月15日、5面。
(212)前掲『日月の上に』、7頁。
(213)「肥後が生んだ唯一の女流詩人【中】」『九州新聞』、1921年4月16日、5面。
(214)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、74頁。
(215)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(216)前掲『日月の上に』、125頁。
(217)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、114頁。
(218)前掲「肥後が生んだ唯一の女流詩人【中】」『九州新聞』、5面。
(219)前掲『今昔の歌』、194頁。
(220)前掲『恋するものゝ道』、176頁。
(221)同『恋するものゝ道』、181頁。
(222)同『恋するものゝ道』、190-191頁。
(223)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、161頁。
(224)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、162頁。
(225)柴田道子「逸枝さんへ2――編集室より――」『高群逸枝雑誌』第21号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1973年10月1日、27頁。
(226)同「逸枝さんへ2――編集室より――」『高群逸枝雑誌』第21号、28頁。
(227)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、170頁。
(228)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、171頁。
(229)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(230)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(231)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、178頁。
(232)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、179頁。
(233)前掲『今昔の歌』、202頁。
(234)同『今昔の歌』、209-210頁。
(235)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、190頁。
(236)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(237)前掲『今昔の歌』、217頁。
(238)前掲『放浪者の詩』、33-34頁。
(239)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、191-192頁。
(240)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、208頁。
(241)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、208-209頁。
(242)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、223頁。
(243)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、226頁。
(244)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、228-229頁。
(245)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、212頁。
(246)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、213頁。
(247)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、212-213頁。
(248)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、253-254頁。
(249)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、254頁。
(250)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(251)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(252)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、255頁。
(253)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、146頁。
(254)同『最後の人 詩人高群逸枝』、148頁。
(255)前掲『恋するものゝ道』、15-53頁。
(256)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、128頁。
(257)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(258)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、130頁。
(259)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(260)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、131頁。
(261)前掲『恋するものゝ道』、155頁。
(262)同『恋するものゝ道』、156頁。
(263)同『恋するものゝ道』、165-167頁。
(264)同『恋するものゝ道』、192-194頁。
(265)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、161頁。
(266)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、162頁。
(267)前掲『山の郁子と公作』、23-24頁。
(268)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、165頁。
(269)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、163頁。
(270)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、165頁。
(271)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(272)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、169頁。
(273)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、169-170頁。
(274)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、168頁。
(275)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(276)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、170頁。
(277)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、190頁。
(278)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、190-191頁。
(279)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、192頁。
(280)前掲『放浪者の詩』、31頁。
(281)前掲『日月の上に』、248-249頁。
(282)前掲『放浪者の詩』、33-34頁。
(283)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、191-192頁。
(284)前掲『今昔の歌』、219頁。
(285)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、193頁。
(286)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、194頁。
(287)前掲「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、36頁。
(288)前掲『恋するものゝ道』、163頁。
(289)橋本憲三「末人像(六)」『九州新聞』、1920(大正9)年9月5日、4面。
(290)前掲『今昔の歌』、220頁。
(291)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、195頁。
(292)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(293)前掲『今昔の歌』、220頁。
(294)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、228-229頁。
(295)橋本憲三「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、18頁。
(296)同「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、16-18頁。
(297)同「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、19-20頁。
(298)前掲『わが高群逸枝 下』、63頁。
(299)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、229頁。
(300)前掲『恋するものゝ道』、162頁。
(301)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、223頁。
(302)前掲『恋するものゝ道』、155頁。
(303)前掲「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、21頁。
(304)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、226頁。
(305)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、232頁。
(306)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(307)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、233頁。
(308)前掲『黒い女』、63頁。
(309)同『黒い女』、61-62頁。
(310)同『黒い女』、38頁。
(311)同『黒い女』、59頁。
(312)同『黒い女』、8頁。
(313)同『黒い女』、26頁。
(314)同『黒い女』、51頁。
(315)同『黒い女』、60頁。
(316)同『黒い女』、42頁。
(317)同『黒い女』、同頁。
(318)同『黒い女』、24-25頁。
(319)同『黒い女』、11頁。
(320)同『黒い女』、5頁。
(321)同『黒い女』、12頁。
(322)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、234頁。
(323)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、233頁。
(324)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(325)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、237頁。
(326)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、236-237頁。
(327)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、237頁。
(328)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(329)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(330)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、241頁。
(331)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、241-242頁。
(332)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、242頁。
(333)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(334)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(335)前掲「最後の人4 序章 森の家日記(四)」『高群逸枝雑誌』第4号、23頁。
(336)前掲「最後の人1 序章 森の家日記(一)」『高群逸枝雑誌』第1号、22頁。
(337)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、242頁。
(338)前掲『愛と孤独と』、10頁。
(339)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、232頁。
(340)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(341)前掲『東京は熱病にかゝつてゐる』、399-400頁。
(342)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、13頁。
(343)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、515頁。
(344)前掲『わが高群逸枝 下』、311頁。
(345)前掲「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、35頁。
(346)同「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、同頁。
(347)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、354頁(隠しノンブル)。
(348)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、356頁。
(349)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、429頁。
(350)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、310-311頁。
(351)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、251頁。
(352)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、442頁。
(353)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、449頁。
(354)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、482頁。
(355)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、479頁。
(356)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(357)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、479-480頁。
(358)『高群逸枝全集』第七巻/評論集・恋愛創生、理論社、1971年、374頁。
(359)橋本憲三「『火の国の女の日記』の後」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、7頁。
(360)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、156頁。
(361)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(362)前掲「『火の国の女の日記』の後」『高群逸枝雑誌』第1号、7頁。
(363)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、159頁。
(364)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(365)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(366)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(367)石牟礼道子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、101頁。
(368)「たより」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、32頁。
(369)石牟礼道子「高群全集に思う」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、裏表紙見返し(ノンブルなし)。
(370)橋本憲三「題未定――わが終末記 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年7月1日、21頁。
(371)同「題未定――わが終末記 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、24頁。
(372)「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』第16号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1972年7月1日、30頁。
(373)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、181頁。
(374)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(375)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(376)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(377)佐藤千里「墓参り」『高群逸枝雑誌』第29号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1975年10月1日、15頁。
(378)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、56頁。
(379)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、57頁。
(380)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、61-62頁。
(381)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、63-64頁。
(382)佐藤千里「優しきめぐり会い 逸枝と憲三と私」『西日本新聞』1976年8月5日、11面。
(383)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、64頁。
(384)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、53頁。
(385)佐藤千里「激痛のなかでの雄々しく闘病 橋本憲三氏の最期」『熊本日日新聞』、1976年6月5日、10面。