ここまで、「『上皮』としての第一の層――職業選択あるいは社会的活動」という章題のもとに、逸枝の、社会という表層に現われた活動を時系列に沿って記述してきました。したがいまして、一般的な意味では、これをもって「小伝 高群逸枝」と呼ぶことができるかもしれません。しかし、逸枝の人となりをより深く理解するには、どうしてもこれだけでは不十分であり、一歩内面に踏み込んで、そうした「職業選択あるいは社会的活動」をなすに当たっての「気質あるいは性格」について論じる必要があるように思料されます。そこで、この部分に触れた一次資料を可能な限り多く渉猟し、それをもって逸枝の「気質あるいは性格」が何であったのかを語らせてみたいと思います。語りの文脈は、「第一節 従順の支配、あるいは『曲従』の意識」、「第二節 主体性の欠如、あるいは依存心の常態化」、そして「第三節 正義感の情動、あるいは他者への奉仕精神」の三つです。
まず、逸枝の気質として「従順」を取り上げてみたいと思います。「従順」は、逸枝の用語法に従えば「曲従」につながります。「火の国の女の日記」(『高群逸枝全集』第一〇巻に所収)に見られる最初の「曲従」の事例は、このようなものでした。
六歳になった逸枝は、一九〇〇(明治三三)年四月に、父親が校長を務める久具尋常小学校に入学します。この学校で、父の態度へ強い不満を募らせる出来事がありました。「私は成績がよくて、たちまち父母のじまんの子となった。私のほかには上久具の森田とめという子もよくできた。……あるとき、私はこの子と二人で教室からつまみ出され、校庭の柳の木の下に立たされたことがある。この子が夏豆のいったのを巾着(きんちゃく)にいれてきて、授業中に私にもくれたので、それを食っていたのを父がみつけ罰したのだった」110。おりから雨が降ってきました。そのとき、森田とめは許されたものの、逸枝は許してもらえませんでした。母がさしかける傘を逸枝は拒みました。回想は、こう続きます。
ただ同罪の二人のうち、一人だけ残されたことには不満を感じたが、そこはまた私の曲従の性(さが)で、父の不公平を不問に付したのだった。しかし、これがもしあべこべで、私が許されおとめさんが残されたのだったら、私はたぶん父を許さなかったろう。私の「曲従」については、おいおい明らかになるだろう111。
学校生活がはじまると、父親とは、教師と生徒の関係にありました。また、同じ級友同士にあって新たな関係も生まれました。家庭生活では経験できない、複雑な人間関係がそこにはありました。逸枝は回想します。「ここらから対人関係での私の自己抑制が内部的に宿命づけられ、いわゆる優柔不断、曲従の性格が形づくられていく」112。
一方、家庭生活については、逸枝は、こう書きます。おそらく一〇代のはじめころのことではないかと思われます。
私の家はみんなが仲よく暮らした。その中心は、父母の仲のよさにあっただろう。父の日記をみると、〈家庭風波〉、〈夫婦喧嘩〉のことが若干出てくるが、それは父の飲酒をめぐっておこったもので、彼はいちいち〈予ノメイテイノ致ストコロ〉と書き添えているのである。それ以外のことで、家庭に風波がおこったことは、絶無といっても過言ではない。 私も父母にさからったことも、兄弟喧嘩したこともない113。
逸枝は、このように、「私も父母にさからったことも、兄弟喧嘩したこともない」といいます。実際に逸枝は、熊本市立図書館に所蔵されている手稿本である『少女集』には、「静かに父母君様に仕へまつらんとぞ思ふ」とも、「只父母に仕へまつりて清くありなむ」とも書き付けています。ここから、いかに逸枝が両親に対して「従順」な子であったかがわかります。
一九〇八(明治四一)年三月、一四歳の逸枝は北部高等小学校を卒業します。「私は高小を出ると師範学校に入ることになっていた」。しかし逸枝は「師範学校を好まず、別のコースをとって大学に学びたいということを考えていた」。それでも逸枝は「それを父に訴えたことはなかった。このように自分にとって重大なことでも、私は例のとおりなるべく他のおもわくに順応したい本能をどうすることもできなかった。こういうやりかたは、自分自身にもそれほど気にいっているわけでもなく、いまにつづく私の優柔不断の欠点の一つだろう」114。
逸枝、二三歳。「一九一七(大正六)年のはじめごろ、私は、一通の思いがけないはがきを受け取った」。払川にある山の学校の女教師に宛てて出されたこのはがきの内容は、「そのころ私が父のすすめで自信なく書いた短い感想文が教育雑誌に出たのをみて、球磨の一青年Kが回覧雑誌を出すとかでそれへ参加をすすめたもの」115でした。「球磨の一青年K」――この人物こそが、これよりのち逸枝の「恋愛」の相手となる橋本憲三その人です。
こうしてふたりの交際がはじまり、そのはがきからおよそ二年後の一九一九(大正八)年四月、逸枝と憲三は「約婚」します。以下は、その直後に、逸枝から憲三に宛てて出された手紙の一部です。
妾があなたをお思ひいたしてゐますやうに、あなたも妾を思つてゐて下さいますか。…… 若い、氣高い、血氣が、妾をおそひます。ああ、妾どもの高潮した青春よ。妾はそれを決して萎らせないでありませう。……妾を愛して下さい。愛して下さい。愛して下さい。強く強く愛して下さい。 妾はあなたに抱かれて死にませう。…… 妾はしばらく讀書しよう。燃ゆる思ひを唄にしよう。……すべてをすててあなたと二人で暮らしませう。妾は女神のやうに崇高です。また、小羊のやうに従順です116。
「小羊のやうに従順」――これが逸枝の、自らが認識する性格でした。しかしそれは、すでに引用によって示していますように、「なるべく他のおもわくに順応したい本能」、つまりは、自己抑制機能である「曲従」と表裏をなすものでした。逸枝はこれを、「いまにつづく私の優柔不断の欠点の一つだろう」ともいいます。つまりそれは、おかしいと思えども、それを口に出せず、ついついそれを許容してしまう性格、あるいは、したいと思う気持ちはあれど、それを口に出せず、ついつい周囲の思惑になじんでしまう性格といえるでしょうか。
「約婚」が相成った年(一九一九年)の七月、逸枝は、憲三が勤務していた城内尋常小学校を訪ね、そのままおよそ四箇月間、同居生活を送ります。事実上の新婚生活です。しかし、逸枝にとっては毎日が衝撃の連続であったようです。すでに前章において引用していますが、逸枝は、このときの生活について、このように書いています。「Kのエゴイストぶりは私にもよくわかっていたし、それがまた私をひきつけるものでもあったが、それにしても城内校での彼の私への虐待ぶりは、ちょっと想像にあまるものがあった」117。それでは、その「虐待」とは、どのようなものだったのでしょうか。以下は、逸枝が書く、そのときの憲三の言説の一部です。
「おれが毎日通っている人吉の夏期講習会には、すばらしいべっぴんがいるので、おれはせいぜい頭にチックでも塗りたくっておめかしして行くんだ」118 「おれは肉感的な女がすきだ。この本に出ている『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫に扮したドイツ女優のようなものがすきだ。第一に森の姫そのものがすきだ。それにくらべるといわゆる貞淑な鐘匠の妻は恋愛の対象としては型がふるい」119 彼は理想的な妻の像を、「金持ちの若後家」に発見した、と私にいって聞かせた。彼女はたぶんあらゆる点で負担にならない存在でありうるだろうから、と120。
憲三にとって、外的要因がもたらす「負担」が、最も忌避すべきものだったようです。憲三の性格は、自分の内面への他者の侵入を拒み、安定した内的世界に身を置くことに喜びを感じる、そうした性格だったものと思われます。こうした姿勢は、逸枝の目にはエゴイズムと映りました。加えて、逸枝の目に映ったのは、憲三の悪魔主義でした。これは、虚構の物語への陶酔や夢想の世界への飛翔を嘲り笑うものでした。互いに理想を語り合い、絶対的愛を共有しようとする逸枝の心的側面と、憲三が持ち合わせるエゴイズムと悪魔主義とは、どうしても噛み合わず、ついつい憲三は逸枝に対して、暴言を吐くようになります。「彼は私のことをよく低能児といった。あらゆる暴言がそこからほとばしり出た」121。
逸枝に浴びせる暴言は、さらに、暴力へと発展してゆきます。「Kの暴力は、私にとって生まれてはじめてといってよいほどのおどろきだった。しかしいちばん私にとって心配になったのは、これによってKをノイローゼにおとしこむことになりはしないかということだった。彼はこんな場合、みていられないほど、青ざめ、おそろしい目つきになり、手をぶるぶるふるわせるのだった」122。
自分に向けられる暴力への恐怖、憲三が陥りかねない精神機能喪失への不安――かくして逸枝は、確実に居場所を失ったものと想像されます。「Kのエゴは私の曲従と反比例して募った。それに私も、この一時期ほど、自分の持っている欠点をバクロしたことはなかった」123。この言葉は、憲三が自分の気持ちを前面に出せば出すほど、それに反比例して逸枝の思いは縮小し、いつしか逸枝は、意に反しそれを受け入れる側に立たされてしまうようになることを意味しているのでしょう。そしてそれを、「自分の持っている欠点」と理解しているのです。
おそらくこの新婚生活にあって、逸枝は「曲従」の連続にあったにちがいありません。しかしその一方で逸枝は、井戸の水を汲み、薪を割り、炊事をしたり、風呂を沸かしたり、掃除をしたりすることは、ほとんどできなかったものと思われます。そうした現実世界の仕事から目をそらせ、他方で、気の赴くままに夢世界に遊び、憲三の内面秩序を破壊する逸枝の独断的で自己中心的な行動に、常に憲三はいらだっていたものと推量されます。それに耐えて必死に抵抗するがごとくにして、憲三の暴言と暴力は生まれ出たものと考えられます。逸枝も、そのことに気づくと、それなりに得心がゆきました。こう逸枝は、書きます。
決心がついてみると、Kの毒舌や暴力も、私の欠点も、それらのすべてが、彼と私とのくいちがいからきたものばかりだったので、ただ私は知らないこととはいえ、Kのところに侵入し、さんざん彼を手こずらせ、ずうずうしくも大きな損害を彼に与えたことを心から詫びて、帰郷することにした124。
逸枝は、自身のよって立つ境地も、そして自尊心も、ずたずたに傷つけられてしまいました。他方憲三は、自分が住む純正な心的世界に土足で踏み込まれ、忍耐の限界に達しました。かくしてもはや、この新婚生活の継続は不可能となりました。
「さよなら。私をおゆるしください。私ののこしたものはみんな捨ててください。私は悲しいのです。恋しい人よ」125と書き残すと、逸枝は、「大正八年一一月のある日の朝まだき、城内校を出て、人吉駅から汽車に乗った」126のでした。
約婚後のこのころの気持ちを逸枝は、このように総括しています。逸枝がいかに古い自分を捨てて自己変革をしてゆくのか、その過程の一端がよく現われていますので、少し長くなりますが、ここに引用します。
私は従来の私を白紙にかえしてしまった。そしてこの「恋愛と結婚の苦悩」の時期を、私は思慕と曲従(曹大家『女誡』)とにうちのめされ、私の相手であるKは悪魔主義と毒舌に終始したのだった。 それはまことに不思議な経験だった。男性の露骨なエゴイズムと、男性の臆面もなく叩きつけてくる卑俗さに、これほど新鮮な魅力を感じたことはかつて私にはなく、またこの段階ほど彼の嗜虐的な行動や若干の先輩ぶった放言によって、女としての私の古い貞操観や、低能、鈍感、分裂症状等の欠点が、川床のごろた石のように、谷間の死骸のように露出されたことはなかった。この醜態と自信喪失とから、私が立ち直ることは、容易なわざではなかった。それは苦悶と自己嫌悪とに充ちたものだった。…… しかし、この過程で、われわれは自己を飛躍させ、豊かにし、つぎの純粋な「与えられた道」の時期に入ることになるのだ127。
実年齢は逸枝が三歳上でも、精神年齢にあっては憲三がはるかに勝っていたようです。憲三がもっている知識量と思考力が、純心無垢な「しらたま乙女」の逸枝をなぎ倒します。逸枝は、それに反論することもできず、黙って受け入れるしかないのです。こうして、いままで持ち合わせてきた心的状況が瓦解し、逸枝を「白紙にかえしてしまった」のでした。
憲三の悪魔主義とエゴイズムは、一面においては、逸枝にとって実に「新鮮な魅力」を感じさせるものでした。しかし、別の一面においては、女としての自身の内面を構成していた「古い貞操観や、低能、鈍感、分裂症状等の欠点」を一気に露呈させてしまったのです。逸枝の苦悶はここにありました。自己嫌悪にさえ陥ります。しかしこれが、逆に、飛躍のための跳躍台になったのでした。たとえば一例を挙げれば、このとき憲三から読むように与えられたハウプトマンの『沈鐘』が、これよりのちの逸枝の生涯を支配する、実に決定的な読み物になるのです。
逸枝の死後、憲三がただちに編集した『火の国の女の日記』の刊行には、逸枝の一周忌に際して霊前に捧げようとする意図が含まれていました。いまその本を手にすると、「はしがき」には、以下にみられる逸枝の言葉が、添えられています。
どこからあたしゃ来たのやら どこへ帰っていく身やら… 『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫のこの歌はさながら私自身の歌でもありはしないのだろうか。人生の峠に立って長かった道程をふりかえってみると、私は人の子であり、妻であり、また同時に詩人で、歴史学者だった。そしてもちろん人類の一員だった128。
ハウプトマンの『沈鐘』を読むように逸枝に勧めたのは、ほかならぬ憲三でした。思い起こせば約四五年前の一九一九(大正八)年の夏、家出を決意した逸枝は、途中、妹の栞を旅館に残したまま、城内尋常小学校に勤務する憲三のもとに行くと、そのままそこでふたりの生活がはじまりました。そのとき憲三は、すでに引用によって示していますように、逸枝に次のようなことをいいました。「おれは肉感的な女がすきだ。この本に出ている『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫に扮したドイツ女優のようなものがすきだ。第一に森の姫そのものがすきだ。それにくらべるといわゆる貞淑な鐘匠の妻は恋愛の対象としては型がふるい」129。これを聞いた逸枝は、大きな衝撃を受けました。それは、憲三の恋愛観を知ることができたという意味においてだけでなく、自身のこれまでの生き方に大きな疑問と反省が生じたためでした。
この本は、登張信一郎と泉鏡太郎(泉鏡花)の共訳で一九〇八(明治四一)年九月に春陽堂から出版されていた『沈鐘』だったものと思われます。そのなかに、山の姫であるラウテンデラインが、姿の見えぬ池の主に呼びかける場面があります。そのとき山の姫が詠じたのが、以下の歌でした。
來し方もわれ知らず、 行く末いかで辨へむ、 山の、深山の、小鳥か、魔女か。 谷の小川に流るゝ花の、 麓の森に香は滿てど、 咲ける梢は人知らじ。 さるにてもわが思ひ、 唯、父戀し、母戀し。 戀うるに効なき過世とならば、 よしよし其も面白や。 黄金の髪の光り輝く、 容色麗しき、われは山姫130
このとき憲三に勧められるままに読んだ、『沈鐘』のなかの、まさしくこの詩こそが、逸枝のその全生涯を暗示するものであったにちがいありません。「『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫のこの歌はさながら私自身の歌でもありはしないのだろうか」の一語が、そのすべてを例証します。つまり、「曲従」のなかにあって、逸枝は、自身の新たな生き方を見つけ、それを生涯の友としたのでした。
逸枝に影響を及ぼしたのは『沈鐘』だけではありません。憲三との城内校での生活は、逸枝にしばしば「曲従」を迫りましたが、しかしその一方で、逸枝に「感情革命」をもたらしました。逸枝は、こう書きます。
球磨から帰ってから東京に出るまでの約十ヵ月間に、私は奇蹟的ともいってよいかも知れない感情革命をとげ、それが一時に大量の作品となってあらわれた131。
このときの「感情革命」には、ふたつの要素が含まれていました。ひとつは、定型詩から破調詩への転換です。そしていまひとつは、貞操観念の進化でした。ともにその背後には、「自由」というものが存在することへの新たな認識がありました。「球磨から帰ってから東京に出るまでの約十ヵ月間に」、逸枝は「放浪者の詩」を書きました。そこには、「放浪者は何の貞操ももたない」という文字が並びます。「感情革命」を成し遂げた逸枝は、一九二〇(大正九)年八月、憲三が手渡した一〇〇円の旅費を懐に入れ、両親に別れを告げると、払川の家を出て、東京に上るのでした。
東京に着くと、富農の軽部仙太郎家の一室に寄寓し、そこで「日月の上に」を書きます。翌一九二一(大正一〇)年の六月一五日に叢文社から『日月の上に』が、続けてその二日後に新潮社から『放浪者の詩』が出版されると、一躍逸枝は、「天才詩人」の名をほしいままにするのでした。そこへ、茶摘みの休暇を利用して、球磨の憲三が逸枝を訪ねてきます。このときの気持ちを、以下のように逸枝は描きます。
私はその前年の大正九年の秋出京し、世田ヶ谷満中在家の軽部家に寄宿し、親切な宿の人たちや美しい自然にかこまれて勉強し、翌年の四月には処女作が発表され、六月には二つの本が出版されるといったような幸運にめぐまれていた。そこへ夫が球磨から出てきて、そのまま弥次へつれて行ってしまったのである。このとき出版元の新潮社の人が、「いまがいちばん人気の立っている大事な時だから都落ちなどはしないほうがよいが」とひきとめてくれたが、私はそれを夫にいえないほど、こういう場合には優柔不断で、ひとがよろこぶことなら、すぐに曹大家の「女誡」にいうように「曲従」する性格があった。自分は師範に入るのを好まなくても父母が希望すればそれに従い、せっかく自由をもとめて出た遍路でも老人が乞えば同行を承諾し、それらからくる制約には目をつぶり、むしろ新事態に順応することに生き甲斐を見つけだそうとするような生活のしかたを私はしてきた。その結果はかえって病気になったり、行きづまったりすることにもなるので、こうした私のやりかたはほめられるべきものではなかったが、自分がしてきたいつわらない事実なのだから、いまはありのままをいうほかなかろう132。
ふたつの詩集が世に出ると、逸枝の身辺があわただしくなってきました。逸枝は「従順」であるがゆえに、熱狂的な読者や新聞雑誌の関係者といった、押し寄せてくる来客をうまく断わる術を持ち合わせていません。そうなると、自身の仕事に支障をきたします。おそらく、そのことに気づいたのでしょう、憲三は、城内校へ退職届を送付すると、逸枝を連れて帰郷し、八代の弥次海岸で家を借りて、新たな生活に入るのでした。逸枝は、このときの憲三を、何と「略奪者K」133という言葉で表現しています。複雑な両義的意味を示唆します。
城内校のときも、逸枝は憲三の暴言に負けて「曲従」を強いられました。しかし、その結果は「感情革命」を引き起こし、大量の詩作につながってゆくのです。続く、この都落ちのときも、憲三の強引さが目立ちます。しかし、その結果として、逸枝の世間に対する優柔不断な態度を救い、落ち着いた環境のもとでの詩づくりを可能とするのでした。それが、「朽ちたる城の姫」と「美想曲」です。前者は出版社に送ったものの、二年後に起きる関東大震災により、原稿が紛失します。後者は、翌年(一九二二年)に出版され、その印税をもとに、ふたりは、再度上京するのでした。
憲三の「エゴイズム」と逸枝の「曲従」、その結果がもたらす現実世界、こうしてふたりの本格的な夫婦生活が、いよいよ東京の地ではじまるのでした。晩年逸枝は、次のように回顧します。「思えばKのエゴイズムも、私の曲従も、そのほとんどが必至的に行動されたもので、その主たる動機は両者の不離の愛-それは宿命ともいえる-にあることが考えられてよかろうと思う」134。
このころから自伝「火の国の女の日記」において逸枝は、「曲従」という用語をほとんど使わなくなります。「両者の不離の愛」に確信がもてるようになったからでしょうか。それとも、「曲従」の原因に、自身の主体性の欠如を見出したからでしょうか。逸枝は、父との関係、そして憲三との関係を、こう説明します。
私の人生はすべて受け身に終始したように思われる。-はじめは父に従い後には夫に従った。……この点では、私はいわゆる受け身の労働者ではあったけれど、また主動的な開拓者であり、この場合には、父と夫は、私への命令者でも、また、かいらい師でもありえず、その反対でさえあった。以上のような相互関係にあることが父、夫の希望でもあったともいえよう。 彼らは、私の教育者であるとともに、また未知なる私への期待者であり、俗語でいえば物質的精神的な投資家でもあったろう135。
逸枝は、「私の人生はすべて受け身に終始したように思われる」と書きます。これを逸枝は、自分の欠落点として「優柔不断」とも「曲従」とも、そしてのちには「奴隷根性」とも呼びました。そのことは、逸枝には、自ら主体的に自身の人生の枠組みをつくったり、物事への対応方法を構築したりする能力に欠け、その部分に関しては夫の憲三にすべてを依存していたことを意味します。逸枝は還暦を前にして、次のように日記に書き記しています。
逸枝よ。銘記せよ。弁証法は、自分ひとりの心のなかでなせ。 右のように規定したところ、私はひどくさびしくなり、生気がなくなった。私には「社会」がなくなった。夫は私の「社会」であったから。……つまり自主性がないのだろう136。
ここで重要なのは、自分には「自主性がない」だけでなく、自分に開かれた「社会」がまさしく夫であったことを、妻の逸枝本人が自ら認めていることです。逸枝は、夫について、こうも書いています。
私の本の出版、私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊、女性史への創業までが、彼の発意または勧告によるものだった。この意味では、彼が私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった137。
それではここで、「教育者」であり「投資家」である夫、換言すれば「パトロン」であり「啓発者」である夫と、「労働者」であり「開拓者」である妻――このふたりの関係を示す具体的な事例にかかわって検討します。これらの事例については、すでに前章の「『上皮』としての第一の層――職業選択あるいは社会的活動」において詳述していますが、この章の文脈においても重要かと思われますので、部分的に同一の引用文を用いることをご理解いただき、あえて以下に、三つの視点から概観したいと思います。
ひとつ目の視点は、逸枝が詩人からアナーキストへと変貌するときの憲三の役割についてです。
逸枝の六番目の詩集で、事実上最後の詩集となるのが、一九二五(大正一四)年一一月に萬生閣から出た『東京は熱病にかゝつてゐる』です。この本の版元である萬生閣は平凡社の別組織で、当時憲三は平凡社に勤務しており、教育問題や農民運動に力を注いでいた平凡社社長の下中彌三郎の思想的影響下にありました。晩年逸枝は、こう回想します。
私がアナキズムにひかれたのは書物からではなく、大逆事件に私の故郷から無実と思われる犠牲者たちを出したことが火の国の娘の胸を打ったのが遠い動因の一つであり、またKが下中さんの教員組合啓明会の雑誌や出版物に加勢して自然に私にアナ系の思想を持ち込んだことが近い契機の一つとなったともいえよう138。
「教員組合啓明会の雑誌や出版物に加勢して」いた「K」とは、下中のもとで働いていた夫の憲三であることは、いうまでもありません。そのおよそ四年後の一九三〇(昭和五)年一月に解放社から上梓される自叙伝的小説である『黒い女』のなかに、夫婦の会話部分が出てきますが、逸枝は、そのひとつを、こう描写します。
『俺はお前も知つてゐる通り、小作人の子だ。お前はお前で、もつと酷い者の子だ。だから俺達は當然、階級といふものを勉強しなくてはならん』 こうして彼らは、事物に關し二つの相反する意見といふものを持ちはじめた139。
さらに、『黒い女』に出てくる夫婦の会話には、このように描写された箇所もあります。
彼女は夫がおぼえてきて歌ふあらゆる歌を世界のどんな歌よりも早くおぼえてそれを歌ふのであつた。 『そんな歌わらはれるよ。男はいいけど』 と時々夫が夫そつくりの調子で歌つてゐる妻を見ながらいふ。 『だつて……』 と妻はつぶやく。 『あたしそんなら何を歌へばいいの』 そして涙ぐむ140。
この会話から、夫が、いま世間のはやり歌を家に持ち帰り、それを妻に歌って聞かせると、すばやくそれを覚えた妻は、何と誰よりもうまくその歌を歌い出す、といった情景が目に浮かびます。つまり、社長である下中の思想や哲学に共感するとともに、仕事上、新聞雑誌をにぎわす時事問題に積極的に目を向ける憲三が、そうした新鮮な取り立ての情報を家に持ち帰り、逸枝に話して聞かせると、いつのまにか逸枝は、それを自分の言葉で話すようになるのです。つまり、すでに引用で示していますように、逸枝は、憲三を通して「社会」を見ているのです。時事詩集『東京は熱病にかゝつてゐる』は、そうした過程のなかにあって生み出された作品であったと思われます。以上の論述からも明らかなように、逸枝の「詩人」から「アナーキスト」へと歩み出すうえでの道を用意したのは、黒子としての夫の憲三だったことは、ほぼ間違いないものと思われます。
逸枝も積極的に関わった『女人藝術』誌上での「アナ・ボル論争」を経て、一九三〇(昭和五)年一月二六日に、平塚らいてうを含む一四名の創設会員が参画して無産婦人芸術連盟が結成されました。続く三月一日に、主宰者を逸枝とする機関誌『婦人戦線』が産声を上げます。ここに「アナーキスト高群逸枝」の独自の舞台が誕生するのです。
無産婦人芸術連盟の会合や『婦人戦線』の編集作業は、逸枝と憲三の住まいである上荻窪の家で行なわれました。のちに憲三は、詩人で女性史家の堀場清子の質問に答えて、当時の様子をこう語ります。
「『婦人戦線』の誌名は、どなたの命名でしょうか」。「私です」。「『婦人戦線』の表紙やデザインはどなたでしょうか」。「『婦人戦線』の表紙や目次づくり、内容のわりつけ(つまり編集)も全部私が彼女を代行しました。みんな私の好みです。編集会議だけ毎号会員でやりました」。『婦人戦線』創刊号に掲載されている、無産婦人芸術連盟の三つの「綱領」つまり「創刊宣言」について、堀場が質問します。「これは橋本さんがお書きになったものだと、いつぞやうかがいました。その他同雑誌に、橋本さんはどれくらいお書きになりましたか」。「書かない。一つといっていい。社告の類は私。三綱領は私がつくり、彼女が修正したもの。編集会議にかけたとき誰も発言しないので、それでは引っこめましょうかと私がいったら、らいてうさんが、私はたいへんいいと思いますと言われたので、採用となりました」141。このように、『婦人戦線』の刊行には、憲三が深くかかわっていたことがわかります。
次に移ります。ふたつ目の視点は、逸枝が女性史学を創業するに当たっての憲三の役割についてです。
一九三一(昭和六)年の六月号(通計一六号)をもって『婦人戦線』は休刊となります。事実上の廃刊です。幾つかの理由が考えられますが、全体としていえることは、憲三のアナーキズムに対する熱意が薄れてしまったことにありました。次は、逸枝の証言です。
『婦人戦線』の月例研究会や『農民』との合同研究会等に出席することは有益なものだった。ことに『農民』の会には各地域の農民たちが出席していて、彼らの先鋭な息吹きに接することができ教えられることが多かった。……私は革命者でなければならなかった。ところが私がこの転機に直面し、いわばウルトラの自分に良心の苛責を感ずるようになってくるにつれて、それと反比例してKの興味は去っていくようだった。私は彼をともに会合に出るように誘ったが、彼は、 「ひとりで行きなさい」 と突きはなした142。
ここに、明らかに憲三の一方的で自己中心的な行動をかいま見ることができます。
『婦人戦線』の発刊へ逸枝が参画するに当たっては、特別な事情が背後にありました。逸枝は、このように振り返ります。上荻窪に引っ越した当時、「私はここで雑文書きのかたわら、婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史の研究に着手するはずだった」143。「[一九二九年の]年末に、私ははじめて印刷した年賀ハガキをつくり、前に述べた研究著述の計画を発表し、知人の援助をもとめた。だが運命はなお私には酷だった。それを投函した直後の十二月三十日に前から話のあった解放社からの『婦人戦線』発刊のことが決定したという通知があり、私の新コースに大きな番狂わせがもたらされることになってしまったのだった」144。「はじめ私はこんな雑誌を出すことにも、私が主宰者になることにもひどく尻込みした。私はアナキズムについてはまだほとんど知識を欠いており、『その他大ぜい』ぐみの一人として研究していきたい段階にあったからだった。だがKのすすめもあり、四囲の状勢からも要請されるはめになって承諾せざるを得なかった」145。
ここからわかることは、もともと逸枝は、『婦人戦線』を創刊して自分が主宰者になることに、極めて消極的であったということです。そこには、夫の思いがまずあり、やむを得ず妻は、それに同調したという、ある意味で、ここにおいても「エゴイズム」と「曲従」が絡み合っていたようです。しかしその一方で、逸枝の「私はアナキズムについてはまだほとんど知識を欠いており、『その他大ぜい』ぐみの一人として研究していきたい段階にあった」という言説に、全幅の信頼を置くこともまたできません。といいますのも、そのおよそ数年前の一九二六(昭和二)年四月に『戀愛創生』を上梓するのですが、そのなかで逸枝は、アナーキズムについて詳述しており、決して「『その他大ぜい』ぐみの一人」ではなかったからです。
『婦人戦線』を廃刊にするとき、憲三は逸枝に、こういいました。「あなたの才能は非凡だ。稀有のものだ。それはむしろ天来のものだ。私はそれをこの眼でみてきた。才能のみでなく、性格の底知れぬ純粋さも」146。「社会運動はロマンチシズムではいけないと思う。また、各人にはそれぞれ長所がある。その長所をもって貢献すべきだと思う。あなたの長所と使命とは、長い年月、あなたのなかに蓄積せられてきた女性史の体系化だ。生活は私が保証する」147。このとき逸枝は、「もちろん感謝のあまりいつものくせで泣いてしまった」148のでした。
なぜ「泣いてしまった」のでしょうか。上荻窪に転居したころ、「婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史の研究に着手するはずだった」逸枝は、そのことについて、次のようなことを書いているからです。以下に、引用します。
これは守富時代のたけくらべのころ、熊本の女学生時代のころ、弥次海岸の憲平ちゃん妊娠のころ以来、私に芽ばえ、そして私が持ちつづけてきた学問的欲求で、社会的開眼とともにいよいよ拡大されていたものだったが、夫婦生活を重くみる私の傾向から、この欲求がKとの融合をそこねることにならないようにねがっていたので、これはひどく控え目な、表面化さ[せ]ないかたちを取っていた。Kが自然にこの欲求に気づき、擁護者とならないかぎりは、私はあえてそれを彼の前に切り出そうともしなかった149。
高等小学校を卒業するころ、大学に進学したいという思いを父親にいえなかったように、このときもまた逸枝は、女性史学者の道へと歩み出す欲求を夫に伝えきれずに、差し控えていたようです。しかし、自身の「新コースに大きな番狂わせがもたらされることになってしまった」いま、「あなたの長所と使命とは、長い年月、あなたのなかに蓄積せられてきた女性史の体系化だ。生活は私が保証する」という憲三の言葉を聞き、その感動が逸枝に涙を流させたのでした。これもまた、「夫婦生活を重くみる私の傾向」がもたらした「曲従」ないしは「優柔不断」の一側面であり、同時に、苦から楽へと向かう、いわば「月漸く昇れり」の一場面だったのかもしれません。かくして、このころから、憲三は、徹頭徹尾、逸枝の学問を支える側に回ることになるのです。ここに、「エゴイスト」から離れ「擁護者」たる憲三が出現する瞬間があったのでした。
そこで、それにかかわる最後の三つ目の視点として、以下に、逸枝が女性史学者として実際に活動するなかでの憲三の役割について述べてみます。
『婦人戦線』を廃刊にすると、一九三一(昭和六)年七月、逸枝と憲三は、軽部仙太郎から借り受けた二〇〇坪の土地に、これも軽部から提供された建築資材を再利用して、「森の家」と呼ばれる住居兼仕事部屋を建築し、そこへ移り住むことになります。のちにこの家は、「研究所」という呼称でも知られるようになります。ここにこうして借家住まいが終わり、新築された自宅に書斎が設けられ、いよいよ逸枝の学者としての研究生活がはじまりました。このとき逸枝は、三七歳になっていました。逸枝はこういいます。
こうして、私は夫のつよい心からのすすめもあって、意を決し、ここに過去いっさいの生活をふりきって、おそろしい未知の世界にはいっていったのであった150。
次もまた、逸枝の言葉です。
この物すごいエゴイストは興味のない事柄や人物には冷淡だが、決意したことにはさりげない誓いのうちにも、私を心のずいから信頼させるものを持っていた。私はいまは遠慮なくそれに依存しようと思った151。
すでに引用していますように、逸枝が『婦人戦線』の主宰者になるのは、「Kのすすめもあり、四囲の状勢からも要請されるはめになって承諾せざるを得なかった」事情がありました。また、女性史の歴史家になるのも、「夫のつよい心からのすすめもあって」のことでした。夫たる憲三は、「私を心のずいから信頼させるものを持っていた」のでした。一連のこの事象を、逸枝の主体性の欠如とみることも可能でしょうし、他方で、憲三の立場に立てば、自主的な「法治主義」の発揮ととらえることも可能です。逸枝が指摘するように、それをもって憲三を、確かに「エゴイスト」と呼ぶこともできるかもしれません。憲三は、自身のこの「本性」を「法治主義」という用語で呼んでいます。逸枝と大きく異なり、おそらく憲三には、真偽、善悪、美醜のそれぞれについて独自の法規範、つまりは判断基準があり、それにより自分の生活全般を律する性格が憲三に備わっていたにちがいありません。逸枝が亡くなったあと、憲三が『高群逸枝全集』の編集をするなかにあって「森の家」に滞在した石牟礼道子は、憲三のこうした「法治主義」を、次のように観察する機会をもちました。
……先生は、ご自分の感受性までも、「法治主義」で律しようとなさっていた。法治主義でしばってもあふれ出てしまう分の始末に困ると、先生は高くほがらかな声で、よく笑い出されてしまう。溢れ出た感性をまた法治主義でつないで、全集の編纂が出来あがる。男の感性は、水に似たところがある、とわたくしは観察したりする152。
汲んでも汲んでも尽きることなく湧いて出る「男の感性は、水に似たところがある」、この自然の理こそが、道子が観察する、憲三のエゴイズム、換言すれば「法治主義」の内実でした。しかし、一方の逸枝自身にも、将来の希望にかかわってエゴイズムが内在していました。それに関連して、「火の国の女の日記」に現われている、逸枝が憲三に語りかける箇所がありますので、以下に引用します。
でも私には長所なんてものはないの。だから長所をもって貢献するという自信もないの。ただ私の希望を率直にいうなら、それは私が将来有名な学者になることではなく、生涯無名の一坑夫に終わることなの。これはもちろん一種のエゴイズムでしょう153。
つまり、これもまた、逸枝にとっての自然の理ということになるでしょう。ここにあって、単なる夫婦の表層的愛を越えた、立場の異なるふたりの内面から溢れ出るエゴが向かい合っているのです。このふたつのエゴの認め合いが、おそらく、その後の両者の愛の一体化につながっていったものと思料します。
水の流れに似て、しかしここで一転、憲三は、これまでの自分の男としての生き方に修正を加えます。
ボクはね、男の一生を棒に振って女房につくした、という風におもわれているのですよ。僕は家庭爆破に、いささかの協力をしただけですよ。かといって僕たちはとくにボクは、家庭の遺制、つまり男権社会の遺制の中に育ったから、とくにボクはそれをひきずっていたから、一度これを爆破しなければ、女性は、全面的に生れ替ることはできない。それが自分の体験でよくわかるのです154。
次もまた、憲三が道子に語った言葉です。
あのひとは、あのひとの心は、人類とともにいつもあって、僕はそれをおもう……彼女はやはり天才者だった……。彼女は三十七歳で研究にはいったが、僕はもっと早く準備をしてやれたらなおよかったと思う。もっと早く気づくべきだった……155。
かくして、「教育者」であり「投資家」である夫と、「労働者」であり「開拓者」である妻の相互信頼関係の上に成り立つ、逸枝の「女性の歴史」研究が、ここ「森の家」において開幕したのでした。
晩年、逸枝は、自分の性格について、こうしたことを漏らしています。
私は自分に自信がなく、ひとに対して依頼心と依存心があり、自分自身だけでは考えを 発展させることができないのをなんとしよう。ここに私の夫への奴隷根性があるのだろう156。
そうであれば、逸枝を取り巻く悲しみや苦しみは、部分的には、内在する「依頼心と依存心」とに起因する自己の「奴隷根性」から派生するところの、主体性の欠如にかかわる、一種の自己憐憫の情だったにちがいありません。換言すれば、逸枝が使用する「優柔不断」や「曲従」、あるいは「奴隷根性」という一種の絶対的言辞は、生まれながらにして逸枝が持ち合わせていた主体性の欠如、いわば、動かしがたい、取り換えることが不可能な本質的な自身の内的側面を言い表わす用語であったということになります。にもかかわらず、逸枝没後の後世にあっては、この言葉の用例を、憲三の強い支配欲によって、意に反して受け入れざるを得なかった逸枝の屈辱を示す根拠として利用する研究者もいます157。しかし私は、上において例証してきましたように、その立場に立つことはできません。むしろ逸枝は、その用語をもって率直に自己の欠点として認識し、同時に、反省の材料として常に自覚していたのでした。
もっとも逸枝は、自らのその性格を、逆に積極的に利用することもありました。以下に、それについて二例紹介します。
ひとつ目の事例です。
一九三六(昭和一一)年の一〇月、厚生閣により『大日本女性人名辭書』が上梓されました。「森の家」で執筆活動に入っての、最初の逸枝の著作です。その巻末の「跋」には、こう記されています。
黨地に引籠りましてより足掛六年、其間専念致して参りました著述の一部を『大日本女性人名辭書』と題しまして、刊行の運びとなりました事に就きましては、勿論私一人の力の能する處では無く、内にありては家主の庇護、指導に基づく所多く、外にあつては先輩知友の御聲援、御教導に歸すべき事は申すまでも御座いません158。
「家主の庇護、指導」とは、何を意味するのでしょうか。石牟礼道子は、「『大日本女性人名辞典(ママ)』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった」159と、指摘しています。もしこれが事実であるならば、この書籍はもはや逸枝単独の作ではなく、事実上、逸枝と憲三の共作ということになります。
次にふたつ目の事例です。
晩年、憲三自身、こう語っています。
彼女は起稿のとき、新しい原稿用紙に向かって、私に第一章の題目を書かせる。最初のとき、あなたの原稿の書きはじめを、なんで私がしなくてはならないのですか、と文句をいうと、 「あなたが題目を書いてくだされば、本文がらく(・・)に書き出せるのよ」 といった160。
さらに憲三は、こうしたことは「『招婿婚の研究』の原稿からであったらしい。……ただ、彼女は雑文の原稿にも、よくこの題目を書かせたから、この習慣は早く熟していたのかも知れない」161と書きます。そうであれば、『招婿婚の研究』の執筆に逸枝が入るのが、『大日本女性史 母系制の研究』が上梓された一九三八(昭和一三)年のすぐあとのことですので、すでにこの時期までにあって、舞台演劇やテレビドラマにおける演出家と表現者の関係に似て、「教育者」かつ「投資家」である夫の橋本憲三と、「労働者」かつ「開拓者」である妻の高群逸枝との、分かちがたく一体となった著述を巡る産出関係が成立していたことになります。
上に挙げたふたつの事例をあたかも総括するかのような、逸枝の言説が残されていますので、紹介します。以下の引用は、憲三の妹の静子に宛てて書かれた逸枝の手紙の下書きのなかにみられる一節です。
主人のすゝめで、いまの仕事をはじめた時から、私は一身上の娯楽も名利心もすてゝしまい、戸外一歩も出ないで暮しています。主人は私にあらゆることを教え、指導し、また日本にない「女性史」を二人で一生かゝって書き上げようとしているのです。だからこの仕事は、名前は私ですが、主人と私の合作です162。
このように逸枝は、「森の家」での一連の自身の女性史研究が、夫である憲三との「合作」として成り立っていることを自覚しています。この境地に至って、あるいは、正確な現実認識を通して、ついに終局的に、「エゴイズム」や「悪魔主義」の用語にみられた憲三の他者存在への無理解は消滅し、他方、「優柔不断」や「曲従」の用語にみられた逸枝の他者から受ける被害者意識も消え去ったように見えます。どうやら推量するに、すでにこのときまでに、自己と他者とのあいだに存する対立的二項関係が昇華し、それに取って代わって、二者の調和的合一関係が形成されていたように思われます。そして、同時にここにあって、逸枝の内面を支配する「依頼心と依存心」に対しての憲三の理解ある許容と、加えて、「家庭の遺制、つまり男権社会の遺制」に対しての、「法治主義」による憲三の自主的破壊行為とが、背後で有効に作動していたこともまた、明らかなように思われます。
すでに述べましたように、城内校での新婚生活において体験した「曲従」は、逸枝に「感情革命」をもたらし、その結果、大量の詩の産出を可能にしました。それから十数年が立ち、ふたりは、第二弾の「感情革命」とでも呼べる、「家庭の遺制」にかかわる解体作業を成し遂げるのです。つまりそれは、封建的家族制度の破壊にほかなりません。換言すればそれは、それまで女性たる逸枝の内面に眠っていた本能的で潜在的な才能の掘り起こしであり、他方で、男性たる憲三にしみついていた自明で固有の性分の塗り替えを意味しました。それを可能にした一要素として、逸枝の「正義感の情動」があったことはいうまでもなく、そこで、続けて次に、逸枝のその性格について概観してみたいと思います。
一九三〇(昭和五)年四月刊行の『婦人戦線』第二号に、逸枝は「家庭否定論」を書きました。逸枝は、文字の成り立ちからすると「家」という字は豚小屋を表わし、古来中国において常食としていた豚とともに生きる人のいる場所を意味し、「家財」は自分の所有物、すなわち妻子財産を指すことを明らかにし、その「自分」こそが「男」その人であるとの論理を展開します。つまり、「家」を支配し「財」を所有しているのが男性であり、女性はその「財」の一部でしかないというのが、逸枝の見解であり、それは、次のような主張へとつながります。
そこで目ざめた婦人は、「家庭をケトバス」ことが唯一の最上の手段であることを知つた。 家庭とは何か。元來それは豚小屋と刑務所を意味してゐるではないか163。
それに対して、夫の憲三は、すでに引用していますように、「ボクはね、男の一生を棒に振って女房につくした、という風におもわれているのですよ。僕は家庭爆破に、いささかの協力をしただけですよ」と、述べています。逸枝は「家庭をケトバス」という言葉を使い、憲三は「家庭爆破」といいます。ともに意味するところは、旧い家制度に基づく夫婦の関係を破壊することです。その結果、逸枝は、女性史研究に専念し、一方の憲三は、家事のみならず、逸枝が書く原稿の整理や管理に、力を注ぐことになります。「家庭をケトバス」という観念は、すでにその五年前に世に出た時事詩集である『東京は熱病にかゝつてゐる』のなかに現われています。
所有被所有の雰圍氣は、 この社會の社會的雰圍氣の中心。 勞働者は資本家に。 小作人は地主に。 妻は夫に164。 識者等よ。自覺せよ。 現在の不合理な社會を、 根柢から打破するには、 不合理な家庭、 家庭のなかの不合理な雰圍氣を、 このまゝにして置いてはならぬ。 雰圍氣とは何。 例へば妻のする仕事を夫がしたり、 加勢したりするのを、 恥ぢるやうな165。
夫婦における「所有被所有」の関係や「家庭のなかの不合理な雰圍氣」を「ケトバス」点において、私は、逸枝の正義感の発露を見ます。同時に、憲三が「家庭爆破に、いささかの協力をした」という点において、「フェミニスト」憲三の出現を見ます。つまり、もはや憲三は、「例へば妻のする仕事を夫がしたり、加勢したりするのを、恥ぢるやうな」夫ではないのです。後者の、憲三にみられるフェミニスト誕生につきましては、少しこの場の論点から外れますので横に置くとして、ここでは、前者の「正義感の情動、あるいは他者への奉仕精神」という既定の文脈に沿って、逸枝にみられるこの気質なり性格なりを跡づけてみたいと思います。
逸枝の正義感や奉仕精神にかかわって資料に残るおそらく最初の事例は、次のようなものではないでしょうか。逸枝が下益城北部高等小学校に入ったころのことです。偏見や不公正さに対して怒りの気持ちを表に出す出来事がありました。
この地域では、ホウセンカ(鳳仙花)のことを、ツマグレ(爪紅)と呼び、女の子たちはこの花で爪を染めて遊びました。しかし、久具や守富では、この花は別名「ツボバン」と言い慣わされていました。逸枝が高等小学校に入ったころ、川尻や高江の地区から通ってくる子たちは、その名を田舎言葉であるとして、軽蔑しました。しかし逸枝は、久具時代に母親から、それは「坪花」のことであり、「坪」は昔都では庭を意味していたことを聞かされていたので、猛然と反発しました。逸枝はいいます。
私はこのへんから学問が偏見を破る大きな武器であることを知った。また田舎言葉とか都言葉とかいっても、起源は平等であり、この原理は言葉のみではなく、その他のいっさいに推及してあてはめられるという理解をも少しずつ育てていった。あらゆる固定観念や既成観念への不信もこのへんから大きくなっていった166。
このような幼少期の体験を踏まえて成人に達したのちに、逸枝が、これまで歴史家といえばもっぱら男性であり、その人が書く歴史のほとんどすべては男性の歴史であるという揺るぎない現状に反発し、女性の歴史家が女性の歴史を書くことに自身自らが乗り出してゆくことになったとしても、それになんらの疑問を差し挟む余地はないように思われます。
自身の学問への憧れについて、逸枝は、こうした言葉を残しています。
人生は刑罰に満ちてゐた。何處から何處まで辛いことばかりだつた。 けれど、けれど、 『妾に学問があるなら……』 朝になると學校の鐘が鳴る。…… 私の心は、長い間、學校へ憧れた。それを人がわらつた167。
次に、このような幼少期の逸話も残っています。
私には小さいころから一つの傾向はあった。それは「世のために」自分を役立たせたいという情熱である。父が「熊本貧児寮」をたてた塘林虎五郎というひとの伝記を読むのをきいて涙をながしたことがある。小学校のとき、希望を問われて「新聞記者」と書いて出したのも、新聞記者の公共性に意味を感じたからであり、小学校を出てからのある日、まじめに母に相談したのに、貧民街に嫁入りたいという一事がある。……これらの傾向をもつ私に対して、周囲はかえって「奇妙な子」あつかいにしたようである。新聞記者では先生に茶化され、嫁入話では母にへんにまちがってとられたし、私のまじめな意見は正解されないことが多かった168。
実際に逸枝は、小学校を卒業して熊本で暮らし始め、親から送られてくる学費を月々受け取るようになると、「すぐ第一に、金二十銭也を為替にくんで、塘林先生の貧児寮に送った」169と書いていますし、他方で、小学校を卒業して九年ほど立ったのち、結果は失敗に終わったものの、実際に新聞記者を志して面接を受けたこともありました。しかし、「世のために」という逸枝の思いは、これで燃え尽きたわけではなく、まさしくその熱情は、「清貧に生きる学者」という生業に、その後向けられていったといっても過言ではないでしょう。その後「世のために」は、さらに昇華して「人類のために」、という最終的理念へとつながった可能性さえ否定できないかもしれません。もっとも、「奇妙な子」という他者の視線には、変わりがなかったかもしれませんが。
一九一〇(明治四三)年の暮れ、在籍していた熊本師範学校から退学通知が届きました。脚気による長期にわたる不登校と、不得意な体操、作法、裁縫の授業への不参加などがその主な理由としてありました。このときの逸枝の心境は、次のようなものでした。「ああ病弱の敗残児何の用にか立たん。これも運命か。いな不甲斐なければなり。咄咄!不運児いな貧弱児」170。
年が明けた一九一一(明治四四)年一月、「不運児いな貧弱児」たる逸枝は一七歳の誕生日を迎えました。おそらくお祝いどころではなかったでしょう。「私は……師範退学後の絶望的状況にあって心の根拠をも見失おうとしていた。何よりも苦しかったことは、愛の心が弱まり、孤独という冷酷な事実に直面したことにあったと思う」171。逸枝にとってこの年は、何にも属さない、悲哀に満ちた浪人生としての一年でした。しかし、別の観点に立てば、この年は、逸枝にとって極めて重大な意味をもつ一年でもありました。
この年、都会では大きな出来事が起こりました。それは、ひとつには、「大逆事件」における死刑の執行であり、いまひとつには、『青鞜』の創刊でした。
捏造された「天皇暗殺計画」を理由に、社会主義者や無政府主義者の二六人が前年に逮捕されると、翌年の一九一一(明治四四)年一月、大審院は、逮捕者全員に有罪の判決を言い渡し、『平民新聞』を創刊した幸徳秋水を含む一二人に対して、大逆罪での死刑が執行されたのでした。いわゆる「大逆事件」です。死刑の犠牲者のなかに、同郷の新美卯一郎と松尾卯一太がいました。ふたりとも、熊本県尋常中学校(一九〇一年に熊本県立中学済々黌に改称)の卒業生でした。前に引用に使った文になりますが、逸枝は、こう回顧します。
私がアナキズムにひかれたのは書物からではなく、大逆事件に私の故郷から無実と思われる犠牲者たちを出したことが火の国の娘の胸を打ったのが遠い動因の一つであり、またKが下中さんの教員組合啓明会の雑誌や出版物に加勢して自然に私にアナ系の思想を持ち込んだことが近い契機の一つとなったともいえよう172。
逸枝が述べるように、この事件が、自身がアナーキズム(無政府主義)へと向かう遠因となるものでした。
もうひとつの出来事は、この年の九月、平塚らいてうの手によって『青鞜』が創刊されたことでした。『青鞜』第一巻第一号所収の「元始女性は太陽であつた。――青鞜發刊に際して――」は、次の言葉ではじまっていました。らいてうによる文です。
元始、女性は實に太陽であつた。真正の人であつた。 今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。 偖てこゝに「青鞜」は初聲を上げた173。
『青鞜』の創刊、そして「元始女性は太陽であつた」ではじまる発刊の辞は、のちの逸枝が告白しているように、らいてうをもってして自分の妣(母)とみなすきっかけとなる事件でした。そしてまた、逸枝が「母系制の研究」へと向かう大きな原動力となるものでもあったのです。
さらに逸枝は成長し、異性を愛する年頃になりました。
逸枝の「愛の黎明 一、告白」が『九州新聞』七面に姿を現わすのは、一九一九(大正八)年一月二二日のことでした。その日から休載なく四日間、「愛の黎明 二、第一の戀人に」(一月二三日七面)、「愛の黎明 三、第二の戀人に」(一月二四日七面)、「愛の黎明 四、第一の青年に」(一月二五日七面)、「愛の黎明 五、第二の青年に」(一月二六日七面)が『九州新聞』に連載されてゆきます。憲三は、この月の一〇日に二二歳の、逸枝はこの月の一八日に二五歳の誕生日を迎えました。
さて、五回にわたって連載された「愛の黎明」ですが、「愛の黎明 一、告白」は、自身の考える愛についての独白に近いものとなっています。「――樣」あるいは「――さま」という見出し語で、形式的には四節に分けて構成されていますが、特定の人物を念頭に置いて書かれたものなのか、広く一般的な読み手が想定されているのかは、判断がつきかねます。内容的には、ある種空想的な「人類愛」ないしは「平等愛」を語っているように読めます。それでは「愛の黎明 一、告白」のなかから、注意を引く語句を選択して、以下に並べてみます。
――樣 お芝居を書いてゐるのぢや無いかなんて、一方では呆けてゐるんで御座いますのよ。 ――様 私は、生涯獨身です、生涯孤獨です。……おゝ!粛然たる「愛の黎明」 私は正に愛の、女神で有る。 私の胸には感激の烈しい涙が音を立てゝ流れてゐる。 ――さま でも、私の恁うした「愛」が、(世の中のすべてを、一切平等に愛しようと願ふ「愛」が)既に地上の人々――殊に若い幸福な人々――に取っては、如何に忘られ勝ちなもので有るかと云ふ事に就て私は少しも悲しいとは思ひませぬ。 のみならず、私は、さうした凡ての人々に取って一つの隠れ家で有りたいとさへ望んで居りますので御座います。 ――さま 私の「隠れ家」は地球上で最も安全な最も幸福な――に違ひありません。私は逃げ込んで來る罪人や負傷者・・・・恁うした私の友人や元氣よく訪づれる秀才、佳人・・・・恁うした私の友人に對して常に温い食べ物と美しい灯りとを用意する事に忠實で有らねばなりません。
続く「愛の黎明 二、第一の戀人に」、「愛の黎明 三、第二の戀人に」、「愛の黎明 四、第一の青年に」、そして最後の「愛の黎明 五、第二の青年に」は、明らかに特定の男性に呼びかける文になっています。「第一の戀人」は、間違いなく憲三でしょう。そして「第二の戀人」は、四国巡礼を前にして、逸枝に血書を送った青年を指すでしょう。しかし、「第一の青年」と「第二の青年」については、その詳細は不明です。おそらくは、逸枝の書く「娘巡禮記」を読んで共感を抱いた男性なり、四国巡礼の途中で知り合った男性なり、そのような人物だったのではないかと考えられます。
この引用からわかることは、逸枝は生涯独身を貫く、愛の女神であることを望み、自分のところに逃げ込んでくる、罪や傷を負った男たちの「隠れ家」となって、常に忠実に、温い食べ物と美しい灯りとを用意することを望んでいることです。
この「愛の黎明」を、逸枝がのちに書く、以下の詩と結び付けて鑑賞することも可能かもしれません。
お祭の夜には 若い男女の 自由戀愛が許される 若い衆はくじ引をして 女をきめる 女は従順(すなを)にお化粧をして それを待つてゐる174。
上の詩は、生田長江が逸枝を「天才者」と評したときの詩集「日月の上に」に現われている一節です。原郷「火の国」に伝わる、幼き日に見聞きした遺俗なのでしょう。逸枝は、原始母系制の残照をここに見出していたのかもしれません。他方で、「愛の黎明」の内容との対照においてこの詩を読むと、逸枝の内部に、いわゆる「一妻多夫」への願望が隠されていると見ることも可能かもしれません。のちに逸枝は、このような言葉で、そのことを示唆しています。
女にも多夫本能がないわけではないが、それは一夫性と同様に純潔なものであるべきで、ある特定の男を踏み台にしての多夫関係、いわゆるよろめき関係は、女にとってはある場合の過誤でしかなく、本質ではない。多夫なら原始の女性のように婚姻制を廃絶した自由な境地でのそれであらねばならない。人類の歴史があるいはそれに向かって進化していくだろうことは考えられるが、それは後に私が婚姻史-『招婿婚の研究』、『日本婚姻史』-や、女性史-『女性の歴史』(全四巻)-つまり、学問の問題として追及したもので、現在の段階では純潔な恋愛を生かした夫婦のみが、理想社会へのプロセスの一つとして好ましいものと考えることができよう。そうでなければむしろ独身主義に徹すべきだろう175。
一九一六(大正五)年に『青鞜』は終刊を迎えました。この間逸枝は、『青鞜』の論調に影響を受けていたものと思われます。それというのも、この時期、「女性論」への開眼が認められるからです。その主張は、「婦人時言」と題して『九州日日新聞』に登場します。これは四回の連載物で、一九一九(大正八)年一二月九日六面の「一、分裂」にはじまり、休載なく、翌一〇日六面の「二、自覺」、一一日六面の「三、智識」、そして一二日六面の「四、自由」をもって完結します。それでは「婦人時言」から、各回の柱となる部分を以下に短く引用して、逸枝の主張するところを構成してみたいと思います。
昔婦人は槪して社會的にも家庭的にも一般道徳から考へて見て奇麗に解決が着いて居た[。]夫れが色々の原因から少しづゝ破壊されて光と闇とが同時に押し寄せて來た。……今や直覺の夫れ自身と他より投影されたる夫自身の複雜微妙な關係や其の關係を諦視せむとする夫れ自身の努力は吾々をして底知れぬ深淵へ投込つゝ有るのです。[「一、分裂」より抜粋] 第一生きてゐる事を吾々は知つてゐますか、なぜ母性保護の必要が有るのです、なぜ選擧權獲得の必要があるのです、なぜ騒いでゐるのです、一番恐ろしい事は未だに混亂し分裂し苦悶しつゝある内部的不安が外界の露骨な潮流に餘儀なくされて器械化し人形化し奴隷化して行く事です[。] [「二、自覺」より抜粋] 現在の吾々にとつては先づ何よりも智識です、と恁う申すのです。智識は一面から見て、もとより形式で有り手段で有りませう[。]然るに其の形式手段が所謂内容目的に及ぼす力、所謂内容目的を誘道啓發する力、所謂内容目的を新範疇にまで厖大せしめる力、もう一歩進んで所謂内容目的を構成し輪廓する力をお考へ下さい[。] [「三、智識」より抜粋] 斯の如く觀じ來れば自由とは卽ち一個の「自己保安」に基調する人間的主觀の概念で有つて常に正しき自己を中心とする篠理ある雰圍氣に外なりません[。]かゝる見地よりして吾々は飜へつて吾々婦人の現在生活に於ける自由を考へたいと存じます[。]……而も獨り個人的社會人的國民的立場に止まるのみならず藝術的天才哲學的偉人其他あらゆる異材の輩出を吾々婦人の間にも見出したいこと切望に耐へない次第で有ります[。] [「四、自由」より抜粋]
この「婦人時言」を読むと、この時点においてすでに、恋愛論と婦人論の展開へと向かう逸枝の道程が暗示されていることがわかります。のちに逸枝は、詩の形式を使って、このように表現します。
女たちは自覺をしてゐなかつたために、 泣き寝入をしてきた。 強い社會の雰圍氣がそれを押し流した。 けれども妾は押し流されはせぬ。 押し流すことが出來るものなら、 押し流して見よ。 妾のこの態度と自負を、 世間では誇大妄想だとしてゐる。 これは自然から得た態度と自負である176。
この詩片から、前をしっかりと見据える逸枝の決然たる姿勢を感じ取ることができます。これもまた、逸枝の正義感に由来するものでしょう。こうした姿勢の源泉を訪ねるならば、おそらく『九州日日新聞』に連載した、この「婦人時言」に行き着くものと思われます。
上の詩は、一九二五(大正一四)年に萬生閣から発刊された『東京は熱病にかゝつてゐる』から引用したものです。この詩集を読んだらいてうは、熱く燃え上がる逸枝の詩情にこころを打たれました。そのときの様子を、次のように告白します。
わたくしが高群さんの存在を知ったのは遅く、大正十五年ごろかとおもいます。ふとした機会に、高群さんの詩集「東京は熱病にかかってゐる」ほか、二、三の彼女の文章を読んだときから、わたくしの魂は、すっかりこのひとにつかまえられてしまいました。 初めて高群さんの著作にふれたとき、四、五日というものは、まるで恋人の姿や声やその言葉一つ一つが、たえず頭のなかを胸のなかを駆けまわるように、高群さんの詩句の断片で、わたくしの心は占められたかのようでした177。
さっそくらいてうは、逸枝に一筆書いて啓上しました。一九二六(大正一五)年の四月のある日、それを受け取って感動した逸枝は、近刊の『戀愛創生』を添えて、らいてうに一通の書簡を送ります。以下は、その一部です。
長い間今日を期待しておりました。あなたからのご伝言を承ることは私にとっては当然なことでございます。私はあなたを母胎として生まれてきたものでございますし、私ほどあなたのために、激昂したり、泣いたりしたものがございましょうか178。
逸枝はここに、「私はあなたを母胎として生まれてきたもの」と、はっきりといっています。つまり、逸枝が自覚する自身の妣君が、らいてう、その人なのです。そののち、石牟礼道子が自覚する自身の妣君が、高群逸枝であることを考えれば、ここに、三代にわたる妣の系譜のはじまりを見ることになります。
一九一一(明治四四)年に『青鞜』が創刊されたとき、逸枝はまだ一七歳の子どもでした。しかし、「新しい女」や「新しがる女」といった蔑称でもって世間から愚弄され、厳しく批判されることに触れた逸枝の魂は、怒りの炎に包まれていたのでした。逸枝の書簡は、次のように続きます。
「人はみな悪人です。私が子供であって、かたきをうつことの出来ないのをお許し下さい」と、私は早い頃、あなたに対していのっていました。それはもう早い昔、あなたが世間から憎まれていらっしゃる頃でした。 それから、事ごとに、あなたのために泣きました。それはもちろん私のためにでございます。私には、ひとの無知が、くるしかったのです179。
この文から想像できることは、どのようなことでしょうか。らいてうの苦しみを自分の苦しみとして引き受け、「かたきをうつ」ために、そしてまた「ひとの無知」を瓦解させるために、その後の逸枝の、女性史研究という険しい学問への道は用意されたのではないか、そのようなことが想像できるのではないでしょうか。つまり、この文が暗示しているのは、らいてうが『青鞜』の創刊の辞として発した「元始、女性は實に太陽であつた」という仮説を、学問としてはっきりと実証してみたいという、逸枝の胸に深く刻まれた思いではなかったのか、そのような気がします。そうであれば、このときすでに逸枝には、詩人から学者へと向かう己の必然的な道筋が明確に見えていたにちがいありません。
想起すれば、高等小学校時代に逸枝は、ホウセンカ(鳳仙花)の呼称を巡って、他地域の子どもたちから笑いものにされるといったつらい経験をもちました。そのときの逸枝の心情は、すでに引用によって示していますように、それとほぼ同じ、次のようなものでした。
私は学問が偏見を破る大きな武器であることを知った。また田舎言葉とか都言葉とかいっても、起源は平等であり、この原理は言葉のみでなく、その他のいっさいに推及して当てはめられるという理解にもたっした。固定観念や既成観念への、火の国女性的なたたかいも、このへんからはじまった180。
『青鞜』やらいてうに対する世間からの無知に由来する批判を目にするにつけて、逸枝の内面にあって、上の引用文のごとき、火の国の女がもつ正義感と義侠心が炸裂したものと思われます。ここに、詩人としての熱い感性を携えて、学者固有の、冷徹なる知の産出へと向かう、逸枝の、その瞬間的契機を見るような思いがします。いま見ている家父長主義的な家族制度も、また同じく婚姻制度も、太古の昔から不変的に継承されてきた不動のものであろうか、それは固定観念であり既成観念ではなかろうか、その前に、らいてうがいうように、「元始、女性は實に太陽であつた。真正の人であつた」ような「女の時代」が存在していたのではなかろうか、逸枝の「火の国女性的なたたかい」は、ここに焦点をあててはじまるのでした。つまり、らいてうが仮説を提唱し、それを逸枝が実証する、ちょうど理論物理学と実験物理学の関係に似た、まさしくそうした内的関係にあって、逸枝の「女性の歴史」は構想され、その後実を結んでゆくことになるのです。その一方で、生前の逸枝とらいてうの関係はいうまでもなく、逸枝が亡くなったあとも、らいてうが死去するまで、遺された憲三とらいてうとのあいだで温もりある交流が続きます。陰にあって、壮大な人間ドラマがかくして繰り広げられてゆくことになるのです。私たちは、この点についても目を向ける必要があります。といいますのも、らいてう、逸枝、憲三の緊密な三人の友愛的な存在がなければ、この国における女性史研究は、大幅に立ち遅れていたと思われるからです。
らいてうは、『婦人戦線』を主宰していたころの逸枝をこう評します。
そのころ――いいえ、その後も終始、高群逸枝さんほど、わたくしを惹きつけたひとはありません。ただ、もう無性に好きなひとでした。……高群さんがわたくしを夢中にさせたのは、あの情熱、あの感情の動きと表現の自由さ、ユニークさ――それらを無限に内蔵している、高群さんという人間そのものの魅力でした181。
らいてうを惹きつけて止まない逸枝の「あの情熱、あの感情の動きと表現の自由さ、ユニークさ」に、私は、あの一途さも、あの正義感も、そして、あの奉仕の精神も加えていいものと承知します。
最後に、逸枝の正義感を最も象徴する一文を、少し長くなりますが、以下に引いておきます。「森の家」で女性史研究に入るときの決意を表わしており、この言葉が、学者としての逸枝の原動力となるものと考えていいのではないかと思量されます。
私はこのとき「歴史学」についてなんらの知識も持たなかった。ただ、男女の社会的地位がひじょうに不均等で、たとえば女子三従説にあらわれているようなみじめな境涯に女性がおとしいれられていること、そしてこれは男女生活ないし人類生活において決して幸福ではないとされて婦人運動などがおこっているが、それなら婦人自体の被圧迫史、つまり婦人がこんな状態になるまでの歴史がわかっているかというと、そうでないということに、私は不審と不満をもっていた。 もっとも女性史という名の本は、もういくつか出てはいた。しかし、それはいわゆる女訓的な烈女伝式のものか、興味本位の恋愛逸話のようなものが多く、婦人解放にとってなんら寄与しないのみか、反動的役割しかもっていない。婦人解放およびその運動の推進力となる女性史は、女性被圧迫の歴史を筋みちをたてて科学的に立証するものでなければならない。たとえばベーベルの婦人論がどんなに世界の婦人解放に資したか。ただあれはごく一般論で、日本のことはわからない。日本は日本の女性史をもたねばならない。こういう状態で私は仕事をはじめた。ひとがみたら笑止千万というほかなかったろう182。
この文から、逸枝の「女性の歴史」は、日本において最初に科学的に立証されるところの、女性被圧迫史として構想されていたことが、つまりは、男女の社会的地位の不均等さに対する正義感の情動として、あるいは、みじめな境涯におとしいれられている女性たちへの奉仕の精神から推進されようとしていたことが、理解できるのではないでしょうか。
(110)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、39頁。
(111)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、40頁。
(112)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(113)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、63頁。
(114)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、78頁。
(115)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、127頁。
(116)前掲『恋するものゝ道』、192-194頁。
(117)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、163頁。
(118)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、165頁。
(119)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(120)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、169頁。
(121)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、165頁。
(122)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、169-170頁。
(123)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、168頁。
(124)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、170頁。
(125)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(126)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(127)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、127頁。
(128)高群逸枝・橋本憲三補『火の国の女の日記』理論社、1965年(第1刷)、1頁。
(129)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、165頁。
(130)ハウプトマン『沈鐘』登張信一郎・泉鏡太郎訳、春陽堂、1908年、6-7頁。
(131)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、173頁。
(132)前掲『今昔の歌』、217-218頁。
(133)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、191頁。
(134)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、192頁。
(135)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、354頁(隠しノンブル)。
(136)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、419-420頁。
(137)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、354頁(隠しノンブル)。
(138)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、236頁。
(139)前掲『黒い女』、11頁。
(140)同『黒い女』、5頁。
(141)前掲『わが高群逸枝 下』、157-160頁。
(142)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、236-237頁。
(143)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、232頁。
(144)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、233頁。
(145)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、234頁。
(146)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、241頁。
(147)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、241-242頁。
(148)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、242頁。
(149)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、232頁。
(150)前掲『愛と孤独と』、10頁。
(151)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、242頁。
(152)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、94-95頁。
(153)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、242頁。
(154)石牟礼道子「最後の人1 序章 森の家日記(一)」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、22頁。
(155)石牟礼道子「最後の人4 序章 森の家日記(四)」『高群逸枝雑誌』第4号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年7月1日、23頁。
(156)前掲『今昔の歌』、46頁。
(157)これに関しましては、私の著作集23『残思余考――わがデザイン史論(下)』の第三部「高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子論」の第五話「伝記書法についてのメモ書き――高群逸枝の「曲従」に関する一言説に接して」を参照してください。
(158)前掲『大日本女性人名辭書』、「跋」の1頁。
(159)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、356頁。
(160)橋本憲三「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1971年4月1日、35頁。
(161)同「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、同頁。
(162)前掲『わが高群逸枝 下』、311頁。
(163)高群逸枝「家庭否定論」『婦人戦線』第1巻第2号、婦人戦線社、1930年、22頁。
(164)前掲『東京は熱病にかゝつてゐる』、392-393頁。
(166)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、394-395頁。
(166)前掲『今昔の歌』、96頁。
(167)前掲『黒い女』、61-62頁。
(168)前掲『愛と孤独と』、27-28頁。
(169)同『愛と孤独と』、33頁。
(170)前掲『今昔の歌』、125頁。
(171)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、97頁。
(172)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、236頁。
(173)らいてう「元始女性は太陽であつた。――青鞜發刊に際して――」『青鞜』第1巻第1号、1911年9月、37頁。
(174)前掲『日月の上に』、78頁。
(175)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、163-164頁。
(176)前掲『東京は熱病にかゝつてゐる』、384-385頁。
(177)前掲『元始、女性は太陽であった③』、305頁。
(178)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、233頁。
(179)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、同頁。
(180)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、62頁。
(181)前掲『元始、女性は太陽であった③』、305頁。
(182)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、245-246頁。