一九七四(昭和四九)年九月、早稲田大学教授の鹿野政直と妻で女性史家の堀場清子とのふたりが、橋本憲三が住む水俣を訪問しました。その二年後の一九七六(昭和五一)年五月に憲三が亡くなると、鹿野は追悼文「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」を『朝日新聞』に寄稿し、そのなかに「新しい男」の文字が現われるのです。以下にその文の一部を引用します。
わたくしは橋本氏に会って、氏がじつに編集者的な感覚に富んでいるのを発見したが、有能であったにちがいないその仕事をすてて、妻の仕事のささえ手にまわった。家事を一切ひきうけたばかりでなく、資料さがしにでかけ、生活設計をし、研究の方向に助言をあたえ、妻のかいたものの最初の読者となり批判者となった。さらに、おしよせる世間のまえに、一人でたちはだかった。彼女の作品には、今日ふつうに思われているよりはるかにふかく、その夫がかかわりあっている。橋本氏の編集者的な才能はその妻に向かって集中し、彼女のプロデューサーになった、というのがわたくしの観測である386。
そして末尾を、以下の文で締めくくります。
こういう生涯があったということに、やはりわたくしは、大正期のデモクラシーの機運の一端をみとめずにはいられない。そうして氏は、日本女性史に少なからず貢献をなしとげたのだった。と同時に、もし日本男性史(・・・)というものが書かれるとしたら、橋本氏は、既成の男性像を身をもって否定した人間として(否定のかたちは、必ずしもそれが唯一ではないにせよ)、いわば「新しい女」にたいする「新しい男」として、位置づけられるのが至当ではなかろうかと、わたくしは、氏をいたむ念とともに夢想する387。
これから一年が過ぎ、鹿野政直と堀場清子の共著で『高群逸枝』(朝日新聞社、一九七七年)が世に出ます。そのなかにあって堀場は、三年前に水俣を訪れた際に受けた憲三の印象を、こう書いていますので、その箇所を紹介します。
逸枝没後、すでに十年がたっている。その日の暮らしにも困るほど、貧しいのでもない。それでいて、亡妻をたたえ、その業績を顕彰するほかに、なに一つ眼中にない男というものを、私は珍しく眺めた。四十余年の日本の暮らしと、短い外国生活のどちらでも、一度も見たことのない種類の男だった。新しい女はいても、新しい男はいないと、それまで私は思っていた。その考えが、この時変った。やっぱり、それもありうるのだな、と388。
堀場にとっては、憲三との初対面は、「珍獣」を眺めるような思いだったようです。しかしながら、堀場もまた、このとき、憲三に「新しい男」を発見したのでした。
『女性の歴史』(全四巻)を著わし、日本ではじめて女性史学を樹立した逸枝、そして、鹿野政直と堀場清子をして「新しい男」と呼ばしめた憲三――。このふたりの夫婦像は、すでに逸枝の詠じた歌のなかに現われていました。以下は、『妾薄命』に所収されている作品からの引用です。
憲三が妻の逸枝は芹摘みに 憲三は窓に 窓には梅の花389
逸枝は憲三を題材に詩作することはほとんどありませんでしたが、それだけにこの歌は、極めて示唆に富みます。といいますのも、「逸枝が芹を摘み、憲三が窓辺にいてそれを待つ」情景を、「逸枝が原稿を書き、台所にいながら憲三がそれを待って編集する」情景へと置き換えるならば、どうでしょうか。逸枝と憲三とのあいだの、前代にはほとんど見ることのなかった革新的な夫婦の役割分担の形式がほのかに見えてくるからです。どうやら、逸枝と憲三の恋人たちは、この歌のなかを実際に生きたように思われます。そこで、本稿「高群逸枝のパーソナリティーの研究――親子関係、職業選択、気質、そして心的風景」の「おわりに」を書くに当たって、「逸枝の生涯を流れる生きし水路」に焦点を絞り、しかも、他人である私がむやみに多弁を弄するのではなく、本文同様に、直接逸枝と憲三の当事者たちに率直に語らせることによって、以下にそれを例証し、「おわりに」に代えたいと思います。
おそらく約婚前に出された手紙でしょう、そのなかで逸枝は、憲三にこう打ち明けています。
妾には主義も方針もありません。安心することも出來ません。生きてゐるあいだ幸福であればよろしう御座いますが、その幸福だとて樣々なので何やらわかりません390
この文は、「主義も方針も」ない自分を、決して独りにはせず、こころ安らかなる境地へと、そして、ひとつの確たる世界へと導いてほしい、それをもって自身の幸福と受け止めたい、という強い願望を憲三に告白しているように読めます。約婚から、「森の家」で女性史研究に入るまでのおよそ一二年間は、両者の思いや考えにしばしば「くいちがい」が生じ、完全な「不離の愛」までには到達はできませんでしたが、しかしそれ以降、死が訪れるまでのおよそ三三年間は、さらなる「愛の一体化」が進みます。亡くなる二年前に逸枝が書いた「誓い」がそれを象徴します。詩人からアナーキストへ、アナーキストから女性史学者へと、あるときは時代の変化にあわせて、またあるときは逸枝の望みにあわせて、その固有の世界へ誘導し、そこでの活躍を献身的に支えたのが、夫の憲三であったことは、いうまでもありません。
それでは次に、憲三その人に語ってもらいます。
彼女にしてみれば、知的レベルにおいて、資質そのものにおいて、あらゆる意味において、僕はよほど幼稚にうつって見えるでしょうからね。ただ僕の云うことすることが、どんなことがあっても彼女を裏切ることがない。いうなれば僕への信用ひとつで、彼女はうごいたようなものです。 それをあえてしたのは、それがどうしても必要だったからです。必要だったからです。そうするとやはり、そこに一個の生き物が出来た形になって、彼女はその生きものを自分流に、なんと云ったって自分流に仕上げてゆくんです391。
明らかに憲三は、「森の家」での逸枝と自分の関係が、「一個の生き物が出来た形になって」いることを自覚しています。想像するにこれは、二匹の蛇が互いに相手の尾を口にくわえた円形状の双頭の蛇(ウロボロス)のような状態に自分たちがあったことを告白するものではないかと思われます。
『高群逸枝雑誌』第一二号に掲載された憲三の「題未定――わが終末記 第五回」には、逸枝の「自叙伝メモ」が紹介されています。それは、「城内の二人(「火の国の女の日記」参照)」「私たち」「彼女にみたもの(彼の立場で)」「存在価値の喪失」「Kと私(けっきょく一体的夫婦として適当)」の五項目で構成されています。そこから以下に三点抜粋します。
一点目――。「私たち」の表題のもとに、逸枝は、自分たち夫婦を、次のような用語を使って整理しています。Aが憲三で、Bが逸枝であることは明らかです。
×日常的に A-断行的 B-優柔不断的 ×態度において A-正義(是々非々) B-愛(寛容、あいまい) ×大局的に A-比較的現状維持、法治型 B-現状を破るものを孕む ×対人関係 A-個人型 B-共同性 ×心身 A-病弱、憂鬱、神経質 B-ほぼその反対 ×相互の視覚による最初の印象 Bは彼に男性的な強さとその全人格への信頼 Aは私を愛らしいがちょっと愛されない〈私の反語〉392
二点目――「彼女にみたもの(彼の立場で)」の表題のもとに、逸枝は、憲三の立場に立って、こう自己評価しています。
それは「飛び離れた従順さ」と「この世ならぬ知性」が、萌芽的にその全面的性格をなしていることだった。…… また、彼女はなにかひどく他人に気兼ねしていて、物をじゅうぶんにいわなかった(「黒い女」に出ている性格)。それは彼を困惑させたが、惹きつけるものであった。それには限りない「未知の世界」があった。それは論理的な存在でなく、生命的、美的なものだった。それを辿り進めば、桃源境(ママ)にいたりつくかと思われた。その道は決して容易でなく、彼の表現にしたがえば、「愛らしいがちょっと愛されない」ものだった393。
三点目――「Kと私(けっきょく一体的夫婦として適当)」の表題のもとに、逸枝は、以下のように自身の存在のすべてを総括しています。
1 世話婦としては〈私は〉不調法だが、 2 さればとて威張ってもおらず、彼に扶養のふたんをかけまいとする心づかいをし、 3 彼の反俗的な性格や病弱や、彼の隠れたすぐれた批判精神や正義を愛する心を理解し、尊敬し、思慕し、熱愛し、 4 いつも希望を失わず、そのムードのなかに彼を巻き込んで前進し、 5 最後に彼から低能児と愛称されるほどにもいわゆる利口でなく、しかも限りなく従順である型の私は彼に適当(彼がよべば地球のはてまでもついて行ったろう)394。
これをもって逸枝の「自叙伝メモ」は終わります。逸枝が語るように、逸枝にとって憲三は、「一体的夫婦」を築くうえで実に適当な相手方でした。逸枝の、どこまでもついていこうとする熱愛と従順さ、憲三の、彼女を幸福にしなければならぬと思う責任感と正義――これが、「一体的夫婦」を支える土台構造であったように思われます。
このことについて、ひとつの逸話を紹介しておきます。日本の敗戦が近づいてきたとき、「国民義勇隊」が組織されると、世田谷四丁目の小隊の一覧表が示された回覧板が隣組から届きました。そのときの逸枝の様子を、こう憲三は書いています。
逸枝はこの一覧表を自ら写し取り、もしKが戦場に出るなら、自分も特志看護婦となり、 「死ぬときはもろともに死にます」 といった395。
「彼がよべば地球のはてまでもついて行ったろう」という逸枝の言葉を裏づける逸話ではないかと思います。
逸枝は、豆帳をつくってもっていました。この豆帳は、お粗末なザラ紙できたもので、何かの景品だったようです。憲三は回顧します。「表紙をめくると、あの浅草で撮られた彼女と私との、半身の、名刺判の二枚の写真が、その見開きに並べて、貼りつけてあったのである。……表紙には濃いペン字で、『似たもの夫婦』とある」396。
「森の家」を処分するとき焼却されて、いまや現存しないものの、この逸枝の豆帳の表紙に書かれてあった「似たもの夫婦」の一語を借りて、私は、本稿「高群逸枝のパーソナリティーの分析――親子関係、職業選択、気質、そして心的風景」の「おわりに――逸枝の生涯を流れる生きし水路」の結語とさせていただきます。
「森の家」での学究生活に入って四年が立った一九三五(昭和一〇)年の日記に、逸枝は、「神様は何の役に立てようと私を生まれさせてくださったのだろう。夫をもこのために巻き添えをさせてしまう悪徳の深さ。ゆるせよ、すべてのもの、時、そして宿命! 私をゆるしておくれ」397とも、「老後は主人を誘って、人間のほんとうの生活に入りたい」398とも書いています。
いま、逸枝と憲三の「似たもの夫婦」は、憲三が水俣の秋葉山の中腹に建立した墓廟に眠ります。やっと訪れたふたりの老後です。お疲れさまでした。ここでどうか、「人間のほんとうの生活」を楽しんでください。合掌。
なお、本稿の末尾にあります、「再録追記 戦後を生きるなかでの高群逸枝の戦前思想からの脱却」は、参考までに、著作集23『残思余考――わがデザイン史論(下)』第三部「高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子論」の第三話「戦後を生きるなかでの高群逸枝の戦前思想からの脱却」を再録し、追記としたものです。
(386)鹿野政直「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」『朝日新聞』、1976年6月7日、夕刊5面。
(387)同「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」『朝日新聞』、1976年6月7日、夕刊5面。
(388)鹿野政直・堀場清子『高群逸枝』朝日新聞社、1977年、63-64頁。
(389)前掲『妾薄命』、136頁。
(390)前掲『山の郁子と公作』、331頁。
(391)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、21頁。
(392)橋本憲三「題未定――わが終末記 第五回」『高群逸枝雑誌』第12号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1971年7月1日、28-29頁。
(393)同「題未定――わが終末記 第五回」『高群逸枝雑誌』第12号、29頁。
(394)同「題未定――わが終末記 第五回」『高群逸枝雑誌』第12号、30頁。
(395)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、329頁。
(396)前掲「題未定――わが終末記 第五回」『高群逸枝雑誌』第12号、28頁。
(397)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、248頁。
(398)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、同頁。