この主題ついての語りの文脈は、以下のとおり、「第一節 詩人として立つ」、「第二節 アナーキストへの転身」、「第三節 国体主義者への変身」、そして「第四節 歴史学者としての本領」の四つです。
逸枝が、いつ詩人として立つことを決意したのかは、正確にはわかりませんが、すでに一〇歳を過ぎたころには、詩人への関心は高まっていたものと思われます。といいますのも、手稿本である『少女集』(熊本市立図書館所蔵)にこう書き付けているからです。
少女は 詩人をなづかしむ。…… 少女は さびしく床しき里の詩人を慕ふ。厳かに優しき詩人をなづかしむ。
また、同じく『少女集』には、次のような語句も並びます。
野に住める此身は名もなくて亡び行くをなげくでなし。只父母に仕へまつりて清くありなむ。春は花 秋は月によき田園のなづかしさよ。いざ歌ひてむ われは名を欲せじ。おのれの信ずる道をのみ行かんと思ふ。
逸枝がいう「われは名を欲せじ。おのれの信ずる道をのみ行かんと思ふ」、これこそが、今後詩人として無欲に生きようとする強い意志を示す語として、読むことができそうです。
逸枝が自身の詩歌を、いつ最初に、どの紙誌において公式に発表したのかは、正確に特定はできません。一九一八(大正七)年に決行した四国巡礼の旅の道中でつくった歌を『九州日日新聞』に送ったものがそうだったかもしれません。しかし、詩人として立つうえでの重要な契機となった作品については、次の短歌に求めることができるものと思われます。一九一九(大正八)年四月一二日の『九州新聞』六面に、「月漸く昇れり」の主題のもとに一〇首が掲載されていますが、そのなかの中心となる歌が、次の作品です。
吹く風と野べとのみなる一角に飴色の月漸く昇れり
この短歌の下の句にある「月漸く昇れり」が、詩人としての逸枝の中核となる名辞と思量されますので、詩人高群逸枝を語るうえでは、今後この詩句に関心を払う必要があるものと思われます。
はじめて八代で憲三に会い、翌日、再び憲三を訪ねて一勝地駅で再会した逸枝は、そのあと払川に帰ると「永遠の愛の誓い」を書き憲三に送るものの、その返事は、「まあ行けるところまで行きましょう」という冷淡なものでした。そのときの気持ちを、逸枝はこう書いています。
ここにみられるのはロマンチックなしらたま乙女と、サーニンかぶれの若者との、ユーモラスな正面衝突だった。むろん後者は自分の返事に得意らしかったが、みじめなのは前者だった。私は打ちのめされて雨のような涙をおとして、自分の小部屋の壁にはっていた「泰西名画・月漸く昇れり」と題された写真版の画に救いをもとめてみつめていたことが思い出される。その後、この名画は、幼児の観音さまとならんで、絶対者のように、私の頭の中にやどることになった22。
このように、「この名画は、幼児の観音さまとならんで、絶対者のように、私の頭の中にやどることになった」と、逸枝は書いています。事実、一九二一(大正一〇)年に叢文閣から出た、逸枝の代表詩集のひとつである『日月の上に』は、長編詩の「日月の上に」のほかに、短編の「五月の雨」「虐待される歌」「妻歌う日没時に」「夕べの哀歌」、そして「月漸く昇れり」の計六編から構成されていますが、最後の「月漸く昇れり」のなかの最後の詩片が、次に引用するものです。「妾」の読みは、おそらく「わらわ/わたし」でしょう。あるいは「しょう」と読ませる意図があったかもしれません。
ああ解放されたる展望よ! よろこばしくも寂みしく妾は思ふ! (月漸く昇れり!) 野邊なる月が 妾の心を照る時に23
『九州新聞』に「月漸く昇れり」が掲載された二日後の一九一九(大正八)年四月一四日、逸枝と憲三の約婚が相整いました。まさしく、「月漸く昇れり」の心境だったものと思います。この日をもって、ふたりは、自分たちの結婚記念日としました。そしてその一二日後に読んだ歌が、次のものです。
此の心何にたとへむ一青のみ空曇らず君と約婚す 約婚す一千九百十九、春、みどり輝く大天地に24
前者が二五歳の逸枝の、後者が二二歳の憲三の歌です。それからおよそ一箇月後の五月一八日の『九州新聞』(六面)には、「甘いいのち(・・・)」の詩題のもとに五首が掲載されます。そのなかの一首が次の作品です。
たつぷりと 甘いいのちに 身を窶つし 花を一と枝 酒を一と壺
この「甘いいのち(・・・)」には、前文が付されています。「わが唄は常に辞世の唄にしてわが命は常に旦夕に迫るわが異常なる天才は斯して空しく亡びむ」。注目すべきは、ここに「天才」の文字を使っていることです。かつて熊本女学校時代に教師に、「お前は天才ではない」と、たしなめられ、逸枝は崩れ落ちる思いを経験していました。そしていま、ようやく自分を「天才」の高みにおいて認識するようになったのでした。
それから三週間後、『大阪朝日新聞』に掲載された柳澤健による「婦人を待てる文壇」が、逸枝の目に止まりました。それには、このような文字が並んでいました。
女性解放といふことは、単に夫から家庭から妻を解放するといふこと許りではない、また、工場の勞働時間や賃銀に關すること許りではない。それよりも、世界と文化の上から見てもつと大切なことは、男性の息の籠りすぎた精神生活の雰圍圏のなかゝら、女性を解放することである。換言するならば、優れたる閨秀作家が燦びやかな姿をもつて混雜してゐる男性の群の上に匂やかに現はれきたることである25。
これを読んだ逸枝は、さっそく柳澤に手紙を書き、手製の詩集『白白白』を送りました。そのなかには、こうした歌が収められていました。
吹く風の 白白白の 大揺れに 消えて消るる 夕映さの徑26
この詩をはじめとする逸枝の詩歌に対する讃美の辞が世に出るのは、翌年(一九二〇年)に刊行される柳澤健の『現代の詩及詩人』のなかの一節「高群逸枝子」まで待たなければなりませんでした。
約婚ののち逸枝と憲三が一時期をともに過ごしたのは、憲三が勤務する城内尋常小学校の宿直室でした。そのときの生活を回顧して、逸枝はこう書きます。「Kのエゴイストぶりは私にもよくわかっていたし、それがまた私をひきつけるものでもあったが、それにしても城内校での彼の私への虐待ぶりは、ちょっと想像にあまるものがあった」27。「Kの暴力は、私にとって生まれてはじめてといってよいほどのおどろきだった。しかしいちばん私にとって心配になったのは、これによってKをノイローゼにおとしこむことになりはしないかということだった。彼はこんな場合、みていられないほど、青ざめ、おそろしい目つきになり、手をぶるぶるふるわせるのだった」28。「Kのエゴは私の曲従と反比例して募った。それに私も、この一時期ほど、自分の持っている欠点をバクロしたことはなかった」29。「決心がついてみると、Kの毒舌や暴力も、私の欠点も、それらのすべてが、彼と私とのくいちがいからきたものばかりだったので、ただ私は知らないこととはいえ、Kのところに侵入し、さんざん彼を手こずらせ、ずうずうしくも大きな損害を彼に与えたことを心から詫びて、帰郷することにした」30。
また逸枝は、こうも振り返ります。この同居生活中に、憲三は逸枝に、このような言葉を浴びせかけました。「おれは肉感的な女がすきだ。この本に出ている『沈鐘』(ハウプトマン)の森の姫に扮したドイツ女優のようなものがすきだ。第一に森の姫そのものがすきだ。それにくらべるといわゆる貞淑な鐘匠の妻は恋愛の対象としては型がふるい」31。この言葉は、逸枝に少なからぬ衝撃を与えました。「Kが押しつけた『沈鐘』を読んだことは、私には大きなショックだった。これが感情革命の導火線となったのだった。作中の森の姫ラウテンデラインは、私のうちに眠っていた『火の国の女』をよび覚まして、これを表面化させた。ここに私はKを忘却し、私自身となった。それは結果としては『女体の成熟』をめざす方向をもつものだった」32。
このときの体験が、「女体の成熟」を促し、他方で、逸枝が幼く宿していた原風景としての素朴な価値を崩壊させることにつながってゆきました。それを逸枝は「感情革命」と呼びます。その内容は、ひとつには、定型から破調への詩作の「革命」であり、ひとつには、女性観や恋愛観にかかわる「革命」でした。つまり、ここに至ってはじめて「自由」の存在に気づいたのです。こうして逸枝は、「放浪者の詩」を書き上げました。そこには、定型短歌を越えて自由律短歌へ向かう、あるいは短詩から長詩へと進む、逸枝の精神の躍動をかいま見ることができます。それだけではありません。さらに、熊本市立図書館に所蔵されている逸枝の手稿本『少女集』には、「操なき女は獣類ぞ」とありますが、「放浪者の詩」においては、何と、「放浪者は何の貞操ももたない」33と、言い放ったのでした。このとき完成した「放浪者の詩」は、城内校での新婚生活の破綻を経て、「感情革命」を果たした逸枝の詩魂が宿る、まさしく最初の記念碑的詩集だったのです。そこで逸枝は、ここに満を持して、東京行きを決意するのでした。
逸枝は書きます。このとき憲三は、「私の出京については生活費は保障するから、むりなことはしないようにといってくれて、だまって旅費百円を本の下において帰った」34。「憲三は生活費を送ってくれるといったが、私は旅費だけをもらって、あとはなにか労働して自活するつもりだった。東京に出ることは、若い貧しい私たちには必至的な運命であって、いちどは二人いっしょに出ようとしたが、収入のあるものがのこって、そうでないものを助けるという常識的な考えにおちついた」35。そして、ついにその日が来ました。「大正九年八月二十九日午前六時、私は払川の父母の家を辞した。……父は窓のふちに片手をかけ、すこしからだをかがめて、土橋から向うの道にまわってきて、川をへだてて父と向いあって別れの最敬礼をした私に、かるく頭をさげてこたえてくれた。母は大銀杏樹の店の手前の山角まで送ってきた。もう路傍には女郎花が丈高く咲いていたが、母は花の中に立って、別れの言葉をあたえた。そして、『出世しなはりえ』といった。私は、『出世します』とつつしんで答えた。……やがて母はその道をまがって歩き去ったが、これが父母への永久の別れとなった」36。
東京に着くと逸枝は、赤坂乃木坂の近くにある婦人ホームを訪ねました。そこで就職の斡旋を願い出ますが、事態は、思わぬ方向へと展開します。対応した守屋東が、「放浪者の詩」の出版に力を貸そうという意向を示す一方で、逸枝は、そのホームに出入りしていた世田谷に住む富農であった軽部仙太郎の私邸に引き取られることになったのです。
新しい暮らしがはじまってそろそろ一箇月になろうとする一〇月上旬のことです、いよいよ柳澤健の『現代の詩及詩人』が尚文堂から世に出ました。そのなかの一編「高群逸枝子」は、逸枝の詩を絶賛するものでした。以下は、その結びの言葉です。
自分の見るところでは、この婦人の異常なる藝術的叡智と熱情とは、奇蹟を以て目すべきものである。かうして藝術的早熟が、一時的に開花して間もなく萎縮するものでない限りは、彼女が早晩この國に於ける最も尊敬に値する詩人の一人になり得るであらうといふ自分の豫想は、恐らく間違ふことはあるまいと思はれる。自分は、そうした日のくることを、深い祈りと欣びの感情を持つて待たずにはゐられない37。
まさしく柳澤が予言するように、「彼女が早晩この國に於ける最も尊敬に値する詩人の一人になり得る」、その日が近づいてきていました。軽部家で逸枝は、「おじょうさん」と呼ばれて大事にされ、与えられた一室で、長編詩「日月の上に」を書きます。一方で逸枝は、書き下ろしの「民衆哲学」と題した論文を生田長江に送るのでした。するとさっそく生田は、『新小説』の編集者を連れて来訪し、そのとき、「日月の上に」が、生田の目に止まります。かくして、『現代の詩及詩人』における柳澤の逸枝讃美から半年が立った一九二一(大正一〇)年の四月、見事に、その自叙伝的物語詩が『新小説』(四月号)を飾るのでした。巻頭の生田の筆になる「『日月の上に』の著者に就て」は、逸枝を「天才者」として高く評価するものでした。次はその一節です。
高群逸枝さんは、まだ二十歳にも満たない婦人です。最初にその『民衆哲學』と伝ふ論文原稿を拝見した私は、単にそれを拝見しただけでも少からず驚かされました。現代の日本に於て、これだけしつかりした推理と、これだけ鋭い直觀とをもつた婦人が、果して幾人あらうかと思ひました。けれどもその後、彼女の長篇詩『日月の上に』を拝見するに及んで、私は彼女が単に婦人として稀有の人であるのみならず、あまねく文壇思想界に於ける殆んど如何なる人々に比べても些の遜色を見ないほどの天才者であることを知りました38。
さらに生田は、こうも付け加えます。「しかも、常に噴出の機會をねらつてゐる地の底の火熱に近いものを感じさせないではゐません」39。まさしくここに、「火の国の女詩人」高群逸枝が、誕生したのでした。
雑誌掲載からおよそ二箇月後、六月一五日を発行日にもつ『日月の上に』が叢文閣から、二日遅れて六月一七日を発行日とする『放浪者の詩』が新潮社から、それぞれ世に出ます。逸枝にとって、まさしく「月漸く昇れり」の瞬間でした。逸枝は、「日月の上に(長編詩)」の題詩をこのように書き、「神エホバ」と「詩人逸枝」を、かくも堂々と対比してみせたのでした。
汝洪水の上に座す 神エホバ 吾日月の上に座す 詩人逸枝40
他方で、生田を驚かせた「民衆哲学」は、次の年(一九二二年)に京文社から公刊される『私の生活と藝術』に所収されることになります。逸枝によると、この論文を書くことによって、「恋愛以降の混迷した状態から離脱して、安心立命の一つの根拠を確立した」41のでした。
これよりのち、『日月の上に』と『放浪者の詩』をもって、天才詩人として世に出た逸枝の詩作は、出版社(新潮社)に送りながらも、関東大震災によって紛失した長編詩「朽ちたる城の姫」を除けば、次のように勢いを増して続いてゆきます。
『美想曲』(金星堂、一九二二年二月) 『妾薄命』(金尾文淵堂、一九二二年六月) 『戀唄 胸を痛めて』(京文社、一九二二年一一月) 『東京は熱病にかゝつてゐる』(萬生閣、一九二五年一一月)
注目していいのは、『妾薄命』の序文に相当する「手簡――序に代へて――」を柳澤健が書いていることです。柳澤は、その文を、こう結びます。
……あなたのその花やかな官能、その熱い欲情、その眩めく才能がそのまゝの形で……更に一段高い世界……のなかで結實するやうに務めらるることを深く祈られるといふほかに、唯にあなたの稀な天稟の詩才の展開を驚きと悦びとをもて待たうといふことだけなのです42。
他方、もうひとつ注目していいのは、『東京は熱病にかゝつてゐる』の冒頭にある「讀んで下さい――序にかへて」です。執筆したのは、平凡社の社長を務める下中彌三郎でした。当時、教育問題や農民運動に力を注いでいた人物です。一方、この本の版元である萬生閣は、平凡社の別組織です。その時期憲三は平凡社に勤務しており、下中の思想的影響下にありました。以下は、『東京は熱病にかゝつてゐる』の「讀んで下さい――序にかへて」のなかの一節です。
詩は精神だ。そして感情だ。そして本能だ。そうだ、生命だ。 藝術の眞のすがたは詩だ。詩こそ眞の哲學だ。詩こそ眞の文明批評だ。 この意味で逸枝さんの詩は、哲學であり、文明批評である。さうだ、逸枝さんは正しく詩人であり、哲學者であり、文明批評家だ。そして女であり、日本女であり、人であり、日本人であり、人間である。 (中略) 逸枝さんは近代人の悩みのすべてを悩んでをる。逸枝さんの胸には近代人のあらゆる悩みが悉くこびりついてをる。その意味において逸枝さんは、日本歴史が生んだ日本女性の最後の――今日までの歴史においての――一人だ。 詩人であり、哲學者であり、文明評論家である女性を日本史の上に求めるなら、神話のなかに須世理媛があり、奈良朝に額田王があり、平安朝に清少納言があり、徳川末期に野村望東尼があり、明治末期に与謝野晶子があり、大正の初期に高群逸枝がある。 (中略) 今の日本には、勿論すぐれた女性がたくさんある。平塚明子さん、山川菊榮さん、奥むめおさん、みなすぐれた人達である。たゞ詩人、哲學者、文明批評家をかねた種類の女性の中には今のところ私は逸枝さんをその最もすぐれた一人としてあげるに躊躇しない43。
この下中の「讀んで下さい――序にかへて」は、身内びいきの感が全くないわけではありませんが、『妾薄命』に柳澤健が書いた「手簡――序に代へて――」に続く、実に見事なまでの逸枝評になっていました。
数えて六番目となるこの長編詩集『東京は熱病にかゝつてゐる』は、叙情詩でなく時事詩であるという点、また、原郷火の国ではなく大都会東京を主題にしているという点、加えて、社会的で政治的な思想内容が積極的に展開されているという点、この三つの点において、これまでにみられた逸枝の詩集の特徴をはるかに超えており、その意味で際立つ画期的な作品となっています。全部で二五節から構成されています。そのなかの第二十一節の「アナとボルとの話」から、これ以降にみられる逸枝の動向に照らして、注目に値すると考えられるひとつの詩片を、以下に、抜き出してみます。
三百餘名。四五名。ボル。アナ。つかまつた新居格。 萬歳アナキスト。逃げ出すボル。 文壇は動く。アナとボル。萬歳アナーキスト44。
「萬歳アナーキスト」と書く逸枝は、このときすでに新しい思潮に感化されていたと見るのが、自然でしょう。晩年逸枝は、こう回想します。
私がアナキズムにひかれたのは書物からではなく、大逆事件に私の故郷から無実と思われる犠牲者たちを出したことが火の国の娘の胸を打ったのが遠い動因の一つであり、またKが下中さんの教員組合啓明会の雑誌や出版物に加勢して自然に私にアナ系の思想を持ち込んだことが近い契機の一つとなったともいえよう45。
「教員組合啓明会の雑誌や出版物に加勢して」いた「K」とは、下中彌三郎の思想に共鳴し、そのもとで働いていた夫の憲三であることは、いうまでもありません。そのおよそ四年後の一九三〇(昭和五)年一月に解放社から上梓される自叙伝的小説である『黒い女』のなかに、夫婦の会話部分が出てきますが、逸枝は、そのひとつを、こう描写しています。
『俺はお前も知つてゐる通り、小作人の子だ。お前はお前で、もつと酷い者の子だ。だから俺達は當然、階級といふものを勉強しなくてはならん』 こうして彼らは、事物に關し二つの相反する意見といふものを持ちはじめた46。
さらに、『黒い女』に出てくる夫婦の会話には、このように描写された箇所もあります。
彼女は夫がおぼえてきて歌ふあらゆる歌を世界のどんな歌よりも早くおぼえてそれを歌ふのであつた。 『そんな歌わらはれるよ。男はいいけど』 と時々夫が夫そつくりの調子で歌つてゐる妻を見ながらいふ。 『だつて……』 と妻はつぶやく。 『あたしそんなら何を歌へばいいの』 そして涙ぐむ47。
この会話から、夫が、いま世間のはやり歌を家に持ち帰り、それを妻に歌って聞かせると、すばやくそれを覚えた妻は、何と誰よりもうまくその歌を歌い出す、といった情景が目に浮かびます。つまり、社長である下中の思想や哲学に共感するとともに、仕事上、新聞雑誌をにぎわす時事問題に積極的に目を向ける憲三が、そうした新鮮な取り立ての情報を家に持ち帰り、逸枝に話して聞かせると、いつのまにか逸枝は、それを自分の言葉で話すようになるのです。時事詩集『東京は熱病にかゝつてゐる』は、そうした過程のなかにあって生み出された作品だったものと思量されます。こうして逸枝は、「詩人」から「アナーキスト」への道を歩み出すのでした。
逸枝が最後に公表した詩は、おそらく、一九二九(昭和四)年の『女人藝術』の初春号に寄稿した「戀愛行進曲――月漸く昇れり」ではないかと思われます。この長編詩の最後は、次の詩句で結ばれます。
夜の女王、満月が 正座して昇り行く おゝ月とわが戀 漸く昇る このとき妾はいふ かの月とわが戀とは 高く昇るにしたがひ 輝きと冷たさを増すのであると48
「戀愛行進曲――月漸く昇れり」は、逸枝が久しぶりに書いた作品でした。しかも、詩題の「月漸く昇れり」は、いうまでもなく逸枝にとって、最上の心情の高まりを表現するときに使う、取って置きの決まり文句でした。一九二九(昭和四)年の幕開けに対する逸枝の大いなる希望が、ここに込められていたといえるかもしれません。
それまで心身の不調のなかにあった逸枝を見かねた憲三は、自然に恵まれた物件探しに奔走し、ふたりは、「戀愛行進曲――月漸く昇れり」の発表から二箇月が立った一九二九(昭和四)年の二月四日に引っ越します。「ついに荻窪駅と甲州街道とに近い上荻窪の台地に適当の環境と頃合いの家とをみつけてきて私をもよろこばせた」49。「屋敷のぐるりは檪の木がとりまき、屋後は一面すすきの生い茂った広い原っぱだった。家は古びていたが、部屋は母屋の二室に、鍵の手に建て増した書斎と応接室の二室があって住みよかった。庭は広いとはいえないが見事な紅八重桜の老木と若干の庭木とがあった」50。これよりのち、この上荻窪の家が、アナーキズム関連の文を書く、逸枝の居城となります。
引っ越しから五箇月が過ぎました。逸枝は、『女人藝術』七月号に目を通したものと思われます。開くとそこには、「公開状」と題して、八木秋子が「藤森成吉氏へ」、松田解子が「小林多喜二氏へ」、熱田優子が「中川紀元氏へ」、そして伊福部敬子が「平塚明子氏へ」、最近の行動や仕事について、疑問を呈したり、質問を投げかけたりしていました。かくして、『女人藝術』内での「アナ・ボル論争」の起点となる各論が、ここにそろいました。個別に見てゆきます。
八木秋子の自由連合の社会観は、こうです。
眞の幸福な社會生活は人間の自發的創造的意思によつてのみ生れる――。マルキシズムの社會は國家の獨裁支配に第一歩を始めるに反して、自由聯合の社會は不完全な個人の自由に發生し、爛漫と花咲く自由へと限りなく伸長して行く聯合社會で、國家では最初からあり得ない51。
熱田優子は、自己の芸術観を、こう述べます。
私は空想する。かゝる理想的社會が到來し得るならば――そこにはブルジョアもなくプロ[レ]タリアもない。恐ろしい闘争もなければ利己的な野心もないのどかな社會である――その無政府的な美しい社會に於てのみ眞の藝術の王國は榮え得るのではなからうか52。
伊福部敬子が主張する婦人運動論は、このとおりです。
即ち、昨日の婦人運動は思想の自由を婦人に與へんためでありました。今日の婦人運動は、思想に従うて行動するの自由を得んためのそれであります。(中略) 而してこの家庭的因習、家庭的緊縛より脱せしめて中産知識階級の男性と同等同列にまで並び、男性と同じ自由さ、同じ困難さにまで到達せしむるのが今日私のいふ新しき婦人運動であり、こゝに來て婦人運動はその使命を完全に果したと見るべきでありませう。かくして中産知識階級婦人は、無産運動に合流することが出來るのであると思ひます53。
翌月の『女人藝術』八月号には、先月号の「公開状」に答えるかたちで、藤森成吉の「公開状について一言、八木秋子氏へ」が掲載され、一気に「アナ・ボル論争」に火をつけることになります。「公開状について一言、八木秋子氏へ」は、「應接室」の題をもつ短いコラム記事で、そのなかで藤森は、「……『アナ』のあなたと論争する氣はありません。ただ、あなたがもつと勉強され、小ブル的意識を抛棄される事を望みます。……」54と書きました。それに対して八木は、次の九月号ですぐに反論に出ます。以下は、「簡単な質問(藤森成吉氏へ)」のなかの一節です。
非常に完全に小ブル的である危険があるから勉強せよ、とあなたは親切にもいはれる、しかも私は勉強することによつて残念ながら愈々マルキシズムに對する疑念と誤謬を拾い出して行かなければならないのです、私の知り得たことはすべてのマルキストがあまりにも本統(ママ)のアナキズムを「知らなさすぎる」という一事でした。…… あなたがたの考へ方は非常に単純です。ブルジヨアとプロレタリアの區別を単に生産機関を所有するものと、所有せずして自己の労働力を賣る事によつて生活の手段とする者、とに片づけてゐる。同じプロレタリアートの間にさへも相克しあふ関係のある複雜な社會の諸相をそれほど簡単に理解して、人間の自由とプロレタリアートの自由の相違を将來社會に結びつけやうとする55。
同じくこの九月号には、逸枝の「小ブル藤村成吉に與ふ」も掲載され、論戦に加わります。一四頁に及ぶ長編です。「一.小ブルといふ言葉」「二.勉強せよとの仰せ」「三.『アナ』への言ひ分」「四.アナキズムの絶對性」「五.方法論的な睨み合ひ」「六.過程といふこと」「七.過程の経済的基礎」の七節から構成されていました56。
するとここで、隅田龍子が割って入って、一一月号に、「八木、高群両氏のアナーキズムに對する駁論」を書きました。この論文もまた、「前がき」「一 氏等の云ふ自由と、我々の自由との根本的相異」「二 政治的行動を否定するアナーキズムは反動的ユートピアである」「三 何故にプロレタリア獨裁は必要か」「四 プロレタリアートは如何に議會を利用するか」「五 過程とは何んであるか」「六 小ブルヂヨアは何人であるか」「七 機械の發達はプロレタリアをなくするか」「八 女人藝術十月號『凡人の抗議への若干の抗議』」からなる長編でした。内容は、タイトルのとおり、マルクス主義の立場からの、八木と逸枝へ向けられた数々の厳しい批判となっていました。その極みが、次の言葉でしょうか。
高群氏の一六頁から一七頁へかけてのあの冗漫なおしゃべりを見よ。我々はこんな馬鹿氣た論文を(いかに女人藝術がおとなしく取り入れたにせよ)堂々雜誌上に發表される氏の勇敢さには敬服してゐる57。
これには逸枝も無言を通すことはできなかったのでしょう。次の一二月号で、「お出になさつた」を発表します。この論文の副題は「一アナーキストの宣言」です。このとき、逸枝は、はっきりと「アナーキスト宣言」をしたうえで、きっぱりと『女人藝術』から離脱することを決意したものと思われます。この文の最後は「さよなら」58で結ばれています。そして同号(一二月号)に、八木秋子も「隅田の妄論を駁す」を寄稿しました。この論文のなかで八木は、このようなことを主張しました。「マルクス主義者が、ブルジヨア教育によつて與へられた國家偶像観の観念を清算することが出來ず、ブルジヨアジーと一緒になつてアナキズムを攻撃するのは、そして、その方便としてユートピア主義の烙印を捺さうとするのは、その根本的缼陥の暴露に他ならない」59。
こうして、「アナ・ボル論争」は過熱し、頂点に達しました。編集人にとっては、これ以上の論戦は、単なる不毛の相互批判に陥るように思われたのでしょう。この号(一二月号)に、「社告」が掲載されました。それには、次の文字が並べられてありました。「アナアキズムとコンミニズムのこの度の論争は次號にて打切る」60。
年が明け、一九三〇(昭和五)年の正月を迎えました。中島幸子の「アナーキズムの顚落」と隅田龍子の「再びアナーキズムを駁す」の二編の論文が、『女人藝術』の一月号を飾りました。『女人藝術』における「アナ・ボル論争」は、これで終幕です。常連執筆者や読者にとってアナーキズムとマルキシズムの違いが明瞭になった、この半年間の論議でした。しかしながら、一方の当事者であった逸枝の筆力は、これをもって一段落したわけではありません。そのとき彼女は、無産婦人芸術連盟の創設という新しい動きのなかにありました。風雲急を告げる彼女の日記の一月の一部には、以下のようなことが記されています。この結社の設立と機関誌の刊行には、「K」のイニシャルが示すとおり、夫である憲三が深くかかわっていて、そこにも、留意する必要があります。
一月二日 はれ 『婦人戦線』準備会。(K) 一月十日 はれ 『黒い女』解放社から届ける。 一月二十六日 はれ 無産婦人芸術連盟成立。機関誌『婦人戦線』。出席者平塚らいてうさんら十四名。(K)61
かくして、『女人藝術』内での「アナ・ボル論争」は、アナーキズム派が離脱して、新しい団体を組織することにより、ひとまずの決着に至ります。一九三〇(昭和五)年一月二六日の無産婦人芸術連盟結成の集会には、創設会員一四人が参加しました。続いて三月一日、機関誌『婦人戦線』が産声を上げます。「アナ・ボル論争」を経て、「アナーキスト高群逸枝」の独自の舞台が、ここにこうして誕生するのでした。
『婦人戦線』第一巻第一号の奥付を見ますと、発行兼編集印刷人として、高群逸枝の名が明記され、発行所は「婦人戦線社」、その所在地は、逸枝の自宅住所である「上荻窪二六九」となっています。『黒い女』の版元である解放社が発売元です。その号の「お知らせ」において、結成の経緯と構成員の名前が、次のように、明かされました。
新年早々から着々計畫を進められてゐた無産婦人藝術聯盟は、一月二十六日、いよいよ目出たく結盟を了しました。往年、新女性の先驅者としていはゆる「青鞜」運動を率ゐられた平塚らいてう氏もお加はり下さつて、當日の出席者左記十四名、病床の人竹内てるよさん、その他地方在住者を合せ、正しく「青鞜」によつて個人的自覺の第一歩をふんだわれわれ女性は、更にこゝに社会的自覺に立つて、人類解放の究極の運動へと出発することになりました。
伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子
そして我々は、こゝに外部闘争の機關として「婦人戦線」をもち、内部相互敎育の機關として研究會をもつことになり、前者の經營はこれを當分解放社に委託し、後者は當分毎月第四日曜に聯盟事務所において開催することになりました62。
無産婦人芸術連盟の会合や『婦人戦線』の編集作業は、逸枝の住まいの上荻窪の家で行なわれました。のちに憲三は、こう回顧します。「『婦人戦線』の表紙や目次づくり、内容のわりつけ(つまり編集)も全部私が彼女を代行しました。みんな私の好みです。編集会議だけ毎号会員でやりました」63。
ふたりの住まいは、実に簡素な室内でした。らいてうの記憶によると、こうです。
長い年月にすっかり薄れてしまった記憶のなかで、どことなく殺風景な家の中の印象が消えずに残っています。いわゆる家財道具といったもの、箪笥、(ママ)や茶箪笥のようなものは見当たらず、人が住んでいるともおもえないほど、がらんとした家の中で、メリンスの赤い派手な柄の鏡台掛けにおおわれた鏡台唯一つが、異様に目立っていたことを覚えています64。
家だけではなく、逸枝の化粧も、初対面のらいてうには異様に映ったようです。
異様といえば、初めてお会いした高群さんの印象のなかで、そのお化粧が、わたくしには理解にあまるものでした。高群さんのお顔は、生地のままでこそ輝く顔であって、白粉や紅の粉飾の似合うお顔ではないとおもわれる上に、それもあまり上手なお化粧ではありませんから、せっかくの生地をそこなっているとしかおもわれません。わたくしの目には、紅、白粉など洗い流したらどんなに美しいことかと映るのですが、しかし高群さんには、おそらくご自身独自の美的観念があってのことだったのでしょう。身ごなし全体がのろいという感じで、靴をはくのもテキパキはけないような人でした65。
しかし逸枝には、思想の内容は別にしても、らいてうを夢中にさせるだけの魅力が十分に備わっていました。らいてうは、このように語ります。
思想だけなら、他にいくらも求められるばかりでなく、必ずしもわたくしと、すべてが一致するものではないのでした。高群さんがわたくしを夢中にさせたのは、あの情熱、あの感情の動きと表現の自由さ、ユニークさ――それらを無限に内蔵している、高群さんという人間そのものの魅力でした66。
創刊号(三月号)に逸枝は、「婦人戦線に立つ」を書きました。それは、婦人の「個人的自覚」から「社会的自覚」へと踏み出すことを強く訴える内容になっています。冒頭、逸枝は、こう書きます。
わが國における、婦人自覺史は、かの「青鞜」運動に、最初の頁を起した。それは、誰も知るやうに、婦人の「個人的自覺」によつたもので、その後、いく星霜かを経て、いま茲に、我々によつて、婦人の「社會的自覺」にもとづく、劃時代的の運動が、起こされようとするのだ67。
逸枝によれば、労働者は労働者であることを「自覚」することにより、農民は農民であることを「自覚」することにより、そして、婦人は婦人であることを「自覚」することによって、それぞれに、自らの手になる「自治」を求める。いずれもそれらは、政治社会(強権社会あるいは専制社会)を完全に否定するし、同時に、「自治」への介入も拒む――。以下は、逸枝自身の言葉です。
……民衆は最早や、古い「政權運動」を捨て、新しく起つた「自治運動」、即ち労働者組合運動(職業者組合運動)及び、消費者組合運動、農民組合運動等によつて起つ。 これらの新しい組合運動は、ごく自然にそれぞれの役割(破壊的、または建設的)をもつが、歸するところは、自治コンミュンの聯合社會であり、ここを目がける種々の分野戦である。 實に、これらの諸組合運動こそは、近世特有の眞に新しき一大民衆運動の種々の相であるが、この運動を進める上に、古い「政權運動」が、いかに妨げとなるかは實例の示す通りである68。
逸枝の主張は、創刊号に掲載されている「創刊宣言」または「綱領」と呼ぶにふさわしい以下の文言に端的に凝縮されています。これが、無産婦人芸術連盟の旗印となるものでした。
一 われらは強權主義を排し、自治社會の實現を期す。 標語 強權主義否定!
二 われらは男性専制の日常的事實の曝露清算を以て、一般婦人を社會的自覺にまで機縁するための現實的戦術とする。 標語 男性清算!
三 われらは新文化建設および新社會発展のために、女性の立場より新思想新問題を提出する義務を感ずる。 標語 女性新生!69
あえて以上の「創刊宣言」を図式化すれば、「強権主義=資本主義=家父長主義の否定」、対するは「自治主義=組合主義=母性中心主義の新生」となるでしょうか。憲三は、こういいます。「社告の類は私。三綱領は私がつくり、彼女が修正したもの」70。
月刊のこの雑誌は、順調に号を重ねてゆきました。第一巻第六号の巻末や第一巻第八号の巻頭を見ますと、解放社から出版予定の高群逸枝著『強権に抗す』の広告が掲載されています。そのなかに「内容目次」が紹介されており、第一篇「無政府主義の思想と實行」、第二篇「無政府主義者宣言」、第三篇「無政府原理考」となっています。その説明によると、既発表の雑誌論文等を集めて一著に編集されたもののようで、この本は『黒い女』の姉妹編として位置づけられていました。広告の文面には、次のような文字が踊ります。
全人類を、民衆を、労働者農民を、婦人を、眞に開放し眞に導く思想は何か、無政府主義である!……醜怪なる強権マルキシズムの没落は既に時間の問題となり終わり、今や全民衆の認識と創造力はアナーキズムにおいて偉大なる飛躍を準備しつゝある時、我等いかに生くべきか? 何を為すべきか? 本書は強くそれに應ゆるであらう。
しかし、この本については、調べた限りでは国立国会図書館にも所蔵がありませんので、出版されることなくお蔵入りしたのではないかと思われます。しかし、『強権に抗す』という書題、それに加えて、広告に示された「内容目次」から判断しますと、労働者に対する資本家の、農民に対する地主の、婦人に対する男性の、その強権と抑圧とを糾弾し、そこからの真の解放を目指して、マルキシズムに備わる強権的専制主義を排除する一方で、アナーキズムの絶対自由の思想内容が述べられていたものと思われ、『婦人戦線』の路線を強く背後で支える読み物となることが想定されていたにちがいありません。
『婦人戦線』は、逸枝が思い描く「ユートピア」を発信する拠点となるものでした。しかし、その一方で、この拠点が置かれた憲三と逸枝の夫婦が住む「上荻窪二六九」の自宅には、さまざまな人が吸い寄せられてきました。逸枝が回顧するところによれば、「筋ちがいの個人や団体の寄付勧誘者もあれば、家出した娘や妻、身の上相談の母や夫たちもくる。むろん、特高や憲兵も。……それに私は『婦人戦線』には別名、匿名までつかって四、五種の原稿を書かなければならない。それらの過労が編集の上にも影響をしないはずはなく、雑誌は生気を失ってきた」71。
そのころのことです、もともとは夫の憲三の主導ではじまった雑誌の刊行であったにもかかわらず、その夫が、消極的な態度を見せ始めます。なぜだったのでしょうか。アナーキズムに対する熱情が冷めてしまったという精神的変容が底辺に存在していたことは明らかであるとしましても、それに関連した具体的な要因も幾つか考えられそうです。たとえば、解放社に支払う負担金が重荷になっていたのではないか、特高や憲兵による連行を避けようとしたのではないか、あるいは、当初志していた女性史研究の道に妻を連れ戻そうとしたのではないか、はたまた、逸枝の恋愛事件のような、夫婦のあいだに表に出すことがはばかられるような問題が発生し、そのことへの対応が迫られていたのではないか――おそらくは、何かひとつの要因によってというよりも、むしろ複合的な要因が絡み合って、そのときの憲三の内なる思いは形成されていたのではなかろうかと推量されます。こうして、創刊翌年(一九三一年)の六月号(第二巻第六号)をもって、『婦人戦線』は終刊となりました。
この時代の自身の仕事について、逸枝は後年、こう振り返ります。
上落合から上荻窪にかけてのいわば路地裏時代は私にとっては不毛の時代だった。わずか下落合の閑居での『恋愛創生』と、主として上沼袋で書いた散文詩めいた小説集『黒い女』が心にのこっている。…… その他には、六年四月に『女教師解放論』(自由社)、同七月に『婦人生活戦線』(宝文館)が出されているが、これらは路地裏時代の雑文集に過ぎないだろう72。
関東大震災後、軽部家を出て上落合で借家生活をはじめたのが、一九二四(大正一三)年の二月のはじめでした。それからおよそ七年半の上落合、東中野、下落合、上沼袋、そして上荻窪における暮らしを、逸枝は路地裏時代と呼び、そしてまた、この時代を「不毛の時代だった」と回顧します。『女人藝術』における論戦も、『婦人戦線』における主義主張も、逸枝にとっては、実りのない単なるあだ花だったのでしょうか。こうした認識にいつ到達したのかは不明ですが、戦後にあって逸枝は、自身がアナーキストであったことをあたかも打ち消そうとするかのように、このように述べるのでした。
アナキズムの欠点は、必然論でなく、発展説ではないこと、したがって婦人解放史に学的根拠を与ええないことであるとおもう。またそれは同時に実践への弱点でもあるといえる73。
『婦人戦線』に続いて、『女人藝術』が廃刊になるのが、翌年(一九三二年)のことで、その次の年(一九三三年)には、プロレタリア文学の旗手と目されていた小林多喜二が官憲の一方的強権により虐殺されます。その意味において、憲三の「編集者」としての目が、ここにおいて実に「機を見るに敏」に機能したといえなくもありません。いずれにしましても、逸枝のアナーキストとしての時代は、ここに至って、幕を下ろしたのでした。
天皇を中心とする国家体制や個人に基づく私有財産制に異論を唱える政治的、社会的運動を取り締まる目的で一九二五(大正一四)年四月に制定された法律が、治安維持法でした。これよりのち、言論の自由や結社の自由が著しく制限されてゆきます。また、一九三一(昭和六)年九月の柳条湖事件に端を発した満州事変、一九三七(昭和一二)年七月の盧溝橋事件に端を発した日中戦争、さらにそのあとに、一九四一(昭和一六)年一二月の真珠湾攻撃とマレー作戦に端を発したアジア・太平洋戦争が続き、一九四五(昭和二〇)年八月にポツダム宣言を受諾して降伏するまでの足かけ一五年間、日本は戦争の時代へと入るのでした。果たしてこの間、逸枝の執筆活動は、時代の影響をどう受けたのでしょうか。本人は、自身を「国体主義者」とは称していませんが、実質はそれに相当するものであり、以下に、その執筆実態の概略を描いてみたいと思います。
治安維持法の制定からおよそ半年が過ぎた一九二五(大正一四)年一一月に、逸枝の『東京は熱病にかゝつてゐる』が上梓され、それから二年後に父親の勝太郎が死去します。そのころを振り返って、逸枝はこう書きます。
私はつまり当時アナキズムの立場に傾いており、その立場から権力階層や現状維持派にたいしてたたかいをいどんでいたのだった。そこには金取り主義ばかりではなく、『東京は熱病にかゝつてゐる』に系譜をもつ社会的良心の燃え上がりがあったことは否まれまい…74。
一九二九(昭和四)年一〇月にアメリカ合衆国で発生した世界恐慌が日本にも影響を及ぼしはじめようとしているなか、一九三〇(昭和五)年の年が明けると、次第に日本経済は危機的状況に陥ってゆきます。
そうした社会的背景にあって、一月二日、『婦人戦線』刊行のための準備会が開かれました。そして続く一月一〇日、解放社から逸枝の短編小説集『黒い女』が届きました。まさしく『黒い女』は、いわゆる「昭和恐慌」と呼ばれるこの時代に対する先陣となって世に出るのです。黒は、無政府主義者の団体が旗に使う色です。あるいは、黒子、黒幕、黒衣に通じる色でもありました。一九三〇(昭和五)年の一月二六日、逸枝を主宰者とする無産婦人芸術連盟が生まれ、そして、同年三月には、その結社の機関誌『婦人戦線』の創刊号が世に出ます。
このころ逸枝は、『婦人戦線』の執筆に専心するだけではなく、大衆の前に立っての講演にも力を注ぎました。『婦人戦線』の第三号(五月号)が発行された五月のその二八日に、無産婦人芸術連盟と全国農民芸術連盟との合同講演会が読売新聞社の講堂で開催され、逸枝が演壇に立ちました。「実際的、活動的といったいわゆる運動家的な肌合いはみじんもなく、あくまでも創造的、天才的な詩人といった印象」75を逸枝に抱いていた平塚らいてうに、このとき、かすかな不安がよぎりました。
わたくしはこんな高群さんが演壇に立つことを、幾分あやぶむ気持で見守ったものですが、大勢の人前での演説などまったく不向きとおもわれるこのひとが、精一杯しゃべるのには、感心もし、安堵もしました。しかし、このときの「婦人戦線の事業」と題する高群さんの話は、臨監の警官の中止命令のため、おわりまで続けられませんでした76。
らいてうの「あやぶむ気持」は杞憂に終わりましたが、別の不安が、会場全体を包み込みました。官憲による「弁士中止」という言論の封殺です。一九二五(大正一四)年に治安維持法が制定されて以降、日本社会は、表現や言論の自由、そして学問の自由がさらに一段と制限される道を歩み出していました。また、時代に抗い社会の変革を求める、社会主義(ソーシャリズム)も無政府主義(アナーキズム)も、国家権力の弾圧により、もはや風前の灯となっていました。
『婦人戦線』の発行兼編集印刷人は、最初の二号は「高群逸枝」、次の第一巻第三号から翌年の第二巻第五号までが、国の指導により本名の「橋本逸枝」(実際の戸籍名は橋本イツエ)に変わり、最終号(第二巻第六号)は逸枝の手を離れ、「城夏子」が担いました。かくして、一九三一(昭和六)年の六月号(通計一六号)をもって『婦人戦線』は休刊となります。事実上の廃刊です。柳条湖事件を発端とする満州事変が起こるのは、それから三箇月後の同年九月のことでした。
『婦人戦線』の発刊へ逸枝が参画するに当たっては、特別な事情が背後にありました。逸枝は、このように振り返ります。上荻窪に引っ越した当時、「私はここで雑文書きのかたわら、婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史の研究に着手するはずだった」77。「[一九二九年の]年末に、私ははじめて印刷した年賀ハガキをつくり、前に述べた研究著述の計画を発表し、知人の援助をもとめた。だが運命はなお私には酷だった。それを投函した直後の十二月三十日に前から話のあった解放社からの『婦人戦線』発刊のことが決定したという通知があり、私の新コースに大きな番狂わせがもたらされることになってしまったのだった」78。「はじめ私はこんな雑誌を出すことにも、私が主宰者になることにもひどく尻込みした。私はアナキズムについてはまだほとんど知識を欠いており、『その他大ぜい』ぐみの一人として研究していきたい段階にあったからだった。だがKのすすめもあり、四囲の状勢からも要請されるはめになって承諾せざるを得なかった」79。
『婦人戦線』を廃刊にするとき、憲三は逸枝に、こういいました。「あなたの才能は非凡だ。稀有のものだ。それはむしろ天来のものだ。私はそれをこの眼でみてきた。才能のみでなく、性格の底知れぬ純粋さも」80。「社会運動はロマンチシズムではいけないと思う。また、各人にはそれぞれ長所がある。その長所をもって貢献すべきだと思う。あなたの長所と使命とは、長い年月、あなたのなかに蓄積せられてきた女性史の体系化だ。生活は私が保証する」81。
ちょうどこのとき、憲三の才覚により、軽部仙太郎から借りた土地に、同じく仙太郎が所有していたある宮家の解体資材を再利用して建てた、「森の家」と呼ばれる自宅が完成したところでした。「私たちのこうした新しい家-研究所兼住居-は……私が『婦人戦線』の断末魔の苦しみをしているあいだにKの強行ででき上っていた。そこで私は『婦人戦線』の廃刊と同時に、身にそぐわない過去の売文生活をも清算して新生涯に入るべく、昭和六年七月一日という日に……不安と恐怖とを抱いてやってきた。……五坪の書斎のまんなかに、三尺の机をぽつんと置き、『古事記伝』(本居宣長)を一冊のせて座ったとき、書架や書庫にはまだ何一つなく、金もなく、多難な前途がしみじみと思いやられた……」82。
こうして、「女性史の体系化」へ向けての逸枝の勉学がはじまりました。着手したのは「母系制の研究」でした。しかし、その四年後、憲三が勤務していた平凡社が破産し、憲三も解雇されます。収入を失ったふたりは、「母系制の研究」の脱稿に先立って、これまでカード化していた女性人名を集成し『大日本女性人名辭書』として上梓することを決意しました。逸枝は、こう書きます。「年があけて昭和十一年になると、私はKの協力をえて『女性人名辞書』の成稿を急ぐことにした。……今後の長い自己の仕事にとっても何彼と便利であるし、何より出版による印税収入が期待されるのだった」83。
一九三六(昭和一一)年の一〇月、厚生閣により『大日本女性人名辭書』が上梓されました。古今の女性およそ一千八百名が収録された、重量感を漂わす、本文六二三頁からなる大著でした。巻末の「跋」は、次の言葉ではじまります。「黨地に引籠りましてより足掛六年、其間専念致して参りました著述の一部を『大日本女性人名辭書』と題しまして、刊行の運びとなりました事に就きましては、勿論私一人の力の能する處では無く、内にありては家主の庇護、指導に基づく所多く、外にあつては先輩知友の御聲援、御教導に歸すべき事は申すまでも御座いません」84。「家主の庇護、指導」とは、何を意味するのでしょうか。石牟礼道子は、「『大日本女性人名辞典(ママ)』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった」85と、指摘しています。
この『大日本女性人名辭書』は、女性を五二の項目に分類しています。「皇祖」「御宇」「神話」にはじまり、「大奥女中」「遊女」「美人」などを挟み、最後は、「婚姻」「母系」の項目で終わります。なかに「社會運動」の項目があり、ここには、官憲の手で最近虐殺されたアナーキストの「伊藤野枝」も入っています。また、「記者」の項目には、有島武郎と無理心中を図った出版社の編集者の「波多野あき子」も収録されていました。生没年は、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする紀年法(つまり皇紀)によって表記されています。たとえば、「伊藤野枝」の場合は「二五五五-二五八三」、「波多野あき子」の生没年は「二五五四-二五八三」です。逸枝は、あるいは憲三は、なぜ生没年を皇紀で表記したのでしょうか。そしてまた、書題になぜ、「大日本」の三文字を組み入れたのでしょうか。これを時代の影として見ることも可能でしょう。
それから二年後の一九三八(昭和一三)年六月、いよいよ『大日本女性史 母系制の研究』が厚生閣から出版されました。逸枝によれば、この本は「母系から父系への転移過程を系譜的にとらえたもので、それは原始共同体の崩壊過程に照応するもの」86でした。
前年の一九三七(昭和一二)年七月の盧溝橋事件を契機に、すでに日本は、中国との全面戦争に入っていました。その時代状況を逸枝は、次のように書き記します。
日華事変[日中戦争]前後から日本は急速に軍部独裁化をたどり、学界では京大滝川事件、東大美濃部事件等が相つぎ、学問研究の自由が奪われつつあり、私自身も特高の訪問を受けたり、警察署に呼び出され(K出頭)たり、また出版を通じて警告されたりした。脱稿直前には、数条の『特達』が通告されたが、それは、『高天原は高天原以外の何処でもない』とか『皇室の恋愛に触れてはならない』とかいうものだった87。
続けて逸枝は、以下のようにも書きます。
満州事変の前後から、政府は強圧的に学問・思想の統制にのり出した。文部省が『国体の本義』を出して、神話を歴史事実の如く解釈することを強要するようになって、歴史は神がかりしてしまった。学者の自由な研究は学問上でもさし控えねばならぬようになった。 アカデミズムの多くの学者は、神秘的な皇国史観が日本人として唯一の歴史観でなければならぬと高唱した88。
父系つまりは男系の血筋(皇統)を絶対視する婚姻制度の観点からすれば、逸枝の「母系制」にかかわる論考は、まさしく論外の研究ということになります。そこで、「序文」の執筆が、逸枝にとって同郷人であり、しかも「皇室中心以外には一億一心の団結はあり得ないとする信念」89の持ち主である、徳富蘇峰にゆだねられました。それは毛筆によるもので、「例言」に先立つ巻頭に配置されました。こう逸枝はいいます。
私には前に書いた「特達」の内容は恐怖に値するものだった。私の『母系制の研究』はたとえ無事に出版されたとしても、「発禁」の公算は大きいとしなければならなかった。現行家族制は「固有」のものであり、それは国体の支えとされているのであって、それを根底からひっくりかえす研究が看過されるはずはなかろう。徳富蘇峰の序文が、私の『母系制の研究』を発禁から護ってくれたことは疑いなかった90。
それでは、内容は、どうでしょうか。それを見てみます。この著作も、前書の『大日本女性人名辭書』と同じく、六四九頁に及ぶ浩瀚なものでした。逸枝は、「例言」のなかで、研究の方法、本書の構成、および研究の意義について述べます。ここに、その核心部分を抜き出してみます。
私の研究は、古文献に埋蔵されたる母系的遺産を發掘組織化し、これを系譜と婚姻の両面より観察したものである。……私の取つた方法は、これを(一)多祖の研究、(二)複氏の研究、(三)諸姓の研究、(四)賜氏姓の研究に大別し得るが、一言に要約すれば、すべてを多祖説とすることもできる。この多祖説こそ、私が學界に問はんとするものである。……この研究は、次の三つの意義を含んでゐる。其一は、上代における家族制の問題であり、他の一は、母系的遺習が國家の中央統制として、之を比較的平和裡に進捗せしめた隠れたる要因をなしてゐる事實である。……このことは第三に、わが國民の血の歸一を物語るものである。女性史の第一歩において、すでに母系の犠牲と支持による國家の統制乃至一家族化といふ必然の結論に達した私は、以後の發展においても恐くは女性の秘められた犠牲と奉仕との絶大なる貢献を顕彰することが出來るであらう91。
ここに言及されている「多祖説」と「わが國民の血の歸一」とが、本書の主要な結論に相当します。この本は、「第一篇 緒論」「第二篇 本論」「第三篇 結論」から構成され、「第三篇 結論」も、「第一章 國作り氏作り部作り」「第二章 母系姓より父系姓への變化過程」、そして「第三章 吾等の収穫」の三つの章から組み立てられています。「第三章 吾等の収穫」のなかで、逸枝は、第一節で「多祖説」を、そして第二節で「血の歸一」を語ります。「血の歸一」について、その一部を引用して、以下に示します。逸枝の『大日本女性史 母系制の研究』の結論部分として、最も重要な箇所であると思われます。
此世のこと皆正し、母系より父系への推移は黨然の發展である。母系は保守的排他的な血族團體であり、父系は進歩的抱擁的婚姻團體である。社會の推移はすべて此線に沿つて流れるであらう。 ここに吾等は、偉大なる日本父系の進歩的態度――凡ゆる異族、蠻民等と進んで婚姻し、彼らを完全に自系下に結合し、國作り、氏作り、部作りをなしたこと、或いはまた、なさざるを得ない天與の事情にあつたことを限りなく喜ぶものである。 (中略) 氏姓の進化は云ひかへれば系譜の一姓化である。我國ではいかなる異族も歸化人も、その母系の犠牲と支持によつて系譜的に、明文的に、相率ゐて皇別化し、神別すを得た。すなはち、一姓化への方向に促進せられた。次に血の純化は前に述べた血の歸一をいふ。 これを要するに、系譜においては一姓化、血においては歸一、著者、これをもつて、吾等の収穫の最後のものとする92。
このように逸枝は、「系譜においては一姓化、血においては歸一、著者、これをもつて、吾等の収穫の最後のものとする」という言葉でもって本書の最後を結ぶのでした。
しかし、徳富蘇峰の「序文」も、そして、「第三篇 結論」の「第三章 吾等の収穫」も、終戦より三年後の一九四八(昭和二三)年一一月に恒星社厚生閣から刊行された改訂三版において、いずれも削除されることになるのです。なぜ削除されなければならなかったのでしょうか。当時の逸枝の思考のすべてが、この部分に投影されており、戦後の価値観とは相容れない内容だったからではないかと推量されます。
もっとも逸枝は、そののちに書く自叙伝「火の国の女の日記」において蘇峰の「序文」に触れ、このように述べるのでした。
それにしてもこの序文が『母系制の研究』を事なく世に送りとどけてくれた事実、また、その後の研究をも可能としてくれた事実について私は深く感謝している93。
逸枝は、『大日本女性史 母系制の研究』の「例言」において、今後の自身の研究にかかわって、次のように堂々と抱負を書きました。
一、私が書かんとする女性史は、若しすべての事情が之を許すならば、次の五巻としたい考へである。 1 母系制の研究 2 招婿婚の研究 3 通史古代 国初より大化迄 4 同 近代 改新より幕末迄 5 同 現代 維新より現在迄94
逸枝の「女性史」にとって、前半の二著が特殊研究、後半の三つの書物が通史研究となるものでした。壮大な研究計画です。しかし、ほぼこのとおりに、執筆が進んでゆきました。以下は、その実際の刊行書籍の一覧です。
(1)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938(昭和13)年6月。 (2)高群逸枝『招婿婚の研究』大日本雄辯會講談社、1953(昭和28)年1月。 (3)高群逸枝『女性の歴史』上巻、大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年4月。 (4)高群逸枝『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955(昭和30)年5月。 (5)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年6月。 (6)高群逸枝『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年7月。
最後の『女性の歴史』の続巻が刊行されるのが一九五八(昭和三三)年ですので、「森の家」での執筆開始から悠々二七年の歳月をかけて全巻完結することになります。
こうして、『大日本女性史 母系制の研究』を世に送り出し、在野研究者、あるいは独立研究者として見事なデビューを果たすと、逸枝は、次の第二巻「招婿婚の研究」に着手します。そこには、膨大な資料が横たわっていました。
第一に江戸期以前の全文献を対象とし、第二に考古、民俗、法制その他の隣接諸学から 先人の報告等を対象とするものだった。その蒐集と消化が先決だった95。
そこで逸枝は、「以前からのやりかたに、さらに鉄のたがをはめた。自分に鉄の規律を課したのである。労働時間は一日平均十時間をくだらないこと。面会は原則として謝絶することが再確認された」96。かくして逸枝は、「鉄の規律」で身を固め、次の目標である「招婿婚の研究」の完成に向けて再出発するのでした。
その一方で、「森の家」の外に目と耳を向けると、次のようにらいてうが書くように、自由や学問から大きくかけ離れた、軍事体制下の困苦の生活が広がり、そしてまた、軍靴の轟音がありました。
日支事変[日中戦争]の拡大以来、戦時国家への再編成は急速に進められ、市民に対する防空、防火心得の宣伝が行なわれるようになり、昭和一三年の四月には、燈火管制規則が実施されることになりました。……昭和一四年になると警防団がつくられ家庭防空・防火体制は一段と強化され、町内自治会は、もんぺの仕立講習会をひらいて、戦時下の家庭婦人がもんぺを着用する、国民精神総動員運動に協力しました97。
「招婿婚の研究」に着手したものの、生活のために売文も書きました。そのころ逸枝は、『婦女新聞』『都新聞』『家庭新聞』『輝ク』『女性展望』『ホーム・ライン』『日本談義』等に文を寄せています。そのなかには、次の一文も含まれます。一九四〇(昭和一五)年は、神武天皇が即位してから二六〇〇年に相当する年でした。この皇紀二千六百年の記念すべき年頭に際し、逸枝は、『婦人朝日』(新年号)に「女性二千六百年史」を寄稿します。それがきっかけとなって出版の依頼を受けた逸枝は、それに手を加え、わずかおよそ二週間で『女性二千六百年史』という題の一巻本に仕上げ、厚生閣より公刊します。この本は、「女性二千六百年史」「女訓」「日本女性の本質」「女性史のために」「女性史話」「道遠し」から構成されています。「女性二千六百年史」は、「第一 古代」「第二 中代」「第三 近代」「第四 現代」で成り立ち、「女性二千六百年史」以外は、それまでにさまざまな紙誌に書いていた小文を集成したものです。この書に、戦時体制下における逸枝の歴史観と女性観の一端を見ることができます。「女性二千六百年史」は、天照大神の御代から書き起こされていますし、日本女性の美質を、逸枝は、健全な保守性と中庸な性格に求めているのです。これらに関連して、『女性二千六百年史』から二箇所、以下に引用します。
日本の歴史を、どこからはじめるかといふことには、いろいろ説があるが、黒板勝美博士のごとく、天照大神の御時にはじむべしとするのは、今日最も妥當な見解であろう98。 もちろん、女性の保守性は、文學に限つたことではない。今日耳慣れた國防のことにしても、この精神を文獻について云へば、記紀に見えてゐる素尊に對して武装し給うた天照大神の御事がその始めであるといふべく、國威の發揚にしてもそれは神功皇后の征韓事變に發してゐると云へる99。
おそらくこうした記述と歴史観が、『女性二千六百年史』の刊行から二年後の、大日本婦人会が主宰する『日本婦人』における連載執筆へとつながっていったものと思われます。
一九四一(昭和一六)年七月に『大日本女性史 母系制の研究』の再版が世に出て五箇月後の一二月、日本はアジア・太平洋戦争へと突入します。翌年(一九四二年)の二月には、既存の愛国婦人会と大日本連合婦人会と大日本国防婦人会の三団体が統合され、大日本婦人会が発足します。これにより、国家総力戦へ向けてすべての女性を動員する体制がつくられ、機関誌『日本婦人』も発刊されるに至ります。逸枝も、これに寄稿し、この団体の活動に協力します。『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」(逸枝自叙伝)の執筆は、逸枝の死亡により、戦中戦後の記述から夫の憲三に引き継がれますが、それには、逸枝が行なったこの機関誌への寄稿について、こう記されています。
この『日本婦人』の寄稿(一五枚)は二十年終戦直前の廃刊までつづき、私たちの家計はその間この毎月の稿料百五〇円でほぼまかなわれ、他の雑文も書かないですみ、研究に停滞をもたらさなかったことは思いがけない幸運だったとしなければならないだろう100。
しかし憲三は、逸枝が『日本婦人』に寄稿した記事の内容については、何も具体的に言及していません。加えて、『日本女性傳』についても、等しく言及を避けました。この本は、一九四四(昭和一九)年七月に、文松堂書店から上梓されたものです。少し長くなりますが、「はしがき」の全文を以下に引用します。
本稿はもと大日本婦人會の機關誌「日本婦人」のために一年間執筆(同誌一ノ一-一ノ十二)したものであります。今回、いささか補訂のうへ、上梓することにいたしました。 これは、國史から特定の女性-主として國家の生成發展に寄輿し若くは國家生活の動脈に觸れたもの-を選び、その業績を時代的に意義づけて、ここに一貫した日本女性の傳統的奉公の精神と實踐のすがたをみようとこころみたものであります。 私たちは、國史への尊敬とともに女性史への親しみをもち、かくて先人の道統をつぐものとして、つねに日本女性たるの自覚と矜持に生き、特に現下の女性に課された國の要請にたいし、充分確信のうへに立つて、これを果して行きたいと思ひます。 右の意味でこの書が多少なりお役にたちますならば、私のよろこびこれに過ぎるはありません。 題簽は徳富老先生のおめぐみによるものでございます。
著者101
目次は、「第一 御女帝の聖徳」「第二 倭姫命」「第三 神功皇后」「第四 橘三千代」「第五 清少納言」「第六 北條政子」「第七 大楠公夫人」「第八 戦國の烈女たち」「第九 荒木田麗」「第十 和宮」「第十一 神風連の女性」と続き、そして最後が「第十二 奥村五百子」です。
『女性二千六百年史』は、見てのとおり、書題は皇紀表記となっています。他方、四年遅れて戦時中に刊行された『日本女性傳』は、事実上『女性二千六百年史』の姉妹編に相当する書物です。すでに引用によって示していますように、逸枝は、晩年の自叙伝「火の国の女の日記」におきまして、「満州事変の前後から、政府は強圧的に学問・思想の統制にのり出した。文部省が『国体の本義』を出して、神話を歴史事実の如く解釈することを強要するようになって、歴史は神がかりしてしまった。……アカデミズムの多くの学者は、神秘的な皇国史観が日本人として唯一の歴史観でなければならぬと高唱した」と、あたかも他人事のように書きました。そのように書く逸枝も、実は、上で見てきたように、当時にあっては、「神秘的な皇国史観」の持ち主だったのでした。
この時期を振り返って、のちに逸枝は、「『招婿婚の研究』着手後の約三年半、つまりは、昭和一三年四月から一六年末までの時期は、私の長い研究生活の上でも一種特別の意味をもつものだった」102と、書き記します。しかしながら、「一種特別の意味」の内実については、自ら多くを語ることはありませんでした。
一九四五(昭和二〇)年八月一四日、日本はポツダム宣言を受け入れ、日本が降伏することにより、アジア・太平洋戦争は終わりました。翌一五日の正午、昭和天皇自らがラジオを通じて国民に直接終戦を伝えます。いわゆる「玉音放送」です。その内容の一節は、「朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ビ難キヲ忍ビ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」というものでした。そして九月二日に、正式に降伏文書への調印がなされることになります。
「玉音放送」から一夜が明けました。次は、八月一六日の日記に書かれている一文です。
昨日正午戦争終結の天皇放送! ふかい痛苦をひしひしと胸に感じて 泣き哭くのみ ただ泣き哭くのみ 夜はねむりてさめて 泣き哭くのみ 朝も泣くのみ しばらくも涙やまず 苦しき涙なり 涙なき涙なり 色なき涙なり これは何を意味する痛苦か われらいまだこれを知らず ただ苦しむ 四六時苦しむ103
この時期の日記は、逸枝と夫の憲三とによる夫婦の「共用日記」です。八月二一日の日記には、「逸枝立ち直り新仕事場にはいって勉強をはじめた」104、続く二七日の日記には、「階上の書齊を整理、模様がえした」105の文字が並びます。このとき、二階にあった書斎が一階に移されました。こうして、戦後の研究生活がはじまったのでした。
逸枝の頭のなかでは、どのようなことが行き来していたでしょうか。本人は何も書いていませんので想像するしかないのですが、おそらく、どう自身の戦前の歴史観から離脱するかにかかわる論点であったろうと思われます。それを象徴するものが、以下の出来事でした。終戦から二年後の一九四七(昭和二二)年の一〇月に『日本女性社會史』が、翌一一月に『女性史学に立つ』が刊行され、その翌年の一九四八(昭和二三)年一一月に、戦前の『大日本女性史 母系制の研究』(初版と再版)が『母系制の研究 大日本女性史第一巻』に改題されて、新たに改訂三版として世に出ます。それでは、この三つの著作を通して、いかにして逸枝は、自身の「戦前」を払拭したのかを見てみたいと思います。
抽象的な表現をすれば、それは、古事記や日本書紀の神話を歴史的事実とし、万世一系の天皇を中心とする国体発展の叙述をもって正当な歴史とみなす皇国史観からの脱皮であり、それに代わって、日本国憲法に国民主権が明記されたことを踏まえ、歴史の対象を皇統から広く国民に置き換え、同時に神話から離れ、文献資料と発掘資料を援用した実証史学へと転換することを意味します。
それでは、具体的に逸枝は、それをどう実践したのでしょうか。
最初に、『日本女性社會史』を見てみます。
この本の「序」のなかに、逸枝のこれまでの研究の総括と、戦後の再出発に当たっての決意のようなものを読み取ることができます。少し長くなりますが、以下に引用します。
著者は、昭和五年一月一日に志をたて、女性史研究に半生をささげる決心をした。爾來十七年、下界と斷つてくる日もくる日もただ机を友としているが、十三年に女性史第一巻として「母系制の研究」を世に送つたのみで、業は遅々として進まない。第二巻「招婿婚の研究」は、昨今ようやく準備がおわつて整理の段階に入つたが、まだいつ筆が起こせるか豫想ができない。このときこの小著が求められた。この種の執筆を求められたことは、これまでいくたびかあつたが、著者は自己の研究が中途にあるため、辭するを常とした。しかるに終戦後、女性の上にも畫期的變革がもたらされることとなり、新しき日のために、ふるき生活の反省が絶對の要請になつた。われわれは、現在の自己の歴史的位置をたしかめることによつて、賢明な明日をもたなければならない。ここに同時代人としての義務心から、あえて求めに應じてこれを書いたのであるが、當然不完全はまぬがれないであろう。ねがわくば、読者の高敎と助言によつて、今後補正するところありたい106。
終戦後、「女性の上にも畫期的變革がもたらされること」になった大きな要因のひとつは、新憲法の第二十四条が謳う婚姻に関する規定だったにちがいありません。といいますのも、その一項には、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と述べられており、旧来の封建的で家父長的な制度のもとでの婚姻とは、大きく異なる「畫期的變革」の思想が示されていたのでした。しかしながら、いまだアカデミズムの歴史学は、「女性史」自体を問題意識の外に置いていました。逸枝がどうしても終戦直後のこの時期に、目下着手中の「招婿婚の研究」を横に置いてまで、『日本女性社會史』を上梓しなければならなかったのは、まさしく本人が書くように、「同時代人としての義務心」によるものだったに相違ありません。もっとも、さらに踏み込めば、自身の深部に存在する戦前思想と一日も早く決別しなければならないという強い強迫観念がつきまとい、それに導かれた結果だったのかもしれません。
逸枝は、『日本女性社會史』と題されたこの本において、女性の婚姻や家族生活のあり様を主題に、「群時代(女性の自由時代)」「氏族時代(自由時代)」「氏族崩壊時代(半自由時代)」「家族時代(被厭迫時代)」「家族崩壊時代(半解放時代)」の五つの時代に区分して、通史的に記述しました。
特徴的なことは、前作となる、戦前に書いた『女性二千六百年史』と『日本女性傳』には、いっさい触れていないことです。そしてまた、神話世界に登場する女性は、ここに至って完全に排除されていることです。こうして逸枝は、無言のうちに、つまりは、過去の発表作品を闇に葬ったうえで、自身の「戦前」を乗り越えようとしたのでした。
次に、『女性史学に立つ』を見てみます。そのなかで逸枝は、「學問の自由」について、こう語っています。
日本歴史の新しい検討ということがもとめられている。女性史の一研究者として、私はこの際若干の感想をのべてみたい。わが國の歴史研究が狭く浅く、政治史にかたよつている點は、すでに多くの人からいわれてきたとおりであるが、敗戦を機會にそれらのことはむろん反省せられねばならない。 根本の問題は學問の自由、眞理の探求であるが、學者がつねに政治的制壓をうけることはまぬがれ得ない。 私の経験からいえば、女性史なども、なにか社會や男性に反抗する危険思想ででもあるかのように思われがちで、随分不愉快な壓迫や俗見とも戦わなければならなかつた。 私は、昭和十三年に、九年の勞作になる女性史第一巻を、「母系制の研究」として世に出した。この題目など、特に、現行家族制度の父系思想からみて、好ましからぬ印象をもたれたことも、肯けないことではない。私は江戸時代の儒者たちが、天照大神の男性説を唱えねばならなかつた心持がいまだに殘つて、學問研究を妨げているのを殘念に思う。 上梓に際し、出版書肆からは、わざわざ當局の注意事項が傳達された。それはかなり非常識なものであつた107。
他方、「史学の革新」に関しては、こう述べます。これもまた、少し長くなりますが、逸枝の「戦前」から「戦後」へと至る、学者としての思想的変容を物語る重要な部分ですので、引用します。
女性史は、文化史中のまつたく新しい分野を開拓するものであつて、この研究が進められて行けば、當然従來の史觀の誤謬を訂正する部分も多いはずである。 私もこの研究に専念するようになつて、まだ十五六年位にしかならないけれども、それについて氣づいている事例はすくなくない。私は第一巻「母系制の研究」を出してから、第二巻「招婿婚の研究」に没頭し、まだ成稿の運びにいたつていないが、この招婿婚の問題にしても、考えさせられることが多い。 (中略) つまり招婿婚は、國初以前から室町におよぶ長期間繼續した著明な現象であるが、その内面に母系族制から父系のそれへの完全移行を、きわめて秩序正しく具體的に裏づけているのである。 くわしいことは、拙著にゆずるほかないが、とまれこうした事實があきらかになれば、家族制も爾餘の制度とおなじく發展的なものであり、俗間に、「わが固有の家族制度」などと現行家族制度に固定性、永遠性を付輿していることの虚妄も消散するであろう。 (中略) 要するに、見て見ぬふりをしたり、ことさらに輕視したりすることをやめて、なにごとも謙虚に、學問の對象としてとりあげ、さらにそれを人類史的關係にまで引きあげ、普遍化することにこそ、學者の本領はあるべきであろう108。
逸枝は、「要するに、見て見ぬふりをしたり、ことさらに輕視したりすることをやめて」と書きます。何も揚げ足取りをするわけではありませんが、もしそうであれば、戦前に『女性二千六百年史』や『日本女性傳』などを出版していたことも「見て見ぬふりをしたり、ことさらに輕視したりすることをやめて」、自分史の一部として、「敗戦を機會にそれらのことはむろん反省せられねばならない」ことだったのではないでしょうか。
三番目として最後に、『母系制の研究 大日本女性史第一巻』を見てみます。
一九四一(昭和一六)年七月刊行の『大日本女性史 母系制の研究』の再版は、体裁、内容ともに初版と変わりありませんでした。しかし、戦争が終わって三年が立った一九四八(昭和二三)年一一月に発刊された改訂三版においては、体裁と内容に大きな変化が認められます。すぐにも目に止まるのは、主題と副題が入れ替わり、『母系制の研究 大日本女性史第一巻』へと改題されていることです。他方、初版と再版の『大日本女性史 母系制の研究』の題簽は吉岡彌生の揮毫によるものでしたが、改訂三版の題字は活字で組まれ、しかも、副題の「大日本女性史第一巻」には、ほとんど目につかないほどの小さな活字が用いられていました。戦前にあっては、「大日本女性史」が強調され、戦後にあっては、「母系制の研究」が前面に出ます。戦争を挟む前後の際立つ特徴をこの書題は担うことになったのです。
体裁だけではなく、内容においても、大きな改変がありました。このことについて逸枝は、改訂三版の「例言」のなかのひとつの項目において、このように触れていますので、以下に引用します。
一、本書は昭和一三年六月四日初版第一刷、一六年七月二〇日再刷、今回は第三刷である。第三刷は、初版第三篇の第三章を除きたるほか全體にわたつて若干の改訂を施したが、それは主として、たとへば「母系」といふ文字すらややもすれば伏字しなけらばならなかつた初版發行當時の社會状勢を顧慮するあまりなされた學術書にはふさわしからぬ贅語的表現を整理したのであつて、内容的變化はない109。
逸枝は、このように「例言」において、「初版第三篇の第三章を除きたる」事実については確かに言及していますが、しかし、その理由については直接の明言を避け、「初版發行當時の社會状勢」をほのめかすに止めるのでした。畢竟この示唆は、「第三篇 結論」の「第三章 吾等の収穫」は、自身の意に反して、「初版發行當時の社會状勢」にやむなく身をゆだねて書いたまでのことであって、ここで抹消しようと、それによって大きな「内容的變化はない」ということを含意しているように読めます。
しかしながら、すでに述べていますように、『大日本女性史 母系制の研究』(初版)は、「第一篇 緒論」「第二篇 本論」「第三篇 結論」から構成され、「第三篇 結論」は、「第一章 國作り氏作り部作り」「第二章 母系姓より父系姓への變化過程」「第三章 吾等の収穫」の三つの章から組み立てられていました。また、「第三章 吾等の収穫」では、第一節で「多祖説」が、そして第二節で「血の歸一」が語られていました。このことから判断しますと、「第一節 多祖説」と「第二節 血の歸一」とから成り立つこの「第三章 吾等の収穫」は、『大日本女性史 母系制の研究』(初版)の中心となる考察と結論の部分であり、同時に、本書最大の「収穫」の部分である以上、「初版發行當時の社會状勢」に従って不本意ながらも書いてしまったことを示唆する逸枝の言辞は、どうしても説得力を欠くものといわざるを得ません。裏を返せば、『大日本女性史 母系制の研究』(初版)を書いた戦前の逸枝は、「多祖説」と「血の歸一」を本心から信ずる歴史家であり思想家であったにちがいなく、したがって、戦後すぐの一九四八(昭和二三)年一一月に恒星社厚生閣から刊行された改訂三版において「第三章 吾等の収穫」を削除せざるを得なかった逸枝は、歴史家として、また思想家として、大いなる敗北に見舞われたことになったものと思料されます。
しかしこのとき味わった「苦杯」は、逆の見方に立てば、戦前思想から離れ、戦後思想のなかでこれから生きてゆこうとする、逸枝にとっての内なる一種の契りを意味する、ささやかなる「祝杯」だったかもしれません。といいますのも、初版(一九三八年刊)および再版(一九四一年刊)にみられる『大日本女性史 母系制の研究』が、この改訂三版において、『母系制の研究 大日本女性史第一巻』に改題され、研究内容を直接言い表わした「母系制の研究」を前面に出すことができたからです。初版と再版の「大日本女性史」の一文字に、おそらく逸枝は、「皇国女性の歴史」ないしは「大日本帝国女子の歴史」を含意させていたものと思われます。しかし改訂三版において、こうして、完全に主題と副題を入れ替えることにより、加えて「第三章 吾等の収穫」を抹消することにより、さらにそれだけではなく、巻頭の徳富蘇峰の毛筆になる「序文」も巻末の「紹介辭」も削除することにより、逸枝は、戦前思想からの解放の一歩を踏み出すことができたのでした。
しかしながら、当時の逸枝の思想の本質部分が投影されていると思われる「第三章 吾等の収穫」が戦後の価値観とは相容れない内容とみなされ、完全に闇に葬られていったことを、私たちはどう受け止めればいいのでしょうか。「多祖説」と「わが國民の血の歸一」を抜きにして、この『大日本女性史 母系制の研究』は、本論と結論のあいだで齟齬を来たすことなく、一貫した論理的安定性のもとに成立しうるのか、どうしても疑問がつきまといます。
以上、『日本女性社會史』『女性史学に立つ』『母系制の研究 大日本女性史第一巻』の三つの大戦後に公刊された著作につきまして、その内容とあわせて、戦前思想を離れ、戦後の思想と逸枝がどう向き合ったのか、その様子を概観してきました。しかし、それで終わったわけではありません。さらに、戦前の著作の改訂が続きます。今度は、一九五四(昭和二九)年に大日本雄辯會講談社から新版が登場します。順番からいえば、第四版に相当します。この版においては、もはや「第三篇 結論」の「第三章 吾等の収穫」の削除についてはいっさい触れられることはありませんでした。しかも、改訂三版にはかすかに小さい文字で残っていた「大日本女性史第一巻」の副題も完全に消え去り、書題は、単純で明快な『母系制の研究』という表現に一新されました。
他方で、この新版の跋文には、従来のそれへの加除が認められます。加えて、改訂三版までの跋文においては「高群逸枝著作後援会」の発起人として六五名の名前が挙げられていましたが、新版の「跋」におきましては二〇八人の名が挙がっています。しかしながら、新版の跋文において、そうした加筆訂正への言及はありません。それどころか、執筆日が「昭和十三年春」となっており、初版と再版にみられた皇紀による表記である「二五九八年五月」、改訂三版にみられた元号による表記である「昭和十三年五月」と、表記の違いはあるものの、実質上同じ年月になっています。したがって、新版をはじめて手にする読者にあっては、新版の「跋」をもって初版の「跋」と思い違いをする人も多かったのではないかという危惧も残ります。
いずれにしましても、初版(一九三八年、厚生閣刊)と再版(一九四一年、厚生閣刊)の『大日本女性史 母系制の研究』、続く戦後の改訂三版(一九四八年、恒星社厚生閣刊)の『母系制の研究 大日本女性史第一巻』――こうした先行するどの版のなかにも認められた「大日本女性史」という文字は、新版(一九五四年、大日本雄辯會講談社刊)に至って完全に消し去られ、新たに単独の『母系制の研究』という書名に変わったのでした。このときすでに、初版発行から戦争を挟み一六年の歳月が流れていました。かくして書名改変の道程をたどりながら、やっとこの新版において逸枝の戦前思想の払拭は完結したものと推量されます。
いよいよこうした過程を経て、一九五三(昭和二八)年刊行の『招婿婚の研究』(初版、大日本雄辯會講談社)と、続く一年後に出版されることになる、かかる一九五四(昭和二九)年の『母系制の研究』(新版/改訂四版、大日本雄辯會講談社)の、このふたつの大作によって、この時期、高群女性史学の土台となる基礎部分が、鮮明に造形されていったのでした。換言すれば、ここに至ってようやく逸枝は、本当の意味で「女性史学に立つ」ことができたものと思われます。
こうして「女性史学に立つ」ことができた逸枝は、その後、次のような書物を世に送ります。
(1)『女性の歴史』上巻、大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年4月。 (2)『女性の歴史』中巻、大日本雄辯會講談社、1955(昭和30)年5月。 (3)『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年6月。 (4)『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958(昭和33)年7月。
最後の『女性の歴史』の続巻が刊行されるのが、逸枝六四歳と六箇月の一九五八(昭和三三)年七月ですので、一九三一(昭和六)年七月の「森の家」での執筆開始から悠々二七年の歳月をかけての全巻完成でした。構想力の明晰さと実行力の厳格さに、人はみな、一様に驚くのではないでしょうか。
それでは少し、全巻をとおしての『女性の歴史』の特徴を見てみたいと思います。この『女性の歴史』シリーズは、巻ごとではなく通巻において章と節が設定されていることが、大きな特徴となっています。そこで以下に、各巻から章と節を抜き出し、その全体像をここに示します。
第一章 女性が中心となっていた時代(上巻) 一.日本列島のもつ原始性 二.家庭を知らなかった社会 三.無痛分娩の母たち 四.族母卑彌呼 五.女性中心の文化 第二章 女性の地歩はどんなぐあいに後退したか(上巻) 一.文明の開幕 二.私有財産がうまれた 三.氏族がこわれた 四.国家ができた 五.女性文化がくずれた 第三章 女性の屈辱時代(中巻) 一.世界史の基本法則からみた日本女性史 二.市民社会が出現した 三.「家」が形づくられた 四.封建権力が天下をとった 五.いわゆる庶民文化 第四章 女性はいま立ち上がりつつある(一)(下巻) 一.開国とゲイシャガール 二.明治政権と女性 三.家父長制の再編 四.近代恋愛の発生と挫折 第五章 女性はいま立ち上がりつつある(二)(下巻) 一.婦人問題の展開 二.女性の自覚と運動 第六章 女性はいま立ち上がりつつある(三)(続巻) 一.労働婦人のあゆみ 二.婦人労働の諸問題 第七章 女性はいま立ち上がりつつある(四)(続巻) 一.第二次大戦の前後 二.危機の文化と女性 第八章 平和と愛の世紀へ(続巻) 一.平和運動 二.愛の世紀
このように連続させて章と節をつなげますと、高群女性史学の全体像が鮮明に現像されます。一言でいえば、「女性中心の社会」から「女性の屈辱時代」を経て、やっといま「女性時代の再来」を迎えようとしているというストーリーになるでしょうか。今日的視点からすれば、単純にすぎる、あるいは楽観にすぎる傾向は否めませんが、この国にあって事実上はじめて出現した、女性を対象とする歴史書であれば、その学術的価値は極めて高いといわなければなりません。その一方で、『女性二千六百年史』と『日本女性傳』から『日本女性社會史』を経て『女性の歴史』(全四巻)へと続く、「女性史」研究の経緯をつぶさに見れば、その歴史は、逸枝本人の研究者としての苦闘の「女性の歴史」を表象しているようにも感じられます。さらに別の観点に立てば、こうした研究に迂回をもたらしたひとつの大きな要因が「戦争」にあったとするならば、「戦争と学問」の一頁を、逸枝は間違いなく体現していたことになり、それを歴史として書き残すのも、後世の歴史家に課せられた、決して小さくないひとつの仕事であるようにも思量されます。
『女性の歴史』全四巻が完結しますと、その後、生前の逸枝の最後の本となる『日本婚姻史』が、一九六三(昭和三八)年五月に至文堂から刊行されます。その「奥付」の上に記載された「著者略歴」には、次のように書かれてありました。
明治27年 熊本県に生まる。 昭和6年~現在 女性史・婚姻史専攻。 著書 母系制の研究、招婿婚の研究、女性の歴史(4巻)。
これを見る限り、詩人としての逸枝の、アナーキストとしての逸枝の、それに続く、国体主義者としての逸枝の、かつて展開した鮮烈な活動の面影は、もはやどこにもありません。『母系制の研究』、『招婿婚の研究』、そして『女性の歴史』(全四巻)、さらに加えて『日本婚姻史』を著わした、女性史・婚姻史専攻の学者としての顔のみが、読者に向き合っているのです。そして、この本の上梓から一年後の一九六四(昭和三九)年六月、自伝「火の国の女の日記」を途中書き残したまま、七〇歳にして帰らぬ人となるのでした。
(22)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、130頁。
(23)高群逸枝『日月の上に』叢文閣、1921年、252頁。
(24)前掲『山の郁子と公作』、107頁。
(25)柳澤健「婦人を待てる文壇」『大阪朝日新聞』、1919(大正8)年6月9日、夕刊4面。
(26)柳澤健『現代の詩及詩人』尚文堂、1920年、156頁。
(27)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、163頁。
(28)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、169-170頁。
(29)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、168頁。
(30)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、170頁。
(31)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、165頁。
(32)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、171頁。
(33)高群逸枝『放浪者の詩』新潮社、1921年、1頁。
(34)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、179頁。
(35)前掲『今昔の歌』、202頁。
(36)同『今昔の歌』、209-210頁。
(37)前掲『現代の詩及詩人』、162頁。
(38)生田長江「『日月の上に』の著者に就て」『新小説』1921年4月号、別1⃣ 1頁。
(39)同「『日月の上に』の著者に就て」『新小説』、同頁。
(40)前掲『日月の上に』、ノンブルなし。
(41)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、187頁。
(42)高群逸枝『妾薄命』金尾文淵堂、1922年、23-24頁。
(43)高群逸枝『東京は熱病にかゝつてゐる』萬生閣、1925年、3-5頁。
(44)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、274頁。
(45)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、236頁。
(46)前掲『黒い女』、11頁。
(47)同『黒い女』、5頁。
(48)高群逸枝「戀愛行進曲――月漸く昇れり――」『女人藝術』第2巻第1号、1929年1月、21頁。
(49)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、232頁。
(50)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(51)八木秋子「曇り日の獨白」『女人藝術』第2巻第7号、1929年7月、95-96頁。
(52)熱田優子「中川紀元氏に問う」『女人藝術』第2巻第7号、1929年7月、99頁。
(53)伊福部敬子「平塚明子樣に」『女人藝術』第2巻第7号、1929年7月、100-101頁。
(54)藤森成吉「公開状について一言、八木秋子氏へ」『女人藝術』第2巻第8号、1929年8月、48頁。
(55)八木秋子「簡単な質問(藤森成吉氏へ)」『女人藝術』第2巻第9号、1929年9月、18頁。
(56)高群逸枝「小ブル藤村成吉の與ふ」『女人藝術』第2巻第9号、1929年9月、4-17頁。
(57)隅田龍子「八木、高群両氏へのアナーキズムに対する駁論」『女人藝術』第2巻第11号、1929年11月、12頁。
(58)高群逸枝「お出になさつた――一アナーキストの宣言――」『女人藝術』第2巻第12号、1929年12月、39頁。
(59)八木秋子「隅田氏の妄論を駁す」『女人藝術』第2巻第12号、1929年12月、52頁。
(60)「社告」『女人藝術』第2巻第12号、1929年12月、39頁。
(61)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、238-239頁。
(62)『婦人戦線』第1巻第1号、婦人戦線社、1930年、16頁。
(63)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、158頁。
(64)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、306-307頁。
(65)同『元始、女性は太陽であった③』、307頁。
(66)同『元始、女性は太陽であった③』、同頁。
(67)高群逸枝「婦人戦線に立つ」『婦人戦線』第1巻第1号、婦人戦線社、1930年、8頁。
(68)同「婦人戦線に立つ」『婦人戦線』、14頁。
(69)前掲『婦人戦線』第1巻第1号、4頁。
(70)前掲『わが高群逸枝 下』、160頁。
(71)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、237頁。
(72)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、237-238頁。
(73)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958年、287頁。
(74)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、228頁。
(75)前掲『元始、女性は太陽であった③』、307頁。
(76)同『元始、女性は太陽であった③』、同頁。
(77)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、232頁。
(78)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、233頁。
(79)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、234頁。
(80)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、241頁。
(81)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、241-242頁。
(82)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、244頁。
(83)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、257頁。
(84)高群逸枝『大日本女性人名辭書』厚生閣、1936年、「跋」の1頁。
(85)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、356頁。
(86)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、274頁。
(87)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(88)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、275頁。
(89)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(90)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、同頁。
(91)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938年、2-3頁。
(92)同『大日本女性史 母系制の研究』、637-638頁。
(93)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、276頁。
(94)前掲『大日本女性史 母系制の研究』、1-2頁。
(95)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、281頁。
(96)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、281-282頁。
(97)前掲『元始、女性は太陽であった③』、319頁。
(98)高群逸枝『女性二千六百年史』厚生閣、1940年、13頁。
(99)同『女性二千六百年史』、143頁。
(100)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、306頁。
(101)高群逸枝『日本女性傳』文松堂書店、1944年、1-2頁。
(102)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、286頁。
(103)前掲『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、259頁。 この巻の巻末に付けられた、編者で夫の橋本憲三による「解題/編者」には、「昭和二〇年以降は完全に夫との共同日記になっている」と、記されています。したがいまして、この注(103)をはじめとして、これより以降に引用する日記は、逸枝の単独の日記ではもはやなく、逸枝と憲三との共同日記となるものです。
(104)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、同頁。
(105)同『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、同頁。
(106)高群逸枝『日本女性社會史』眞日本社、1947年、1頁。
(107)高群逸枝『女性史学に立つ』鹿水館、1947年、8-9頁。
(108)同『女性史学に立つ』、9-12頁。
(109)高群逸枝『母系制の研究 大日本女性史第一巻』恒星社厚生閣、1948年11月、3-4頁。