中山修一著作集

著作集27 余滴を集めて――高群逸枝研究

前編 高群逸枝のパーソナリティーの分析――親子関係、職業選択、気質、そして心的風景

第一章 仮説設定の前提――幼少期の親子関係

序節

この主題についての語りの文脈は、以下のとおり、「第一節 逸枝の父親との関係」と「第二節 逸枝の母親との関係」のふたつです。

第一節 逸枝の父親との関係

逸枝の父親、高群勝太郎は一八六三(文久三)年に肥後国(現在の熊本県)に生まれ、号を「嵓泉」といい、生涯にわたって「嵓泉日記」(全四一綴り)を書き付けており、逸枝の自叙伝である「火の国の女の日記」(『高群逸枝全集』第一〇巻に所収)にも、ここからの引用が散見されます。しかし現在はすでに消失していて、現存するならば、逸枝の幼少期を知るうえでの一級の資料になったものと思われます。勝太郎は、勤務する小学校を転々としながら、使命感と信念に徹したその身を、生涯一学校教師として捧げました。

逸枝が誕生する前に、勝太郎とその妻の登代子のあいだに、三人の男の子が生まれています。最初の子は死産、次の子は、生後一箇月半で死去。三番目の子も一年あまりで亡くなり、その名を義人といいました。しかし逸枝は、自分が生まれる以前にすでに亡くなっていた兄のことを、手製の稿本『十三才集』(熊本市立図書館所蔵)のなかで、「妾は切に亡き兄上様を思いまつりて、さびしき涙のみ、流れいづるなり」と書いています。義人のことは、父親か母親かに聞かされていたものと思われます。

愛児三人を亡くした両親はこころを痛め、阿蘇外輪山の山懐にある清水観音に詣でて、女児の誕生を祈って願をかけます。こうして生まれたのが逸枝でした。この夫妻にとって、願いどおりの女の子が誕生したのです。一八九四(明治二七)年のことでした。ふたりは、初観音の縁日(正月一八日)に生まれたことをことのほか喜びました。逸枝はこう書き記します。

 私は父母から「観音の子」とよばれ、その待遇を受けて育った。毎月の誕生日には、幼い私を正座にすえて、母の心づくしのご供物でお祭がなされた。私は物心づいてから小学校入学の頃までは自分を観音の子と信じていた。このことは、私の人間形成の上にプラスとなった面が多いと思う

のちに逸枝は、詩人としての自身を「天才」と呼ぶことがありました。それは、「観音の子」として生まれてきたという、この時期に形成された自覚に、ある程度由来するのかもしれません。

その後、勝太郎と登代子の夫婦は、逸枝が三歳、六歳、八歳になるときに、清人、元男、栞の二男一女を設けます。一九〇〇(明治三三)年は、この家族にとって大きな出来事が続きました。一月に元男が生まれます。四月には、六歳になった逸枝が、父親の勝太郎が校長を務める久具尋常小学校に入学します。しかし、年が押し迫った一二月、不幸が訪れます。同居していた勝太郎の母が他界するのです。以下は、そのときの逸枝の思いです。

 この祖母の死で、私は生後はじめて身近に人間の死を知り、のちに一生を支配した生死問題に入り込んだと思う。はやくも人生の虚無感にとらえられ、「この世とあわない」一面も芽ばえはじめたが、それと同時にあらゆる生命同士の団結や愛にも目ざめていった。処女詩集『放浪者の詩』の巻頭に、「死の愛」の一篇をのせているが、その思想もいわばこの祖母の死に起源したろう

その一年前の一八九九(明治三二)年、勝太郎は、家族を連れ立って、逸枝誕生のお礼に福岡県にある筑後清水観音に参拝していますし、さらに時が流れ、八代から人吉まで鹿児島本線が延伸した一九〇八(明治四一)年には、勝太郎は、学童たちを連れて秘境の城下町人吉へ修学旅行に出かけます。妻の登代子も一緒でした。勝太郎が出かけるときは、妻を同伴することが習わしとなっていたようです。他方で、地域に根差した教師でもありました。昼間の授業が終わると、地域の青年たちを集めては夜学を開き、漢籍や古典を教授しました。このように家族や妻を大切にするとともに、地域の人たちに寄り添う献身的な一面を備えている一方で、勝太郎には、酒にまつわる悪い癖がありました。次も、逸枝の回想するところです。

 酒のみがはじまると、子供部屋のない家なので……家を追い出されて、しょんぼりと立っていただろう小さかった私のおもかげが、いまも目に浮かぶようにみえてくるのである。こうして子どもの私は、酒の座のいとわしさや、喧騒や、そこに露出される人間どもの悪鬼めいた姿などにしょっちゅうおびえていたが、いっぽうではまたそうした人間どもに同情もするといった複雑な人生観の芽ばえをも引きだしていたのだった

酒に酩酊した父親は、自分を失い、横溢する性欲を妻にぶつけることも、また、暴力を振るうこともありました。それを目にするたびに逸枝は怯えるのでした。しかしその一方で、それを許容する自分にも気づいていました。自叙伝的小説『黒い女』のなかで逸枝は、こう表現します。「私は父を恐れてゐた。が愛してもゐた。父は飲んだくれではあつたけれど、それが悪人だらうか」。ここに逸枝の「複雑な人生観の芽ばえ」があったようです。

父の勝太郎は、妻が亡くなると、逸枝が語るところによれば、「母の死をもってわが事も終わったとして、翌[大正]十年三月、払川小学校長の職を辞した」のでした。それから六年後の一九二七(昭和二)年八月、今度は父勝太郎が亡くなります。そのとき勝太郎は六四歳、逸枝は三三歳になっていました。勝太郎の墓の墓碑銘は、のちに弟の清人からの依頼を受けて、逸枝の手によって揮毫されました。逸枝は、こう回想します。

 釈迦院岳のふもと、払川部落の下鶴の丘に、私の父母の墓がある。母の墓碑銘は父が書き、父の墓碑銘は私が書いている。父は母の碑面に赤い蓮の花を自分で書いて愛情を表示しているが、私は父の碑の側面に、「叱られたこともありしが草の露」という句を手向けている。父はめったに叱ったことはない。あるいは全くないといってもいいかもしれないが、そうであればあるほど、私たち子供は自己を反省してむちうたれていたので、だからこんな句が父に対して最上の敬意を表するものとして浮かんだのだろうと思う

振り返ってみれば、節目節目で、逸枝は父親にしかられていました。その幾つかを拾い上げてみます。資料に残る最初の事例は、「神隠し事件」でした。逸枝は、後年出版した『愛と孤独と』のなかで、こう書いています。「五歳のとき私は『神隠し』にあった。なにかで父にしかられ、泣く泣くそとにでたが、いつか裏山をのぼっていたのだった。その夜の山上の景色、それはまだわすれない。月があった。雲がふくらんでほうと飛んだ」。おそらくこれが、その後に続く逸枝の「家出事件」の最初のものでしょう。次は、家を出て、熊本の紡績工場で女工をしたときの事例です。逸枝は二〇歳になっていました。「女工になつたことが、故郷の父親に知れると、父親は火のやうに怒つて彼女を呼び戻した、そこで彼女は詮方なく故郷に歸つて代用教員となり濟ました、然し不安と、不満と、反抗とは常に彼女の胸に鬱積して、毎日退屈な日を送つた」。最後に、二五歳ころに逸枝が憲三に宛てて書いた手紙から引用します。「妾はまるで、ほんのむすめです。妾はそれを妾の父母から氣に食わないと云つていつも叱られます。……ですからどう考へても妾には結婚の資格はないのです。妾はもつと妾の理想的な空想的な生活をいたしてゐたいのです。いまの普通のそれには耐へられないのです。それを自由、と妾は申します」。こうした事例を挙げてゆきますと、「叱られたこともありしが草の露」という句のもつ語感の響きが、切切とほとばしります。他方、「父はめったに叱ったことはない。あるいは全くないといってもいいかもしれないが、そうであればあるほど、私たち子供は自己を反省してむちうたれていた」、そのこともまた、逸枝にとっての真実であったにちがいありません。

第二節 逸枝の母親との関係

次に、「逸枝の母親との関係」を見てみます。逸枝の母親は、一八六四(元治元)年に肥後国の大津山氏のもとに生まれ、その名を登代子といいました。勝太郎と結婚したのは一八八七(明治二〇)年でした。夫によって「静江」という号が授けられ、夫は「夜学がすむと妻のもとに帰って、妻を机の前にすわらせ、字さしをもって『外史』、『十八史略』、『四書』、『通鑑』の類を教え、自分とおなじ学問の水準に彼女を引き上げる努力をした」10といいます。夫が妻に教えたように、今度は母親が娘に学問を伝授します。

その母は、凡そ妾が見ました世の多くの母親の中で、すぐれていちばん讀書が好きかと思はれました。母の父は漢學者だつたさうで、それが自然母にも傳はつてゐるので御座いませう。
 そこで妾はやつと七歳になつた春から、母に就いて外史、十八史略、源氏物語などを學びました。かうした習慣が、次第に世の中を遠ざけて、いつしらず窓の子になつたので御座います11

七歳のころからすでに、逸枝は「窓の子」でした。長じてそれが、「森の家」における、「面会お断り」につながったものと思われます。

登代子は、村の娘たちに裁縫を教えていました。しかしそれは、自身の娘には伝わりませんでした。逸枝は、炊事も洗濯も、そして裁縫も、全く不得手でした。それでもその母親は娘に、勉学を教えるだけでなく、物語も聞かせて、楽しませました。

母は地蔵さん、観音さん、お月さんの話が得意で、私のあだ名を「かぐや姫」などともつけてくれた。私が成長して娘になったころのことであるが、窓から母と二人で、冴えわたる満月をみていたとき、母が「この世はきたないので、いつかは忍びきれなくなり、みんなを捨てて、月の世界へ行ってしまうのではないか」などと私に冗談ともつかずいったこともあった12

こうした幼いときの体験が、その後に行なう詩作のイメージの源泉となった可能性もあります。『十三才集』に見られるように、早くも逸枝は、こうした歌をつくっているのです。

母様にしかられて泣く夕には 虫もかなしや ころころと鳴く

やみませる母上様にさゝげんと 秋の山道を花折りに行く

また逸枝は、こうもいいます。「母は徹頭徹尾、愛の人、平和の人だった」13。そして両親については、のちにこうした回顧もしています。

 父勝太郎に嫁してからは、ふかく夫を敬愛し、夫もこの妻を敬愛した。この夫と妻とは、まれにみる一体的夫婦で、とくに夫勝太郎が妻登代子に寄せた思慕とは、後に思うと日本にはちょっとめずらしいもので、これも一つには彼女の徳に帰せられるだろう。はじめ母は父から教育されたが、晩年にはきわめて目立たないかたちながら、明治以降の新思想にもふかい理解を示した14

このように逸枝は、自分の両親の夫婦愛を日常的に見て育ちました。同時に、新しい思想を主体的に学ぼうとする母親の姿勢もまた目にしていました。恋愛論や婦人論にあって、逸枝が男女両性の一体化をしきりと説くのも、そして、詩人からアナーキストへ転じるに際しては西洋の社会主義的思想を積極的に受容するのも、あるいは、女性史の確立を目指して学者として立とうとするのも、ここに原点があったのかもしれません。

病に伏していた逸枝の母親の登代子が亡くなったのは、一九二〇(大正九)年の一二月でした。逸枝が故郷を離れて東京に出て、わずか三箇月後のことでした。「母が死んだとき父は九州日日と九州の両新聞に家族連名の死亡広告を出して有縁の人たちに知らせることを忘れなかったが、またこれは母への最後の父の敬意でもあったろう。葬送は翌十二日の夜にかけて行われたが、丘の墓地に向って進む野辺おくりの提灯の火が三町あまりつづいたという」15。死亡広告は、『九州日日新聞』には一二月一六日の五面に、『九州新聞』には翌一二月一七日の五面に、それぞれ掲載されました。

逸枝は、こう書きます。「母が病むときいても私は東京に出たばかりで帰れなかった」16、そして、ついにその「故郷の母が死んだ。私はなぜ死んだろう、なぜ死んだろうと、毎日つぶやきとおした」17

そのつぶやきには、このような思い出も含まれていたかもしれません。すでに紹介していますように、生まれると「観音の子」として大事に育てられるとともに、「かぐや姫」という神話的な名で呼ばれ、続いて小学校に入るころには、十八史略や源氏物語などの古典を教えてもらい、また一三歳ころには、「母様にしかられて泣く夕には/虫もかなしや/ころころと鳴く」や「やみませる母上様にさゝげんと/秋の山道を花折りに行く」と、母への思いを歌にしました。さらに長じて、自分の両親について憲三に語るときは、逸枝は、「妾のうちは、父の現實主義と、母の理想主義とで出來てゐます」18と紹介し、他方、憲三との約婚を前にして母は、「お前たちの生活はさぞ見ものだらう」19といい、実際婿入りのときには、憲三を胸に抱いて「この妙な娘の一生をたのむ」20といった母親でした。その母親が亡くなったのです。遠く離れて住む逸枝は、故郷に向かって手をあわせたにちがいありません。五六年の比較的短い生涯でした。

臨終に際して登代子は、東京の逸枝を思い浮かべながら、「帰郷しなくてもよい」という言葉とともに、こう息子の清人に言い遺しました。「世の中に貢献する仕事をするように草葉のかげからいつも祈っているということをよく伝えてくれ」21。この言葉が逸枝の生涯の仕事を支えたであろう可能性を否定することはできないものと思われます。

(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、23頁。

(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、42頁。

(3)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、28頁。

(4)高群逸枝『黒い女』解放社、1930年、63頁。

(5)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、186頁。

(6)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、238頁。

(7)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、73頁。

(8)「肥後が生んだ唯一の女流詩人【中】」『九州新聞』、1921年4月16日、5面。

(9)橋本憲三『恋するものゝ道』耕文堂、1923年、162頁。

(10)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、17頁。

(11)橋本憲三・高群逸枝『山の郁子と公作』金尾文淵堂、1922年、225頁。

(12)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、30頁。

(13)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、185頁。

(14)同『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、185-186頁。

(15)前掲『今昔の歌』、236-237頁。

(16)同『今昔の歌』、237頁。

(17)同『今昔の歌』、215頁。

(18)前掲『恋するものゝ道』、180頁。

(19)同『恋するものゝ道』、178頁。

(20)前掲『今昔の歌』、201頁。

(21)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、185頁。