今年(二〇二五年)の四月に、私は、ウェブサイトで公開しています自身の著作集の第一八巻『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』を脱稿しました。この三人にまつわる伝記を執筆しながら、その間、高群逸枝(一八九四年-一九六四年/明治二七年-昭和三九年)という女性はどういう人なのだろうと、しきりに思いを巡らせていました。しかし私は、心理学者でも精神分析学者でもありませんので、どう分析したらいいのか、かいもく見当がつかず、そのテーマへの接近に二の足を踏んでいました。
すると脱稿の前後に、私の膀胱にがんがあることがわかりました。すでに二度の切除手術を終え、いま、BCG注入の治療に入っています。がんの発見から治療に至るあいだ、少し医学的知識に触れる機会がありました。そのひとつが、膀胱の内部を覆う壁は、「粘膜上皮」「粘膜下層」「筋層」の三層で構成されていて、どの層までがん組織が浸潤しているかで、進行状態を示すステージ数が決まるというものでした。何か連想ゲームでもするかのように、このとき私を襲ったのは、膀胱の壁だけではなく、人間そのものの人となりも、「上皮」「下層」「筋層」の三つの層から成り立っているのではないかというアイディアでした。その内容は、以下のようになります。
「上皮」とは、どのような社会的分野でその人が活動しているかを示す、いわば「肩書」に相当します。誰の目にも、見て明らかですので、その人を語るうえで、最も都合のいい指標となります。しかし、そうしたその人の職業選択や社会活動には、何かその人固有の力が背後で働いて、その道へと向かわせた可能性があり、それが気質とか性格とかいうものではないかと考えました。たとえば、人の性格のひとつに正義感が認められますが、その力が作用して新聞記者や政治活動家といった職業や居場所をその人に選ばせている可能性があり、決してそれを無視することはできません。これこそが、その人の「下層」に相当するものであるという思いに到達すると、今度は次に、「下層」のさらに奥に隠れた「筋層」は、何だろうと考えるようになりました。思考の結果、それは、外からは見ることができない、その人の内部を構成する、心的な風景や精神的な宇宙のようものではないかという推論に達しました。つまり、もう少し具体的にいえば、私の推論上の「筋層」は、あまりにも奥に存在するために、本人も他者も、正確にその実態さえも把握できていない可能性をもつ、流動的で非形態的な、たとえば、生命維持に必須の水や空気、あるいは、外界がもたらす森羅万象に相当するものであり、まさしく、人間の人となりを構成する最深部の層ということになります。
ここに至って私は、そうした一連の連想結果を仮説として、全面的に一次資料に語らせるという、実証主義者を自認する自身の独自の手法により、高群逸枝の人となりについて理解してみようと思い立ちました。それが、本稿「高群逸枝のパーソナリティーの分析――親子関係、職業選択、気質、そして心的風景」です。分析に使用するおおかたの資料は、逸枝本人、逸枝の夫である橋本憲三(一八九七年-一九七六年/明治三〇年-昭和五一年)、および、逸枝を自分の妣とみなし、憲三を自身の師と仰ぐ石牟礼道子(一九二七年-二〇一八年/昭和二年-平成三〇年)が書き残した一次資料です。そこで、これらの歴史的資料を動かぬ根拠(エヴィデンス)としてこの研究は、次の三つの文脈から照明があてられることになりました。つまりそれらは、「『上皮』としての第一の層――職業選択あるいは社会的活動」「『下層』としての第二の層――気質あるいは性格」、そして「『筋層』としての第三の層――心的風景あるいは精神的宇宙」の三点です。
しかししばらくすると、その三つの視点からの分析だけで十分であろうかという疑問が生じてきました。つまり、人間の人となりを形成するうえで欠かせないものに、幼少期において、その人が親とどうかかわったのかという側面があるのではないかという、もうひとつの別の視点に気づいたのでした。これは、本人がその自由意思で選択できない、おおかた受動的なものでありながらも、逆にそれゆえに、分析するうえで不可避の重要性をもつ事象であると思われます。そのため私は、上に述べた三つ文脈に先立って、それらにとっての共通の前提として要請されることになるであろうと思われる、幼少期にあって逸枝は、両親とどのような関係を形成していたのかという視点からの考察を本文の冒頭に置くことにしました。
専門外のことでもあり、仮説のつくり方に妥当性はあるのか、論証の仕方に合理性はあるのか、そうしたリサーチ・デザインにかかわって不安は残りますが、高群逸枝の人間性をよりよく知りたいという知的欲求は放棄できず、これよりのち、あくまでもひとつの試論として、自分にできる範囲で自分なりの思考を進めさせていただきたいと思います。そして、読者のみなさまからの批評もまた、もしいただけるようでしたらありがたくちょうだいしたいとも思います。それではこれより、第一章の「仮説設定の前提――幼少期の親子関係」から書き始めます。