中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第二部 わが肥後偉人点描

第六話 ウィリアム・モリスと第五高等学校の英語教師たち
    ――ハーン、漱石、白村のモリスへの関心(2)

三.夏目漱石の英国留学とモリス――美術館訪問

第五高等学校在職中の一九〇〇(明治三三)年、夏目漱石は、文部省から英語研究のための英国留学が命じられました。九月八日にプロイセン号で横浜を出航すると、ジェノヴァで下船、アール・ヌーヴォー様式を生み出したパリ万国博覧会を観覧したのち、一〇月二八日にロンドンに上陸しました。ここから、漱石の約二年にわたる英国滞在がはじまるのです。果たしてこの留学中、漱石は、モリスが生み出していた工芸品や書籍や詩歌、さらにはラファエル前派の画家たちが描いた絵画作品と、どう向き合ったのでしょうか。わずかではありますが、これに関する断片的な記述が日記に記されていますので、以下に、それらの箇所を拾い出してみます。

[一九〇〇(明治三三)年]
十一月五日(月) National Gall[e]ry ヲ見ル
十一月十一日(日) Kenshington[Kensington] Museum ヲ見ル Victoria and Albert Museum ヲ見ル
十一月十九日(月) 書物ヲ買ニ Holborn ニ行ク

[一九〇一(明治三四)年]
一月二十九日(火) Portrait Gallery ヲ見ル
三月六日(水) 此処ハ Ruskin ノ父ノ住家ナリシト云フ何処ノ辺ニヤ
四月七日(日) South L. Art Gallery ニ至ル Ruskin、Rossetti ノ遺墨ヲ見ル面白カリシ
七月一日(月) 鈴木へ Studio ノ special number ト絵葉書ヲ出ス
七月九日(火) Holborn ニテ Swinburne 及 Morris ヲ買フ
八月三日(土) Cheyne Walk ニ至リ Eliot ノ家ト D. G. Rossetti ノ家ヲ見ル
十月十三日(日) 土井氏ト Kensington Museum ニ至ル

英国滞在中の日記のなかから拾い上げた漱石のモリスとラファエル前派への関心を示す上記の事項は、大きく分けると、美術館や博物館での作品鑑賞、関連する書物や雑誌の購入、そして、関連人物の住まい見物、この三つの領域になります。正確にそのときの様子を再現することは困難ですが、以下に、少しその周辺部分を、ジョン・ラスキンとダンテ・ゲイブリエル・ロセッティはここでは横に置いて、主にモリスのみに絞って描写してみたいと思います。

日記によれば、英国到着の八日後の一一月五日に、漱石は、さっそくナショナル・ギャラリーを訪問しています。しかしながら、ここに書かれているナショナル・ギャラリーが、トラファルガー・スクウェアのナショナル・ギャラリーなのか、当時ナショナル・ギャラリーの管理下に置かれていたミルバンクの新しいギャラリー(現在のテイト・ブリテン)なのか、この表記だけでは判然としません。また、このときどのような作品を見たのかについても、何も書かれてありません。

現在私たちがテイト・ブリテンで見ることができる、多くのラファエル前派の作品は、漱石がロンドンに滞在していた当時は、ナショナル・ギャラリーが所轄していました。それに至る経緯は、おおよそ次のとおりです。

製糖業で富をなし、ラファエル前派の後援者でもあったヘンリー・テイトは、一八八九年に、自分が所蔵する作品六五点をトラファルガー・スクウェアのナショナル・ギャラリーへ寄贈します。そのなかには、ジョン・ミレイの《オフィーリア》(一八五一―五二年)とジョン・ウィリアム・ウォターハウスの《シャロットの貴婦人》(一八八八年)が含まれていました。しかし、ナショナル・ギャラリーには、それを展示するだけの空間的余裕がなく、寄付が募られ、それを原資として、それまで刑務所として使用されていた建物を壊して、その跡地に新しい建物がつくられました。これが、現在私たちがミルバンクに見るテイト・ブリテンの祖型になるものです。テイトが寄贈した作品はナショナル・ギャラリーからこの建物へ移され、一八九七年にはじめて一般に公開されました。しかし、テイトの呼称は使われることなく、それ以降もしばらくのあいだナショナル・ギャラリーの管理下にありました。このミルバンクのギャラリーが、正式にテイト・ギャラリーを名乗るようになるのは一九三二年のことで、一九五五年に、完全にナショナル・ギャラリーから独立することになります。その後、テイト・モダンが開館すると、テイト・ギャラリーはテイト・ブリテンに改称されます。現在は、「テイト」の名のもとに、テイト・ブリテンとテイト・モダンを含む四つの美術館が連携して運営されるに至っています。

もし漱石が、ミルバンクの新築されたギャラリーで、ジョン・ミレイの《オフィーリア》を見ていたとすれば、この作品がシェイクスピアの『ハムレット』の第四幕第七場に霊感を得て描かれていることに気づかされたでしょうし、J・W・ウォターハウスの《シャロットの貴婦人》を見ていたとすれば、この作品がテニスンの「シャロットの貴婦人」に想を得ていることを知ったものと思われます。また、このギャラリーには、テイトとは別の人物によって一八八九年に寄贈されていたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの《ベアータ・ベアトリクス》(一八六四―七〇年ころ)が所蔵されていました。この作品は、ロセッティが愛したエリザベス・シダルがモデルで、彼女の死を悼むために描かれたものですが、そこには、イタリアの詩人ダンテが、愛するベアトリクスの死を嘆き悲しむ情感が下地となっており、ふたりの男性の絶望感が重なり合う描写構造となっています。

もし、こうしたラファエル前派の実作を漱石が見ていたとするならば、その主題や表現から、漱石は、文学作品と絵画作品とがコインの両面となって機能する関係性を、そしてまた、ヴィクトリア時代の詩人や画家たちにとっては、愛と性と死の三者が分かちがたくひとつに結び付くものであることを、具体的かつ鮮明に学ぶ機会になったものと推量されます。

その一方で漱石は、モリスが婚約者のジェインを描いた《王妃グウェナヴィア》(一八五八年)(今日にあって使用されている作品名は《麗しのイゾルデ》)も、また、モリスの妻のジェインがモデルになっているロセッティの《プロセルピナ》(一八七四年)も、英国滞在中に見ることはありませんでした。前者は、娘のメイが死去した翌年の一九三九年に遺贈され、後者は、その作品を所有する別の個人によって一九四〇年に寄贈されているからです。当時贈与を受けたのはテイト・ギャラリーでしたが、現在は、それを引き継いだテイト・ブリテンにおいて、両作品とも見ることができます。ただ、《王妃グウェナヴィア》は、漱石がロンドンに到着する前年に出版されていたジョン・マッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』(一八九九年刊)の図版に使用されていましたので、もしこの本を漱石が読んでいたならば、図版を通してこの作品を見ていたことになります。もしそうであったとするならば、モリスの『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』(一八五八年刊)のなかの詩歌と、同時期のモリスの絵画作品である《王妃グウェナヴィア》が、漱石のなかにあって、重なり合った可能性が残されます。

他方で、年が明けた一九〇一年一月二九日に漱石が訪問したポートレイト・ギャラリーには、当時、ジョージ・フレデリック・ワッツが描いたモリスの肖像画【図一】が所蔵されていました。モリスは、一八七〇年四月一五日の妻のジェインに宛てた手紙のなかで、「今日の午後、ワッツに肖像画を書いてもらうつもりです」と書いています。このときジェインは、愛人のロセッティとともにスキャランズに滞在していました。加えてモリスは、妻の愛人が出した『詩集』の書評を書くという、通常では考えられない精神的重圧と混乱のなかに身を置いていました。しかしながら、もし漱石にこの肖像画を見る機会があったとしても、そこから、そうしたモリスの当時の心情を読み取ることは、事実上、困難だったものと思われます。といいますのも、もしかしたら漱石は、マッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』を読んでいたかもしれませんが、しかし、そこには、そうした実情に触れることなく、以下のように、そっけなく書かれていたからです。書評が五月一四日号の『アカデミー』に掲載される「その前月、彼[モリス]はワッツの前に座り、こうして、よく知られることになる肖像画が生まれた。この絵は、生命と活力の最盛期にある彼を表現している。もっとも、そのときの以前にあって、すでに『地上の楽園』は、事実上彼の手を離れていたし、なすべきことを変えて、彼は気晴らしの方向へと進んでいたのであった」。しかしながら、実際のところこの作品は、「生命と活力の最盛期にある彼を表現している」のではなく、悲嘆と苦悩のどん底にあるモリスを表現していたのでした。

そのようなわけで、当時漱石は、モリスとジェインとロセッティとのあいだにあった、世にいう愛の「三角関係」について気づくことはなかったと思われます。しかし、『アーサー王の死』のなかに描かれている、アーサー王と王妃グウェナヴィア、そして騎士のラーンスロットとのあいだにみられる不義の関係が、初期の漱石作品の「薤露行」の主題として登場してくるのです。『アーサー王の死』はモリスの学生時代からの愛読書でしたし、彼の第一詩集が『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』でした。そして、彼の実際の人生そのものが、アーサー王伝説を地で行くようなものだったのです。その後の漱石は、男女の「三角関係」を主題にした小説を書き続けます。漱石は、『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』に続くモリスの、たとえば『イアソンの生と死』『地上の楽園』『愛さえあれば』を、どう読んでいたのでしょうか。とても興味がもたれるところです。おそらく、小説家漱石にとっての「三角関係」は、近代の自我や主体や道義を考える際の、最も凝縮した主題になり得たのでしょう。

一方で漱石は、帰国から三年後の一九〇六(明治三九)年の手紙のなかで、「現下の如き愚なる間違つた世の中には正しき人でありさえすれば必ず神経衰弱になる事と存候」(六月六日の鈴木三重吉宛て書簡)とも、「世界総体を相手にしてハリツケにでもなつてハリツケの上から下を見て此馬鹿野郎と心のうちで軽蔑して死んで見たい」(七月二日の高浜虚子宛て書簡)とも、さらには、「小生もある点に於て社会主義故[ゆえ]堺枯川[利彦]氏と同列に加はりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は何事をも予期し居候」(八月一二日の深田康算宛て書簡)とも書いており、彼が社会主義者、ないしは社会主義の適切な理解者であった可能性も十分にあります。こうした漱石の、時代への反抗的精神は、文学から社会主義へと至ったモリスの生き方を多少なりともなぞっているのかもしれません。ただ、それを公言するには、時代が許さなかったのでしょう。事実、その二年前の一九〇四(明治三七)年、モリスの「ユートピア便り」の一部を『平民新聞』に訳載し終えた枯川生(堺利彦)は、二箇月のあいだ獄窓の人になっているのです。

漱石は、一九〇〇年一一月一一日と翌一九〇一年の一〇月一三日に、本人の表記に従えば、ケンジントン博物館とヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ出かけています。漱石が訪問するまでのこの博物館の歴史をかいつまんで述べれば、およそ次のようになります。

一八五一年の大博覧会は大きな収益を残し、それを原資としてサウス・ケンジントンに広大な土地が購入されました。建物群が完成すると、モールバラ・ハウスの機能(装飾美術博物館と中央美術訓練学校を含む科学・芸術局)はここへ移され、美術教育の新たな複合施設が、ここに姿を見せることになるのです。一八五七年のことでした。これよりこの博物館はサウス・ケンジントン博物館と呼ばれるようになり、ヘンリー・コウルが、科学・芸術局の局長とこの博物館の初代館長に就任します。コウルがモリス・マーシャル・フォークナー商会(のちにモリス商会へと改組)へ、サウス・ケンジントン博物館の西側食堂の装飾を依頼すると、モリスとフィリップ・ウェブが室内装飾のデザインにあたり、エドワード・バーン=ジョウンズが、ステインド・グラスの窓に描く人物のデザインを担当し、一八六六年に完成します。それ以降この空間は、〈グリーン・ダイニング・ルーム〉として知られるようになります。そしてその後も、この博物館とモリスは深いかかわりをもつことになります。たとえばモリスは、しばしばこの博物館を訪れ、とくにインド、ペルシャ、トルコのタピストリーやカーペット、陶磁器などについて、さらには、中世の木材染料についても詳しく研究をしていますし、その一方で、コウルが一八七三年にこの博物館を退いたのち、この博物館が美術品を購入するに際しての是非の判断をする「美術審査員」の制度が設けられたおりには、マシュー・ディグビー・ワイアットらとともに、モリスもその一員に加わるのです。

この博物館の発展はさらに続き、アストン・ウェブの設計による新しい建物の建設が同敷地内ではじまります。一八九九年にヴィクトリア女王によって礎石が置かれると、それ以降この博物館は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と呼ばれるようになり、建物が完成したのは一九〇八年のことで、翌年の一九〇九年の六月に開館の儀式が執り行なわれました。こうした経緯を経て、私たちが現在見るヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が姿を現わすことになるのです。

漱石は、ケンジントン博物館ともヴィクトリア・アンド・アルバート博物館とも、この博物館を呼んでいますが、それはひとつの博物館のことで、漱石が訪問したときは、ちょうど新しい建物の建設に着手されたばかりのところであったものと思われます。このモリスとの関係が深い博物館を漱石がしばしば訪れていることから判断すると、訪英以前の五高時代にいかに漱石がモリスに関心をもっていたのかがわかります。

それでは、一九〇〇年当時、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館はどのようなモリス作品を所蔵していたのでしょうか。漱石が訪問したとき実際に展示されていたかどうかはわかりませんが、モリス関連の収蔵品は、主として次のような作品で構成されていました。


[ステインド・グラス]
《眠るチョーサー》《ディードーとクレオパトラ》《愛の神とアルケースティス》、そして《ペネロペ》の四点。どれもエドワード・バーン=ジョウンズのデザインで、一八六四年ころにモリス・マーシャル・フォークナー商会で製作。
[デザイン]
刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン(下図)。デザインはウィリアム・モリス。一八七七年。
[壁紙]
《キク》(サンプル)。デザインはウィリアム・モリス。一八七七年。モリス商会のためにジェフリー商会によって印刷。
[タピストリー]
《果樹園あるいは四季》。デザインはウィリアム・モリスとジョン・ヘンリー・ダール。一八九〇年。マートン・アビーの工房で製作。
《主を讃える天使たち》。デザインはジョン・ヘンリー・ダール。人物についてはエドワード・バーン=ジョウンズが担当。一八九四年。マートン・アビーの工房で製作。

この博物館には、これらの美術作品以外に、ケルムスコット・プレス刊行の印刷物(五三点の書籍と九点の冊子)のうち、モリス自身の詩集である『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』や革命後の世界を描いたモリスの『ユートピア便り』【図二】、さらには『ウィリアム・シェイクスピア詩集』や『ジェフリー・チョーサー作品集』を含む二九冊が所蔵されていました。漱石は、どのモリス作品や書籍を目にしたでしょうか。特定は困難ですが、少なくとも上記の何点かについては、その可能性がありそうです。そして、それとはまた別に、個々の作品の鑑賞だけではなく、モリス・マーシャル・フォークナー商会が造営した館内の〈グリーン・ダイニング・ルーム〉【図三】で、疲れを癒すためにティーなりビールなりを口に含んでいたかもしれません。

以上が、英国留学中に漱石が経験したであろうと思われる美術館や博物館での作品鑑賞にかかわる素描です。それでは次に、関連する書物や雑誌の購入にかかわって、少し描写してみたいと思います。

四.夏目漱石の英国留学とモリス――本と雑誌の購入

漱石は、一九〇〇年一一月一九日の日記に「書物ヲ買ニ Holborn ニ行ク」、そして、年が明けた一九〇一年の七月一日の日記に「鈴木へ Studio ノ special number ト絵葉書ヲ出ス」、その八日後の七月九日の日記に「Holborn ニテ Swinburne 及 Morris ヲ買フ」と書いています。ここでも、モリスに限って見てみたいと思います。

モリスがその生涯のなかで世に送った著作は、ケルムスコット・プレス版の自著を含めて四五タイトル、翻訳書については一二タイトル、あるいは、若干それ以上にのぼるもかもしれません。漱石が実際にそのなかのどの本を購入したのかは、特定できません。しかし、購入する以上はモリスの代表作品であったろうと考えられますので、それに該当しそうな作品をとりあえず以下に一〇点列挙してみます。最初の五冊がモリスの代表的な詩集と物語詩で、次の二冊が芸術論と社会論、その次の二冊が散文ロマンス、そして最後の一冊がベクスとの共著の社会主義論となります。


The Defence of Guenevere, and Other Poems, London: Bell and Daldy, 1858.

The Life and Death of Jason: A poem, London: Bell and Daldy, 1867.

The Earthly Paradise: A Poem, London: Ellis, 1868-70, 3 vols.

Love is Enough; or the Freeing of Pharamond: A Morality, London: Ellis & White, 1873.

The Story of Sigurd the Volsung and the Fall of the Niblungs, London: Ellis & White, 1876.

Hopes and Fears for Art: Five Lectures Delivered in Birmingham, London, and Nottingham 1878-81, London: Ellis & White, 1882.

Signs of Change: Seven Lectures Delivered on Various Occasions, London: Reeves & Turner, 1888.

A Dream of John Ball and A King’s Lesson, London: Reeves & Turner, 1888.

News from Nowhere; or, An Epoch of Rest: Being Some Chapters from a Utopian Romance, London: Reeves & Turner, 1891.

Socialism: Its Growth & Outcome, By William Morris and E. B. Bax, London: Sonnenschein, 1893.

以上は、すべて初版のデータです。それ以降の版も多く存在していたものと思われますし、ホウルバン街の書店や古本屋にあってモリスの書籍がどのように扱われていたのかを再現することもまた実際上困難ですが、おそらく漱石が、「Holborn ニテ Swinburne 及 Morris ヲ買フ」と書き記した書物には、上に挙げたもののなかのどれかが含まれていたのではないかと考えられます。他方、「Morris ヲ買フ」という文言が、「モリスによって書かれた本」だけではなく、「モリスについて書かれた本」を指し示している可能性もあります。そうであれば、すでにその当時、以下のエイマ・ヴァランスとジョン・マッケイルのモリスに関するふたつの伝記が出版されていましたので、こうした本にも、漱石は触手を伸ばしたかもしれません。


Aymer Vallance, William Morris: His Art, His Writings, and His Public Life, London: George Bell, 1897.

J. W. Mackail, The Life of William Morris, London: Longmans, 1899, 2 vols.

購入したかどうかは別にしまして、モリスの私家版印刷工房でありますケルムスコット・プレスで印刷・造本された豪華本の何冊かも、おそらくこのロンドンの地で漱石は目にしたものと推測されます。この印刷工房にとっての不朽の名作のひとつが『ジェフリー・チョーサー作品集』ですが、この本のボーダー(縁飾り)やイニシャル(パラグラフの最初の単語の最初のアルファベット)、そしてイラストレイション(挿し絵)の大部分をエドワード・バーン=ジョウンズが提供しています。帰国後、大学を辞めて小説家として身を起こした漱石は、自分の本の装丁や挿し絵の製作にあたって画家の橋口五葉や中村不折を起用します。そのことが、ケルムスコット・プレス版の書籍に漱石が何らかの影響を受けていたことを例証するのかもしれません。

他方、漱石は、一九〇一年七月一日の日記に「鈴木へ Studio ノ special number ト絵葉書ヲ出ス」と書き付けています。また、帰国から一〇年が立った一九一三(大正二)年の七月、漱石は、当時絵の指導を受けていた画家の津田青楓に宛てた手紙のなかで、「私は今日古いスチユーヂオを出して十冊ばかり見ました」と書いています。このことから、晩年に至るまで、英国の美術雑誌である『ザ・ステューディオ』【図四】を漱石が愛読していたことがわかります。この雑誌は一八九三年に創刊され、チャールズ・ホウムがそのオーナーを務めます。彼は、その前年の一八九二年にロンドンに設立された日本協会の創設委員でもあり、当時、三十数年前にモリスが建てた〈レッド・ハウス〉に住み、その由緒ある屋敷に日本人を招待するほどの日本をこよなく愛する人物でした。漱石がそのことに気づいていたかどうかは、判然としません。

さらに、漱石のノートには、文字に乱れがあるものの、おおかた以下のようなメモ書きが記されていることも明らかになっています。

Gothic Architecture ―― Ruskin
Socialism ―― Morris, Ruskin
Decorative Art ―― Morris
Pre-Raphaelite ―― Rossetti
Northern Mythology ―― Morris

この図式から、漱石にとってのラスキン(ゴシック建築、社会主義)、ロセッティ(ラファエル前派)、モリス(社会主義、装飾美術、北欧神話)に対する位置づけが明確に見えてきます。日本郵船の博多丸に乗船した漱石は、一九〇三(明治三六)年の一月に祖国の土を踏みます。そして、五高を依頼免官となると、ラフカディオ・ハーンの後任として、上田敏とともに、東京帝国大学の英文学科の講師に着任するのでした。

次の稿では、富本憲吉の東京美術学校時代と英国留学、それに加えて、彼の帰朝報告ともいえる、『美術新報』に寄稿した工芸家としてのモリスについての評伝である「ウイリアム・モリスの話」に主に焦点をあてて、述べてみたいと思います。

(二〇二一年七月)


fig1

図1 G・F・ワッツが描いたウィリアム・モリスの肖像画。1870年。

fig2

図2 ウィリアム・モリスの『ユートピア便り』の扉絵。1893年。

fig3

図3 サウス・ケンジントン博物館の〈グリーン・ダイニング・ルーム〉。1866年。

fig4

図4 『ザ・ステューディオ』の創刊号の表紙。1893年。

(1)『漱石全集』第十九巻/日記・断片(上)、岩波書店、1995年、27, 28, 29, 51, 62, 72, 89, 90, 95, 101頁。

(2)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME I 1848-1880, Princeton University Press, Princeton, 1984, p. 115 (LETTER NO. 110).

(3)J. W. Mackail, The Life of William Morris, VOLUME I, Longmans, Green and Co., London, 1899, p. 208.

(4)『漱石全集』第二十二巻/書簡(上)、岩波書店、1996年、[書簡591]512-513頁。

(5)『漱石全集』第二十二巻/書簡(上)、岩波書店、1996年、[書簡599]520頁。

(6)『漱石全集』第二十二巻/書簡(上)、岩波書店、1996年、[書簡628]541頁。

(7)『漱石全集』第二十四巻/書簡(下)、岩波書店、1997年、[書簡1870]180頁。

(8)『漱石全集』第二十一巻/ノート、岩波書店、1997年、637頁。

図版出典

【図1】J. W. Mackail, The Life of William Morris, Vol. I, Longmans, Green and Co., London, 1899.

【図2】モリス生誕百年記念協會編『モリス記念論集』川瀬日進堂、1934年。

【図3】Lewis F. Day, ‘William Morris and his Art’, Great Masters of Decorative Art, The Art Journal Office, London, 1900.

【図4】Supplement to The Studio, Volumes 1-21 (1893-1901), General Index and Colour Plates, Hon-No-Tomosha, Tokyo, 1995, frontispiece.