中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第二部 わが肥後偉人点描

第五話 ウィリアム・モリスと第五高等学校の英語教師たち
    ――ハーン、漱石、白村のモリスへの関心(1)

はじめに

よく知られていますように、ウィリアム・モリス(一八三四―九六年)は、英国のヴィクトリア時代を代表する詩人でした。そしてまた、デザイナーであり、政治活動家でもありました。日本にあっては、すでに死去する以前から『早稲田文學』や『國民之友』といった雑誌や、澁江保の『英國文學史』においてその名が紹介されはじめます。

一方、この時期の第五高等学校(現在の熊本大学)【図一】で英語の教師として教鞭を執った人物に、ラフカディオ・ハーン【図二】、夏目金之助(漱石)【図三】、厨川辰夫(白村)【図四】がいます。現在彼らの講義内容のすべてが必ずしも明らかにされているわけではありませんが、少なくとも彼らは、共通してモリスに関心をもっていました。この小論では、私の研究対象であります富本憲吉のモリスへの関心過程をひとつの文脈として設定し、おおむねそれに沿わせながら、ほぼ同時期のハーン、漱石、白村がどのようにモリスに関心を抱いたのか、その一端を紹介したいと思います。富本憲吉は、周知のとおり、その後日本を代表する近代の陶芸家として大成する人物です。それではこれより、「ウィリアム・モリスと第五高等学校の英語教師たち――ハーン、漱石、白村のモリスへの関心」と題しまして、四回に分けて、物語ってゆきます。

一.『帝國文學』『社會主義』『太陽』におけるモリス紹介

ウィリアム・モリスが一八九六(明治二九)年一〇月三日に死去すると、さっそく同年の一二月号において、『帝國文學』はモリスへの追悼文を掲載し、次のように報じました。

老雁霜に叫んで歳將に暮れんとするけふ此頃、思ひきや英國詩壇の一明星また地に落つるの悲報に接せんとは。長く病床にありしウ井リヤム、モリス近頃稍輕快の模樣なりとて知人が愁眉を開きし程もなく、俄然病革りて去る十月三日彼は六十三歳を一期として此世を辭し、同六日遂にクルムスコット墓地に永眠の客となりぬという。彩筆を揮て文壇に闊歩すると四十年、ロセッテ、ス井ンバルンと共に英國詩界の牛耳を取りし彼が一生の諸作を一々品隲せんは我今為し得る所にあらず、まして彼が文壇外或は美術装飾の製造に預かり、或は過去の實物保存の為め、また將來社會民福の為め種々の團躰の中心となりて盡瘁せしところ、其功績決して文界に於けるに譲らざるを述ぶるは到底今能くすべきにあらねば此篇には只近著の英國雜誌を蔘考して彼が著作の目録を示し、併せて彼が傑作「地上樂園」に付して少く述ぶるところあるべし

ここからこの追悼文は、『地上の楽園』を中心としたモリスの詩の解説が讃美の基調でもってはじめられてゆきます。執筆者名は「BS」のイニシャルのみです。のちに新村出は、この追悼文の執筆者である「BS」が島文次郎であったことを回想します。

 自分がモリスの名聲と業績の一面とを初めて知つたのは、其の死が傳へられた明治二十九年すなはち西暦一八九六年の秋のことでありました。丁度私が東京帝國大學の文科に進んだ歳のことでありました。「帝國文学」といふ赤門の雜誌の上に今の島文次郎博士が新文學士でS. B.の名を以てモリスの死を紹介されたのでありました

さらに一九〇〇(明治三三)年には、『太陽』において上田敏も、ラファエル前派の詩人としてのモリスに言及し、「『前ラファエル社』の驍將にして空しき世の徒なる歌人と自ら稱し、『地上樂園』(一八六八―七〇)の歌に古典北歐の物語を述べたり」と、短く紹介しています。

このなかにみられる、「前ラファエル社」とは、ラファエッロをアカデミズムの源流に立つ画家とみなし、それ以前の素朴な絵画形式にもどることを主張して一八四八年に結成された英国の若い美術家たちによる集団です。今日では、「ラファエル前派(兄弟団)」という呼称が用いられることが一般的ですが、そのなかには、ジョン・エヴァリット・ミレイ、ウィリアム・ホウルマン・ハント、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティといった画家たちがいました。とりわけロセッティは、モリスの妻のジェインをモデルに使い、《プロセルピナ》や《アスタルテ・シリアカ》といった名作を残すことになります。また、『地上の楽園』(一八六八―七〇年刊)は、『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』(一八五八年刊)、『イアソンの生と死』(一八六七年刊)に続いて出版された三作目の、三巻からなるモリスの代表的な物語詩です。そして、「古典北歐の物語」とは、アイスランドのサーガ(中世の散文物語群)を指します。モリスはその生涯のなかで、一二タイトルものサーガの翻訳書を出しています。

しかし、モリスの生涯は詩人だけに止まりませんでした。先に引用したモリス追悼文において島文次郎が、「文壇外或は美術装飾の製造に預かり、或は過去の實物保存の為め、また將來社會民福の為め種々の團躰の中心となりて盡瘁せし」と、述べているように、モリスはまた、装飾美術家であり、モリス商会の経営者であり、そして、古建築物の保護運動家であり、さらにそれらに加えて、社会主義者でもありました。

日本における社会主義者としてのまとまりをもったモリス紹介は、一八九九(明治三二)年に出版された『社會主義』においてが、おそらくはじめてであっただろうと思われます。著者の村井知至は、「第六章 社會主義と美術」のなかで、社会主義者へと向かったウィリアム・モリスの経緯を、ジョン・ラスキンと関連づけながら次のように描写しました。

ジヨン、ラスキンとウ井リアム、モリスとは當代美術家の秦斗にして、殊にモリスは美術家にして詩人なり、……モリスも亦ラスキンの感化を受けたる一人にして、彼と同じき高貴なる精神を持し、己れの位置名譽をも顧みず、常に職工の服を着し、白晝ロンドンの街頭に立ち、勞働者を集めて其社會論を演説せり、……ラスキンは寧ろ復古主義にしてモリスは革命主義なりも現社会に対する批評に至つては二者全く其揆を一にせり、彼等は等しく現今の社会制度即ち競争的工業の行はるゝ社会に於ては到底美術の隆興を見る可はず、……今日の社会制度を改革せざる可らずと主張せり、如此にして彼等は遂に社会主義の制度を以て、其理想となすに至れり、……モリスは社会主義者の同盟の首領として、死に抵る迄運動を怠らざりき

世紀転換期の日本の知識人たちは、主としてこうした出版物を通じて、詩人としてのモリス、そして社会主義者としてのモリスへの関心を高めていったものと推量されます。

二.五高におけるハーンと漱石のモリス講義の可能性

そうした日本での動きに先立って、一八九〇(明治二三)年に、アイルランド出身のイギリス軍医を父にもつラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が来日します。そしてハーンは、島根での生活のあと、翌年の一八九一(明治二四)年に第五高等学校の英語教師として職を得るのです。赴任当時の校長は、柔道の大家として著名な嘉納治五郎でした。山崎貞士は、自著の『熊本文学散歩』(一九七六年刊)のなかで、ヘルン(ラフカディオ・ハーン)の熊本での生活の一端を、次のように記述しています。チェムバレン教授とは、ハーンを五高に紹介した人物のようです。

 熊本生活の第二年目に長男一雄が誕生し、ヘルンの熊本嫌忌は、ある程度緩和された。チェムバレン教授に宛てた手紙に、「寺も美術も礼儀もない都会が何が出来ましょう。それでも熊本は私にとって東京よりも、金沢よりもよいわけです。土地の人は皆私を知っています。暇もあります。休息もできます。気候は穏やかです」とこう書いている

おそらくハーンは、来日以前にあってモリスについての知識を蓄えており、それを講義のなかで披歴していたものと思われます。五高を退職して神戸に赴いた彼は、その二年後の一八九六(明治二九)年から一九〇二(明治三五)年にかけて東京帝国大学に籍を置き、その間の講義において、ロセッティ、スウィンバーン、モリスといった英国のヴィクトリア時代を代表する詩人を取り上げています。これらの講義内容の骨格は、おそらく五高時代の研究においてすでに形成されていたものと推測されます。『ラフカディオ・ハーン著作集』第八巻(恒文社、一九八三年刊)に従えば、ハーンの東京帝大でのモリスに関する講義は、こうした語りでもってはじめられました。

 ウィリアム・モリスは、彼よりもさらに絶妙な同時代の仲間の詩人たちと比較すれば、見劣りがする。それにもかかわらず、彼は特別な講義を必要とするほど偉大な人物である。諸君に、彼に対する大きな興味を抱かせることができるかどうか、私にはよくわからない。しかし、英詩においても、どこか全く異色で、非常に風変わりなところがある彼の位置について、はっきりとした見解を話すつもりである

こう口火を切ったハーンは、このあとモリスの履歴を紹介し、それに続けて、モリスのなかに存在するひとつの精神、つまりは中世に向けられた彼のまなざしについて、次のように語るのでした。

 したがって諸君にも、彼がとても忙しい人間であったにちがいないことがわかるだろう。同時に、詩やロマンス(彼は大量の散文によるロマンスを書いた)、また、芸術的印刷、家具、ステンド・グラスの窓のための図案、美しいタイルのための図案――さらに装飾芸術家としても、非常に大量の仕事――に携わっていたのである。誰であれ人間ひとりの仕事としては、これではあまりに多すぎるように思われるだろう。けれども、モリスがそれを容易に成し遂げることができたのは、さまざまな事業のすべてが、たまたま、まったく同一の精神と動機、つまり中世の芸術感情や十八世紀とともに終わりを告げる時代の芸術感情から影響を受けていたという、単純な事実のおかげである

こうして前置きが終わると、おもむろに、それに続いて、モリス作品の分析がはじめられます。主に取り上げられていたのは、『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』、『愛さえあれば』(一八七三年刊)、そして『折ふしの詩』(一八九一年刊)のなかの詩歌でした。ハーンは、これらの詩の解釈に基づきながら、モリスの見ている女性像や恋愛観を学生たちに説く一方で、『折ふしの詩』のなかの何編かの詩に、彼の社会主義的な考えが表出されていることも、指摘するのでした。

こうしたハーンの講義を、前任校である第五高等学校の学生たちも聴講したにちがいありません。しかしそれは断定できません。といいますのも、当時の五高生たちがハーンの講義内容を書き残しており、それをまとめたものとして、『ラフカディオ・ハーンの英語教育』(弦書房、二〇一三年刊)と『ラフカディオ・ハーンの英語クラス』(弦書房、二〇一四年刊)があり、ハーンは、東京帝大と違って、五高においては、英語の語学教育にだけ携わり、英文学についての講義はしていなかった可能性があるからです。しかしその一方で、東京帝大に赴任してはじめて英詩研究の緒に就き、それを授業に導入したとは考えにくく、前任の五高の時代から、ロセッティ、スウィンバーン、モリスらの詩歌や物語に何らかの関心をもち、英語の授業の合間や正規の授業以外のところで、それらについて、ハーンが学生たちに語っていた可能性は、それはそれとして、排除することができないのです。もし、モリスを含む、そうした英文学にかかわる話をハーンがしていたとするならば、それを聞いた学生たちは、たとえば、中世主義者で社会主義者でもあるような詩人モリスが歌い上げる愛の片々をどのように受け止めたのでしょうか。しかし、それは記録に残されていないようです。三年の任期が終了し、ハーンが五高を辞し、神戸クロニクルの記者となるのは、一八九四(明治二七)年の一一月のことでした。

ラフカディオ・ハーンに続く、ヴィクトリア時代の詩や物語に関心を抱いた英語教師の系譜に夏目金之助(漱石)も位置づけることができるものと思われます。漱石は、一八九三(明治二六)年に帝国大学文科大学英文学科を卒業します。その後、第五高等学校の講師として赴任するのが、モリスが死去する一八九六(明治二九)年のことでした。山崎貞士は、『熊本文学散歩』のなかで、漱石が熊本の地に足を踏み入れた日のことを、こう書いています。

 漱石がはじめて来熊した日、池田停車場(今の上熊本駅)で下車、京町をよこぎって、新坂あたりにさしかかった際、人力車から見下ろした熊本市の第一印象が、思わず「森の都だな」という詠嘆になり、それが森都熊本の語原にさえなったといわれていることも、熊本人にとっては忘れられないことである

しかし、「森の都だな」という漱石の言葉には、世間に広がる一種の神話的側面がないわけではなく、最近の研究によると、「そのような文献はいっさい残っていない」ということです。一方、ハーンの長男はこの熊本の地で生まれました。また、漱石の長女の筆子も同様で、一八九九(明治三二)年の五月にこの地(熊本市内坪井町七八番地)において誕生しています。

さてここで、視点を熊本からロンドンへ転じます。ロンドンの日本協会が設立したのは、ハーンが五高の英語教師として採用される翌年の一八九二(明治二五)年一月のことでした。この創設会員のひとりにチャールズ・ホウムがいました。彼は、日本文化の愛好家で、翌一八九三年に創刊される英国の美術雑誌『ザ・ステューディオ』のオーナーでもありました。この雑誌は、晩年に至るまでの漱石の愛読雑誌となります。ホウムは、一八九〇年から一九〇三年にかけて、〈レッド・ハウス〉と呼ばれるケント州のアプトンにある家に住んでいました。もともとこの家は、ジェイン・バーデンと結婚した際に、一八六〇年にモリスが新居として建設した邸宅でした。当時この家へは、盟友のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティやエドワード・バーン=ジョウンズといったラファエル前派の画家たちが頻繁に出入りをし、中世の物語に想を得た絵を天井や壁に描き、家具やステインド・グラスの製作にあたりました。また、モリスを敬愛する詩人のアルジャノン・チャールズ・スウィンバーンもその輪に加わり、彼らにとりましては、まさしくこの〈レッド・ハウス〉は「芸術の殿堂」として機能していたのでした。その家にいまやチャールズ・ホウムが住み、日本協会で知り合った文官や武官を招き入れることになるのです。そのなかには、日本協会の創設委員で日本領事の呉大五郎や、ロンドンで建造された一等戦艦「富士」の回航委員を務めた岩本耕作と斎藤実も含まれていました。斎藤はのちに内閣総理大臣を経て、一九三六(昭和一一)年の「二・二六事件」で暗殺される人物です。漱石が五高に赴任した一八九六(明治二九)年の翌年の八月には、日本協会の会員数は八〇三人に達します。この時期、主として彼らが、日本と英国の文化、政治、経済、軍事のあらゆる面での懸け橋となっていたのです。(ちなみに、現在〈レッド・ハウス〉は、ナショナル・トラストの管理のもとに一般公開されています。)

漱石が、『帝國文學』に掲載された島文次郎のモリス追悼文(一八九六年)、『社會主義』における村井知至のモリスの社会主義者論(一八九九年)、そして、『太陽』に掲載された上田敏の詩人としてのモリス紹介記事(一九〇〇年)、これらを目にしていたとすれば、この熊本時代のことでした。ハーンの東京帝大でのモリス講義も側聞していたかもしれません。明らかに漱石の五高在任期間は、モリスが知識人のあいだで話題になる時期と重なります。おそらく、勉強家であり、英国留学も視野に入れていたであろう英語教師の漱石が、中央でのこうしたモリス関連の動きに全く気づかなかったはずはなく、場合によっては焦りにも似た気持ちのなかで、必死に独自の観点からモリス研究を行なっていた可能性さえあります。いずれにせよ、ハーン同様に漱石も、正規の授業ではなかったにせよ、この五高の教室において、あるいは、ひょっとしたら、「武夫原」の通り名で知られていた体操場において、モリスの詩について講じ、吟詠したものと推測されます。しかし、五高における漱石の講義録は、残っていないようです。

一九〇〇(明治三三)年、漱石は文部省の命により、英語研究のために英国に渡ります。彼はその地で、モリスやラファエル前派について、どう見聞を広めたのでしょうか。次の稿におきまして、そのことに触れてみたいと思います。

なお、本稿に使用しました五高関連の図版は、熊本大学五高記念館から提供を受けたものです。ここに記して、深く感謝いたします。

(二〇二一年七月)


fig1

図1 創建当時の第五高等学校本館。1890(明治23)年撮影。熊本大学五高記念館所蔵。

fig2

図2 嘉納治五郎送別写真。ラフカディオ・ハーンは、3列目中央の嘉納治五郎(帽子をもっている人物)の左横、横を向いている人物。1893(明治26)年2月撮影。熊本大学五高記念館所蔵。

fig3

図3 夏目漱石。1898(明治31年)撮影。『漱石写真帖』(昭和4年発行)より複製。

fig4

図4 1906(明治39)年1部文科3年集合写真。厨川白村は、2列目右から4人目。熊本大学五高記念館所蔵。

(1)『帝國文學』第2巻第12号、帝國文學會、1896年、88-89頁。

(2)新村出「モリスを憶ふ」『モリス記念論集』川瀬日進堂書店、1934年、11頁。

(3)上田敏「『前ラファエル社』及び近年の詩人」『太陽』第6巻第8号、臨時増刊「一九世紀」、博文舘、1900年、180頁。

(4)村井知至『社會主義』(第3版)労働新聞社、1903年、43-44頁。

(5)山崎貞士『熊本文学散歩』大和学芸図書、1976年、144頁。

(6)『ラフカディオ・ハーン著作集』第八巻/詩の鑑賞、恒文社、1983年、322頁。

(7)同『ラフカディオ・ハーン著作集』第八巻/詩の鑑賞、323-324頁。

(8)山崎貞士『熊本文学散歩』大和学芸図書、1976年、81頁。

(9)村田由美『漱石がいた熊本』風間書房、2019年、6頁。