中山修一著作集

著作集12 研究追記――記憶・回想・補遺

第二部 わが肥後偉人点描

第一話 汀女の句誌『風花』の終刊と初期編集者の富本一枝

汀女(本名は破魔子)は、一九〇〇(明治三三)年四月一一日に、斎藤平四郎と亭のひとり娘として熊本市画図町上江津の地に生まれた。一九二〇(大正九)年、二〇歳のとき、『ホトトギス』に初投句し、同じくこの年、同郷出身で税務官吏であった中村重喜と結婚。その後順調に句作を続け、一九四〇(昭和一五)年に『春雪』を発表。続けて、戦局厳しいなかにあって、一九四四(昭和一九)年、『汀女句集』を刊行する。汀女が富本一枝と知り合うのは、戦争末期の耐乏生活を強いられていた、ちょうどこの時期であった。

汀女の直前の発病により、刊行が一箇月遅れ、『風花』創刊号が実際に発行されたのは、奥付によると、一九四七(昭和二二)年の五月一日のことであった。さらにこの創刊号の奥付には、編輯者に富本一枝、發行者に中村汀女の名前が記載され、發行所は風花書房で、所在地の住所は、汀女の自宅の「東京都世田谷區代田二ノ九六三」となっている。また、「本號特價十八圓」の文字も並ぶ。目次に目を移すと、最初の行に「表紙・扉・カット」として富本憲吉の名前が明記されている。

創刊からしばらくのあいだ一枝が編集を担当した汀女の句誌『風花』は、その後長く愛読され続けるも、惜しまれて二〇一七(平成二九)年の一〇月号(七七四号)をもって終刊した。最終号に「終刊のごあいさつ」を寄稿した汀女の孫の小川晴子は、そのなかで、創刊号の「後記」に一枝が書いていた言葉を引用して、こう記した。

 『風花』創刊号の後記に富本一枝氏が記された「風花を立派なものにするためには編集者の責任が重大であることは申すまでもありませんが、良き投句者と好意ある読者のご支援がなければ成し遂げられないことです。」との文章があります。「風花」の七十年の歴史は、まさにこれを築き上げてくださった会員の皆様の、俳句を詠む喜びと、結社を愛する深い情熱と、弛まない精進の結晶であります。『風花』は私共の心の支えであり、大きな誇りでもあります1

翌月号(二〇一七年一一月号)から、句誌名が『風花』から『今日の花』へと変更され、主宰者も、汀女の娘の小川濤美子から、その娘の小川晴子に引き継がれ、その創刊第一号(通巻七七五号)が、新たに世に出ていった。『今日の花』の表紙【図一】を飾るイラストには、『風花』創刊号の表紙【図二】のために一枝の夫で陶芸家の憲吉が描いたイラストがアレンジされて、再利用された。こうして、創刊号の「後記」において一枝が記した精神と、創刊号の表紙のために憲吉が創案したイラストが、七〇年もの時空を超えて、いまなお生き続けようとしているのである。

一枝が亡くなったのは、一九六六(昭和四一)年九月のことである。すでに半世紀が過ぎた。そのため、『風花』の継続誌『今日の花』の現在の読者の記憶からも、幾分、一枝の存在が薄れつつあるのではないだろうか。そこで、こうしたことを念頭に置きながら、以下において、一枝の生涯を短くたどってみたいと思う。

富本一枝は、父尾竹熊太郎、母うたの第一子として、一八九三(明治二六)年四月二〇日に富山市の越前町で出生した。新潟出身の熊太郎(画号は越堂)は長兄で、三男の染吉(竹坡)、四男の亀吉(國觀)とともに尾竹三兄弟と呼ばれて、明治の末期前後にあって、日本画壇にその輝かしい名声を刻んでいる。一枝は、一八九九(明治三二)年八月の富山市を襲った大火事により、父方の祖父母(尾竹倉松とイヨ)に連れられて上京し、根津尋常高等小学校に通うことになる。その後両親とともに大阪に移り住み、高等女学校(現在の大阪府立夕陽丘高等学校)へと進む。一枝には、福美(のちに洋画家の安宅安五郎と結婚)、三井(のちに日本画家の野口謙次郎と結婚)、そして貞子(のちに武田家から正躬を婿養子に迎える)の三人の妹がいた。自身の父親倉松(國石)も画工であった父の熊太郎は、長女の一枝を画家として大成させ、自分の跡取りにと考えていた。一方、父親が越中富山藩の高禄武士であった母のうたは、祖先を敬い、親に尽くし、夫に従うことに徹した、厳格なしつけを子どもたちに行なった。

幼少期を富山、東京、大阪で過ごした一枝は、絵の勉強を口実に、再び憧れの東京に上り、叔父の竹坡の食客となった。一九一一(明治四四)年の秋のある朝、表庭の掃除をしていると、叔母宛ての一通の手紙が配達夫から手渡された。封を切ればそのなかから、『青鞜』発刊の辞と青鞜社の規約が現われた。まさしく一枝のその後の人生を決定づける一瞬であった。

一枝は主宰者の平塚らいてう宅を訪ねた。そして許されて、望みどおりに青鞜社の一員となった。一枝は、一九一二(明治四五)年春の第一二回巽画会の展覧会に出品した二曲一双の屏風《陶器》で三等賞銅牌を受賞し、画壇への初登場を見事に果たした。もっとも一枝の関心は、日本画よりも、むしろ文学にあった。一枝は自分のことを「 紅吉 こうきち 」と呼び、ペンネームにもその名を使った。一九一二(明治四五)年三月号の『青鞜』(第二巻第三号)に、はじめて紅吉の「最後の霊の梵鐘に」が掲載され、さらに翌月号では、紅吉が描いた「太陽と壺」に、表紙が差し替えられた。その後、らいてうとの「同性の恋」、メイゾン鴻の巣で楽しんだ「五色の酒」、さらには、らいてうと中野初子を誘っての「吉原登楼」といった世間を驚かす話題が次々と起こると、新聞や雑誌が連日のようにそれを書きたてた。 誤解や誇張もあったであろう。それでも、青鞜の「新しい女」は、「男のような女」とも、あるいは、単に「新らしがる女」とも揶揄され、叱責された。このころ紅吉は、こういっている。「私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐますが夫れは自ら獨り樂しむ氣分であつて決して口に出して話す氣分ではないのです、死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」2。この内面に秘められた「面白い氣分」が、生涯の紅吉(一枝)の光と影となるものであった。一枝が亡くなって二年後の一九六八(昭和四三)年に、竹坡の息子の尾竹 したし は『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』を上梓し、そのなかで一枝について書いている。「青春時代に受けた心の傷あとが、その後の彼女の人生のなかに後遺症として尾を引き……青春というものが、遠い過去の形のままで凍結され、肉体だけが老化した感じを受け、彼女のなかには、明治と大正の女が、そのまま生き続けている印象が強かった」3

青鞜社を退いた一枝は、竹坡の支援もあり、文芸雑誌『 番紅花 さふらん 』を立ち上げ、一九一四(大正三)年三月に第一巻第一号を刊行した。しかしそれも長く続かず、この雑誌の表紙絵の依頼などを通じて交流が深まった富本憲吉と、同年一〇月に結婚する。憲吉は、奈良の安堵村に生まれ、東京美術学校在籍中に英国へ留学、その地でウィリアム・モリスの作品と思想を学び、帰朝したばかりの新進気鋭の工芸家であった。結婚するにあたって憲吉は、一枝にこういった。「例へ法律とか概観で、そうでないにしても尾竹にも富本にも未だ属しない、ひとつの新しい家が出来るわけである。そう考へて居て貰ひたい」4。こうしてここに、因習に囚われない一組の「近代の家族」が生まれ、翌年(一九一五年)三月、生活の場を東京から大和の安堵村へと移すことになった。

青鞜時代に仲がよかった神近市子が、一九一五(大正四)年一〇月に安堵村に一枝を訪ねた。長女の陽が生まれ、憲吉の陶器を焼く窯も試作の段階に入っていた。一九一九(大正八)年五月には、有島武郎が来た。そのときの日記には、「夜、奥さん[の一枝さん]から[妹の]三井の悲しい話を聽く」5と、記されている。この年の一一月、関西婦人大会の帰路、らいてうが安堵村を訪問した。この間、手紙を通じて友情が復活していた。一枝には次女の陶が生まれ、同じくらいてうも、母親となっていた。大和の山々を望む広々とした田園を散策しながら、自然と話題は育児や教育のことに向かう。らいてうは、自伝にこう書き記す。「わたくしの心をつよく衝き動かすのは、この美しい田園のなかで、朝夕子供たちといっしょにのびやかな心で遊べる一枝さんと、そのお子さんたちの限りない幸福でした」6。一枝の書く物、着物の着こなし、口から出る言葉、どれもが、若い女性を魅了した。自伝『我が愛 流れの足跡』のなかの冒頭で、石垣綾子は青春期に一枝を訪ねたときの様子を記述している。「夜になると私は、夫婦が二人の女の子を挟んで寝る蚊帳に入りこんだ。夫婦には迷惑至極だったろうが、私は一枝のわきに眠れるのがうれしかった」7と。また、当時、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)の学生だった丸岡秀子も、晩年に上梓した『いのちと命のあいだに』において、こう書いている。「十代を苦悶し、その苦悶に支えられて二十代を翔ぼうとしている小鳥のようなわたしに対して、いささかの差別もない。子ども扱いもしなかった。大人振りもしなかった。……これこそ、まさに『近代』とのめぐり合いといえよう」8

この時期一枝は、夫の仕事や子どもの教育、田園の美しさなどの日常生活を主に取り上げ、『婦人公論』『女性日本人』『婦人之友』『女性』のような女性雑誌を中心に寄稿した。そしてまた、小説としては「貧しき隣人」9や「鮒」10を書いた。一方一枝には、深刻な苦しみが持続していた。それは、自身の生得的なセクシュアリティーについてであった。一枝はこう述べる。

 久しい間、幾年か私は、自分を不良心なものと思つたし、不徳義なものだとして見てゐたし、不道徳な人間だと思つて見過して來た。……それが「或る事」から、まるで考へが變つて仕舞つた。そしてどうにかしてそこに見つけた光りを、少しでも見失ひたくないと思つて、どれだけ一心に唯その光りに寄り縋つて來たろう11

「或る事」つまり結婚を境として、「見つけた光りを」頼りに、「限りなく善くなること、限りなく正しい道を求めること、それが自分の探るべき一つのものであつた」12。しかし、簡単に達成できるものではなかった。「かつて若かつた頃、なにかにつけて心の轉移といふ言葉を使つたものであるが、まことの轉移といふものは、並大抵の力では出來るものではなく、身と心をかくまでも深く深く痛め悩まして、身をすてゝかゝつてはじめて出會ふものであり行へるものであることを 沁染 しみしみ と知ることが出來た」13。これが、一九二六(大正一五)年の一〇月、大和の安堵村を離れ、東京の千歳村下祖師谷へと移住するときの一枝の言葉である。

東京へ移ると、長男の壮吉が生まれた。プロレタリア文化運動が高揚期を迎えようとしていた。一枝もそうした潮流のなかにあって評論文14や短い小説15を執筆した。『女人藝術』や『火の鳥』が、当時の一枝の主たる発表誌であった。一方で帯刀貞代は、一枝についてのちにこう振り返る。「そのころ私は江東の亀戸で、女子労働者のためのささやかな塾をひらいていて……[一枝さんは]このころから社会問題にふかい関心をもたれ昭和のはじめ、解放運動のきびしい時代には、かげの援助者としておおくの人びとをはげました」16。一九三三(昭和八)年八月、一枝は、左翼方面への運動資金の提供の嫌疑で検挙され、特高課の取り調べを受ける。その後は、思想的な発言は影を潜め、特定の女性についての人物評17や短編の創作作品18を主に書き、一九三九(昭和一四)年の『婦人公論』新年号に掲載された「第一線をゆく女性 青鞜社」(写真記事で、一枝も被写体のひとり)と「探偵になりそこねた話」を最後に一枝の筆が止まる。一九四一(昭和一六)年一二月、日本はアジア・太平洋戦争へと突入する。

敗戦の翌年(一九四六年)の六月、夫の憲吉が、家族から離れ、独り大和の生家へ帰っていった。別れた理由について憲吉は、美術評論家の水沢澄夫に「あの人はレスビアンだった」と告白したという19。トランスジェンダーだった可能性も否定できない。一九四六(昭和二一)年八月に、詩人で童話作家の村山籌子が亡くなったとき、告別式で一枝は、藏原惟人、関鑑子、原泉らとともに故人の思い出を語り、翌年、夫の知義が随筆集『亡き妻に』(櫻井書店)を出版したときには、 題簽 だいせん を揮毫した。また、一九五七(昭和三二)年に岩波新書の一冊として『日本の婦人――婦人運動の発展をめぐって』を上梓した帯刀は、その本の扉の裏に、「この貧しき書を富本一枝様に捧ぐ」という献辞を添えた。 離別後の一枝については、神近がこう語る。「晩年は夫君と別居され、青春時代の華やかな紅吉を思うと涙をそそられるような淋しい日々だったが、花森安治氏が彼女をかばって、いつまでも『暮しの手帖』に執筆を依頼した。中村汀女氏も彼女を選者に迎えて、最後まで彼女の才能を評価された。その意味では、一枝さんは幸せな人であった。私たちの友情も終生変わらなかった」20。こうして、一九六六(昭和四一)年九月二二日に一枝は世を去った。花森の思いやりにより、生前一枝が『暮しの手帖』に執筆した童話がAとBの二分冊の形式にまとめられ、『お母さんが読んで聞かせるお話』(暮しの手帖社)という書題で一九七二(昭和四七)年に世に出た。「富本一枝」を著者名とするはじめての一枝の単行本であった。一方、発刊の草創期にあって一枝がその編集者を務めて尽力した汀女の句誌『風花』は、冒頭に述べたように、七〇年という長い歳月を刻みつつも昨年(二〇一七年)の一〇月号(七七四号)をもって終刊。翌月の号から、『今日の花』という新しい雑誌名に生まれ変わった。

概略これが、富本一枝がたどった人生の主要部分である。分量の関係もあり、『風花』創刊前後の汀女と一枝の交流については、ここで十分に言及することができなかった。それに関しては、機会を改め、さらに別稿を用意して詳述しなければならない。

『風花』創刊からちょうど一年を経た一九四八(昭和二三)年の五月五日、汀女は、熊本駅に降り立った。以下は、そのときの汀女の、生まれ故郷に寄せる思いである。

 九州線混む、深夜の汽車に虫 きこ ゆ。二時熊本駅着、人々に交じって東京に手紙を書く、夜風が少し寒い。ようやく明け放れた町の彼方から始発の市電が来た。まだ覚めない町の軒並に青い菖蒲が葺いてある。水前寺駅は広い道路のまん中で、しっとりとまだ朝靄が漂う。何かしら誰にも知られないで母の家に着きたいと思う。いよいよ江津の堤、靄晴つつ、真っ青な岸草に包まれて流れゆく水。私が思い描いて来たのはこの水のこんなに流れゆく姿であった。右に ひら くる野の麦やや黄ばみ遥かに父上の墓地21

それでは最後に、本稿のまとめに代えて、代表的な身近な句碑を、自伝『汀女自画像』(日本図書センター、一九九七年)の巻末にある「年譜」から抜粋して、ここに紹介しておきたいと思う。

夏雲の湧きてさだまる心あり
(一九八二年五月に、母校である熊本県立第一高等学校の校庭に建立)

とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな
(一九八五年一〇月に、生地である熊本市の水前寺公園に建立)

一九八七(昭和六二)年四月、『風花』創刊四〇周年と米寿を祝う会が、ホテルオークラにて華やかに開催された。そして、その翌年の九月二〇日に、呼吸不全のため、作句と選句に捧げた八八年の中村汀女の生涯が閉幕した。

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図1 『今日の花』創刊号(熊本県立図書館所蔵)。イラストは富本憲吉。

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図2 『風花』創刊号(熊本県立図書館所蔵)。イラストは富本憲吉。

(1)小川晴子「終刊のごあいさつ」『風花』終刊号(第774号)、2017年、3頁。

(2)「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」『東京日日新聞』、1912年10月27日、日曜日。

(3)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、255頁。

(4)山本茂雄「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第五号、画文堂、1981年、75頁。

(5)『有島武郎全集 第十二巻』筑摩書房、1982年、598頁。

(6)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、79頁。

(7)石垣綾子『我が愛 流れと足跡』新潮社、1982年、8頁。

(8)丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、27-28頁。

(9)富本一枝「貧しき隣人」『婦人公論』第8巻第3号、1923年。

(10)富本一枝「鮒」『週刊朝日』第10巻第15号、1926年10月。

(11)富本一枝「海の砂」『解放』第1巻第7号、1919年12月号、31頁。

(12)同「海の砂」『解放』、同頁。

(13)富本一枝「東京に住む」『婦人之友』第21巻、1927年1月号、112頁。

(14)主なものとして、『女人藝術』に「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」(第2巻第7号、1929年7月号)と「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」(第4巻第7号、1931年7月号)を、そして『婦人公論』に「共同炊事に就いて」(183号、1930年11月)を寄稿している。

(15)主なものとして、『火の鳥』に「米を量る」(第3巻第9号、1930年9月号)と「哀れな男」(第5巻第4号、1931年4月号)を発表している。

(16)帯刀貞代「富本一枝さんのこと」『新婦人しんぶん』、1966年10月6日、3頁。

(17)主として、「福田晴子氏に」(『婦人文藝』、1935年11月号)、「宇野千代の印象」(『中央公論』、1936年2月号)、「仲町貞子の作品と印象 手紙」(『麵麭』第5巻第2号、1936年2月号)、および「原節子の印象」(『婦人公論』260号、1937年4月)。

(18)主として、「猫兒(夢)」(『文體』第1巻第1号、1938年11月号)と「少年の日記」(『文體』第1巻第2号、1938年12月号)。

(19)井手文子「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』第54巻第9号、1969年9月、346頁。

(20)神近市子『神近市子自伝――わが愛わが闘い』講談社、1972年、242頁。

(21)中村汀女『汀女自画像』日本図書センター、1997年、109頁。



【初出:「汀女の句誌『風花』の終刊と初期編集者の富本一枝」『KUMAMOTO』No. 23号、くまもと文化振興会、2018年6月、91-98頁。】