私は、本誌前号(第二三号)に「汀女の句誌『風花』の終刊と初期編集者の富本一枝」を寄稿した。その拙論は、主として富本一枝の生涯を短くまとめたもので、『風花』創刊に際しての汀女と一枝の交流については、紙幅の関係もあり、言及することができなかった。今号掲載のこの小文は、それを補うものであり、内容的には、一枝のみならず、平塚らいてう、神近市子、中江百合子、大谷藤子、井上美子といった女同士のきずなを中心に、さらには柳田國男や富本憲吉のような側面で支える男性たちの動きも交えて、戦後間もない成城学園地区にあって俳誌『風花』が産声を上げるころの中村汀女【図一】が織りなした人間群像の一端をあらまし描写するものである。
一九二七(昭和二)年一月刊行の『婦人之友』(第二一巻第一号)を開くと、平塚らいてうの「砧村に建てた私たちの家」と富本一枝が書いた「東京に住む」が偶然にも一緒に掲載されている。らいてうは、一九一一(明治四四)年に『青鞜』を発刊して以降、婦人運動の分野で積極的に行動し、常に世間からの注目を浴びていたし、一方の一枝は、青鞜時代は「 紅吉 ( こうきち ) 」の筆名で文を書き、青鞜社を離れたのちは、文芸誌『 番紅花 ( さふらん ) 』を立ち上げるも、その後、英国留学から帰朝したばかりの新進気鋭の工芸家の富本憲吉と結婚して、大和の安堵村にあって執筆活動を続けていた。
らいてうは、長女の 曙生 ( あけみ ) を一九二三(大正一二)年の春に、長男の 敦史 ( あつぶみ ) を翌年の春に、牛込原町の成城中学校の敷地内にあった成城小学校に入学させていた。校長が沢柳政太郎で、主事が小原国芳であった。その小学校が、一九二五(大正一四)年に牛込から 砧 ( きぬた ) 村に移ることになり、それにあわせて、らいてう一家は、この地に家を建てたのであった。らいてうはこう回想する。「当時の砧村は、高台一帯が赤松林と草っ原で、萩や芒や葛などが生い茂る、文字どおりの草分けの地でした。番地こそあっても、あたりは野原のなかの一軒家で、小田急の成城学園駅は……家の窓からプラット・ホームと改札口が一目で見渡せます」1。
一枝にも、陽と陶というふたりの子どもがいて、成城学園へ転入した。陽と同学年だった井上美子は、後年『私たちの成城物語』のなかで、このように振り返っている。「富本家は、昭和二年に小田急線が開通する一年近く前、郷里の大和安堵村から家族とともに上京、窯を祖師谷の丘に築く準備をされた。住居と窯ができ上るまでのしばらく、高田馬場の線路の近くに仮住居があった。長女陽、次女の陶の姉妹が成城学園に入学、目白に家があった私とは、毎日電車の時間を決めて一緒に通学していた」2。いよいよ新居が完成し、富本一家は、高田馬場の借家から千歳村へと引っ越した。建築地は、「東京市外北多摩郡千歳村下祖師谷八三五」であった。井上美子の回想はさらに続く。「小田急線開通の晩夏、昭和二年にわが家が建ったのと同じころ、富本家の新居と窯も完全に完成して北側の奥、成城田んぼの突き当たりの丘に移られた。その年生まれた壮吉君と、一家は五人に増えていた。陽ちゃんと私もこの年の三月小学校を卒業して女学校一年となった」3。小田急線が開通したのも、成城学園女学校が創設されたのも、この一九二七(昭和二)年の春のことであった。
次女の陶は、この女学校について次のような思い出をもっていた。「昭和の初め、校舎は美しい富士山を西に眺められる雑木林の中に建っていました。成城女学校の毎日はお十時の時間があり、皆おやつを持参して一休み致しました。試験等、殆ど自主的に受けるシステムで、進度もそれぞれが違っていて勉強した所までを、各自が先生と生徒の一対一で受けておりました」4。ちょうどそのころ、民俗学者の柳田國男の家族も成城へ引っ越してきた。柳田國男を祖父にもち、のちに南薫造の孫の南建と結婚することになる八枝子は、自著の『洋画家南薫造 交友関係の研究』のなかで、興味深い話を披露している。八枝子の父親は柳田為正といい、一九二七(昭和二年)に為正は、「牛込から転校のために、父親柳田国男と書生二人と共に、新築した家に急ぎ移り住んだ」5。
富本憲吉は、東京美術学校の先輩の南薫造を頼って英国へ留学していた。また、「中江百合子は、南とは一番町教会、後には富士見町教会での直接の縁もあってか、既に明治四四年の富士見町教会での南の個展で絵を買っている」6。おそらくこうした経緯から南は、関西の実業家の中江家に嫁いだ百合子を、安堵村に住む憲吉と一枝に紹介していたものと思われる。
一九一五(大正四)年生まれの為正は陽とは同年齢であったし、さらに加えて、井上美子も、中江家の三男の昭男も、そしてらいてうの長女の曙生もみな、小学校の同級生だった。一方で、らいてうの長男の敦史と陶が同じ一九一七(大正六)年の生まれであった。
中江百合子と三人の息子たちは、らいてう一家や富本家よりも一足先に成城の地に引っ越してきており、借家住まいをしていた。のちに三男の昭男と結婚し中江家に入った泰子(旧姓植村で、植村家もこの時期の成城への移住者であった)は、井上美子との共著の『私たちの成城物語』のなかで、このように語っている。「中江家が借家住まいをやめて、いよいよこの地に土地を買い求め家の新築に取りかかることにしたのは、私が成城小学校に入学したころである。まだまだ空き地は沢山あったが、舅が決めたのは成城もはずれの雑木林と竹藪の二千坪ほどの土地……田んぼをはさんで祖師谷寄りの高台には、手を振れば見える距離に大和の安堵村から上京された富本憲吉氏の家がある」7。
このように、この時期の成城地区は、雑木林と田畑に囲まれた武蔵野の面影がいまなお残る自然環境を背景として、成城学園の移転や小田急線の開設に伴いながら、新しい文化人村としてその姿を現わそうとしていたのであった。
『汀女自画像』の巻末の「年譜」によると、中村家が世田谷区代田の家を新築したのは、汀女四二歳の一九四二(昭和一七)年のことであった。アジア・太平洋戦争は、一九四二(昭和一七)年六月のミッドウェー海戦で大敗を喫すると、戦局は大きく傾き、南太平洋の日本軍は次々と壊滅の道をたどっていった。らいてうや一枝とともに青鞜社時代を経験していた神近市子は、米軍による本土空襲が近づく気配を感じていた。「そんなとき……富本憲吉氏が、『ひとりで静かに絵を描きたい』ということで一軒の茅葺き小屋を借りておられたが、氏は、その家をまだ見ていず、家賃の交渉もしていない段階だった。そこで私は富本氏にたのんで、その家を譲ってもらうことになった」8。こうして本郷の下宿間を出て、鶴川での神近の疎開生活がはじまった。
汀女は、当時をこう回顧して書いている。「作家の大谷藤子氏とは近所だから知り合い、そして紹介してもらったのが富本一枝氏である。さっそく買い出しに連れられた。小田急線の鶴川に住まっておられる神近市子氏を『たよる』というのであった。初対面、わが家にあったビールを二本おみやげにした」9。おそらく一枝と大谷は、長谷川時雨が主宰した『女人藝術』のころに面識をもったのであろう。大谷も、一枝と一緒に買い出しに出かけたときのことを記憶していた。「私は夫人に誘われて食糧の買い出しに出かける日が多かった。電車で三十分ばかり乗り、それから一里の道を歩くのである。低い山々の間にある村の街道を、長身の夫人は網袋をしょって軽快な足どりで歩いて行った。……夫人は不思議な魅了があって、そばにいると私を仕合せな気持ちにさせた。『神近さんのところへ寄りますよ』」10。こうして、往復二里の買い出しの帰りに、ふたりして神近の家に立ち寄り、一休みすることもあった。
こうした戦時中の買い出しを通じての交流が、『風花』誕生へ向けての道筋をつくりあげていった。それについて汀女は、こう記す。「この縁故で、私たちは神近家に疎開荷をあずけ、また、二十二年に創刊した、主宰誌『風花』の編集も富本一枝氏がやってくださることになったのである」11。
戦争が終わった。『風花』創刊の話が持ち上がったのは終戦の翌年(一九四六年)のことであった。汀女はこの年、盲腸炎を起こして、北沢の鵜沢病院に入院した。「院長、生生子、ゆみ女の夫妻は俳句を作っておられ、やがて句会、私は二階の病室からその座敷に加わった。そこで『風花』発刊の話が出たのであった。発行は二十二年の四月、富本憲吉氏が表紙を描いて下さった」12。汀女の直前の発病により、刊行が一箇月遅れ、『風花』創刊号が実際に発行されたのは、一九四七(昭和二二)年の五月一日であった。さらに奥付を見ると、編輯者に「富本一枝」、発行者に「中村汀女」、発行所の風花書房の住所に「東京都世田谷区代田二ノ九六三」の文字が刷り込まれ、一方、目次の最初の行には、「表紙・扉・カット」として富本憲吉の名が明示されていた。表紙の「風花」の題簽も憲吉の揮毫によるものであろう。これ以降の憲吉の陶器の作風に、文字模様がしばしば見受けられるようになる。とりわけ「風花雪月」や「春夏秋冬」の文字が好んで使われた。【図二】は「花」の文字を描いた皿の作例である。
一枝は創刊号の「後記」にこう書いた。「中村さんも私も、出版事情が日に日に悪い時期に、雜誌を出すといふことがどんなに困難な仕事であるかと云ふことは充分計算にいれてゐましたが、さて仕事にかかつてみると、豫期しない障害が次々にやつてきて、幾度か引き返したくなりました。それでもとにかく此處まで辿りつきました。それだけに嬉しさ格別です」13。そして、次のように結んだ。「『風花』を立派なものにするためには編輯者の責任重大であることは申すまでもありませんが、良き投句者と好意ある読者の御支援がなければ成しとげられないことです。……現代俳句として、自他共にゆるせる作品を送つてほしいものです」14。それを受けて、次に汀女による「後記」の文が続く。「私の部屋の外に女竹數本、朝、窓を開けると笹の先の一つ一つに露が光り、次々にばらばらとこぼれます。これは去年の夏にも綺麗だと見てゐましたが、今年はまた今年はじめて見つけたやうなうれしさです。その竹の間に、もう湧き立つ白い雲がかかり、雲をみると、ここの狭い空が無限にひろがつて、私をたのしくさせてくれます。『風花』の後記を書く日となり、あらたまつた思ひとなつて竹の空を眺めて居ります」15。
創刊号には、武者小路實篤が「畫をかく事で」、室生犀星が「(俳句)蕗の薹」、本多顕彰が「一般文學論の適用」、河盛好蔵が「何を讀むべきか」を寄稿した。汀女は、振り返る。「いま思えば盲蛇に怖じずと言いたいお願いをして原稿をいただいているし……こうしたお願いなども編集をやって下さった富本一枝氏の配慮であった。諸先生にはほとんど稿料というものもさしあげ得なかった」16。
創刊号のなかの中村汀女選「風花集」から、以下に、三句を抜粋する。最初が、鵜沢病院の院長夫人の鵜沢ゆみ女の句で、次の句は、一枝の娘の成田陽子の作で、最後が、すでに紹介しているように、陽と成城学園女学校の同級であった井上美子の句である。
日脚のぶ窓邊の炬燵子と二人
春風のかまどに燃ゆる松ぼくり
小笹道下れば春田連りて
一九四七(昭和二二)年一二月一日発行の『風花』(四・五合併号)の「後記」には、吟行についての汀女の短文が添えてある。「十一月風花句會は思ひ立つて、郊外吟行となり、祖師谷の富本邸に集りました。折からの小春日に、丘の孔楽紅葉美しく、稲架の並ぶあたゝかい畦道を歩いて、いゝ作品が集りました」17。そしてこの合併号には、俳人の水原秋櫻子が「俳壇月評」を、民俗学者の柳田國男が「病める俳人への手紙」を寄稿していた。秋櫻子は、富本憲吉邸をよく訪れる客人で、「祖師谷の客間」と題したエッセイのなかで、その客間(居間)の様子について、「畳ならば四、五十疊も敷けやうといふ板の間に絨毯が敷かれ、二三脚の卓とそれをかこむ椅子とが適当に配置されてゐる」18と、描写している。同じく成城の加藤武雄邸では、毎月連句の会が催されており、そこには柳田國男も参加していた。汀女は「連句の会」と題したエッセイを『定本 柳田國男集』の「月報2」に寄稿し、一九四九(昭和二四)年三月の「五吟歌仙 峡深くの巻」を紹介したあと、文末に、「先生から『芭蕉の恋の句』や『病める俳人への手紙』などの貴重な長い原稿をいただいて居り、読み返すたびに勿体ない気がする」19と、謝辞を述べている。
平塚らいてうの自伝には、成城地区の婦人仲間の句会についての次のような回想を読むことができる。「知人の料理研究家中江百合子さんのさそいかけで、成城に住む婦人仲間の句会が、一九四六年十一月から、中村汀女さんをむかえてひらかれていました。わたくしがそれに加わったのは、四八年のはじめごろかと思います。……中江さんとごく親しいあいだがらの富本一枝さんも、ときには顔を見せますが、句作にはまったく加わろうとしません。……彼女の句というものは、ついぞ目にしたことがありません。……句会の日は……まだ物の不足していたころですから中江さんが手ずからつくってくれる、蒸し寿司やお雑煮をいただくことが、また楽しみの一つでした。……『風花』は、四七年に創刊されましたが、わたくしはその三号から出句しています」20。らいてうは、『青鞜』創刊以前の日本女子大学の学生のころから俳句をたしなんでいたし、中江百合子は、憲吉の陶器に季節の料理を盛り付けることをことのほか喜びとしていた。以下の二句は、一九四八(昭和二三)年一二月一日発行の『風花』(第一〇号)のなかの中村汀女選「風花集」からの抜粋で、前者が平塚明子(らいてう)、後者が中江百合(中江百合子)の作である。
大利根の堤はてなき月の人
十五夜の次郎丸まだ靑うして
この句会は長く続いた。井上美子はこのように回想する。「中江邸の句会は進駐軍の将校宿舎に接収され、その後南側の私の家に移り、つづけられた。以後昭和五十四年、先生八十歳の春まで三十三年間毎月一回句会指導に来ていただいた」21。そして井上は、『私たちの成城物語』のなかの「中村汀女と成城」の章を結ぶにあたって、次の言葉でもって恩師の偉業を偲んだ。「日本の四季をこよなく愛し、春、秋はもとより寒中の厳しさ、炎昼の煌めき、人間とともに生きるすべての動植物を佳しとし 諾 ( うべな ) った汀女師の心を心とし、今は残された月日、平成の世を平和の裡に生きつづけたいと希うのである」22。
述べてきたように、俳誌『風花』の誕生には、成城という文化人や資産家が集う新しい住宅地が舞台として存在していたし、戦時下において買い出しや疎開を通じて交流を深めていた女性たちが新たな主役となって踊り出ていた。『風花』は、一九四七(昭和二二)年五月一日、戦後すぐのいまだ物資が乏しい困苦の時代に産声を上げた。女性が主宰する文芸雑誌には、輝かしい歴史がある。一九一一(明治四四)年創刊の平塚らいてうの『青鞜』、一九一四(大正三)年創刊の尾竹一枝(のちの富本一枝)の『番紅花』、一九二八(昭和三)年創刊の長谷川時雨の『女人藝術』、そして一九三五(昭和一〇)年創刊の神近市子の『婦人文芸』がその好例となろう。そのような意味で『風花』の発刊は、女性による主宰誌の燦然たる歴史を戦後の新時代へ向けて架橋する、生命力に満ちた画期的な出来事であった。主宰者も、中村汀女から娘の小川濤美子へ、そしてその娘の小川晴子へと引き継がれていった。『風花』自体は、二〇一七年の一〇月号(第七七四号)【図三】をもって七〇年という永久の歴史に幕を閉じ、翌月号(通算七七五号)からは誌名を一新し、『今日の花』へと生まれ変わった。「今日の花」は、汀女が自戒の言葉としていた「今日の風、今日の花」に因むという。
一九八八(昭和六三)年九月二〇日、中村汀女は旅立った。二〇一八年の今年は、没後三〇年という節目にあたる。そこで、俳句雑誌『風花』刊行草創期の汀女を取り巻く人間群像に光をあてた、この拙い素描をもって、同郷人としての私から汀女女史へのその歴史的区切りに際しての個人的な追悼の文となすことをお許しいただきたい。そしてそのうえで、次の四季四花を主題とした四つの句で構成される新作物語「 燎原 ( りょうげん ) 」を、この場をお借りして、捧げたいと思う。舞台は阿蘇南郷谷。登場人物は母とその息子、あるいは妻とその夫、詳細は不明。山野の桜吹雪のなか男は自ら命を絶つも、女は、 花忍 ( はなしのぶ ) の花言葉に身を寄せながら、男を待つ。秋、男は 彼岸花 ( ひがんばな ) となって生き返ると、南郷谷の原頭を真っ赤に染め上げてゆき、続く冬のある夜、漆黒の闇に紅をひいた女は、 寒椿 ( かんつばき ) の花神となって舞い踊る。
山桜 散るを悟りて風に舞う
花忍 青紫 ( せいし ) の 衣 ( い ) にて人を待つ
彼岸花 阿蘇原頭を染めて立つ
寒椿 漆黒の闇に紅をひく
わが小庵のある阿蘇郡高森町のキャッチコピーは「野の花と風薫る郷」で、このなかに「風花」の二文字が含まれる。これもまた、汀女女史の足跡を鑽仰する何かの 縁 ( えにし ) とも思い、最後にここに追記して擱筆する。
図1 書斎にて選句する中村汀女。(© 小川晴子)
図2 富本憲吉の「花」文字模様の小皿。(執筆者所蔵)
図3 『風花』終刊号の表紙。(© 小川晴子)
(1)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、261頁。
(2)中江泰子・井上美子『私たちの成城物語』河出書房新社、1996年、61頁。
(3)同『私たちの成城物語』、62頁。
(4)富本陶「円通院の世界地図」『もぐら』桐朋女子高等学校音楽科文集委員会編集、1988年、93頁。
(5)南八枝子『洋画家南薫造 交友関係の研究』杉並けやき出版、2011年、56頁。
(6)同『洋画家南薫造 交友関係の研究』、同頁。
(7)前掲『私たちの成城物語』、72頁。
(8)神近市子『神近市子自伝』講談社、1972年、224頁。
(9)中村汀女『汀女自画像』日本図書センター、1997年、92頁。
(10)大谷藤子「失われた風景」『學鐙』第60巻第12号、1963年12月号、42-43頁。
(11)前掲『汀女自画像』、93頁。
(12)同『汀女自画像』、97頁。
(13)富本一枝「後記」『風花』創刊号、風花書房、1947年、44頁。
(14)同「後記」『風花』創刊号、45頁。
(15)中村汀女「後記」『風花』創刊号、風花書房、1947年、45頁。
(16)前掲『汀女自画像』、101-102頁。
(17)中村汀女「後記」『風花』四・五合併號、風花書房、1947年、48頁。
(18)水原秋櫻子「祖師谷の客間」『陶説』36号、1956年、77頁。
(19)中村汀女「連句の会」『月報合本資料第一』(定本柳田國男集付録)筑摩書房、1981年、16頁。
(20)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった④』大月書店、1992年、79-80頁。
(21)前掲『私たちの成城物語』、157頁。
(22)同『私たちの成城物語』、同頁。
【初出:「中村汀女没後三〇年にあたって 汀女主宰誌『風花』創刊前後の人間群像」『KUMAMOTO』No. 24号、くまもと文化振興会、2018年9月、20-28頁。】