中山修一著作集

著作集1 デザインの近代史論

第二部 デザイン史学とミューゼオロジーの刷新

第七章 デザイン史学を日本の学問土壌に

私の研究領域は「デザイン史」という分野です。しかしこれまで日本において「デザイン史」がひとつの自立した研究領域としてみなされることはほとんどありませんでした。それは、デザイン教育を担う造形芸術系の大学では、戦後の経済の発展に歩調をあわせて、有能なデザイナーを養成することに主眼が置かれ、デザイン史研究を含めたデザインの学問的研究はおおむねないがしろにされてきたことに起因していました。しかしそうした状況が日本にあったにもかかわらず、それまで私の上の世代の少数の研究者たちによって、持続的にデザイン史研究は進められてきていました。彼らの研究の関心は、当然ながらヨーロッパの研究者たちの関心に倣ったものであり、近代的で民主的な方向へと社会が進歩するなかにあって、それにふさわしい生活様式の確立を促すことになったオブジェクトのデザインがヨーロッパの歴史のなかでどう展開し成立したのかに注がれていました。したがいまして、彼らは、多かれ少なかれ社会主義的イデオロギーに支えられたモダン・デザインについての、ないしはより広範なデザインの近代運動についての歴史記述として「デザイン史」という学問を認識していたのでした。

確かにそうした認識は、一九三〇年代から六〇年代後半に至るまでヨーロッパにおいて強固な歴史観になっていました。それは、ニコラウス・ペヴスナーやハーバート・リードなどのデザインの歴史家や批評家によって確立されていた記述の伝統であり、それによると、モダン・デザインは、一九世紀後半のウィリアム・モリスを中心とした英国のアーツ・アンド・クラフツ運動に源を発し、一九二〇年代のドイツのデザイン学校であるバウハウスによって確立されたというものでした。しかしモダン・デザインの実践と思想への懐疑は、ヨーロッパの社会と文化のなかにあって、七〇年代に入ると一段と強くなり、ご承知のように、いわゆるポスト・モダン的状況が現われてきたのです。

デザインのモダニズムは、当然ながら階級性のない均質で平等な社会や、民族対立を回避するための普遍的で国際的な社会を目指すものであり、そうした社会的倫理観から導き出されたモダン・デザインは、誰にでも入手できるという意味で機械による量産を前提として、歴史的装飾を排した抽象形態にうちに、実質的な生活に即応した機能性を追求してきたわけですが、そうしたデザインは、個々人の表現や個々の民族に固有の伝統的な文化を抑圧しているのではないかといった疑問が次第にこの時期力を得るようになったのでした。こうして新たに生まれた状況は、イデオロギーの正当性と社会の進歩に対する確信に立脚した従来の歴史記述の刷新を要求しました。いわゆる「新しい歴史学」の要請です。このことは、「デザイン史」の場合についていえば、モダニズムのイデオローグたちがつくり上げていた「モダン・デザインの系譜」についての歴史記述の否定を意味しました。そして、それに代わる新しいデザイン史の記述スタイルが七〇年代から八〇年代をとおして欧米の研究者のあいだで激しく論議されるようになったのです。その結果「デザイン史」は、社会的、文化的、技術的文脈からのオブジェクト/イメージ(視覚・物質文化)の解釈という新しい学問上の基盤を獲得し、多くのデザイン史家が大学やミュージアムで活躍の場を得るようになりました。英国にあっては、その学問の発展は他国に比べて著しく、一九七七年にデザイン史学会が創設され、さらに八八年にはその学会誌が年四回オクスフォード大学出版局から刊行されるようになったのでした。

私のこれまでの約二〇年間のデザイン史研究は、この分野にみられるこうした世界的潮流と無関係ではありませんでした。私のデザイン史研究の歴史は、ブリティッシュ・カウンシルの奨学金で英国留学ができた一九八七―八八年を境にして、大きくふたつに分かれることになります。前半の一九八七年までの一〇年間は、日本における先達の研究成果に学び、自分なりに「モダン・デザインの系譜」を跡づけようとしていました。そしてその成果を実地に確認する目的で一九八七年に英国に渡り、王立美術大学で研究に着手したのですが、その思惑は無残にも潰え去ることになりました。先に述べたように、英国では、新しい歴史記述の方法論がすでに確立され、それに基づいた論文や研究書がまるで洪水のように出版されようとしていたのです。このときは本当に学問的に打ちのめされましたし、この一〇年間自分は何をやってきたのかという実に虚しい思いに駆られました。しかし、すべては自分の不勉強さに由来するものであり、最初の一歩から研究をやり直すことを決意して帰国したのを決して忘れることはできません。それでもその留学期間は、デザイン史学会の学会誌の創刊を控えたり、またデザイン・ミュージアムの建設が進行中であったりして、デザイン史研究者のあいだで何か高揚した雰囲気が漂っていました。そうしたなかにあって私は、一〇名を超える主だったデザイン史家にインタヴューを試みることができました。こうして英国におけるデザイン史研究の本格的誕生の瞬間に幸運にも立ち会えたことは、インタヴューのテープとともに、いまも私の貴重な財産となって残っています。

しかし、帰国した一九八八年以降の私の後半の研究生活はどん底の状態からの出発でした。ひとつは、当時抱えていた三つの翻訳書(マクドナルド『美術教育の歴史と哲学』、ブレイク編『デザイン論――ミッシャ・ブラックの世界』、そしてマーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』)の仕事からくる重圧に起因するものでしたし、もうひとつは、デザイン史研究の方法論を自分なりに再構築するに際しての自分の思想上の位置を整理することに伴う苦悩に由来するものでした。しかしそうした自分にとっての試練も、幸いなことに、一九九五―九六年に文部省の在外研究員として王立美術大学とヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で再度研究に従事する機会を得るまでには何とか解決し、新しいパースペクティヴのもとに著書の構想もできつつありました。前回の留学が痛手の留学であったとすれば、今回は再スタートの留学であったと思っています。

一九八七―八八年と一九九五―九六年の二度の英国留学をとおしての収穫は、学問上の新しい知見を得たことだけではなく、実に多くの友人に恵まれたことです。そのなかには、たとえば、ジリアン・ネイラーさん、ペニー・スパークさん、フランク・ハイトさん、ブルース・アーチャーさん、クリストファー・フレイリングさん(以上、王立美術大学)、ポール・グリーンハルジュさん、クリストファー・ブルワードさん、ジェリミ・エインスリーさん(以上、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)、ジョン・へスケットさん(レイヴェンスボーン・デザイン・コミュニケーション大学)、ブルース・ブラウンさん、ジョナサン・ウッダムさん、アン・バディントンさん(以上、ブライトン大学)などのような大学やミュージアムの研究者や、ジャン・マーシュさん、ピーター・ホリデイさん、スチュアート・マクドナルドさんのような個人研究者が含まれます。また、ノエル・キャリントンさんとフランスに住む彼の娘さん夫婦、そして、ミッシャ・ブラック夫人のレイディー・ブラック(ジョアン・ブラック)さんのことも忘れることはできません。さらに、デザイン・カウンシルの前会長であったライリー卿(ポール・ライリーさん)が王立芸術協会の会員(FRSA)に私を推挙してくださったことや、ウィリアム・モリス協会の前会長のレイ・ワトキンスンさんが〈ケルムスコット・ハウス〉での講演の機会を与えてくださったことなどは、これまでの私の研究上の大きな励みとなっています。

一方、王立美術大学やヴィクトリア・アンド・アルバート博物館やブライトン大学だけではなく、デザイン史学会、全国美術・デザイン教育学会、デザイン・カウンシル、クラフツ・カウンシル、デザイン・産業協会、 王立 チャータード デザイナー協会、デザイン・リサーチ・ユニット、ボイラーハウス・プロジェクト、王立芸術協会、ウィリアム・モリス・ギャラリー、そしてウィリアム・モリス協会のような諸機関の関係者のみなさまから与えられたホスピタリティーとフレンドシップも、永遠に私の心に残ることでしょう。

しかし、日本に目を転じると、王立美術大学人文科学科やデザイン史学会やヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のようなデザインのための研究組織は、残念なことに、いまだこの国には存在しないのです。今後私は、英国への恩返しという意味も含めて、研究者として残された時間のすべてを使い、「デザイン史学」という新しいディシプリンを日本の学問土壌に導入することにかかわって何らかの寄与をしたいと思っています。もし将来、少しでもこのディシプリンがこの地で開花することになれば、もともとの種子は、紛れもなく英国から日本への温かいプレゼントだったということになるでしょう。

(一九九八年)

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図1 王立芸術協会の建物が描かれた会員専用のクリスマス・カード。イラストレイションはディヴィッド・ジェントルマン。

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図2 ウィリアム・モリス協会の〈ケルムスコット・ハウス〉で著者が行なった講演 ‘The Impact of William Morris in Japan’(1995年8月26日)のためのポスター。デザインはライオネル・セルウィン。