中山修一著作集

著作集1 デザインの近代史論

第二部 デザイン史学とミューゼオロジーの刷新

第二章 デザイン・ミューゼオロジーへの展開

はじめに

「二〇世紀のデザインを扱う場合のおそらく主たる問題のひとつとなるのは、一定の歴史的な概観と展望を踏まえなければ、避けがたく、記憶と個人的理解が割り込んでくるということである」。この危険性を回避するうえで、デザイン・ミューゼオロジーの確立が今日的に要請されているわけであるが、ここでの考察は、すでに前章「デザインの歴史研究の再文脈化」において検討したデザイン史研究の新しい方法論が今後デザイン・ミューゼオロジーの構築の場にどう展開されるべきかを巡る諸問題に向けられることになる。

一.デザイン・ミューゼオロジーの不在

デザインの歴史を検証し理解しようとする場合、単に文字による記述だけでなく、実際のオブジェクトによる展示が有効な手段になりえることはいうまでもない。そして、文字による記述とオブジェクトによる展示においては、それぞれ制約される次元が大きく異なるにしても、両者にとっての関心事に、つまりデザインの社会的意味と文化的意義をどのように認識し、それをどのような視点から照明をあてるかという問題意識に、共通点があることもまた疑いを入れないだろう。さらに付け加えるならば、そうした両者の関心事はただ底辺で共通しているというだけではなく、互いに刺激と影響を及ぼし合う関係として機能しなければならないことも、認められてよいだろう。そうであるとするならば、デザイン史の記述手法とデザイン・ミューゼオロジーは、別個の基盤からではなく、必然的に両者が共有することになる関心事を基盤として今後構築されなければならないことを意味する。そこで、デザインの歴史記述を巡って大きなパラダイム・シフトが起きつつある現在にあって、デザイン・ミューゼオロジーがどのような状況にあるのかを見ておくことは決して無意味ではないだろう。

デザイン史の記述手法とデザイン・ミューゼオロジーに関連して、『欲望のオブジェクト』の著者のエイドリアン・フォーティーは、そのなかで、戦前の英国の美術とデザインを回顧するために一九七九年にロンドンのヘイワド・ギャラリーで開催された「三〇年代」展に言及し、こう述べている。    

 ほとんどの展示物が、その一〇年間のものであると考えられる様式と合致するがゆえに選ばれていたことは明白であり、説明書きにはデザイナー名、製造業者名、デザインの日付、そして現在の所有者名が情報として記されていた。カタログに付け加えられていたさらなる情報といえば、取り上げたデザイナー一人ひとりについての簡単な略歴ただそれだけであった。こうした断片的な情報を見て、展覧会の入場者たちが、最も大事なことはそれぞれのオブジェクトをデザインしたのは誰なのかという点にある、と思い込んでしまったとしても、それは無理からぬことであっただろう

フォーティーの批判が、デザインを成り立たせている社会的、文化的諸関係を無視し、あたかもデザインが自律的なひとつの美術作品であるかのような扱いのもとに、その説明にあたってはデザイナー名とそれに付随する幾つかの断片的な情報しか提供しようとしない展示方法についてであることはいうまでもない。それではなぜ、そのような形式によってこれまでデザインの展覧会は開かれてきたのであろうか。おそらくそれは、これまでのデザイン史の記述形式が美術史のそれに歩調をあわせてきたことと同じ理由に由来するものと考えられる。ここで明らかにわかることは、一部に異論はあるが、近代社会における美術とデザインはその実態と役割の点で大きく分離し異なる様相を呈しているにもかかわらず、その歴史記述と展示の手法においては、著しく類似した方法論がこれまでとられてきたという事実である。デザインを美術の類似物とみなすような観点から歴史記述を行なってきたペヴスナー流儀の歴史家たちがなぜそうした態度をとろうとしたのかについて、同じくフォーティーはこう推論している。    

 ペヴスナーやその他の人びとが個人に力点を置いたひとつの理由は、察するところ、誰がデザインを行なったかというよりもデザインは何をなしえたかという表現でもってデザインを扱おうとする場合に直面する心もとなさに比べて、手法としてはこの方が比較的安全だったことにある

デザインの歴史を記述したり展示したりする手法として、社会的文脈よりも個人的文脈において照明をあてた方が「比較的安全だった」とするフォーティーの見解は、ペヴスナーやその他の批評家たちにとっては、どのようにして「モダン・デザイン」は大衆のあいだに受容され、拒絶されていったかという問題よりも、誰によって「モダン・デザイン」は成立させられたかといった論点の方に強い関心があったことを裏づけるものであるが、しかしそれは同時に、「モダン・デザイン」の成立過程を記述することにもまして、その受容過程を記述することに、より大きな困難性がつきまとうこともまた意味している。というのは、一般的にいって、「成立過程」の場合は、デザイナーとマニフェストとオブジェクトといったデザイン的語彙が主たる記述要素となるであろうが、「受容過程」の場合には、オブジェクトの生産と消費にかかわる多層的実相を技術的、社会的、文化的語彙によって検証する必要があるからである。

たとえば、一九六九年に京都国立近代美術館で開催された「近代デザインの展望」展のカタログをいま改めて読み返してみると、こうしたデザインの展覧会を実際に開催するうえで直面することになった困難性を主催者側は具体的に三点に要約し、そのうちの三つ目の困難性については次のように表明しているのである。

……直面したもうひとつの大きな問題は、デザインの範囲をどのようにしてきめるかという問題であった。ひとくちにデザインといっても、その領域はきわめてひろく、ある意味では、社会生活上の造形物はすべてデザインであるともいえる。そのすべてを限られた展示空間に網羅することはもとより不可能である。たとえそれが可能であるとしても、それはいたずらに混乱した雑多な印象を観衆にあたえるだけであろう。そこでわれわれは、おもいきって出品作品を、ごく少数の種類のものに限ることにした。……そしてこの限られた種類について、それぞれある程度系統的な展望ができるように配慮したつもりである

ここにみられる言説から、その当時にあって、日本における「モダン・デザイン」の受容過程の全貌を例証することがいかに困難な仕事であったかが読み取れる。確かに「社会生活上の造形物はすべてデザイン」ではあるが、それを単にすべて並べただけでは「混乱した雑多な印象を観衆にあたえる」のは明白である。この展覧会は、「出品作品を、ごく少数の種類に限ること」によって「混乱した雑多な印象」は免れたかもしれないが、カタログを見る限りでは、作者と作品名と年代しか情報としては与えられておらず、したがって、展示物が美術作品と同次元に扱われていることに違和感を覚えた人や、ひたすら生活上の郷愁しか感じられなかった人がいたとしても不思議ではない。デザインの成り立ちを個人の所産というよりも、むしろ社会の所産に還元し、たとえば「高度経済成長と生活様式の革新」といった大きなパースペクティヴのもとに戦後の日本のデザインの歴史を語る視点が用意されていたならば、「ポスター」や「パッケージング」や「プロダクト・デザイン」といったカテゴリーのなかにあってデザインの「系統的な展望」を行なうのではなく、資生堂の「MG5」のパッケージであれば六〇年代の若者文化の文脈で、松下電器産業の「ジューサー」であれば食生活の変化といった文脈のなかで語ることが可能となっていたであろうし、そしてまた、その方がよりふさわしかったにちがいなかった。しかし、いかなる文脈からも語られていないために、オブジェクトに刻まれた社会的、文化的観念の解読のみならず、その展覧会のテーマである「近代デザインの展望」それさえも、見る人の自由な解釈にすべてがゆだねられていたのである。

このような批評は現在の視点に立ってはじめて可能になるものであり、決して価値があるわけではない。しかし、次のような指摘を見る限りにおいては、その後のこれまでの二〇年間に、デザイン・ミューゼオロジーに関してなにがしかの進展があった、との判断を下すこともまたできないのである。    

 デザイン・ミューゼオロジーの構築は、デザインの理解を深めるための重要課題である。現在のミュージアムの展示方法を見ると、展示物の説明はデザイナー名に終始する場合がほとんどで、見る者にそれ以上の理解を与えることはない。しかし、本当に必要なのは、そのものを作り上げる要素となった、社会的背景にまで視点を広げた展示方法なのではないだろうか

ここで指摘されていることは、いうまでもなく、オブジェクトが成立するうえでの背景とそのオブジェクトが社会や生活に与えた影響とによって織りなされる全体的な文化構造のなかにあってデザインが果たした役割や機能について分析し、それをわかりやすいかたちで伝達することの重要性である。つまり逆のいい方をすれば、これまでのデザインの展覧会に欠けていたものは、近代社会が全体としてもっている価値や観念に照らし合わせてデザイン的視点から主題が抽出され、その主題を例証するうえで必須となるオブジェクトが集められ、展示がなされるような試みだったといえる。そうした意味で、まさしく今日に至るまで、日本においては、デザイン・ミューゼオロジー不在の状態が続いてきたのであった。次の一文は、デザイン・ミューゼオロジー不在のなかでの、同時に学芸員不在のなかでの、ある博物館の実状を鋭く描写したものである。   

 昨年度の「デザイン・イヤー」を受け、わが国でも「デザイン・ミュージアム」開設の動きが活発化しはじめた。デザイン史を画した工業製品、グラフィック、ファッションなどの名品を歴史的な視点によって収集、展示する美術館、博物館だ。……東京千代田区の日本カメラ博物館の一角には、持ち主のない机がひとつ置かれている。近い将来、ここに座るであろう学芸員のためのものだ。だが、学芸員採用のメドは立っていない。近藤英樹・同博物館運営委員は、次のように事情を説明する。
 「学芸員をきちんと置いて正式な博物館となるのが筋だが、通常の博物館の学芸員教育を受けた人では、工業製品の研究・評価は難しい。カメラの設計・製作の経験と知識のある人を、学芸員として認知するような柔軟な制度がほしい」。
 確かに、展示は素っ気ない。デザインや精密機械について知識のある人は、展示を見て自分なりの関心に沿ったストーリーを組み立てることも可能だが、現在のままでは、懐古の情をそそるだけに終わりかねない

それではなぜデザイン・ミューゼオロジー不在の悲惨な状態が続いてきたのであろうか。ひとつには、欧米にみられる七〇年代以降のデザイン史研究の急速な発展に比べて、日本においては、この分野の研究の進展は極めてゆるやかで、デザイン史研究の実質的成果をもってデザイン・ミューゼオロジーを構築するにいまだ至っていないことが挙げられよう。当然ながらこのことは、デザイン分野の学芸員を養成する学術的基盤が未整備の状態であることをも意味している。こうした理由が内的要因であるとするならば、外的要因として、日本におけるデザインとミュージアムとの疎なる関係性が挙げられるかもしれない。一九九三年の広島市現代美術館での「デザイン・メイド・イン・ニッポン」展を組織したひとりであるデザイナーの山田晃三は、その展覧会の開催を巡って、こう述懐しているのである。    

 さてそこで、「デザイン・メイド・イン・ニッポン」展が、現代美術館という場所でおこなわれたことに触れてみたい。冒頭述べた動機は、戦後のインダストリアルデザインの歩みをこの眼で確認しつつ、将来の目標を明らかにしたいという思いであり、美しく立派な会場を望んだ。ゆえに広島市現代美術館に、デザイナー自身の構想を持ち込んだのだが、そこで思わぬことがおこった。
 それは、この展覧会を美術館で開催できるかという基本的問題のほかに、「日本のインダストリアルデザインは、現代美術館の展示としてふさわしくないのではないか」という美術館のある学芸員の厳しい指摘であった

このことは、日本の美術館や博物館にあっては、「芸術」の範疇にある美術と工芸をもっぱら西洋的視点から取り扱う姿勢が、揺るぎない制度として構築されてきていることを物語るものであるが、なぜそうなったのかについての論議は置くにしても、少なくともこのような姿勢が制度化されている限りにおいては、日本においては「デザイン・ミューゼオロジー」も「デザイン・ミュージアム」も常に不毛の状態に置かれることになろう。もしそうした状況を打開しようとするならば、おそらく今後、次の諸点を問題化しなければならないにちがいない。ひとつは、近代社会におけるデザインの意味と役割の重要性を明確にすることである。ふたつ目は、「芸術」を定義する意味それ自体も含めて、その旧来からの概念に再解釈を加えることである。三番目は、ミュージアムの今日的意味での社会的機能を再吟味することである。しかしそうした諸点は、とくに現在にあって解決が求められている課題というよりも、欧米にあっては、むしろこの二世紀のなかにあって同時代的課題として不断に検討が加えられてきた諸点であり、その検討の結果は、明らかにミュージアムのなかに息づいてきているといえる。そこで、応用美術のミュージアムとして世界的規模を誇る英国のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の今日までの歴史をひとつの事例として振り返りながら、ミュージアムという文脈のなかにあって「デザイン」がどのような意味に解釈され、「デザイン・ミューゼオロジー」がどう構築され、その間近年のデザイン史研究の成果がどうしたかたちで導入されてきたかを、さらに詳しく検証しておくことは必ずしも無意味ではないであろう。

二.一九世紀的遺産とデザインのミュージアム

周知のとおり、市民革命=ブルジョア革命は近代民主主義思想を生み、その形成にあたっては、商品の自由な生産と流通、利潤の実現と労働力の確保といった幾つかの資本主義的原理が働いていた。市民革命の展開と資本主義の自由な発展は、自給自足経済に代わって商品経済を招来し、それに伴い、新たな全国規模の販売市場が開拓されていった。そのようななかにあって機械の発明と普及が社会的に要請されることになり、いわゆる産業革命が展開されるようになるわけであるが、一九世紀に入ると、そうした機械製品の装飾や様式はどのような原理に基づき、どのような階層の人びとによって生み出される必要があるのか、といった問題が社会化してきたのである。

当時英国の製品はデザインの点ではるかにフランスに遅れを取っており、そのことが英国の製造業者の大きないらだちとなっていた。政府もそのことを認め、一八三五年に「デザインの アート と原理についての知識を国民(とくに製造業に携わる市民)に普及するための最善の方法を調査すること、さらには王立アカデミーの体質とそれによって生み出された結果を調査すること」を目的に、「美術と製造」に関する下院特別委員会が設置され、二期にわたる聴聞会を経て、翌年、デザイン学校の設置や博物館の組織化などが盛り込まれた最終勧告を提出するに至った。こうして、現在のヴィクトリア・アンド・アルバー博物館と王立美術大学の双方にとっての祖形にあたる「デザイン師範学校」は一八三七年にロンドンのサマセット・ハウスに誕生した。「われわれ、とくに製造工業国にとって、美術と製造が結び付くことは極めて重要である」と記載された勧告書の一文からもわかるように、まさしく自由な資本主義経済の必然的な力が政府を動かし、当時沈滞していた王立美術アカデミーを揺さぶり、美術教育への国家の介入を可能にしたのであった。

一八五一年のハイド・パークでの大博覧会の開催に際して、「機械技術と高級美術の結合」に強い関心をもっていたアルバート公を補佐して力を発揮したのが、文官のヘンリー・コウルであった。一八五二年、コウルの才能をさらに発揮させる拠点として、商務省は実用美術局を創設し、審議官の職を彼に与えた。この職に就くことによって彼は、当時英国に二三校あったデザイン学校の監督権を手中におさめ、また博物館についての任務としては、「学校が所有する美術作品の保存と整理に関して諸閣下に報告する」義務を負うことになった。そのとき、大博覧会で展示された装飾製品を所蔵する空間の必要性を女王に説いたコウルは、王室の宮殿であったモールバラ・ハウスを実にうまく手に入れると、実用美術局をすばやくこの建物に移し、その一方で、大博覧会の展示品のなかから選択されたものや、デザイン学校が収集していた美術作品や図書のたぐい、それに四〇年代をとおして自分が主宰していたフェリックス・サマリー美術製品という会社によって製作されていた製品などが集められた。こうしてモールバラ・ハウスに集められた展示品は装飾美術博物館と命名され、その年の五月に一般公開された。これが装飾美術に関する最初の公共の博物館であり、のちのサウス・ケンジントン博物館を経て、現在のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へと発展してゆくのである。

モールバラ・ハウスの装飾美術博物館には、「恐怖の館」とあだ名された控えの間が設けられていた。この部屋には、「誤った原理による装飾の実例」が非難の言葉とともに展示されており、これは、大博覧会から選定されていた「正しい原理」に基づく作例と対照をなすものであった。こうして、当時の手工業製品を「装飾デザインの原理」に照らして正しいものと、そうでないものとに二分し対比させる手法をとることにより、コウルや美術審議官のリチャード・レッドグレイヴたちは、「一九世紀中葉の手工業が見習う手本として、また同時に大衆の趣味を改善する手段として」10その博物館を位置づけたのである。ニコラウス・ペヴスナーが述べているように、確かに「コウルや彼の仲間たちは、自らの熱意と才能をもってしても、何も達成するに至らなかった」11かもしれないが、こうした展示手法は、明らかに一八三六年の下院特別委員会の勧告の精神に沿うものであり、美術と製造の結び付きの重要性が強く求められていた当時の社会背景を実によく物語るものといえよう。もちろんこのような社会的要請は英国に限った現象ではなく、同じように産業と経済の発展を願うヨーロッパ諸都市にとって共通したものであり、英国での大博覧会の開催やモールバラ・ハウスでの(そののちのサウス・ケンジントンでの)博物館の開設が直接の契機となって、たとえば一八六三年にはパリ装飾美術中央同盟が結成され、一八六四年にはウィーン応用美術博物館、一八七七年にはハンブルグ美術工芸博物館がそれぞれ設立されるに至るのである。モールバラ・ハウスの装飾美術博物館の次なる発展は、一八五七年に訪れた。

この年、この博物館はサウス・ケンジントンの新たな建物において再出発した。一八五一年の大博覧会は多額の剰余金を生み出し、アルバート公の意向に従うかたちで、サウス・ケンジントンに広大な敷地が購入され、そこに、科学と美術を振興するうえで必要な施設が建設されることになった。一八五三年に実用美術局が統合されるなかで発足した科学・芸術局の主任視学官にすでに任命されていたコウルは、その建物の実質的な責任者として腕をふるい、ウィリアム・キュービットの監督のもとに五五年から翌年にかけてその建設は進められた。長い天窓をもつ鉄鋼製のこの博物館は、単純な工学的手法を用いたもので、その簡素さは当時の建築物にあっては決して一般的ではなく、また、展示品にとっての採光角度や室内の温度調整の面でも問題を残しており、「ブロムトン・ボイラー」として悪名を馳せることになった。このとき、この用地に幾棟かの木造教室も同時につくられ、モールバラ・ハウスにあった装飾美術博物館、中央美術訓練学校(一八三七年に設置された「デザイン師範学校」の後身)、科学・芸術局のすべてがこのサウス・ケンジントンに移転し、博物館と学校と行政機関からなる美術教育の複合体はさらに大きな前進を遂げたのであった。こうして一八五七年以降、コウルは科学・芸術局の局長と博物館の館長を兼ねるようになり、また博物館も、その地名をとってサウス・ケンジントン博物館と呼ばれるようになるのである。

「サウス・ケンジントンでは、一八六〇年代にドイツの理論家であるゴットフリート・ゼムパーによって提案された応用美術の分類法が取り入れられたが、それは、家具と木工、テキスタイル、金工、陶器とガラスといった領域から成り立っていた」12。いうまでもなくこの分類は、一九世紀中葉における手工業の各産業分野に対応するものであった。しかし、当然各領域の扱う素材と技術は異なる基盤に根ざす別個のものであり、それらの「基本的な違いを十分に見せることは困難であることが、すぐさま認識された」13。そこで、こうした種々様々なコレクションを統一する枠組みとして、装飾デザインの原理が用いられるようになり、一八五五年のリチャード・レッドグレイヴの『色彩の基礎手引き』や一八五六年のレイフ・ワーナムの『装飾の分析』、同じく一八五六年に出版されたオウイン・ジョウンズの『装飾の文法』などのなかで主張されていたデザイン理論が、装飾の正しい原理の基準とされたのであった。レッドグレイヴ、ワーナム、ジョウンズといったコウルを取り巻く、いわゆるサウス・ケンジントン・サークルの人たちにとっての装飾に関する基本となる考えは、総じていえば、形式的で対称的な幾何学に基づく装飾であり、歴史装飾の分析と分類から導き出されたヒエラルキーな全体構造を前提とした装飾であり、幾何図法に基づく「科学的」定理にしたがった装飾であった。このような定型化された装飾の原理が、英国にあっては今世紀のおよそ三〇年代に至るまで、博物館のコレクションの基準としてだけではなく、学校教育における美術の原理としても、強固に支配してゆくのである。しかしその一方で、サウス・ケンジントンにおいては、あくまでも「正規には、コレクションは素材と技術に基づいて整理されていた」らしく、イーアン・ウルファンダンは、「サウス・ケンジントンを手本にした博物館にあって、素材と技術に基づいて分類することと、一般化されたデザインの諸原理を主張することとのあいだにある二分法が解決されることはおそらくなかったであろう」14と述べている。

サー・アストン・ウェブの設計になる新たな建物の礎石が一八九九年にヴィクトリア女王によってすえられると、それ以降その博物館はヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と呼ばれるようになり、一九〇九年にその建物は完成し、今日の姿を現わした。また一八九九年には、科学・芸術局が教育局と合併し教育省となるのに伴って、その博物館も教育省の管理のもとに置かれるようになり、官僚たちもサウス・ケンジントンからホワイトホールへと引き上げていった。しかしそれにもかかわらず、コレクションの展示は、「年代ないしは文化の系列に基づくというよりも、むしろ、金工、テキスタイル、木工といった工芸の系列に基づく」15配列によって従来どおり強固に構成され続けた。「このことは、……同じ時代と文化のなかから異なった種類のオブジェクトで満たす、当時新たに登場してきた配列の手法とは大きく異なり、新たな大展示空間のそれぞれが、たとえばすべてがマイヨリカ焼き、あるいはすべてが銀細工といった具合に、ひとつの素材でできたオブジェクトで満たされることを意味していた」16。これには、デザインの近代運動が展開されてゆくにつれて、当然ながら批判の声が巻き起こった。

批判の対象とされたのはおおよそ次の二点であった。いうまでもなくデザインのモダニズムは装飾性と歴史性の否定を含意しており、したがってまず、コレクションの枠組みの基準として採用されていた「装飾デザインの原理」に対して批判が向けられた。次に、「工芸の系列に基づく配列」が問題にされた。というのも、この配列に従う限り、手工業から機械生産への移行に伴う社会的、技術的変化を受け止めることができず、二〇世紀の新しい技術や素材やエネルギーによって生み出されたオブジェクトを扱うことがほとんど不可能だったからである。概していえば、両大戦間期のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館は、三〇年代にモダニズムを擁護する立場からコレクションを収集し、新たな分類法をいちはやく採用したニューヨーク近代美術館と異なり、近代運動の一翼を積極的に担うことも、電気ヒーターや電気冷蔵庫といった近代の消費財に目を向けることもなかったといえる。

しかし第二次世界大戦が終わると、さっそく大きな変革の兆しが生まれた。一九四六年には「英国はそれができる」展が開催され、そこには「モダン・デザイン」の大衆への普及が意図されていた。また一九四八年までに、工芸的配列から編年的配列へと展示手法が改められ、五〇年代になると、旧来の工芸とは異なる、今世紀の新しい技術や素材に基づくオブジェクトの収集も開始された。六〇年代に入るとその博物館では、時代を取り巻く環境に呼応しながら、大衆へ顔を向けた教育的役割が強調されるようになり、子どもや成人を対象にした、さまざまな講演会や見学会が企画されはじめた。このことからも、従来みられた歴史的コレクションの貯蔵庫としての位置づけから離れ、過去から現在に至るまで英国民が何を生み出してきたのかを誰もがわかりやすく理解するうえでの教育の場として、改めてこの博物館をとらえ直そうとする姿勢が読み取れるであろう。こうしたことが反映して、企画展の占める割合も増大し、七〇年代以降は毎年五、六回の展覧会が企画されるようになり、八〇年代には、新しい形式をもったボイラーハウス・プロジェクトの一連の展覧会の会場としても提供されるようになるのである。

このようなさまざまな変革の兆しのなかにあって、この博物館が抱えていた最大の課題は、常設展示としての「二〇世紀の歴史」をどう構築するかであった。六〇年代後半以降の「ポップ・デザイン」や「ラディカル・デザイン」の登場と、ヴィクトリアン・デザインへの回帰志向は、英国デザイン界にあっては、モダニズムの死として受け止められ、それと時期を同じくして、ニコラウス・ペヴスナーやハーバート・リードやジークフリート・ギーディオンといった第一世代のモダニズムのイデオローグたちによって書かれていたデザイン史に関する著作類も、その価値と支配力が失われようとしていた。そうしたなか、七〇年代後半からはじまる、デザイン史研究の大きな刷新の動きは、単に研究者のあいだに止まらず、美術作品の展示に倣うかたちでの、「モダン・デザイン」の編年的な配列をもって「二〇世紀の歴史」に代えることはできないとの歴史認識に立つ博物館にとっても、強い刺激となった。ペヴスナー流儀の美術史的歴史記述を否定する第二世代のデザイン史家たちの多くは、社会科学や文化学から導き出された概念をデザインの歴史に適用することでその主題を抽出し、その主題のもとにデザインを社会的、政治的、技術的文脈から考察する方法論にたどり着いていたのであった。こうした八〇年代のデザイン史研究の成果が見事に取り入れられることによって、一九九二年に、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の「二〇世紀ギャラリー」は開設されることになったのである。

このギャラリーは次の七つの主題によって構成されている。

[一九〇〇―二〇年]機械時代のパラドックス(アーツ・アンド・クラフツの態度/商業主義)
[一九二〇―四〇年]インスピレイションの源泉(異国趣味/展覧会とアール・デコ/歴史主義/インターナショナリズム)
[新しいデザイン](国の伝統/近代性)
[一九四五―六五年]大量消費(デザインと国家/大衆による選択)
[一九六五―九〇年]形態は機能に従うか(イタリアの共同作業/言説としてのスタイル/引用と反転)
[製作における価値](伝統と新たな芸術形式/テクノロジーとデザイン/美学としてのテクノロジー)
[デザイン・ナウ]

さらに、展示されたオブジェクトとテクスト・パネルを補う意味もあって、現在この博物館から、各主題を書題に冠した大変魅力ある叢書(「二〇世紀のデザイン」シリーズ)が、次に挙げる第二巻まで出版されている。

第一巻 Jeremy Aynsley, Nationalism and Internationalism, V&A, 1993.
第二巻 Susan Lambert, Form Follows Function?, V&A, 1993.

おそらくこの博物館が開発したミューゼオロジーは、今後二〇世紀を扱おうとする世界中の多くの博物館に影響を及ぼす可能性がある。というのは、こうした新たな変革は、単にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に限ったものではなく、物質文化を扱うミューゼオロジー全般にわたっての刷新がいま求められているからである。それでは、デザインに関する「新しいミューゼオロジー」とはどのような意味をもつものであろうか。この点を次に考察する必要があるだろう。

三.デザインの新しいミューゼオロジー

ミューゼオロジーの歴史について、『新しいミューゼオロジー』の編者のピーター・ヴァーゴウは、まずこう述べている。    

 いずれにせよミューゼオロジーは比較的新しい学問である。最初の博物館が創設され、研究に値する現象として博物館について誰かが考察して以来、いまだ長い時間がたっているわけではない。これまでに概説した広い意味でのミューゼオロジーが自立した研究分野として認められるようになったのは、さらに最近のことなのである17

さらにその編者は「新しいミューゼオロジー」に関して、次にみられるような定義を与え、そうしたミューゼオロジーの今日的必要性を説いている。    

 「新しい」ミューゼオロジーを最も単純化したレヴェルで定義すれば、「旧い」ミューゼオロジーに対する、ミュージアムの内外双方に広く見受けられる専門上の不満状況、といえるであろう。……社会に存するミュージアムの役割についての徹底的な再吟味が行なわれなければ、おそらくほかの国でもそうであろうが、この国のミュージアムも同じく、爵位が授けられた「生きた旧制度」として自らを思い知ることになるだろう18

ここで述べられている定義は、決して厳密なものでも堅苦しいものでもない。すでに前章「デザインの歴史研究の再文脈化」で紹介した「新しい美術史学」の場合と同様、この定義も、その学問にこれまで秩序を与えてきた従来の「旧い」観念に対する強い意義申し立てと見ることができよう。そして、物質文化を扱うミュージアムに即して意義申し立ての対象をより単純化していえば、ひとつは、歴史的な秘宝や名作の貯蔵庫としての役割、次に、教養主義や権威主義に基づく展示手法、いまひとつは、「より多額の資金とより多数の来館者数といった基準に換算して単純に測定される『成功度』」19などを列挙することが可能であろう。そうした意義申し立ての背景に、国際博物館会議の定款(一九七四年改正)の一節にみられる、「社会とその発展に寄与することを目的として広く市民に開放された営利を目的としない恒久施設」としてのミュージアム、つまり市民の学習の場ないしは物質文化を分析する館としてのミュージアムへの理解が進んだことも、見逃すことができない。このことは、コレクションに関する選択の基準、所有の形態、そして展示の方法を、市民に開かれた研究・教育・レクレイションの視点から再吟味することを要求するものであった。

そこで、こうした「生きた旧制度」に対する全般的な批判を念頭に置きながらも、ここでは、デザインのミューゼオロジーに固有の問題について幾つかの検討を加えなければならないだろう。

一九八〇年という早い時期に、すでにジョン・ヘスケットは、従来のデザイン研究の方法論と展覧会やミュージアムにおけるデザインの展示手法に関してこう批判していた。   

 工業生産の状況が変化したにもかかわらず、デザイン研究の多くは、工芸の伝統のなかに見出される一貫性をあくまでも正しいと仮定し、デザイナーと製品のあいだにある自律的で内観的な関係としてデザインを描写している。強調点が個人的な業績に置かれ、製品の分析も、外観に現われた形態上のユニークな特質をもっぱら同定することに向けられている。このような方法論はときとして、展覧会や博物館のコレクション活動によって補強されることになり、その場合そうしたコレクションは、そのデザインに影響を及ぼした生産と使用にかかわる諸環境に言及されることなく、純粋な形態として展示されるのである20

これがヘスケットの第一の批判軸であるが、要するに、工芸製作と工業生産の違いに対しての認識が欠落した状態で、いまだにデザインの研究が形式的に工芸や美術の研究手法に追随し、そのことが博物館にまで持ち込まれていることへの批判といえよう。そしてヘスケットは続けて次の点を批判するのである。    

 このような形式主義的な方法論は、単に過去において生み出されたデザインを分析する際に用いられてきただけではない。通常一定の形態上の原理に置き換えて「グッド」デザインは定義されるわけであるが、「グッド」デザインはどのように成り立つものであるのかを同時代的に考察しようとする場合にも、しばしば、しかも不可解なかたちで形式主義の方法論が立ち現われ、歴史的に後押しする役割を演じてきたのであった。一般的にこうした方法論にあっては、啓蒙することによって、特定の理論や機関のなかに安置された趣味にかかわる価値と規範を大衆が受け入れるようになることが主眼点となっていた21

いうまでもなくこれは、近代運動のひとつの内実である機能主義を支持し、そこから導き出された形態の原理を規範にすえ、そうした特定の価値に「グッド・デザイン」を結び付けることによって展開されてきたこれまでのデザイン運動やデザインの展覧会に対しての批判であり、これがヘスケットの第二の批判軸なのである。さらに続けてヘスケットは、デザインをひとつの社会的現象としてとらえ、社会的、経済的、政治的文脈からもっぱら考察する研究の立場にも触れ、形式主義者の見解を「是正する価値ある方法」として評価しながらも、「この方法論では、文脈を強調しすぎる傾向に恨みが残る。個々のデザイナーの個性と意志が無視され、社会や経済や政治上の制度と価値を測定する無機的な器具へとデザイナーの役割を引き下げてしまうことになるからである」22と述べることによって、単なる文脈主義にも批判を加えているのである。

以上にみられる批判の諸点は、『近代運動の先駆者たち』のなかでニコラウス・ペヴスナーが行なっていた歴史記述を乗り越えるうえで避けて通ることのできないものであった。八〇年代のデザイン史研究の胎動がこうした批判の諸点を軸として展開されてきたことは、すでに検討してきたとおりである。「新しいミューゼオロジー」に関して、ピーター・ヴァーゴウがいう「ミュージアムの内外双方に広く見受けられる専門上の不満状況」も、デザインの分野に即して考えれば、つまるところ、ペヴスナー流儀の歴史観に対する不満状況、ということができよう。それでは、そうした不満状況を克服するかたちで展望できる「デザインの新しいミューゼオロジー」は、どのようにして今日的に描くことができるのであろうか。大雑把にいえば、その根幹をなす論議は、ひとつは、刷新された新しいデザイン観の早急な構築であり、ふたつには、それに基づいたコレクション選定の基準の再検討であり、三番目には、上記ふたつの問題とかかわって、誰に対して何をどう伝えるべきなのかという展示の新しい手法の開発、ということができるであろう。

人間が他の動物と大きく違うのは、オブジェクトをつくり、生活や社会のなかにそれらを取り入れて文化を形成し生存をはかっているという事実であり、そこには、いかなるオブジェクトであれ、その形態が生まれるにあたっては、機能的な欲求と視覚的な欲求に関してのなにがしかの意志決定がなされるという普遍的な原理が介在することになる。その意味において、一九九三年にパリのグランパレで行なわれた「デザイン――世紀の鏡」展のカタログにテランス・コンランが寄稿した「序文」の一節にみられる、「有史以来男女によってつくり出されたどれもすべてがデザインされている。……世界の歴史はオブジェクトのデザインによって実証されうるし、こうしたオブジェクトの研究は、かつて社会に起こったさまざまな変化についての明確なメッセージを提供する」23とみなす彼の見解は当然ながら正当なものであり、ここにデザイン・ミューゼオロジーの出発点を見出すことができるのではないだろうか。「旧い」デザイン・ミューゼオロジーが絵画や彫刻や工芸のミューゼオロジーと同じ秩序のなかにあってこれまで展開されてきたことは、誠に不幸なことであった。このことは、人類の歴史にかかわって、「芸術」の歴史を読み解こうとする多大な努力に比べて、生産や生活に直結する物質文化そのものの歴史に関心を向ける視点が従来極めて希薄であったことを意味するものであるが、その希薄さのゆえに、とくに二〇世紀の物質文化に関していえば、その生み出され方と消費のありようが前世紀と比較して著しく変化しているにもかかわらず、そうした実態に、意識的であろうと、無意識的であろうと、これまでの研究者や歴史家が目を伏せてきたことは確かに指摘されてよい。「新しい」デザイン・ミューゼオロジーの構築が今日的に要請されなければならない理由も、実はここにあるのである。

それでは、デザインを絵画や彫刻や工芸とは別個のもうひとつの自立した「造形領域」として認めることから「デザインの新しいミューゼオロジー」は出発するのであろうか。いや、そうではない。前世紀から今世紀にかけて、新たな「造形領域」としてデザインが登場したのではなく、登場してきたのは工業製品であって、ペニー・スパークがいうように、それに伴ってデザインと呼ばれる「全く新しい概念の出現」24がもたらされたのである。そのことは、伝統的な自国語(たとえば、日本語の「図案や意匠」、イタリア語の「ディセーニョ」、フランス語の「デッサン」、ドイツ語の「フォルムゲーブング」など)と引き換えに、英語の「デザイン」という用語が今世紀にあって普遍的に使用されるようになったことに端的に表われている。 つまりこの場合デザインとは、 ひとつの新しい「造形領域」を指し示しているのではなく、生産と消費を取り巻く新たな構造のなかにあって、生存と文化にかかわる非視覚的な人間の欲望や観念やイデオロギーを目に見える具体的なオブジェクトへと転換する際に必然的に伴う「意志決定的な造形行為」を意味しているのであり、このこと自体が近代社会における「全く新しい概念の出現」にほかならないのである。そして同時に、そうした新しい「意志決定的な造形行為」には、前近代社会の造形や生産とは根底から異なる、自然・素材/価値・観念/技術・産業/マーケット・経済/生活・消費/環境・文化といった幾つものパラメーターが大規模なかたちで実は付着していたのであった。クルマであれ、洗濯機であれ、服であれ、建物であれ、オブジェクトのデザインとはまさしく、そうした多様なパラメーターの同時代的な集積体だったのである。したがって、過去のオブジェクトのデザインを読み解く「デザインの新しいミューゼオロジー」とは、単純化していえば、オブジェクトに刻み込まれた社会的観念やイデオロギー、伝統や国家的アイデンティティー、そしてオブジェクトの産出を可能にした技術的、工学的発展、さらにはオブジェクトが消費者の手に届くにあたっての経済的、心理的、美的要因などの検証や考証をとおして、その時代の文化構造と生活様式を再提示する試みにほかならないのである。

こうした「デザインの新しいミューゼオロジー」の視点に立った場合、ミュージアムは誰に対して何を具体的に語りかけてゆくのであろうか。一九八九年にロンドンに開館した「デザイン・ミュージアム」の学芸部長であるポール・トムスンは、それについてこう述べている。   

 デザインミュージアムは、プロのデザイナーだけを対象にしたデザインのセンターでなく、二〇世紀のミュージアムとして、デザインの文化面にも光をあて、その発展を国際的な文脈の中で考えること、モノ・システムの学習を通じ、工業社会に対する市民の自覚を高めることをめざしています。……第一に、教育の役割をもっており、……展覧会やセミナーなどを通じ、どうやって製品が作られたか、経済・技術・社会が日用品にどのように影響を与えたかについて、楽しく、少しでも理解が深められるように工夫しています25

旧来の多くのデザインの展覧会が、どちらかといえば限られたデザイン界の内部にあって、著名なデザイナーとその作品を紹介することや、「グッド・デザイン」を啓蒙することに主眼を置く傾向にあったことを考えると、オブジェクトの成り立ちとその社会や生活への影響を一般の市民にわかりやすく例証しようとする「デザイン・ミュージアム」は、伝えようとする内容、また伝えたい対象、その双方においてまさしく「デザインの新しいミューゼオロジー」のひとつのあり方を提示するものであった。

そうした今日的なミューゼオロジーを展開するためには、コレクションの選定基準を再考することも、内容と対象に即した新たな展示手法を開発することも、ミュージアムにとって極めて重要な課題となる。小学校の児童とデザイン専攻の学生とでは、興味や関心に開きがあることも、理解のレヴェルに違いがあることもいうまでもないことであろうし、また当然ながら、美術の展覧会のような作品を単縦列的に並べる展示手法では、オブジェクトがどのような文化的、社会的、技術的背景から生み出されたのかを伝達する手法としては不適切であることも明らかであろう。一九九二年に開館したヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の「二〇世紀ギャラリー」では、将来的にはそのギャラリーのための新しい建物が建設されることが予定されているようであるが、現状の空間では学芸員の意に反して二〇世紀の代表的なオブジェクトのひとつであるクルマさえも展示できない状況にある。しかしそれにもかかわらず、木目細かな幾つかの工夫が施されているのである。    

 このギャラリーへの主たる来館者はデザイン専攻の学生が想定されているにもかかわらず、展示は、さまざまなレヴェルから理解が可能なようにデザインされている。テクスト・パネルには、緑色で強調されたキー・センテンスが施されており、そうすることで、小学校の児童たちは、何を伝えようとしているパネルなのかがすぐさま理解できるのである。……さらに勉強をしたいと希望する人に対しては、一連の研究書の出版が立案されている。……さらには、ティーチング・パックやレクチャー・シリーズも、小学校レヴェルから実際の専門家レヴェルまで、計画されている26

しかしながら、こうした「デザイン・ミュージアム」や「二〇世紀ギャラリー」にみられるような、「デザインの新しいミューゼオロジー」の展開例は、世界的にもいまだ限られたものでしかない。    

 この十数年のあいだにデザイン史という学問が登場することになったが、それは主として大量生産と大量消費にかかわる諸現象を扱うものの、多くの点で応用美術史との重なり合いをもっている。一般にはどの博物館もデザイン史を容認するのに手間取っているし、応用美術博物館においても、いまだほとんどその学問を扱いきれないでいる27

そうした現状を見る限り、デザイン史もデザイン・ミューゼオロジーも、いままさにその研究の緒についたところといえる。デザイン史が文化と社会を分析する主たる学問のひとつとして広く認識されるようになり、デザイン・ミューゼオロジーが「生きた旧制度」を打ち破ることができたとき、はじめて私たちは、いままで目にすることのなかった、身近ではあるが極めて重要な自分たち自身の「歴史」を手に入れることができるのではないだろうか。それは、疑いもなく、私たち一人ひとりが自分の文化と社会について語ることができる「歴史家」になりえたことを意味するのである。

(一九九五年)

(1)Emma Dent Coad, ‘Designs of the Times?’, Journal of Design History, vol. 6, no. 2, Oxford University Press, Oxford, 1993, p. 133.

(2)Adrian Forty, Objects of Desire: Design and Society 1750-1980, Thames and Hudson, London, 1986, pp. 239-240.[フォーティ『欲望のオブジェ』高島平吾訳、鹿島出版会、1992年、302頁を参照]

(3)Ibid., p. 240. [同訳書、302頁を参照]

(4)『近代デザインの展望』(京都国立近代美術館での同名展覧会のためのカタログ)、1969年。

(5)雑誌『AXIS』47号、春、1993年、160頁。

(6)1990年6月23日付朝日新聞夕刊。

(7)山田晃三「インダストリアル・デザインと芸術の精神」『デザイン・メイド・イン・ニッポン』(広島市現代美術館での同名展覧会のためのカタログ)、1993年、103頁。

(8)Quoted in Anna Somers Cocks, The Victoria and Albert Museum: The Making of the Collection, Windward, England, 1980, p. 3.

(9)Quoted in Stuart Macdonald, The History and Philosophy of Art Education, University of London Press, London, 1970, p. 179.[マクドナルド『美術教育の歴史と哲学』中山修一・織田芳人訳、玉川大学出版部、1990年、236頁を参照]

(10)Ian Wolfenden, ‘The Applied Arts in the Museum Context’, in Susan M. Pearce (ed.), Museum Studies in Material Culture, Leicester University Press, Leicester and London, 1989, p. 27.

(11)Nikolaus Pevsner, Studies in Art, Architecture and Design: Victorian and After, Princeton University Press, New Jersey, 1982, p. 95. (First published in the United States in 1968 as Volume 2 of Studies in Art, Architecture and Design by Walker and Co.)[ペヴスナー『美術・建築・デザインの研究Ⅱ』鈴木博之・鈴木杜幾子訳、鹿島出版会、1980年、135頁を参照]

(12)Ian Wolfenden, op. cit., p. 27.

(13)Ibid., p. 27.

(14)Ibid., p. 29.

(15)Anna Somers Cocks, op. cit., p. 14.

(16)Ibid., p. 14.

(17)Peter Vergo (ed.), The New Museology, Reaktion Books, London, 1989, p. 3.

(18)Ibid., pp. 3-4.

(19)Ibid., p. 3.

(20)John Heskett, Industrial Design, Thames and Hudson, London, 1980, pp. 7-8.[ヘスケット『インダストリアル・デザインの歴史』榮久庵祥二・GK研究所訳、晶文社、1985年、14頁を参照]

(21)Ibid., p. 8. [同訳書、14頁を参照]

(22)Ibid., p. 8. [同訳書、14-15頁を参照]

(23)Sir Terence Conran, ‘Industrial Design from 1851 into the 21st Century’, in Jocelyn de Noblet (ed.), Industrial Design: Reflection of a Century, Flammarion / APCI, Paris, 1993, p. 8.

(24)Penny Sparke, An Introduction to Design & Culture in the Twentieth Century, Allen & Unwin, London, 1986, p. xxiii.[スパーク『近代デザイン史』白石和也・飯岡正麻訳、ダヴィッド社、1993年、17頁を参照]

(25)機関誌『NOC』第6号、国際デザインセンター、1992年、2頁。

(26)Emma Dent Coad, op. cit., p. 135.

(27)Ian Wolfenden, op. cit., p. 27.