のちの「第四節 山下悦子『小伝 高群逸枝』の他者攻撃性の構造」において詳述しますように、これまで幾つかの機会を設けては、私は、「小伝 高群逸枝」のなかで著者の山下悦子が展開した、橋本憲三の行動に関しての蔑視的表現、鹿野政直の言説にかかわる無視の姿勢、そして、橋本静子と石牟礼道子の存在と役割についての理解欠如の問題等に関連して、その部分を抽出し、批判的な検討を行なってきました。今回は、その最後として、山下による堀場清子に向けられた攻撃性を取り上げ、その妥当性を検討したいと思います。山下が「小伝 高群逸枝」において堀場の言説を酷評している箇所がありますので、以下のとおり、少し長くなりますが、そのまま引用して示します。橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』(朝日新聞社、一九八一年)のなかに現われている、高群逸枝『大日本女性人名辭書』(厚生閣、一九三六年)に関する話題が、ここでは論点となっています。
「あの本は出典をすべて書いてあるのが特徴でしょう。もっとも多くは俗書です。そのため、今日の用には立ちません」「あの本の大半は僕が書いたのです」(橋本憲三、堀場清子『わが高群逸枝』下)という橋本の言葉を受けて堀場は、「森の家で女性史研究に入って最初の大著が、実際は共著だったとは!」と述べている。「共著」とは何かのきちんとした定義もなく、「すべて書いた」という橋本の言葉を検証することもなく、『辞書』を見て、彼が書いたということを実証することもほとんどなく、鵜呑みにしているように見える。「すべて書いた」という「すべて」の意味は何か、『辞書』をなぜ書こうと思ったのか、その方法論はどのようなものだったのか、構想はどのようにねったのか、どのように人物をセレクトしたのか、それにいたる参考文献や古文書は誰が読んだのか、橋本に読破するだけの古文、漢文の能力はあったのか、すべて書くだけの時間は果たしてあったのか等々、疑問は多々ある。 [山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、39-40頁。]
このように、山下の堀場清子批判はいつのまにか橋本憲三批判へとすり替わり、さらにその矛先は、石牟礼道子批判へと転じます。
石牟礼道子は『最後の人 詩人高群逸枝』(藤原書店)で「『大日本女性人名辞典(ママ)』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった」……と半年間の森の家での同棲生活で橋本が語ったことをそのまま書いて、橋本のすぐれた資質を絶賛している。列伝と女性史の違いを明確化し、江戸時代以前の文献を読破し、四年の歳月をかけて作ったカード、それが重要なのにもかかわらず、このようなことを石牟礼はさらっと書いてしまっているのだ。 [山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、40頁。]
道子批判がすむと、再び憲三批判にもどり、さらにまた延々と続きます。その最後の部分の一節を次に引用します。ここでの憲三批判は、『大日本女性人名辭書』における憲三の役割への疑問からは離れて、『高群逸枝全集』(全一〇巻)における憲三の編集者としての能力についての疑問として展開してゆきます。
橋本に他人の作品をいじるだけの文芸や歴史学の力がどれほどあったというのか。編集者としての能力と作家としての能力は別物である。高群の作品に対して無理解であり、リスペクトがあまりにもなさすぎるのだ。高群の死後もこのような行為をしているとしたら大問題であろう。 [山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、40頁。]
この言説に続けて、ここで再び『大日本女性人名辭書』に関しての話題へ立ち返り、突然にも、実に驚くべきことに、論証も実証も何もなく、あたかも神のお告げでもあるかように、次の言葉があとを追うのです。
まず結論から述べると、この著書は高群逸枝が書いた本であり、橋本が書いたということにはならない。したがって「共著」とよぶことはできないと私は考える。すべての高群研究者に検証していただきたい問題である。 [山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、40頁。]
以上が、「小伝 高群逸枝」における山下の、堀場批判に端を発した、道子批判と憲三批判の概略です。上の引用にあるように、「すべての高群研究者に検証していただきたい問題である」と、山下は書きますので、その言葉を引き取って、私は、高群研究者を自認するほどの者ではなく、高群研究の外周をたまたま通り合わせた、逸枝、憲三、道子と生まれをともにする肥後火の国の、単なる一介の独立研究者にすぎませんが、あえてここで、山下によって展開された、上記一連の、堀場、道子、憲三に対する批判的言説、および、「この著書は高群逸枝が書いた本であり、橋本が書いたということにはならない」という独断的言説を取り上げ、いつものように一次資料を援用しながら、逆に批判的に検証してみたいと思います。
橋本憲三と堀場清子の共著である『わが高群逸枝 下』のなかで堀場は、高群逸枝の『大日本女性人名辭書』についてどう書いているのでしょうか。正確を期すために、まず、その箇所を以下に引用します。
『大日本女性人名辞書』の完成については、『今昔の歌』にも、『火の国の女の日記』にも、「夫の協力をえて」、「Kの協力をえて」と書かれている。この「協力」の意味を、森の家の生活全般を通じてのそれと同じに解して、私は見過ごしていた。昭和四十九年九月のはじめ、鹿野政直と私とが、はじめて水俣に橋本憲三氏をお訪ねした折、研究、生活、逸枝の女としての魅力など、多面にわたる話題の中に、この本のことも出た。森の家での最初の大著であり、日本文化史上唯一の女性人名辞書でもあるこの本が、『高群逸枝全集』に入らず、その後も再刊されないのは、私達にとっての疑問でもあった。 [橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、244頁。]
すると憲三は、ためらいながら、鹿野と堀場にこう語るのでした。
「あの本は出典をすべて書いてあるのが特徴でしょう。もっとも多くは俗書です。そのため、今日の用には立ちません。」その後の、短い沈黙に続いて言われた言葉は、私達を驚倒させるに十分だった。「あの本の大半は僕が書いたのです。彼女は、要約ということができないひとなんですよ。」 [橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、245頁。]
それを聞いた鹿野と堀場の驚きの感想は、次の引用にみられるとおりでした。
森の家で彼女が女性史研究に入って最初の大著が、実際は共著だったとは! それは夢にも思わない事実だった。逸枝について調べはじめたばかりのその頃、彼女のいう「Kの協力」を、私達は現在よりもずっと小範囲に想定していた。 [橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、245頁。]
それではこれより、上の堀場の言説を横に置いて常に参照しながら、山下によって展開された、堀場、道子、憲三に対する批判的言説の妥当性を吟味し、あわせて『大日本女性人名辭書』の成立事情について検討したいと思います。
まず、検討に入るに先立って、問題点をひとつ挙げておきます。堀場によりますと、憲三は、「あの本の大半は僕が書いたのです」と語っています。ところが、山下はそれを、「『すべて書いた』という橋本の言葉」というふうに置き換えています。「大半」と「すべて」では意味が異なり、悪意によるものであったのかどうかはわかりませんが、正確性を損じるだけでなく、読者に間違った印象を与える結果を招くことになります。なぜ山下は、こうした独りよがりの虚偽の誇張表現を、誰にはばかることもなくするのでしょうか。これが、読んですぐにも目につく問題点です。
それでは、検討に入ります。憲三は、「あの本は出典をすべて書いてあるのが特徴でしょう」と、鹿野と堀場に語っています。実際、『大日本女性人名辭書』の「凡例」を見ると、そのひとつに、次のような文字が並んでいますので、紹介します。
一、記述はすべて定説或は通説に従つてなした。定説、通説の外に、根據ある異説はこれを附記するに努めたが、著者の見解等は何れにおいても加へなかつた。而して各項末には、一々、その出典根據を明記した。 [高群逸枝『大日本女性人名辭書』厚生閣、1936年、「凡例」の1頁。]
各項末に「その出典根據を明記した」とのことですので、その表示にかかわる具体的事例を見てみます。たとえば、「三十六歌仙」のひとりである「小野小町」の項目の末尾(一一五頁)には、「野史」と明記されています。「野史」は「通説」を表わすものと思われます。他方、最近有島武郎と心中をはかった「波多野あき子」の項目の末尾(四〇八頁)には、「大日本人名辭書」の書名が付されています。『大日本人名辭書』の下巻新版は、一九二六(大正一五)年六月に大日本人名辭書刊行會によって出版されていますので、一九三六(昭和一一)年一〇月発刊の『大日本女性人名辭書』において「波多野あき子」の項目が書かれるに当たっては、この下巻新版の「ハタノ アキコ 波多野あき子」の項目(二〇九五頁)にある記載内容が参照されたものと考えられます。
そこから類推しますと、山下は「その方法論はどのようなものだったのか」との疑問を呈しますが、山下が独自に表現する「方法論」を本文執筆の書式や出典表記の形式と解するならば、それらは同じく、この『大日本人名辭書』に倣ったのではないかと思料されます。また山下は、「構想はどのようにねったのか」との疑問も発しています。同じく思うに、『大日本女性人名辭書』は、先行する『大日本人名辭書』の「女性版」として構想されたものとみなされても、疑いもなく至当であるにちがいありません。
加えて山下は、「どのように人物をセレクトしたのか、それにいたる参考文献や古文書は誰が読んだのか、橋本に読破するだけの古文、漢文の能力はあったのか」と、さらなる疑問を次々にぶつけます。しかしながら、「橋本に読破するだけの古文、漢文の能力はあったのか」については、それを例証するにふさわしい一次資料が残されていませんので、誰も判断することはできません。あったかもしれませんし、なかったかもしれません。ただ、『大日本人名辭書』を参照していたことに思いを馳せれば、たとえ十分な「古文、漢文の能力」が備わっていなくても、そこに登場する人物の記載内容をある程度踏襲して執筆することは可能だったにちがいありません。また、「どのように人物をセレクトしたのか」につきましても、『大日本人名辭書』に採択されている女性の項目を参考にセレクトした可能性も、決して否定できないものと思われます。
他方で山下は、「『辞書』をなぜ書こうと思ったのか」という根本的な疑問も提示しています。しかし、これについては、少し説明を要します。
「森の家」への引っ越しから五箇月が過ぎた一九三一(昭和六)年の一二月、『大百科事典』の編集のために、招かれて憲三が平凡社に復帰します。しかし、四年後の一九三五(昭和一〇)年の一〇月、『大百科事典』は完成したものの、経営不振に陥った平凡社は、突如として社員全員に解雇を通告します。これにより夫は失職するのでした。それは収入が途絶えることを意味し、逸枝と憲三にとって大きな打撃となりました。そのとき夫婦のあいだで、このような取り決めがなされました。
1 あと三年で『母系制の研究』を脱稿すること。 2 現在の所持金千円で二ヵ年の家計を賄うこと。 3 研究費用には当分私の雑文稿料をもって当てる。 4 とりあえず女性人名辞書をまとめる。 [『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、256-257頁。]
逸枝は、四番目の項目で「とりあえず女性人名辞書をまとめる」と書いています。家計逼迫のおり、おそらく憲三の発案であったものと思われますが、この夫婦は、『大日本女性史 母系制の研究』の刊行に先立って、取り急ぎ、『大日本女性人名辭書』を世に出すことを考えました。次の引用は、それについての、逸枝による後年の説明です。
年があけて昭和十一年になると、私はKの協力をえて『女性人名辞書』の成稿を急ぐことにした。私のこれまでの主たる作業は、江戸時代以前の一切の歴史文献を片はしから読破して、系譜および婚姻記事を抽出することが中心であったが、副次的に史上の女性人名をカードにとっていた。いまそれを拡張活用して人名辞書としてまとめたら、今後の長い自己の仕事にとっても何彼と便利であるし、何より出版による印税収入が期待されるのだった。 [『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、256-257頁。]
「何より出版による印税収入が期待されるのだった」と逸枝本人が書いているように、この『大日本女性人名辭書』の出版の主たる目的は、そこにあったのでした。これが、山下の「『辞書』をなぜ書こうと思ったのか」という疑問に対する回答になります。一方、「すべて」であったかどうかは別にして、その「大半」を、失業中で時間に余裕があった憲三が書いていたとしても、何ら不思議ではありません。その観点に立つならば、「すべて書くだけの時間は果たしてあったのか」という山下の疑問も、たちまち氷解するのではないでしょうか。
『平凡社六十年史』(平凡社、一九七四年)によりますと、入社してすぐの憲三の主な仕事は、「標準漢字自習辞典」、さらには「新式漢和辞典」や「神祇辞典」といった辞典の編集でした。そのときの経験が、『大日本女性人名辭書』の出版にあって、大いに役立ったものと考えられます。逸枝は、上の引用文において、「Kの協力をえて『女性人名辞書』の成稿を急ぐことにした」と書いています。「Kの協力」がいかなるものであったのかは、具体的に述べられていませんが、職を失った憲三は、「印税収入が期待される」ことを念頭に、平凡社での経験を踏まえて、積極的に『大日本女性人名辭書』の刊行に力を注ごうとしたのは、間違いないものと思われます。
それでは次に、『大日本女性人名辭書』の出版についての石牟礼道子の言説を引いてみます。まず、初出の文から――。
事業家、経営者として憲三がいかにすぐれた資質者であることか。高群逸枝全集を出現させてゆく過程をつぶさに見てゆくと隠されているその綿密な企画力、実行力、持続力、さらには事後処理の完璧さにおどろく。 [石牟礼道子「『最後の人』覚え書き(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、52頁。]
次に、そののち加筆された言説から――。
事業家、経営者として、憲三がいかにすぐれた資質者であることか。『高群逸枝全集』を出現させてゆく過程をつぶさに見てゆくと『大日本女性人名辞典(ママ)』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった。これを出版したときのパンフレットなどを読んでも隠されているその綿密な企画力、実行力、持続力、全過程への心配り、さらには事後処理の完璧さにおどろく。 [石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、356頁。]
道子は、逸枝が死去したのち、「森の家」へ行き、しばらく憲三と生活をともにします。そして、全集の編集、加えて書籍の売却や家屋の譲渡などの残務整理を終えると、ふたりはそれぞれに水俣に帰ります。その地には、憲三の姉の藤野と妹の静子が「橋本商店」を経営していました。一階を店の倉庫に、二階を住居兼編集室に使うために、憲三は、簡素な二階建ての家屋をつくるや、『高群逸枝雑誌』の刊行に入り、離れて住む、唯一の同人であった道子は、憲三と逸枝の人生を題材にした「最後の人」の連載に入ります。そうした事情があったため、憲三の後半生に寄り添った道子は、多くのことを憲三から聞く機会をもち、生前の逸枝と憲三の生活をみぢかに知る立場にありました。
上の引用で見たように、『最後の人 詩人高群逸枝』において道子は、「『大日本女性人名辞典(ママ)』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった」ことを明かします。
かくして一九三六(昭和一一)年の一〇月、厚生閣により『大日本女性人名辭書』が上梓されました。古今の女性およそ一千八百名が収録された、重量感を漂わす、本文六二三頁からなる大著でした。巻末の「跋」は、次の言葉ではじまります。
黨地に引籠りましてより足掛六年、其間専念致して参りました著述の一部を『大日本女性人名辭書』と題しまして、刊行の運びとなりました事に就きましては、勿論私一人の力の能する處では無く、内にありては家主の庇護、指導に基づく所多く、外にあつては先輩知友の御聲援、御教導に歸すべき事は申すまでも御座いません。 [高群逸枝『大日本女性人名辭書』厚生閣、1936年、「跋」の1頁。]
「家主の庇護、指導に基づく所多く」という逸枝の文言に、「彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった」という道子の言辞を重ね合わせますと、『大日本女性人名辭書』は、『高群逸枝全集』の編集に先立つ憲三の「企画力、実行力、持続力、全過程への心配り」によって世に出たことがわかります。こうしてこの言説が例証するように、憲三は、単に優れた能力をもった編集者に止まりませんでした。それは、次の逸枝の言葉によっても証明されます。
私の人生はすべて受け身に終始したように思われる。-はじめは父に従い後には夫に従った。とくに、後者とは長い一体の関係だったので、私の本の出版、私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊、女性史への創業までが、彼の発意または勧告によるものだった。この意味では、彼が私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった。 [『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、354頁(隠しノンブル)。]
逸枝は、「私の本の出版、私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊、女性史への創業までが、彼の発意または勧告によるものだった」と語っています。しかしながら、のちに例証しますように、憲三の「発意または勧告」は、「女性史への創業まで」で途切れたわけではなく、主体性のない逸枝に取って代わる必要不可欠な「社会の窓」となって、「森の家」以降も続きました。つまり憲三は、依然として、逸枝の「大なるパトロンであり」「啓発者だった」わけであり、換言すれば、「森の家」から生み出される成果物の「企画者(プロデューサー)」としての役を担い、その一方で逸枝は、憲三の「発意または勧告」に従って自分の女性史研究を独自の世界観によって構築してゆく、その歴史に前例を見ない瞠目すべき「表現者(パフォーマー)」としての役を演じていたのでした。逸枝がいう「後者とは長い一体の関係だった」ことが、その根底に存在していたことは、いうまでもありません。
それでは、もう少し詳しく、どのような背景があって、「企画者」と「表現者」という、切っても切り離せない親密な一体の関係が成り立っていたのかを見てみましょう。逸枝は、このように自分の性格を分析します。
私は自分に自信がなく、ひとに対して依頼心と依存心があり、自分自身だけでは考えを 発展させることができないのをなんとしよう。ここに私の夫への奴隷根性があるのだろう。 [高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、46頁。]
つまり、逸枝には、「自分自身だけでは考えを発展させることができない」性格があり、それが、夫憲三への「依頼心と依存心」となって、「夫への奴隷根性」を生み出していたのでした。逸枝は還暦を前にして、次のように日記に書き記しています。
逸枝よ。銘記せよ。弁証法は、自分ひとりの心のなかでなせ。 右のように規定したところ、私はひどくさびしくなり、生気がなくなった。私には「社会」がなくなった。夫は私の「社会」であったから。……つまり自主性がないのだろう。[『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、419-420頁。]
ここでも逸枝は、自分に「自主性がない」ことを告白します。しかし、ひとたび逸枝の「社会」となって、憲三によって枠組みが与えられると、逸枝は、実行や実践という地平にあって、周りの予想と期待をはるかに超えるその能力を発揮するのでした。
憲三は、晩年、このように回顧します。
彼女にしてみれば、知的レベルにおいて、資質そのものにおいて、あらゆる意味において、僕はよほど幼稚にうつって見えるでしょうからね。ただ僕の云うことすることが、どんなことがあっても彼女を裏切ることがない。いうなれば僕への信用ひとつで、彼女はうごいたようなものです。……そうするとやはり、そこに一個の生き物が出来た形になって、彼女はその生きものを自分流に、なんと云ったって自分流に仕上げてゆくんです。 [石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、21頁。]
他方、憲三の妹の静子に宛てて書かれた逸枝の手紙の下書きが残されています。それには、このように書かれてありました。
主人のすゝめで、いまの仕事をはじめた時から、私は一身上の娯楽も名利心もすてゝしまい、戸外一歩も出ないで暮しています。主人は私にあらゆることを教え、指導し、また日本にない「女性史」を二人で一生かゝって書き上げようとしているのです。だからこの仕事は、名前は私ですが、主人と私の合作です。 [橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、311頁。]
「主人のすゝめで、いまの仕事をはじめた」とも、「主人は私にあらゆることを教え、指導し」とも逸枝は書きます。それは、逸枝の女性史研究が、憲三の「発意または勧告」によって開始されたことを意味します。そしてまた、その手紙が書かれたとき、すでに逸枝は、自身の女性史研究が、夫である憲三との「合作」として成り立っていることを自覚していたのでした。
かくして、「跋」において本人が述べる「家主の庇護、指導に基づく所多く」して、逸枝の女性史研究の最初の成果物である『大日本女性人名辭書』が世に出るや、それを皮切りに、逸枝の輝かしい著作の数々が、死に至るまで、ここ「森の家」から次々と産出されていったのです。
すでに紹介していますように、『大日本女性人名辭書』の成立事情について山下は、「まず結論から述べると、この著書は高群逸枝が書いた本であり、橋本が書いたということにはならない。したがって『共著』とよぶことはできないと私は考える」と書きました。しかしながら、以上の一連の考察から判断しますと、山下のこの、論証も実証も伴わない「結論」が、いかに正しくないか、いかに間違っているか、換言すれば、いかに独善的で独断的な絵空事であるかがすぐにも判明します。
それでは最後に、私の考察内容をここで整理してまとめてみます。すると、次のようになります。
高群逸枝を著者名として、一九三六(昭和一一)年一〇月に厚生閣から出版された『大日本女性人名辭書』は、その主たる目的は、生活費を補ううえで必要とされる印税収入を得るためであり、その「発意または勧告」には夫の橋本憲三が大きくかかわり、採択人物の範囲や記述の書式、さらには出典の表記法等に関しては、その先行類似図書である『大日本人名辭書』におおかた倣い、逸枝が『大日本女性史 母系制の研究』のために作製していた女性人名カードを、憲三がこれまでの事典や全集を世に出す実務経験を生かして、辞書にふさわしく校合整理するとともに、冗漫な項目の内容は要約し、不足している項目は新たに補足し、こうして、その大半の原稿が憲三の手によってまとめられた、事実上、逸枝と憲三との「合作」として成り立っていた。
以上が、『大日本女性人名辭書』の成立事情に関する、一次資料に基づく検証の結果得られた私の「結論」です。
いま一度、山下の言説に目を向け、それと堀場清子に向けられた攻撃性との関係性を見てみたいと思います。たびたびの引用になりますが、山下は、「まず結論から述べると、この著書は高群逸枝が書いた本であり、橋本が書いたということにはならない」と断言します。しかし、その結論へ至るいかなる証拠も根拠も示していません。「まず結論」だけが先にあるのです。そこから判断しますと、繰り返しになりますが、その言説は、蒙昧で独りよがりの、一方的な思い込みであるとしかいいようがありません。この絶対的な妄信が、「あの本の大半は僕が書いたのです」という憲三の言説は全くの虚偽なるものであると、山下をして強く深く思い込ませ、それにより山下は、「森の家で女性史研究に入って最初の大著が、実際は共著だったとは!」という堀場の発話に激しく感情を昂らせ、「『共著』とは何かのきちんとした定義もなく、『すべて書いた』という橋本の言葉を検証することもなく、『辞書』を見て、彼が書いたということを実証することもほとんどなく、鵜呑みにしているように見える」と、堀場に対してお門違いの批判を展開するに至ったものと愚考します。
以上のことを簡略化して換言すれば、このようになります。山下にあっては、すべてに先立ってまず橋本憲三の存在なり人格なりに対しての否定的な感情ないしは不信の感情が理由もなく存在し、そのために、憲三の人間性に好感をもったり、憲三の役割に共感を示したりする人物や言説があれば、それをどうしても容認できず、その結果、攻撃的で排外的な言動が、勢い誘発されることになったものと考えられ、その意味で堀場は、山下の憲三蔑視に由来する一種の犠牲者ということになるのかもしれません。
しかし私は、堀場が犠牲者となって貶められなければならない理由は、どこにもないように思います。
堀場は、『大日本女性人名辞書』の完成に当たって、逸枝が「Kの協力をえて」と書いていることにかかわって、その「協力」の意味を、「森の家」における生活全般に関する「協力」と、当初理解していました。ところが、憲三の口から、「あの本の大半は僕が書いたのです」という、想像をはるかに超える具体的な「協力」の内容を示す言葉が飛び出てきたのです。堀場が驚愕するのも当然です。そこで堀場は、驚きのあまり、「森の家で彼女が女性史研究に入って最初の大著が、実際は共著だったとは!」との感想を漏らしたのでした。ごく自然な反応ではないでしょうか。なぜそれが、批判され、責められ、攻撃されなければならないのでしょうか。
私は、「『共著』とは何かのきちんとした定義もなく、『すべて書いた』という橋本の言葉を検証することもなく、『辞書』を見て、彼が書いたということを実証することもほとんどなく、鵜呑みにしているように見える」と書く山下の、まさに「言いがかり」的な文を読んだ堀場が、いかに傷つき、どのような思いを抱いたか、想像してみました。しかし、その内容を、あえてここに書く必要もないでしょう。それよりもむしろ、それに代わって私は、堀場清子というひとりの女性史家について、ここに書き残しておきたいと思いました。なぜならば、高群逸枝研究における堀場の貢献は、他者を寄せつけない、ずば抜けたものであると、私は信じるからです。堀場の主要な業績に、次のものがあります。高群逸枝研究の嚆矢ともいえる、夫の鹿野政直とともに書いた『高群逸枝』、橋本憲三への一問一答の形式で成り立つ貴重な『わが高群逸枝』、さらには、完璧な逸枝文献の資料集成としての『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、この三点です。私の目には、堀場の存在は、他者とは大きく異なり逸枝研究の王道を歩み続けた、まさに研究者のなかの研究者として映ります。そこで、たとえ短いものになろうとも、堀場の高群研究の意義を讃えるために、本節において、その研究経緯の一端について、以下に書き記すことにします。
四月発売予定の『文芸展望』(第五号)に掲載された、瀬戸内晴美の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が、筑摩書房の村上彩子から憲三のもとに送られてきたのは、一九七四(昭和四九)年三月末のことでした。それを見た憲三は、全身が震える思いで驚き苦しみました。といいますのも、妻逸枝の「恋愛事件」が生々しく記述されていたからです。そこには、『婦人戦線』のころの同人であった松本正枝が、逸枝の恋人が自分の夫の延島英一であったことを、聞き手の瀬戸内晴美に語った内容が、いかにも小説にふさわしく脚色されて記述されていました。さっそく憲三は、抗議のために筆を執り、はじめて瀬戸内に宛てて手紙を書きました。この手紙は石牟礼道子に預けられ、憲三の死後に『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)において公開されることになります。
このときの傷つけられ方について、道子は、こう回顧しています。
逸枝亡きあとに書かれたこの作品を読まれて憲三氏の苦悩は深刻だった。 [石牟礼道子「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』思想の科学社発行、1982年1月号(通巻349号)、44頁。]
すでにこのときまでに憲三の健康は、一進一退の状態にありました。しかし、このときの衝撃により、さらに憲三の心身は悪化するのでした。
瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」の発表からおよそ半年が立った九月、鹿野政直と堀場清子の夫婦が水俣の憲三を訪ねてきました。鹿野は、日本近代史を専門とする早稲田大学の教授です。詩人である堀場は、女性史研究家でもありました。ともにふたりは、逸枝の生き方と業績に共鳴していました。堀場は、そのときの様子を、こう描写します。
朝日評伝選『高群逸枝』の取材のために、鹿野政直と私とが、はじめて橋本氏を訪ねた昭和四十九年九月、氏は「事件」の衝撃の渦中にあった。それ以外のことを聞こうとする私達の質問に対し、氏の答えはいつもその点にたちもどって、少なからず困惑させられた。逸枝との愛の一体化と、女性史の大成とに生涯をかけ、女性一般の未来のために多大の貢献をされた氏の、最晩年での傷つけられ方が、いたましかった。 [橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、183頁。]
その年の一二月から、憲三と堀場のあいだで、郵便を介した一問一答形式による「おたずね通信」がはじまりました。憲三の一二月三一日の「共用日記」には、「堀場さんの『おたずね第一信』41項を書きあげる」とあります。これ以降続く「おたずね通信」が、のちに憲三と堀場の共著として上梓されることになる『わが高群逸枝』(上下二巻)の原型となるものです。
除夜が明け一九七五(昭和五〇)年の幕が上がりました。一月四日「午後一時すぎ鹿野堀場夫妻みえる。6時ごろ天水荘へ帰泊」、一月五日「午前九時すぎ夫婦みえる。ナポレオンで昼食のごちそうになる。明日午後五時の汽車にて帰京とのこと。そのとき立ち寄られるとのこと。それまで資料をお借りになる。資料をおもちになって夫妻天水荘へ」。一月六日「午後5時すぎ夫婦みえる。おわかれ」、一月一〇日「私の誕生日。78歳。……石牟礼さんみえる。誕生日祝いの赤飯と折をもらう」。以上の憲三の「共用日記」からの引用は、[堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、188-189頁。]によります。
「日月ふたり(最終回)――高群逸枝・橋本憲三――」が『文芸展望』(第八号)に掲載されたのは、それから五日後の一月一五日のことでした。文末には、「(了)」の文字が記されています。これで、憲三を悩ませ続けていた瀬戸内の小説の連載は、ひとまず終了したのでした。しかしながら、憲三の体調が回復することはありませんでした。死期が迫っていました。もし重態になっても誰にも知らせてはならない、というのが憲三の意向でした。道子は、こう書き記します。文中の「静子」は、憲三の実の妹である橋本静子です。
私は懊悩のすえ静子さんには内密で、朝日評伝選に高群逸枝を執筆予定の、鹿野政直、堀場清子夫妻に緊急事態がせまっていることを連絡した。 [石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、57頁。]
さらに道子の文は、こう続きます。
五月十八日、昨夜鹿野夫人二十時二十三分『有明』でおみえ。間にあってよかった。今朝の御面会よい結果であればよいがと思い、時間をずらしてゆく。十一時お見舞い。……五月二二日……朝十時半ごろ、鹿野政直先生もおみえ、間に合われた。ご夫婦で橋本邸へ。おともする。静子さん枕元にいらして先生おめざめ。ちょうど痛みが去っていて、ご夫妻にごあいさつがおできになる。 [石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、61-62頁。]
以下の文は、憲三の最期に間に合った鹿野と堀場が書き記す、そのときの様子です。
橋本憲三氏の死にようは、はればれとして、うつくしかった。亡くなる前日の午ごすこし前、私達は氏と長い握手をしてお別れした。死に臨んだ人とはとても思えない、力強い握力が心に残った。 [鹿野政直・堀場清子『高群逸枝』(朝日評伝選一五)朝日新聞社、1977年、327頁。]
憲三が世を去ったのは、一九七六(昭和五一)年五月二三日でした。『熊本日日新聞』は、憲三死亡の続報として、「故高群逸枝さん夫妻の遺稿 水俣市立図書館『淇水文庫』に寄贈」という記事を掲載します。そのなかには、次のような文字も並んでいました。
橋本さんがさる五月二十五(ママ)日死亡して以来、遺族は残された遺品の処置を検討していた。橋本さん自身の遺言もあって大部分の蔵書は高群さんを研究している早大文学部の鹿野政直教授などの研究者に渡される。 [「故高群逸枝さん夫妻の遺稿 水俣市立図書館『淇水文庫』に寄贈」『熊本日日新聞』、1976年6月1日、4面。]
この『熊日』の記事から六日後、『朝日新聞』は、鹿野が寄稿した追悼文「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」を掲載します。その文の一部を下に引用します。
わたくしは橋本氏に会って、氏がじつに編集者的な感覚に富んでいるのを発見したが、有能であったにちがいないその仕事をすてて、妻の仕事のささえ手にまわった。家事を一切ひきうけたばかりでなく、資料さがしにでかけ、生活設計をし、研究の方向に助言をあたえ、妻のかいたものの最初の読者となり批判者となった。さらに、おしよせる世間のまえに、一人でたちはだかった。彼女の作品には、今日ふつうに思われているよりはるかにふかく、その夫がかかわりあっている。橋本氏の編集者的な才能はその妻に向かって集中し、彼女のプロデューサーになった、というのがわたくしの観測である。 [鹿野政直「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」『朝日新聞』、1976年6月7日、夕刊5面。]
ここで注目していいのは、逸枝の「作品には、今日ふつうに思われているよりはるかにふかく、その夫がかかわりあっている。橋本氏の編集者的な才能はその妻に向かって集中し、彼女のプロデューサーになった」という文言でしょう。そして鹿野は、この追悼文の末尾を、以下の文で締めくくります。
こういう生涯があったということに、やはりわたくしは、大正期のデモクラシーの機運の一端をみとめずにはいられない。そうして氏は、日本女性史に少なからず貢献をなしとげたのだった。と同時に、もし日本男性史く(・・・)というものが書かれるとしたら、橋本氏は、既成の男性像を身をもって否定した人間として(否定のかたちは、必ずしもそれが唯一ではないにせよ)、いわば「新しい女」にたいする「新しい男」として、位置づけられるのが至当ではなかろうかと、わたくしは、氏をいたむ念とともに夢想する。 [鹿野政直「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」『朝日新聞』、1976年6月7日、夕刊5面。]
上の文のなかに「新しい男」の文字が現われます。注目すべき視点であると思われます。この追悼文が『朝日新聞』に載ったのは、奇しくも逸枝の一三回忌に当たる、その日のことでした。
年が改まり一九七七(昭和五二)年を迎えました。その年の七月、鹿野政直と堀場清子の共著になる『高群逸枝』(朝日評伝選一五)が朝日新聞社から上梓されました。「一九七七年六月七日 逸枝の命日に」この本の「あとがき」は書かれています。以下の引用は、そこからの一部抜粋です。
この仕事の完成は、それを誰よりも楽しんで待っていて下さった橋本氏の終焉に、間にあわなかった。一周忌の御命日に、二日がかりのツメの仕事を終えたのは、何かの因縁でもあろうか。それにしても、氏から恵まれた信頼と御好意に、はたして私達は応ええたか。できあがってくる本の最初の一冊を、氏の墓前に捧げる瞬間を思う時、心のうちに、たじろぐ。 [鹿野政直・堀場清子『高群逸枝』朝日新聞社、1977年、328頁。]
おそらく「最初の一冊を、氏の墓前に捧げる瞬間」があったものと思われます。逸枝や憲三に代わって、静子も道子も、深い謝意を表明したにちがいありません。
この本は、「朝日評伝」シリーズのなかの一冊を占めるもので、逸枝に関する最初の評伝となりました。内容的には、「一.出発哲学」と「二.女性史学に立つ」の二部構成をとり、第一部を堀場が、第二部を鹿野が担当しました。そのなかで堀場は、憲三との出会いをこうした言葉で描写しています。
逸枝没後、すでに十年がたっている。その日の暮らしにも困るほど、貧しいのでもない。それでいて、亡妻をたたえ、その業績を顕彰するほかに、なに一つ眼中にない男というものを、私は珍しく眺めた。四十余年の日本の暮らしと、短い外国生活のどちらでも、一度も見たことのない種類の男だった。新しい女はいても、新しい男はいないと、それまで私は思っていた。その考えが、この時変った。やっぱり、それもありうるのだな、と。 [鹿野政直・堀場清子『高群逸枝』朝日新聞社、1977年、63-64頁。]
堀場にとって憲三との初対面は、「珍獣」を眺めるような思いだったようです。しかしながら、堀場もまた、このとき憲三に「新しい男」を発見したのでした。
鹿野政直と堀場清子の共著になる『高群逸枝』が発刊されて四年後の一九八一(昭和五六)年に、今度は、橋本憲三と堀場清子の『わが高群逸枝』(上下二巻)が、同じ版元である朝日新聞社から上梓されました。この『わが高群逸枝』は、神奈川県の逗子に住む堀場が質問をし、熊本県の水俣に住む憲三がそれに答えるという、距離を隔てた郵送による一問一答の形式で、憲三が死去する直前までの約一年半続けられた「おたずね通信」を集成したものでした。
それでは、「おたずね通信」の背景について、ここに少し書いておきます。上述していますように、堀場清子と夫の鹿野政直が、はじめて水俣の憲三宅を訪問したのは、一九七四(昭和四九)年の九月のことでした。目的は、朝日評伝の一冊として『高群逸枝』を執筆するに当たっての基礎調査にありました。しかしそのとき、すでに憲三の体調は優れず、加えて、瀬戸内が『文芸展望』に連載していた「日月ふたり」の内容に苦しめられ、精神的に傷を負った状態にありました。そのため、十全に質問ができなかった堀場は、その後、質問状を書いていいかを憲三に問い合わせました。以下は、それへの返信内容です。
こんごいろいろご質問いただけますこと、大よろこびです。/ご質問は、ききづらいこと、常識的?には意地悪いと考えられそうなことがらでも、いっさいごしんしゃくなくお願いいたします。ありのままを(私自身が知っていることなら)正直にお答えできると思っています。真実に近づくためには。 [橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、vii頁。]
このとき、病床に臥す憲三には、死期が近まっているという意識があったでしょうし、一方で、瀬戸内の文にみられるような事実と異なる内容が今後次々と書き継がれてゆくことを恐れる気持ちもあったでしょう。そこで憲三は、堀場を信じ、自分の知る真実のすべてを伝え、いつの日か公開されることを望んだものと思われます。そうした憲三の思いは、瀬戸内へ宛てた手紙を道子に預けたことに、すでに現われていました。今度は、憲三は、「おたずね通信」を堀場に託すことを決意したのです。こうして憲三と堀場の「おたずね通信」がはじまりました。その間の事情を堀場は、『わが高群逸枝 上』の「解説」のなかで、このように記しています。
昭和四十九年十二月のはじめ、四十一問の「おたずね第一信」を発送した。……こうしてはじまった一問一答を『おたずね通信』と名づけて、通し番号をふり、第一次目標を千問、第三次目標の三千問までは達したいとしたが、昭和五十一年五月二十三日の橋本氏の逝去によって、七百五問で中断した。亡くなる前日、別れの言葉とともに、氏は『おたずね通信』の束を私に托された。 [橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 上』朝日新聞社、1981年、viii頁。]
一方、『わが高群逸枝 下』の「あとがき」において堀場は、まずその冒頭で、あるひとりの女性に対して謝辞を書きます。
『おたずね通信』が交わされていたころ、橋本憲三氏のお手紙の中に、毎回のように記されてくるお名前があった。「嫌な顔もせずにコピーしてくださるので、ほんとうに助かります。」「これからコピーをお願いに行くところです。」といったように。水俣市役所にお勤めの、新田とし子氏がその人である。当時水俣の町には、鮮明に写るコピー機が少なく、昼休みの一時間だけ、市役所のそれが市民の使用に開放されていた。新田さんは高群逸枝への共鳴者で、以前から橋本氏の編集事務のために、昼休み返上でコピー奉仕をしていられ、『おたずね通信』に関するいっさいのコピーもまた、新田さんのご好意に依存することとなった。 [橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、363頁。]
「あとがき」の最初に無名の女性の献身に謝意を示すところに、著者の人柄の一端を知るような気がします。続いて、堀場の謝辞は、静子へと向かいます。
橋本憲三氏の令妹、橋本静子氏からいただいたご協力に対しては、どんな言葉をもってきても、私の謝意をあらわすに足りない。高群・橋本夫妻への、氏の愛と傾倒のおおい(ママ)さを想い、黙して、ただふかく敬礼する。 [橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、364頁。]
堀場の質問に憲三が答えるという形式で成り立つ『わが高群逸枝』(上下二巻)は、以下のような項目で構成されていました。
恋愛のはじめ 観音の子 熊本時代 巡礼娘 君と約婚す 憲三おいたち 城内校 出京のころ(以上、上巻) 路地裏前期 家出事件をめぐって 路地裏後期1 路地裏後期2 森の家1 森の家2(以上、下巻)
このように、内容は、逸枝の生い立ちから死去までの生涯にわたる事跡を扱っていました。道子は、「おたずね通信」の価値について、こう書いています。
お言葉の数々をテープに採らせて頂けばよかったが、不器用で思いもつかなかった。後世の為に如何ばかり意味を持ったかと悔まれるが、堀場清子氏による「おたずね通信」が残されたことは私どもの喜びである。 [石牟礼道子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、101頁。]
道子の「編集室メモ」が掲載された『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)には、生前瀬戸内に宛てて憲三が書き、道子が預かっていた抗議文が掲載されていました。それと同時に、もろさわようこの「高群逸枝」の悪質な文に抗議する、橋本静子の手紙文「もろさわよう子様へ」も掲載されていました。「おたずね通信」を原型とする『わが高群逸枝』が世に出たのは、『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)発刊のその翌年(一九八一年)のことでした。いわれなき憲三批判に苦しむ静子と道子にとっては、こころ温まる朗報でした。ふたりの喜びは、いかほどであったことかと思われます。
もっとも、『わが高群逸枝』の「あとがき」にみられる、こうした愛情あふれる堀場の謝辞は例外的なものでした。たとえば、西川祐子の『森の家の巫女 高群逸枝』の「あとがき」にあっては、静子の名は、「資料と参考文献については上村希美雄氏、河野信子氏、関陽子氏、橋本静子氏、古河三樹松氏から多くを教えられました」[西川祐子『森の家の巫女 高群逸枝』新潮社、1982年、229頁。]の一文に見出されるのみです。同じく、栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』の「あとがき」には、「橋本静子さんには、私にはどうしても確認できない点をご教示いただき、感謝にたえません」[栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、252頁。]と、これまた短い言及しかありません。堀場の静子評との隔たりに、静子との距離感の違いを、ここに見出すことになります。
さらに栗原葉子は、その本の「あとがき」のなかで、こうも書きました。
私は自分で執筆するつもりはなく、堀場清子氏か石牟礼道子氏がいずれ書かれるであろう決定版憲三論の、ただ、読者でありたいと思っていた。で、待った。待って、待って、待ちくたびれて、とうとう大胆にも自分で筆を執ることを決意した。だから、こうして書き上げた今も、大先輩の前に頭を垂れて審判が下されるのを待っている気分である。 [栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、250頁。]
一見挑発とも受け止められかねないこの言葉を、堀場と道子がどう受け止めたのかは明確にするだけの資料が残されていないようです。また、本人たちが「審判」を下す目的で上梓したのかどうかもわかりませんが、遅れること二〇〇九(平成二一)年に、堀場は『高群逸枝の生涯 年譜と著作』を世に問い、一方の道子は、二〇一二(平成二四)年に『最後の人 詩人高群逸枝』を世に出すのでした。前者の作品は、これよりのちのさらなる実証研究になくてはならない、精緻を極めた、逸枝の「年譜と著作」が綴られ、後者の作品において、自身にとっての「最後の人」が橋本憲三その人であることを告白するのでした。
すでに触れていますように、この間、生前にあっては、瀬戸内晴美が「日月ふたり」のなかで、続いて戸田房子が「献身」のなかで、小説であることに事寄せて、身に覚えのない不当なる内容を世に明らかにすることによって憲三を傷つけ苦悩のどん底に落とし入れていました。さらに死後にあってさえも、逸枝と憲三に関心をもつ人は絶えず、その多くは、憲三を罵倒する側に立つ人たちでした。たとえば、もろさわようこは、風体貧しく、品行卑しき男として憲三を罵りました。瀬戸内晴美は、自身の小説の連載断念に至った原因を憲三の意固地でヒステリックな性格のせいにしました。栗原弘は、逸枝が書いたすべての著作が事実を隠蔽した偽造品であると推断しました。栗原葉子は、人前に仁王立ちし、ふたりの恥部を隠す熱演者として憲三を描写しました。こうした幾度となく押し寄せてくる受難のなかで、憲三同様に静子も、自身の晩年を過ごすのでした。静子にとっては、なぜここまで、兄夫婦が誹謗中傷の渦に巻き込まれなければならないのか、自分自身、理解ができなかったかもしれません。それは、道子も同じであったでしょう。といいますのも、道子が描く憲三像は、次のようなものだったからです。
一人の妻に「有頂天になって暮らした」橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しく典雅で、その謙虚さと深い人柄は接したものの心を打たずにはいなかった。 [石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、53頁。]
堀場と静子の交流は、その後静子に死期が訪れるまで続きます。しかしながら、堀場の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』の出版が、静子の死に間に合うことはありませんでした。この著作が世に出たのは、静子の一周忌の二箇月後の二〇〇九(平成二一)年の六月のことでした。堀場は、その「あとがき」にこう記しました。
橋本静子氏の死は、単にひとりの女性の死には止まらない。九歳のとき、兄の妻になった高群逸枝に会った最初の日から、逸枝を愛し、生涯変わることがなかった。逸枝・憲三夫妻の貧しい研究生活を、物心両面で支え、夫婦の没後もひたすら顕彰に努めて来られた。その深い愛と、豊かな記憶と、つねに支持を表明してやまない強靭な意思が、活動を終熄したのである。なんと大きな喪失であったことか。 [堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、249頁。]
そして堀場の記憶は、静子が亡くなる三年前の水俣訪問へと向かいます。
二〇〇五年一月、鹿野政直と私が水俣へ静子氏を訪ねたときの、彼女の言葉が蘇ってくる。 「憲三はね、いうなれば、普通ですよ。しかし、逸枝は天才です」。 高群逸枝に関する仕事では、いつも有りうる限りのご助力をいただいてきた。本稿の完成を、終焉に近い日まで気にかけていられたという。静子氏が亡くなるなど、思ってもみなかった私の愚かさ。しかも仕事が遅く、その「旅立ち」に間に合わなかったことは、痛恨の極みというほかない。 [堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、249頁。]
述べましたように、水俣に帰郷した橋本憲三のもとをしばしば訪れ、逸枝についての資料の収集に当たってきた堀場の手によって、静子没後一年目に、この『高群逸枝の生涯 年譜と著作』は上梓されました。逸枝と憲三に関する詳細かつ精緻な年譜と関連著作の一覧から構成されています。また、本書が対象とするのは、静子が亡くなる二〇〇八(平成二〇)年四月までです。そうした意味において本書は、逸枝と憲三の両人の生涯と業績を知るうえでの欠かせない貴重な文献が整理された有益な資料集成となっているのです。このとき堀場は七八歳になっていました。それではなぜ、自身の晩年にあって、堀場はこうした性格をもつ書物を公にしたのでしょうか。この本は、従来一部にみられた、独断的な多弁と能弁によって成り立つ逸枝や憲三についての評論や評伝とは大きく異なり、書き手の言葉は最小限度に抑制されています。そこから判断しますと、踏まえなければならない必須の一次資料(エヴィデンス)の全貌を開陳することによって逆に生まれてくる、事実から乖離した一部の独善的な既往研究への暗黙裡の抗議の表明だったのではないか――もしかしたら、そうした思いが込められていたかもしれません。
私はその現われのひとつとして、憲三が書いていた「共用日記」の断片が、『高群逸枝の生涯 年譜と著作』のなかに隠れるようにして引用されていることに求めたいと思います。この箇所は、憲三の行動と苦悩を跡づけるための貴重な証言として、誰しもが援用したくなる一級の歴史的資料なのです。もっとも、なぜこのような形式で、「共用日記」のなかの一部の限られた文言を自著に忍ばせたのか、また、なぜ全文を公開しなかったのか、そして、この「共用日記」はその後どのような運命をたどったのか、疑問は尽きません。といいますのも、逸枝没後、憲三が単独で書き残した「共用日記」が完全なかたちで現在残されているならば、憲三研究は、格段に向上するにちがいないと思うからです。
そのように思う一方で、これだけの幾多の資料を渉猟し、見事にそれを年代順に整理したにもかかわらず、なぜ堀場は、自ら進んで逸枝と憲三に関する本格的な伝記を執筆しなかったのでしょうか。資料も能力も十分に備わっていたはずなのに……。
振り返ってみると、堀場が批判したのは、逸枝の恋人が自分の夫であったことを瀬戸内に告げた、松本正枝のみでした。この間堀場は、「うそをつく女」「名誉を毀損する女」「人権を無視する女」「差別をする女」「絵空事を書く女」そして「男性を嫌悪する女」を見てきていたにちがいありません。しかし、それらの女も、女であるがゆえに、別の次元にあって社会的、文化的、政治的抑圧を多かれ少なかれ経験しているであろうことを考え合わせるならば、それを無視して、批判の対象にすえることに同性としての躊躇が働いたのかもしれません。もし堀場が、逸枝と憲三に関するフル・スケールの伝記を書こうとするならば、そうした女たちが書いた逸枝と憲三についての先行研究に、どうしても対峙しなければならず、しかしながら堀場は、それに同意も不同意もできず、その結果として無言に徹し、論点を避けて通る道を選んだものと推量されます。
しかし、述べてきましたように、堀場は、憲三の痛みと静子の役割について、十分に知りえる立場にありました。いっさいの論評を抜きにした、この寡黙な『高群逸枝の生涯 年譜と著作』の刊行は、憲三と静子の実際を知る、せめてもの堀場にとっての良心の発露であったものと、私は理解します。
かくして、鹿野政直・堀場清子『高群逸枝』、橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝』(上下二巻)、そして堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』の三部作をもって、堀場は、高群逸枝研究における、まさしく燦然と天空に輝く金字塔を打ち立てたのでした。
それでは再び、山下悦子の「小伝 高群逸枝」にもどりたいと思います。すでに見てきましたように、著者の山下はそのなかで、堀場清子の言辞を取り上げて、いわれなき批判を浴びせました。しかしながら、山下の根拠なき攻撃は、この事例だけではありません。「小伝 高群逸枝」のなかにあっては、ほかにも、理不尽な罵声を一方的に投げかけられた人たちがいました。逆に無視された人もいました。ここでは、山下の理由なき攻撃性ないしは無関心性の事例を八点挙げ、それを検討することによって、その全体構造の姿を明らかにしたいと考えます。
論点その一、先行研究『高群逸枝』に関する無関心について。
山下の「小伝 高群逸枝」には、先行研究に関しての紹介も分析もありません。本来、過去の人物について新たに伝記を書く際には、その人物にかかわる先行伝記について、いかなる目的と方法とによって何が明らかにされたのかを、時間軸に沿って一つひとつ批判的に検討を行ない、自分がこれから執筆する伝記は、そうした既往研究の論述をさらにもう一歩前に進めるうえで、いかなる視点に立ち、どのような文脈に沿って描くことによって、何が新たに見出されるのか、その新規性なり独創性なりを明示する必要があります。ところが、山下の「小伝 高群逸枝」には、それが全く欠落しているのです。明らかに、無視を決め込んでいるとしかいいようがありません。
高群逸枝に関する伝記は、数多くありますが、その最初期に現われたひとつが、すでに触れていますように、鹿野政直と堀場清子の共著になる『高群逸枝』です。このなかで、憲三は逸枝作品のプロデューサーであり、彼なくしては、彼女の巨大な仕事はありえなかったことが指摘されています。いかなる理由があって山下は、憲三の貢献を高く評価する、この先行伝記の存在に目を閉ざしたのでしょうか。あるいはまた、鹿野政直と堀場清子の『高群逸枝』をどう批判的に検討した結果の地平に、自分の「小伝 高群逸枝」を置こうとしたのでしょうか。何も見えてきません。
学術研究は連続したものです。過去の研究に対峙できず、それを無視した所からは、身勝手な研究らしきものは生まれても、学問的に真に価値ある成果が産出されることはありません。私は、前章の「第二章 鹿野政直が示した「新しい男」論に対する無視の構造」において、高群史学の成立にかかわる憲三の貢献の実際について論じています。
論点その二、橋本憲三への高群逸枝の「曲従」について。
山下は、逸枝の「曲従」について、こう断言します。
『日記』にはこの「曲従」という言葉がたくさんでてくる。「曲従」とは中国後漢の儒教書で女性に対する戒めの『女誡』七編のうちのひとつ。舅姑のいうことが非であっても自分を曲げてでも従うことを意味し、それを婦徳とした。この『女誡』は貝原益軒『女大学』等に影響を与えた。高群は生涯にわたって橋本と曲従の関係にあり、彼の暴言暴力を高群自身の欠点ゆえだと思い、悩み、苦悩するが、橋本への思慕はうすれることはなかった。 [山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、17頁。]
問題は、「高群は生涯にわたって橋本と曲従の関係にあり」という言説のなかの「生涯にわたって」という箇所です。調べる限り、それを立証する一次資料(エヴィデンス)はありません。私は、前々章の「第一章 『曲従』を巡る山下悦子の言説についての批判的分析」において、山下のこの論述の虚偽性を明らかにしました。
あえて以下に、「森の家」でのふたりの生活について逸枝が書き残している一文を引用します。憲三が、勤務していた平凡社を退社したのは、一九三五(昭和一〇)年です。「森の家」での生活も四年目を迎え、逸枝は四一歳になっていました。
夫が勤めをやめてからは、毎日たのしく、みちたりてくらした。森の中のあらゆる事件も、異変も、二人でみてきた。私のあらゆる仕事のこと、手紙、何もかもが、すべて二人によって処理された。飽きることのない毎日だったといえる。 [『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、429頁。]
果たしてこの文から、「橋本と曲従の関係」にあって展開された生活の実態のようなものが、読み取れるでしょうか。逸枝は「毎日たのしく、みちたりてくらした」のであり、微塵も憲三への「曲従」など感じていなかったことは明々白々です。わずかこの一文からだけでも、「高群は生涯にわたって橋本と曲従の関係にあり」と書く山下の言説が虚偽であることがはっきりします。
論点その三、橋本憲三の言動に関する総体的蔑視について。
山下は、憲三の言動に関して、こう批判します。
女性の人権が語られ、ドメスティックバイオレンスやモラルハラスメント、セクシャルハラスメントが問題視される今の時代であれば、高群の『日記』に描かれた記述や、橋本が高群に対して行なった数々の行為や言動はかなり問題であるように思う。少なくとも女性の研究者を有形無形にささえ続けた男性という美談ではおさまらないであろう。 [山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、17頁。]
「高群の『日記』に描かれた記述」とは、何を指すのでしょうか。「橋本が高群に対して行なった数々の行為や言動」とは、これまた、何を指すのでしょうか。その具体的事例を示すこともなく、また、善悪の判断基準を明らかにすることもなく、「女性の研究者を有形無形にささえ続けた男性という美談ではおさまらないであろう」と、独断的に弁じる山下の言説がいかに不当なものであるか、それについても私は、前々章の「第一章 『曲従』を巡る山下悦子の言説についての批判的分析」において指摘しています。
あえてここに、山下の言説への反証として、まさにその「高群の『日記』に描かれた記述」から一節を引用して、以下に紹介しておきます。
憲三が平凡社を辞める前年の一九二六(大正一五)年一一月に、すでに憲三と逸枝は上沼袋に移転していました。この時期、逸枝は憲三を、このように評します。
ここに移ってまもなくKは運命的な事件に突入することになった。彼の関与した出版の決定的な成功と、それにもかかわらずそれは彼の退社を結果した事件だったのだ。 Kは私の見てきたところではきわめて透徹した孤独の持主だった。この孤独は自他の偏見を超越した普遍的な性格のものだった。俗な言葉でまた彼のきらう言葉でいえばそれは神に通ずるものだった。私が尊敬したのは彼の孤独だった。彼は男性なので社会が男性に与える世俗的な条件のために心身をさいなまれていた。そこに彼のやむをえない矛盾や錯誤もおこり不当に誤解されることもまた多かった。私は会わない前から電光の一閃でそれらのことをほとんど全面的に直感していた。 [『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、217頁。]
逸枝は、このように、憲三の孤独は「神に通ずるものだった。私が尊敬したのは彼の孤独だった」、このことは「会わない前から……ほとんど全面的に直感していた」と書きます。ここは、朱線を引いて強調していい箇所かもしれません。
もうひとつ、反証となる逸枝の言辞を、以下に挙げておきます。一九三七(昭和一二)年の逸枝の日記からの引用です。
憲三午後から白木屋古書店へ。……近頃の私は悪婦の標本ではないかと思う。家事に対する驚くべき怠まん。…… うちのひとの指導、援助がなかったら、何が私にできよう。私に何の力があるかと思う。 [『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、250頁。]
逸枝が「森の家」の家において女性史研究に入るのが一九三一(昭和六)年ですので、この日記が書かれたのは、それから六年後ということになります。そこには、外出しては古書収集に当たり、家にあっては家事を担う憲三の姿がありました。
以上のふたつの事例に照らし合わせて判断するならば、「橋本が高群に対して行なった数々の行為や言動はかなり問題であるように思う。少なくとも女性の研究者を有形無形にささえ続けた男性という美談ではおさまらないであろう」という山下の言説が、いかに虚妄の言であるかが明らかになります。「女性の人権が語られ、ドメスティックバイオレンスやモラルハラスメント、セクシャルハラスメントが問題視される今の時代であれば」こそ、逸枝と憲三の人権を無視し、名誉を毀損する、山下の言説は、容認されるべきものではないと思料します。
論点その四、堀場清子の言説に関するお門違いの批判について。
これにつきましては、本章で取り上げて、論じているとおりです。
『大日本女性人名辭書』の成立事情にかかわる、「あの本の大半は僕が書いたのです」という憲三の言説に対して、堀場の、「森の家で女性史研究に入って最初の大著が、実際は共著だったとは!」という感想を捉えて、山下は、「『共著』とは何かのきちんとした定義もなく、『すべて書いた』という橋本の言葉を検証することもなく、『辞書』を見て、彼が書いたということを実証することもほとんどなく、鵜呑みにしているように見える」と、すでに論証しているとおり、お門違いの批判を展開します。また、「大半は僕が書いた」を「すべて書いた」と書き換える、悪意としか思えない歪曲も、目につきます。
さらに山下は、「まず結論から述べると、この著書は高群逸枝が書いた本であり、橋本が書いたということにはならない」と断言します。しかし、その結論へ至るいかなる証拠も根拠も示していません。なぜ、「まず結論」だけが先にあるのでしょうか。恣意や予断に満ちた、かかる独善性について、すでに私は、本章であるところの「第三章 堀場清子擁護論」において論述しました。
論点その五、橋本憲三の役割と有能性に関する疑問視について。
山下は、「森の家」における憲三の役割と有能性にかかわって、こう書きます。
橋本は口述筆記や手紙の代筆など、それなりに高群の世話をしていたのだろうが、食事の世話や生活面に対する配慮は、一貫して希薄だったように見受けられる。高群に対する独占欲、支配欲が強く、彼女の人間関係を利用しつつも、一方で遠ざけるような習性があったようだ。編集者として有能だったとする石牟礼道子のように、橋本を高く評価する人もいるが、……橋本と高群の感性のズレは一生涯埋まらず、はたして高群にとって彼はいい編集者だったのか、疑問を感じるのだ。 [山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、48頁。]
まずいえることは、この文の特徴は、「していたのだろう」「見受けられる」「あったようだ」「だったのか、疑問を感じる」の文言にみられるように、根拠や証拠といったものがいっさい不在の、単なる推量や推測の羅列として成り立っていることです。小中学生が書く読書のあとの感想文であれば、想像であろうと偏見であろうと、自分の思ったことや感じたことを自由に書くことが許されるでしょうが、これは、「小伝 高群逸枝」と銘打った、れっきとした伝記ではないでしょうか。伝記執筆の眼目は、実証にあり、原資料(エヴィデンス)に依拠して真実に肉薄しなければなりません。何が理由となって山下は、真実に向き合おうとしないのでしょうか。
ここではひとつだけ、「高群にとって彼はいい編集者だった」ことを例証する証拠(エヴィデンス)を引いておきます。
逸枝は、「主人は私にあらゆることを教え、指導し」、自身の女性史研究が、夫である憲三との「合作」として成り立っていることを自覚しているのです。これは、憲三が「高群にとって彼はいい編集者だった」ことの一側面を証明します。それでは、逸枝の女性史学成立に対しての憲三の献身は、実際はどのようなものだったのでしょうか。原資料に基づいてそのことについて言及したのが、前章の「第二章 鹿野政直が示した「新しい男」論に対する無視の構造」です。
ついでながら、「橋本と高群の感性のズレは一生涯埋まらず」と断定する山下の言説に対置するために、以下に、逸枝と憲三の夫婦に向ける石牟礼のまなざしを、参考のために、ここに二点引用し、紹介しておきます。
それにしても、憲三にむけてのみ終生積極的に愛を訴え、それを確認したがり、共に「完成へ」と歩んだのは、よくよくその夫を好きであったと思われる。 [石牟礼道子「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、91頁。]
私どもが夫妻の生き方に心をゆすぶられてやまないのはなぜなのか、愛の形はいろいろあろうけれども、この二人においては徹底的に相手に対して真摯にむきあい、慢性的な弛緩やなれあいが、みじんも感ぜられないからであろう。 [石牟礼道子「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、93頁。]
これらふたつの石牟礼の言説からもわかりますように、山下が理解する逸枝と憲三の夫婦像と、石牟礼の理解するそれとは、はっきりと完全に分かれます。果たして、「橋本と高群の感性のズレは一生涯埋まらず」、ふたりはそれぞれにそれぞれの思いのなかにあって、その人生を終えたのでしょうか。石牟礼の言説を信用するならば、その対極にある一方の山下の言説は、極めて意図的で創作的なものに感じられます。
論点その六、不動産処分に関しての橋本憲三侮蔑について。
逸枝が亡くなると、憲三は、朽ち果てた「森の家」で『高群逸枝全集』(全一〇巻)の編集に当たり、それが終わると、世田谷区役所とのあいだで、「森の家」譲渡の契約を結びます。そのことに関して山下は、このように書きます。
橋本が石牟礼に語った一〇〇〇万円(当時のお金)しか残らなかったという言葉が事実に基づくかは疑問も残るが、森の家を売って今のお金でいえば数千万から億単位の資産を得たことは間違いない。こういった事実から筆者に見えてくるのは、高群逸枝は徹頭徹尾「無産者」を貫いた人であり、無欲の人、「放浪者の詩」を生きた人だったということである。 若い頃、妻子を持つことは負担になるからと瞬間恋愛説をいい、金持ちの後家との結婚が理想だなどと言って高群を悩ませた橋本だったが、かなりの財産を稼ぎ、財を残して死んだ高群は、最高の女性だったということになるだろう。ぼろ着をまとい、栄養失調になるまでやせ衰え、死ぬ直前まで研究し続けて……。 [山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、50-51頁。]
「小伝 高群逸枝」の全編においてそうなのですが、この引用文にも、逸枝を哀れんでは擁護し、憲三を利己主義者とみなしては切り捨てようとする著者の思惑がよく表われています。もしこれを、逸枝や憲三なり、また、静子や道子なりが読むことができたとするならば、どう反論したでしょうか。いまや四人とも永眠の身にあります。ここではひとつだけ、収入や資産についての逸枝その人の思いを引いておきます。
私は、夫の扶養ということを、可能不可能とは全く別にして、生来的に問題にしたことがない。それと同時に、結婚後の同居生活では、近代個人主義とは別に-それは非難しないが-徹底的に共同だった。夫はなんの介意なしに私のえた印税を処理した。夫の収入に対する私の態度も同じだった。 [『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、515頁。]
この逸枝の言葉をもって、山下の言辞がいかに異質なものであるかを示す証拠にしたいと思います。山下が書くように、「高群逸枝は徹頭徹尾『無産者』を貫いた人」であったわけではなく、逸枝本人が書くように、逸枝と憲三は、「徹底的に共同」を貫いた人だったのです。「資産は共有、作品は合作」であることを自認する逸枝が、もし山下にみられる、こうした自身についての、真意から遠く離れた身に覚えのない記述を読むことができたならば、なぜ、どのような意図があってこのような虚妄を弁じるのか、恐怖感さえ襲ってきたものと推量します。そのことについて私は、自身の著作集22『残思余考――わがデザイン史論(上)』の第四部「『三つの巴』私論集」のなかの第六節「橋本憲三と石牟礼道子に関する岡田孝子と山下悦子の論説について」において、掘り下げて語っています。
ついでに、さらにひとつ付け加えるならば、山下は、「ぼろ着をまとい」と書きますが、それは憲三も同じでした。「望郷子守唄」の歌碑の除幕式にふたりは参列できず、「森の家」から普段着のまま、その時間にあわせて、熊本方面に向かって頭を下げ、感謝の気持ちを表わします。その写真が『熊本日日新聞』に掲載されると、それを見た憲三の姉の藤野はこころを痛め、いくらでも送るからといった趣旨の手紙を静子に書かせるのでした。このように、晴れの日であろうと、ふたりは、慎ましく「ぼろ着をまとい」、着飾ることはありませんでした。これについては、著作集23『残思余考――わがデザイン史論(下)』の第三部「高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子論」のなかの第一話「『三つの巴』画像集」に所収しています【図82】を参照してください。
論点その七、石牟礼道子の存在に対する無知と無理解について。
道子は、逸枝が死去したのち、「森の家」へ行き、しばらく憲三と生活をともにします。それは、逸枝を妣(母)とする自身の「生まれ変わり」のためでした。それまでに道子は、生まれた家庭環境に苦悩し、嫁いだのちは、その生活に落胆し、幾度かの自死も試み、本人がいうように、まさしく「魂が吐血した状態」にあったのでした。憲三はすがる道子に寄り添いました。これは、逸枝が『戀愛論』になかで書いていた、他の新生命への発展を意味する「寂滅」を再現するものでもありました。かくして道子は、ここ「森の家」において、静子を立会人として、逸枝と憲三に対して自分の後半生を約し、憲三をして、自分の「最後の人」とするのでした。
山下は、「森の家」での憲三と道子との同居生活に関して、次のような描写をしています。
[憲三から道子は]眼鏡をプレゼントしてもらい、中村屋のカレーを食べといったような楽しいデートを森の家に籠ってからの高群は経験したことはなかったのではと思うと、なにか割り切れないものを感じる。橋本のために甲斐甲斐しく食事の世話もする石牟礼は高群とは違い、伸びやかな性を発散できるタイプの女性であり、橋本は石牟礼に高群を重ねるというより、三〇歳も年下の石牟礼との同居生活に楽しさを感じていたのではないだろうか。 [山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、52頁。]
山下は何を根拠に、道子は「伸びやかな性を発散できるタイプの女性であり、橋本は石牟礼に高群を重ねるというより、三〇歳も年下の石牟礼との同居生活に楽しさを感じていたのではないだろうか」と、書くのでしょうか。根拠なき、単なる戯言です。しかしながら、憲三も道子も、すでに黄泉の客となっているとはいえ、人格も名誉もあります。いかなる事情があって山下は、それを公然と毀損しようとするのでしょうか。これについても私は、自身の著作集22『残思余考――わがデザイン史論(上)』の第四部「『三つの巴』私論集」のなかの第六節「橋本憲三と石牟礼道子に関する岡田孝子と山下悦子の論説について」において、詳しく論じています。
論点その八、橋本静子の役割に対する無視と排除について。
山下は、静子に関しては、このように書いています。
夫と息子のいる石牟礼は三九歳、橋本六九歳の森の家での奇妙な同居生活(六月二九日~一一月二四日)。この間同居生活を導いた橋本の妹橋本静子の真意も筆者には理解し難いものがある……。 [山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、52頁。]
山下は、橋本静子の真意にかかわって、「筆者には理解し難いものがある」といいます。極めて情緒的な表現です。「理解し難い」のであれば、関連する一次資料に当たり、勉強すればいいことです。勉強しても「理解し難い」のであれば、なぜ「理解し難い」のか、理由なり根拠なりを示したうえでその論点を整理すべきなのではないでしょうか。
さらに山下は、以下のようにも書いています。
高群の死後のこととはいえ、森の家での若い女性との奇妙な同居生活、しかもそれに協力した橋本の妹静子(高群にとっては小姑)という事実に対し、多くの女性はいい感情をもたないのではないか。 [山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、53頁。]
なぜ山下は、憲三と道子の同居生活を、繰り返し「奇妙な」という言葉で形容するのでしょうか。全くの赤の他人が、過去に実在した人物の、その行動に遠慮会釈なく割り込み、そこに見た光景を、全能の神でもない一個人の、おそらくは貧しくて偏狭な善悪や美醜にかかわる価値に照らして、「奇妙な同居生活」などと言い放つ資格が、どこにあるというのでしょうか。一次資料に当たって言説と行動とをつぶさに調べてみる限り、私の目には、「奇妙な同居生活」とは映りません。むしろ「神聖なる同居生活」にさえ思えてきます。他方、山下が「奇妙な同居生活」という言葉で表現する、その同居生活の立会人となった静子の気持ちも、十全に理解できるといえば不遜になるかもしれませんが、それでも私には、少なからず、しかるべき共感の情が湧いてきます。その側面にかかわっても、私は、自身の著作集22『残思余考――わがデザイン史論(上)』の第四部「『三つの巴』私論集」のなかの第六節「橋本憲三と石牟礼道子に関する岡田孝子と山下悦子の論説について」において、自分の考えを明示しました。
以上、八つの視点から、山下悦子の「小伝 高群逸枝」のもつ問題点を検証しました。ここにこうして、山下の攻撃性と無関心性とが、鮮明に現像されたことになります。それを要約して箇条書きにすれば、おおよそ次の六点になります。
(1)橋本憲三の役割を高く評価し、そこに「新しい男」としての生き方を見る、鹿野政直について、山下悦子は、いっさいの言及を避け、完全に無視の姿勢をとる。 (2)鹿野政直の妻で『高群逸枝』の共著者であり、また、『わが高群逸枝』において橋本憲三を共同執筆者とする堀場清子が橋本憲三の言辞への感嘆の感想を発した一場面を捉えて、山下悦子は、理不尽で常軌を逸した罵声を浴びせる。 (3)このことに関連して、山下悦子は、「まず結論から述べると、この著書は高群逸枝が書いた本であり、橋本が書いたということにはならない。したがって『共著』とよぶことはできないと私は考える。すべての高群研究者に検証していただきたい問題である」と述べる。なぜ、自分の手で検証せずして、「すべての高群研究者に検証」を丸投げするのか。明らかにこれは、本来伝記作家が果たさなければならない役割と責務とを放棄した態度といわざるを得ない。 (4)橋本憲三を自身の「最後の人」とみなす石牟礼道子について、いっさいの証拠も根拠も示すことなく、山下悦子は、「伸びやかな性を発散できるタイプの女性」と書き、著しくその人の人格と名誉を傷つける。 (5)橋本憲三と石牟礼道子の「森の家」での共同生活の立会人となった橋本静子に対して、山下悦子は、その行動は「多くの女性はいい感情をもたないのではないか」と書き、あたかも自身が女性の代表者のごとき高みに立って、いかなる論証も実証も開陳することなく、その人に向けて敵対的で差別的な態度をあらわにする。
これが、山下の「小伝 高群逸枝」にみられる攻撃性と無関心性とにかかわる全体的な構造です。一言でいえば、山下には、すべてに先立って、かつまた、何ものにもまして、憲三に対する計り知れない侮蔑ないしは嫌悪の感情が無条件に潜在しているということです。この構造を支配しているのは、いかなる性質の感情であるのか、その特定とその由来については、心理学者か精神分析学者の観察と判断にゆだねなければなりませんが、蒙昧的に憲三へ向けられた嫌悪の情感あるいは侮蔑の信念が、二次的に、憲三を取り巻く、鹿野政直、堀場清子、石牟礼道子、橋本静子へと憑依し、無視なり、あるいは蔑視なりとなって、襲いかかっていることは事実として、決して見逃すことはできません。まさしく、「小伝 高群逸枝」は、さながら「橋本憲三憎悪小伝」と化しており、そこに私は、山下悦子の「小伝 高群逸枝」の本質を見るのです。
最後に、「四.山下悦子『小伝 高群逸枝』の他者攻撃性の構造」のまとめとして、あえて以下に、その対極にある、石牟礼道子が描く橋本憲三像を紹介しておきます。
彼女は神だ、とおっしゃる橋本憲三という人の生涯。(憲三氏を)いまだ書かれざる男性論としてみる場合、この人の懺悔僧あるいは布教者、いや彼女への帰依ぶりは徹底している。逸枝の下僕(しもべ)という言葉がいちばんぴったりする。いまだ描かれざる宗教画が私の中に組立てられる。彼女は神だ、といい、まさに神を仰ぎみている男性の顔は苦悶の極でもあり、神に近い。 [石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、317頁。]
この言説が、虚偽であるとは、私にはどうしても思えません。また、道子が虚偽を語っていることを立証するにふさわしいいかなる資料(エヴィデンス)も存在しません。みぢかにいて感得しえたこの道子の洞察に富んだ憲三描写こそが、まさしく全き真実を放射していると、私は確信します。
高群逸枝伝記の現在について、私は、以下のように概観します。
山下悦子の「小伝 高群逸枝」は、藤原書店より二〇二二(令和四)年に刊行された『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)に所収されている伝記です。極めて最近の逸枝伝記といえます。ところが、本稿で見てきましたように、その内容は、さながら「橋本憲三憎悪小伝」となっているのです。これが逸枝伝記の今日における実態であるとするならば、あまりにも寒々しい状況にあるといわざるを得ません。なぜこうも、学術世界から程遠い所に、逸枝伝記は生息しているのでしょうか。
そのことに関連して一言付け加えます。『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』の「序」に相当する「今、なぜ高群逸枝か?」は、「小伝 高群逸枝」の著者と同一人物によって書かれています。「今、なぜ高群逸枝か?」の答えが、「小伝 高群逸枝」であるとするならば、もはや言葉を失うほかありません。
今年(二〇二五年)で、逸枝が亡くなって六一年に、憲三が亡くなって四九年になります。誰もが認めるように、逸枝は、この国における女性史学の創業者であり、憲三は、それを支えた夫です。これほどの時間が経過しているにもかかわらず、いまなお、なぜ、一次資料(エヴィデンス)に基づいた完全なるフル・スケールの伝記が、世に出ないのでしょうか。これは、単なる逸枝研究の遅れを示しているだけではなく、この国の女性史研究の沈滞、いやむしろ、もう一歩踏み込んでいうならば、もはやその死を示すものではなかろうかとも、私は愚考します。
『高群逸枝の生涯 年譜と著作』の「あとがき」で、堀場清子はこう書いていますので、紹介します。
それにしても、逸枝生前の著作の多さは、ある程度まで予測できるものだった。予測を超えていたものは、彼女の死後の、彼女の学説や思想、彼女の生き方へのアプローチの多さである。それらは高群逸枝という一人の女性が、いかに問題性を孕んだ存在であったか、死後四五年になろうという今日なお、人々に投げかけてやまない、卓越した個性であるかを証している。 [堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、250頁。]
ここで問われなければならないのは、「彼女の死後の、彼女の学説や思想、彼女の生き方へのアプローチの多さである」という実態が、なぜ、存在するのかということではないでしょうか。私は、逸枝研究のすべてを承知しているわけではありませんが、逸枝伝記に限っても、「アプローチの多さ」には驚くものがあります。私見によれば、それは、小説家や女性史研究家を含む伝記作家それぞれが、思い思いに、一次資料に基づくことなく、いわば恣意的に書いてきた結果、そのような「多さ」、換言すれば「雑多性」が露出しているのです。したがいまして、この現象は、堀場のいう、「高群逸枝という一人の女性が、いかに問題性を孕んだ存在であったか」を証明するものではなく、伝記作家が、伝記とはそもそも何なのか、伝記とはどのような方法論によって書かれるものなのかということにかかわっての学問的自覚を身につけていないことに起因して発生している「雑多性」にすぎないのです。つまり、現状は、本来歓迎されるべき学問的「アプローチの多さ」はどこにも存在せず、単なる独りよがりの読み物や作り話が次から次へと跋扈しているように、私の目には映っているのです。
それでは以下に、これまでに書かれた逸枝伝記のなかから、とりあえず目につくものを六点挙げてみます。
・瀬戸内晴美「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」『文芸展望』筑摩書房、第2号(1973年7月号)-第8号(1975年1月号)。
・戸田房子「献身」『文学界』文藝春秋、1974年7月号。
・もろさわようこ「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)集英社、1980年。
・西川祐子『森の家の巫女 高群逸枝』新潮社、1982年。
・栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年。
・山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年。
すでに、自身の著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』の「緒言」において詳述していますが、改めて、上に挙げた逸枝伝記に共通する特徴を、以下に五点に要約し、箇条書きにしてみます。
(1)いずれの伝記も、先行する伝記についての分析が不在で、そのため批判や問題点の指摘もなければ、論旨の承認や継承にかかわる検討も行なわれていない。 (2)いずれの伝記も、何を、いかなる方法で明らかにするのか、その目的と方法がいっさい明示されていない。 (3)いずれの伝記も、本文にあって、一次資料(エヴィデンス)に基づく実証ないしは論証が行なわれた形跡はなく、したがって、本来巻末にまとめられるべき、引用出典の正確なデータを示す注も存在せず、その結果、書かれている内容にかかわってその真偽を追検証する機会が完全に閉ざされている。 (4)一次資料(エヴィデンス)が引用されることなく、つまりは、動かしがたい根拠や証拠が示されることなく、本文が叙述されているということは、結果として、真実から遊離した思い込みや思い付き、あるいは、偏見や予断が入り込む余地を残すことになり、そのため、全体として信頼性に劣る記述になっている。 (5)私の知る限りでは、上記四点について、その是正を求める指摘がなされた形跡を見出すことはできない。
ここからわかることは、逸枝伝記は、時間軸に沿って、一つひとつの伝記のもつ学術的成果が積み上げられて、より精緻なものになってゆくことを目指して存在しているのではなく、それぞれがそれぞれの思いをその場限りに発散する野放しの傾向のなかにあって存在しているということです。これが、これまでの逸枝伝記にみられる大きな特徴ということになります。果たして、このような現在のあり様でいいのでしょうか。私は、強い疑問を感じます。
それでは、今後の逸枝伝記は、どうあるべきなのでしょうか。私は、伝記記述の刷新にかかわっては、以下に述べるふたつの視点が、少なくとも必要ではないかと考えます。
伝記記述の再構築にかかわる一番目の視点について――。
これは、上で挙げた六点の伝記を含む、すべての過去の逸枝伝記についての検証の必要性を強調するものです。
検証の視点は、おおかたこうなります。ひとつに、記述の対象としている人物、およびその周辺の人物に対して不当な人権侵害や名誉棄損はないか、いまひとつに、記述の根拠は、すべて一次資料(エヴィデンス)に基づいているか、もうひとつに、今後の追検証にふわしい引用出典のデータ(たとえば、著者名、著書名、出版社名、出版年月、引用頁)をまとめた注が、巻末に設けられているか、最低限この三点は、必須の検証項目になるのではないかと思われます。
こうした既往伝記の検証を通して、本来あるべき伝記執筆の条件が整備され、今後の逸枝伝記の出発点になるものと考えます。そのための論議のたたき台に供するため、伝記とは何か、伝記作家とはどうあるべきかという問いに対する私見を、自戒を込めて短くまとめ、以下に示します。
女性史研究家のみならず、社会文化史の研究者であろうと、はたまた、他領域の学者であろうと、自分の専門分野に関連する過去の人物がいかように生きたのか、その人生の実際を描こうとする者は、すべてみな伝記作家ということになり、同一の学問的土壌のうえに立つことになります。たとえば、女性史学者は女性の伝記を書き、美術史学者は美術家の伝記を書き、経営史学者は、経営者の伝記を書くことになります。そこには、社会や文化、経済や政治といったその時代固有の背景が存在します。そしてまた、配偶者やパートナー、兄弟姉妹や友人といったみぢかな群像も存在します。主人公は、そうしたことから離れた真空地帯に生きているわけではありません。描くうえでは、考えられる幾つもの文脈が存在するのです。そうしたことも十分に踏まえて、では、伝記を書くに当たっての、すべての伝記作家に共通する要諦とは何でしょうか。私は次のように考えます。
伝記作家というものは、思い込みや決めつけといった、恣意や予断をいっさい排し、すべからく一次資料にある根拠(エヴィデンス)に基づき、記述の対象が女性であれ男性であれ、決してそれにとらわれず、同じ人権を有するものとしてゆめゆめ不当にも差別することなく、等しく両者に敬意のまなざしを向け、謙虚かつ真摯なる態度のなかにあって、小説の主人公とは違い、かつて実在した人物であればなおさらのこと、慎重のうえにも慎重にその複雑で微細な人生模様を、いたずらに暴力的で刺激的な表現で粉飾しないことはいうまでもなく、異性嫌悪的な価値観の安易なる借用で糊塗することも捨て、加えて、狭くて貧しい自己の印象や経験の披歴なり、あるいは、同じく自己のアリバイや存在意義の操作なりに利用することもまた厳に慎み、あくまでも真実に肉薄すべく、丁寧かつ静謐を旨として描き出す必要があるのではないかということです。
伝記記述の再構築にかかわる二番目の視点について――。
これは、その時代その時代の学問的要請に対して、伝記はどう応じるかという問題に集約できます。以下、少し長くなりますが、それについての私見を書き記します。
私の専門の主要なパートがウィリアム・モリスの思想と実践についての研究であるため、伝記とは何かという問いに対して、私がその答えを用意できるのは、どうしてもその研究分野の動向からということになります。
伝記を書くうえでのアプローチないしは文脈は、いまや多元的なものになっています。ここでは、そのひとつの例として、フェミニズム運動が学問の世界に影響を及ぼしはじめた、およそ一九七〇年代のころの英国の事例に焦点をあてて考えてみたいと思います。
フェミニズム運動の動きに呼応して世に出た最初のモリス伝記が、下記のものです。ジェイン・モリス(Jane Morris)は、ウィリアム・モリスの妻で、メイ・モリス(May Morris)は、モリス夫妻の娘です。
Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986. [ジャン・マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年。]
以下は、その本の「序文」の書き出しです。少し長くなりますが、フェミニスト・アプローチの本質部分が表出された箇所でもありますので、ここに引用しておきたいと思います。
この本は不公平に対する義憤の念から執筆されたものである。本屋や図書館の書棚に行けば、この物語に登場する三人の主要な男性であるウィリアム・モリス、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョージ・バーナード・ショーの著作や彼らについての研究書を多数見ることができる。彼らは極端に注目されすぎていると考える人もいるかもしれないが、彼らが注目されるのはそれなりにわかる。彼らが生きた時代の文化史を考えれば、これらの男性は重要で著名な人物であるし、彼らはそれぞれ研究に値する莫大な芸術上の仕事をしているのである。彼らの絵画、デザイン、演劇はいまでも展示され、複製され、上演されているし、学術的な批評や論文、著作やテレビ番組の主題ともなっている。また彼らの伝記はいまなお執筆され、出版されている。 [Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986, p. xi.]
続けてマーシュは、モリス、ロセッティ、ショーの周辺に存在する女性たちは、単なる彼ら男性たちの「端役」であり、決して重きが置かれてこなかった経緯を、こう指摘します。
こうしたなか、彼らの人生にかかわってきた女性たちは完全に忘れ去られてしまっているというわけではないにしても、感情面でのあるいは家庭のうえでの「端役」として、副次的で隷属的な役割を与えられるに止まっている。しかしそれももっともなことであると論じることもできるだろう。というのも、後世の人間がこの男性たちの人生を興味深く思うのも、また、当然にも私たちが絶え間ない注目を注ぐのも、それは彼らの芸術上の業績に対してであり、決して彼らの個人的な人間関係に対してではないからである。それに比べると、女性たちの役割は副次的なものであった(・・・)。つまり、ときには男性たちを照らす光明ではあったとしても、基本的にはあまり重要な存在ではなかったのである。モリス、ロセッティ、ショーがいなかったならば、誰もジェイン・モリスやメイ・モリスの名前など耳にもしなかったであろう。 [Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986, p. xi.]
こうした経緯に対して、マーシュは、フェミニストたちの考えを代弁して、次のように、言葉をつなぐのでした。
そうはいってもしかし……。フェミニストたちは歴史書のすべてが男性についての歴史であることを飽きることなく指摘している。人間族の残りの半分がほとんど無視されてきた。そしてまさに、いま挙げた論拠こそ、無視の本質的な部分をなしているのである。 [Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986, p. xi.]
以上が、Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938 を書くに当たっての、著者のジャン・マーシュの見解です。実に明快です。
他方、私が、Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938 を、友人とともに翻訳出版しようとしていたとき、来日したマーシュが数日拙宅に滞在したことがありました。そのときマーシュは、原著執筆時の意向について、私の書斎のパソコンに向かい、次のような文を書きました。
第一のねらいは、「公的」生活に対置されるところの「私的」生活の問題を真剣に取り上げ、公的あるいは専門的業績について論評するのと同じくらいに、個人の私的な振る舞いについても論議することである。換言するならば、過去の人びとが家庭にあって、どのように家人や使用人などに対して振る舞ったかということである。私の考えでは、こうしたことは公的生活と同様に調査し探求する価値があるように思われる。学問の世界では、この種の知識は社会史のなかの逸話として登場するが、しかしそれでも、そのほとんどが個人を基調としたものではない。伝記の場合、個人こそが注目の焦点をなすものであり、私にとっては、そうした個人の生活が大きな関心となっている。…… 第二のねらいは、ストーリーテリングつまり伝記の「読みやすさ」に関するものである。……伝記というものは絶対的に厳密に確認可能な事実に肉薄しなければならないものである以上、自分で勝手に物語をつくり変えることはできない。したがって、おもしろく読める本にするためには、筆力に頼らなければならない。つまり物語るための構成や登場人物の性格づけや語りの調子である。私の考えでは、あまりにも多くの伝記が、読者を退屈させるだけの、生気のない単なる年代記となっているのである。…… したがって私が興味をもっているのは、第一にさまざまな女性の生活を発掘することであり、第二に政治的社会的文脈であり、第三にそして重要な点であるが、筆力の質なのである。 [ジャン・マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年、436-437頁。]
この文は、伝記とは何かについての、マーシュの見事な見解となっています。参考になると思われますので、この言説に基づいて、少し考えを巡らしてみます。
一点目として、「『公的』生活に対置されるところの『私的』生活の問題」を論じることの重要性が指摘されている点です。伝記作家が、たとえば夫は妻に対して、また、妻は夫に対してどう接したか、といったような個人生活の記述に関心をもつようになったのも、フェミニズム運動の大いなる産物ということになります。つまり、一般的にいって公的な生活をもたない女性を発掘するうえで、女性の私的生活に目を向け、そこに価値を見出すことは、歴史家にとって、そしてまた伝記作家にとって、必然的な到達点だったのでした。
二点目として、「社会史のなかの逸話」から離れて、社会史の本格的な一分科学としての伝記へと至る見通しが示唆されている点です。伝記が歴史学の一翼を担うものとして自覚されることにより、一点目の指摘もここに収斂することになります。
三点目として、「伝記というものは絶対的に厳密に確認可能な事実に肉薄しなければならない」ことが明示されている点です。決して伝記は、虚偽を書いてはいけません。裏を返せば、予断や偏見は、厳に慎まなければならないのです。そのためには、一次資料(エヴィデンス)の発掘と通覧、執筆に際してのその引用ないしは援用、そして、追検証のためのそれにかかわる注の整備は、伝記執筆に欠かせない絶対的要件となります。
四点目として、語りの調子と筆力が重要視されている点です。英国では、当然ながら伝記は歴史書ではありますが、同時に「伝記文学」という固有の領域にあって親しまれている場合が多く、ここに、単なる年代記とも小説とも異なる、実際に存在した人間の活動のあり様が、事実に即して、歴史学的関心の文脈に沿いながら文学的記述の手法を使って描き出されなければならない必要性が生まれ、これをもって、伝記存在の固有の特性とならしめているのです。
五点目として、「さまざまな女性の生活を発掘すること」の至当性が強調されている点です。これが、フェミニスト・アプローチの本質部分となります。男性に従属し、陰の生活者であり家庭内労働者であった女性を救い出し、男性同様に、歴史のなかに再配置することの重要性は、おおかたの人たちが認めるところの、至当の考えといっていいでしょう。
しかしながら翻って、もし仮に、著名な女性の陰にあって、「端役」として副次的で隷属的な役割しか与えられてこなかった男性が存在するとしたら、どうでしょうか。事例は少ないかもしれませんが、同じように、「不公平に対する義憤の念」が引き起こされる種子が、ここにもあるのです。この場合、「さまざまな男性(・・)の生活を発掘すること」もまた、歴史家としての伝記作家に求められて当然の要件ということになります。とりあえず、女性史学の創始者である高群逸枝の夫の橋本憲三の存在が、それに該当します。
さらに、私の研究の範囲に限って付け加えるならば、英国人女性の伝記作家と日本人女性の伝記作家には、その執筆姿勢、あるいは学問的認識に関連して大きな開きが存するという事実です。といいますのも、ウィリアム・モリスにかかわる、英国人女性の手になる伝記を読むと、しっかりと一次資料に基づき、したがって実証的に、モリスの妻のジェイン・モリスの存在を発掘(・・)することに関心が向けられている現状があるのに反して、富本一枝や高群逸枝にかかわる、日本人女性の手になる伝記を読むと、いっさい一次資料に基づくことなく、したがって真実を顧みることなく蒙昧的に、一枝の夫の富本憲吉の存在を、他方逸枝の夫の橋本憲三の存在を、女性の自立にとってそれに抗った存在として、一方的に侮蔑(・・)することに関心が向けられている現状があるからです。繰り返すならば、フェミニスト・アプローチにかかわって、明らかに、英国の女性歴史家が、事実に基づき「女性発掘」を行なおうとしているのに対して、日本の女性歴史家は、事実を無視して「男性侮蔑」に走っているのです。なぜ、そのようなことが起きるのでしょうか。女性史という学問から遠く離れて生きるデザイン史家である私には、また、心理学者でも精神分析学者でもない私には、その理由はかいもく見当がつきません。しかしながらこのことは、日本における女性史研究が、学問としてもはや部分的に壊死している格好の事例として理解することを可能にしているのかもしれません。これについては、拙著の、著作集9『デザイン史学再構築の現場』に所収の第六部「伝記書法を問う――ウィリアム・モリス、富本一枝、高群逸枝を事例として」において、著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』に所収の第三編「伝記書法私論――批判と偏見を越えて」において、同じく著作集22『残思余考――わがデザイン史論(上)』に所収の第四部「『三つの巴』私論集」において、詳しく論じています。これらはすべて、本書「伝記書法論集成――人権と名誉を守る闘いの一環として」に所収しています。
六点目として、「政治的社会的文脈」に沿って描かれることの重要性が指摘されている点です。これは近年の、社会史の学問的動向に根拠を置く指摘です。のちに『社会史を再考する』から引用する、「社会科学から導き出された概念を歴史的に適用すること」という考えに通底する部分ではないかと思われます。
以上、ジャン・マーシュの伝記にかかわる見解を紹介しながら、検討してきました。さてそれでは、モリス伝記にあって、フェミニスト・アプローチに続いて、いかなる学問的要請が次になされたか、それについて見てみたいと思います。以下は、ジャン・マーシュと同じ、英国人女性の伝記作家であるフィオナ・マッカーシーの手になる作品です。
Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994.
この本の「序文」のなかで、このように語る著者の一節がありますので、下に引用します。
モリスに関する最近の書物は、専門家としての立場からモリスについて見解を述べる傾向にありました。私たちはすでに、マルクス主義からのモリス像、ユング心理学からのモリス像、フロイト派精神分析からのモリス像をもっています。そしていまや、モリスはグリーン主義者から賞讃されています。理論が積み重ねられてゆくことによって、モリスの「全体的な」パーソナリティーは見えにくくなっています。私は、このプロセスを逆転させて、彼を解き放し、そのうえで彼を記述したいと思いますし、もし可能であれば、モリスの最初の伝記作家であるJ・W・マッケイルが一八九九年に見事な二巻本として出版した『ウィリアム・モリスの生涯』以来、誰も試みていない方法でもってモリス神秘の一端を見定めてみたいと希望しています。 [Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, p. viii.]
上の引用文で重要なのは、「モリスの『全体的な』パーソナリティーは見えにくくなっています」ということが指摘されている点です。この「全体的な」事象への着眼は、明らかに同時代の社会史が要請した視点でした。次の引用は、一九九三年に刊行された『社会史を再考する』のなかからの一節です。
イギリスの社会史研究は、およそこの四半世紀のあいだに歴史学のひとつの大きな分野として確立してきたものである。……イギリスの歴史学で用いられる場合「社会史」という用語は、異なるも関係しあう次の三つのアプローチを包含している。第一は、人びとの歴史。第二は、社会科学から導き出された概念を歴史的に適用することのなかに見出される、私が「社会=歴史のパラダイム」と呼ぶところのもの。そして第三が、「全体の歴史」ないしは「社会の歴史」と呼ばれている、全体化もしくは統合化の歴史への志向。 [Adrian Wilson ed., Rethinking Social History: English Society 1570-1920 and Its Interpretation, Manchester University Press, Manchester and New York, 1993, p. 1 and p. 7.]
ここに、「全体化もしくは統合化の歴史」が主張されているのです。さらにまた、この引用文の重要な点は、「人びとの歴史」が指摘されている点です。これは、男の歴史だけではなく女の歴史があること、著名人の歴史だけではなく無名人の歴史があること、権力者の歴史だけではなく被抑圧者の歴史があること、多数者の歴史だけではなく少数者の歴史があること、自分の歴史だけではなく他者の歴史があることもまた含意します。
では、「全体化もしくは統合化の歴史」を伝記に当てはめると、どうなるでしょうか。それは、私見によれば、出生、家庭環境、教育、勉学、恋愛、結婚、性生活、家事、家計管理、妊娠、出産、育児、イデオロギー、政治参加、仕事、労働、友人、趣味、介護、死、葬送などの、普通の人びとにとっての生涯にわたる体験の項目が、そのときの社会、文化、政治、経済といった諸々の文脈に沿って、そしてまた、「社会科学から導き出された概念を歴史的に適用すること」によって、過不足なく、全体的に統合されて描き出されることの必要性ではないかと承知します。そして、さらに私見を加えるならば、そうした歴史は、もはや、単なるひとりの個人の歴史、つまりは、個別の女性の歴史ないしは男性の歴史から離れ、最小の集団単位の全体的諸関係を基礎に、統合された生涯が描かれることを意味し、いうなれば、ひとつの複合組織に焦点をあてた、男女史、夫婦史、あるいは家族史として発展してゆくものと考えられます。それについては、高群逸枝も、さらに同じく石牟礼道子も指摘していますので、ここに紹介しておきます。
ここで想起していいのは、逸枝の『戀愛創生』のなかの次の語句ではないかと思われます。
男性が男性だけではなりたたないやうに、女性も女性だけではなりたたない。二つのちがつた個性があつて完全になる。 [高群逸枝『戀愛創生』萬生閣、1926年、271頁。]
上の言説を、歴史ないしは伝記の観点に置き換えるならば、歴史というものは、男性の歴史だけでも、女性の歴史だけでも、そのままでは不完全ということになります。それでは、伝記に求められなければならない対象とは、一体どのようなものになるでしょうか。それは、すでに上述したとおり、男女や夫婦、あるいは家族のような、歴史を構成する「最小の集団単位」ということになります。では、具体的に逸枝伝記で考えてみますと、どうなるでしょうか。それは、逸枝単独の個人伝記というよりは、むしろ、一体的夫婦を希求した逸枝と憲三、逸枝と憲三に後半生を誓った道子との、三人の連続する生涯を扱う伝記となるのが至当ではないかと、私は愚考するのです。
他方、道子も、こう書いています。これは、逸枝について道子が、憲三本人に語った発話内容です。
彼女ひとりの像では彼女自身の像が完結いたしません。どんなに偉大であろうと。これは彼女の性をいうのですが。こんなにも女らしい方ですから。彼女ひとりをとり出そうとしますと、彼女は片輪になって出てきます。それでは彼女がかあいそうで……。憲三という男性と結ばれている彼女でないと、彼女の、女性であることの意味が消え、彼女は充実しない、性をもたないヘンな女になると思いませんか。 [石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、58頁。]
おそらくこれは、執筆中の「最後の人」を念頭に置いた言葉でしょう。実際、道子の「最後の人」にあっては、おおかた「第一章 森の家」と「第二章 残像」が憲三についての、そして「第三章 霊の恋」と「第四章 鏡としての死」が逸枝についての、その伝記的側面が描き出された章となっているのです。
長くなりましたが、以上、「第六節 問題の終わりに(二)――高群逸枝伝記の今後を展望する」において、私は、この国における、とりわけ高群逸枝における、伝記記述の再構築にかかわって、ふたつの視点を重視する立場から、ひとつ目は、すべての過去の逸枝伝記に関しての検証の必要性について、ふたつ目は、伝記執筆における学問的要請の受容の蓋然性について、論じてきました。とりわけ後者については、英国にあっては、フェミニズムの運動なり、社会史の刷新なりがどのように伝記(英国人がいうところの「伝記文学」)の執筆に影響を及ぼしたか、前世紀から今世紀への転換期における様相の一端を振り返ってみました。
そうした状況を踏まえて、私がこれまでに実験的に書き表わしたものが、著作集14『外輪山春雷秋月』に所収の「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」と、著作集18『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』の二作です。ともに手慰みに書いた稚拙な文ですが、これをひとつの踏み台、ないしはたたき台にして、今後、逸枝研究、憲三研究、そして道子研究が、少しでも前に進むことを、私は願っています。それと同時に、私のこの願望が、最終的にどのような運命をたどるのか、残されたいのちのなかにあって、これから見守ってゆきたいと思います。
それではこれをもちまして、ここに、「伝記書法についてのメモ書き――直近の高群逸枝伝記を素材として」の三連作の最後となる、「第三章 堀場清子擁護論」を閉じることにします。ご高閲いただき、ありがとうございました。
(二〇二六年一月)