中山修一著作集

著作集30 余滴を集めて――伝記書法研究  伝記書法論集成――人権と名誉を守る闘いの一環として

第四部 伝記書法についてのメモ書き――直近の高群逸枝伝記を素材として

第一章 「曲従」を巡る山下悦子の言説についての批判的分析

第一節 問題の発端――山下悦子の「小伝 高群逸枝」

ここに私は、女性史研究家である山下悦子の「小伝 高群逸枝」を取り上げて、以下に論じます。なお、文中にあって付されている傍点は、すべて本稿執筆者(中山修一)によるものですので、前もってお断わりいたします。

それでは、山下の「小伝 高群逸枝」のなかから、高群逸枝の「曲従」に関する、次の一節を引用します。

 『日記』にはこの「曲従」という言葉がたくさんでてくる。「曲従」とは中国後漢の儒教書で女性に対する戒めの『女誡』七編のうちのひとつ。舅姑のいうことが非であっても自分を曲げてでも従うことを意味し、それを婦徳とした。この『女誡』は貝原益軒『女大学』等に影響を与えた。高群は生涯にわたって橋本と曲従の関係にあり、彼の暴言暴力を高群自身の欠点ゆえだと思い、悩み、苦悩するが、橋本への思慕はうすれることはなかった。単なるマゾヒストというわけでもなく、高群の深層に潜む「火の国の女」の部分が爆発すると別居、家出という形で大胆な行動に出るのが常だった。だが橋本の高群を取り戻そうとする情念に押し戻され、再出発の誓いを互いにするといった場面が幾度もあった。まさに「思慕」と「曲従」の関係である。『日記』を読み進めていくと、実際に橋本が高群に暴力をふるうことが多々あったことが見えてくる。

 「城内校での彼の私への虐待ぶりは、ちょっと想像にあまるものがあった」
 「Kはかんしゃく玉を破裂させて、ついに暴力にうったえたりした。Kの暴力は、私にとって生まれてはじめてといってよいほどのおどろきだった。(略)彼はこんな場合、みていられないほど青ざめ、おそろしい目つきとなり、手をぶるぶるとふるわせるのだ」

 女性の人権が語られ、ドメスティックバイオレンスやモラルハラスメント、セクシャルハラスメントが問題視される今の時代であれば、高群の『日記』に描かれた記述や、橋本が高群に対して行なった数々の行為や言動はかなり問題であるように思う。少なくとも女性の研究者を有形無形にささえ続けた男性という美談ではおさまらないであろう。
[山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、17頁。]

以上の山下の言説につきまして、これから三つの観点から批判的分析を試みたいと思います。

一点目――引用文献明示の不正確さ

山下は、引用文献の取り扱いにつきまして、このように記しています。

 この小伝ではできるだけ高群が書いたとされる文献を中心に高群の人生を赤裸々に把握し、まとめることを目的とした。高群の引用は、特に明記しないものは『火の国の女の日記』による。
[山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、11頁。]

しかしながら、『火の国の女の日記』をタイトルにもつ書籍は複数あるにもかかわらず、出版社、出版年、引用頁数を含む正確な引用書誌のデータが示されていません。これでは、後続研究者による追検証は不可能となります。一次資料に基づく実証を重んじる今日の学術的視点からすれば、これは看過できない粗暴な研究手法であり、その結果、実証の網の目が不在となるために、ここに、真実から乖離した恣意的な思い込みがやすやすと混入する土壌が形成されることになります。

二点目――論証の不完全さ

山下の書く、「高群は生涯にわたって橋本と曲従の関係にあり、彼の暴言暴力を高群自身の欠点ゆえだと思い、悩み、苦悩する」は、あまりにも断定的であり、同時に、思弁的にすぎるといわざるを得ません。なぜならば、若き日にみられたわずかな「曲従」の事例を取り上げて、それが全生涯に認められるかのように、ある種意図的に敷衍化しているからです。もし、どうしても、「高群は生涯にわたって橋本と曲従の関係に」あった・・・ことを主張したいのであれば、単なる過去の一例だけに頼るのではなく、「曲従」を例証する一次資料を「生涯にわたって・・・・・・・」すべて渉猟したうえで、それらに率直に語らせる必要があるものの、山下の主張には、こうした科学主義や実証主義に重きを置く、伝記執筆上の必須の手続きが完全に欠落しているのです。私の調べた限りでは、「生涯にわたって・・・・・・・」、逸枝の、夫への「曲従」を実証するにふさわしい一次資料は存在しません。

したがいまして、「高群は生涯にわたって橋本と曲従の関係にあり……」にみられるような、男性の横暴さを暴露するかのような記述を読んで共感し歓喜する、特定の立場に立つ読者も一部にいるかもしれませんが、しかしその一方で、『高群逸枝全集』(第一〇巻/火の国の女の日記)をすでに精読し、何事につけても真実がすべてであることを確信する読者には、「高群は生涯にわたって橋本と曲従の関係にあり……」の山下の言説は、単なる絵空事に映るだろうと思われますし、あるいは、別の一部の読者の目には、書き手が自覚しているかどうかは別にして、それは、悪意に満ちた作り話に映り、「男性嫌悪(ミサンドリー)」の典型的な一事例とみなされるかもしれません。

三点目――人権への無理解さ

さらに山下は、「高群の『日記』に描かれた記述や、橋本が高群に対して行なった数々の行為や言動はかなり問題であるように思う」と書いていますが、しかし山下は、逸枝の「記述」や憲三の「行為や言動」にかかわってその事例を明示するわけでもなく、それがなぜ「問題である」かを立証するうえで必要とされる根拠(エヴィデンス)を提示するわけでもありません。それにもかかわらず、一方的かつ確信的に、「少なくとも女性の研究者を有形無形にささえ続けた男性という美談ではおさまらないであろう」と、憲三を断罪します。「高群の『日記』に描かれた記述」とは、一体何を指すのでしょうか。「橋本が高群に対して行なった数々の行為や言動」とは、具体的にはどのような内容を指し示すのでしょうか。加えて、それらは「かなり問題であるように思う」というとき、その理由や根拠は、果たしていかなるものが想定されているのでしょうか。いっさい言及がなく、読者には何も伝わってきません。ここにもまた、証拠に基づく論証も実証もすべて棚上げされ、思い込みや決めつけだけが深く潜在しているように思量されます。「女性の人権が語られ、ドメスティックバイオレンスやモラルハラスメント、セクシャルハラスメントが問題視される今の時代」にあって、だからといって、真実に基づくこともなく、他方の「男性の人権」が無条件に無視されていいはずはありません。私は、「小伝 高群維逸枝」を書くに当たっての、独断と偏見を含むこの姿勢自体こそが、極めて問題的であると憂慮します。そして同時に、愛する自分の夫に、かくもいわれなき罪が浴びせられたその妻が、いかに苦しむのか、すでに黄泉の客になっているとはいえ、想像するに余りあるものがあります。

第二節 なぜ多弁を弄して真実を糊塗するのか

以上、山下の言説のもつ問題点を三つに分けて論じました。それではここに、決して「高群は生涯にわたって橋本と曲従の関係に」はなかった・・・・ことを示す、ひとつの信頼に足る証言を提供します。それは、高群逸枝を自身の妣として敬愛し、橋本憲三を自身の師として私淑する石牟礼道子の、以下に挙げる、イザイホーの祭儀を見たときの感想です。この言辞から判断しても、「高群は生涯にわたって橋本と曲従の関係に」あった・・・と書く、山下のそのような断定がいかに真実から乖離しているかが明らかになろうかと思います。

 深い感動の中にいて、「花さしアシび」の中の朱つけの儀式、素朴な木の臼に腰かけているナンチュと、その額にいましも朱をつけるようとしている根人の姿に、著者には高群逸枝とその夫憲三の姿が重なって視え、涙ぐまれてならなかった。
 逸枝がいう憲三のエゴイズムは、男性本来の理知のもとの姿をそのように云ってみたまでのことであったろう。その理知とは究極なんであろうか。久高島の祭儀に見るように、上古の男たちは、懐胎し、産むものにむきあったとき、自己とはことなる性の神秘さ奥深さに畏怖をもち、神だと把握した。そのような把握力のつよさに対して女たちもまた、男を神にして崇めずにはおれなかった。そのような互いの直感と認識力が現代でいう理知あるいは叡智ではあるまいか。
 憲三はその妻を、神と呼んではばからなかった。
[石牟礼道子「朱をつける人――森の家と橋本憲三――」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、99頁。]

城内尋常小学校での数箇月の新婚生活時代を念頭に置いて、「高群は一時期・・・橋本と曲従の関係にあった」というのであれば、それは資料が証明しますので、妥当な判断であるということになります。しかしながら、「高群は生涯にわたって・・・・・・・橋本と曲従の関係にあり……」という山下の言説は、すでに引用した道子の証言が明らかに突き崩すように、決して真実ではありません。逸枝と憲三の人生は、全き「生涯にわたって・・・・・・・」「曲従」関係が支配し、「彼の暴言暴力を高群自身の欠点ゆえだと思い、悩み、苦悩する」人生だったのか、それとも、若き日の「一時期・・・」に「曲従」の関係がみられたものの、その関係を越えて、互いの欠点を認め合い、相互に補いながら、愛の一体化へと進んでいった人生だったのか、前者と後者では人生の描き方に大きな差異が生じます。しかし、人の人生をいかように表現するにせよ、その描画手法として歴史家たる伝記作家に要請されることは、自分にとって都合のいい世界へ導くために身勝手にも多弁を弄して真実を糊塗するのではなく、いま残されている資料に謙虚に頭を垂れ、それに多くの真実を語らせることではないかと、私は考えます。

第三節 高群逸枝と橋本憲三の「誓い」

その意味で、蛇足になるかもしれませんが、あえてもうひとつ、晩年の貴重な証言を加えておきます。ふたりが会って四五周年になる一九六二(昭和三七)年の七夕前夜に、逸枝と憲三が誓い合った言葉です。亡くなる二年前の逸枝本人の文です。

 誓い
われらは貧しかったが
二人手をたずさえて
世の風波にたえ
運命の試れんにも克ち
ここまで歩いてきた
これから命が終わる日まで
またたぶん同様だろうことを誓う
そしてその日がきたら
最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない
すべてを土に帰そう
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、449頁。]

一方憲三は、この「誓い」について、こう書き記しています。

 彼女とKと、生涯の終わりには、いっしょに墓にはいるが、しばらくあとにのこされたものが不自然にあとをおったりしないようにかんがえ、彼女がまだ生きていたその手で書き、Kにも納得させた「誓い」の最後の結末はとうとうKがこれを果たさなければならないことになった。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、482頁。]

憲三が先に亡くなりでもしようものなら、おそらく逸枝は、「誓い」の一文だけを胸に抱き、住まいの「森の家」も執筆中の原稿もすべてを投げ捨てて、憲三のあとを追ったにちがいありません。もしそのようなことになっていれば、いま私たちが知る、『高群逸枝全集』(全一〇巻)も、水俣に建立されている墓廟も、季刊誌『高群逸枝雑誌』(全三二号)も、見ることはないでしょう。しかし、実際は逸枝の方が先でした。遺された憲三は、「誓い」のなかの最後の言葉である、「その日がきたら/最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない/すべてを土に帰そう」という文言どおりに、石造りの墓廟を建て、その裏側の面に、逸枝の手になる「誓い」の草稿文を刻みます。これについては、第一話の「『三つの巴』画像集」のなかの【図68】と【図90】を参照してください。他方、ここで取り上げて論じている山下悦子の「小伝 高群逸枝」においても、この墓廟の図版が、四七頁に掲載されています。しかし、キャプションは「詩碑『望郷子守唄の碑』」となっています。明らかにこれは間違いです。

さて、上に示した「誓い」と、それを刻んだ墓碑にかかわる、このわずかなひとつの事例からしても、山下が書くように、「高群は生涯にわたって橋本と曲従の関係に」あった・・・と、本当にいえるでしょうか。少なくとも私には、この「誓い」の文は、対等かつ平等の地平に立つ男女の文として読めます。決して、「曲従の関係に」あった・・・夫婦の文とは読めません。したがって私の目には、山下の言説は、死が訪れるまでともにこころとこころを重ね、愛し合ってきた、逸枝と憲三の双方の人格を無視し、両者の名誉を棄損し、したがって、ふたりが生きていれば決して許すことができないであろう、虚妄の暴言としか映りません。幾つもの一次資料が明らかに語っているように、はっきりいえることは、決して「高群は生涯にわたって橋本と曲従の関係に」はなかった・・・・ということです。

第四節 高群逸枝の「曲従」という被害者意識の実際

それでは、いつころから夫婦の関係にあって、「曲従」という被害者意識が逸枝から消えたのでしょうか。以下は、逸枝の言説です。

思えばKのエゴイズムも、私の曲従も、そのほとんどが必至的に行動されたもので、その主たる動機は両者の不離の愛-それは宿命ともいえる-にあることが考えられてよかろうと思う。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、192頁。]

「火の国の女の日記」のなかで逸枝がこの言説を披露しているのは、一度は単身で上京したものの、『日月の上に』と『放浪者の詩』を上梓したときに憲三が訪ねてくると、逸枝を連れて故郷にもどり、その地の八代にある弥次海岸でふたりが暮らしはじめる場面に入るときの箇所です。このときの「都落ち」について、逸枝は、こうも書いていますので、紹介します。

「いまがいちばん人気の立っている大事なときだから都落ちなどはしないほうがよいが…」
 とひきとめてくれたがKは強引に実行に移してしまった。
 そうなると私は例のように優柔不断となり、曲従するのだった。……この曲従癖は、感情革命をへても、やはりその場になると変わっていないことが実証されたのだった。まして、彼に会えば、曲従を通りこして一体化の理想が目をさまし、その理想の前には名誉も地位もあったものでなかった。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、191頁。]

このとき、逸枝にしてみれば、詩人としての「名誉も地位も」たとえ横に置いてでも、憲三との愛がすべてであったようです。したがって、逸枝から「曲従」の意識が消えるのは、「エゴイズム」も「曲従」も、その根底には宿命ともいえる「両者の不離の愛」が存在していることに気づいたこの時期か、あるいはそれよりのちの、さらに「両者の不離の愛」が強く認識されてゆく過程のなかにあってのことではなかろうかと推量されます。

その事例を以下に紹介します。

憲三の勧めによって逸枝は、無産婦人芸術連盟を結成すると、その機関誌である『婦人戦線』の主宰者にさせられていました。革命者になることが、逸枝の目指すところでした。ところが、憲三は熱が冷め、アナーキズム運動に対して消極的な態度を取るようになります。逸枝は、運動の会合に憲三を誘います。しかし、憲三の態度は、こうでした。

「ひとりで行きなさい」
 と突きはなした。
 こうなると彼が冷酷であることはかつて城内校で経験ずみだった。しかし城内校の場合は繊月城址とか球磨川探訪等の問題にすぎなかったが、こんどはそれとはちがい、私がひとりで私の目ざすコースをとることは、きょくたんにいえば彼と私とが、敵味方に分裂することだった。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、237頁。]

この文には、次の文が続きます。逸枝の「火の国の女の日記」において「曲従」の語句が使われる最後の用例が、おそらくこの引用文においてではないかと思われます。

 私は最初から集団を組織する確信も、ましてその集団の主宰者となる自信もなかったが、それらのことをむしろ強くすすめたのはKではなかったか。それだのにKが途中で外れて私をひとりにすることは無責任ではないか。これが他のことなら私はこれまでやってきたようにKに曲従するだろう。しかし、この場合はそうした私的問題ではない。すでに引き受けたときに私の態度は決定している。私はこの責任を生命にかけても堅持しなければならないというのが、私のいい分だった。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、237頁。]

ここで注目されてよいのは、「彼が冷酷であることはかつて城内校で経験ずみだった。しかし城内校の場合は繊月城址とか球磨川探訪等の問題にすぎなかった」といっていることです。そしてまた、「これが他のことなら私はこれまでやってきたようにKに曲従するだろう」ともいっています。このふたつの文言から類推できることは、逸枝の「曲従」は、ほぼ城内校での出来事に限定できるのではないかということです。

第五節 「不離の愛」の成就と「曲従」の消滅

かくして、逸枝と憲三は、敵と味方とに分裂する危機に直面します。逸枝は、「これが他のことなら私はこれまでやってきたようにKに曲従するだろう」といいます。しかし、このとき憲三は、かねてから内に秘めていた学者になる願望を満たすべく逸枝を説得します。

以下は、そのときの憲三の説得の弁です。

「…社会運動はロマンチシズムではいけないと思う。また、各人にはそれぞれ長所がある。その長所をもって貢献すべきだと思う。あなたの長所と使命とは、長い年月、あなたのなかに蓄積せられてきた女性史の体系化だ。生活は私が保証する」
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、241-242頁。]

この憲三の言葉を受け入れて、逸枝は、もはや「曲従」することなく、感謝の涙を流しながら、憲三の懐のなかに入ってゆきます。一方の憲三は、逸枝が仕事をするにふさわしい自宅兼研究所となる「森の家」を用意します。ここにこうして、女性史学者としての逸枝が誕生し、その「パトロン」となって憲三は、逸枝の仕事を支えることになるのでした。

逸枝は、こういいます。

 この物すごいエゴイストは興味のない事柄や人物には冷淡だが、決意したことにはさりげない誓いのうちにも、私を心のずいから信頼させるものを持っていた。私はいまは遠慮なくそれに依存しようと思った。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、242頁。]

加えて逸枝は、こうもいいます。

こうして、夫のつよい心からのすすめもあって、意を決し、ここに過去いっさいの生活をふりきって、おそろしい未知の世界にはいっていったのであった。
[高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、10頁。]

このように、少なくとも「森の家」で生活をはじめる一九三一(昭和六)年の七月ころまでには、逸枝の「曲従」意識は雲散霧消し、「両者の不離の愛」が確立していたものと思われます。以下に、そのことを例証する文を、さらにふたつ引用します。

逸枝の自叙伝的小説である『黒い女』(解放社、一九三〇年)のなかの「妻(第一作)」に、こうした文言が残されています。

 彼女は一分間も夫を離れては生きてゐられなかつた。けれどもそんなことを仮にも彼女がいふなら夫もわらふだらうし他人はなほ嘲るだらう。
[高群逸枝『黒い女』解放社、1930年、8頁。]

そしてまた、このころから逸枝は、自身に自主性ないしは主体性が欠如していることを自覚するようになったように思われます。逸枝は、このように自分を見つめます。

私は自分に自信がなく、ひとに対して依頼心と依存心があり、自分自身だけでは考えを 発展させることができないのをなんとしよう。ここに私の夫への奴隷根性があるのだろう。
[高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、46頁。]

逸枝が「一分間も夫を離れては生きてゐられなかつた」のは、いうまでもなく、夫に向かういかんともしがたい不動の愛の大きさのためであり、そしてまた同時に、自分の本質部分である、他者への「依頼心と依存心」、換言すれば、夫への「奴隷根性」の強さのためであったようです。そうした自主性なり主体性なりを欠いた、夫への過度の依存症への気づきが、「曲従」という、自覚された自己の欠点を駆逐したものと考えられます。

第六節 フェミニスト橋本憲三の誕生

以下に、そのプロセスにかかわっての一例を示します。憲三が石牟礼道子に語った、逸枝についての観察です。

乞食にもなれたし、おかみさんにも女王にも革命家にもなれた。……そばにいる人間がのぞめば何にでもあなたはなれました。最善を尽くしてなったでしょう。
[石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、146頁。]

実際、憲三が望めば、逸枝は詩人にも、アナーキストにも、国体主義者にも、そして最後には学者にも、「最善を尽くして」なりました。これは、「曲従」とは全く異なります。それは、相手をこころから喜ばせようとする、愛の発露であり、奉仕の精神であり、同時に、自己の本領を心底満足させる手段でもあったのです。このことは、以下の逸枝の言辞が証明します。

 私の人生はすべて受け身に終始したように思われる。-はじめは父に従い後には夫に従った。とくに、後者とは長い一体の関係だったので、私の本の出版、私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊、女性史への創業までが、彼の発意または勧告によるものだった。この意味では、彼が私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、354頁(隠しノンブル)。]

すでにこのとき、ふたりは「長い一体の関係だった」ようです。逸枝は、「彼が私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった」と書きます。だからこそ、それに気づいた憲三は、逸枝を最後まで裏切ることなく献身的に支え、全霊を尽くして守り抜いたのでした。それは逸枝が亡くなったのちも続き、『高群逸枝全集』の編集、「誓い」の言葉を刻んだ墓廟の建造、そして『高群逸枝雑誌』の刊行へとつながってゆきます。もし本当に、妻のこころを全く理解せず、「生涯にわたって・・・・・・・」日々「曲従」を強制し、一方的に妻を貶めていたのであれば、そうした非人間的な憲三のエゴイズムから、こうした妻への追慕や服喪や顕彰にかかわる夫としての清純なる思いが表に現われることはなかったのではないでしょうか。

さらに逸枝の言辞を引いておきます。

私はいわゆる受け身の労働者ではあったけど、また主動的な開拓者でもあり、この場合には、父と夫は、私への命令者でも、また、かいらい師でもありえず、その反対でさえあった。以上のような相互関係にあることが父、夫の希望であったともいえよう。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、354頁(隠しノンブル)。]

まさしくここに、前代までにはほとんど見ることがなかった、全く新しい夫婦の関係像が出現したのです。学者である妻と、それを支えるフェミニストの夫の誕生でした。

それを例証する文言を一九三七(昭和一二)年の逸枝の日記から引用して、以下に示します。

 憲三午後から白木屋古書店へ。……近頃の私は悪婦の標本ではないかと思う。家事に対する驚くべき怠まん。……
 うちのひとの指導、援助がなかったら、何が私にできよう。私に何の力があるかと思う。
[『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、250頁。]

逸枝が「森の家」の家において女性史研究に入るのが一九三一(昭和六)年ですので、この日記が書かれたのは、それから六年後ということになります。そこには、外出しては古書収集に当たり、家にあっては家事を担う憲三の姿がありました。逸枝は、はっきりと認めています。「うちのひとの指導、援助がなかったら、何が私にできよう。私に何の力があるかと思う」。「曲従」など、そのかけらも、もはやありません。それ以降ふたりの愛は、さらに一体化を深め、「その日がきたら/最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない/すべてを土に帰そう」という、「両者の不離の愛」の最終的完成形へと到達してゆくのでした。

第七節 城内校での新婚生活を再考する

さて、話は変わりますが、弥次海岸で家を借り、ふたりが生活するのは一九二一(大正一〇)年の六月から翌年の三月にかけてのことで、ふたりだけの生活は、このときが二度目となります。はじめてふたりだけで生活を送ったのは、その二年前の一九一九(大正八)年に、憲三が勤める城内尋常小学校の宿直室で過ごしたときの約四箇月の期間でした。このとき逸枝は、何と驚くべきことに、妹の栞を連れ立っての家出の途中にあって八歳年下の栞をひとり旅館に残したまま、単身憲三を訪ね、そのまま滞在してしまったのでした。おそらくこのときの新婚生活は、逸枝の思いに立てば、はじめてのふたりの暮らしにあって、「曲従」の連続だったにちがいありません。しかし、その一方で、逸枝は、井戸の水を汲み、薪を割り、炊事をしたり、風呂を沸かしたり、掃除をしたりすることは、ほとんどできなかったものと思われます。そうした現実世界の仕事から目をそらせ、他方で、気の赴くままに夢世界に遊び、憲三の内面秩序を破壊する逸枝の独断的で自己中心的な行動に、常に憲三はいらだっていたものと推量されます。それに耐えて必死に抵抗するがごとくにして、憲三の暴言と暴力は生まれ出たものと考えられます。逸枝も、そのことに気づくと、それなりに得心がゆきました。こう逸枝は、書きます。

 決心がついてみると、Kの毒舌や暴力も、私の欠点も、それらのすべてが、彼と私とのくいちがいからきたものばかりだったので、ただ私は知らないこととはいえ、Kのところに侵入し、さんざん彼を手こずらせ、ずうずうしくも大きな損害を彼に与えたことを心から詫びて、帰郷することにした。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、170頁。]

逸枝は、自身のよって立つ境地も、そして自尊心も、ずたずたに傷つけられてしまいました。暴言も暴力も決して容認されるべきものではありません。他方憲三は、自分が住む純正な心的世界に土足で踏み込まれては、繰り広げられる自由奔放な振る舞いに接し、忍耐の限界に達しました。かくしてもはや、この新婚生活の継続は不可能となりました。

約婚後のこのころの気持ちを逸枝は、このように総括しています。逸枝がいかに古い自分を捨てて自己変革をしてゆくのか、その過程の一端がよく現われていますので、少し長くなりますが、ここに引用します。

 私は従来の私を白紙にかえしてしまった。そしてこの「恋愛と結婚の苦悩」の時期を、私は思慕と曲従(曹大家『女誡』)とにうちのめされ、私の相手であるKは悪魔主義と毒舌に終始したのだった。
 それはまことに不思議な経験だった。男性の露骨なエゴイズムと、男性の臆面もなく叩きつけてくる卑俗さに、これほど新鮮な魅力を感じたことはかつて私にはなく、またこの段階ほど彼の嗜虐的な行動や若干の先輩ぶった放言によって、女としての私の古い貞操観や、低能、鈍感、分裂症状等の欠点が、川床のごろた石のように、谷間の死骸のように露出されたことはなかった。この醜態と自信喪失とから、私が立ち直ることは、容易なわざではなかった。それは苦悶と自己嫌悪とに充ちたものだった。……
 しかし、この過程で、われわれは自己を飛躍させ、豊かにし、つぎの純粋な「与えられた道」の時期に入ることになるのだ。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、127頁。]

実年齢は逸枝が三歳上でも、精神年齢にあっては憲三がはるかに勝っていたようです。憲三がもっている知識量と思考力が、純心無垢な「しらたま乙女」の逸枝をなぎ倒します。逸枝は、それに反論することもできず、黙って受け入れるしかないのです。こうして、いままで持ち合わせてきた心的状況が瓦解し、逸枝を「白紙にかえしてしまった」のでした。

憲三の悪魔主義とエゴイズムは、一面においては、逸枝にとって実に「新鮮な魅力」を感じさせるものでした。しかし、別の一面においては、女としての自身の内面を構成していた「古い貞操観や、低能、鈍感、分裂症状等の欠点」を一気に露呈させてしまったのです。逸枝の苦悶はここにありました。自己嫌悪にさえ陥ります。しかしこれが、逆に、飛躍のための跳躍台になったのでした。

城内校での生活は、逸枝に「感情革命」を迫り、詩人として、そして女性観において、古いものを捨てさせるという、実に多くの恩恵をもたらしたのでした。したがいまして、逸枝の「曲従」を語る場合には、一方的に、あるいは表層的に、憲三を責めるのではなく、証拠に基づき、こうした事実へも同等に目を向け、その相互存立の基盤の上に立って両者の思いの差異、あるいは逸枝がいうところの「くいちがい」を抽出する必要があるものと思料します。

第八節 問題の終わりに――伝記執筆の要諦についての私見

通常では考えられない、異質なメモ書きとなってしまいました。その異質さにいま少し目を閉じ、繰り返しになるかもしれませんが、さらにもう一言書き添えます。

山下悦子の「小伝 高群逸枝」のなかの一言説を取り上げて論じ終えたこのときに思うことは、伝記作家というものは、思い込みや決めつけといった、恣意や予断をいっさい排し、すべからく一次資料にある根拠(エヴィデンス)に基づき、記述の対象が女性であれ男性であれ、決してそれにとらわれず、同じ人権を有するものとしてゆめゆめ不当にも差別することなく、等しく両者に敬意のまなざしを向け、謙虚かつ真摯なる態度のなかにあって、小説の主人公とは違い、かつて実在した人物であればなおさらのこと、慎重のうえにも慎重にその複雑で微細な人生模様を、いたずらに暴力的で刺激的な表現で粉飾しないことはいうまでもなく、異性嫌悪的な価値観の安易なる借用で糊塗することも捨て、加えて、狭くて貧しい自己の印象や経験の披歴なり、あるいは、同じく自己のアリバイや存在意義の操作なりに利用することもまた厳に慎み、あくまでも真実に肉薄すべく、丁寧かつ静謐を旨として描き出す必要があるのではないかということです。自戒を込めて、忘れないうちに、最後にここに書き記しました。

(二〇二五年一〇月)