中山修一著作集

著作集30 余滴を集めて――伝記書法研究  伝記書法論集成――人権と名誉を守る闘いの一環として

第四部 伝記書法についてのメモ書き――直近の高群逸枝伝記を素材として

第二章 鹿野政直が示した「新しい男」論に対する無視の構造

第一節 問題の発端――実在する「新しい男」

一九七六(昭和五一)年五月に憲三が亡くなると、早稲田大学教授の鹿野政直は、追悼文「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」を『朝日新聞』に寄稿し、そのなかに「新しい男」の文字が現われます。以下にその文の一部を引用します。

 わたくしは橋本氏に会って、氏がじつに編集者的な感覚に富んでいるのを発見したが、有能であったにちがいないその仕事をすてて、妻の仕事のささえ手にまわった。家事を一切ひきうけたばかりでなく、資料さがしにでかけ、生活設計をし、研究の方向に助言をあたえ、妻のかいたものの最初の読者となり批判者となった。さらに、おしよせる世間のまえに、一人でたちはだかった。彼女の作品には、今日ふつうに思われているよりはるかにふかく、その夫がかかわりあっている。橋本氏の編集者的な才能はその妻に向かって集中し、彼女のプロデューサーになった、というのがわたくしの観測である。
[鹿野政直「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」『朝日新聞』、1976年6月7日、夕刊5面。]

そして末尾を、鹿野は、以下の文で締めくくります。

 こういう生涯があったということに、やはりわたくしは、大正期のデモクラシーの機運の一端をみとめずにはいられない。そうして氏は、日本女性史に少なからず貢献をなしとげたのだった。と同時に、もし日本男性史・・・というものが書かれるとしたら、橋本氏は、既成の男性像を身をもって否定した人間として(否定のかたちは、必ずしもそれが唯一ではないにせよ)、いわば「新しい女」にたいする「新しい男」として、位置づけられるのが至当ではなかろうかと、わたくしは、氏をいたむ念とともに夢想する。
[鹿野政直「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」『朝日新聞』、1976年6月7日、夕刊5面。]

それから四六年が経過した二〇二二(令和四)年に、藤原書店から『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)が公刊されました。この論集には、山下悦子の「小伝 高群逸枝」が所収されており、そのなかで山下は、憲三について、こう断じていました。

 女性の人権が語られ、ドメスティックバイオレンスやモラルハラスメント、セクシャルハラスメントが問題視される今の時代であれば、高群の『日記』に描かれた記述や、橋本が高群に対して行なった数々の行為や言動はかなり問題であるように思う。少なくとも女性の研究者を有形無形にささえ続けた男性という美談ではおさまらないであろう。
[山下悦子「小伝 高群逸枝」『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』(別冊『環』26)、藤原書店、2022年、17頁。]

比較すればわかるように、この文言と、先に引用した鹿野の文言とでは雲泥の開きがあります。そもそも論になりますが、いうまでもなく、鹿野の言説は、山下の「小伝 高群逸枝」にとっては決して無視することができない先行研究に相当します。しかしながら、「小伝 高群逸枝」は、鹿野の言説にいっさい言及することなく、避けてしまったのでした。実に不可解です。もし、先行する鹿野の言辞の存在に気づいていなかったのであれば、単なる勉強不足ですますこともできるかもしれませんが、もし知っていて、自分が主張するところと相容れないという理由からそれを隠していたのであれば、どうでしょうか、それは問題です。

真の研究者であれば、執筆する論稿の最初においてまずもって先行研究について徹底した批判的分析を行ない、それを受けて本論のなかにあって、論証や実証を積み重ね、先行研究を越えて新たな解釈や理解の地平へとたどり着こうとするのではないでしょうか。したがって、その視点に立つ私には、山下の書く文に、そうした本来研究者に備わっているはずの、真っ当な姿勢のようなものを感じ取ることができませんでした。そしてまた私は、先行研究の分析が十全になされていない人物伝からは、常軌を逸した悪意や邪推が、時として頭をもたげてくることも、一般論として十分承知していました。

そこで私は、本稿におきまして、鹿野政直が示した「新しい男」論に対して、山下の「小伝 高群逸枝」はいかように無視しているのか、その構造につきまして、一考したいと思います。

ところで、橋本憲三を巡る鹿野政直と山下悦子の言説の開きに気づいたのは、私が最初ではありません。すでに丹野さきらが、「『世襲を断ち切れ』――茨木のり子と高群逸枝の系譜学――」において、その点に関して言及しています。そこで、さっそくそれを以下に紹介し、論じることにします。

第二節 丹野さきらによる橋本憲三に関する鹿野政直と山下悦子の両言説並置の革新性

丹野は、橋本憲三について、こう書きます。

 1976年、日本女性史の礎を築いた高群逸枝の夫である橋本憲三が世を去った。高群は、前半生は詩人、評論家、アナーキストとして活躍した後、1931年に世田谷の「森の家」で歴史研究を開始し、37歳以降の後半生を女性史研究に捧げた人物である。橋本は資料収集、家事など高群の研究生活を支えて伴走し続け、1964年高群が没した後は、『高群逸枝雑誌』を発行する等、高群の「顕彰」に力を注いだ。
[丹野さきら「『世襲を断ち切れ』――茨木のり子と高群逸枝の系譜学――」『研究所年報』54号、明治学院大学社会学部付属研究所、2024年2月、154頁。]

実に簡潔にまとめられた逸枝と憲三の関係についての一文です。さらに重要なのは、この一節の末尾に注番号を施し、巻末の注において、鹿野政直と山下悦子の双方の憲三観を対置して紹介していることです。それでは、その注内容の一部を以下に引用します。

 橋本が高群の研究を支えたことについて、鹿野政直は、「家事担当者兼逸枝のプロデューサーとしての憲三」、「逸枝に代って資料を求めて古書店へ赴き図書館へ通い、彼女の書きぬいたノートを整理」(鹿野・堀場 1977: 185)、「逸枝の著述の最初の読者となり批評者となった」(鹿野・堀場 1977: 186)こと等にふれ、「夫のがわよりするこの‶一体化″の積極的な実践なくしては疑いもなく逸枝のその後の巨大な仕事はなかった」(鹿野・堀場 1977: 186)と述べている。
 対照的な橋本評として、山下悦子の見解がある。山下によると、「橋本の協力がなければ女性史の元祖高群逸枝の存在はなかったことも事実」だが(山下 2022: 49)、「橋本は口述筆記や手紙の代筆など、それなりに高群の世話をしていたのだろうが、食事の世話や生活面に対する配慮は、一貫して希薄だったように見受けられる」「編集者として有能だったとする石牟礼道子のように、橋本を高く評価する人もいるが、……橋本と高群の感性のズレは一生涯埋まらず、はたして高群にとって彼はいい編集者だったのか、疑問を感じるのだ」(山下 2022: 48)。
[丹野さきら「『世襲を断ち切れ』――茨木のり子と高群逸枝の系譜学――」『研究所年報』54号、明治学院大学社会学部付属研究所、2024年2月、157頁。]

ここで丹野が書く「鹿野・堀場 1977」は、鹿野政直と堀場清子の『高群逸枝』(朝日新聞社、1977年)を、一方、「山下 2022」は、山下悦子の「小伝 高群逸枝」(『高群逸枝 1894-1964 女性史の開拓者のコスモロジー』別冊『環』26、藤原書店、2022年に所収)を指し、それに続く数字は、該当頁数を表わします。

上記引用のとおり、丹野は、鹿野の憲三評と山下の憲三評とをまさしく公平に並置しました。いずれに偏ることもなく客観性が担保されているところに、丹野の研究者としての実直性を感じます。鹿野政直・堀場清子『高群逸枝』(朝日新聞社、1977年)が世に出て今日に至るまでのおよそ半世紀、高群逸枝と橋本憲三を扱った伝記作家や評論家のそのほとんどが、そのなかに書かれてある言説、とりわけ憲三の「新しい男」像を無視してきました。なぜかくも長きにわたって、鹿野と堀場が描く憲三像は、闇に葬られてきたのでしょうか。何かそこには強い力が働いていたものと想像されます。思うに、とりわけ女性の女性史研究家にとっては、男性や夫の役割の大きさについては何があっても認めがたく、したがって、憲三の「新しい男」像も、文献的には動かしがたいものであるにもかかわらず、いかんせん感情的に、その事実から有無をいわさず目を閉ざしてしまったのではないかと、受け止めざるを得ません。鹿野の言説に認められるような、憲三抜きにしては「疑いもなく逸枝のその後の巨大な仕事はなかった」など、口が裂けてもいえない状況がそこにはあったようです。そうした、いわゆる同調圧力ないしは脅迫観念の流れのなかにあって丹野が、鹿野政直と堀場清子の『高群逸枝』から幾つかの言辞を拾い上げて、隠されてきた憲三像を再提示したのでした。しかも、女性の女性史研究家が書く「小伝 高群逸枝」における憲三像と見事に対置したのです。丹野自身の意図なり真意なりがどうであったのか、それは私にはわかりませんが、ただ私の目には、正直に申しまして、この間のよどんだ流れに鑑みて、まさしく革新的な出来事のように映りました。さらにいえば、これをきっかけとして、極めて偏った立場から書き継がれてきた既往研究から巣立ち、いまやここに逸枝研究、さらには憲三研究が、実証主義という新たな方法論を得て、遅ればせながらも新鮮な一歩を踏み出すのではないかという期待感もまた膨らみました。

第三節 丹野さきらによる橋本憲三に関する鹿野政直と山下悦子の両言説並置の限界性

しかしながら、愚考するに、なぜ丹野は、異なるふたつの言説を並置しただけで、どちらの言説が真実に近いものであるのかの判断を停止し、避けてしまったのでしょうか。私にしてみれば、この点が唯一惜しまれてなりません。といいますのも、さらにもう一歩踏み込んで、この点が明確にならない限り、正確な憲三像も、ひいては実際の逸枝像も、現像に供することはできないのではないかと確信しているからです。鹿野の描く憲三と山下が語る憲三とでは、明らかに天と地の開きがあります。しかし、真実はひとつです。どちらかが真実であるとすれば、どちらかは虚偽ということになります。であれば、いずれ誰かが、憲三像にかかわる天と地の開きを瓦解させ、旧弊な思弁の世界から救い出しては、科学的実証の世界のなかにあって論じる道を用意しなければならないのです。いまや、真実の地平に鍬が入れられるべき、まさにそのときが来ているのです。

そこで、そのはじめの一歩として、とりあえずここにあって、私は、残されている歴史資料に、憲三像にかかわるその側面の一端について語らせてみようと思います。といいますのも、これを動かしがたい証拠(エヴィデンス)とし、それに照らしてその真偽を判断すれば、その結果として、自ずとどちらの描画が、より憲三の肖像に近いかが、少なくともこの時点において明らかになるのではないかと考えるからです。

第四節 橋本憲三についての山下悦子の言説の真偽に関して

それでは、丹野が抽出した山下の言説から、考察に値する三つの論点をここに拾い上げ、順次、その真偽について論証ないしは実証してゆきたいと思います。最初の論点は、「食事の世話や生活面に対する配慮は、一貫して希薄だったように見受けられる」、次の論点は、「橋本と高群の感性のズレは一生涯埋まらず」、最後の論点は、「はたして高群にとって彼はいい編集者だったのか、疑問を感じるのだ」です。


 第一の論点――。

山下は、「食事の世話や生活面に対する配慮は、一貫して希薄だったように見受けられる」と書きます。果たしてこれは、真実でしょうか。

まず、逸枝の詩の世界をのぞいてみます。『妾薄命』には、めずらしく憲三を詠った作品が所収されていますので、それを以下に引用します。

憲三が妻の逸枝は芹摘みに
憲三は窓に
窓には梅の花
[高群逸枝『妾薄命』金尾文淵堂、1922年、136頁。]

この歌は、極めて示唆に富みます。といいますのも、「逸枝が芹を摘み、憲三が窓辺にいてそれを待つ」情景を、「逸枝が原稿を書き、台所にいながら憲三がそれを待って編集する」情景へと置き換えるならば、どうでしょうか。逸枝と憲三とのあいだの、前代にはほとんど見ることのなかった革新的な夫婦の役割分担の形式がほのかに見えてくるからです。

もうひとつ、これに関連する、逸枝の詩片を引用します。『東京は熱病にかゝつてゐる』のなかで逸枝は、恋にある男女の役割分担を、思いを込めてこう詠います。

ある戀の日に、
青年が米を洗ひ、
少女が薪をとりに行つて笛を吹いてゐるのが、
不自然なことだらうか。

我々は、原始人類が、
かうした生活をしてゐたことを確信する。
[高群逸枝『東京は熱病にかゝつてゐる』萬生閣、1925年、399-400頁。]

青年が台所に立って炊事をし、少女が、外に出て仕事に就く、おそらくこれが、逸枝が理想とする愛し合う男女の関係、つまり夫婦の役割分担だったにちがいありません。この原始人類の生活が、現代の「森の家」にあって再現され、憲三が「食事の世話や生活面に対する配慮」を尽くし、逸枝が書斎にこもり、女性史研究に没入していた、そう考えても差し支えないものと思われます。

それでは、詩の世界から離れて、小説の世界では、逸枝は、自身をどう描いているのでしょうか。自叙伝小説である『黒い女』のなかで、逸枝は次のように告白しています。

『洗濯はいやだ』と私の心がつぶやく。
『裁縫も……』
 そしてたゞ溜息をついて私はゐる。
[逸枝『黒い女』解放社、1930年、26頁。]

このように逸枝は、洗濯も裁縫も、決して得意ではなく、できれば避けて通りたかったようです。それでは、それを補うのは誰でしょうか。いうまでもなく夫の憲三ということになります。それを例証するひとつの逸話が残されています。それは、戦後、憲三の姉の橋本藤野の資金援助により「森の家」が改修されますが、そのとき滞在していた藤野が目にした出来事で、水俣に帰って、医師の佐藤千里に語ったものです。以下は、そのとき聞き取ったものを佐藤が文にした一節です。佐藤はのちに、憲三と藤野の主治医を務めます。また、佐藤の母親が、幼き日に逸枝と机を並べていました。

ほんに、あん人達ときたら、一勝地の母が昔使ったこまか(小さい)鍋釜で、ままごとのごたる暮しばしとらした。鶏達も、逸枝さんには甘えてなあ。研究の邪魔になると憲さんが逸枝さんの書斎から追い出すと、鶏達はふてくされて外で砂浴びなどしよった。あたしや静子が訪ねて行くと、憲さんの身内をせい一ぱい歓待しようと思わすどじゃろう、自分で台所に立ちよらした。それでも、何とのう要領が悪うて、一寸ばかりいぢらしかった。見かねて憲さんが台所仕事を代ろうとすると、こっそり袖を引っ張ったり、脇を小突いたりして、ほんに小娘のごつ逆いよらした。
[佐藤千里「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と真實』通巻第350号 8月号、1978年7月、47頁。]

どうやら逸枝は、台所仕事が苦手で、代わって憲三が日頃から担当していたようです。このことは、さらに次の証言がはっきりと裏打ちします。憲三の妹の橋本静子の言説です。

 二人が意中としたものは、「男は女を支配しない女は男を支配しない共同の社会」であり、そして「愛は創造するもの」とのぞんだのです。私はそう受け取っています。憲三は憲三の得手をふるい、逸枝は逸枝の得手で志に向かったもので、逸枝は先生、憲三は生徒、先生と生徒の落差を家事などで埋めた同志、同学、そして夫婦です。学問に志せば憲三は普通水準、逸枝は天才でした。
[橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、13頁。]

この引用文のなかの、「逸枝は先生、憲三は生徒、先生と生徒の落差を家事などで埋めた同志、同学、そして夫婦です」という文言に着目すれば、憲三は、逸枝との落差を「家事などで埋めた」関係にあったことが自ずと判明します。

以上の考察から、第一の論点「食事の世話や生活面に対する配慮は、一貫して希薄だったように見受けられる」という山下の言辞が、いかに真実から乖離したものであるかがわかります。実際は、憲三は、「食事の世話や生活面」において「一貫して希薄だった」のではなく、全くその逆で、「一貫して濃密だった」といえるのではないでしょうか。それでは、次の論点へと移ります。


 第二の論点――。

山下は、「橋本と高群の感性のズレは一生涯埋まらず」と書きます。果たしてこれは、真実でしょうか。

「感性のズレ」とは何を指しているのか、私には不明です。善悪や美醜を判断する基準のことでしょうか。もしそうであれば、この基準にかかわる落差が妻と夫とのあいだで大きければ大きいほど、夫婦の関係に亀裂が入る可能性があります。したがいまして、「感性のズレ」は「夫婦愛のズレ」とほぼ相関するといえます。そこで、ここでは「感性のズレ」を「夫婦愛のズレ」と解釈し、その文言に置き換えてみます。そうしますと、「橋本と高群の夫婦愛のズレは一生涯埋まらず」となります。しかしながら私は、これまでの自身の研究において、そのようなことはなかったと理解しています。そこで、ここにあっては、生涯の節目で交わされた逸枝の憲三に対する「誓い」を三つ拾い出し、それをもって、その根拠(エヴィデンス)としたいと思います。

逸枝が最初に憲三に「誓い」の文を書いたのは、はじめての出会いののちの憲三へ宛てて出された手紙のなかにおいてでした。それについて逸枝は、次のように書いています。

 彼に会って月末に払川に引き上げた私は、すぐ大まじめに「永遠の誓い」なるものを書いて、それをKに送った。
 いわく、
「私はあなたへの永遠の愛を誓います。私に不正な行為があったら、あなたの処分にまかせます。あなたのお手紙はたいせつにしまっています。恋しいあなたよ」
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、130頁。]

この手紙が出されたのは、一九一七(大正六)年の八月で、そのとき逸枝は二三歳になっていました。

巡って三一歳になっていた一九二五(大正一四)年九月、今度は、逸枝の「家出事件」が起こります。このとき憲三は、逸枝を探しに関西へ出かけますが、見つからず、帰りの夜汽車のなかで、以下のような手紙をしたためました。

私はいま旅から絶望して帰るところです。さびしいむなし東京へ。私がそこへ明日の十二時にかえったとて、何が私を待っていましょう。……あなたがなくて、私に何の生活があろう。あなたと二人で、骨になっても、未来へも、どこまでもいっしょでなくては承知できぬ、どん底からの思索と抱擁とが私にはあるのです。……私は家をたたみました。……あなたとわたくしの形而下的な家庭は、かくして短日月にほろびました。私たちは、こんどは形而上的な家庭にすむのです。ナベ一つ茶わん一つの生活にしましょう。……田舎の一軒家に行きましょう。実は私は早くあなたにお目にかかれていっしょに巡礼乞食したいと思い家を捨てたのですよ。……恋しい恋しい私の妻よ!今にあなたのところへいきますよ。いっしょに回国しましょう。……ああこんどいっしょになってからは、交友を吟味しましょうね。家には一切入れず、向こうの家にもいかず、手紙か、野原、林などの散歩の交際にしましょうね。巡礼がすんだら、家をもちましょう。そして夏の休みの一ヵ月はきっと僕がナベを背負って旅行につれていきます。
[橋本憲三「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、16-18頁。]

家出から九日後、憲三は新宮の旅館で再会することができ、そのとき、逸枝にこの手紙を手渡します。再会後、逸枝の希望もあり、ふたりは東京に帰りました。

それからおよそ三箇月が過ぎました。憲三の仕事からの帰宅を待つ逸枝は、旅館で渡された憲三からの手紙を読み返していました。そしてそこに、書き込みをします。おそらくこれが、これよりのち死が訪れるまでの、逸枝の憲三に対する偽らざる思いであると考えられますので、少し長くなりますが、全文を引用します。

 大正十四年十二月十日夜。まだお帰りになりません。今夜もこのお手紙を出して見ました。もう何処にも行きません。あなたに仕えようが足らないとき、私はこのお手紙を出して見るのです。
 私とあなたとがこの地上から去って後もたぶんこのお手紙は残りましょう。私は王様のお姫さまよりなお幸福です。夢と血と愛をえて、天国に行くことができるのですもの。
 あなたも私も地上では貧乏な夫婦でございます。人はみな誤解しています。けれども何一つ私をいまはあなたから裂くものはない上に、私はよろこんであなたとならば死を迎えましょう。私ほどの生の執着をもった女でも、この不可思議な事実を心のなかに確かめうるとは、まあ何て不思議でしょう。愛がはるかに死よりも強いことを今私は知り、この上なく喜んでいます。いつでも もう 死ねますから。このさき幾年生きるでしょう。なるだけおじいさんとおばあさんになるまで生きましょうね。私はまだ仕えかたが足りませぬ。心ゆくまでつくしてからなら、何の思い残すこともない。
[橋本憲三「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、21頁。]

この逸枝の文について、憲三は、こう語っています。

この書入れは、単なる「てすさび」のみではなく、一種のいわゆる「せいもん」でもあり、つまり彼女はここに「誓文固」をしたのである。のちの「誓い」(全集10巻482ページ参照)に通じよう。
[橋本憲三「手紙と書き入れ」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、21頁。]

憲三がいう、「のちの『誓い』(全集10巻482ページ参照)」に該当するのは、次の文になります。

 彼女とKと、生涯の終わりには、いっしょに墓にはいるが、しばらくあとにのこされたものが不自然にあとをおったりしないようにかんがえ、彼女がまだ生きていたその手で書き、Kにも納得させた「誓い」の最後の結末はとうとうKがこれを果たさなければならないことになった。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、482頁。]

実際の「誓い」の文も、念のために、以下に引用します。

 誓い
われらは貧しかったが
二人手をたずさえて
世の風波にたえ
運命の試れんにも克ち
ここまで歩いてきた
これから命が終わる日まで
またたぶん同様だろうことを誓う
そしてその日がきたら
最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない
すべてを土に帰そう
    相見てから四十五周年
     一九六二年七夕前夜
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、449頁。]

このとき逸枝は、六八歳になっていました。この「誓い」から二年後に逸枝は亡くなります。遺された憲三は、「最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない/すべてを土に帰そう」の言葉のとおりに、火の国水俣の地に、石積みの墓廟をつくると、その裏側に、この「誓い」の文を刻み、永遠の不離の愛を完結させたのでした。

以上私は、逸枝が憲三に示した三つの「誓い」ないしは「誓文」を紹介しました。ちょうどふたりの人生の「スタート地点」「折り返し地点」「ゴール地点」に書かれています。これを読んでわかることは、どの夫婦にもあるような、大小の「くいちがい」に時として見舞われたとしても、大局的に見れば、このふたりは、「貧しかったが/二人手をたずさえて/世の風波にたえ/運命の試れんにも克ち」つつ歩んできた、ということではないでしょうか。そして、その間に見せた夫婦の愛は、双方の思いが重なり合った、まさしく人もうらやむような、「一体の愛」だったこともわかります。山下は、「橋本と高群の感性のズレは一生涯埋まらず」と書きますが、しかしながら私には、三つの「誓い」の文に現われている、逸枝と憲三の愛のきずなの強さを知るにつけ、両者には「ズレ」が存在し、ふたりはそれを生涯埋めることができなかったと断じる山下の言説は、明らかに絵空事の一種のように感じられます。

文筆家である逸枝は「誓い」の文でもってふたりの愛を固めました。一方の憲三は、「私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった」とみなす逸枝の言葉に応えるように、そしてまた、「決意したことにはさりげない誓いのうちにも、私を心のずいから信頼させるものを持っていた」という逸枝の言葉を例証するように、力強い「実践」をもって、さらにふたりの愛を完成の域へと押し上げてゆきました。

もし仮に、両者に「ズレ」が存在し、ふたりはそれを生涯埋めることができなかったとするならば、なぜ憲三は、逸枝亡きあと、『高群逸枝全集』(全一〇巻)の刊行に向けて、煩雑を極める編集作業に精を出したのでしょうか、その説明がつきません。さらには、なぜ憲三は、石造の墓廟に朝倉響子作の逸枝のレリーフをはめ込み、逸枝の霊をかくも手厚く祭ったのでしょうか。加えるならば、なぜ憲三は、年四回の『高群逸枝雑誌』の刊行に励み、自身の死が訪れるまで、逸枝の業績を賛仰し続けたのでしょうか。これらの憲三の行動と実践から判断しても、ふたりのあいだに、生涯の終わりに至るまで埋め合わせることのできなかった、何か「ズレ」が存在していたとは、考えにくいといわざるを得ません。私は、山下がいうような「ズレ」などは、ふたりのあいだに存在しなかったものと思料します。さらにそれを補強する資料として、逸枝の臨終に際して交わされたふたりの最後の会話を以下に引用しておきます。

私「私はあなたによって救われてここまできました。無にひとしい私をよく愛してくれました。感謝します」。
彼女「われわれはほんとうにしあわせでしたね」。
私「われわれはほんとうにしあわせでした」。力を入れてこたえ、さらに顔を近づけて私が「……」というと、彼女ははっきりうなずいて、「そうです」といった。
彼女は心からそれをゆるし、そしてよろこんでいるのだった。いまこそわれわれは一心になったのだ。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、479頁。]

それでは最後の「第三の論点」について、これまで同様に一次資料を援用しつつ、語ってみたいと思います。


 第三の論点――。

山下は、「はたして高群にとって彼はいい編集者だったのか、疑問を感じるのだ」と書きます。実際のところ憲三は、山下のいうように、逸枝にとっていい編集者ではなかったのでしょうか。その真偽に関して、これより吟味します。

石牟礼道子は、逸枝が死去したのち、「森の家」へ行き、しばらく憲三と生活をともにします。そして、全集の編集、加えて書籍の売却や家屋の譲渡などの残務整理を終えると、ふたりはそれぞれに水俣に帰ります。その地には、憲三の姉の藤野と妹の静子が「橋本商店」を経営していました。一階を店の倉庫に、二階を住居兼編集室に使うために、憲三は、簡素な二階建ての家屋をつくるや、『高群逸枝雑誌』の刊行に入り、離れて住む、唯一の同人であった道子は、憲三と逸枝の人生を題材にした「最後の人」の連載に入ります。そうした事情があったため、憲三の後半生に寄り添った道子は、多くのことを憲三から聞く機会をもち、生前の逸枝と憲三の生活をみぢかに知る立場にありました。

以下は、憲三の編集者としての資質について、道子が書き記した文です。

 事業家、経営者として、憲三がいかにすぐれた資質者であることか。『高群逸枝全集』を出現させてゆく過程をつぶさに見てゆくと『大日本女性人名辞ママ』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった。これを出版したときのパンフレットなどを読んでも隠されているその綿密な企画力、実行力、持続力、全過程への心配り、さらには事後処理の完璧さにおどろく。
[石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、356頁。初出は、石牟礼道子「『最後の人』覚え書き(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、52頁。]

このように、道子は、「『大日本女性人名辞ママ』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった」ことを明かします。一方逸枝は、そのことについて、どう書いているのでしょうか。

 年があけて昭和十一年になると、私はKの協力をえて『女性人名辞書』の成稿を急ぐことにした。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、257頁。]

逸枝は、「私はKの協力をえて」とは書きますが、具体的な「協力」の内容には触れていません。こうして一九三六(昭和一一)年の一〇月、厚生閣により『大日本女性人名辭書』が上梓されました。古今の女性およそ一千八百名が収録された、重量感を漂わす、本文六二三頁からなる大著でした。巻末の「跋」は、次の言葉ではじまります。

 黨地に引籠りましてより足掛六年、其間専念致して参りました著述の一部を『大日本女性人名辭書』と題しまして、刊行の運びとなりました事に就きましては、勿論私一人の力の能する處では無く、内にありては家主の庇護、指導に基づく所多く、外にあつては先輩知友の御聲援、御教導に歸すべき事は申すまでも御座いません。
[高群逸枝『大日本女性人名辭書』厚生閣、1936年、「跋」の1頁。]

「家主の庇護、指導に基づく所多く」という逸枝の文言に、「彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった」という道子の言辞を重ね合わせますと、『大日本女性人名辭書』が、ほとんど憲三の「企画力、実行力、持続力、全過程への心配り」によって世に出たことがわかります。しかし憲三は、単に優れた能力をもった編集者に止まりませんでした。それは、次の逸枝の言葉が証明します。

 私の人生はすべて受け身に終始したように思われる。-はじめは父に従い後には夫に従った。とくに、後者とは長い一体の関係だったので、私の本の出版、私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊、女性史への創業までが、彼の発意または勧告によるものだった。この意味では、彼が私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、354頁(隠しノンブル)。]

「後者とは長い一体の関係だった」という言辞も、見逃すことはできませんが、ここでは、「私の本の出版、私が主宰者となっているらしい機関雑誌の発刊、女性史への創業までが、彼の発意または勧告によるものだった」という語りの部分に着目します。これを舞台芸術に置き換えますと、憲三がその劇の「企画・演出者」であり、逸枝が、舞台の上で演技をする「表現者」ということになります。以下は、憲三が道子に語った、逸枝についての観察です。

乞食にもなれたし、おかみさんにも女王にも革命家にもなれた。……そばにいる人間がのぞめば何にでもあなたはなれました。最善を尽くしてなったでしょう。
[石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、146頁。]

実際、憲三が望めば、逸枝は詩人にも、アナーキストにも、国体主義者にも、そして最後には学者にも、「最善を尽くして」なったのでした。そしてそれは、すべて憲三の「発意または勧告によるものだった」のです。「この意味では、彼が私の大なるパトロンであり、また私自身の啓発者だった」という逸枝の言葉は、まさしく真実を語ったものであり、ここに、決して見過ごしてはならない、逸枝と憲三の関係があったのでした。

それでは、どのような背景があって、「企画・演出者」と「表現者」の関係が成り立っていたのでしょうか。逸枝は、このように自分の性格を分析します。

私は自分に自信がなく、ひとに対して依頼心と依存心があり、自分自身だけでは考えを 発展させることができないのをなんとしよう。ここに私の夫への奴隷根性があるのだろう。
[高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、46頁。]

つまり、逸枝には、「自分自身だけでは考えを 発展させることができない」性格があり、それが、夫憲三への「依頼心と依存心」となって、「夫への奴隷根性」を生み出していたのでした。逸枝は還暦を前にして、次のように日記に書き記しています。

 逸枝よ。銘記せよ。弁証法は、自分ひとりの心のなかでなせ。
 右のように規定したところ、私はひどくさびしくなり、生気がなくなった。私には「社会」がなくなった。夫は私の「社会」であったから。……つまり自主性がないのだろう。[『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、419-420頁。]

ここでも逸枝は、自分に「自主性がない」ことを告白します。しかし、ひとたび憲三によって枠組みが与えられるや逸枝は、「感情革命」をとおしての定型詩から自由律詩への転換において、アナーキズムの論戦において、そして女性史学の開拓においてそうであったように、実行や実践という地平にあって、周りの予想と期待をはるかに超えるその能力を発揮するのでした。もっとも、「自主性がない」という告白だけではなく、さらにここで重要なのは、自分に開かれた「社会」がまさしく夫であったことを、妻の逸枝本人が自ら認めていることです。次の引用は、逸枝の自叙伝的小説の『黒い女』からの一節です。

 彼女は夫がおぼえてきて歌ふあらゆる歌を世界のどんな歌よりも早くおぼえてそれを歌ふのであつた。
『そんな歌わらはれるよ。男はいいけど』
 と時々夫が夫そつくりの調子で歌つてゐる妻を見ながらいふ。
『だつて……』
 と妻はつぶやく。
『あたしそんなら何を歌へばいいの』
そして涙ぐむ。
[高群逸枝『黒い女』解放社、1930年、5頁。]

出版された時期から判断して、「夫がおぼえてきて歌ふあらゆる歌」というのは、アナーキズム、マルクス主義、その他その時代のあらゆる社会的思想的潮流についての情報や知識を指すものと思われ、それを家に持ち帰って妻に話して聞かせると、妻は「世界のどんな歌よりも早くおぼえてそれを歌ふ」のでした。こうして妻は、いつのまにか、次のような決意をすることになります。

私は革命者でなければならなかった。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、236頁。]

そのように自己規定していた逸枝でしたが、新たな憲三の「発意または勧告」により、潔く「革命者」を放棄するや、憲三が用意した「森の家」に引きこもり、今度は、女性史の研究に入るのでした。以下は、そのときの憲三の説得の弁です。

「…社会運動はロマンチシズムではいけないと思う。また、各人にはそれぞれ長所がある。その長所をもって貢献すべきだと思う。あなたの長所と使命とは、長い年月、あなたのなかに蓄積せられてきた女性史の体系化だ。生活は私が保証する」
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、241-242頁。]

逸枝は、かねてから学者になる願望を内に秘めていました。それに気づき、憲三の方から「発意または勧告」してくれたことに、逸枝は、感謝の涙を流し、憲三の懐のなかに入ってゆくのでした。逸枝はそれを、こう描写します。

 この物すごいエゴイストは興味のない事柄や人物には冷淡だが、決意したことにはさりげない誓いのうちにも、私を心のずいから信頼させるものを持っていた。私はいまは遠慮なくそれに依存しようと思った。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、242頁。]

こうして「森の家」での学究生活がはじまると、逸枝は、一日に一〇時間、机に向かいます。おそらくその間、憲三は、内では家事をし、外にあっては図書館や古書店で逸枝の研究資料を渉猟し、その一方で、できあがった原稿の整理に時間を費やしたものと思われます。憲三は、こう回顧しています。

 あのひとは、あのひとの心は、人類とともにいつもあって、僕はそれをおもう……彼女はやはり天才者だった……。彼女は三十七歳で研究にはいったが、僕はもっと早く準備をしてやれたらなおよかったと思う。もっと早く気づくべきだった……。
[石牟礼道子「最後の人4 序章 森の家日記(四)」『高群逸枝雑誌』第4号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年7月1日、23頁。]

憲三は、妻の逸枝が「天才者」であることを認めます。そして、逸枝の学問を支える側に立つのでした。憲三の妹の静子に宛てて書かれた逸枝の手紙の下書きが残されていますので、その一部を以下に引用します。逸枝はそのとき、自身の女性史研究が、夫である憲三との「合作」として成り立っていることを自覚していました。

主人のすゝめで、いまの仕事をはじめた時から、私は一身上の娯楽も名利心もすてゝしまい、戸外一歩も出ないで暮しています。主人は私にあらゆることを教え、指導し、また日本にない「女性史」を二人で一生かゝって書き上げようとしているのです。だからこの仕事は、名前は私ですが、主人と私の合作です。
[橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、311頁。]

こうして憲三の助力を得て、逸枝の代表作である『招婿婚の研究』(一九五三年)、『母系制の研究』(新版、一九五四年)、『女性の歴史』(全四巻、一九五四-五八年)、そして『日本婚姻史』(一九六三年)が世に出ていったのでした。逸枝の最後の書である『日本婚姻史』に目を向けますと、その「奥付」上の「著者略歴」には、次のように書かれてあります。

明治27年 熊本県に生まる。
昭和6年~現在 女性史・婚姻史専攻。
著書 母系制の研究、招婿婚の研究、女性の歴史(4巻)。
[『日本婚姻史』至文堂、1963(昭和38)年、ノンブルなし(277頁目)。]

もはや、「日月の上に座す」放浪詩人の面影も、アナーキズムの論客として論壇に居場所を占める「黒い女」の面影も、国体主義者として文筆をふるった戦争中の面影も、ここにはありません。亡くなる前年のこの最後の舞台にあって逸枝は、女性史・婚姻史を専攻する学者として自ら堂々と舞い踊ったのでした。それでは最後に、憲三の言葉を引いて幕としたいと思います。

 彼女にしてみれば、知的レベルにおいて、資質そのものにおいて、あらゆる意味において、僕はよほど幼稚にうつって見えるでしょうからね。ただ僕の云うことすることが、どんなことがあっても彼女を裏切ることがない。いうなれば僕への信用ひとつで、彼女はうごいたようなものです。……そうするとやはり、そこに一個の生き物が出来た形になって、彼女はその生きものを自分流に、なんと云ったって自分流に仕上げてゆくんです。
[石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、21頁。]

以上、私は、山下がいう、「はたして高群にとって彼はいい編集者だったのか、疑問を感じるのだ」の内容について吟味してきました。一次資料が語るところによれば、憲三は、単に優れた編集者であっただけでなく、さらにそれを越えて、「彼の発意または勧告」に基づき、逸枝の本の出版、逸枝が主宰者となっている機関雑誌の発刊、そして、逸枝の女性史学の創業が、進められていったのでした。とりわけ、逸枝の女性史学の創業以降の「森の家」での研究生活では、「大なるパトロンであり、また私自身の啓発者」となって憲三は、逸枝を支えました。「だからこの仕事は、名前は私ですが、主人と私の合作です」と逸枝はいうのです。以上これが、山下が弁ずる、「はたして高群にとって彼はいい編集者だったのか、疑問を感じるのだ」について吟味した私の結論です。

ここまで憲三と逸枝の関係が明確に判明した以上は、「はたして高群にとって彼はいい編集者だったのか、疑問を感じる」必要は、もはや何ひとつないものと承知します。逆に不思議に思うのは、どのような理由があって、山下は「疑問を感じる」のでしょうか。本人は何も語っていませんので、私は知る由もありませんが、もし単に知識の不足が要因となって「疑問を感じる」のであれば、いま一度、しっかりと机に向かえばいいだけの話ではないかと思いますし、そうではなく、もし仮に、憲三の役割を認めたくない思いが作動して、理由もなく漠然と「疑問を感じる」のであれば、いち早く、しみついた思い込みや偏見を捨て去り、動かしがたい一次資料の前に謙虚に頭を垂れ、ひたすらに真実の門をたたくべきではないかと愚考します。

第五節 問題の終わりに――鹿野の言説と山下の言説とではどちらが真実を語っているか

私はここまで、「第四節 橋本憲三についての山下悦子の言説の真偽に関して」の節題のもと、それを三つの論点から分析してきました。公平を期すためには、次に、「第五節 橋本憲三についての鹿野政直の言説の真偽に関して」と題された節を設ける必要があります。といいますのも、丹野さきらは、「第二節 丹野さきらによる橋本憲三に関する鹿野政直と山下悦子の両言説並置の革新性」においてすでに紹介していますように、鹿野政直の言説につきまして、次のように書いているからです。

 橋本が高群の研究を支えたことについて、鹿野政直は、「家事担当者兼逸枝のプロデューサーとしての憲三」、「逸枝に代って資料を求めて古書店へ赴き図書館へ通い、彼女の書きぬいたノートを整理」(鹿野・堀場 1977: 185)、「逸枝の著述の最初の読者となり批評者となった」(鹿野・堀場 1977: 186)こと等にふれ、「夫のがわよりするこの‶一体化″の積極的な実践なくしては疑いもなく逸枝のその後の巨大な仕事はなかった」(鹿野・堀場 1977: 186)と述べている。

したがいまして、本来であれば、「家事担当者兼逸枝のプロデューサーとしての憲三」を第一の論点として、次に「逸枝に代って資料を求めて古書店へ赴き図書館へ通い、彼女の書きぬいたノートを整理」を第二の論点として、さらに「逸枝の著述の最初の読者となり批評者となった」を第三の論点として、最後に「夫のがわよりするこの‶一体化″の積極的な実践なくしては疑いもなく逸枝のその後の巨大な仕事はなかった」を第四の論点として、「第四節 橋本憲三についての山下悦子の言説の真偽に関して」におけると同様に、新設の「第五節 橋本憲三についての鹿野政直の言説の真偽に関して」において、吟味しなければなりません。しかしながら、「第四節 橋本憲三についての山下悦子の言説の真偽に関して」においてなされた考察と論議、および、そこから導き出された結論とが、そのまま、予定にある「第五節 橋本憲三についての鹿野政直の言説の真偽に関して」における四つの論点に必須の論証と実証にとって有効な決め手となることは自明であり、そこで、重複を避けるために、それに関連する、次の、五つの逸枝と憲三の言辞を紹介するに止めて、「第五節 橋本憲三についての鹿野政直の言説の真偽に関して」は割愛することにします。以下が、その五つの言辞です。

 私の人生はすべて受け身に終始したように思われる。-はじめは父に従い後には夫に従った。……この点では、私はいわゆる受け身の労働者ではあったけれど、また主動的な開拓者であり、この場合には、父と夫は、私への命令者でも、また、かいらい師でもありえず、その反対でさえあった。以上のような相互関係にあることが父、夫の希望でもあったともいえよう。
 彼らは、私の教育者であるとともに、また未知なる私への期待者であり、俗語でいえば物質的精神的な投資家でもあったろう。
[『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1970年(第4刷)、354頁(隠しノンブル)。]


 ボクはね、男の一生を棒に振って女房につくした、という風におもわれているのですよ。僕は家庭爆破に、いささかの協力をしただけですよ。かといって僕たちはとくにボクは、家庭の遺制、つまり男権社会の遺制の中に育ったから、とくにボクはそれをひきずっていたから、一度これを爆破しなければ、女性は、全面的に生れ替ることはできない。それが自分の体験でよくわかるのです。
[石牟礼道子「最後の人1 序章 森の家日記(一)」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、22頁。]


彼女は起稿のとき、新しい原稿用紙に向かって、私に第一章の題目を書かせる。最初のとき、あなたの原稿の書きはじめを、なんで私がしなくてはならないのですか、と文句をいうと、
 「あなたが題目を書いてくだされば、本文がらく・・に書き出せるのよ」
 といった。
[橋本憲三「題未定――わが終末記 第四回」『高群逸枝雑誌』第11号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1971年4月1日、35頁。]


人の一生は知れたものだ
花のさかりも一時だ
そのさかりさえ無い者もある
真理に生きよう
千の名よりも一の真理に
[『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、138頁(隠しノンブル)。]


憲三午後から白木屋古書展へ。……
うちのひとの指導、援助がなかったら、何が私にできよう。私に何の力があるかと思う。
[『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1971年(第3刷)、250頁。]

それでは最後に、本稿が提起した問題点である「鹿野政直の言説と山下悦子の言説とではどちらが真実を語っているか」を判断しなければなりません。しかしながら、これもまた明々白々で、あえて言葉に出す必要もないものと思料します。私の駄弁は不要です。すべて、この間に援用した一次資料が語るとおりです。

私は、「第一節 問題の発端――実在する『新しい男』」におきまして、橋本憲三の死に際して『朝日新聞』に寄稿した鹿野政直の追悼文を引用しました。そこには、憲三について、こう書かれてありました。

家事を一切ひきうけたばかりでなく、資料さがしにでかけ、生活設計をし、研究の方向に助言をあたえ、妻のかいたものの最初の読者となり批判者となった。さらに、おしよせる世間のまえに、一人でたちはだかった。彼女の作品には、今日ふつうに思われているよりはるかにふかく、その夫がかかわりあっている。橋本氏の編集者的な才能はその妻に向かって集中し、彼女のプロデューサーになった、というのがわたくしの観測である。

私は、「第四節 橋本憲三についての山下悦子の言説の真偽に関して」において、山下の言説がいかに真実からかけ離れたものであるのかを例証しました。しかし、その作業は、期せずして、鹿野が書く上記の文がいかに真実に肉薄したものであるかを例証する結果となりました。

鹿野の追悼文は、次の言辞で結ばれます。

そうして氏は、日本女性史に少なからず貢献をなしとげたのだった。もし日本男性史というものが書かれるとしたら、橋本氏は、既成の男性像を身をもって否定した人間として(否定のかたちは、必ずしもそれが唯一ではないにせよ)、いわば「新しい女」にたいする「新しい男」として、位置づけられるのが至当ではなかろうかと、わたくしは、氏をいたむ念とともに夢想する。

現在の高群逸枝研究および橋本憲三研究に欠落しているものは何でしょうか。上記の一文こそが、そのことを示唆し、その本質をついた卓見であると、私には思われます。そこに指摘されている、憲三は「日本女性史に少なからず貢献をなしとげた」という視点、そして憲三は、「『新しい女』にたいする『新しい男』として、位置づけられるのが至当ではなかろうか」という視点、このふたつの見解は、およそこの半世紀のあいだにあって、完全に闇に葬られてきました。私は、かかるこの箇所に光をあて、その内実を明らかにし、歴史のなかに再配置することの重要性を改めてここに書き記し、本稿を了としたいと思います。

(二〇二五年一一月)