三保は、小学生の高学年のころ、教室の窓から遠くに臨む三井山連峰の頂に積もる雪を見ては、いつも美しいと思っていた。春が近づいてきたときのことである、受け持ちの担任の先生が、雪の山頂を指さしながら、もうすぐ訪れる山里のにぎわいを語りはじめると、黒板に「雪消」という文字を書いた。そして、みんなにわかるように、横に「ゆきげ」と読み仮名をふった。三保は「降雪」や「積雪」は知っていた。「雪解け」も日常語であった。しかし「雪消」は、はじめて聞く言葉であった。美しいと思った。このとき、「雪消」は未知の世界を表わす神秘的な響きをもって三保に伝わった。
その日の学校の帰り、三保は、「暖かくなると雪が消える」、それでは「寒くなると何が消えるのだろう」と、なぞなぞに似た言葉を繰り返していた。三保の心に絡みついていたのは、「消えること」の不思議さであった。消えるということは、生きることなのだろうか、それとも、死ぬことなのだろうか、考えれば考えるほど、わからなくなった。そしてそれが、かえって楽しかった。この日以来、「雪消」という言葉は、三保から離れることはなかった。
島田三保の両親は、地元で小さな不動産の会社を営んでいた。土地の売買や古家の賃貸斡旋などが主な業務であった。ある日、家の解体の仕事が舞い込んできた。この種の依頼は珍しかったが、最近の傾向でもあった。住んでいたのは、高齢の女性で、子どもたちは都会に出て働き、主人は数年前にがんで亡くし、その後は何とか独り住まいをしていたが、買い物も調理もままならなくなり、元気なうちに隣り町の老人ホームに入居するのだという。解体作業は、あっという間であった。更地になった。今度はこの土地を三保の両親が買い手を見つけて売るのである。解体作業中、三保は学校の行き帰りに、のぞき込んだり、のけ反ったりしながら、家のなかから出てきたものが重機の音とともに無残にも壊されてゆく姿を眺めた。三保は父親に尋ねた。
「あの家、消えるの」。
「そうだね、住む人がいなくなったからね」。
「じゃ、あの家、消えて死ぬの」。
「まあ、そうだけど、新しい人が家を建てて、そこに新しい人が住むから、死んだわけではないさ」。
「家は消えても、死んだわけではない……それじゃ、生き返ったの」。
「そうなるかな……三保もおもしろいことを聞くね」。
そうした会話をしながら、父と母がやっていることが、何かいのちとかかわるような、とても大きな仕事であるように、三保には感じられた。お父さんはお医者さんかもしれない、いや、お葬式屋さんかもしれない。
こんなとき三保は、かつての自作のなぞなぞ遊びを思い出していた。「暖かくなると雪が消えます」、それでは「寒くなると何が消えるでしょうか」。三保の答えは、こうであった。「寒くなると、町から人が消えます。それは、寒いから人が家で過ごすようになるからです……ピンポーン」。
家の解体のことで父と言葉のやり取りをするなか、今度は新しい連想ゲームを三保は思いついた。「人がいなくなると家が消えます」、それでは「家がなくなると、今度はそこから何が生まれるのでしょうか」。
三保が大学に入ったのは、それから七、八年が立っていた。家から一番近い都会にある私立大学の社会学部であった。自宅と大学のあいだは電車で二時間とはかからなかったものの、親からの自立とばかりに大学の近くにアパートを見つけ、そこに住むことになった。親からの仕送りによって生活が成り立っているのであるから、実際には、三保のいうような親からの自立からは、ほど遠いものがあった。
コンビニでアルバイトをしては、服代や旅行代に消えてゆく、苦労知らずの学生生活だった。勉学も、決して夢中になるということはなく、ほどほどにおつきあいしていた。しかし、四年になって卒業論文のテーマを決めるときは、少し顔つきが変わった。「小学生のときの連想ゲームに答えを出さなきゃ」という思いが蘇ってきたのである。指導教員は、厳しくハードルを上げたり、何としてでも知識を教え込んだりするタイプではなかった。ほとんど学生任せだった。三保がこの教員を選んだのも、そこに理由があった。三保が卒論のテーマに選んだのは「今後の日本人口の動向と社会変容」だった。三保が生まれたのは一九九六(平成八)年で、小学生も終わろうとする二〇〇八(平成二〇)年のころから、日本の総人口は減少傾向を示していた。三保の関心は、このまま人口減少が続いてゆけば、空き家も増えていくにちがいない。空き家が増えれば、どうなるであろうか。「人がいなくなると家が消えます」、それでは「家がなくなると、今度はそこから何が生まれるのでしょうか」。三保は、どうしても、この問いへの答えが欲しかった。
指導教員はとくに何も教えてくれず、「自分で調べろ」というばかりであった。何を、どう調べたらいいのかもわからず、適当な検索語を入れては、インターネット上のサイトをあっちこっちと訪問して、そこに書いてある文章をうまく選び取って、卒論らしきものをつくり上げた。実際は、「つくり上げた」というよりも、でっち上げたといった方がふさわしかったかもしれなかった。
しかし、そのような三保も、卒論を書いたことにより、知識が増え、考える機会も多くなり、少し大げさにいえば、社会を見る目が変わった。小学校のときに体験した家の解体の記憶がよい例だった。ひとつの家に両親と子どもが住んでいた。子どもたちは家を出て都会で働き、母親は夫を亡くすと老人ホームに入る。そこに空き家が発生する。空き家が発生するということは、どうやら、人の移動と関係しているようである。そして人の移動は、職や勉学、そして結婚や老後の生活を求めた結果の副産物なのである。しかし、そもそも人口が減るということは、女性が子どもを産まなくなったことに起因する。なぜ産まないのか、なぜ産みたくないのか。三保は女性としての自分に問うてみた。しかし、やすやすと答えにはたどり着かなかった。そもそも自分は将来結婚するのだろうか。結婚しなければ子どもは生まれないだろうし、結婚しても、働いていたら、育児も大変そうだし、子どもをつくることを、面倒くさく思うかもしれない。すべて、そのときにならないとわからない。三保の頭のなかで、人口減少、人の移動、空き家、女性、仕事、そして子育てといったキーワードが絡み合いながら、あたかも走馬灯のように、くるくる、くるくる回転していた。
あまり深刻に考え込む性格ではなかったが、卒業を間近に控えて三保は、大学に来たかいがあった、これで自分も大人の仲間入りができるかもしれない、そういう一種高揚した知的雰囲気を密かに味わっていた。
卒業後、三保が入社したのは、この都市の鉄道沿線を主たる基盤とする三井山土地開発という会社であった。社名はこの地区を遠くから見守る連山の名称に由来し、どの駅前にもこの会社の店舗があって、この沿線に住む人でこの会社の名前を知らない人はいなかった。三保がこの会社を選んだのには、ふたつの理由があった。ひとつは、両親の背中を見て育っていたので、不動産の仕事にとくに違和感はなく、スムーズに抵抗なく入っていけると思えたことだった。もうひとつは、隠された関心事が心の奥に息づいていたことだった。それは、実際の業務内容を越えたもので、三保にしてみれば神秘の内なる関心事であった。土地に家が建てられ、そしてまた、いつしか消えてゆく現象が、どうしても三保には不思議に思えてならず、その不思議の世界に日々身を置いてみたかったのである。小学生のときに感じた一種のロマンティシズムのようなものが、大学卒業後の職業選択にまで作用していたことになる。三保は、こうした自分の性格を自分でもおかしく思うことがあったが、変更することもできなかったし、また、変更する必要性も考えたことはなかった。
入社式のあとの数日間、本社の会議室で社内研修が続いた。そして、その最後の日、社内講師の数人と新入社員とのあいだで、幾つかのテーブルを囲みながらの、立食による懇親会が催された。三保は、昨日の研修会の際に講師として壇上に立って話した、ひとりの男性社員のことが気になっていた。この社員の年恰好や風貌が父親と似ていた。しかし、三保の興味を引いたのは、そのことではなく、話の内容だった。この男性の名は、黒田源蔵といった。肩書きは、本社の賃貸営業部付であった。黒田が昨日話したのは、おおかた次のようなことだった。
「不動産の管理や斡旋や契約には、多くの場合、利害や権利が絡み、それだけに、もめごとも多く、決してきれいごとで済まされないのが、不動産を扱う仕事であります。つまり、表も裏もあるということです。法律も国のガイドラインもあります。しかし、それでは収まらない事態がたびたび起こるのです。いや、ほとんどの場合が、そうだといえるかもしれません。そのとき会社はどうするでしょうか。お客さまのおっしゃることを受け入れながらも、会社の利益と対面を守らなければなりません。不動産会社の営業や経営の難しいところはそこにあるのです。新入社員のみなさんも、すぐにそうした問題に出くわすと思いますが、その解決の技をいち早く身につけて、磨いてほしいと願っています。困ったときには、私に相談してください」。
この黒田の言葉が、三保の心に残っていた。残っていたといっても、何かに感動したわけではない。黒田のいった内容があまりにも抽象的すぎて、三保には皆目理解ができなかったのである。その意味で、強く心に残っていたのである。次々と料理とお酒が振る舞われ、懇親会もたけなわとなった。そのときだった。三保のテーブルに渋いスーツ姿の黒田が近寄ってきた。三保は一瞬たじろいだ。「昨日の私の話、どう感じましたか」と聞かれたら、どうしよう。どう答えたらよいのだろうか。しかし、それは杞憂に終わった。その質問は、三保個人に対してではなく、そのテーブルを囲む数人の新入社員に対して発せられたからである。そばにいた男子の新入社員が、そつなく応じている様子が、三保にはありがたかった。
「表も裏もある」とは、どういうことだろう。家が建って家が消えることと、どう関係するのだろうか。三保の脳裏で、こうしたことが行きかっていた。
テーブルを挟んだ対面同士の三保と黒田の目が、一瞬あった。グラスを片手に黒田が三保のところに歩み寄って来た。すかさず三保は、「島田三保と申します。どうか、よろしくお願いいたします」といって、深々と頭を下げた。
すると黒田は、こう三保に尋ねた。
「みほさんとおっしゃるのですか、いい響きのお名前ですね。おそらく私ははじめて聞く名前だと思いますが、どのように漢字で書きますか」。
予期しない質問だった。面接試験でも受けているような感じがした。軽く息をして、こう三保は答えた。「『三つを保つ』と書きます。美と体と徳を保つようにと、父がつけたと聞いています」。
「ああ、そうですか。女の子が生まれて、美貌と健康を保ってほしいという願いがお父さまにおありになったのでしょう。それにしても、徳が加わっていることが、うれしいですね。おおかたの人は、徳を失いがちですから。ぜひとも、徳を、これからの仕事のうえでも、大切にしてください」。
三保は、名前を褒められたのか、今後の勤務について叱咤激励されたのか、わからないまま、「あ、はい、そのようにいたします」と答えてしまった。
三保は、黒田との会話はこれで終わったものと、内心ほっとした。しかし、黒田は、手にもっていたグラスに再び口をつけ、移動しようとしない。こんなときは、お酌をしなければならないのかとの思いが過ったが、三保自身、お酒は飲めないし、男の人にお酌をした経験もなかったし、一瞬、何をどうしてよいのか、わからなくなった。苦し紛れともいおうか、自分で何かを考えるに先立って、あっという間に口をついて出てきた。「黒田さんのときも、こんな新入社員の歓迎会はありましたか」。三保にとっては、必死の言葉であった。しかし黒田は、落ち着いた様子で、こう応じた。
「いや、私は中途採用でしてね……それで、こうした懇親会に顔を出して、若い人と接したいという気持ちが人一倍強いのかもしれません。仕事を抜け出して、来てみました」。
発話の仕方が、どことなく穏やかで、人を包み込むような雰囲気を醸し出していた。三保は、それに誘われたのか、「それでは、黒田さんは、それまでどのようなお仕事をなさっていたのですか」と、言葉を継いでいた。「少しぶしつけな質問だったかな」と、顔に何かが走る感覚があったが、黒田は、それさえもやさしく受け止めているようで、グラスをテーブルの上に置くと、ゆっくりと、こう話し出した。
「まあ、余計な、私の身の上話になりますが、私が生まれたのは一九六八(昭和四三)年です。そのとき、藤純子さん主演の映画《緋牡丹博徒》の第一作が公開されました。もちろん生まれたばかりの私がその映画を見るわけはないのですが、確か高校の一年のときだったと思います。友だちから借りて、はじめてビデオでその映画を見ました。単なる感動とか感激とかをはるかに超えて、これが私の人生の出発点になりました。その後二十数年が立って、先々代の社長に見出され、いまに至っています。そんなわけで、私はこの会社の裏方の人間です」。
三保はこれにどう返事をしていいのか、わからなかった。《緋牡丹博徒》という映画も知らなかったし、藤純子という女優さんの名前を聞くのも、これがはじめてであった。一体この黒田という人は、どんな道を歩いてきた人なんだろうか。「裏方の人間」とは……一体どんな仕事をする人なんだろうか。新入社員の三保が耳にした言葉は、どれもが鈍い響きをもっていた。返事をためらっている三保の様子を察したのか、黒田は、「それでは、これからのお仕事、がんばってください」と言い残して、その場から離れて行った。
懇親会がお開きになった。ドアを出たところで、最初に黒田と言葉を交わした、同じテーブルの男子新入社員と一緒になった。その子は、三保に向って、「どんなことを黒田さんと話したの。楽しかった。どうも黒田さんは、お客さま苦情係りの仕事をしている人のようですよ。昔は反社の人だったようですが」。そう一方的にいって、開きかけたエレベータの方へ駆け出していった。三保はそれに続かなかった。
独りエレベータわきの階段を下りながら、緋牡丹博徒とか、裏方の人間とか、苦情係りとか、反社の人とか――馴染みのない言葉が、何度も繰り返し押し寄せてきた。しかし、「自分とは関係ない」と、少し強引に言い聞かせると、いつの間にか、三保の思考範囲から消えていった。それでも、何か変な感じのものが残った。自分もそうだけど、黒田さんも、小さいころというか、若いころの経験がひとつのきっかけとなって、自分の人生を歩んで来た人であることには間違いない。三保は、あたかも自分自身の性格を肯定するかのように、今日の黒田との会話から、切って捨てられない共感に近い何かを感じ取っていた。ビルを出ると、外は、生暖かい春の雨が降っていた。
会社の方針により、入社後の一年目は、およそ一箇月単位で各営業所を移動しては、そこの先輩社員の指導のもとに業務を覚える、いわゆる見習い期間として設定されていた。どの営業所も、駅前にあったが、町の様子も違えば、営業所の雰囲気も異なっていた。新入社員として、三保も、店舗の掃除やお客さまへのお茶出しからはじまり、少しずつ先輩社員の後ろについて業務のいろはに接するようになっていった。
一年間の見習い勤務が終わり、三保が配属されたのは、最近開発された分譲住宅やマンション群が奥に控える駅前の店舗であった。この地区は、オフィスの集まる都市部の中心エリアまで電車で一時間少々で行けるため、利便性があり、とくにサラリーマン家族に人気があった。加えて、田畑もあっちこっちにまだ残っており、適度の田園暮らしも楽しめた。三保は、この店舗の賃貸デスクで業務にあたるベテランの藤村由紀の補助役として仕事をはじめることになった。主に藤村が、建物賃貸借契約書や賃貸管理業務委任契約書などの契約関係の業務を担当し、三保が、それに付随して派生する貸主や借主からの問い合わせや苦情などの対応を受け持った。藤村は、三保よりひと回りくらい年上で、半年前からこの店舗で働いている。余分なことは嫌いで、与えられた仕事だけに神経を向ける人だった。かといって、冷たい人ではなかった。三保にも柔らかく接し、わからないところも適切に教えてくれた。ただ、うわさ話や世間話に身を乗り出して興じるタイプではなかった。
そろそろ一年が立とうとする、ある日のことである。三保のデスクの電話が鳴った。受け取ると、相手は少し興奮気味に話し出した。
「私は、そちらの会社と賃貸管理業務委任契約をしています、長谷川良介と申します。サンライズホーム四〇三号室の区分所有者です。実は、先日、そちらの会社の緊急時担当者を名乗る男の人から電話がありました。話の内容は、入居者さまから玄関ドアのインターホンがうまく作動しなくなったとの連絡があり、担当の営業所の者が忙しくしていることもあって、代わりに私が現場で確認したところ、取り換えた方がよいと判断いたしましたので、さっそくこれから工事会社に指示をしようと思いますが、作業に入っていいですか、というものでした。そこでお聞きしますが、なぜ、契約に立ち会った営業所の担当者が私に電話をするのではなく、直接関係ない人が連絡をしてくるのですか。しかも、不具合の様子も知らされず、見積書もなく、どうして、いきなり取り換え工事の許可を取ろうとするのですか」。
ときどきこうした感情的な口調の電話がかかってくるので、経験上その場合、ことさら落ち着いて相手の言い分を聞くようにしていたが、聞き終わった三保は、その内容に、面食らってしまった。普通、賃貸物件の設備に不具合が生じた場合は、借主が、建物賃貸借契約を仲介した営業所に連絡をし、それを受けて賃貸デスクの担当者が現場確認をして、その様子を貸主に伝えたうえで、貸主の意向に沿って見積もりを取り、工事に入る。これが一般的な流れである。なぜ借主は、私たちの営業所ではなく、緊急時対応の部署に連絡したのか。そして、なぜ、その部署の担当者はいきなり貸主に電話をして、工事の許諾を求めたのか。長谷川からの電話は、三保にはすぐには呑み込めない、不可解な内容の話であった。そこで、三保は、「それでは、これから社内で調査をいたしまして、改めてこちらからご連絡を差し上げます。どうかそれまでお待ちいただきますでしょうか」といって、長谷川の了解を取り付け、電話を切った。
三保は、すぐさま賃貸デスクの上席の藤村由紀に報告した。まず藤村は、建物賃貸借契約に目を通した。そして三保に、こういった。「この契約は私の前任者のときに交わされていますね。したがって私も、持ち主の長谷川良介という人がどんな人なのか知りませんし、会ったこともありません。しかし、資料によると、三年前に転勤に際して長谷川さんは自宅のサンライズホーム四〇三号室を賃貸に出し、その管理をうちの会社に委任したようですね。ここに、その賃貸管理業務委任契約があります」。それを受けて三保は、「それではこの件、どう対応しましよう」と尋ねた。藤村はあまり積極的ではなかった。「緊急対応の部署に聞くか、四〇三号室に行って、借主さまにそのときの様子を聞くか、まずは、そんなところかしら」。自分が関係した契約ではないことが理由だったかもしれなかった。あるいは、余計なことに深入りしたくないという思いが、どこかにあったのであろうか。
その翌日のことであった。この会社の下請け会社のひとつである吉田工務店から封書が届いた。開けてみると、サンライズホーム四〇三号室の玄関ドアのインターホン取り換え工事に関する請求書が入っていた。三保は驚き、吉田工務店に電話を入れた。すると担当者は、こう説明した。「貴社の指示による取り換え工事が完了しましたので、その請求書を送らせていただきました。お手数ですが、貸主さまに再送していただけないでしょうか」。三保は、再び藤村に相談した。しかし藤村は、そっけなく、「この請求書は、貸主さまに送るしかないわね」と、短く言い放った。緊急時対応の部署といっても、組織上社内に位置づく管理部門ではなく、社外の契約警備会社である。どういう流れでこのインターホンの取り換え工事が決済され、実施されたのか、三保には、判然としないところがあった。しかし、すでに工事も終わっているようであるし、上司の藤村もそういうのであれば、三保は送るしかなかった。はじめて長谷川に送る書類である。事が事だけに、何か長谷川の気持ちを和らげようとする気持ちが働いたのだろうか、三保は、私用に使うときの、小ぎれいな花柄の短冊状の便箋を使って、用件のみを書き記し、名刺も同封した。
数日後、三保のもとに長谷川から電話があった。明らかに長谷川は怒っていた。
「なぜ、こんな請求書を送ってよこすのですか。私はこの工事を了解したつもりはありませんし……何がこの間に起こったのですか……これは架空工事の請求書なのではないのですか」。
三保は返答に窮した。ただ、「ああ」だの、「ええ」だの、意味不明のつなぎの音を繰り返すだけだった。こうして三保は、長谷川がいらだったまま自分から電話を切るまで、何とか耐え忍んだ。三保にとってこの電話は、この勤務についてはじめての、汗が流れる経験だった。
さっそく翌日、サンライズホーム四〇三号室へ出向いた。しかし、借主とは簡単なあいさつに止め、インターホンに不具合が生じた経緯も、緊急対応の電話番号に電話をした事情についても、何も聞かなかった。すでに終わったことであるし、それを聞いて、不審な実態に出くわすことにでもなれば、三保はそれに耐えきれない。それよりも何よりも、三保は、問題の真相を究明するためにここに来たわけではない。そこで、交換されたインターホンの写真だけを撮って、足早に退散した。店舗に帰ると、間違いなく取り換え工事が実際に完了していることを示す証拠として数枚の写真をつけて、支払いのお願いをする手紙を長谷川に書き送った。三保は、また長谷川から怒りの電話がかかってくるのではないかと思って、数日間は身構えていた。しかし結局、何の連絡もなく、音信が途絶えた。
その後忙しい日々が続き、三保は仕事に追われた。そのため、長谷川の件は、全く頭から離れていた。そんななか、サンライズホーム四〇三号室の借主から電話がかかってきた。用件は、浴室のシャワーのヘッド部分が劣化して、思ったような水量が出ないので、貸主に取り換えてもらうように伝えてほしい、というものであった。電話を切ると、すかさず三保の耳もとに、電話口で怒る半年前の長谷川の声が蘇ってきた。どう対応したらいいのだろうか……これからどうなるのであろうか。不安が過ぎる。三保は夢中で現場に行っては、状況を見て、写真に納めた。それから、手紙によりこの間の経緯を説明し、写真を同封すると、長谷川に郵送した。長谷川の反応が、しきりと三保は気になった。
一週間後、電話があった。長谷川はこう三保にいった。
「島田さんですか、私、長谷川です。先日来、浴室に設置されているシャワーのヘッド部分の写真を送っていただいていますが、これは、おっしゃるような経年変化ではありません。見てもおわかりのように、割れて破損しているではありませんか。おそらく、借主さんが床に落とされたものと思います。したがいまして、その責任は借主にあります。至急、新品に取り換えて、原状回復されるように、借主さんにお伝えください。……それから、半年前のことになりますが、なぜ請求書だけが送られてきて、見積書はないのでしょうか……」。
長谷川の声は、以前とは違って、極めて冷静だった。そして、帰って来た返答も、虚をつく、意外なものであった。長谷川は、明らかに借主の過失ないしは故意を確信している。しかし、それを借主に伝えても、おそらく借主は経年劣化を主張するであろう。三保は、現場を思い出しながら、何度も写真を見るも、どちらともいえない、微妙な画像である。三保は、借主にいうべきか、判断がつかなかった。そのとき、デスクの電話が鳴り響いた。借主からであった。「島田さん、例の件、まだでしょうか、シャワーが使えなくて、困っているのですが」。借主は、用件だけいって、すぐに切ってしまった。困っているのは、私の方だ――三保は自分の怒りを自分にぶつけてしまった。
それから数日後、考えても妙案は浮かばず、ホームセンターでシャワーヘッドを自費で買い、四〇三号室へ行って自分で古いものと交換した。水栓をひねると、勢いよく新しいシャワーヘッドから水が噴き出した。三保は、よそよそしく、「貸主さまからの指示で取り換えさせていただきました。これでよろしいでしょうか」と、借主に告げると、営業所に引き返した。帰ると、自分のデスクの袖の引き出しの奥に、古いシャワーヘッドを、自分の感情とともに押し込んだ。そしてデスクの上を見ると、吉田工務店へ発行を依頼していた、半年前のインターホン取り換え工事の見積書が届いていた。三保は、自分の手もと資料用に一部コピーをとったあと、一筆添えて、この見積書を長谷川に送った。「これで、長谷川も納得して、工事代金を吉田工務店に支払うであろう。インターホンもシャワーヘッドも、もうこれですべてが終わった」。疲労のなかで三保は、慰めるように自分に言い聞かせていた。
しかし、事は、これで終わってはいなかった。むしろ、さらに大きな問題へと発展していった。それは、三保へ宛てた長谷川からの一通のメールではじまった。そのメールには、冒頭に、こんなことが書かれてあった。
「これからのやり取りは電話ではなく、メールにさせてください。のちのち、言ったとか、言わなかったとかの水掛け論になることを避け、しっかりと証拠として残しておきたいからです。メールの表題は『サンライズホーム四〇三号室の設備不具合についての管理業務について』とさせていただきます。いっさいこの表題を変更せずに、今後この表題のもとに、双方の交信を続けたいと思います」。
ここまで読んで、三保の体に何か稲妻のようなものが走った。長谷川は、何を考えているのであろう。何をしようとしているのであろうか。三保は、次の段落へ目を進めた。すると、驚くことに、概略次のようなことが書かれてあった。
「インターホンの取り換え工事の見積書、受け取りました。しかしよく見ると、この見積書の日付が、すでにいただいております請求書の日付の三日後となっています。なぜなのでしょうか。ご説明ください。私の理解では、日付は、見積書、工事完了確認書、請求書の順に並ぶのではないかと思います。見積書と請求書の日付が逆転していることの説明とあわせて、借主の署名と捺印がなされた工事完了確認書の提出を求めます」。
すぐさま三保は、見積書と請求書のコピーをファイルボックスから取り出した。長谷川が指摘するように、請求書の発行日付から三日後の日付が、見積書に記載されていた。あたふたと、受話器を握りしめた。しかし、吉田工務店の担当者は不在だった。そして経緯の確認がとれないまま、三日が流れた。
出社すると、いつものように三保は、パソコンを立ち上げ、メールの確認をはじめた。すぐにも目に留まったのは、「サンライズホーム四〇三号室の設備不具合についての管理業務について」を表題とするメールであった。大まかな内容は、こうだった。
「先日の質問につきまして、この三日間、いかなる回答もいただいておりません。この質問の内容は貴社と締結しています賃貸管理業務委任契約に関するものでありますので、すみやかに回答する義務が貴社にあるものと考えられます。そこで、そのことを踏まえまして、以下にさらに二点、ご質問をさせていただきます。(一)ご回答の責務を履行されない理由は何なのでしょうか。(二)回答ができないということは、質問内容に関しまして、賃貸管理業務委任契約に反する行為が貴社にあったことをお認めになった証左であると理解しますが、そのように受け止めてよろしいですね。確認をさせてください」。
三保は、「お返事が遅くなっていますが、これは、責務の履行を怠っているわけではなく、現在、工事を担当した会社に問い合わせ、確認中によるところのものです。ご理解いただき、いましばらくお待ちください」――こう返信するのが、やっとのことだった。すると、間を置かずして長谷川から再びメールが届いた。内容は、六つの質問と、それへの回答を求めるものであった。三保は、無我夢中で六つの質問に目を走らせた。短く要約すると、おおかた以下のようなことが、箇条書きされていた。 (一)なぜ、不具合状況の説明もなく、そして、貸主の了解もなく、インターホンの取り換え工事が行なわれたのですか。やはり、架空工事だったということでしょうか。 (二)なぜ、その工事にかかわる請求書が、貸主に送られてくるのですか。本当に不具合はあったのですか。もし不具合があったとしても、その責任は、借主にある可能性もあるのではないでしょうか。なぜ、確認しないのですか。 (三)請求書の送付に際し、なぜ、社用の公的な便箋ではなく、私用に使う花柄便箋をお使いになったのですか。貴社では、日常的に公私混同が行なわれているのですか。 (四)なぜ、見積書と請求書の発行日付の順番が逆転しているのですか。明らかに、工事のあとに見積書が作成されたことになりますよね。 (五)なぜ、工事完了確認書が届かないのですか。本当に工事は行なわれたのですか。 (六)シャワーのヘッド部分の取り換えを、なぜ、瑕疵責任のある借主が行なうのではなく、貴社が肩代わりされたのですか。今後の不具合も、すべて貴社によって補償されるものと考えてよろしいですよね。
そして最後に、こう記されていた。
「おそらく島田さまには、この質問に対してお答えできる職務権限も、当事者能力もないものと思われます。そこでこのメールを、賃貸管理業務委任契約書に記載されています私のカウンターパートであるところの、三井山土地開発株式会社賃貸営業部長の本郷真一さまに転送してもらい、直接ご本人さまからご回答をいただくべく、お取り計らいいただきますよう、よろしくお願いいたします」。
三保は、窮地に立った。このメールを隣りに座る藤村由紀に転送して、指示を求めた。藤村は、こういった。この日はやさしかった。そして、珍しく流暢だった。「こんなメール、営業部長に転送するわけにはいかないわね。こうなったら、『黒百合の源』に処理してもらうことね。私から連絡して、アポをとっておくから、心配しなくてもいいわよ」。「ありがとうございます。でも、その『黒百合の源』という人は、どなたでしょうか」。この質問に藤村は、鼻でせせら笑いながら、こう答えた。「知らないの、本社の黒田源蔵さんよ。飲むとあの人、おだてられているとも知らずに、平気で人前で、《緋牡丹博徒》の映画のなかの緋牡丹のお竜さんの真似をするのよ。腰を低くして、右手を出して、上目使いに、『姓名の儀は、姓は黒田、名は源蔵、別の名を黒百合の源と発します』とか何とか、仁義を切るのよ。変でしょ、そんなに格好つけなくてもいいのに。だからみんな、黒田さんのことを陰では『黒百合の源』と呼ぶのよ。馬鹿げた話だと思うけど……」。
そのとき三保は、新人研修の最終日の懇親会のときに出会った黒田との会話を思い出した。あの人が「黒百合の源さん」なのか。そういえば黒田さんは、《緋牡丹博徒》がきっかけでこの道に入った、といっていたし、確かそのとき、「徳」が話題に出た。黒田さんにとっての「徳」とは、任侠世界の義理や人情のことを意味していたのだろうか……。
それから二日後、本社の会議室の片隅で、三保は、社員呼んで「黒百合の源」こと黒田源蔵に会った。職務上のミスを叱責されることを覚悟していた。下を向き、目をあわせることもなく、消え入るような面持ちで相談内容を一つひとつ説明すると、聞き終わった黒田は、こうしゃべり出した。
「私はあなたの直属の上司ではありません。したがって、あなたのこの間のお客さまへの対応が適切なものであったかどうかを云々することは控えます」。
三保は、うつ向いたまま、「本当に申しわけありませんでした」と、小声で応じた。それを聞いて黒田は、話を続けた。
「私はお客さまとのトラブル解決には、極上と松竹梅の四つのレベルがあると考えています。極上は、法廷での決着です。松は、示談金や慰謝料などの金銭による決着です。竹は、社としての公的な文書による回答や謝罪を意味し、最後の梅は、電話やメールでのやり取りのなかでの話し合い解決を意味します。重要なことは、すべてのトラブルを梅のレベルで止めることです。そしてそれが、私の仕事です」。
「ご迷惑をおかけします。どうか、よろしくお願いします」。三保は、蚊の鳴くような弱々しい声で、言葉をつないだ。続けて黒田は、こういった。
「今日お聞きした問題も、何とか話し合いで解決しなければなりません。今後私が、このメールを引き取って長谷川さまと話してみます。あなたにも同文のメールが読めるようにしておきます。もし今後、再びあなたにお聞きしたいことが発生したら、電話かメールをします。今日は、これで結構です。営業所にもどり、勤務に復帰してください」。
帰りの電車のなかで、三保は、黒田さんはこの問題を今後どうもってゆこうとしているのだろうか、と自問した。しかし、想像さえできなかった。自分の能力のなさ、性格の弱さをしきりと責めた。車窓の外に目を移してみた。遠くを眺めると、三井山連峰が美しくも初冠雪していた。一方、都市部を抜けるにしたがって、ビルや家がなくなってゆき、それに代わって、積雪の山々を背景に、いまだ残る田園や山野が少しずつ姿を現わす。おもしろいことに、家がなくなって、田畑が現われ、次の駅が近づくと、田畑が消えて、また家やビルが現われる。そのときのことだった。「人がいなくなると家が消えます」、それでは「家がなくなると、今度はそこから何が生まれるのでしょうか」――昔から抱いていた三保のいたずらっぽい疑問が再生された。
藤村由紀であれば、こう答えるのではないか。「決まっているじゃない、家がなくなれば、そこからビジネスが生まれるのよ。私たちがここでこうして働いているのも、そのおかげでしょ」。確かにそうである。それでは、黒田源蔵であれば、どうであろうか。「私は、家がなくなると、今度はそこから争いが生まれると思います」、と答えるにちがいない。そこに彼の存在意義があるのだから……。しかし、三保の頭の片隅では、違った別の答えが、胎児のように、小さな手足を動かしていた。
大学で卒論を書いていたときに見た総務省統計局の資料には、二〇九五(令和七七)年には日本の総人口は半減すると推計されていたし、別の資料には、そのときまでには、日本の家屋は、いまの三分の一が空き家になることが示されていた。そうなれば、不動産会社の業態も影響を受け、これまでの造成と建設という足し算の仕事から、解体と再生という引き算の仕事へと大きく変化するはずである。人には恥ずかしくて、こんな偉そうなことは誰にもいえなかった。しかしこれが、三保の内に秘めた、卒論の結論部分であった。これからこの世紀の終わりに向けて、ビルや家屋がどんどん空き家になって、解体されてゆく。そして、そのあとに、昔あった自然や田園が生き返る。このようして日本の国土の原状回復が進められてゆくにちがいない……。家や建物がなくなって、そこから生まれるものは、明らかに自然と田園なのである。自分はいま、そんな時代に生きている。
ひ弱になっていた三保は、移りゆく窓からの眺めに誘われながら、子どものころに体験した、「雪消」という文字への感動や、人がいなくなった家の解体場面や、その後の、卒論で頭を悩ませていたころの自分の情熱を思い出しては、そこにわが身を置こうとしていた。
営業所にもどると、さっそく黒田から長谷川に宛てたメールが、三保にも届いていた。素早い対応に驚きながらも、書かれている内容をいち早く知りたいという思いで、そのメールを開いた。書き出しには、こう書かれてあった。
「私は、三井山土地開発株式会社賃貸営業部付グループリーダーの黒田源蔵と申します。長谷川良介様には、ご所有のサンライズホーム四〇三号室につきまして弊社とのあいだで賃貸管理業務委任契約を交わしていただいており、平素から大変お世話になっております。今般、本物件の管理業務につきまして、受任者であります三井山土地開発株式会社賃貸営業部長本郷真一へお問い合わせをいただき、ありがとうございました。しかしながら、すでに本郷は関連会社に出向しており、それ以来、私が、押印管理者に任命され、対応に当たらせていただいております」。
このことは事前には聞かされておらず、三保は、これにより黒田の立場をはじめて知った。黒田の文は、六つの質問内容への回答へと進んだ。回答の趣旨は、おおかた以下のようなものであった。 (一)テレビモニター付インターホンの取り換えにつきましては、防犯上緊急を要するものであり、同時に、少額工事の範囲にある案件であると判断いたしまして、借主さまからの強い要望に沿って、ただちに工事を進めさせていただきました。 (二)テレビモニター付インターホンの不具合につきましては、工事担当会社(吉田工務店)の判断によりますと、経年劣化によるものであるとの報告を受けております。 (三)便箋につきましては、担当者に確認しておりませんが、弊社では、公私の区別をはっきりつけて業務に当たるように、従来から指導しておりまして、今後も、そのことを徹底させてゆく所存であります。 (四)請求書と見積書の日付に関しましては、吉田工務店に確認いたしましたところ、単純な記載ミスであることが判明いたしました。誤った日付になっているにもかかわりませず、担当者が十分に確認しないまま、長谷川様にお送りしてしまったことを、心からおわびいたします。改めて正規の書類を送らせていただきます。 (五)工事完了確認書につきましては、これも吉田工務店に確認しましたところ、従前より、こうした書類は発行していないということでした。 (六)シャワーのヘッド部分の不具合につきましては、借主さまから再三のご要望があり、また、使用不可能な状態であることを踏まえまして、これ以上借主さまにご不便をおかけしてはいけないという担当者の判断で取り換えさせていただきました。ただし、これが前例となることはありません。
三保にとっては、必ずしも事実ではない表現もあったが、黒田が、自分のためにこう書いていることを思うと、それは口に出せなかった。自分も三井山土地開発の一社員として、黒田の見解に従わなければならない――そういう思いが三保に生まれていた。しかし、長谷川を憎む気にもなれなかった。
そして最後に、黒田は、こう締めくくっていた。「今回の担当者の対応に、長谷川様の信頼を損ねる結果を招いた部分があったことを深く反省し、これからの賃貸管理業務の向上につなげてゆきたいと考えます。今後これ以上の事実が判明しない限り、これをもちまして、最終的なご回答とさせていただきます。引き続き、どうかよろしくご指導たまわりますよう、お願い申し上げます」。
三保には、黒田が、真実であろうと虚偽であろうと、つくり上げたストーリーを本心から信じて発話していることが、ひしひしと伝わってきた。これが会社を守る防波堤というものであろうか。悪役というか、汚れ役というか、黒田の役回りに同情した。しかし、どこかで完全に同心化できない自分も存在していた。徹しきれない自分、身軽さを求める自分、何かそんなものが、三保の内面に居座っていた。
そのメールから一日が過ぎた。長谷川の返信はない。三保は、これでこの件はすべて終わったのか、そうではないのか、長谷川の気持ちを知りたかった。それから二日後、じりじりしながら待つ三保のパソコンに、長谷川から黒田に宛てた返信のメールが入った。これは、こうした非日常的な文言からはじまった。
「いただいたご回答は、大変理知的で堂々としたものであり、クレーム処理における他の手本となるような、実に見事な表現と語句の羅列によって構成されており、心底感服するとともに、あたかも、羊が狼に急変するさまを扱った、めったに経験することのない、貴重な一幕の芝居を観るようでもあり、十分堪能させていただきました。難しい役どころ、本当にご苦労さまでした」。
明らかに長谷川は、黒田の回答を嘲笑している。彼の目には、黒田の文は、強弁とも詭弁とも駄弁とも、映じたのであろう。長谷川のメールは、次のような一文で閉じられていた。
「私は、黒田さまご自身を責めようとは思いません。また、賃貸管理業務委任契約書に反することを理由に、管理手数料の返還を求めようとも思いません。そうではなくて、私は、あなたの職責を疎ましく思っているだけなのです。なぜ、正直になれないのですか。この回答には、多くの虚勢や欺瞞が含まれています。今後、幾つかの疑問点や矛盾点をお尋ねしますので、再調査のうえ、真相を明らかにしていただきたいと思います。私は真実が知りたいのです」。
これを読んで三保は、いま世間の関心を集めている、国有地売却にかかわる国の疑惑隠しへの犠牲者側からの再調査要求に幾分近いものを感じ取った。しかし、その心情は心情としてありながらも、会社に金銭的損失はなく、長谷川にとっても実害はない。おそらく長谷川は、見積書と請求書の日付問題を理由に、インターホンの取り換え工事の費用を支払うことはないであろう。そうであれば、工事を請け負った吉田工務店がその損失を被ることになるが、それは今後、工事の依頼を増やすことで、ある程度補えるし、シャワーヘッドの購入費は、すでに自分が負担している。この実態を冷静に見れば、長谷川の今後の再調査の要請は、誰にとって得になるというのであろうか。三保は、現状に幕を降ろしたかった。
もちろん三保には、長谷川が求めているのが、損得ではなく、高徳にかかわることであることは、理解できていた。実のところ、生まれたときに父親がつけた自分の名前に、「美」と「体」に加えて、「徳」が含まれていた。そしてまた、新人研修の懇親会で顔をあわせたとき、黒田が、「おおかたの人は、徳を失いがちですから。ぜひとも、徳を、これからの仕事のうえでも、大切にしてください」といったことも、三保にはしっかりと記憶に残っていた。
誰しも「徳」に生きたい。しかし、このとき三保は、少し「徳」から身を引いた。私は、「黒百合の源」こと黒田源蔵のように、消えない「悪」や「汚れ」を背中に背負うほど強くはない。かといって、長谷川のように、「徳」だけに縛られていては、おそらく息苦しさを感じるであろう。背負うのであれば、私は肩に白い雪を背負いたい。三保の思いは、営業所の窓から目に映る三井山連峰の春の雪消と重なっていた。暖かくなれば、雪であれば、間違いなく消える。私は雪消を待つ女でいい。三保は、しきりと別の自分に話しかけていた。それにしても、長谷川良介とは何者であろうか。一方で、その影のような存在が気になっていた。彼もまた、雪となって消えてほしい。三保はそう願った。しかし、自問もしてみた。長谷川が消えてしまえば、今度はそこから何が生まれるのだろうか――。
(二〇二〇年)