星川信夫がこの奥阿蘇町に移住してきたのは、定年を迎えた二〇一三(平成二五)年三月の翌月のことであった。それまで信夫は、関西のある大学で工芸史を教える教員をしていた。信夫の退職後の夢は、栄華の巷から独り離れ、ひっそりと山にこもり、残された執筆に専念することだった。ちょうどいま、その実現のための入り口に、信夫は立っている。
移住先の奥阿蘇町は、阿蘇地域の一番西の外れに位置し、ここに、現役で働いていたときに取得した小さな山荘があった。二十数年前の話になるが、信夫は、別荘用として売りに出された分譲地の南西の一角を購入し、自分好みのデザインによってこの山荘を建築した。そのとき以来、信夫のお気に入りの隠れ家となり、春と夏の大学の休みの時期、静かに集中して、ここで論文を書くことが習わしとなっていた。
信夫の家と庭は、二区画をあわせた一五〇坪弱のゆるやかな斜面の敷地に設けられていた。もともとこの分譲地は山林であった。当時、地元の開発業者によって整備がなされ、二十数区画に分割されて販売された。いま、そのうちの半数弱ほどの区画に家が建っているが、どの家も別荘として使われ、信夫以外にいまだ定住者はいない。下の集落の畜産農家がトラックに乗せて牛を運ぶための牧野道を上り切ったところにこの分譲地はあった。北の一面は見渡す限りの草原で、牛の放牧場として使われ、残りの三方をスギ林が囲い、いやがうえにも晩年の隠棲にふさわしい、世俗を超えた非日常の空間をつくり上げていた。
転居の手続きのために、信夫は町役場へ行った。転入に際しての必要な書類に記入が終わり、それが受理されると、おもむろに信夫は、対応したその職員にゴミ出しについて尋ねた。
「私の分譲地には、ゴミ出し用のステーションがないのですが……どうしたらよいでしょうか……ステーションを設置していただけないでしょうか」。
すると職員は、こう答えた。
「この別荘地にはこれまで永住者はいませんでしたので、ゴミ・ステーションは設置していません。それでは、一番近くのゴミ・ステーションに出してもらって結構です。ゴミの分別表とゴミ出し曜日のカレンダーがこのパンフに記載されていますので、これを見てください」。
信夫は、すぐさま反応した。「『一番近くの……』とおっしゃいますが、そんなことをしたら、そこの住民はけげんに思うのではありませんか。よそ者が勝手に捨てに来た、と迷惑がられたり、不審に思われたりしても……」。
「そうですか、それでは、町のゴミ集積場が、役場の前の道を数百メートル先に行ったところにありますので、そこへ直接持参してください。一〇キロまでは無料です。土日は休みですが、分別さえきちんとできていれば、出す曜日に制限はなく、いつでも受け付けてもらえます。詳しくは、先ほど渡したパンフレットに書いてありますので、読んでみてください」。
信夫は、職員のあまりもの冷徹な態度に驚いた。実のところ信夫は、人口が減少しているこの町に転入してきた自分を、町は歓迎するにちがいない、と内心思っていたのである。しかし、そのような様子はどこにもない。信夫は、町民の権利とばかりに、少し語気を強めた。
「私も町民のひとりとして、これからここで生活するわけですので、何とか私の住む場所にも、ゴミ・ステーションをつくってもらえないでしょうか」。
「それは無理です。ひとりのために、ゴミ・ステーションをつくることはできません。お手数ですけど、近くのゴミ・ステーションか、ゴミ集積場まで持って行ってもらえませんか」。
信夫は老後の新しい生活の出発点としてこの町を考えていた。それだけに、職員が発したこの返答は、信夫の初々しい町民意識を頭から砕いてしまい、つなぐ言葉がすぐに口から出てこなかった。よそ者だから、そういっているのであろうか。昔からの町民に、ゴミ収集はしなくなったので、各自ゴミ集積場まで持って行くようになどとは、いうはずがない……。信夫の心中は穏やかではなかった。そうした信夫の気持ちを尻目に、職員は別の話題を切り出した。
「ところで星川さん、この町では、住所ごとに駐在区が設けられており、各駐在区には、駐在嘱託員と呼ばれるお世話係の人がいて、その人が、役場からのお知らせやパンフレットなどの回覧文書を配布しています。この用紙に、星川さんの駐在区名と、駐在嘱託員のお名前と電話番号が書いてありますので、できるだけ早く、駐在嘱託員の方に転入の連絡をしてください。お願いします」。
信夫は、これには何も答えず、質問もしなかった。小さく「ああ、はい」と、下を向いてうなずくだけだった。決して関心がないわけではなかった。信夫の頭は、まだゴミのことで整理がつかず、思考の余裕を失っていたのである。
数日後、信夫は、渡された用紙に書いてあった駐在嘱託員の電話番号に電話をした。出たのは女性の声であった。駐在嘱託員の妻であるらしい。信夫は転居したことを告げ、さらに、ごあいさつに伺いたいと申し出た。というのも、関西に住んでいたときには、このような駐在嘱託員といった制度はなく、そこで、直接会って、どんな人なのか、そして、どんな業務をする人なのかを自分の目で確かめてみたいと思ったからである。その女性は、自宅のある場所を説明した。信夫は手持ちの地図で道順を確認すると、さっそく出かけることにした。
その家は、車で一〇分ほどのところにあった。敷地に入ると、庭というよりは、数台の車が十分に置けるくらいの駐車スペースが広がり、信夫はここに車を止めた。車から降りると、何かが天日干しされている様子がうかがわれ、ひょっとしたらこの空間は、農作業に使うスペースだったのかもしれなかった。右手に、農機具などを入れる大きな納屋があり、そして左手に、新しそうな住まいが配置されていた。典型的な最近の農家の家構えである。玄関には表札が掲げられ、駐在嘱託員の名前と一致した。信夫は呼び鈴を押した。奥から女の声が聞こえ、玄関の戸が開いた。
「はじめまして。私、先ほど電話をしました星川信夫と申します。ごあいさつに伺いました」。
そういって信夫は、手土産と名刺を差し出した。女は、現在自分の夫が、町からの委託を受けてこの地区の駐在嘱託員をしていることを伝え、丁寧に手土産のお礼をいった。駐在嘱託員には任期があり、数年ごとに交代するらしい。そして夫は、代々受け継いだ農業を数年前に止め、田植えも稲刈りも業者に任せ、その一方で、収入を確保するために、隣り町にある会社に毎日通勤しているという。この町によく見かける脱農業のサラリーマンなのである。ひととおり自分の夫のことを話すと、続けて女は、「失礼ですが、星川さんはどちらからいらしたのですか」と、尋ねた。顔の表情や口調から、この男がどこから来て、何のためにここに住み着こうとしているのか、怪しんでいることが読み取れた。信夫は、不審な人間ではないという思いを込めて、こう答えた。
「実はこれまで関西の大学に勤めていましたが、定年を迎え、今後の論文の執筆は、自然豊かな奥阿蘇町でしたいと思ったものですから、ここに引っ越してきました……家は、二十数年前に分譲されたときに買って、建てています」。
この説明で、女の不審が解消されることはなかった。それどころか、関西とか、大学とか、論文とか、日ごろ使い慣れない用語が、彼女の怪しむ視線を強化させてしまったようである。女は、率直に驚きの表情を見せ、「よくまあ、こんなところまでいらっしゃいましたね」と応じた。信夫は、この発語から、歓迎というよりも、むしろ迷惑に通じる音の響きを感じ取った。しかし、町からの回覧文書は受け取らなければならず、頭を下げて、今後の配布についてお願いをすると、何やら居場所を失って倒れかかるようにして、玄関の外に出た。
それから一年近くが過ぎた。いっこうに町からの回覧文書が届く気配はなかった。駐在嘱託員の妻に名刺も渡している。そこに住所も電話番号も書いてある。なぜ持って来ないのであろうか。その間、折に触れては、このように不思議に思うことが、確かにあった。とはいえ信夫は、年に何回、どんな回覧文書が町から発行されるのかさえも、よく知らなかったし、加えて、もともと世俗を離れての隠遁生活である以上、町の動きについての情報など、ぜひとも必要とするわけでもなかった。
ところがそうするうちに、県議会議員と町議会議員の選挙がはじまった。投票日と投票会場が印字された葉書は、町の選挙管理委員会から郵送されてきたものの、選挙公報がどこからも届かない。どんな人が何人、立候補しているのか皆目わからない。選挙公報は駐在嘱託員の手を通して配られるものなのか、それもよくわからない。とうとう投票日が過ぎてしまった。そして間を置かずして、今度は国勢調査がはじまった。この調査についても、誰からも何の連絡もない。信夫の思いに、この町から見放されているような、裏を返せば、何か差別を受けているような、怒りにも似た熱い感覚が、にじみ出てきた。
信夫はこのことを質そうと、町役場に行くことにした。対応に出た職員に、信夫はこう切り出した。
「先日の県議会議員と町議会議員の選挙ですが、私のところには選挙公報が届かなかったのですが……どうしてですか」。
職員は少々困惑気味に、「駐在嘱託員さんが……」といって、言葉を止めた。信夫は攻めた。「一年前に転入してきたとき、役場の人から、駐在嘱託員さんにあいさつをするようにといわれたので、そうしたのですが、今日まで、何ひとつ回覧文書は届いていません」。職員は、「そんなことはないと思いますが……そうなんですか……」と、しきりに困惑してみせる。信夫はさらに攻め立てる。「なぜ私のところには町からの回覧文書が届かないのですか……これからは、町の職員が直接持って来てください」。「いや……それはできないのですが……」。「それでは、郵送してください」。「いや……それも……ひとりを特別扱いすることになりますので……」。「それでは、どうすればいいのですか」。
少し空白の時間が漂うと、職員は、こう力を込めた。
「わかりました。この場合、星川さんご本人に、役場に取りに来てもらうしかありませんね……だいたい二週間ごとに、広報や議会便りや、それ以外にもさまざまな文書が出ます……取りに来るのが大変でしたら、ある程度のものは、町のホームページにも掲載していますので、それをご覧になったらいかがでしょうか……」。
これを聞いて、信夫は、唖然とした。なぜ、自分のところだけ、駐在嘱託員の制度が機能していないのだろうか。なぜ、自分だけ、役場まで回覧文書を毎回取りに行かなければならないのだろうか。この一年、ほぼ二週間に一回発行されていたという回覧文書が届いていなかったことを知って、町は何も責任を感じないのであろうか。とりわけ、最近の選挙公報が配達されなかったことを、どう思っているのだろうか。信夫の脳裏を、幾つもの疑問と憤懣が渦巻いた。
しかし、それをこの職員にぶつけても、誠実な回答が返ってくる様子も感じられず、すべて、胸のなかに呑み込んでしまった。そして信夫は、もうひとつの国勢調査について問い質した。
「選挙公報もそうですが、最近行なわれた国勢調査についても、この間何の連絡もありませんでした。どうしてなのでしょうか、私は調査の対象ではなかったということでしょうか、それとも……」。
明らかに信夫は、「それとも、町から無視されたのでしょうか」と、続けたかったのであるが、「それとも……」で、口を閉じてしまった。無視されたことをはっきりここで確認されることを恐れ、避けてしまったのである。しかし、結果的に無視されたことには変わりはないが、どうやら意図的に無視している様子でもなかった。職員は、「え、え……」と、何ともいえない音を何度も発し、「それでは、ここですぐ記入してください」と、信夫に要請した。「いいや……テレビでやっていましたが、調査はもう終わっているのではないですか……」。「いや、まあ、大丈夫です、間に合います」。そういって、職員はすぐさま調査用紙を差し出し、鉛筆を横に置いた。信夫は、新参者である以上、無理に事を荒立ててはいけないという変な本能的判断が働き、こんなことが有効なのかどうかもあえて確認しないまま、あたかも強制されたかのような状況下で鉛筆を握りしめた。役場からの帰り道、信夫は、本当に自分はこの町の町民なのだろうかと、独り繰り返し自問していた。
ある日、友だちが遊びにやって来た。信夫がこの町に来て、あっという間に数年が過ぎたが、家に引きこもって仕事をしているため、ほとんど地元住民との接触はなく、そのため友人と呼べる人の数も限られていた。信夫の日々の唯一の楽しみは温泉に行くことであった。定年の前年、信夫は前立腺がんを患い、全摘出していた。それ以来、尿のトラブルに悩まされ、この地への移住を決意したのも、ひとつには、温泉療法により少しでも排尿機能を改善したいという思いからであった。確かに毎日の温泉通いは、信夫の病後の体にとって効果的だった。それと同時に、予期せぬことに、温泉友だちもできた。開館を目指して毎日一番風呂に来るのは決まった数人で、まずサウナに入って、そこで日常雑事に関する談義を楽しむのが、自然と習慣になっていた。信夫同様、誰しもが、どこか体に不具合を抱えていた。そのことが、互いに心を開かせ、距離を縮めていった。この日訪ねて来た友だちも、そうした信夫の温泉仲間のひとりで、名前を富田雄一といった。富田は、信夫とほぼ同じ年齢であった。この奥阿蘇町で生まれ育ち、県外で就職したものの、途中で辞めてこの町に帰り、いまは年金に頼る生活をしていた。そのため、町のことならほぼ何でも知っていて、信夫にとって富田は、この町の土地柄を知るうえでの数少ない貴重な情報源となっていた。
いつも客に接するときと同じように、信夫はコーヒーを用意した。ふたりは、庭を眺めながら、ひとしきり雑談に興じた。それが一段落すると、少し富田にこの町のことを聞いてみたいという誘惑に駆られ、信夫は、こう話題を転換した。
「富田さんが小さいころは、この町はどんな感じでしたか」。
「そうですね、この町は交通の要所で、商店街も活気があり、とくに春の初売りのときなどは、商店通りの両脇に外からの商売人たちがずらりと仮設の店舗を並べ、子どもたちは、それをのぞき込みながら、珍しいおもちゃやお菓子を買うのが楽しみでした。いまはもうありませんが、当時は旅館も数件あり、夜になると、料理屋から三味の音が聞こえてくることもよくありました……まあいまは、ほとんどの商店がシャッターを閉めていますが……大きく変わりましたよ」。
それを受けて、「やはり、人が減っているのでしょうね」と、信夫が問いかけると、こう、富田が返してきた。「私の子どものころは、この町には一万人を超える住民がいました。そして、自分が通った町の県立高校は、一学年四クラスありました。それがいまでは、人口は半減し、高校は一学年ひとクラスですよ、寂しいもんです……もう私も最近七〇を超えましたが……何もかもが移り変わってゆくんですね……この間、廃校になった小学校も幾つもあります、それに伴い学校区も変化してゆきました……さらには、町の居住区を示す大字名も、かつては一〇以上あったものが、いまでは数えるほどに減少しています……今後は、どうなってゆくのでしょ……明らかに縮小社会です……いつかはすべてが消えてなくなるのでしょうか」。
富田の返答には、昔を懐かしむ思いとともに、諦めの境地も幾分交差し、顔には、何かやるせないような趣さえ見受けられた。富田の表情を察した信夫は、こうした話題はあまりよくなかったのかな、と重いものを感じた。
ここで少し話の流れが途切れた。しかし、しばらく間を置くと、富田は再びコーヒーカップに口をつけ、何か吹っ切れたときの、あのさばさばした顔色に変わり、自分から積極的に話し出した。この町のことを知らない信夫に、少しでも話題を提供して、何か役に立ちたいと思ったのかもしれない。富田はこういう話題で会話をつなげた。「星川さん、知っていますか、普通、単身赴任というと、夫が家族から離れて外へ仕事に出ることをいいますよね……」。信夫は相槌を打って、「そうですよね」と言葉を重ねた。それを確かめると、続けて富田はこういった。
「ところがこの町では違うんです……この町の子どもたちは、だいたい小学校までは地元の学校に通いますが、ある程度お金があり、教育熱心な家庭では、中学か高校に入るときに、母親とともに家を出て、市内の学校に通うようになるのです。その結果、父親だけが独り地元に残って働くことになります。つまり、逆単身赴任なのです」。
はじめて聞く「逆単身赴任」という言葉に、信夫は心底驚いた。そして、進学にかかわる過疎地の田舎の深刻さを思い知らされた。さらに富田は、少々自嘲気味に、こう話を続けた。
「母親は、一緒に市内で暮らしながら、有名校に通う子どもの世話をする。そして、昼間の時間はパートとして働きに出て、生活費と学費を稼ぐ。これが一般的なパターンです。子どもは学校を卒業すると、今度は県外の都会の大学に入り、そのまま就職して、町には帰ってくることはほとんどありません。そして、こうなることは、親も子も、言わずもがなの了解事項となっているのです」。
都会暮らしが長かった信夫は、この町のことを、第二の人生を送るのにふさわしい自然豊かな桃源郷とばかり信じ込んでいた。しかし、この町の住民が置かれている実情を具体的に知るにつれ、その見方は、ひょっとすると一方的で単純すぎるものだったのかもしれない――信夫は、これまで自分が確信してきた生活感覚のようなものに、少しずつ、漠然とではあったが、疑問を感じはじめた。すでに、信夫のわずかばかりの知識の片隅にも、自分の地区担当の駐在嘱託員が、この時流のなかにあって農業を諦め、慣れないサラリーマンになっていた事例が刻み込まれていた。信夫のような移住者にとっては、この町は、自らの意思で自由に選び取った、晩年を楽しく過ごすための希望の町であった。しかしながらその一方で、生まれ育った地元民にとってのこの町は、教育の機会やら農業の継承やらにかかわって、自ら望まない幾重もの不自由さをやむなく引き受けざるを得ない宿命の町となっていた。信夫は、尋ねてきた富田との会話を通じて、そのギャップにはじめて気づかされたのであった。
信夫が七〇歳を迎えたとき、町との関係が、新たに生まれた。ひとつは、町が運営する奥阿蘇温泉館の入場料が、高齢者福祉の一環として、半額になったことである。毎日通う信夫にとって、ありがたい対応だった。信夫はこの地に移住してからこのかた、理不尽とも思える役場の指示に順応しながら、町が発行する回覧文書は、駐在嘱託員を介すことなく、だいたい二週間に一度、直接自分で役場まで取りに行っていた。また、ゴミについても、ひとりの住民のためにはゴミ・ステーションを設置しないという町の見解に従い、そして同時に、近隣のゴミ・ステーションにこっそり隠れて置くことへのためらいもあって、ふた袋くらい生活ゴミが溜まると、車に乗せて町のゴミ集積場まで持参していた。このように日々難儀を背負わされていた信夫にしてみれば、半額で奥阿蘇温泉館に入湯できるようになったことは、町から授かったはじめての恩典であり、多少なりとも心和らぐ瞬間であった。
もうひとつの町とのあいだに発生した新たな関係は、今後毎年、敬老祝い金が出るようになったことだった。町から一通の文書が届いた。そこには、七〇歳の誕生日を迎えるこの年の敬老の日にあわせて、町から祝い金が出るので、決められた期間中に役場まで受け取りに来てほしい旨、書かれてあった。まだそんな歳ではないと思いながらも、年金以外に収入がない身にとっては、少額とはいえ、思わぬいい知らせであった。
信夫は、役場へ行った。まず担当者が、「行政区はどこですか」と尋ねた。そのとき、これまでに信夫の胸に鬱積していた、何ともいえない不純物のような思いが溢れ出てきた。信夫はこう切り返した。「私にはそのようなものはありません」。
実は信夫は、「行政区」という制度を全く知らないわけではなかった。この間、それとなく気づいてはいた。この町の住所表示を見ると、町名の下に大字がつき、その下に小字がつき、最後に番地が来る。二十数年前にこの分譲地を買ったときの登記簿にも、正しく、町名、大字名、小字名、番地が表示されていた。いまでは住所表示から小字名の部分はなくなっているが、どうやらこの小字名をもつ集落が、この町の末端の「行政区」としていまなお機能しているらしかった。どの行政区にも区長と呼ばれるリーダーがいて、その区の親睦と相互扶助を司る。信夫が購入した分譲地の小字に属する地域は、すでに住む人が途絶えて久しく、行政区としてはもはや存続していない。そこで町は、勝手にも信夫を隣りの行政区に貼り付け、この間の行政処理に当たってきたのである。
「私にはそのようなものはありません」という信夫の言葉に、その担当者は驚き、一瞬ひるんだかのように見えた。しかし、返す口調は威圧的で、「町から送った文書に、所属している行政区の名前が書いてあったと思いますが……」と、畳みかけてきた。「それは見て、知っています。しかし私は、その行政区の人間ではありません」。信夫は、もう少し冷静にならなければ、と自分に言い聞かせながらも、どうしても一度燃え上がった感情が、ひとりでに動いてゆく。
「これまでに私は、書かれてある行政区の集会や行事に誘われたり、参加したりしたことは一度もありません。私はこの行政区の人をひとりも知りませんし、逆にこの行政区の人たちは、私の存在など知る由もないと思います。どうかお願いですので、お役所仕事の都合でもって、私を適当に無縁の行政区に割り振らないでください。私だけではなく、割り振られた行政区にとっても、本当に不愉快なことだと思います。私には、この行政区の一員という自覚も、帰属意識のようなものも全くありません。どうか私のこの実態にあわせて、『その他』でも『番外地』でも、あるいは、以前の小字名を復活させてもらっても結構です、名前は何でも構いませんので、この際、行政区を新たに設けていただけないでしょうか」。
これを聞いて、まるで、浴びせられた暴言から身を隠すように、担当者は口を堅く閉ざしてしまった。そして、やおら気を取り直し、本来の業務に目を向け、「それでは行政区のことは結構ですので、住所とお名前をお聞かせください」といって、冷たく、そして事務的に、封筒に入った祝い金の受け渡し作業に入った。役場の鉄のような壁に遮られ、信夫の感情は、またしても行き場を失ってしまった。
それから数箇月が立った。いつものように配布日にあわせて信夫は、回覧文書を受け取りに役場に行った。担当の職員は決まっており、その女性は、いつも親切に配布物の一つひとつについて簡単に説明し、時折それに関して信夫が発する世間話にも、にこやかな笑い顔で、つきあってくれていた。こうした和みのコミュニケーションを楽しむとき、自分から役場に取りに行くのも、あながち一方的な負担とばかりいえないことを、しばしば信夫は実感するのだった。
この日、配布文書についての説明を聞きながら、信夫にとってひとつだけ、気になる内容のものがあった。家に帰ると、信夫は、さっそく丁寧に読み返してみた。それは、ある行政区の区長から町長へ宛てて書かれた要望書で、概略、町外からの移住者については、当行政区では対応しかねるので、今後一括して町で対応してほしい旨のことが書かれてあった。
先日の苦い思いが信夫にはあったので、自分のことかと思ったが、行政区が違っており、そうでないことはすぐにも判明したが、どの行政区も、移住者や外来者の扱いに困っていることが、文面の隅々から読み取ることができた。それにしても町は、コピーとはいえ、なぜこのような内容の要望書を回覧文書の一部として町民に配布するのであろうか。信夫には、町役場の意図が、よく理解できなかった。また、この要望書に対する町長の回答も知りたいと思った。しかし、その後の配布物に、そうした形跡を見ることはなかった。
この文書を読んだとき、信夫の頭に浮かんだのは、隣り町に住む友人夫妻がかつて話してくれた水を巡る問題についてであった。
その夫婦は、奥さんが絵を描き、ご主人が陶芸をする美術家のカップルであった。ご主人は信夫より五、六歳年上で、東京での会社勤めを早めに切り上げて、ふたりして比較的若いうちからこの町に移り住み、創作に励んでいた。敷地は数百坪あり、そこに、生活のための住まいと、製作のためのアトリエと、自作を公開し販売するためのギャラリーが設けられていた。工芸史を専門とする信夫は、美術品や工芸品を見ることに日々熱心で、たまたまギャラリーに入ったときにこの夫婦と出会い、それ以来、何かにつけ相互に往来する親しい仲となっていた。
かつてこの夫婦が信夫に語った水を巡る問題とは、彼らがこの町を移住先に決め、土地を購入しようとした二十数年前に経験した、少々苦い思い出につながる話である。そのとき、彼らは水を引く必要があった。そこで地元の集落に掛け合い、その集落が代々使用してきた水を使わせてもらうことで話が進められた。頭金数十万円で内々に合意に達したが、最終的にその集落の全体会議にかけられると、ひとりの反対者が出て、結局、この話は流れてしまった。先祖からの水利権を集落民以外のよそ者に渡したくないというのが反対者の意見だったようである。そこでこの夫婦は、やむを得ず、購入した敷地内に独自に井戸を掘って、ポンプで汲み上げることにした。もちろん多額の費用がかかった。しかし、ここに住むには、それ以外に方法はなかった。
さらに信夫の耳には、こうした水利権のことにかかわって、この友人たちから聞いた、次のような言葉が、いまだに鮮明に残っていた。
「私たちのような外部の人間の目からは、昔ながらの集落や組内と、近年の行政区とは、完全に一致するのかどうかはよくわかりませんが、いずれにしましても、この地域は、歴史的に村落ごとに人の集団が組織化され、それを単位に農業や林業や畜産業といった生業が共同的に進められ、一方で冠婚葬祭が協同して執り行なわれてきました。こうしたことは、この地域に止まらず、日本全国がそうであったかもしれません。そしてまた、彼らの共通の財産として入会権や水利権などがあり、独自の管理のもとに、今日まで引き継がれてきているようです。そのため、時間とともに、利権や利害が複雑に絡み合い、容易に外来者である私たちがそのなかに入ることはできません。また、閉じられているがために、その内部の様子も見えてきません。しかし、近年の人口の減少や高齢化に伴い、集団としての単位の存続が危うくなっているような現象も所々で見受けられます。その傾向が続けば、外部の人間との対峙の仕方に今後柔軟な変化がみられる可能性もあります。しかしながら、その一方で、いまなお、過去のしがらみともいえる強固な組織原理のなかにあって、生き残る道を模索する傾向もあるようです。私たちが経験した水の例が、そのいい例であると思います」。
信夫は、こうした友人の経験談や観察眼を頼りに、もう一度、役場から持ち帰った、区長から町長に宛てて出されたその要望書を読み直してみた。これまで信夫は、いかなる自治体であろうとも、あまねく平等で対等に住民は組織されるものであると信じていた。しかしこの見解は、理想論的で原理論的ではあるものの、あくまでも建前にすぎず、この要望書を読んで、はからずも信夫は、目的や背負うものを異にして生きる人のあいだに存する、和しがたい差異に気づくことになった。いまだに閉じた生活共同体にとっては、この友人夫婦や信夫は、慣習化された既存の自治原理や統治原理に組み入れることがはなはだ困難な、歓迎されざる厄介者の外来種だったのである。そしてまた、これまでのこの地での生活体験から信夫が「差別」と感じ取っていた内実が、実際のところ、いまに残る、こうした人間の組織構造が醸し出す、かげろうにも似た、一種の陰影現象だったのである――信夫は、ここに至ってようやく、このような理解に達した。手ごわい数学の問題を解いたときに味わう、あの快感にも似た、一種の解放の感覚が、そこにはあった。
信夫に、かつて水利権の話をしてくれた美術家夫婦の住む町に、近年になって新しい変化の風が吹き出した。それは、在来種と外来種の交配の試みであった。この町へは、この夫婦をはじめとして、この間に多くの美術家たちが、美しい自然に憧れて移住してきていた。画家や陶芸家が多かったが、ステインド・グラスや写真、刺繍や染織の作家も含まれていた。詳しい経緯はわからないが、町と移住組が協力して、「秋の大美術祭」が開催されはじめたのである。二週間の期間中、作家たちは、自分のアトリエや自宅を開放し、作品を飾り、なかには販売をする人もいる。来訪者は、自分の車で思い思いに移動しながら、パンフレットのなかで紹介された作家たちの家に立ち寄り、作品を見ては、歓談を楽しむという仕掛けである。期間中、町全体がひとつの大きな美術館になったような様相を呈する。町民と移住作家が交流し、町外や、さらには県外からの友人や知人、そして美術愛好家たちが訪れる。加えてこの期間、飲食店や温泉、宿泊施設もにぎわいを見せる。
この企画は数年前から毎年続いている。信夫も仕事柄楽しみにしており、この期間、決まって、友人の美術家夫婦を訪ね、雑談に花を咲かせる。作品のこと、暮らしのこと、体や健康のこと、話題はさまざまである。信夫は、この夫婦がこの地に移住してきたときに経験した水のことが頭に残っていたこともあり、「あの一件からすれば、随分と地元民と移住者との関係が変わりましたね」、と問うてみた。すると、陶芸家の主人が、「もうあれから二十数年が立ちました。関係は大きく変わりました。あの当時は、私たちが移住者の草分けでした。周りには誰も知り合いはおらず、今後の生活を考えると、不安もたくさんありました。そうするうちに、移住者も段々と増えてゆき、横のつながりもできてきました。町は町で、人口の減少に頭を悩ませていました。そうやって自然と機運が盛り上がり、両者の思惑が一致したというのでしょうか、この美術祭へと発展していったのです」。そして彼は、こう続けた。
「星川さん、いまこの町のものも含めて、近隣の町や村のホームページを見てください。どこも競うようにして、『移住者・定住者支援サイト』をトップ画面にもってきています。これが何よりのこの間の変化のしるしです。間違いなく、いま大きく変化しようとしています……星川さんのお住まいの奥阿蘇町は、いかがですか」。
信夫は、帰るとさっそく、奥阿蘇町のホームページにアクセスしてみた。しかし、どこにもそのようなサイトは見つからなかった。そこで、友人夫婦の町と、幾つかの近隣の町や村のホームページに移ってみた。すると、それぞれに名称は異なってはいるが、確かに、移住者や定住者を支援するサイトが設けられていた。自分たちの町や村の魅力が美しい画像を使って紹介され、実際に移住して生活している人たちへのインタビューが掲載され、さらには、住まい、子育て、就労に関する独自の支援策が具体的に盛り込まれていた。信夫は、目を見張って、それぞれのサイトを見比べた。というのも、かつて信夫も、大学に勤めていたころ、受験生や学生や卒業生に対してのそれぞれの支援について検討する委員会に加わっていたことがあり、関係する人たちに、いかにうまく有益な情報を提供するか、その大切さを経験上よく知っていたからである。あのころを思い出すと、一八歳人口が激減するなか、生き残るための大学間の競争が確かに存在していた。いま信夫が身を置いているような田舎にあっては、その土地固有の魅力を発信する一方で、移住希望者の需要に応える支援策の提供を巡っての競争が積極的に展開されているのである。しかし、それにしても、奥阿蘇町のホームページには、どうして「移住者・定住者支援サイト」のようなものがないのであろうか。信夫には、不思議に思えてならなかった。ないということは、この町には誇るべき魅力など何ひとつありませんというメッセージを控えめに発しているであろうか。それとも、移住者は歓迎しませんという明確な意思表示なのであろうか。
奥阿蘇温泉館への通いは、変わらぬ信夫の日課となっていた。七〇歳の誕生日から入浴料が半額となり、信夫は町の高齢者福祉の恩恵に預かった。それから数箇月後のことである。入館口に、この年度末で閉館するとのお知らせの紙が張り出された。赤字がこの間ずっと続いており、売りに出されていることは信夫も耳にしていた。どうやら買い手がつかず、町は閉館を決めたようである。この温泉施設は、国の「ふるさと創生一億円」を活用して源泉が掘削されて、つくられたもので、開館当時は、年間四〇万人近くの来館者でにぎわったと伝えられる。しかし近年では、約一二万人にまで落ち込み、累積赤字もかなりの額に達していたらしい。まさしく、不採算の老朽公共施設となってしまったのである。町自体の人口が減少する一方で、レジャーの多様化に伴い町外からの観光客や別荘滞在者の数も減る――こうした人の縮小が決定的な要因となっていた。この閉館は信夫にとっても大きな痛手であった。閉館は、高齢者福祉の切り捨てを事実上意味していたし、それに加えて、富田雄一のような温泉仲間との今後の疎遠を暗示するものでもあった。
実はこれに先立って信夫は、町の衰退を示すもうひとつの事例を身近なところで体験していた。信夫の住む分譲地は、ひとつの集落の北の外れから牧野道に沿って坂道を上った一角にあった。この集落は、畜産農家が集まる土地柄で、牧野組合の団結のもと、牛をトラックに乗せてこの牧野道を上がり、上がり切ったところの牧野に牛を放し、飼育していた。信夫の分譲地の北側と牧野とは、簡単な金網で仕切られ、ときとして、牛が金網を乗り越えて分譲地まで脱走することがあった。そうすると、たまたま別荘に居合わせた誰かが牧野組合に電話をし、引き取ってもらうという、とても牧歌的な逸話も残されていた。ところが、信夫が定住する少し前あたりから、牛の姿が牧野から消えた。関係者に聞くと、この集落の多くの畜産農家が後継者不足や採算割れに陥り、廃業が続き、結果、牛が減少してゆき、牧野組合も解散に追い込まれてしまったというのである。
信夫の脳裏には、四半世紀が立ったいまもなお、この分譲地に家を建てたころの情景がしっかりと焼き付いていた。この草原に春から秋にかけて牛たちが放牧され、冬が終わると飼い主たちによって野焼きが行なわれ、黒い大地からつくしが顔を出し、それを少し採っては、てんぷらや和え物にして食す――慎ましくも、自然との一体感がそこにはあった。しかし、いまはその面影はなく、草原も牧野道も、人の手が入らず、日々荒廃してゆく。信夫の嘆きは、奥阿蘇温泉館の閉館のみならず、実はこんな身近なところにもあったのである。これが時代の変化というものであろうか。若者が都会に出て行って人が減り、高齢化の状態で生業の後継者が不足して廃業へと至る――このままでは、村落が立ち行かなくなるのは、誰の目にも明らかであった。
そうしたなか、信夫は、町からの回覧文書として「奥阿蘇町基本五か年計画」と題されたパンフレットを受け取った。それは二つ折りのパンフで、最初の頁に、計画の趣旨と年次進行表が、見開き二頁を使って八つの町づくりの指標が、そして最後の頁に町の総人口の動向が示されていた。信夫の関心は、移住者や定住者についての位置づけだった。しかし、期待に反して、そのことには全く触れられていなかった。
町づくりの指標として掲げられていたのは、観光の振興、商工業の振興、農林畜産業の振興、教育の充実、健康増進の支援、育児・介護の支援、情報インフラの整備、行財政改革の実現の八つの項目で、それらの項目のどこにも、移住者や定住者という言葉はなかった。そして、信夫の驚きは、最後の四頁目の人口動向のグラフによって、さらに増幅された。その折れ線グラフによると、四〇年前の一九八〇(昭和五五)年の町の総人口は八六九五人、現在の二〇二〇(令和二)年が五七七五人、そして、四〇年後の二〇六〇(令和四二)年の総人口が、二六二七人と推計されていた。グラフ化された数字はここまであったが、この減少率がそのまま続けば、それ以降の三〇年か四〇年のうちに、この町の人口がゼロとなることは明らかであった。何と、この奥阿蘇町は、いまの世紀が終わるころまでには、人が完全にいなくなり、消滅するのである。仮定に基づく予測とはいえ、信夫がこれまでに生きてきた年数とほぼ同じ年数が立てば、この町は確実に死に至る。自分のこれまでの人生なんか、瞬きするほどの、あっという間の出来事だった。それを思うと、信夫は、言葉を失ってしまった。
そうした虚脱感のなかにあって、信夫にとって、どうしても理解できないことがあった。それは、グラフで示された人口動向の衝撃的な推移と、五か年計画に掲げられた町づくり計画の八つの指標とが、連動することなく乖離していたことであった。つまり信夫には、この「奥阿蘇町基本五か年計画」が、人口動向の推移を踏まえたうえでの、それにふさわしい今後五年間の町の行動指針であるとは、どのように読んでも、そう読めなかったのである。人口が日に日に年々減少しているのであれば、それへの対応が、喫緊の課題となるはずなのに、そうした生き残りをかけた政策が、この「奥阿蘇町基本五か年計画」に全く盛り込まれていない――心配性の信夫の目には、そう映った。
元来信夫には、事物であろうと生き物であろうと、衰退や消滅といった様態を目にすると、理由はともあれ、何としてでも、それを食い止めなければならない、と考える傾向があった。それは、死を恐れる感覚ともいえるし、生こそ善という価値観でもあった。そうした信夫の観点に立てば、奥阿蘇町のような沈みゆく村落は、何もせずに放置されるべきではなく、何か手を施して、わずかな効果であろうとも、再生の道が模索されなければならなかった。「奥阿蘇町基本五か年計画」を見て、信夫にとって一番衝撃的だったのは、実は、町の消滅を示唆するグラフそのものの存在ではなく、そのことを他人事であるかのように無視し、それに対してのいかなる工夫も知恵も講じない、楽天的とも惰眠ともいえる行政上の姿勢であった。
しかし信夫は、心の平静を取り戻して、いま一度、冷静にこの問題に向き合ってみた。信夫はこれまで、人口減少と高齢化に悩む小さな町や村にとっては、都会にはないそれぞれ固有の自然や景観を保全し、加えて、これまで培ってきた伝統的な地域文化を継承しながら、それらの魅力を介して外からの移住者や定住者を増やすことが最も肝要ではないかと、一面的にそう思い込んでいたところがあった。しかし、外部からの流入を安易に許すと、それだけ大きな摩擦と軋轢が内部とのあいだに生じる。それであれば、内部だけで、一種の鎖国的状況のなかにあって衰退する現状を甘受した方が、その分安楽的であり平和的であるともいえる。もちろんそれは、内部の状況に照らし合わせて、内部の人間が自発的に判断することであり、外部がとやかく口出しすることではない――そうした思いが、信夫の胸に徐々に押し寄せてきた。
その観点に立って自分自身の移住生活を振り返ってみた。内部の意思に添って、回覧文書は自分で役場まで取りに行き、ゴミも自分で集積場まで運ぶ――よく考えると、これらのことは、衝突も亀裂も派生させない最も安定した解決案であり、そのことにすぐにも気づかず、むやみに心をかき乱していたのは、明らかに信夫のひとり相撲であり、逆に内部の人たちに不快な思いをさせてしまっていたかもしれなかった。経験した選挙公報や国勢調査の問題も、そして行政区の問題も、本質は同じである。そう思うことで信夫は、とげとげしい気分から解き放され、そこに、諦観してゆく虚無的な自分の姿を感じ取っていた。
しかし、それとは別に、信夫はこう思っていた。個人としての自分の場合や、個別この町の場合は、それでいいのかもしれないが、巨視的観点から日本全体を考えた場合は、人はそうであってはいけない。むしろ誰しもが、現状に率直に向かい合い、信じる解決策を自由闊達に論じ合う必要があるのではないか。行政論的にも、文明論的にも――。
「奥阿蘇町基本五か年計画」に掲載の人口動向の推計値から予測すると、奥阿蘇町の人口がゼロになるのは今世紀末である。一方、総務省統計局が公表している「人口の推移と将来人口」によれば、二〇九五(令和七七)年に、日本全体の総人口はほぼ現在の半分となる。この劇的な変動に対して、これまで信夫は、大きな都市部への一極集中型の人口の分布を是正し、全国的に均衡のとれた地方分散型の分布に置き換えてゆくべきであるという考えをもっていた。自身の奥阿蘇町への移住もその延長線上に位置し、その実践は、信夫の思考に、さらに鮮明なイメージを付与することになった。たとえば、このような具合である。旧式の扉を開き、内在する固有の魅力的なリソースを磨き発展させることによって生き残ろうと内発的に再生を願う地方の生命力については、あらゆる手を尽くして積極的かつ全面的に支援し、その一方で、既存の幾つかの大都市については、有機的に機能を整理統合し、多様な高密度空間へと圧縮進化させるために、今後さらなる戦略的な手助けが必要とされるのではないか――移住後の信夫は、そう思えるようになっていた。そして、そのイメージのなかには、豊かな伝統、習俗、自然、田園などを内に輝かす地方と、先鋭な情報、教育、医療、ビジネスなどが複合的に集約された都市との二箇所に定住地を設けて生きる人びとの姿があった。それは、地方と都市というふたつの翼をもって羽ばたく、新しい種類の人間の生活像であり、空間像であった。信夫の考えによれば、ふたつの地域に等しく足を置いて暮らしを成り立たせようとする将来的生存の傾向には、ふたつの避けて通れない理由があった。ひとつは、人間が求める高度な先進化に応じて振り子のようにバランスをとろうとする、自然回帰への根源的願望の存在であった。そして、いまひとつは、今後予想される地震、津波、豪雨などの自然災害、感染症の流行による生活様式の変容、原発事故による放射能汚染、加えて、気候変動による国土の一部水没や食糧資源の部分的枯渇、さらには、人為的なテロや戦争による都市破壊、そうした生存リスクの高まりを受けての自衛的かつ避難的手段への本能的自覚の顕在化であった。ひとつの造形論に置き換えるならば、前者にみられる根源的願望は、機能と装飾の融合を意味し、後者にみられる本能的自覚は、構造の強靭さを意味していた。信夫は、このふたつの人間的欲求こそが、近未来の困難な時代を安定的に生きのびるための原理的で不可避的な要素ではないかと、考えるようになっていたのである。
信夫がこの奥阿蘇町に移り住んで、すでに七年の歳月が流れた。この間信夫は、美しい大自然のなかにあって、現役時代に積み残してきた論文の執筆に精進することができた。しかし、それにも増しての大きな収穫は、人口減少期における村落の営みに日々接し、それにかかわる思考の機会をもったことだった。果たして七〇年後、八〇年後の世紀末、日本の地方と都市が果たす有効な補完関係は、どのような姿に構築されているのだろうか。そのときまでに、地方と都市とが、その役割分担のうえから、それぞれになしえなければならない手立てとは、一体何であろうか。そして、推計されているとおりに人口の減少が進むなか、幾つもの町や村が沈み、半分の人間が消えてしまった世紀転換期の日本列島において、実際、残された人びとは何を考え、どう生きているのだろうか。そう遠い話ではないはずである。信夫は、仕事柄、造形の歴史家として、こうした自由なデザインを描いては、この時代の行く末に思いを馳せていた。
【初出:「小説 沈みゆく村落」『KUMAMOTO』No. 32号、くまもと文化振興会、2020年9月、167-186頁。】