一般的には、社会主義の理解と行動は、公的活動の場だけではなく、同じく家庭という私的な場においても、その姿を現わします。モリスの場合は、公的には、政治団体を組織し、デモに参加し、野外で聴衆に向かって政治を論じました。家庭においては、自宅の地下室を社会主義者の会合の場として提供し、娘のメイも、父親に倣って政治活動に参加しました。他方、富本の場合は、生きた時代が、社会主義を極度に抑圧する時代であったためか、公的な場での活動を見出すことはできません。したがってそれは、外からは見えにくい家庭生活のなかにおいて観察されることになります。ここに、モリスと富本の根本的な違いがありました。モリスの社会主義につきましては、本文「ウィリアム・モリスの家族史――モリスとジェインに近代の夫婦像を探る」(著作集6『ウィリアム・モリスの家族史』に所収)で詳しく述べていますので、ここでは、富本の家庭内における社会主義のあり様につきまして主として紹介し、部分的にモリスの事例と照合してみたいと思います。
郡山中学に在籍したころに富本が、社会主義者の堺利彦の訳によって『平民新聞』に連載されたモリスの「理想郷」(今日の一般的な訳題は「ユートピア便り」)を読んでいたことは、すでに紹介しました。おそらくこれが、富本にとっての最初のモリスとの出会いであり、社会主義との出会いであり、そしてまた、のちの英国留学を決意する主要な動機となるものでした。中学を卒業すると、この年(一九〇四年)の四月に、東京美術学校に入学します。上京した富本は、このとき、堺利彦の投獄のニュースを知ったものと思われます。モリスの「理想郷」の訳載が終わると、次の号(『平民新聞』四月二四日付の二四号)において堺自身が、「花見には少し後れたれど、小生は本日[四月二一日]より二箇月の間、面白き『理想郷』に入りて休養致します。……いざさらば!諸君願はくば健在なれ、小生も必ず無事で歸つて來ます」83と、自己の収監について書き記しているからです。富本は、おそらくこの記事を読んで、少なからぬ恐怖を感じ取ったにちがいありません。
さらに富本を恐怖に陥れたであろうと思われる出来事が、ロンドンから帰朝した一九一〇(明治四三)年の六月一五日の翌月の二五日に起こった宮下太吉の逮捕に端を発する大逆事件でした。同年の一二月一〇日、大審院において二六名の逮捕者について裁判開始。年が明けて一九一一(明治四四)年一月一八日、全員に有罪の判決言い渡し。何と六日後の一月二四日に、一一名の男性死刑執行。翌二五日、一名の女性死刑執行。こうして、架空の「天皇暗殺計画」の容疑により逮捕された社会主義者や無政府主義者の二六人のうち、『平民新聞』を創刊した幸徳伝次郎(秋水)と管野スガを含む一二人に対して、大逆罪での死刑が執行されたのでした。その一週間後の二月一日付の南に宛てた書簡のなかで、富本は次のように述べています。
明治の今は僕等を苦しめる様に出来 き ( ママ ) て居る時代とも考へられる84。
私の知る限りでは、その後の富本の公的な言説に、「社会主義」という用語を見出すことはできませんし、ましてや、社会主義運動に公然と参加した形跡も確認することはできません。わずかな事例として、モリスの肩書に社会主義者をつけて「社会主義者のウィリアム・モリス」という表現をするのは、戦後、それも最晩年のことでした。したがいまして、富本がモリスに倣った社会主義者であったことは、一部の数少ない身近な人たちを別にすれば、存命中にあって、そのことに気づいた人は、ほとんどいなかったものと推量されます。これが、富本にみられる社会主義受容の特徴でした。しかしながら、富本が社会主義者であったことは、幾つかの資料が、如実に物語ります。以下において、富本の社会主義者像を構成してみたいと思います。
口の重い富本は、やっと晩年になって、英国留学を振り返るなかで、ロンドンでは「彼[モリス]の組合運動などを調べてきました」85と、はっきりと述べます。富本は「組合運動」という曖昧な言葉を使っていますが、これが、モリスの社会主義運動を指し示していることは、ほぼ間違いないものと思われます。しかしながら富本にとって、イギリスで調べてきたモリスの社会主義のことを書くことは、時の政治状況からして、ためらわれました。富本は、同じく晩年に、こう告白します。
[イギリスから]帰ってきてモリスのことを書きたかっ か ( ママ ) んですけれども、当時はソシアリストとしてのモリスのことを書いたら、いっぺんにちょっと来いといわれるものだから、それは一切抜きにして美術に関することだけを書きましたけれども86。
富本がここで述べている「ちょっと来い」というのは、官憲による連行や検束、さらには検挙や投獄を意味しているものと思われます。また、「美術に関することだけを書きました」というのは、一九一二(明治四五)年の第一一巻第四号(二月号)および第五号(三月号)の『美術新報』に、上下二回に分けて掲載された「ウイリアム・モリスの話」を指します。しかし、富本のいうように、この評伝なかでモリスの社会主義について触れられることは、全くありませんでした。それにかかわって富本は、晩年の聞き取りのなかで、こう記しています。
[ロンドンから帰ってその]後の話ですが岩村 透 ( とおる ) 氏の美術新報に大和から原稿を送ったことがありました。それに美術家としてのモリスの評伝を訳して出しましたが、社会主義者の方面は書きませんでした。あの当時もしも書けば私はとっくに獄死して、焼物を世に送ることはできなかったかもしれません87。
このとき富本は「獄死」を意識しています。モリスの「理想郷」を訳載した堺利彦が投獄されたことや、大逆事件で死刑となった幸徳秋水のことが念頭にあったものと思われます。裏を返せば、それほどまでに、「ウイリアム・モリスの話」の執筆当時、富本の社会主義理解は深く進んでいた、と考えていいのではないでしょうか。それ以降、晩年に至るまで、富本は、二、三の例を除いてモリスに言及することも、また社会主義を話題にすることも、意識的に避けた観があります。別の観点に立てば、陶工として「焼物を世に送る」ことに徹し、政治的には保身を貫いた、と指摘することもできるでしょう。ここがモリスとの大きな違いです。しかしながら、家庭生活では、そうではありませんでした。富本の社会主義的思考と行動は、尾竹一枝との結婚と、その後に続く夫婦関係のなかに、明確に現われることになるのです。
振り返りますと、一九一一(明治四四)年は、日本の女性にとって、極めて重要な意味をもつ年でした。それは、性的少数者の発見、加えて、婦人問題への自覚という文脈においてでした。この年、ふたりの女工が手を携えて投身したり、一博士の令嬢と一官吏の令嬢とが同じような最期を遂げたりしました。それを受けて、八月一一日の『婦女新聞』は、一頁の社説において「同性の愛」という表題をつけ、女性間の「不可思議な」セクシュアリティーについて論じます。この社説では、女工の例と令嬢の例を、ともに「オメ」の関係とみなしながらも、前者については、女性相互の「熱烈な精神的友情」に基づく関係とし、後者については、男性的な女と女性間の「肉的堕落」との烙印を押しました。それに続いて、『新公論』(九月号)は「性慾論」と題して幾編かの論考を掲載し、同じく九月に、「同性の愛」に関する論説文が『新婦人』に掲載されました。こうして、今日的な用語である「性的少数者」に、世間の関心が集まってゆきます。
一方、時を同じくして、平塚らいてうの主宰する『青鞜』の初号が世に出ます。『青鞜』の創刊にあたって、らいてうは、「原始、女性は太陽であった」にもかかわらず、いまや女性は、男性を頼りに生きる月にすぎない存在に化してしまっていることを指摘したのでした。ハヴロック・エリスの文の抄訳として「女性間の同性戀愛――エリス――」が『青鞜』に掲載されたのは、一九一四(大正三)年の四月号(第四巻第四号)においてのことでした。らいてうは、巻頭のかなで、「私の近い過去に於て出逢つた一婦人――殆ど先天的の性的轉倒者とも思われるやうな一婦人によつて私はこの問題に非常な興味をもつやうになりました。私はその婦人の愛の對象として大凡一年を過しました。そして色々のことを考へさせられました結果、いよいよこの問題に就いて、知りたくなりました」88と述べています。らいてうのいう、この「殆ど先天的の性的轉倒者とも思われるやうな一婦人」が、のちに富本憲吉と結婚することになる尾竹一枝(青鞜時代のペンネームは「紅吉」)でした。
エリスは、「女は家の中の陰氣な倉の内で嘆息しながら、決して來る事のない男を待たねばならないと云ふ樣な舊い敎へに對する嫌悪」89という表現をしていますが、これが、女性の解放や独立を叫ぶ、近代の婦人運動の原点となる思いであったにちがいありません。エリスはいみじくも、この近代運動が「間接な原因」となって「性的轉倒を惹起した」とみなすのです。そうであれば、近代日本の婦人運動の原点に位置づく青鞜社の運動には、それ自体に、「性的轉倒」を招来せしめる力が必然的に最初から内在していたことになります。そして、その歴史的主人公が、まさしく、紅吉こと尾竹一枝、その人だったのでした。
父親である日本画家の尾竹越堂の意向もあって、一枝は、女子美術学校で日本画を学びます。しかし、日本画に専念することを好まず、文学に関心をもちはじめたとき、平塚らいてうの『青鞜』の創刊に出会います。そして翌年の一九一二(明治四五)年のはじめに、一枝は青鞜社へ入社することになるのです。ちょうどそのときのことです、英国帰りの工芸家が大和に住んでいることを聞きつけた一枝は、憲吉を安堵村に訪ねました。これがふたりの最初の出会いでした。
青鞜時代の一枝は、「 紅吉 ( こうきち ) 」をペンネームに使いました。「紅」が女性を、「吉」が男性を表わしているとも考えることができます。そして青鞜社に集う女たちは、「新しい女」とも「新しがる女」とも呼ばれました。その呼称には、皮肉も侮蔑も批判も含まれていました。とりわけ紅吉に対してそうでした。平塚らいてうと同性の恋に陥り、メイゾン鴻ノ巣では五色の酒を食らい、紅灯の吉原へは足しげく通う紅吉の姿を、当時の新聞や雑誌は、興味本位に書き立てたのでした。紅吉が青鞜社に在籍したのは、一年程度でした。その後一枝は、文芸雑誌『 番紅花 ( さふらん ) 』を創刊し、その雑誌の挿し絵を憲吉が提供するようになり、こうしてふたりは接近してゆくのです。
日本の「新しい女」の登場と婦人運動の開始を、この一九一一(明治四四)年の『青鞜』創刊に求めるとするならば、英国における、そうした動きはどうだったのでしょうか。「時の女」と「新しい女」について、『ヴィクトリア時代の女たち』という本のなかに、次のような記述がありましたので、ここに紹介します。まず「時の女」について――。
幾人かの若い女性たちが、自分たちを保護するしつけの垣根を打ち破るための衝撃的な方法を見出しました。一八六〇年代、独立心が強く裕福な女たちのなかには、慇懃な服装や行動に対抗することによってセンセーションを巻き起こしました。こうした「時の女」は、激怒した新聞にとっての記事の主題となり……90。
次に、「新しい女」については、こう描写されています。
「時の女」の出現からおよそ三〇年後、若い婦人たちの慣例に反した行動について、さらにもうひとつの批判の嵐が巻き起こりました。一八九〇年代のジャーナリストたちは、この「新しい女」の現象に関して論じはじめたのでした91。
ウィリアム・モリスの妻のジェインは一八三九年の生まれですので、「時の女」の側面を、また、一八六二年に生まれた、その娘のメイは、「新しい女」の一面を宿していたかもしれません。一方、日本にあっては、英国の「時の女」から約半世紀遅れて「新しい女」が誕生します。それは、「青鞜の女」と同義語でもありました。しかし、一枝自身は、世間でいう「新しい女」ではありませんでした。当時一枝は、取材のために自宅にやってきた『新潮』の記者に、率直に、こう答えています。
私は寧ろ、世間で言はれて居るやうな「新しい女」と云ふものが實際にあるならば、「新しい女」を罵倒して遣り度く思ひます。「新しい」「舊い」と云ふことは意味の分らない事ですけれども、舊い新しいの意味が、昔の女と今の女と云ふのなれば、私は昔の女が好きで且つそれを尊敬し、自分も昔の多くの傑れた女の樣になりたいと思つて居ます。そして、私自身はどちらかと云ふと昔の女で、私の感情なり、行為なりは、道徳や、習慣に多く支配されて居る事を感じます92。
この言葉どおりであれば、一枝は「旧い女」、あるいは「昔の女」だったということになります。むしろ、憲吉の方が「新しい」男の側面を有していました。結婚に際して憲吉は、次のような一文を一枝に書き送っています。
アナタが家族をはなれて私の処に来ると思はれるが、私の方でも私は独り私の家族をはなれてアナタの処へ行くので、決して、アナタだけが私の処へ来られるのではない、例へ法律とか概観で、そうでないにしても尾竹にも富本にも未だ属しない、ひとつの新しい家が出来るわけである。そう考へて居て貰ひたい93。
ここには、「家」に拘束されない、対等の個人たる両性の結び付きとしての結婚観が示されています。一八九八(明治三一)年に公布された「明治民法」の第七五〇条では「家族カ婚姻又は養子縁組ヲ為スニハ戸主の同意ヲ得ルコトヲ要ス」と、また第七八八条では「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」と、規定されており、そのことを想起するならば、ここで示されている憲吉の婚姻についての見識は、家制度を乗り越えた、まさしく革命的なものとなっているのです。過去の先人の模様を模倣しないという決意が、ここでは、旧弊な婚姻の制度をそのまま踏襲しないという決断へと置き換わっていると考えていいでしょう。つまり、「図案(デザイン)の近代化」と「結婚の近代化」が、憲吉の場合にあっては、ひとつの思想のもと同時並行的にこの時期進行していたのでした。
一九一四(大正三)年一〇月二七日、二八歳の憲吉と二一歳の一枝の両人は、日比谷大神宮での挙式に臨みました。憲吉は英国紳士風のタキシードとシルクハットによる正装に身を包み、一方、あでやかな振袖に高島田の一枝は、伝統に則った見事な婚礼姿でした。しかし、喜びもつかの間、新婚旅行から帰ると、そこには、過激な雑誌記事が待ち受けていました。それは、一二月一日発行の『淑女畫報』一二月号に掲載された「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」94という題がつけられた暴露記事でした。
「深草の人」と名乗る執筆者は、冒頭でまず、「Tさま」に宛てて紅吉(一枝)の書いたものであろうと思われる手紙の原文を紹介したうえで、「私はこの不思議な手紙、謎の手紙の註解者として、またこの手紙を鍵として彼女の『不思議な過去』不思議な性格、不思議な行為の秘密を語る魔法使いになりませう」と宣言し、それから本論が開始されます。書かれてあることを要約的に引用すれば、こうなります。
「月岡花子嬢こそ、不思議な謎の手紙の主のTさまで、Tは月岡の頭文字なのです……花子嬢が女子美術の生徒であり、紅吉女史も一時女子美術に席を置いたことがあると云ふ関係から、おそらく 知己 ( ちかづき ) となり友達になつたと云ふことはだけは確かです……紅吉女史は當時『若き燕』と呼ばれた青年畫家奥村博氏の問題から、 らいてう ( ・・・・ ) 事平塚明子女史と悲しくも別れなければならない事となり……例の不思議な謎の手紙を花子嬢宛に書いたのでした……それからと云ふもの、二人の仲は親しい友と云ふよりも、その友垣の垣根を越えて、わりなき仲となつたのでした。同性の戀!まア何といふあやしい響きを傳へる言葉でせう」。そして執筆者は、紅吉の結婚と新婚旅行に触れ、こう述べます。「新郎新婦手を携へての新婚旅行!それが新しい女だけに一種の矛盾と滑稽な感じをさへ抱かせます。男性に對する長い間の女性の屈辱的地位、そこから跳ね起きて、あくまでも女性の 開 ( ママ ) 放を主張し、男性と等しい權利を獲得し、そして男ならで自立して行くと云ふ所に新しい女の立場があるのです。然しながら我が新しい女の 典型 ( タイプ ) とも見られてゐた尾竹紅吉女史は若き意匠畫家富本憲吉氏と共に、目下手に手を携へて北陸地方に睦まじい新婚の旅をつゞけて居ます」。さらに執筆者は、この結婚の陰に隠れて涙を流している、もうひとりの別の若い女性がいるというのです。「やがてその次にあらはれたのが大川茂子といふやはり女子美術の洋畫部の生徒でした。茂子嬢と紅吉女史との戀……は花子嬢のそれと比べてはなかなかにまさるとも劣ることない程の強く深く切ないものでありました……悲しい戀の犠牲者、茂子嬢は今はどうして居るでせう?……紅吉女史と富本氏との今日此頃の關係を茂子嬢はどんな氣持できいて居るでせう?私は紅吉女史の新生活を祝福すると共に、あえかにして美しい茂子嬢の生涯に幸多きことを祈つて居ります」。
この記事のなかでさらに注目されるのが、紅吉(一枝)のセクシュアリティーに関して記述された箇所です。「紅吉女史は女か男か」という見出し語に続けて、このように描写されていました。
紅吉女史は女か男か?この質問ほど世に笑ふべき、馬鹿らしい、不思議な質問はありません。然しそれ程紅吉といふ女は不思議な女とされてゐるのです。彼女は勿論女である、而も立派な女性であることは争はれない事實です。然し彼女の一面に男性的なところのあるのも事實です。先づ第一にその體格の如何にもがつしりとして、あくまでも身長の高い所に『男のやうだ。』と云ふ感じが起ります。セルの袴に男ものゝ駒下駄を穿いて、腰に印籠などぶら下げながら、横行闊歩する所に、『まるで男だ。』と云ふ感じが起ります。太い聲で聲高に語るところ、聲高に笑ふところ、其處にやさしい女らしさと云ふ點は少しも見出すことは出來ません。男のやうに女性を愛するところ、その女性の前に立つて男のやうに振舞ふところ、それは彼女が愛する女と楽しい食卓に就いた時のあらゆる態度で分ると云つた女がありました。甘い夜の眠りに入る前に男のやうに脱ぎ棄てた彼女の着物を、彼女を愛する女が、さながらいとしい女房のやうにいそいそと畳んだと云ふことを聞いたこともありました。 實際彼女は男のやうに我儘で、男のやうにさつぱりとして、男のやうに無邪氣で粗野な一面を持つてゐるのです。それがやがて彼女を子供のやうだとも云はしめ、新しい女といふ皮肉な名稱を彼女に與へた動機ともなつてゐるのです。そしてまた彼女が同性を惹き付ける點もおそらく其處にあるのです。
この記事の記述内容が真実であるとするならば、ほぼ間違いなく、紅吉(一枝)はレズビアン(女性間の同性愛者)ではなく、肉体的には女性であるも心的には男性を自認するトランスジェンダーであったということになります。そしてまた、性的欲望や恋愛感情が女性へと向かう性的指向を示していることから判断して、紅吉のその愛は、同性愛ではなく、異性愛だったということになるでしょう。いずれにせよ、富本憲吉と尾竹一枝の結婚は、この暴露記事「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」によって、広く世間に告知されることになりました。しかしこの記事について、憲吉も一枝も、調べる限りでは、何も発言していません。
その雑誌記事から数箇月後の一九一五(大正四)年の三月、ふたりは東京を離れ、安堵村の憲吉の実家へと移り住みます。若い女性が多く住む都会から、そうでない寒村へのこの移転は、一枝にとっての転地療法であった可能性もあります。一方、前年の九月に開設した「富本憲吉氏圖案事務所」も、これにより実質的な活動をしないまま、自然閉鎖ということになりました。
夫婦としての新しい生活が、安堵村ではじまりました。憲吉が妻に要求したのは、旧いしきたりに従うことではありませんでした。たとえば食事のときには、妻の一枝に自分と一緒に座って食べるように求めました。一枝は、次のように回想します。
大和に来ますと、今言いましたような旧家で、夫はあくまで戸主の座で食事をとるさだめで、姑も弟妹たちも、そして嫁である私も、それは夫と離れたところに坐って食事をするような生活でした。夫は、私と食事を共にしようとします。私は姑への気がねでそれを拒みます。すると夫はひどく腹を立てて怒るのですが、私はどうしても姑をさし置いて夫の座の近くに坐れません95。
憲吉にとっては、夫婦とは、対等の個と個の結び付きであり、上下の支配、被支配の関係ではありません。憲吉は、戸主の立場を顧みることもなく、夫と妻とが相並んで食事をする仕方を望みます。ここに、未来形としてのひとつの「近代の夫婦」のかたちがありました。しかしながら、これにはおそらく富本家の誰しもが驚いたにちがいありません。そして、憲吉の激怒の矛先は、因習を越えきれず、むしろ踏襲するかのような一枝の「旧い女」の態度に向けられました。日本画家としての彗星のごとき登場、青鞜社での自由奔放な言動、それに加えて、その後の雑誌創刊へ向けての強い意欲――東京にあってこのように積極的に物事に挑戦しようとするひとりの女の姿を、この間遠く大和の田舎から新聞や雑誌で眺めては、憲吉は一枝のことを、旧弊で封建主義的な家制度を乗り越えて、個人主義に立脚した思想や判断を果敢にも推し進めることができる「新しい女」とばかり勘違いしていたのかもしれません。憲吉が、この安堵村生活で妻の一枝に求めたのは、おそらく次の二点であったと思われます。ひとつは、旧い価値観の放棄と、それに代わる新しい価値観の体得にかかわることでした。いまひとつは、一枝の有する性自認と性的指向の変更にかかわることでした。一枝にしてみれば、大きな課題の解決が迫られたことになります。
安堵村への転居から二箇月が過ぎようとしていた一九一五(大正四)年の五月、ふたりは、富本家の本宅から少し離れた地において居宅と本窯の建設に着手します。八月、娘の陽が誕生します。そして年が押し迫った師走の二一日、家と窯と庭、すべてが整い、憲吉と一枝と陽の家族はここに移り住み、それ以降、新しい生活がこの地から生み出されることとなりました。新生活にあたっての決意を、憲吉は次のごとく述べています。
我等此處にありて心淸淨ならむことを願ひ、制止するを知らざる心の慾望を抑壓しつゝ語りつ、相助け、相闘ひ、人世の誠を創らむとてひたすらに祈る96。
これは憲吉独りの陶工としての創業宣言ではありません。これは「我等」という家族共同体の決然たる創設宣言なのです。家庭とは、一方が一方を抑圧する場でも、それに対して一方が忍従する場でももはやない、欲望を抑えた清廉な夫婦の闘争の場であり、協力の場であり、創造の場なのです。これが、憲吉にとっての「近代の家族」のイメージであり、同時に、この新しい夫婦の営みの原点となるものでした。
一九一七(大正六)年六月、神田小川町流逸荘において「富本憲吉氏夫妻陶器展覧會」が開催されます。この家の窯でできた陶器は、憲吉だけの作品ではなく、夫婦の作品であるという考えが、この展覧会に反映されています。すべてが対等かつ共有によって成り立つ家族という単位の共同体が、この新しい家にあってこの時期に胎動しているのです。そうしたなか、次女の陶が、この年の一一月に誕生します。
夫婦による協同製作は、モリス夫婦にもみられました。モリスは、古い刺繍技術の復活にかねがね関心をもっていたこともあって、新妻のジェインとふたりで、中世に起源をもつともいわれていた伝統的な刺繍の技法を自分たちなりに実験して、学ぶことからはじめました。モリスが花の図案を描き、ジェインが刺繍をすると、その作品は、〈レッド・ハウス〉の寝室の壁に掛けられました。いまは、色あせた断片しか残っていないとのことですが、これがオリジナルの《デイジー》と呼ばれる壁掛けです。こうしてふたりは、一緒になって、〈レッド・ハウス〉の壁や天井に模様や絵を描いたものと思われます。
一九二〇(大正九)年、憲吉は、『女性日本人』一〇月号に「美を念とする陶器」を寄稿しました。そのなかで憲吉は、陶器だけではなく、自分たちの考えや生活も見てほしい、と読者に呼びかけます。
私の陶器を見てくださる人々に。何うか私共の考へや生活も見てください、私は陶器でも失敗が多い樣にいつも此の方でも失敗をして居りますが陶器の方で自分の盡せるだけの事をしたつもりで居る樣に此方についても出來るだけ良くなるためにつとめています。それが縦ひ非常に不十分なものであつても97。
ここから、明らかに憲吉は、陶器と生活とのふたつの事象についてともに改善を図ろうとしていることがわかります。製陶についていえば、過去の時代に姿を現わしたデザインを模倣しないということであり、生活についていえば、過去の時代から規範とされてきた夫婦関係を継承しないとうことでした。「過去の時代」の否定という意味で、憲吉の考えは、反歴史主義とも近代主義とも呼べるものでした。そして、この夫婦にとって、さらに否定されなければならないことがありました。それは、一枝の性自認と性的指向についてであっただろうと思われます。もっとも、「性自認」という言葉も「性的指向」という言葉も、今日的な用語法です。「トランスジェンダー」もそうです。当時は、女性同士の愛のかたちは、「といちはいち」や「でや」をはじめとして、幾つかの隠語で表わされていました。また、今日にいう「FTMのトランスジェンダー」については、「男女」という表現が陰で使用されていました。いずれにせよ、こうした行為は、「女性間同性色情」とも「顚倒的同性間性慾」とも、みなされていたのです。
憲吉の家庭運営上の革新的な原理は、生み出される陶器は夫婦共有の協同作品であるという認識をもたらしただけではなく、家事にかかわる夫婦の役割分担にも、変化をもたらしました。以下は、「私達の生活」と題された、一枝の『女性日本人』への寄稿文のなかの一節です。
二三日雨が降りつゞいて洗濯物がたまる時がある。そんな時、私と女中が一生懸命で洗つても中々手が廻りかねる[。]それを富本がよく手傳つて、すすぎの水をポンプで上げてくれたり、干すものをクリツプで止めてくれたりしてゐるのを見て百姓達はいつも冷笑した。「いゝとこの主人があんな女の子のやる事をする」といって可笑しがる。……可笑しいと云ふより、本當は危険視してゐたかも知れない。同じ村に住む自分達の親類になる人さへ、私達の生活は「過激派の生活だ」と言つて、自分の若い息子をこゝに遊びに寄すことをかたく禁じているのだ。私達が一緒に、一つの食卓をかこみ、同じ食物で食事をすまし、一緒に遊び、一緒に働くことが危険でたまらないのだ。私達は、その人達の考へこそ可成り危険だと思ふのに98。
読んでのとおり、一枝は憲吉のことを、「旦那さま」とも「主人」とも呼ばず、「富本」と呼んでいます。他方憲吉は、家事のすべてを一枝に押し付けるのではなく、積極的に自らも参加しています。しかし、村人や親類はそうした生活や考えを危険視しました。官憲もまた、同じでした。『近代の陶工・富本憲吉』の著者の辻本勇によりますと、すでに英国に帰っていたリーチに宛てて出された手紙のなかで、憲吉は、こうしたことを書いているといいます。
「日本や国家のことについては書かないで下さい。警察がぼくへの君の手紙を調べているようだ」とか、「手紙は陶器のことだけを書いて下さい、君の手紙は竜田郵便局からまず警察署へ送られ開封され読まれているようだ、君には考えられもしないことだろうが……これが近代日本なのだ」99。
かつて憲吉が「ウイリアム・モリスの話」を書いたことも、また、かつて一枝が青鞜社の社員であったことも、官憲の目からすれば、体制に抗う行為のひとつとして、受け止められていたのかもしれません。あるいは、当時の人的交流に疑いの目が向けられた可能性もあります。数例を挙げるならば、一九一七(大正六)年に憲吉と一枝は、幼子の陽を伴い、和歌山の新宮にある西村伊作邸を訪ね、そこに約一箇月間滞在しました。西村の周辺では、叔父の大石誠之介が大逆事件に連座して死刑に処されていましたし、友人には、美術家や文学者のみならず、社会主義者の賀川豊彦や堺利彦なども含まれており、のちに西村本人の手によって、自由主義的な校風をもつ文化学院が創設されます100。一九二三(大正一二)年には、自由学園の創設者の羽仁もと子が、卒業旅行として第一期生を率いて富本家の本宅に宿泊しています。そのなかには、のちに社会運動家として活躍することになる石垣綾子や、童話作家で児童文学者となる村山 籌子 ( かずこ ) が含まれていました。それからしばらくして、一枝は、川崎・三菱両造船所での労働争議の際に陣頭に立って指揮した賀川豊彦へ宛てて綾子を紹介する文を書いていますし101、一方籌子は、富本一家が東京に移転したのちの一九三一(昭和六)年に、ロシアから帰国したプロレタリア文化運動の指導者である藏原惟人を密かに連れてゆき、富本家にかくまわれるように手配を整えました102。また、当時しばしば安堵村の富本家に顔を出していた、奈良女子高等師範学校の学生だった丸岡秀子が記憶するところによれば、マルクス主義者の片山潜の娘が、日本を去る前に富本家に立ち寄っていました103。こうした人的な交流の影響もあってのことでしょうか、警察の監視下にあるような状態は、安堵村時代以降も、アジア・太平洋戦争が終結するまで連綿と続くことになります104。
米価の高騰が民衆の生活を圧迫し、暴動事件へと発展したのが、いわゆる米騒動と呼ばれるもので、一九一八(大正七)年の七月の富山での勃発以降、全国規模の広がりをみせました。地主であるがゆえの不安と苦悩が常に憲吉の身に影を落としていたことは、十分に想像できます。それでも憲吉には、地主と小作農の関係が今後どのようなかたちへ向かうのか、つまりこの社会的課題の決着の方向性として農地の解放のようなことがどう行なわれるのか、ある程度の確信をもって展望されていたにちがいありません。というのも、憲吉はのちの座談会で、モリスの社会主義が話題になる文脈において、こう語っているからです。
私は大正のはじめ頃、いまに小作権を持っている者が、地主から田地をとってしまうようになるといったんですが、叔父がそんな因業なことをいうなといってけんかした。戦後叔父が死ぬ前にあいつのいうようになってしまったが、どうしてあいつは知っていたのだろうといったそうです105。
座談会でのこの発言が『民芸手帖』に掲載されるのは、一九六一(昭和三六)年の九月号なので、憲吉が死去する二年前のことです。この発言は、自分が社会主義者、ないしは社会主義の適切な理解者であったことを自ら告白する最後の語りとして受け止めて差し支えないと思われます。
世界的には、一九一七(大正六)年のロシア革命、一九一八(大正七)年の第一次世界大戦の終結、国内では、一九一八(大正七)年の米騒動、一九二〇(大正九)年の第一回メーデーの開催、一九二一(大正一〇)年の川崎・三菱両造船所での労働争議、一九二二(大正一一)年の水平社の結成、同じく一九二二(大正一一)年の日本共産党の創設、他方、教育に目を向ければ、一九二一(大正一〇)年の文化学院や自由学園の創立にみられるような自由教育への関心の高まり――。憲吉と一枝が、旧い生活秩序を否定し、それに代わる新しい夫婦関係の構築に向けて、この安堵の地において奮闘していたこの時期は、変革を求める政治、社会、教育上の新しい動きの顕在化と重なります。富本家の私設学校である「小さな学校」も、部落問題を扱った一枝の小説「貧しき隣人」も、この文脈から読み解かれる必要があります。
一方、その後、一枝の恋愛感情にかかわって、ひとつの事件が起きました。ふたりは悩み、苦しみます。そして最終的に、東京への移転を決意するのでした。このとき一枝は、「東京に住む」というエッセイを書きました。事件については具体的に何も触れていませんが、そのなかで、自身のセクシュアリティーについて、こうした言葉を残しています。
この久しい間の爭闘、理性と感情この二つのものはいまだにその闘を中止しようとはしない。そうしてそのどちらも組しきることが出來ない人間のあはれな煩悶を冷酷にも見下してゐる。平氣でゐる感情に行ききれないのは自分が自分に似合ず道徳的なものにひかれてゐるからで、といって理性を捨切つて感情に走ることをゆるさないのは根本でまだ×に對して懀惡や反感と結びついてゐるために違いない。……本當にこの心の底には懀惡しかないのか、それでは偽だ。あんまり苦しい106。
この文章を読み解くうえで最大のポイントとなるのは、伏字となっている「×」にどの一字をあてるかということになります。あえて「性」をあててみます。自分のセクシュアリティーを憎悪する。しかし、それだけでは、偽りであるし、あまりも苦しすぎる。ここに、セクシュアリティーの解放を巡る理性と感情の激しい対立の一端をかいま見ることができます。自己の特異なセクシュアリティーに向けられた憎しみと、憎みきれない苦しみとが、混然一体となって一枝の心身を襲うのです。別の箇所では、次のような、一枝のさらなる悲痛の声を聞くことができます。
かつて若かつた頃、なにかにつけて心の轉移といふ言葉を使つたものであるが、まことの轉移といふものは、並大抵の力では出來るものではなく、身と心をかくまでも深く深く痛め悩まして、身をすてゝかゝつてはじめて出會ふものであり行へるものであることを沁染と知ることが出來た107。
一枝は「心の轉移」という言葉を使います。一枝が、自身を女性間の同性愛者(当時の通称では「レスビアン」など)として認識していたとすれば、彼女にとってこの言葉は、同性愛から異性愛へと性的指向を「轉移」させる試みを示唆する心的な用語法だったのかもしれません。それとは違って、一枝が、肉体的には明らかに女性でありながらも、心の性を男性として自己認識するトランスジェンダー(当時の通称では「男女」など)であると思っていたとするならば、この言葉は、心の性を体の性へと「轉移」させることを意味する彼女の内に秘められたキーワードだったにちがいありません。しかし、どちらにしてもそれは、「並大抵の力では出來るものではなく」、過度の心身の葛藤と衰弱を伴うものでありました。
朝鮮半島や九州の山奥に住むことも論議されました。しかし、娘たちの教育のことも考慮に入れなければなりませんでした。このときの東京移住は、ふたりにとって、まさしく二度目の賭けであり、もはやこれ以上はない背水の陣とでもいえる、生活の再生へ向けての悲壮感漂う、療法としての転地だったものと思われます。かくして、一九二六(大正一五)年の一〇月の半ばを過ぎたある日、一家は、四人それぞれが深刻で複雑な思いを胸に抱えながら安堵村をあとにし、東京へと上って行きました。おおよそ一一年半の安堵村生活でした。このとき、満年齢で憲吉四〇歳、一枝三三歳、陽一一歳、そして陶は、まもなく九歳になろうとしていました。東京から安堵村に来たときには、一枝のお腹には陽がいました。今度の上京には、まもなく生まれてくる壮吉が一緒です。大正から昭和へと改元される二箇月ほど前の秋の日の出来事でした。
東京の千歳村での新生活がはじまって一年が過ぎようとしていたころ、文芸雑誌『女人藝術』の創刊を進めていた長谷川時雨は、かつての『青鞜』の社員に、協力を求めました。まだ一歳半にしかならない小さな壮吉を抱えながらも、一枝もまた、この雑誌の創刊に積極的に協力したにちがいありません。安堵村にいるときは、一枝は、自分のセクシュアリティーについての苦悩について書き、その一方で、それをいやすかのように自然の美しさや子どもの純真さをたたえる文を書き、加えて小説「貧しき隣人」や「鮒」を執筆していました。しかし、千歳村に移ると、そうした傾向の文章は影を潜め、時代の潮流に乗るかのように、徐々にプロレタリア文学に惹かれてゆきます。一九二九(昭和四)年七月号の『女人藝術』に寄稿した「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」は、マルクス主義へ足を踏み入れてみたいという誘惑に駆られながらも、躊躇して思い止まるという、いまだ思想的に混乱した一枝の心的風景を描写した最初期の作品です。
一九三一(昭和六)年四月のある夜のことでした。前年の七月に、当時の共産党中央委員会の命令のもと非公然とソ連に渡り、モスクワで開かれたプロフィンテルン(労働組合国際組織)の第五回大会に出席したのち、党の事情でそっとこの二月に日本に帰ってきていた藏原惟人が、村山 籌子 ( かずこ ) の案内で、畑のなかの暗い道を通って密かに富本家を訪れました。藏原は、当時の日本にあってプロレタリア文化運動を理論面で支える中心的な人物でした。藏原は約一箇月間、富本家にかくまわれました。一方、藏原を富本宅へ案内した村山籌子の最初の富本夫妻との出会いは、羽仁もと子が園長を務める自由学園高等科の一期生として関西へ卒業旅行に出かけたおりに、安堵村の富本家を訪問したときのことでした。いまや、舞台芸術の演出家の村山知義の妻となり、当時童話作家で詩人として活躍していました。
村山知義の二度目の収監が、一九三二(昭和七)年の二月で、藏原惟人が獄窓の人になるのが、同年の七月のことでした。そして、次の年(一九三三年)の二月二〇日に、今度は小林多喜二が逮捕され、同日、拷問により死亡します。当時のプロレタリア文化運動にとって、最大の受難の時代でした。官憲の手により一枝が連行されるのは、それからおよそ半年後の八月五日のことでした。一九三三(昭和八)年八月一三日の『週刊婦女新聞』は、「富本一枝女史檢擧――警視廰に留置、転向を誓ふ」という見出しをつけて、次のように報じています。
青鞜社時代の新婦人として尾竹紅吉の名で賈つた現在女流評論家であり美術陶器製作家富本憲吉氏夫人富本一枝女史は過日來夫君と軽井澤に避暑中の處、去る五日單身歸京した所を警視廰特高課野中警部に連行され留置取調べを受けてゐるが、女史は先週本欄報道の女流作家湯浅芳子氏と交流關係ある所から、湯浅女史を中心とする女流作家の左翼グループの一員として約百圓の資金を提供した事が暴露したもので、富本女史は野中警部の取調べに對して去る七日過去を清算轉向する事を誓つたと108。
一枝の釈放に際しては、憲吉が出迎えました。このときの憲吉の心情がどうであったかを記す資料は見当たりません。おそらく憲吉自身は、社会主義的な考え方や実践それ自体に対しては好意的であったものの、その立場を公にしたり、さらには、そのことにかかわって検挙されたりすることには、極めて慎重な態度を取り続けていたものと推量されます。
一枝と湯浅芳子が、面識をもつようになったのは、ほぼ間違いなく『女人藝術』を通じてのことであっただろうと思われます。しかし、ふたりの政治的関係や役割がどうであったかは、正確にはわかりません。当時、『女人藝術』は、文学を志す女たちのマルクス主義を介する人間関係の構築の場となっていただけではなく、一枝にとっては、自身の恋愛の対象を見出す場ともなっていたようです。後年、近代文学研究者の尾形明子は、『女人藝術』を調査するうえから、この雑誌の編集に携わっていた熱田優子に聞き取りを行なう機会をもちました。以下は、尾形が聞き書きした、一枝に関する熱田の発話内容です。
すらっとしていたけれど筋肉質でしっかりした体型でね。芸術家の奥さんというより、富本さん自身が芸術家。着物をきりっと粋に着こなしていて、感性が鋭くて趣味もよかった。……女の人が好きで、横田文子がかわいがられていたわね。それで長谷川さん、私たちにひとりで祖師谷に行ってはいけないよって言っていたけど、大谷藤子さんも親しかったのではないかしら109。
上の発話内容は、熱田と尾形のふたりが伝達者として中間に入っており、いわゆる「伝言ゲーム」の危険性が全くないわけではありませんが、それでも、もし長谷川が、「ひとりで[一枝の自宅のある]祖師谷に行ってはいけないよ」といって、生前に周囲の人間に注意を促していたことが本当に事実であるとするならば、一枝のセクシュアリティーは、すでに「公然の秘密」となっていただけではなく、美貌と才能をもつ女性にとっては、「危険な存在」になっていた可能性さえ残ります。この時期、一枝と親しかった女性として、横田文子や大谷藤子以外にも、深尾須磨子、軽部清子、堀文子の名が資料に散見されます。
この時期、別な意味で性の問題が論議を呼んでいました。それは、「共産党の検挙者に婦人が多い」という内容の『東京朝日新聞』の記事を受けて、『婦人公論』(一九三三年三月号)が組んだ「主義と貞操の問題」と題した特集でした。平塚雷鳥(らいてう)の評論は「女性共産黨員とその性の利用」と題したもので、そのなかで雷鳥は、こう持論を展開します。
共産黨檢擧のいつの場合も、必ず幾人かの女性をその中に見る。そしてそれらの女性は、又大方黨幹部の男性と性關係をもつ人たちです。……彼等自身は同志愛などと呼んでゐるものの……女性が道具とされているか、最上の場合が便宜上の性の相互利用といつた程度の機械化され、物質化された性關係であって、何等の新しい貞操観念も、性道徳の新思想も見出されません。……社會組織がどんなに變らうとも、人間の創造性が性によらねばならず、人間を産み、育てるものが女性である限り、女性の「性」の社會に對し、種族、人類に對する使命を變へることは出來ません。して見れば、わたくしたち女性は、女性がこの使命に安心して生き、安心してその使命を果せるやうな社會を造ることに努むべきです110。
まさしく、「産み、育てる」女性の使命の安定的な遂行こそが、性にかかわる雷鳥にとっての普遍的な価値だったものと思われます。一方、野上彌生子の評論「平凡なことか」は、雷鳥の考えとは対照的に、ジャーナリズムの女性に対する興味本位の報道に苦言を呈したうえで、報道のごとき「事実」がもし仮に存在していたとしても、肯定的に受容すべく、理解を示します。
少なくともわたしは、婦人黨士のあるものが、資金獲得のために彼女の若さと美貌を利用したと云ふことが、果してどこまで××であるかは、疑問だと思つてゐる。かりに一歩をゆづつて、ある程度の事實があつたとしても、べつに珍しいことでも、おどろくことでもない。史上の例によつて見ても、また小説戯曲の中においても、秘密な非合法的な團體運動ではそれはむしろ平凡な××であることをわれわれは見出さないであらうか。……また黨士らのあひだの戀愛問題についても、むしろ最も自然な現象と云ふべきであらう。共通の思想、共通の理解、共通の認識において、おなじ仕事にたづさはつてゐる若い男女の熱情が、すすんで戀愛にまで燃えあがることは……殆んど必然である111。
そして、「何れの矛盾か」の表題で寄稿した窪川いね子(佐多稲子)は、この『婦人公論』の特集に先立ち、すでにこの主題かかわって『東京朝日新聞』の婦人襴に「女共産黨員への抗議」と題する一文を書いていたらいてうの発言内容をとらえ、これをもって、「かつてのブルジョア民主々義に根底をおいた青鞜社の婦人解放論者であつた雷鳥女史の今日の立場」112とみなしたうえで、「かつての性の平等を唱へた雷鳥女史にして、も早、今日のプロレタリア婦人の××な活動、婦人の大きな自覚と闘争力については、何ものも理解することができなくなってゐるということは、何という皮肉なことであつたらう」113と述べ、雷鳥の無理解と限界を指摘したのでした。
この一九三三(昭和八)年三月号の『婦人公論』の特集「主義と貞操の問題」における三者三様の主張を、自分のセクシュアリティーと重ね合わせて、一枝はどう読んだでしょうか。それを示す資料は残されていないようですが、次のような記憶が蘇った可能性はあります。それは、大杉栄と荒畑寒村との最初の出会いでした。
大正期に入り、台頭してきたのは、ただ個人主義思想だけではありませんでした。大杉栄と荒畑寒村の手によって、『近代思想』が創刊されるに至りました。
天皇の死とともに明治時代は終り、改元して大正となった。……大正元年[一九一二年]の十月一日にやっと初号を出した。誌名は『近代思想』……三十二ページ定価金十銭という薄っぺらなものであったが、とにかく大逆事件以降、沈黙雌伏を強いられていた社会主義者が運動史上の暗黒時代に、 微 ( かす ) かながら初めて公然とあげた声である114。
寒村の回想は、さらに続きます。
当時の文壇には、人生の無解決なんていう従来の自然主義説に代って、自我の解放とか個人の自由とかいう観念が、個人主義の哲学的な体系を 整 ( ととの ) えないまでも、一つの新しい傾向として現われていた。たとえば、雑誌『 青鞜 ( せいとう ) 』のいわゆる「新しい女」のグループは個性の完成を唱えていたし、『早稲田文学』の相馬御風君は自我の生命の 燃焼 ( ねんしよう ) を説いていた。「白樺」派の主張や作品にも、こういう傾向が明らかにうかがえたのである。大杉[栄]の主張には、こういう文壇の新しい思潮と共通するところが多く、私たちはこれらの傾向にもとより同情を惜しまなかった。しかしその反面、これらの文壇人が社会と個人との関係に深い認識を欠き、社会改革を度外視して個性の完成や自我の拡充を可能と考えるような、二元論的な個人主義の 旧套 ( きゆうとう ) を脱しない観念に、私たちは失望を禁じ得なかった115。
ちょうどそのころのことかと思われますが、「ある時、私[荒畑寒村]と上野から根岸の方を散策した際、青鞜社同人の尾竹紅吉の家を見つけると、彼[大杉栄]はいつもの流儀で 臆面 ( おくめん ) もなくこの未知の女性を訪問した。そして画室に迎えられた彼は、空腹を訴えて飯のご 馳走 ( ちそう ) になった上、『あなたは知らぬ男にでも、空腹だといえば飯を出してくれるが、もし性欲に 餓 ( う ) えていると言ったらどうしますか』と質問した。彼女が返答に困っていると、食欲も性欲も生理的には同じじゃないかと追及して、 生 ( き ) まじめな紅吉女史をからかって面白がった」116。こうしたことがきっかけとなって、それ以降、大杉は紅吉の家をときどき訪ねてくるようになりました。のちに一枝は、大杉のことをこう回顧しています。
その頃大杉[栄]さんとおつきあいしていましたから大杉さんが 尋 ( ママ ) [訪]ねてみえるたびに、無政府主義やクロポトキンのことをうかがつたりしていました。大杉さんは私のぼんやりさをなんとかしてやりたいとされたようです。幸徳秋水の大逆事件のことも、大杉さんからきいて……。そのとき、私たちの自由も、進歩も、それをはばんでいるものをとりのぞかない限りどうすることも出來ないのだときかされたことは、なんといつても、それからあとの自分の考えの基底となつてきているような氣がします117。
一枝がこのように回顧しているところをみると、一枝の社会主義への初期の関心は、この時期に大杉によって植え付けられたことがわかります。
ところが、自由主義的な「多角恋愛」により、血に塗られた惨劇が、その数年後に引き起こるのです。大杉には年上の堀保子という妻がありました。夫の入獄中は苦労を重ね、『近代思想』の刊行では広告を担当して事業を支えました。大杉と伊藤野枝が知り合うのは一九一四(大正三)年のことで、当時伊藤はまだ辻潤の夫人でありました。次に翌年、自分のフランス語の私塾の生徒であった神近市子と、大杉は関係をもつことになります。そうするうちに大杉は、伊藤との恋愛を発展させ、保子夫人と別居し、同棲生活に入ります。そしてこの「多角恋愛」は、一九一六(大正五)年一一月、神奈川県葉山村の日蔭茶屋の旅館で大杉が神近に刃物で傷つけられるといった惨事へと展開し、終末を迎えるのです。いわゆる「日蔭茶屋事件」と呼ばれるものです。
『婦人公論』の特集「主義と貞操の問題」は、それから、一七年近くが経過していました。私は、特集「主義と貞操の問題」と「日蔭茶屋事件」に触れながら、この文脈において思い起こしているのは、マルクスの娘のエリナ・マルクスと、妻のあるエドワード・エイヴリングとの悲惨な結果を生じさせた共同生活についてであり、そしてまた、モリスの娘のメイと同志のヘンリー・ヘリデイ・スパーリングの結婚生活に入り込んできた、かつてのメイの恋人のジョージ・バーナード・ショーとの「三角関係」についてです。初期社会主義の理想に「自由な恋愛」や「平等な愛欲」が潜んでいたことは、日英の双方を問わなかったようです。他方、スパーリングとの離婚を経験したメイは、その晩年をメアリー・ロブと過ごします。このふたりがレズビアンの関係だったと論じられることも多くありますが、ロブが、FTMのトランスジェンダーだった可能性も全く排除することはできません。その場合は、このふたりの親密な関係は、異性愛だったということになります。
一九三三(昭和八)年八月の検挙事件以降の一枝は、プロレタリア文学の退潮と軌を一にして、一転して、特定の女性についての印象や作品を好意的に紹介する機会を多くもつようになります。たとえば、「福田晴子さん」(『婦人文藝』一九三五年一一月号)、「宇野千代の印象」(『中央公論』一九三六年二月号)、「仲町貞子の作品と印象 手紙」(『麵麭』一九三六年二月号)、「原節子の印象」(『婦人公論』一九三七年四月号)などがそれに相当します。他方で、長谷川が「行ってはいけないよ」といっていた一枝の自宅に泊まり込む女性もいました。一九六三(昭和三八)年に憲吉が亡くなると、ただちに筆を執り、「失われた風景」と題するエッセイに仕上げ、富本家を訪問していた当時を懐かしんだのは、作家の大谷藤子です。「私は戦争中から戦後にかけて、しげしげと富本家を訪ねた。陶芸家として第一人者である先生を訪ねたのではなく、夫人と親しくしていたからだった。ときどき泊まり込んだりした」118。
一九四五(昭和二〇)年四月、米軍、沖縄本土に上陸。八月、広島と長崎に原爆投下。そしてポツダム宣言を受諾し、日本は敗戦に至ります。八月一五日、終戦のこの日を、当時東京美術学校の教授をしていた憲吉は、疎開で出張していた岐阜県の飛騨高山で迎えました。一枝と子どもたちは、大谷の実家のある埼玉県の秩父で――。すべてが終わりました。憲吉五九歳、一枝五二歳の暑い夏でした。
終戦を迎えると、憲吉は、「敗戦でどんでん返しになった世の中に、従来、帝国芸術院と称していたものがそのまま存続するのはおかしい」119という考えから、芸術院に辞表を提出し、同時に、東京美術学校の教授も辞任しました。軍事政権下にあって両組織が、間接的といえども、戦争遂行に加担した事実に変わりはなく、富本の辞表提出は、それらの組織の一員であったことへの自らの責任を明確にする意味があったものと思われます。
さらにこのとき、すべての財産を家族に残し、独り祖師谷の自宅を出て、安堵村へ帰還します。のちに憲吉は、ある人に別れた理由を聞かれて、「あの人はレスビアンだった」と答えたといいます120。実際には、一枝の場合、肉体的には女であったとしても、心の性は「男」で、恋愛感情が女へと向かう、今日的な用語法に従えば、FTMのトランスジェンダーだったものと思われます。こうして富本は、公職を辞し、国画会を退き、家族と別れ、加えて、安堵村の田畑も農地改革により失い、自ら詩に歌う「窯なく放浪のわれ」になったのでした。
富本が、モリスのことを「社会主義者」という肩書をつけて呼ぶのは、最晩年です。この間、富本の言説のなかに「社会主義」という文字は見当たりません。もちろん自分が「社会主義者」であることを公言するようなことなどは、ゆめゆめありませんでした。しかし、富本が亡くなると、さっそく蔵原惟人が筆を執り、「富本憲吉さんのこと」と題して『文化評論』へ寄稿します。そのなかで、蔵原は、こう証言したのでした。
富本さんは戦後、日本芸術院会員、東京美術学校教授を辞任して、郷里である奈良県安堵村の旧宅に帰り、京都で陶業に従っていたが、そのあいだ京都府委員会の同志を通じて、わが共産党の活動にも協力して下さっていた121。
この証言のとおりであれば、その生涯を閉じるまで、富本は、共産党を支持していたことになります。モリスが、社会という外に向かって積極的に行動を展開する社会主義者であったのに対して、富本は、個という内面に向かって深く根を下ろす社会主義者だったということになるのでしょうか――。
一方、憲吉が家を出たあとの戦後の一枝は、孤独でした。神近市子は、このように語っています。
晩年は夫君と別居され、青春時代の華やかな紅吉を思うと涙をそそられるような淋しい日々だったが、花森安治氏が彼女をかばって、いつまでも『暮しの手帖』に執筆を依頼した。中村汀女氏も彼女を選者に迎えて、最後まで彼女の才能を評価された。その意味では、一枝さんは幸せな人であった。私たちの友情も終生変わらなかった122。
また、そのころの一枝の口癖は、「社会主義社会でないと、本当の解放はあり得ない」123、というものでした。一九六六(昭和四一)年、一枝は、『婦人民主新聞』の「小石」というコラムに、短い論評の連載をはじめます。三月一三日の「米軍の迷走」、五月八日の「戦争とはいわずに」、そしてそれに続く、七月一七日に掲載された「危ない街角」が、一枝の絶筆となるものでした。憲吉の死去から三年後の同年九月、一枝の亡骸も、同じく富本家の菩提寺に埋葬されます。
一枝の社会主義への熱望は、おそらくは、自己のトランスジェンダーとしてのセクシュアリティーと結び付くものであり、もとをただせば、一九一一(明治四四)年の一連の雑誌に認められる、性的少数者の発見と婦人問題の自覚へとさかのぼることになります。一枝の生涯を一言のもとに総括するならば、「婦人問題(女性解放)とジェンダー/セクシュアリティー」という極めて本質かつ先鋭な問題を、直感的かつ身体的に提起した人生だったといえるのではないでしょうか。
モリスと富本には、社会主義者としての共通点がありました。そしてまた、結婚の失敗も共通していました。もっとも、「結婚の失敗」を云々しているのは、後世の伝記作家たちであって、本人たちがそうした認識に立っていたかどうかは、資料的には不明です。確かなことは、どちらの男性も共通して、配偶者たる女性について悪口も不満も書き並べていないということです。それだけに、とりわけモリスの「結婚の失敗」にかかわっては、伝記作家の感情を揺さぶるものがあるのかもしれません。
学生会館の壁画計画に参加するためにオクスフォードに滞在していたときに、トプシー(ウィリアム・モリス)はジェイン・バーデンと出会いました。彼女の家庭は貧しく、父親は馬屋番をしていました。彼女は、壁画製作のモデルとして、たまたまオクスフォードの劇場でロセッティによって見出された女性でした。背が高く、手足も大きく、髪の毛は縮れた黒髪で、血の気のない顔色をしていました。したがって、当時の理想の女性の体つきとは大きく異なっていたのですが、しかし、ロセッティをはじめ、ラファエル前派の画家たちのあいだでは、ジェインのような女性が「スタナー(絶世の美女)」と呼ばれ、偶像視されていたのでした。壁画の仕事が進行しているあいだジェインはロセティのモデルを務めました。思いやりがあり、礼儀正しく、穏やかなロセッティのモデルをしながら、男性に接することがほとんどなかったこの若い女性が、何らかの特別な感情をこの画家に抱くようになったとしても、何ら不思議はありません。またロセッティもその間、ジェインに一枚の肖像画を贈っています。
しかしロセッティには約六年ものあいだ非公式の婚約を続けていた病弱の女性がおり、彼女の呼び出しを受けて、突然ロセッティはオクスフォードから姿を消すことになります。そうしたなか、モリスはジェインに求婚するわけですが、その理由は憶測の域を出ません。ロセッティによってその美しさが空高くほめたたえられたあげくに、再び貧困の世界へもどらなければならないジェインの悲しい宿命をモリスは敏感にとらえ、中世さながらの騎士道精神からジェインに思いを募らせていったのかもしれません。モリスの立場に立てば、自分より階級の低い女性と結婚することはロマン主義的でドン・キホーテ的であると思われたかもしれませんが、一方、身分の上昇が強く求められていた当時の労働者階級の女性としてのジェインには、トプシーからのこの求婚を断わる理由はどこにもなかったのでした。しかしこの時点でトプシーの求愛を受け入れたとしても、本当にジェインが思いを寄せていたのはトプシーではなく、ロセッティだったようです。いずれにしましても、こうしたことが、結婚後のモリスの人生に大きな影を落としてゆくことになるのです。
一方、富本憲吉の場合はどうでしょう。富本が、モリスの思想と実践を学んで帰国すると、帰朝報告として、評伝「ウイリアム・モリスの話」を書き、実践的には、「模樣より模樣を造る可からず」という自らの造形の原則を打ち立てます。それは、いっさい過去の作品を模写したり、模倣したり、参照したりしないということを意味していました。つまり、歴史や因習や慣例の否定なのです。憲吉はこの原則を、自分の作品づくりだけではなく、自分の結婚に対しても当てはめようとしました。そのことは、女性の規範として広く浸透していた「良妻賢母」の思想を否定することを意味します。したがってそれは、困難なパートナー探しを意味するものでもありました。しかし、当時の日本に、「良妻賢母」の対極にあって生きようとしていた女性たちが、現われ出ようとしていたのです。
幼少期を富山、東京、大阪で過ごした一枝は、絵の勉強を口実に、再び憧れの東京に上り、叔父の竹坡の食客となります。ちょうどそのころのことではないかと思われますが、竹坡の妻のきくと一枝は、連れ立って上野へ出かけたことがありました。そのときのきくの記憶は、このようなものでした。「一枝さんと一緒に上野の山へ行った時よ、その人マントをすらっと着ているものだから男と間違えられちゃってね、笑ったことがあるわよ……」124。男さながらのセルの袴にマントの着用、これが若き日の一枝の特異な衣装姿だったのです。
一九一一(明治四四)年の秋のある朝、一枝は、表庭の掃除をしていると、きく宛ての一通の手紙が配達夫から手渡されました。封を切ればそのなかから、『青鞜』発刊の辞と青鞜社の規約が現われました。まさしく一枝のその後の人生を決定づける一瞬でした。一度大阪にもどった一枝は、実際に『青鞜』を手にします。そして何度も、主宰者の平塚らいてうに手紙を書き送ります。このころの様子をらいてうは、こう描写します。
型破りな、男とも女とも判らない妙な手紙を度々よこす大阪の変な人として、姿は見えないけれども、かなり早くから社の人たちに、軽い好奇心のようなものをもたせていました。……上京後は社の事務所にも、私の家にもよく来るようになり……人にもてることの好きな紅吉は、幸福のやり場のないようなかがやいた顔をして、大きな、丸みをもったからだを、着物と羽織とおついの、いきな久留米 飛白 ( かすり ) に包んで、長い腕をそらして、いつも得意然と市中を歩き、大きな声でうたったり、笑ったり、実に自由な、無軌道ぶりを発揮していました125。
こうして一枝は、望みどおりに青鞜社の一員となったのでした。一枝が青鞜社に吸い寄せられたのは、そこに、女性の解放を目指す思想の集団というよりも、むしろ、恋愛の対象としての女性の集団を見出したからなのかもしれません。憲吉は、らいてうが描写する「いつも得意然と市中を歩き、大きな声でうたったり、笑ったり、実に自由な、無軌道ぶりを発揮」する一枝に惹かれたのでしょう。こうして、ふたりは結婚します。しかし実際には、一枝は、真の意味での「新しい女」ではありませんでした。本人がいうように、「旧い女」の側面を多く抱えた女性でした。さらにそのうえに、らいてうの表現を借りるならば、「男とも女とも判らない」セクシュアリティーを宿す女性だったのです。一枝が憲吉の求婚を受け入れたのも、自分を悩ますセクシュアリティーの混乱に、結婚することによって終止符を打ちたかったのではないかとも推量されます。いずれにしましても、こうしたことが、結婚後の憲吉の人生に大きな影を落としてゆくことになるのです。
かくしてモリスと富本の結婚生活は、結果として、ともに破綻します。その原因は、おそらくは、それぞれ別個のものであった、と考えるのが妥当でしょう。しかしながら、共通するロマン主義的でフェミニズム的な女性への接近方法、換言すれば、女性や結婚に対する偶像化と理想化が、そうした同じ結果を生んだ可能性も、全く排除することはできないようにも思われます。また、モリスについていえば、詩的で観念的な結婚の失敗が、モリスをして、その後、旺盛な仕事へと、そして社会変革のヴィジョンへと現実的に向かわせた、と指摘する人もいます。もしその論理が成立するならば、そのことはそのまま富本にもあてはまる可能性があります。しかし、これについても、意見が分かれるところかもしれません。
他方、英国の「時の女」の時代を生き、モデルの仕事を誇りに思い、そして、夫以外の男性に愛情を移したジェイン、また、英国と日本の「新しい女」の時代をそれぞれに生き、そして、それぞれに刺繍家として、また文筆家として職に就き、さらに加えて、女性同士の親密な関係をも経験したメイと一枝――確かにそうした彼女たちの行動を見ると、「近代」が含みもつ、自由と自立にかかわる価値が投影されている最初の事例のように感じられます。その意味で、ジェンダー/セクシュアリティーや社会主義といった文脈から日英の女性解放の歴史を検証するとき、今後おそらく、この三人の女性への言及は避けて通れないものと推量いたします。
(83)『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、196頁。
(84)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、14頁。
(85)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。口述されたのは、1956年。したがいまして本書は、富本憲吉死去(1963年)以降の刊行となります。
(86)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。
(87)前掲、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、同頁。
(88)「女性間の同性戀愛――エリス――」『青鞜』第4巻第4号、1914年4月、1頁。
(89)同「女性間の同性戀愛――エリス――」『青鞜』、21頁。
(90)Suzanne Fagence Cooper, The Victorian Woman, V&A Publications, London, 2001, p. 64.
(91)Ibid., p. 66.
(92)「謂ゆる新しき女との対話――尾竹紅吉と一青年」『新潮』、1913年1月、107頁。
(93)山本茂雄「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、75頁。
(94)「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」『淑女畫報』第3巻第13号、1914年12月、32-39頁。
(95)富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』(講座女性5)、三一書房、1958年、177-178頁。
(96)前掲『窯邊雜記』、25頁。
(97)前掲「美を念とする陶器」『女性日本人』、50頁。
(98)富本一枝「私達の生活」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、56-57頁。
(99)辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、121頁。
(100)『我に益あり・西村伊作自伝』紀元社、1960年、271-274頁を参照のこと。
(101)石垣綾子『我が愛 流れと足跡』新潮社、1982年、44頁を参照のこと。
(102)蔵原惟人「富本憲吉さんのこと」『文化評論』8、1963 - NO. 21、57頁を参照のこと。
(103)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、128頁を参照のこと。
(104)詩人で作家の辻井喬は、このような言葉を残しています。「尾竹紅吉は私の同級生富本壮吉の母親であった。彼とは中学・高校・大学を通じて一緒だったが家に遊びに行くようになったのは敗戦後である。それまで富本の家は警察の監視下にあるような状態だったから、壮吉も私を家に誘いにくかったのである」(辻井喬「アウラを発する才女」『彷書月刊』2月号(通巻185号)弘隆社、2001年、2頁)。
(105)「座談会 富本憲吉の五十年(続)」『民芸手帖』40号(9月号)、1961年、44頁。
(106)富本一枝「東京に住む」『婦人之友』第21巻 1927年1月号、110頁。
(107)同「東京に住む」『婦人之友』、112頁。
(108)『週刊婦女新聞』、1933年8月13日、2頁。 なお、『讀賣新聞』は、この件について、「富本一枝女史 検舉さる 某方面に資金提供」の見出しをつけて、すでに次のように報じていました。「澁谷區代々木山谷町一三一國畫會員としてわが國工藝美術界の巨匠(陶器藝術)富本憲吉氏の夫人で評論家の富本一枝女史(四一)は去る五日夕刻長野懸軽井澤の避暑地から歸宅したところを代々木署に連行そのまゝ留置され警視廰特高課野中警部補の取調べをうけてゐる、さきごろ起訴された湯淺芳子女史の指導によつて、某方面に百圓と富本氏制作の陶器を與へたことが暴露したものである、女史は青鞜社時代からの婦人運動家で女人藝術同人として犀利な筆を揮つたことがあり、最近では湯淺女史らと共にソヴエート友の會に關係左翼への關心を昂めてゐた」(『讀賣新聞』、1933年8月9日夕刊、2頁)。 一週間後には、「富本一枝女史 書類だけで送局」の見出しで続報。その一部は、次のとおりです。「すべてを認めたうへ従來の行動一切の清算を誓約したので十五日起訴留保意見を付して治安維持法違反として書類のみ送局となつた」(『讀賣新聞』、1933年8月16日夕刊、2頁)。 そして、さらにその三日後、『讀賣新聞』は、「富本女史の令嬢も検舉」の見出し記事を掲載しました。以下はその全文です。「某方面に資金を提供して代々木署に留置されてゐた女流評論家富本一枝(四一)女史は既報の如く轉向を誓つたので起訴留保となり十八日朝夫君憲吉氏の出迎へをうけて釋放されたがこんどは愛嬢で文化學院高等部二年生陽子(一九)さんが皮肉にも母親が歸宅する前日十七日朝突如澁谷區代々木山谷町一三一の自宅から代々木署に検舉、警視廰特高課から出張した野中警部補の取調べを受けてゐる 陽子さんは日本女子大學を中途退學して二年前文化學院に入學したもので、地下深くもぐつて左翼運動に關係してゐることが判明したゝめで 母親の一枝女史とは何等關係がない、特高課では母親と一緒に検舉する筈であつたが同家には子供が多く女手を一度に失ひ家事に差支へるので一枝女史の釋放が決定するまで検舉を差しひかへてゐたものである」(『讀賣新聞』、1933年8月19日夕刊、2頁)。
(109)尾形明子「富本一枝と『女人藝術』の時代」『彷書月刊』2月号(通巻185号)、弘隆社、2001年、17-18頁。
(110)平塚雷鳥「女性共産黨員とその性の利用」『婦人公論』第18巻第3号、1933年3月、132-133頁。
(111)野上彌生子「平凡なことか」『婦人公論』第18巻第3号、1933年3月、138頁。
(112)窪川いね子「何れの矛盾か」『婦人公論』第18巻第3号、1933年3月、142-143頁。
(113)同「何れの矛盾か」『婦人公論』、143頁。
(114)荒畑寒村『寒村自伝』上巻、岩波書店、1975年、347頁。
(115)同『寒村自伝』、349-350頁。
(116)同『寒村自伝』、377頁。
(117)「『靑鞜社』のころ(二)」『世界』第123号、岩波書店、1956年3月、138-139頁。
(118)大谷藤子「失われた風景」『學鐙』第60巻第12号、1963年12月号、42頁。
(119)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、222頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載。]
(120)井手文子「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』第54巻第9号、1969年9月、346頁を参照のこと。
(121)前掲「富本憲吉さんのこと」『文化評論』、58頁。
(122)神近市子『神近市子自伝――わが愛わが闘い』講談社、1972年、242頁。
(123)座談会「婦人運動・今と昔――この半世紀の苦難の歩み――」『朝日ジャーナル』第3巻第36号、1961年、77頁。
(124)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、247頁。
(125)平塚らいてう『わたくしの歩いた道』新評論社、1955年、121-124頁。